南天流星夜想曲

 はじめに

2010年から翌年にかけて書いた2作目の長編小説です。
数ヵ月かけて完成させた直後に、東日本大震災が起こり、現実の凄まじさに打ちのめされ、そのまま一度お蔵入りとしていました。
今回、もう一度手直しをして、改めての公開となりました。

序章にあたる「夜空から降りてくる男の子」は、ちょうど100年前(1911年)に刊行されたジェームズ・バリの「ピーター・パンとウェンディ」へのオマージュとしても仕上げました。

序章、第1章、第2章、第3章、第4章、そして終章。
少々長い話ですが、よろしくお願いいたします。

序章

   序章  夜空から降りてくる男の子

 コツコツと窓硝子をたたく音が聞こえる。
 ベッドのシーツにぐるんと包まりながら、わたしはぼんやりと思った。
 ――ああ、またあの子かしら。
 しかし、何せまだ真夜中だ。好奇心よりも睡魔のほうが勝ってしまう。わたしは眠気に屈して再び目を閉じた。すると、また――。
 コンコンコン……。今度は先ほどより、やや大きな音。
 ――ん?
 わたしは寝ぼけ眼をこすりながら、蚊帳ごしに窓のほうへ目をやった。薄いレースのカーテンの向こうで、すっと影が動く気配がする。
 ――やっぱり、あの男の子ね。また来てくれたんだ。
 わたしは、ようやく起き上がり、視線を巡らせた。妹のソフィーは隣りのベットでぐっすりと眠っている。
 窓の外はまだ暗かった。柱にかけられた時計を目を凝らして見ると針は午前二時半を指している。
 わたしはベッドを離れ、窓辺へ近づいた。そして、カーテンをめくり、少しだけ開いている両開き窓を開け放った。とたんにひんやりとした風が忍び込み室内を満たしてゆく。それは熱帯の夜特有のみずみずしい緑の香りを含んだ空気だった。
 そしてカエルたちの大合唱。
 特に雨季のそれはゲコゲコというようなのどかで生やさしいものではなく、奔流のうねりのように凄まじい。
 故郷のフランスでは、これほどのカエルの声を聞いたことがなかったのでわたしも最初は驚いたものだった。しかし、今ではすっかり耳がなじんでしまい、それほど気にならなくなっている。
 わたしの住む家があるのは、サイゴン郊外のこじんまりした公園のような森の中。フレンチ・コロニアル・スタイルの洋館だ。
 森の中は西欧風の家並みが続くフランス人居留区となっており、我が家以外にも、いくつかの邸宅が並んでいる。
 森の南側はすぐにサイゴンの市街へと続いているけれど、北の方は人家もまばらで平らな水田が連なる田舎ふうの風景が広がっていた。
 わたしと妹が共同で使う子供部屋は二階にあった。大窓の外には、ごく小さなバルコニーが付いている。もちろん、バルコニーの周囲の壁面には、人が容易に上って来られるような出っ張りや突起はまったくない。それでも不思議な少年は平気でやってくる。そして窓硝子をコツコツとたたく。
「ねぇ、どこ?」
 わたしはバルコニーに体を出し、周囲を見た。
「どこにいるの?」
「ここだよ、エマ」
 少年は屋根の上からヒョイと顔を出した。
 どこまでも透きとおるように青い瞳。海の底を思わせるような深いブルー。暗闇の中でも、なぜかその色はわかる。現地の子ではなく、明らかに西洋人の顔をしている。年齢は十二歳になるか、ならないくらいだろう。わたしとほぼ同じくらいに見える。
 少年は軽々と、空中へ身を躍らせた。身体は落下せず、逆にスイスイと上空へ吸い上げられてゆく。
「さあ、おいでよ」
 彼は振り返った。「この間、教えてあげた通りにすれば大丈夫だからさ。また、夜の街を一緒に空中散歩しようよ」
「ええ。ちょっと待って」
 わたしは、先日教わった手順を、慌てて思い出した。
 まず、空を飛べるんだって自分を思いこませる。
 そして、まるでそこにステップがあるかのように空中を一段一段、慎重に上がる。
 数段上がればあとは簡単。そのままスルスルッと登ってゆくだけ――。
 さすがに、いきなりバルコニーで試すのは怖いので、部屋の中でやってみた。さあ、わたしは飛べるのよ。身体がフワリと浮かぶのよ。
 でも――、そんなにうまくはゆかない。ステップを上がるどころか、その場で足踏みを繰り返すだけ。
「はっはっはっは」少年が大窓からのぞき込んで笑っている。「おやおや、もう、やり方を忘れちゃったのかい?」
「失礼ね。待ってなさいよ、すぐに飛ぶから」
 わたしはムッとして言い返し、執拗に足踏みを繰り返した。その物音に、ソフィーが目を覚まし、あくびをしながら起き上がる。
「ねぇ、お姉ちゃんったら。いったい何してるの?」
 少年があわてて窓の外に身を隠す。
「ちょっと、ダンスの練習をしてるだけよ。あなたは気にしないで寝てなさい」
 わたしは適当なことを言ってごまかした。
「えっ、ダンスの練習?」ソフィーは一瞬、怪訝な表情を浮かべた。しかし、すぐに睡魔が彼女の意識をぼんやりとさせはじめたらしい。「こんな夜中に? ふうん、そう……」
 何となく納得してしまったのか、どうなのだか……、とにかく妹は幸せそうな寝顔で再びムニャムニャと眠りの世界へと戻っていった。
 少年が再び窓辺に顔を出して、フゥーとため息をついた。
「あぶない、あぶない。てっきり、見つかっちゃったと思ったよ」
「大丈夫。この子はネボスケだから、そう簡単にはシャキンと目覚めないわ。ほら、もう、ぐっすり眠っている」
 わたしは妹のほっぺたをつっついて笑った。それから急いで大まじめな表情に戻り、少年を見つめなおした。「もう少し待ってなさいよ。すぐに、うまくいくから」
 わたしは深呼吸をして、もう一度、同じ手順を繰り返した。
 飛べるんだって、自分を信じ込ませて、ステップを上がるように一段一段慎重に――。
 よし!
 今度は成功だ。わたしの身体は、床から一メートルばかり上を歩いている。
「ほら、ほら、浮いたわ。見てよ」
「そうそう、その感じだ」
 少年が手をさしだした。「そのまま外へ出てごらんよ」
 わたしは少年の手をギュッと握り、おそるおそる大窓の外へ足を差し出した。 
 空を飛んだのは初めてではない。今度で二度めだ。でも、窓から飛び出す瞬間は、やはりドキドキする。
 もし落ちちゃったらどうしよう。大ケガして痛いだろうなぁ。頭を打ったらケガぐらいで済まないかも……。
 不安が頭をよぎる。
 そんなわたしの心を見透かすように、少年が脇に寄り添い、そっと声をかけてくれた。
「大丈夫。うまく飛べてるよ。そのまま、自分を信じて――」
 わたしはうなずき、空を見上げた。
 ああ、今夜もなんてすごい夜空なんだろう。
 もっとも、わたしは星図にそれほど詳しいってわけじゃない。どこにどんな星座があるのかなんて、ほとんどわからない。有名なものをいくつか知っているだけ。
 でも、その星々の圧倒的な密度に自ずと心がたかぶるのを自覚した。すると、不安もすぐに吹き飛んだ。
 さあ早く、この星空のもとへ飛び出そう。
「うまいじゃないか。この前よりも、ずっと上手だ」
 少年がほめてくれる。わたしはいい気分になって、宙返りを試みた。
 クルリ!
 家の前の大きな鳳凰木が逆さまにデングリ返って、また元に戻る。
「ああ、愉快な気分だわ」わたしは思わず声をあげた。
「さあ、こっちだよ。水田の上をぐるっと一回りしてから、町の方へと行ってみよう」
 少年はウキウキとした様子で、わたしを先導する。
 体は空の上をスルスルッと進んでゆく。
 けっして空中をフワフワ浮遊しているという感じではない。氷みたくなめらかな表面の上を滑走しているというほうが実感に近い。
 フランス人たちが暮らす居留地の森を瞬く間に抜けだすと、眼下には水田がどこまでも広がっていた。地中から湧きあがるようなカエルや虫の鳴き声で満ちあふれていた。
 農家の集落がそこかしこに点在している。水田の間には、縦横に運河のような水路が巡らされていた。流れの上に半分せり出すようにして建てられた民家もたくさん見える。
 岸辺には小船がいくつも係留されている。よく目をこらすと小船の上で寝そべっている人も見えた。ゆらゆらと小船に揺られて、星空の下で眠るのは気持ちいいだろうなと思った。 
 ――でも、あんなところで寝ていて蚊には刺されないのかしら。わたしだったら、あっという間に刺された跡で真っ赤に腫れ上がってしまいそう。もしかすると、現地の人たちには西洋人が知らない秘密の蚊避け対策法でもあるのかしら。
 夕暮れ時に激しいスコールの降った後の夜は快適だった。雨季特有の蒸し風呂のような湿気がかなり緩む。しかし、日が昇ると、またうだるような蒸し暑さが戻ってくるのだろう。東南アジアの湿度は、フランスで育ったわたしにはやはり苦手だった。
 少年は、時々、わたしのほうを振り返りながら、「ホントに上達したなぁ」と繰り返した。そして、「さあ、今度は町の方へと向かうからね」と言った。
 この男の子はどこからやってくるんだろう、とわたしは彼の後ろ姿を見ながら思う。
 普段はどこでどうやって暮らしているんだろう。
 一緒に暮らす人はいるんだろうか。
 もしかして一人ぼっちなんだろうか。
 だから、わたしと一緒に空中散歩するのが、こんなに楽しそうなんだろうか。

         ※

 少年の向かう先にサイゴン市街のシルエットが浮かびあがってきた。
 街明かりがみるみる近づいてくる。やはり空を越えてくるととても早い。遙か先に見えていた建物にもあっという間に近づき、通り過ぎてしまう。自動車や人力車よりもずっと早い。 
「どうだい? 気持ちいいだろう」
 少年が、また振り返って笑う。わたしは黙ってうなずく。
 やがて市街中心部の上空へとやってきた。
 狭い街路が縦横に絡み合い、両隣とぴったり壁面をくっつけあった家々がびっしりとひしめきあっている。サイゴンには濃い橙色の屋根を持つ家が多いけれど、その輝くような色も夜は闇の底に沈んでいる。
 広い通り沿いには、西洋風の大きくて高い建築が並んでいる。道の脇には街路樹のタマリンドが整然と植えられていた。
 少年が「こっち、こっち」と指し示しながら進路を変えた。
 一際目立つ聖マリア大聖堂の尖塔の前で左に大きく旋回をして、その先にある中央郵便局のなだらかな三角屋根の上に着地した。
 眼下に開けた広場の真ん中には石造のアドラン司教像が立っており、真夜中だというのに多くの人々が、その周囲に腰掛けて休んでいた。広場の先からは、サイゴン川に向かってメインストリートのドンコイ通りがまっすぐに伸びている。
「もう少し向こうまで行ってみようか」
 少年はそう言うや、ルネッサンス様式の豪華な市庁舎に向って飛びはじめた。
「待ってよ」わたしもあわてて追いかけてゆく。
 二人の目の前を黒くて小さな生き物たちが縦横無尽に舞っていた。
「あら、こんな時間にも鳥がいるのかしら?」
「いいや、コウモリの群れさ。街の明かりに集まる虫を追いかけてるんだろう」
「えっ、コウモリ」
 わたしは、とたんに気味が悪くなり、黒い動物たちの群れから遠ざかった。
「大丈夫だよ。コウモリは人には何も悪さをしないから」
「血を吸ったりしない?」
「はっはっは」少年は大笑いした。「まさか、吸血鬼じゃあるまいし」
 わたしたちは市庁舎の尖がった塔の周りをグルグルッと二廻りしてから、瀟洒なコンチネンタルホテル、そして重厚な市民劇場のほうへと向った。
「ここでひと休みしようか」
 少年は、市民劇場正面の大きなアーチの上に着地した。そこには二体の白亜の天使像があった。少年とわたしは天使たちと並んでアーチ屋根の上に腰掛けた。
 サイゴン川の方面から吹いてくる夜風が頬に涼しい。
 わたしは夜の街を見下ろした。
 辺りは、サイゴンでも最も華やかな場所だ。とはいえども、さすがにこの時間は街も眠っている。
 ただ、あちこちの軒下や街路樹の下で多くの人びとがうずくまったり、寝そべったりして休んでいた。家を持たない人たちが街路にはあふれていた。人びとは一様にうつむき加減の姿勢だった。空を見上げる人は誰もいない。建物のてっぺんで天使と一緒に腰掛けている二人に気づく人もいない。
 時計台を見ると、針が午前三時半の少し前を指している。少年がわたしの方を見た。
「さて、そろそろ川べりをまわって、家へ戻ろうか」
「うん」
 川岸の船着場では、もう明朝の船出に備えて人々が忙しく働いていた。ここでも、みんな忙しすぎるのか、空を見上げない。空中にいる二人に誰一人として気づかない。
 わたしたちは川上へ向って、ゆっくりと飛び始めた。闇と静けさに包まれた真夜中の川面は、巨大で得体の知れない生き物がじっと息をひそめている姿のように見えた。
「ねぇ」わたしは少年に言った。「そろそろ教えてくれてもいいんじゃない」
「えっ、なにを?」
「とぼけちゃって。この前もあなたの名前を聞いたじゃない。それから、どこから来たのかってことも」
 ふふふっ、彼は軽く笑ってから言った。「それは内緒」
「なぜ?」
「ボクは夜にしか存在しないのさ。だから、どこから来たかなんて説明のしようがない。ボクは『誰でもない』のさ」
「誰でもない……」
 この言葉、どこかで聞いたような気がする。
「どうしたの?」急に黙りこんだわたしが気になるのか、少年がたずねる。
「ううん、なんでもない」
 わたしは頭を振った。「それにしても夜にしか存在しないなんて、ヘンなの」
 少年は大きな声で笑った。
「ほんとだね。ヘンだよね」
 川の流れから左へ大きくそれて、溜め池の点在する平野にさしかかった。この先に小高い丘と森があり、わたしの家もある。
 水田や水路の上には早くも朝もやが立ちはじめていた。
「さあ、急ごう。のんびりとしているうちに、もう四時を過ぎちゃったかもしれない」
 少年はわたしをうながした。「あと少しで日の出になってしまう。それまでにボクは帰らなくちゃならない」
 家に戻ると、二階のバルコニーの扉は、出てきた時のまま開け放されていた。
 そっと中をのぞいた。ソフィーが蚊帳に覆われたベッドの中でスヤスヤと眠っている。わたしは物音をしのばせながら静かに室内に戻った。
 振り返ると、バルコニーに少年がまだいた。
「ありがとう、楽しかったわ」
「ボクもだよ」少年は、少しモジモジしてから続けた。「あの……、エマ」
「どうしたの」
「また来てもいいかな?」
 わたしはにっこり微笑んだ。「もちろんよ。待ってるわ」
 少年は、笑って手を振った。
 そして、そのまま星空へ高く高くのぼっていった。
 わたしも手を振りかえしたが、すぐに彼の姿は闇の中に見えなくなった。
「夜空から降りてくる男の子か……」
 わたしは静かにつぶやいた。
「おやすみ。夜空の男の子」
 そして、もう一度ベッドに入り、すぐに眠りの世界へ落ちていった。

第一章

 第一章

       一 フォンテーヌ商会の大騒動

 わたしはインドシナからフランスへ戻る船の中で、このとりとめのない文章を書いている。
この数年間でわたしの見たこと、体験したことを、今書きとめておきたい、そういう思いがこみ上げてきて、どうにもおさえきれないのだ。
 頭を上げると、デッキの向こうに見えるのは、果てしなく広がる海と空。
 六年前、まだ幼かったわたしは、未知の世界に胸を膨らませて、この海を逆の方向――東へ向かって航海する船に乗っていた。

 わたしがインドシナへ向かうことになったのは、本当の偶然、運命のいたずらのようなものだと思う。ピエールさんが健在だったら、わたしの家族は、ずっとル・アーブルで生活を続けていたはずだ。
 ピエールさんというのは、お父さんの伯父にあたる人。わたしからみれば大伯父ということになるんだろう。そして、フォンテーヌ商会の創業者。
 もともとお父さん(ミシェルって名前)はフランス東北部のロレーヌ地方で生まれ育った。
ロレーヌっていうところは、一八七〇年の戦争でドイツに奪い取られたアルザスに隣接する地方で、そのためか、お父さんは大のドイツ嫌いだった。なのにビールだけはドイツ産に勝るものはないって、ケースごと取り寄せて飲んでたんだから、よくわからない。
 そんなお父さんだけど、地元の学校を卒業して、さてこれから何をしよう、って時に商会を創業させたばかりのピエールさんに呼ばれて、花の都パリへと出てきたんだそうだ。その当時、商会の本部はパリにあった。
 そのパリで、お父さんとお母さんが出会って、結婚して、生まれたのがわたし。だから、わたし――エマ・フォンテーヌは正真正銘のパリ生まれ。そのまま彼の地で育っていたら、さぞかし麗しいパリジェンヌになっていたに違いない。
 だけど残念なことに、わたしにはパリで暮らした記憶がほとんど残っていない。生家のあったサンジェルマン・デ・プレの街の様子もまるっきり覚えていない。だって、わたしが三歳のとき、一家で大西洋に臨む港町ル・アーブルへと移り住むことになったのだもの。
 その頃、商会の主力商品として成長著しかったのがインドシナ産のコーヒー豆だった。
ピエールさんは、アジアの植民地から送られてくるコーヒー豆をフランス国内で販売し、商会をどんどん大きくしていった。そして商会の力をインドシナ産のコーヒーの輸入に集中させようと、内陸のパリから国際貿易港として発展していたル・アーブルへと本部を移転させたのだ。
 だから、わたしのフランスでの記憶っていうとル・アーブルとその周辺のことばかり。五つ年下の妹、ソフィーにいたっては完全にル・アーブルでの生まれ育ちだった。

 わたしが五歳になった頃のこと。ピエールさんが突然、インドシナへ行くと言い出した。自ら現地へ赴き、コーヒー豆の買い付けの陣頭指揮をおこなうというのだ。
当然、周囲の人びとは創業者のインドシナ行きを思いとどまらせようとした。でもピエールさんは一度言い出したことを止めるような人ではなかった。
 ピエールさんも彼なりに熟考して決めたことだったのだ。彼がこだわったのがコーヒー豆の品質の安定化だった。 
 インドシナでコーヒー豆の栽培が始められたのは、フランスの統治の始まった十九世紀中頃のことだそうだ。
現地の風土にも合い、インドシナコーヒーの中心的な品種となっていったのがロブスタ種の豆だった。ロブスタ種は病気に強く、よく成長するという長所があった。でも、アフリカや南米産のアラビカ種の豆と比べると風味が大きく劣るのが弱点。
 でも長年かけてちょっとずつ改良されたおかげで、二十世紀の初めごろにはインドシナ産のコーヒーも、本国フランスで優れた銘柄の一つとして知られるようになっていった。
 ただ、その買い付けには、相当な目利きとしての能力が必要だった。玉石混交で品質が安定しないインドシナのコーヒー豆の中から、本当に良いものだけを選び抜かないと、舌の肥えたフランスの顧客の信用は維持できなかった。
 その厳しい目利き役を自ら買ってでようというのがピエールさんの考えだった。そして、彼の後継者としてル・アーブルの商会本部の指揮を任されることになったのが、わたしのお父さんだった。
 いきなり本部の経営を任されて、最初は戸惑い気味だったお父さんも、徐々に経営者らしくなっていった。ル・アーブルやマルセイユで荷揚げしたコーヒー豆を、フランス国内だけではなく、西欧や北欧の諸国、そしてさらにはアメリカへと販路をどんどん開拓していった。ル・アーブルの港には、各地へ向けて出荷を待つフォンテーヌ印のコーヒー豆倉庫がいくつも建てられた。
 お父さんの販路拡大の努力を後押ししてくれたのが、ピエールさんが本国へ送ってくるコーヒー豆の品質だった。彼が吟味し、買い付ける豆の質は間違いがなかった。ブランド力で他産地のものより劣っていたインドシナ産コーヒーで商会が大きく発展できたのも、ピエールさんの品質にこだわる厳しい目があったことは事実だと思う。
 ところが……。
 それは六年前の春のことだった。
クロウタドリのさえずりが聞こえる麗らかな日だったことをわたしは憶えている。まどろみたくなるような昼下がりの静けさをやぶって、突然ショッキングな報せがもたらされたのだ。
「ピエールさんがサイゴン川で命を落としたらしい」
 商会本部はたちまち大鍋をひっくりかえしたような騒ぎになってしまった。
 わたしやソフィーにはくわしい事情は聞かされなかったが、騒ぎの様子から推察するに、ピエールさんは何か大きな事故に巻き込まれたようだった。
 カリスマ的な創業者であり、しかも目の利く買い付け人だったピエールさんを失ったフォンテーヌ商会は、たちまち深い悲しみとともに、強い危機感にも包まれはじめた。買い付けには豆の品質の良さだけでなく、フランス人の好み、嗜好がわかる人物でないとつとまらない。現地の代理人だけに安易に任せるわけにいかなかった。
 そこで、ピエールさんの後継者として商会の期待を一身に背負うことになったのがお父さんだった。生涯独身だったピエールさんの資産は、本人が万が一のときのために残していた遺言状によって、ほぼ全てお父さんが引き継ぐことになったが、それとともにインドシナでの買い付けの役割も、やはり自分が担うべきなのか、お父さんは悩んだらしい。
 それに加え、お父さんはヨーロッパでの販路拡大という役割に大きな魅力を感じていた。そして、それが徐々に実を結び、各地に商会のコーヒー豆が安定的に輸出されるようになってきていた。しかし、ここまで商会が成長ができた背景には、信頼できる豆の品質が維持されていたことがある。そこに少しでも悪い豆が混じるようになると、商会の信用はたちまち失墜してしまうだろう。
 では誰がピエールさんの代わりに買い付けの役割を担えるのか。それは自分にしかできない仕事ではないだろうか、とお父さんは考えるようになっていった。
 そして、ついにお父さんは、買い付けを任せられる後継者を育てるまでの間、自身がインドシナへ行くことを決意した。その期間が数ヶ月で終わるのか、数年かかる仕事なのかはわからなかったので、当初、お父さんは、単身でインドシナの南部の中心都市サイゴンへと赴任していった。
「また、すぐに戻ってくるからな!」
 ル・アーブル港まで見送りに来たわたしたちにお父さんはそう叫んで手を振った。「待っていてくれよ!」
 ところが、サイゴンへ到着したお父さんは、たちまち当地の美しさに魅了されてしまったらしい。その後、サイゴンを拠点にインドシナ各地を視察して回ったようだけど、その頃には、すっかりインドシナの虜になってしまっていた。
 そして、現地の居住環境や教育機関の充実度などを自分の目で確認して、これは大丈夫と判断したのだろう。わたしたち家族を現地へ呼び寄せることに決めた。
それが、わたしが十歳のとき、一九一三年のことだった。

 お母さんのマリーにとって、サイゴン行きなんてものは考えてもみないことだった。
 夫ミシェルが現地へ行ったのも、買い付けの後継者を育てることが主たる目的で、しばらくすればル・アーブルへ戻ってくるはずだと考えていた。
「インドシナ……、とんでもないわ。そんな未開の地へ行くだなんて」
 お母さんは、お父さんからの手紙を震える手でにぎりしめた。手紙には、ここはこの世の楽園だ、と書き記してあった。
「何が、この世の楽園よ。まったく能天気な……」
 十九世紀に教育を受けたお母さんにとってインドシナなんて所は、それこそ地の果てのように思われたのだろう。何しろあのアフリカよりも、アラビアよりも、インドよりももっと遠くなのだ。
 一方、自分は西欧文明の中心であるフランスに住んでいる。しかも、今ではちょっとした貿易商会の経営者夫人――華やかなサロンにだって出入りを許される立場なのだ。なんで、この私がインドシナくんだりまで行かなくてはならないのか。
 お母さんは自室で塞ぎ込み、三日三晩泣き明かした。泣くのに飽きたら、今度はパリへ行って、旧知の友人たちとサロンへ出たり、オペレッタを観たり、ブローニュの森で競馬見物したりして一週間ほど遊んで過ごしたようだ。
 そして、再びわたしたちのもとに戻ってきたお母さんは、完全に吹っ切れていた。
 自分の留守中、邸で娘たちの面倒を見てくれていた小間使いさんたちに「ありがとう、悪かったわね」と天使のような微笑みを浮かべ、わたしとソフィーには「さあ、お父さんのもとへ行く準備を始めましょう」と言った。
 全くもって、こういう時の切りかえが、すばらしく見事なのがお母さんの特性だった。

 当時、まだ狭い世界観しか持っていないわたしにとっても、インドシナは想像できる範囲を越えた場所だった。
同じアジアでもアラビアやインド、中国などは何となくイメージがわく。でもインドシナと言われて具体的に思い浮かぶものは何もなかった。
 そもそもが、インドシナという地名からして妙チキリンすぎる。インドなのか、シナ(中国)なのか、いったいどっちなの? はっきりしてほしいもんだと思った。
「ねぇ、インドシナってどんなところ?」
 わたしは周囲の大人に手当たり次第、聞いてみたが、お母さんを含め明確に答えられる者はいなかった。
「サイゴンが、東洋のパリと呼ばれる美しい街だとは聞いてますが」
 と小間使いさんの一人が首を傾げながら答えるのがやっとだった。
 これはえらいことになった、とわたしは思った。誰も知らないような得体の知れない場所に行かなくてはならないの、と心もとない気分になった。
 しかも、小間使いさんたちの間で流れている噂がわたしの不安をさらにかき立てた。その噂とは、ピエールさんの死に関することだった。
 彼女たちがささやき合う噂の内容は、だいたいこのようなものだった。

『なんでも、ドラゴンのような恐ろしい大ワニがピエールさんを濁った川の底へ引きずり込んだらしい――』

 時によっては大ワニが大蛇になったり、川底が沼底になったりと、ディテールに微妙なバリエーションがあったけれど、ピエールさんが濁った水の中に引きずり込まれたという結末はいっしょだった。
 ――そんな恐ろしい怪物がいるんだ、インドシナには。
 わたしのインドシナに対するイメージは、とんでもないものになりつつあった。
 そんな時、わたしに一通の手紙が届いた。
「アンリさんからだ!」
 アンリさんは、昨年まで商会の倉庫で働いていた老人で、今は引退をして郊外の丘の上の一軒家で奥さんとともに暮らしている。倉庫で働いていた頃は、頻繁にわたしとも顔を合わし、いろんなお話をしてくれた人だ。左足を悪くしていて、いつも少し引きずりながら歩いていた。
 手紙の内容は簡潔なものだった。突然のインドシナ行きに驚いていると書かれていた。そして、しばらくのお別れとなるかもしれないから、一度遊びにおいで、と締めくくられていた。
 ――そうだ、アンリさんならわたしの不安を理解してくれるかもしれない。
 わたしはそう思い、手紙が届いた翌日には、坂道を登ってアンリさんが住む丘の上の家へと向った。

       二 見知らぬ国の不思議な話

 季節は夏から秋へと変わりつつあった。
 アンリさんの家は、早咲きのコスモスの赤紫色の花に囲まれていた。呼び鈴を鳴らすと、アンリさんの奥さんが顔を出した。
「まあ、エマちゃん」
 奥さんは目を見開いて表情を輝かし、わたしを家の中に招き入れてくれた。
「よく来てくれたわね。さぁさ、そこに座って」
 彼女は、わたしを窓辺に置かれたソファに案内し、「どうしようかしら、ココアでも出しましょうかね」と言いながらパタパタと家の奥へと消えていった。
 入れ代りに現れたのがアンリさんだった。彼はわたしの顔を見るや「おお、来たかね、お嬢ちゃん」と笑った。アンリさんは、いつもわたしのことをお嬢ちゃんと呼ぶ。
 彼は左足を引きずりながら窓辺までやってきて、わたしの隣にドカリと腰掛けた。
「慌しいことだね。その歳で急にインドシナへ行くっていうのも大変なことだ」とアンリさんは言った。「準備は進んでいるのかい?」
「うん。でも、正直言って、わたしはあまり何もしていないの。周りの人たちが、どんどん準備を進めてくれるから」
 アンリさんは、フフフッと笑いながら「それはあんまり感心できんな。やはり最低限、自分のことは自分できちんとやらんといかん」と言った。
 わたしは首を伸ばして、窓の外へと目をやった。庭で踊るコスモスの向こうには、丘の下に広がるル・アーブルの街並みが見えた。
「どうだい、なかなかいい眺めじゃろう」
 アンリさんも、いっしょに景色を見つめはじめた。
「この眺めがあるから、足が悪いのに、高台のこの家を離れられんのだ」
 視線を巡らすと鼠色がかったル・アーブルの市街地の先に、セーヌ川の河口が陽の光をうけて輝いていた。
 河口に広がる港湾には、外洋への航海を心待ちにする大型汽船やスマートなスクーナー帆船、気品ある姿をしたバーク帆船などがひしめきあっている。そして大きな船々の隙間を埋めるように色とりどりの帆を持つセイルボートやタグボート、また艀の類が港内に散らばっていた。
 その先、はるか遠方には霞に包まれてはいるけれど、セーヌ河口対岸のオンフルールの町が見える。視線を右へずらすと、そこには広漠とした大西洋。広く、そして青黒い海の手前には、くっきりと白い砂浜が続いていた。
 わたしと一緒にしばし港湾のパノラマを見つめていたアンリさんが、おもむろに口を開いた。
「お嬢ちゃんは、クロード・モネを知っているかね」
 わたしはうなずいた。
「有名な画家でしょ。それくらいは知っているわ」
「うむ、このル・アーブルが生んだ大きな才能の一人だ。わしより少しばかり歳上なんだが、まぁ、ほぼ同年輩と言ってもいい。そのモネがこの港の光景をよく描いておった。『印象・日の出』という有名な作品があるが、聞いたことがあるかい?」
 知らない、とわたしは頭を振った。
「まあ、そりゃそうじゃろうな。お嬢ちゃんくらいの歳で、そこまで知っておったら、逆に驚きだ」とアンリさんは笑った。「朝もやに煙る波間に、曙の光が乱反射するさまを見事にとらえた絵だ。それまでの伝統的な画法では、とうてい描ききれんかったろう。後に『印象派』の名前のもとになったという画期的な作品なんだ。ここは、そういう芸術のゆりかごにもなった町だ。どうだい? そう思うと、何か誇りに感じられるじゃろう」
 フーン、わたしはうなりながらも、今教えてもらったばかりだから、まだ誇りに感じるまでいっていない、と正直に答えた。
「はっはっは、そりゃそうだ」
 アンリさんは愉快そうに笑った。
「モネ以外にも、この付近の海辺を描いた画家たちが大勢いる。ブーダンとか、最近ではデュフィっていう若手も、ル・アーブルの港を題材に絵を描いている。この港、そして、この町は、そういうところだと憶えておけばいい。ここを離れたときに、いつか誇りに思える日がくるはずだ」
 わたしはもう一度、港の光景を見つめた。
 一隻の大型船がまさに出港しようとしているところだった。
「そして、この港は世界中の町ともつながっているのね」
「うむ」
 アンリさんは、重々しくうなずいた。
「その通り、ヨーロッパの国々だけじゃなく、アメリカ、アフリカそしてアジア、まさしく世界中につながっておる」
「わたしの同級生にも、モロッコへ転校していった子がいたわ。そして、ハイチから転入してきた子もいるの」
「うちのお隣さんなんてのは、福州や神戸という極東の都市を転々としてきたというツワモノだよ」
 アンリさんは笑った。「そして、もちろん、この海はお嬢ちゃんが向かうインドシナにもつながっている」
「インドシナかぁ」
 わたしの頭の中に、この町を離れゆく船の甲板に立つ自分の姿が浮かんだ。
 わたしは見送りの人々に、ちぎれんばかりに手を振っている。
 青く高い空と大きな入道雲。
 潮の香りを運ぶそよ風とにぎやかに鳴き交わす白いカモメたち――、そんな光景がまざまざと目に浮かんでくる。
 そして、行く先に待っているインドシナの見知らぬ町、人々……。
「あぁ、インドシナってどんなところなんだろう」
 その時、奥さんが湯気のあがるココアを運んできてくれた。
 アンリさんは奥さんに言った。
「おお、ちょうどよかった。棚の上の写真を取ってくれんか」
 奥さんが、はいはい、と言いながら手渡してくれた写真立てには一枚の写真絵はがきが入っていた。
「ごらん」
 その写真はどこかの都市の風景を撮ったものだった。
 立派な建物が並ぶ近代的な大通り。街並みだけを見ればヨーロッパの町とそう変わらない。でも、どこか違和感がある。何かが見慣れたヨーロッパの都市景観と違う。
 ――うーん。
 わたしは絵はがきをじっくりと眺めた。そして気づいた。写っている人々の服装が妙チキリンなのだ。
 それに、なぜかみんな中腰でしゃがんでいる。どうも、これが違和感の原因のようだ。通りの歩道には何やら露店らしきものが写っているが、店の主も、商品を吟味している客もみんなしゃがんでいる。ヨーロッパでは、街角でこんなふうにしゃがんでいる人たちを見かけることはまずない。
「これはどこの町なの?」
「インドシナのサイゴンだよ。ドンコイ通りという目抜き通りの光景だ」
「へぇーっ」わたしは絵はがきをもう一度食い入るように見つめた。「みんな、しゃがんでいるのね」
「うむ、それがインドシナの人びとの基本スタイルなんだ」
「ハハハ、おかしいの」わたしは笑った。
「確かに我々から見れば滑稽なかっこうじゃな。しかし、世界には様々な土地があり、それぞれに独特の文化がある。それを自分の目で見て、体感することは、この上ない勉強だよ。きっと、今度のインドシナ行きはお嬢ちゃんにとって大きな経験になるはずだ」
「大きな経験?」
「例えば、そうだな……、インドシナには、いろんな立場の人間がいるんだ。まずは、あの土地にもともと昔から住んでいた人たち。歴史的に言えばチャンパとかベトナムっていう国があそこにあった。その国の人びとの末裔だな。それから中国人たち。華僑っていうんだがね。彼らは実に商売上手で、アジア各地にコミュニティーを築いているんだ。そして、今あの国を支配し、現地人たちを労働者として働かせているフランス人……」
「えっ、フランスがよその国を取っちゃったの?」
 その頃のわたしは、植民地支配についてあまりにも知識が乏しかった。
 わたしは必死に言った。フランスが他国を奪い取るような乱暴な国のはずはない。ドイツがアルザスを支配していることにだって、いまだに心を痛めている人もいるくらい。それにフランスの大人はみんな立派だし、礼儀正しいし、悪い人だってほとんど見たこともない。学校でも、正義感について教わったばかり。フランス人として誇りを持って、公正で清らかな人間になりなさい、他人を思いやれる人間になりなさいって。
 アンリさんは、わたしが懸命に話すのをうなずきながら聞いていた。
「うん、お嬢ちゃんの言うとおりだ。学校で教わっておることは間違っておらん。一人の人間として、そういう者にならなくちゃならんというのは正しい。でも、国家として今の時代を生き抜いてゆくためには、また、この誇りあるフランスという国を栄えさせるためには、やらねばならんこともある」
 そう言ってから彼はニコリと笑った。
「まだ、お嬢ちゃんくらいの歳の子に、そのあたりを理解しろというのは無理かもしれんがな。ただ、現地へ行けば、そういう現実、もしかしたら矛盾みたいなものを直に見ることができる。そして、肌で感じ、自分の頭でいろいろ考えることができる。これは本国におってはなかなかできんことじゃ」
「ふうん」
 わたしは、わかったような顔をしたものの、その実、アンリさんの言っていることがあまりわからなかった。
「どうして、アンリさんはそんなにインドシナに詳しいの?」
 アンリさんは笑って答えた。「どうしてって、五年前までサイゴンにいたからさ。実はピエールさんがインドシナへ来るまでは、わしが一切の買い付けをしておったんじゃ。でも、この通り、足を痛めてしまってな。向こうでは使いもんにならんので本国へ戻ることになった。そして、わしの代わりにピエールさんがインドシナへ行ったというわけさ」
「知らなかった。アンリさんがインドシナにいただなんて」
 わたしは身を乗り出した。
「もっと、いろいろ教えてよ」

アンリさんは、よっこらせと声を出してソファに座りなおし、口ひげの先をひっぱりながら言った。「さてさて、何から話せばよいのかな」
「うーん」
 わたしは考え込んだ。
「そうだ。なぜ、インドシナはインドシナという名前なの?」 
「そうきたか」
 アンリさんは大笑いした。「そんな質問をされたのは初めてじゃよ」
「だって、インドか、シナか、はっきりしない名前なんだもん」
「答えだって、身も蓋もないぞ。ずばり、インドとシナの間にあるからインドシナなんだ。フランス人が名付けたんだ」
「なんて、いい加減な名付け方なの」わたしはあきれてしまった。「それじゃあ、ドイツとスペインに挟まれたフランスを、ドイツスペインと呼ぶようなものじゃない」
「お嬢ちゃんの言うとおりだな。実にいい加減なものだ」
 アンリさんはニヤニヤしながら言った。
「ほかに質問は?」
「サイゴンは暑いの?」
「そりゃあ、暑い暑い。インドシナは南北に長い国だが、サイゴンのあたりは南の端、熱帯だよ。一年中、夏だ。四季はなくて、雨の多い雨季と、乾燥した乾季に分かれているんだ。雨季は稲作のシーズンだ。広い平野が青々とした水田に覆いつくされてしまう。現地人の主食は米なんだ」
「平野を水田が覆ってしまうくらい水が豊富なの?」
「ああ、まさに水の国さ。大河がいくつにも枝分かれしながら流れている。水辺にはマングローブが生えていて、そこかしこにはジャングルが……」
「ジャングル!」
 わたしは繰り返した。「じゃあ、野生の動物も多いの?」
「ああ、いろんなのがいるな。象や猿もいるし、虎だっている」
 わたしは恐る恐る聞いた。
「大蛇やワニも?」
「ああ、もちろんいるさ」
「じゃあ、やはり、噂は本当なの?」
「噂?」
「ほら、ピエールさんの……」
「ああ、あの話か」
 アンリさんは苦笑いした。「現地人たちのささやいている話が、変な具合に伝わってきたんだろうな」
「現地の人たちの話?」
「ああ、そうだ」
 そう言って、ピエールさんはテーブルにあったゴロワーズの紙巻き煙草を一本くわえて、ゆっくりと火を点けた。そして、両方の鼻の穴から太い煙を吐きながら話を続けた。
「どうもアジアの人たちには、強い動物たちを神聖視するところがあってな」
「神聖視?」
「そう、神様と見なすんだ。そういう視点でゆけば大蛇、虎、怪鳥、ワニなんてのは立派に神様の資格十分なのさ」
「動物が神様って……、変なの」
「そう、我々キリスト教徒からすれば奇妙な話だ。でも、それがアジア人の宗教観……、いや、むしろ彼らの自然観といえるものなんだろうな」
 アンリさんは、煙にむせたのかエヘンと大きな咳ばらいをしてから話を続けた。
「強い動物を神聖視するということに関しては、こんな昔話を聞いたことがある。大きな川――おそらくメコンか、シャムのメナム・チャオプラヤーあたりのことだろう。とてつもなく大きなワニが水の底に住んでおったらしい。ある日、美しい娘が水浴びをしていると、大ワニが彼女を見初め、妻にするために水底へとさらっていったそうだ」
「えっ、さらわれちゃったの」
 昔話とはいえ、わたしは娘の身の上が心配になってしまった。「やっぱり食べられちゃったのかな?」
「はっはっは。心配ご無用、花嫁にするためにさらったのだから、ワニも食べはせんよ」
「よかった」
 わたしは安堵の声をもらした。
「さて、続きを話そう。村人たちは、娘を返してもらおうと川の畔で大ワニに祈ったんだが、聞き入れてもらえなかった。そこで勇敢な一人の若者が立ち上がった。一計を案じて大ワニを岸辺へおびき寄せ、大弓でズドンと射殺したのさ」
「ワニを退治したのね」
「ああ。娘は無事救い出され、勇敢な若者の妻となった。まぁ、ここで終われば、めでたしめでたしなんだが……」
 アンリさんは言葉をいったん切り、吸いかけのゴロワーズを灰皿の底に押しつけて消した。そして、おもむろに話を続けた。
「その後の大ワニの祟りが恐ろしかったんだ。川は荒れ狂い、岸辺の家々は押し流された。多くの村人たちも流れにさらわれ命を失ってしまった。荒れ果てた川では、その後、魚など獲物もとんと獲れんようになったそうじゃ」
「それから?」
「困った村人たちは毎年、大ワニに供え物をし、神として崇めることにしたそうだ」
「ええっ、悪いワニなんでしょう。なのに神様にしちゃったの?」
 わたしは割り切れない思いがした。
「単純に善悪だけで言いきれんのが、神たるゆえんなんだ。きちんと崇めさえすれば、川はおだやかで優しく、魚やエビなど豊かな恵みを与えてくれると信じられているんだよ」
 不思議な感じがして、わたしは考え込んだ。
 ――これじゃあ神様なんだか、化け物なんだかわからない。
 すると、アンリさんが言った。
「この間のピエールさんのことだってそうだ。彼が亡くなったのも、ワニの怒りに触れたせいじゃないかと、現地人たちは言っておるらしい」
「ピエールさんがワニの怒りを?」
「ああ」
 アンリさんは目を閉じて話し始めた。
「フランス領インドシナの南西部には、カンボジアという地域があるんだ。その中心にはプノンペンという都があり、その北方にはトンレサップという広大な湖が広がっている。そのさらに奥に広がる密林の中には、古い寺院の遺跡が残っておる」
「遺跡?」
「うん、長い間ジャングルの中に忘れ去られていたのを、五十年ほど前に我が国の学者アンリ・ムーオたちが見つけたんだ。石造の壮大な遺跡だよ。壁には南方アジアに伝わるいろんな神話や伝説をレリーフにしたものが刻み込まれている」
「へぇーっ、おもしろそう」
 わたしは、そのレリーフを見てみたいものだと思った。
「寺院の周囲には緑色の水をたたえた広く深い堀が取り囲んでいるんだが、そこには遺跡の守り神の大ワニがいるっていう伝説があってね」
 わたしは窓から空に浮かぶ雲を見つめながら遺跡の情景を想像した。
 深い密林の中にひっそり隠れるように建っている石造の寺院遺跡。そして遺跡を守るように囲む堀とそこに潜むという神としてあがめられる大ワニ――。密林の奥からは、何やら妖しげな動物たちの声が聞こえてきそうな気がする。
「その遺跡って、どのくらい古いものなの?」
「さあて、わしも正確には知らん。おそらく何百年も前からあるんじゃろうな」
「どんな人たちが造ったのかしら」
「あの地域に古くから住むクメール人だろう。インドシナの中でも、ベトナムといわれる地域では中国文化の影響が強いけれど、カンボジアのクメール人っていうのは、どちらかというとインド寄りの文化を持った民族だよ」
「それで……、遺跡の大ワニとピエールさんがどう関わっているの?」
「うむ」
 アンリさんはうなずいた。
「ワニ狩りが好きだったピエールさんは、遺跡の大ワニ伝説にも関心があってね。いつか、自分がそのワニを捕らえてみせるって口癖のように言っていたものだ」
 わたしは驚いた。
 なんだ、ワニ狩りって?
 あんな恐ろしい動物を好きこのんで狩る人がいるなんて信じられなかった。
 アンリさんは再びゴロワーズに火を点け、煙を深く吸った。
「普段のピエールさんはきわめて冷静で、温厚な紳士さ。しかし、時おり、熱病のように物事に夢中になってしまうことがあった。ワニ狩りってのも、そんな趣味の一つだった。そして、今年の春ごろ、ついに念願のカンボジア行きを決行したらしい」
「もしかして、そこで事故があったの?」
「いいや」
 アンリさんは首を振った。
「噂のあった遺跡では、いくら探しても大ワニの痕跡は見つからなかったそうだ。大ワニどころか小ワニすら見当たらない。
 ただし、堀といっても相当な広さがある上に、遺跡は一つだけじゃなかったのさ。いかにも大ワニがひそんでいそうな堀や池が密林の中に無数に点在していたんだ。
捜索ポイントを広げながら、何日も粘り強く待った結果、罠の一つに大ワニらしきものがかかっているという知らせが届いたそうだ。
ピエールさんは早速、現場へ駆けつけた。そして、罠を確認し、中の獲物を捕縛しようとしたその時、獲物が凄まじい力で大暴れし、罠を仕掛けごと破壊して水の中へと消え去ったそうだ。そのとき、逃げたワニは体に大きな傷を負っていたという」
「それで?」
「さすがのピエールさんもあきらめざるをえなかった。通常の罠ではとうてい捕らえられない大物だということがわかったからね。再度の挑戦を誓ってサイゴンへと引き揚げたらしい。あの事故が起こったのはその数日後のことだ」
 アンリさんは目を閉じて、煙を吐くと、煙草の灰を灰皿にポトリと落とした。わたしは息をのんで話の続きを待った。
「サイゴン川の港で本国へ送る貨物を船へ積み込む作業をしていたときのことだ。ピエールさんは、自ら船に乗り込んで作業を指揮しておったそうだ。なにせ積み荷は上質なコーヒー豆だ。湿気も、直射日光もできうるかぎり避けて速やかに船倉に入れなくてはならない。ましてや間違えて濡らしてしまうなんてことがあれば、もってのほかだ。
 作業があらかた済んで、ピエールさんがタラップで岸壁に戻ろうとしたときだ。突然、予測もしなかった大風が吹き、まだ雨季にもなっていないのに荒れ狂った豪雨が船を襲ってきたそうだ。タラップが大きく揺れて、ピエールさんは作業員たちもろとも川へ落ち、荒ぶる流れに呑み込まれてしまった。
すぐに救出活動がおこなわれ、作業員たちはみんな救い出されたんだが、ピエールさんの姿だけはどこにも見あたらなかったらしい」
 わたしは、背筋が寒くなるような思いがした。
「それは、やっぱりワニの神様の怒りのせいなの?」
「うーん」アンリさんはしかめた表情でうなった。
「まあ、わしら西洋人から言わせれば、ただの偶然に過ぎん。二つの出来事は、場所も時間も違うし、何の関連性もない。ましてや大ワニや大蛇が出現したという事実もない。ピエールさんのことは極めて残念な事故だ。でも、現地の者たちは、こういう出来事をまえにすると、極めて迷信的な考え方になってしまうんだ。文化そのものが違うし、それに彼らは十分に啓蒙もされていない」
「ふうん……」
 わたしは考え込んでしまった。
 まず気の毒でならなかったのは、行方知れずとなったピエールさんのこと。
見つからないまま、どこへ行ってしまったんだろう。
一人寂しく川の底に沈むだなんて、自分には耐えられないと思った。
 それから、ワニの怒りについて考えた。
これまで、わたしは神様というものは本質的に善の存在、父母のような無償の愛を示してくれるものと教えられてきた。宗派の違いはあれ、キリスト教では神とはそういうものだった。だから恵みをもたらすこともあれば、時には怒りの刃を人に向けるという気まぐれで荒っぽいアジアの神に違和感をいだいた。
「先ほども言ったが、そういう考え方はアジア人の宗教観というよりは、むしろ自然観なんだろう。彼らにも仏教など、きちんと体系化された宗教がある。だから、やはり自然観だろう」
 アンリさんは静かにつぶやいた。
「アジアには、人間も自然界の一部だという考え方があるんだ。そして自然の現象そのものが、神の意思によるものと思っているようなところがある。大風も、豪雨も、雷も、それぞれ神の意思もしくは神そのものだし、ワニや、怪鳥、大蛇、そして虎といった人間の意のままにならない動物も神のように映るんだろう。もちろん日常の暮らしの周辺の物など、例えば木々や草花、虫、岩や石、そして道具類に至るまで精霊としての魂がやどっていると信じられておるんだ。こういうのをアニミズムとか何とか言うらしいが」
「精霊がやどっている……」
 わたしは、窓辺から庭のコスモスを見つめた。
 風が吹き花々が軽く揺れた。
 花の周りでは二匹の黄色い蝶がたわむれている。
 ――これらが、みんな精霊だというのかしら?
 部屋の奥で黙って聞いていた奥さんがやおら立ち上がって言った。
「あなた、そんなおどろおどろしい話ばかりじゃなく、もっと楽しいお話を聞かせて差し上げたらどうなのですか。エマちゃんも、インドシナを怖いところだと思ってしまうじゃありませんか」
「そうじゃな」
 アンリさんは頭をかいた。
「ついつい、夢中で話してしまったわい。家内の言うとおり、インドシナは決して怖いところじゃない。むしろ、楽しいところだよ」
 そして、今度は現地の風俗や習慣など、いろんな話を聞かせてくれた。
 朝になると道端で開かれるにぎやかな市場のこと。
 重いものを運ぶのに用いる大きな天秤棒のこと。
 豊富にあるフルーツの種類や熟れすぎたドリアンのすさまじい匂いのこと、などなど。
「そうそう、さっき話しておった中腰でしゃがむスタイルだが、あれは我々ヨーロッパ人が真似ようと思っても、なかなかできんものだぞ」
「簡単そうに見えるけど」
 わたしは試そうと思って、その場で中腰でしゃがんでみたが、なるほど、すぐに足の付け根の筋肉がプルプルと震えてきて、そう長くは続けられない。
「ダメだわ。どうしてインドシナの人はこのスタイルができるのかしら」
「うむ」
 アンリさんは学者のように重々しくうなずきながら言った。
「わしが思うところ、トイレの習慣が大きく関わっているのではないかとにらんでおる」
「へぇ、トイレの習慣?」
「インドシナをはじめアジアの諸国では、トイレには便器といえるものが無く、基本的に穴が開いているだけなんだ」
「穴が開いているだけなの?」
「そう。そして、穴に落っこちないよう中腰でしゃがみ、踏ん張って用を足すんだ。だから、知らず知らずのうちに、足腰が鍛えられて、あのようなスタイルでしゃがめるようになったのではないかと考えておる。いわば日頃の鍛錬だ」
 なるほど、なかなか説得力のある説明だ。でも……。
「インドシナでは、わたしもそんなトイレを使うことになるの?」
 奥さんが大笑いをして答えた。
「大丈夫ですよ。西洋人用のトイレにはきちんと便座があります。もう、あなた、トイレの話もこれくらいにしてください」
 奥さんにたしなめられ、アンリさんはまたもや頭をかいた。

 その後、お茶とお菓子をごちそうになり、アンリさん夫妻と別れた。
 別れ際、アンリさんは一つの包みを手渡してくれた。
「しょうもないもんじゃが、餞別だ」
 包みはそれほど大きくないが、ずっしりとした重みがあるものだった。
 わたしは包みを開けてみた。中から出てきたのは、黒光りする金属のかたまり。
 ツァイス社の双眼鏡。
「何十年も使っていて、かなり古びてはいるが、もともとは上等なものなんだよ」とアンリさんは言った。六倍まで拡大することができるそうだ。
「悔しいが、こういうものはやはり、フランス製よりドイツ製が丈夫だな。まだまだ十分に使える」
 彼がインドシナへ赴任していた数年間も現地へ携えていったらしい。
「これで、いろんなものを見るといい。船旅では様々な国に立ち寄るから、おもしろいものがいっぱいあるだろう。インドシナに着いてからも、役立つ機会はあるはずだよ」
 さらに、アンリさんは続けて言った
「そうそう、わしらの息子が向こうで暮らしておる。商会の事務職員として働いておるんだ。何かがあれば気軽に相談すればいい」
「えっ、アンリさんに息子さんがいたの?」
「そうさ、ジャンっていう名だ。口ばっかり達者のロクでもないヤツだが、気立てはいい。今は結婚して、シェリーっていう嫁さんもいる。五年前までは、一緒にインドシナで暮らしておったのだが……」
 アンリさんは、ちょっとさみしそうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻り、「では、道中くれぐれも気をつけてな。きっと、これからの日々はお嬢ちゃんにはいい経験になるはずだ」と言って、左足を引きずりながら玄関の外までわたしを送ってくれた。
「それから」
 アンリさんは最後に一言付け加えた。
「自分の荷物は、きちんと自分で準備するように」

       三 出発

 アンリさんの家から帰ってからも、わたしの頭の中には、彼から聞いた精霊の話がグルグルと回っていた。
 ――精霊か。
 幼いころ読んでもらったおとぎ話にはお約束のように登場した精霊。さすがに十歳のわたしでも、そういうものが本当にはいないことを常識として知っていた。
 アジアの人が信じているという神々や精霊たちも、アンリさんが言うとおり、迷信というものなんだろうと頭では理解していた。
 でも……。
 ――もし本当にいたら、楽しいだろうな。
 そう思うだけで、身の回りのあらゆるものが、とたんに活き活きと輝きはじめるから不思議だった。
 今まで、単なるモノとしか思っていなかったものが突然、魔法をかけられたように、生命力を持って躍動し始める。
 例えば――、デスクの上のワテルマンの万年筆。彼はきわめて気分屋さんだった。だって、その時々のご機嫌によって紙の上をスルスルッと滑らかにすべってくれたり、やたらとあちこち引っかかったりするのだもの。
 一方、硝子瓶にぎっしり詰まった色とりどりの棒つきキャンデーたちはいつだってご機嫌だ。早く食べなよ、ほうら、おいしいぞう、って子供たちにニコニコっと誘いかけてくるのだ。
 鉢植えのガーベラの花は、出窓の中で外の世界にあこがれていた。お日さまの光に少しでも近づこうと、懸命に頭を硝子窓の外へ向け伸ばしていた。
 これはおもしろいと思った。
 ――そうだ、ソフィーにも教えてあげよう。
 わたしは、アジアの精霊の話を妹にも話して聞かせた。しかし、いくら上手に話そうとしても、アンリさんほどには、うまく説明することができなかった。
「んん……人間も自然? 道具が精霊……?」
 ソフィーは、ただポカンとした顔をするばかりだった。「……お姉ちゃん、何言ってるのかわかんない」
 まだ五歳になったばかりの妹には、難しすぎる言葉や概念のようなものが多すぎたのかもしれなかった。

 出発日が近づいたある日、お母さんがエトルタへ行こうか、と言った。
 そこはル・アーブルの近く、大西洋に臨む小さな町。
 うちの別荘も海辺にあり、夏の休暇になるとそこで過ごすのが慣例だった。
 でも、その年は春から夏にかけて、ピエールさんの不幸とお父さんのインドシナ赴任騒動があり、結局行かずじまいだった。
「フランスを離れる前に、一日だけエトルタを見ておきましょうよ」
 お母さんの提案に、わたしは大賛成だった。

 エトルタの町には、季節はずれの保養地に特有の侘しい空気が漂っていた。
 夏ならば避暑や旅行の人びとでいっぱいになるはずのカフェも閑散としていた。店員たちの動きも、どこか緩慢な感じがした。まだ九月に入ったばかりだというのに、この町には完全に秋がやってきていた。
 幾度となく訪れた夏のエトルタ海岸の記憶はわたしにとっては特別なものだ。
 その光景と風の匂いはいつだって思い浮かべることができる。
 白亜の断崖とその足下に続く純白の砂浜。そばには波の侵食で形づくられた巨大な奇岩が海中から頭を伸ばしている。
 エトルタではあまり泳いだ記憶はなかった。夏でも洋上から吹き寄せる風が肌寒かったから、あまり泳ぎたいという気にはならなかった。
 マロウや野いちごの花が咲く断崖の上の草原、また白い砂浜や岩礁などを家族で歩いた思い出ばかりが強く残っている。
 先頭を歩くお父さんが時おりしゃがみこみ、海辺の砂や岩の上にいる生き物の名前を教えてくれた。
カニや巻貝たちが数多くいた。岩場の潮だまりの中を時折小さな魚たちが、すばやく泳ぎ去ってゆく。ユラユラ揺れる小さなイソギンチャクを指先でつっつくと、たちまち触手を引っ込めてしまうのでおもしろかった。
 中でも、わたしのお気に入りはヤドカリだった。だって動きがゼンマイ仕掛けのおもちゃのようで、とてもユーモラスでかわいいんだもの。持っていったバケツにいっぱい獲ったこともあった。わたしは持って帰りたかったのだけど、「お家に帰しておやり」というお父さんの言葉で、結局全部磯辺へと逃がしてやった。
 エトルタの記憶は、いつも家族みんなの笑顔に包まれている。その中には、もちろんお父さんの笑顔も……。もう二度と取り戻せない時間だ。

 そして、出発の朝がやってきた。
 なにしろインドシナまで、ほぼ一ヶ月にわたる大旅行の始まりだ。気がたかぶっていたのか、それとも緊張感のためか、わたしはいつもよりもずいぶん早く目が覚めた。
ベッドから出て、階下の居間へ下りてみると、お母さんも早起きして最後の準備をしていた。いつも通り、のんびりマイペースで眠っていたのはソフィーだけだった。
 午前八時半――、いよいよ住み慣れた家を離れる時間が来た。
 大きな荷物は先に送り出していたので、旅に必要な手荷物だけ(といっても相当な大きさになってしまったけれど)を持ち、自動車に乗った。
 エンジンの振動と微かな燃料の匂いが、旅の始まりを感じさせた。
 ――さぁ、いよいよなんだ。
 わたしは、これまで幾度となく想像した出港のシーンを、もう一度頭のなかで繰返した。
 想像の世界では、わたしはいつもル・アーブル港の岸壁をゆっくり離れる客船のデッキに立っている。
高く青い空にわきあがる入道雲。空を舞いながら鳴き交わすカモメたち。
そして、わたしは波止場に向かって、いつまでも手を振っている。見送りの人びとが次第に豆粒のように、ついにはケシ粒のように小さくなってゆく。住み慣れたル・アーブルの街並みが揺れながら遠ざかる。あぁ、あの街の背後の小高い丘がアンリさんの家のある場所だろうか。その丘すらも波間の向こうに見えなくなってゆく――。
何度想像しても、感動する場面だ。ちょっぴり涙目になってしまう。
 一昨日、学校でクラスメイトにお別れのあいさつをしたときも、ぜひ港まで見送りに来てください、と言った。仲のいいリュシィやアンヌは、日曜日だから必ず行く、と言ってくれた。
 ――そうだ、アンリさんからもらった双眼鏡で、友だちや町が見えなくなるまでずっと眺め続けよう。
 わたしは手荷物の鞄の上から、その形と重量感を確かめるように双眼鏡をなでた。
 お母さんが留守を預かってくれる小間使いさんたちに「よろしく頼むわね」と言った。ソフィーは、「わーい、出発だ、出発だー」と高いテンションではしゃいでいる。
 小間使いさんたちが玄関で見送る中、車は家をゆるりと離れた。
 車窓からは、なじみの街並みが過ぎ去ってゆくのが見える。
 郵便馬車を象った郵便局の看板、歩道の街灯脇の花売りのスタンド、ベンチを心地よい陰で覆ってくれる公園のマロニエの並木……。
 どれも見慣れた日常のありふれた光景なのに、もう明日から、しばらく見ることがないのかと思うと不思議な心持ちがした。
「さすがに、ちょっと、しんみりした気分になるわね」
 窓の外をじっと見つめるわたしの気持ちを察したかのように、お母さんが言った。
 
 幾筋かの街路を走り抜け、やがて車はブレーキの音を軋ませて停車した。わたしは周囲をぐるりと見回した。
「あれ、ここは?」
 わたしは狐につままれたような気分になった。そこは、想像の世界でずっと思い描いていた感動の舞台「ル・アーブル港の波止場」ではなかった。そのずーっと手前、ストラスブール大通りの突き当たりに建つル・アーブル中央駅の駅舎前だった。
「なんで?」
 わたしは怪訝な声を出した。「インドシナへ行くのに、なんで駅なの?」
「あら、言ってなかったかしら」
 お母さんは荷物を運転手さんに手渡しながら涼しい顔で言った。
「マルセイユまで汽車で行って、船にはそこから乗り込むのよ」
「えーっ、そんなの聞いてなかったし」
 それじゃあ、先日来、夢にまで想い描いていた情景は何だったんだ、とわたしは思った。そればかりか一昨日、仲の良いクラスメイトたちに港から出発する、と言ってしまっている。みんな、港のほうへ見送りに向かっていたらどうしよう。
「でも、確か」わたしは言った。「お父さんは、ル・アーブル港から船出していったじゃない。わたしも見送りに行ったわ」
「お父さんはね、商会が使っている貨物船に乗り込んだでしょ。だから、ル・アーブルから乗船したの。私たちはマルセイユ発の客船で行くのよ」
 ――うーん。
 さすがにわたしも、船でこの町を離れると思い込んでいたのは、勝手な早トチリだったような気がしてきた。
「わーい、わーい。汽車だ、汽車だー」
 隣ではソフィーが無邪気に騒いでいる。
「もう、うるさいわね」
 わたしは、妹にピシャリと言った。「汽車なんて、ルーアンまでお出かけするときに何度も乗ったことあるじゃない。珍しくともなんともないわ」
 なんで怒られたかわからないソフィーは、ひしっとお母さんにしがみつき、泣きべそをかきそうな表情でわたしを見つめた。
「エマ、こう思わない?」
 お母さんが言った。「いったん海へ出てしまうと、もうフランスともお別れよ。フランスの思い出をつくるためにも、この国を北から南まで突っ切る旅をしてみるのも悪くないんじゃない。船旅はマルセイユから先、いくらでも楽しめるわ」 
 ――フランスを北から南か。
 なるほど、お母さんの言うとおりかもしれないとわたしは思った。
 考えてみれば、わたしはパリよりも南には行ったこともないのだ。まだ見たことがない中部や南部のフランスの情景を思い浮かべると、わたしの胸は大きく高鳴ってきた。
「そうね、汽車もおもしろいかも」
 わたしが機嫌を直してにっこりすると、お母さんが「さすがエマ。気持ちの切り替えがうまいのがあなたのいいところよ」と笑った。
 パリ方面ゆきの汽車は一番線で出発を待っていた。汽車の発車時間までには、プラットホームに商会の従業員や知り合いたちが見送りに顔を出してくれた。クラスメイトたちも駅のほうへ来てくれた。リュシィもアンヌもいる。知らなかったのはわたしだけで、みんなにはちゃんと正確な情報が伝わっていたらしい。
 やがて、耳をつんざくような汽笛が響きわたり、汽車はゆるりゆるりと動き始めた。見送りの人々が一斉に手やハンカチを振ってくれた。
 汽車のロコモーションのテンポがあがるとともに、徐々にスピードも増してゆく。
 わたしは鞄の中から双眼鏡を取り出すと、両手でガシリと握り締めた。そして、プラットホームの人びとや、思い出がいっぱい詰まったル・アーブルの街並みが見えなくなるまで、ずっとずっと眺めていた。

 汽車は約三時間後、サン・ラザール駅に到着した。
 巨大な駅舎から出ると、そこはもうパリの中心街だった。雑踏の向こうに堂々とした建物がいくつも見える。パリっていうのは、ほんとうに不思議な町だ。その場に立つだけで高揚感が急き立てられるように湧き上がってくる。
「さあ、いい時間になったわね。昼食を食べにゆきましょう」
 お母さんが言った。「近くに、私の大好きなレストランがあるのよ」
 わたしたちは荷物を抱えたまま、お母さんに連れられて華やかなパリの大通りをチョコマカと歩いた。わたしとソフィーは慣れない大都会の喧噪の中で落ち着きなくキョロキョロとした。
 お母さんはオスマン通りにある百貨店ギャラリー・ラファイエット近くで道を右に折れ、オペラ座のすぐ脇にあるレストランの前で足をとめた。
「ここよ。フランスを離れる前に、何としても、ここで食事しておきたかったの」
 お母さんはペロッと舌を出し、いたずらっぽく笑った。
 レストランの入り口にはギャルソンが立っており、丁寧にあいさつをしてドアを開けてくれた。店内では天井から吊り下がったシャンデリアや、ギリシャの女神のような彫像など絢爛たる装飾の数々に目を奪われた。
 こんなゴージャスなレストランで、これまで食事をしたことがない。視覚的にも圧倒されっぱなしで、正直なところ料理が美味しかったんだか、どうなんだか、よくわからなかったが、とにかくお腹だけはいっぱいになった。
 食事がすむと、わたしたちはオペラ座前からタクシーに乗ってパリの南東部バスティーユにあるリヨン駅へと向かった。タクシーはルノーの赤くてかわいらしい車だった。パリには同じような赤いタクシーがたくさん走っていた。
 パリの街路には急速に増え始めた自動車と馬車が混在してひしめきあっていた。十九世紀と二十世紀が同時に進行しているような光景だった。優雅に駆ける馬車をタクシーは軽快に追い抜きながら走っていった。
 タクシーがルーブル宮前で左折し、リヴォリ通りへと入る間際、チュイルリー庭園の木々の向こうに骸骨のような塔の上半身が見えた。
 ――あの塔はもしかして。
 わたしは早速、双眼鏡を取り出し、骸骨塔を子細に眺めた。うん、間違いない。わたしはにんまりとした。
「見て、見て、エッフェル塔よ」
「えっ、どこ!」
 ソフィーが慌てて周囲を見回した。
「どこどこどこ?」
 しかし、時すでに遅く、周囲の建物に視界をさえぎられて、エッフェル塔の姿は見えなくなっていた。
「うううう……、ソフィーも見たかったのにぃ……」
 ソフィーの落胆ぶりは半端じゃなかった。崩れ落ちるように座席からずり落ち、お母さんの足元でうずくまってしまった。
「あなたがいらないこと言うからよ」
 お母さんが眉をひそめてわたしを見た。
「だって、見えちゃったんだもん。しかたないじゃない」
「お姉ちゃんだけ、ズルイ、ズルイ、ズルイったらズルイ」
 目に涙をためて訴えるソフィーに根負けし、お母さんは運転手さんに、もう一度エッフェル塔が見える場所を通って欲しいと頼んだ。
運転手さんは「へぇ、お安い御用です」と言って、ポンヌフ経由でセーヌ川とシテ島を渡るルートへと車を進めてくれた。セーヌ川をまたぐ橋の上から、何とかエッフェル塔の先っぽを見ることができた。
「よかったね、ソフィー」と声をかけると、ご機嫌さを取り戻したソフィーは「うん!」と元気いっぱいにうなずいた。

 バスティーユのリヨン駅も、サン・ラザール駅に負けないくらい立派な建物と大屋根を持っていた。時計台のついた尖塔が印象的だった。
 わたしたちが乗り込んだリヨン行きの急行は、滑るようにパリの街を離れていった。パリは、フランスの中では極端に大きな都会だけれど、ひとたび市街地から遠ざかると車窓からの眺めは、またたくまに畑や森がひろがる田園の情景へと変貌してゆく。
 ソフィーは、微笑んだような表情を浮かべながら、みるみる眠りの世界へと落ちていった。朝からハイテンションで騒ぎ続けていたんだから無理もなかった。きっと列車の振動と窓から差し込むポカポカとした陽気が心地よかったのだろう。
 列車は、広大な牧場や麦畑が連なる丘の中を、風のように進んだ。牧場や畑の境界には防風林だろうか、木々が行儀よく一列に並んでいる。
「ここは、どの辺り?」と聞くと、ブルゴーニュ地方よ、とお母さんが答えてくれた。
「この辺りはね、ワインの名産地なのよ」
 言われてみれば、そこかしこにブドウ畑の丘が見える。わたしは鞄から双眼鏡を取り出し、ブドウ畑を観察し始めた。収穫時期が近いらしく、多くの房がたわわに熟している。農夫が脚立を抱えながら何やら仕事をしているのが見えた。
「ねぇ、エマ」
 お母さんが双眼鏡を興味深げに見つめながら言った。「ちょっと覗かせてもらっていい」
「うん、いいよ」
 手渡しながら、わたしは簡単に操作法を説明した。
「まず真ん中で折り曲げて目幅を合わすの。それから、上に付いてるリングのようなところをクルクル回して見やすく調整するのよ」
「ああ、ここね」お母さんは双眼鏡をのぞき込みながらリングをゆっくり回し、見やすい焦点を探しあてた。
「うわぁ、よく見えるわね、これ」
「うん、倍率は六倍までいけるらしいの」
「あそこで寝そべってる牛に、まるで手が届きそうよ」お母さんは大はしゃぎで眺めた。「それから、ほら、あの丘の上に並んでいる木、まるで意思を持って揺れてるみたい」
「まさか、木が意思を持つなんて」
「そりゃあ、風のせいってわかってるわよ。でもね、なんだか、ほら、自分で揺れたくって揺れているようにも見えるじゃない」
 お母さんの言葉は、アンリさんの話を思い起こさせた。
 ――あらゆるものが精霊の魂を宿らせている。
 わたしはなんだかうれしくなり、「うん、わかるわかる」と一緒になってはしゃいだ。

 リヨンのペラッシュ駅に到着したのは、陽がだいぶ傾いた頃だった。
 人びとの流れにのって駅舎から出ると川霧の向こうの丘上に、城砦のような威容をみせるフルヴィエール大聖堂のシルエットが見えた。
 わたしたちは、あらかじめ予約をしていたホテルに宿泊した。ホテルは駅から歩いてすぐの場所、川沿いの小道に面して建っていた。
 夕食を終え、ベットにゴロンと横たわると、もう、わたしは睡魔にあらがえなかった。
「これ、エマ。きちんと着替えなさい」
 お母さんの声が聞こえたが、わたしに起きあがる力はもう残っていなかった。
「もう、仕方がない子ね」
 次第に眠りに落ちつつある意識の中でお母さんの気配を感じた。お母さんはわたしの傍らにかがみ込み、頬にかかった髪をすくい上げ、そっとキスをしてくれた。
「おやすみ、エマ」

       四 船出――フランスとの別れ

 翌朝、窓から眺め下ろしたリヨンの町は、新鮮な光に包まれて、ただひたすら美しかった。白い壁と、赤い屋根で統一された街並み。それは清楚な花のような落ち着きと可憐さを思わせた。
 残念なのは、午前のうちにマルセイユへ向けて出発しなければならなかったことだ。もう少し、ゆっくりとこの町を楽しめたら、どんなに素敵だったろう。それでもわたしたちは、わずかな時間を惜しんで、ソーヌ川沿いのマルシェ(朝市)へと繰り出し、果物を買って食べた。
 ペラッシュ駅を出発すると汽車は再び広大な田園風景の中へと入っていった。
 二日間のフランス縦断の旅でわたしが実感したのは、なんと農地の多い国だろうってこと。印象としては、見渡す限り、この国にはほとんど畑か牧場しかなかった。
 それまでわたしは港湾や商工業に携わる人ばかりの中で育ってきたけれど、こうしてみるとフランスは農民の国という方が正しいような気がした。
 南へ行くにしたがって、陽光が目に見えて明るくなってゆく。通り過ぎる町の空気にも、どこか異国的な情緒がまぎれはじめる。
 とりわけ、わたしが感心したのは、線路沿いに広がっていたひまわり畑。プロヴァンスのアヴィニョンを過ぎたあたりの風景だ。とうに盛りを過ぎていたのだろうが、それでもお日さまが舞い降りたように輝かしい黄色の海を見たときは、もうため息をつくしかなかった。ひまわりは、きっと太陽に憧れてあんな色と形になったのに違いない。
 やがて、列車は速度を徐々に落とし、丘の上の終着駅にぴたりと停車した。
 マルセイユのサン・シャルル駅――三角の赤い大屋根が印象的な駅舎だった。
 大窓の向こうには地中海の輝きが見える。ル・アーブルやエトルタで目にしていた大西洋とは色が明らかに違う。地中海は濃いブルー。同じ海なのに、なぜこんなに印象が違うのだろう。
 駅舎から真っ先に飛び出したソフィーが叫んだ。
「うわぁ、なにこれ。ものすごい階段だぁ!」
 続いて駅舎から出たわたしも、その驚くべき石造りの大階段を見下ろして、息をのんだ。これは、いったい何十段、いや何百段ぐらいあるの。街並みは遥かその下に見える。
「まさか荷物を担いだまま、これを降りなくちゃならないの?」
 わたしは、思わずプルプルと首を振った。
「無理。転げ落ちちゃうわ」
 ところがソフィーときたら、大した荷物も持っていない上に、あまりにすっごい階段を前にしてじっとしていられなくなったのだろう。「わぁい」という歓声をあげるや、スキップしながら大理石の階段を駆け下りていった。
「待って、ソフィー」
 わたしは荷物をその場に放り出し、大慌てで妹を追いかけた。「知らない町で勝手に一人で行っちゃだめ」
 ようやくソフィーを押しとどめて、振り返ったとき、お母さんの背後に数人の男性が立っているのに気づいた。落ち着いた雰囲気の初老の紳士と若い男たちだった。
「奥様、お待ちしておりましたよ」
 紳士は丁寧な言葉でお母さんに呼びかけた。そして、振り返ったお母さんに手をさしのべて言った。「お荷物を預かりましょう」
「あら、ロベールさん、来てくださったのね。助かりました」
 お母さんは微笑みながら礼を言った。そして、わたしたちに彼らを紹介した。「フォンテーヌ商会マルセイユ支店の人たちよ」


 丘の上の駅から海岸近くのレビュブリック通り沿いにあるホテルまでは、支店が用意してくれた馬車で移動した。ホテルで夕刻までゆっくりと過ごした後、わたしたちは支店の事務所へと向った。事務所は、ホテルから歩いて数分程度の場所にあった。
 支店に入ると事務員さんたちが仕事の手を止め、一斉に立ち上がって出迎えてくれた。
 一人の女性が、やや緊張した面もちで言った。
「奥様が自らインドシナへ行ってくださると聞いたとき、私たち大感激したんです」
 他の事務員さんたちもうなずいた。
「遥か離れた異国、ましてや全く文化や風土が異なる土地ですから、とても勇気のある決断ですわ」
「本当に新しい時代の女性の鑑のような方だと思います」
 どうやら、この支店の中ではお母さんはまるで聖女のような扱いとなっているらしい。自己を犠牲にして、見知らぬ異郷へと赴く気高い女性――これが、事務員さんたちの一致した見方のようだ。
 お母さんの当初の取り乱しようを知っているわたしにはちょっと滑稽だったけれど、お母さん自身も相当に面食らったみたい。でも、お母さんはコホンと一つ咳払いをしてから、「向こうへ行くからには、精一杯がんばってきます」と、みんなの期待を裏切らない殊勝なコメントをしてみせた。
 事務所の職員さんは全部で十人ほど。もちろん、他にも港湾や倉庫で働く人びともいるのだけれど、それでも十人の事務職員というのは少なすぎるような気がする。
 彼らによると、以前はインドシナからの貨物のほとんどをマルセイユで荷揚げし、パリやル・アーブルまで陸送していたそうだ。でも近年は貨物船の大型化と高速化に伴って直接ル・アーブルまで海上輸送される割合が増えているらしい。それにともなって、マルセイユ支店の規模も少しずつ縮小されているそうだ。
「でも、この支店が完全に無くなることはありません。フランス中・南部やイタリア、スペイン、北アフリカ方面には、やはり、ここからの輸送の方が便利ですからね」と、先ほど駅まで迎えに来てくれたロベールさんが言った。彼はマルセイユの支店長だった。
「さあ、それでは皆さん。そろそろ食事へ出かけましょう。すぐ、近くの店なんですよ」
 ロベールさんは、フランス本国での最後の夜を迎えるわたしたちを、心をこもったフランスの食事でもてなそうと、ディナーを用意してくれていた。メイン・ディッシュは、マルセイユ名物のブイヤベースだった。
「さあ、今夜は心ゆくまでフランスの味を楽しんでくださいな」
 ロベールさんは満面の笑みで地中海風海鮮スープをすすめてくれた。
 正直なところ、北フランスから来たわたしたちには、ブイヤベースは今ひとつ食欲をそそられる料理とは言いがたかった。特にわたしとソフィーは魚介類をたっぷり煮込んだ濃厚な香りにはあまり慣れておらず、チビチビとしか食が進まなかった。
 しかし、ニコニコ顔でしきりにすすめてくれるロベールさんに悪いような気がして、結局全部残さずに食べた。ロベールさんは「いやぁ、皆さんにお喜びいただけてよかった。本当によかった」と満足そうに繰り返した。


 そして、出港の日。
 外洋客船の乗り場までは、ホテルから徒歩でも十五分足らずの距離だったけれど、ロベールさんは馬車を用意し、埠頭まで送ってくれた。
「これは幸先が良い」
 ロベールさんは晴れ渡った空を見上げて言った。
「海で働く者は、けっこう験かつぎをするんですよ」
「まぁ、験かつぎですか」とお母さんが聞いた。
「そうです。ただの迷信だと言われればそれまでなんですがね。昔は今のように頑丈な船じゃありません。いったん海に出ると、神に頼らざるをえないことも多かったんです。それから言えば、今日のような天気は最高にツイてますよ」
「神頼みって、どんな神様に祈るの?」
 わたしは、興味をそそられて聞いた。
「そりゃあ、我々キリスト教徒が祈るとすれば天の父なる神でしょうな。まさか、ポセイドンやネプチューンに祈るわけじゃありません」とロベールさんは言った。
「でもね、船乗りには実にいろんなのがいるんですよ。ユダヤ人、ムスリム、ヒンズー教徒……、それぞれが信じる神に祈るわけです。
 こないだはハイチ生まれのブードゥー教徒って奴がいましたよ。ブードゥー教の神様っていいましてもね、むしろ精霊だか魔物だかの親戚みたいなもんでしょうな。ほかにもマダガスカル出身っていう奴を知ってますが、それこそ大地精霊に祈っているそうです。
 そうそう、船で日本人を見かければ幸運ですよ。なにしろ彼らは八百万もの神々に祈りを捧げるらしいですからな。いいですか、八百万ですよ。
 ほんとに船には、わけのわからん神様がわんさか満載ですから、みなさん一つご安心を」
 ロベールさんの話に、わたしたちは大笑いした。
「ありがたいアドバイス通り、私たちも精一杯、神頼みしてみましよう。去年のタイタニック号のようなことが現代でも実際に起こりえるんですものね」
 お母さんがそう言うと、ロベールさんは、いやいやと手を振った。
「タイタニックのあれは、北大西洋の航路でしたからね。さすがに地中海やインド洋には、氷山は浮いてません。もし、あったら暑くて乾燥したアラビアあたりの商人に売りつけてみたらいかがでしょう。きっと大儲け間違いなしです」
 彼が冗談を言っている間に、馬車は波止場の近くまでやってきていた。
「さあさあ、見えてきましたよ。あれが奥様やお嬢様がたが乗る船です」
 ロベールさんが指さす先には、大きな客船が横付けされていた。青い船体に目が醒めるような白いラインが船首から船尾にかけて引かれている。船首ちかくにはビクトル号と書かれていた。カモメが何羽もデッキをかすめるように飛び交っていた。
「うわぁ」
 わたしとソフィーは同時に歓声をあげた。この船に乗るんだと、わたしは思った。さあ、これから航海が始まるんだ。見れば見るほどビクトル号は堂々たる船に見えた。
 馬車から降りたとたん、「すごーい」と両手を上げて駆け出しそうになったソフィーの腕を、お母さんがむんずとつかんだ。
「だめよ。ここで迷子になったら、一人で知らない国に連れてゆかれちゃうわよ」
 知らない国で一人になるのはさすがに困ると思ったのか、ソフィーはたちまちおとなしくなった。
「総トン数一万三千トン、全長一四○メートル、乗員乗客合わせて四百人が乗り込めるなかなかの船ですよ」
 ロベールさんは様々な数字を並べ立てて、船の大きさを説明した。それがどの程度のものなのかは、わたしたちにはさっぱりわからなかったのだが、「へぇー」と声をあげて感心しきりという表情をつくってみせた。
 既にタラップで、埠頭と船がつながれており、乗客の乗船が始まっている。
「わたしたちも早く乗り込みたいわ」
 わたしは待ちきれない気分になった。あのデッキで思う存分駆けてみたいと思った。
「あらっ、あの子もこの船に乗るのかしら」と、お母さんが乗船待ちの列に中に親子の姿を見つけて言った。「いいお友達になれるといいのにね」
 そちらを見ると両親と一緒に並ぶ女の子の姿があった。年齢はわたしと同じくらい。薄い青色のワンピースに、白い帽子がよく似合っていた。おそらくパリ育ちなんだろう。都会っ子らしいあか抜けた少女だった。
 わたしがじっと見つめていると、女の子もこちらの視線に気づいて振り返った。わたしは軽く微笑んで会釈した。こちらとしては最大級の親愛の情を示したつもりだった。
 ところが……、次の瞬間、わたしは凍りついてしまった。
 何てことなの! 女の子ときたら突然顔をしかめるや、いきなりアッカンべーをしたのだ。そしてプイッとあちらへと向き直ってしまった。
「な、何よ、あの子。今、ベーッてしたわよね」
 相手の想定外の反応にわたしはたじろいだ。「なーんて感じ悪い子なのかしら」
 お母さんはその一部始終を見て、ただクスクス笑っていた。

 わたしたちはロベールさんと埠頭で別れ、ビクトル号へと渡るタラップへ向かった。
 気持ち的には一気に駆け上がりたかったけれど、タラップって幅がけっこう細いし、思いのほかグラグラと揺れるので、おとなしくシズシズと上った。でも、一段進むごとに高揚感がいやがうえにも高まってくる。
 デッキの上は想像以上に広かった。幅だけでも優に二十メートルはあるだろう。ただ、乗り込んだばかりの乗客や忙しく立ち働く船員たちで混みあっていて、駆け回ることはできそうになかった。
 案内係のキャビン・クルーが、少々たどたどしいフランス語で声をかけてきた。
「あなたたち、一等船室のフォンテーヌさんですね。わたし案内します。さ、こちらへ」
 キャビン・クルーは、三人の荷物を台車に載せて運んでくれた。
 彼に続いて船内に入ると、まず広いエントランスホール、続いてラウンジルームとその奥に続く吹き抜け構造になった大きな広間が目に入った。
 キャビン・クルーが振り返りながら説明した。
「あの広間は、皆さんの食事するところです。おぼえておいてください」
 彼は、そのまま足早に歩き、エレベーターにわたしたちを案内した。
 わたしたちの船室が用意されていたのは最上層の三階フロア。たった三人で使うのがもったいないくらいの広さがあった。壁際には木製の棚が取り付けられ、その上には、いかにも上等で高価そうな東洋風の花瓶が置かれている。
 ――船が揺れたら倒れないのだろうか?
 今後、波が高くなるたびに、いちいちハラハラしなくちゃならないのは困る。気になって、花瓶に触れてみたところ、底が棚に貼り付くように固定されてビクリとも動かなかった。
 なるほど、これだったら、倒れようもない。余計な心配して損をしたと思った。
 ――でも、動かせない花瓶って、どうやって中の水を替えるんだろう?
 新たに湧いてきた疑問に、わたしはウームとうなるしかなかった。
「その花瓶、中国の磁器ね。でも、ただの飾り。本当に花を活けるものじゃない」
 キャビン・クルーはわたしの心を見透かすように説明してから、さっとカーテンを開けはなった。
「ほうら、こちらへ来て。窓からの眺め、とってもいいよ、モナミ(親愛なる友)」
 そして、彼は白い歯をキラリと輝かせて笑った。
「モ、モナミって……」
 わたしは、知らない男の人からそんなふうに呼ばれたのは初めてだったので、妙にドギマギしながら窓のほうへ行き、外を眺めた。
「わぁ、高い」 
 陸の建物でいえば何階ぐらいに相当するのだろう。かなりの高さがあり、遠くまでの眺望がきいた。
マルセイユの街並みが続くゆるやかな坂の上には、昨日汽車を降りたサン・シャルル駅の赤い三角屋根も見える。
ソフィーがタァーッと駆け寄ってきて、「ねぇ見せて、見せて、私にも見せてよ」とうるさいので、場所を譲ってやった。

 荷物の整理をあらかた終えた頃、ドラの乾いた連続音が甲板の方から聞こえてきた。
「さあ、出港の時間が近いようね。デッキに下りましょう」とお母さんが言った。
 エレベーターを降りると、デッキの上はおびただしい乗客であふれんばかりの状態になっていた。船上楽団が演奏する晴れやかなマーチも聞こえてくる。
 お母さんは、わたしとソフィーの手を握った。
「さぁ、迷子にならないように、しっかり手をつないでおくのよ」
 人垣の薄いところをすり抜けるようにして手すりまで行くと、埠頭いっぱいに見送りの人だかりが見えた。人々は手を振ったり、三色のフランス国旗を振ったりしていた。
 船と岸を結ぶタラップがゆっくりと格納された。続いて、岸壁のビットからロープを取り外すライン・ハンドリングが行われた。
 見送りの人びとの中をじっくりと見ると、ロベールさんがまだ残ってくれていて、デッキを見上げていた。彼ばかりではなく、昨日支店で会った事務員さんたちの姿も見える。
「ロベールさーん!」
 わたしは声を張り上げて叫んだ。ソフィーも負けじと顔を真っ赤にしながら「ロベールさぁーん!」と叫んだ。
 喧噪の中の彼らに、その声が届いたわけではないだろうが、事務員さんの一人がデッキのわたしたちに気づいて手を振ってくれた。こちらも大きく手を振り返した。するとロベールさんや他の事務員たちもようやく気づき、手を振ってくれた。
 ロベールさんは口の左右に両手をあてがい、なにやら叫んだ。声は聞こえなかったが雰囲気から察するところ、どうやら「お気をつけて」と言っているらしい。わたしたちは大きくうなずき返した。わたしは声を張り上げて「ありがとう!」と叫んだ。
 突然、足元にグラリと揺れる感覚が伝わってきた。レシプロ蒸気機関が低いうなりを上げ、甲板が振動で震えた。
 いよいよ出港の時だった。
 甲板からも、埠頭からもどよめくような歓声が一斉にあがった。
 三隻のタグボートが沖側へとロープで引っ張りながら、少しずつビクトル号の向きを調整してゆく。
 唐突に、耳をつんざくような汽笛が長く鳴り響いた。辺りの空気が激しく震えた。汽笛は続けてあと二回鳴らされた。
 少しずつ遠ざかる埠頭を見やると、それまで手を振っていたロベールさんが直立不動の姿勢で、まるで軍人のように敬礼をしていた。
「ロベールさん」
 さっきまで埠頭で冗談ばかり言っていた彼とまるで雰囲気が違い、わたしは戸惑った。でも、自分たちの役目が商会にとって、そして彼らにとっていかに大切なものなのか、ようやくわかったような気がした。
「ロベールさん、わたしたちがんばってくるからね!」
 わたしは嗄れかけた声で叫んだ。
 やがて船が外海へと舳先を向けたので、埠頭の方向が見えにくくなってしまった。
わたしとソフィーは船尾へ駆けていった。そこからならば、まだ埠頭とその背後のマルセイユの街が見える。しかし、埠頭はみるみる遠ざかり、人々の姿も小さな点になってゆく。
多くのセイルボートが停泊している旧港前を過ぎると船はさらにスピードアップした。先導していたパイロットボートやタグボートもビクトル号から離れていった。
 その時になって、肝心の双眼鏡を船室に忘れてきたことに気づいた。
 ――でも、まぁ、いいか。
 白い航跡の向こうに離れゆくマルセイユ、そして遠ざかりつつある祖国の大地を直接肉眼に焼き付けるよう、わたしはしっかりと見つめ続けた。

 初めて経験する航海のはじまりは、極めて順調だった。
 風は穏やかで波は凪ぎ、まるで大きな湖を進んでいるようだった。揺れもほとんど感じられない。低くうなるエンジンの音だけが足下で常に響き、ここが船の中なのだということを思い起こさせた。
次の寄港地チュニスの外港ラ・グレットまでは、ほぼ丸一日、約二十四時間の航海だった。
 夕刻が近づいてくると、キャビン・クルーがディナーの説明のため船室にやってきた。乗船したときに、部屋まで案内してくれた彼だ。
「船出の日なので今夜歓迎レセプションします。午後六時、大広間にお集まりください」
 相変わらずたどたどしいフランス語で説明し終わると、彼はニカッという笑みと白い歯の輝きを残して船室を去っていった。
 お母さんは首を傾げながら言った。「彼は、いったいどこの出身なのかしらね?」
「あの雰囲気からすればインドあたりじゃない」とわたしは言った。
「そうかしらね。私は北アフリカのアルジェか、モロッコあたりって感じがするわ。今度、聞いてみようか」と言って、お母さんは笑った。

 ディナーは午後六時ぴったりに始まった。
大広間のテーブルには乗客が勢ぞろいしていた。キャビン・クルーによると、およそ二百人もいるらしい。それだけ入ってもまだスペースに余裕があるくらいだから、よっぽど大きな広間なんだとわたしは思った。
 最初に船長からの歓迎の挨拶があった。
船長はネモと名乗った。奥の方の席の男性客が、「こりゃ愉快だ、まるで『海底二万リュー』みたいじゃないか」と声をあげた。別の乗客が、ネモなんて名前が本当にあると思わなかった、偽名じゃないのかね、と言った。
「おっしゃるとおり、ネモは通称です。本名はルネ・フランソワといいます」
 ネモ船長は軽く笑った。そして「私は少年のころに読んだ『海底二万リュー』に魅せられて船乗りになったもので、この名を名乗らせていただいています。ただし、残念ながら本船は海中には潜りませんがね」と言ったので、広間中が笑いに包まれた。
 ソフィーが、わたしの袖をひっぱった。
「ねぇ、ねぇ、ナントカ二万リューって何?」 
「知らないわよ」
「だって、お姉ちゃんもいっしょに笑っていたじゃない」
「いちいち、うるさいわね。つられて笑っただけよ」
 するとお母さんがそっと教えてくれた。
「ジュール・ヴェルヌの冒険小説の題名よ。ノーチラス号って潜水艦が登場するの。そして、その艦長の名前がネモなのよ」
「ネモって変わった名前ね」
「ええ。ラテン語で『誰でもない』って意味らしいわ」
「へぇーっ、お母さんってすごーい。物知りー」
 わたしとソフィーは驚いて目を丸くした。
 船長の挨拶が終わると、幾人かの主要なクルーが紹介された。
それが済むと、船上楽団がやにわに演奏を始めた。豊かな音色の親しみやすいワルツだった。聞けば「ウィーンの森の物語」という曲だそうだ。音楽が奏でられる中、お待ちかねのディナーが始められた。
 味も内容もボリュームも、三人ともが大満足だった。わたしは、フランスのどこで食べたものより美味しいフランス料理だ、と言った。お母さんは、わたしの大げさな表現に苦笑しながらも、確かにこれほど美味しい料理はなかなか食べたことがないと言った。
「これから、インドシナまで毎食楽しみね。気をつけないと、みんなブクブク太ってしまって、お父さんを驚かせちゃうかも」
 メインの皿が下げられ、食後のデザートが配られ始めた頃、ステージの主役は楽団から一人の黒人ピアニストに代わった。大きくがっしりした体格を持った男性で、客に挨拶する際も表情らしき表情を見せなかった。なんだか怖そうな人、とわたしは思った。
 ピアニストは、グイッと目を閉じると、静かな詩情あふれる音楽を奏で始めた。それは、無愛想この上ない彼の指から奏でられているとは思えないぐらい優美な音色だった。
「ショパンの夜想曲ね」お母さんがつぶやいた。「私の大好きな曲なのよ」
 わたしは呆れたように言った。「お母さんが、そんなに物知りだったなんて、今まで知らなかったわ」
 お母さんはクスッと笑った。

       五 初めての異国――フェニキアの残像

 遙か古代、ローマと地中海世界の覇権を争った都市国家カルタゴ。
 ポエニ戦争での英雄ハンニバルのめざましい活躍にもかかわらず、滅亡をまぬがれえなかったカルタゴの悲劇の物語は、わたしも子供向けに書かれた絵本で幾度となく読んで知っていた。
 そのカルタゴの遺跡からほど近いチュニスの外港ラ・グレットが見えてきたのは、陽光が強く照りつける午後二時頃だった。マルセイユを出港して、まる一日が経っていた。
 わたしは初めて目にする異国の風物、町並みに興味津々だった。北アフリカの大地が水平線の先に見え始めた頃から、アンリさん譲りの双眼鏡を、しっかと握りしめ、何か珍しいものは見えないかと船室の窓から眺めていた。
「お姉ちゃん、代わってよ。ちょっと見せてよ」
 ソフィーのやかましい催促にも耳を貸さず、わたしは一人でじっくり眺め続けた。
「うわぁー、お姉ちゃん、ズルい、ズルい。ソフィーに見せてくんない!」
 大騒ぎするソフィーに辟易して、ついにお母さんが口を挟んだ。
「エマったら、ちょっとぐらい貸してやってもいいんじゃない」
「じゃあ、ちょっとだけね」
 わたしはしぶしぶソフィーに双眼鏡を渡した。「いい? 今から十分だけだからね」
「わかった!」
 時間制限付きながらもソフィーは大喜びで双眼鏡を眺め始めた。
「うわぁー、よく見える見える。お空と海がよく見えるぅー」
 ソフィーは大満足で外を眺めている。
「バッカじゃないの?」
 わたしは呆れ声を出した。「双眼鏡で空や海ばかり見たってしょうがないでしょうが」
「しょうがなくないもん。お姉ちゃんのいじわる」
「いじわるじゃないわよ。ちゃんと陸を見なさい。町が見えるでしょう。あとで不満を言っても、十分経ったらちゃんと返してもらうからね」
「フーンだ」
 ソフィーはがしりと双眼鏡を握り、懸命に陸を探し始めた。
 ところが、双眼鏡は五分と経たないうちに、わたしの手元に戻ってきた。あまりにも気合いを入れて双眼鏡をのぞき続けたせいか、ソフィーは突然気持ち悪くなり、フラフラっとその場にしゃがみこんでしまったのだ。
「大変。船酔いかしら。吐き気はしない?」
 お母さんは大慌てで、憐れなソフィーを洗面所へ連れて行った。
 わたしは手元に戻ってきた双眼鏡で再び未知の大陸の観察をはじめた。
 ――何か目立つものはないかしら?
 わたしは考えた。
 ――そうだ、確か絵本によればハンニバル軍は象を連れてアルプスを越えたはずだわ。
 遠征軍に使えるほど象がいるならば、地元には、それこそワンサカと象がいてもおかしくはない。何しろあれだけの大きさの動物だ。いればすぐに見えるはず。
 わたしは目を皿のようにして象を探し続けた。ところが見えるのは赤茶けた大地と白壁の建物、そして絵に描いたような南国名物ヤシの木ばかりだった。
「象なんて一頭もいやしない。あの絵本はデタラメを書いてたんだわ、読むのはどうせ子供ばかりだと思って」
 わたしは悪態をついた。すると、その瞬間、急にめまいがし、気持ち悪くなってしまった。船室に戻ってきたお母さんが目にしたのは、床にしゃがみ込むわたしの姿だった。
「エマ、あなたもなの? まったくもう、あなたたち姉妹ときたら!」
 
 ビクトル号は、ラ・グレットで一泊の停泊だった。
 船内に留まる乗客もいたが、多くの人は初の寄港地の様子を見に行こうと三々五々上陸し、波止場に並ぶタクシーや辻馬車でチュニス市街方面へ移動していった。
 わたしたちも他の乗客に続いてタラップを降りたが、たちまち、わらわらっと集まってきた馬車の御者たちに取り巻かれてしまった。
 御者たちは口々に「さあ、この馬車に乗ってけ」「オレの馬車こそ最高の乗り心地だ」と言い寄ってくる。
 そんな彼らを、お母さんは軽く制し、タクシーのほうへと向った。パリのタクシーと似た赤いルノーだったので、わたしも親近感をおぼえた。
 ただし、運転手は極めて取っつきにくそうな男性だった。お母さんの「とりあえずチュニスの中心街まで行ってもらえるかしら」という指示に、ぼそっと暗い声で「ウィ(はい)」とだけ言った。
 車が走り出すとすぐに、町の背後に広がる大きな湖が見えた。
「これは、何という湖なの?」とお母さんがたずねると、運転手はぶっきらぼうに「チュニス湖」と答えた。
 車は湖の縁を回りこみ、湖岸沿いに続く幹線道路に入った。この太くてまっすぐな道に入ったとたん車は猛烈な勢いで加速しはじめた。どうやらこの運転手、相当なスピード狂だったらしい。先行する自動車や馬車が前方に近づくたびに、さらにアクセルを踏み込んで一気に追い抜かさねば気が済まないようだった。
 もともと高級そうな車ではない上に、道路の状態だってあまり良くない。車内の振動は相当なもので、ソフィーは後部座席の真ん中で目をシロクロパチクリさせている。
「速度を落としてもらえないかしら」とお母さんは言ったが、運転手はうるさげに眉をひそめるだけで、大してスピードを落とさなかった。わたしたちは生きた心地がしなかった。なぜ、こんな速度で走らねばならないのか理由がわからなかった。
 お母さんはもう一度運転手に言った。
「スピードを緩めてもらえない?」
 運転手は不機嫌そうに舌打ちをし、ボソボソと答えた。「大丈夫、いつも、こうして運転してるのさ」
 するとお母さんは強い調子の声で重ねて言った。
「いい? わたしは速度を落としなさいと言ってるの。言うとおりにしなさい」
 運転手はヤレヤレというふうに首を振りながら、ようやくスピードを緩めた。お母さんとわたしは同時に安堵のため息を深くついた。
 やがて車は市街地へと入っていった。通りに沿って西欧風の建物が並んでいる。街並みだけを見ると、南フランスあたりとあまり変わらない印象を受ける。実際、看板や標識に書かれた言葉もフランス語だったし、人びとの服装もマルセイユとそう変わりがなかった。
 大きな聖堂が建っている付近で、「だいたい、ここらだな。中心街ってのは」と運転手は言った。
「もう少し、チュニスらしい情緒漂う場所ってないのかしら」
 お母さんは首をかしげながら言った。
 運転手は黙って、少しだけ車を進めた。そして、ある交差点の手前で停車し、細い脇道の奥を指差した。
「あの先がメディナっていう旧市街だ。そこならきっと、あんたがたが満足できる情緒がいっぱい見つかるさ」
 タクシーから降りるやいなや「せいせいしたわ」とお母さんは言った。「なんてひどい運転手だったのかしら」
 そして、わたしたちの気を取り直そうと、努めて元気な声を出した。
「さぁ、嫌なことは忘れて、チュニスの街を楽しみましょう」

 メディナは実に不思議な雰囲気を漂わせる街だった。
 白壁のイスラム様式の建物や、道行く人々のムスリム風の衣装は明らかに異国を感じさせた。
 タクシーを降りた西欧風の新市街から五分と歩いていないのに、いきなり千夜一夜物語の挿し絵の中にねじ込まれたような急激な展開だった。
 街路は無規則にクネクネ曲がりながら、複雑に絡み合っていた。道の両側には市場が立ち並び、様々なものが売られていた。
 唐辛子、ナツメヤシ、胡椒、オリーブ、絨毯、華麗な装飾に彩られたナイフ類などなど。
 肉を焼く匂いや、香辛料の濃厚な香りが鼻をかすめる。
 それら雑多な店々が織り成す混沌とした雰囲気に、わたしは完全に心を奪われた。
 とりわけ、金銀細工の装飾品がところ狭しと並べられた店先のきらびやかさと言ったら。まるで「アリババと四十人の盗賊」に出てくる金銀財宝そのまんまだ。ほら、「開けゴマ!」の洞窟のなかにいっぱい詰まっていた宝物。そんなのが現実にあるなんて思いもしなかった!
 店先の椅子に腰掛けた白い服の老人が、謎めいた笑みを浮かべて、わたしやお母さんにしきりに言葉をかけてくる。静かな調子だけれど、低い声でずっと何やら言い続けている。よくわからないけれど、きっと「見事なお宝でしょう。さぁさ、手にとってごらんなさい。ご婦人がたに、きっとお似合いですよ。どうです? とびきりお安くしておきますよ」などと言っているに違いない。
 確かに、美しさに見とれてしまうし、おとぎ話みたいだし、とても素敵なものだと思う。
 でも、買ってまで欲しいかと言われたら、ちょっと……。フランス人のわたしたちのセンスからすれば、いささか過剰にきらびやかすぎる。
 お母さんも同じように思ったのだろう。老人に「失礼」と言って、金銀財宝の店先からそそくさと離れた。
 日よけのアーケードが連なる小道をいくつか抜け、雑貨店ばかりが軒を連ねる通りにさしかかったとき、お母さんは、台の上にびっしり並べられた革製品の小物を物色しはじめた。金銀に輝く財宝の類と違って、これら革製品のデザインは十分、実用に耐えそうだった。
 値札は付いておらず、価格は店主と交渉次第だ。店主にはフランス語が何とか通じた。お母さんと店主がしばらく交互に金額を言い合っていたが、最後は店主が大げさな身振りで、負けた負けたというようなゼスチャーをした。
 お母さんは小物入れを買い、わたしとソフィーには小さな小銭入れを買ってくれた。

 また、しばらく行くと食べ物の屋台ばかりが並ぶ通りへと出た。
「どう? 何か軽く食べてみない」とお母さんが言った。
「うん、大賛成!」
 わたしはすぐさま応じた。船でランチを食べてはいたが、せっかく訪れた異境の地だ。どうしても、この土地の食べ物に興味がわいてくる。
 とはいっても、どの店で何が食べられるのかさっぱりわからない。
 ある店先には甘い香りがする菓子らしきものが並べてあったが、果たしてどのようなものなのだろう。
「ちょっと聞いてくるね」
 わたしは店頭で菓子の正体やメニューを確認しようとしたが、言葉が思うように通じず、さっぱりこちらの意図が伝わらない。あげくの果てには店主にギロリとにらまれてしまう始末で、スゴスゴと退散してくるしかなかった。
 その時、通りの反対側に停まったタクシーから見覚えのある男性が降りたった。わたしは、お母さんに言った。
「あれって、ネモ船長じゃない?」
「あら、ほんとね」
「ネモ船長ー!」
 わたしは思わず大声で船長に声をかけた。
 振り返った船長は、一瞬怪訝な表情を浮かべたが、手を振るわたしとソフィーの姿を見て表情をくずした。
「おお、これはこれは、確かビクトル号のお客様の……」
 船長は通りを渡りながら言った。
「マリー・フォンテーヌと申します」
 お母さんが挨拶をした。「そして、娘のエマとソフィーです」
「これは、どうも、お嬢様方」
 船長はうやうやしく頭を下げた。
「ところで、こんなところで一体どうされましたか?」
 わたしが、何か食べたいのだけれど、どの店がよいかわからないと答えると、ネモ船長は軽く微笑んだ。
「無理もない。初めての異国の街では、みんな不安なものです。ご安心ください、私がいい店にご案内しましょう」
「ご迷惑ではないですか。何かご用事があったのでは?」と、お母さんが言った。
「いやいや、ちょうど私も、腹が減ったと思っていたところです」
 ネモ船長は、そう言って快活に笑った。
 船長が案内してくれた店は、迷路のような細い街路をしばらく行った先にあった。やはり、こういう場所はやはり慣れた人の案内が無ければ自在に歩き回ることが不可能だ。
「ここはナツメヤシの実を使ったマクロウドという菓子を出す店なんですよ」
と、ネモ船長が言った。
「他の店よりも清潔ですし、きっとお子さまもお気に召すと味だと思いますが」
「ほんとうに助かりました」
お母さんが礼を言った。
 注文した菓子がすぐにテーブルに運ばれてきた。大人にはカプチーノふうのコーヒー、そして子供にはよく冷えたオレンジジュースが添えられていた。
 マクロウドは、揚げパンの中にナツメヤシの実を包み込んだような菓子だった。モチモチとした食感で、噛めば噛むほど生地にたっぷりしみ込んだ蜂蜜の甘さが口の中に広がった。
「これ、おいしいわ」
と、わたしが言った。お母さんもうなずいた。
「そうね、上品な甘さというのかしら」
「気に入っていただけたようですね」
船長が笑みを浮かべた。
「ただ、この店のマクロウドが特別にうまいんですよ。そのあたりの店先でも売っていますが、やめたほうがいい。べったりとした強烈な甘さでとても食べられたものじゃない」
「えっ、他の店のは、そんなに甘さがきついの」とわたしは聞いた。
「ええ、チュニスの人間はやたら甘い味が大好きでね。ただ、フランス本国の人の口にはちょっと合わないでしょうね」
「ずいぶんチュニスにお詳しいんですね」
と、お母さんは船長に言った。
「いやいや、実は私は、ここチュニスの生まれなんですよ。この辺りも子供の頃から馴染んだ街です」
「えっ、てっきりフランスの方だとばかり」
「ハッハッハ」
 船長は笑った。
「生まれ育ちはチュニスですが、両親ともにフランス本国から来た者です。だから外見も、体に流れる血もフランス人そのものです。ただ、私の意識の中では、自分はコスモポリタンだという自覚が強いのですが」
「はぁ、コスモポリタン……」
「古代ヘレニズムの時代、ここ地中海世界には民族や宗教の垣根を超えたコスモポリタニズムという概念があったのです。この地で生まれ育った私も、せっかくだから先人たちの考えにあやかろうかと。現代でも、そういう意識をみんなが持てば、国や民族同士の醜い紛争も起こらなくなるんですがね」
「はぁ」
 わたしたちが戸惑った表情を浮かべたのを見て、船長はまたハッハと笑った。
「いやぁ失敬、突然妙なことを言い出しまして。コスモポリタニズムなんていうものも、結局、古代人の理想――絵空事のようなものなのかもしれません」
「ははぁ、多くのことをご存知なんですね」
 お母さんは、ただただ恐れ入ったというような表情をした。
「お母さんだって、とっても物知りなのよ」
 わたしが口を挟んだ。「昨夜だって『海底二万リュー』のこと、よく知っていたもん」
「そんなの、とても物知りといえるほどのものじゃないわ」
 お母さんは頭を振った。
「ほう、あなたも『海底二万リュー』を読まれたのですね」
 船長は興味深そうにお母さんを見た。
「あれは、私がエコール(初級学校)で学んでいた頃、出版された本でしてね」ネモ船長は懐かしそうに目を細めた。
「親にせがんで取り寄せてもらいましたよ。このチュニスまでは、なかなか本が届かず待ち遠しかった記憶があります。かなり分厚い本でしたが、夢中になって読みふけったものでした。
 潜水艦ノーチラス号には、いろんな国の出身者が乗り組んでいるんです。そういうところも魅力的でね。それが先ほどのコスモポリタン思想にもつながっちゃうんですが、今でもあの本の影響を感じながら生きているんですよ」
「私は、そこまで思い入れを込めて読んでませんでした」
「いやいや、女性の方が、ヴェルヌの冒険小説を読んでいること自体が驚きでした。他の作品も読まれたのですか?」
「ええ、私は『八十日間世界一周』が気に入って何度も読み返したものでした」
「ほう、『八十日間世界一周』ですか。あなたがたは今まさに、それに似たような航海旅行に乗り出したわけですね。きっと大きな体験になると思いますよ」
「ええ、私も今回のインドシナ行きは、人生を大きく変えるような気がしているんです」
 お母さんはうなずいて微笑んだ。
「そうだ」
 ネモ船長は、ふと思いついたように言った。
「せっかくだから、これからカルタゴ遺跡をご覧になりませんか。よろしければ私がみなさんをご案内しましょう」

 メディナからカルタゴまでは四人が一度に乗れる辻馬車で向かった。
 途中、あの忌まわしい湖岸の道路を逆方向へ進むことになったが、馬車の御者は、例のタクシー運転手とは違い、紳士で極めて丁寧な人物だった。
 馬車の中で、ネモ船長はタクシーでのエピソードを聞き、大笑いした。
「それは大変な思いをされましたね。チュニスに限らず、そういう人物はどんな国にもいます。そういう場合は、やはり毅然とした態度が有効ですね」
 聞き耳を立てていた御者もフランス語で口を挟んできた。
「そいつぁ、遠来のお客さんに申し訳ないことをしましたな。チュニスの人間がみんなそういう者だと思わんで下さい」
「いえいえ、後から思い出せば笑い話のようなものです」
 そう言ってお母さんはクスクスと笑った。そして突然、わたしに言った。
「そういえば、エマ。カルタゴの物語をあなたも絵本で読んでいたわね」
「うん……」
 わたしはうなずきつつも不満げに言った。
「でも、あの本、デタラメだらけよ」
「どうして?」
「だって、ハンニバルは象の軍団でローマを攻めたって書いてあったのよ。象が行列でアルプスを越える挿絵まで描いてあったわ。なのに、ここには象が一頭もいないじゃない」
「いやいや、象の軍団を使ったのは、決してデタラメじゃないと思うよ」
 船長は愉快そうに微笑んだ。
「コンゴあたりには、マルミミゾウって小型の象がいるんだ。アジアゾウのように人にも慣れやすいので、おそらくそれを使ってたんだろうな」
「コンゴって?」とわたしは聞き返した。
「アフリカ大陸の中央部にある密林地帯だよ。ここチュニスからだと、広大なサハラ砂漠を越えて、さらにもっと南へ行ったあたりだ」
「遠くね」
「うん、遠いね」
「カルタゴ人って、そんな大昔にコンゴまで行くことができたのですか?」とお母さんが驚いたように言った。「どうやって、行ったのかしら?」
 船長はうなずいた。
「カルタゴ人のご先祖はフェニキア人といいましてね。航海や海上交易が得意な民族だったんです」
「フェニキア人?」
「ええ、もともとは今のオスマン帝国のシリア、レバノンあたりに住んでいた民族ですね。旧約聖書にもツロやシドンの民として登場します。
 フェニキア人たちはギリシャ人と競うように地中海へ乗り出し、各地に植民都市を築いていったんです。カルタゴもそういう都市の一つだった。きっと彼らなら、グルッと大西洋周りの海上ルートでコンゴまで行くことは可能だったでしょう」
「古代人の冒険心って、すごいものですね」
 お母さんは感心したようにため息をもらした。
「私も同感です」と船長はうなずいた。「冒険心だけじゃなく、勇気も大したものです。現代みたいな地理上の情報が何もないわけですからね。
 真偽のほどはわかりませんが、古代の歴史書には、フェニキア人がエジプトのファラオの命を受けて、アフリカ大陸一周の航海をしたという記録が残っているそうです。もし本当ならば、かのバスコ・ダ・ガマの船団より二千年以上も前に喜望峰を越えた人々がいたことになりますね」
 わたしは船長の話に思わず引き込まれてしまった。大昔に大活躍したというフェニキアの人たち。今はどうしているんだろう。
「今でも、そのフェニキア人ってどこかにいるの?」
「残念ながら、もういないんだ。今となってはどういう民族だったのかも、はっきりわからないんだよ」
 わたしは何ともいえず、さみしい気分になった。
 馬車は三十分足らずで海辺のうら寂しい場所で停まった。
 カルタゴ遺跡は、背後にチュニス湾が広がる浜辺の一角に、こじんまりと残されていた。 
 海風にそよぐ髪を抑えながらお母さんが遺跡全体を見渡した。
「思っていたより小さな遺跡なので驚きました」
「ええ、カルタゴは第三次ポエニ戦争のあと、ローマに徹底的に破壊されましたからね」
 ネモ船長は、遺跡群の中に立つ円筒状の列柱を指差した。
「あの柱もローマ時代に建てられたものです。カルタゴ時代のものは、土に半ば埋もれかけている煉瓦や大理石の痕跡ぐらいでしょうね」
 わたしは、大きな穴が開き、崩壊している建物跡を見つめた。
 亀裂の間からは赤い煉瓦と象牙色の大理石が交互に積み上げられた構造が露出している。小高い丘の上には首から上のない石像がじっとたたずんでいる。
 そこはフェニキア人の死の世界だった。
 かろうじて彼らの残像を伝える遺跡の静けさの向こうで、海の深い青さと海鳥たちの生命力にあふれる姿が際立って見えた。

       六 静かな海と楽しい航海

 ビクトル号はチュニスを離れ、一路アレクサンドリアを目指していた。
 途中、沿岸諸都市に寄港する予定はなく、一気にエジプトまで行ってしまう予定だ。
 マルセイユを出航して以来、落ち着いた天候が続き、海はいたって穏やかだった。
 チュニスを出発して数時間後には、左舷方向にシチリアが見えてきた。わたしは早速、船室前の三階デッキへと飛び出し、双眼鏡で島影を眺めた。島影といっても全体の輪郭がわからないほど大きい。
 お母さんは海図を広げながら、「もうしばらくすれば、右方向にマルタが見えてくるかもしれないわね」と言っていたが、いつまでも双眼鏡ばかり眺めているわけにもいかない。そこで、わたしはソフィーといっしょに船内の探検へと出かけることにした。
 探検とはいっても、船の中で子供が自由に見て回れるところは、実はそれほど多くはない。自ずと一階のエントランスやロビー、大広間周辺をグルグル歩き回ることになる。
 わたしとソフィーがロビーのソファの上で飛び跳ねたり、背もたれにのぼったりしていると、同じように船内をうろついている女の子の姿が目に入ってきた。
「ねぇ、ねぇ、ソフィー見てよ」
 わたしは妹にささやいた。
「マルセイユでわたしにアッカンベーッてした子じゃない?」
「ほんとだー」
 わたしたちはソファの後ろ側に隠れ、じっと女の子の行動を観察しはじめた。
 彼女はつんと澄ました表情をしながらロビーを通り過ぎ、大広間の中に誰の姿もないことを確認してからそっと入ってゆく。わたしたちにはまったく気づいていないようだ。
彼女は、そのままステージ脇に置かれたピアノに歩み寄った。
「ねぇ、あの子何するつもりだと思う?」
「いたずらかな?」
 わたしとソフィーがささやきあっていると、女の子はそっと鍵盤のふたを開け、指で静かにキーを叩いた。ドミソの和音が小さく広間の中に響いた。
 わたしたちは、ソファの後ろからスルスルッと抜け出して、大広間へ入っていった。女の子が、少し驚いたような表情で振り返った。
「あなた、ピアノが弾けるの?」
 わたしは女の子にたずねた。女の子はコクリとうなずいた。
「じゃあ、弾いてみせて」
「だめよ、叱られるわ」
 女の子は小さな声で言った。
「そんなこと言って、本当は弾けないんでしょう」
 わたしは少し意地悪く言った。この間、いきなりベーッとされたお返しだと思った。
 女の子は、少し悔しそうな表情をしたが、黙って鍵盤のふたをそっと閉めた。
「わたしはエマっていうの。そしてこの子は妹のソフィーよ」とわたしは名乗った。「あなたの名前も教えて」
 ところが女の子は何も答えずに、大広間から走り去っていった。
「何よ、やっぱり感じの悪い子だわ」
 わたしはむすっとした表情で、女の子の去った方向を見つめた。

 ディナーの時間がやってきた。
 その夜のステージは、最初から黒人ピアニストの出番だった。初日と同じく無愛想極まりない表情ながら、実に魅惑的な音色を奏で続けていた。
「今夜はドビュッシーね。毎晩、素敵な音楽が聞けて幸せだわ」とお母さんが微笑んだ。
 わたしは、チラリチラリとピアノのそばのテーブルを眺めていた。あの女の子の一家が座っているのだ。
 お父さんは、四十歳代半ばくらいだろうか。わたしのお父さんより少し年上のようで貫禄がある。すらりと背が高く、きちんと手入れのされた口ひげを生やしていた。
 お母さんは三十歳そこそこだろう。わたしのお母さんと同じくらいに見える。
 女の子は極めておとなしく上品に食事をしていた。四六時中、注意ばかりされているわたしやソフィーとは大違いだった。
 彼女は上品に食べながらも、時折、そっと黒人ピアニストのほうを眺め、その演奏している姿を興味深そうに見つめていた。
「あの子、ピアノが好きなんだろうね」
 突然、お母さんが言った。
「へ?」
 わたしは、とぼけたような返事をした。
「エマも見ていたんでしょう、あの子のこと」
 お母さんは笑った。
「私も弾いてみたいって表情でピアノを見ているわ。フランスではピアノを習っていたんじゃないかしら」
 わたしは、もう一度、女の子の方を見た。
 なるほど、テーブルの端にのせた指先が時折、鍵盤を弾くような感じで動いている。ピアニストの奏でる音に合わせて、弾いているような気分になっているんだろうか。
 やがて女の子も視線に気づいたのか、わたしのほうに目を向けた。
 今度は、彼女もベーッとしたりしなかった。そればかりかわたしに向けて、ちょっと微笑んだ表情をしてみせた。
 わたしもすぐに微笑み返した。
 それだけなのに、なぜか、すごく距離が縮まったような気分がした。

 翌日も船は、静かな海の上をひたすら東へ向かって進んでいた。
「今日あたりクレタ島の南側を通るはずよ」とお母さんからアドバイスを受けて、わたしは三階デッキから双眼鏡で左舷方向を眺めていた。
 確かに水平線上に黒い陸地のようなものが見えるような気がしたが、それがクレタ島なのかどうか、わたしにはわからなかった。
 ソフィーもわたしの隣でじっと海上を眺めていたが、チュニス沖で気分が悪くなって以来、双眼鏡を貸してくれとは言わなくなった。よほど、ひどい思いをしたのだろう。
 だんだん、目が疲れてきたから双眼鏡から目を離し、青空に筋のように浮かびあがったうろこ雲を見上げていると、ふと、ソフィーが問いかけてきた。
「ねぇ、お姉ちゃん、クレタ島ってどんな島なの?」
「うーん、学校の本に書いてあったんだけどね」
 わたしは、そっと眉間にしわをよせて、わざと低い声で言った。
「とてもコワーい怪物がいるらしいわ」
「うぇっ、怪物?」
 これだけで、ソフィーは及び腰になっている。でも興味はあるのだろう、我慢してデッキの手すりを握りしめ、さらに聞いてくる。
「そ、それで、それで、どんな怪物なの?」
「とても大きくて牛みたいな姿をしてるの。とても、ややこしい名前なのよ。えっと何てったっけ」
 わたしが思い出せずにウンウンうなっていると、背後から突然声がした。
「それ、ミノタウロスのことじゃない?」
「そうそう、それよ。ミノタウロス!」そう言って、わたしは声の方を振り返った。そこには、あの女の子が立っていた。
 ソフィーが声をあげた。「わぁ、アッカンベーッの女の子だ」
 アッカンベーッの女の子と呼ばれ、彼女は一瞬顔を赤らめたが、すぐに冷静な表情を取り戻し、自分の名前を名乗った。
「私はジャクリーヌよ。みんなにはジャッキーと呼ばれてるの」
 そして、彼女は手を差し出した。「よろしく」
「ええ、よろしく」
 わたしはジャッキーの手を握った。彼女の手は、ちょっと震えていた。一見クールそうな態度をしているけれど、きっと心中は緊張しているんだろうな、と思った。
「ねぇ、ねぇ、ジャッキー」
 ソフィーは、さっそく昔なじみのように親しげに呼びかけている。
「ミノタロウのお話聞かせて」
「ミノタロウじゃなくてミノタウロスよ」
ジャッキーは苦笑した。
「ミノタウロスっていうのはね、クレタ島にあったラビリンスっていう迷宮の奥に住みついた怪物なの。半分は人の姿だけれど、残り半分は牡牛の姿なのよ」
「うん、そう、その通り」
わたしは腕を組んでうなずいた。
「若い男女を生け贄として捧げなくちゃ、悪さをするので、島の人たちは仕方なく、生け贄を毎年選んで、迷宮の奥へ送り込んでいたの」
「うんうん、その通り」
わたしは目を閉じてうなずいた。
「美しい乙女のアリアドネが生け贄に選ばれた年、勇者テセウスが立ち上がって、ミノタウロスを退治して、アリアドネを無事救い出したのよ」
「そうそう! その通り」
わたしは力強くうなずいた。
「もう、お姉ちゃんたら、さっきから『その通り』ばかりじゃない」
ソフィーが文句を言った。
「だって、わたしが読んだ本の通りだったから、うなずいていただけよ」
 すると、ジャッキーがわたしにたずねた。
「じゃあ、このお話の続きをあなたは知っている?」
「えっ、続き……」
ウッと詰まってしまった。続きったって……、そんなの、わたしが知るわけないじゃないの。
でも、ソフィーの手前、何か言わなきゃと思い、適当に答えた。
「そりゃあ……、テセウスがアリアドネを故郷に連れ帰り、二人は末永くめでたし、めでたし……」
 ジャッキーはフフっと笑った。
「やっぱり知らないようね」
 わたしは決まり悪い思いで、横目でソフィーを見た。
ジャッキーは勝ち誇ったような表情で言った。
「いいわ、教えてあげる。テセウスはね、アリアドネを連れ帰る途中、立ち寄ったナクソス島で、眠っている彼女をなぜか置き去りにしてしまうの」
「なんで?」
「それはわからないわ。急にアリアドネが好きじゃなくなったという話もあるし、乱暴者のディオニソスや牧神パンたちに追っ払われちゃったという話もあるわ。それでね、アリアドネは結局、大酒飲みで粗暴なディオニソスの妻になっちゃうの」
「なんで、なんで、なんで?」
 わたしは納得がゆかず、ブルンブルンと首を振った。ヒロインが酒飲みで、しかも乱暴者の妻になっちゃうなんて、いくらなんでもひどすぎる。
「そんな結末、ちっとも素敵じゃない」
「だって、それが神話というものなんだから、仕方ないわ」
と、ジャッキーはまるで人生経験豊かな大人のような顔つきで落ち着き払って言った。
「テセウスもテセウスよ。ミノタウロスをやっつけたくらいの勇者なら、簡単に追い払われるなって言ってやりたいわ」
わたしは呆れてしまって荒い鼻息を噴き出した。「だいたいね、ディオニソスも牧神も神様なら、なんでそんなに乱暴なわけ?」
「そんなこと私に聞かれても知らないわよ」とジャッキーは言った。「でも、相当なワルだったらしいわよ、その頃の牧神とディオニソスは。人に迷惑かけてばかりの神話がいくつもあるわ」
 むむむ、人に災いをもたらす神かぁ、どこかで聞いたような話だとわたしは思った。
「おやおや感心だな。神話のお話かい?」
 突然、背後から声がして、わたしたちはビクッとした。つくづく今日は背後からよく声のかかる日だと思った。
 振り返ると、そこには制服姿の紳士――ネモ船長が立っていた。
「また会ったね、エマとソフィー。そして、そちらはソルニエさんのお嬢さんの……」
「ジャクリーヌよ。わたしたちジャッキーって呼んでるの」とわたしが紹介した。
「ジャッキー、よろしく」
 ネモ船長から差し出した手を、ジャッキーはやや緊張気味に握り返した。「よろしく……」
「君たちはクレタ島の神話について語り合ってたんだね」
 船長はデッキの端に立ち、首から提げた双眼鏡で左舷方向の水平線上を眺めた。わたしのものより大きくて重量感のある双眼鏡だった。
「やっぱり、あっちの方向にクレタ島があるの?」
 わたしの問いかけに「ああ、そうだよ」と船長はうなずいた。そして、双眼鏡から目を離しながら、「君たちはラビリンスが実在したってこと知っているかい?」と言った。
「えっ、本当にあったの!」
 わたしは信じられない思いで聞き返した。
「だって、神話の中のお話なんでしょう?」と、ジャッキー。どうやら彼女も知らなかったらしい。
「そう、神話の中のお話だよ。だから、当然、ラビリンスなんて想像上のものだろう、あるわけがないと誰もが思いこんでいたんだ」
 船長は優しい目でジャッキーを見下ろした。
「しかし、神話でも、伝説でも、それは実際にあった話がもとになっているはずだ、と考えた人物がいたんだ。ハインリッヒ・シュリーマンっていうドイツ人だ。
彼はホメロスの『イリアス』に描かれたトロイアを、物語の叙述に基づいて探しはじめた。そして誰もが後世の作り話と思っていたトロイアの遺跡を見事発見した。その後、彼はミケーネの遺跡も発掘している。
シュリーマンの調査や発掘方法には、いささか自分勝手で強引なところもあって批判も多いけれど、発想と着眼点は評価してもいい」
「クレタ島のラビリンスもシュリーマンって人が見つけたの?」と、ジャッキーが聞いた。
「彼もクレタの発掘に挑戦したけれど、残念ながら何も見つけてはいない。発見したのはシュリーマンの発想に刺激を受けた英国人アーサー・エヴァンズだ。彼は十数年前にクノッソス宮殿の遺跡を発見したんだが、これが神話のラビリンスそっくりの複雑な建物だったんだよ」
「じゃあ、怪物のミノタウロスもやっぱり本当にいたの?」
 わたしは身を乗り出した。ソフィーは、冗談じゃないって表情で震えている。
「うーん、ミノタウロスはどうだろうな」
 船長は笑った。
「怪物はやっぱり想像上のものだろうね。クノッソス宮殿も、怪物の巣窟のような陰気なものではなく、もっと明るいイメージだったようだ。宮殿内を彩っていた壁画の一部も見つかっているけれど、その復元想像図を見ると、海の中を生き生きと泳ぎ回るイルカや魚たちや、楽しげに暮らす人々の様子が描かれているんだ。とても平和で穏やかな生活をしていた雰囲気が伝わってくるんだ」
「ふうん、クレタは平和な島だったのね」
「うん。しかし、平和だったはずのクレタの文明も突然滅亡している。おそらく他の民族と戦争になって征服されたんだろうね。いつの時代も人間はおろかなものだよ」
「じゃあ、クレタの文明を作ったひとたちは?」とわたしは聞いた。
「今では、どうなったのかわからないね。どういう民族だったかもよくわかっていない。カルタゴで話したフェニキア人の話とそっくりだね」
 ネモ船長はさびしそうに言った。
「おや?」
船長は、わたしが持っている双眼鏡に気づき、そっと手を触れた。「これは君のものなのかい?」
「ええ、ル・アーブルで知り合いのおじいさんからもらったの」
「ほう、これは」
そう言って、船長は目を細めた。
「懐かしいよ。私が船乗りになった頃、初めて手に入れた双眼鏡がこれと同じものだった」
「えっ、ネモ船長もこれを使っていたの」
「うん、なかなかいいものだよ。丁寧に扱えば、何年でも使える。大事にしなさい」
 わたしは、なんだか自分がほめらたような誇らしげな気分になった。
「あの……、ネモ船長さん」
 ジャッキーがおずおずとした声を出した。
「何だい?」
「あの……、えっと……」
ジャッキーは、視線をあちらこちらにせわしく動かしながら、なかなか用件を切りだせないでいる。
「ピアノのこと頼みたいんじゃないの?」とわたしは言った。
ジャッキーは少し驚いたような表情をしたが、コクッとうなずいた。
「ほう、ピアノ?」と船長が聞いた。
「ええ、大広間のピアノが弾きたいんだよね」
 わたしが代わりに言った。
ジャッキーはうなずきながら答えた。
「誰も使っていない時間に少しの間でいいんです」
 船長は表情をくずした。
「うん、船長の立場から言えば、了解した、と言いたい。でも、あのピアノはロイの管轄下にあるからなぁ。ロイっていうは、あの黒人ピアニストのことさ。ロイ・キング、アメリカ人だ。彼に頼んでみなさい」
 そして、「ではでは、これにて、お嬢様がた。そろそろ仕事に戻らなくてはクルーたちに叱られてしまう」と笑って立ち去っていった。
 船長の後ろ姿を見送りながら、「あのピアニストに直接頼めって言われてもねぇー」とわたしはつぶやいた。

 この時以来、ジャッキーは、わたしやソフィーと行動を共にするようになった。
 いろいろ話すうちにわかったのだが、年齢はわたしより一つ上だった。ただし、彼女はこの九月に十一歳になったばかりなので学年でいえば七月生まれのわたしと同じだった。
 そして、想像していたとおりパリ育ちだった。パッシーと呼ばれる閑静な地域に住んでいたそうだ。
 ジャッキー一家の船室は、わたしたちと同じ三階にあった。
同じフロアなのに、少し離れた位置にあったので、全然気づいてなかった。ジャッキーのほうでは航海初日から気づいてたらしいけど。
「ちなみに、うちは一等船室なの」
 わたしがいささか得意げに言ったところ、ジャッキーが「あら、うちは特等船室よ」ってさらっと答えたので、びっくりしてしまった。
何なんだ、特等船室って?
 一等より上があるなんて反則じゃないか。わたしはそれまで一等船室が最上級、ビクトル号の船室ランキングの頂点だと思い込んでいたので、価値観がガラガラと崩れさるようなショックを受けた。世の中には上には上があるもんだと、ため息をついた。
 その夜のディナータイムは、楽団の演奏のあとに、ロイ・キングのピアノ演奏が行われた。さてさてジャッキーは、どのタイミングでロイに話しかけるのだろう? 
 ジャッキー一家のテーブルはいつも通り、ピアノのすぐ近くだった。話しかけるには、これ以上のポジションはないという絶好の場所にジャッキーは座っていた。
 その夜のロイの演目は、すごくノリの良い楽しげな曲ばかりだった。アメリカで流行っている曲なんだろうか。それは大西洋の向こうの新大陸を感じさせる新しい音楽だった。耳になじみやすいメロディー、そして自ずと体が動きだしてしまうようなリズム――そんな要素が散りばめられた音楽だった。
 ジャッキーは、昨夜と同じようにピアニストの指の動きをじっと眺めていた。そして、それを真似るように、テーブル上の見えないキーに指を滑らせている。
 ロイ・キングは楽しげで軽やかな音楽を奏でている時ですら、仏頂面のままだった。まるで他人が吐き出したばかりのチューインガムを踏んづけてしまったような、何ともいえない不機嫌な顔つきだ。
もう少し、にこやかな表情をつくったほうが乗客へのサービスにもなるだろうに。でも、彼にそんな気は毛の先ほどもなさそうだった。
 やがて、ロイのピアノ演奏が終わった。ステージから下がるとき、ロイは形ばかりの会釈をした。
 その時、ジャッキーが決意を固めたように口元をギュッと結んで、腰を上げるのが見えた。
――あぁ、ついにロイに話しかけるのね。
わたしは固唾をのんで成り行きを見守った。
 ジャッキーはまっすぐにロイのほうを見つめている。ロイも彼女の動きに気づいたように振り向いた。話しかけるなら、今しかない。勇気を出してがんばれ、ジャッキー。わたしは心の中で大声援を送った。
 ところが、表情を全く崩さないロイを前にして、ジャッキーは硬直したように動かない。ロイは、その脇をすっと通り過ぎ、まっすぐ控え室のほうへと去っていった。
 ジャッキーはわたしのほうを見た。顔を赤らめるや、いきなりわたしに向ってアッカンベーをした。
マルセイユ港以来、久々に見るジャッキーのアッカンベーだった。

       七 クレオパトラの夢
 
 チュニスを出て三日目の朝、わたしとソフィーは、ジャッキーと広いメインデッキに置かれたチェアに座って話し合った。
どうしたら、ロイにピアノのことを頼めるのだろう?
「やはり最大の難関は、あのムスッとした顔よね」
 わたしはいきなり問題の核心に迫る発言をした。
「あれを乗り越えるのは至難のわざだわ。だって怖いもの。わたしだったら、あっさりあきらめちゃうわね」
「そんな冷たいこと言わずに一緒に考えてよ」
 ジャッキーは弱々しく言った。
「そうだ!」
 ソフィーが突然声をあげた。
「なに、なに? あなた、いい方法を思いついたの?」
 ジャッキーの問いかけに、ソフィーは自信たっぷりにうなずいた。
「顔が怖いんだったら、見なきゃいいんでしょ。目隠ししてお願いしたらどう?」
「もう、ソフィーったら。どこの世界に目隠ししてお願いごとをする人がいるの?」
 ジャッキーはロイ・キングに負けないくらいのムスッとした顔をした。
「いい考えだと思ったんだけどなぁ」とソフィーはぼやいている。
「もしかして、演奏してるときだけ怖いっていうことはない?」とわたしは言った。
「ほら、職人気質っていうやつよ。すごく集中しているから周りからは怖く見えてしまうの」
「うーん、それはありうるかもね」
 ジャッキーはうなずいた。「で、普段、彼はどこにいるのかしら?」
「さぁ」
 そういえば演奏しているとき以外にロイを船内で見かけたことがなかった。いったい、どこで何をしているんだろう。
「船員用の船室が下の方にあるでしょう。あそこにこもりきりなのかもしれないわね」とジャッキーは言った。「ディナーの後も、彼はバーで遅くまで演奏しているはずよ。疲れきって昼は眠っているのかも」
「ということは、やはりディナーのときしか話しかけるチャンスはないってことね」とわたしは言った。「やっぱり、ここは真正面からお願いする勇気を持たないと」
「勇気か……。昨夜だってずいぶん勇気出したつもりなんだけどね」
 ジャッキーはため息をついた。
「彼の前に立つと、もう声が出てこないの。どうして怖いのかなぁ、あれほど素敵にピアノを弾ける人なのにね」
「素敵なピアノか」
わたしは昨夜、ロイが仏頂面をしながら奏でていた音楽を思い出した。「昨夜の曲、とっても良かったよね」
 体が自然に動き出してしまうようなリズム。耳にすぐなじむメロディ。ぜひ、もう一度ああいう気持ちのいい曲を聴きたいものだと思った。
「ああ、ラグタイムね」とジャッキーが言った。
「ラグタイム?」
わたしは彼女に聞き返した。「あの音楽ってラグタイムって言うの?」
「うん、アメリカの黒人ミュージシャンたちが盛んにやっている音楽なの。あなたたち、スコット・ジョプリンとか知らないかしら」
 わたしとソフィーは同時に「知らない」と答えた。
「パリなんかでは、最近よく耳にするんだけどな」
ジャッキーはしれっとした表情で言った。「あら、ル・アーブルでは聴いたことなかったの?」
 ル・アーブルがバカにされたような気がして、わたしはちょっとムカついた。だから、「そんな憎まれ口ばかり言ってると、協力してあげないからね」と言ってやった。
 すると、とたんにジャッキーはオロオロとした表情になり、素直に「ごめんなさい」とあやまりはじめる。ああ、ジャッキーのこういうところが憎めなくて、放っておけなくなっちゃったんだろうなぁ。

 午後、ビクトル号はエジプトのアレクサンドリアに入港した。
 わたしは入港する随分前からデッキに立ち、近づいてくる古い都の様子を観察した。
 海上から見るアレクサンドリアは驚くべき都会だった。水際まで迫った街並みが海岸線に沿って、どこまでも続いていた。双眼鏡で見ると海沿いの大通りには多くの自動車や馬車が走っているのが見えた。
 やがて、港から二隻のパイロットボートが近づいてきた。ビクトル号はそれら小型船の助けを借りながら接岸していった。
 船は、アレクサンドリアでも一泊の停泊予定だった。
 わたしがうれしかったのは、上陸後の夕食を、ジャッキーの一家とともにすることになったことだ。どうやら、子供たちが仲良くなったのを見ていて、両家の大人たちが誘い合わせてくれたらしい。
 約束の午後六時に、わたしたちがロビーに下りると、ジャッキー一家の三人がソファに腰掛けて待っていた。
 ジャッキーのお父さん――ソルニエさんが立ち上がりながら、手を差し出した。
「お待ちしておりましたよ、フォンテーヌさん。今夜は急にお誘いしてご迷惑じゃなかったでしょうか」
 ジャッキーのお母さんも手を差し出してきた。「娘がお嬢様方に仲良くしていただいているようで、とてもありがたいと思っています」
 わたしのお母さんは二人の手を握りながら、「こちらこそ、いいお友達ができたと喜んでおりますわ」と言った。
「おやおや!」
 ソルニエさんは全員の姿を見回して、驚いたような声を上げた。「この中で男は私だけのようですね。これだけの淑女を連れてゆくとなると責任重大だ」
 そして笑いながら続けた。
「さぁ皆さん、行きましょうか。とっておきのレストランへご案内しましょう」

 ソルニエさんの案内で到着したレストランは、サン・ステファノ・ビーチという眺めのよい海岸沿いにあった。砂浜に面したテラスにテーブルがしつらえてあり、一同はそこに案内された。
 もう九月も半ばだというのに、さすがは南国のエジプトだ。海辺でもまだ十分に暖かく、ヨーロッパからの旅行客でにぎわっていた。
 砂浜には背の高いヤシの並木が連なり、青い地中海が静かな波音を響かせていた。海上からのそよ風と、寄せる波の緩やかなリズムが、とても心を安らかにしてくれる。たなびく雲が、西に傾く陽光を受けて、茜色に染まりつつあった。
「とうです? なかなか良い店でしょう」
ソルニエさんが得意げに言った。
「ここは、目の前の地中海で獲れたシーフードを食べさせる店なんです。エビやカニ、イカなど新鮮な食材を使った料理を出してくれます」
「このお店にはよくお越しになるんですか?」
 お母さんがたずねた。
「ええ、仕事の関係でインドシナへの行き来を繰り返していますが、途中、アレクサンドリアに立ち寄ることも多いんですよ」
「旅慣れた方とご一緒させていただくと、本当に心強いですわ」
 お母さんは実感を込めて言った。「ところで、ソルニエさんはどういったお仕事を?」
「インドシナでゴム園を経営しています」
「ゴムって、樹脂から作るのですよね」
「その通りです」
 ソルニエさんは力強くうなずいた。
「ゴムの生産地としては、英国領のマレーあたりが有名ですが、最近ではフランス領インドシナでも負けじとゴム園の拡大しているんです。私はコーチシナ(インドシナ南部)の複数の場所でゴム園を所有しています」
「これまでは、フランス本国から現地へ指示を出しておられたのですか?」
「ええ、私はパリの本社にいました。現地には常駐せず、年に一度ぐらい視察で訪問する程度でしたね。農場の運営は代理人に任せまして――」
ソルニエさんは、いったん言葉を切り、ため息をついてから続けて話した。
「しかし、近年では競争も激しくなり、経営者自ら現地で陣頭指揮を取らねばならない状況になりましてね。とうとう一家そろって赴任という具合です。つくづく大変な時代になりましたね」
「ウチもおおむね同じような事情です」とお母さんは笑った。
「フォンテーヌさんのご商売はコーヒー豆ですよね」
「あら、ご存知でしたか?」
「もちろんですとも」
 ソルニエさんは大仰にうなずいた。
「インドシナで働くフランス人はみんな知っていますよ。コーヒーといえばフォンテーヌ印。知らない者はモグリです。お宅のご主人もコーチシナ各地でコーヒー農園を管理されておられるのでしょうね。本当にウチとよく似た状況なのでしょう」
「インドシナでは、どちらの都市にお住まいに?」とお母さんはたずねた。
「サイゴンに落ち着くと思います。本国への輸送や連絡の窓口として、本部をサイゴンにおいていますからね」
「ウチも確かサイゴンよね」とわたしは聞いた。お母さんはうなずいた。
 わたしとジャッキーは顔を見合わせた。
「じゃあ、わたしたち同じ学校に行けるのかも!」
 テーブルに次々と皿が運ばれてきた。シーフード・サラダに始まり、イカやエビのフライ、白身魚のグリルなどなど。マルセイユのブイヤベースのような独特の臭みをあまり感じさせず、わたしの口にも合うものばかりだった。
 わたしの食べっぷりを見て、ソルニエさんがニヤリとした。
「実においしそうに食べるなぁ、エマさんは」
 ソフィーが目の前に広がるビーチを指差した。
「ねぇねぇ、この海って泳げるの?」
「もちろんだとも」
 ソルニエさんは大きくうなずいた。
「今の季節でも日中はとても暑くなる。昼は大勢の海水浴客でいっぱいだよ。そうだ、明日、みんなで泳ぎに来るかい?」
「大賛成!」
 わたしとジャッキーが同時に声を上げた。

 真昼のサン・ステファノ・ビーチは、完全に夏のバカンスリゾート状態だった。ヒラヒラのついた水着姿の人々が砂浜を埋めつくし、遠浅の浜辺のいたるところから景気のよい歓声があがっていた。
 波は穏やかだし、水も温めで子どもにはうってつけの浜辺だったと言えるかもしれない。わたしとソフィー、そしてジャッキーはしばし時を忘れて遊んだ。
 そして、三人の子供たちの世話役をしていたのは、気の毒なソルニエさん一人。ジャッキーのお母さんとわたしのお母さんは日焼けを恐れて海には入らず、海辺のカフェのオーニングがつくる涼しげな陰に隠れて優雅なおしゃべりをして過ごしていた。
 アレクサンドリアののどかな海は、わたしが幼い頃から行き慣れたエトルタの海とは対象的だった。エトルタは荒々しい大西洋の波が押し寄せる迫力のある海だった。

 ランチを挟んで、三時間ほど遊ぶと、さすがにみんなヘトヘトになってしまった。わたしたちはソルニエさんに連れられて、お母さんたちが待つカフェへと引き上げてきた。
「私バテちゃったから、もう何もしゃべんない」 
 少々、グロッキー気味のジャッキーはそう言ったっきり口をつぐんでしまった。
「ジャクリーヌ、そんなこと言わずに。さぁさぁ、みんな、十分にのどをうるおしなさい」
 ソルニエさんはそう言って、オレンジジュースを注文してくれた。
 ジュースが運ばれてくるや、三人とも店員の手からひったくるようにグラスを奪い取り、無言でグビグビ飲んだ。乾ききったのどを甘ったるい果汁が、ねっとりと通過してゆく。
「まあまあ、三人とも、よく日焼けしたわね」とお母さんが目を丸くして言った。「今夜、シャワーを浴びるとき、少し痛むかもよ」
「えっ、痛いの?」とソフィー。
「楽しんだんだから、ちょっとぐらい痛いの我慢しなさい」とわたしは妹に言った。
 ソフィーは、赤らんだ腕や肩の皮膚をこすりながら「へー、痛いのかぁ。イヤだなあ……」と小さな声でつぶやいた。
「ねぇ、お母さんたちは何をしていたの?」とわたしが聞いた。
「おしゃべりばかりしていたわ」
 ジャッキーのお母さんが笑いながら答えた。
「そうそう」と、うちのお母さんがうなずく。「サイゴンには、どんなおいしいものがあるとか、どこそこによいお店があるとか、そんな情報を教えてもらっていたの。とても、ためになったわ」
「なぁんだ」わたしはあきれ声をあげた。「長い時間があったのに食べ物やお買い物の話ばかりかぁ」
「そんなことないわよ」
お母さんが、少しふくれっつらをして言った。「歴史の話もして、ちゃんとお勉強もしたのよ」
「歴史!」
 ジャッキーがいきなり猛然と食いついてきた。
「私、歴史の話が大好きなの。ねぇ、どんなお話をしていたの?」
 ついさっきまで、バテたからしゃべんない、とか何とか言っていたはずなのに。好きな話題となるとジャッキーの復活ぶりはすごかった。
「クレオパトラのことなんかよ」とジャッキーのお母さんが答えた。「確か、アレキサンドリアはクレオパトラの町だったなあ、って」
「クレオパトラかぁ」
ジャッキーが鼻息まじりに言った。
「ねぇねぇねぇ、お父さん!」
「んんん? 何だね」
「クレオパトラが、カエサルやアントニウスに出会った場所も、アレキサンドリアなの?」
「ああ、そうだったはずだが……」
 ソルニエさんはうなずいた。
「じゃあ、クレオパトラが荷物の中に潜んでカエサルに会いに行ったってエピソード、この町での出来事なのかしら。美しい彼女が現れたときカエサルは、さぞドッキリしたことでしょうね」
 ジャッキーは夢中になって一気にまくしたてた。「あぁ、とてもきれいな人だったんだろうなあ」 
 ソルニエさんは、笑いながら答えた。
「そりゃあまあ、ローマの英雄が二人もとりこになってしまうぐらいだから、そうとうな美貌だったんだろうな。お父さんもぜひ会ってみたかったよ。もっとも、今でもこの町には美人が多くて、あちらこちらと目移りしてしまうのだが」
「もうお父さんったら、すぐにそんな話ばかり」
 ジャッキーが、ぶすっとした表情でつぶやいたので、みんな一斉に笑った。
「クレオパトラって、たしか大昔の女王様だよね?」と、わたしは口をはさんだ。自慢じゃないが、わたしは歴史にはからっきし弱い。太陽王だったのは、ルイ十三世なのか、十四世なのか、十五世なのかもわからないぐらい。でも、クレオパトラの名前ぐらいは辛うじて知っている。
「当たり前じゃない」とジャッキーが突き放すように言い放った。「女王以外のクレオパトラがどこにいるってのよ」
「まぁまぁ、ジャクリーヌ」
ソルニエさんがたしなめるように割って入った。
「うむ、そうだよ、エマさん。正確にはクレオパトラ七世って言うんだが、三千年続いたといわれる古代エジプト王朝最後のファラオだね」
「えっ」わたしは驚いた。「三千年も続いたの?」
「そうなんだ、ずいぶん続いたもんだろう」
そう言ってソルニエさんは微笑んだ。「口先だけで三千年と言うと簡単だけど、どれくらいの時間の長さか想像できるかい?」
「んー、できない」
「じゃあ、エマさん、比較する例を出そう。そうだなあ、イエス・キリストの誕生なんてどうだろう。今年は一九一三年だから、イエスがベツレヘムの粗末な小屋で生まれてから今まで、二千年に少し足らないってところだね」
 わたしはイエス生誕にまつわる情景を思い浮かべた。
 飼い葉桶のなかの愛らしい赤ちゃん。聖母マリアとヨゼフ、そして羊飼いとロバ、牛などの動物たち。やがて、そこを東方の三博士が訪れる。
わたしの感覚からいえば、新約聖書に書かれたイエス誕生の物語だって時の彼方に霞んでしまいそうなほど、とんでもない大昔の話に思える。
 でも、三千年っていうのは、その『とんでもない大昔』より、さらに千年も長いってことになのだ。
「さてさて、三千年の長さが、ある程度実感できたような表情になってきたね」
ソルニエさんは微笑んだ。
「それだけの長い期間、古代エジプトの文明は続いていたってことなんだ」
「へぇー」
 わたしだけでなく、お母さんやジャッキーのお母さんも一緒に声を出した。
「ちなみに」
 ソルニエさんは話を続けた。
「古代エジプトが滅んだのは、イエス生誕の少し前のことだから、両方合わせると、三千プラス二千で、今からざっと五千年前。それぐらい古くからエジプトには文明が栄えていたんだ」
 五千年前……。わたしは気が遠くなりそうな気分がした。
「かのナポレオン・ボナパルトがピラミッドを指差し、『見よ、四千年の歴史が諸君を見つめている』なんて兵士たちに言ったそうだが、あながち大げさではなかったのさ」と言ってソルニエさんは笑った。
「しかも、大昔だからと言って、現代文明よりも劣っていたかといえば、そうとも言えない。たとえばギザにある大ピラミッド。あれは今の建築技術をもってしても、そう簡単に作れるもんじゃない。なんでそんな高度な文明が突如、砂漠の国に現れたんだろうね。まったくもって不思議なもんだ」
「でも……」
 わたしは不思議に思った。そんな大昔に高度な文明を築いていたというならば、今頃は想像を絶する超科学文明を築きあげていてもよさそうなものなのに。
「そんな、すごかったエジプト文明は、一体どこへ消えちゃったの?」
「ローマに滅ぼされちゃったのよ」
ジャッキーが横合いから言った。
「ええっ、ローマ?」
「あなた、ちゃんと勉強しなかったの?」とジャッキーが眉をひそめた。
「オクタビアヌスが率いるローマ軍が、アントニウスとクレオパトラの連合軍を打ち破ったって学校で教わらなかった?」
うぬぬ……、ジャッキーの言い方も頭にくるが、それよりも、またしてもローマだ。カルタゴに引き続き、古代エジプトもローマにやられていたのか。
別にわたしは個人的にローマに恨みがあるわけではなかったが、ローマ人がそこらで行った所業の跡を目にするうちに、義憤のようなものを感じていた。
「ローマって、ホントにひどい国ね」
 思わずわたしはつぶやいた。
「おやおやおや」
 ソルニエさんが、ニヤッと笑った。
「でも、我々フランス人は、そのローマの末裔の一つともいえる存在だよ。そういう歴史の積み重ねの上に、今我々が住む世界があるんだ。大昔の人間の行いは、なかなか善悪だけでは評価しきれないんだよ」
「そんなものかしら」
 わたしはちょっと不満げに言った。
 ソルニエさんはちょっと考え込んでからつぶやいた。
「もしかすると、今我々がやっていることも同じようなことかもしれないね。我々、ヨーロッパ人にはローマ人の血が今なお脈々と受け継がれているのかも」
「ローマ人の血?」
 わたしとジャッキーがほぼ同時に言った。
「うん。我々ヨーロッパの人間は、余所よりも早く産業革命を経験したおかげで、世界の中で極めて有利な立場に立っている。その文明力を背景に、アフリカ、アジア、オセアニアそして新大陸の国々を支配し、自分たちの思い通りにしようとしている。それぞれの土地に現地人の長い歴史があり、固有の文化があったのにも関わらず、そういうものをことごとく破壊してしまうのかもしれないね。まさしく、ローマ人がしたことを、もう一度繰り返しているみたいだね」
ソルニエさんは、そこで言葉を切り、大げさに表情を崩して言った。
「これは、私としたことが、ついついつまらぬ妄言を語ってしまいました。インドシナで農場を持つ我々やフォンテーヌさんまでが悪者みたいに聞こえてしまいますな」
そして、ソルニエさんやお母さんたちはひとしきり笑いあった。
 ソルニエさんの言いたかったことは、今のわたしならばよくわかる。でも、当時のわたしには少々理解しがたかった。
「さて、みなさん、そろそろ行きましょうか。どこかで食事をしてから、ビクトル号へと戻りましょう」
 ソルニエさんの呼びかけで、みんな一斉に立ち上がった。ソフィーは海水浴で疲れきってしまったのか、完全に眠りに落ちて、お母さんの胸に抱かれていた。
「そうだ」
 ソルニエさんが思い出したように声を出した。
「ビクトル号が停泊しているアレクサンドリア港なんだが、あの水底にクレオパトラの宮殿が沈んでいるそうだよ」
「えっ、宮殿が海の底に沈んでるの?」
 ジャッキーが聞き返した。
「ああ、昔、大地震があって、この街に残されていた主要な建築物が、ことごとく沈んでしまったらしいんだ」
 わたしは港の様子を思い起こした。地中海の深いブルーへと続く、神秘的な青い輝きの港。あそこにクレオパトラの夢のあとが沈んでいるのだろうか。
 もしかすると、海の底の都で人知れず、古代エジプト最後の女王の夢は続いているのかもしれない。わたしは、そう思うことにした。

       八 ユリシーズ幻想

 ビクトル号はアレクサンドリア港を夜更けに出港した。
 翌朝にはスエズ運河北端の都市ポートサイドに達し、その後まる一日かけて運河を通り過ぎる予定だ。
 地中海で最後の夜だったのに、あいにく夕暮れ時から、しとしと雨が降り始めた。エジプトの気候にくわしくはないが、あのように湿っぽく降る雨は、乾燥している北アフリカでは珍しいんじゃないだろうか。
 地中海との別れは、そのままヨーロッパ的な世界との別れのようにわたしには感じられた。
 この世界に帰ってくるのはいつだろう?
 感傷が胸の中にせり上がってくるのを感じながら、わたしはベッドに横たわった。昼に日焼けした上腕部が、少しむずかゆかった。
 船は音のない海上を静かに進み、穏やかなエンジンの振動が徐々にわたしを深い眠りへと誘っていった。

 この先、わたしが見たもの、そして体験したことは、夢の中の出来事なのか、幻覚なのか、わたし自身にもよくわからない。
 後にネモ船長からもらった手紙によると、限りなく現実に近いと思えるけど、やはり判断はつかない。後年、インドシナでわたしが体験することになる不思議の前触れのようなものが、このとき既に起こっていたのかもしれない。
 その夜、わたしが不思議な話し声で目が醒めたのは午前一時前のことだった。目覚めてすぐに、壁の時計を見たので間違いない。毎晩十二時頃まではバーから微かに聞こえてくる音楽や物音も、すでに静まっていた。
 不思議な声はボソボソとした低い声だった。非番のクルーたちが船室の前のデッキで話しているのかもしれない。そう思って、わたしは会話を聞くともなしに聞いていた。
「今宵の月はまた格別じゃあ」
「ほんに、ほんに酒がすすむわい」
 どうやら声の主は二人のようだ。老人のようなしわがれた声だ。こんな声のクルーがこの船にいたかな、とわたしは思った。
 会話から察するところ、二人は月を愛でながら、酒を飲み交わしているようだ。
「中秋の名月まではまだ、どのくらいあるのかの」
「あと数日ばかりじゃの。しかし、わしはまん丸な月よりも、今ぐらいの不完全なお月さんのほうが好きじゃ」
 ――中秋の名月って?
 わたしは聞き慣れない言葉に興味を持った。それに月って……。出港した時は雨が降っていたはずだ。でも月がみえるっていうことは、もう雨はやんでいるんだろうか。
 わたしは、ベッドの中から滑り出した。室内の他のベッドでは、お母さんとソフィーがぐっすりと眠り込んでいる。わたしは足音を立てないように、そっと歩き窓辺に立った。
 窓の外には、デッキのへりで向かい合って腰掛ける二つのシルエットがあった。どうやら二人とも相当な年寄りらしい。ものすごい猫背で、お互いお辞儀し合っているようにも見える。一人は極めて長い髭を伸ばしていた。もう一人はきれいに禿げ上がった頭をしていた。毛のない頭に、月の光がまばゆく反射している。
 ――あんな、おじいさんたち、乗客にいたかしら?
 老人たちが見つめる先には、雨雲の消えた夜半の空に浮かぶ月と星々があった。
 老人たちは、小さな陶製の容器に入った酒を、小さくて平べったい皿のような器に少しずつ注ぎ、ちびちびっと飲んでいた。
 やがて、禿げた老人が器を月の方へ掲げ持ち、感極まったように声をあげた。
「世のなかは空しきものとあらむとぞ この照る月は満ち欠けしける」(※1)
 ほほう、万葉集じゃな。長髭の老人が言った。ならば、わたくしも……。
「天の海に雲の波立ち月の船 星の林に漕ぎ隠る見ゆ」(※2)
 おおおお、人麻呂ですな、と禿げた老人。雄大な光景が目に浮かぶようじゃ。和歌もよいが、漢詩なんかもどうですじゃ。
「靑天有月來幾時 我今停杯一問之 人攀明月不可得 月行卻與人相隨 皎如飛鏡臨丹闕 綠煙滅盡淸輝發 但見宵從海上來 寧知曉向雲閒沒 白兔搗藥秋復春 姮娥孤棲與誰鄰 今人不見古時月 今月曾經照古人 古人今人若流水 共看明月皆如此 唯願當歌對酒時 月光長照金樽裏」(※3)
 ぐぬぬ、李白ときたか。今の我らに、あまりにもぴったりした情景じゃな。ではでは。
「お前の心は けざやかな景色のようだ そこに
見なれぬ仮面してベルガマスクのかえるさを
歌いさざめいて人ら行くが
彼の心とてさして陽気ではないらしい

誇らしい恋の歌 思いのままの世のなかを
鼻歌にうたってはいるが
どうやら彼らとて自分たちを幸福と思ってはいないらしい
おりしも彼らの歌声は月の光に溶け 消える

枝の小鳥を夢へといざない
大理石の水盤に姿よく立ちあがる
噴水の滴の露を歓びの極みに悶え泣きさせる
かなしくも身にしみる月の光に溶け 消える」(※4)
むむむむむっ、ヴェルレーヌときましたか。なかなかやりますのう。
 老人たちは、その後も聞きなれぬ詩のようなものを交互に繰り返している。
 彼らの茫漠とした声を聞いているうちに、唐突な眠気が襲ってきた。コクッとした拍子に額を窓に軽く打ち当ててしまった。さほど大きな音がしたわけではない。しかし、老人たちは動きを止めて「ん?」と言った。どうやら耳は遠くなかったらしい。
 彼らは、ピタリと詩の詠唱をやめ、黙ってしまった。どうしよう、いけないことしちゃったのかしら。わたしは落ち着かない気持ちに襲われた。
「おやおや、お嬢さんが、そんなところにいらっしゃるようだの」
 禿げた老人が言った。
「こちらにお出でなさい。ともに月を愛でようぞ」と長い髭の老人が手招きをした。
 わたしはおそるおそる船室を出た。明かりの無いデッキの上に座る二人は、月の光に照らされているだけである。近づいても、姿がはっきりとわからない。
「ささ、酒でもいかがかの」髭の老人が言った。
「お子様に酒はいかがなもんじゃろう」と禿げた老人。
「むむ、風流でないことを言うではないか。では盃にほんの少しだけ」
 わたしは盃と呼ばれた小皿に注がれた無色透明な液体をのぞきこんだ。慣れない香りが鼻を刺激し、どうしても口をつけることができない。
「ほれ、一気にグイッといけい」と長髭の老人。
 わたしがたじろいでいると、禿げた老人が穏やかな声でとりなしてくた。
「よいよい、無理しなくてもよいぞ」
 わたしは二人にたずねた。「おじいさんたちは、こんな時間に何をしているの?」
「何って、見た通りじゃ。酒を飲んでおる。月を愛でておる」
「月を見ながら、お酒飲むなんて初めて聞いたわ」
「そりゃあ、お嬢さんはヨーロッパ育ちだからじゃろう。東洋では普通のことじゃ」
「おじいさんたちも乗客なの。今まで見かけなかったんだけど。もしかしてアレクサンドリアから乗ってきたの?」
「いいや、わしらは客ではない。今だけ、この場を借りとるんじゃ」
「今だけって……、じゃあ、どうやってここまで来たの?」
 わたしは驚いて、船の周囲を見た。見渡す限り暗い海原が広がっているだけだ。
 老人たちは笑いながら答えた。
「はっはっは、わしらはどこにでも存在しとるんだ」
「しかも過去から現在までのすべての時間にな」
 彼らが何を言ってるのか、さっぱりわからなかった。ようやく暗さに目も慣れはじめ、薄ぼんやりと老人たちの姿が見えるようになったが、二人ともおそろしく古びた衣服を着ていた。いや衣服というより、ボロキレをまとっているだけのようにも見える。
「おじいさんたち、一体誰?」
「わしらか――」髭の老人が微笑んだ。「まあ、教えてやってもいいか」
「うん、いいじゃろう」禿げた老人がうなずいた。そして、二人は改めてわたしのほうに向き直り、誇らしげな口調で言った。
「聞いて驚きなさるな。我らこそが、かの有名な『時の番人』なんじゃよ」
「ほぅら、びっくりしたじゃろう。『時の番人』の本物じゃぞ」
「時の番人……」わたしは首をひねった。「ごめんなさい、わたし、知らなかった」
 わたしの期待はずれな反応に、老人たちは肩透かしを食らった様子で表情を曇らせたが、「まぁ、お嬢さんはまだお子様なのだから、知らぬでも仕方あるまいて」と言った。
「きっと、大人の人たちも知らないと思うけれど」
 わたしがそう言うと、しばし気まずい沈黙が訪れた。ややあって、髭の老人が努めて明るい声を出して言った。「まぁ、よいよい。とにかく、酒じゃ、酒じゃ」
 わたしは老人たちにたずねた。
「時の番人って、何をする人なの?」
「その名の通りだ。すべての時間を見守っとるのじゃ。さっきも言ったとおり、過去から現在までのすべての時間をな」
「じゃあ、昔のことも何でも知ってるの?」
「もちろん」
「カルタゴや、古代エジプトの最期のことも?」
「ローマとの戦いに敗れ去った者たちのことだな」
 老人たちは重々しくうなずいた
「知ってるのね。他の国を滅ぼすようなひどい行いでも、時の番人さんたちは、ただ黙って見ていただけなの?」
「うむ」髭の老人はうなずいた。「何せ我々の役目は時間を見守るだけなんじゃからな」
「それにな」禿げた老人が言った。「あんたは『ひどい行い』と言ったが、あれらは歴史の必然ともいえるものじゃった。良い悪いだけで判断することではない」
「でも」わたしは言った。「滅びちゃったほうはかわいそうじゃない」
「うむ、確かにかわいそうだし、気の毒じゃな。お前さんの言いたいことはよくわかる」禿げた老人が言った。「でも、一歩状況が違えば、すぐ立場が逆転してしまうのも人類史の真実。もしカルタゴがローマを打ち滅ぼしておったら、その後の世界史はまるで違うものになっておった。もちろん、お前さんもおらんかっただろう。代わりに存在した者が、ローマがかわいそう、なんて感傷にふけっておったかもしれんの」
「だから我々は余計な手出しをせずに冷徹に見守らねばならんのじゃ」と髭の老人が付け加えた。「わしらが注意をしておるのは、これは歴史の必然なのか否か。因果律に反しておらぬか。何か大きな意志の介入がないのか、ぐらいのものじゃ」
「大きな意志って?」
「それこそ人には理解不能なものだろう。神のきまぐれとでも表現するしかないかのう」
 三人はしばし黙り込んで空を見上げた。夜空には再び雲がかかってきた。輪郭のぼやけた月が雲の向こうで薄ぼんやりと光っていた。
「おお、こういうボケた月もなかなかいいではないか」
 髭の老人の言葉に禿げた老人がうなずいた。「朧月じゃな。なかなか風雅じゃ」
 わたしも月を見たが、こんなボヤけた月のどこが良いのか理解できなかった。
 不意に、船のそばの暗がりの中から水鳥の羽ばたくような音がした。そして、妖しくも美しい女の歌声が重なり合うように聞こえてきた。
「おや、セイレーンたちが来たようじゃな」
 髭の老人が眉をひそめた。
「セイレーンって?」わたしがたずねた。
「海に住む精霊じゃよ」禿げた老人が言った。「いつもはエーゲ海方面におるんだが、ここにまで来よるとはな」
「精霊? やっぱり、本当にいるのね」
「ああ、もちろんだ。この世は精霊たちで満ちておる。あらゆるものが自然の意思を持っておるのだ」と髭の老人は言った。
「ううむ」禿げた老人が空を見上げてうなった。「セイレーンたちめ、この真上で旋回を始めおったわい。どうやら、この船の何かに興味を持っているらしいの」
 翼の羽音とともに、繊細ながらも奇怪な歌声が上空から聞こえてくる。
「なんとも落ち着かないやつらだ。せっかく良い気分で酔っておったのに」
「場所を変えるか」
「うむ、そうしよう。どこがいいかの」
「ここからもう少し北方に行ったアナトリアのカッパドキアなんてどうじゃ」
「いいのー、いいのー。そこで、眞山民の『山中の月』なんかを詠むと、いかにも合いそうな雰囲気じゃ。飲み直そうぞ」
 そしてわたしに、「ではな、お嬢さん。あいつらが降りて来ると面倒くさいぞ。もう船室に戻ったほうがよいな」と言い残し、すっと空気に溶け込むように消えてしまった。
「消えた……」
 わたしは老人たちが座っていた辺りを確認したが、何一つ痕跡が残されていなかった。
 老人たちがいなくなるのを待っていたかのように、翼の音が耳元をかすめるように急降下してきた。気づくと、目の前に一人の異形の人物が立っていた。頭部は人間の女性のようだが、胴体から下が鳥の姿をしていた。
「あ、あなたがセイレーン?」
 わたしは恐怖心を押し殺して聞いた。
 異形の者は、甲高い声で「キェーッ」と一鳴きしてから答えた。
「いかにも我らはセイレーン」
 それは歌声や顔つきとはまるで異質の、男のような低い声だった。
 ほかのセイレーンたちは神秘的な歌声を響かせて、なおも上空を旋回し続けている。
「我らはユリシーズを探している」とセイレーンは言った。
「ユリシーズって誰?」
「オデュッセウスとも呼ばれておった男だ」
「ああ、オデュッセウス……」
 わたしは、その名をどこかで聞いたことがあった。たしかギリシャ神話に登場する英雄の一人じゃなかったろうか。
「お前は奴がいずこにいるか知らぬか? かつて我らは、奴によってはずかしめを受けさせられた。その復讐のために、こうして奴の行方を追っているのだ」
「オデュッセウスって神話の中の人でしょう。本の中にいることぐらいしか知らないわ」
「なにっ、本の中?」とセイレーンはつぶやき、ふたたび「キェーッ」という甲高い雄叫びをあげたので、わたしは肝をつぶしてしまった。
「我らを馬鹿にするのはよしてもらおう」
 セイレーンは強い調子で言った。
「調べはついておるのだ、この船には『誰でもない』という男が乗っていることもな」
 わたしはハッとさせられた。『誰でもない』って、もしかしてネモ船長のこと? 確かネモって、そういう意味だとお母さんが言っていた。
「ん、知っておるのか? 『誰でもない』を」
 セイレーンは鋭い目でわたしの瞳をのぞき込んだ。上空を舞うセイレーンたちの歌声がいっそう妖しく、そして美しさを増していった。
「かつて、同じくユリシーズに、はずかしめを受けた一つ目巨人キュクロプスは、奴が『誰でもない』と名乗るのを聞いたという。お前、その男の居場所を知っておるのだな」
 わたしは震えながら、頭を左右に振った。
「隠しだてすると、ろくなことにはならんぞ」
 セイレーンは、たくましい足の先の鋭い爪でわたしの体をつかみ、自分のほうへ引き寄せた。恐ろしくも美しいセイレーンの顔が目の前に迫ってくる。妖物の口がザッと左右に裂け、刃物のような歯が見えた。わたしは助けを求めて声をあげようとしたが、かすれた音が出るだけで声にならなかった。
 その時、「その子を放しなさい」という鋭い声が聞こえた。声の方を見ると、ネモ船長そっくりな男が立っている。しかし、着ているものがまるで違った。男は船長の制服ではなく、古代の戦士のような甲冑で身を包んでいた。
「わたしがユリシーズ、つまりオデュッセウスだ」
 セイレーンは強い力でわたしを突き放し、オデュッセウスのほうへと躍りかかっていった。空のセイレーンも一斉に彼に襲いかかった。
 無数の敵と組みあいながらも、オデュッセウスはわたしを振り返り、決死の形相で叫んだ。「さぁ早く。今のうちだ。船室の中へと逃げ込みなさい」
 わたしは言われるがまま、後も振り返らず船室へと逃げ込んだ。背後からはセイレーンたちの歓喜の歌声が聞こえていた。

 気がついた時、外は既に朝だった。わたしはベッドの中でシーツにくるまり、ぐっすりと眠り込んでいたようだ。
「あら起きたの? おはよう」
 お母さんが声をかけてきた。お母さんは普段の朝と変わりなく鏡の前に座り、髪をとかしたり、身じたくに忙しそうだった。
「エマ、外を見てごらん。今朝は雨があがって、また良い天気よ」
 わたしはベッドから出ると、そのまま扉へと向かい、デッキへ飛び出した。すると出身地不明のキャビンクルーがちょうど通りかかり、白い歯を見せてニカッと笑い、「おはようございます」と言った。
「おはよう」わたしは挨拶を返し、たずねた。「昨夜、ここで大きな音がしなかった?」
「大きな音?」クルーは首を傾げた。「いや、わたし、何も聞かなかったな」
 クルーは、もう一度ニカッと笑い、「じゃ、また」と言って去っていった。
 わたしは不思議な気分になった。昨夜の出来事は何だったんだろう? ヘンなお年寄りが二人して月を愛でたり酒を飲んでたと思ったら、突然、怪物みたいなセイレーンが現れた。そして……オデュッセウス。あの人はどうなったんだろうか。無事だったんだろうか。ネモ船長にも似ているような気がしたが。
「おはようさん。朝のお散歩かい?」
 振り返ると、そこにはネモ船長その人が立っていた。わたしは船長の顔をマジマジと見つめた。何も言わないわたしに船長は優しく言った。
「朝はまず挨拶が基本だよ。さあ、おはよう」
「あ、おはようございます」
 わたしはようやく声を出したが、視線は船長の顔に注がれたままだ。やはり、よく似ている。昨夜のオデュッセウスとそっくりだ。
「ん? 何か顔についてるかい」
 じっと顔を見つめられて船長もさすがに照れくさそうな表情をした。
「ううん。今朝もネモ船長に会えてよかったなぁ、って思ったの」
「おやおや、若いレディからこんなにうれしいことを言ってもらえるなんて、今朝はツイてるな」と船長は笑った。「さあ、あそこを見なさい。スエズ運河の入り口だ」
 わたしは手すりから身を乗り出して、船長の指さす先を見た。町と多くの船が見える。
「あの先に運河があるの?」
「ああ、今日は一気に紅海まで行くぞ」
 わたしは、ドキドキとしてきた。あの町の向こうに新しい世界が待っている。
「そして、それから……」船長はコホンと咳ばらいをした。「明日からは、ちゃんと着替えをすませてからデッキに出てくるようにね。お嬢様」

第二章

       第二章

       一 ソフィーの初恋

 今になって考えると、スエズ運河到着前夜の幻には、やはり何かメッセージが込められていたのだろう。その後のビクトル号、そしてネモ船長の運命にも関わってくるような。
 そして、それはネモ船長自身も自覚していたに違いない。
 でも、その時は、ただの夢だとしか思わなかった。セイレーン出現に伴う騒々しい物音に気づいた人はいないのだし、なによりネモ船長自身が翌朝には、何事もなかったような涼しい顔をして普段通り仕事をしていたのだから。わたしとしては怖い夢を見てしまったんだ、と判断するしかなかった。
 翌朝のエジプトの輝くような陽光を浴びて、そして初めて見るスエズ運河を前にして、わたしはむしろ、そちらのほうに夢中になっていった。

 スエズ運河北端の町ポートサイドに到着したビクトル号は、港の沖合に碇を下ろしていた。今回の停泊では埠頭に接岸はせず、乗客にも上陸の許可は下りないことになっている。順番がまわってくればビクトル号も運河内へと進んでゆくことになっていたからだ。
 わたしは、さっそく自慢の双眼鏡を持ち出して、メインデッキから町の様子を眺めはじめた。やはり交通の要衝ということもあり、町の中は活気に満ちていた。商人たちが露天を並べ、その間を多くの人びとが行き交っている。背に荷物をいっぱい載せた駱駝たちの姿もあちこちに見える。
「ねぇねぇ、エマったら」
 いつの間にやってきたのか、ジャッキーが傍らに立ち、じっと双眼鏡を見つめている。「それ、私にも見せてよ」
 わたしは、簡単に操作法を教えてから、友人に貸してやった。
「へぇー、おもしろいね」
 ジャッキーは町の様子を眺めて、感心したような声をあげた。
「ね、楽しそうなところでしょう?」
「うん、上陸してみたいよね」
 乗客が上陸できない代わりに、町の方から土産物や食べ物を満載した小舟がいくつも漕ぎ寄せてきて、買わないかと声を掛けてくる。
「エマ、ほら果物でいっぱいの船が近づいてきたよ」
「あの船はオバちゃんが漕いでるわ。たくましいわね」
 水上の土産物屋の中には水先案内人用に下ろされている縄ばしごをスルスルと上がってきて、デッキで即席の土産物屋を開くツワモノのオジさんもいた。乗客側も退屈しのぎになると喜んでおり、クルーたちも承知の上なのか、特に排除などしていない。
 土産物屋のオジさんは、高らかな声で口上を述べはじめた。
「カモーン、カモーンって、英語で呼んでるよ、あのオジさん」とジャッキーは言った。
 二人は人垣をかき分けて、一番前でオジさんの並べている商品を見た。石ころのかけらみたいなものばかりだ。
「何だろう、これ?」
 わたしはつぶやいた。ジャッキーも首を傾げた。
 オジさんは英語と、フランス語をチャンポンにしてがなりたてていた。それによると、この石ころのように見えるものは、エジプト各地の古代遺跡から発掘された貴重な遺物ばかりなのだそうだ。あれはルクソール神殿跡から、これは王家の谷の墳墓から、というような具合にあらゆる貴重な人類の財産がオジさんのもとへと集結し、そして今、お買い求めやすい特別価格でデッキの上に並べてあるらしかった。大人の乗客たちは、そんなオジさんの必死の口上をニヤニヤ笑って聞いている。
「そんな貴重なものならば、買っておいて損はないわね」
 わたしは目を輝かせて石ころを眺め回した。
「バッカじゃない」ジャッキーが呆れ声を出した。「まさか本物だと思っているの?」
「えっ、だって、オジさんがルクソールで見つかったとか、ナントカだとか」
「そんなの、デタラメに決まってるじゃない」
 ジャッキーは頭を抱えた。「やっぱり、こんなふうに簡単にだまされちゃう人がいるから、こういう商売って成り立っているのね」
 わたしは、そうなのか、これはみんな偽物なのか、と思い、もう一度、並べられた石ころを見回した。ジャッキーの言うとおり偽物だとしても、それらはわたしの目には十分、魅惑的な造形物に映った。とくに隅のほうにたくさん並べられている黒っぽいコガネムシみたいな石は、抗いがたい魅力を放っていた。
「偽物でもいいわ。あのムシみたいな石が欲しいわ」
 わたしが指さすと、オジさんがにこやかな笑顔で言った。
「そいつぁ、スカラベ石だ」
「スカラベ?」
「ああ、スカラベ。古代では神聖視されていた虫さ」
「それ、いくら?」
 オジさんが答えた金額は、母親からもらっていたお小遣いの倍近い値段だった。
「本当に買うの?」
 ジャッキーが心配そうに聞いた。わたしは彼女の耳元でささやいた。
「まぁ、見てなさいって」
 そして、オジさんにむかって交渉を開始した。
「ねぇ、その半額にならないかしら」
「ん、いきなり半額か?」
 オジさんは、ウーンと考えこむようなそぶりをした。「そうだなぁ。何しろ英国の発掘隊から大金で買った貴重な逸品だからな。ちゃんとした額は欲しいところだが、仕方がないなぁ。お嬢ちゃんに免じて今回だけ半額でもよしとするか」
 わたしはにっこり笑い、すかさず言った。
「じゃあ、その金額でスカラベ石をもう一つオマケにもらえるならば、買ってもいいわ」
「こりゃ、まいった」
 オジさんは両手を広げ、目をまん丸に見開いた大げさな表情で天をあおいだ。「あっという間に四分の一に値切られちまったじゃないか。こんな小さなお嬢ちゃんに見事やりこめられてしまったわい」
 周りで見ていた人々が大笑いした。
 オジさんも一緒に大笑いし、「よし、スカラベをもう一つオマケで手を打とう。好きなの、二つ持っていきな」と言った。
 わたしは青黒い光沢を放ったものを二つ選び、一つをジャッキーに差し出した。
「えっ、わたしに?」
「いらないの? 偽物だから?」
「いらないなんて言ってないわ」
 ジャッキーは、スカラベ石を手に取り、まんざらでもない表情で、その手触りを確かめた。そして、「ありがとう」と言った。
 ビクトル号はしばらくポートサイド港に留まっていたが、午前十時前になって、ようやく碇をあげた。いよいよ出発である。
 船が動きだそうとする直前、わたしとジャッキーは土産物売りのオジさんがまだメインデッキに残っていることに気づいた。
 オジさんは実にゆるゆるとした動作で、即席の土産物店の撤収をしていた。のんびりした顔で、本人曰く貴重な文化遺産の山であるはずの商品を、大きな巾着袋に無造作に放りこんでいる。早くしないと、下船するタイミングを逃してしまうのではないだろうか。わたしたちはだんだん心配になってきた。
 やがてビクトル号は鋭い汽笛を鳴らし、周囲の船に動き始めることを知らせはじめた。
 見るとオジさんはまだ、ゆっくりとスリッパを履きなおしたりしている。このままだとほぼ確実に下船しそこねてしまうだろう。とうとうわたしは我慢できなくなって叫んだ。
「オジさん、急いで! 船が動き出しちゃうわ」
「おお、スカラベのお嬢ちゃんか」
 オジさんは余裕しゃくしゃくの表情だ。
「どうしたの? 早く下りないと戻れなくなるわよ」
 普段冷静なジャッキーもさすがにあわてている。
「はっはっは」オジさんは笑った。「お二人さん、ご心配ありがとう。でも大丈夫、いつものことさ」 
「いつものことって?」
 オジさんは、お宝で満杯の巾着袋をたすき掛けに背負い、器用にデッキ脇の手すりを乗り越えた。「では、お嬢ちゃんたち、さらばじゃ」
 言うや、彼は船べりの向こう側へヒョイと姿を消した。落ちた、と思ってわたしたちが手すりに駆け寄り、下をのぞき込むと、縄梯子の中途あたりでプラーンとぶら下がっているオジさんの姿が見えた。
 オジさんは下のボートで待っている助手らしき少年をどやしつけながら、ボートを船のすぐ脇まで引き寄せようとしている。アラビア語らしき言葉で叫んでいるが、身振りとニュアンスで何を言っているかおおよその見当がつく。
『おーい、おい、こっちじゃ。もっと、こっちに寄れ』
 少年は懸命にボートを近づけようとするが、なかなか思うようにいかない。
『ほら、もっとこっちまで寄せんか、このグズめ』
 すでにビクトル号も少しずつ動き始めており、オジさんがぶら下がった縄梯子の揺れも一層激しくなってきた。こりゃあー落ちるな、と思った、その瞬間、オジさんはピョーイと身体を宙に躍らせた。そして彼の狙い通り、ボートのど真ん中へピタリと着地した。
 わたしとジャッキーは思わず拍手した。
 オジさんは得意げにわたしたちを見上げ、「うわっはっはっはー、グッバイ、さらばじゃあー」と言いながら、無数の小舟がうごめく湾内へと消えていった。

 スエズ運河には、大型船が行き交える場所が途中に数カ所しかないため、通過する船は十隻ごとに一列の船団を作り、定められた時間に入ってゆくことになっている。そして水先案内人の指示に従って決められた速度でゆっくりと進まなければならなかった。
 ビクトル号は船団の中ほど、前から五番目に運河内へと入っていった。
 スエズ運河通過というのは、この長い航海の中でも、やはり特別なトピックの一つなのだろう。乗客のほとんどがデッキに顔を出し、細い水路の中を幾つもの船が行儀良く一列で進む光景を眺めていた。
 狭い水路の左舷側にはシナイ半島、右舷側にはエジプト本土の陸地が迫っていた。両岸とも荒涼とした黄色い大地だったが、比較をすればシナイ半島側のほうがより荒れ果てて厳しい表情だった。それに対し本土側は、そこかしこにナツメヤシなど緑の茂みがあって、幾分穏やかな印象だ。 
「おや、何を持っているんだい?」
 デッキチェアに腰掛けていたソルニエさんがジャッキーとわたしに聞いた。ジャッキーは手に持った黒い石の工芸品を見せた。ソルニエさんは石を手にとって眺めた。
「ほう、スカラベの石細工だな。スカラベってどんな虫なのか知ってるかい?」
「知らない。カブトムシみたいなものじゃないの」とジャッキーは答えた。
「うん、カブトムシの仲間で間違いはないんだけどね。こいつは動物の糞を集めて丸める虫だ。糞虫だ」
「へっ、糞虫?」
 わたしたちは眉をひそめた。
「ファーブルって人が書いた『昆虫記』にも出てくるよ。あまり知られていないけど、実におもしろい本でね。虫やら自然のことがいっぱい書いてある。糞虫の話もたくさん出てくる。一応科学書の一種なんだけど子供でも十分読めるから一度読んでみるといい」
「そんな虫だらけな本、読みたくもない」
 ジャッキーがきっぱりと言った。
「まぁ、そう言わずに」ソルニエさんはニヤニヤと笑った。「『昆虫記』によると、糞虫の親は、どうやら卵を産み付けるために糞を集めてまわっているみたいだね。そして糞は孵った幼虫のごちそうになる。糞虫っていうのは、とても子供想いなのさ」
「さっきから糞虫糞虫って。スカラベって神聖な虫だって聞いたわ」とジャッキーが眉をひそめた。
「その通り」ソルニエさんはうなずいた。「古代エジプトでは、太陽を神としてあがめていたんだ。太陽は毎日、規則正しく大空での運行を繰り返すだろう。夕方に西の地平線に没しても、翌朝には必ず東の空から上りはじめる。不滅と再生の象徴だったんだ。一方、地上でもスカラベが糞をせっせと球形に整え、後ろ足でひねもす転がし続けている。まるで太陽神の化身のように見えたんだろうね。言わば太陽の精霊のような存在だ」
「太陽の精霊……」わたしは手の中のスカラベ石をぎゅっとにぎりしめた。
「この石はお守りになるらしいから、大事に持っておくといい」
 そう言ってソルニエさんは娘に返した。
 その時、デッキの人垣の向こうから、ソフィーが走り寄ってくるのが見えた。
「お姉ちゃんたちどこにいたの? ソフィー、ずっと探してたのに」
「ごめん、ごめん。いろいろあったから、すっかり、あなたのこと忘れてたわ」
 わたしはあやまった。
 ソフィーはわたしたちが握っている石にめざとく気づいた。
「何、何、それ?」彼女の目は好奇心で輝きはじめている。「お姉ちゃんたち何を持ってるの? それ、ソフィーも欲しい」
「これ?」わたしはいたずらっぽく言った。「これはね、糞虫の石よ」
 糞虫と聞いて、ソフィーは後ずさった。
「あなた、こんなのホントに欲しいの?」
「ううん、別にいらない」
 ソフィーは眉をひそめて頭を振った。後ろでジャッキーがクスクス笑っていた。
 エントランスホールの出入り口から見慣れない一家が現れた。父と母、そして幼い男の子の三人家族だった。父親は丸い眼鏡をかけ、立派な顎髭をたくわえている。ブロンドの髪の母親は、薄い紅色の活動的な服を着ていた。男の子は背丈から見て、おそらくソフィーと同じ歳頃のように見える。
 ソフィーは、歳の近い男の子の出現に興味深々だった。マルセイユで、わたしがジャッキー相手にやったみたいに、じっと食い入るように見つめ続けている。男の子もソフィーの視線に気づいたが、ジャッキーのようにアッカンベーはせず、恥ずかしそうに母親の背後に隠れてしまった。
「あれは、アレクサンドリアから乗船してきた英国人の一家だね。スタンレーさんと言ったかな」とソルニエさんが言った。「エジプトで勤務していた外交官らしいが、なんでも急遽、シンガポールへ赴任しなければならなくなって、この船に乗り込んできたとか。エジプトから、いきなりシンガポールへ転勤とは、なかなか大変な仕事だね」

 運河の狭い水路の両側には、いつまでも同じような風景が続いていた。
 青く高く澄み渡った空、見渡す限り続く黄色い砂漠。当初はそこに異国情緒を感じて、それなりに楽しんでいたわたしたちも、変化に乏しい光景の連なりに、さすがに退屈さをおぼえはじめた。そこには何一つエキサイティングな要素はなく、ハプニングが期待できそうな気配もなかった。
 おまけに頭上から容赦なく照りつける太陽。気が遠くなるようなユルユルとしたスピードで進む船団。メインデッキの上から次第に乗客の姿が消えていったのも無理はない。
 人影がまばらになったデッキで、わたしたちは丸い球を目標物へ向けて放りあげる遊びに興じていた。ペタンクっていうゲームらしい。何人かで投げ合って、より目標物の近くに止めた者が勝ちという単純きわまりないルールだった。
 地中海での航行中から、わたしは大人の乗客たちが興じているこのゲームに関心を持っており、一度やってみたいもんだと思っていた。でも、その頃はまだ、子供は脇から観戦しているしかなかった。
 今ではもう大人たちは飽きてしまったのか誰もやっていない。しかも静かな運河での航行中で揺れもほとんどない。わたしたちがペタンクを体験するには絶好の機会だった。
「さあ、投げるわよ」
 わたしは下投げで球を放りあげた。力の加減がわからず、少し勢いがつきすぎたらしい。球は目標物を越えて転がっていった。続いてジャッキーが投げた。わたしの失敗を見て、彼女は少し慎重になりすぎたらしい。球は目標物の遙か手前で止まった。
「これ、意外とむずかしいわね」とジャッキーが言った。
 わたしはソフィーに声をかけた。「さあ、投げていいわよ」
「はーい」
 ソフィーは、フンと鼻息も荒々しく、力任せに放り出した。
「力を入れすぎよ」とジャッキーが言った。
 しかし、もともと非力なソフィーにはそれくらいでちょうど良かったらしい。球は目標のすぐそばにピタリと止まった。
「うーん」ジャッキーは腕を組んでつぶやいた。「なかなか奥深いゲームね。まったく思うとおりにならないわ」
 メインデッキ脇のロビーの窓から、小さな顔がのぞいていた。あの英国人の男の子だ。わたしたちが何の遊びをしているのかと、興味を感じているのだろう。
 わたしたちが三ゲームめに挑んでいるとき、お父さんのスタンレーさんに手を引かれた男の子がデッキに出てきた。
「これは、なんという遊びですか?」
 スタンレーさんは流ちょうなフランス語で話しかけてきた。
「ペタンクっていうらしいんです」ジャッキーが答えた。「私たちも、この船で初めて知ったのですけれど」
「どれどれ、私も一度試してもいいですか」
 スタンレーさんはジャッキーから球を借りると、「ほう、なかなか重い球だな」と言いながらヒョイと投げた。球は目標物を大きく通り越して転がっていった。
「うまくいかないもんだね」スタンレーさんは笑った。そして英語で息子に言った。「ポール、どうだ、お前も投げてみるか?」
 ポールと呼ばれた男の子は、小さくうなずき、父親から球を受け取った。ポールが力いっぱい投げると、ソフィーと同じように目標物のすぐそばにピタリと止まった。
「うまい、うまい」
 わたしが拍手するとポールはニコリと笑った。わたしは簡単な英語で齢をたずねた。
「歳はいくつ?」
 すると彼は五本の指を広げてみせた。
「まぁ、五歳なの。ソフィー、同い歳じゃない」
 スタンレーさんもソフィーに声をかけた。
「君はソフィーっていうのかい。うちのポールをよろしく。仲良くしてやっておくれ。残念ながらまだフランス語は話せないんだけどね」
 ところが、ソフィーはわたしの背後に隠れてモジモジしている。
「どうしたの、ソフィー。あなたもご挨拶なさいよ」
 ソフィーは、はにかんだような表情で「はじめまして、ポール」と言った。
「なに照れてるのよ。もしかして、あなた、ポールに恋でもしちゃったの?」
 軽くからかうつもりだったのだけど、ソフィーは顔を真っ赤ににして、ピューッとエントランスホールの中へと駆け込んでしまった。わたしにはわけがわからなかった。
「な、なに? ソフィー、どうしちゃったのよ」
 ジャッキーがわたしの耳元でボソッとつぶやいた。「どうやら、図星だったようね」

 その夜のディナー。
 ソフィーは、まだソワソワとしていた。食事の合間にもチラチラとポールの様子をうかがっては、あわてて目をそらすなんてことを繰り返している。
「もーう、気になって落ち着いて食べらんない」
 わたしはお母さんにささやいた。お母さんはフフフと笑い、「かわいくっていいじゃない」と言った。
「それで、お相手はどの子なの」
「あそこよ」
 わたしは三列向こうのテーブル席をそっと指し示した。ポールは両親に挟まれて、お行儀よく食事をしている。
「なかなか利発そうな男の子じゃない」
「でもね、英国人の子でフランス語がわからないのよ。ふたりの間には言葉の壁が立ちはだかってるの。そこが難問ね」とわたしは言った。
 大広間には、ソフィーの初恋を演出するがごとく、ロイ・キングが奏でるラフマニノフの甘い音色が絶え間なく響きわたっていた。
 そして、ジャッキーは……。
 その夜もロイのピアノのすぐそばに、ソルニエ家のテーブルがあった。もちろん、ジャッキーも座っている。
 やがて演奏を終えたロイは、乗客に向かって無愛想な挨拶をした。いつも通り、チューインガムを踏んづけてしまったような苦々しい表情だった。ステージから去る間際、ロイはジャッキーのほうを見て立ち止まった。そして、じっと自分を見つめる彼女に、何かオレに用でもあるのかい、とでもいうような仕草をした。
 しかし、ジャッキーは、ただ横に首を振るだけだった。

「まったくもう!」
 ディナータイム終了後、わたしは呆れたように言った。「ロイのほうからアプローチしてきたのよ。せっかくのチャンス到来だったのに、なんで話さなかったのよ」
「わかってるわよ」
 ジャッキー自身も千載一遇の機会を逃したことを悔やんで、うなだれていた。
「でも、でも、やっぱり勇気が出せないのよ。お前なんかに大切なピアノを触らせるもんか、って怒鳴られてしまいそうで」
「うーん、勇気ねぇ」
 わたしはそれ以上、ジャッキーの不甲斐なさを責めるのをやめた。勇気の無さにかけては、わたしだって他人にエラそうなことは言えない。もし、自分が逆の立場なら、あのロイ・キングに話しかけようなんて最初から考えなかっただろう。だって、コワいもの。
「まあ、仕方ないわね。ゆっくり作戦でもたてようよ」
 そう言って、わたしは失意の友人をなぐさめた。

 翌朝、わたしが目覚めると、船は港に接岸していた。夜中のうちにスエズ運河を通り抜け、運河の南端スエズの街に到着していたらしい。
 お母さんとソフィーのベッドは既に空になっている。二人とも、船室を出て何をしているんだろう。わたしは気になって、大急ぎで着替えを済ませ、表へ飛び出した。
 一階へと続くデッキ階段を途中まで下りたとき、わたしはラウンジの中をそっとのぞきこんでいるお母さん、そしてスタンレー夫妻を見つけた。
「どうしたの? 何かあったの」
 すると、お母さんは口の前に一本指を立ててシーッという仕草をした。スタンレー夫妻もにっこり笑って振り返った。
 お母さんがわたしを手招きし、そっと言った。
「ほら、ラウンジの中を見て」
 言われるがままのぞいて驚いた。「まぁ」
 ラウンジのソファには、ソフィーとポールが後ろ向きに座り、仲良く並んで外の風景を眺めていた。そして、さかんにおしゃべりしている。お互い、相手の言葉を理解できているわけではないだろうが、ちゃんと会話が成立しているところからみると、二人に言語の壁はあまり関係なかったようだ。
「いったい何しゃべってるんだろうね」
 わたしは誰にともなく聞いた。
「さあ」お母さんは目を細めて言った「でも、何だっていいんじゃない。あの二人が楽しければね」

       二 アメイジング・グレイス

 スエズを出港したビクトル号は、一路次の寄港地ジブチを目指していた。
 メインデッキではソフィーとポールが戯れている。ソフィーなんて当初のはにかみようは何だったんだと思えるくらい、積極的にポールをひっぱって遊んでいる。依然、何語で話しているのやらわからないが、十分にコミュニケーションがとれているようだった。
 ビクトル号は、新しい海――紅海をひた走っていた。その水は地中海とも違い、濃密な紺色をしている。この海がなぜ紅の海と呼ばれるのか、わたしにはよくわからなかった。
 海を見つめていると、ピョーンピョーンと水面を跳ねるものがいる。いや、跳ねるというより、滑空していると表現したほうがふさわしいかもしれない。海面の上、数十センチから数メートルの高さで、かなりの距離を飛んでゆく。
 むむっ、何だろう?
 じっと観察したところ、大きな翼を持っているが、どうやら細長い魚のようだ。飛んでる途中で、ビクトル号の側面に激突する気の毒なものもいる。
「あれはトビウオだね」
 いつの間にやら、わたしの隣に立っていたスタンレーさんが言った。どうやら、ポールの様子を見に、メインデッキまで下りてきたらしい。
「大きな魚に追われているのかもしれないな。この近海にはサメが多いらしいからね」
「えっ、サメって、あの凶暴なサメ?」
「うん、サメを専門的に獲る漁師も、この辺りにはいるんだ」
「サメの漁師なんているの? サメを食べちゃうの?」
「華僑の商人が高額で引き取ってゆくそうだよ。何でもサメのヒレが中国料理では高級な食材になるらしい」
 その時、ピチッと甲板に何かが落ちるがした。鉄色に光る魚――トビウオだ。まさか、こんな大きな船のデッキの高さにまで飛び上がってくるなんて。奇跡のトビウオだ。
 スタンレーさんは、ポールとソフィーを呼んだ。二人は子犬のように駆けてきて、ピチピチ跳ねているトビウオを真剣な表情で眺めはじめた。眺めるだけでは飽き足らず、ポールはトビウオを持ち上げて、その翼のように長いヒレをびよーんと伸ばしている。ソフィーがそれを、横合いから指でつっついている。
「ポールは、生き物の観察が大好きでね」スタンレーさんは半ば呆れ気味に笑った。「放っておけば、いつまででも虫や魚を眺め続けているんだ。五歳の誕生日のプレゼントに、おもちゃじゃなくて、原色昆虫図鑑をねだったぐらいさ」
「へぇー、原色昆虫図鑑。そんなに生き物が好きなんだ」
 わたしは好奇心のかたまりのようなポールの姿を見つめた。「だったら、フランス語が読めるようになれば、ファーブルの『昆虫記』とかあげたら、喜ぶかもしれないわね」
「ファーブル?」
 どうやらスタンレーさんもファーブルを知らなかったらしい。フランス人でもあまり知らないんだから無理もない。
「ええ、昆虫とか自然を観察して書かれた本らしいけれど、わたしは興味ないから読んだことはないの。でも好きな人には、とてもおもしろいらしいわ」 
「『昆虫記』ねぇ」
 スタンレーさんはちょっと興味を抱いたらしく、書名を繰り返している。
 コツコツと階段を下りる音がしたので、振り返るとジャッキーが立っていた。昨夜の落ち込みはどこへやら、すっかりいつものジャッキーに戻っている。
「あら、ソフィーとポール。すっかり仲良しじゃない。お子様は、気楽でいいわねー」
 大人から見れば自分だってお子様であることを棚に上げ、幼い二人の仲むつまじい様子を笑っている。
「ジャッキー、ピアノとロイ・キングのことはどうする?」
「うーん、わたしもゆっくり考えたんだけど」ジャッキーは手すりを握りながら海原を見た。「もう、ロイに頼むのはあきらめようかと」
「あきらめる? じゃあ、ピアノは弾けなくてもいいの」
「ううん。基本的にはネモ船長だっていいって言ってくれてるじゃない。だから、もう勝手に触っちゃうの。どうせ、昼間ロイがどこで何をしているかわからないでしょう」
 うーん、確かに昼間、彼がどこにいて何をしているのかは、依然不明なままだ。どこかクルー用の船室にこもって、眠っているだけなのかもしれない。
「でしょう。だったら、何もあんな大冒険をして許可を得なくてもいいのかな、なんて思ったりして」
「でも、もしロイがピアノの音に気づいてやってきたとしたら?」
「あんな大きい人だから近づいてくれば、すぐに気配でわかるはずよ。あの人、きっとゆっくりと現れるはずだから、その間に、サササッと姿をくらませばいいわ」
 なるほど。わたしは、大きくうなずいた。
「よーし、協力するわ。じゃあピアノを触っているときは、ソフィーに見張りをさせようよ。ロイがやってきたら、いち早く知らせるようにってね」

 ジャッキーとわたしが、ピアノ大作戦を決行したのは、その日の午後だった。
 ソフィーをキャンデー三つで味方につけ、役割を何度も教え込んだ。
「いい? ここに立っていて、ロイ・キングがやってくる姿が見えたら、すぐに合図するのよ。わたしたち向こうのドアから、逃げるからね」
 ソフィーはうなずきながら「うん、まかせてよ」と言った。
 誰もいない大広間の奥の静かな空間でピアノは眠っていた。人びとの心に豊かな音色を響かせるディナータイムに備えているのか、今は沈黙の底にいた。プレイエルのグランドピアノ。きれいに手入れがなされていて、黒光りする表面に汚れや手垢はついていない。
 ジャッキーは、おずおずとピアノに近づき、鍵盤のフタをそおっと開けた。そして、中音域のドのキーを指先でおそるおそる叩いた。初めてジャッキーに話しかけたあの日も、こんな感じだったなぁとわたしは思った。考えてみれば、あの日からそんなに日数は経っていない。でもジャッキーとはもうすっかり昔なじみみたいな感覚になっている。船旅っていうのは、人間同士を極度に親密にさせてしまう力があるのだろうか。
 ジャッキーは椅子に腰掛け、静かに曲を奏で始めた。いつか、ロイの演奏でも聴いたことのある曲。確かショパンの夜想曲だったろうか。ジャッキーは何度もこの曲を弾いたことがあるのだろう。手慣れたように軽やかに奏でた。
「ジャッキー、うまいじゃない。ロイにも負けないくらいだわ」
 わたしは友人の肩をたたいた。ジャッキーは照れくさそうに笑った。
「ありがとう。でも、全然レベルが違うわ。ロイのテクニックはけっこうすごいと思う」 
 ジャッキーは、わたしの知らない曲を奏ではじめた。上品で夢見るような出だしだと思いきや、変奏を繰り返すうちに、音楽はどんどん情熱を帯びてゆき、リズミカルに跳ね回りはじめた。
「これ、何ていう曲?」
「パピヨン(蝶々)」とジャッキーは言った。「ロベルト・シューマンの曲よ」
「パピヨン」
 わたしは曲名を繰り返した。
 ジャッキーは、奏でる指を突然止めて、冒頭の主題を再びゆっくりと弾いた。「この曲って、けっこう難しいのよね」
「ちゃんと弾けてるじゃない」
「途中までだけよ。どんどん変奏を繰り返して難しくなってゆくの。それにシューマンの曲ってアクセントがちょっと変わってるし、弾きにくいところもあるのよね」
「ふぅん、上手いと思ったけどなぁ」
 ジャッキーの演奏と、わたしたちの会話は、背後からの声で突然断ち切られた。
「おい、ここで何をしているんだ?」
 凍りついたわたしたちが首をねじるように振り返ると、そこには思った通り、ニコリともしない顔――チューインガムを踏んづけちゃったような不機嫌な表情があった。
「あれれれ、ソフィーは?」
「ソフィー?」ロイ・キングはちょっと首を傾げてから言った。「もしかして、あの子のことかね」
 ロイが指さすほうを見ると、いつの間にやらデッキに下りてきたポールと一緒に、干物と化しているトビウオを熱心に研究している妹の姿があった。
「……あの、役立たずめ」
 わたしは歯ぎしりをした。
「オレは、あんたに質問している」ロイはジャッキーに繰り返した。「ここで何をしているのか?」
 ジャッキーは今にもオシッコを漏らしそうな表情で青ざめている。
「あんたは、いつもそばでオレの演奏を聴いている子だな。オレに何か言いたいことがあったんじゃないのか」
「あのね」わたしが代わりに言おうとした。「ジャッキーは、このピアノを」
「オレはあんたに聞いているんじゃない。この子に聞いているんだ」
 ロイ・キングにギロリとにらまれ、わたしは身動きができなくなった。
「さあ、自分の口からきちんと言いなさい」
「あああああ……」
 ジャッキーは口を開こうとするが言葉にならない。ロイ・キングはそんな彼女の様子を見て、クフフと笑った。
「そこまで緊張することもないだろう。捕って食うわけでもあるまいし」
 ロイ・キングの笑う顔を、ジャッキーもわたしも初めて見た。ロイは笑うと、意外にも愛嬌のある人懐っこい顔になった。
「あの……、わ、わたしがロイ・キングさんにお願いしたかったことは、ピアノを少しの間だけでもいいから、練習で貸して欲しいということです」
 ジャッキーは、ようやくのことで言いたかったことをすべて言い切った。
 ロイ・キングは真顔に戻り、グイッとジャッキーの顔をのぞきこんだ。ジャッキーは、救いを求めるように、わたしのほうを横目で見た。わたしは、そんなの無理、助けらんない、という意思を表情に込め、首を左右に振った。
「あんたはピアノが好きか?」
 ロイ・キングは聞いた。ジャッキーは、コクッコクッと首を縦に振った。
「どのくらい?」
「ず、ず、ずっと弾いてたいくらい」
 ジャッキーは恐怖で、鼻水を一筋垂らしていることにも気づいていないようだった。
 はっはっはっはっは。ロイ・キングは突然、大きな声で笑い始めた。「こりゃあ、いい。ずっと弾いてたいくらい、か」
 そして、ジャッキーのほうを見て言った。「よかろう」
「えっ、練習で使ってもいいの?」
 わたしがたずねると、ロイは大きくうなずいた。
「実は船長からピアノを使いたいという女の子がいるって話は聞いていたんだ。でも、自分自身で頼むようにって言っておいたから、それから了解してやってくれとね」
 ロイはもう一度、ジャッキーのほうを見た。
「だから待っていた。君が直接、オレに依頼してくることを。こういうことはささいなことかもしれんが大切なことだ。これから、大人になるにつれて、自分の意志を伝えるために厳しい話し合いをしなくてはならん場面にも直面するはずだ。そんなときは逃げずに勇気を持って向わねばならんこともある」
 そして表情を崩してロイはわたしたちに聞いた。
「それにしても、あんたらの怖がりようは異様だったが、そんなにオレは怖いのか?」
 二人して大きくうなずいた。
「そいつぁ困ったもんだ。気をつけなくちゃな。せめてレディには怖がられんように」
 そしてロイ・キングは再びデカイ声でガハハと笑った。「これからは、空いている時間にピアノを弾くのはかまわんが、一日一時間以内厳守だ。それ以上やっても君の集中力がもたんし、四六時中、散漫に弾いていて他の乗客の迷惑にもなってもいかんからな。それから、もう一つ条件を出させておくれ」
「条件?」
「ある曲を課題曲に出したいんだ。インドシナへ着くまでにマスターしてほしい」
 ロイ・キングが口にした曲名は、ジャッキーも、わたしも知らなかった。「アメイジング・グレイス(すばらしき神の恵み)」。古い英語の歌で、賛美歌の一種らしい。
「おそらく、これからの世の中は、黒人ミュージシャンたちが生み出す音楽で満ちあふれることになるだろう。最近ではラグタイムからジャズという音楽が生まれている。また、黒人霊歌が発展して、ブルースになった。みんな、オレたちの魂の声、叫びのような音楽だ。アメイジング・グレイスは、もともとは白人の作った賛美歌だけど、今じゃ黒人ミュージシャンにとって特別な曲になっているんだ」
 ロイによると、作詞したのは十八世紀ごろの英国人ジョン・ニュートンという人物らしい。彼はなんと、アフリカで現地人たちを買い集め、新大陸で奴隷として売りさばき富を築くという非道の限りをつくした商人だった。どうして、そんな人物が作った歌を黒人たちが愛唱するのだろう――。
「ある航海のとき、ジョンの船は嵐に巻き込まれ、難破しそうになったのだが、必死に神に祈り、九死に一生を得ることができた。彼は思ったそうだ。人の道に外れた自分のような者でさえも、神は見捨てずにお救いくださった。その時、ジョンの人生観は一変したんだ。数年後、彼は牧師となり、過去の行いを悔いる生活に入った。そして贖罪の心から生み出したのがこの歌だ。同時に非道な者、哀れな者でも、わけ隔てなく救ってくださる神への感謝も込められている。まあ、オレから言わせれば、そんな程度でジョン・ニュートンの罪が消せるわけではない。でも、悔い改めようともしないヤツよりは百万倍マシさ」
 そして、ロイはピアノに腰掛けると、突然、ガラガラ声で歌いながら演奏し始めた。

 Amazing grace, how sweet the sound
 That saved a wretch like me
 I once was lost but now I'm found
 We blind but now I see …… (※5)

「どうだ、単純な曲だろう。ショパンやシューマンを弾ける腕前ならば、少し練習すればすぐ弾けるようになる。譜面はオレが書いたものが、ここにある」
 ロイはそう言って、手書きの楽譜を出した。
 ジャッキーはロイと代わって椅子に腰掛け、おずおずと「アメイジング・グレイス」を弾き始めた。
「そうだ、そうだ」ロイは満足そうにうなずいた。「なかなかうまいじゃないか」
 わたしは、楽譜に書かれた歌詞をジャッキーの肩越しにのぞきながら口ずさんだ。正確な英語の発音もわからず、多分にフランス語なまりが混じった歌い方だったが、なんとか一番の歌詞を歌いきった。
 そして、ふと気づくと、ロイとジャッキーがそろって丸い眼を見開き、わたしの顔をのぞき込んでいた。
 ロイ・キングは、ボソリとつぶやいた。
「こりゃあ、驚いた。こんなところに歌唱の天才少女がいたとはな」
 
       三 アフリカの太陽とスカラベ

 紅海はアフリカとアラビア半島に挟まれたほんの小さな内海という印象だけれど、その南北の長さは存外長い。地図や地球儀で確かめれば一目瞭然だけれど、長さだけならば地中海のチュニス~エジプト間に匹敵するぐらいの距離がある。紅海の北端スエズから南の出口付近のジブチまでの航海にも、まるまる三日間という長い時間を要した。
 紅海航行中には、ビクトル号に乗船している子供たちに千夜一夜物語から題材をとった絵本が配られた。ネモ船長からのささやかながらのプレゼントだった。
 わたしとソフィーに配られた本は「船乗りシンドバッド」と「アラジンと魔法のランプ」だった。ジャッキーには「アリババと四十人の盗賊」の絵本が配られていた。三人はお互いに取り替えっこしながら、それぞれの絵本を回し読みした。
 スタンレー家のポールにも、もちろん配られたけれど、わたしが持っている「船乗りシンドバッド」と同じ物だった。ポールはフランス語がわからないため、スタンレーさんが英語に訳して読んでやっていた。
 わたしとジャッキーのお気に入りの本は「船乗りシンドバッド」だった。幾度もの航海で繰り広げられる、このアラビアン・ヒーローの冒険は、奇しくも航海の旅の途上にいるわたしたちの気分によく合った。そして、何よりも挿絵のシンドバッドがすこぶるカッコよく描かれていた。適度に力強く、適度に知的で、適度に魅惑的なキャラクターに仕上がっていた。それに比べると、アラジンはちょっとキザっぽい男に描かれていた。アリババにいたっては、いかがわしい裏のある男のような顔つきだった。
「やっぱり、シンドバッドよね」
 二人の意見はぴったりと一致した。つまるところ、挿絵画家の気まぐれによって描きわけられた顔がたまたま素敵だった、というだけのことなんだけど、わたしたち少女のシンドバッドへのシンパシーと思慕の念はおのずから高まり、ほとんど恋するばかりに、この架空の主人公にあこがれを抱くようになっていった。
「ねぇ、目の前にシンドバッドのような男性が現れたらどうする?」
 ジャッキーはピアノの練習の手を休めて、わたしにたずねた。
「もちろん」わたしは断言した。「一緒に冒険へ連れて行ってと言うわ」
「じゃあ、今度のジブチの港で彼みたいな人がいたら?」
「ついて行っちゃうかもね」
「わたしも」
 二人は顔を見合わせ、うふふと笑った。

 ジブチは、大陸の東端「アフリカの角」といわれる半島の付け根にあるフランス領ソマリの中心都市だ。
 アラビア半島とは、狭いバブ・エル・マンデブ海峡をはさんですぐ目と鼻の先なので、当然、イスラム文化の影響を大きく受け、住民の大半もムスリムだった。しかし、その町の趣きはわたしたちの期待――めくるめくアラビアンな世界が広がっているに違いない、という想像をまったく裏切るものだった。
 そこには十九世紀にフランスが作り上げたという整然とした町並みが広がっていた。イスラム圏の都市特有の迷宮のような混沌さ、どこから何が飛び出してくるかわからない意外性はどこにも見あたらなかった。また、港湾部にはフランス海軍の拠点が築かれており、軍艦の姿も目立ったし、町なかにはフランス水兵たちがうようよしていた。
 この町でも、わたしたちはソルニエさんの案内で食事にでかけた。今回はスタンレー一家も同行している。食事のついでに洋服屋に立ち寄り、インド洋を越える暑い日々に備えて、薄手の既製服を買い込んだ。さすがにフランス人の多い町だけあって、品ぞろえはそこそこ。でも値段は決して安くはなかった。
 英国外交官のスタンレーさんは、道を歩きながら珍しそうに町の様子を眺めていたが、彼もどうやら、この町が持つ人工的な雰囲気に違和感を隠せずにいるようだった。
「なるほど、この港湾都市はきちんと整備されてはいるが、アフリカっぽい野性味にも、イスラム的な風情にもちょっとずつ欠けますね」とスタンレーさんは言った。「やはり、フランスの軍事拠点として開かれたという成り立ちが影響しているのでしょうか」
「うむ、おっしゃるとおりです」
 ソルニエさんもうなずいた。「英国のアフリカ大陸縦断政策に対抗して、フランスは横断政策を掲げています。その東の要こそが、ここジブチなんです。それに、この地は紅海の出入口の制海権も視野に入れた要衝だ。我が国が直接支配を強め、その結果、アフリカ的な魅力が薄まってしまう。しかし、それも止むを得ないことなのでしょうな」
「横断政策か。そういえば十数年前、ファショダ事件というものもありましたね」
「おお、あの時は悔しかったですぞ」
 ソルニエさんは苦笑いした。「結局、あなたの国に譲歩せざるをえなかった。結果、東アフリカでは英国の後塵を拝する状態となってしまった」
「その代わり、アフリカ西部ではフランスの力がまだまだ強大じゃないですか。お互い、いい勝負というところじゃありませんか」
 わたしとジャッキーは、大人たちが繰り広げるアフリカ分割の話など、まるで興味が無かった。わたしたちの興味の中心はあくまでもシンドバッドだった。この町はアフリカといえども、アラビア半島から程近く、しかも紅海を挟んだ向こう岸はイスラム商人の国として名高いイエメンだ。半月刀を腰に差した精悍な船乗りたちが波止場あたりにワンサカいてもよさそうなものだ。しかし、町のどこを探しても船乗りシンドバッドのような人物はまるで見当たらなかった。
 とうとう船へ戻る時間になり、わたしはあきらめ半分でつぶやいた。
「やっぱり、ここで出会うのは無理だったのかしら」
「でも、ここを出港してしまうと、次の寄港地はセイロンよ。一気にアラビア世界を通り越してしまうわ」ジャッキーは残念そうに頭を振った。「結局、シンド様は私たちの心の中だけに住んでいらっしゃるのかしら……」
 いつの間にやら、『シンド様』になっている憧れの君の面影を、わたしたちは海の向こうに湧き立つ入道雲へそっと重ね、ため息をついた。
 ジブチでの唯一と言ってもよい収穫は、小さな博物学者ポールとソフィーが、本物のスカラベを捕らえてきたことぐらいだった。街路の隅っこのほうを歩いているのを、ソフィーが見つけ、ポールがすぐさま捕獲したらしい。おそらく町で使われている馬や駱駝の糞に集まってきたのだろう。
 本物のスカラベの素晴らしさは、そのおよそ自然物とは思えない色合いにあった。まるで金属で造られたようなその青黒く輝く光沢、そして質感は目をみはるものだった。ポールがデッキの上に置くと、スカラベは精密な自動機械のようにメカニカルに歩き始めた。
「What a wonderful insect!」
 ソフィーが感嘆の声をあげた。ジャッキーが小さな声で「フランス語で言え、フランス語で」とつぶやいた。ポールは虫の動きを、じっと黙って見つめたまま、にんまりとした表情を浮かべた。
 メインデッキで退屈そうにしていた大人の乗客たちも集まってきて、大きな昆虫がのし歩く様子を興味深げに眺めはじめた。
「おやおや、糞虫かね」
 ソルニエさんがニヤニヤしながら言ったので、ジャッキーがすぐさま文句を言った。「もう! 糞虫なんて言わないで。スカラベよ、スカラベ!」 
 手に原色昆虫図鑑を携えたスタンレーさんが、デッキ階段を駆け下りてきた。英語でポールに何か言った。図鑑に、捕らえたスカラベによく似た図版が載っていたらしい。聞くとビクトリア湖周辺のサバンナにも広く生息している大型の種類なんだそうだ。
「ほほう、美しい図版ですな」
 ソルニエさんが図鑑を手にとってパラパラとページを繰った。「さすがは英国、この手の書物にかけてはいいものを作りますなぁ」
「サバンナから飛んできたのだとしたらすごいわね」
 わたしは感心して改めて虫を眺めた。「もしかしたらコイツ、ゾウとかライオンとかキリンの糞を丸めたこともあるのかもね」
「サイやらカバやらシマウマのウンチもね」とソフィーが言った。
「ポール、どうするの?」とジャッキーが聞いた。「これからも船で飼うの? それとも標本にするの?」
 わたしは腕組みをしてつぶやいた。「飼うんだったら餌はどうするの? もしかして人の……」
「エマったら、やだ」
 ジャッキーが顔をしかめて抗議の声をあげた。
 ポールは、ジャッキーの質問を父親から改めて英語で聞いて、しばらく考え込んでいた。やがてソフィーの耳元で何かをささやき、うなずきあった。そして、二人は並べて広げた手のひらの上に虫を置き、高く掲げ上げた。
 スカラベは、触覚をピクピク動かして、しばらく何か思案しているようだったが、やがて、何かを思いついたかのように羽を大きく広げた。そして陽光に輝く軌跡を描きながら、軽やかに大空に舞い上がった。
「バイバイ、スカラベ!」
 輝く神聖な虫は、アフリカの大地の方向、西空に浮かぶ太陽へ向かって一直線に飛んでいった。

       四 勝手にシンドバッド

 ビクトル号はジブチの港を離れると、背後から吹くモンスーンに押し出されるかのようにアデン湾を一路、東方へ向かった。次の寄港地セイロンのコロンボまでは、まるまる五日間もかかるらしい。季節によってはすごく荒れる海だそうだ。でもクルーたちは、この海が荒れる時期は過ぎたから心配ないよって言っていた。貿易風が心地よい順調な航海になるだろうって。
 船は大きなアラビア半島の南方海上を、ほぼ真東に進み、インド洋(またはアラビア海とよばれる海域)へ入ったあたりから、やや東南向きに針路を変えた。
 わたしの目から見ても、この海は途方もない大きさに感じられた。双眼鏡で周りを見回しても、海上に島影一つ見えない。ごくまれに水平線上に大型の外洋船がゆっくり現れては、また消えてゆくのが望める程度だった。
 しかし、こんな大海原のど真ん中でも生き物たちはたくましく生きていた。時折、回遊魚の大群やそれを追うイルカの群れが船と平行して泳ぎ、ポールとソフィーを喜ばせた。
 彼らは持ち前の好奇心で熱心に海を眺めていたが、ある時、妙な生き物を見つけたと大騒ぎをはじめたことがあった。二人が指さす方を見ると、確かに波間で何やら大きな物体が揺られている。サメかイルカの背ビレのようにも見える。この時ぞとばかりに、自慢の双眼鏡を取り出して、じっくり謎の物体を観察したところ、それは平たい形状をした魚だと判明した。その異形の魚は、のんびり寝そべるような姿で波間に身を横たえていた。通りかかったクルーにたずねると、あれはマンボウだと教えてくれた。
「プクプク浮かんでいるけれど、まさか死んでないよね」
「もちろん、生きているさ」とクルーは答えた。
「じゃあ、何しているんだろう?」
「そりゃあ、昼寝しているんだろうさ」
「まさか、魚が昼寝するなんて」
 わたしたちは本気にしなかったが、見れば見るほど脱力感いっぱいの姿に、あながち昼寝っていうのもデタラメではないかもと思え始めた。とぼけた表情のマンボウはしばらく波に揺られていたが、次第にわたしたちの視界から遠ざかり見えなくなっていった。

 大海のまっただ中でも、ジャッキーは、いまだ『シンド様』の幻影を追いかけていた。さすがにわたしは一時の熱も冷めてしまい、シンドバッドなんて、もうどうでもよくなっていたのだけれど、ジャッキーのほうはいささか重症だったみたい。だって、船べりから遙か北方を眺めては、「あの空の下に彼の故郷バグダッドがあるはずなの。いつか訪れてみたいわ」とつぶやき、ハァーってため息なんてつくのだから。
 さらに彼女は、ポールと交渉して、自分の「アリババと四十人の盗賊」の絵本と、彼の「船乗りシンドバッド」の絵本を取り替えてもらうことに成功した。ポールが何度も読み返した形跡のあるその絵本には、いたるところにチョコレートの汚れや、クッキーのかすがこびりついていたけれど、ジャッキーはそれを丁寧にふき取り、最もお気に入りの挿絵――船上に立ち精悍な表情で空の彼方を見つめるシンドバッドにスリスリほおずりした。
 この架空の人物への恋は、彼女の奏でる音楽にも大きな影響を及ぼした。それまで譜面を丁寧になぞるだけだった演奏スタイルがガラリと変わり、深い情感と陰影を伴った表現が目立つようになったのだ。珍しく姿を見せたロイ・キングが目を丸くして言った。
「いったい、これはどうしたことだジャッキー。すごい上達じゃないか」
「恋の力よ」
 ジャッキーの代わりに、わたしが答えた。
「恋? ジャッキーが? 誰に?」
「シンド様に決まってるじゃない」
「はぁ、シンド様?」
 何のことやらわからずに、ロイはポカンとした表情をした。

 インド洋航行も数日目に入ったある日のことである。
 お母さんが「さぁ、今夜は舞踏会が行われるわよ」と言って、いきなりわたしとソフィーのよそ行きの服を準備しはじめた。
 舞踏会! わたしたちは、たちまち色めき立った。
「ほんとなの? ほんとに舞踏会があるの?」
 信じられないという気持ちで、わたしはもう一度母に確かめた。
「ええ、わざわざ嘘を言ってもしかたないでしょう」お母さんは笑った。「あなたたち初めてだものね。楽しみでしょ」
「あったりまえじゃない。だって、あの舞踏会なんでしょう」
 わたしはそれまで本物の舞踏会を経験したことがなかった。しかし、漠然としたイメージだけは持っていた。たとえば、シンデレラなど、おとぎ話に登場する舞踏会。それは甘い幻想を伴う夢の晴れ舞台だった。
「舞踏会、舞踏会、舞踏会ったら舞踏会……」
 わたしとソフィーは船室から飛び出し、歌うように口ずさみながらデッキを駆け回った。すると、デッキの向こうからジャッキーが姿を現した。
 わたしは、一瞬マズイと思った。おそらくジャッキーのことだ、得意の冷たい一言を浴びせかけてくるに違いない。少なくとも「バッカじゃないの。たかが舞踏会くらいで、なに大騒ぎしてるのよ」ぐらいは言いそうなもんだ。わたしはグッと身構えた。
 ところが予想外なことが起こった。彼女はわたしたちのもとへタァーッと駆けてくるなり、一緒になって歌い始めたのだ。
「舞踏会、舞踏会、舞踏会ったら舞踏会……」
 三階と二階のデッキをひとしきり廻ったあと、一階のメインデッキに下りた。三人とも歌い疲れたので、ラウンジのソファに寝転がり、ゼイゼイ荒い息を吐き出した。
「ねぇ、ジャッキー」
「なによ?」
「あなたも舞踏会がそんなに楽しみなの?」
「あったりまえじゃない。舞踏会なのよ、舞踏会」
「意外だわ。あなたならパリで毎晩、舞踏会三昧の生活をしていたのかと思っていたわ」
「まさか」ジャッキーは笑った。「パリだって、どこだって舞踏会の晩は子供はお留守番っていうのが決まりよ。『ピーター・パンとウェンディ』を読んだら、ロンドンの子どもたちだって、パーティの夜はお留守番させられていたわ」
 わたしは、ピーター・パンもウェンディも何者なのか知らなかったので、ムムム、とうなるしかなかったけれど、ジャッキーが「いずれにしても、今夜舞踏会デビューなのは間違いないわね、私たち」と言ったので、「うん」とうなずき固く握手を交わした。

 舞踏会の開始は夜七時だったのに、六時過ぎには大広間に人々が集まり始めていた。
 わたしは、出港の日と同じよそ行きの服を着て、夜会服のお母さん、そしてソフィーとともに大広間へと下りていった。ステージでは早くも楽団が軽やかな歓迎の音楽を奏でている。その音色は、ただでさえ浮ついているわたしの気分をさらに浮つかせた。
「こんばんわ、フォンテーヌさん」
 振り返ると、そこには正装したソルニエ一家が立っていた。ジャッキーもマルセイユ港で着ていたものと同じ薄い青色のワンピースだった。
「今夜の舞踏会は、何やら妙な趣向ですな」
 ソルニエさんは辺りのクルーや給仕係たちの姿を横目で見やりながら言った。
「ほんとうに。このような舞踏会は初めてです」
 お母さんもおかしそうに笑った。おそらく、ビクトル号が航行中のアラビア海という海域を意識しての演出なのだろう。乗組員たちがみな揃って、奇妙な衣装を着ているのだ。
 あちらから歩いてくるクルーは、アラブの商人のような姿をしている。こちらで食前酒をサービスしている給仕係は、まるで大航海時代の海賊のような服装を着ていた。
 キャプテン・キッドの手下のような給仕係がやってきて、お母さんやソルニエ夫妻にスパークリングワインの注がれたグラスを手渡した。
 わたしとジャッキーもワイングラスに手を伸ばそうとすると、背後から「ノンノン、君たち、これね」というたどたどしいフランス語が聞こえた。振り返ると、出身地不明のキャビンクルーが立っており、わたしたちにオレンジジュースのグラスを手渡した。
 彼も他のクルー同様、一風変わったいでたちをしている。なんだかバグダッドの下町あたりで管を巻いていそうな、ゴロツキのような姿だった。
「なんておかしな格好!」
 わたしが笑うと、彼は「ノンノン、おかしな格好じゃない。これ、シンドバッドだよ」と言って、白い歯を見せニカッと笑った。
「えーっ、どこが、シンドバッド?」ジャッキーが心外だとばかりに尖った声で抗議した。「シンドバッドは、もっとスマートで素敵な服装をしているわ」
「ノンノン、これシンドバッドの服だよ。アラブの船乗りの服」
「だめよ。名乗るなら、アリババとかアラジンとか、他の名前にしてよ」
「いやいや、もう決まってるんだ。ほら、向こうから来る彼が今夜のアリババだし、あそこで給仕しているのがアラジン、そして私がシンドバッドね」
「もぉー、私のシンド様をけがさないでよ」
 ジャッキーはプクッとふくれっつらをしたが、キャビンクルーは意に介する様子もなく、次の客のところへジュースを配りに行っては、にこやかに「私、シンドバッドです」と自己紹介を続けていた。

 この一風変わった舞踏会は、長いインド洋横断で乗客が退屈しないようにとのネモ船長の配慮で、この海域にさしかかると恒例で行われているものらしい。そのためにビクトル号には仮装用の衣装があらかじめ準備されており、乗組員には、それぞれの役割が与えられているんだそうだ。
「オレなんて体がいかついってだけで、ランプの魔人をやれ、なんて言われてさぁ」
 ロイ・キングも、肌着の上に真っ赤なラメ生地のヴェストというような、おかしな格好をさせられて、ポリポリ頭をかいていた。
 やがて、メッカあたりのインチキ商人の元締めのような姿をしたネモ船長が現れて、慇懃に挨拶をした。
「今夜は、インドシナ航路ビクトル号最大のパーティでございます。みなさまもどうか童心に帰ってお楽しみください」
 この挨拶を合図に、楽団がワルツを奏で始めた。最初の曲はレハールの「金と銀」、続いてわたしの耳にもお馴染みになってしまったシュトラウスの「ウィーンの森の物語」。その後も、ワルトトイフェルやチャイコフスキーなどの聞き覚えのある曲が続いた。
 乗客たちは、次々とペアを組んでダンスの輪に加わってゆく。わたしたちはダンスには加われなかったが、その場の情景を見ているだけで満足だった。テーブルに盛られた料理やデザートを少しずつ味わい、音楽家たちが演奏するのを間近で見物し、若い男女たちが少し緊張まじりでぎこちなく踊る姿を羨望の目で眺めた。普段のディナーとは違う大広間の華やいだ空気、乗組員たちのちょっとおどけたような楽しい仕事ぶり、全てがわたしたちの目にはまぶしかった。
 ようやく舞踏会の熱気も一段落ついた頃、演奏が楽団から、ピアノのロイ・キングにバトン・タッチされた。魔人のいでたちをしたロイは、わたしたちにそこっとつぶやいた。
「さてと、何を弾くとするかな?」
 ジャッキーが飛びつくように言った。「ショパンのワルツにしてよ」
「ショパンか。彼のワルツは決して踊るためのものではないんだけどな」と言いながらもロイは、作品十八の「華麗なる大円舞曲」を弾いてくれた。踊るためのものじゃない、なんて言っていたけれど、十分に踊れる音楽になっていた。彼は普段より幾分ゆったりとしたテンポで弾いた。乗客たちはロイの指先から生まれるリズムにあわせて優雅に舞った。
「すごい、ロイ。すごいよ」とジャッキーは笑顔でつぶやいた。
 ショパンを弾き終えると、「さて、次はこの曲にするか」と言ってロイは、再びピアノを奏で始めた。
「ああ、この曲!」
 最初の主題を聴いて、ジャッキーとわたしは目を輝かせた。それは、あたかも華やかな羽を広げた蝶々が、空高く舞い上がる姿を思わせる旋律だった。
 シューマンの「パピヨン」。ジャッキーが大好きだと言っていた曲だ。この曲もロイによって幾分アレンジが加えられ、見事に踊れる音楽になっていた。
 ロイの指先からリズミカルに紡ぎ出される優しい旋律は、たちまちわたしを空想の世界へとひっぱり込んでいった。
 蝶々たちが、草原のあちこちからいくつも舞い上がる。そして、まるで舞踏会の淑女たちが踊るようにステップを踏んでは、空中で軽やかに跳ね回っている。シロチョウ、キチョウ、赤いタテハチョウ、小さなシジミチョウ、そして華麗なアゲハ……。多彩な色、さまざまな大きさの彼女らが繰り広げる舞は、色彩の精霊のダンスだった。
 やがて、彼らは一列の群れをつくると、虹の奔流となって大空高く吸い上げられ、そして消えていった。
「エマ、エマったら大丈夫?」
 目を閉じたまま動かないわたしをみて、ジャッキーがあわてて声をかけた。
「うん、ちょっと音楽に集中していただけよ」と、わたしは笑った。「ジャッキーの言うとおり、この曲、とても素敵ね。わたしも大好きになっちゃった」
 ロイはすぐさま次の曲を弾き始める。軽やかなラグタイム風のダンスミュージックだ。
 舞踏会の長く華やかな夜は遅くまで更けることがなかった。

       五 テンペスト

 ジャッキーのピアノの稽古は、たいてい午前十時半頃に始まり、小一時間で終了した。
 大部分の時間は、彼女が大好きなショパンやシューマンの作品の練習にあてられたが、最後の十分程度はわたしも歌で加わり、ロイから課題曲として出されている「アメイジング・グレイス」を稽古した。
「この曲って、何だかお説教じみて、辛気臭くない?」とジャッキーは言った。「私は、あまり好きじゃないな」
「そお? わたしはなかなかいい曲だと思うけれど」
「あなたは歌詞の内容とか何も考えないで歌っているだけでしょ」
「うん、だって古めかしい英語だもん」
「何となくちょっとぐらいはわかるでしょう。まあ、単純な曲だから、別にいいけれど」
 ロイも言っていたとおり、難しい曲ではないため、ジャッキーも、わたしも、そろそろ完璧に仕上がっているはずだと自信を深めていたのだけど、時折、稽古の様子をのぞきに来るロイは、「いや、まだまだだ」と繰り返すだけだった。
「まだ、何が足りないって言うのよ?」
 最近ではロイにもズケズケと物が言えるようになったジャッキーが、ある時文句を言ったみたが、ロイはただ微笑むだけで、それ以上は何も教えてくれなかった。
 それよりもロイは、ジャッキーとわたしがシューマンの「パピヨン」を好んでいることに興味を感じているらしい。
「なんであの曲がいいと思ったんだ?」
「わかんない。なぜか心をグイッとつかんで持ってかれちゃうの」とジャッキーは言った。「でも、シューマンの曲が好きだって言ったら、変わっているね、ってよく言われるわ。ショパンを好きだと言えば、誰もが素直にうなずいてくれるんだけど」
 ロイは微笑んだ。「ショパンの音楽は誰にも愛される魅力を持っているんだ。誰もを魅了してしまうなんて、これはもうショパンの偉大さだよ。それに引き替え、シューマンは聴き手を選ぶかな。一度共感すれば徹底的に虜にされるような底なしの魅力があるけれど、共感できない人にはとことんできない。そういう意味で誰もがすんなり受け入れられる音楽じゃないかもしれないな。偉大さは決してショパンに劣るもんではないが」
「音楽を好きになるのに、そんな、くどくどとした理屈なんていらないんじゃない」とわたしは言った。
 ロイは大笑いした。「エマの言うとおりだ。オレの説明がくだらなかったな。音楽を好きになるのに理由なんてないのが当然だ。いつぞやのジャッキーの恋と一緒さ」
「もう、その話はやめてよ」
 ジャッキーは顔を赤らめた。
「なんだ、もう恋に破れてしまったのかい?」
「違うわ。急に冷めちゃったの。あそこにいる彼のおかげでね」
 そう言って、ジャッキーはラウンジのほうをビシッと指さした。そこでは出身地不明のキャビンクルーが黙々と清掃作業をしていた。彼は三人からの視線を感じて、窓ガラスを拭きながらキョトンとした表情を浮かべた。

 セイロンの島影が前方に見えてくると、乗客たちはにわかに色めき立った。さすがに五日間も船上に押し込められていると、渇望するように陸が恋しくなってくる。まるで大航海の果てに、ようやく陸地を見つけた昔の船乗りのような気分だ。
 もちろん、わたしはデッキに立ち、アンリさんゆずりの双眼鏡で島影を眺めていた。
「お嬢さん、ちょっと私にも貸してくれませんか」
 わたしの双眼鏡も、その頃にはちょっとばかし知られる存在になっていた。顔なじみになった乗客たちが代わる代わるわたしから双眼鏡を借りては、小さな丸窓の先に広がる光景を楽しんでいた。
 普段は、日差しの強いデッキにあまり現れないお母さんも、この日は珍しく顔を出し、水平線の先を見つめていた。
「昨夜、かなり船が揺れたけど、エマは平気で眠っていたわね」とお母さんが言った。あまり眠れなかったのか、お母さんはちょっと疲れたような顔をしている。
「うん、波にはびっくりしたけれど、眠気の方が強くって起きてられなかったの」
「ほんとに、あなたは得な性格ね。あんな揺れの中でも普通に寝られるんだから」
 お母さんは、あきれたように笑った。
 この航海は、クルーたちでさえ奇跡だと言うくらい平穏な状態が続いてきたが、ついに前夜、強い風雨が船を襲ってきたのだ。それは多くの乗客が初めて経験する嵐だった。一万数千トンの船がシーソーのように揺れ、船体がギシギシ軋む音を立てたくらいだから、相当に波も高かったのだろう。揺れの連続に、ソフィーはたまらずダウンした。
 お母さんはソフィーの介抱に追われ、自分の気分が悪くなるどころではなかったのかもしれないが、わたしの方はまるで平気、余裕でベットで丸まりスヤスヤと眠っていた。いったん眠りの国へ入ってからは、どんな揺れが来たのかなんて、まるで覚えていない。ソフィーを連れて洗面所へ向かうお母さんが、そんなわたしの姿を横目で見て「大物だわ、この子は」とつぶやいたらしい。自分で言うのもなんだけど、わたしは眠ることにかけては天才だと思う。いつでもどこでも眠りたいときに眠れる図太い神経を持っている。 
「おやおや、フォンテーヌさん。今日もお元気そうですなぁ」
 ソルニエさんがデッキに現れた。彼も眠れなかったのだろう、目元に隈ができている。
「あれ、ジャッキーは?」とわたしはたずねた。
「あいつは昨晩の嵐でグロッキーだよ」
「うちのソフィーも気分が悪いって、まだ船室で寝ているの」
「エマさんは平気だったのかい。強いなあ」
 ソルニエさんは感心したように言った。そして、はるか水平線上に細長く見える陸地を見やり、「いよいよセイロンですなぁ」とつぶやいた。
「ええ、早くしっかりと動かない陸地に上がりたいものですわ」
 お母さんも海上ををまぶしそうに見つめた。
 スタンレーさんが首を降りながらデッキへ下りて来た。
「いやいや、昨夜の大波にはさすがに参りましたね」
 彼は肩をコキコキ鳴らしながら言った。ソルニエさんはうなずいた。
「いやあ、まったく。モービィ・ディックでも現れたんじゃないかと思いましたな」
「ほう、モービィ・ディック。するとソルニエさんもあれを読まれたのですか?」
「ええ、アメリカに住む友人に勧められましてね」
「そのご友人は、なかなかの読書家なのですね。英語圏の人間にも、あの本はまだまだ知られていませんよ」
「確かに難解だし、とても一般受けするストーリーとは思えないですからね」
 二人の会話は、お母さんの興味をかきたてたらしい。「それって小説か何かかしら?」
「ええ」ソルニエさんがうなずいた。「ハーマン・メルヴィルって作家の作品なんですが、長ったらしくて、ちょっとばかし読みづらい小説です」
「フランス語でも読めますの?」
「おそらく、まだ訳されてはいないでしょうな。出版されてから、かれこれ数十年は経っている古い小説なんですがね。私は英語の原本で読みましたよ」
 わたしはたずねた。「モービィ・ディックってどういう意味なの?」
「伝説の白いマッコウクジラの名前さ。とにかくでっかくて、凶暴なんだ」とソルニエさんが言った。「あの小説によれば、とにかく捕鯨船の船員っていうのは大変な仕事だね。彼らの航海はものすごいよ」
「どんな航海なの?」
「一度出港すれば、船倉の鯨油樽が満杯になるまで二年も三年も帰港しないってことがザラなんだ。考えられないな」
 わたしは三年も船の上ばっかりという生活なんて、まっぴらごめんだと思った。何年も洋上で鯨を追い求める船って最後はどんな姿になっているんだろう。幼い頃、怪談話で聞いた「さまよえるオランダ人」の幽霊船みたいなボロボロの状態になっているんじゃないだろうか。そんな船が目の前に現れたら、さぞかしコワいだろうと思った。
「聞いているうちに、だんだん読みたくなってきたわ」とお母さんが言った。
「私にとっては非常に興味深い小説でしたが、女性の読者にはどうなんでしょうな」ソルニエさんは首を傾げた。「全然ロマンティックな要素がないし、物語の展開もおそろしいほど遅い。登場人物は一癖も二癖もあるような野郎ばかりです。同じ海洋モノでもわが国の『海底二万リュー』のほうが、はるかに面白いでしょうな」
「そういえば、ノーチラス号もほとんど寄港せずに、ひたすら海底を旅していますわね」
「いやいや、この船のネモ船長がそういうタイプじゃなくて助かりましたよ」とスタンレーさんがつぶやいた。
「いやあ、まったく」
 ソルニエさんとお母さんは大笑いした。

 英領セイロンの中心都市コロンボの港に到着したのは、その後間もなくだった。
 五日間にわたるインド洋の航海のあとで、あれほど渇望していた陸地なのに、わたしたちはそれを目の前にして、なかなか下船することが許されなかった。
 なんでもセイロンでは、数日前に現地人のナショナリストたちによる大きな反英運動が行われたばかりらしく、植民地政府から治安上の注意喚起がなされていたのだ。
 小一時間ほど船べりで待っていると、町の様子を探りに行っていたクルーたちが戻ってきた。彼らによれば、とりわけ治安の悪さは感じられず、町の様子はいたって穏やか、現地人たちも極めてフレンドリーだったらしい。むしろ、ピリピリとしているのは支配層の英国人たちで、そこかしこに制服姿の官憲がこわい顔をして立っていたそうだ。
 そういう状況ならば大丈夫だろう、とようやく下船許可が下りた。乗客たちは次々と上陸して行った。うちの家族やソルニエ一家もスタンレーさんの案内で、コロンボ市内のとある英国料理店へ向うことになった。
「コロンボは英国領なんです。私にとって初めての土地とはいえ、ホームグラウンド同然です。ここは、私にドーンとおまかせください!」と、スタンレーさんが拳で胸をたたき案内役を申し出てくれたのだ。
 ところがスタンレーさんときたら、英国連邦省特製の立派なガイドブックを片手に勇んで歩き出したのはいいけれど、どうにも様子がおかしい。
「うーむ、変だなぁ」
 歩き始めて十分と経たないうちに、彼は首をひねりはじめ、それから五分も経たぬうちに、どこやらわからない街角で、ムムムとうなりつつ立ち往生してしまった。「んんー、この辺りだと思ったんですがねぇ」
「おやおや、迷ってしまいましたかな?」とソルニエさんが苦笑いしながらたずねた。
「はい、見事に迷ってしまいました」
 スタンレーさんは、あっさりと認めた。
「げっ、ついさっきまで、ドーンとおまかせください、って胸張ってたくせに」とジャッキーがわたしの耳元でつぶやいた。
 わたしたちは、辺りを見回した。裏通りへ迷い込んでしまったのか、人通りもまるでない。心配したほど治安が悪くはないとはいうものの、異国の知らない町で路頭に迷うのは、あまり気持ちのよいものではなかった。
「ちょっと、地図を拝見」
 ソルニエさんも横合いからガイドブックを食い入るようにのぞきこんだが、地図を眺めただけで自分たちの現在地がわかるものでもない。道を聞こうにも、先ほどまであちらこちらで見かけた官憲たちの姿は、肝心なときには見当たらない。
「こりゃあ、まいりましたなぁ」
 二人の男性は顔を見合わせてため息をついた。
「誰かに道を尋ねることができればいいんですがね」
 その時だった。わたしたちが突然後方から呼びかけられたのは。それは、とてもたどたどしいフランス語だった。
「おやおや、みなさん、おそろいですねー。これは妙なところでお会いしましたねー」
 わたしたちは一斉に振り返った。そこには、ひょろりとした浅黒い男性が立っており、白い歯を見せてニカッと笑った。
「おお、君は!」
 ソルニエさんが声をあげた。「キャビンクルーのシンドバッド君ではないか!」
 シンドバッド君は、白い歯をなおも輝かせた。「いやいや、大勢で楽しそうですね。何してるんですか?」
「別に楽しんでるわけじゃないけど」
 ジャッキーがボソリと言った。
「いやぁ、恥ずかしながら道に迷ってしまってね」スタンレーさんが頭をかいた。「この英国料理店を探しているんだが、どう行けばいいのやら」
 シンドバッドのキャビンクルーはガイドブックをのぞき込んだ。
「はいはい、この店なら、私、場所を知ってます。ご案内しましょう」
 おお、素晴らしい! 一行はそろって拍手をした。この時ほど彼の白い歯が神々しく見えた瞬間はなかった。
「助かったよ! シンドバッド君」
 スタンレーさんは思わずキャビンクルーの手を握り、その肩をたたいた。
「さあ、こちらです」
 料理店まで案内する道すがらシンドバッド君は、よくしゃべった。彼の言によれば、今日は非番なので歩きなれたコロンボの街を散歩していたらしい。そして、普段は通らない裏道を、なぜか気まぐれに歩いてみたんだそうだ。
「その君の気まぐれのおかげで、立ち往生している我々に出くわしたわけだから、これはきっと天の配剤に違いない」とソルニエさんはおおげさに言った。「ところでシンドバッド君。君の本当の名を聞く機会がまだなかったね」
「あら、そう言えば、私たちも知らないわ」とジャッキーが言った。
 シンドバッド君は、これは失礼しましたと、詫びてから名乗った。
「私の名はティアタといいます」
「ほう、聞きなれぬ名前だが、どこの出身なんだい?」とソルニエさんはたずねた。
「ボラボラです」
「ん?」
「ボラボラ」
「ボラボラ……、そんな国があるのかい?」
「ええ、太平洋のど真ん中の島です」
「ほほう、太平洋のど真ん中!」
 ソルニエさんはうなった。わたしも何というすごい出身地なんだと思った。世界で一番広い海といわれる太平洋のど真ん中で、しかも島の名前がボラボラ。そんな冗談のような名前の島が本当にあるんだろうか。まるでおとぎの国の話じゃないかと思った。
「その島はタヒチなんかの近くなのかい?」 
 スタンレーさんが聞いた。
「そうです。同じフランス領ポリネシアのソシエテ諸島にあります。ボラボラはサンゴの環礁に囲まれた島で、中央にオテマヌという尖がった山がそびえたっているんです」
「おやおや、ボラボラってのは我がフランスの領土だったのか」今度はソルニエさんが頭をかいた。「じゃあ、画家のゴーギャンなんかが行った方面だな」
 ティアタは大きくうなずいた。「私はゴーギャンの絵にあこがれて、フランス本国で絵の勉強をしたいと思っているんです。今は船乗りをして学ぶためのお金を貯めています」
「そうか、画家志望なのか」
「ええ、フランスはすごい画家たちを育てます。セザンヌ、ルノワール、そしてモネ」
「モネなら知ってるわ」わたしは言った。「わたしの育ったル・アーブル出身の画家よ」
「おお、あなたル・アーブルの人ですか」
 ティアタは感激したように言った。「あの町は私たち画家を目指すものにとって憧れの地です。なにせ近代絵画の原点にもなった『印象・日の出』が描かれた場所ですからね」
 ――「印象・日の出」という作品を知っているかね。
 わたしはアンリさんの言葉を思い出した。同時に丘の上の庭で揺れていたコスモスや眼下に広がっていた港の光景も。そして、奥さんが入れてくれた湯気のあがったココアの香りも。わたしはとても素敵な町で育ったんだ。アンリさんが言っていた故郷の誇りの意味がちょっとわかったような気がした。
「ほら、着きましたよ。ここがガイドブックに載っていたお店です」
 ティアタはスタンレーさんに言った。
「ありがとう、ティアタ君。おかげで助かったよ」スタンレーさんは礼を言った。「ぜひ、君にも一緒に食事をしてもらいたいんだが」
「いや、私は」
「遠慮しなくてもいいじゃないか」
「しかし、お店のほうが嫌がるのでは」
「なぜ? 嫌がる理由などあるもんか」
 そして、皆で店に入ろうとすると、本人が懸念したとおりティアタだけが店員に止められた。聞くと店主から白人以外の客は入店させてはいけないと指示を受けているらしい。
 スタンレーさんは、自分が英国連邦省の役人であることを明かした上で、「彼は友人だ。なぜ、入店を拒まれなくてはならないのか」と強く抗議した。すると店の責任者がすっ飛んできて釈明し、ティアタにも丁重に詫びた。どうやら、店員はティアタを現地のシンハラ人と勘違いしたらしい。数年前から反英独立の機運が高まりつつあるなか、この店ではシンハラ人の入店を断っているそうだ。
 席に案内されてから、ソルニエさんが言った。
「表向き沈静化しているとはいえ、問題の根っこは深いようですな」
「ええ」スタンレーさんはうなずいた。「ただ、これはセイロンだけの問題じゃないですね。これからは世界各地でナショナリズムの動きは広がってゆくでしょう。日露戦争以降、触発されたアジア各地の活動家たちの動きが活発化しています。英国のように植民地の存在で支えられている国は、これから難しい舵取りが必要になってきそうです。ある程度権利を認めて懐柔してゆくべきか、それとも、より厳しく支配体制を固めてゆくのか」
「それは我がフランスも同じですな。今は他に先駆けて世界へ乗り出していった英国、フランス、オランダ、スペインあたりが世界の後進地域を分割しているような状態です。各植民地での独立運動以外にも、後発の列強諸国、例えばアメリカ、ドイツ、イタリアなんかとの摩擦もますます深刻になってゆくでしょう。私の商社の基盤となっているインドシナもいつまで安泰でいられることか」
 二人の話を聞いて、お母さんが表情を曇らせた。
「インドシナも、そんなに不安定な状況なのですか」
「いやいや、インドシナは大丈夫でしょう」スタンレーさんはお母さんを安心させるように言った。「フランスはかの地を、なかなかうまく治めていると思いますよ」
 大人たちが話し合っているうちに、料理が次々と運ばれてきた。
「うわっ、これ美味しい」
 わたしとジャッキーは思わず目を見合わせた。
「どれどれ」ソルニエさんも一口にほおばり、「うむ、確かにうまい」と言った。「失礼ながら、わが国では英国料理ほど不味いものはないという評判が定着しておりましてな。果たしてどんなものが出てくるのか正直不安だったのですが、ここの料理は素晴らしい」
「英国料理の評判が悪いのは、我々英国人も承知しています。そして、その評価もやむを得ない側面が確かにありますね。でも、ここの料理は違うと、英国外交官の中でも評判になっておりまして、みなさんをぜひお連れしたかったのです」
「香辛料を上手に使っているんでしょうね。少しインド風の味付けになっているように思えますわ」とソルニエ夫人が言った。
「だからでしょうか。すごく食欲がわいてきますね。これならいくらでも食べられそう」
 お母さんも絶賛した。
 皆が口々に料理をほめるので、スタンレーさんも迷子騒ぎのことをすっかり忘れて得意満面になっていた。
「さあ、今日は遠慮せずにどんどん食べてください。食事のあとは、セイロン名物のお茶を楽しみましょう」
「あなた、フォンテーヌさんは、コーヒーでご商売なさっているのよ」
 スタンレー夫人が注意した。
「こりゃ失礼。インドシナ産のコーヒーも用意できるか確認いたします」
「いえいえ、私たちお茶も大好きですわ」お母さんは答えた。「せっかくのセイロンですから、今日はお茶をいただきましょう」

 翌日の夕刻、ビクトル号は出港した。コロンボを離れると、次はいよいよ最後の寄港地シンガポールだ。
 ベンガル湾とマラッカ海峡を越えてゆく今度の航程には、およそ四日間の予定だった。
 暮れてゆく西の空の向こうにセイロンの島影が遠ざかってゆく。背後の空には熱帯の星空が瞬きつつあった。
 わたしはぼんやりと美しい空の変化を見つめていた。日が沈んだ直後は赤く燃えていた空が、だいだい色に、やがて深い青緑に、そしてついには濃紺に染めあげられていった。
「見事な夜空だな」ブリッジから出てきたネモ船長が言った。「今夜は月がないから、よけいに星々がきれいに見える。銀河も闇の奥から浮き上がってくるようだ」
「月がない夜空って、ただ暗いだけだと思っていたけれど」とわたしは言った。
「ああ、星明かりだけでも、すごいものだね」
 船長は空を見上げながらうなずいた。
「星空を、こんなに真剣に見たのは、ハレー彗星が来たとき以来だわ。三年前だっけ」とわたしは言った。
「ハレー彗星か」ネモ船長はおかしそうに笑った。「あの時は、えらい大騒ぎだったな」
「うん、彗星の毒が地球に撒き散らされて人類滅亡だとか言って、騒ぐ人がたくさんいたのを憶えているわ。お父さんたちは、そんなのデタラメだって笑ってたけれど」
「そういう、とんでもない噂は、歴史の節目には現れがちなものだな。あの年には、ハレー彗星の少し前にもう一つ明るい彗星が来ていたのを憶えているかい?」
「いいえ、そんなのあったかしら?」
「うん、一月の大彗星なんて呼ばれている。ハレー彗星ほど有名じゃなかったから、憶えていない人も多いね。でも、輝きはけっこう強くて、それなりに存在感を感じさせる彗星だった。こうして航海をしていると、星空を見る時間も多いから、よく記憶に残るんだ」
 わたしたちは、そのまま漆黒の度合いを増してゆく夜空を黙って見上げていた。
 しばらくして、ネモ船長が言った。「ここから見える星空は、ヨーロッパのものとはずいぶん違うってことは知っているかい?」
「えっ」わたしは驚いた。「星空なんて、どこから見ても同じだと思ってた」
「ああ、星空は季節によっても変わるし、見る場所でも大きく変わる」
「ふうん」
「地球が丸いっていうのは知ってるだろう。丸いから北のほうと赤道付近では同じ星空でも見え方がずれてしまうんだ。例えば、ヨーロッパでは北の空高く見えていた北極星ポラリスも、この辺りでは、ほらあんなところだ」
 船長は水平線近くの空を指差した。
「カシオペア座もあのとおり海に半分沈んだ状態だね。その代わり南方の空には、北では見られない星座も現れるんだ。そうだねぇ、孔雀座とか、みなみのさんかく座なんてのが南天にはある。今は見えていないけれど有名な南十字星もそんな星々の一つだね」
「月はどこでも同じなんでしょう」とわたしは聞いた。
「ああ、月は世界中どこから見ても同じ月だよ。アンデルセンの『絵のない絵本』のように同じ月が、世界のいろんな場所を見つめているんだ。もちろん世界の各地にも、それぞれ月の伝説が残っている。セイロンでは、月にはウサギがいるって信じられているんだ」
「ウサギが月に?」
「ああ。もっともセイロンだけじゃなく、アジアの広範囲にある伝説らしいんだが」
「なんでウサギが月にいることになっているの?」
「月の表面の模様だろうね。どうも、あれがウサギの形に見えるらしい。今夜、月が出ていれば確かめられたんだが」
 わたしは月の表面を思い浮かべた。確かに黒っぽく見える部分が点在していたように思える。あれがウサギに見えるんだろうか。
「ヨーロッパでは昔から女性の顔のように見えると言ってるがね」とネモ船長は言った。
 ――月のウサギ。ホントにそんなのがいれば素敵だろうな。
 わたしは、月が出ていないのが残念に思えた。そうすればもう少しロマンティックな気分になれたかも。
 でも、それ以外にもロマンティックになりきれない理由がわたしにはあった。昨日のコロンボでのティアタの入店拒否の情景が、記憶の中に強く残っていたのだ。思い出すだけで、胸が痛くなる出来事だった。ティアタは結局、入店してから一度も笑顔を見せなかった。笑うとあんなに白い歯が似合う人なのに。
「ねぇ、ネモ船長」
「どうしたんだい?」
 わたしはコロンボで体験したことを船長に説明した。船長はうなずきながら、わたしが言い終わるまで静かに聞いてくれた。
「うーん、差別の感情というのは、いつまでも人から払拭しきれない深い問題なんだよ」
 ネモ船長は深くため息をついた。「私はコスポリタンでありたいと、以前言ったことがあったね。それは全ての国民や民族が分け隔てなく平等な社会を作るべきだという私の理想、信念から思い続けていることだ。しかし、その私でも差別的な考え、行動から完全に脱却することができないでいるんだ」
「ネモ船長でも差別をすることがあるの?」
「もちろん意図的な行動としてするわけではないよ。しかし、ヨーロッパ人である限り、植民地支配する地域からの収奪で、間接的に我々の生活や文化を支えていることには変わりがない。こうして外洋船で船乗りをしているのも、植民地経営に貢献する役割の一端を担っているといえるだろうね。でも私にはこの生活や職業を捨てることはできないんだ」
「そんなこと言い出せば、何だって差別につながっちゃうわ」
「そうなんだ。何だってつながってしまう。具体的に見える形で差別しようとしたコロンボの料理店と本質的には何も変わらないんだ」
「そうかしら。差別の気持ちをなくそうという信念を持っているだけでも違うんじゃないかしら」
「……うん、そうだね。それでも、私はひどく差別的な考えを無意識のうちに持ったことがあった」
「どんなこと?」
 わたしはたずねた。
「あれは一九○五年のことだから、八年ほど前の出来事だな」
 ネモ船長は思い起こすように遠い星空を見つめながら言った。
「当時のロシアには、英国艦隊と並び称されるヨーロッパ最強の艦隊があったんだ。バルチック艦隊というのがそれだ。私もちょうどインドシナへの航海中、その艦隊の主力が通り過ぎるのを間近で見たよ。実際、すごかった。どんな国のどんな艦隊と戦っても必ず打ち負かすだろうと思われるくらい力強かった」
「その艦隊はどこへ向かっていたの」
「極東さ。当時、ロシアは日本と戦争をしていたんだ。相手は東洋の隅っこの小さな島国だ。ちょっと前まで、まともに外洋に漕ぎ出せる船一つ持っていなかった国さ。ただ、日本も必死だったんだろう。旅順や満州で思いのほかロシアを手こずらせていると聞いていた。でも、あの艦隊が本気で乗り出せば、たちまち形勢は逆転し、日本など一たまりもないだろうと私は思ったんだ」
「で、日本は負けちゃったの」
 ネモ船長は首を左右に振った。「逆だよ。バルチック艦隊が負けた」
「だって、ヨーロッパ最強の艦隊なんでしょう」
「ああ、それでも負けたんだ」
「それって、もしかして、日本に神様が八百万もついていたおかげかしら」
「おやおや、妙なことを知っているんだな」船長は笑った。「まあ、神様のおかげかどうか知らないが、とにかくバルチック艦隊は敗れた。それもただの敗戦じゃない。待ち受けていた日本艦隊に徹底的に壊滅させられたのさ。あのバルチック艦隊が、って最初は信じられなかった。私は無意識にアジアの隅っこにいる日本人を侮っていたんだ。現代の海戦には、きわめて高度で洗練された技術力、作戦遂行能力、そして水兵の熟練度が要求される。それをアジア人がやりこなせるとは思わなかった。西洋の大艦隊をアジア人が負かすなんて思いもよらなかったんだ。次に私が感じたのは、同じ西洋人の船乗りとしての誇りを傷つけられた屈辱感と憤りだよ。日本を叩き潰すべきだと思った。そうしないと日本の勝利に刺激されたアジア各国に危険なナショナリズムの意識が生まれてしまうとね」
 わたしは黙り込んで聞いていた。
「しばらくして我に返った私は恥ずかしかった。私のコスモポリタン思想など偽善的な空論にすぎないことを思い知ったんだ。私はとんでもない差別主義者だったのさ」
「そんなこと……」
「いや、実際、無自覚な差別主義者だったんだよ。すべては西洋人として高みに立った優越意識から生まれた傲慢な理想だった。西洋人以外は、遅れた人種、哀れな人びとと見なし、保護しなくてはという押しつけがましさに満ちた信念だったんだ。だから、日本がロシアを破ったと聞いたとき、まるで恩を仇で返されたような気分になったんだろうね」
 船長は一瞬言葉をきり、ふっと笑った。「どこか、動物を愛護しようという意識にも似ていると思わないかい。わたしは他の人種を動物のように愛護しようとしていたのさ。それに気づいたとき、自分でもぞっとしたよ」
「でも、今のネモ船長は違うんでしょう?」
 船長は、静かにうなずいた。
「違うことを自分でも願っているよ」
 そして静かに付け加えた。「わたしは、その時に気づいたんだ。あらゆる国民、民族、宗教の垣根をとっぱらい融和させようなんていう考えが間違っているってことに。国境のない世界、信仰の違いのない世界なんて絵空事に過ぎないってことにね。それぞれの違いは消すことはできない。むしろ違いを認め合った上で、理解しあうことが大事なんだ」
「違いを認め合った上で、理解しあう」
 わたしはネモ船長の言葉を繰り返した。船長はゆっくりとうなずいた。
「これから君は、インドシナで支配者階級の一人として生活することになる。しかし、その現状はどうすることもできないし、君自身は恥じる必要はないんだよ。あとは、個人としての、人間としての心の持ちようだ。現地の人々とも一対一の人間として謙虚に向き合えれば、それ以上のことは望むべきではない」
 わたしは黙ってネモ船長の目を見つめていた。
「今の君には、ちょっと難しすぎる話だったかな?」と船長は言った。
「ううん、よくわかったわ。船長ありがとう」
 そう言ってわたしは笑った。なせだか、わたしの目から涙がこぼれ落ちた。

 セイロンを発って三日目の午後のことだ。
 それまで何一つ、遮るものがなかった明るい熱帯の空に、にわかに黒い雲が立ちこめてきた。それは明から暗、見事なコントラストだった。南の方角から吹く風は生暖かく、そして湿っぽい匂いを含んでいた。
 クルーが大声を上げ、デッキに出ている乗客に、すぐ船内へ戻るよう誘導をはじめた。
「どうしたんだね、いきなり」
 ペタングに興じていた乗客たちが口々に不満を口にした。
「雲行きがあやしいんです。大きいのが来るかもしれません」とクルーは答えた。
「え、大きいの?」
 突然、叩きつけるような雨と猛烈な突風がビクトル号に襲いかかった。ペタングの球がデッキを転がっていった。
 予想外に急速に発達した低気圧だった。
「サイクロンだ」クルーたちが叫んだ。
 わたしたち乗客は、激しい揺れを避けるため、下層階の大広間に集められた。テーブルや椅子、ピアノは広間の隅に固められ、ロープで手際よく括りつけられた。
「これはたまらん」ソルニエさんが言った。「セイロン到着前夜の嵐がかわいいものに思えてきたぞ」
 お母さんはソフィーの小さな体を右手でしっかり抱き寄せて、広間の隅に座り込んだ。そして、空いた左手を伸ばし、わたしの手を強く握ってくれた。気丈な表情で、時折わたしやソフィーに「大丈夫よ」と微笑みかけてくれたが、その手は微かに震えていた。
 突然、空が消えたと思えるくらい窓の外が白く輝いた。やや遅れて、耳を震わす大音響がひびきわたった。
「近かったな」
「あそこの三角波に稲妻が落ちるのを見たぞ」
 周囲から、どよめきの声が上がった。
 男の子が一人、窓辺へ駆け寄り、雷を眺めようとした。ポールだった。スタンレー夫人が慌てて、息子を連れ戻そうと追いかけた。
 大きな波が船の横べりに当たり、激しく船体が揺れた。バランスを失ったスタンレー夫人は床にうずくまった。その時、広間の隅に固めて置かれていたテーブルの一部からロープが解け、夫人に向って滑り落ちてゆくのが見えた。
「危ない!」
 わたしは目を背けようとしたが、その瞬間スタンレー夫人の前に立ちふさがり、テーブルを押しとどめた人物がいた。その人物は雷の放つ光の中で、白い歯を見せて笑った。「大丈夫でしたか?」
「おお、君はシンドバッド……じゃなくて、ティアタ君!」とソルニエさんが叫んだ。
「ありがとう!」スタンレーさんが駆け寄った。「また、君に助けられたね」
「あなたにお怪我はない?」
 スタンレー夫人がティアタを気づかった。
「ノープロブレム。僕は何ともありません」ティアタはすっと立ち上がり、無傷であることを証明した。おおー、どよめきと拍手がわきおこった。
 ポールは、窓べりにつかまっていて無事だった。ティアタがポールを抱き上げ、父母のもとへ連れて行った。それを見ていたソフィーが「ノープロブレム!」と繰り返した。
 嵐は一向に止まなかった。つかの間、波が穏やかになり、もう大丈夫と思っても、突然激しい揺れが戻ってくる。そんな繰り返しが幾度も続き、乗客たちも緊張で疲れ始めた。
 わたしたちは、床に座り込んでいるほかなかった。気ままに吹きすさぶサイクロンに翻弄され、じっと耐え忍ぶしかなかった。二十世紀の大型客船だというのに自然の前では、全くの無力だった。このまま何事もなく嵐が去ってくれるのを、ただ祈るしかなかった。
 いつの間にか、ジャッキーがわたしの傍らに来て身を寄せていた。
 彼女はわたしの顔を見てから、手の中のスカラベを見せた。わたしもポケットからスカラベを出した。二つをあわせるとカチリと高い音が鳴った。
「私たちにはこのお守りがあるから平気よ」とジャッキーは言った。
「インチキオジさんの偽物スカラベだけどね」
 わたしは笑った。
 ジャッキーはスカラベをギュッと握り締めて、静かに歌い始めた。

 Amazing grace, how sweet the sound
 That saved a wretch like me
 I once was lost but now I'm found
 We blind but now I see …… 

 それは彼女がお説教じみて辛気臭いと言っていたはずの「アメイジング・グレイス」だった。そういえば、この曲の作者も嵐の中で神に祈ったんじゃなかったかしら。
 わたしもジャッキーと一緒に歌い始めた。お母さんが「いい歌ね」と言った。
 依然、窓の外は風雨が暴れていた。大波が舳先にぶち当たり、船内をシェイクした。その中を、二人は静かに歌い続けた。ジャッキーがわたしの目を見て、何かささやいた。
「なに? 聞こえなかった」
 ジャッキーはもう一度言った。「本当に、いい歌ね」
 彼女は舌をペロッと出した。

       六 幼い王子と王女

 前日の嵐がまるで嘘だったと思えるほど、マラッカ海峡は凪いでいた。波を切って進むビクトル号がたてる水音とエンジン音だけが世界を包んでいるようだった。
 聞けば、この海は昔から海賊のメッカなんだそうだ。
 なるほど、狭い海峡の沿岸には、いかにも海賊船が潜んでいそうな島々や入り江が続いている。ああいう所から、不意に船足の速い船がスルスルッと現れれば、略奪を防ぐ手だてはないのかもしれない。でも申し訳ないけれど、海賊さんがやって来たとしても差し出す宝物なんてわたしには何にもない。偽物のスカラベ石や古びた双眼鏡では、馬鹿にするな、って納得してくれないだろうけど。
 めぼしい被害予想が思いつかないわたしに対し、ジャッキーには 盗られてしまっては困るモノが山ほどあるらしい。「お父さんからもらった銀のネックレスでしょ、それから、旅立つ前にパリのおばあさまからいただいた真珠のイヤリング……」
 あれもこれもと挙げつらって、彼女は「困るわ」とため息をついた。海賊ばなしに花を咲かせているわたしたちに、英国連邦省勤務のスタンレーさんが誇らしげに言った。
「今は大丈夫さ。英国海軍がこの海を監視しているからね」
「おやおやおや」ニヤニヤ笑ったソルニエさんが、すかさず横合いから口を挟む。「その英国海軍自体が、もともと海賊みたいなものだったんでしょう」
 このおじさんたち、なかなかいいコンビで掛け合いするようになってきている。
「おっしゃるとおりです」スタンレーさんは大きくうなずき、悪びれもせず答えた。「私掠船をいっぱいかき集めたのが、英国海軍のもともとの始まりみたいなもんです」
「私掠船って?」とわたしは聞いた。
「外国船への略奪行為を英国国王が公認した船のことだよ」
「ええっ、略奪を王様が公認していたの」
「驚くような話だが、その通りなんだ」ソルニエさんがうなずきながら言った。「新大陸やアジアから帰ってくるスペインやポルトガルの船には財宝や積荷が満載だったんだ。それを狙うために、英国は自国船が海賊行為をするのを公式に認めていたんだよ」
 スタンレーさんが苦笑いしながら続ける。
「アルマダの海戦でフェリペ二世のスペイン艦隊を破ったのも、私掠船の親玉のドレイクです。そんなのを海軍提督に据えちゃうんだから、英国人っていうのもわりあい臨機応変な国民でしょう」
「英国人が海賊の子孫っていうのを誇りにしているのは本当なんですな」
「その通り。もっと昔にさかのぼればバイキングが、グレートブリテンとアイルランドに挟まれたマン島に根拠地を作ってるんです。ちなみに、そのバイキングの集会が議会の原型っていう説もあるくらいですから、世界の民主主義はまさしく海賊活動の賜物です」
 そう言ってスタンレーさんは大きな声で笑った。

 シンガポールはとても美しい港だった。
 汽船や西洋式の帆船、そして東洋のジャンク――いろんな種類の船であふれんばかりの情景は、噂に聞いていたとおり南方貿易の中心地らしい賑わいだった。そして、その港に臨む街並みには風格とも言える落ち着きが満ちていた。
 港内には、生ゴムや南洋材などを運搬する貨物船が数多く停泊しており、タグボートやパイロットボートが忙しく動き回っている。ビクトル号は、ひしめき合う大小の船の中を、汽笛を響かせながらゆっくりと入港していった。
 ――ここでスタンレーさんたちは暮らしてゆくのね。
 そう思うと、わたしの心にも大きな感慨がわいてきた。
 シンガポールの街並みが近づくにつれて、ソフィーはみるみる無口になっていった。そこへの到着はポールとの別れを意味していた。
 山から吹き下ろす風が、船べりを軽くなでた。風に乗って飛んできた蝶の群れが海を渡ってゆく。ポールは無言で蝶たちを見上げ、その行方を見守っていた。赤道直下のまぶしい日差しが蝶たちの青みがかった翅を透かして色彩を帯びた光の粒となり目に届いた。
 接岸すると、わたしたちはスタンレー一家を見送るためにそろって下船した。
 波止場に下りると、新たな客の到着を待ちかねていた物売りたちが、一斉に集まってきた。彼らは絵葉書や細工物を次々と差し出し、ぜひ記念に買ってくれとせがんでくる。やんわり断っても、次から次から新手の物売りが現れる。おかげで、スタンレー一家とゆっくり別れの言葉を述べ合うゆとりすらなかった。
 そうこうしているうちに、物売りたちの背後から、数名の西洋人の紳士がやってきた。
「お待ちしておりましたよ。スタンレー書記官」
「やあ、どうもご苦労さん」
 どうやらスタンレーさんの同僚――英国連邦省の役人たちらしかった。彼らは群がる物売りたちを慣れた仕草で追い払った。そして、スタンレー夫妻と握手を交わし、旅の労をねぎらった。運転手らしき男性が夫妻の荷物を受け取り、テキパキと車へ運んでいった。
 スタンレーさんは振り返り、ビクトル号で親しくなった人びとに挨拶をした。
「では、これで失礼いたします。楽しかった貴重な日々に、家族全員で感謝しています」
 そして、見送りの人びと、一人ひとりと握手をした。スタンレー夫人がソフィーの前にポールをつれて行き、「さあ、お別れよ」と言った。ポールは、はにかんだように笑ってから「バイバイ」と言って、タァーッと父親のもとへ駆けて行った。
「まあ、ポールったら照れてるのね」
 夫人は苦笑した。そして、ソフィーの前にしゃがみこんで、彼女の頭をなでた。 
「ポールと仲良くしてくれて、本当にありがとう」
 やがて一家は、出迎えの紳士たちに促されて、物売りたちがひしめく喧騒の中を慌しく去っていった。
 ソフィーは、お母さんの足にしがみつき、ポールの後ろ姿をじっと見つめていた。
 ポールは何度も振り返って、ソフィーに手を振った。
「ほら、もっとポールとしっかりお別れをしなさい」とお母さんが言った。
 しかしソフィーは、しがみついたまま何も言わなかった。

 スタンレーさんから停泊中の船に電文が届いたのは、その日の午後のことだった。
 なんでも、シンガポールに大きな植物園があることを同僚たちから聞いたのだそうだ。もし、よろしければ、明日にでもそこへ行ってみませんか、と書いてあった。スタンレーさんたちも、シンガポール到着直後で本来はそれなりに忙しいはずだが、おそらく彼らの方でも港でのあっさりすぎる別れに何か物足りなさを感じていたのだろう。
 翌日、スタンレーさんたちが港まで出迎えに来てくれた。船着き場には、彼が手配した数台の自動車が待っていた。
「港に近づき、ビクトル号が見えてくると、なんだか懐かしい我が家に戻ってきたような気分になりましたよ」とスタンレーさんは笑った。
 ポールとソフィーは、顔を合わせると、いつものように一緒に駆け回り始めた。
 わたしたちは自動車に分乗して植物園へと向かった。もちろんジャッキーたちソルニエ家の人々もいっしょだ。
 市内に入るとまず目につくものが二つあった。一つは真っ白な姿をした大聖堂・セントアンドリュース教会。もう一つは大聖堂と同じように白く塗られた瀟洒な建物群――ラッフルズホテルという有名なホテルらしく、公園のような大きな敷地に点在している。白い建物が多いけれど、きっと暑いシンガポールの気候のせいなんだろう。白壁の建物って、確かに見た目も涼しげな感じがする。
 町の背後には小高い丘が二つ。運転手によると手前のものは、もともとこの辺りを支配していた王様の砦があったところらしい。奥の丘には、森の中にイスタナという知事の公邸があるんだそうだ。
 通りには自動車のほか、馬車、人力車などがひしめいていた。人力車――馬の代わりに人が引っ張る乗り物だ。話には聞いていたが、わたしはその実物をついに目にした。うわぁ、ほんとに人が引いている!
 イスタナの丘を迂回し、その先へと進むとさらに賑やかな街並みが続いていた。繁華な街を行き過ぎたあたりで突如、目の前に広大な緑の森が現れた。それが植物園だった。
 園内は広大だった。池や滝など自然そのままの風景を取り込んだ庭園がひろがり、鮮やかな花々が咲き乱れていた。熱帯の花々は色だけじゃなく、香りの自己主張も強い。
 お母さんがうなった。「蘭だけでも、こんなに種類があったのね」
「ヨーロッパでは、硝子張りの狭い温室でなければ、こういう植物は見られませんものね」とソルニエ夫人も言った。
「ここは、なんといっても赤道直下の町ですからね」スタンレーさんは笑って答えた「蘭のような花でも地植えでどんどん増やしてゆけるんですね」。
 園内には孔雀が何羽も自由に歩き回っていた。飼われているものなのか、それとも自然に住み着いているのか、よくわからない。でも人懐っこく来園者たちに近づいては、餌をもらってついばんでいる。
 ソフィーとポールは、動かない植物より孔雀に夢中だった。二人は何とか彼らの羽を広げさせようと試みていたが、孔雀たちに全く応じる気はなさそうだった。
「結局、この二人は言葉の壁を軽く越えちゃったわね」
 ジャッキーが、ソフィーとポールの後ろ姿を見つめて言った。「でも、こうやって孔雀と遊んでいる姿を見ていると、インドかアラビアあたりの王宮の幼い王子様と王女様みたい。ねぇ、そんな感じがしない?」
「そんな、いいものかしら?」とわたしは笑った。
 その時、上空を、黒地に青緑色の模様が輝く大きな蝶が、群れをなして行き過ぎてゆくのが見えた。
「うわぁ」
 わたしの声に一行の人びとは一斉に空を見上げた。
「こりゃ驚いた」ソルニエさんがすっとんきょうな声を上げた。「見事な光景ですな」
 入港のときに船の上を通り過ぎたのとは、また違う種類の蝶だ。蝶たちは、まるでシューマンの調べのように優雅に羽を広げ、空中を軽やかに舞っている。彼らはいったいどこへ飛んで行くのだろう。
 ソフィーとポールは手をつなぎ、いつまでも蝶たちの旅の行方を見守りつづけていた。

       七 航海のおしまい

 シンガポールを出港したのは、夜も更けてからのことだった。
 いよいよ次の港は最終目的地フランス領インドシナのサイゴンだ。到着は明後日の朝。気象台の予報でも天候は安定しており、予定が大きく狂うことはなさそうだ。
 ベッドの中のわたしには二日後に航海が終わってしまうということが、にわかに信じられない思いがした。背中越しに感じるレシプロ蒸気機関のかすかな振動も、今となってはそれなしに眠ろうとするとかえって落ち着かないような気がする。
 ネモ船長やティアタたちには、サイゴン到着後も航海の続きが待っているんだろう。わたしもずっと彼らと旅を続けてゆけたら、どんなに素敵だろうって思った。ロイとだって、まだまだ話したいことがいっぱいある。最初は確かに怖かったけれど、ようやく何でも気安く話せる間柄になれたのだ。このまま別れてしまうのは、なんだかもったいない。
 でもサイゴンに着いてしまうと、わたしの航海はおしまいなのだ。航海は次々に新しい世界を見せてくれる夢のような体験だったけれど、その夢もおしまい。ビクトル号はサイゴンで新しい乗客を乗せて、また新たな航海に旅立ってゆく。そう思うと、切ない気持ちが込み上げてくる。わたしは切なさを断ち切るように、自分に言い聞かせた。「わたしにはサイゴンで新しい生活が待っているんだ」
 わたしは隣のベッドで眠る妹の寝顔を見つめた。ソフィーは一足先にポールとの別れを経験した。でも、幼い彼女なりに今では心の整理をつけているようだ。植物園の明るい空の下で、ポールと過ごした時間を胸にそっとしまいこんで。
 妹の安らかな寝顔を見つめながら、わたしだって強くならなくちゃと思った。そう思ったとたん強烈な眠気が襲ってきた。フワァッと大きな欠伸をしおわらないうちに、わたしはいつしか深い眠りの淵に引き込まれていた。

 翌朝は、早くからジャッキーが船室を訪ねてきた。彼女はぼんやりとしているわたしに急きたてるように言った。
「何やってんの、早く着替えなよ。明日の朝にはサイゴンに着いちゃうんだから。今日はビクトル号で思う存分楽しまなきゃ」
 ちょっとばかしテンション高めのジャッキーだ。彼女もビクトル号での航海が終わってしまうことに戸惑いを隠しきれないのだろう。
 わたしは急いで着替えを済ますと、彼女に引っ張られるようにメインデッキへ下りていった。ソフィーが「待って」と追いかけてくる。
 さて、何をしよう?
 わたしたちは、デッキを見回した。あれもこれも一通りやっておきたい気分だ。
 三人はとりあえず大急ぎでペタングをやった。それから輪投げをやった。それでも落ち着かないので、エントランスホールとラウンジと大広間の中だけというルールで、かくれんぼをした。ここでかくれんぼをするのは、もう何度目だろう。たいてい、以前隠れたことのある場所ばかりだった。よほど奇抜なところに隠れないとすぐに見つかってしまう。
 いろいろ考えたあげく、わたしはソファの裏側のわずかな隙間に隠れることにした。今までここに隠れた子はいない。
 わたしが四つんばいになって狭い隙間にもぐり込もうとしていると、後ろから「何か探しているのかい?」と呼びかけられた。
 振り返ると、ティアタが隙間の外側からのぞき込んでいる。
「ううん、かくれんぼしているの」
「かくれんぼ? えらい隠れ場所を見つけたもんだなぁ」ティアタは目をまん丸にした。
「向こうへ行ってよ。ソフィーに見つかっちゃうから」
 しかし、ティアタはこちらの都合を全く気にする様子もなく、ソファの縁に腰掛けた。
「もう一息で、いよいよサイゴンに到着だね。どうだい、楽しみだろう?」
 わたしは「うん。でも、さみしい気分もするわ」と答えた。
 ティアタは首を大きく左右に振って「さみしいだなんて、とんでもない」と言った。
「サイゴンは君の新天地だ。君の新しい生活が待ってる。さみしくなんてないさ」
 そして、彼はニカッと白い歯を見せてようやく去っていった。
 ティアタと入れ代りにソフィーが駆けてきた。
「あっ、お姉ちゃん。みーつけたー」
「もう、ティアタったら。だから、早く向こうへ行ってと言ったのに」
 わたしは苦笑いをした。
「さあ、ジャッキーもすぐに見つけるぞ」
 ソフィーは張りきって探し始めた。ところが、ジャッキーときたら、どこにうまく隠れてしまったんだろう。一向に見つからない。気になって、わたしも一緒に探し始めた。
 いろんな場所をぐるぐる探し回ったあげく、ようやく彼女を見つけたのは、備品を収納する納戸の裏側だった。手前に置かれた大きな木箱が邪魔になって、うまく奥が見通せなくなっている。なかなか手の込んだ隠れ場所だ。
「うわぁ、ジャッキーもみーつけたー」
 ソフィーは大喜びで声をあげた。ところが、ジャッキーは暗い納戸の奥でしゃがみこんだまま立ち上がらない。
「どうしたの?」
 ソフィーがジャッキーの顔をのぞき込み、そしてわたしに言った。
「お姉ちゃん、ジャッキーが黙ったままじっと泣いてる」
「ん? じっと泣いてる?」
 わたしもしゃがんでジャッキーの顔をのぞき込んだ。「どうかしたの?」
 彼女は「なんでもない」と言い、涙をぬぐった。どうやら暗闇の中で一人座り込んでいるうちに、急にさみしくなってきたのかもしれない。
「わたしたちは、サイゴンでも同じ学校に通うんじゃない。さみしくなんてないわ。サイゴンはわたしたちの新天地。そこでわたしたちの新しい生活が待ってるのよ」
 わたしは、さっきのティアタの言葉を復唱するみたいに言って、彼女の肩を抱いた。
「ううん、違うの」とジャッキーは首を振った。「私たち同じ学校へは行けないかも」
「へ、なんで?」
「昨日の夜、シンガポールを出港したあとのことよ。私、お父さんがお母さんに話しているのを聞いちゃったの。もしかしたら私たち、サイゴンからすぐにプノンペンへ向わなくてはいけないかもって」
「そんな急に」
「そうなの、急なの」
「ええと、プノンペンって、どこだっけ?」
「サイゴンよりずっと西の方、カンボジアというところ」
「カンボジア……」
 確か、密林の奥に遺跡が残っていたり、伝説の大ワニが潜んでいたりするってところだったっけ。ジャッキー、そんなところへ行ってしまうのか。 
「わたしも、もうすぐお別れなのはショックだわ。でも、同じインドシナにいるのだもの、また会うことができるよ。それに」
 わたしはジャッキーの頭を抱き寄せて、ポケットからスカラベ石を出した。「あなたがどこの町へ行こうと、わたしたちは大親友よ。それだけは変わりないんだから」

 十時過ぎになって、ジャッキーはいつものようにピアノの練習へ向った。わたしもいつものようについていった。ジャッキーは「ちょっとばかしセンチな選曲なんだけどね」と照れながらも、ある曲を弾き始めた。
「何これ? めちゃめちゃいい曲じゃない」
 わたしは心が震えるような思いがした。さみしさと切なさが混ざりあった今の気分に、とても合う曲だと思った。
「そりゃ、そうよ。ショパンのエチュード作品十‐三。大傑作だもん。いい曲に決まってるわ。あなたがあまりにも音楽のこと知らなすぎるだけよ」
 ジャッキーの憎まれ口はあいかわらずだったので、わたしは思わず笑った。
「どうして、今まで一度も弾かなかったの? こんなに上手いのに」
「この曲はね。特別なときにしか弾かないの」ジャッキーは真面目くさった表情で言った。「パリを離れるときにもね、向こうの友達の前で披露したの。その時、大特訓したのよ。どう? 今でも、ばっちり弾けているでしょ」
 彼女はそう言いながらも、ミスタッチをしてペロッと舌を出した。わたしはジャッキーの横顔を見ながら、彼女の演奏は、表現のやさしさと温かさをぐっと増したと思った。
「インドシナに着いてからもピアノは続けるの?」
「もちろん。グランド・ピアノ付きの部屋がもらえるって条件で、インドシナ行きを了解したんだから」とジャッキーは笑った。「さあ、最後にあの曲の練習をしようよ」
 「アメイジング・グレイス」の歌詞はもう完全に覚えこんでいた。英語の発音も、ちょっとはマシになった。ジャッキーの伴奏ともぴったり合わせられるようになっていた。 
「結局、最後の日までロイにOKもらえなかったね」とわたしは言った。
「どういうつもりで課題曲にしたのかしら」ジャッキーも首を傾げた。「わたしたち十分、マスターしたわよね」
 最終日なのに、ロイは練習をのぞきに来なかった。      

 夕食が始まった。航海最後のディナーということもあり、船長主催のお別れパーティという名目になっている。
 ネモ船長の短い挨拶のあと、船上楽団が華々しく「皇帝円舞曲」を奏で始めた。次いで十八番の「ウィーンの森の物語」。
「この曲がよほどお気に入りなのね、この楽団。しょっちゅう聴かされていたような気がするわ」と言ってお母さんが笑った。
 楽団がひとしきり演奏し、休憩にはいるタイミングで、入れかわりにロイがステージに現れた。彼は普段と変わらぬ無愛想な表情のまま、ショパンやサティ、ドビュッシーらの曲を奏でた。「亜麻色の髪の乙女」を弾き終えたとき、ロイはわたしやジャッキーに向ってちょこっと合図してから「パピヨン」を奏でてくれた。
「パピヨンか。そういえば、昨日、シンガポールの植物園で見た蝶々の群れはすごかったわね」とお母さんが言った。
「うん、綺麗だった」わたしもうなずいた。「どこか、おいしい蜜を求めて移動していたのかしら。それとも暑かったから、水飲み場を探していたのかしら」
「あの植物園には、水も花もいっぱいあったものね」
「わたしは一昨日、シンガポールへ入港するときも、船の上を通り過ぎてゆく蝶の群れを見たのよ」
「まあ、海の上で?」
「そう、海の上よ。あれこそ、どこへ飛んでゆこうとしていたんだろう」
「渡り鳥みたいに海を越えてゆく蝶々もいるのかもね」
 ロイは「パピヨン」を弾き終えると、もう一曲シューマンの作品を演奏してくれた。「花の曲」という曲らしかった。やがて、ロイの演奏が消え入るように終わった。彼はすっと立ち上がると、乗客たちに言った。
「さて、これからは彼女に練習の成果を見せてもらいましょうか」
 乗客たちも何のことか心得ていて、ジャッキーに向って拍手をした。
「えっ、わたし?」
 デザートのケーキをほおばっていたジャッキーは、口をモグモグさせながらキョトンとした顔をした。
「そうだ、君だよ。毎日、練習を続けていただろう」とロイが言った。「さあ、口元についたクリームをきちんとぬぐってから、こちらに来なさい」
 乗客たちが笑った。
 ジャッキーは、急な展開にとまどいながらもピアノに腰をかけた。膝がガクガクと震えているのがわかる。そんな彼女に、ソフィーが「ジャッキー、がんばれ」と声をかけた。
 それでもジャッキーがドギマギした様子で動けずにいると、給仕役をしていたティアタが「ぜひ聴きたいなぁ」と言った。すると、ネモ船長までもがとぼけた口調で「私も聴きたいなぁ」と言ったので、乗客たちは大喜びだった。ソルニエ夫妻は微笑みながら娘の様子を見つめていた。
 ようやくジャッキーは意を決したかのように弾き始めた。演奏したのは全てショパンの作品だった。最初は作品九‐二の夜想曲、それから「小犬のワルツ」、最後に作品十‐三のエチュードを続けて演奏した。
 拍手の中、「見事だ。きちんと練習した成果じゃないか」とロイが言って、ジャッキーをねぎらった。ジャッキーはピアノの椅子から飛び上がり、ロイの太い腕に抱きついた。
「おいおい、オレが怖いんじゃなかったのか?」とロイは頭をかいた。
「もう怖くなんかないわ」とジャッキーは笑顔で答えた。「ありがとう、ロイ」
 ジャッキーへの拍手が鳴り止むのを待ってから、ロイは改めて乗客たちに向かって言った。「さて、次は我らが歌姫エマにも登場願いましょう」
 今度は、わたしがケーキを喉に詰まらせる番だった。「わたしもなの?」
「そうだよ」ロイが手招きした。「あの曲をやるのさ。せっかく稽古したんだから」
「うーん、あれねぇ」わたしは、おずおずとステージへ進み出た。みんなの視線を感じて、どうしようもなく足が震える。こんな緊張感の中、ジャッキーはよくぞ落ち着いてピアノを演奏したもんだ。わたしは改めて友人の勇気に感動をした。
 ロイがいつの間にやら勝手に説明を始めている。
「ジャッキーとエマ――彼女たちは、私が課題曲にしたある曲を練習し続けてくれました。飲み込みの早い年頃なので、みるみるうまくなってゆきましたが、残念なことに今ひとつ表現力が伴っていなかった。ところが先日の嵐が、二人に変化をもたらしてくれました。私も床に這いつくばってえらいことになっていたあの大嵐が、二人の殻を破ってくれたようなのです。さあ、お聴きください、『アメイジング・グレイス』です」
 ジャッキーが「さあ、始めるよ」とささやいてから、イントロをゆっくりと弾きはじめた。ここまで来たらもう逃げられない。わたしは覚悟を決め、乗客たちのほうをまっすぐ見すえた。開き直ると肩の力がスルッと抜け、自然に声があふれ出はじめた。

 Amazing grace, how sweet the sound
 That saved a wretch like me
 I once was lost but now I'm found
 We blind but now I see …… 

 わたしが歌っているあいだ、誰も物音ひとつ立てなかった。とにかく、その場にいた誰もが凍りついて固まったように身じろぎしなかった。わたしは歌いながら思った。これは魂の歌なんだ。歌って、じかに魂を震わせることができるんだ、って。
 わたしの歌声とジャッキーのピアノの音が完全に消えてから、ロイが言った。
「今まで聴いた中で、最高の『アメイジング・グレイス』だ。二人とも、ありがとう」
 そしてロイは涙をぬぐった。あの無愛想なロイ・キングが泣いていた。
 ロイの声をきっかけに拍手がわきおこった。
 わたしとジャッキーは顔を見合わせて微笑んだ。二人の親友は、手をつないで聴衆たちに挨拶をした。

       八 川のほとりの都

 ビクトル号は、昇る朝日を右舷側に受け、大きな川の河口を遡っていた。
 ゆっくりと流れるその水は黄緑色に濁っていた。先ほどまで航行していた南シナ海の青翡翠の輝きを思わせるようなブルーとはまるで違う。そして、水面のところどころに巨大なホテイアオイやマングローブの枝が固まりとなり流れ去っていった。
 流れからはむせ返るような強い匂いが漂ってきた。ただし気持ちが悪い匂いではない。生命をたくさん含んだ香りとでもいうべきだろうか。
 わたしとジャッキーは船室に近い三階デッキから、岸辺の風景を見下ろしていた。川といっても明らかにスエズ運河より広かった。両岸ともびっしりとマングローブの緑であふれかえっていた。大密林というほどの迫力ではないけれど、わたしたちの目には十分立派なジャングルに見えた。
 岸辺の小屋から、子供たちが川に入って何やらしている。ザルを持っているから、小魚かエビでも獲っているのかもしれない。
「朝っぱらから大変ね」とジャッキーが言った。
「それより、あの子たち流されちゃったりしないのかしら」わたしは心配になった。
「そりゃあ慣れているんでしょう」
「怖くないのかな、こんな濁った水の中って何がいるか、わからないじゃないの」
「さぁ、毎日のことだから平気なんじゃないの」
 ソルニエさんがデッキに現れた。
「エマさんは、もう下船する準備ができているのかい?」
「ええ、自分の分は、さっとまとめたわ」
「そうかい、要領がいいな。おじさんはいつまでもグズグズしていたから、おばさんに怒られちゃったよ」とソルニエさんは頭をかいた。
「ずいぶんと大きな川ね」とジャッキーが父親に言った。「こんな大きな客船でもさかのぼれちゃうなんて」
「ああ、これがサイゴン川だ。でも、インドシナにはもっと大きな川があるんだ。メコンっていうんだ」
「もっと川幅が太いの?」
「太いとか細いなんていう表現は適していないな。大きすぎて幾つもの川に枝分かれして流れている。そして、それぞれが大きい川なんだ。その辺りはメコン・デルタって呼ばれている。きわめて長い川でね。中国の雲南方面から流れてくることは昔から知られていたんだが、最近になって源流は、さらにその奥のチベットあたりだろうってわかってきたんだ」
「チベット?」
「うん、世界一高いヒマラヤの峰々を越えた向こう側にある国さ。ダライ・ラマという仏教の偉いお坊さんが治めているんだけど、国を閉ざしているから詳しいことはよくわからないんだ。川はそこから中国へ行き、そしてフランス領インドシナとシャム王国の境を流れ、カンボジア、コーチシナ(インドシナ南部)へと続いている」
「このサイゴン川でも十分大きく感じるのに、もっと大きいなんてどんなのかしらね」
 わたしは改めて目の前の流れを見つめた。実に悠々とした静かな流れだ。ふと、アンリさんから聞いたピエールさんの最期を思い出した。今でもピエールさんの亡骸はこの濁った水のどこかに沈んでいるんだろうか。
 この穏やかな流れが荒れ狂う様子を、わたしは俄かに想像できなかった。この川の上には一片の暗さもない、あっからかんとしたのどかさが広がっていた。

 川幅が次第に狭まり、流れの蛇行が繰り返されるようになってきた頃、背の低いマングローブ林の向こうに突如大きな都市のシルエットが浮かび上がってきた。初めて目にするサイゴンだった。
 誰かが言っていた「東洋のパリ」という表現――あれは嘘だと思った。パリとは違う。サイゴンはサイゴンだった。
 水上には無数の船が漕ぎ出していた。野菜や果物、また日用品など雑多なものが小舟に満載されて、サイゴン市街へと向かっていた。この町では道路よりも、川を利用した水運のほうが盛んなのかもしれない。
 ビクトル号はパイロットボートに誘導されてゆっくりと接岸していった。途中、小舟が幾度も舳先を横切るため、繰り返し警笛を鳴らさねばならなかった。

 航海の終わりの船そして乗組員たちとの別れとは、こんなにもあっさりしているものなんだとわたしは改めて驚いた。シンガポールでもそうだったけれど、大型客船が発着する波止場は、出迎えや物売りの人びとで非常な喧噪となる。そこで一人一人がゆっくりとした別れを惜しみ合う場所も時間も無いというのが実状だった。
 エントランスホールに乗組員たちが勢ぞろいしていた。約一ヶ月におよぶ航海で、顔見知りのクルーたちも増えていた。彼らは一様に晴れ晴れとした表情で見送ってくれた。いつもは渋面のロイ・キングですら笑っていた。
「ロイ、いろいろ教えてくれてありがとう」
 わたしとジャッキーはロイと握手をした。
「二人ともきちんと練習して立派なアーティストになるんだぞ」
 ロイはバカでかい声で言った。
「もう会えないのかなぁ」とわたしは言った。
「しばらくはオレもこの船に乗ってるよ。大好きなピアノを気ままに弾きながら、世界中を巡れるんだぜ。最高の仕事さ。だから、また何度でもサイゴンに来ることがある。君らがフランスに帰るときにビクトル号に乗れば、まだオレはいるかもしれんぞ」
「そうね、会おうと思えばいくらでも会えるよね」
「ああ」
 そう思うとわたしは少し気持ちが楽になった。
 ティアタは、いつもどおりの笑顔で立っていた。
「がんばってお金貯めて、絵の勉強がんばってね」
「うん、いつかすごい画家になってみせるよ」
「そしたら、わたしたち、きっとあなたの絵を買うわ」とわたしは言った。
「それは楽しみだなぁ。でも、君たちには売るんじゃなくて、プレゼントしてあげるよ」
 ティアタは白い歯をキラッと輝かせて笑った。
 最後にネモ船長の前を通った。船長は、乗客全員に「お元気で」と言い、握手をしていた。わたしにもみんなと同じように握手をしたが、その際に懐のポケットから封筒のようなものを取り出し、わたしに手渡した。船長は小さな声で、「必ず一週間以上経ってから開けなさい」と言った。
 タラップを下りるとき、ジャッキーが「何それ?」と聞いた。
「さあ。船長から渡されたんだけど、まだ開けちゃいけないみたい」
「何だろう。気になるわね」とジャッキーは言った。
 その時、「おおい、エマ!」と大声で呼びかけられた。懐かしい声だ。
「お父さん!」
 人ごみの中を見回した。父ミシェルがすぐ目の前に立っていた。わたしは船長の手紙を鞄にしまい、お父さんの元へ駆け寄っていった。
「おや、なんだかお前、たくましくなったな」お父さんはわたしを抱き寄せて言った。「その子はお友達なのかい?」
「ええ、紹介するわ。ジャクリーヌよ、わたしたちはジャッキーって呼んでいるの」
「初めまして、そしてサイゴンへようこそ、ジャッキー」
「初めまして。ジャクリーヌ・ソルニエです」ジャッキーは丁寧に挨拶した。
「ソルニエさんってことは、あの生ゴム会社の」
「そうよ、お父さん知ってたの?」
「そりゃあ、インドシナでは有名な商社だからな。ここでソルニエ商会のゴムを知らない者はモグリだ」とお父さんが言った。
「お父さーん」
 ソフィーが大声で駆け寄ってきた。大きな荷物を持ったお母さんが息を切らして、後ろを追いかけてくる。
「お前たち、苦労かけたな」お父さんが二人をいっぺんに抱き寄せた。
「あなたも元気そうじゃない」お母さんが笑った。「家族と離れてげっそりしてるのかと思っていたけれど、その様子じゃノビノビしていたのね」
「ノビノビ?」お父さんも大笑いした。「冗談じゃない、こっちの仕事もそれなりに大変なんだぞ」
 ソルニエ夫妻がようやくタラップから下りてきた。そして初対面のお父さんと握手した。お父さんとソルニエさんは、すぐに打ち解けたように会話をしている。この二人もどこか似たもの同士でけっこう気が合うかもしれないと思った。 
「プノンペンへはいつ行くことになったの?」わたしはジャッキーに聞いた。
「今週いっぱいはサイゴンにいて、それからみたい」
「じゃあ、また会えるのね」
 そして二人はもう一度、ビクトル号のほうを振り返って言った。
「さようなら、そして、ありがとう」

       九 新しい家と町

 わたしたちの家は、サイゴンの中心部から西北の方面へ数キロ向かった先にあった。
 車に乗り、人々であふれかえった街中から一歩外へ出ると、そこには広大な田園が広がっていた。それはフランスのものとは全然違っていた。フランスの田園風景は幾重にも連なるゆるやかな丘の連続だった。斜面をなぞるように麦畑やブドウ園、牧場などが広がっていた。
 インドシナの田園は、見渡す限り平べったい。そこに水田が広がっている。収穫期を迎え、黄金色に実った稲穂が視野の果てまで続いていた。
 小さな赤いトンボが無数に舞っている。おそらく、水辺が多いので小さな羽虫が大量に飛ぶんだろう。人を刺したり、農作物を食べる羽虫を、トンボは退治してくれるのに違いない。そういう視点から見ればトンボは人間の味方なのかもしれないが、わたしはトンボのガツガツした雰囲気、そしてクルクル回る大きな頭がどこか苦手だった。
 道はデコボコしたあらっぽいものだった。アジアの田園風景の中を、風にそよぐユーカリ並木に沿って、どこまでも伸びていた。
「いったいどこまで行くの?」
 わたしは不安になってお父さんにたずねた。
「なかなか到着しないから心配になってきたんだな」お父さんは笑った。「大丈夫、丘になった森が見えてきただろう。あの中にフランス人たちの邸宅がならんでいるんだ。そこに我が家もある。風が適度に吹きよせる過ごしやすい場所だよ」
 森の邸宅街は、お父さんの言うとおり西洋人にとっては過ごしやすそうな街だった。舗装された道、マロニエの街路樹、そして広い庭園を持った各々の邸。ヨーロッパのどこかの避暑地にやってきたような趣がある。ただし、蒸せるような湿っぽさ、照りつける太陽、そしていたるところに生い茂る熱帯性の植物たち、それらはここが紛れもなく東南アジアだということを主張していた。
 車が一軒の邸の門前に停まった。
「さあ、着いたぞ。ここが君たちの家だ」
 お父さんはそう言ったが車からまだ降りようとしない。すると青銅製の柵状の門が内側へ軋みながら開いた。車はゆっくりと門の中へ入ってゆく。庭園内にもロータリー状の舗装道路が続いており、邸の本館前に車寄せが作られている。車寄せの脇には使用人たちが並んでいた。使用人たちは全て現地の人々だった。
「すごい」わたしは驚嘆の声をあげた。ル・アーブルでも商会経営者一家として、そこそこに大きな家に住んでいたつもりだったが、サイゴンの家は全てがケタ違いに大きかった。まるで昔の貴族か、領主なんかが住んでいそうな家だ。
 これは後から聞いたのだけど、典型的なフレンチ・コロニアル・スタイルの洋館なんだそうだ。白亜の石造りの建築で、一階部分の周囲を回廊状のポーチが取り巻いている。ポーチの屋根はギリシアのイオニア式とでもいうような優美な円柱が等間隔に支えていた。西洋風の外観ながら、現地の気候風土に合わせた風通しのよい造りになっているんだろう、各部屋には大きな窓が付いている。二階の各部屋についているバルコニーが下から見上げても素敵だと思った。
 車が止まると小間使いさんの一人がドアを開き、手を差し出してくれた。
「さあ、どうぞ。お嬢様」
 わたしは何だか、こそばゆい思いがした。
 目の前に、初老で小太りの貫禄ある女性が立って、やさしいまなざしでわたしとソフィーを見つめた。
「こんなに小さいのに長旅ご苦労様でしたね。しばらくごゆるりとなされてください」
 どうやら小間使いさんたちのリーダーはこの女性らしかった。彼女はわたしたちに一礼すると、お母さんをねぎらいに行った。
 玄関の扉を抜けると、まず吹き抜けの玄関ホールがあった。ここから二階の各部屋へと続く階段が造られていた。正面の壁面には黒い動物(マレーグマなんだそうだ)の毛皮がかけられており、その下に二丁の猟銃が飾られていた。
 ホールの左手は広々とした居間だった。ソファや小さなピアノがある。そこが家族たちのくつろぎのスペースだった。反対側には食堂があり、中央にテーブルが置かれ、その奥には厨房があった。一同は居間に入り、あらためて挨拶を交わした。
 小間使いさんは、全員で五人だった。初老の小太りの女性はトゥーという名だった。彼女は住み込みの家政婦だった。実際の年齢はまだ五十前で、初老というには早すぎたのだが、見た目はもっと歳上かと思えるような風格を持っていた。ただ、彼女の声は非常に落ち着いて、聞いているだけで気持ちが安らいだ。彼女は、わたしとソフィーに向かって、「どうぞ、トゥーばあやと呼んでくださいな」と言った。
 ばあや以外の小間使いさんはいずれも若い女性たちだった。おそらく十代後半の女の子が三人。それぞれホア、リン、ティエンという名だった。おしゃべりが止まらない年頃らしく、小鳥のようなささやき声で、耳元でささやきあって微笑んでいる。三人とも、近在の農家の娘で、本来は交代制で働きに来ていた。今日は挨拶のため、全員が顔をそろえているらしい。田植えや稲刈りなど農作業の忙しい時期には、三人全員にまとまった休暇を与えているそうだ。
 もう一人、小間使いさんがいたが、彼女はまだ子供といってよい年頃だった。名前はマイといった。年齢を聞くと十二歳だった。わたしより二つ歳上だったが、体の大きさは、わたしより小さかった。彼女は幼い頃に両親と死に別れてしまったらしい。それで親類のトゥーばあやにひきとられていたのだ。だから正式な小間使いというより小間使い見習いっていうところかもしれない。
 彼女たち以外に二人の男性がいた。一人は庭仕事や、邸内の雑務、力仕事全般を行う男性でタンという名前だった。彼はトゥーばあやの夫で、夫婦でこの邸に住み込みで働いているのだ。マイの父親代わりでもあった。年齢はトゥーばあやとそう変わらないのだろうが、もう老齢といってよい風貌をしていた。物静かな人物で、一人にこやかな表情で隅っこに立っている。わたしたちが「よろしく」と言って手を差し出すと、「こちらこそ、よろしくお願いします」とようやく声を出してくれた。
 もう一人は運転手のティンさん。港から車を運転してきたのもこの人だ。彼も口数が多いほうではないが、人の良さそうな表情をしている。普段は、お父さんの仕事に随行するため、邸にいないことが多いそうだ。
 あいさつが終わると、それぞれの部屋に案内された。
 わたしとソフィーの共用の部屋は二階にあった。二人のベッドのほか、飾り棚、木製デスクが置かれていたが、それでもまだまだ余裕があるくらい広かった。わたしたちがもう少し大きくなれば、二部屋に仕切ることもできるらしい。大窓を開け放つと、バルコニーへの出入り口になった。田園地帯を吹き抜けてきた薄絹のような風が吸い込まれてきた。
「きれい」
 バルコニーの外に広がる景色を眺め、ソフィーが声をあげた。
 高い空の下に居留地の周囲を取り囲む木立が見える。木々は風にそよぎ、梢からは鳥たちの鳴き交わす声が聞こえる。虫らしき声も聞こえる。アンリさんから教わったアジアの自然観からすれば、これらはみな精霊といえるものなのかもしれないとわたしは思った。

 夕食はトゥーばあや特製のフランス風インドシナ料理だった。ばあやはフランス人の好みは熟知しているらしく、初めてのわたしたちでも食べやすい味だった。薄いクレープ生地のようなもので肉や野菜を巻いた食べ物があったので、「これは何?」と聞くと、マイが「春巻きです。米粉で作った皮で巻いているのです」と丁寧に教えてくれた。
 食事が済むと、外は夕闇が支配する世界になっていた。ソフィーといっしょにポーチへ出て、大きく息を吸い込んだ。アジアの闇は深く濁りのない藍だった。昼の蒸し暑さが少しだけ残っていたが、それでも風があるので気持ちがよかった。
「ん、この音はなんだろう?」
 辺りの暗がりから、地中からわき上がるような低い音が聞こえてくる。
「カエルの声……かな?」
 ソフィーも首を傾げる。確かにカエルのように聞こえるが、フランスでわたしたちが耳にしていたケロケロケロという、かわいらしい鳴き声ではない。もっと図太い声だし、音量もケタ違いだ。
 帰宅しようとするリンが通りかかったので「この声は何? やっぱりカエル?」と聞いた。彼女は、笑って「そうですよ」とうなずいた。「まぁ、カエルの声をお聞きになったことありませんでしたか?」
「そりゃあ、聞いたことくらいはあるけれど、こんなにすごいのは初めてだわ」
「今は収穫の時期が近いので、田に水を張っていませんが、水田が広がる雨期の盛りは、もっとすごい声なんですよ」とリンは言った。
「へぇ、もっとすごいの」
「いくらでもいるので、簡単に捕まえられます。から揚げにすると、なかなかおいしいんですよ。鶏肉みたいで」
「えっ!」わたしとソフィーは絶句した。
 ふふふ、とリンは微笑んだ。「ご安心ください。トゥーさんはお嬢様たちにカエル料理を出したりしませんから」
 リンはそう言ってから一礼し夜道を帰っていった。      

 翌朝は、家族でティンさんの運転する車に乗りサイゴン市内へ出た。
 前日、ずいぶん遠く感じた道のりだったのに、改めて通ってみるとさほどの距離を感じなかった。時間としても十五分程度だろう。
 わたしたちは、まずフォンテーヌ商会のサイゴン本部へと顔を出した。本部の所在地は、ドンコイというこの町一番の目抜き通りが、サイゴン川岸に突き当たる手前あたり。港からも近く、周辺は荷馬車や人力車でいっぱいだった。
 本部のオフィスは活気に満ちていた。総勢、三十名ほどの事務員が忙しそうに働いている。そのうち十名ほどがフランス人で、残りは現地の人びとだった。
「どうだい、みんなヤル気満々だろう。インドシナ人っていうのはすごく勤勉で、真面目なんだ」とお父さんが言った。すると、フランス人事務員の一人が、いたずらっぽい口調で横合いから口を挟んだ。
「フランス人だってけっこう真面目ですよ」
「うむ、真面目かもしれんが」お父さんはニヤリとしながら答えた。「不平も多い。文句も多い。素直じゃない」
「そりゃあ、そうですよ。フランスは民主主義の国。自由な議論の国ですよ。みんな自己主張しなくちゃね」
 お父さんは、その男性をわたしたちに紹介した。
「この減らず口ばかりたたいている男が、ジャン・ルソーだ。まるでジャン・ジャック・ルソーみたいな偉そうな名前だろう。実際、たいしたヤツで、サイゴン本部の要のような男なんだ」
「社長から要と言っていただけるとは光栄ですね」とジャンさんは笑った。その笑顔をどこかで見たことがあると、わたしは思った。
「もしかして、アンリさんの」わたしは身を乗り出した。
「そう、アンリ・ルソーの息子です」ジャンさんはうなずいた。「そして、あなたがエマさんだね。父から連絡をもらっていたよ。もうすぐ、好奇心ではちきれんばかりのお嬢ちゃんがそちらに行くぞ、ってね」

 その後、ジャンさんの案内で、商会本部の各オフィスや、コーヒー豆の香りが染みついた倉庫、そして船積み場を見て回った。
 サイゴン川の船積み場は創業者ピエールさんの最期の場所でもある。
 一行は黙祷を行い、故ピエールさんの冥福を祈った。わたしは目を閉じながら、ピエールさんの最期はどういう情景だったのか考えた。その日はずっと晴天だったのに、突然、風雨が吹き荒れたという。わたしは目を開けて、ゆっくりと流れるサイゴン川を見た。この穏やかな流れが突如渦巻き牙をむくなんて即座には信じられなかった。うねる濁流に捕らわれる前、ピエールさんが最後に目にしたものはなんだったんだろう。
 ――この空、船、街並み、それとも?
 わたしは、ふーっとため息をついた。そして、ピエールさんの事故がなければ、今ここにわたしはいなかったんだ、ということに気づいた。あの航海の日々もなかったし、ジャッキーやネモ船長やロイに出会うこともなかった。
 もはや、今のわたしには、このアジアの地に立つ自分こそが本当の自分だった。あのままル・アーブルで暮らし続けている自分を想像することはできなかった。しかし、この現実はピエールさんの不幸を礎にしたものだった。
「おいおい、エマ。早く来いよ」
 お父さんの声でわたしは我に返った。みんな数歩先を歩き始めている。
「うん、ちょっと、考えごとしてた」
 わたしは笑って、みんなを追いかけた。

 オフィスではジャンさんの奥さんシェリーさんも事務員として働いていた。
 彼女は、麗しい女性だった。わたしの目から見ても、こんな素敵な女の人はなかなかいないと思った。別段、背が高いわけでもない。スタイルが抜群というわけでもない。突出して美人というわけでもない。でも、なぜか心に強い印象を残す女性だった。
 それは彼女がまとった活動的な空気が醸すイメージなのかもしれなかった。身体にフィットした飾りけのない服装や、肩の上までの短めの髪、そういったものがいかにも新しい時代の女性像にぴったりだった。本人曰く、自転車に乗りやすい格好を模索したら、自然とこうなったんだそうだけど。
 シェリーさんに連れられて、わたしたちは昼食に向かった。
 初めて自分の足で歩き回るサイゴンの町は新鮮で衝撃的だった。未舗装で土がむき出しの街路には物売りたちがびっしりと露店を連ねており、さまざまなものが売られていた。
 香草類や、瓜、玉ねぎ、茄子、バカでかい胡瓜、ニンニク、切花、唐辛子、バナナ、そして、皮ごと茹でられたとうもろこしなどなど。それらに混じって、バケットの形をしたパンも売られていた。フランスでも十分通用しそうな香ばしい焼き上がりだ。
「フランスのパンよりも、いくぶん弾力があって、もっちりとした食感ですよ」とシェリーさんが言った。
 パン屋の隣では、小エビを使った得体のしれない食べ物が樽いっぱい売られていた。シェリーさんによると、塩辛というものらしい。
 脇の物干し台には無数のイカがぶら下がっている。スルメというそうだ。店主が中腰でしゃがみながら、炭火でスルメを焼いている。独特の鼻をつく匂いだ。現地の人びとが、それを買って、やはり中腰でしゃがみこみ、指先で裂きながら実においしそうに食べている。彼らがスルメを浸している黒い液体は魚醤という辛い調味料なんだそうだ。
「スルメって、おいしいの?」
「私も興味を感じて食ってみたことがあるが」とお父さんが言った。「とにかく固くてね。なかかな飲み込めんのだ。干し肉のように噛めば噛むほど味が出てくるんだが」
 それにしても、辺りにはやたらしゃがみこむ人びとが目につく。小さな椅子に腰掛けている人もいるが、椅子が無い人もやはり同じように中腰でしゃがんでいる。アンリさんの言っていたとおり、それはサイゴンの人びとの基本スタイルのようだった。
 バナナの大きな葉の上に隙間なく並べられているのは解体されたブタのあらゆる部分だった。肝、心臓、腸、そして頭……。どこだかわからない部位も並べられていた。
 ニワトリやウズラなどは、大きなカゴに入れられて売られていた。
「あれは何?」わたしが指さしたのは、緑色の半球形の謎の物体だ。ビクトル号のバスルームにあったシャワーヘッドのような形に見えなくもない。
「これはね、咲き終わった蓮の花よ」とシェリーは言った。
「どうして、そんなものを売っているの?」
「中に実がたくさん詰まっているの」シェリーは、指先でつまんで食べるような仕草をした。「とっても、おいしいおやつになるのよ」
「あの、赤い実はなあに?」ソフィーが聞いた。
「タンロン。ドラゴンフルーツとも呼ばれているけれど。サボテンの実よ。外見は真っ赤だけど中は真っ白で、黒ごまのような小さな種がいっぱい入ってるの。甘酸っぱくて食べやすい果物よ」
 カウンターバーのような店には椰子の実が並べられていた。どうやって食べるのだろうと思ったが、食べるのではなく飲むらしい。見ていると店主の女性が鉈で端っこを切り落として飲み口を作っている。客たちは地べたにしゃがみ、それをうまそうに飲んでいる。
「わたしも飲んでみたいなぁ」と、わたしはつぶやいた。
「いけません。清潔なものじゃないわ」お母さんが顔をしかめたが、わたしとソフィーは「飲みたい、飲みたい」と身体をよじって訴えた。
「はっはっは。見ていると飲みたくなるよな」お父さんが笑った。「私もさんざん飲んでいるが大丈夫だよ。飲む直前に飲み口をカットするんだから不潔なものではない」
 シェリーさんも同意するようにうなずいた。
「あなたたちがそう言うなら」お母さんはしぶしぶ、椰子の実を一つ買った。屋台の女性は、鼻歌まじりに飲み口をカットし、ストローをさして手渡してくれた。
「けっこう重たいわね、これ」
 お母さんは、まず一口、自分で試し飲みし、顔をしかめてみせた。「何だか変なものよ。味らしい味もないし、生ぬるい水で薄めたミルクみたいなものだわ」
「いいから、いいから」わたしはお母さんから椰子の実をひったくり、ストローを豪快に吸い込んだ。
「どう?」
「……おいしいんだか、おいしくないんだか」
「ほうら、みなさい。言ったでしょう」
「まあまあ、ものは試しだ」お父さんが言った。「これからこの地で暮らしてゆくのだから、ある程度、ここの食いもんにも慣れておいたほうがいい」
 ソフィーが、もう待ちきれないとばかりに声を上げた。
「早く、わたしも飲みたい!」
「あと全部あげるから」わたしはそう言って、ソフィーに実を押しつけた。ソフィーはずっしり重たい椰子の実を抱きあげるようにして持ち、思いきりストローを吸った。
「うわぁ、これ、おいしい!」
 ソフィーは幸せとばかりに笑みを浮かべた。どうやら彼女の味覚には、ばっちり合ったらしい。そのままゴクリゴクリとうまそうに飲み続ける。「すっごく、おいしい」
「信じられない」わたしは目を丸くして意外にも豪胆な妹を見つめた。
 市場で目立つのは、女性たちの姿だった。というより、まともに働いているのは、ほとんど女性ばかりと言ってもよかった。
 彼女たちはノンとよばれる菅笠をかぶり、肩には大きな天秤棒を担いでいる。天秤棒の両端には竹で編まれた大きなカゴがぶらさがり、重そうな荷物で満載となっている。女性たちは一様に細身で小柄だ。それでも、山盛りの野菜、果物などをヒョイと担いでリズミカルに歩いている。子育て中らしき女性は、天秤棒の片側に自分の子供を乗せていた。カゴに乗った子供は楽しいのか、キャッキャと笑っていた。
 天秤棒を持たない女性は、直接カゴを頭の上に乗せて歩いている。もちろん、そのカゴにも果物などが山積みされているのに、何一つ落とさず涼しい顔で歩いてゆく。なんて、すごいバランス感覚なんだろう。
「インドシナの女性たちは、本当によく働くのですよ」とシェリーさんは言った。彼女たちはよく働くだけでなく、みな楽しげな表情を浮かべていた。

 昼食を終えるとわたしたちは、ソルニエ一家が滞在する館へと向かった。
 ソルニエ家の館は、市街の中心部に近いパスツール(パスター)通りの一角にあった。お父さんによると、この通り沿いに細菌学者のルイ・パスツールの名を冠した感染症研究所があるらしい。だから、パスツール通りって名付けられたそうだ。東南アジアは、いろんな疫病が流行しやすいので、こういう研究所があるのは心強いとお父さんは言った。
 その辺りの街路は官庁や公邸など立派な建物が目立ち、道幅も広く、路面も整備されていた。多くの自動車も行き交っている。
「エマ!」
 突然、頭上から聞きなれた声が降ってきた。見上げると、建物の窓からジャッキーが身を乗り出して手を振っている。
「ジャッキー!」昨日、波止場で別れたばかりなのに、もう何日も会っていないような懐かしい気分がした。
 ソルニエ家の居間で、両家の人びとによるコーヒーパーティが開かれた。お茶会じゃなくてコーヒーパーティだったのは、我が家に配慮してのことだったのだろう。別にわたしたちはお茶会でもよかったのに。わたしはコーヒー商人の娘のくせにコーヒーが苦手なので、オレンジジュースをもらった。
 大人たちの会話によると、ソルニエ商会では、生ゴムの生産方法をいま一度見直すことにしたのだそうだ。これまでは農園から生産物を買い上げて流通にのせることが仕事の中心だったのだけれど、今後は農園経営からゴムの製造、販売まで一貫して手がけてゆくそうだ。無駄なコストを省き、マレー産の生ゴムに価格で対抗してゆこうという判断だ。植民地政府も、大規模なプランテーション開発を後押ししてくれることになったらしい。
 そして数週間前、航海中のソルニエさんのもとに、カンボジア南部の広大な農園用地の買い上げに成功したという電文が商会から届いた。ソルニエさんは熟考したすえ、新農場からほど近いプノンペンへの本部移転を決断したそうだ。
「農場の直営化は、我々もゆくゆく検討しなければならないことかもしれません」とお父さんは深くうなずた。「品質や供給の安定にもつながりますしね」
「本来ならば、まだまだ開発の進んでいないカンボジアよりも、サイゴンのほうが娘のためにはいいのですがね」とソルニエさんは言った。
「向こうにもフランス人子弟のための学校はあるのですか?」
「あるにはあるのですが、一度どういうものか見てから判断します。もし適切でない学校ならば、家庭教師を雇おうと思っています」
 大人たちの話を聞きながらジャッキーはわたしにそっと耳打ちした。「家庭教師なんてごめんよ。気の合わない先生が来たりなんかしたら、もう最悪じゃない。毎日、息が詰まってしまうわ。カンボジアじゃ代わりの先生なんてすぐに見つかりっこないもの」
 そしてわたしに聞いた。「あなたは学校へ行くんでしょう?」
「ええ、まだ詳しいことは聞いていないけれど。居留地に毎日、車が迎えに来るそうよ」
「へぇ、自動車通学。たいしたものね」
「うん、家が町の中心からちょっと離れた場所だからね」
「そうそう、あなたたちの家ってどんな感じ? 大きいの? そんなに田舎なの?」
「うん、とってもゆったりとした家で驚いたわ」わたしは答えた。「サイゴンの町の本当の端っこにある居留地で丘の森の中にあるの。丘の先は、ずっとどこまでも水田よ」
「きれいなところ?」
「うん。最初は何もなくて、虫やらカエルがいっぱいでびっくりしたけれどね。落ち着いたきれいな場所よ」
「へぇー、行ってみたいなぁ」
「一度おいでよ」
「行けるといいけどね」ジャッキーは首をふった。「明日からプノンペンへ移るための準備だって。昨日、航海が終わったばかりなのにね」
 彼女は、さらに我が家のことを聞いてきた。「お手伝いさんたちはいっぱいいるの?」
「うん。でっぷりとした家政婦のおばさんがいて、とってもやさしいの。それから若いお手伝いさんが三人に、女の子が一人。おじさんも二人いるわ」
「その女の子って何歳ぐらい?」
「十二歳だそうから、わたしたちよりちょっと年上かな。でも、ずっと幼く見えるわ」
「もしかしたら、わたしよりその子の方がエマと仲良くなってしまうのかなぁ」
 ジャッキーが少し顔をゆがめて言った。
「そんなことないわ。わたしたちスカラベの友じゃない」
「うん」ジャッキーもうなずいた。「そうだよね」
 二人ともポケットからスカラベ石を取り出し、カチリと打ち鳴らせあった。

       十 ネモ船長の手紙

 数日はまたたくまに過ぎ去り、ソルニエ家の人びとは慌しくプノンペンへと発っていった。ジャッキーも結局、わたしの家には来られずじまいだった。
 わたしも新しい学校の見学を済ませ、転入したばかりだった。学校はサイゴンの街の中にあった。毎日巡回してくる自動車に乗り、二十分ほどで学校に到着した。
 学校にはフランス人だけでなく、現地人や華僑の裕福な家庭の子供も学びに来ていた。勉強はもちろん全てフランス語で行われていた。
 わたしには驚きの現実だったのだが、インドシナには現地の一般の子供たちのための学校がちゃんと整備されていなかった。最近になって、中国や日本の資産家がインドシナ各地に現地人のための教育施設を寄贈しはじめたので、植民地政府があわてて、ようやく学校をつくろうとしているらしい。
 ただ、わたしの家の近辺にはまだそのような学校は無く、マイも家でトゥーばあやからフランス語と現地語の読み書きや計算を習っていた。わたしも興味を感じて現地語を学んでいるマイの様子をのぞいたことがあった。さぞかし独特の謎めいた文字が使われているのかと思いきや、普通のアルファベットで書いているので驚いた。
「どうして、アルファベットで書いてるの?」
 マイは質問の意味がわからず、首を傾げている。
「昔は、ちゃんとベトナムの言葉を表記する文字があったのですよ」トゥーばあやが代わりに答えた。「チュノムといって中国の漢字に似たとても複雑な文字です。でも、フランスからアルファベットがもたらされてからは、この便利な文字を使うようになりました。今ではベトナム人でもチュノムを読み書きできる人は数少なくなったんです」
「でも、町で漢字みたいな文字で書かれた看板をいくつも見かけるわ」
「あれはチュノムじゃなくて本当の漢字ですよ。このサイゴンにも中国系の華僑の人々がたくさん住んでいます。何百年も前に移り住んできた人びとです。チョロンという地区へ行くと、道教のお寺なんかもあって、まるで中国の町のような佇まいですよ」 
「どうしてインドシナの人たちは自分たちの文字を捨てちゃったのかしら」
 トゥーばあやは笑って言った。「それは、フランスが強くて進んだ国だからですよ。私たちの国は、強い国のやり方に合わせてゆくしかないのです」
 わたしは納得がゆかない思いがしたが、これまで航海してきた国々のことを思い出した。チュニス、エジプト、ジプチ、セイロン、シンガポール。どこにも現地の人が自分たちの思うとおりの国を作っている場所はなかった。それが今の世界の現実なのだと思った。そして自分は、少数の支配する側の一員なのだと言うことを改めて実感した。ネモ船長の語ってくれた言葉が、ふと記憶によみがえってきた。
『これから君は、インドシナで支配者階級の一人として生活することになる。しかし、その現状はどうすることもできないし、君自身は恥じる必要はないんだよ。あとは、個人としての、人間としての心の持ちようだ。現地の人々とも一対一の人間として謙虚に向き合えれば、それ以上のことは望むべきではない』
 船長が伝えたかった意味が、この時になってよくわかった。そして、ふと思い出した。船を降りるときにネモ船長から手渡された手紙のことを。
 わたしは慌てて部屋に戻り、クローゼットの中を確かめた。下船の日に持っていた鞄がつるされたままになっていた。
 鞄の中を確かめると封筒が無造作におしこまれた状態になっている。
 わたしはそれを取り出した。封筒の表にはエマさんへ、と書かれており、裏側には几帳面そうな小さな文字で、七日以上経ってから開いてください、と記されていた。
 下船してからの日数を数えてみた。もう八日経っている。
 わたしは慎重に封筒の端を破り、三つ折りにされていた便せんを取り出した。三枚の便せんには、封筒と同様の几帳面な文字がびっしりと書き込まれていた。

              ※

 もうサイゴンでの新しい暮らしには慣れ始めた頃でしょうか。
 フランス本国とはまるで違う環境ですが、君はおよそ一ヶ月の船旅で、いろんな国々を見てきた後ですから、新しい土地にもそう抵抗なく馴染めているのではないでしょうか。
 もっとも東南アジアは、高温多湿な地域です。くれぐれも伝染病には気をつけてください。身の回りはできるだけ清潔に。
 幸い、サイゴンの辺りはもうすぐ雨季も終わり、四月頃まで比較的快適な乾季が続きます。その間に、土地の風土にできるだけ慣れておくといいでしょう。
 さて今回私が手紙で君に伝えたかったことは、「ユリシーズ」または「オデュッセウス」と呼ばれる男のことです。
 そう、あの月の夜――アレクサンドリアを出港後のあの夜のことです。君も見ましたね、あやかしたちの幻を。
 私に、あのような幻が見えるようになったのは、もう十年ほど前のことです。初めて体験した夜は驚きで震えたことを憶えています。ですから、まだ幼いエマさんの驚きはいかばかりだったろうと思っています。私にとっても、同じ幻を他の人と共有したのは初めての経験でした。
 あやかしたちは、どういうわけだか私をオデュッセウスと見なしているようです。オデュッセウスというのは、ホメロスの叙事詩で有名なのでエマさんもご存知かもしれませんが、簡単に説明すればトロイア戦争に参加した英雄の一人です。戦地から帰国する途上、一つ目巨人のキュクロプスに捕らえられましたが、自らを「誰でもない」と名乗り、まんまと出し抜いています。しかし、そのおかげでキュクロプスたちの父ポセイドンを怒らせてしまい、その後十年にわたって故郷の土を踏めないという羽目に陥ってしまうのです。その十年間に、彼は船に乗って、様々な化け物たちが棲む世界を彷徨うことになるのですが、その途上、セイレーンたちの誇りを傷つける行為を行ってしまいます。
 気位の高いセイレーンたちは、その時の恨みを忘れていないのでしょう。オデュッセウスと見なされている私は、執拗にセイレーンたちに追われ、年に一、二度はあのような幻に襲われるのです。ネモ(誰でもない)と、名乗っていることも関係しているのかもしれませんが。もしかすると、私は本当にオデュッセウスの生まれ変わりなのだろうか。だから、こんな通称を名乗っているのだろうか、と考え込んでしまうこともしばしばです。何も知らない他人が聞けば、実に馬鹿げた妄想だと一笑に付すことでしょうが、私にすれば深刻な問題です。
 今のところ、そう簡単にセイレーンにやられそうにもありません。彼らは見た目のオドロオドロしさほどには強くはありません。ですから私のことは心配ご無用ですが、気になるのはエマさんのことです。一度、ああいう幻を体験すると、今後も重ねて、幻の世界に足を踏み入れてしまう可能性があると思います。その世界では、この世のものではないあやかしたちが繰り返し現れるかもしれません。しかし、彼らを怒らせる行為をしない限り、彼らが現実世界の人間に危害を加えることはほとんどないはずです。ですから、落ち着いて、その世界を受け入れておれば、そのうちに現実に必ず戻れますから、パニックにならないようにしてください。危険が迫りそうならば、すぐにその場から離れるか、隠れるようにすれば大丈夫でしょう。あの夜の君の落ち着きぶりは大人以上だったので、こんな心配は不要なのかもしれませんが。
 では、また君と出会える日がありますように。

              ※

 わたしは読み終えたあとも、しばらく身動きできなかった。
 夢か幻だと思っていたあの夜の体験――あれはけっして自分だけに起きた出来事ではなかったのだ。やはり、あの場に現れたオデュッセウスはネモ船長自身だったのだろう。二人が同時に体験していたということは、あの世界は現実世界と隣り合って実際に存在しているということなのだろうか。
 わたしは、ネモ船長にもう少しくわしく話を聞きたいと思った。一階へと降りてゆくと、ちょうどお父さんが帰宅したところだった。
「お父さん。ビクトル号へ行くことってできない?」
「いったい、どうしたんだい?」
 お父さんは驚いた表情でわたしを見つめた。
「船長に会って、聞きたい話があるの」
「それは、ちょっと難しいな」お父さんが言った。「ビクトル号は昨日、サイゴンを出港したと聞いているよ」
「昨日……。そうだったんだ」
 わたしは、手紙のことを思い出すのが、もうちょっと早ければと思った。でも、手紙にも七日経ってから開いてくれと書いてある。ネモ船長自身、わたしが読んだときには、既に自分がサイゴンを離れていることを想定して書いたのだろう。
 今頃、ビクトル号は南シナ海の上をゆっくりと南に向っているのだろう。いつかまたビクトル号やネモ船長に会える日は来るのだろうか。わたしは窓辺から遥か南方の空を見上げて思った。

第三章

     第三章

            マイの筆記帳より Ⅰ

 マイが大切にしていた一冊の筆記帳。
 彼女は、日々の出来事や、思ったことを、そこに自由にしたためていた。
 驚いたことに、筆記帳にはサイゴンで暮らし始めた頃のわたしたちの様子も、克明に書き残されていた。それを知ったのは、随分とあとのことだ。わたしが帰国することになってから、マイ自身が読ませてくれたのだ。
 彼女が、トゥーばあやからフランス語や現地語の読み書きを習っていたことは前にも書いたとおり。でも、彼女が話すフランス語はちょっと自信無げだったし、まさか、その頃からここまでの文章力があったなんて、思いもよらなかった。
 初めて読んだときは、本当に冷や汗をかいたものだった(あぁ、わたしってこんなふうに見られていたのかって愕然とした部分もたくさんあったんだけど……)。
「よくもまぁ、こんなに詳しくわたしたちを観察していたわね」って皮肉っぽく言っても、マイは「おかげで、いい綴り方の練習になりました」なんて、クスクス笑っていた。
 彼女の文章は、まるで誰かに書き送る手紙のような調子で綴られていた。「誰に読んでもらうつもりで書いていたの?」って聞くと、マイは恥ずかしげに首をひねりながら答えた。「やっぱり……、小さな頃に死に別れたお母さんでしょうか」
 いずれにしても、この筆記帳は、わたしに計り知れない刺激を与えてくれた。そして、わたし自身にこの物語を書かせる動機にもつながったのだ。
 それに、他人の視点から自分を見つめるなんて、なかなかできることではない。わたしにとってそれはそれで、とても興味深かったので、そのいくつかを紹介しようと思う。

             ※

 私は今度フランスからやってきた女の子がどうにも苦手です。決して嫌いなわけじゃありません。でも、どう接したらいいのかわからなくなることが多いのです。
 彼女には、何かべトナムの子供たちにはない、我の強さのようなものがあります。どんなことに対しても、自分の考えを述べ、やりたいこと、やりたくないことをはっきりと意思表示するのです。
 私にはそういうことはできない。自分の思いも、遠慮しながら控えめに言います。それはわたしが小間使いという立場だからというわけではありません。べトナムの子どもの多くは、きっと同様に振る舞うはずです。
 フランスからやってきた女の子――エマさんは、毎朝、巡回してくる送迎車に乗って市内の学校へ向かいます。私も門の前まで見送りに行きますが、彼女は運転手や同乗の生徒たちに、いつもあふれんばかりの笑顔で「おはよう」って言います。雨の朝も、風の吹く日も、暑いときでも同じような笑顔を周囲に振りまくのです。どうやったら、あんなに毎日元気いっぱいに振る舞えるんだろう。これは見習わなくちゃならない部分ですね。
 そんな彼女は学校にも、すぐに馴染めた様子です。友達もたくさんできたみたいです。
 午後になって帰宅したエマさんは、私に学校での出来事を矢継ぎ早に話して聞かせます。集会で校長先生が重々しく訓辞を述べたあと壇上で蹴つまずいて転んだこと。クラスメイトが厩と馬の絵を描いていたけれど、どんなに目を凝らそうとも犬小屋と犬にしか見えなかったこと。授業中に突然クマンバチが教室に飛び込んできて、てんやわんやの大騒ぎになったこと、などなど。それぞれ彼女にとっては、おもしろおかしい話だったのかもしれません。でも、学校というものを知らない私には、それほどの関心を持つことができず、申し訳ない気分になりました。
 エマさんは時おり、同級生の女の子たちを家に招きます。そして、居間でおしゃべりしたり、ゲームをしたり、ピアノを弾いたりして過ごすのです。エマさんが連れてくる女の子たちというのは、基本的にみな同類です。とても綺麗でかわいらしい。お人形のような女の子ばかり。
 私は居間にお茶やお菓子を運びながら彼女たちの様子をうかがうのですが、ベトナムの子供たちとは醸し出す雰囲気そのものがまるで違うので、いつも驚かされっぱなし。彼女たちが話す言葉は音楽のように耳に心地よく響きます。そして衣服からは、えも言われぬよい香りがします。まるで別世界に住む子供たちのようにまぶしく感じるのです。
 エマさんのお友達たちは、私を空気のように扱います。お茶やお菓子を運んでいっても、たいていは無反応。遊びやおしゃべりに夢中で気づいていないのかと思いきや、私が立ち去ろうとすると「まぁ、おいしそうなマドレーヌ!」などと言ってにぎやかに食べ始めるのだから、お菓子に無関心なわけではないようです。
 エマさんは、時おり「どう、一緒に食べていかない」と私にも声をかけてくれます。彼女なりに私に気を使ってくれているのでしょう。でも、他の子たちが戸惑うような表情を見せるので、私は遠慮して部屋から退出するのが常でした。
 ところが、ある日、エマさんがあまりに強く引き止めるので、仕方なく一緒にクッキーを食べたことがありました。エマさんは天真爛漫に「この子はマイっていうのよ」とお友達たちに紹介していましたが、明らかに彼女らは困ったような表情を浮かべていました。私にも、そんな空気が伝わってくるので、いたたまれない気持ちになりました。こんな場所に自分を引き止めるエマさんを疎ましく感じたりもしました。
                          一九一三年十一月二十日(木)

             ※

 エマさんが学校へ行っている間は、たいてい彼女の妹ソフィーさんと過ごします。彼女はまだ学校へ上がる前の年齢です。
 ソフィーさんは、まだ幼いので、本当はマリー奥様と一緒に過ごしたいのでしょう。でも奥様も忙しい方なので、もっぱら私がソフィーさんの相手を任されているのです。
 ソフィーさんは私から見ても少しユニークな少女。何より生き物や花々に対する関心が普通ではない。溜め池に朝のうちに咲く蓮の花や、緑色に濁った水中を泳ぎ去る鈍色の鯉に気づくと、その場にしゃがみこんで、いつまでも飽きもせず眺めているのです。
 ソフィーさんに聞けば、航海中に生き物好きの英国人の男の子と仲良くなったおかげで生き物の観察が大好きになったそう。
 生き物を観察しようなんて発想を、こんな幼い子までもがするなんて――まったく西洋の人たちの視点っていうのはすごいものです。私たちにとっては珍しくともなんともなく、特段目を引かないものにも、ソフィーさんは並々ならない関心を寄せるのです。
 トゥー伯母さんも言っていたことがあるけれど、ヨーロッパ人たちがアジアとか世界中で成功している理由の一つが、彼らが元来備えている大きな好奇心じゃないでしょうか。もし逆にベトナム人がヨーロッパへ行ったとして、向こうの生き物や自然に興味を持つ人がどのくらいいるでしょう。
 わたしはソフィーさんをつれて、毎日のようにお邸の周囲の森や田んぼのあぜ道を歩きます。茂みをかき分けるたびにイナゴが驚いたように跳ね、イモムシたちがモゾモゾと動きます。小川のほとりへゆくと、カエルがあわてて水に飛び込み、水の中ではオタマジャクシたちが身をくねらせて泳ぎさってゆきます。ソフィーさんは、それらを興味深げにじっと眺め、やがて満足してにんまりと笑うのです。
 草深い所には毒蛇だっていないわけじゃない。でも、わたしは周囲に気を配りながらも、できるだけソフィーさんをそんな場所へ連れて行ってあげることにしているのです。
                         一九一三年十一月二十五日(火)

             ※

 クリスマス・イブがやってきました。
 このフランス人居留区に、浮ついた中にも楽しげな空気がにわかに漂いはじめます。どのお邸の門前にも、実の赤さが鮮やかなヒイラギの枝がささやかに飾りつけられています。ヨーロッパの人はほんとうにクリスマスが大好き。
 もっとも、ここは南国ベトナム。彼らの故郷のように雪もなければ寒くもありません。
 実際、エマさんも笑って言いました。「こんな暑いのにクリスマスってありえない!」
 彼女たちからすれば初めて経験する何とも奇妙なクリスマスだったようです。
 それでも広間の内側では、ヨーロッパの雪景色を思わせる白綿をまとわせたツリーの飾りつけをしたり、ヒイラギのリースを天井から吊るしたり、クリスマス・キャロルを歌ったりして、気分だけでも本場のクリスマスに近い雰囲気を演出しようと精一杯の工夫がこらされていました。ところが、窓からは草むらにひそむ虫たちの場違いで素っ頓狂な鳴き声が飛び込んできます。マリー奥様があきれ声で「なんてムードの無い虫たちなの」とつぶやいたので、みなが大笑いしました。
 一方、私にとっては、クリスマスの飾りつけが、珍しくて仕方がありませんでした。ツリーの枝々に飾られたミニチュアの家や、そり、ベル、そして天使の人形などを食い入るように見つめました。それは天上世界のような豊かさの象徴でした。
「どう? 綺麗でしょ」
 突然、声をかけられ横を向くとエマさんが立っていました。
「わたしたちには、クリスマスは特別なものなの。フランスだと、家の中だけじゃなく、町中が綺麗に飾り付けられて、浮き立った気分でいっぱいになるのよ。そしてイブの真夜中に、みんなそろって教会へ行くの」
 美しく飾られたヨーロッパの町を私は想像しました。荘厳なベルが鳴り、教会からはオルガンの音色や聖歌隊の歌声が響きわたります。夜空からは粉砂糖のように白い雪が軽やかに舞い降りるのです。
 ――雪って、どんなふうに降ってくるんだろう?
 私は、絵でしか見たことのない雪の風景を思い浮かべ、ため息をつきました。
 やがて、ミシェルさんが子供たちにプレゼントを手渡しはじめました。思いがけないことに私の分も用意されていました。箱を開けると、中には小さな麦わらのキャノチエ(カンカン帽)が。エマさんやソフィーさんともお揃いのものでリボンだけが色違いです。
「クリスマスっていっても、ここは日差しが強いからね。お出かけするときは帽子を忘れないようにするんだよ」とミシェルさんは言いました。私は思わず、小さな帽子をひしっと胸に抱きしめました。
                         一九一三年十二月二十四日(水)

             ※

 一月末から二月初旬はテトの季節。
 テトはベトナムの古くからの暦でのお正月なので、フランス人居留区の人びとには直接関係のない行事です。でも、そこは彼らの持ち前の好奇心が発揮されるところ。ミシェルさんの一家も、テト見物へ行こうということになりました。私もミシェルさんから声を掛けられ、町までお供しました。
 サイゴンは、私が生まれ育った町だけれど、最近ではずっと郊外のお邸で過ごしているので市内までめったに行くことがありません。だから久しぶりに見る町の様子が珍しくって仕方がありませんでした。ここ数年は、西洋風の新しい建物がどんどん建ち、自動車も増え、町の光景もまるで変わったので、思わずキョロキョロとしてしまいました。
 むしろ、毎日仕事で市内に来ているミシェルさんや、通学しているエマさんのほうが町の事情に詳しく、アベコベにいろいろ教えてもらう始末。決まり悪さを隠せませんでした。でも、そんな私の様子に気づいたのかエマさんがそっと言いました。
「わたしもフランスで似たようなことを経験したわ」
 私が彼女のほうを見ると、エマさんは話を続けました。
「こう見えても、わたしはパリ生まれなのよ。あの有名なパリ。知ってるでしょ?」
 もちろん私もパリは知っています。フランスの都で、ヨーロッパでも有数の大都会。
「でもね、わたしがホントに小さな頃に、ル・アーブルって地方の町へ引っ越しちゃったおかげで、パリのことは何にもわからないの。パリへ行っても珍しいものだらけで、キョロキョロしっぱなしよ。道を聞かれたって全くわからない」とエマさんは笑いました。
 テトのサイゴンには、街角のあちこちに干支の寅の飾り物が置かれていました。
「さっきから思ってるんだけど」エマさんが不思議そうにつぶやきました。「なんで、虎の飾り物ばかりあるの?」
「そうねぇ、なぜかしら」マリー奥さんも首を傾げています。
 どうやら干支というものが、わからないようです。もっとも、昨年サイゴンにやって来たばかりのフランスの人たちが知らなくても無理はありません。わたしは十二支について簡単に説明しました。
「へぇ、十二年周期で毎年動物が変わるの?」エマさんが興味深げに食いついてきます。
「ええ、ちなみに昨年は水牛の年、来年は猫の年です」
 寅に、水牛に、猫……、いろんな動物の名前が出はじめたとたん、ソフィーさんが興味を示しはじめました。「他にはどんなのがあるの?」
「ええと、龍でしょう。それから蛇に、馬に、山羊に、猿、鶏、犬、豚ですね」
 ソフィーさんは指折りながらたずねました。「あと一つは?」
「んーと、まだ言ってないのは……、そうそう鼠です」
「ライオンとか、象とか、ヤモリとか、カエルの年はないの?」
「ないですね」私は苦笑まじりに答えました。
「ソフィーはカエルが好きなのになぁ」彼女は、お気に入りのカエルが干支のメンバーに入っていなくて実に残念そうでした。
「十二支の動物たちは、みんな神様なの?」とエマさんが聞くので、「神様といえば、そうなのかもしれないですけれど、まぁ縁起モノのようなものです」と答えたところ、今度は縁起モノという言葉が彼女にはわからないようでした。違う文化について説明するのって、本当に難しい。エマさん自身は、「まぁ、とにかく今年は虎が幸運のシンボルってわけね」って納得してくれたようですが。
「でも、虎ってどうなのかしらね? 強い動物だけど、荒っぽいし、今年何か恐ろしいことが始まるってことはないかしら?」ってエマさんがつぶやきました。確かに寅年には何かが起こるって聞いたこともあるけれど、わたしにもその辺りのことはよくわからないので、「さぁ、どうなんでしょうか」と答えることしかできませんでした。
 通りの向こうから獅子舞がやって来るのが見えたので、私たちは思わず、そちらへ駆けてゆきました。獅子舞の勇壮な舞いを見て、エマさんがしきりに「すごい、すごい」と言うので、こちらまで誇らしい気持ちになってしまいました。
 市民劇場前の広場で、ジャンさんとシェリーさんも合流し、人力車に分乗して、チョロン街へと向かいました。
 私もチョロン街へ行くのは初めて。ここは昔、中国から移り住んだ人たちが住んでいる場所で、サイゴンの他の地域とはまるで雰囲気が違います。道教のお寺や祠のようなものもたくさんあって、まるっきり中国へやってきたんじゃないかと思ったぐらい(もちろん本当の中国だって見たことはないのですけど)。ジャンさんたちは、この地区に詳しいらしく、ミシェルさんやマリー奥さんにいろいろと説明をしています。
 私たちはティエンハウ寺の前で車を降り、ジャンさんの案内で朱色や金色などで鮮やかに彩られたお寺の中を見物しました。
 屋根や梁の上には中国の神様の小像が所狭しと飾り付けられています。みな表情が豊かで、衣装もポーズもさまざま、見ているだけでもおもしろい。柱や額にはいかめしい漢字がいっぱい書きつけてあるけれど、私たちには何て書いてあるやら、さっぱりわかりませんでした(こればっかりはさすがのジャンさん、シェリーさんもお手上げのようです)。
 天井からは、らせん状にくるくる巻かれた渦巻き線香が無数に吊るされて煙をひたひたとたなびかせています。見ていると、参拝者が渦巻き線香を奉納するたびに、係員が長い棒の先で、天井に張り巡らせた針金に器用にひっかけています。真下に立って見上げると、時おり崩れた白い灰が降ってくるので、エマさんは「まぁ雪みたい」と言いました。
 お寺から出て町を歩きはじめると、道端で籠に入れられた無数の小鳥が売られているのに気づきました。
「なんだろう? この鳥たち」エマさんが首をかしげて言いました。鳥たちは種類ごとの籠に入っています。ヒヨドリのようなのもいたし、燕ばかり詰め込んだ籠もありました。
「これはね、買って放してあげるための鳥なのよ」とシェリーさんが言いました。
「なんで、そんなことをするの?」とエマさん。
「捕らわれている鳥を開放してあげるという善い行いをしたことにもなるからだそうよ」
「だったら、最初から捕まえなくてもいいのに」ソフィーさんが悲しそうに言いました。
「ソフィーちゃんの言うとおりね」シェリーさんがうなずきました。「でも、これがこの街の文化なのよ。そういうものは、ある程度理解してあげないといけない面もあるの」
 シェリーさんは、鳥売りから一羽の小鳥を買いました。
「さあ、たった一羽だけれど、ここから救い出してあげましょう」
 そう言って彼女は、ソフィーさんと一緒に小鳥を空へ解き放ちました。
「もう、捕まらないでね」
 ところが小鳥はすぐに、そばの電線に止まり、身を縮めてじっとしています。長い間、狭い鳥籠に押し込まれていたものだから、いきなり広く開けた世界を前に、どうすればよいのか戸惑っているのかもしれません。
 私たちは路上から、しばらく小鳥の様子を見守りました。小鳥は落ち着きなく、頭をクルクル動かしています。小首を傾げて考え込んでいるようにも見えます。「大丈夫かな?」ってミシェルさんもつぶやきました。
 けれど、風がさっと通り過ぎたのをきっかけに、小鳥は何か思いだしたように頭を上げるや、高い鳴き声を一声あげて大きく羽ばたきました。
 思わず、みんなから安堵のため息がもれました。ソフィーさんは飛び去ってゆく小鳥の姿をずっと見守っていました。
 突如として、街路の向こうから爆竹の音が響いてきました。龍踊りの行列です。ドラや太鼓の音が家々の軒下で打ち鳴らされます。
 男たちが数人がかりで龍の頭や胴体、尾などを操り、まるで生きた龍のように激しく舞わせます。それは、ベトナム人たちの獅子舞とは、また違った迫力を感じさせました。
「ねぇ見に行こうよ!」
 エマさんは私の手をひいて駆けだしました。
                          一九一四年一月二十六日(月)

             ※

 雨季がはじまったというのに、今日はすがすがしい快晴の空が広がっていました。ジトジトした湿気も、あまり感じられません。
 昨日まで、しばらく雨つづきだったので、久しぶりにソフィーさんと散歩へ行こうとすると、普段より早めに帰宅してきたエマさんと門の前で鉢合わせになりました。
「どこへ行くの?」
「ソフィーさんをお連れして、その辺りを散策でもと思いまして」
「楽しそう。わたしも行く」とエマさんは言いました。「ちょっと待っててね」
 彼女は家に駆け込んで、鞄を置いてくると、また、全速力で駆け戻ってきました。
「おまたせ」
 手には双眼鏡を握っています。
「そのようなもので何を見るのですか?」
「珍しいものがあれば、これでじっくり観察しようと思ってね」
 彼女は、「さぁ、行こう」と言って、私たちを追い抜かしてズンズン歩いてゆきます。
 森を抜けると水を張った田が広がっていました。田植えが行われています。ノン(菅笠)を被った女性たちが腰をかがめながら苗を植えているところです。エマさんは、立ち止まって双眼鏡で田植えの様子を眺めはじめました。
 その水田は、リンの家のものでした。野良着姿のリンが私たちに気づいて手を振ってくれました。
「あっ、リンだ」エマさんも、すぐさま手を振り返しました。
「ねぇねぇ、これって一体何の作業をしてるところなの?」
 エマさんにとっては、初めて間近で見る稲作の現場だったのでしょう。彼女は好奇心を隠せずに私にたずねました。
「田植えですよ。苗代で育てた稲の苗を、一つ一つ水田に植え付けてゆくんです」
「えーっ、そんな面倒なことするの!」エマさんは驚いた様子でした。「直接、田んぼに種まきしたらいけないの?」
「もちろん、そういうやり方もあります。でも、しっかり丈夫な稲を育てるには、きちんと手間をかけたほうがいいんですよ」
「ふうん、稲作って大変なのね」
 エマさんは感心したようにうなずきました。そして、しばらく田植えの様子を興味深げに眺めていましたが、突然、私のほうを振り返るや驚くべきことを口にしたのです。
「わたしも手伝ったらいけないかな?」
「え?」私は耳を疑いました。「田植えを……手伝うのですか」
 するとソフィーさんまで「ソフィーもやりたい」と言い出しました。
「そんな……」
 私はあまりのことに何と答えてよいやらわかりませんでした。まさか、フランス人の女の子がそんなことをやりたがるなんて。
「だって、手も、足も、服も泥だらけになるんですよ」
「泥なら洗えば落ちるんでしょう」エマさんは笑いました。「だったら、やってみたい」
「そんなこと、おっしゃられても……」
 私は、畦を通り、リンのもとへ相談しに行きました。リンは話を聞いて大笑いしました。「おもしろいお嬢さんたちね。いいじゃない、少しくらいならば。お二人にも貴重な経験になるかもしれないわ」
 リンに手招きされたエマさんたちは、双眼鏡を畦に置き、腰までスカートをたくし上げて水田の中へ足を踏み入れました。二人の足下でオタマジャクシがスルスルッと泳ぎ去りました。
 二人は見よう見まねで苗を水田に植え付けてゆきます。
「お嬢さん、もう少し間隔をあけて植えないとダメよ。こっちと合わせてね」リンは笑顔を浮かべているけれど、しっかりと注文をつけています。
「んー、そうかぁ。この間隔が大事なのね」エマさんも得心した様子で、苗を植え直しました。「なかなか、難しいものね」
 ソフィーさんも一生懸命に植えつけているけれど、泥の付いた手で額からしたたる汗をぬぐうものだから、たちまち鼻の頭やほっぺたが泥まみれになってゆきます。
「あらあら、ソフィーさん」私は気が気ではなくなってきました。見ると、ソフィーさんだけではありません。エマさんの顔も、服も、跳ねた泥で既に救いようのないくらいに汚れています。このままでは、確実に二人はトゥー伯母さんに叱られてしまいます。
 畦で気を揉んで見つめている私に、エマさんが声をかけてきました。
「ねぇ、マイはやらないの?」
「へっ?」
「こっちへ、おいでよ。楽しいよ」
「いえ」とんでもない。私は何とか断らねばと思いました。
「ねぇ、一緒にやろうよ」とソフィーさんも同じように言います。
「でも……、やったこともないので足手まといになります」
「いいじゃない。一緒にやろうよ」
「わたしたちだって、やったことなかったんだから」
 私は、ハァとため息をつき、裸足になり足先を水田の中に入れました。底にたまった生温かい泥がヌルヌルっと指先に絡みついてきます。
 ――気持ち悪い。
 慌てて引っ込めようとした瞬間、私はバランスを崩し、田んぼの中へ頭からひっくりかえってしまいました。
 全身泥まみれで立ち上がった私の姿を見て、エマさんたちは大笑いをしました。リンや彼女の家族まで笑っています。私も何だか、やけっぱちになって笑ってしまいました。
 それから一時間ほどで田植えは終わりました。
「お嬢さんたち、ありがとうございます」とリンが言いました。「お手伝いいただいて助かりました」
「田植えって大変。この辺りがもう痛くって」エマさんが腰をさすりました。
「ええ」リンはうなずいて笑いました。「田植えは腰に負担のかかる作業なんですよ。私たちは、慣れてますけれど、お嬢様たちは初めてだからゆっくり休んでくださいね」
「リンたちは、何時ごろからやっていたの」
「早朝からですよ」
「えーっ」エマさんはあきれたように声をあげました。「これを朝早くからやり続けていたの? 信じられない」
 それから、私たち三人は、植わったばかりの苗が風にそよぐ田んぼの様子をしばらく眺めてから、リンたちと別れ、お邸へと帰りました。
 庭に入ると町での用事を済ませたマリー奥様とトゥー伯母さんが立ち話をしていましたが、泥だらけの私たちの姿を見て、二人は目をまん丸に見開きました。
「いったい、どうなされたんです。田んぼに落ちてしまったのですか? マイ、あなたがついていながら、これはどういうこと? それにあなたも全身泥だらけじゃないの」
 トゥー伯母さんの矢継ぎ早の問いかけに私は思わず首をすくめました。代わりにエマさんが事情を話してくれました。
「いいえ、マイは悪くないの。わたしが田植えを手伝いたいって言い出したものだから」
「田植えの手伝いですって」
「うん。リンのお家の人たちが頑張って働いていたから、手伝わなきゃって。わたしが無理やりマイまで付きあわせちゃったの」
 一瞬、絶句したトゥー伯母さんでしたが、奥様と顔を見合わせると大笑いしました。
「そうですか。それはいいことをなさいましたね」
 トゥー伯母さんは、エマさんとソフィーさんを優しいまなざしで見下ろしました。
「田植えは見かけよりもずっと大変だったでしょう。きっと、田んぼの神様は努力した姿を見ておられますよ」
「田んぼの神様?」
「ええ、神様はどこにでもいますよ。そして、いい行いをした人をちゃんと見ています。さぁさぁ、着替えましょう。でも、その前にお風呂で泥を落とさなくてはいけませんね」
 トゥー伯母さんは邸の中へ駆け込んでゆきました。
「まったく、もう」
 あきれたような表情で奥様が笑いました。
                           一九一四年四月三十日(木)

             ※

 フランスから来た女の子たちの目には、この国ってどう映っているのでしょう。心躍る土地なんでしょうか。それとも、さっぱりつまらない場所に見えるのでしょうか。 
 もちろんベトナムの風土にも、いいところはあります。西洋人たちが口をそろえて美しいと褒めるのは、豊かで勢いのある緑だとか、生命力にあふれるこの国の自然。
 正直なところ、この国で生まれ育った私たちベトナム人には、身の周りの自然に親しみを感じることはあっても、それが美しいって思う感覚はあまりなかったように思います。西洋人が、美しいと言うものだから、なるほど美しいのかな、と気づくようになったんじゃないでしょうか? 
 ともあれ、その美しい風土にも、一方で人びとを辟易とさせてしまう側面があることも事実です。
 たとえば今のような季節――雨季。じめっとした蒸し暑さ、わらわらと湧いてくる虫の多さ、ぬかるみだらけの泥んこ道、あちこちで目にする潰れたカエルの屍骸……。あぁ、じっとしているだけでも、たまらない季節です。ここで生まれた者でさえたまらないんだから、ましてや環境の違う国からやってきたエマさんたちには、相当こたえるのじゃないでしょうか。でも、雨季の悪い印象ばかりが彼女たちの記憶に残って、ベトナムがひどいところだと思ってほしくはありません。
 雨季でも、そう――激しいスコールが止んだ後の清々しさはなかなかなものです。
 湿っぽさがさっとひき、夕暮れどきならば涼しい夜風さえ吹いてきます。
 そんな夜は星の瞬きも美しい。
 熱帯のゆらめく大気の向こうに星空が静かに震えます。
 そんな宵にエマさんと二人で星々を眺めたことがありました。エマさんはバルコニーの手すりに寄りかかって夜空を見上げ、つぶやくように言いました。
「ねぇ、星空って、見る場所によって違うって知ってた?」
「星空なんてどこから見ても同じでしょう」と私が答えると、「そう思うでしょう。実はわたしもそう思っていたの」と彼女は笑いました。
「でも、違うの。ヨーロッパの星空と、インドシナで見上げる星空は違うの。去年の航海で、インド洋を渡っているとき、ビクトル号の船長さんから教えてもらったんだけどね」
「はぁ」
「例えばね――」エマさんは、南天の低い空を指差しました。「あそこで煌いている南十字星。あの星座はヨーロッパから、どのようにしても見ることができないのよ」
「はぁ……、見えないのですか」
 私は、そもそもどれが南十字星なのかさえ知らないくらいだから、ちっとも気の利いた答えができません。それが、もどかしかったけれど、エマさんは特段気にする様子もなくコクッとうなずきました。
「うん、見えないの」
 彼女は、ヨーロッパからは見えないという南十字星のほうをじっと見つめ、話を続けました。
「でもね、星空だけじゃない。いろんなことがヨーロッパとインドシナでは見え方が違うの。最近、わたしは、このインドシナへ来るべくしてやって来たんだという思いが強くなってきたわ。この国や、ここへ来る途中の旅で、ヨーロッパの人が知らないことにたくさん気づかされたから」
「ヨーロッパ人が知らないことですか」
「そう。マイたちからすれば、ヨーロッパ人って何でも知ったような顔で偉そうにしていると思うでしょう。でもね、向こうで暮らしているだけでは、見えていないことって結構多いの」
 ヨーロッパ人には見えてないことってなんだろう。私は気になって尋ねました。エマさんは私の顔を見つめ、笑って言いました。
「私はマイやトゥーばあやからも、いろいろ学んでいるのよ。あなたたちにもヨーロッパ人にはない美点がいっぱいあると思う」
「えっ、私に美点?」私は考えてはみたものの、とりたてて自分に長所があるようにも思えず、首を傾げました。
「あなたの場合は、その慎ましさよ。そして、ほっと安らぐような優しさ。ソフィーもあなたにとても懐いているけれど、わたしだって、こうして一緒に話しているだけで、とても気持ちが落ち着くの」
「はぁ」
 そのように面と向かって褒められるなんて滅多とないことなので、私は何だか面映い気分になりました。
「でも、私など、エマさんからは、退屈でつまらない人間にしか見えてないと思っていました」
「あなたは、決してつまらなくなんてないわ」エマさんは頭を振りました。「同じ家にあなたがいてくれて、本当に良かったなぁ、って思っているんだから」
「私には、エマさんの生き生きとした様子こそ、うらやましいんですが」
 これは嘘ではありません。以前は彼女の我の強さや元気さを、ちょっと疎ましく感じたこともありましたが、最近では、そこが彼女のいいところだと素直に思えるようになってきました。彼女にしても毎日楽しいことばかりではないはずです。でも、彼女は決して暗い表情を私たちには見せません。
「ありがとう」エマさんは微笑みました。「でもね、ずっと元気な顔をしているのも、けっこう疲れるものなのよ。たまに自分が嫌になることもあるくらい」
 私は彼女の横顔を見つめました。彼女は、再び黙り込んで南天の夜空を見つめています。ちょっとばかし、センチな表情にも見えます。珍しくしんみりしてるのかなと思いきや、「あっ、流れ星!」なんて言いながら、願い事をしそこねて悔しがっている様子は、やはり元気なエマさんでした。彼女には生き生きとした表情が、やっぱり似合います。
「トゥー伯母さんからは何を学んだんですか?」と私は聞きました。
「んー、トゥーばあやからはね、あの包容力かな」
「包容力?」
「うん、包容力。この間、包容力って言葉を憶えたばかりだから、さっそく使ってみちゃったんだけどね」
 そう言って、エマさんはペロッと舌を出しました。「でも、トゥーばあやの心の大きさというか、心の広さに救われているところが結構あると思う。だから、わたしも元気なままでいられるのかも。でもね、わたし思うんだけれど、トゥーばあやだけじゃなく、インドシナという国そのものが大きな包容力のようなものを持っているわ」 
「はぁ」
「フランス人は、この国を支配しているとか、何とか言っているけれど、結局、この国の心の広さに甘えているだけなのよ」
「ベトナムの心の広さですか」
「うん。だって逆の立場だったらどう? もし、パリが陥落するようなことがあって他国がフランスを征服するということが起こったら。実際に四十年ほど前にパリは一度陥落したことがあったらしいんだけど。わたしたちだったら征服者にこんなに寛容に、しかも温かく接することはできないと思う」
 私には、ベトナムの包容力と言われても、今一つピンときません。物心ついたときには、フランスがこの国を統治しはじめてから、もう何十年も経っていたし、それが当たり前の状態だと思っていたから。でも、エマさんの包容力という捉え方には、正直違和感のようなものも感じます。ベトナムは決してフランスを温かく包み込んでいるわけじゃない。フランスの「強さ」に屈しているだけだと思います。屈服して、へつらっているだけ。それを包容力って思うのは、強者の勝手な見方なのかもしれない。
 私がちょっと考え込んでいるので、エマさんが私の表情をのぞき込んできました。私は彼女の目を見て思いました。この人は、天真爛漫なだけで悪気はない。そして彼女の姿勢で認めてあげないといけないのは、私たちベトナム人とも正面から向き合おうとしていること。そういうところはちゃんと理解してあげないと。
 私が微笑んだのを見て、エマさんも微笑みながら言いました。
「だからね、わたしはフランスに帰るまでに、トゥーばあやの包容力とあなたの慎ましさを吸収しようと思うの」
 私は大まじめに語るエマさんの顔を見て、思わずクスクスと笑ってしまいました。
「なに? 何かおかしい?」 
「だって……、申し訳ありませんが、慎ましいエマさんというのは、私には想像できませんもの」
「まぁ、マイったら。ひっどーい」
 エマさんは口先を尖らせてながらも、一緒になって笑ってくれました。

 あの宵、エマさんが柄にもなくセンチになってしまった原因に思い当たらないわけではありません。しかし、それはエマさんだけではなく、フォンテーヌ家の人びと、さらにはベトナムにいる西洋人たちみんなに衝撃を与えるような大事件でした。
 この夏、突然、ヨーロッパで戦争が始まったのです。
 私は現代のヨーロッパの国同士が戦争をするということ自体に驚きました。ベトナムにいる私からすれば、ヨーロッパの国々というのは、みんな仲間か親類同士のように見えます。だって同じ宗教を信仰し、しかも科学技術や文化、思想を共有し、密接に交流し合っている国同士なのです。どこも大人のように思慮深く、進歩的な国ばかりのようにも思えます。兵士が殺しあわねばならない戦争を避ける知恵ぐらいお互いに持っていてもよさそうなものなのに。
 しかし、こんどの戦争の状況を見る限り、進歩しているように見えるヨーロッパ人でも、思いのほか子どもっぽい感情に左右されるんだということ――例えば近くの目障りな国を一度ギャフンと言わせたいとか、その手の下らない思いに突き動かされるんだということがよくわかりました。
 そして、私のような素人から見ても、この戦争は、とても奇妙な戦いだという印象がぬぐえません。
 普通、国同士の戦争といえば、領土や主権をめぐって相争うというものですよね。ベトナムでも有名な戦争は、十年ほど前の日本とロシアの戦争です。あの戦争が両国の間にある朝鮮や満州をめぐってのものだということは、この国でもよく知られています。でも、こんどヨーロッパで始まった戦争は、どこの国が何を目的に戦っているのかよくわからないのです。気がつけばヨーロッパ中のあらゆる国々が入り乱れて、とにかく戦いあっているという有様なんです。
 私は、ミシェルさんが毎日居間で難しい顔をして読んでいる新聞を、片付けて整理する役割をしています。整理するついでに、記事を拾い読みするのも、毎日の楽しみです(そして、それが私のフランス語テキストの代わりにもなっているんですが)。
 戦争が始まってからというもの、新聞は戦争の報道一色となってゆきました。それを毎日拾い読みしているわけだから、このお邸の中でミシェルさんの次に、戦争の情勢に詳しいのは私だという自信があります。
 新聞報道によれば、この戦争、最初はオーストリアとセルビアだけの争いだったはず(新聞のおかげでヨーロッパの国名や戦争の用語に詳しくなってしまいました)。ところが、ドイツが参戦すると、戦火は一気に拡大してしまいました。ドイツはロシア、フランスに対して続けざまに宣戦布告をし、隣国のベルギーへの侵攻を開始しました。すると今度は、英国がドイツに対して宣戦布告をしました(「宣戦布告」なんていうおどろおどろしい言葉を覚えてしまったのも戦争のせいです)。
 こんな具合に、まるで竜巻が通り道の何もかもを飲み込んでしまうように、周辺の国々が次々に巻き込まれてしまったというのが、この戦争の特徴でした。
 祖国のフランスが参戦するや、サイゴンに住むフランス人たちの間でも、この話題で持ちきりとなってゆきました。彼らは、本国との交易で生活が成り立っているわけですから、戦争の行方が気がかりなのは止むを得ないのかもしれません。もし戦いが長びけば仕事や生活にも影響してくるのでしょう。でも意外だったのは、思いのほか戦争を支持する人が多かったこと。普段は温厚で紳士的なミシェルさんでさえ、新聞を読みながら興奮し、一八七〇年の戦争(普仏戦争)を引き合いに出して、ドイツに復讐するまたとないチャンスがやってきた、とばかりに息巻くのでびっくりしてしまいました。
 でも、大多数のフランス人たちは、この戦争はすぐに終わるだろうと楽観的に思っているようです。新聞にもそういうトーンで書かれた記事が多いのも確かです。クリスマスか、戦争の終結か、さてどちらが早いだろう、なんて具合に。しょせんドイツ、オーストリアを、フランス、英国、ロシアという大国が東西から挟み撃ちをするような形で進めている戦争だと、いうのがその根拠のようです。オーストリアっていう国は歴史ある大国なんだけれど、伝統的に戦下手としてヨーロッパでは知られているようです。いかにドイツが強くとも、そのうちにオーストリアが足を引っ張って、いずれは総崩れとなるはずだと、ミシェルさんが訪問客と笑いあっているのを私も聞いたことがあります。
 でも……、私にはそう簡単に、ことが運ばないような妙な予感があります。エマさんが今年のテトでつぶやいた言葉が頭に引っ掛かっているのです。
『虎ってどうなのかしら? 強い動物だけど、荒っぽいし、今年恐ろしいことが始まるってことはないかしら?』
 そう、私が十二支について説明したあとで彼女が発した言葉です。もちろん、エマさん自身は何か確信があって言ったわけでもないでしょう。単に虎の荒々しいイメージから言ったに過ぎないのだと思います。それでも私には何だか気になってしまうのです。
 一九一四年――今年は何かが起こりそうな「寅年」なのです。
                          一九一四年八月二十六日(水)

第四章

     第四章

         一 春、梅林にて

 ビクトル号が沈んだとお母さんから聞かされたのは、一九一七年の春のことだった。
 もっとも厳密にいえば、ここサイゴンに春と呼べる季節はない。でも、二月から三月頃になると梅が咲く。黄色いかわいらしい花。
 わたしはお母さんとソフィー、そしてマイとともに、郊外の梅林にいた。中国風のしつらえをした庭園。でも、マイに言わせれば中国風なんかじゃなくベトナム風なんだそうだ。北のハノイや、阮朝の皇帝陛下がいるフエには、こういうベトナム風の庭園がいっぱいあるらしい。でも、そう説明する彼女自身がハノイやフエに行ったことがないのだから、本当にベトナム風なのか、どうだかわからないのだけど。
 ちなみに彼女のマイっていう名前は梅という意味なんだそうだ。これはとても似合った名前だと思う。彼女は、本当に梅のように慎ましく清楚でかわいらしい。年下のわたしがこんなふうにマイのことを評価するのは生意気かしら。
 もっともインドシナに咲く梅は、中国の梅とはまったく違う種類なんだそうだ。中国の梅はまだ肌寒い季節に白や桃色の花をつける。だから、こちらの梅をニセモノだなんて言う口の悪い人もいるけれど、インドシナの梅は、それはそれで十分に美しい。黄色くて清楚で慎ましい花――わたしは大好きだ。
 そんな花々に囲まれた池の畔――東屋の陶製の椅子に腰掛けているときに、お母さんがふと思い出したように言ったのだ。
「ビクトル号が沈んだらしいのよ」
 わたしは、ちょうど梅林の小径を歩くマイとソフィーの姿を見つめているところだった。暑い国なのに、まるで春の絹のような風が吹き渡り、池端の柳の枝をゆらしていた。その心地よさに浸りきっていたわたしの心は、ビクトル号の災難の報に触れても、すぐに反応しなかった。
 お母さんの話し方も、近所の噂話でもするような何気ない調子で静かだった。お母さんにしたって、あの船で一ヶ月にわたる航海をしてきたのだ。心に思うことだって、たくさんあるはず。おそらく、そんな沸き上ってくる感情を押し殺して話すものだから、かえって冷静に聞こえたんだろう。
「ビクトル号……」
 船の名を口にして、ようやく三年半前のあの濃厚な日々の思い出がよみがえってきた。ネモ船長、ティアタ、そしてロイ・キング……。あの人たちは無事なんだろうか。静まった水面に、投石の波紋が広がるように、わたしの心はにわかに騒ぎ始めた。
 ――沈んだって? それ、どういうこと?
 池の睡蓮の向こうから、ソフィーが手を振る。わたしは機械的に振り返す。
 麗らかな陽射しの中で、わたしは次第に高ぶってくる感情にどう対処すればいいのかわからなくなってきた。気持ちを抑えに抑えて声を出すと、お母さんと同じような静かな話しぶりになってしまった。
「誰から聞いた話なの?」
「今朝、お父さんが取引先の人から聞いたらしいわ」
「なぜ沈んだの?」わたしには、あの大きな客船が簡単に沈んでしまうということが信じられなかった。
「まだ詳しいことはわからないけれど、魚雷じゃないかって」
「魚雷?」わたしは、ますますわからなくなった。「どうして? 魚雷は軍艦のものでしょう。ビクトル号は戦争とは関係ないのに」 
「そうねぇ、民間船まで巻き込まれるなんて、怖くてもう船に乗れないわね」
 お母さんは短くため息をついた。
 後で知ったのだけど、その年に入ってからドイツ軍は潜水艦を使って、敵国の商船、客船も含めた無差別攻撃を始めたのだそうだ。それに加え、当時のビクトル号は兵士や軍の物資の輸送もおこなっていたらしい。それで標的になったんだろうと、大人たちは言っていた。船長を含め、誰が乗っていたか、生存者はいるのかなど細かな情報は乏しく、なかなか伝わってこなかった。
 でも、ビクトル号が沈められた場所を聞いて、わたしはぞっとした。そこは地中海の東方、アレクサンドリア沖の海だった。
 ――まさか、セイレーン?
 わたしは月の光に照らされた異形のあやかしたちの姿を思い浮かべた。彼らは「誰でもない」男をさがしていた。
 そして、ついにその手中に得ることに成功したのだろうか。

         二 戦争の嵐

 その三年前に始まった戦争は、すぐに終わるだろうという大方の予想を裏切り、長期化そして泥沼化していた。
 戦争を始めた当のオーストリア軍は、緒戦から苦戦続きだった。ドナウ川を越えてセルビアを一気に制圧しようとしたが、逆に返り討ちで手ひどい目にあっていた。サイゴンでも、じきにオーストリアは嫌になってしまうよ、ってみんな言っていた。オーストリアさえ戦争をやめれば、この戦いを続ける大義名分はなくなってしまう。オーストリアは、おとなしくウィーンに引っ込んで音楽だけやってりゃいいんだよ、と笑う人までいた。
 でも、いつまで経っても、ずるずる戦争は続いた。オーストリアのバックについているドイツがあまりにも強かったからだ。ドイツ軍は不甲斐ない同盟国のマイナスを補って余るくらいの強さを持っていた。そうこうするうちに、オーストリアとドイツの側にオスマン帝国という、これまた強力な同盟国が加わってしまった。
 戦争の火はヨーロッパだけじゃなく、世界中に燃え移っていった。中国にあるドイツの拠点に対しては、英国軍や日本軍が攻撃していたし、オーストラリアやニュージーランドも太平洋のドイツ領の島に攻めていった。
 馬鹿げた考えだけど、わたしは一九一四年の「寅年」がこの混乱を引き起こしたんじゃないだろうかと、思ったりした。だったら、年が明けると「猫年」だ。猫ならば虎よりもずいぶんとおとなしいはずだ、と思った。ジャンさんに言わせれば、「猫年」なんて言っているのはインドシナだけで、中国でも日本でもウサギの年と言っているんだそうだ。いずれにせよ、小さくてかわいらしい動物なのには変わりがない。年が変われば、きっと戦争もおさまると、わたしは期待した。
 ところが翌年になると、もっと戦況は混沌としてきた。猫もウサギも関係なかったみたい。戦争の拡大は、わたしたちの帰国のチャンスが遠のくことを意味していた。戦地から離れたサイゴンでも次第に、暗く重苦しい雰囲気が漂いはじめていた。もう誰も戦争に対して軽口を言う人はいなくなった。
 一九一六年になると、インドシナの人々を落胆させるような出来事が相次いで起こった。ひとつは現地人によるフランスへの反乱未遂事件。
 戦争の影響で、インドシナ駐留のフランス軍が手薄になっている隙に、フエにいる阮朝の皇帝陛下を担ぎ上げて独立革命を起そうとした動きがあったのだ。これが失敗し、皇帝の維新帝はアフリカ沖の小島へ流罪になってしまった。
 信じられないかもしれないけれど、フランス統治下のインドシナでも、まだベトナムの王朝が続いているのだ。ちなみに維新帝の次には、啓定帝が即位した。
 それから、さらに追い打ちをかけるようにインドシナへもたらされたのが、ヨーロッパ戦線への現地人の招集命令だった。
 フランス本国では、もはやこの戦争は国の存亡をかけた総力戦となっていた。
 フランス東北部、お父さんの故郷にもほど近いヴェルダンでは凄まじい戦いが行われたそうだ。一向に動かない戦況に業を煮やしたドイツ軍が、戦力をロレーヌのヴェルダン要塞に集中的に振り向けてきたのだ。
 ヴェルダンは、ライン地方からパリへと続く街道上にあり、ここを突破されるとフランスにとっては致命傷となりかねない。フランス軍も必死に侵攻を防いだ。そして両軍ともに考えられないくらい多くの兵士の命が失われたそうだ。
 そしてヴェルダンの戦いがおさまりきらないうちに、今度は北フランスのソンム(ル・アーブルからも近い場所だ)でも大きな戦いが始まった。
 そんな状況のなかで海外領土に住む現地人の男子もフランス兵として、本国へ集められるようになったのだ。インドシナからも数万を超える若い男子がヨーロッパの戦地へと向った。フォンテーヌ商会が経営するコーヒー農園でも多くの若者が引き抜かれていった。
 サイゴン港は愛する息子や兄弟を送り出す人々たちであふれかえった。
 マイの従兄――彼女の亡くなったお母さんの兄の息子も出兵していった。港での見送りから帰ってきたマイ、そしてタンさん、トゥーばあやはいつまでも泣いていた。
 彼らにとって、これはどういう意味のある戦いなのだろう。祖国ベトナムを守る戦いではない。支配者フランスのための戦いなのだ。しかも、この戦いはすでに消耗戦に入っていることは誰の目にも明らかだった。故国へ再び戻る希望が持てない戦い――彼らは最前線で使い捨てられるために召集されたのだ。わたしは、悲痛な表情で泣き続ける三人を複雑な気持ちで見つめ続けた。
 一九一七年に入ると、ドイツ軍が潜水艦を使った無差別攻撃をはじめた。ビクトル号も、この一連の攻撃の犠牲になったのだ。
 フランスや英国と、それぞれの植民地を結ぶ航路の運航にも影響が出始めた。これはフォンテーヌ商会をはじめとして、インドシナのフランス企業には大打撃だった。本国から遠く離れた植民地に暮らす者にとって最も困るのは、本国との通商路の断絶だった。
 この頃、我が家の居間ではお父さんとジャンさんが頻繁に話し合っていた。とにかくフランス本国は、混沌とした大戦争の最中だ。ヴェルダン、ソンムの両会戦を経験したフランス軍は大きな犠牲を払い疲弊しきっている。ソンムから程近いル・アーブルの商会本部も機能不全に陥っていた。そして、何よりフランス人の生活そのものが、のんびりとコーヒーを嗜むどころではない状況になっていた。とりあえずは商会の存続をかけて、新しい販路を拡大しなければならなかった。
 そこでお父さんたちが目をつけたのが中国、日本といった東アジアの国々だった。中国では清という古い大帝国が倒れ、中華民国という新しい国づくりをしているところだった。日本は十年前のロシアとの戦争のあと、急速に国力と存在感を増して、富士山やお侍だけの国じゃなくなりつつあった。それに両国ともインドシナから近いし、人口も多い。開拓する市場としては魅力があった。
 お父さんはジャンさんを伴って、数度にわたって中国や日本へ行った。その度に、わたしやソフィー、マイに綺麗なお茶碗や手鏡などお土産を買ってきてくれた。
 食習慣がまるで違う東洋の国々でインドシナ産のコーヒーを売るためには、何かと苦労もあったようだけど、何とか急場をしのぐための販路が確保されていった。

         三    不思議な訪問者

 学校では、フランスへ帰れないことを嘆くクラスメイトがたくさんいたけれど、わたしは、それほど残念には思っていなかった。わたしはインドシナという土地をすっかり気に入っていた。うだるような蒸し暑ささえ愛おしいくらいだった。
 毎日、マイとソフィーと野山を駆けめぐり遊び回った。インドシナには熊や虎など野生動物も住んでいると聞かされていたけれど、そんなものに出会ったことは一度もなかった。注意しなければならないのは毒蛇だった。しかし、蛇に遭遇することもまれだった。わたしたちの目の前に現れるのは、たいてい無害でおとなしい小動物ばかりだった。
 でも、わたしが調子に乗って野山の奥へと踏み込もうとすると、決まってマイが妙なことを言ってわたしを引き留めた。マイが口にする言葉、それは「バチが当たる」というものだった。例えば、道のない茂みに分け入ろうとすると、「そんなところへ無闇に入ると、森の神様のバチが当たりますよ」という具合。
 わたしは幾度かマイにたずねたことがある。「あなたがいつも言うバチって何なの?」
 しかし、マイからはっきりした答えをもらえた試しはなかった。「そうですね……。精霊や神様のご機嫌を損ねて、手痛いしっぺ返しに会うっていうようなことでしょうか」
「それって、神罰とか、天罰とかいうものじゃないの?」
「うーん、そこまで大げさなものではないと思うんですけれど。もう少し軽い懲らしめというか……」
「軽い懲らしめ? だったら、恐れる必要ないじゃない」
「いえ、やはり怖いものですよ」
 どうにもはっきりとしないもの言いだ。おそらくマイ自身も「バチ」というものがどういうものか、はっきりと知らないのだろう。
「それって、仏教の教えなの?」
「いえ、仏教は仏様の教えを学ぶものです。如来とか菩薩とかは、神様じゃありません」
 なんだか、ますますわからない。
 マイに限らず、インドシナの人々はいたるところに神や精霊がいると信じているようなところがあった。かつてトゥーばあやも、田んぼの神様なんて言っていたし。そう言えばトゥーばあやも家の中のいろんな所で、ここには神様がいるとか、そんなことするとバチがあたるとか連発している。彼女によれば、台所の竈や納屋、洗面所、はてはトイレの中にも神様または精霊がいることになる。
 トゥーばあやだけじゃない、タンさんやティンさんも言ってるような気がする。
 例えば、田んぼの畦道のど真ん中に、行く手を遮るような大きな木が立っていたとする。通行の邪魔になるからといってそれを切ってしまうのはいけないらしい。なぜなら、その木には精霊が宿っているから。川に余計な汚れを流しても川の神に叱られる。動植物を必要以上に狩ることもバチが当たる行為だった。
 以前、ル・アーブルでアンリさんから聞かされた話は、こういうことだったのだなと思った。だからアンリさんも宗教観というより、むしろ自然観だと言っていたのだ。そういう見方からすれば、かつてピエールさんが行ったという守り神のワニを狩るなんて行為は、もっての外と思われても仕方ないのだろう。

 そして、一九一七年の雨季が始まったばかりのある夜のことだった。
 雨の多い季節にもかかわらず、その夜は晴れ渡った夜空が広がっていた。居留地の周りの水田からは高らかなカエルの合唱が聞こえてくる。
 わたしは窓辺で手紙を読んでいた。プノンペンで暮らすジャッキーからの手紙だった。インドシナへ来てから早くも三年半が過ぎたが、ジャッキーとの再会は未だ果たせずにいた。やはり、一九一四年から始まった戦争の影響だった。フォンテーヌ家も、ソルニエ家もそれぞれ戦時の対応に忙しく、余裕を持った時間を過ごすことができずにいたのだ。
 その代わりにわたしたちは、頻繁に手紙のやりとりをした。学校のこと、家でのできごと、お互いが住む町の様子などを知らせあった。
 これまでに交わした手紙によると、ジャッキーの家は、プノンペンの町をかすめるように流れるメコン川にほど近い高台にあるらしい。父親との約束通り、彼女の広い個室にはグランドピアノが用意されていて、毎日、練習に打ち込んでいるそうだ。ピアノのそばの飾り棚にはちゃんとスカラベ石も飾っているし、そうそうシューマンの「パピヨン」も弾きこなせるようになったのよ、と喜ばしげに書かれていたのを思い出す。
 当初は家庭教師が付いたそうが、今はジャッキー自身の希望で、現地のフランス人学校へ通っている。学校にでも行かなければ、家から一歩も出ない日が、下手すれば一週間以上続くこともあったのだそうだ。
 プノンペンを含むカンボジアは、宗主国のフランスによってインドシナの一部としてひとくくりにされているけれど、わたしの暮らすサイゴンとは住む人も文化もまるで違うようだった。
 サイゴンを含むコーチシナ地方は、中国文化の影響の強い越南(ベトナム)国が支配する地域だった。それに対し、カンボジアはインドの影響が色濃い別の王国だった。
 今回のジャッキーの手紙には、カンボジアの様々な土地のことが書かれていた。プノンペンから川を遡ってゆくとトンレサップ湖という広大な湖に出るらしい。何でもワニがたくさん棲む湖なんだそうだ。その湖の北、シェムリアップの町のさらに奥、深い密林の中には大昔の遺跡群があると手紙には書かれていた。ソルニエ家では、戦争が落ち着いてきたら、この遺跡群の見物に行こうと約束し合っているそうだ。エマも一緒に行けるといいのにね、とジャッキーの気持ちも書き添えられていた。
 『おもしろそうな遺跡ね。ぜひ一緒に探検旅行に行きたいなぁ。でも、戦争が落ち着くって、いつになるのかな。今年はとうてい無理そうな気がする。来年? それとも再来年かしら?』と、わたしは返事の手紙に書いた。
 ピエールさんがワニ狩りを行おうとしたのは、この遺跡に違いないとわたしは思った。アンリさんが語ってくれた光景を思い浮かべた。鬱蒼と繁る密林に隠された遺跡群。そしてその周囲に巡らされた深くて広い堀。そこには遺跡を守る大ワニが潜んでいる……。
 今でも大ワニはいるのだろうか。それとも、もう退治されてしまったのだろうか。
 ジャッキーの手紙の最後にはビクトル号のことが書かれていた。プノンペンの彼女のもとにも、懐かしい船の悲劇の報は届いているらしい。どこで情報をつかんだのか、沈んだ船にはネモ船長が乗っていたそうだと書かれていた。ロイ・キングやティアタたちのことは、わからないようだ。
 ――ネモ船長。
 わたしは空に浮かんだ月を見ながら、船長の面影を思い浮かべた。自然と「アメイジング・グレイス」のワン・フレーズが口について出た。
 どうして?
 わたしは思った。
 どうして神様は、彼には恵みを与えてくれなかったのだろう?

 その夜も更けた頃、ベッドで眠っていたわたしは不思議な気配で目を覚ました。バルコニーに誰かがいるような気がする。
 てっきり、寝苦しくなったソフィーが、夜風にあたっているのだと思った。雨季の夜は蚊なども多い。無闇に外へ出るとそんな虫たちの恰好の標的にされてしまう。
 わたしは起き上がり、ベッドの周囲に張り巡らせた蚊帳の外へ出た。
「ソフィー、涼みたいのはわかるけれど、きちんと虫除けの線香を焚いているの? マラリアにかかっても知らないわよ」
 わたしはバルコニーの方に声をかけながら、窓辺へ近づいた。窓の外の人影が微かに動いた。
 おや、と思った。人影は子供ぐらいの身長だが、明らかにソフィーよりも長身だ。わたしは暗がりの中、ソフィーのベッドのほうをうかがった。妹は気持ちよさそうに頬をポリポリ掻きながら眠っている。
 ――じゃあ、窓の外にいるのは誰なの?
 侵入者? わたしは慄然とした。もしかすると泥棒の一味が、身軽な子供を使って二階から忍び込ませようとしているのかもしれない。誰か家の人を呼ばなくちゃと思った。
 その時、人影が言葉を発した。
「待って」
 少年の声だった。流暢なフランス語の発音。わたしは思わず振り返った。
「誰か呼ぼうとしているんだろう。ボクは決して悪者じゃない。だから誰も呼ばないで」
「あなたが悪者じゃないってどうして信じればいいの? 自分が悪者だって名乗る悪者はいないわ」
「カーテンを開けてボクを見てくれれば、悪者じゃないとわかるはずだよ」
「そんな変な理屈って聞いたことがないわ」わたしはクスッと笑った。「第一、あなたがなぜそこに潜んでいるのか、理由がわからないもの」
「なぜって……」窓の外の声は口ごもりながら言った。「君と遊びたかったからだよ」
「遊びたかったですって? わたしたち今までに会ったこともないのに? しかも、こんな真夜中なのよ」
「だって、ボクは夜中しか存在できないからさ。夜中しか遊びに来られないんだ」
「夜中しか?」わたしは少年の妙な言葉に首を傾げた。「それに、どうやってそのバルコニーへ登ってこれたの?」
「登ったんじゃない。舞い降りてきたんだ」
「舞い降りる?」
「ボクは夜空からやって来たんだ」
 わたしは思わずカーテンを開けた。
 バルコニーには、わたしと同じくらいの年頃の少年が立っていた。透き通るように青い瞳が印象的だった。確かに彼が言うとおり、どう見ても悪者には見えなかった。
「君がエマだね。さあ、行こうよ」と少年は言った。
「行くって、どこに?」
「夜空だよ。ボクも君も夜空を自由に飛べるんだ」
「まさか。わたしは飛んだことなんてないわ」
「そう思いこんでいるだけさ。ボクが手本を見せよう」
 少年は、あたかもバルコニーから夜空に向かって伸びる階段を駆け上がるように空中に舞い上がった。わたしは呆然として少年の姿を見守っていた。おそらく、わたしの目はまん丸に見開かれていたに違いない。
「どうだい? 簡単なもんだろう」
「あなたって……」
 わたしは、かつてジャッキーから教えてもらったファンタジーのヒーローの名を思い出した。「もしかして、ピーター・パン?」
「ピーター・パンって何だい?」少年は、クルッと宙返りしながら言った。
「物語の主人公よ。ジャッキーがおもしろかったって言ってたわ。ぜひ読んでみろって」
「知らないな、そんな物語」
「じゃあ、何て名前なの?」
「ボクは名前を言ってはいけないことになってるんだ。ボクは、誰でもない」
「誰でもない……」
 わたしは頭が混乱しそうになった。ビクトル号の船長も「誰でもない」っていう意味のネモを名乗っていた。オデュッセウスも「誰でもない」って名乗ったそうだ。そして、目の前にいる不思議な少年も、自分のことを「誰でもない」と言う。どうして「誰でもない」って名乗る人ばかりと関わってしまうのだろう。 
「さあ、君もつぶやいてごらん。自分は飛べるんだって。飛べて当然なんだって」
 わたしは彼に言われるがまま「飛べるんだ」ってつぶやいてみた。こんなくらいで飛べるようになるのなら、リリエンタールとか、デュモンやライト兄弟の努力はどうなるの、って思った。
「それから、ゆっくり階段を上がるように」
 少年の言うとおり、上がろうとしたが両足は、ひたすら床を踏みしめるだけだった。
「だめよ、わたし魔女じゃないのよ。人がこんなことして飛べるわけがないんだから」
「飛べるんだ、っていう思いこみが足らないだけさ」と少年は言った。
「飛べるわけないわよ」
「じゃあ」少年は宙に浮かんでいる自分自身を指さした。「このボクはどういうこと?」
「何かの芸当?」
「芸当……、まさか曲芸師じゃあるまいし」
 少年はクルリと一回転した。「ほらね、タネも仕掛けもない。ボクはちゃあんと飛んでるよ。君の目の前の現実だよ」
「そりゃあ……」言われてみれば、そうかもって思った。現に少年は、タネも仕掛けもないっていうセリフどおり、しっかりと空中に浮かんでいる。そして、わたしの目を見て笑っている。
「やーい!」
 少年は突然、囃し立てるような声を出した。「ボクにできて、君にはできないの? 運動神経鈍いのかな」
 わたしはカチンときた。なんて憎らしいことを言うんだろう、この子は。わたしの運動神経が鈍いですって。見てなさい、男子生徒の誰よりも徒競走の早いわたしなんだから。
「飛ぶわよ」わたしは息巻いた。「今、飛んでみせるから、待ってなさいよ」
 わたしは心に念じた。「わたしは飛べる」
 そして、ゆっくり階段をあがるように。すると――。 あれ? この感覚……。
「ほうらね」少年は笑顔をみせた。「ちゃんと君も飛べたじゃないか」 
 わたしは、あまりのことに言葉を失った。
 ――浮いている。これが本当にわたしなの?
「さあ、ボクにつかまって」
 わたしは少年の差し出した手を握った。
「ゆっくりと、階段を上がる要領だよ」
 おそるおそる足を上げてみた。すると、もう一段高い空中に、まるで固い地面があるかのように足先をのせることができた。わたしは、もう片方の足も上げた。やはり足先は固い何モノかをしっかりと踏みしめることができた。
「そうそう、うまいじゃないか。そのまま上がって行けばいいんだよ」
 少年の言うとおり、それは階段そのものの感覚だった。もしかしたら、階段よりも安全かもしれない、と思った。だって、足を出す先に必ず見えない地面ができるのだから、踏み外しようがないんだもの。
「ねっ、簡単なものだろう」
 少年は駆け上がるように、舞い上がった。
「待って」
 わたしも、彼のあとを慌てて追った。駆けても大丈夫だった。眼下には自宅の屋根が、周囲には居留地の他の邸が見える。
「こんなことって……」
 わたしは声を震わせた。「わたしにこんなことができたなんて」 
「そうだよ。君にはできるんだって」少年は、うなずいた。「さあ、行こう。夜の空中散歩だ」
 二人は、居留地を囲む木立を越え、平べったく広がる水田の上を飛んだ。鏡のような水田が夜空の濃い青と満月を映し出している。微かな風がまん丸な月の形をゆらゆらゆらと歪めた。
 空の上で直線的に進むときは、まるで滑らかな氷の上を滑ってゆくように、体がひとりでに流れた。曲がるときは、頭の中で行きたいと思う方向に、自然に突き進んでゆく。
 ――まるで風になったみたい。
 わたしは自分の体が、大気に溶け込んだように感じた。重さもなく、暑さも湿り気もない世界。空気と一体化したわたしに、無数に飛び交う羽虫たちも寄りつかなかった。
「どう? 気持ちいいだろう」少年は振り返って言った。
「ええ。でも、本当にわたしは自分の力で飛んでるの? あなたの力を借りずに」
「そう。君は実際に自分の力で飛んでいるのさ」少年はわたしの目をみつめてうなずいた。「さぁ、その辺りをもう一回りしたら、今夜は帰ろうか」

 翌朝、わたしは窓から差し込む朝の光を見つめながら考えていた。あれは夢だったのだろうか。かつて、同じように信じられない体験をしたことが一度あった。アレクサンドリアを出港したあの夜。不思議な老人たちと、セイレーン、そしてオデュッセウス。
 ネモ船長の手紙に書かれていたとおり、こういう不思議なことがこれからもしばしば起こるんだろうか。
 昨夜は、四年前のような恐ろしい魔物たちはいっさい出現しなかった。現れたのは夜空から舞い降りてきた男の子だけ。でも、自分まで空に舞い上がれるなんて。
 ――わたしは本当に飛べたのかしら?
 まだわたしの体の中に、夜空を舞っているときの感覚が残っていた。浮遊感とかフワフワした感じは全くなかった。空の上だというのに、しっかり踏みしめることのできる見えない地面。そして、移動するときのまるで氷の表面を滑ってゆくような疾走感。あの感触がすべて夢だとは思えなかった。
 わたしは腰掛けていたベッドから立ち上がると、昨夜の要領で飛び立とうとした。
 ――宙に階段があると思って、一段、一段ずつ……。
 でも、いくら足踏みすれど、もがけど、空中に一ミリたりとも浮かぶことはできなかった。ちょうど目を覚ましたソフィーが目をこすりながら、珍しい芸でも見るような眼差しでわたしの様子を見つめていた。「何それ? 新しい踊り?」
「踊りじゃないわよ。おかしいわね、こういうふうにしたら飛べるはずなんだけど」
「飛ぶ? それなら、こうすればいいじゃない」ソフィーは勢いよくベッドから飛び出すと、思いっきり跳ねた。
「違うのよ。ぴょんぴょんジャンプするんじゃないの。空に舞い上がりたいの」
「お姉ちゃんみたいに、えっちらおっちらと足踏みしてるより、こっちの方がよっぽど飛んでるみたいだと思うけど」
 ソフィーは調子に乗って、どんどんジャンプした。とうとう下の居間からお母さんの金切り声が聞こえてきた。「何暴れているの! 二人とも学校に遅れるわよ」

         四    少年との飛行と対話

 それからというもの、二週間に一度ぐらいの間隔で少年はやってきた。彼がやってくるのは、たいていは午前零時を過ぎてから。二時や三時ということもあった。そして彼と一緒の時ならば、ごく自然に飛び上がれるのだ。
 そして、七月下旬のある夜のこと。わたしは飛行中に、彼に疑問をぶつけた。「本当にわたしって飛ぶ能力があるのかしら?」
「どうして、そんなふうに思うのさ。現に今も飛んでるじゃないか」
「だって、昼間はまず飛べないし、夜だって、あなたがいないと飛べた試しはないの。つまり、あなたがいなくちゃ飛べないってことじゃないかしら」
「なんだ、そんなことか」少年はクックックと声をひそめて笑った。
「どうして笑うの」
「ごめん、ごめん」彼はあやまった。「確かに君はいつでもどこでも飛ぶっていうわけにはいかないね。でも、今夜ならば飛べるって日が、時折やってくるんだ。ボクは、そんな夜がやってくるのを見計らって現れるんだよ」
 ふーん、なるほどね。でも……、結局それって彼と一緒じゃなくちゃ飛べないってことには変わりはない。なんだか適当にごまかされたって気がしないでもないけれど、まぁ、いいかって気分になった。彼の言ったとおりに考えれば、不思議と気が楽になったから。
「もう一つ、疑問があるの」わたしは続けて彼に聞いた。
「なんだい?」
「こうやって飛ぶ時間って真夜中だし、わたしはずいぶん寝不足になっているはずなんだけど、次の日も全然疲れていないし、眠たくならないのよ」
「それは君がいま夜と一体化してるからじゃないかな」
「夜と一体化。それどういうこと?」
「つまり……、夜そのものってことさ。それ以上のうまい説明ができないや」
「ぜんぜん、わかんない。説明になってないし」とわたしは抗議した。
 少年はわたしの不平などどこ吹く風、逆に質問をしてくる。「今、ヨーロッパでは大きな戦争が続いているんだろう?」
「そうよ」
「一体、どんな戦争?」
「そんなことも知らないの」今度はわたしが教えてあげる番だった。わたしはヴェルダンやソンムで行われたという激しい戦闘の話をした。夥しい数の兵士の血が流れたことも。少年はただ黙って聞いていた。「もしかして毒ガスも知らない?」
「知らない」少年はうなずいた。
「吸い込むと死んじゃうガスよ。燻しあげて虫を退治するみたいに、それを兵士たちに使うの。ベルギーのイーペルやパッシェンデールで続いている戦いでは、このガスが問題になってるの」
「まったく、ひどい話だな」少年はつぶやいた。「きっと、報いが来るよ。バチが当たるよ。いつか人間みんなにひどいしっぺ返しがあるはずさ」
「へぇー、あなたもバチが当たるなんて言うのね」
 少年は、それには何も答えず、さらに質問をつづけた。
「ところで、君の住んでいた町は大丈夫なの?」
「わたしが四年前まで暮らしていたのは、北フランスのル・アーブルっていう町よ。ソンムなんてすぐ近くだし、今戦いが続いているイーペルからもそう遠くないわ。安全とは言いきれないと思う」
 突然、わたしの心に懐かしいル・アーブルの光景が幻灯のように浮かび上がった。通い慣れたマロニエ並木の道、イーストの香しい匂いを漂わせていたパン屋さん、モネたちが作品に描いたという貿易港、その上空を優雅に舞うカモメたち、夏の休暇の思い出の詰まったエトルタの海岸、そして、コスモスの揺れるアンリさんちの庭……。急に切なくなってきて、ちょっと涙がこぼれてきた。
 ――アンリさんたちは大丈夫かしら。ジャンさんも、いまだに親父たちは避難していないんだって嘆いていたけれど。
「大丈夫。きっとル・アーブルは大丈夫だよ」
 少年がわたしの心を見透かすようにつぶやいた。
「えっ、わかるの?」
「うん、わかる。大丈夫だよ」
 さっきまで戦争の状況もまるで知らなかったくせに。何を根拠に言っているのかわからないけれど、それでも彼の確信ありげな言葉は、わたしには心強かった。
 少年は、下界に見えるサイゴンの夜景を見下ろしながら言った。
「ヨーロッパの空の下では今も多くの兵士の命が失われているんだね」
「そうよ。フランス、ベルギー、英国、ドイツ、トルコ、ブルガリア、それにイタリアやオーストリア……。ほんとに多くの国の兵士たちが戦っている。そればかりか、ここインドシナから送り込まれた兵士たちも故郷を離れ、知らない異国で戦っているの」
「本当につらいことだね。国籍や、民族を越えて、仲良くできればいいのにね」
「それって、コスモポリタニズムってこと? あの人も同じようなこと言ってたなぁ」
 少年は、わたしの顔を見つめなおした。「あの人?」
「あなたって、『海底二万リュー』って読んだことがある?」
「いきなり、どうしたんだい?」少年は面食らった表情で笑った。「うん、『海底二万リュー』なら読んだことあるよ。とても大好きな本だよ」
「どこで? いつ読んだの?」
「んーと……」少年は頭をポリポリ掻いた。「んー、思い出せないや。いつだったかなぁ」
「今続いている戦争のこともよく知らないのに、『海底ニ万リュー』は知ってるなんて、あなたの知識って何だかアンバランスなのね」
 そう言って、わたしは彼の顔をじっと見つめ返した。
「ん?」彼はくすぐったいような表情を浮かべた。「何か顔についてるかい?」
「ううん」わたしは首を振った。「何でもないわ。あなたの話す言葉や大好きな本が、あの人を思い起こさせただけ」
「また、あの人……、それって誰?」
「誰でもない人よ」とわたしは言った。「ビクトル号の船長。大切な船を沈められたの、ノーチラス号のような潜水艦にね」
 少年がネモ船長と関係があるのかどうか、それはわからない。顔だって似てるようにも思えるし、そうでもないような気もする。それは航海から四年も経って、記憶から船長の面影が少しずつ薄れているからかもしれないけれど。少年自身に「ネモ船長って知ってる?」って聞いても、「知ってるよ。『海底二万リュー』の登場人物だろ」という答えが返ってくるだけだった。ルネ・フランソワという船長の本名には、これといった反応を示さなかった。

 ある夜、少年はうれしそうな顔をしてわたしの前に現れた。
「どうしたの?」
「読んだよ」
「何を?」
「君がずっと前に言っていたあの物語。ほら、『ピーター・パン』さ」
 わたしは、ようやく思い当たり、ああ、と言った。確か少年と初めて出会ったときに、あなたはピーター・パンか、って聞いたんだっけ。
「わたしだって、まだ読んでないのに」と、わたしは言った。「で、どこで読んだの?」
「あったんだよ」
「どこに?」
「図書館に」
「へぇー」わたしは学校の図書室は利用するけれど、図書館になんて行ったことはない。そんな所には大人が読む難解な書物ばかりが集められているんだと思っていた。
「英書ばっかし集めた棚にあったな。児童書の棚では、見つからないよ」
「あなたが図書館に通ってるなんて意外だわ。やっぱり利用するには最初に手続きが必要なの?」
「さぁ」
「さぁって……。図書館で本を借りたんでしょう?」
「バカだなぁ。僕が普通の開館時間に行けるわけないじゃないか」
 少年はそう言って笑った。「夜だよ。夜中に忍び込んで、月明かりの下で読んだ」
「月明かりなんかで字が読めるの」
「僕は夜だけの存在なんだよ。月明かりさえあれば十分な明るさだ。誰もいなくて静かだし、集中して読めたよ」
「で、どうだった?」
「君の友達が勧めていた通りさ。なかなか、おもしろくって読み応えがあったな。確かにピーター・パンって僕に似たところがあるね。まあ、僕はあんなに子どもっぽくはないけれど。作者のジェームズ・バリって、本当にピーター・パンに出会ったんじゃないかな」
 少年は、そう言って『ピーター・パン』のあらすじを話し始めた。わたしが読む楽しみが無くなるじゃない、って思ったけれど、あまりに彼が夢中で話すので、そのまま、うんうんとうなずいて聞いてあげた。
 彼によると、ピーター・パンの本には『ケンジントン公園のピーター・パン』と『ピーターとウェンディ』の二つがあり、まるで別のお話なんだそうだ。物語としておもしろいのは『ピーターとウェンディ』のほう。冒険や海賊との戦いのシーンがたくさんあるらしい。一方、『ケンジントン公園のピーター・パン』は、彼曰く、ちょっと難しい。文章が難しいのではなく、書かれている内容をどう解釈してゆくのかが難しいらしい。ワクワクするあらすじでもないし、主人公のピーター・パンも赤ちゃんのようだったり、鳥のようだったりして、とらえどころのないイメージなんだそうだ。でも、少年は「僕はなんとなく『ケンジントン公園』のほうに惹かるんだよなぁ」と言っていた。

 少年とともに飛んで行く範囲は少しずつ広がっていった。八月が終わりかける頃には、サイゴンからちょっと離れたミトーの町の辺りまで飛ぶこともあった。ミトーの先には大河メコンが悠然と流れていた。河岸には渡し舟が無数につながれていた。
「ここを遡るとプノンペンへ行けるの?」
「ああ。ここからなら北西の方角になるんだろうな」少年は大きくうなずいた。「この少し先にヴィンロンの町があり、もっと先にプノンペンがある。でも、一晩のうちに往復するのはちょっときついだろうなぁ」
「やっぱりプノンペンまで飛んで行くのは無理なのね」
「そりゃあね。飛行機のようなスピードはいくらなんでも無理だ」
 わたしは北方の空を見た。銀河の中ほどに北天の十字架・白鳥座の星々が瞬いている。あの空の下にジャッキーがいるんだろうか。猛烈にジャッキーに会いたいと思った。わたしは夜空と黒い地平線が霞む先をじっと見つめた。

         五    マイの筆記帳より Ⅱ

 わたしは夜中に飛んでいることを、誰にも気づかれていないと思いこんでいた。少年もその辺りは注意深かったし、わたしだって十分気をつけていたつもりだ。
 ところが少年と出会って一年ほどが経った頃、意外なところに、わたしたちの行動に気づいた人間がいた。
 それは同じ屋根の下で暮らすマイだった。当時、彼女が書き記していた筆記帳には、こんなふうに書かれていた。

             ※

 ベトナムの雨季は、そこで生まれ育った人間でも過ごしにくいものですね。それでも宵が訪れる前に一雨来てくれれば、ある程度過ごしやすい夜になりますが、ジメジメとした状態のまま夜を迎えるともう最悪。寝苦しくって、眠ってなんかいられません。
 古くからのベトナム式の家は、その点、機能的に造られています。高床式で、適度に隙間だらけで、風が通りぬけやすい造りになっています。
 でも洋館はだめ。いくら熱帯の気候にあわせたコロニアル・スタイルでも、風通しのよさではベトナムの家にはかないません。フォンテーヌ家のお邸は、洋館のなかでは、まだ、いい部類の建て方だとは思います。でも、やはり堅固な造りと開放感を両立させるのには自ずと限界というものがあるようです。
 そんなわけで五月以降は眠れない夜が続いていました。こういうときは強引に眠ろうなんて無理をせず、夜風に当たりに行くのが一番です。ただし、雨季の夜には蚊もたくさんいるから、むやみに肌を出すのは避けなくちゃなりませんけど。
 真夜中の庭は、生き物たちの楽園となっています。納屋のそばに灯る誘蛾灯には、無数の蛾やコガネ虫、羽蟻の類がびっしりと集まっています。それらを狙ってヤモリやカエルたちがのそりのそりと引き寄せられてきます。闇の中でひっそりと息をひそめる花々も、色彩を抑えたぶん、その濃厚な香りで小生物たちを惑わせています。まさに百蛾百花万物繚乱! もし、ソフィーさんがその場にいれば驚喜しそうな光景です。
 実は私も、こういう小さな生き物たちが嫌いではありません。でも世間的には、女の子は虫を嫌うものって常識が定着しているので、なかなか人前で虫をじっくり見つめたり、愛でたりなんてことはできません。だけど、夜中ならば誰はばかることなく、心ゆくまで、うごめく小生物たちを眺めることができるのです。
 よくよく見ると虫たちっていうのは、とても美しい色や姿をしています。とくに蛾の羽の意匠の多様さには、しばしば驚かされます。時おり、目を見張るほど奇抜なのがまぎれているかと思えば、お蚕さんのような地味な蛾が飛んでくることもあります。ただ白いだけの小さく清楚な蛾。もちろん派手な蛾も魅惑的ですが、こういう飾り気のないのもいいな、なんて思ってしまいます。
 コガネ虫にだって、虹色の宝石みたくキレイなのがいたりして目を瞠ることがあります。以前、エマさんに大きなコガネ虫を象った石をみせてもらったことがありました。エジプトのお守りなんだそうです。驚いたことにアフリカの大地には、その石のお守りをそっくりそのままにした大ぶりなコガネ虫が本当にいるそうです。アフリカっていうところは、大きな野生動物がたくさんいるって聞いていたけれど、虫にもスゴイのがいるんですね。確かに大きさや迫力ではかなわないけれど、インドシナのコガネ虫だって、姿の美しさでは決して負けてはいないと思います。
 そういう虫たちに、カエルやヤモリは音もなく忍び寄って、パクリと食べてしまいます。ヤモリの獲物へ近づき方っていうのは、とても興味深い。自分の体を、地面や壁にぴっちり押しつけて、目立たぬようじわりじわり近づいてゆくのです。とても慎重なんです。まるで床や壁のちょっとしたでっぱりになりきっているって具合です。でも、心ははやるんだろうな。シッポだけが左右にせわしなく揺れていたりします。よしよし慌てるな慌てるな、急いてはことを仕損じる、ってな感じ。そういうところは、かわいいな、なんて思ってしまいます。そして、もう逃さないぞって距離まで詰め寄ると、あとは電光石火。あっというまに獲物を口の中におさめてしまうのです。
 こういう光景って、他にも見たことがあったなぁ、と思いました。そう、猫です。猫が獲物を狙うときも同じように慎重に近づいてゆきます。猫もそうなんだとしたら、虎もそうなんだろうな。獲物が気づかない間に、ソロリソロリと。もしかしたら、私なんかも、どこかで狙われているかもしれません。
 一度、大きなカエルが蛇を呑み込んでいるところに出くわしたこともありました。カエルが閉じた口の先から、蛇の尾っぽの先がニョロリと飛び出して、ピクリピクリと動いていたのです。その時ばかりは、さすがに、わたしもぞっとして逃げてしまいました。
 まさかカエルが蛇を食べちゃうなんて。呑まれる蛇はどんなことを考えていたんでしょう。おやおや変だぞ、これじゃあアベコベじゃないか、なんて思いながら呑まれちゃったんでしょうか。今度の戦争が始まったころ、オーストリア軍が小国セルビアにあえなく撃退されたことがあったそうですが、その時のオーストリアって、こんな蛇の気分だったのかな。でも、さすがにベトナムが欧米の大国を打ち負かすなんてことは未来永劫起こりえないでしょう。
 こんなふうに真夜中の庭はわたしにとって、とりとめなく考えをめぐらせる思惟の園です。ただ、いくら居心地のよい場所でも、いつまでも留まってはいられません。ほどほどなところで、わたしは小さな生き物たちに別れを告げ、部屋へと戻りはじめるのです。
 ところが……。
 あれは今月の半ばのことだったでしょうか。私はある夜、戻り際に妙なことに気づいてしまったのです。
 ――誰かがいるわ。
 ナニモノかの気配は、空からやってきました。濃藍に染め上げられたアオザイのように深い碧さの夜空から、それは舞い降りてきました。あやかしだと思いました。あやかしの影は、屋根の上に降り立ち、明らかに私が立ち去るのを待っています。私は去るふりをして玄関ポーチの庇の下で様子をうかがいました。不思議と怖くありませんでした。あやかしが、一体ナニモノなのかこの目で確かめてやろうという気持ちの方が強かったのです。
 あやかしは私がお邸へ戻ったと思いこみ、屋根から二階のバルコニーへと下りてきました。エマさんとソフィーさんの部屋の前です。すると、部屋の中から誰かが出てきました。しばらくヒソヒソと話し声が聞こえていましたが、やがて、それも止みました。
 ――どうしたんだろう?
 私が庇の下から出ようとしたとき、空を何かが横切ったのです。
 二つの影。
 後ろから追いかけるのは、おそらくエマさん。
 そして、彼女を夜空に導くように飛んでゆくもの――私には一頭の虎に見えました。二つの影は、あっという間に星空の彼方へと飛び去り、闇にまぎれて判らなくなりました。

 あの不思議な夜からというもの、エマさんのことが気になって仕方がありません。
 ――この人はいったい何者?
 あやかしとは、どういう関係なのだろう。いろんな疑問がわきあがってきますが、本人を前にすると、何も聞くことができませんでした。目の前にいるのが、あまりにもいつもどおりのエマさんだったから。
 不思議な夜の翌朝も、何ごとも無かったような顔をして、エマさんは二階の部屋から降りてきました。
「おはよう」彼女は、明るい表情で食堂に入ってきます。うかがうような目つきで見つめる私の視線が気になったのか、「どうしたの?」とたずねてきます。
「いえ、何でもありません。昨夜はよく眠れましたか?」
「うん、ばっちり快眠よ」
 天真爛漫に答える彼女に、それ以上何も聞くことができませんでした。見ちゃいけない秘密を見てしまった後ろめたさが、私の中にあったのも事実。それから、食卓のエマさんが、トゥー伯母さんや奥様と明るく話している姿を見ているうちに、あれは自分の見た幻か夢だったのではないか、という気さえしてきました。
                          一九一八年五月二十九日(火)

             ※

 停滞気味だったヨーロッパの戦争は、一九一八年に入ってから大きく動きました。
 ドイツが春先から激しい攻勢に転じ始めたのです。一時はパリからわずか百キロほどの距離までドイツ軍は迫ってきたそうです。パリ市内には砲弾が数多く落ち、市民が逃げまどったといいます。
 報道を聞いて、これじゃあ、パリ陥落も時間の問題だと誰もが言っていました。フォンテーヌ家の人びとも火が消えたように意気消沈していました。
 そんな中、アメリカ合衆国が本格的にヨーロッパの最前線へ兵士を送り込んできたのです。それはベトナムにいるフランス人たちにも大きな希望をもたらし、勇気づける出来事でした。
 実際、戦地から遠く離れた新大陸で、力をじっくり温存していたアメリカ軍の参戦は効果抜群でした。あんなに強かったドイツ軍でしたが、実際のところは補給に苦しみ、疲弊しながらギリギリのところで戦っていたのでしょう。新しい敵の出現にたまらず、じりじりと後退してゆきました。
 フランス人の目には、そんなアメリカ軍が祖国を窮地から救ってくれる神がかりの軍隊のように映ったようです。誰もがアメリカを称え、神に感謝していました。新聞でも、アメリカ軍を「正義の使者」と見なす記事が書き立てられました。しかし、戦争に強いことが、イコール正義なのか、私には甚だ疑問でした。アメリカみたいに力を持った国が、武力にまかせて「正義」をふりかざし、世界中に軍隊を送りはじめたら恐ろしいだろうなと思いました。

 フランス人たちの間では、もうすぐ戦争が終わるのでは、という希望の光がにわかに灯りはじめましたが、私の心は暗くふさぎ込んでいました。従兄が戦地で亡くなったといういう報せが先日、彼の家族のもとへ届けられたのです。死亡した事実だけが淡々と書かれた一枚の通知書。
 激しかった先年のソンムの会戦でも、生き抜いてきた従兄。最近、ベトナムの家族に宛てた手紙でも、「左腿に銃弾のかすり傷を負ったけれど、たいしたことない」と知らせてきていたばかりでした。
 そんな従兄の命を奪ったのは、銃弾や爆薬ではなく、病気でした。なんでも感染力の強い流感がヨーロッパで流行りはじめているそうなのです。従兄はせっかく戦火をくぐりぬけてきたのに、流感であっけなく命を落としました。
 元来身体が丈夫な従兄だったのに、流感ぐらいで命を失うなんて信じられない気がしました。かわいそうに戦場で体力を使い切り、疲弊していたんだろう、とタン伯父さんは言いました。
 私には幼い頃に従兄と一緒に遊んだ思い出しかありません。大きくなってからは、ほとんど会ってはいませんでした。お母さんが亡くなってからはタン伯父さんとトゥー伯母さんに引き取られて、フォンテーヌ家で暮らしていたから。
 昔は、よく一緒に運河の畔で遊んだことを憶えています。運搬船の船頭さんが商品の果物を岸辺に、ヒョイヒョイと放り投げて荷揚げしているとき、タンロンの実を一つ失敬して逃げたっけ。船頭さん、船の上で真っ赤な顔で怒っていたけれど、岸まで追いかけて来れないものだから、地団駄踏んでいたなぁ。
 従兄は船乗りになるのが夢でした。小さな頃から商船に乗って世界の海へ飛び出すんだと言っていました。ヨーロッパはもちろん、中国、インド、日本、オーストラリア、ハワイ、そしてアメリカ……、世界の国々を見て回るんだと言っていました。だから、貿易商のフォンテーヌ商会には、とても興味を持っているようでした。トゥー伯母さんなどは、自分の口利きで雇ってもらえるか聞いてやろう、と言っていました。
 そんな矢先の召集。そして、夢に見たヨーロッパへの航海には兵士として参加し、二度と祖国ベトナムへ帰ってくることができませんでした。
 従兄にとって、この戦争はどういう意味があったんだろう。ベトナムにとっても何の意味があるんだろう。そればかりか当事者のフランス国民自体が何のために戦っているのか、わかっているんだろうか。そして、フランスのために血を流し、命を犠牲にした植民地出身の名も無き兵がたくさんいることを知っているんだろうか。
 自由? 平等? 博愛?
 今夜ばかりは書かせてもらいます。
 大切なことが何も見えていないのは、あなたたちヨーロッパ人だ。
                            一九一八年八月六日(月)

             ※

 五月のあの夜以降も、私は時おり真夜中の庭へと出ました。
 そして、納屋の陰に姿を隠し、そっと夜空を見つめることもありました。しかし、あれ以降、空から降り立つあやかしの姿を見たことはありませんでした。もちろんエマさんが飛んでゆく現場に遭遇することもありませんでした。
 何事も起こらない夜が続いてゆきます。いつもどおりの虫たちの乱舞だけが続いています。それとともにあの夜に受けた衝撃も次第に薄らいでゆきました。やっぱり、あれは夢だったのだろう。そういう思いが私の中で支配的になってゆきました。

 そして、九月半ばのあの月の美しい夜がやってきました。
 それは、虫の声が心地よく響く夜でした。マツムシというのでしょうか。コオロギの仲間みたいな声のきれいな虫。
 ソフィーさんに教わったんですが、夜の庭で鳴く虫――マツムシとかコオロギの仲間は、けっして口で鳴いているわけじゃないそうです。なんでも羽を震わせて響かせているんだとか。だから、鳴くというより、音色を奏でているのよ、とソフィーさんは言っていました。豆粒より小さな虫が、薄い羽でこんなにも大きな音を出せるなんて、不思議な気がしないでもありません。
 ベトナムへやってきたときは、まだ五歳だったソフィーさんも、もう九歳。とても美しい少女に成長しています。快活なエマさんとは対象的に、部屋で静かに読書するのが好きなタイプ。戦時下のフランスから苦労して取り寄せたファーブルの「昆虫記」全十冊組みが愛読書です。
 一方、エマさんは十四歳。同性の私から見ても、魅力的な女性になりつつあります。彼女はきっと将来、大恋愛しそうなタイプ。相手の男性がメロメロになっちゃうかも。でも、今は全然、恋愛とかに興味はないようです。彼女はそれほどの読書家ではありませんが、ここ数ヶ月ほどかけて「ピーターとウェンディ」って本を読んだそうです。図書館には貸し出し期限があるってことを全く気にしていなかったようで、司書さんから大目玉をくらったとか。えらい時間がかかったね、とソフィーさんにあきれられても、英語の本なんだから仕方ないじゃない、って開き直っていました。
 そうそう、九月の庭へと話を戻しましょう。
 わたしはマツムシの奏でる音色を聞きながら、澄みわたった空を見上げていました。
 中空には大きな円い月。そういえば、もうすぐ中秋節だなって思いました。街中では、華やかなお祭りの準備が進んでいるはず。軒先にずらりと並ぶ赤い提灯、そして仮面をかぶった人たちの楽しげな行列。幼い頃、運河の街で見た光景です。
 ベトナムでは中秋節には月餅を食べますよね。でも、フォンテーヌ家の人たちはどうも餡子の甘さが苦手らしく、あまり月餅を食べません。例外的に、ソフィーさんだけが何故か月餅を大好きだったりするんですが。
 さて、今年もトゥー伯母さんは月餅を用意してくれるのかな、なんて考えていると、空のお月さままでおいしそうな月餅に見えてきました。我ながらいじきたないなぁ、なんて思ったそのとき、何かが月明かりの中を横切りました。
 大きな獣のような影。もしや――。
 わたしは、とっさに鳳凰木の下に隠れました。影は屋根に降り立ち、地上の様子をじっと確認しています。やはり、あやかしです。
 あやかしは、私には気づかなかったようで、そのままバルコニーへと滑り込みました。すると間を置かず、部屋の扉が開き、人影が中から現れました。
 ――エマさん。
 彼女は、自分がどんな化け物と一緒にいるのかわかっているのでしょうか。遠目では、はっきりと彼女の表情まではわかりませんが、まるで友人と話すような親しげな様子で虎の怪物と話しています。
 私はどうすべきかわかりませんでした。このまま化け物を放っておいていいものなのか。かと言って大声で誰かを呼ぶのもためらわれました。おそらくエマさんは誰にも知られたがっていない、と思えたからです。
 鳳凰木の根元には、タン伯父さんが庭仕事で使っているシャベルが立てかけてありました。私はその柄をぎゅっと握り締めました。
 ――私がしっかりしなくちゃ。何とかしなくては。
 そう思ったとたん、体中に力が湧いてきました。怪物の前に飛び出す勇気さえみなぎってきたのです。手のひらには汗がにじんできました。
 その時、背後からおだやかな声がしました。
「まぁ、待ちなさい」
 振り返ると、白く長い髭を垂らせた老人が立っていました。
 その背後にも、もう一人老人がいました。その禿げ上がった頭頂部が、月の光に照らされてキラキラと輝いていました。
「あの二人をそっとしておいてやりなさい」
 私は戸惑いながら老人たちに尋ねました。「あなた方は誰ですか? いつの間に……」
「まぁまぁまぁ」
「あのあやかしをあなた方も見たのでしょう。あれは虎の化け物ですよね」
「うむ、そのようじゃな。ありゃあ、確かに虎じゃな」
「やっぱり」シャベルを握る私の手に力がこもりました。「このままじゃ、エマさんが危ない」
 すると禿げたほうの老人がコホンと咳ばらいをしてから穏やかな口調で言いました。「あー、その点に関しては心配はない。あの虎は少女を襲ったりせん」
「どうして、わかるのですか」
「あれは虎であって、虎ではない」
「どういうこと?」
「エマとかいう少女の目には、少年の姿として映っておるはずじゃ。虎自身も、今は自分が虎であるつもりはない。心は少年になりきっておる」
「でも、この世のものではないあやかしに、たぶらかされていることには変わりがありませんわ」
「この世のものではない?」髭の老人はおもしろそうに言いました。「お前さんたちアジアの民は知っておるじゃろうが、人の世は常に精霊や神々、物の怪の類に包み込まれていることに」
「はぁ」
「どこに境界があるのじゃ? そんなものありはせん。人の心がそれを受け入れるか、受け入れないかの違いだけじゃ」
「では、あれは精霊?」
「ま、そのようなものじゃな。しかも性質の悪い精霊ではない。誰ぞ少年の心も宿らせておるし」
 私は、バルコニーを見上げました。虎とエマさんがまさに飛び立つところでした。二人はするするっと階段を駆け上がるがごとく、夜空へと吸い上げられてゆきました。
「心配はない」
 それまで、黙っていた禿げている方の老人が落ち着いた声で言いました。「彼女はしばらくするとちゃんと帰ってくるし、明日は普通に生活しとるじゃろう。何も騒ぎ立てるほどの問題はない。それに……」
「それに?」
「もし彼女に危険が迫るようなことがあれば、あの虎が命がけで守るじゃろう。あれは、そういうあやかしじゃ」
 この老人たち、ボロボロの布をまとっただけのような妙ないでたちですし、どこの誰だかもわかりません。でも、なぜか言っていることは信じてよい気がしました。
「あなたがたは?」私は再度たずねました。
「名乗るほどの者ではない」と禿げた老人。
「どうせ名乗っても、誰も知らんのだからな」と白髭の老人も苦笑いしながら言いました。「すぐにこの庭から姿を消すから、わしらのことは気にせんでもいい」
 そして、老人は夜空を見上げて、目を細めました。「それはそうと、ここからの月の眺めはまた格別じゃのう」
「おお、そうじゃの」禿げた老人もうなずき、月を見上げました。「やはり、東洋で見る月は趣が違うのう」
「マルヌにも、ヴェルダンにも、ソンムにも、イープルにも月は昇ったし、両陣の兵どもも同じ時間に同じ月を見上げとったんじゃがな」
「同じ月を見て、同じ風に吹かれておったが、戦というものが隔てる溝は、どんな海よりも深く広かったな」
「わしらは、ただ歴史を見守るしかできん。因果な役回りよのぉ」
「ほんに因果よのぉ」
 二人はそうつぶやきながら、いつしか闇の中に消えてゆきました。どこへどう消えていったのかは、よくわかりません。老人たちが立っていた場所では、それまでと同じようにマツムシが澄んだ声を奏で、月明かりが花壇の一隅を照らしていました。
                           一九一八年十月四日(金)

         六    メコンの旅

 プノンペンに住むソルニエ家から、一緒に北カンボジアへの旅行へ行かないかとの手紙が来たのは一九一八年の十月のことだった。
 その頃、ようやく戦争も収束してゆく見通しが立ちはじめていた。ドイツ、オーストリア側について戦っていたブルガリアとオスマン帝国が相次いで降伏をしたのだ。
 インドシナのフランス人社会もにわかに活気を取り戻しはじめていた。学校の先生たちの顔も、みるみる生き生きと輝きはじめたし、通商路の復活や戦後の需要拡大を見込んで、さぁ生産強化だ、って意気込む人たちも目立ち始めた。フォンテーヌ商会も、コーヒー豆の本格的な収穫期を前にヨーロッパ向け貨物の準備に大わらわだった。ソルニエ商会でも同様だったのだろう。忙しさとともに安堵感、そして今後への期待感のようなものが広がっていた。
 わたしたちの旅行は、乾季が始まる十二月に行われることになった。行き先はトンレサップ湖の北方の小都市シェムリアップ。久しぶりのジャッキーとの再会だ。旅行を抜きにしても、それだけで十分心が浮き立つ話だった。
 ソフィーにも大きなサプライズがあった。ソルニエさんがシンガポールにいるスタンレー一家に声をかけたところ、ぜひ我々もシェムリアップへ行きたい、との返事があったのだそうだ。ポールも、もう九歳。いったい、どんな少年に成長しているのだろう。
 「ソフィー、楽しみね」と言ってみたところ、「別に」とクールに答える妹だったが、しっかり頬が染まっているところがかわいい。しかも、わたしは彼女がこっそりと英会話の本を取り寄せ、あわてて勉強を始めたことに気づいている。
 十一月に入ると戦争の結末を決定的づけるような出来事があった。オーストリアの降伏だ。もともと、この戦争はオーストリアとセルビアとのいさかいから始まったようなものだった。その当事者が降参してしまったのだ。最後の皇帝カール一世も退位し、ハプスブルク王朝は崩壊した。聞けば、ハプスブルクの王朝って十三世紀から六百年以上も続いたのだそうだ。これはこれで、すごいことだ。
 オーストリアの降伏と時を同じくして、ドイツ国内でも革命がおこり、皇帝ヴィルヘルム二世が国外へ亡命した。そして十一月中旬、四年も続いた長い戦争が、ついに休戦となった。待ちに待った平和な時代が、ようやく戻ってきた。
 十二月になると完全に雨の季節が終わった。
 乾季の始まりのこの時期は、雨季に降った豊富な水が、まだ森や水辺を潤している。だから、晴れ渡った青空の下、瑞々しい美しさにあふれた贅沢な風景が堪能できる。観光旅行にはうってつけの季節だ。
 わたしたちはまず陸路でメコン畔の町ミトーへ向かい、そこの川港からプノンペンへ向かう客船に乗った。今回の旅には、わたしたちの家族以外に、ジャンさん・シェリーさん夫婦、そしてマイも同行していた。
 わたしは、少年とともに夜空から見下ろしたメコンの光景を思い出した。大地を分けてどこまでも続く大きな川。今、その川を船でさかのぼろうとしているんだ。わたしの心は躍った。見慣れたサイゴン川よりもずっと川幅が広く、スケールもケタ違いに大きい。サイゴン川だって決して小さな川じゃないけれど、やはりメコンの途方もなさにはかなわない。しかもこの流れがメコンの全てではなく、幾筋にも枝分かれした支流のたった一つだというから驚きだ。
「メコンっていうのはね、ワニの住む河って意味なんだ」とジャンさんが教えてくれた。「だから、気をつけて。オヤツ代わりにパクリとやられちゃうかもしれないからね」
 ジャンさんは冗談のつもりだったのだけど、マイはちょっとばかしびっくりしたみたい。船縁から、おそるおそる川面を見下ろし、「よかったぁ。ここには何もいないみたい」と胸をなで下ろしていた。
 一方、相手がワニであっても好奇心を抑えることはできなかったのがソフィーだ。彼女は船縁から飛び出さんばかりに身を乗り出して、流れを見つめた。そして、「わかんないわよ。水面から見えないだけで、この濁った水の下にウジャウジャ潜んでいるのかも」と言って、マイを震えさせるのだ。普段は読書好きで、おとなしいくせに、こんな時は極端に行動派に転じるのがソフィーだった。

 プノンペンは想像していたよりも栄えた町だった。
 サイゴンでは、フランス人も、ベトナム人も口をそろえてカンボジアは貧しい土地だと言うので、勝手に田舎じみた町だと思い込んでいたのだ。それを言うとジャッキーは「当たり前よ。そんな未開の地なら、この私が五年間も我慢して暮らしていられるわけないじゃない」と笑った。
 五年ぶりに会うジャッキーは、以前とまるで変わっていない。気位の高いお嬢様で、皮肉屋で、小憎らしいところもあるけれど、とっても寂しがり屋。わたしはプノンペンの川港で、船から降りるやいなや、突風のように駆け寄ってきた彼女に、ギュッと抱きしめられ集中豪雨のようなキス攻めにあってしまった。わたしも負けずに彼女を思いっきり抱きしめてやったけれどね。彼女は、ちゃんとスカラベ石を持ってきていた。
 スタンレー家も一日早くプノンペンに到着していて、わたしたちを出迎えてくれた。彼らはシンガポールからカントー港経由で、メコンをさかのぼってきたらしい。
 抱擁と口づけの中で行われたジャッキーとわたしの熱い再会シーンに比べ、ポールとソフィーの再会はあまりにもあっさりしていた。あんなに仲のよかった二人なのに……。お互い異性を変に意識する年齢になってしまったのか、軽く会釈し合うだけでプイッって横を向いちゃうのだもの。おまけにジャッキーが「最愛の恋人にやっと会えたっていうのに、なに照れてんのよ」なんてあからさまに言って、ポールの背中をバシッって叩くものだから、余計に二人はツィーと離れてしまう。
 このまま二人はよそよそしい態度のまま旅行を続けるのだろうかと思ったが、そんな心配は無用だった。二人には、彼らなりの再会の方法があったのだ。いつの間に取り寄せたのか、ソフィーはファーブル「昆虫記」の抜粋英訳版を用意していて、ポールにプレゼントしたのだ。すると、ポールの方もプレゼントの本を持ってきていた。それは、少年少女向けにリライトされたダーウィンの「ビーグル号航海記」。こちらは英語版のままだけど、子供向けなので読みやすそう。「ピーターとウェンディ」を読了するのに半年ちかくもかかったお前が言うなって突っ込まれそうだけど。
「うわぁ、お互い同じような発想をするなんて、さすが恋人同士ね」
 ジャッキーは大喜びで二人を茶化した。

 プノンペンには一泊した。昼間は栄えた町だと思ったけれど、夜、この都市を包み込む闇は恐ろしいほど深かった。もっとも、サイゴン近辺だって中心部から少し離れただけで相当な暗さになる。実際、暗さのレベルでは、そう変わらないはずだ。でも、カンボジアの闇は暗さの密度が違うと思った。しかも、闇の中に何か気配を感じる。何か形にならないものがうごめいている。
 ジャッキーに言うと、彼女は真面目な顔をし、低い声でつぶやいた。「それは大地や森の精霊が……」
 わたしはびっくりした。「やっぱり、そうなの? ここには、そんなのがいるの?」
 すると、ジャッキーは大声で吹きだした。「バッカじゃないの。そんなの、いるわけないよ。現地人たちの妄想、迷信よ」
「だって、大真面目な声で言うんだもの」
「エマって、こんなの信じやすい性質だから、からかってみただけ」
「うー、ひどいやつ」わたしはそう言って枕を投げつけてやった。
「あっ、やったな。今晩、一緒に寝てやらないぞ」
 わたしたちは、しばらく枕やクッションを投げあった。
 その夜、ベッドに中で彼女と話したのは、やはりビクトル号のことだった。ジャッキーによれば、わたしたちの航海の頃とは乗組員がかなり入れ替わっていたらしいが、詳しい乗員名簿は確認できていないそうだ。ただ、ネモ船長が乗っていたことは確実らしい。
 魚雷の命中から沈没まで三十分ばかり、救命ボートを全て下ろす時間の余裕もなかったそうだ。その結果、デッキに残された多くの乗員、乗客が海上に投げ出されてしまったらしい。南地中海は冬でも極端には水温が下がらないそうだが、それでも衣服を着たまま、いきなり海に投げ出された人々の体力を次々と奪っていった。
 話を聞きながら、わたしは必死に犠牲者たちの冥福を祈った。
 ジャッキーによれば、たまたま乗客として、その魚雷攻撃に遭遇し、救命ボートで九死に一生を得た男性がプノンペンにいるらしい。その人は白い歯が印象的なクルーが乗船していたことを憶えているそうだ。
「私にはそれが、ティアタだって思えてならないんだけど」
 ジャッキーはさみしげに言った。
「でも、確証はないんでしょう」
「うん」
「だったら、どこかで生きているはずって思っておくわ」とわたしは言った。
 くだんのビクトル号の生き残り氏によると、船にはピアニストも乗っていたそうだが、どんな人物だったのかは全く憶えていないという。
「せめて弾き手の風貌ぐらい憶えていないの? その人」
「うん、わからないみたい。人って興味がないことは、ほとんど憶えていないものなのよ」とジャッキーは答えた。
 その後、わたしたちは話題を強引に変えた。再会を果たした日のせっかくの晩にしんみりしたままなのも嫌だったから。そして、お互いの学校のこと、級友のことなどを笑いあいながら話すうちに、二人とも自然に眠りこんでいった。

 プノンペンから先、メコンは大きく二つの流れに分かれていた。一つはラオスや中国方面から流れよせる本流。もう一つはトンレサップ湖から続く支流だ。
 わたしたちを乗せたランチ船は、トンレサップ方面の流れへと進んでいった。その辺りの流域には、川の上まで床が張り出した水上家屋が岸辺にびっしりと並んでいた。
 船は途中、古都のウドンやコンポンチュナンに寄港したあと、広大なトンレサップ湖へと入っていった。さすがに東南アジア最大というだけあって、湖のど真ん中を進む船からは、岸が霞んで見えない。泥色の海がひたすら続くという印象だった。
 この広い湖では、アンリさんの双眼鏡が役に立った。ツァイス社製の双眼鏡でのぞくと、何もないと思えた湖面に幾つもの小舟が浮かんでいるのが見える。一艘の舟に一人か二人ずつ乗って忙しそうに手を動かしている。みんな漁の真っ最中のようだった。
 この湖に生息する生き物の姿も見える。群れで飛ぶ大きな白い鳥たち。双眼鏡をポールに手渡すと、彼はじっくりと鳥たちの様子を観察したうえで「あれはペリカンだ」と言った。「ハイイロペリカンって種類だよ、きっと。繁殖のために北の国から渡ってきたんだろうな。湖畔や小島の木の上に営巣して卵を抱いたり、子育てしているんだと思う。ここは暖かいし、何より餌が豊富だからね」
 うーむ、なんと流暢なフランス語……。わたしとジャッキーは思わずのけぞった。シンガポールで暮らしながら、九歳でここまでフランス語を習得するなんて、さすが英国外交官の息子は頭のデキが違う。
 わたしがポールから返してもらった双眼鏡を見て、ジャンさんが言った。「おや、それは親父が持ってたのと同じものだな」
「そうよ、アンリさんからもらったのよ。インドシナへ出発するとき、餞別にって」
「へぇ、あの親父がよく譲ってくれたなぁ。とても大切にしていた双眼鏡だよ」ジャンさんは、そう言って双眼鏡をしげしげと見つめた。
「そんなに大事なものだったら、お返ししたほうがいいのかな」
「とんでもない」彼は首を振った。「それをエマさんに譲ったということは、よほど君のことを気に入っていたんだと思うよ、親父は」
 そしてジャンさんは「君が大切に使ってくれるのが一番だよ」と言った。
「うん」わたしは、うなずいた。「ずっと大切にする」

 ランチ船は、静かな湖面に軌跡を描きながら北西方向へとひたすら進んだ。ポンポンポンポンとテンポよくも単調なエンジン音だけがやけに高く響き渡る。
 やがて、浮島が船の周囲に目立ちはじめた。流れてきた葦や枝なんかが集まってできているらしい。浮島の間には水中からニョキリニョキリと樹木が突きだしている。まるで森の中を船で進むような不思議な光景だ。もっと乾期が進めば、この辺りも完全に干上がってジャングルになってしまうのかもしれない。水中に目をやると、いくつもの魚影が水に没した樹々の間を自在に泳ぎ回っている。
「こういうところなら、ワニがたくさんいるんじゃないかな」ソフィーとポールがにわかに活き活きとし始めて、水面をのぞき込んだ。
「いる。いるとも」ジャンさんがいたずらっぽくうなずいた。「ウジャウジャ現れて、いきなり船に襲いかかってくるかもね」
 ジャッキーとマイが反射的に身を縮め、冗談じゃないって表情を浮かべた。わたしは、時計ワニを怖がるフック船長を思い浮かべて笑ってしまった。
「もう、ジャン。大げさなこと言って、みんなを怖がらせないでよ」シェリーさんが文句を言った。
「はっはっは、ごめんごめん」ジャンさんは頭を搔いた。「襲いかかってくるというのは、確かに大げさだけど、ここいらにワニがいるっていうのは本当だよ。この辺りの船にはみんな、舳先に目玉のような模様が描かれているだろう。あれはワニ避けだって言われているんだ。船そのものを大きな生き物のように見せかけるのかもしれないな」
「あんな模様ぐらいで、ワニが驚くものなの?」ジャッキーが聞いた。
「さぁ、どうだろうな。半分、迷信かまじないみたいなものかもしれないね」とジャンさんは言った。「でも実のところ、そう簡単に大物のワニにお目にかかれるものでもないんだ。以前、この湖で行われたワニ狩りに加わったことがあるけれど、いざ捕まえようと思っても、なかなか見つけることができなかったしね」
 すると、早速ソルニエさんがその話題に食いついてきた。
「ははぁ、ワニ狩りの話ですか。それはどんなふうにやるものなのですか」
「鶏や、豚の肉の塊をロープの先に付け、船尾から水中に放り込み、ワニをおびきよせるのです」
「それでもワニはなかなか現れませんか」
「はい、ワニっていうやつは、ああ見えて、けっこう繊細な動物なんです。人間の意図を簡単に見抜くんです。ワニの代わりにオオナマズが寄ってきたこともありますね」
「オオナマズ!」ポールが声を上げた。「この湖には、そんなのもいるの?」
「ああ、ニメートル以上のヤツを見たこともあるよ」
「そんなに大きいの」ポールは目を丸くした。
「オオナマズも大きいけれど、ワニの大物はもっと大きい。三メートルを優に超えるのを見たこともあるな。さすがに間近で見ると怖いものさ。そういうのを捕まえるのは少々骨が折れる。大暴れされるとどうしようもない」
「それを銃でズドーンと?」ソルニエさんが聞いた。
「そうですね。大物の場合は力も強いので、銃を使わざるをえない。しかし獲物を逃さないためには、銃よりも銛のほうが効果的でしょうね。ただし、あとで剥製にしたり、革製品に加工するならば、できるだけ傷が少ないものが貴ばれますがね。現地人の漁師は小さなワニならば、手づかみで生け捕りにしちゃいますよ」
 そう言って、ジャンさんは手でヒョイと小ワニをつかむようなしぐさをした。
「ほほう、手づかみで。小さいといっても噛まれたら相当な怪我をするでしょうな」
「そりゃあ、えらい怪我でしょうね。でも彼らは食料として捕らえる技術を持っているんです」
「え、ワニなんて食べちゃうの?」ソフィーが信じられないって表情を浮かべた。
「もちろん、ワニだって貴重な食べ物さ。肉は鶏に似た味がするらしいけれど。でも現地人たちは必要以上には殺さないよ」
「ところで」ソルニエさんが言った。「これから向かうアンコールの遺跡にも守り神の大ワニがいるという噂を聞いたことがありますが」
「ええ、ピエールさん――フォンテーヌ商会の前の経営者ですが、彼もその伝説の大ワニを狙ってました。私自身は、伝説のワニのハンティングには同行しなかったのですが、行った者によると惜しいところまで追いつめたんだそうです。しかも、五メートルを超えんばかりの巨大さだったとか」
「ほう」ソルニエさんは目を輝かせた。「では本当にいるんですな、伝説の大ワニは」
「しかし、正直なところハンターという者は大げさに言うものです。特に逃した獲物は大きく見える。私は話半分に聞いているんですがね」ジャンさんは、そう言って笑った。

         七    シェムリアップ

 シェムリアップ付近の港には、まだ日が高いうちに到着した。
 港といっても仮設の船着場という程度のものだった。トンレサップ湖は雨季と乾季で湖の大きさや深さがずいぶんと変わるので、湖岸の場所も一定ではないらしい。岸辺の移動に合わせて船着場も行ったり来たり移設を繰り返すのだ。もちろん、船は直接接岸できないので、少し離れた沖合いからボートに乗り移って上陸することになる。
 船着場の周りには、水上家屋がびっしりとひしめいており、ちょっとした町のような様相を呈している。もちろん、これらの家々も湖岸の変遷に伴って移動を繰り返すそうだ。
 船着場の先には葦原が続いていた。木製の長い桟橋がその中にまっすぐ延びている。雨季には、その辺りも水底に沈んでしまうそうだ。葦原の向こうには高い木々がひしめく密林が見える。
 強行軍のため、少し疲れてはいたけれど、濃緑の森を目にしたとたん、気分が昂ぶってくるのを抑えきれなくなった。野鳥たちのさえずりが幾重にも聞こえてくる。まるで人跡未踏の地に踏み入れる探検隊の気分だ。
 桟橋を渡りきると象が数頭待っていた。ここから町までは彼らの背に揺られての移動となるらしい。地面を見ると、ひどいぬかるみだった。これでは自動車も馬車も、車輪をとられてうまく動けなくなるに違いない。「こんな不安定な場所でも、象ならばヒョイヒョイと簡単に歩いてゆけるんだ」とお父さんが言った。地面に邪魔なものがあっても自分の鼻でどけて進んでゆくそうだ。体は大きいけれど、なかなか器用でかしこい動物だ。
 象には高い櫓に上ってから乗り込んだ。象の背には二人が並んで座れる横長のベンチが取り付けられていた。わたしはお父さんと先頭の象に乗った。乗り込むときは、ちょっとばかり緊張したけれど、象はとてもおとなしく従順な様子。巨大な動物の落ち着きがこちらにも伝わってきて、わたしの心にも安心感がひろがっていった。
 ベンチの前には丸く短いでっぱり棒のようなものが付きだしており、それを握りながら、バランスを取るようになっている。
「ほう、なかなか見晴らしがいいもんだな」お父さんも楽しげな声でつぶやいている。
 首根っこをまたいで座っている象使いが声をかけると象はゆっくり歩き始めた。「へぇーっ、象って言葉がわかるんだね」とわたしは言った。
 お父さんはインドシナの各地で働いている象を何度も見ているそうだが、背中に乗るのは初めてなのだそうだ。
「インドあたりの密林には凶暴なベンガル虎がわんさかいるんだが、象に乗っていると、さしもの虎も襲ってはこないらしい。密林では一番安全な乗り物なんだよ」とお父さんは言った。
「カンボジアには虎はいないの?」
「いないことはないが、最近では数が減って稀にしか見られなくなってきているそうだ」
 わたしは、後続の象たちを振り返ってみた。すぐ後ろの象にはお母さんとソフィーが乗っている。ソフィーは象の皺くちゃな皮膚をなでてみたり、チョビチョビっと生えてる毛をつまんだりしている。わたしも真似して毛をつまんでみた。それは針金のように固い毛だった。
 ソフィーたちの後ろにはジャッキーと彼女のお母さんを乗せた象が続く。ジャッキーは青い顔をして、縮こまって座っていた。顔には緊張の色がありありと見える。そんな彼女の様子に、わたしは思わず笑ってしまう。すると、ジャッキーは笑われたことに敏感に気づいたらしい。顔を引きつらせながらも、こちらに向かってアッカンベーをした。
 大通りに建つホテルの前には、半時間ほどで到着した。
「ここが、シェムリアップ……」
 象から降りると同時に、お母さんがつぶやいた。この町に来たことのあるジャンさんとシェリーさん以外の全員の目には、それまで訪れたどんな町よりも、貧しく裏ぶれた町と映ったに違いない。表通りこそ洋館がいくつか並んでいるけれど、一歩、路地裏に入ると、掘っ建て小屋同然の家ばかりがぬかるみ道の両側に連なっている。それらの屋根は曲がった木材で支えられ、椰子の葉のようなもので葺かれていた。街路には無数の野良犬が歩き回り、真っ黒な鶏たちも勝手気ままに走り回っていた。そして裸同然の子供たちが遊んでいた。
 そんなみずぼらしい街並みに対し、わたしたちが宿泊するホテルは別世界のような豪華さだった。まるでインドの王侯か貴族の別荘のような趣とでも言ったらいいのだろうか。周囲の住民の目には天上の宮殿が降り立ったように映っていたのではないかと思う。
 こんな辺境の地のホテルなのに、ロビーやラウンジは思いのほか多くの宿泊客でにぎわっていた。ほとんどが欧米人。まれにインドの上流階級らしき人や、中国人だか日本人のような顔も混じっている。密林に隠された遺跡の評判は、近年、ますます高まってきているそうだし、長い戦争が休戦となってから初めての乾季を迎えて、国外からの旅人が待ちかねたように集まっているのかもしれない。 
 大人たちがチェックインしている間、わたしたちはロビーで待っていた。わたしとジャッキーはソファでじっとしていられなくて、柱や壁に飾ってある美術品を眺めて回った。それらの中でも吹き抜けの大階段の踊り場に飾られている黒檀の像が二人の目をひいた。
 それは身をよじるように、腰や首をくねらせた人物で男とも女ともつかない顔をしていた。表情は笑っているようでもあり、威嚇しているようでもある。よく見れば両脇から何本もの腕が、それぞれ勝手な方向に突き出されている。
「何なのこれ? 変わった像ね」
 ジャッキーは興味深げに木像に触れた。
「それはだね、シヴァ神っていうんだ」
 チェックインを終えたジャンさんが、わたしたちに歩み寄りながら言った。
「シヴァ神?」
「そう、ヒンドゥーの神の一人さ。破壊を司る神様だ。ほかにもヴィシュヌ神やブラフマー神なんかがよく知られているな」
 ジャンさんはそう言いながら、ロビーを見回し、ある柱の前に置かれた石像を指さした。「ほら、あれがブラフマー神だ」
 わたしたちは、その石像の前へ移った。
「へぇー、これが神様……」
 四つの顔に四つの腕。どう見ても怪物にしか見えない。ジャッキーも同様の感想を抱いたらしい。
「イエス様やマリア様の像は、見るからに優しげで慈悲深い姿に造られるのに、どうしてアジアの神様はこんな怖い姿をしているの」
「イエスやマリアは、どんな人の心にもそっと寄り添ってくれるよね。でも、アジアの神は、個人の心や感情なんかは、まるで超越してしまった存在なんだ。恵みをもたらしてくれることもあれば、場合によっては理不尽とも思える刃を人びとに向けることもある」とジャンさんは言った。「だから、こういう姿で表現されているんじゃないかな。ただアジアだけでなく、ヨーロッパでも古い神話や伝説の神様は、そんな感じだけどね」
「神さまなのに人に刃を向けるの?」
 ジャッキーはわけが納得がいかないって表情で頭を振った。
「でも……、それって、そこに暮らす人々の自然観でもあるのよね」とわたしは言った。
 ジャンさんはわたしの顔をのぞき込んだ。
「こりゃあ、驚いたな。どうして、そんなこと知ってるんだい?」
 わたしは微笑みながら答えた。「決まってるじゃない。あなたのお父さん――アンリさんの弟子なのよ、わたしは」

 翌日は、午前のあいだ、ゆっくりとホテルで過ごし、昼食を食べてから遺跡めぐりへと出かけた。わたしたちは三台の車に分乗した。車を引くのは牛だった。頭頂部で大きく湾曲した角がミノタウロスのように大きな黒い牛。水牛なんだそうだ。わたしは二台目に、ジャッキー、お父さん、ジャンさんとともに乗った。
 牛車は町の北側を包み込んでいる密林地帯を目指してゆっくりと進んだ。森が所どころ開墾されて、水田が広がっている。十二月初旬はカンボジアでは収穫を間近に控えた時期らしく、稲穂が大きく実り黄金色に輝いていた。小さな赤トンボもたくさん飛んでいる。
「この町がどうしてシェムリアップっていうのか知っているかい?」
 向かいの席に座るジャンさんが話しかけてきた。わたしもジャッキーも、いいえ、と答えた。
「シェムっていうのは隣のシャム王国のことだよ。リアップは追い払うって意味。つまりシャムを追い払った場所って意味らしいよ」
「どうして、そんな名前が付けられたのかしら」
「ここはシャムとの国境にも近く、古くからクメール人とシャム人との間で奪い合われた土地なんだ。かつて、この地にはクメール人のアンコール王朝が長い間栄えていたけれど、豊かな国というものは往々にして周囲の国々の標的になるものさ。南ベトナムにあったチャンパという国や、モンゴルもここへ攻め込んできたけれど、その度に押し返していた。でも、アユタヤのシャム軍が攻めこんできたとき、ついに耐え切れなくなったクメール人は都を捨て、トンレサップ湖の下流域に移っていったんだ。その後、力を盛り返したクメール人は、この地を再びシャムから奪い返した。その時についたのがシェムリアップって地名さ」
「お前は、その手の知識が豊富だな」お父さんがあきれたようにジャンさんに言った。
「私は歴史とか遺跡探検みたいなことが大好きですからね。歴史学者になりたかったぐらいです」
 ジャンさんは真面目くさって答えたが、続けて話題を変えた。
「どうやらソルニエさんは、この辺りの土地を買われるつもりのようですね」
「うん、これだけ勢いよく密林が繁る土地ならば、ゴム園にも転用可能なんだろうね。湿度や風通し、日照時間の調整に気を使わなくちゃいけないコーヒー農園よりも場所を選ばないんじゃないかな」
「確かに、トンレサップ湖からプノンペンまでは汽船で一日足らずの行程です。その先は広いメコンを下って、カントーなど南シナ海沿いの港湾都市まで短時間で輸送が可能とくれば、内陸といえども、それほど不便ではないという印象ですね」
 わたしはジャッキーにこそっと聞いた。「この辺りをゴム園に変える計画があるの?」
 ジャッキーは首をすくめた。
「全然、知らない。お父さんの仕事のことはまるっきりわからないの」
 猿の群れが戯れている森を抜けると、行く手に広くて深そうな池があらわれた。ほとんど動きのない緑色の水面を睡蓮やホテイアオイがびっしりと覆っているので、ちょっと見ただけでは、水があるとは気づかない。おまけに岸辺の緑と水草の境目がわかりにくいため、草地がずっと続いているような印象さえ受ける。
 わたしたちを乗せた牛車は、岸の手前で左に折れ、水辺の道を進んだ。
「ずいぶん大きな池ね」
 わたしが言うと、ジャンさんが「とんでもない」と言った。「これは遺跡を取り囲む堀だよ」
「この大きな池が堀なの?」
「そう。一辺がおよそ一・五キロもある、ほぼ正方形の掘割だよ」
「そんなものが、こんな森の奥深くにあるんだ」ジャッキーが驚いたように言った。
「堀の幅は二百メートルもあるそうだよ。泳いで渡るのも一苦労だ」
「こんな、水草だらけの濁った堀の中を泳ごうなんて気に、とてもなれないわ。水中に何がいるかわかったものでもないし」とジャッキーが眉をひそめた
「守り神の大ワニや大蛇にガブリかい?」お父さんがおどけて言うと、ジャンさんが大笑いをした。「大丈夫。遺跡の西側までへ行けば、堀に架かる石の参道があるから」
 道はやがて堀の端で右へ直角に折れた。堀もそちらに向かって、延々と伸びている。
「ほうら」
 ジャンさんは堀の向こう岸の密林の中を指さした。「見えてきただろう。あれがこの辺りの遺跡群の中でも最も美しいアンコール・ワットだ。地元民にはアンコール・トーチと呼ばれる寺院だよ」

 アンコール・ワットは規模があまりにも大きく、じっくりと見て回るうちに午後いっぱいを費やしてしまった。
 広大な境内の中央に伸びる参道の両側には大蛇の姿を模した欄干があった。これはナーガという神様なんだそうだ。七つの頭と尾をもつ神蛇で、クメールの人びとは川の流れそのものを、このナーガに見立てていたらしい。
 寺院の壁面には「ラーマーヤナ」や「マハーバーラタ」の物語を表現したレリーフが細かく彫りつけられ、いつまでも見飽きないほどだった。ジャンさんが、それら南アジアの二大叙事詩について説明してくれた。彼がうろ覚えの部分は、シェリーさんがすかさずフォローする。この二人は、本当にいいコンビだ。
 とりわけおもしろかったのは「ラーマーヤナ」の主人公ラーマ王子を助けるために戦ってくれたのが、ハヌマーン率いるお猿の軍団だったというところ。レリーフにも躍動するお猿さんたちの姿が描かれていた。
 「マハーバーラタ」に登場する「インドラの雷」と言われる凄まじい火の話は、聞くだけでも恐ろしいと思った。その神の火は敵の兵士や都市を一撃で焼き払ってしまうのだ。そんな武器が、現実に無くてよかったと思った。もしあったら、この間のヨーロッパの戦争はもっと大変なことになっていただろう。
 寺院の柱や梁を彩る女性像は、デバダーとかアプサラと呼ばれる天女なんだそうだ。とても美しい姿――ちょっぴり艶めかしい格好で舞い、空を駆けめぐる女人たちだった。
 崩れたまま山積みとなった石材も至るところ目につく。
「ずいぶん、壊れてしまっているのね」とお母さんが言った。
「おそらくシャム軍がおこなった破壊の跡でしょうね」ジャンさんは言った。「もっとも、自然の風化でも遺跡は崩れますし、木々の成長に伴う崩壊もありますが」
 彼の言うとおり、乱雑に放置された石材の隙間に太い根を下ろす樹木がいくつもあった。岩々の上には苔が生え、トカゲがその上を這っている。「それでも、アンコール・ワットは、まだ修復が進んでいるほうなんです。周辺の密林の中にはまだまだ手つかずで、崩壊したままの遺跡が数多く残っているんですよ」
 寺院中央部には尖塔がいくつも建っていた。
「これらはヒマラヤのような高い山脈を表現しているんです」とジャンさんは説明した。東洋では険しい山々のどこかに須弥山という神々の住む霊峰があると信じられているそうだ。
 尖塔群の根本をぐるりと取り巻く第三回廊が、人が登ることのできる最頂部だった。ただし、そこまで上がるには、恐ろしいほどの急勾配の石段を這いつくばるようにして登らねばならなかった。
 実際、登るのは骨が折れるらしく、石段の中途あたりでアメリカ人とおぼしき太ったおじさんが「ワーオ」って悲痛な叫びを上げながら、進退きわまっていた。仕方なく、遺跡を管理している地元の人びとがやってきて、長い梯子をかけてハンプティ・ダンプティのようなおじさんを救出した。
 その大騒動を目の当たりにしてジャッキーが首を左右にブルンブルンと振った。「無理。私は登るのをあきらめたわ」
 一行の中で、果敢にも最後の石段に挑みはじめたのは、お父さん、スタンレーさん、ジャンさんの三人だけだった。わたしは少し躊躇したけれど、やはり、ここまで来て登らずに帰るのはもったいないと思った。意を決して「わたしも行く」と名乗りを上げた。すると、いつもは引っ込み思案なマイが「では、わたしも行きます」と応じてくれた。ポールもついてこようとしたが、彼のお母さんが引き留めていた。
 わたしは転げ落ちないように慎重に登りはじめた。一段ごとのステップの幅がとても狭いので、小さな足のわたしでも体を横向きして石段に取り付かなくては体重を支えきれない。ましてや、もっと足の大きな大人の男性の苦労は大変なものだった。荒い息を吐き、汗を噴き出させながら慎重に登っている。中途挫折したハンプティ・ダンプティさんの二の舞にならないようにみんな必死だ。
 ふと下を見下ろすと、思いのほかの高さに足がすくみそうになる。ジャッキーたちも落ち着かない顔つきでこちらを見上げている。彼女たちの表情を見ると、こちらにまで不安な気持ちが移ってきて、頭がクラクラしそうになった。
 どういうつもりで、昔のクメール人は、わざわざこんな登りにくい石段を作ったの? わたしは心の中で罵った。登りやすくしたのでは須弥山に近づく有難みが薄れるとでも思ったの?
 ところが、苦心惨憺石段にしがみつくように登るわたしたちの脇を、小柄なマイはスルスルっと駆け上がるように登ってゆくのだ。えっ、マイってこんなに身軽だったっけ。わたしは驚いて、彼女の軽やかな足取りの行方を見守った。
 マイは楽々と最上部まで登りきり、石段の上から、わたしを見下ろした。
 負けてられないと思った。わたしも勇気をふるって、上だけを見てリズムよくタッタッタと登り始めた。なるほど、こういうふうに少々大胆になるほうが、この石段は登りやすいんだ。
 マイは上で待っていて、手を差し出してくれた。
「さぁ、どうぞ、エマさん」
「ありがとう」
 マイに支えられるようにして、わたしは最後まで登りきった。
「すごい石段だったわね。途中であきらめそうになったもん」
「その代わり、この眺め素敵だと思いませんか」
 マイが指さす方には、遺跡を取り囲む樹林の深い緑が見えた。平らかな野に、陽光に輝き揺れる青葉の海が彼方まで幾重にも続いている。そのところどころに、いくつかの小高い丘が横たわっている。西には中央参道がまっすぐ伸びているのが見えた。南方面へ目を移すと、密林のはるか先にトンレサップの湖面がキラキラと輝いていた。
「ねぇ、ここに立ってると、なんだか世界の中心にいるって感じがしない?」
「ええ、わたしもそう思いました」
「この光景、下で待ってる人たちは見られないのね」
「得しちゃいましたね」
「ほんと、得した!」
 わたしとマイは笑いあった。森を吹き抜けてくる風が心持ち冷ややかで快適だった。
 もっとも、この直後に、わたしは再び後悔しなくちゃならなかったのだけど。下りの急勾配は、恐怖倍増だったのだ。

         八    再会

 夜は軽い疲労が心地よかった。
 ディナーでは現地ふうの料理も出されたが、どれもあっさりした味付けで、思いのほか食べやすかった。
 ソフィーとポールはさっさと食事を済ませてしまい、中庭のかがり火に集まる虫たちを見つめていた。彼女らは、しばらくすると興奮した表情で、テーブルへと駆け戻ってきた。どうやら、後ろ足二本で立ち上がって地を駆けるトカゲがいたらしい。お父さんは、うなずきながら、ソフィーの報告を聞き、笑って答えた。 「そりゃあ、ここは熱帯雨林なんだ。わけのわからん生物の一つや二ついるだろうさ」
 スタンレーさんは、遺跡見物をした昼間の高揚感を持ち帰ってきたようで、ジャンさんを相手に考古学談義に花を咲かせている。
「伽藍では二種類の建材が使われていましたね」
「よくお気づきでしたね。レリーフなど装飾部分で使っているグレーの岩は砂岩です。やわらかくて加工しやすい反面、保存に苦労する石材ですね。もう一つの赤い石。あれは非常に硬くて丈夫なんですが、細工には適していません。鉄分を多く含むラテライトっていう石です」
「もろい砂岩の彫刻が、あんないい状態に保存されているっていうのは奇跡ですね」
「よほど質の良い石ばかりを集めたのでしょう。他の遺跡では、アンコール・ワットほど良い砂岩が確保できなかったのか、風化が進んでしまったものがたくさんあります」
「どういう具合に、あの石材は積まれているんだろう」とスタンレーさんが言った。「内部にしっかり石材を組み合わせるような構造があるのでしょうか?」
「いや、単純に積み木細工のように積んでいるだけだと聞いています。地震が全くと言ってよいほど無い国なので、それだけで問題がないんだとか」
「ほう、積み木のように」
 お父さんが横合いから口をはさんだ。「あの寺は、いつごろの建造なんだい?」
「アンコール・ワットは、おそらく十二世紀ごろだろうと言われています。ヨーロッパでは、まだ中世――十字軍なんかが盛んだった頃ですね。他の遺跡もだいたい十世紀から十三世紀ごろのようですね」
「十二世紀っていうと、西洋でもルネッサンスやゴシック様式の大建築が建てられる前の時代ですね」スタンレーさんがうなった。
「それにしても、ジャンさんは博識ですね」ソルニエさんが言った。「驚きました。私も古代エジプトやメソポタミアについては少々自信があるのですが、ここいらのアジアの歴史についてはさっぱりです。それに奥様の知識もすごいし」
「いろいろ教えてもらって助かりますわ。予備知識があるのと、ないのとでは、見物をしていても見え方が変わってきますから」とソルニエ夫人も言った。
「わが商会にも考古学部門があれば、ジャンの知識も少しは役立つのだけれどなぁ」とお父さんが苦笑いした。「あいにくうちはコーヒーの専門業者だからな。あまり関係ないから困ったもんだよ」

 夕食後、わたしはジャッキーとマイと連れ立って、ホテルの中庭をそぞろ歩きした。
 この庭に並べられたかがり火は、とても美しい。ゆらゆら揺らめく炎は、近づくと熱いけれど、なぜか目には涼しい。そして闇を一様な暗さではなく、陰影を含んだ豊かな暗さに変化させる。
 かがり火に引き寄せられていたのは、わたしたちだけではない。大きなヤモリも炎に照らされた岩の上で虚空を見上げ、じっとしている。灯に群がる虫たちを狙っているのだろう。ソフィーたちが目撃したという二本足で走るトカゲもいないかと思ったが、どこにもそれらしき生き物は見当たらなかった。
 ブーゲンビリアの枝が揺れる遊歩道を歩きながらジャッキーがマイに言った。
「あなたのマイって名前、とても素敵ね。かわいらしい響きだわ」
 わたしは、ベトナムの現地語で梅の花という意味なのよ、と教えた。
「いいわね、花の名前をつけてもらえるなんて」とジャッキーは言った。
 マイは照れたようにうなずいた。「でも、ジャクリーヌっていうお名前も素敵ですよ」
「そうでしょう」ジャッキーは笑った。「パリに住むおじいさまが付けてくれたのよ。わたしも自分の名前が大好きなの」
 ジャッキーは、今度はわたしにたずねてきた。
「あなたはなぜエマって名前になったの?」
「うーん」わたしはうなった。「実はわたしにもよくわからないの。知らない女の人が名づけてくれたらしいんだけれど」
「知らない女の人が? どういうことなの」
「以前、お母さんにも聞いたことがあるんだけどね……」
 お母さんによると、わたしがお腹にいるときにパリのサロンで開かれた小さな音楽会に行ったんだそうだ。ドイツから来た高名なヴァイオリニストが演奏者だった。そこでたまたま、席が隣り合わせになったのが、ヴァイオリニストの奥さんだった。奥さんといってもまだまだ若くて、物腰がやわらかく、人好きのする素敵な女性だったらしい。
 彼女は、お母さんのお腹が大きいのに気づき、いろいろと話しかけてきたそうだ。どうやら彼女にも小さな男の子が一人いるようで、子育てのことなど話が盛り上がった。やがてサロンが終わり、その奥さんが別れ際に、お母さんのお腹をそっとなでて、「あなた、エマちゃんね」とつぶやいたのだそうだ。
 ジャッキーが眉をひそめ、よくわからないって表情を浮かべた。「いったい何だって、その人は、エマちゃんって言ったのかしら?」
「お母さんも、どうしてって思って、その奥さんに聞き返したらしい。でも、奥さん自身にも理由はわからなかったそうなの。ただ、なんとなくエマちゃんって言葉が頭に浮かんできた、ってね。変な話よね、まだ性別さえわからないのに。でも、お母さんったら、よくよく考えてみればエマって素敵な名前だなって思い直したんだって。よし、女の子が産まれたらエマにしようって。それで、わたしはエマって名付けられたってわけ。ね、よくわからない話でしょう」
「んんー、たしかに」ジャッキーは力強くうなずいた。
「でも、わたしはエマって名前、すごく気に入っているから、それでもいいかって思ってるの。お母さんが素敵だって思った女性が言ってくれた名前だなんて、なかなかいいと思わない?」とわたしは言った。
 ピアノの音色が、どこからか聞こえてきた。中庭の先にあるバーから聞こえてくるのだろう。客たちがおしゃべりする声も、幾重にも重なって、かがり火の揺れる闇の中にこだましていた。
 そのうちに演奏される曲が変わった。
「この曲って……」
 耳を澄ましていたジャッキーがつぶやいた。
 わたしはうなずいた。「パピヨンよね」

 大人ばかりがお酒を飲んでいるバーに入るのには躊躇いもあったが、勇気を出して入った。まだ子供っぽいわたしたちが入ってきたのに気づき、珍しそうに見つめる客もいた。
 若いボーイが歩み寄ってくる。「何かご用事ですか?」
「ええ」
「ご家族か誰かお探しですか」
「いや、ちょっとピアノのほうに」
「へっ、ピアノ?」
 戸惑っているボーイを後目にわたしたちはバーの奥から響く音色の元へと向かった。
 反響板を開けたグランド・ピアノの向こうに、大きな人影が見えた。その人物は、とても繊細なタッチで鍵盤に指を滑らせていた。その指先から生まれ出る美しい音楽に対し、弾いている人物の表情は実に愛想のない仏頂面、まるでチューインガムを踏んづけちゃったような不機嫌そうな顔、他人を寄せ付けない悪質な迫力を持っていた。
「ロイ……」
 思わず声をかけようとしたわたしをジャッキーが押しとどめた。彼女は、黙ったまま涙を流していた。静かにロイが奏でる「パピヨン」に耳を傾けていた。
 やがて、音楽は冒頭の主題を繰り返しながら、空高く舞い上がるように消えていった。
 弾き終えたロイは、しばし目を閉じたままだったが、ようやく目を開けるとわたしたちのほうを見た。「よう、久しぶりだな」

 ロイは、バーでの持ち時間が終わると、ラウンジへと出てきてくれた。
「元気そうだな」
 わたしは、たまらない気分になって彼の手をギュッと握った。「やっぱり無事だったのね。驚いたわ、こんなところで出会えて」 
「わたしたち、沈んだビクトル号に乗ってたんじゃないかと思って、心配していたのよ」
 ジャッキーも興奮気味に言った。
「いやあ、沈没のときもビクトル号に乗ってはいたんだがな」
 ロイはボソリと言った。
「えっ、乗っていたって?」わたしとジャッキーは顔を見合わせた。「じゃあ、救命ボートに乗れたの?」
「いや、救命ボートには漕ぎ手のクルー以外は乗客を優先で乗せるんだ。しかも子供や女性を先にな」
「子供や女性? でも、救命ボートで助かったっておじさんを知っているけど。あの人はズルしたってこと?」
「確かに沈没間際の船上は修羅場だ。中には列を押し分けて、無理に乗り込む男もいる。しかし、命の瀬戸際での行動だ。それを責めてやるべきではないな」
「じゃあ、どうしてロイは助かったの?」
「浮かんでた」
「浮かんでた? 海に?」
「ああ、ずっとな」
 ロイによれば、魚雷が命中する音っていうのは、雷が百発同時に鳴ってもかないっこないような大音響だったらしい。
「とりわけ、オレの部屋は船底の船倉近くにあったもんから、衝撃と反響音がすさまじかった。脳天が割れるかってほど痛んで、クラクラしたくらいさ」
 ロイは話しながら、その大音響を思い出したのか、不愛想な顔をさらに渋く歪めた。
 その後、彼は非番のクルーたちとともに階段を駆け上がり、デッキへ飛び出したらしい。乗客たちが出揃ってなかったので、今度は各客室の点検と避難誘導をおこなったそうだ。
「へぇ、ロイでもちゃんと、そういうことをするのね」
 ジャッキーが意外そうに言うと、「当たり前だ。オレだって乗組員の端くれだぜ」とロイは言った。
「ティアタは? 彼も乗っていたの?」とわたしは聞いた。
「ティアタ……、ああ、あの白い歯のクルーか」ロイはうなずいた。「ああ、もちろん、ヤツも乗り組んでいたよ」
「やっぱり」とジャッキーがつぶやいた。
 次は乗客に救命胴衣を着せ、順番に救命ボートに乗せる作業だった。潜水艦が、直にもう一発魚雷を放つという根も葉もない噂がデッキに広がり、殺気立った乗客たちで無秩序になりつつあったが、ネモ船長がメガホンで、冷静な行動を呼びかけ続けていたそうだ。
 いくつか救命ボートを下ろした時点で船体が右舷側方面に大きく傾いた。デッキにいた者は、滑り台を転げ落ちるように、船腹から次々と海に落下した。ネモ船長は手すりにしがみつきながら、海に落ちたとしても、近くに浮いているものにしがみついて、あきらめずに何とか耐えてほしいと訴えていた。そのうちに救助がくるはずだと。
 しかし、船の傾きはどんどんとひどくなっていった。そして、ついにはデッキがほぼ直立した壁のような状態になり、残っていた乗客、乗員はみんな海に投げ出されてしまった。ロイは乗客に胴衣を着せることに夢中で、自分自身はまだ着ていなかったそうだ。
「海に落ちたときは、オレも死を覚悟した。上から見ると穏やかそうな海だが、実際にはかなりの海流があったから、すぐにみんなバラバラに流されてしまった。このまま水底に沈み、どこへとも知れない世界へ行くのか、それともレヴィアタンのような怪物の餌食になるのかと思うと、さすがに心細くなっちまったな」
 ところが、いつまで経ってもロイの体は沈まなかったらしい。
「ちょっとばかし贅肉を蓄えていても悪い話ばかりじゃないんだ、って思ったよ」とロイは笑った。
 しばらくして、大きな板っきれが浮いているのを見つけたロイはその上に這い上がり、海面を漂った。
「あの板っきれはおそらく大広間のステージに使っていたものだ。いつも踏んづけていた板だったけれど、そいつがオレを助けてくれたのさ」
 ロイは、周辺に浮かんでいる三人の乗客を、その板っきれに救い上げたそうだ。
 やがて日が落ち、夜が訪れた。とにかく眠ってはならないとロイは救った乗客たちを励ました。
「海に漂っている時って、どんなことを考えるものなの?」とわたしは聞いた。
「意外とつまらんことだな。子供の頃に、犬小屋に小便かけて叱られたことや、巨大なナメクジに小便ひっかけて、チンチンの先っぽが腫れたことや……」
「何それ」ジャッキーがあきれ声を出した。「おしっこのことばかりじゃない」
「そうなんだ。命の危険にさらされているところなのにな。実際、考えることといえば、そんなくだらんことばかりだった」
 そう言って、ロイ・キングは哲学者のような重々しい表情でうなずいた。
 ロイたちは、そのまま一晩海上を漂い続け、翌朝、英国の駆逐艦に救助されたそうだ。
「波間にユニオンジャックが旗めいているのを見ても、不思議と感慨はわき起こってこなかったな。助かったっていう実感がわいたのは、その何時間も後だ。しかも、生き延びたっていうより、生かされたという意識のほうが強かった。あのジョン・ニュートンって野郎が生き方を変えたっていうのも、この感覚だったんだなってわかったよ」
「ジョン・ニュートンって、あの『アメイジング・グレイス』の?」とわたしは聞いた。
「そうさ、奴隷商人あがりのゲスな牧師さ。でもあの時、オレは初めてジョン・ニュートンの罪を許せる気になった。ヤツの気持ちには偽りや虚飾はないだろうと、実感としてわかったんだ。ヤツもオレと同じように生かされた男だったのさ」 
「ロイたち以外に助かった人は?」
 ロイは手を広げ、首を左右に振った。
「誰が助かり、誰が助からなかったなんて、全然わからなかったな。戦時中でもあり、まるで情報がなかったんだ。被害の当事者であるオレにすら、何にも教えてくれなかった。そしてオレは、一度アメリカへ戻った。しかし、自分が生かされている意味はアメリカじゃあ見つけられないとも感じた。だからオレは再び旅立ったんだ」
「どこへ?」とわたしは聞いた。
「太平洋を越えて日本へ行った」
「なんで、また日本だったの」
「そこしか向かう先が無かったというのが正しいかな。ヨーロッパはまだ戦争の真っ最中だったし」
「日本で何をしていたの」
「そこでオレは禅というものに出会ったんだ」
「禅?」
「ああ、仏の道の一つさ。とことんまで自己を追求するために日々修行を続ける教えさ」
「具体的にはどんな教えなの」
「本当に大切なことは言葉では言いあらわせないし、伝えることもできないんだ。不立文字っていうらしい。その大切なことっていうのは自分で見つけだし悟るしかないのさ」
「うぅー」ジャッキーがうなった。「なんだか、よくわからない」
「ああ、わからなくて当然さ。何を隠そう、かく言うオレだってよくわかってないんだから。とにかく、オレは修行するため鎌倉って町のとある禅寺に入門した。ところが……」
「ところが?」
「身体を壊した。食い物がひでぇんだ。日々のメニューに肉類が何も無い。薄味で煮た野菜とか豆とか、そんな食いもんしか出てこないんだ。あれでは力がつかないぜ」
「日本ってとても貧しい国なのね」とジャッキーが言った。
「いや、貧しいから肉類が手に入らないってわけじゃないんだ。そんなものしか食べないのも修行のうちなのさ。肉は寺に持ち込んではならないんだ」とロイは笑った。「肉だけじゃないぜ。酒も駄目だし、ニンニク類も駄目だ。おまけにこんなに体がデカいオレにも、小さな日本人の坊主と同じ量の食事しか与えてくれないんだ」
「じゃあ、ロイは栄養失調で体を壊したの」
「食いものだけが理由じゃない。何せ、とにかく寒いんだ、冬の日本の寺ってのは。夏はまるで熱帯パラダイスのように蒸し暑いくせにな。床は足の裏がジンジン痛むくらいに冷たいし、堂内の空気もキンと冷えるにまかせた状態だ。実際、あの寒さは異常だったぜ。夜の地中海で漂っているほうが、まだ健康的だと思えたくらいさ。すきっ腹の上に寒さのダブルパンチで、たちまち高熱を出してぶっ倒れちまった。肺炎さ」
「大変じゃない」
「病院で療養をして寺に戻ると、僧たちにお前の身体は日本向きではないと諭された。冬でも温暖な南方へ行けば、そこでも同様の修行の場はいくらでもあるはずだと」
「それって……」
「うん、そうだ。体のいい厄介払いだろうな。でも、彼らなりにオレのことを心配してくれていたのはわかるんだ。だからオレは勧めに従って南方アジアへとやってきた。そしてたどり着いたのが、ここインドシナ奥地ってわけさ」
「で、ここで修行を続けているのね」と、わたしは言った。
 ロイは、んぐっ、とうなってから再び語りだした。
「まあ、なんというか……。苦労してやってきたインドシナだったが、ここには禅など影も形もなかったんだ。確かに仏教はあるんだが、オレが目指そうと思ったものとは、似て非なるものだった。そして、オレの目の前に現れたのが、このホテルの一台のピアノだったのさ」
「……ピアノ」
「そうさ、オレにはやはりピアノしかなかったんだ。ようやく、オレはそれに気づいた。自分自身で本当に大切なものを見つけたんだ。双六で言えば、フリダシに戻る、ってやつになるのかもしれないけれど」
「うん、ピアノを弾いているロイが一番素敵だと思うよ」と、わたしは言った。「ピアノを弾き続けるために生かされたのよ、きっと」
 わたしは、ロイとジャッキーに呼びかけた。「さあ、もう一度『アメイジング・グレイス』を歌いましょうよ」 
「ようし、久々にやるか。ちょうどそこにピアノもある」
 ロイは、そう言って、ラウンジの壁ぎわに置かれた古風で小さなアップライト・ピアノに腰掛けた。「あんたたち、歌詞は憶えているか?」
「もちろんよ」
 ロイの伴奏に合わせて、わたしとジャッキーは『アメイジング・グレイス』を歌った。最初、聴衆はマイ一人だけだったけれど、次第にピアノの周りに人が集まりはじめ、歌い終わった頃には、ラウンジ中で大きな拍手がわき起こったほどだった。
 ロイは、わたしとジャッキーに一言「ありがとう」とつぶやいた。

         九    ジャッキーの病

 翌日は、アンコール・ワットよりもさらに密林の奥にあるアンコール・トムへ行った。
 そこは寺院だけでなく王宮や市街も含めたスケールの大きな城塞都市の遺跡だった。アンコール・ワットよりも一層風化が進んだ外観なので、かなり古い遺跡だと思われてきたけれど、調査が進むにつれてアンコール・ワットより新しい時代のものとだする説が有力になっているそうだ。
 アンコール・トムで何よりも印象的だったのは、大きな顔がついた尖塔が幾つも建っている光景。四方の壁面にそれぞれ違う顔がついており、その異様さは際だっていた。ジャンさんによると、それらはブラフマン神の顔を表現したものらしい。いずれも分厚い唇を持ち、うっすらと微笑を浮かべた顔ばかりだった。
 南大門前の石橋の両サイド――欄干にあたる位置には、多くの神々の像が並んでいた。神々はみんな長い蛇の胴体を抱え持ち、まるで綱引き大会のように憤怒の形相で引っ張り合っている。石橋の西方に並ぶのは善なる神々。一方、東方で怖い顔をして並んでいるのはアスラ(阿修羅)という魔神なんだそうだ。アスラの方は、神の一員というよりむしろ悪魔のような恐ろしげな顔つきで表現されている。
「これは乳海攪拌といって、南アジアに伝わる天地創造神話を表現したものなんです」とジャンさんは説明した。
 神話によると、アムリタと呼ばれる不老不死の薬を得るために、神々とアスラが協力をして、大蛇を綱にして引っ張り合っこをはじめんだそうだ。
 お互いものすごい力で引っ張り合ったものだから、世の中のあらゆるものが、みるみる溶けだしてしまい、それが乳色の海となった。やがて乳海の中からは太陽や月、そして、今の世界を構成する動植物たちが現れたという。そして、引っ張り合いを始めて千年が経とうとする頃、ようやく乳色の波の中から一人の神様が現れ、みなが求めていた不老不死薬アムリタの入った壷を差し出してくれたんだそうだ。
 ところがアスラたち、千年もの長きにわたって手伝わされたにもかかわらず、アムリタをちっとも分けてもらえなかった。アスラからすれば、こんなひどい話もないわけで、彼らは当然怒った。そして、アムリタの壷をめぐって神々とアスラの長い長い戦いが始まったのだけれど、最後はヴィシュヌ神がアスラたちを焼き滅ぼしてしまったんだそうだ。最終的には悪は滅ぶということなんだろうけれど、このお話を聞く限りでは、ちょっとアスラたちが気の毒に思えないでもなかった。
 アンコール・トムのあとは、プノン・バケンという小高い丘の上に残る遺跡を巡った。ふもとからは象の背中に乗って、頂上まであがることができた。遺跡からは、この地方の広範囲の風景が見渡せた。南のほうには広大なトンレサップ湖が横たわっている。西方に目を移すと、こちらにも密林の中に湖が見える。
「あれは何だろう?」
 お父さんが聞くと、シェリーさんが「西バライっていう灌漑用の溜め池です」と教えてくれた。「南北二キロ、東西は八キロもある大規模なものです。あれもアンコール王朝時代に造られたもので、今でも現役で使われているんですよ」
「まさか、あれが人の手で造られた池だとはな……」あまりの壮大さに、お父さんは呆れかえっていた。「西バライってことは、東バライもあるのかい?」
「ええ」とシェリーさんはうなずいた。「今は残っていませんが、バライがもう一つあったそうですよ。かつてはこのプノン・バケンの丘を中心に巨大な都市が築かれていたとも言われています。今は密林に埋もれて跡形もありませんけれどね。そこに住む人びとを潤したり、農作物をつくるための水が、乾季でも大量に必要だったんでしょうね」
「確かに、この丘の周囲の密林は、ひたすら平坦な土地だ。都市を作るにはもってこいなのだろうな」
 丘の斜面を包み込む森の中からは不思議な音が聞こえてくる。ピーンと張りつめて鼓膜をとらえる細い音。聴覚でギリギリとらえることができるぐらいの高い音。まるで森そのものが発する声のようにも感じられる。
「この音は何?」 
 わたしの問いかけにシェリーさんも一緒に耳を澄ます。
「これはおそらく蝉の声ね」
「これが蝉の声なの」
 わたしの常識のなかの蝉の声ではない。澄み渡った、その高い声は、精霊の声だって言われても不思議じゃないような気がした。月夜の海で聞いたセイレーンの歌声をも思い起こさせる。
「とっても心に染み込んでくる声ね」
 シェリーさんもつぶやいた。 

 夕刻、ホテルのラウンジでジャッキーとおしゃべりをしていると、ロイ・キングが奥から現れた。
「今日も観光だったのかい?」
「ええ、アンコール・トムとプノン・バケンに行ってきた。あとタプロームっていう、ガジュマルの木が生い茂ったままの遺跡にも」とわたしは答えた。
「アンコール・トムか。あそこにあるのはバイヨンといって仏教の寺だな」
「ヒンドゥー教じゃないの?」
「うん、あそこは仏教のはずだ。四面のデカい顔がついた建物がいっぱいあったろう。あれは観世音菩薩の顔と言われている」
「わたしはブラフマンの顔だって聞いたけど」
「そうか、ブラフマンか。まぁ、いろんな説があるんだろう。アンリ・ムーオがここの遺跡群の調査を始めてから、ようやく半世紀ってところだ。まだまだわかっていないことがたくさんある」
「密林に埋もれていた遺跡を最初に発見したのは、そのアンリ・ムーオって人なんでしょう」ジャッキーが言った。「見つけたときは、さぞかし驚いたでしょうね」
「ああ、そりゃあ、びっくりしたろうな」ロイはうなずいた。「そして学者冥利につきただろうな。ムーオが遺跡群を丁寧に調査し、西洋社会にその存在を知らせた功績はとても大きいと思うよ。でも、彼が発見したっていうのは、ちょっと違うと思うな」
「違うの?」
「ムーオは布教中の牧師から遺跡らしきものの存在を知らされたんだ。そして、それ以前からも、ここいらにはずっと現地人が住んでいた。住民たちは当然知っていただろう」
「じゃあ、ヨーロッパ人がよく知らなかっただけってこと?」
「古くはポルトガル人やスペイン人が来ていたかもしれないな。カトリックの宣教師たちは、活発に動き回っていただろうし、商人たちも大勢やってきていた。昔の中国や日本から来た商人が記した書き付けも遺跡の壁面に残っているんだ。日本には十七世紀ごろに描かれたアンコール・ワットの図面も残っているらしい」
「ずいぶん詳しく知ってるのね」
「ここのバーには、いろんな国からやって来た物好きな奴らが集まるんだ。彼らの話に毎晩耳を傾けていると、この程度の知識はすぐに備わってくるさ」とロイは言った。

 ジャッキーの体調がおかしくなったのは、その翌朝のことだった。前夜から、時折、寒いなんてつぶやいていたから、変だなとは思っていた。ただ、元気に話しているので、それ以上、気にはとめていなかった。
 ジャッキーが起きあがれないと言うので、熱を計ってみると三十九度の高熱だった。その日、予定していた近郊の遺跡群への観光はとりやめにし、全員がホテルで休養をとることにした。
 大人たちが心配していたのは、スペイン風邪の可能性だ。
 その年の夏頃から猛威をふるい始めた流感は、瞬く間にヨーロッパ全体に広がってしまい、この風邪のおかげで戦争の終結が早まったと言う人もいるくらいだ。マイの従兄が命を失ったのも、この流感が原因だった。
 そのスペイン風邪が、最近ではヨーロッパだけじゃなく、全世界的に流行し始めているらしい。特にシェムリアップには欧米からの旅行客が多いので、その中の誰かがウイルスを持ち込んだ可能性がないとは言えない。
 かわいそうにジャッキーは感染拡大を防ぐために、一人隔離された客室で寝かされ、両親が交代で看病していた。
 夜になっても、ジャッキーの熱は下がらず、わたしたちの心配は募っていった。スペイン風邪は致死率が異様に高い流感として知られていた。

 真夜中、時計の針が十二時を越えた頃、客室のバルコニーに人が降り立つ気配がした。
 もしかして……。
 わたしは同室のソフィーとマイを起こさないように、そっとバルコニーへと出た。
「やあ」
 少年はにこやかな顔で、庇に腰掛けている。
「あなた、こんなところでもやって来れるの?」
「うん、僕には場所はあまり関係ない」
「ここはサイゴンの我が家じゃなくて、観光地のホテルよ。遅くまで起きている人もいるし、誰に見つかるかわかったものではないわ」 
「十分、気をつけて来たから大丈夫だよ」少年はニコリとした。「さあ、いこうよ。僕もアンコールの空は初めてなんだ」
 彼はわたしの準備も待たず、さっと飛びたって行く。
 わたしは、正直なところジャッキーのことも気がかりだし、夜空を飛び回るなんて気分ではなかった。でも、少年はもうホテルの別棟の屋根に立ち、しきりに手招きをしている。
「仕方ないわね」
 わたしはため息を一つつき、ゆっくりと舞い上がった。
 シェムリアップの街明かりは極めて暗かった。大通りの街灯が辛うじて地面を照らしているだけで、あとは液体のようにねっとりした闇の底に沈み込んでいた。どこかの路地裏から犬のさみしげな遠吠えが、かぼそく聞こえてくる。
 ただ、空に浮かぶ月だけが、行く手を照らしてくれた。
 少年は、町の北に向かって急ぐように飛んで行く。
「待ってよ」わたしは必死に追いすがった。「どうして、そんなに急ぐの」
 少年は、スピードを緩めて待ってくれた。
「早く、行ってみたいんだ。アンコールの遺跡に」
「わたしは昼間に、じっくりと観光したわよ」
「いやいや、夜空から訪問する遺跡は、きっと印象が違うはずだよ」
 そう言って、少年は笑った。
 闇の中に青黒く佇む密林の向こうに、尖塔が見えてきた。
 堀の上を飛び越えるとき、少年は水面ぎりぎりまで下りて、水に手をつけた。軽く水しぶきが上がる。
「危ないわよ」
 わたしは思わず声をあげた。
「えっ」少年は驚いたように振り返った。「危ないって?」
「だって、もし、守り神の大ワニがいたら、引きずり込まれるかもしれなじゃない」
「へぇー、そんなのが、ここにはいるのかい?」
「わたしは見たことないけど……。そんな伝説があるのよ」
「ふうん、伝説の大ワニかぁ」
 少年はつぶやきながら、空高く上昇し、遺跡の中へと入っていった。

 暗闇の中でひっそり眠る大伽藍は、明るい昼間のイメージとはまるで違っていた。物思いに沈む、賢者のような表情で静かに佇んでいる。伽藍内部に住みついているコウモリたちが、音もなくひたすら出入りを繰り返していた。
 わたしと少年は、中央の一番高い尖塔の先に腰掛けて、眼下の真っ暗な密林を見回した。夜の密林は、思いのほか音に満ちあふれている。
 圧倒的なのは虫の声だ。虫は求愛のために鳴くんだ、ってソフィーが言っていたけれど、こんなに様々な声が重なりあうなかで、ちゃんと意中の恋人に出会うことはできるんだろうか。
 命にあふれた森とは対照的に、伽藍は深い静寂に包まれている。静けさの中で建物内部を風が吹き抜ける音までが微かに聞こえてくる。それは、ひゅうううっ、と人がうなる声にも似ている。ジャンさんによれば、かつて現地の人びとは、この遺跡を幽霊の住みかだと言って畏れていたそうだけれど、確かに、かぼそい幽霊の声にも聞こえなくもない。
「今度は、あの丘へ行ってみようか」
 そう言って、少年は上空へと駆け上がっていった。少年が向かったのはプノン・バケンの丘。アンコール・ワットからなら、ひとっ飛びの距離だ。
 丘の麓で五頭の象が身を寄せ合って眠っていた。たまに尻尾や耳がヒクヒクと動く。心地よさげに閉じられた目元が動く。象たちは、一体どんな夢をみているんだろう。
 丘の上の遺跡に立った少年は、腕組みしながら平野を眺め下ろしてつぶやいた。
「ここは風がいいねぇ」 
「風?」
 確かに暑い夜だというのに、丘の上には涼やかな風が吹き渡っていた。
「湖と森が生み出した風なんだろうね。とても、柔らかいや」
 わたしは、それまで風が柔らかいとか、硬いとか意識をしたことがなかったが、言われてみれば柔らかいような気もする。
 少年の言う柔らかな風は、丘を駆け上がり、そしてまた駆け下りて行く。風の行く手にはシェムリアップのそれほど明るくない街灯りも見える。
 町を見たとたん、ジャッキーのことを思い出した。今も高熱に苦しむジャッキー。大勢の人がスペイン風邪で亡くなっているという新聞報道も同時に思い浮かべてしまう。大丈夫なのだろうか、ジャッキーは。
 少年がわたしの表情に気づいた。
「どうしたの? 浮かない顔をして」
 わたしは友人の病気の話をした。そして、それがスペイン風邪という、恐ろしい流感の可能性があることも。
「流感か……。ここへ来てから罹ったのかい?」
「ええ、昨夜突然」
 少年は何かを考えていた。そして、いきなり立ち上がった。「聞きに行こう」
「えっ、何を?」
「何が病気の原因なのか。疫病っていうのは、精霊がもたらしていることがよくあるんだ」
「誰に聞きに行くの?」
「伝説の大ワニだよ。いかにも物知りそうじゃないか。アンコール・ワットの堀に住んでるんだろう?」
「そんなの、ホントにいるのかどうかわかんないよ」
「どっちでもいいんだ。君がいるって思っただけで、もう存在しているも同じことさ。ナニモノかわからないけれど精霊は、きっとあそこに潜んでいるはずさ」
 そう言うと少年は、丘の頂上から飛び上がった。わたしも、慌ててその後を追う。丘の東南の斜面に沿って飛ぶと、すぐにアンコール・ワットの堀の端が見えてきた。
「さあ、僕の手を持って」
 少年が左手を差し出してくる。わたしは、その手を必死に握った。
「一気につっこむぞ」
「どこに?」
「水の中だよ」
「えっ、無理だよ」
「大丈夫」
 ためらうわたしにおかまいなく、少年は堀の中へ頭から突入していった。わたしは目を閉じた。ああ、このままじゃ、ずぶぬれだ。もしかしたら溺れちゃうかもしれない。この男の子、人間が水の中で息ができないこと知らないんじゃないかしら。でも……。
「さあ、目を開けてごらん」
 少年にうながされ、わたしは目を開けた。息はできる。足下にはゆらゆらと揺れる不安定な板が見える。
「これは舟の上?」
「うん」
 周囲を見渡した。さっき、確か水中に飛び込んだはずだけど、ここは見たこともない池の水面。遺跡の堀でもなければ、トンレサップの湖面でもない。そこに浮かぶ小舟にわたしと少年は座っている。空には、大きな月。もうすぐ満月を迎えそうな円い月。
 池の形はほぼ円形で、その水面は文字通り水鏡のような滑らかさだったが、微かな流れがあるのか、小舟は規則正しく、ゆるりと律動を繰り返す。
「どうも、あちらで水がわき出しているようだね」
 少年は池の中央の小島を指さした。島の上には大きなガジュマルが枝々を広げて立っており、その根本には崩れかけた石造りの祠が傾いている。
「あそこに漕ぎ寄せてみよう」
 少年は立ち上がり、舟の艫についた櫓を漕ぎ始めた。オールで漕ぐボートならわたしだって漕げるけれど、櫓で漕ぐ舟はどうやって操っていいのやらわからない。わたしは、操作を少年にまかせて、そのまま座っていた。
 舟はギシギシと音を軋ませながら進んだ。少年も、このような舟は慣れていないらしく、思うようには進まない。左右に大きく揺れながら舟先は水面を削った。不規則に曳かれる澪が、水鏡に映る月の端正な姿を歪めた。
 不意に、泡立つような水音が付近から聞こえた。
「おや、来たかな?」
 少年が言った。
 彼が見つめる先に目をやると、水面がゴボリと盛り上がり、下から大きな顔が現れた。ワニだ。それも、とてつもなく大きなワニ顔だ。
「えらく不器用な漕ぎ方だな。気になってかなわん。何か、わしに用があるのか?」
 ワニは、ちょっとめんどくさそうに顔をゆがめて言った。ワニ顔に表情が浮かぶなんて、初めて知った。
 少年が大声でワニに言った。「この子の友達が、昨夜からひどい高熱なんだ。どうやら疫病らしい。あんた、何か知らないかい?」 
 ワニは、それには答えず、わたしをチラリと見た。
「ん、うまそうな子だな」
「たぶん、おいしくないです」とわたしは慌てて言った。
「言っておくけど、この子はあんたに捧げるために連れてきたんじゃないからね」少年は念を押すように言った。
「わかっておる。大昔はいざしらず、近年では人身御供なぞ最初から期待しておらん」
 ワニはわたしを横目で見つめながら笑った。わたしは、ワニの首についた大きな傷に気づいた。
「その傷は?」
「ああ、これか?」ワニはため息をついた。「ひどい話だ。数年前のことだったな。バチあたりなワニ狩りの者どもに付けられてしもうた傷じゃ。なかなか消えんのう」
「じゃあ、やっぱり、あなたが遺跡の守り神の大ワニなのね」
「守り神?」ワニは首を傾げた。「わしは、そんなたいしたものじゃない。第一、自分では何も守っているつもりはないんだから、守り神とは言えんだろう」
「ワニ狩りに来たのは西洋の人だった?」
「わしは人間がどこから来た者かなんて関心はない。ただ、大ワニ狩りに来たという大馬鹿者がいるというんで、脅かしてやろうと百数十年ぶりに姿を現してやったのさ。すると、奴らいきなり火器をぶっ放しおった。あれは反則だろう。そうか、あれが西洋人という者らか。あれが奴らの流儀なのか。クメールの民とはもっと正々堂々と戦ったものだ」
「ごめんなさい。わたしからあやまるわ」
「まあ、いい。あれぐらいでわしは死なんし、捕まらん。それに、お互い様じゃ。わしもかつては、数多くの乙女を水中に引きずりこんで、貪り食ったんだからな」
「え……」
「乙女だけじゃない。農夫や漁師、いろんなヤツを食ったなぁ。チャンパやシャムの軍隊が攻めてきたときは、水に落ちた兵士も食った。でも、ヤツらは身が固くていかん。パサついて味ももう一つだ。やっぱり食うなら乙女が一番。やわらかくって、舌いっぱいに震え上がるような甘い味と香りが広がる」
 そう言って、ワニは身をよじった。
 無言で固まっているわたしに気づき、ワニは「お前を食うつもりはないから心配するな」と言った。言いながらもワニはベロンと舌なめずりした。
「ねぇ、食べ物の話はもういいからさ」
 少年が横から口を挟んだ。「さっきも言ったけど、この子の友達が重病なんだ。何かわからないかな? 今、世界中でスペイン風邪って大疫病が流行っているんだ。やはりそれと関係あるのかい?」
「うむ」ワニは真面目な顔になり、うなずいた。「今、世界で流行っておるという大疫病は、人間全体への警鐘だろう。馬鹿げた殺し合い、その手段に毒の気まで使うという、とち狂った人類に対するな。ただ、これは我々辺境の精霊ごとき小さな存在の意思ではない。もっと大いなる意思が働いているんだろう」
「大いなる意思って?」
「うむ、それが何なのか説明をするのは難しいが、簡単に言うなれば、この星のあるべき秩序を保とうとする力といったところかな」
「スペイン風邪を治す方法はないの?」とわたしは聞いた。
「もし、わしが考えるとおり大いなる意思が原因だとすれば、我々にはどうすることもできん。運が良ければ治るし、悪ければ死ぬるのみ。ただ……、わしが感ずるところ、大疫病の病原は、まだこのアンコールの地に届いておらんはずじゃ」
「じゃあ、ジャッキーは、スペイン風邪ではないのね」
「そうじゃな」と言って大ワニは考え込んだ。「もしかすると、ここいらに住む、どこぞの神の意に障っておるのかもしれんのう。やはり、蛇神ナーガかな……。一度、ナーガに伺いをたてるべきだろうな」
「ナーガがジャッキーを病気にしているかもしれないってこと?」
「うむ、ナーガは水の神。水を汚されることを極度に嫌うし、汚す者には必ず祟る。何か心当たりはないか?」
「水を汚す……」わたしは首をひねった。「わからない」
「そうか」ワニはうなずいた。「では、わしにわかることはそれくらいだ」
「ちょっと待ってよ」
 わたしは再び潜ろうとするワニを引き留めた。
「なんだ」彼はちょっと迷惑そうに言った。「あまり、ここに居すぎるとお前を食いたくなってしまうのだ」
「最後に一つだけ聞かせて。ナーガにはどこに行けば会えるの」
「月が満つる夜に、地、火、水、風が交わるところへ行けばよい」
「地、火、水、風?」
「うむ」ワニはうなずいた。「では、わしは再び眠る。そうだなぁ、百年ぐらいは眠り続けよう。少なくとも今生きているロクでもない人間がすべて居なくなるまでは」
 伝説の大ワニは、もう一度、濁った水底へと消えていった。
 
         十    マイの筆記帳 Ⅲ

 エマさんの友達ジャクリーヌさんとは、初対面のときから打ち解けることができませんでした。あまり、うまく話すこともできませんでした。
 彼女は、私より一つ歳下のはず。でも、だれがどう見ても、ジャクリーヌさんのほうが大きく、しっかりして、落ち着いていました。
 彼女は、エマさんと同じように私に気遣う様子は全くありません。それはそれで、こちらもやりやすい。使用人として立場をわきまえて接すればいいのだから。
 でも、ジャクリーヌさんの視線に、それ以外の要素が含まれているのを、私は感じ取っていました。はっきりと言えば嫉妬の混じった感情なのだと思います。ジャクリーヌさんは私に嫉妬していたのです。それが私との間に見えない壁を作っていたのでしょう。
 もちろん、エマさんはジャクリーヌさんに最大限の親愛の情を示していました。それでも、エマさんと私が過ごした五年という長い時間の痕跡は消すことはできない。ジャクリーヌさんには入り込めない、阿吽の呼吸のようなものがエマさんと私の間には既に出来上がっています。それを彼女は敏感に感じ取っていたんだろうと思います。それに加えて、私たちがお揃いで被っていたキャノチエ(カンカン帽)も彼女の神経に障ったに違いない。それは数年前のクリスマス・イブにミシェルさんからもらった帽子でした。
 私のほうもプノンペン以降、絶えずジャクリーヌさんから向けられる鋭い視線に少々イライラしていたのかもしれない。今から考えると馬鹿げてるけれど、彼女に対してあえて挑戦的な態度に出たこともありました。それは遺跡で伽藍見物していた時のことです。
 十字回廊を見終わり、さて急勾配の尖塔に登ろうという段になったとき、先行していた卵のような体型の西洋人男性が、石段の途中で足がすくんで梯子で救出されるという出来事がありました。
 でっぷり太った卵体型の男性が、小柄なカンボジア人たちに担ぎ下ろされる光景は、見るからに滑稽で、私なんて笑いを堪えるのに必死だったのですが、我々の一行の女性の多くは、それを見て怖じ気ついてしまったようでした。みな口々に、登らずに下で待つと言い出したのです。ところが、エマさんだけは登って行こうとしました。私は、彼女の世話役という立場上、一緒に登ることにしたのだけど、ジャクリーヌさんに見せつけるという意図が全く無かったと言えば嘘になります。私は、石段を駆け上がるとき、十分にジャクリーヌさんの羨望と嫉妬の混じった視線を背中に感じていました。
 男性も含め、みなが苦労して登っていた石段だけれど、サイゴンの下町で幼い頃を過ごした私からすれば軽いものでした。だって、崩れかけた危なっかしい家々の屋根や、運河の隅に廃棄されたオンボロ舟の上をヒョイヒョイ飛び跳ねながら遊んでいたのだから。
 石段の上では、エマさんの手を取り、彼女を引っ張り上げました。私にとっては、ささやかな勝利を感じた瞬間。もっともジャクリーヌさんもその時にはもう、目を背けてこちらを見上げていなかったけれど。
 だから、その日の夕食後、ジャクリーヌさんが、私の名前を誉めはじめた時はどうしてだろうと思いました。突然、マイっていう名前が素敵でかわいいなんて言い出したのだから。私はちょっと戸惑いました。何か、別の意味を込めて誉めているんじゃないか、と疑ったりもしました。
 しかし、彼女が私の名を誉める意図に他意はないことは、彼女の目を見るとすぐにわかりました。ジャクリーヌさんという人は、本当に心のまっすぐな子だったのです。彼女なりに、自分の中に渦巻く嫉妬という化け物と戦い、克服し、私のことを好きになろうと努力をしていたのです。
 それからの時間は、逆に私が打ち負かされる番でした。
 突然、私たちの前に現れた怖い顔のピアニスト――ロイ・キング。彼との再会、そして弾む会話は、逆に私にはもう入り込めない世界でした。そして、三人があの曲を歌い、演奏しはじめたとき、その輪から私は完全にはずされていました。
 報いだ、と思いました。他人の心を、いたずらに弄んだ報いが私に返ってきたんだと思ったのです。
 その翌朝からです、ジャクリーヌさんとわだかまりなく接することができるようになったのは。彼女も私に好意を示してくれたし、私も彼女のことを好きになろうと思い始めていました。
 ところが、その夜、ジャクリーヌさんを突然襲った病は、これからお互いを知ろうという二人の関係もストップさせてしまいました。
 彼女が罹った病は、ヨーロッパで猛威をふるい始めているスペイン風邪じゃないかという噂でした。このホテルには、現に欧米から多くの旅行客が訪れています。その中の誰かが病原を持ち込んだのだとしてもおかしくはありません。
 スペイン風邪だとしたら、従兄の命を奪った病です。私にとっては憎い敵のような病。私はジャクリーヌさんのことが心配でならなくなりました。今更ながら、彼女に当てつけるような行動をした自分が情けなく、小さな存在のように思え始めました。
 そんな思いで眠れない夜、思いがけない訪問者が客室のバルコニーに現れたのです。
 あやかしです。
 まさか、シェムリアップにまで現れるとは思ってもみませんでした。
 エマさんも、あやかしの訪問にすぐに気づき、バルコニーへと出て行きました。私はベッドで丸まったまま息をひそめていました。エマさんは、虎の化け物としばらく何か話していたようですが、やがて夜の闇の中へと舞い上がってゆきました。
 彼女たちが帰ってきたのは、およそ三時間後でした。私は眠ったふりをして、彼女とあやかしの会話に耳を澄ませました。
「月の満ちる夜って、いつかしら?」
「明後日だね」
「あなた、明後日の夜も来ることができる? ナーガのところへ連れて行ってほしいの」
「それはいいけれど……。ナーガはいったいどこにいるんだろう」
「地、火、水、風の交わる場所だって大ワニは言っていたけど、どこか心当たりはない?」
「まったく、わかんない」
「わたしは、明後日までにできるだけ調べてみる。だから、必ず迎えに来てね」
「うん、わかった」
 あやかしは、そう言って音もなく飛び去ってゆきました。
 あやかしの声をはっきりと聞いたのはその時が初めてでしたが、およそ恐ろしい虎の口から発せられると思えないような子供っぽい話しぶり。いつか見知らぬ老人たちが、性質の悪い精霊ではないと言っていたのも、あながちデタラメではなさそうです。
 それはそうと、「地、火、水、風の交わる場所」って? 会話から推察するとナーガがそこにいるってことでしょうか。なぜ満月の夜に、そこへ行かなくてはならないのでしょう。
 エマさんがバルコニーから部屋へと入ってきました。彼女は、わたしとソフィーさんの様子をうかがっています。わたしは眠ったふりをして息をひそめました。
 彼女は自分のベッドへ入り、ため息を一つついてからシーツに潜り込みました。

             ※

 朝食のときも、向かいに座るエマさんは、思案顔のままでした。
 ソルニエ夫人も看病疲れで憔悴しきった姿でテーブルについています。あまり食欲もなさそうな様子です。昨日から、コンポンチュナンの病院から医師と看護婦が呼びよせられ、付きっきりで治療に当たっていますが、ジャクリーヌさんの回復の目処はまだ見えないそうです。
 ただ、一つだけ朗報がありました。医師の見立てによれば、報告されているスペイン風邪の症状とは異なる部分が多いのだとか。とりあえずは世界を震え上がらせている伝染病の可能性は低くなりましたが、依然ジャクリーヌさんの病状が重いことには変わりはなく、明るい表情を見せる人は誰もいませんでした。
 ソルニエ夫人がポツリポツリと語るには、うわ言がひどいそうです。幻覚が見えるのか、七つ頭の蛇のことばかり言うそうです。その蛇が枕元に現れ、森に手出しをするな、立ち去れ、と繰り返すらしい。医師は、幻覚や幻聴も流感の症状の一つだと説明したそうですが、娘があまりにも不気味なうわ言ばかりを繰り返すものだから、気分が塞いできたと夫人は漏らしていました。
 エマさんは、その話を聞き、何か思い当たることでもあるらしく、じっと考え込んでいます。
「どうされたのですか?」
 私はたずねました。すると、エマさんは「七つ頭の蛇って、確かナーガのことよね」と聞き返してきました。
「ええ、そうですね」
 わたしはうなずきました。「アンコール・ワットの中央参道にも、そのようなナーガの石像がありましたね」
 確か、昨夜エマさんは、あやかしとナーガの居場所について話していたっけ。それと何か関係があるんだろうか。私は気になりましたが、素知らぬ顔をして、逆にエマさんに聞きました。
「ナーガについて何か気になることでも?」
 エマさんは、一瞬ためらった表情をみせましたが、すぐに私の顔を見てたずねました。
「あなた、地、火、水、風と聞いて何か思い当たる場所はない?」
 来た来た、と私は思いました。
「地、火、水、風……、思い当たりませんが、どんな場所なんですか」
「そこに、ナーガが住んでるんだって」
「まさか、想像上の動物ですよ。本当にいるわけがないじゃありませんか」
「そりゃあ、わかってるわよ。ナーガがいるって言い伝えられている場所って意味」
「そんな場所を知ってどうするんですか?」
「うーん……」エマさんは、しばらく口ごもっていましたが、やがて、わたしの耳元でそっとささやきました。「信じてもらえないでしょうけれど、馬鹿にしないで聞いてね。そこに行けば、ジャッキーの病気が治すヒントがわかるかもしれないの」

 私たちは、とりあえず最も物知りのジャンさんに、地、火、水、風が交わるとされる場所に心当たりはないか尋ねてみました。
「ふーん」 
 ジャンさんは顎の下をさすりながらうなりました。「それだけのヒントじゃ、わからないな。この近辺に、そんな場所があるってことなのかい?」
「うん、どこかにあるはずなの。見つけだして、ぜひ行ってみたいの」とエマさんは言いました。
「『地、火、水、風』なんて、何だか意味深な言葉だけど、いったい誰から聞いたんだい?」
「誰から、っていうより、お告げみたいなものかしら」
「お告げねぇ」ジャンさんは目を閉じました。「何が告げたの?」
「……伝説のワニが」
「ほう、伝説のワ二が」と、ジャンさんが低い声で繰り返しました。
「ええ……」エマさんは、やや説明しにくそう。「まぁ、夢みたいなものなのかもしれないけれど……」
「夢のお告げかぁ」
 てっきり、大人を馬鹿にするのはよしなさい、って叱られると思ったのだけれど、意外にもジャンさんは子供のように目をキラキラさせました。
「君たちは、夢のお告げで示された場所を探そうとしているんだね。おもしろそうだな。地、火、水、風が交わるところか……、何かの暗号みたいだな。とても興味がわくね」
 そして、いたずらっぽく言いました。「もしかして、そこにはお宝が眠っているのかい? 海賊キッドの財宝だか、古代アンコール王朝の秘宝だかのような」
「はぁ、お宝?」
「うん、エドガー・アラン・ポーの『黄金虫』とか、その手の読み物は、謎解きしながら財宝探しをするっていうのがお決まりの設定なのさ」
「お宝は無いかもしれないけど……」
 エマさんが言いよどむと、ジャンさんは笑いました。
「そんなのは無くたっていいや。謎を解くってこと自体がおもしろいのさ。君たちには、その場所を見つけ出したい何らかの理由があるんだろう?」
「ええ、ジャッキーの病気の原因と治し方がわかるかもしれないの」
 エマさんは上目遣いで、ジャンさんの反応をうかがっている。馬鹿にされるかも、と恐れているのでしょう。
「それも、『夢のお告げみたいなもの』で、伝説のワニが言ったのかい?」
「ええ」
「ほう、そりゃあ、すごい夢だ」とジャンさんは言いました。「よろしい。わたしも一緒に、その『地、火、水、風が交わるところ』とやらを探してみよう」

 私たち三人は、中庭のベンチに座り、「地、火、水、風」が、一体何を意味するのか考えてみました。
「土地の持つ性質じゃないかしら。その場所には、その四つの要素が全てそろっているってこと」とエマさんが言いました。
「なるほどね」ジャンさんがうなずきました。「つまり、その『地』は、『水』の畔で『風』が吹いているって具合かな。すると残る『火』は何を意味してるんだろう。火山なんてものは、この辺りにはないし」
「私、思うんですけど」と私は言いました。「これは『火』そのものを意味しているんじゃなくて、暖かい場所とかいう意味じゃないでしょうか」
「ふむふむ」
 ジャンさんは面白そうに何度もうなずきました。
「君たち、なかなか鋭いな。二人とも名探偵の素質がありそうだ」
 彼は大げさに私たちを褒めます。「マイさんの説によると、暖かい場所――つまり日当たりのいい場所ってことになるかな」
「そうね」
「水辺の土地で、風が吹き、かつ日当たりの良い場所か――そのような条件を備える所といえば」
「ズバリ、それはどこ?」
 エマさんと私は身を乗り出しました。
「うーん」
 ジャンさんは、うなりながら頭をポリポリ掻きました。「あちこちに、そういう場所がありすぎて特定しづらいな」
 確かに……。この辺りは基本的にどこも暖かいし、風も吹く。そして水辺の土地だって、数日間、私たちが見物をしただけでも、いくつかの場所が思いつきます。アンコール・ワットやアンコール・トムには広大な堀端が続くし、内部にもいくつかの沐浴池があったはず。プノン・バケンから見下ろした西バライという大きな溜池も怪しい。もちろんトンレサップ湖の湖岸だって、条件を備えていそうです。
 ジャンさんによれば他にも、スラ・スランや、ニャック・ポアンと呼ばれる沐浴場遺跡など、いろいろあるらしい。遺跡群の間を縫って流れるシェムリアップ川の岸辺だって、当てはまるかもしれません。
「スラ・スランってどんな所?」とエマさんがたずねました。
「王族の沐浴場だった場所だよ。東西が七百メートル以上、南北が三百メートル以上あるっていうバカでっかいプールだ。中央には島が造られていて美しい祠堂が建っている。水辺にはシンハ(獅子)とナーガの像が一対で置かれているよ」
「えっ、ナーガの像があるの」エマさんがピクリと反応をしました。「ってことは――」
「でも、この辺りの遺跡には、どこにだってナーガの像ぐらいあるよ」
「なんだぁ、どこにでもあるの……」
 エマさんががっくし肩を落とすと、ジャンさんはうなずきながら言いました。
「蛇は水の神だからね。水と関係の深いアンコールの遺跡にナーガは付き物さ」
「ふうん、水の神様ねぇ」エマさんはつぶやきました。「じゃあ、ニャックなんとかにもナーガ像はあるの?」
「ニャック・ポアンだね。大昔の療養所に併設されていた沐浴場だ。五つに仕切られた正方形の沐浴池が十字型に並んでいる。あそこにも、もちろんナーガ像はあるよ。しかし、おもしろいのは中央の沐浴場の東西南北の造られた取水口さ。それぞれ人や馬、シンハ(獅子)、象の顔になっている。池にはヴァラーハっていう神馬の像もあるね」
「ほんとに、ここにはいろんな遺跡があるのね」
 エマさんが半ばあきれたように言いました。
「郊外まで広げれば、まだまだ遺跡はあるだろうね」とジャンさんは答えました。「アンコール王朝発祥の地と言われているプノン・クーレンの丘陵とかね。でも、まだまだ十分な調査がそこまで及んでいないんだ」
 そう言いながら、ジャンさんは「地、火、水、風……、この四つの組み合わせって、どこかで聞いたことがあるんだよな」とつぶやきました。
 その時、ホテルの外から、スタンレーさんがポールさん、ソフィーさんを伴って帰ってきました。子供たち二人は捕虫網を持っています。
 スタンレーさんは中庭で難しい顔で考え込んでいる三人に気付き、歩み寄ってきました。着ているシャツが汗でぐっしょりです。
「いやあ、今日も暑いですね」
「おや、スタンレーさん。お出かけでしたか」とジャンさんが言いました。
「ええ、子供たちと川沿いの茂みまで行って蝶の捕獲を。何でも、標本を作りたいのだそうです。私は毒蛇が出ないかって、そればかり気になって仕方ありませんでしたがね」
「ほほう、熱帯の蝶の標本ですか。完成すると、さぞかし美しいでしょうね。どうです? 成果はありましたか」
「ええ、あの通り」
 スタンレーさんは息子を指差しました。ポールさんは肩掛け鞄の中から、三角形に折りたたんだ紙をいくつか取り出しました。柔らかな捕虫網で捕らえた蝶は、指先で軽く胸を押さえて殺し、羽が傷つかないようにパラフィン紙で作った三角形のシートに挟んでおくんだそうです。鞄の中からは微かに樟脳のような匂いも漂ってきました。
「こりゃあ、本格的だね」ジャンさんは驚いたように言いました。
「僕はね。シンガポールやマレーでも蝶の採集をして、標本を作ったことがあるんだ。だから、もう慣れてるよ」とポールさんが言いました。「これからホテルの部屋に持ち帰って、展翅板に広げて乾燥させるんだ」
「おお、展翅板まで持参か。じゃあ、相当な腕前なんだね」
「そうなんですよ。大人顔負けの器用さで、綺麗に作るのでいつも驚かされるんです」
 そう言って、スタンレーさんは笑いました。
「私も作り方を教えてもらったから、サイゴンに帰ってから作るつもりよ」とソフィーさんが言いました。
「そんな無益な殺生するなんて」エマさんは顔をしかめました。「バチが当たったって知らないからね」
 彼女は最近、ベトナム人の私たちのような言葉を普通に口にするようになりました。以前は「バチって何?」なんて言ってたくせに。私は思わず苦笑してしまいます。
「でもね、お姉ちゃん、無益じゃないのよ。これは蝶の分布を確かめる研究なんだから。同じ種類の蝶をいくつも無駄に殺しているわけじゃないの」
 ソフィーさんも、最近しっかりしてきました。堂々と弁明しています。
「研究するなら、そんなか弱い生き物を捕まえずに、そこらにたくさんある蟻塚でも調べたらどう?」
 エマさんはそう言って、中庭の茂みの至るところに、こんもり盛り上がっている土の小山を指差しました。「最初見たとき、何だこれは、って思ったわ」
「うんうん」ソフィーさんも思わずうなずきました。「わたしも、これ気になっているのよね。遺跡の中にもたくさんあったでしょう」
 そしてポールさんの方を振り返って言いました。「次は蟻塚を調べましょうよ」
「ところで、話は変わりますが――」ジャンさんが言いました。「スタンレーさんは、『地、火、水、風』と聞いて、何か思い浮かびますか?」
「えっ、『地、火、水、風』ですか」スタンレーさんは首を傾げました。「いやぁ、わかりませんね。一体何なんですか、それは?」
「いえいえ、ちょっと我々で調べ物をしていましてね」ジャンさんは笑った。「もし、何か知っておられるようならばと思ったのですが」
「申し訳ありません。特に何も思い当たりませんね」
 スタンレーさんが詫びました。その時、ポールさんが大きな声で言いました。「四大元素だよ、それ」
「四大元素?」
 私とエマさんは同時に声をあげました。
「そうか、四大元素か」ジャンさんは強くうなずきました。「僕が、どこかで聞いたことがある、って思っていたのはそれだったんだ」
 
 ちっちゃな博物学者ポールさんのおかげで、四大元素というヒントに行き当たることができました。
 でも……。
「四大元素って何?」
 エマさんも私も、さっぱり何のことやらわからず、ジャンさんに聞きました。
「古代ギリシャの時代から唱えられている物質の概念なんだ。万物は四つのエレメントに分けることができ、この世界はそれらが入り混じって出来上がっているという考え方さ。四つのエレメントとは、すなわち『土、火、水、空気』のことだね」
「ちょっと、違うわ」エマさんが指摘しました。「『風』が『空気』になっている」
「いや、同じものと考えていい。『空気』は流動すれば『風』になる」
「ということは――」
 わたしは思いつくままに発言しました。「先ほどまで気にしていた『水のそばの岸辺』『風が吹く場所』『日当たりが良い場所』という条件に、それほどこだわらなくていいのじゃないでしょうか」
「どういうことだい?」
「この世界を構成する四つの要素がすべて入り混じると信じられている場所を探せばいいのでは。つまり、そこが世界の中心ってことになるのかしら」
「なるほどね。誰もが世界の中心だって納得できるような場所を探せばいいってことだね」ジャンさんがつぶやきました。「でも、世界の中心といってもね。それぞれ人によってとらえ方は様々だしなぁ」
「わたし、思うんだけど」とエマさんが言いました。「この場合の中心って、昔のクメール人の世界観での中心と考えて、いいんじゃないかしら。何しろ伝説のワニのお告げなんだから」
「そうすると、範囲は極めて限定されてくるね」ジャンさんは腕組みをして言いました。「今のクメール人の中心はプノンペンかもしれないが、クメールの力が最も強大だった時代には、都はここアンコールにあった。その中心と言えば」
「アンコール・ワット、もしくはアンコール・トムのバイヨン寺院あたりですね」と私は言いました。
「そう言えば、わたしたち」エマさんが私に言いました。「アンコール・ワットの尖塔の根元まで登ったとき、世界の中心にいるような気分になったわよね」
 ジャンさんもうなずきました。
「あの尖塔は、須弥山を模したものだと説明したことがあったね。確かに須弥山は神々が住むとされるところだ。世界の中心であってもおかしくはないね」

 その日の午後、私たちは再度アンコール・ワットへと向かいました。シェリーさんもついてきました。彼女は、最初から謎解きに参加できなかったことを悔しがっていました。
「だってお前、午前中、どこにも見当たらなかったじゃないか」とジャンさんが言うと、「ソルニエご夫妻が、あまりにもお疲れだから、わたしが代わりにジャッキーちゃんのベッドに付き添っていたのよ」とシェリーさんは言いました。
「ジャッキーの状態はどうなの?」
 エマさんが聞きました。彼女は、看病させてほしいと何度も言っていたけれど、子どもは感染したら怖いからと、病室には一切入れさせてもらえずにいたのです。
「あまり芳しくはないわね。熱が一向に下がらないの」シェリーさんは小さな声で言いました。
「うわ言は?」
「うん、時々つぶやいているわ。森に手を出すな、って」
「森に手を出すな……か」
 エマさんはつぶやきました。
「ソルニエさんが、うわ言の内容をとても気にしているそうなの」とシェリーさん。
「なぜ?」
「ほら、ソルニエさんの商会が、この辺りの密林を切り拓いて、プランテーションを造ろうとしているって……、聞いたことがない?」
「あるわ。でも、ジャッキーは詳しいことを聞かされていないって言ってたわ」
「うん。確かにまだ、正式に決まっていないそうだけれど、この辺りの地主も大いに乗り気らしいの。でも、大昔から続く密林をつぶしてしまうことに、批判的な人も多いそうよ。特に迷信ぶかい人は、森の精霊が祟るって言っているらしいわ」
「森の精霊が祟る」エマさんが繰り返しました。「それってバチが当たるってこと?」
「そうね」とシェリーさんはうなずきました。「だから、ジャッキーちゃんの病気も祟りのせいなんだとしたらって、ソルニエさんが気に病んでいるのよ」
「僕は、精霊の祟りなんて信じるべきではないと思うよ」
 ジャンさんが口を挟みました。
「民間の信仰、とくに迷信めいた言い伝えは、何もアジアだけじゃなく、ヨーロッパでも色濃く残っているよ。でも、根拠のない迷信へのこだわりが進歩を遅らせることもある。そこから生まれるはずの恩恵を逃してしまうことにもなる。僕たちは、あくまでも科学的な視点を忘れちゃいけないと思うよ」
「そのとおりね」シェリーさんもうなずきました。「だから、今はコンポンチュナンから来たお医者さんを信じて任せるしかないわ」

 遺跡への道すがら、シェリーさんは「地、火、水、風」と四大元素の説明を聞いて、「それって、タロットと同じだ」と言いました。
「タロット?」ジャンさんが聞き返しました。「あのカードのタロットのことかい?」
「ええ、タロットにも『地、火、水、風』って考え方が出てくるのよ」
「タロットって何ですか?」と私はたずねました。
「占いや遊びに使うカードよ。大アルカナ、小アルカナっていう二つのセットに分かれているの。小アルカナっていうのがトランプと似ているんだけど、五十六枚のカードが護符、棍棒、聖杯、剣の四種類に分類されている。トランプで言えばダイヤ、クローバー、ハート、スペードに当たるのかな。これらがそれぞれ、『地、火、水、風』という性質を持っているの。大アルカナの十枚の絵札にもそれぞれ『地、火、水、風』の性質があるって聞いたこともあるわ」
「それは、やはり四大元素の考え方が反映しているんだろうね」 
「おそらくね。それから、もう一つおもしろいなって思ったことがあるの」とシェリーさんは言いました。
「なんだい? おもしろいことって」とジャンさん。
「あなた、五行説って聞いたことある?」
「中国の五行説かい?」とジャンさんが答えました。「正直、くわしくは知らない」
「わたしも聞きかじりのレベルだけどね」とシェリーさんは前置きをした上で、わたしたちに説明してくれました。「五行説では、全てのものは『木、火、土、金、水』の五つの元素から成り立っていると説明されているの。数が一つ多いけれど、西洋の四大元素ともよく似ているでしょう」
「確かにおもしろいな。四大元素のほうは、古代ギリシャの哲学者あたりが唱えだして、中世ヨーロッパまで信じられていた考え方だし、成り立ちは全然違うんだろうけれど」
「東洋の国々では五行説がけっこう浸透していて、あらゆるものに当てはめられているらしいわ。天を運行する惑星の名前にもなっているし、方角や季節なんかにも関連づけているそうよ」
 私とエマさんは、二人の話に黙って聞き入っていました。ジャンさんが、エマさんのほうに向き直り、たずねました。
「もしかして君はタロットカードに詳しかったりするの? タロットにも『地、火、水、風』の考え方があるのを知っていたとか」
「いいえ、全然知らなかったわ。そりゃあ、トランプではよく遊ぶけれど」
「まさか五行説に通じてるわけでもないよなぁ」
「ありえない」
「そうかぁ」ジャンさんは考え込みました。「あらかじめ君がそういう知識を持っていたのなら、それが夢に影響することもありえるんだろうけど。知らなかったとなると、単なる偶然なのか……」
 シェリーさんが口を挟んできました。
「私はまだ聞いてなかったわ。そもそも、どういう経緯で、この謎解きが始まったのか」
「夢のお告げ……みたいなものなんだよな」とジャンさんがエマさんに言いました。彼女はコクリとうなずきました。「はい、伝説のワニから言われたことなんです」
「夢のお告げ? 伝説のワニ?」シェリーさんが呆れたような顔をしました。「つい先ほど、科学的な視点を忘れちゃいけないって偉そうな顔で演説していたのは誰だっけ?」
「いやいや」ジャンさんはニヤニヤと笑いました。「伝説のワニのお告げのような、非科学的なものなのに、ちゃんと四大元素とか五行説に則ったようなキーワードを出してきている。さて、これは偶然なのか、はたまた何か深い意味が隠されているのか――、それを科学的に検証しているのさ」 
「それは言い訳ね」シェリーさんもニヤリとしました。「本当はおもしろそうで、じっとしていられなかっただけでしょう」
 そして、エマさんにたずねました。「その場所にたどり着いたら何があるの?」
「ジャッキーの病気を治すヒントが見つかるかもしれないの」
「まあ、ジャッキーちゃんの病気が? 夢のお告げで、そう言われたの?」
「ええ」
「おもしろいじゃない」シェリーさんは笑いました。「さあ、早くアンコール・ワットへ行ってみましょう」

 アンコール・ワットの空は抜けるような青さでした。乾季特有の完璧といえる晴天の空です。十二月は、もちろんベトナムも乾季だけれど、サイゴン辺りで見る空より、もっと強い青のように思えます。これはなぜだろう。空気の澄みわたり具合が違うのでしょうか、それとも土地を覆う濃い密林の作用なのでしょうか。
 堀の上を貫く石の通路を渡って、西大門へ向かうとき、エマさんはしきりに水辺をのぞきこみながら歩いていました。
「どうしました?」と私は聞きました。「何かいるのですか」
 エマさんは首を振りました。
「何もいないわ。でも、伝説の大ワニがいたのはこの辺りなんだろうな、って」
「ピエールさんが捕まえようとしたワニのこと?」
「うん」
「もしかして『夢』でも、ここでワニに会ったのですか?」
 エマさんは、私の顔を見返してフフっと微笑みました。
 参道を進み、第一回廊から十字回廊に入り、そして第二回廊まで上がりました。あとは急勾配の石段さえ登りきれば、神々の山を模したという尖塔群の真下へたどり着きます。
 私たちは、はやる気持ちを抑えて、注意深く石段を登りました。
 尖塔群の周囲を取り巻く第三回廊から見える光景は、やはり迫力がありました。濃い緑に覆いつくされた平野がどこまでも続いています。王朝の最盛期には、ここには壮大な都の眺めが広がっていたのかもしれない。眼下にそれを見た古代クメールの人びとは、きっと、ここが世界の中心だと思ったに違いありません。
「どうだい?」ジャンさんがエマさんにたずねました。「何かわかったかい」
「うーん」エマさんは考え込みました。「ここに間違いないと思うんだけど……」
「そりゃあ、おとぎ話じゃないんだから、ナニモノかが煙とともにボワンと現れて、病気を治すヒントを言ってくれるなんてことは現実には起こらないだろうな」とジャンさんが笑う。「おそらく、夢は何かを暗示してくれたのだろう。それをエマさんが自分なりにゆっくりと考えればいいんじゃないか」
「私なりの解釈を述べてもいい?」と、シェリーさんが言いました。「夢のお告げは、ここへ来て純粋な心でお祈りを捧げなさい、と言いたかったんじゃないかしら」
「お祈り?」
「そう、何しろ、ここにはヒンドゥーの最高神の一人ヴィシュヌ神が住んでいるとされるところよ。鳥の王ガルーダの背に乗って、この山の頂にいるのよ」
「なるほどね」ジャンさんが納得したようにうなずきました。「じゃあ、四人で祈りを捧げようか」
 私たちは中央の一際高い塔に向かって祈りました。

 シェムリアップのホテルには夕刻戻りました。
 さっそく、ジャクリーヌさんの容態を確認しにゆきましたが、経過は思わしくないようです。医師が持ってきた薬が、どれも効かないらしい。
 熱が下がらず、意識が遠のいた状態が続く娘を前に、業を煮やしたソルニエさんがとうとう医師を怒鳴りつけてしまったらしく、気まずい雰囲気がみなの間に漂っていました。ソルニエさんは「だからカンボジア人の医者なんぞ信用できんのだ」と息巻いていたそうです。ただ、ミシェルさんが、サイゴンのパスツール研究所に連絡を取り、適切な処置について問い合わせたところ、コンポンチュナンの医師のやり方が決して間違っているわけではなさそうでした。

 私とエマさんは、夕食後、ラウンジで話し合いました。
「どう思いますか?」
 私の問いかけに、エマさんは「地、火、水、風が交わる場所のこと?」と聞きました。
「はい、あそこで間違いなかったんでしょうか」
「うん」彼女はうなずきました。「おそらくね」
「でも、エマさんは確かナーガの住むところとおっしゃってましたね。私にはナーガのイメージとあの塔は、ちょっとそぐわなく思えるんです」
「そぐわない?」
 私の言葉を聞いて、エマさんはじっと考え込みました。
「ええ、あそこは高い山を模した塔です。あそこに住むのは、シェリーさんも言っていたとおり、ヴィシュヌ神とか神の鳥ガルーダです。水の象徴であるナーガには似合わない」
「じゃあ、あなたはどこだと思うの?」
「それは私もわかりません」
「だったら、あそこだと信じるしかないわ」エマさんは強い調子で言いました。「それに、アンコール・ワットには、沐浴場や堀もある。参道には大きくて長いナーガの像が続いているし。ナーガに関係のありそうな場所はいくらでもあるわ。万が一、あの尖塔じゃなかったとしても、アンコール・ワットのどこかで間違いなくナーガに会えるはずよ」
「ナーガに会う? もしかして、エマさんは、もう一度あの遺跡へ行くつもりなんですか。それに、まさか本気でナーガがいると信じているのですか」
 私も語気を強めました。「決して歩いて行けない距離ではありませんが、密林の中の道です。一人で行くのは危険です。どんな悪い人間が潜んでいるかもわかりません。子供っぽい遊びじゃないんだから、危険な所へ行くのはお勧めできませんよ」
「大丈夫よ」エマさんはつぶやきました。「あなたの言うとおり、わたしはもう一度あそこへ行き、ナーガがいるか確かめるつもり」
「いつ行くのですか? 昼それとも夜? まさか夜に行くのじゃないでしょうね。ナーガを探すなんていうバカバカしい目的のために」
 私はあえてエマさんが答えにくい質問をしました。私は知っている。あやかしとともに明日の夜――彼女が満月に照らされた遺跡へ向かおうとしていることを。
 エマさんはうつむきました。
「ごめんなさい、マイ。これ以上のことは、あなたにも話せないの」
「話せない?」
 私は急に腹が立ってきました。彼女の顔をグッと見すえました。
「あなたのことをこれほど心配しているのに、肝心なことは何も教えてくださらない。そんなに信じていただけないのならば、もう私は知りません」
「マイ……」
 私は立ち上がり、エマさんの視線を振り切るようにラウンジから立ち去りました。彼女に対して、こんなにキツい物言いと態度をしたのは初めてでした。

 翌日、私は一人で中庭のベンチに座っていました。
 庭の中央にしつらえられた池に、小魚たちが群をなして泳いでいるのが見えます。朝から花を開いていた蓮が、日が高く上がるにつれて、再び蕾のように閉じてゆきます。そんな様子を、私はぼんやりと見つめていました。
 その日は朝のうちから、ジャクリーヌさんが新しい療養所へと移されてゆきました。行き先は町の郊外の洋館でした。何年か前まで、フランス人入植者の一家が住んでいたところだそうです。
 いつまでも、人の出入りの多いホテルで物々しい治療活動を続けるわけにはいきませんし、しかも洋館にはホテルよりもゆったりとした部屋や庭があるらしい。患者とその両親にはより過ごしやすい環境だろうということで移動が決まりました。
 みなが心配していたは、移動がジャクリーヌさんの体へ与える負担でした。でも医師と看護婦が移動中もずっと付き添ってくれたので、大きな問題も起きなかったようです。医師は非常に献身的な人です。昨日のソルニエさんの暴言もすっかり水に流し、熱心にジャクリーヌさんの治療にあたり続けているそうです。
 エマさんはジャクリーヌさんの移動に付き添って、郊外の館へと行ってしまいました。そして日中は、その館で過ごすらしい。おそらくホテルへ戻ってくるのは夕刻以降になるでしょう。
 昨夜以降、私は彼女とは口を聞いていません。朝食の時、エマさんが私の様子をしきりにうかがっていたのは知っています。しかし私のほうが完全に無視をしました。
 使用人がこんな態度をとるのは、もっての外なのかもしれないけれど、私の怒りをわかってもらうにはこれしかないと思いました。そう、私の怒りを伝えるには。でも……。
 ――そもそも、私の怒り、って一体なんだろう?
 エマさんのことを心配して私は怒っているのだろうか、それとも、エマさんと秘密を共有するあやかしにヤキモチを焼いているだけなのだろうか?
 自分でもよくわからないけれど、両方が混じり合った怒りなのでしょう。もしかすると、彼女が危険な場所へ行かなければならないとき、私にも頼ってほしいという願望があったのかもしれません。
 もう一度、エマさんがあやかしと会っていた夜のことを思い返しました。あの晩、二人は別れ際に、満月の夜にナーガのもとへ行くというようなことを言っていました。そして満月は今夜。おそらく二人は、ナーガに会うためにアンコール・ワットの尖塔へと向かうつもりなのでしょう。果たして、あそこでナーガに出会えるのだろうか。私には、ナーガが住むのはあそこじゃないと思えてなりませんでした。シェリーさんも、あの尖塔はヴィシュヌ神とガルーダが住む場所だと言っていました。うろ覚えだけれど、幼い頃に聞かされたおとぎ話では、ガルーダとナーガは仲が悪いんじゃなかったっけ。
 じゃあ、ナーガはどこにいるの?
 その時、中庭へと入ってくる人影が見えました。
「どうした? シケた面をして」
 人影は私に言いました。声の主を見上げると、そこに立っていたのは仏頂面をした黒人のピアニスト――ロイ・キングさんでした。
「あんたと直接話すのは初めてかもしれないな」と彼は言いました。その話しぶりは、顔つきとは似合わない優しい口調でした。「ジャッキーの病気が心配なのかい?」
 私はうなずきました。「でも、それだけじゃありません。エマさんともケンカしちゃいました」
「おやおや、君は彼女の邸の使用人なんだろう。お嬢様とケンカするなんて、なかなか勇気のある子だな」
 ロイさんはニヤリと笑いました。「大丈夫さ。エマは、いつまでも細かいことを気にするようなヤツじゃない。気分を変えて、今に笑いかけてくるはずさ」
 私は「そうですね」と言ってうなずきました。そして、もしかしてこの人ならば、例の暗号の意味がわかるかも、って思いました。何せ、少しの期間にせよ仏門に入っていた人なんだから。
「あの……」
 私はおずおずと話しかけました。
「そんなにビクビクしなくていい。オレはレディにはやさしいんだ」と彼は笑いました。
「もし、わかるようでしたら教えてほしいことがあるんですが」
「へ、どんなことだい?」
「地、火、水、風が交わるところって、どこでしょう?」
「なんだい、そりゃあ。禅の公案かなんかかい?」
「どこか場所を特定している言葉なんです。ロイさんにはわかりませんか?」
「場所? ははーん、おおよそお宝の在処か、何かだろう? 金銀財宝がザックザクか」
 まったく男の人というのは、みな同じような発想をするんだと思いました。
「……宝物はないと思います」
「ジョークだよ、ジョーク」ロイさんは言いました。「そういう秘密めいた場所って、いかにも何かが隠されてそうな気がするじゃないか」
「宝物じゃなくて、ナーガみたいな蛇ならば隠れているかもしれませんが」
「うえっ、蛇!」ロイさんは顔をしかめました。「オレは何が嫌いって、蛇ほど嫌いなものはねぇんだ」
「怖いのですか」
「ああ怖いね。あの手足のない姿でモゾモゾ動くのが気持ち悪くてしょうがねぇ」
 大蛇の二匹や三匹、まとめて引き裂いてしまうんじゃないかってくらい屈強そうな体格を持っているのに……、つくづく人というものはわかりません。
「もし、お宝が出るんだとしても、オレはそこに行くのは遠慮しとくよ」 
 ロイさんは、そう言って笑いました。
「で……、わかります? 地、火、水、風が交わるところって。このアンコールの地のどこかにそんな場所があるそうなんです。古代のクメール人にとって、世界の中心ともいえる場所なんです」
「ふむ、地、火、水、風が交わるところねぇ。古代クメール人の中心かぁ……」
 ロイさんは目を閉じて考え込みました。深く考え込んでいるのか、なかなか目を開けません。あんまり目を開けないものだから、居眠りしちゃったんじゃと思って、ツンツンと肩をつつくと、彼はパカリと目を開けました。
「あの……、眠ってませんでした?」
「いや、眠ってなんかいない。これでも、ちゃんと考えてたんだ」
 そして、ロイさんはやおら立ち上がりました。「ちょっとピアノを弾きながら考えたい」
 彼は、私を伴ってラウンジの中へ入り、壁ぎわのアップライトピアノを弾き始めました。それは、初めてロイさんに会った晩に、彼が奏でていた音楽――確か『パピヨン』っていう曲でした。
 ロイさんは、たちまち演奏に集中しはじめました。顔には極めて機嫌の悪そうな表情が浮かんでいます。この人は怒ってるんじゃないかという気がしてきて、隣に立っているのがだんだんと辛くなってきました。でも、そんな彼の顔つきとは裏腹に、指先から生まれ出る旋律は、西洋音楽をほとんど知らない私の心でさえ、絡め取ってしまいそうな魅力と情熱にあふれていました。
 やがて、音楽は印象深い主題の断片を何度も繰り返しながら、空気に溶け込むように消えてゆきました。弾き終えても、ロイさんはピアノの前に腰掛けたまま、いつまでも目を閉じていました。
 私はまた肩をつっつきました。すると彼の目はパカリと開きました。
「眠ってましたよね?」
「いや、眠ってなんかいない」
「何か……、わかりました?」
「ああ」とロイさんは小さくうなずきました。
「えっ、わかっちゃったんですか?」
 私は驚いて聞き返しました。
「ああ」
 ロイさんはもう一度うなずきました。

「いいか。オレはこう見えても、アンコールの遺跡群については、そこいらのガイドブックより詳しいんだ。何せ、ここへたどり着いた頃は、ヒマでヒマで毎日遺跡巡りぐらいしかすることがなかったからな」
 ロイさんは、威張っているんだか、自虐的なんだか、よくわからないことを話し始めました。
「そんなに何度も遺跡を巡ったんですか?」
「ああ。だいたいにおいて、ここいらの遺跡の名前はややこしくてかなわない。だんだん、こんがらがってくる。ここへはもう行ったのか? それとも、まだなのか? だから、何度も何度も同じところに行くはめになったんだよ」
 そう言ってロイさんは豪快に笑いました。「さてと……、『地、火、水、風が交わるところ』の説明といこうか」
「はい」わたしは、思わず居住まいを正しました。
「まず、これをストレートに『地、火、水、風』と考えてはいけない」そう言って、ロイさんは言葉を切り、私の反応を確認しました。
「はい、そのままストレートに考えてはいけないんですね」
「うん、そうなんだ。まず、どの言葉からいこうか。そうだなぁ、『風』からいくか」
 そして、彼は私に質問をしてきました。「風のように素早く駆けぬけるものって、何を思い浮かべる?」
「風のように素早く?」私は首をひねりました。「自動車でしょうか?」
「おいおい、頼むぜ」ロイさんは、呆れたように首を振りました。「古代クメール人になったつもりで考えてみな。何百年も前に生きていたヤツらが爽快な週末ドライブを楽しんでいたって言うのかい?」
「んー」私は考えこんだ。「その時代で一番早く駆けるものって……、やはり馬かしら」
「そうだ」ロイさんはうなずいた「馬だよ。『風』は馬だ。いいぞ、そういう具合に連想してゆこう。じゃあ、こんどは『水』だ。『水』で思い浮かべる生き物はなんだ?」
「さっきは馬だったんだから、やっぱりワニでしょうか?」
「うむ、ワニも水の生き物だな。他には?」
「蛇に、亀に、カエル、オタマジャクシ」
「だんだん小さくなるな。それだけか?」
「大きな動物なら、水牛とか。象も水辺によくいるわね。鼻で水をかけあっているわ」
「ようし、その辺にしとこうか。ワニに、蛇に、水牛に、象に、あとなんだっけ?」
「亀とカエルとオタマジャクシ」
「うむ、今度は『火』だ。火のように猛々しいものはなんだ?」
「猛々しい……」私はうなりました。「うーん難しいですね。強くて、たくましくて、ちょっぴり怖い……、虎とか、熊とか?」
「うん、ほかには?」
「ライオン、狼」
「そうだな、その辺りの猛獣なんだろうな」ロイさんはうなずきました。「じゃあ今度は『地』だ」
「これはどういうふうに考えたらいいのかしら? 地面の中なら、モグラとか、アナネズミだけど」
「地面のなかというより、大地だ。この大地に君臨するものさ」
「大地に君臨するもの?」
 私は、アンコール・ワットの尖塔の前から見下ろした光景を思い浮かべました。今は密林が広がる平野に、かつては壮大な都があったという。その大地に君臨するもの……、それは王――つまり人。
「人でしょうか」
「よくわかったな」ロイさんは笑いました。「そうだ人だ。それらを組み合わせると、馬、水辺の動物たち、猛獣、人となる。さて、これで思い浮かべる遺跡は何だ?」
「えーと」私は思わず腕組みをしました。プノン・パケンは丘の上だから水辺がまるで無かったし。アンコール・トムには確か「象のテラス」というのがあったけれど、馬とか猛獣はどうなんだろう。
「あっ、そう言えば」私は声をあげました。「ジャンさんによると『スラ・スラン』って遺跡には、シンハ(獅子)の像がナーガと並んで置かれているそうです。ここが怪しいんじゃないでしょうか」
「じゃあ人や馬はどこにいる?」
「うーん」私はうなるしかありませんでした。
「そのジャンっていう人は、ほかにも遺跡のヒントをくれなかったのか?」
「確か、ニャック・ポアンってところも」
「そうだ、ニャック・ポアンだ」ロイさんは力強く言いました。「そこには、四つの取水口があるって言ってなかったか?」
「そういえば。東西南北に四つの顔がついているって……、あっ!」
 私は思わず興奮してしまいました。「そうよ、四つの顔。人、シンハ(獅子)、象、そして馬!」
「その通り」
 ロイさんはうなずきました。「あそこには、東西南北の四つの祠にそれぞれ顔のついた取水口がついている。人が地、シンハが火、象が水、馬が風をそれぞれ表している。そして四つの取水口を結ぶ中心点――すなわちニャック・ポアンの沐浴池のど真ん中、そこが君の探している『地、火、水、風が交わるところ』ってわけさ」
「すごい! ロイさん」
 私は目を瞠って、ピアニストの顔をじっと見つめました。
「よせやい。毎日毎日、遺跡ばっかり見てりゃあ、これぐらい、すぐにピンとくるさ」と言って、ロイさんは照れくさそうに顔をしかめました。
 私は深々と頭を下げました。「ようやく謎が解けました。ありがとうございます」
 ロイさんはとびきり素敵な笑顔で、軽くウィンクをしました。「ヒマを持て余して遺跡三昧したことも、ちっとは人助けにつながったのかな」

 ロイさんは謎解きが終わると、「じゃあな、宝物が出たらちょっとぐらい分け前くれよ」などと言ながら、さっさと去ってしまいましたが、私の興奮は続いていました。
 ――「地、火、水、風が交わるところ」は本当にあったんだ。
 早くエマさんに知らせたい。でも、私も一緒に行くのでなければ納得がいかないとも思いました。そこに本当にナーガがいるのならば、この目でも確かめたい。そして、エマさんに危害が及ぶようならば、私がその盾にならねばと思いました。
 とりあえず、ニャック・ポアンの場所を確認しよう。ホテルのフロントへ行って、アンコール遺跡の地図はないかとたずねると、簡単な略図のようなものを手渡してくれました。それを見るとニャック・ポアンがあるのは、アンコール・ワットの東北方面、密林のまっただ中の辺鄙な場所だとわかりました。でも……、ここまで行くにはどうすればいいのだろう。地図を見つめながら思案していると、不意に声をかけられました。
「どうしたの、マイちゃん」
 声の主はシェリーさんでした。「難しい顔をして何を見てるの?」
「わかっちゃったんです」
 私はちょっと上擦ずった声で言いました。
「わかったって、何が?」
「地、火、水、風が交わるところ」
「あなた、まだ、それを調べていたの?」
 シェリーさんは驚いたように言いました。
「ええ、どうしてもアンコール・ワットでは、違和感がぬぐえなかったので」
 そして、私はロイさんから聞いた説明をシェリーさんにしました。
「うーん、ニャック・ポアンね……」
 彼女は黙って考え込んでいます。
「どうです? シェリーさんは違うと思いますか」
「いいえ。そのピアニスト、鋭いなって感心していたのよ」そして、立ち上がりながら言いました。「ねぇ、これから行ってみましょうよ。ニャック・ポアンに」

 私とシェリーさんは、ホテルの前から自動車に乗って、ニャック・ポアンへ向かいました。アンコール・ワットから先は、牛車の轍や穴ボコだらけの道。運転手さんもスピードをぐっと抑えて車を走らせました。
 沿道の緑が道路へはみ出すように溢れ返っています。驚いたことに、密林の真ん中のような場所にも生活している人びとがちゃんといて、高床式の掘っ立て小屋のような家が、あちらこちらに建っています。ところどころ、密林が開かれ、耕作されている水田や畑が点在しています。子豚やガチョウを連れて歩く子どもたちの姿もありました。一見、何もないように思える密林だけれど、この人たちにとっては、大切な生活の場なんだと私は思いました。
「この辺りがゴムのプランテーションに変わっちゃったら、どうなんだろうね?」
 シェリーさんが、つぶやくように言いました。「働く場ができたと喜ばれるのか、それとも、今までの暮らしが成り立たなくなって途方に暮れちゃうのか……」
 車はガタピシと音をきしませながら、悪路を進みました。密林で閉ざされてきた視界が不意に開け、大きな池が目の前に現れました。
「池の中に小島が見えるでしょう」とシェリーさんが言いました。
「ええ」
「あそこにニャック・ポアンはあるの」
 島へ行くには渡しの小舟に乗るしかありませんでした。もう少し乾燥が進めば、浅瀬が干上がって、島まで歩いて渡れるそうですが、今は雨季のあいだに満々と湛えられた水が岸と島を隔てています。
 地元の老人が漕いでくれる渡し船に揺られながら、私はシェリーさんにたずねました。
「ここは、庶民のための療養所だったのでしょう?」
「ええ」
「じゃあ、なぜこんなに通いにくい場所に造られたのでしょうか?」
 シェリーさんは、ちょっと考えてから答えてくれました。
「これは、あくまでも私見なんだけど――病気の拡大を防ぐためじゃないかな」
「どういうことですか?」
「東南アジアのこの辺りって高温多湿な気候だから、昔から流行り病とか、疫病が多かったと思うのよ」
「確かにそうですね」私はうなずきました。「今でもそういう病気に罹る人は多いです」
「病人を一カ所に集めて療養させるにしても、そこが感染源になって病気がさらに広がってしまっては意味がないわけ」
「確かに」
「だから、わざと通いにくい池の中の小島に施設を造って、人の出入りを極力制限したんじゃないかしら」
「はぁ、なるほど」
 島の船着き場には五分ほどで着きました。渡し守の老人は、ここで待っていると言ってくれました。
 島の奥へは細い水路が続いており、それに沿って長い木製の桟橋が伸びています。水路の両側は深い森。外敵の少ない島には鳥たちも好んで住み着くのか、茂みの奥からは、にぎやかなさえずりが聞こえてきます。
 やがて桟橋の先に遺跡らしきものが見えてきました。
「あれがニャック・ポアン」とシェリーさんが指さしました。
 そこにあったのは、五つの石造りの沐浴池。正方形の中央の池と、その四方に付随した池には満々と水が湛えられています。
「療養者たちが沐浴するために造られた池よ。中央の池と周りの四つの池を結ぶところをよく見て」とシェリーさんが言いました。
「なんだか祠のようなものが、四方それぞれにありますね」
「うん」彼女はうなずきました。「じゃあ、順番に一つ一つ祠の中を覗いてみましょう」
 私たちは一番近くにある北側の祠へと歩み寄りました。祠の開き口は石積みのかなり下の方にあって覗き込むのは容易ではありません。それでも、池に落っこちそうになりながら、なんとか中を見ました。取水口らしきものがあります。
「どんな形をしていた?」とシェリーさんが聞きました。
「象の顔の形をしていました」
「そうでしょう」彼女は笑いました。「さあ、次は東の祠へ行きましょう」
 私たちは、そのようにして東西南北すべての祠をのぞき込みました。そして北に象、東に人、南に獅子、西に馬の顔があることを確認しました。
「ロイってピアニストが言うには、それぞれが水、地、風、火のエレメントを象徴していることになるってわけね。見事だわ」
 シェリーさんは、ぐるっと遺跡全体を見回しました。中央の池の真ん中には島状の祠堂が浮かんでいます。
「そして、あそこが四つのエレメントが交わる場所なのね」
 そこには祠堂の基壇に絡みつくようなナーガの彫像がありました。
「ところで……」
 戻りの舟上で、私はシェリーさんにたずねました。「ニャック・ポアンってどういう意味なのですか?」
 シェリーさんは左右に首を振った。
「私にもクメール語はわからない」
 すると、ずっと黙り込んでいた渡し守の老人が言った。
「ニャック・ポアンかね? 絡み合う蛇っていう意味じゃよ」
               一九一八年十二月 「マイのアンコール旅行手記より」

         十一    蛇神ナーガ

 その日、わたしは朝から忙しかった。急にジャッキーが別の館へと移されることになったからだ。
 その館は、シェムリアップ市街の西方にある大きな建物だった。この辺りへ入植してきたフランス人一家が大戦前まで住んでいたらしい。きちんと、整理や管理がなされていて、すぐにでも使用可能な状態だった。この館を見つけだしてきたのは、お父さんだった。ジャッキーに付きっきりのソルニエさん夫妻に代わり、お父さんとお母さんが、いろんな問い合わせや、手続き、連絡などを引き受けていた。
 ジャッキーが移される時は、わたしも送って行きたいと粘った。それまで全く、看病もお見舞いもさせてもらってなかったし、思いっきり我がままをぶつけてみたのだ。すると最終的には、大人たちも「極力ジャッキーに近づきすぎないように」と言って渋々同行を認めてくれた。
 移動中は、ジャッキーの具合も小康状態で、目を覚ましていた。わたしが付き添っていることにも気づいており、「ありがとう、エマ」って言ってくれた。それだけで、わたしはうれしかった。前夜、マイに叱られてからというもの、ヘコミっぱなしだったから。
 まあ、マイには怒られて当然だ。
 伝説の大ワニに教わったヒント――「地、火、水、風が交わるところ」を特定するために、一緒に考えてもらったり、現地に足を運んでもらったり、いろいろ手助けをしてもらったあげく、肝心なことは何一つ彼女には教えなかったんだもの。
 決して、マイを信用していないわけじゃないし、もちろん頼りにもしている。
 でも、やっぱり言えない。満月の夜に、少年と空を飛んでって、蛇の神様に会いに行くんだなんて。普通の人からすれば、あまりにも荒唐無稽すぎる話だし、それにもし、他人に秘密が知れたなんてことになると、少年はもうやって来ないかもしれないから。わたしはマイが大好きだから、彼女を傷つけたくはなかった。ましてや、彼女から嫌われるようなことは絶対にしたくはない。だけど、隠し事をしたことで、彼女を深く傷つけ、嫌われてしまったのかも、と思うと気が重かった。
 ジャッキーが療養する館からホテルに戻ったのは、日が暮れてからだった。既にマイたちは夕食を終えており、館から戻ってきたわたしとお父さん、お母さんの三人で食事をした。バーのほうからはピアノの音色が聞こえてくる。少々、素っ頓狂なリズムとメロディ。これもラグタイムなんだろうか? それともジャズっていうものかしら? どちらにせよ、今夜もロイは頑張っているな、って思った。早く、ジャッキーもピアノが弾けるくらい元気になればいいのに、とも思った。
 さあ、少年が迎えに来るまで、あと何時間なんだろう。
 わたしの胸は緊張で高鳴った。少年が一緒に行ってくれるとはいえ、蛇の神との対峙を前にして平気な気分ではいられなかった。ナーガってどんな神様なんだろう。大ワニのように話の通じる相手だろうか。
 少年が来たら、わたしたちは満月の光の下、アンコール・ワットへと飛んで行くのだろう。果たしてナーガはそこにいるんだろうか。マイは疑問を呈していたけれど、あそこがクメールの人びとにとって世界の中心だったのは間違いないと思う。だから、蛇神ナーガもあの遺跡のどこかにいるはず。そう信じなければ、どうしようもない。だって、大ワニに会う前だって、少年は「いると思った時点で存在するんだ」と言ってたもの。だから、わたしは「あそこにナーガはいる」って、固く信じることにしていた。
 遅めの夕食を終え、部屋へと戻ると、ソフィーは読書をしていたが、マイはもう眠っていた。就寝には早い時間だったので、どうして、と思った。まだ昨夜のことで怒っているんだろうか。わたしと口を聞かずに済むように、さっさと眠ってしまおうというふうに。
「別に怒ってた感じでもなかったよ」
 ソフィーは、読みかけの「ビーグル号航海記」に栞を挟み、パタンと閉じながら言った。妹は、わたしたちの関係が気まずくなっていることを知らない。「マイも、ちょっと疲れていただけじゃないかな」と、特に関心がなさそうに言った。それよりも、ジャッキーの様子や移動先の館について、いろいろ聞きたがった。
 ジャッキーは今日は一日中、具合の良い状態が続いていた。でも、医師によれば、まだまだ予断を許さないという。特に再び高熱が出ないかと心配しているそうだ。そうなればジャッキー自身の体力低下のため、別の感染症を併発しかねないらしい。また、発熱時のけいれんや、幻視・幻聴、うわ言が通常の流感よりもひどいため、本来は小さな子どもに多い脳症にも注意しなくてはならないと医師は言っていた。
「そうかぁ、まだまだ安心できないのね」
 ソフィーはため息をついた。

 夜が更けてからも、わたしはベッドの中でわたしはまんじりともせずに過ごしていた。少年が来てからのことをいろいろ考えていた。蚊帳を透かしてソフィーとマイの様子をうかがうと、二人ともしっかりと眠っている。いつ少年が現れても、すぐに出発ができると思った。
 それから、どれくらいの時間が経っただろうか。さすがに、半ばまどろみはじめた頃、窓の外で物音がした。わたしはすぐに起き上がり、蚊帳から出た。
 バルコニーで少年が手招きをしている。「さあ、そろそろ行こうか」
「やっと来たわね」わたしは、ちょっと怒ったような声を出した。「今夜はもう来てくれないのかと心配したわ」
「約束したのに来ないわけないじゃないか」少年は笑った。「それはそうと、ナーガの居場所はわかったのかい?」
「多分、ここだろうなっていうのはね」
「どこ?」
「アンコール・ワットの尖塔」
「そこって、このあいだも、夜中に行ったところだよね。あの時はナーガの気配なんて感じなかったけど」 
「ええ、でも今夜は満月だから、あの晩とは違うわ。それに、もし尖塔に現れなかったとしても、きっとアンコール・ワットのどこかにいるはずよ」
「ようし、わかった。それじゃ、飛ぶぞ」
「うん」
 その時、だしぬけに鋭い声が、わたしたちをを背後から貫いた。
「待ちなさい」
 マイの声だった。振り返ると、彼女はぐっと歯をくいしばり、にらみつけるような形相で少年を見据えている。
「そこのあやかし! ちょっと待ちなさい」
 マイは強い調子で言った。
「あやかしって、この男の子は……」
「男の子?」マイは眉をひそめて言った。「エマさんにはわからないのですか、そこにいるのが虎の化け物だということに」
「マイ、何を言ってるの? 落ち着いてよ」
 わたしはマイに言った。
「どうやったら、彼が虎なんかに見えるっていうのかしら」
 そう言って、わたしは少年のほうを振り返った。
 えっ、まさか……。
 わたしは狼狽した。今度は、こっちが落ち着かなければならない番だった。そこにいたのは少年ではなく、マイの言うとおり一頭の虎だった。
 虎は恥ずかしそうに、バルコニーの隅にうずくまり、身を縮めて、わたしのほうを見上げていた。
 わたしは精一杯声を絞り出した。「どういうこと?」
 虎は、少年のままの声で言った。
「ごめん、今までだましていて。これがボクの正体なのさ、誰でもないボクの」
「誰でもないあなたの……」
「ボクが何なのか知れてしまうと、もう少年の姿ではいられなくなる。だから、ボクは名乗らなかったんだ。『誰でもない』ままだったら、ボクは君が会いたいと思っていた人の姿でいられたんだ」
「わたしが会いたかった人……、あの男の子が?」
「そう、ボクにはそれが誰なんだかわからない。でも、君が会いたかった人が、ボクの身体を借りて現れたのさ」
「そうだったの」
「こんな獣の姿のボクはもう嫌いかい?」
「とんでもない」わたしは頭を振った。「今でもあなたが大好きよ」
 わたしは少年だった虎の頭を抱きしめた。そしてマイのほうを振り返った。
「マイ、ありがとう。あなたのおかげで、正しいものが見えるようになったわ。男の子じゃなくなったのは、ちょっと寂しいけれど、彼の本来の姿がわかるようになった」
 マイは黙ったままうなずいた。
「わたしたち、アンコール・ワットへ行かなくちゃならないの。ナーガに会うために」
「それなんですが……」マイが言った。「ナーガが現れるのはアンコール・ワットじゃありません。別の場所です」
「別の場所?」
「ええ、今日、私はもう一度、『地、火、水、風が交わるところ』ってどこなのか調べなおしたんです。そして、間違いないと思える場所を見つけました」
「それってどこ?」
「教えてあげません」
 そう言って、マイは微笑んだ。「私も一緒に連れて行ってくれなければ」
 わたしは戸惑った。マイが一緒に来る? どうやって?
 すると少年だった虎が言った。「大丈夫、その子ならきっと飛べるようになるよ」 

 マイが飛行に慣れるのは、思いのほか早かった。彼女は、そのおっとりとした見た目や性格に似合わず、意外に身軽で敏捷なところがある。だから、夜空の見えない階段を駆け上がるコツを習得するのに、それほど時間はかからなかった。
「これって、本当に私なの?」
 初めて舞い上がったとき、マイは上ずった声でつぶやいた。
「わたしも、最初は信じられなかったわ」と言って、わたしはくるっと宙返りをしてみせた。マイもわたしの真似をして宙返りに挑戦する。
「ほんと、まだ自分だって思えないくらいです」
 マイの上達ぶりもすごかったが、ソフィーも違う意味ですごかった。彼女は三人がすぐそばでドタバタやっているにも関わらず、一切、目を覚まさなかったのだ。少々のことでは起きないぞ、と言わんばかりのなかなか性根の座った就寝ぶりだった。

 わたしたちは夜空を北に向かった。すでに大きくまん丸な月が中空に輝いている。
 まず、わたしたちはアンコール・ワットへと向かい、尖塔のまわりを何周か旋回した。
「ここには確かに多くの精霊たちが住んでいるね。でも、ナーガらしき気配は感じられないな」と少年の虎は言った。
「もっとよく探せば、いるかもしれないわ」わたしは、部屋から持参した双眼鏡で辺りの闇の中を見回したが、いたずらに暗闇が引き延ばされて見えるだけ。この暗さの中では、自慢の双眼鏡もまったくの役立たずだった。
「そんなもので探したって無駄だと思うな」
 少年の虎は首を振った。「精霊やあやかしの類は目で見るんじゃない。気配を感じとるんだ。もし強い神がいれば大気の揺らぎが変わるんだよ。残念ながら、今ここで、そんな強力な気配は……」
 彼がそこまで言ったとき、にわかに空気が動いた。密度の高い何かが、すぐそばで動いている確かな気配。わたしは鳥肌が立つような震えを感じた。マイがわたしに寄り添い、手をしっかりと握ってくれた。
 少年の虎が「気配」に向かって吼えた。それに呼応するように、金切り声のような高い雄叫びが遺跡の闇の中にこだました。
「ナーガが現れたの?」わたしは彼に聞いた。
「いいや、これはガルーダだ」
 突然、大きな羽ばたきの音が聞こえ、風が土ぼこりを巻きあげた。巨大な黒い「気配」が尖塔の向こう側へとゆるりと飛び去った。
「やはり、ここにはナーガはいないって」と少年の虎が言った。
「ガルーダがそう言ったの?」
「うん」
 そこまで言われると、わたしもあきらめざるをえなかった。わたしはマイを見た。
「じゃあ、やっぱりあなたに道案内してもらう必要があるわね」
「おまかせください」彼女は大きくうなずいた。「さあ、ここから北東の方角へ向かいますよ」
 マイが飛んで行く先――眠る樹海の向こうには、大きな長方形の池が広がっていた。表面に波らしいものは何もない。おそらく日中に見れば泥色に濁っているであろう水面も、夜空の下では鏡のように輝き、その表面にきらめく星空を映していた。
 池の中には、ほぼ正方形の島が浮かんでいる。木々に深く覆われた島だ。マイは、その島へ向かってゆっくりと舞い降りて行く。
 少年の虎がつぶやいた。「ああ、確かに強い気配を感じる」
 わたしは島の中央を見下ろした。木々の隙間に水面のようなものが見え隠れしている。
「あれは遺跡?」
 わたしの問いに、マイはうなずいた。「古代の療養所跡ニャック・ポアンです」

 夜のニャック・ポアンには、光といえるものが全くなかった。
 灯りがないというだけならば、他の遺跡だって同じだけど、アンコール・ワットやプノン・バケンは暗いなりにもう少し視界が開けていた。ニャック・ポアンの闇は、暗さの密度がまるで違うのだ。
 いつまでたっても目が慣れない暗さ。
 そこはかとなく不安をかきたてる暗さ。
 これは、遺跡のすぐ脇まで勢いよく迫った密林がつくる闇の濃さなんだと思った。せっかくの満月の晩なのに、月は遺跡を包み込む樹々の向こうに隠れてしまっている。
 島の中には、沐浴池の遺跡があった。五つの池が組み合わさった形――中央の池の東西南北に四つの正方形の池がくっついた形状をしている。上空から見下ろしたとき十字の形、ちょうど赤十字のマークにも似ているように見えたのだけど、これが古代クメールの療養所跡だというのは、ちょっと出来すぎの話のようにも思えた。
「さて、ナーガのヤツ、どこに潜んでるんだろう」
 少年の虎は遺跡の中を見回した。
「大ワニのときのように、水中にもう一つ池があるんじゃない?」と、わたしは言った。
「泡時空のことだね」彼はつぶやいた。
「泡時空って?」と、わたしは聞き返す。
「いま君が言ったような場所だよ。ほら、大ワニがいたようなところ。現実の世界と重なり合うポケットのような時空が時々あるんだ」
「ここにもあるの?」
「うん、あるみたいだな。だけど入り口がわからないんだ」
 彼は飛び上がり、沐浴池の中心にある祠堂やその周囲を探りに行ったが、しばらくすると戻ってきた。
「やっぱり、見つからない」
「じゃあ、ナーガには会えないの?」
「困ったね。せっかく、ここまで来たのにね」
 その時、すっと一筋の光が、真っ暗なニャック・ポアンの中に差し込みはじめた。空を見上げたマイが声をあげた。
「月の光だわ」
 木々の向こうに隠れていた月が、ようやく顔を現したらしい。梢の隙間から漏れた月の光は、東の方角から遺跡を照らした。祠堂の側面が、ほの青く輝く。
「あそこだ」
 少年の虎が声をあげた。「あそこから入れるよ。さぁ、行こう」
 わたしとマイも舞い上がり、あとに続いた。彼は、祠堂の壁面に向かって勢いよく突っ込んでゆく。ああ、壁面にぶつかっちゃう、と思った瞬間、彼の身体は祠堂の中へするりと入っていった。わたしたちも同じように、壁面に向けて体当たりした。「当たる」と目を閉じた次の刹那、わたしたちは青い世界の中にいた。
「水底?」
 わたしはつぶやいた。周囲の光景がゆらゆらと揺れる感じ、そして、空気じゃない重たい液体に取り巻かれたような感覚、おそらくここは、水の底なんだろう。でも、体は濡れていないし、息もできた。
「エマさん、ほら」と、マイが言った。反響するような声。いつもの彼女の声とは少し違って聞こえる。
 彼女は上のほうを指さしていた。見上げると絹のベールのような柔らかな揺らぎの向こうに、少し歪んだ月が輝いている。
「あれは水面ね」
 わたしは言った。
「ここが水底なら、随分と澄んだ水ですね。私は、こんな清らかな池や川を見たことがありません」と、マイが言った。
「あそこに誰かいるようだね」
 少年の虎が言った。
 彼の視線の先を見ると、そこに立っていたのは老齢にさしかかった一人の西洋人――ピエールさんだった。正直に言えば、わたしはピエールさんのことを、あまりよく憶えていない。わたしが五歳の頃に、彼はインドシナへ行き、そのまま再び会ったことがなかったのだから。でも、フォンテーヌ商会のカリスマ的創業者の顔は、写真や肖像画でよく見知っていた。間違いない、これはピエールさんだ。
「ご主人さま……」
 マイが呆然としたような表情でつぶやいた。そうか、マイにしてみれば、つい数年前まで同じ邸に住んでいた当人なのだ。
「これは、どういうこと……」
 亡くなったはずのかつての主人を目の当たりにして、彼女はうろたえていた。
「誰? 知っている人なの」と少年の虎が聞いた。
 わたしたちが答える前に、ピエールさんが微笑みながら言った。
「おお、お前さんはマイじゃないか。元気だったかい?」
「は、はい、ご主人様」
 マイは震えるような声で答えた。
「トゥーさんも、タンさんも元気にしているかい? そうそう、運転手のティンも」
「ええ、みんな元気にしていますわ」
「それにしても、マイも大きくなったな。ほんのちっちゃな女の子だったのに。別嬪になったもんだ」
 そう言ってピエールさんは目を細めた。そして、今度はわたしの顔をのぞき込んだ。
「お前さんは、もしかしてエマじゃないのかい?」
「はい」
 わたしは、少々緊張しながら、大伯父に答えた。
「わたしの顔を憶えていてくださったのですか?」
「いくらなんでも、それは無理だな」
 ピエールさんは笑った。
「わしは、ずいぶん幼い頃のお前さんにしか会ったことがない。それが今は見違えるような麗しいお嬢さんだ」
「じゃあ、どうしてわたしがエマって、わかったのですか?」
「そりゃあ、ミシェルのヤツにそっくりだからさ」
 そう言って、ピエールさんはわたしの顔をもう一度まじまじと見た。
「うーん、よく見ればマリーさんの面影もだいぶ混ざっとるな。両方のいいところばかり引き継いだんだな。お前さんもなかなかの別嬪じゃ」
 そして彼は大きな声で笑った。笑い終わると今度は、わたしが左手に握っている双眼鏡を見た。
「それは、もしかしてアンリが持っておった双眼鏡じゃないかね?」
「そうです。アンリさんから貰ったんです」
「そうか。あいつはそれを宝物のように大切にしておったな。どうじゃ、アンリは達者かね?」
「ええ、ル・アーブルでは随分、お世話になったし、ジャンさんによれば今もご健在だそうです」
「そうかぁ、こんどの大戦争も生き抜きおったのか。あの死に損ないめ」ピエールさんは愉快げに微笑んだ
「ところで――」マイが聞いた。「ご主人様は、どうしてこんなところにいらっしゃるのですか?」
「どうしてって、ここが気に入ったからさ」とピエールさんは答えた。
「でも、確かサイゴン川の嵐で……、というふうに聞いていましたが」
「そうだ」ピエールさんはうなずいた。「川に落ち、沈み、流され、水底の世界へやってきたんだ。水底の世界はどこでもつながっていて好きな場所に自由自在に行けた。わしは、もう一度、アンコールの地に来たかったから、ここまでやってきた。ここは本当に美しいところだ。いつか伝説の大ワニの一頭になれるまで、わしはここに留まるつもりだ」
「大ワニに……」
 はっはっは……。ピエールさんは大笑いした。
「かつては、このわしが伝説の大ワニを仕留めようと狙っておった。それが、今度は自分自身が大ワニになろうとしているんだ。運命とはいえ、皮肉な巡り合わせだな」
「わたしたちと一緒に帰りませんか?」と、わたしは言った。
「そいつはできないな」ピエールさんは頭をふった。「わしはもう、人間の世界と繋がりが切れてしまっておる」
 そして、こんどは彼がわたしたちにたずねた。
「……で、お前さんたち、ここに何か用があって来たのだろう?」
「はい」
 わたしはうなずいた。
「ナーガに会いに来たんです」
「ほう」ピエールさんは、眉をピクリと動かした。「ナーガにな……」
「わたしの大切な友達――ジャッキーの病気を治してもらおうと思って」
「友だちの病気か。確かに、ここニャック・ポアンは療養所の跡だ。しかし、ナーガは医者ではないぞ」
「いいえ、もしナーガが祟っているのだとしたら、その祟りと解いてもらいたいのです」
「ほう、祟りとな?」
 わたしは、ジャッキーのお父さんが、この辺りの密林を切り開き、ゴム園に変えようとしていることを説明した。ピエールさんは黙って聞いたあとで、静かに言った。
「かつて、わしもコーヒー農園の造成に関わったことがあった。そんな、わしが言うのもなんだが、そのゴム園造成計画は無謀だな。ナーガを怒らせてしまった可能性も十分あるだろう」
「じゃあ、なおさら取り成して、ナーガに怒りを静めてもらわなくては」
「取り成す? 無理だ」とピエールさんは断定するように言った。
「えっ?」
「一度、怒ったナーガを取りなすのは無理だと言うておる」
「でも、このままじゃ、ジャッキーはひどい熱が続いて、衰弱しきってしまいます。他の感染症も併発するかもしれないって」
 ピエールさんはチョビ髭を指先でいじくりながら、しばらくなにやら考えていたが、やがて落ち着き払った声でいった。
「いいではないか。小娘の命の一つや二つ、どうなろうとも」
 突然、人が変わったような彼の言葉に、わたしは耳を疑った。ピエールさんがこんなに冷たい物言いをするなんて。
「おやさしいご主人様とは思えない言葉です」とマイも言った。
「その娘一人いなくなったところで大きな影響はないじゃろう。誰もがいずれ死にゆくのだ」
「そんなことはありません。人の命は大切なものです。尊いものです。一人でも死ねば多くの人が嘆き悲しむのです」とマイは言った。
「そうか? 本当にお前さんはそう思うか?」
 ピエールさんは、マイをじっと見つめた。
「人間の中でも、大切に扱われる命、軽く捨てられる命、区別をされておるのをマイはよく知っているじゃろう」
「それは……」
「お前たちの同胞が、ヨーロッパの戦線へ送られたあとの扱いを知っておるか。まるで消耗品じゃ。無惨にうち捨てられた命が数限りなくあった。彼らの多くが、息絶えたあとにこの世界へやってきたよ。そして、ようやく安らぎを得て去っていった」
「それとこれとは」
「違わんな」ピエールさんは言った。「小娘の命一つぐらいで、大騒ぎするべきではない」
 わたしはピエールさんにたずねた。
「そもそも、ナーガはなぜゴム園の造成に怒っているのですか? 森の伐採が、どうして水の神様を怒らせてしまうのですか?」
「そんなことも、わからんか。豊かなメコンの流れをお前さんも見たであろう。あの水量を支えているのは流域の森じゃ」
「えっ、雨じゃなくって?」
「無論、雨は必要じゃ。しかし、考えても見よ。降った水を蓄えているものがなくては、水は一気に海へ流れ出してしまうだけだろう。水を大地に蓄えながら、ちょうど良い具合に流してゆく役割をしているのが森なのだ。そして、雑多な木が生い茂る森は多くの生き物のゆりかごとなり、命を育んでくれる」
「ジャングルなんて、無駄な木がいっぱい生えているだけだと思っていたわ」
「馬鹿なことを言ってはならん。この世に無駄なものなど何もない」
 ピエールさんは重々しく言った。「お前たちが、一人の娘の命を助けたいと願うのと同じように、森の精霊どもは樹々が伐採されてしまうことを恐れておるのだ」
「わかったわ」わたしはうなずいた。「ソルニエさんに頼んでみます。ここにゴム園を造るのをやめてって。だからナーガにぜひ会いたい」
「お前さんらがいくら会いたくとも、肝心のナーガが現れんのでは、どうしようもない」
「ピエールさんは、ナーガを呼び出すことはできないのですか?」
「ナーガは呼び出すものではない。現れたいときには自分から現れるものだ」
 そう言いながら、ピエールさんはしきりに上の方を見上げている。わたしも、つられて水面を見上げた。月がまた隠れようとしている。
「悪いことは言わん。早く帰りなさい。あの月光が消えると、次の満月までここから出られんようになるぞ」
「でも、その前にジャッキーの病気のことをなんとかしないと」
「早く行きなさい。出られなくなっても知らんぞ」
 ピエールさんの言葉どおり、月は水面の端からみるみる消えつつある。
「さあ早く行きなさい」
 ピエールさんは繰り返した。それでも、わたしが食い下がろうとしたとき、背後から強い力で身体をひっぱられた。少年の虎だった。
「その人の言うとおりだ。もう時間がない。行くよ」
 彼はそう言うや、わたしとマイの首元を続けざまに後ろからくわえ、自分の背中に放りあげた。
「しっかり、つかまっているんだよ」
 そして、一気に水面まで駆け上がろうとした。
 マイが水面の向こうの消え去りそうな月光を見てつぶやいた。
「だめ、もう間に合わないかも」
 月は、わたしたちを待とうとはせずに、自らの運行を忠実にこなそうとしている。
 そのとき、ブーンという重低音の羽音とともに黒々と輝く大きな生き物が現れた。
「何だ、ありゃあ?」
 少年の虎が言った。
「スカラベだわ!」
 わたしは思わず声を張り上げてしまった。「信じられないくらい大きいけれど」
 実際、それは巨大なコガネムシだった。象よりも大きいかもしれない。
 スカラベは羽音を響かせて舞い上がり、水面から上空へと飛び出した。そして、夜空で逆立ちをするように四本の中足、後ろ足を持ち上げ、月の進行方向に回り込んだ。前足で懸命に踏ん張っている。どうやら、月の動きを遅らせようとしてくれているらしい。
「よし、今のうちだ!」
 少年の虎は、高らかに一吼えし、全速力で外の世界へと飛び出した。 
「間一髪だったね」
 彼は、ふうーっと息を吐き出した。空を見上げると、月が樹林の向こうに消えようとしている。スカラベの姿はもう、どこにも見えなくなっていた。
「ナーガはどうして現れてくれなかったのかしら?」
 わたしは、ニャック・ポアンの静かな水面を見た。
 その時だ、にわかに風が吹き、樹々が騒ぎはじめたのは。
 密林の奥から木の葉が凄まじい勢いで飛び出し、わたしたちに襲いかかった。葉の一つがわたしの頬を切り、そこから一筋の血がにじみだした。
「森がボクたちに敵意をしめしているのかも」
 少年の虎は言った。
 風はおさまらず、ニャック・ポアンの中で、つむじ風のように巻き上がり、水面を激しく波立たせた。そして、見る間に沐浴池そのものが渦を巻きはじめた。水しぶきが音を立てて、わたしたちに襲いかかる。左手に持っていた双眼鏡が、猛り狂ったような風で飛ばされそうになったが、少年の虎がとっさに大きな口で抑えてくれた。
 なおも渦は激しさを増し、やがて竜巻のように水面から巻き上がっていった。
 竜巻の中に赤い光が無数に見える。
「何かがいるぞ」
 少年の虎は、竜巻に潜むナニモノかに向かって咆哮をあげ、飛びかかっていった。
 いきなり竜巻の水が弾けとび、凄まじい水しぶきが降りかかってきた。思わず目を閉じたが、その刹那、中にいたナニモノかの姿が見えた。幾つもの首を持つ大蛇の姿――ナーガだ。そう思った次の瞬間には、竜巻そのものが天高く舞い上がっていった。
「ではな、マイ、そしてエマ」
 そういう声が耳に届いたような気がした。さっきまで水底で聞いていたピエールさんの声だった。
 竜巻が去ると、風は嘘のようにおさまった。雲ひとつない天には、砂糖粒をふりかけたような星空が広がっていた。
「ピエールさんが、ナーガだったってこと?」
 わたしの問いかけに、マイが答えた。
「ご主人様でもあり、また、ナーガでもあったってことじゃないでしょうか」
「マイの言うとおりだと思うよ。ピエールという人の姿を借りて、ナーガが現れたんだ」と少年が言った。
 えっ、少年?
 わたしは、思わず彼の姿をもう一度振り返って見た。そこには、虎の姿じゃない少年が立っていた。
「あなたの姿も、また人に戻ったのね」
「うん、ナーガがついでに戻してくれたみたい」
 マイがきょとんとした表情で、少年を見つめている。
「今度は、あなたにも男の子の姿に見えるの?」
「はい」マイは、はにかんだような表情を浮かべ、改まって頭を下げた。「初めまして、マイです」
「初めましてなんて、いやだなぁ。姿は変わっても中身は一緒なんだから」
「そうよ」わたしは笑った。「つい、さっきまで『そこのあやかし、待ちなさい!』って、とても威勢のいいマイだったのに」
「あれはもう必死でしたから」
 マイは恥ずかしそうに言った。

 わたしたちは、ニャック・ポアンをあとにし、シェムリアップのホテルへと向かった。
 帰りは、三人ともあまり口をきかなかった。
 わたしには予感があった。これが少年との最後の飛行になるという。
 彼の姿は、明らかに薄くなっていた。透き通って、向こう側が見えそうなくらい。そして、とても、晴れやかな表情をしている。ナーガと出会ったことは、彼にも変化をもたらしたのだろうか。
 バルコニーへ帰ってきたとき、少年はとてもさみしそうにしていた。でも、彼は何も言わなかった。わたしも何も聞かなかった。聞けば泣いちゃうと思った。
 マイは、先に部屋に入って、ソフィーの様子を見ている。妹は、相変わらず何も知らずに夢の中にいる。マイはクスッと笑い、わたしと少年のほうを見た。
「じゃあ、ボクは行くね」と少年は言った。
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
 彼は、いつもどおりに舞い上がり、いつもどおりに去っていった。
 もうすぐ夜明けを迎える夜空に彼が溶け込むように消えてゆくのを、わたしはいつまでも見守っていた。

         十二    空蝉

 ジャッキーが快復した。
 先日までの容態が、まるで冗談じゃなかったのかと思えるくらい、元気でおしゃべりなジャッキーが復活した。
 わたしたちのナーガへのお願いが効いたのかどうだかは、わからない。
 少なくとも大人たちはそんなことを知らない。
 みなから第一の英雄とされたは、コンポンチュナンの医師と看護婦だった。ソルニエさんは、非礼な言動をした侘びをし、丁重に医師に礼を言った。カンボジア人の医師はきわめて鷹揚だった。病状が思わしくないときは、時に家族はそうなるものです、と言って気にしていない様子だった。
 そして、第二の英雄は、ソフィーとポールだった。
 幼い彼らが、ソルニエさんを懇々と説き伏せ、彼の商会がアンコールの森で予定しているゴム園造成のプランを撤回させたのだ。
 ソフィーもポールも、ナーガに会ったわけじゃないけれど、熱帯雨林が自然界で果たす役割について、ちゃんと熟知していた。森の保水機能だけじゃなく、二酸化炭素を吸収し酸素を作り出す効果、多種の樹木が作り出す複雑な環境とそこに住む生物の多様性、また樹林の環境に支えられた現地の人びとの生活、密林のそこかしこに未だ眠る遺跡の文化財的価値など、多岐にわたるその訴えの内容は大人の学者も顔負けの充実ぶりだった。
 ソルニエさんも娘の病気で気弱になっていただけに、素直に二人に耳を傾けた。それに何より、そもそも三人ともファーブルの『昆虫記』を愛読する者同士だ。たちまち心が通じ合い、意気投合してしまった。
 ソルニエさんは資本家としての厳しい心を、脇に追いやり彼らの訴えを聞き入れて、ゴム園造成計画を白紙に戻すことを決めた。すると、とたんにジャッキーの容態が良くなりはじめたものだから、「ほら、やっぱり森の精霊たちの祟りだったんだ」と噂しあう人びともいた。 
「結局はジャッキーが快復したんだから、どうだっていいんだけれど」わたしはつぶやいた。「わたしたちのあの苦労はなんだったんだろうね」
 マイはクスッと笑って言った。
「いいじゃありませんか。あの夜のことは、私たちの胸にそっとしまっておけば。ピエールさんに再会できただけでも、わたしは良かったのだと思っています」
「その通りね」とわたしはうなずいた。
 ところが驚いたことにジャッキー本人は、わたしたちの活躍をちゃんと知っていた。マイと一緒に彼女のもとへ見舞いに行ったときのことだ。いきなり「私のために危ないめにあってごめんね。いろいろありがとう」なんて言って、わたしとマイの手を握るので、びっくりしてしまった。
「なにが?」ってとぼけて聞くと、全部夢で見た、って彼女は答えた。わたしたちが夜空を駆けて、ナーガに会いに行ったことも知っていた。あの夜、ジャッキーはスカラベ石を握りしめて眠っていたそうだ。ニャック・ポアンの水底から脱出するときに現れたでっかいスカラベは、もしかすると彼女の祈りが生み出したものだったのかもしれない。
「でも、ナーガの居場所をつきとめた一番の名探偵は、マイとロイだったわね」とジャッキーは笑った。
「えっ、ロイも関わっていたの?」
 わたしは逆に問い返した。
「そうよね?」
 ジャッキーはマイに聞いた。マイは、「ごめんなさい、まだエマさんに説明していませんでしたね」と言い、ニャック・ポアンという答えを導き出したいきさつを説明してくれた。そして、その日の午後に、シェリーさんと現地へ下調べに行ったことも。
「もちろん、ジャンさんにも感謝してるわ。みんなが協力してくれたおかげね」
 ジャッキーはそう言ってもう一度、わたしとマイに「ありがとう」って言ってくれた。

 あの夜以降、少年は現れなかった。もちろん、わたしもマイも二度と飛ぶことはできなかった。
 なぜ、少年は来なくなったんだろう。あれから、いろいろと考えた。おそらく彼の魂が救われたのだろうって、考えるのが一番しっくりきた。彼の行くべきところにようやく行けたのだと。
 ましてや彼が誰だったかなんて、今更わからない。わたしが一番会いたかった人だなんて、彼自身言っていたけれど、わたし自身に心当たりがない。
 ネモ船長? わたしはネモ船長に会いたかったのだろうか。もし、そうだとして、なぜ、彼は少年の姿でわたしの前に現れたのだろう。彼は、そう……、誰でもない――夜から舞い降りてきた少年のままでいい。わたしはそう思った。

終章

     終章

 ジャッキーの身体が安定したのを見てから、スタンレー家の三人はシンガポールへ帰って行った。わたしたちサイゴンから来た一行も、その二日後、シェムリアップを去ることになった。
 ジャッキーも、急速に快復していて、館の庭で遊べるぐらいになっていた。わたしたちが帰る日はトンレサップ湖の船着き場まで見送りに来てくれた。彼女にしてみれば、久々の遠出だった。
 船着場は、シャムリアップに滞在していた数週間のあいだにずいぶん沖側へと移動していた。乾季に入るとほとんど雨が降らないので、湖の水位がどんどんと下がってゆくのだ。
 桟橋で、わたしはジャッキーの手を握った。
「じゃあね、ジャッキー。また、近いうちに会えるといいね」
「戦争も、もう終わりだし、今までよりももっと会いやすくなるわ」と彼女は言った。「今度は私の方がサイゴンへ遊びに行こうっと」
「うん、おいでよ」
「じゃあ、それまでにエマとマイで、おいしいベトナム料理のお店を見つけておくこと。わかった? 必ずおいしい店よ。そうじゃなきゃ、私は行ってあげないから」
 うーん、この上から目線の物言い――やっぱり、これでなくっちゃ、ジャッキーじゃない。マイも、こういうジャッキーの性格に慣れてきたのか、笑って聞いている。
 ポンポン蒸気のランチ船は泥水の湖面をゆっくりと進んでゆく。桟橋に立つジャッキーの姿が次第に小さくなる。わたしは、ずっと手を振っていた。彼女の姿が見えなくなるまで手を振りつづけた。見えなくなったら、今度は双眼鏡でジャッキーの姿を見つめた。ジャッキーも船が湖面の彼方に見えなくなるまで、ずっと見送り続けてくれていた。

         ※

 その後、結局、ジャッキーとの再会を果たせないまま、わたしはインドシナの地を離れることになった。
 思いもよらない不幸が突然我が家を襲ったのだ。
 お父さん――ミシェル・フォンテーヌの突然の死。まったく想定外の出来事だった。
 今年の雨季の初めに、インドシナから中国にかけて大流行したのがコレラや赤痢などの感染症だった。もちろん我が家でも、飲み水や食べ物には十分警戒していた。とりわけ、わたしやソフィーは大人より抵抗力が弱いので、細心の注意を払っていた。まさか、家中で一番力が強くて、丈夫なお父さんが感染してしまうとは思わなかった。
 どうやら、お父さんはハノイ方面で新しく開発している農園の視察中に感染してしまったらしい。コレラだった。ただ、コレラがいくら怖いといっても不治の病ではない。療養すれば良くなるだろうと、希望を持とうとした矢先に、重症化し、あっという間に帰らぬ人となってしまった。
 しばらく、お母さんは腑抜けのようになっていた。それでも、何とか平常心を取り戻そうと、「お父さんは神に召されたのよ。天国で笑っているはず」とわたしたちに何度も言った。それはまるで、自分自身を納得させるために繰り返しているようにも見えた。
 もちろん、わたしにとっても、お父さんの死は強烈なショックを伴う事件だった。どう受け止めていいのか、わからなかった。肉親を失った喪失感とはこんなに大きいものだったのかと、改めて呆然とする思いだった。もう楽しいこと、うれしいことがあっても、一緒に笑うお父さんはいない。この事実だけでも、わたしを打ちのめすのに十分だった。
 そんな、わたしにトゥーばあやは、そっとささやいた。
「強く生きて行けば、いつかまたお父さんに会うことができますよ」
「それは生き返るってこと?」
「まさか、亡くなった方が生き返るわけがありません」
 トゥーばあやは、優しい目でわたしを見つめた。
「でも、生き物の命は、一度死んで、それでおしまいっていうわけじゃありません。何度でも、命を繰り返すのです」
「何度でも?」
「ええ。あなた――エマさんの命も、次は別の形で生まれ変わるのですよ」
「生まれ変わる……」
「だから、エマさん自身が会えるのか、来世のあなたかわかりませんが、きっとお父さんの魂にどこかで会えるはずです」
「そう……」
 わたしには、まったく理解できない考え方だった。でも、理解できないなりに、気持ちが楽になったのは事実だった。お父さんの魂は消え去ったわけじゃない。その魂といつかどこかで会えるかもしれない。そう思うだけで、わたしには強く生きてゆこうという力が涌いてきた。

 フォンテーヌ商会のサイゴン本部の指揮は、ジャンさんに任せることになった。郊外のお邸もジャンさんとシェリーさんに引き継いでもらった。
 つらかったのはマイとの別れだった。サイゴン港でわたしたちは傍目をはばることなく大声で泣いてしまった。わたしは彼女に、お気に入りの服や本をいっぱいプレゼントした。そんなものもらってうれしかったのか、どうかわからないけれど、マイは大切にするって言って、わたしがよく着ていた服をしっかりと胸に抱いてくれた。
 プノンペンのジャッキーとは、手紙だけの別れとなってしまった。でも、彼女は、いつかフランスに帰ってくるだろう。その時は絶対に会おうって誓い合った。

 そして、今わたしはインド洋を西へ向かう航路の上にいる。六年前、満天の星の下でネモ船長と語り合ったのと同じ海だ。
 陽光の下でたゆたう海は戦争前のあの頃と、まるで変わらない表情をしていた。
 これから、わたしはフランスへ帰る。きっと、そこは六年前とは何かが違っているはずだ。大きな戦争を経験したフランス。古い時代の何かを脱ぎ捨てたはずのフランス。そして、もうお父さんのいないフランス。
 わたしはシェムリアップのロイ・キングから届いた手紙を開いた。出航してからも幾度となく読みかえした手紙――。なんとロイは、わたしがジャズ・シンガーにならないかと夢見ているそうだ。
 ――エマ。オレは君が歌う『アメイジング・グレイス』を何度も思い返すよ。実際、君の歌声は心に届く。響く。そして何かを溶かすんだ。何なんだろうな、聞いた後、心がすっと軽くなる感じなんだ。地中海で漂っていたあの晩――、まぁ、オレがロクでもないことばかり考えていたのは話したとおりなんだが、その間も、君が歌う『アメイジング・グレイス』が、心の中でずっとリフレインされていたんだ。まあ実際、そういう才能――他人の心を震わせるような能力は誰にでもあるもんじゃないんだぜ。どうだい? フランスに帰ったら、ちょいと音楽の勉強でもしてみたら。きっと、モノになると思うんだが。ちょっとしたジャズ・シンガーぐらいにはなれるかもしれん。オレはもう一度、進化した君の『アメイジング・グレイス』を聞けることを夢見ている。
 歌を褒めてもらえるのは、悪い気がしない。でもジャズ・シンガーだなんて……、笑わせる夢だ。「人の人生をなんだと思ってるの、ロイ」って文句をつけてやりたいくらい。でも――、心の片隅では、こんなふうに考える自分もいる。もしかしたら、これからの新しい時代は、それくらいハチャメチャな生き方をしてもいいのかもしれない、って。
 わたしは、文章を書く手を休めて、デッキの隅に立つクルーに手で合図した。クルーはいそいそとわたしの側にやってくる。わたしは、冷たいソーダ水が欲しいと注文した。クルーは、「承知しました」と流暢なフランス語で言って、白い歯をニカッとみせた。
 わたしはクルーに言った。
「ねえ、そろそろ教えてくれたっていいんじゃない。あなたがどうやって助かったのか」
「いや……」彼は困ったような笑みを浮かべた。「もう納得してくれよ、エマ。あの日のことは本当に何も憶えていないんだ」
「そんなわけないでしょう。ロイだって、波瀾万丈の物語を語ってくれたわ」
「申し訳ないが、僕にはそんな物語はない。海に投げ出されて、気を失って、次に気がついたらボラボラ島の砂浜に戻っていたんだ。それだけなんだ」
「そんなわけないでしょう。どうやったら地中海から太平洋のど真ん中の島まで流れ着くって言うの? あなたは瞬間移動ができる魔法使いなの?」
「いやあ、そこんところが、僕自身にも不思議なんだよ」
「まあ、いかにもティアタらしいけれど」わたしは不満げにつぶやいた。「どうでも、いいけれど、ソーダ水早くね」
「はいはい、まったく人使いの荒い乗客だ」ティアタは笑った。「さあ、がんばって働いて、お金を貯めて、モンマルトルにアトリエ借りようっと」
 彼は、はりきって声をあげた。そして、振り返ってティアタは言った。
「もうすぐ、コロンボに到着するけれど、憶えているかい?」
「何を?」
 わたしは首をかしげた。
「ほら、あの店だよ。スタンレーさんやソルニエたちと行ったあの店」
「ああ……、あの英国料理店」
「行ってみないかい? 君のお母さんやソフィーも誘って」
「いいけれど……」
 ティアタは強い表情でうなずいた。
「大丈夫。僕はボラボラ人として、自信と誇りを持って生きているから」
「うん」わたしはうなずいた。「ぜひ行きましょう」
 ティアタもうなずき、「そうそう、ソーダ水を忘れちゃいけなかったな。小うるさい乗客もいることだし」とつぶやきながら去っていった。わたしはその後ろ姿に向かって、ジャッキーゆずりのアッカンベーをした。
 わたしはソーダ水を待ちながら、空を見上げた。もう数日のうちに別れることになる熱帯の青空と雲が広がっていた。
 さて、いよいよ、この手記も本当におしまい。この続きは、わたしが自分の意思で素敵に彩ってゆくつもりだ。
 では、またね。未来のわたし。
                                     (了)

南天流星夜想曲

※1 万葉集442 読み人知らず  世の中は空しいものだと教えようとして、この照る月は満ち欠けするのだろうか(意訳) 

※2 柿本人麻呂歌集、万葉集7-1068番  天上の海に雲が波立っている。そこを月の船が輝ける星々の林の中を漕ぎ隠れてゆくのが見える(意訳)

※3 「把酒問月」李白(中国・盛唐の詩人)
澄んだ空に月が上るようになって、どのくらい時が経ったのだろう。
今、私は杯を休め、月に問うてみたい。
人が明月をとらえようとしてもそれは不可能だ。
なのに月は人にどこまでもついて来る。
飛鏡が(仙人の)赤い宮門を照らすように、白く輝きながら、
緑のもやをすっかり消し、清浄な輝きを発している。
だだ、宵に海上から昇るところを見ているが、
暁に雲間に沈みゆくのをどうして知っているだろうか。
(月に住む)白い兎は、秋から春になってもまた(不老不死の)薬をつき、
(月の女神)嫦娥は一人ぽっちで月に暮らし、誰の隣りにいるというのだろう。
今の人は昔の月を見ることはできないが、
今と同じ月は、かつて古人を照らしていたのだ。
古人から今の人へと流水のごとく移ろったが、
ともに明月を見て、みなこのように思ったのだろう。
ただ願わくば、歌って酒を飲むときは、
月光がとこしえに金色の酒杯の中をずっと照らしてほしい。
(意訳)

※4 「月の光」ポール・ヴェルレーヌ (堀口大學訳)

※5 
驚くべき神の恵みよ。なんというやさしい響きだろうか。
私のごとき罪深き者でさえも、神はお救い下さった。
かつて私は見失われた存在(迷える羊)だったが、いま見つけていただいた。
これまで何も見えていなかったが、今はしっかり見えている。(意訳)


参考文献

世界各地のくらし23 ベトナムのくらし 野田一郎/吉田忠正 ポプラ社
ベトナムで赤ちゃんを産んで愉快に暮らす 岡村ゆかり 筑摩書房
ナショナル ジオグラフィック 世界の国 ベトナム ジェン・グリーン著 ほるぷ出版
クライトーンのワニたいじ ナリン・シャウピブーンキット (著), ふせ まさこ(訳)新世研
サイゴンの昼下がり  横木安良 新潮社
死をふくむ風景 私のアニミズム  岩田慶治 日本放送出版協会
どくとるマンボウ航海記 北杜夫 中央公論社・新潮社・角川書店
ベトナムの昔話  加茂徳治・深見久美子 編訳  文芸社
アジアお化け諸島 林 巧 同文書院
メコン 石井米雄・文 横山良一・写真 めこん
スリランカの民話Ⅱ 東京P・P会
生命の木 アジアの人びとと自然 大石芳野 草土文化

南天流星夜想曲

時は20世紀初頭。フランス、ル・アーブル育ちの10歳の女の子エマは、大叔父の死をきっかけに家族とともにインドシナへ移り住むことになった。 未知の国、インドシナって一体どんな所なんだろう? 期待と不安の混じった思いを胸に、エマは客船ビクトル号でインドシナの中心都市サイゴンへと旅立つ。 その航海の途上、次々と触れる新しい国々や文化、親友ジャッキーや客船乗組員たちとの出会い、そして、刺激と不思議さに満ちた体験を通じて、彼女は少しずつ成長してゆく。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 第一章
  3. 第二章
  4. 第三章
  5. 第四章
  6. 終章