幼い瞳

 忙中閑あり。その意味を思い知る。決して、大げさなことではない。ただ、醜い一つの命が絶えただけ。その血を継いだ一人の少女が負わなくてもよかった罪を一つ、背負っただけ。
 生きている中で、自分の設計どおりに事が運ぶことほど安心するものはない。同時に、それは退屈でもある。人は、予想外の展開が降ってくることを嫌がり、一方でそれが現実となる瞬間を享楽する。
 矛盾だろうか。
 そうではない。平凡な日々の連続は心休まるが、刺激が足りない。適度なストレスは人を成長させるが、過度なストレスは人を苛む。人が予想外を密やかに望んでいる証拠に、予想外の展開が繰り広げられる小説や映画が好まれる。
 私があの頃、人生設計を大きく逸脱した日々を楽しんでいた、と言ったら、第三者の糾弾を受けざるをえないだろう。言い訳をするつもりはないけど、必ずしも楽しんでいたわけじゃなかった。私も私なりに、事態を軟着陸させるために努力をした、という自負があ
る。
 だけど、これだけは否定できない。私は用意された線路をなぞるだけの人生に、飽きを来たしていた。だから、知らず知らずのうちに、刺激を、予想外の展開を求めていたようだ。
 いったい、何の話をしたいのだ、とそろそろ訝っている方々もいらっしゃることだろう。誠に申し訳ない限りだが、事実を述べるに当たって、抽象的な言葉で切り出していくのが私の性分なのだ。この性分で社会的に大小さまざまな苦労を経験したものだ。
 私は私の人生を、特に波乱万丈のあの頃を振り返ってみる。反省するためではない。今さら、懺悔するためでもない。すでに終わって、過去となってしまったこと。罪を償う手段は存在しないし、だいいち、死んだことで彼女は許すまでいかないまでも、封じること
はできたようだ。
 罪を負ったとき、老若男女いかんに関わりなく、無理強いに謝らせるのはよくない。本当にこの上なく罪を感じ、相手に対して、また相手の関係者に対して申し訳ないと感じることができたとき、罪を償うための第一段階をクリアする。罪を理解し、自分が犯した過
ちの意味を理解しなければ、何年、何十年と刑務所に閉じ込められても、真に償われたと言えない。
「これでいいでしょう?」
 と、科された刑罰を前面に出して、許されようとするのは言語道断。
 また話が横に逸れ出した。それも、私ごときの意見をだらだらと並べ立ててしまった。
 これから話すことは、私個人に舞い降りた、いや、自ら引き寄せた一つのこと。この話を、安易に刺激を求めがちな、あるいは無自覚に求めている恐れのある全ての人々に捧げる――。

 私の名前は、安藤義哉。由来はとうに忘れてしまった。
 顔立ちはいたって平凡、身長は高い方、体型はやや太り気味。運動は苦手だった。特に、球技は楽しいと思えたものが一つもない。だから、というわけでもないが、勉強をしっかりとやる子だった。小学生の頃から習慣的に勉強し、高校と大学はいずれも全国の最高峰に近い所へ進学した。就職もすんなりと内定を頂戴し、素直に入社した。
 人生のモデルケースにしても恥ずかしくないような私の半生は、階段を上がっていくように、上へ上へと進んでいった。気にしないようにしていたつもりだったが、別の階段を使わずに、順調に上がっていけるせいで、先が見えてしまっていた。つまり、このまま出
世コースを辿って、自分の今の上司のように定年を迎え、老後へ突入するのだろう、ということが見通せた。といって、他の階段に移る勇気はない。リスクを回避する選択を繰り返してきたから。
 人生のモデルケースかもしれないが、とうてい偉人、と讃えられない我が人生。別に、甘い夢を見ていたわけじゃない。スクランブル交差点ですれ違う人たちのほとんど全てが、普通の人生を過ごして土に還る世の中。私が偉人として神様に選ばれなかったとしても、
他にも大勢いるから気にする必要はない。
 分かっている。分かっていたはずなのに。やっぱり、満足していない自分がいたらしい。
 学生の頃から、恋愛は数えるほどしかしなかった。そりゃ、いっぱしの男だから、かわいい人に目を奪われるような経験もある。甘い妄想に耽ってみたこともある。だが、現実では積極的に異性と関わろうとしなかった。体裁を繕うための理由としては、色恋にうつ
つを抜かして、順風満帆な人生に支障を来たしたくなかったからだ。でも、正直な理由としては、自分に自信がなかったからだ。
 若い頃に読んだマンガの中で、こんな言葉があった。「やれる男が、やれない男の分までやってる。そういう世の中なんだ」
 大小の差はあれ、男は誰しも女とやりたいと願っている。だからといって、全員ができるとは限らない。一人の男に一人の女が与えられている、なんて喜ばしい設定は存在しない。逆に言えば、できる男はとことんできる仕組みになっているのだ。
 私は、確実にできない側だろうと自負していた。こんなことで自負したくないが、仕方ない、事実なのだから。
 数年前、涼華と大学で出会った。顔が病人みたく青白いきらいがあったが、顔立ちは悪くないし、性格も穏やかだった。何となく親しくなって、交際するようになって、卒業してすぐに結婚した。彼女を逃したら、結婚する機会はしばらく訪れないだろう、という計
算が少なからずあった。理想から言えば、本当に心から愛している人と夫婦になるものだろう。でも、やっぱり理想は理想だ。計算で結婚することなんて珍しくない。
 現実にそうでないから、理想というものが存在する。現実に実現していたら、理想を語る必要はないのだ。
 彼女の性格が反映されるように、穏やかな暮らしが続いた。お金には困らなかった。
 子どももできた。七歳になる娘だ。渚、という。涼華によく似ている。明るい性格で、いつも面白いことを言って、場を和ませてくれた。
 人生のモデルケースは、家庭を持つことで大部分が完結した。あとは、これを維持、向上させていくだけだ。

 四月に、新入社員を迎えた。私の部署にも初々しい若者たちが加わった。毎年感じることだが、彼らを見ていると自分の新人の頃を思い出す。緊張で、一つひとつの作業を覚えていくことに精一杯だった。彼らも緊張でいっぱいだろう。だからといって、甘やかすことはない。甘やかすのは彼らにとっても、会社にとっても不利益だ。
 その中に、一人、私の目を惹く者があった。うるんだ大きな瞳、幼さの残る口元、ふっくらとした頬、肩にかかる黒髪。いわゆるロリコンに好まれるような容貌だった。といって、私はロリコンではないが。
 小口真穂、か。
 印象に残ったが、だからといって特別、彼女に対して積極的に関わることはなかった。前述の通り、私は色恋にうつつを抜かすわけにはいかないし、自分に自信を抱いていない。
 人は胸の内でどんなことを考えたって、罪に問われることはない。人を殺したい、と考えただけで逮捕されはしない。この上司うざったい、と考えただけで解雇されはしない。
 思うのは自由だ。同時に、どう思われようが仕様がない。
 私が彼女をかわいいと考えていただけだ。それで接触を図ったり、ひいきをしたりすることはなかった。
 一方で、どう思われているのかは想像するしかない。彼女が上司である私をどう捉えているのか。彼女に限らず、他の部下たちは? 妻や娘は? 街中ですれ違うたくさんの人たちは?
 遠い未来、頭の中で考えていることを読み取れる機械が発明される日が来るかもしれない。そうなったら、対人関係は崩壊するだろう。人は、言動で意思表示をする生き物で、でもそこには本音がやはりあって、頭の中で思うだけに留めることで、上手くバランスを
保っているのだ。そのバランスの一端を失ったら、反対側に乗る人のいないシーソーのように、片方に傾いてしまう。
 話が脇道に逸れたが、私は小口真穂に対して抱いた好印象を公表することはなく、自分の中だけで留めておいた。

 そんな彼女と関係を近しくするきっかけとなったのは、彼女が持ち込んだ相談だった。
 その日の夜、私と彼女がたまたま最後まで残っていた。彼女は無能とは言えないが、仕事のスピードはやや、他の社員より劣る。それでも真面目な性格らしく、与えられた仕事をきちんとこなす。適当に仕上げて、定時に帰る者どもとは違う。
 しかし、先に私がパソコンをたたんで、帰ろうという素振りを見せると、彼女は目に見えて不安そうな顔をしていた。幼い顔で、思い詰めている。娘の渚が、幽霊みたいな得体の知れないものを怖がるときの表情と重なる。
「どうした? 何か問題でも起きたか?」
 上司として、仕事上トラブルが生じたのかと尋ねてみた。彼女は驚いたように目を見開いて、私を正面から捉えた。淀みのない大きな瞳に、吸い込まれるような感覚を覚える。
「あの……」
 彼女の特徴についてもう一つ言及するなら、声が小さいことが挙げられる。消え入りそうな優しい声音が、彼女の印象をより幼くさせる。
「安藤さん、相談事があるんです」
 その声が他の誰かに聞かれたら、と怯えるように、囁いた。
 相談事とは、何だろう。たまたま私が残っていたから、私に持ち掛けたのだろうが、信頼度が低くない、と考えても差し支えないようだ。
「相談事?」
「はい」
「仕事に関係ないことか?」
 彼女は頷く。「はい、関係ないことです」
「ふむ……言ってごらん」
 彼女の隣の席に座ってから、親身になって促した。
 彼女はしばし、ためらった。どう切り出したものか、思案している風であった。
 私は辛抱強く待った。表情が暗いとはいえ、間近で彼女の顔を見ているのは飽きない。無意識なのか、スカートの先を掌でもてあそんでいる。
「最近、ストーカーに遭っている気がするんです」
 ストーカー、か。私は驚きを浮かべながらも、妙に納得してしまった。彼女なら、恰好の対象とされるのも頷ける。
 世の中には頭のおかしい人がいるもので、控えめに言っても優れた容姿と言えないにもかかわらず、ストーカーに悩んでいると公言して憚らない、自意識過剰な女性もいる。見た目だけが全てではないが、見た目は大事だ。加えて、自分を正しく把握することも大事だ。
 まして、ストーカーだ。あの人、性格がよさそうだから、という理由で実行するなんて聞いたことない。その場合においては、十中八九、見た目が理由になる。
「気がする、とは?」
「確信が持てないんです。たまたまかもしれなくて……」
「まず、どんなことがあった?」
 私の声は、後から聞いたら恥じ入るほど普段のそれからかけ離れていた。優しさを帯びていた。私でもこんな声が出せるのか、と我がことながら驚く。
「ほぼ毎日、同じ男の人が会社から家まで付いて来ていて――でも、付いて来るだけで、話しかけてはきませんし、無言電話とかもなくて……」
「つまり、分かっているのは、同じ男が後ろから付いて来る。それ以外に被害はない」私は腕組みをして考えた。「男はどんな格好だった?」
「黒いジャケットにジーンズをはいていて……」
「いつも?」
「はい、いつも――たぶん」語尾が弱くなる。
「たぶん?」
「来てるかどうかちょっと確認はするんですけど、まじまじと見るのは怖いので……」
 それもそうか。
「顔は分からない?」
「マスクと眼鏡をしていて、ニット帽もかぶっているので、顔はよく分からないんです。ただ、若い印象を受けました」
 若い人。どうしてストーカーを始めてしまったのか、きっかけが気になった。異性に全く構ってもらえない人なのかな。まあ、何にしても同情の余地はないけれど。
「今は付いて来るだけで済んでいるかもしれないが、いずれ手口が悪質になる可能性がある」
 彼女は目に見えて顔を強張らせた。不安にさせるつもりはなかったのだが。
「おれでよければ、家まで送ろうか?」
 私の提案に、彼女はまず目を瞠った。続いて、ほころばせた。その変化に、自惚れながら、私への信頼を感じる。
「いいんですか?」
「おれは構わない。君はいいのかい? こんなおじさんに同伴されて」
 そう言うと、彼女は笑った。この間の会話で、初めて笑顔を見た気がした。
「いえ、全然。とてもありがたいです」
 笑うと、薄暗いオフィスの片隅まで光に照らされるようだ。もっと笑わせたくなるような笑顔だ、と思った。
 こうして、私と彼女は一緒に帰ることになった。

 電車に乗って、さり気なくマスクの男を見た。
「あの男か?」と、小声で小口に確認する。
 小口は頷く。顔に不安の色は窺えない。私がいて少なからず安心してくれているらしい。
 なるほど、確かに若い印象を受ける。また、真面目さも感じる。本来、ストーカーなどという積極的な行動ができない人間なのではないか。
 彼は私をどう思っているだろう。苦々しく思っているかな。人を恋う心は純粋で尊いものだと信じているが、申し訳なく思うことはない。彼はやり方を間違った。恋愛には手順というものが存在する。正当なやり方を施さなければ、受け入れる側は圧倒的な偏見で拒む。
 そう、偏見で。
 偏見は、その人の本質を見るフィルターを曇らせる。もしかしたら二人の相性は抜群であるかもしれないのに、ストーカーを受け入れろ、なんて無茶な話だ。偏見は本質に近付くことを阻む。偏見は他者との間に張られる予防線となる。
 世の中で不公平感を生み出している原因は、この偏見ではないだろうか。人間はどう思っているか伝えきれないことにもどかしさを感じるし、どう思われているか分からないことにいらだちを覚える。自然災害に遭ったとき、どうして、とぶつけ所のない怒りや悲しみで涙を流す。ぶつけ所がないのは、実行者が「神」とか「地球」とかいう象徴的な存在だからではない、そこに一切の偏見もないからだ。自然災害は殺す対象を選ばない。目標に向けて努力していた人が死に、テレビカメラに向かって携帯電話を片手に、バカみたいな顔でピースしている人が生き残る、ということがある。その悲しみをぶつける先は、見当たらない。そこに偏見はないから。
 彼女の家は、駅からすぐ近くのマンションだった。白い外壁に包まれていて、清潔感のある建物だ。オートロックで、これなら一人暮らしの女性でも安心である。
 ストーカーは姿を消していた。
「いつも、家の近くまでは来ない?」
「はい、来ないです」小口は即答した。「駅の付近でいなくなると思います。このマンション、警備員さんがいるので」
 警備員が常駐していても、どこまで頼りになるか分からない。でも、とりあえず抑止力というか、これもまた「予防線」にはなる。
 ストーカーの彼は、危ない橋を渡らない性格らしい。慎重派のストーカーなんて、かえって厄介だ。
「あ……」小口がゲートへ足を向けようとして、止まった。「あの人が、安藤さんを脅したりしませんかね……」
「脅し?」
 私の中では、彼は慎重派だから、危険はないと決め付けていたが、こうやって送ったことで逆恨みされる心配も、確かにある。
「大丈夫」
「でも……」小口の不安は消えない。笑わせたい、と思う。
「おれは高校まで柔道をやってたから、たいがいのやつには負けない。それに、見た感じ、細身だったから心配ないだろう」
「本当ですか?」
 無垢な瞳をうるませて、ちょっと笑う。その微笑みに、罪悪感を抱く。柔道をやっていたなんて、嘘もいいところだ。
 でも、大丈夫だろう。

「遅かったわね」
 家に帰ると、妻の涼華に開口一番、そう言われた。だが、思ったより不機嫌そうではなかった。
「残業?」
「ああ」
 嘘なのは分かっているが、本当のことをどこまで言っていいのか複雑であるし、それなら何も言わない方が賢明だろう。それに、部下に迫る危険を未然に防ぐ、という「残業」をしていた、と自分に言い聞かせることもできなくはない。
 子ども部屋を覗いて、娘の渚が眠っていることを確認した。子どもの成長は早い。私が代わり映えのしない毎日を送っているうちに、どんどん大きくなって、よく喋るようになった。このくらいだと、まだ「パパ」と私を呼んで、なついてくれるが、あと数年か経ったら、煙たがられるだろう。父親の宿命みたいなものだ。
「風呂、入ってくる」
「うん」
 妻は頷くと、寝室に引き上げた。その後ろ姿は、結婚した当初より痩せた気がする。幸せ太り、という言葉があるが、彼女は逆の道を辿っている。といって、幸せじゃないわけじゃない。
 渚が大きくなっていくのは嬉しいが、妻が歳をとっていくのは全く喜ばしくない話だ。
 すでにぬるくなった風呂に、疲れた体を沈める。手を伸ばして、追い炊きのボタンを押す。背中から暑い湯が出てきて、少し離れる。掌で顔をごしごしと撫でながら、親父くさい息を吐く。幼い頃、自分の父親を見ていて、こんなにはなるまいと誓っていたが、大人の苦労を知らない子どもの幻想の一つに過ぎなかった。
 お腹をさすって、ストーカーに殴られてあざになった部分を探り当て、顔をしかめる――ということはない。小口の心配は私の予想通り杞憂に終わり、ストーカーの彼は、私に危害を加えることはなかった。
 しかし、これで終わったわけではない。彼が私という家まで送る存在を見て、あっさりと諦めてくれればありがたいが、そうはならないだろう。いつまで続くかは、見通せない。
 根本的な解決が不可能なら、強行策に出る必要も出てくるかもしれない。だけど、いったいどうすればいい? 私が彼に「こんなことは、もうやめろ」と言えばいいのか? それとも警察に頼るか? 今の状況ですんなりと動いてくれるか?
 とりあえず、彼女を家まで送ることしか、私にはできないようだ。
 湯船から上がり、ドアをちょっと開け、タオルを取ってすぐに閉める。洗面所で体を拭くには、まだまだ寒い。湯冷めしないように、水滴を拭き取る。
 私はストーカーについてあれこれ考えているが、そこまで深刻に捉えてはいなかった。何より、彼がそんなに危険には思えなかったから。ただ、小口の不安を払拭させてやりたかった。

 私が小口を彼女の家まで送るのは、一ヶ月近く続いた。それも、ほぼ毎日。
 犯人は慎重な性格に加えて、律儀でもあった。ストーカー行為で律儀というのはおかしいが、私が連れ添っても、彼はストーカーをやめなかった。適度な距離をとって、付いてきた。
「本当に、知らない人なんだろうね?」
 あまりの律儀さに、昔の恋人の類いではないかと考えて、小口にそれとなく聞いてみた。
「知らない人ですよ」
「本当か? 覚えてないだけかもしれないぞ。学校の頃の同級生とか……」
「だとしたら、分かりますよ」
「顔がはっきり見えないのに?」
「……私の同級生に、そんなことする人はいません」
 彼女は確信とまではいっていないが、知らない人であると信じていた。
 そうなると、やはり一目惚れでもして、小口の追っかけみたくなっている線だろうか。まあ、ストーカーの考えていることなんて分からないし、分かりたくもない。
「私、男性とお付き合いとかしたことなくて――そもそも、話をすることも稀で。だから、本当に知らない人だと思います」
 この容貌で周りの男たちが無関心だったとは思えないが、少なくとも小口は周りに無関心だったのだろう。それは今の彼女からも窺えることだ。
「安藤さん」
「ん?」
 彼女は頭を深々と下げた。「すいません、ご迷惑をかけてしまって」
「そんなに謝ることはない。おれが勝手にやってることだ。迷惑だったら、とっくに手を引いてるよ」
 まあ、正直こんなに長く続くとは思わなかったけどな――という言葉は飲み込んだ。
「でも……」
「今さらだよ、いずれにしろ。解決の糸口が見えてくるまで、おれも気になるから」
 小口は、今度は小さく頭を下げた。「ありがとうございます」
「礼は、終わってからでいいよ――そう言ってみたところで、どうやって終わらせるか、具体的なアイディアもないんだけどな」
 冗談めかすように、笑ってみた。小口も応えて微笑んだ。心がほっこりと温かくなる。
 ようは、ストーカーにその対象を諦めさせるには、恋人がいると思わせることだ。恋人がいたら、前に小口が言っていたように逆恨みに変わる恐れもあるが、とりあえず諦めの材料となるだろう。
 だからこそ、継続的に家まで送るようにして、それを見せつけることで諦めさせようと考えたのだが、依然として状況は変わらない。歳の差のせいもあるのかも分からないが、恋人同士と思われていないようだ。
 こうなると、警察に――
「あの」
 考え事の狭間に、小口の遠慮がちな声が飛び込んだ。私は顔を上げて、彼女を正面から見据える。
「恋人同士って思わせたら、向こうも諦めてくれるんじゃないでしょうか」
「ああ、それはおれも考えていたことだ。でも、歳の差があって、向こうはなかなかそう思ってくれないらしい」
「歳の差は関係ないですよ」彼女にしては珍しく、はっきりとした口調で言った。「それより、恋人らしいことを私たちがしてないからじゃないですか」
「恋人らしいこと?」
「ですから、その……腕を組んだり、キスしたり……」
「キス?」
 あまりに驚いたため、素っ頓狂な声を上げてしまった。小口が慌てて人差し指を立てる。幸い、付近に他の人はいなかった。
「例えばですよ。二人で並んで、話をしているだけじゃ、恋人と思わせるには弱いかな、と思いますし……」
「まあ、キスしているところを見せつけられたら、ショックで諦めてくれるかもな」
 言い終わってから、笑い飛ばしてやった。そうする以外に、目の前で耳まで赤くしている彼女に対する処置の仕方が見当たらなかった。純情なのだ。
「でも、いいのかい?」
 何がですか? と聞き返すように、彼女は幼さの残る顔を私に向ける。
「例えばの話だが、おれとそういうことをしてもいいのか? こんな平凡なおじさんと。なんだったら、若くて信用のおける部下に頼んでもいいぞ」
「あ、いえ」小口は慌てて否定する。「私は構いません。安藤さんは誰よりも信用できますし」
 不覚にも、「誰よりも」というところに、心臓の動悸は速くなる。まったく、いい歳して。だが、正直、気分は悪くない。
「そう言ってくれると嬉しいが――」
「私より、安藤さんはいいんですか? 私みたいな人と、その、さっき言ったみたいなことをしても……」
 キスをするかもしれない、この彼女と。つい、唇に目をやってしまう。明るい色の口紅が薄く塗られている。
「おれも構わんよ。きみ次第だ」
「私も、大丈夫です」
「じゃあ……」
「はい」
「今日の夜から、さっそく……?」
「……はい」
 少し間が空いたが、彼女はきっぱりと頷いた。何と言い返していいか分からず、仕方なく曖昧に笑っておいた。

 何だか話が変な方向に進んでいる。ストーカーのせいで、いや、おかげでと言うべきだろうか、とにかく私と小口は距離を近しくした。
 ただ、振りとはいえ、恋人のそれを演じることは考えものだった。まだ大学を出たばかりの、将来のある彼女に対しての遠慮もある。加えて、妻に対する悪い気持ちもあった。妻には、小口に関連することは何も話していない。
 ――最近、残業続きで大変ですね。
 心の底から私を気遣ってくれているような声音に、後ろめたくなった。彼女は、私のことを信頼しているのだ。まあ、女遊びができない性質だという判断も手伝っているのだろうが、それでも嬉しかった。心から望んでした結婚でなかっただけに、私は良きパートナ
ーに恵まれたと思った。
 ただ、こうなったら手っ取り早く終わらせて、元の生活に戻ろうじゃないか。そう、自分に言い聞かせる。一回、恋人の振りを見せつければ、さすがのストーカー君も手を引いてくれるはずだ。だったら、何だってやってやろうじゃないか。
 夜、いつものように私と小口が残って、一階までエレベーターで下りた。
「安藤さん、出るとき、腕組んで行きましょう」
 箱の中で、彼女はぽつりと提案した。私は頷いた。でも、誰かと腕を組むなんて久しぶりだ。また、妻の顔が浮かぶ……申し訳なくなる。
 小口は控えめな性格だと固く信じていたが、意外と積極的なところもあるようだ。こんなおじさんと腕を組むなんて、よく自分から言えたものだ。
 自動ドアが開いた瞬間、彼女は私の右腕に腕をからませてきた。胸の柔らかい感触を腕に感じたので、少し離そうとしたが、彼女はかえって強くからませた。そうだ、恋人同士なのだ。自分に言い聞かせる。それに、きっと今日だけだ。
 適当に談笑しながら、夜の通りに出る。周りからの視線が気になった。ストーカーにどう見られているかよりも先に、一般人からの捉えられ方が気になった。
 彼女はそんなものまるで気にしていない風だった。私の「彼女」役を演じきっていた。
 ふと、後ろに気配を感じて、何気なく視線を送ると、今日もやはりストーカーが付いて来ていた。とりあえず、第一段階はクリアだ。さあ、諦めろ。お前が惚れてしまった女性には、交際相手がいるんだぞ。今日を最後に、ストーカーなんていう犯罪行為はやめて、真面目に生きるんだ。正々堂々、恋をするんだ。――使えないのは分かりきっているが、テレパシーで彼に訴えかける。
 駅まで来た。小口は改札には向かわず、暗がりになっている方へ行こうと指で示した。何をするのかおおよそ見当が付いたが、黙って従った。――今日だけだ。また、言い聞かせる。
 小口は壁に背をつけると、私を盾にして、私の後方を窺った。そして、微かに頷いた。いる、と伝えている。
 私たちの傍を通る通行人の影はない。小口は、ゆっくりと目を閉じた。希望に溢れた夢を見ている子どものような、あどけない寝顔を連想させた。本当に、いいのか。彼女は後悔しないだろうか。
 だが、理屈云々よりも、私の体内で眠っていた性欲が目を覚ました。この唇の感触を味わってみたい。知らない世界に冒険したくなる子供顔負けの好奇心が、私の理性に勝った。
 彼女の肩に両手を添えて、静かに唇を押し当てる。甘い感触が広がる。
「ん……」
 上手く呼吸ができないのか、小口は苦しそうな声を漏らした。私から離して、彼女の表情を窺った。彼女はにっこりと笑顔を作った。作戦大成功、といったところだろうか。まさか、私とキスできたことを喜んでいるわけではないだろう。
 その後も恋人のように体をくっつけて電車に乗った。
「初めてじゃないよな?」
 他の人に、特にストーカーに聞かれないように小さな声で尋ねてみた。
「これ、ですか?」と言って、小口は自分の唇を指し示す。
「ああ」
「初めてですよ。男の人とお付き合いしたことない、って前に言ったじゃないですか」何を当たり前のことを言っているのだ、と言わんばかりの色だ。
 予想はしていたが、私は彼女に対して罪を感じなくはない。「だったら、やめといた方がよかったんじゃないか? こんなおじさんとファーストキスなんて、後悔するぞ、きっと」
「しませんよ」力強く、否定してくれる。「安藤さんだから、いいんです」
「だがな……」
「それより」彼女に遮られた。「ストーカー、相変わらずいますね。動揺とかもなさそうですし」
 それは私も気付いていた。私のもくろみとしては、キスを見せつけられた彼は、それで諦めていなくなってくれると踏んでいた。というか、それはほぼ願望に等しかった。キスで諦めてくれなかったら、あと何をしろと言うのだ。
「演技だと見破られたかな」
「それは、ないと思いますけど……」自信はなさそうだ。
「また、何か対策を考えてみよう」
「…………」
 彼女は無言で考え込んでいた。私と同じことを考えているのだろう。ここまでやったら、もうできることは限られている。
 そろそろ、警察の出番かな。
 公的機関に頼ることを本格的に考慮していたこの夜だったが、事態はまたもや私の予想しない方へと突き進んでいく。

 翌日、私と小口は腕を組んで、前日と同じように帰ろうとした。しかし、それは一応であって、今日はもうストーカーはいないのではないか、という期待があった。
 それだけに、後ろをちらりと見たときに、落胆した。彼は、今日もしっかりと付いてきていた。
 これには、彼のおかしさに敬服した。おかしさの方向が、世間一般で言うところと大いにずれている。
 でも、今思えば、彼がこんな風にしていなければ、私たちがこの日、ラブホテルに行く、ということには絶対になっていなかった。
 誘ったのは、間違いなく私の方からだった。このとき、理性を平時の半分以下に無意識のうちに押し潰していた。かろうじて頭の中のクリップで留めていたことは、ストーカーに、本当の恋人であるごとく見せつける、それだけだった。
 でも、そのために入ったとしても、何もしないで部屋で大人しくしているべきだった。外からは見えないのだから。恋人ではないのだから。私には妻がいるのだから。彼女には、将来があるのだから。
 私は静かに興奮し、小口をベッドに寝かせ、丁寧に服を脱がせた。現れたのは、何の汚れもない真っ白な肌。胸の柔らかい感覚を手で味わう。
「…………」
 彼女はおそらく初めてだろうが、いたって落ち着いていた。たまに声にならない声を上げても、抵抗しなかった。次々に繰り広げられる展開を黙って受け入れていた。
 私に気を許しているからだろうか?
 私なら、いい、ということだろうか?
 誰の侵入も犯していない膣に、私の性器を入れる。彼女は痛がるように顔をしかめたが、「やめて」とは言わなかった。出し入れを繰り返して、精液を彼女の中に放つ。ゴムのことは考えなかった。静かに、興奮していた。理性も遅ればせにやって来たものの、行動には間に合わなかった。
 快感が広がった。
 野蛮で、野生的な行動をしているはずなのに、彼女と交わっていると、神聖の域に達した気がした。経験のない処女を犯すことがこんなに心を満足させるとは、知らなかった。世のレイプなどを犯してしまう男たちの気持ちが理解できなかったが、今なら彼らに同情を寄せられる。
 男とは、この上なく醜い生き物だ。本能的に、快感を求める。それは、充分人を堕落させるし、時として人の生きがいに浮上することだってある。
 紀元前二百年ごろ、秦の宦官趙高は、二代目皇帝胡亥が政治に興味を持たなくなるために、酒と女を与えた。中国の皇帝だから、彼の下には極上の女性たちが集った。そして、胡亥はいとも簡単に自堕落な生活に陥った。紀元前の頃から、男の性欲はこのように哀れだったのだから、生殖方法の変わっていない現代においても同じである。
 私も、例外ではなかった。
 ずいぶん長い時間、二人で抱き合っていた。裸のみずみずしい感触が、いつまでたっても気持ちよかった。
 見つめ合う彼女の瞳は――その、幼い瞳は――困惑を浮かべていなかった。むしろ、安心を帯びていた。天使のような微笑をたたえて、私の後ろめたさを全て消した。
「安藤さん――好きです」
 静かな部屋の中でも消え入りそうな声だった。私はその声をしっかりと拾う。
「ごめんなさい」
 こんなこと言っちゃ、ダメですよね、そう続けようとするのを遮る。
「いいんだ」
 いっそう、強く抱き締める。「おれも好きだ。謝ることなんかない」
「……はい」
 彼女の全てが愛おしいと感じた。これが恋というものだったのだろうか。私は恋というものをきちんと経験したことがなかった。これは、かなり遅い初恋ではないか。そんなことを思う。
 その日、結婚以来初となる朝帰りを経験した。

 この段階になると、さすがに疑われ始めた。元々、女の勘は鋭いものだから。妻も怪しんでいたらしい。
 そして、それがごまかしのきかないものになった。
 あの日から、私と小口は自然な足取りでラブホテルに向かった。もうストーカーの影は消えていたが、そんなもの関係なかった。二人の時間を過ごすことで頭はいっぱいだった。
 だから、あまりに夢中になっていたせいで、周りへの注意が疎かになっていた。いつストーカーがいなくなったのか分からなかったほどだ。
 まだ七つの娘がいて、家の外へ容易には出られないだろうと思っていた妻が、私と小口が仲睦まじげにしているところを目撃した。その間、娘の渚は家で一人にされていたそうだが、それを非難する資格は私にない。非があるのは、どう控えめに見ても私の方である。
 目撃した瞬間は、妻は接触してこなかった。だから、ついぞ妻と小口が対面することはなかった。対面していたら、また結末は違っていたかもしれないが、あくまで結果論の話である。
 家に帰って、妻がダイニングテーブルに座っているのを見て、驚いた。最近は私を待たずに寝てしまうことも多くなっていた。
「おかえり」
 声の調子に、初めて耳にする冷たさが含まれていた。――私は発覚したのかと、ようやく思い至った。その段になって、罪悪感が形を成して現れた。それまで、曖昧でぼんやりとしていた。
「ただいま」ネクタイに手をかけ、自然な素振りで切り抜けようと試みる。
「そこ座って」人差し指で自分の向かいのイスを示す。「疲れてるだろうけど」
「いや、いいよ」私は言われるままにする。「何か、話か?」
 妻はしばらく黙っていた。どう切り出そうとしたものかと、思い巡らしている。
「単刀直入に言うけど――あなた、浮気してるでしょ?」
 これまで、たくさんの言い訳を考えてきた。でも、そんなもの現実に直面すると、どれも言葉にすることができない。どれも、いかに自分が情けない人間かを認識させてしまう。
「私、見ちゃったんだ」
 彼女はうっすら笑う。とても、つけ入る隙間はない。
「見たって、何を?」
 掠れた声でようやく言葉を発する。
「あなたが若い女の子と腕を組んで、歩いてるところ――それに、ラブホテルに入っていくところ……」
「そんな――」
「見間違いじゃないわよ」妻は反撃のいとまを許さない。「夫の顔を見間違えるわけないし。それに、会社から出てくるところを見たから。あなたの会社に、偶然、そっくりな人がいたら、話は別だけど」
 妻がこんな恐ろしさを持っていたとは。やはり、女の底は測れない。
 私は、言い逃れは不可能だと悟った。こうなったら、ひたすら謝るしかない。
「すまなかった」
 私はイスから立って、床に土下座した。額がつくほどに。上司にも、取引先にもこんなに低い姿勢で謝ったことはない。
「おれが悪かった」
「じゃあ、認めるのね」
 声の冷たさはまだなくならない。
「認める。何というか、魔が差したとしか言えない――でも、ちゃんと終わらせる」
「……――へえ」妻の声が少し柔らかくなる。「できるの?」
「ああ」
「どうするの?」
「彼女ときちんと話をつける。手を切ってもらうように説得する。そして、以前のように、いや、以前よりも増して家族のために尽くす」
「家族のために? 本当に?」
「約束する」
 私は自分の間違いにやっと気付いた。私は間違っていた。妻と娘がありながら、若い子に溺れるとは。どうしてもっと早く気付かなかったのだ。
 後悔は、尽きなかった。だが、過去を惜しんでも仕方ない。これから、挽回していくしかない。
「じゃあ、これはとりあえずしまっておくね」
 顔を上げて妻が手にしているものを見ると、離婚届だった。
 私は目を瞠って、その時点で他の何よりも恐ろしい一枚の紙を捉える。妻は、本気だったのだろう。ますます、自分の罪の重みを全身で感じる。
「でも、まだ許したわけじゃないからね。ちゃんと話をつけてきてからよ」
「分かってる。絶対に、終わらせてくる」
 私の決意は固かった。小口に対する未練はなかった。それよりも、罪を償うことで頭はいっぱいだった。
 ――このとき――後から知った話だが――すでに眠っていると思われていた渚が、部屋のドアに耳をつけて、両親のやりとりを窺っていた……。

 翌日、約束を果たすべく小口を個室に呼んだ。
「すまないな、いきなり呼び出したりして」
 私はできる限りよそよそしく振舞った。意識的にそうしないと、彼女の愛らしい表情を前にしたら、昨日の決意も萎えてしまう。
 彼女も私の態度が違うことで、いい話ではないことを察したようだ。沈痛な面持ちで、私の口からこぼれる言葉を待っている。
 終わったとき、私が話すべきことを話し終えたとき、彼女は何て言うだろうか。泣いて、悲しむかな。怒って、私を責めるかな。何も言わずに立ち去るかな。
 泣かれたら、私の申し訳なさが募るだけだ。
 責められても、しょうがない立場だ。
 私が妻に対して、話をつけると自信を持って断言したのは、でまかせではない。確かに、私たちの想いはそれぞれ一方ならぬものがあるけど、それと同時に、感情的になりすぎない性格である。つまり、ちゃんと話せば、分かってくれるはずだ。きっと。受け入れたくないと感じるだろうが、理解してくれるはずだ。
 はずだ、だなんて強い口調で言ってみたけど、実際は願望をはらんでいる。そうなって欲しいだけだ。何が感情的になりすぎないだ、安藤義哉の場合は自分に自信がないからだろう。
 感情を前面にふりかざさない人間は、二つに分類することができる。一つが、賢くて、物事の本質を的確に捉えることができる、あるいは積み重ねた経験で捉えられるようになった人間。もう一つは、自分に自信がないから、感情的になったときに衝突して勝てないと判じ、そもそも感情をふりかざさない人間。
 私は後者だ。どうでもいいけど。
 ――ごめんなさい。
 小口の声が甦る。初めて寝た夜の、か細い声音。
 彼女はまた謝るかな。謝る必要のあるのは、私であるのに。
 ここまでの関係を持つことになったきっかけは、小口が持ち込んだ相談だった。でも、だからといって小口のせいにできない。
 次に、恋人として振舞おうと持ち掛けたのも、小口だ。キスをしようと誘ってきた。これが次のことに繋がったわけだから、小口を遠因として非難することはできる。しかし、その非難を実行するには、自分の責任を明確にすること抜きには不可能だ。つまり、この段階ではどっちもどっち、と言ったところ。
 最終的に、彼女をラブホテルに連れ込んだのは、私だ。これは動かない。彼女が拒まなかったからといって、これをどっちもどっち、とすることはできない。それに、連れ込むならストーカーに対する防御策だと言い張れたものを、性行為まで犯してしまっては、言い逃れの余地はない。
 まわりくどく言ったが、詰まるところ、私が悪いのだ。彼女に謝らせてはいけない。
「実は」息を吐いて、間を空ける。「おれと君がただならぬ仲だということが、妻にばれてしまった」
 彼女は予想していたのか、何も言わない。表情一つ変えない。
「それで、妻はきちんと別れてくれれば、許すと言っているんだ。本当に身勝手な話なんだが――」ちらと、彼女の様子を窺う。「驚かないのか?」
「はい、いつまでも続けてたらダメだ、って思ってましたから」
「怒らないのかい?」
 彼女はきっぱりと頷く。「はい、好きなのは本当でしたから」
「悲しくはないか?」
「それは……」真っ直ぐ向いていた顔が、初めて俯いた。「それは、悲しいです。でも、しょうがないんです。いけないことだったんですから。短い間でも、安藤さんと繋がりを持てただけで充分です」
「すまなかったな、本当に」私は頭を下げた。まさか、ここで土下座はしない。した方がいいくらい、罪はあれども。「おれが年甲斐もなく、若者じみた過ちを犯してしまった」
「そんなこと言わないで下さい」
 私は胸が痛んだ。彼女の声が、震えている。見られないが、目には涙が溜まっているかもしれない。
「それじゃ、安藤さんは私と付き合っていたのが過ちだった、そうおっしゃりたいんですか?」
「いや、そうじゃない」
「でも、今――」
「分かってる。言いたいことはよく分かる。おれも君を愛していた。君と付き合っていたことは至福のひとときだった」
 でも、と言葉を切る。
「でも、悪いのはおれだ。おれには謝る必要がある」
「ありません」
「どうして……?」
「安藤さんも、私も謝らなくていいんです。想いを抱き合っていた者同士が、やむを得ない理由で別れるんです。どちらかが謝ったら、その想いに嘘をつくことになります」
 彼女も若いなりに、自分の意見をしっかりと言える人だった。最初に会ったときは、幼い容姿も手伝って、大人しい性格の彼女を不安に思ったけど、これなら大丈夫だ。
 やむを得ない理由、か。語弊のありそうな言葉だが、その通りだと思う。この社会では、たくさんのモラルが存在する。結婚してから他の誰かを好きになってもいいはずなのに、「浮気」や「不倫」といった負のレッテルを貼られ、社会的に非難を浴びてしまう。
 いや、もういい。もうやめよう。とりあえず、彼女との関係を終わらせることが、今なすべきことだ。
「じゃあ、分かってくれるか」
「はい」
「す――」すまなかった、と言おうとして、慌てて口を噤む。「じゃあ、これで別れよう」
 私は右手を差し出した。握手をするために。間違っても、抱き合うわけにいかない。決意が揺らぎかねない。
 そのとき、ようやく彼女の表情を目の当たりにした。目が赤くなっていたが、涙は流れていない。そして、明らかに無理と分かる笑みを浮かべていた。
 彼女は私の手を握り返す。
「はい――今まで、ありがとうございました」
 これで、全て元通りだと信じた。寂しさがこみ上げてきたが、必死に打ち消した。いけない感情だと、戒めた。

 その日は、娘の起きている時間に帰った。朝、顔を合わせることはあっても、夜に会うことは稀だった。そのせいか、喜んでいるようでもあり、戸惑っているようでもあった。
 しかし、どう言ってみたところで、娘はかわいいものだ。まだ七歳。愛らしい笑顔を振りまいて、家の雰囲気を明るくさせる。
「おかえり。今日は早かったのね」
 娘の手前だからか、声の調子は低くないが、今の言葉には皮肉が隠されている。今まで遅かったのは、残業なんかじゃなくて、浮気していたからなのね、という。
 でも同時に、私が約束を守ったことを認めてくれた。早く帰ってきたことが、何よりの説得材料になる。これからは仕事が終わったらすぐに帰ろう、と改めて思った。
「渚、そろそろ寝なさいね」
「えー、まだ早いよー」
「早くない。おトイレ行って、もう寝なさい」
 娘はもじもじするように体をくねらせていたが、「はーい」と間延びした返事をして、トイレに向かった。
 余談だが、娘に渚という名前をつけたのは、私と妻がともにスピッツのファンだったからだ。今でもこの名前を気に入っている。
 娘を部屋に向かわせてから、妻がリビングに戻ってきた。私はテレビを見ていたのをやめ、立ち上がった。
「涼華」
 すずか、という名前を久しぶりに呼んだ気がした。実際、久しぶりだった。
「なあに?」
 妻は微笑んでいた。もう、改まって言わなくても分かっている、と言いたげだ。妻の中では、許す方向で固まっているようだ。少なくとも、冷たい対応は解いてくれるらしい。
 でも、私はきちんと報告しなければならないと思った。それが義務だ。男は、本当に必要か怪しく思えても、体裁を繕う礼儀を好む。
「今日、話をつけてきた」
「早かったのね」私が座らないので、妻も立ったままだ。
「物分かりのいい娘だったから」
「でも、女はそんなに簡単には諦めないと思うけど」
「庇うようだけど……」私は鼻の下をさすった。「彼女は、そんなことしない」
「そうなんだ」
「それに、もしお前の言うとおりになったとしても、おれがしっかりしていればいいことだ。――これからは、お前を裏切るような真似はしない」
「……もういいよ」妻は笑った。「それ以上、言わなくていいよ。もう、怒ってないから」
「本当か?」どう転んでも、情けない立場は明らかに私の方だ。声が、それを象徴しているように、掠れている。
「本当に」
 信じてるよ、あなたのこと。そう付け加えて、背中を向けた。しばらくして、キッチンの方から水の流れる音が聞こえた。
 私はぼんやりと立ち尽くしていたが、安心で脱力し、腰から崩れるように、ソファに落ちた。――よかった。
 ふう、と一息ついて、よかった、ともう一度呟いた。どうなることかと思ったが、首の皮が繋がった。私はまだ恵まれていたようだ。
 恵まれていた、なんて誤解を与えそうだが、本当に私はそう思った。物分かりのいい浮気相手に、優しい妻。こんなにすんなり元通りに運ぶ男が、他にいるだろうか。世の中には、もっと苦労して、もっと悲劇的な展開に発展する人がたくさんいる。それに比べたら、私は恵まれていた、と思うのだ。
 これからは、慎まなければ。この幸運に甘んじてはいけない。これからは、自分次第だ。

 平穏な日々が続いた。ほんの少し前までの危機的状況が嘘みたいに思えるほど、平穏を極めた。また、平凡な日常に戻ったわけだ。でも本来、私がいるべきなのはそこだった。ようやく、自覚した。
 舞台の上でスポットライトを当てられる人間になるには、必要なことがある。劇的な展開が似合う人だ。それも、見ている人の同情を誘うような展開でないといけない。非難されるような立場は忌避される。
 私は誰よりも平凡な見かけで、非難されること請け合いの展開にまで発展させた。舞台上では、決して好まれて演じられない。新聞の記事で流し読みされるのがよくお似合いだ。
 さて、彼女は、小口はどうかというと、表面上は以前と変わりない。真面目に仕事をこなし、明るい笑顔を振りまいている。幼い印象を覚えさせる、あの笑顔。
 内面は、分からない。以前と違って、深く関わる機会が失われてしまったから。それが寂しい――などと、少しでも考えてしまいそうな自分を、自ら戒める。もう、知りえない彼女の内面。でも、それが当たり前だった。人の内面なんて知りたくても知れないものだった。一時期、自然と感じ取れたものを今さら求めても、他人の関係になるように努めた末だ、推測するしかない。
 あれから、話す機会がない。部下たちを集めて、全員に話すとき、その中に彼女もいるけど、もちろん、彼女だけに向けられた言葉ではない。そして、彼女が返事をしても、私のために、なのは確かだろうが、個人的な感情が込められていることはない。さらに、彼女が私に質問をすることがあっても、繕われた体裁の域を出ない。
 彼女との結びつきが過去のものとなりかけていた。
 ところが、――なってはくれなかった。
 それはまた、あの日の夜みたいに、相談を持ちかけられたことで「過去」じゃなくなった。

 小口は暗い表情で近づいて来た。初め、仕事のトラブルかな、と勘繰ったが、それにしては暗すぎた。
「あの、安藤さん、いいですか?」
 名前を呼んでもらうのも久しぶりだ、などと頭の端で考えながら、上司としての顔を崩さないように努めた。
「どうした? 何かあったか?」
 彼女は口を半ば開いて、何か切り出そうとしたが、かなり迷っていた。
「ここじゃまずいのか?」
 気を利かして、提案してみた。彼女はゆっくりと首を縦に動かした。二人きりで話したいことがあるらしい。
 私は不安に感じつつも、まあ、まだ人が大勢いる時間帯だし、大丈夫だろうと、高をくくった。
 向かったのは、別れ話をしたときの、あの部屋。互いに一切、謝罪の言葉を述べず、「ありがとう」と、笑顔で別れた、あの因縁の部屋。
 立ち話もなんだから、座るようにすすめてみたが、「いえ、立ったままでいいです」と、断られた。仕方なく、私も立っていることにした。本当は腰が痛くて、座りたかった。
「どうしたんだ? そんな思い詰めた顔して」
 笑いかけてみても、彼女の表情から硬さは消えなかった。今度は、心配になった。妻や娘、世間に対する「配慮」よりも、小口に対する「心配」の方が大きくなってきた。
「安藤さん……」
 ごめんなさい、と小さな声で続けた。別れた日、言ってはならないと戒めた言葉を、いとも簡単に。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
 ついには、ぽろぽろと涙を溢れさせた。頬を、黒い筋を作って伝っていく。彼女は俯いて、手の甲で拭う。だが、拭っても次々に溢れてくる。
 ただごとではない、とはさすがに分かった。しかし、何もできなかった。ただ、うろたえて、心配そうな眼差しで彼女を見つめることしかできなかった。――いや、見つめる、なんていう飾られた言葉は不似合いだ。私は、観察していただけだ。本当に何もできなかった。
「な、何があったんだ? どうして、そんなに泣く?」
 情けなく、上擦る声。せめて、心配している気持ちが伝わればいい。
「私……」真っ赤に充血させた目を向けてきた。私の目を真っ直ぐに捉えて、続ける。「妊娠――しちゃったんです」
 唖然――とした。妊娠――。
 私の人生の予定に、用意されたレールの上に、そんなものなかったはずだ。完全に、レールから脱線してしまった。
「間違い、ないのか?」
 彼女はこくりと頷く。「……病院で確認しました」
「父親は、おれなのか……?」
 間抜けな質問だと思った。下手したら、彼女を傷付けかねない問いだ。
 彼女は、またこくりと頷く。セックスは、あれが初めてで、私以外の誰かとはしていないのだろう。
「安藤さん――私、どうしたら……?」
 この場合、用意された選択肢は二つだ。「産む」か「産まない」か。たった二つの、過酷な選択だ。
 私には妻がいる。娘もいる。産むべきではないだろう。
 でも、それは小口のことを考えると、残酷なことになる。避妊治療をすると、二度と子供が産めなくなる可能性が高いのだ。
 ようは、この選択は、妻と娘を取るか、小口を取るか、という選択肢に置き換えられなくもない。一概に、そうとは言えないが。だって、産んだとしても明るみに出ないようにすれば、問題ない。産まなかったとしても、小口に子供が二度とできないかなんて、まだ
分からない。あくまで、可能性の高低を語っただけだ。
 でも、だけれども――だ。
 私の犯した罪でこんなに涙を流している女性を目の前にして、情が湧いてこないわけがない。それに、小口はあんなにも、こんな私が好きだと言ってくれた。
 もう、世間体も常識もなかった。部屋に入ったときに感じた、腰の痛みも吹っ飛んだ。――私も小口が好きだ。互いに想い合っている者同士が、結ばれるのに躊躇する必要はない。その子どもが、この世に生まれてきてはいけないわけがない。
「小口」私は彼女の肩を強く持った。「産もう」
「え……?」
 当然ながら、彼女は戸惑っていた。そんな答えが返ってくるとは予想していなかったらしい。
「おれたちの子だ。産むしかない。二人で、育てよう」
「でも――いいんですか?」
「いいんだ」
「だけど、安藤さんには――奥様も、娘さんもいるじゃないですか。ダメですよ、やっぱり」
 私は首を横に振る。「ダメじゃない」
「でも……」
「でも、はなしだ。おれたちは愛し合っているんだ。おれと妻は、互いに本気で想って結婚したんじゃない。だから、気にすることはない」
「じゃあ、もしかして……」
「ああ、妻とは離婚する。そして、君と再婚する。それでいいんだ。それがいいんだ」
 自分に言い聞かせるように、繰り返した。いいんだ、いいんだ、と。罪は感じなかった。希望が見えた。
 迷いはなかった。もう決めたことだ、と腹をくくった。

 迷いはなくても、家に帰ることは憂鬱だった。妻と別れる寂しさは、そんなに大きくない。憂鬱になる原因は、自分の口から別れ話を切り出さなければならないからだった。若ぶって言うなら、メンドイ、のだ。
 どうも人間社会とは厄介だ。何事も手続きを踏む必要がある。結婚するにも。その逆でも。
 裁判でも起こされたら、と考えると憂鬱は増す。妻の性格だと、起こさない確率の方が高い。でも、離婚を言い渡されて、正気を失ってしまう恐れもある。そうなったら、言い渡す前に確率を導き出すことはできない。
 いつの間にか、こんなところまで来た。私は間違った人間だろうか。好きな人と結婚することが、いけないことだろうか。私は妻よりも、小口を愛していた、それだけなのに。
 でも、そんな言い訳、通用しないのだろうな。
 裁判で個人の権利を保障してくれるなら、個人の愛も保障して欲しい。世間体のせいで結ばれないことがないようにしてもらいたい。せめて、私に浴びせられるだろう非難の声から守って欲しい。
 世の中には、正しい、正しくない、の二つに簡単に分けられないことがたくさんある。そしてそれは、常識だったり、投げやりな雰囲気だったりで、選り分けられてしまう。個人の意思とは無関係に。
 重い足取りでも、いつかは家に着く。考え事は尽きないが、そのときが訪れてしまった。
 こうなったら、是非もない。結果はどうなるか不明だが、とにかく離婚の意志を伝えてみることだ。
 後から思えば――その時点では客観的な見方ができていなかった――不思議なものだった。あれこれと悩んでいるくせに、離婚しない、という結論には至らなかった。離婚するのはもう前提条件で、その後どうなるかやきもきしていた。いくら妻への愛以上に、小口へのそれが大きいとはいえ、ずっと連れ添ってきた彼女を手放すことに抵抗を感じなさ過ぎていた。
 玄関で、「ただいま」と呟く。遠くから、顔だけ出して、「おかえり」と妻が言う。これから離婚話をするのに、このやりとりは皮肉めいていた。
 部屋で上着だけ脱いで、そのままの格好でリビングに向かった。
 テレビの前に、娘がいた。おかえりー、と片手を上げて告げる。今は、邪魔だとしか思わなかった。もういい時間だから、早く寝て欲しい。
「あれ、どうしたの? 着替えないの?」
 訝った表情で、キッチンから妻が姿を現す。
「……大事な話があるんだ」
 できるだけ、真剣みが増すように、声を潜めた。
 妻は首を傾げたが、何も言わずに納得して、娘の方に行った。
「渚、もう寝ましょう。明日もちゃんと起きるのよ」
「はーい」
 娘が消えるまで、私は立っていた。リモコンに手を伸ばして、テレビを消した。家の中は、一瞬で沈黙に変わる。
 妻が戻ってきた。それを見計らって、ダイニングテーブルのイスに座る。妻に促して、正面に座らせる。
 妻は元来、口数の少ない人間だ。このときも、私の態度を不思議に捉えていたが、質問を重ねてこなかった。ただ黙って、私が切り出すのを待っていた。
「単刀直入に言おう」この表現を、少し前に妻が使っていたことを思い出す。「離婚して欲しい」
 妻は目を瞠って、驚きを顔色に帯びさせた。それでも、静かなままだった。
 泣くか、喚くか、笑うか、色々と想像していたけど、妻は取り乱さなかった。それが、私への愛情の度合いを表している。悲しいことに、私たちは互いに愛し合っていなかった。
 もっと悲劇的なのは、愛し合っていない二人の間に生まれた娘だ。彼女は、運命に翻弄された、と言えば聞こえがいいけど、ようするに滑稽なおままごとの悲しい産物なのだ。終わらせるには、お片付けする必要がある。私たち二人にとって、彼女は軽くないお荷物だった。
 だからといって、かわいくないわけじゃなかった。子どもはかわいいものだし、成長も楽しみだ。それは嘘じゃない。でも、そこに愛を確かめる作業はない。義務的な感情に突き動かされたが故だった感が否め切れなくて、娘を大切に思う気持ちを曇らせる。
「渚は――どうするつもりなの?」
 ため息を吐くように、妻が呟いた。離婚に対する抗議は、ないらしい。それに、理由も尋ねてこない。拍子抜けした気もするけど、安心も同時にする。
「お前に譲ろう。……もちろん、養育費は払う」
「いらない」
 そう言うとは思わなかった。
「ど、どうして? やっていけるのか?」
 妻は私を睨む。そんな心配するなら、初めから離婚なんて言い出すな、と言っているようだ。私は気圧されて、口を噤む。
「実家に帰るから、大丈夫。その代わり、これからは私たちに一切、関わらないで」
 妻は淡々と話す。感情的にならず、事実をただ受け入れている。離婚って、こんなものなのか? 全国の離婚経験者に尋ねてみたくなる。間違いなく、私たちの例は少数派だろう。
「じゃあ、もう寝るね。今日は遅いから、明日になってから出て行くわ」
 おやすみ、と同居してから一番冷たい響きでその四文字を呟いた。
 彼女が寝室に消えるまで、私は気付かなかった。自分が今にも泣きそうで、同時に笑いそうな感情を抱いていたことを。こんな変な感情、初めてだ。二度とないだろう。自分の気持ちが自分で判別できないなんて。
 こうして、私たちの夫婦生活は、あっさりと終止符を打たれた。

     *     *

 ……――あれから、十年経った。
 私は涼華と離婚してすぐ、小口と結婚した。小口は安藤真穂に改姓し、会社も辞めた。
 その年に生まれた私たちの子どもは、男の子だった。元基、と名付けられた。渚と違って、残念ながら私に似てしまった。でもそれは、私の子である何よりの証拠だ。
 涼華は、離婚してからどうしているのか知らない。連絡を取るわけにもいかなかった。渚は十七になっているから、もう高校生だ。いい女になっただろうか。そんなことを興味本位で、たまに思う。
 結論から言うと、私は小口――真穂と結婚してよかったと思っている。非難の声も盛んにあったが、彼女との生活は幸福だった。周りは気にせず、二人の愛を確かめる時間を大切にした。

 そんなある日、非通知で携帯に電話がかかってきた。誰だろう? と訝って出ると、若い女の声がした。
「――ビルの屋上に来て下さい」と、会社の近くにある建物の名前を告げる。「時間は午後六時です。来なかったら、そちらのお宅に直接、伺います」
 感情を窺わせない低いトーンで、手短にそう告げた。私が質問する暇を与えず、電話は一方的に切れた。携帯を見つめながら、首を傾げる。
 はて、今の声は誰だろうか? 知り合いだろうか?
 何だか気味が悪かったが、家に来られては困る。浮気相手かと疑われかねない。
 いつもより早く退社して、指定されたビルに向かった。そのビルは、私の会社から歩いてすぐの所だ。今は使用されていないらしく、人が立ち寄るのを見たことがない。
 ますます、気味が悪い。
 使用されていないから、警備員の姿もない。誰にも咎められることなく、中に入っていく。テナント募集のポスターが貼ってあるが、いつからあるのか、風化したそれから推し量れる。
 かび臭い。顔をしかめて、階段を上っていく。エレベーターが動いていれば楽だったろうに、電気すら通っていない。こんな所、夜になる前には出たいものだ。いったい、屋上で何をするのか知らないが。
 屋上に出た。柵がなくて、付近の街並みが広がっていた。
 何歩か進んだところで、あの電話の声がした。
「そのまま進んで」
 振り返ると、思った以上に若い女がいた。Tシャツにジーンズという、シンプルな格好。その彼女の手には――拳銃が握られていた。
「な、何だそれは? 何の真似だ?」
「いいから進んで! 従わないと撃つわよ」
 拳銃が本物か分からないが、とりあえず従って、おずおずと歩を進める。すると、もっと速く、と若い女が急かす。
「のこのこ言いなりになって。よっぽど家に若い女が来て欲しくなかったようね」
 端まで達したとき、彼女が笑いを含ませて、そう言った。
「君は誰だ? どうしてこんなことをする」
 すると、彼女の表情が急変した。怒りを表して、恐ろしい目付きで私を睨む。
「誰かって? もう忘れたの?――呆れた。よっぽど私のことがどうでもよかったのね。私たちよりも、浮気相手のほうを選んだんだものね。当然といえば、当然かもしれないけど」
「ま、まさか」私はようやく気付いた。「渚か?」
「やっと気付いた? そう、あなたの娘よ。あなたがお母さんとともに捨てた」
 改めて、彼女を見る。十七になって、体のラインができている。いい女になった――と、場違いな感想を心の中で漏らす。
「私がこんなことをする理由、もう何となく分かったでしょ? あのときの恨みを晴らすために、殺しに来たのよ」
 殺しに――私は絶句する。私は今から、殺されるのか。そんなバカな。
「お母さんは、あなたのことを愛していたのよ」
 渚が語りだす。涼華が、私を愛していた? 
「なのに、あなたは簡単に切り捨てた。会社の若い女に籠絡されて、そっちを選んだ。男として最悪の行為をした」
「籠絡されたわけじゃ……」
 音とともに、足元を銃弾が掠める。本物だったようだ。つまり、本気で私を殺すつもりなのだ。
「あなたに今さら言い訳する権利はない」
 お母さんは、と渚は話の続きを始める。
「あなたに捨てられたことを悲しんで、実家に戻ってから病床に伏したわ。裁判であなたに賠償金を求めよう、という声もあったけど、お母さんがそれを押し留めた。理由は、あなたを愛していたから」
 私の勘違いをなじっているようだ。事実、私は思い違いをしていた。互いに愛し合っていない、と思っていたけど、そう思うことで涼華を愛することを放棄していたのだ。
 本当に今さらだが、後悔が胸をよぎる。でも、もう遅すぎた。
「そして、別れて一年でお母さんは死んだ。あなたに恨み言の一つも言わずに」
「死んだのか……」
 威嚇しないように、ぼそりと呟く。そうか、もうこの世にはいないのか。
「だけど、私は許せなかった。私たちの気も知らないで、幸せに過ごしているなんて、絶対に許せなかった。――だから、殺すことにした。殺して、お母さんに謝りに行かせることにした」
 渚が、拳銃の銃口を私の顔に向ける。
「でも、私としては将来があるし、人殺しなんてできればしたくない。だけど、あなたを裁かないわけにもいかない。――だから、条件を出してあげる」
「条件?」
「そう」渚は頷く。「せめてもの罪滅ぼしに、自分から命を絶ってくれたら、っていう提案。私が見届けてあげるから、ここから飛び降りて?」
「飛び降りる?」
「そう。自殺者を装って、飛び降りるの。ちゃんと靴を揃えてね。もし断るなら、これで殺してあげる。どっちにしろ、死ぬんだから、死に方ぐらい選ばせてあげる」渚は、微笑む。「優しいでしょ」
 私は不可能だとは分かりながらも、一応、言ってみる。
「……殺さない、というわけにはいかないのか?」
「は? ありえないから。死ぬのは決定事項。あとは、死に方の問題だけ」
 私は、ここで死ぬのか。心残りは、たくさんある。大きなことから、小さなことまで。真穂は――私が死んだら、彼女はどうなる。
「安心して。死ぬのはあなただけ。あの女と息子には何もしないよ。約束する」
 私の心を見透かしたように、渚が言う。
「……じゃあ、飛び降りよう。娘を罪人にするわけにはいかない」
「あんたに娘って言われたくない。吐き気がするから、訂正してくれる?」
「……すまない」謝ったが、何と訂正すればいいのか分からない。
「まあ、いいや。だったら、早くして。私、そろそろ帰りたいし」
 私はまず、靴を脱いだ。揃えて、置く。そして、下を見る。股間がすくむほど、恐ろしい光景が眼下に広がる。ここから飛び降りたら、ひとたまりもないだろう。人通りが少ないから、発見も遅いかもしれない。
「早くして、って言ったでしょ」
 渚の声がすぐ後ろで聞こえたと思ったら、足で押されたようだ。私の体が、空中に投げ出される。そして、後は重力の法則にしたがって、地面へと真っ直ぐに落ちる。
 因果応報。その意味を、身を持って思い知る。

 落ちるさなか、こんな声が屋上の方から聞こえた。
 ――気が済んだかしら?
 その声は、いつも耳にしている声だったから、すぐに誰だか分かった。真穂の声だ。
 幻聴だったのだろうと思う。でも、それにしてもおかしい。どうして、気が済んだか、などと言うのだろう。幻聴の内容を選べるとは思えないが、もっとふさわしいものがあるはずだ。
 まさか――いや、そんなわけはない。ありえない。現実的じゃない。――だって、もしそうだとしたら、――いくらなんでも、遠大すぎる……。

     *     *

 後日談。
 私の死は、渚の思惑通りいかず、自殺として扱われなかった。殺人事件とされた。
 容疑者は、江夏渚。涼華は私と離婚した後、苗字を旧姓に戻していた。
 目撃者は、新橋永吉という男。事件現場を目撃し、「足でビルから落とした瞬間を見た」と証言している。どうしてそのとき、その場にいたのか疑われたが、「本当に偶然なんです。何か、一人になりたくて、たまたま目に付いたビルに足を運んだら、こんなことに……」と説明している。
 彼が誰かと言うと、あの、真穂をストーカーしていた青年だった。
 
 大げさなことではない。社会的に言えば、よくある情のもつれの果てだ。
 ただ、醜い一つの命が絶えただけ。その血を継いだ一人の少女が負わなくてもよかった罪を一つ、背負っただけ――。

幼い瞳

幼い瞳

結婚してから他の誰かを好きになってもいいはずなのに、「浮気」や「不倫」といった負のレッテルを貼られ、社会的に非難を浴びてしまう。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-11

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