愛を暗黒に沈めて

 傍点ルビを使いたかったのですが、当サイトでは使えないため、苦肉の策としてダブルクォーテーション(“ ”)で括っています。お見苦しい方法で恐縮ですが、その部分は傍点が振られているものとして読んでいただけたらと思います。

 はい、全てをお話しいたします、刑事さん。わたしは罪を犯しました。わたしは極悪人です。非道い女です。吐き気を催すような、最低の人間です。生きていてはいけない人間なのです。
 わたしは、子どもを殺しました。
 ええ、長くなりますが、最初から全てをお話しいたします。
 ですがその前に刑事さん、ご両親はご健在でいらっしゃいますか。
 いえ、違うのです。やくざ者がやるような、けちな脅しではございません。単に、わたしの興味からお聞きしたのです。
 そうですか、それはとても、幸せな子ども時代をお過ごしになられたのですね。
 ああ、ああ、どうか。どうか、お怒りにならないでください。どうか、お気を悪くなさらないでください。つまらない、くだらないことを言いました。ただ、少しばかり妬ましかったのです。父が幼くして亡くなり、母も大学生の時分に亡くしたという刑事さんの身の上が、わたしの眼には朝の太陽のように眩いものに映るのでございます。
 ひとつ、つまらない昔話をさせていただきます。はい、私の身の上話でございます。
 私の父は、小さな木工工場の社長でした。その父の価値観は周囲の者より幾分古風なもので、それはつまり、妻たるもの、夫に尽くし、家を守り、子を育てるべしというものだったのです。母は、その父の価値観によく従い、わたしをほとんど一人きりで育てておりました。母はそこそこ裕福な家で育ちましたが、父と結婚する際、大恋愛の末、家を捨てたと聞いております。そのため、わたしを育てるにあたって、誰の助けも借りることが出来ず、大変な苦労をしたそうです。というのも、父は、その価値観通り育児という者にとんと興味が無く、わたしのことを母にまかせっきりにしておいたからです。父は、それが父というものなのだと思っておりました。とはいえ、わたしにとっては優しい父ではありました。
 今でも覚えています。庭のなんでもない陽だまりに咲いた、名前も分からぬ小さな花に、愛おしそうに水をやる母を見るのが好きでした。駆けまわるわたしを大きな両手で捕まえて、笑いながら抱き上げてくれる父が好きでした。わたしと、父と、母を、祝福するように降り注ぐ、明るい太陽が大好きでした。
 ですが、いつからでしょうか、夏が去って冬が来るように、わたしの幸福はわたしの前から逃げ去っていったのです。
 父は、酒に酔って母を殴りつけるようになりました。父母ときいてわたしが真っ先に思い返す光景といえば、深夜、郵便ポストのように顔を真っ赤にした父が、泣いている母の髪を掴んで、その顔を思い切り殴りつけている光景なのです。わたしの足元に母の折れた歯が転がってくるところを、今でもはっきりと覚えています。
 酷い夫だ別れてしまえと思われるのでしょうが、酒を飲まない時は小心者で、いつも優しい父でありました。酒が抜けると決まって、わるかったね、わるかったね、おまえ、と、母とわたしに泣きながら詫びるのでございます。母もそれを見ると、思わず許してしまうのが常でございました。
 父がなぜ酒に溺れたのかといいますと、折からの不況で工場の経営が悪化したから、ということでした。生活は次第にみすぼらしくなっていき、工場が銀行の貸し渋りで倒産してからは、もっとみすぼらしくなりました。最初に、母の食事が少なくなりました。次に父の食事が少なくなり、いよいよわたしの食事が少なくなったころ、母が、働きに出ようかと父に提案をしました。
 母は、裕福な家庭で育ちました。父と結婚するまでも、結婚してからも、働いたことは一度たりともありませんでした。そんな母が自ら働きに出ようかと提案したのですから、それは大変な決心であったと思います。
 しかし、その言葉を聞いた父は怒り狂いました。父の価値観は幾分古風なものでした。その価値観とは、夫たるもの子を守り、妻を養い、働きに出させることなど決してあってはならないというものでもありました。そして、父はその時酒に酔っていたのです。
 父は、母を何度も何度も殴りつけ、二度とそんな事を言うなと怒鳴りました。母の顔は風船のように腫れ上がり、手足は観用魚のように青く染まりました。
 次の日すっかり酔いの冷めた父は、さめざめと泣く母を後目に、仕事を探してくる、とだけ呟いて出かけていきました。その日、父が家に帰ることはありませんでした。次の日も、また次の日も、帰ることはありませんでした。そして、父が出かけてから数えて四日、がらんどうになった工場で、腐った石榴のようになった父が見つかりました。父は、自ら首を吊ることで、自分の価値観と折り合いをつけたのでございます。
 葬儀の折、まっくらな服に身を包んだ母は、これからは二人で生きていくのだから、いろいろと我慢しなくてはいけないよ、と、思いつめた顔でわたしにいいました。わたしは夕暮れにカアカア鳴く鴉を見つめ、母にわかった、とだけ告げたのございます。
 それからしばらくして、わたしと母は前に住んでいたところと比べると、ごく小さく慎ましい住まいへと越しました。無理からぬことだったとは思います。母はとうに実家を捨てておりましたし、転がり込めるような相手も多くはなかったのですから。母は、慎ましい住まいと、わたしの暮らしを維持するために、額に汗して働くようになりました。
 刑事さん、あなたにはお子さんはいらっしゃいますか。
 そうですか、娘さんがひとり。では、お聞きしたいのですが、刑事さんは、お子さんを憎いと思われますか。刑事さんは、お子さんを殴りたいとは思いますか。殺してやりたいとは、思いますか。
 どうか、そのように、怒らないでください。違うのです。どうか、わたしのことを狂っているなどと、思わないでください。いえ、確かに、わたしは狂っているのかもしれません。ですが、好きで狂ったわけではないのです。狂うにも、狂うなりの理由があったのです。はい、お話しいたします。わたしは話すためにここにいるのです。
 わたしと母が、新しい家で新しい暮らしを始めてしばらくたった、その日のことです。わたしは風呂に入っておりました。最近は風呂場というものも進歩著しいようですが、新しい家の風呂場は少々古い型のものでございました。幼い私は、いまひとつその使い方が分からず、困惑しておりました。温度の上がり下がりするシャワーに苦戦しながら、ようやく体を洗い終えたころ、風呂場に入ってから、もう30分ほども経っていたでしょうか。外からいかめしい足音が響き、突然、風呂場の扉が開け放たれたのです。そこには母が、憤怒の表情で立っておりました。わたしが呆然としていると、母は、だしぬけにわたしの顔を平手で張りました。頬が熱くなり、唇の端から、ぽたぽたと血が落ちました。わたしはなにをされたのか理解できず、わんわんと泣き始めました。すると、母は、やかましい、と怒鳴り、もう一度、わたしの顔を思い切り張りました。そこからは、よく覚えておりません。ただ、朧げに、吹き飛ばされて風呂窯に激突したことを覚えています。
 目覚めると、母の膝の上でした。わたしは、長風呂が原因で殴られたのだと母に聞かされました。暮らし向きは苦しいのだから、風呂の湯だって節約しなくてはいけないよ、と言われました。わたしが自分の顔に手をやると、唇が奇妙な形に腫れ上がっているのが分かりました。わたしが口の中を舌で探ると、前歯が二本、なくなっているのが分かりました。
 母は、わたしの腫れた顔を優しく撫でると、ごめんねえ、ごめんねえと涙をこぼしました。私は、母が可哀想なひとなのだと知っていましたし、なにより母を愛しておりました。母のその涙を見ると、恐ろしかったのを忘れ、母への愛をしっかりと感じることができたのです。
 それから母は、何かとささいな理由で、わたしに折檻を加えるようになりました。ある時は、夜更かしだからという理由でした。ある時は、目覚ましがうるさいからという理由でした。ある時は、テレビの音量が大きいからという理由でした。本当にひどいときは、目つきが気に食わないからという理由で折檻されたこともありました。わたしは、全身に傷と痣を作り、一年中長袖の服を着せられるようになりました。母は、そんなわたしに泣きながら詫びて、言いつけを聞かないからだと言いました。
 わたしは、怒鳴る母を嫌っていました。わたしは、殴る母を憎んでいました。ですが、それ以上に優しい母を愛しておりました。なので、少々のことは我慢しようと思ったのです。ただ、ひたすらに母の逆鱗に触れぬよう努め、じっと声を殺して、心を殺して我慢しようと決めたのです。ですから、灰皿で殴られても我慢しましたし、煙草の火を押し付けられても我慢しました。わたしのお腹にアイロンを押し付ける母にも、何も言わずに堪えました。母を愛していたからです。
 つらい日々でしたが、わたしは何年もの間、耐えて、耐えて、耐え抜きました。ですが、ある時、母の暴力は突然終わりを告げました。ある時、わたしが小学校で、身体についた傷跡を、見られてしまったからです。
小学校の先生は、善人でありました。善人でありましたので、わたしの都合を斟酌することもなく、その良心にしたがって行動したのでございます。そして、母はわたしの母である権利を奪われました。わたしひとりが、宙ぶらりんになったのです。
 わたしは結局、わたしと似たような子供が集まる施設へ入ることになりました。施設というところに行くと、職員の方が、女の職員を母と、男の職員を父と、仲間を兄弟姉妹と、施設をわたしの家と思うようにと、わたしに言いました。笑ってしまうような話ですが、確かにそこはわたしの家だったのです。つまり、その家とは、この間まで住んでいた家とさして変わりなかったという意味でございます。
 わたしの新しい母名乗った女の職員は、わたしをひどくぶちました。わたしの新しい父を名乗った男の職員は、夜、わたしのベットへと忍びこむようになりました。兄弟姉妹は、新入りのわたしを、いじめて、いじめて、いじめぬきました。そうしたものが、わたしのあたらしい家と、家族でした。
 施設での生活は、暗く、つらいものでしたが、なんとか耐えることができました。母が、ときたま思い出したように施設に訪れることがあったからです。母に決まって泣きながらわたしに詫びると、わたしを愛していると言って帰るのです。
 母が泣きながらわたしに詫び、愛を伝える姿を見ると、わたしは、ああ、ああ、わたしこそ、あなたがわたしを愛するように、あなたを愛しているのだという気持ちになるのです。あれほど恐ろしかった母が、とても愛しく思えてしまうのです。いままでも、これからも、私はずっと母を愛しているのだという気持ちになるのです。
 それから十数年経って、高校――といいましても、本当に、大した事の無いものでありましたが――を卒業し、施設を出ることに相成りました。それはもう、わたしにとって大変に喜ばしいものでありましたが、同時に大変な労苦を予感させるものでもありました。社会人というものは、自分で食い扶持を稼ぐものなのだと、されております。ですが、わたしには稼ぐ術というものがとんと分かりませんでした。アルバイトなど、しようと思ったこともあるのです。
 しかし、ほとんどの場所で門前払い、ようやく受け入れられた場では、とても暮らしていける稼ぎなど得られませんでした。食うや食わずの毎日が続きました。あの人に出会ったのは、そんな時でした。
 優しい、人でした。暖かい、人でした。彼は、仕事を追われ、街をうろつく私に暖かい食事を振る舞い、優しい言葉を投げかけ、わたしの手を握って、愛していると囁きました。最初こそ戸惑いはしたものの、わたしもすぐに彼のことが好きになりました。
 なにもお言いにならないでください。わかっているのです。わかっていたのです。彼がその本性を、優しさで隠してわたしに近付いたことは、本当は、わかっていたのです。ですが、それでもどうしようもありませんでした。どうしようもないことだったのです。だからどうか、なにもお言いにならないでください。
 わたしは彼の紹介で、あるマンションに移り住みました。そのマンションはわたしが以前に住んでいた場所とは比べるべくもないもので、部屋が3つもあり、綺麗なキッチンとバスルームが備え付けられておりました。そして、隣近所には、わたしと同じような、若い女の人が大勢住んでおりました。そのマンションは、さる店の経営者が所有している店であり、そこで働く女性はただで住んでも許されるのだと、彼に説明されました。わたしは店で働いているわけではないが、特別にただで住むことが許されるのだ、とも説明されました。今思えば、こんな馬鹿な話はありませんでした。
 ただで住むことが許されたのは、最初の3か月だけで、突然、彼に家賃を支払うように言い出されたのです。彼は、さる経営者に、ただで住まわせているのがばれたので、これまでの家賃を支払うか、店で働いてもらうしかないと、わたしに告げました。求められた金額は、わたしにとって、到底払えるものではありませんでした。自分の顔を立てて欲しいという彼の願いもあって、わたしは店で働くことに――ホステスとして働くことになりました。
 わたしがホステスとして働き始めてからも、彼との関係は、ずっと続いていました。ひと月たってまたひと月し、当然のことといいますか、わたしは彼との子どもらを身ごもりました。子どもらというのは、病院へ行くと、双子であることがわかったからでございます。わたしは、彼らが授かりものであると喜びましたが、彼は同じ考えではありませんでした。
 彼は、子どもを殺すよう、執拗に言い続けました。認めるわけにはいけませんでした。なぜ、そのような残酷なことを言い出すのかと、わたしは悲しくなりました。わたしは、わたしのお腹を蹴る子を、わたしのお腹を蹴る彼から、必死に守りました。執拗に執拗に迫る彼を、断固として拒絶しました。すると、いつからか、彼はわたしの家に寄り付かなくなり、わたしのお腹が十分に大きくなったそのころ、彼は完全に行方が知れなくなっておりました。そして、わたしは、一人きりであの子たちを産んだのでございます。
 子どもが産まれてから、わたしの生活は目まぐるしいものになりました。昼となく夜となく泣く子を宥め、乳をやり、下を替えてやりながら、別の時間に、ホステスとして働いておりました。仕事の間、子どもたちを世話することはできませんでした。酷い話、酷い母親とお思いになるかもしれませんが、それより他になかったのです。子どもたちを産むために休んだ間の家賃は、店が立て替えるということになっておりましたので、それを返すためにも、仕事を休むわけにはいけませんでした。
 とはいえ、どうしても、本当に仕事を休もうかと思うことが、何度もございました。しかし、そう思うころには、店から車でやってきたボーイたちに、家賃の為に先借りしたお金について、懇々と諭され、泣く泣く仕事へ行くことになるのでありました、
 つらい、毎日でありました。疲れから、仕事の際に気が遠くなったことも一度や二度ではありませんでした。そしてついに店から家への路で倒れてから、保育所なるものに子どもたちを預けることを考えました。
 保育所というものは、中々入れないものであるということは、一応わかっておりました。ですが、それでもほうぼう探せば、一件くらいは面倒を見てくれるはずだとも思い、預かってくれる保育所を探すことにしたのです。
 そして、わたしの考えが誤りだということを知らされたのでございます。
 預かってくれる保育所などというものは、一件たりともありませんでした。いえ、あったのにはあったのです。しかし、そうした場所は、わたしには到底払いきれない額の対価を掲げておりました。そして、わたしにでも払えるだろうかという保育所では、きまってもう満員だからと断れてしまいました。
 そうした保育所で断られる際、何かしらの助言や、励ましを頂戴するのがお定まりでございました。ある保育所では、預けなくてもきっと大丈夫であると言われました。またある保育所では、わたしの努力が足りないのだと諭されました。またある保育所では、母親なのだから、死ぬ気になれば、なんでもできるのと諭されました。母親とは、子のためならば、なんでもできるのだと、諭されました。愛情とはそういうものだと諭されました。
 わたしは、彼らが言うのならば、きっとそうなのであろうと思いました。わたしが仕事中に気が遠くなって倒れるのも、夜中、急に不安になって涙がこぼれるのも、ときたま、目の前が無性にちかちか輝いてみえるのも、あの子が妙な咳をして、日に日に細くなっていくのも、それはわたしの努力が足りないゆえであり、母親であれば、愛情があれば、それらは全て克服できるのだと信じ込むことにしたのです。
 だから、刑事さん、わたしのせいなのです。ひとえに、わたしの愛が、努力が、足りないからなのでございます。わたしがよき母ではないから、あの子たちが死んでしまったのでございます。わたしが、殺してしまったのでございます。許してください、いえ、いえ、許してはなりません。許してはいけない、決して許してはいけないのです。
はい、はい………わかりました、ええ、もう大丈夫です。お見苦しいところをお見せしました。はい。話を続けます。
 夏の日でありました。わたしはいつも通り部屋に冷房を効かせておいて、あの子たちに、決して部屋から出てはいけないよと申しつけて、仕事へと出かけました。
 いつも通りにお酒を飲んで、いつも通りにお客をもてなし、いつも通りに部屋戻ったころ――冷房の効いた部屋の中、あの子は息をしなくなっておりました。
 悲しくはありませんでした。ただ、恐ろしく思いました。頭がぼうっとして、なにがなにやら、分からなくなりました。わたしが気が付くと、部屋から出て、ふらふらと街を彷徨っておりました。
 なにがいけなかったのか、そればかり考えました。何度も、何度も考えました。そして考えるたび、わたしが至らないからなのだという答えに辿りつきました。目の前がちかちかと光り、街のネオンと、人びとのざわめきが、わたしの心をぐずぐずに溶かしていくような感覚に包まれました。わたしは、ぼんやりしたまま半日かけて、わたしの故郷――かつてわたしが幸せだった場所、母と父と私が三人で暮らした、家と呼んだ場所へと向かいました。
 その場所には、ぴかぴかとひかるパチンコ店が一軒、ぽつりと建っておりました。母が花を育て、父がわたしを抱き上げ、わたしが燦々として陽の光を浴びた場所は、みんな、みんな、コンクリートに覆われた駐車場になっておりました。変わりないはずの太陽ですら、なにか、どす明るい調子で、わたしが知るそれと違うもののように感じられました。
 あとは、刑事さんが知る通りでございます。
 マンションに戻ると、大勢の刑事さんたちが、わたしを待っており、お縄を頂戴することになったのでございます。
 刑事さん、わたしは子どもを殺しました。極悪人です。生きるに値しない人間です。死刑がちょうど相場の人間でしょう。
 わたしは人を愛しました。父を愛し、母を愛し、彼を愛しました。同じように、あの子たちを愛しました。そして、父は死に、母は別れ、彼は去り、挙句にあの子はわたしの手で殺されてしまいました。
 刑事さん、わたしは愛してはいけない人間なのです。歪んだ、誤った人間なのです。生まれない方が、いっそ良かった。
 わたしはこれからも彼らを愛し、また人を愛し続けるでしょう。きっと、生きる限りに愛することをやめられないでしょう。
 だから、刑事さん、わたしは死刑が相場なのでございます。

「お疲れ様です」
 調書を取り終え、疲れと共に身をデスクへと沈めた大槻に、新人の伊藤が湯気の立つコーヒーを差し出した。
「ありがとう」
 コーヒーを受け取ると、一口すする。安っぽい苦みと熱さが、疲れをほぐしていくようだった。ふた口目をすすりながらファイルに綴じた調書をぱらぱらと眺める。
「てめえの子どもを殺しといて、愛してるとはどういう了見なんですかね」
 横から調書を覗き込んだ伊藤が、やや怒りの籠った口調でそう言った。だが、大槻には伊藤の怒りが真剣な心からの怒りというわけではなく、怒ろうと試みた結果のように思えた。
「そうだな」
 まともに返事をする気力も、伊藤の怒りの正体を突き止める気力もない大槻は、調書から視線を外さないまま、ぶっきらぼうにそう答えた。
「それより、子どもの方はどうなんだ」
「ホトケですか」
 言いながら、伊藤が胸ポケットから手帳を取り出し、ぱらぱらとめくる。
「いや、保護された子の方だ」
「衰弱しているものの、幸い命に別状はないとのことです。あと少し遅けりゃ危なかったみたいですが」
 栄養失調と、熱中症――母親が旧家の跡地から戻るまでには、少し間があった。近隣の住人が、放置された便の臭いに気づいて通報しなければ、死者がひとり増えているところだった。
「子どもは、なにか言っているか」
 伊藤が沈黙した。怪訝に思った大槻は、書類から視線を上げて伊藤を見た。そこで大槻は、伊藤が怒ることに努力を要している理由を察した。
「………母親に、あいたいと」
 黙していた伊藤が、ぼそりとそう呟いた。
 無力感、徒労感、やってられないという気持ち(、、、、、、、、、、、、、)――それらと怒りを整理できない戸惑いが、伊藤の顔に浮かんでいた。かつて若いころ、大槻自身も感じていた戸惑いだった。伊藤は、怒ることが正しいと思いこもうとしているようだった。実際、大槻にもその怒りは正しいもの(、、、、、、)と思われた。
 大槻はコーヒーを啜ると、また書類へと視線を落とした。
「他は」
「母親を、あいしていると」
 伊藤は今度こそ口調に戸惑いを隠さずに言った。
 大槻は黙したままファイルを閉じ、天井を仰ぐと、目を閉じてゆっくりと息をついた。
「そうか」
 静かにそう言うと、椅子を回して窓の方へ向き、安物のコーヒーを飲み干した。無力感、徒労感、やってられないという気持ち(、、、、、、、、、、、、、)――コーヒーはとうに冷め切って、苦みと酸味ばかりが、大槻の口中に満ちていた。

愛を暗黒に沈めて

愛を暗黒に沈めて

女は、刑事に言った。「わたしは極悪人です」。自らを生きる値しないとするその女は、自らの罪と半生について語り始める。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-08

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