つぎはぎ細工

 私は朝に弱い。夜どんなに早く寝ても、寝坊する。理由はどうやら父親の遺伝らしい。朝、起きられないのが遺伝するか分からないが、父親も朝に弱く、会社勤めだというのに母親に起こされなければ昼頃まで寝ている。
「紗希―っ、遅刻するよ」
 今日も綾が私を起こしに部屋まで来てくれていた。
 生き返ったように勢いよく起き上がると、慌てて制服に着替え、下の階に下りていった。
 リビングには朝食の匂いが漂っていて、焦る私を和ませる。テレビの音。トーストの匂い。コーヒーの香り。
「紗希、早く」
 綾の声で我に返ると、トーストを一枚口にくわえて、家を出た。
 車通りが少ない通学路は、学生のいない日中や休日は寂しいほどに閑散としている。住宅が軒を連ねていて、店が数えられるほどにしかないからだ。おかげで住みやすいところだが。
「もー、遅いよ。今日、始業式だっていうのに」
 綾は不安を帯びた面持ちで呟いた。
「ごめん。昨日の夜、考え事しててさ」
「考え事?」
 綾が意外そうな顔をした。
「うん。私、ずっと今の自分に甘んじてきたけど、学年も上がることだし、変わらなきゃ、と思って。それで具体的に何しようか考えてたら、寝るのが遅くなっちゃって」
「ふーん」
 綾が腕時計を見て足を速めた。私もそれに合わせて速める。
「それで見つかったの?」
 彼女はいつも私の話を親身になって聞いてくれる。そして的確な答えを示す。私の人生は決して恵まれているとはいえないが、こんな親友がいるだけでも十分だろう。
「見つからなかった」
 私は力なく首を横に振った。
「背伸びする必要ないんじゃない?」
「え」
「無理しなくても、神様がチャンスを与えてくれるって。だからいつも通りにして、それを待ってればいいのよ」
 その言葉は私の胸の奥深くまで染み込んだ。
 無い頭使って無理するより、他力本願的でもチャンスを待っているほうが後悔しなくてすむかもしれない。


 砂が敷きつめられた校庭の中学校に着くと、職員室の掲示板の前に人が群がっていた。毎年、学校の初めに必ずあるクラス替えだ。私たちもそれに混じった。
 私の苗字は相川だから、こういう時すぐ見つかる。女子の出席番号だったら誰よりも早い。全国的にも相川という苗字はつわものだ。
 この学校は一クラス三十人前後で、四クラス制。二年生と三年生は同じクラスなので、私たちにとってこのクラス替えは今後の学校生活、ひいては人生を左右するほどの重要性を有する。
 四組に名前を見つけると、私の名前のすぐ下に綾の名字「岩永」があった。
「やった。綾、同じクラスだよ」
「本当だ。やったね、紗希」
 二人で飛び跳ねて喜んだ。二人の肩より長い髪が揺れ、笑顔がこぼれた。
 綾と同じ学校になったのは、小学校五年生の頃。綾がここらに引っ越してきて出会った。クラスは違ったが、行事などで話す機会が多くなり、次第に意気投合した。そして今日、初めて同じクラスとなった。
 勉強ができて、愛想もよく、要領もいい綾。勉強も運動もだめ、何かと周りの足かせになってしまう私。そんな対照的な二人なのに、いや、対照的だからこそ見えない部分で惹かれあったのかもしれない。
 四組の教室に入ると、すでに女子たちがいくつかのグループに分かれていた。私たちもその一つに加わった。
 そのグループの中心になっていたのは、竹早未姫だった。
 私はずっと未姫に憧れを抱いていた。かわいくて、成績優秀で、話も上手くて、何でもできる彼女に。もちろん男子の人気も高い。普通、こういう人は一部の女子に嫌われるものだが、未姫はそんなことがない。上手くバランスをとって、程よく好印象を与えている。自分がもし未姫だったら、と想像するだけで顔がにやけてしまう。
だけど、いざ自分を省みると見劣りして、自己嫌悪に陥る。
 キーン コーン カーン コーン
 チャイムが鳴った。そういえば、小学校のチャイムは教会の鐘のみたいな音が放送で流れていた。懐かしい。
 懐古にふけっていると、木製のドアが開き、女の先生が入ってきた。彼女が二年四組の担任だ。名前を佐久間という。担当教科は英語だが、海外に行ったことが無いためか、発音がきれいとは言い難い。また、美人で優しい。しかし、意外にも怒ると迫力がある。
 私は席を探した。といっても、すぐに見つかる。黒板と先生が近くで見られる一番前。二つ後ろの席が綾で、隣は小笠原拓哉という男子だった。佐久間先生の話の合間に隣の少年を観察した。活発な印象を受けるが、運動をしていそうな雰囲気は感じられない。日焼けもしていない。彼の部活は何だったろうか。
 先生の話、始業式が終わり、下校となった。私はかばんを持って帰ろうとすると、小笠原に話しかけられた。
「あの、相川。ちょっといいか」
 私は彼のことを知っているが、話したことはない。
「うん、何?」
 普段あまり男子と言葉を交わさないから、少し緊張する。
「お前、ギターやってたって本当?」
 初対面の男子に「お前」と言われて抵抗を覚えたが、気にせず言葉の意味を考えた。
 どこで聞いたのか私がギターできることを知っていた。いきなりこんなことを聞いてくるあたり、彼の意図するところが見えてきた。
「やってたけど」
「じゃあ、ぶしつけで悪いけど、バンド組まねえ?」
 やはりバンドだった。どうして男子はそうバンドをやりたがるのだろう。
 しばらく答えないでいると小笠原が慌てて付け足した。
「今のところ、メンバーはおれと杉内、浜中の三人。男子ばっかりで嫌かもしんないけど、もし良かったら」
 杉内も浜中も名前は聞いたことあるが、面識はない。あまり気が進まないなあ。
 しかし断りきれず、返事は保留にしてもらった。


 春になってもまだ肌寒く、風呂に入るときは苦労する。それでも私は風呂が好きだ。ゆっくり考え事をするには最適な場所だし。
 今日の考え事のテーマは、やはりバンドをどうするかだ。私の中では七割方、断る方針で固まっている。知らない男子と組むのも、人前で演奏を披露するのも私を憂鬱にさせるだけ。
 一方で、やってみよう、という気持ちも少なからずある。ギターは私の唯一の特技と言ってよく、みんなにいいところを見せたい気もする。
 ふと、綾が言っていた言葉が浮かんだ。
 神様が与えてくれたチャンス
 もしかしたら、これは神様が示してくれた素晴らしい学校生活の入口かもしれない。だとしたら、これを逃せば二度とチャンスが巡ってこない恐れがある。           
 確かに不安はある。上手くいくかなんて分からない。でも、やってみなければ、結果なんてそれこそ分からない。知らない男子というが、その人たちに自分の人生を賭けてみるのもいいかもしれない。
「よし、やってみよう」
 口に出して意を決した。
 結果を後悔したとしても、臆病な自分が一歩踏み出したことは後悔しないだろう。


「小笠原君」
 翌日の学校で、朝休みに話しかけた。教室には、勉強しているがり勉君、固まって笑い合っている人たち、本を読んでいる人などが、それぞれの朝休みの過ごし方を見せていた。
「私、バンドやってもいいよ」
 我ながらスッと言葉が出てきた。小笠原は嬉しそうに笑った。
「本当か。ありがとう。じゃあ、杉内と浜中にも伝えておくよ」
 彼が去っていくと、入れ替わりに綾が目の前に現れた。
「何かやるの?」
 不思議そうに私と小笠原の後ろ姿を見比べる。そういえば、このことを何故か綾に相談していなかった。自分でも理由がわからない。
 あらましを説明すると、綾はやはり驚いた顔をした。
「じゃあ、紗希、バンドやるの?」
 綾の目は、一人で田舎まで行く子どもを心配する親の目と同じ色をしていた。
「うん。自信はないけど、これがたぶん、綾が言っていた神様に与えられたチャンスだと思うから」
 綾はまだ心配そうな表情だったが、やがて「そうね」と小さく笑った。
「チャンスだとしたら、逃さない方がいいよ」
 よかった、綾も賛同してくれた。
 私はこの決断を悔いることはなかった。
 昼休みには浜中にも会った。
「バンドやってくれるんだよな?」
 この時、私はちょっと違和感を覚えた。言い方が上から偉そうに言う言い方だったからだ。でも、腹立たしくはなかった。彼にどこか相手の気分を悪くしない何かがあるようだった。
「うん、そうだけど」
 私が頷くと、浜中は笑顔を作った。その笑顔は爽やかで、女子受けが良さそうだ、何て勝手に思った。
「今日から早速、集まろうと思ってるけど、時間空いてるか?」
 私は頷いた。部活に入っていないし、習い事も塾にも行っていないから、学校が終わると暇なのだ。
「じゃあ、放課後になったら教室にいて。許可取れたら音楽室で、とりあえず今日は話し合いだけでもしよう」
 私は、こくん、と頷いた。言いたいことを言い終えると、浜中は私に別れを告げた。
 バンドメンバーの全貌が見えてきた。最初に話しかけてきて、私を誘った小笠原。今、偉そうな印象を残していった浜中。そして、杉内という人がいるらしい。彼には放課後、会うだろうがどんな人なのか楽しみになってきた。


 学校とは不思議な場所だ。
 私は不安と期待の狭間で、暗闇の中で慎重に足を踏み出していくように毎日を過ごしている。でもそれは、学校がなかったら想像すらしなかった日々。学校は嫌いだけど、好きでもある。
 心に決めていることがある。いつも上手くいかない私だが、今回は最後まで諦めない。その「最後」の定義は、自分で決めるものだとしても。


 授業をいつも長く感じてしまうのだが、予定のある放課後を待っていると時間があっという間に過ぎた。なるほど、こうすれば興味のない日本の歴史を語られて、将来使えると思えない数学の問題を解かされたりする時間が短くなるのか。
 ひと足先に帰る綾に別れを告げ、教室でおとなしく待つ。
 やがて二人がこちらに寄ってきた。
「あれ? 杉内は?」
 小笠原が浜中に尋ねた。浜中は苦笑した。
「あいつのことだから、一人で先に音楽室に行ってるな」
 小笠原も納得の表情を浮かべた。何となく、杉内の性格が見えた気がした。
 二人について、音楽室へ向かった。
 音楽室は、外からでも人がいるかが窺がえる。電気をつけないと何も見えないほど薄暗く、日当たりの悪い場所にあるため、電気がついている=人がいる、の方程式が成り立つからだ。
 電気がついていなかった。つまり中に人はいない。
 ふらっと、手すりに頭を委ねて階下を望んだ。一階の職員室前で誰かが佐久間先生と話していた。あれが杉内だろうか。そう思ったが、声にはしなかった。
「あ、杉内いた」
 小笠原も見つけて、彼を杉内だと確定させた。
 改めてかれの容姿をよく見てみた。髪は男子にしては長めで、前髪が目を覆っていた。だが合間から覗ける彼の目は、目つきが悪いが、それがかっこよく見えた。
 杉内がこっちに気付いて、叫んだ。
「だめだってよ」
 それだけ言って、階段を上りに消えた。だめということは、音楽室を使ってはいけない、ということだろうか。だとしたら、ずいぶん冷たい対応だ。何か理由があるのかな。
 杉内が上がってきた。ちらっと、私に視線を向けてきた。私は笑顔で応じたが、自分でもひきつっていると分かる。彼は私に何も言わず、小笠原と浜中のほうを向いた。
「教頭がだめだってさ」
 淡々とした口調で述べた。社長のスケジュールを機械的に読み上げる秘書のように。
「え、教頭がだめって言ったのか? 理由は?」
「部活でもないのに、放課後に活動しちゃだめだとさ」
 私は不思議に思った。それだけの理由で、要求をあっさりつっぱねるものかな。
「だったら、部活にしてもらえるように頼みに行こうぜ」
 浜中の言葉に二人が頷いた。私もぼんやりと首を縦に動かした。
 階段を下りて職員室の前まで来る。「失礼します」と誰からともなく言ってドアを開け、教頭先生を呼んだ。
「何だね。さっきの続きかな」
 人差し指でメガネを押し上げた。たぶん、彼の癖なのだろう。男子が真似して、面白がっていたのを見たことがある。
 ふと、彼の冷たい眼差しが杉内を一瞬だけ捉えた気がした。気のせいだろうか。
「お願いします。我々の活動を部活動として認めていただけないでしょうか」
 浜中が代表して頭を軽く下げた。
「ふざけるな」 
 だが、教頭先生は冷たかった。
「部活を増やすと金がかかる。どうしても、と言うのなら、他の部活をつぶしてからだな」
 そんなことをしたら、どの部活だって寝耳に水だろう。「そんなことはできません」と、浜中が答える。
「ならば、許可するわけにはいかんな。今日は帰りたまえ」
 こんなひどい男が教頭先生だなんて、信じられない。これが人の上に立つ者がやることだろうか。私は無性に腹が立った。
 でも、疑問が一つ生じた。いくらなんでも、こんなにまで教頭先生が拒む理由がわからなかった。そして、杉内に向けられた眼差しも。


 思惑通りに事が運ばなかった私たちは、学校の近くにあるファーストフード店で話し合うことになった。浜中と小笠原は、荷物を置くとすぐに注文にいった。杉内はまったく動く気配もなく座っていた。私も彼に聞きたいことがあったから残った。
「あの、杉内君」
 恐る恐る話しかけた。杉内は、目だけこちらを向かせた。
「三人の中で教頭先生に恨まれるような事をした人いる?」
 初めて話しかける言葉がこれとは、我ながら半ばあきれる。
 私は反対された理由が、私怨的なものだと踏んでいた。 
「いる。おれだ」
 彼は即答した。即答されて驚いた。心当たりがあったのかな。
「ちょっと前に、俺が掃除中にふざけてて、水で濡れた雑巾投げたら、たまたま教頭に当たってよ」
 私はその光景を浮かべて、笑いを漏らしてしまった。顔を上気させた教頭先生が目に浮かぶ。
「もちろん、カンカンに怒って、おれを退学にさせる、とかわめいてたけど、校長が取り成してくれた」
 おそらく、それが今回の原因だろう。そのことを教頭先生はかなり根に持っているようだ。これで冷たい眼差しの理由も頷ける。
「だったら、その校長先生にまた助け舟を出してもらったら?」
「残念ながら校長は今、入院中」
 チキンナゲットのセットを持ってきた小笠原が言った。「そんなに重くはないけどね」と、浜中が補足する。
「だから教頭の許可が必要だってわけ」
 浜中の手には、ポテトとジュースが四つずつ乗ったプレートがあった。それを一つずつ全員に配った。
 校長先生が入院しているとは知らなかったが、それでも彼の助けは必要だ。このまま教頭先生に頼み続けても変わらない。
「でも、やっぱり、校長先生の助けが必要だと思うよ。早く部活動を始めるためにも」
 何とか言い切った。面識が薄い男子に話すだけでも、だめな私は苦心する。
 私の言ったことに、小笠原と浜中が頷いてくれた。杉内はまるで聞いていないような顔をして、黙っていた。
「じゃあ、今から病院に行ってみるか。校長が入院してる」
 浜中が提案した。
「今から?」
 小笠原がチキンナゲットにかぶりつきながら、困惑の表情を浮かべた。
「一日でも早く部活動を始めたいからな」
 浜中が言い終らないうちに、杉内が突如、立ち上がって、走り出した。予期していたのか、浜中もそれに続いた。
「お、おい! 待てよ!」
 小笠原はナゲットを口にくわえたまま、慌てて走りだした。そのぐらい置いていけばいいのに、と思いながら私も走り出した。


 病院はそこから二キロ離れたところにある。体力のない私は途中でばてて、先行する三人を見失ってしまった。
 病院の場所は知らないが、名前は知っていた。
「向井病院だ!」
 はぐれそうになる寸前、浜中が叫んで教えてくれたからだ。もう走るのを諦めて、道行く人に、
「向井病院はどこですか?」
 と尋ねながら、徒歩でそこを目指した。
 やっとの思いで病院に達した。正面ゲートから入ろうとすると、ちょうど自動ドアが開いて、中から嬉しそうな顔をした三人が出てきた。
「おう、遅かったな」
 小笠原の声は心なし弾んでいた。
「もう済んだぞ。これ見ろよ」
 浜中が一通の封筒に入った手紙を差し出した。宛名には確かに教頭先生の、差出人には校長先生の名が記されていた。わざわざ手紙を出すとは。今の時代、電話で済ませればいいものを。でも、手紙のほうが重みがあるかも。
 三人が喜んでいる、ということは、校長先生は部活を認める発言をしたということだろうか。
「よっしゃ、早速これ渡しに行こうぜ」
「焦りすぎ。とっくに下校時間だって」
「杉内の言うとおりだ。渡すのは、明日の朝とかでいいだろう」
 この三人は長い付き合いらしい。なんてことない会話の中にも絆の強さを感じさせる何かがある。この三人のやりとりを見ていると、憧れのような羨望のような感情が湧き上がってくる。
 それだけに、不安にもなる。私がこの中に入れるのだろうか。いつか心が通じ合う日が来るのか、と。もし来ないと分かったら、私は自分からこのバンドに別れを告げよう。今はただ、その日が来ることを信じてやっていくしかない。


 夕闇が空を侵食し始め、やがて世界は漆黒に覆われ、街には文明の灯りがともる。そしてまた朝が音も立てずにやってくる。世界で何が起こってもその秩序は変わらない。戦争が起こっても、大切な人との別れがきても、無情にもそれを繰り返し続ける。
 私の昨日までの日々は、その繰り返しの中で平凡に過ぎていった。でも、今日は違った。結局、バンドはできなかったものの、放課後に目的を持って過ごすのは、意外と有意義だった。一年のときも何か部活をやっておけばよかったかもしれない。
 そんなことを考えて風呂に浸かっていると、ややのぼせ気味になって、風呂から出た。
 タオルで体を拭きつつ、洗面台に置いた携帯を見やると、メールが来ていた。送り主は浜中。そういえば、帰り際に教え合ったな。タオルを体に巻いて、浴室のすぐ隣の自分の部屋へ行ってから内容を読んだ。
「浜中です。今日はお疲れ。明日からバンドの練習、始めようと思うから、ギター持ってきて。あと、もしかして二つ持ってない? 持ってたら、大変かもしれないけど、持って来てくれる? お願いしまーす」
 ギターか。幸か不幸か、私は二つ持っている。習い始める頃に買ってもらったのと、お父さんからお下がりでもらったもの。大変だろう、なんて簡単に浜中君は言ったけど、非力な私にとって本当に大変だ。綾の助けを借りなければ。
「お疲れです。二つ持ってるよ。明日持って行くね。おやすみなさい」
 返事を返すと、体を包むものがタオル一枚だと気付き、風邪をひく前に寝巻きに着替えた。
 そして明日もいい日になると願って、眠りについた。


 私がギターを始めたきっかけは、幼い頃に誰もが抱くかっこいいものに対する憧れだった。テレビの音楽番組でギターを弾いている姿をたまたま目にし、夢中になった。親にギターを習いたい、と懇願し、お父さんが高校時代やっていたこともあって、あっさり了承してくれた。最初はギターができる喜びで通い続けていたが、次第
に面倒くさくなって、でも言い出した手前、やめたいとは言い出せず、後半は義務的に続けていた。
 それでもコードはちゃんと覚え、やめて数年たった今でも弾ける。
 だから、こんな形でまたギターをすることになるなんて、思いもしなかった。幼い頃のあの気持ちがなかったら、彼らとバンドを組むことはなかったわけだ。
 今回は面倒くさがらずに、続けていけたらいいな。そう思う。


 ギターを持って学校に行くのは、やはり苦労した。綾に一つ持ってもらったから重さは半減した。しかし、周りからの視線がやや気になった。ウチの学校には軽音部はないから、ギターを持って登校する人なんてまずいない。
「何でギター持ってきてるの?」
 とか聞かれて、
「バンド組むから」
 という内容の言葉をうやむやにして返した。自信を持って、答えるのは私にはとうてい無理だった。
 学校に着くと、私の席の近くで小笠原、浜中、杉内が話していた。私の姿を確認すると、
「よし、揃ったな。じゃあ、教頭に渡しに行こう」
 と浜中が促して、教室を出ていった。私はギターを置いて、「綾、ありがとう」と告げると、慌てて三人を追いかけていった。その姿を見ていた綾の顔は、やはり子どもを見守る親のようだった。さしずめ、私は親離れが始まった思春期の子どもといったところか。


「教頭先生、校長先生からお手紙を預かってきました」
 浜中が代表して、その手紙を渡した。
 教頭先生は受け取って、中から手紙を出して読み始めた。
「……フーム」
 読み終わったのか、短い嘆息を漏らした。そして、しぶしぶ喋り出した。
「校長先生が言うには、もう一組バンドを組んで軽音楽部を始めたいといっている生徒たちがいるそうだ」
 私たちの顔に驚きの色が現れた。
「そこで一ヵ月後にライブを行い、全校生徒の投票を募り、多かったほうが正式に部活動として認められる、ということだ」
 てっきりもう認められると思っていただけに、予想外の展開に動揺を隠せなかった。
「どうして一組だけなんですか?」
 小笠原が尋ねた。
「予算の関係とできるだけしっかりしたバンドを初代軽音楽部のメンバーとしたいそうだ」
 それなら、別に二組がなってもいいと思うけどな。まあ、校長先生が言うなら仕様がないか。
「相手は誰ですか?」
 今度は浜中が尋ねた。
「田辺、吉村、森山、高田の四人だ」
 全員男子で、顔と名前も一致する。といって、特別仲のいい間柄ではない。
 彼らと勝負するのか。たとえ軽音部になれずとも、一回は全校生徒の前でライブをする、ということだ。情けない話だが、泣きそうなほど緊張してきた。
「勝負までの練習は、音楽室を使っていいんですか?」
 高鳴る鼓動を感じながら、私が質問した。
「ああ。明日から一日交替で使ってくれ。――田辺たちには、私のほうから伝えておこう」
 私たちは朝休みが終わる時間が迫ってきたので、教頭先生にお礼を言って、教室に戻った。


 昼休みに私たち四人は再び集まった。
「まさか、こんな事になるとはなあ」
 小笠原がみんなの気持ちを代弁して言った。
「ま、決まったことは仕方ない。できることから始めようじゃないか」
 浜中が中心になって話し合いを始めようとする。彼には、生まれ持ってのリーダー性があるようだ。この短期間でそう思わせるほどに。
「まず、楽器構成を決めよう」
 まだ決まっていなかったのか、とちょっと拍子抜けした。浜中は続けた。
「まず、ギターは相川。これは決定事項だな」
 と言って、私を見やった。私は微笑みながら頷いた。
「次にボーカルは杉内、でいいか?」
 振られた杉内は、「ああ、いいよ」と短く答えた。前から打診されていたらしい。
「じゃあ小笠原、残りのベースとドラムからやりたいほうを選んでくれ。おれは余ったほうでいい」
 小笠原は低く唸った。
「うーん。ずっと考えてたけど、やっぱりベースかな」
 それを受けて、
「ということは、おれはドラムだな」
 浜中が自動的にドラムに決まった。
「杉内は歌いながらギターも弾くからな。お前が一番、大変だぞ」
 杉内は苦笑した。一ヶ月でできるようになるのだろうか。
「相川が杉内に教えてやってくれ。まあ、昔から音楽のセンスはあるから、教えがいはあると思うよ」
 へえ、杉内君に音楽センスがあるのか。私は感嘆の声を漏らしながら杉内に視線を向けたが、彼はまっすぐ前を見たままだった。
「にしても、田辺とかと勝負するのって、何か面白いな」
 小笠原が話題を変えた。彼は舌がよく回る人だ。
「田辺って、あのオタクだろ。楽器できるのかよ」
 田辺君がオタクだと知らなかったから、私は一人、驚いた。でも、オタクをかばうつもりはないけど、オタクが楽器できない、なんて偏見だと思う。
「高田って、老けてるやつだよな。あいつがやるのは分かるよ。ロック好きそうだし」
「吉村も好きそうだな。あいつ声でかいから、ボーカルかもな」
「森山って、誰だっけ。いまいち分かんないな」
「ああ、あの女好きだろ」
「そうそう。また不純な動機でバンドやろうと思ったのかな」
「はは、あり得るな」
「……おれたち、勝てるかな」
 浜中がぽつりと呟いた。その声の響きは、勝つ自信があるとも、負ける不安があるとも受け取れた。
「大丈夫。杉内がいるだろ」
 小笠原が期待の目を向けた。その目線の先で、杉内はまた苦笑した。
「プレッシャーかけるなよ」
 どうやら、杉内君は歌うのが相当、上手いらしい。
「杉内君って、そんなに上手いの?」
 私は思ったことを口にしてみた。
「やばいよ。聞いたら、絶対ほれる。――な!」
 小笠原が杉内の背中を叩いた。叩かれた杉内は、照れくさそうに笑った。
「そうだ」
 呟いてから、私は壁に立てかけていたギターを一つ取って、杉内に渡した。
「私のお父さんが使ってたものだから、古いけど、音はちゃんと出るよ」
 杉内はギターを両手で受け取ると、「ありがとう」と呟いた。その響きが新鮮で、しばらく頭の中で余韻を残した。
 こうして、私の神様に用意されたシナリオは、分岐点に差し掛かった。この先がどうなるかは、誰にも、もちろん私にも分かり得ない。まさに、神のみぞ知る、だ。
 ちなみに曲はバンプの『天体観測』に決まった。


 翌日から、本番に向けての練習が始まった。部活動を懸けた勝負までわずか一ヶ月。
 杉内は前評判通り歌うのが上手くて、惚れ惚れした。これならギターを完璧にすれば問題ないだろう。
 小笠原は自前のベースで楽しそうにやっていた。楽しそうなのはいいのだが、なかなか上達しないのが気がかり。まあ、そんなに安易にできるようになるとは思わないけど。
 浜中は一番まじめに取り組んでいて、飲み込みは早い。ただ、それでも一ヵ月後までに完璧な状態にするのは、難しい。
 私はというと、この中で唯一の経験者ということもあり、三人ほど練習時間を要さないので、杉内に教える合間にやっている。


 その日は、朝から雨が降り止まない日だった。
「バイバイ、紗希」
「うん、また明日」
 私は綾を見送った後、音楽室に直行した。これから部活がある。
 ドアを開けて中に入ると、いたのは杉内だけだった。黙々と楽譜を見ながらギターを弾いていた。
「おっす」
 視線をわずかに上げて、私を確認すると、またすぐ楽譜に戻した。時折、歌をあわせたりもしていた。ギターは日に日に上達していて、教えている私も驚くほどのスピードでできるようになっていく。抜群の音楽的センスの持ち主だ。
 感心したところで、私もギターを出して弾き始めた。指慣らしをして、曲を一通り済ました後、杉内と合わせてみた。まだ早いかと思ったけど、案外できた。細かなミスはあるけど、それでもこの短期間でここまでくるのは予想以上だ。これなら明日が本番でもライブできるかもしれない。
 ただ、ライブはもちろん四人でやるものだ。浜中と小笠原の仕上がり具合に成功が懸かってくる。といっても、私も本番まで練習を怠らない。
 少ししてから浜中が委員会の仕事を終えた浜中が入ってきて、練習に加わった。
 私はギターを習っていたとはいえ、ベースとドラムは専門外だ。多少の知識は持ち合わせていても、教えられるほど詳しくない。だから小笠原と浜中は独学で練習していかなければならないため、上達は思うように図れていない。もっと時間が必要だ。一分一秒が惜しい。
 それなのに、今日は小笠原が部活に姿を現さなかった。誰にも何の断りもなく。今日まで一度も休んだことはなかったのに、何か理由があるのだろうか。いや、あってほしい。サボりだったら、何となく悲しい。
「電話通じないな。何やってんだ、あいつ」
 浜中が携帯を手にため息を漏らした。同時に外で雷が鳴った。練習中から雲行きが怪しくなっていた。
「とりあえず帰ろうぜ」
 杉内が鞄を手にとって、音楽室を出ようとした。浜中も従って、帰り支度をして音楽室を出た。私は窓から外を眺めて、あることに気付いた。
「傘、忘れた」
 もう鍵をかけられてしまった教室に、傘を置いてきてしまったのだ。
 私は職員室に鍵を借りに向かった。

 
 杉内と浜中は先に二人で学校を出ていた。いつになく沈黙に包まれていて、それでもお互いに考えていることは分かっていた。小笠原が来なかったのは、何か理由があるのか。それとも――。
 降り始めたばかりの雨が、二人の傘に一定のリズムをなすように落ちてくる。たまに雷の音が遠くのほうで響いている。今の気分を表すように、ぱっとしない天気に街は覆われていた。
「あれ、小笠原じゃないか?」
 浜中が前を指差して言った。杉内は、俯いていた顔を上げて、指先を見据えた。確かにそこにいたのは、見慣れた後姿だった。
「小笠原」
 杉内が呼んだ。それも、かなり大きな声で。その時、ちょうど私が傘を持って、二人に追いついた。ただならぬ雰囲気を感じ、二人の後ろで立ち止まった。
「答えろよ、聞こえてんだろ」
 杉内は、恐ろしい形相で小笠原の背中を睨んでいた。目つきが悪いからか、怒った顔は迫力がある。
「こっち向けよ!」
 ついに怒鳴った。同時にゴロゴロと雷が鳴り、私は少し肩をすぼめた。
「ごめん……」
 ようやく小笠原が口を開いた。最初に口をついて出たのは、謝罪の言葉だった。もう小笠原がサボったのは、明らかだ。
「どうして練習に来なかった? 本番まで時間が足らないぐらいだって、お前も分かってんだろ」
「ごめん……」
「ごめんじゃ分かんねーよ! 何で練習に来なかった、って聞いてんだよ!」
「杉内」
 浜中が割って入った。
「まくし立てても仕様がない。ゆっくり話させよう」
 杉内はしぶしぶ口をつぐんだ。私も何か言わなければ、と思ったものの、言葉が頭に浮かんではすぐ消えた。
 雨が小降りになった。それを待っていたかのように、小笠原が話し始めた。
「最近、部活でずっとベースやってて、ずっとやってるのに、上手くいかなくて、ちょっと息抜きしたくなって、それで、学校が終わってからゲーセン行ってた」
 指導者がいないつけが生んだ結果かもしれない。いきなりベース始めて、思うようにいかなくて、しかも周りは着実に実力を磨いていたら、面白くなくなって何かに逃げたくもなる。小笠原は、それがゲーセンだったのだ。いや、部活からサボること自体が、憂さ晴らしだったのだ。きっと。
 だが、杉内が小笠原に当てた言葉は、冷たかった。
「もう部活、来るな。二度と友達面して、おれの前に現れるな」
 そう吐き捨てると、呆然とする小笠原の横を通って、すたすたと歩いていってしまった。
 浜中もため息をついて、杉内と同じように帰っていった。
 小笠原は呆然とした表情のまま、私に背中を向けて、二人と同じ方向に歩を進めた。
 私はそんな寂しい背中を悲痛な思いで眺めるしかなかった。


 あの落ち込みようだと学校に来ないことも考えられたが、小笠原はちゃんと学校に来た。ただ、さすがにいつもの元気はなかった。
 隣の席の私は、挨拶程度の言葉を投げたが、芳しい答えは返ってこなかった。
 杉内は明らかに無視していた。小笠原がいないかのように振舞った。その隣で浜中は、小笠原を心配そうな目で時折、見つめながらも、杉内と過ごした。
 私は無力だ。こんな時、何もできない。何をすればいいのかすら分からない。
 このままじゃ、嫌だ。まだバンドは始まったばかりなのに。部活は始まってもいないのに。二人を仲直りさせよう。
 でも、どうすればいいの。
 あれこれと悩んでいると、休み時間に杉内が一人で教室を出た。何となく、今がチャンスと思った。それまで話していた未姫を中心とした女子の輪からこっそり抜けて、杉内の後を追いかけた。
 杉内は教室沿いの廊下を渡ると、左に折れて、階段のほうへ向かった。下りるのかと思ったら、屋上のある上の階へ進んでいた。私も慌てて階段を上り、フェンスに囲まれた屋上に出た。
 青空の下、一人の少年がフェンスを背にして寄りかかった。紛れもなく、杉内だ。少し動悸が速くなるのを感じるのは、小走りで追いかけてきたからじゃないだろう。彼に緊張を抱いている。昨日の形相を見たら、なおさらだ。
「杉内君」
 それでも言わなければ。仲直りして、って言わなければ、バンドは終わってしまうのだ。
「杉内君、あの――」
「相川」
 突然、私の言葉を遮った。
「おれ、どうしたらいいと思う。親友にあんな事、言っちまった。どうしたら、仲直りできるかな」
 意外だった。彼も胸中で、冷たい言葉を放ったことを後悔していたのだ。
「杉内君は、本気でバンドやってるから、だから、あんなに怒ったんだね。本当は、小笠原君と元通りになりたいんだね」
 杉内は頷いてくれた。
「おれ、あいつに謝りたい。怒りに任せて突き放したことを、ちゃんと謝りたい」
 杉内はフェンスにかけた右手を見つめて、悲哀を顔に帯びた。
「でも、おれから謝るのは、やっぱりできない。サボったのは、あいつだし」
「だったら、一緒に謝ればいいでしょ?」
 私は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「放課後、教室で待ってて。小笠原君にも言っておくから」
                               
                               
 その日の放課後、杉内はちゃんと教室に残って、小笠原に会った。浜中も側にいて、二人が仲直りするのを見守った。
 私はお役目御免、とばかりに綾とひと足先に帰った。
「最近さ」
 帰り道の途中、綾に言われた。
「何?」
「紗希、変わったよね。何か、明るくなった気がする」
「そうかな?」
 だめな私にも少しずつ良い変化が訪れていた。


 また風呂に入って、考え事をしていた。
 どうやらあの二人は仲直りができたみたいだ。さっき、杉内から短い、本当に短いメールが届いた。
「仲直りできた。ありがとう」
 初めて彼から送られてきたメールだった。以前なら冷めているなあ、と思うだろうが、今はこのメールの「ありがとう」に気持ちが込められているのが分かる。本当は優しい人なのだ。
 杉内は、バンドに対して本気だ。周りがついてこられない時がある程に。いつか、また小さないさかいがあるかもしれない。今度は、小さくないかもしれない。でも、私はずっとこのバンドを信じている。最後には、きっと上手くいくから。
 今回の仲直りで私がしたことはたいした事では決してない。でも、私ができなかったことだ。ギターを弾けるようになった時より、嬉しいし、これは大切なことだ。
 そろそろ上がろう。明日も学校だ。
 そして、バンドだ。
 風呂から上がって、体を拭き、髪を乾かし、寝巻きに着替えた。ベッドにもぐり込んだら、すぐに眠りに落ちた。


 どうして人間は、緊張していると眠れないのだろう。
 ベッドで横になって、その事をずっと考えていた。さっきから眠れない。明日はついにライブ当日だというのに、また寝坊してしまう。
 右から左へ、左から右へ。繰り返し寝返りを打っても、一向に眠りの世界からお誘いが来ない。
 緊張で眠れないのは久しぶりだ。運動会とかのスポーツ系の行事は、活躍できないから、諦めてさっさと眠る。宿泊行事も楽しみだけど、それほど緊張は抱かない。つまり、明日のライブに対して、私は少なからず自信を持っているようだ。
 また寝返りを打って、机の上に置いてある時計を見た。もう日にちが変わっていた。ライブがあるのは、今日だ。そろそろ、眠らないと明日に響く。……今日か。
 バンドは、何とか形になった。絶対、勝てるとは思わないけど、そんなに不安材料をたくさん抱えているわけではない。浜中君のドラムも、小笠原君のベースも練習ではできるようになった。合わせてみても、そこまで違和感はない。ただ安定していないから、本番で本来の力を発揮できるかは、微妙な線だ。
 それでも楽しみな気持ちは、確かにある。自信も顔を覗かせている。
 もう一度、時計を見ようと体を転がした。時計に焦点を合わせたが、ぼやけてよく見えなかった。そして、いつのまにか溶けるように眠っていた。


「――き、さき」
 誰? 私を呼ぶのは。
「さき、起きて。もう朝だよ」
 もう少し寝させて。まだ頭が眠りを求めている。
「紗希!」
「はっ」
 私はようやく目覚めた。傍らには、制服姿の綾が立っていた。
「今、何時?」
 私の声はしょぼくれていた。まだ寝ぼけているのが、自分でも分かる。
「七時十五分。朝、リハーサルやるんでしょ。もう出ないとまずいよ」
 私は慌ててベッドを出て、制服に着替えた。身だしなみも適当に、部屋を出て、階段を駆け下りた。テーブルの上に置いてあるパンを一枚取って、口にくわえて家を出た。
 学校までの行く途中、パンを食べ終えると、私は何度も綾にお礼を言った。早く学校に行く日まで迎えに、もとい起こしに来てくれるなんて。やはり持つべきは良き友だな、と朝から感動した。
 感動するのも束の間、学校に着くと、もうリハーサルの音が体育館から聞こえた。急がなければ。私は小走りで駆けていく。
 息を切らしながら体育館に入ると、三人が準備万端、といった風で待ち構えていた。
「遅いよ、相川」
 浜中に言われて、私は申し訳なさそうに、両手を顔の前で合わせた。
「ごめんなさい。すぐ、準備する」
 言うが早いか、ギターをケースから出し、アンプに繋いで、チューニング。できたら、ドラムの浜中に目配せをし、彼のスティックを叩く音を合図にリハーサルが始まった。
 一回目は小笠原のベースが速くなったが、全体的には上手くいった。二回目は浜中のドラムが速くなって、リズムがずれたが、やりながら修正し、最後まで通した。最後はほぼノーミスででき、『天体観測』の雰囲気を存分に発揮できた。
「よし、最後は良かったな。本番もいつも通りやれば、ちゃんと結果はついてくる。緊張するなよ」
 そう言って、浜中は私を見た。顔に緊張の色が滲み出ているらしい。
「大丈夫」
 杉内が私の肩に触れた。
「相川のギターは誰が見ても上手いし、かっこいいから、自信持っていけよ」
 面と向かって褒められたのは、久しぶりだ。褒められることで成長していた、幼い頃以来かもしれない。純粋に嬉しい。そして、自信になる。
「ありがとう、杉内君」
「そうそう」
 小笠原がへらへら笑った。
「おれなんか、ギターほど目立たないし、かっこいいなんて誰も言ってくれないぜ。まあ、その分、ミスしても気付かれないだろうけど」
「はあ? おれたちには分かるからな。ミスしたら、ブッ飛ばすぞ」
 杉内が鋭い目つきで睨みつけて、「おお、怖い」と小笠原は逃げる体勢をとった。私と浜中は笑った。もうすっかり元の鞘に収まっている。
「じゃあ、教室に戻ろうか。そろそろ時間だ」


 ライブは昼休みの時間を全て使って行われる。昼休みになるまでの時間、色々な人に声をかけられた。
「頑張ってね、相川さん。ファイト」
 担任の佐久間先生だ。ファイトの発音が綺麗だった。
「期待しているよ。軽音楽部創設に賛成した私の顔をつぶさんでくれよ」
 退院したばかりの校長先生にもそう言ってもらえた。
 綾、未姫などの友達からも応援を受けた。おかげでモチベーションが上がってきた。と同時に、緊張感も増してきた。
 改めて、全校生徒が見に来ることが不安になってきた。私は知らない先輩や後輩がたくさんいる。その人たちは、私たちのライブをどんな思いで見るのだろうか。そして、どう評価するのだろうか。いい印象を与えられないで、恥ずかしい結果になるかもしれない。
 でも、考えたって今答えは出ない。終われば全て分かる。せめて後悔しないよう、納得のできる演奏をしよう。
 そう自分に言い聞かせて、後は意識せずに時を待った。
 

 いつもとは違った意味合いを持つチャイムの音が鳴る。人が体育館にぞくぞくと集まり始めた。受験が控えている三年生。まだ学校に慣れていない一年生。よく知っている二年生。先生もこの高校史上初の試みを見物しようと、体育館の後ろのほうで列をなしていた。
 私たち四人は、ステージ裏の控え室で待機していた。
 いよいよ始まる。
 すでに吉村、田辺、森山、高田のバンドが演奏をしている最中で、曲は私の知らない曲だった。
 控え室は無言だった。演奏の音で外がうるさい事もあるが、ほとんどの原因は緊張によるものだった。おしゃべりな小笠原がカチンコチンに固まり、浜中もいつもの余裕が表情にない。
 ただ、杉内は涼しい顔でライブを聞いていた。緊張しているようには見えない。羨ましい、平常心を保てる人なのか。それでも元来の無口な性格なので、喋ろうとはしなかった。
 私も黙っていた。とりあえずギターを持って、何度も同じコードを指で押さえていた。
 前の演奏が終わった。私はスカートの端をぎゅっと握った。その手に顎から汗が滴り落ちる。
「行こう」
 浜中の掛け声で立ち上がり、入れ替わりでステージに上がった。
 そこには、人々の波で海が出来上がっていた。今にも飲み込まれそうになる。このままでは溺れ死んでしまう。大海原に放り出されたように錯覚した。
 ここで浮き輪を求めても、助け舟を探しても、見付かりはしない。あるのは、仲間という灯台の光だけだ。
 深呼吸しながら、三人を見た。今日まで全力で取り組んできた彼らなら、信頼できる。
 杉内は準備ができたのを見計らって、スタンドマイクを握った。
「こんにちは。貴重な昼休みに見に来てくれて、ありがとうございます。聞いてよかった、と思えるような演奏でその誠意にお応えします。バンプ・オブ・チキンで天体観測」
 ギターの前奏が入る。ドラム、ベースの音が加わり、重なり合う。歌に入る頃には、すっかり意識が飛んでいた。それだけ集中していたのか、硬くなっていたのか、今では分からない。それでも一つだけ確実に言える事は、内容に満足していた、という事だ。終わってからの自分の満面の笑みに、気付いてから驚いた。
 小笠原と浜中も、素敵な笑顔を作っていた。ついさっきまで、緊張で強張っていたのが信じられないぐらいに、それは素敵だった。
 杉内はどうだろう。立ち位置の関係でよく見えない。でも、きっと私たちと同じ気持ちだろう。
 初めて受ける多くの人からの歓声と拍手に包まれて、私たちは退場した。その時、ちらっと杉内の横顔を拝んだ。良かった。彼も笑顔を表情に浮かべていた。


 もう部活動をできなくてもいい程に胸がいっぱいになっている。全校生徒の投票結果は、五・六時間目を挟んで、放課後に発表される。その結果がどちらに転んでもいい程に、私は心から満足していた。あれだけやったら、もう思い残すことはない。
 しかし、そうはいかない。今日まで頑張って練習してきたのも、部活を始める、というも目標があったからだ。
 授業を受けながら、胸に手を当てて鼓動を感じた。心臓はまだ高鳴っている。これから知らされる結果に期待と不安を抱いている。
 胸から手を放し、ペンをとって黒板の文字をノートに写した。でも、機械的にその作業が行われるだけで、授業の中身はまったく頭に入ってこなかった。もし、テストで今日やった事をバンバン出されたら、私は笑えない点数を取ってしまうだろう。まあ、いつも笑えない点数なのだが。
 終業を告げるチャイムが鳴った。一段と鼓動が高鳴る。今日は心臓に悪い日だ。寿命が縮まってもおかしくない。
 ホームルームを終え、私は綾と教室を出て、職員室前の掲示板前に立った。すでに何人かの人だかりができていた。杉内と小笠原、浜中の三人は他の男子と混じっていて、森山らのバンドメンバーも少し離れた所に立っていた。未姫たちも後から姿を現した。
 職員室から、結果の書いてある紙を持った佐久間先生が出てきた。そしてそれを貼り付け、結果をどこか嬉しそうに言った。
「二〇四対九六で、浜中君・小笠原君・杉内君・相川さんのグループの勝ちです」
「やったー!」
 先生が言い終わらないうちに、私と綾は飛び跳ねて喜んだ。クラス替えで同じクラスになれた時と同じくらい。そういえば、あれからもう一ヶ月以上たつ。特にここ一ヶ月は、バンドに必死であっという間に時間が過ぎていた。
「おめでとう、相川さん」
 発表し終えた佐久間先生が側によって来た。私は笑顔で「ありがとうございます」と返す。
「ライブ、とても良かったわよ」
「本当ですか? 緊張で意識飛んでました」
「とてもかっこよかったわよ。ステージ下で応援していて、感動しちゃったもの」
 綾が後ろで私のブレザーを軽く引いた。
「佐久間先生、ずっと応援してたよ。頑張れー、相川紗希! って」
 そうだったのか。綾に言われて、初めて知った。
「嬉しいなあ。でも先生、ひいきはだめだよ。先生なんだから」
 佐久間先生は「そうね」と小さく笑った。
「相川さんと私の若い頃、似てるもんだから、つい応援しちゃうのよね」
 先生の若い頃と私が似ている? そんな事があるのだろうか。先生、そんなにだめな子だったのかな。
 その疑問を突き止めようとしたが、佐久間先生は他の先生に呼ばれて、どこかへ行ってしまった。
 私は思い出したようにあの三人を探した。今の喜びを分かち合いたい。しかし三人どころか、掲示板の周りにはいつの間にか誰もいなくなっていた。
 仕方なく、私は帰ることにした。春風に身を委ねながら。


 誰かの視線を感じた。気のせいだろうと思って振り向くと、そこには確かに私を捉える視線があった。それも一つや二つではない。
 ライブでただ一人、女子ながら参加していた私は、どうやらちょっとした有名人になってしまったようだ。
 こんな事、慣れているはずもないから、非常に息苦しかった。綾がいなかったら、私は走って逃げていたかもしれない。
 綾にも悪い。私のせいで、同じように注目を浴びなければならないとは。それでも私から離れようとしないあたり、良い親友だな、と思う。今度、何かおごって上げよう。
 ふと、未姫のことを思った。未姫は目立つ美人だから、よく周りの視線を浴びているのだろう。今の私と同じ気持ちになっているかも、と考えると、自分も未姫のような完璧な人間になった気がしてこそばゆい。未姫も大変だなあ。分かるよ、その気持ち。なんて勝手に同情する。
 私はやはり変わった。だめな自分から、少しだけ脱皮した。さなぎから、彩り鮮やかな羽を持った蝶が顔を出したぐらいに。
 バンドに入ったのは、今のところ成功だったみたいだ。でも、まだ分からない。部活動は始まったばかり。今日のライブがゴールでは決してない。やっとスタート地点に立てただけ。明日から、またバンド漬けの日々だ。


 リビングでテレビを見ていたが、眠気を覚えて、いつもより早く自分の部屋に向かった。足音を立てないで廊下を歩き、階段を上って部屋に入る。すると、ベッドの上に無造作に放置された携帯が、赤い光を点滅させていた。画面を覗き込むと、メールが三通、届いていた。
「お疲れさん。そして、部活動決定やったな。明日から頑張っていこう」
 小笠原から。文だと雰囲気が出ないが、読みながら嬉しそうな小笠原の顔を思い浮かべる。そうすると、内容が明るく見える。
「お疲れ。無事、部活できるね。頑張ろう!」
 返事を送ると、次のメールを見た。
「今日はお疲れさま。相川のギターは完璧だったな。これからも練習を怠らず、協力して活動していこう」
 浜中からだ。彼らしい、上からの物言い。浜中が一番、部長に適役だと思うな。ちゃんと練習するという内容のメールを返した。
 最後のメールを見た。杉内からだった。
「悪い、ギターちょっとミスった。おれ、柄にもなく緊張してたから」
 意外だった。あんな涼しい顔をしていたのに、実は緊張していたのか。
「私、自分で手いっぱいで気付かなかった。でも、歌は良かったよ」
 本当に良かった。あんなに上手く歌えたら、気持ちいいだろう。
 人には、できる事とできない事がある。当然だけど、それはつまり協力することの意義を形成している。足りない部分は、誰かに補完してもらって完全になる。歌えない私がギターを弾くように。歌が上手い杉内がボーカルであるように。バンドは、その最たるもののうちの一つなのだ。だから、だめな私にはピッタリなのかもしれ
ない。一人じゃないから、頼れるし、助け合える。
 もっと早く気付いていれば良かった。


 部活初日。新しい部活を始めるから、色々と決めなければならない事がある。
 例えば、部長。これは多数決で決めたのだが、浜中に票が集まって、部長となった。まあ、彼しかいないだろう、と誰もが思っていた。
 活動日は学校から制約されていて、週三日となっている。そこで月、水、金曜日を選んだ。
 またライブが行われるのは、各学期の終わり、つまり七、十二、三月の三回となった。これは予想以上に多い回数だったが、もう全校生徒を半強制的に集めることはできないため、自分たちで客を呼び込まなければいけない。
 それから、もう一つ決める事がある。
「そういえば、おれたちバンド名ないね」
 話し合い中に小笠原が何気なく口にした。
「そうだね。気付かなかった」
 私はそう言って、浜中と杉内の表情を窺がった。二人も盲点を突かれたような表情だった。つまり、考えてなかったのだ。
「小笠原、いいこと言った」
 杉内が小笠原の肩を叩いた。無意識に言った言葉だっただけに、本人は当惑気味だったが、「まあな」と調子に乗った返しをした。
「じゃあ、早速決めよう。どんどん思いついたのを言ってみて」
 浜中が促すと、小笠原が「ザ・タコヤキ」と呟いたが、全員でスルー。
「爆竹ランナーズは?」
 今度は杉内が提案。何で爆竹が走るの。
「却下、真面目に考えて」
「先駆け隊」
「ださい」
 浜中は厳しい。まあ、私も嫌だと思うけど。
「ストロベリーパフェデラックスは?」
「甘い」
「ユナイテッド・スクエア」
「……連合正方形だっけ、意味」
「スクエアって、広場って意味もあるぞ」
「どっちにしたって不適だ。却下」
「ミスターチャイルド」
「パクリだろ。――ったく、相川、何かないか?」
 さっきから笑っているだけで何も言わない私に、浜中が意見を求めた。私はいつもこういう話し合いに上手く入れない。クラスとか、委員会とかで。
 でも、同じ黙っているでも、このメンバーでいると不思議と不安にならない。
 それに私は一つ思い浮かんでいた。
「つぎはぎ細工ってどうかなあ?」
 杉内と小笠原が目を丸くした。私はちょっと臆したが、浜中は表情を崩さず、「どうしてだ?」と先を促した。
「バンドって、四人の音が合わさって一つのものになるでしょ。だから、一人じゃ何もできない私が、つぎはぎ細工のように欠けている部分を補うから」
 言いながら説明に困った。頭では分かっているが、言葉に上手くできない。
「上手く言えないけど、つぎはぎ細工が響き的にもいいかな、と思ったから」
 これでは却下されてしまうだろう。ああ、私にもう少し説得力があれば、きちんと伝えられるのに。でも、仕様がない。諦めるしかないか。
 そう思っていたら、「いい」と浜中が短く呟いた。
「それいいな。おれはいいと思うよ」
 やや興奮気味に、しきりと「いい」を繰り返していた。
「杉内、小笠原、これいいと思わないか? おれたちにピッタリなバンド名じゃないか?」
「ああ」
 小笠原も頷いた。
「具体的に何がいいかは言えないけど、おれも何もできない人間だから、その意味とかしっくりくる」
「杉内はどう思う?」
 杉内は椅子に背中を預けて、口の端を歪めた。
「もうそれに決まりで傾きかけてるじゃん。まあ、普通にいいと思うけど」
「よし」
 浜中は膝を叩いた。
「この学校初のバンド、つぎはぎ細工の誕生だな」
 私は安堵した。思ったことを言ってみるものだ。そうすれば苦労の種も紡げたのに。私は人より当たり前のことを知るのが遅い気がする。
 外では強い風が木々を揺らしていた。その風は思いつきのバンド名に賛同しているのか、反対しているのか知れない。風に答えを尋ねても、きっと答えてくれない。だけど私には、その答えが分かる。
 強い風で窓が音を立てる。夕立の気配を感じた。

                               
 部活の時間、私たちがやることは練習しかない。どの部活もそうだが、日々の積み重ねが肝心で、本番の結果如何に関わってくる。
 次のライブに向けて、二曲を話し合いの末、選び、練習している。その二曲は、ポルノグラフィティの『メリッサ』とスピッツの『運命の人』。
 梅雨時でジメジメした中、時間をかけて練習を積み木のように積み重ねていく。後で振り返って、反省もしなければ、その積み木は音を立てて崩れてしまう。だから焦らず、慎重に前進を続けた。
 だが、そんな私たちの前に予想外の壁が立ち塞がることになるとは、この時は夢にも思わなかった。本当は、予想していなければおかしい話だけど。
「そういえばさ」
 それはある日の部活の時間のことだった。ジメジメして、音楽室は何となく鬱憤とした雰囲気に包まれていた。それを振り払うように小笠原が口を開いた。
「そろそろ期末テスト一週間前だな」
 私は雷に打たれたような気分になった。テストの存在が頭から消えていたことに驚くとともに、呆れる。
「部活に関係ない話すんなよ」
 杉内が小笠原を睨み付けた。杉内は部活に対してかなり真剣だから、時に過剰なほど世間話や冗談を戒める。今思えば、あの日の鬱憤とした雰囲気を作っていたのは、杉内だったかもしれない。 
「いや、関係あるぞ」
 浜中が小笠原をフォローした。
「テスト一週間前になると、部活動ができなくなる」
 そうだった。勉強する時間を確保するために、テスト前は部活動が禁止されてしまう。昨年まで帰宅部だったから、意識の枠になかった。
 しかし、今は部活できない、残念だなあ、では済まされない。テスト明けにライブがあるため、本番前に時間を取って練習することが不可能になるからだ。
「だったら、どっかのスタジオ借りて、練習すればいいだろ」
 杉内が事も無げに言った。彼はテスト勉強をするつもりはないらしい。
「あ、私が通ってたギター教室にスタジオがあるよ。私が言ったら、安く使わせてもらえるかも」
 言ってから、そこに通っていた自分の幼い姿が甦った。懐かしい。
「お、だったら話は早い。そこを借りることにしようぜ」
 杉内は早くも乗り気。
「お前ら、勉強しなくて大丈夫かよ」
 浜中が呆れたように私と杉内を交互に見た。
「おれいつもしてないし。相川もしないだろ?」
 本当はしないと大変なことになるのだが、
「しないよ」
 と笑って、杉内に合わせた。今回は、徹夜で綾に教えを請おうかな。
「だったら、おれもしないぜ」
 小笠原も宣言した。私が言えた口じゃないが、この部、学生の本分を忘れている。
「さあ、浜中はどうする?」
 杉内が楽しそうに尋ねた。浜中は両手を広げた。
「まったく。その練習は付き合ってやるよ。その代わり、テストのことはいっさい教えてやらないぞ」
「え……」
 小笠原が思わず声を漏らした。いつも教えてもらっているようだ。
「え、じゃねえよ。勉強ぐらい、自分でしろよ」
 杉内がその頭をはたいた。その光景を見て、私は笑い声をあげた。つられて、浜中も笑い、残り二人も笑って、皆で笑い合った。
 鉛筆が転がるのを見て笑う年頃だから、些細なことが楽しい。後から振り返ると、こういった記憶たちは美しい。


 かの有名なプロ野球選手イチローだって、ヒットを打たない日がある。
 空の果てが見えるような快晴に恵まれ、気持ちも爽やかになる中、「つぎはぎ細工」として初めてとなるライブの日がきた。私は珍しくその日に限って綾に起こされる前に目が覚め、早朝のリハーサルに悠々と間に合った。
 浜中は失礼にも「明日、夏の雪が降るな」と私をからかった。そんなに珍しいだろうか。確かに毎日、綾に起こされて登校するけど、休みの日は二十日に一度くらいは自分で起きる。うん、十分珍しいね。もはやこれは、病気の域に達しているといっても過言ではない。
 それで冒頭の文になるのである。ようするに、どちらも同じくらい珍しいと言いたいのだ。でも、イチローからそれとこれは違うだろう、とお怒りを頂戴しそうだが。
 私がかつて通っていたギター教室のスタジオは、無事に借りることができ、テスト期間中も練習に励んでいた。その甲斐あって、二曲とも一応、完成の態をなした。
 一方でテストはというと、私は綾に徹夜で教えてもらい、史上最悪の点数は免れた。浜中もバンド以外の時間を無駄なく使い、きちんといつも通りの結果だった、と自分で語っていた。小笠原は悲惨だったらしく、テストが終わった日は抜け殻のように途方に暮れていた。それなのに杉内は、まったくバンドの練習の影響を感じさせ
ない点数を取っていた。私はそれが不思議でたまらなかったのだが、元々の頭の出来が違うのだ、と諦めた。
 リハーサルも致命的な問題なく終わり、後は本番を待つのみとなった。今回も本番は昼休みに行われる。ライブの宣伝もポスターや口コミで図り、さすがに前回ほどとはいかなくても、それなりに人数が入ってくれることを期待している。


「ポルノグラフィティでメリッサ、聴いて下さい」
 杉内の呼びかけで、前進の緊張の糸がさらに張り詰める。
 ぼんやりと授業を受けていたら、もうライブの時間になって、気付いたらステージの上に立っていた。
 『メリッサ』は軽快なベースの音で始まる。こればっかりは小笠原もミスれないとあって、練習でも念入りに繰り返していた。
 小笠原の軽快なベースが聴こえだす。ミスしなかった。歌が入る。
 今日も杉内の歌声は聴く者の心を捕えていた。彼がいるからこのバンドは今こうしてライブできるとのだと思う。彼のいないバンドだったら、おそらく四月のライブで負けていた。ここに立っているのは、あの四人たちだっただろう。
 この曲は二回目のサビの後に、ギターのソロが入る。正直、人の目が自然と集まってしまうのは嫌だったが、同時に自分のギターの上手さを見せ付けるいい機会だとも思った。
 でも、私の経験上、下心があって臨んだ事が上手くいった事はない。だから、そんな下心を抱いても大丈夫なくらいにまでなるように私も練習を積んだ。
 二回目のサビが終わって、ついに来てしまった。私は心の中で祈った。お願い、今日だけは下心が見え見えの私を救ってください。誰に祈って救われるこの身だろう。神様かな。誰でもいい。私を救ってくれるのなら、悪魔でも構わない。
 弾いている間、視界が急に不明瞭になった気がした。可視範囲には、ギターとそれを弾く私の指だけ。どんな顔をして皆がその様子を見ているのか当然、気になったが、ひとまず意識の外に置いて最後まで弾ききった。幸い、ミスはなかった。
 ふと顔を上げると、今日も前回に劣らない大勢の観客がいて、私に向かって拍手喝采を送ってくれていた。私は嬉しさのあまり後ろに倒れそうになった。
 何とか踏ん張って、反射的に観客に向けてお辞儀をし、休まず続きを弾き続けた。
 皆は分かっているのだろうか。その拍手を向けた先にいる少女は、何にもできないだめな女だという事を。
 本当にいいのだろうか。私なんかがこんな待遇を受けてしまっても、本当にいいのだろうか。もしかして、少しは自分に自信を持っても許されるのかな。


 目を遠く見据えても、晴れ間の見えない空だった。ベッドの上に膝で立って、欠伸をした。まどろむには早い時刻だが、寝ることに関しては狂っている私には当てはまらない。
 脱ぎ捨てられた靴下が目に留まる。昨日、私はライブで体力を使い果たしたのか、帰ってきてすぐに、制服を脱ぎ、下着で眠ってしまったのだ。
 一曲目と同様に、スピッツの『運命の人』も満足できる形で終わった。あれだけ上手くいくと、これからの練習にも力が入る。
 からかい半分で「雪が降る」と浜中は言っていたが、もちろん夏に雪は降ってくれなかった。代わりに、風雨がこれでもか、というぐらい吹き荒れていた。ニュースによると、台風が接近中なのだという。
 今日は学校が休み。私は激しい雨が打ちつける窓を寝ぼけまなこで眺めつつ、部屋でゴロゴロしていた。
 何となく、思う。これでいいのだろうか。変わろうとして、だめな私から抜け出そうとして、バンドに打ち込んできた私だが、果たして私は変われたのだろうか。
 このまま部活で練習に励んで、定期的にライブしていったら、私は私の理想像に辿り着けるのか。そもそも、どんな理想像を描くのかも分からない。何となく変わりたい、で始めたのがいけなかったみたいだ。
 憂鬱だ。億劫だ。何をする気も起きないし、何かする必要のある事はさしあたりない。
 唐突に、携帯電話が鳴った。私は音を頼りに姿が見えない携帯を探した。すると学校に行く鞄の中に入っていて、慌てて出た。
「はい、もしもし」
「もしもし、相川か。ちょっと部活のことで話があるんだ」 
 浜中の声だった。部活のこと。何だろう、ライブが昨日、終わったばかりだというのに。
「うん」
「実は、前々からお願いしていたんだが、地元の夏祭りに特別ゲストとして参加させてもらえる事になったんだ」
 その声は紛れもなく喜色を帯びていた。いつもなら、そんな彼に応えて明るく返しただろうけど、この時の私は気が滅入っていた。
「私――出たくない」
 一方的に電話を切ってしまった。さらに掛け直してこられないように、電源も切った。
 浜中の困惑した表情が浮かんだ。自分でも驚くほどの気持ちの変わりようだった。ライブであんなにいい思いをしていながら、私はどうしてしまったのだろう。
 外に出たくなった。雨が降っているが、気にしない。とりあえず出歩いて、気分を晴らさなければ私は廃人に等しくなる。そんな気がした。
 本屋を目的地とし、傘を持って風雨の中を出かけた。


 よく綾と本屋に行く。何の目当てもなしに行く時もあれば、欲しい物があって行く時もある。一人で行く時もある。一回だけ、未姫と行った事がある。
 竹早未姫。彼女は私の理想像だろうか。かわいくて、がり勉じゃないのに勉強もできて、スポーツ万能。未姫は、いつもクラスの中心にいる。自然と彼女の周りには人が集まる。笑顔が溢れる。人前で絶対に弱みを見せない、完璧な少女――。違う。確固とした理由は無いけど、未姫は私にとっての理想像ではない気がする。
 と言うよりも、目指しているベクトルが違う。私は彼女の生き方を現実に自分のものにしようとは考えない。彼女の生き方は、肩身が狭いような気がして、私にはとても耐えられそうにない。未姫自身がどう思っているのか知らないけど。
 だが、私のベクトルの先にいる理想の私の姿は、とても曖昧ではっきりしない。いいと思えるものを、つぎはぎにしているだけだ。
 雨水でちょっと濡れた足が、本屋に辿り着いた。あいにくの空模様のためか、店内は寂しい様相を呈していた。
 漫画コーナーの前に立ち、適当に眺めた。
「あれ、紗希?」
 その時、今一番、会いたくない人に出会ってしまった。
「奇遇だね。ってか、来るんなら誘ってよ。暇だったんだから」
 綾だった。彼女に沈んでいる自分を晒したくない、と密かに思っていた。
「――どうしたの? 何かあった?」
 やはり付き合いが長いと、見透かされてしまう。私は胸のもやもやを言葉にして、目の前の親友に伝えようかと思った。でも、すぐに思い直した。今回は綾でさえも私を憂鬱にさせる気がした。
「別に、何でもないよ」
 声に元気がないのが自分でも分かる。
「でも……」
「綾はさ」
 綾の言葉を遮った。
「いつも自分のことのように親身になって心配してくれるけど、今はいいから。今は、ただのお節介でしかないから」
 そう言い捨てると、綾の反応を待たずして私は駆け出した。綾を残して、本屋を出た。
 後ろから追いかけてくる気配はなかった。私を呼び止める声もなかった。
 私はこの日のことをとても後悔した。


 学校は夏休みに入った。私が沈みに沈んでいた間に。
 あの日の翌日、仮病を使って学校を休もうかと思ったが、本当に風邪をひいてしまい、終業式までの三日間、私は学校に行きたくても行けなかった。まあ、行きたいとは考えなかったが。
 結局、綾にも浜中にも謝れなかった。そして二人が私の家を訪れてくれることもなかった。特に綾が来ないのは胸が痛んだ。ついに嫌われてしまったのかな、と不安になった。そのくせ、携帯の電源はオフにしたままで、自分からどうにかしよう、とはしなかった。
 夏休み初日、小笠原が私の家の前に現れた。正直、嬉しかった。人間不信になりかけながらも、誰かが私を意識していることを求めている自分がいた。インターホンを押すのかな、と窓から観察していたが、十分近くたたずんで、押さずに帰ってしまった。
 家では、一日のほとんどを睡眠に費やした。たまに音楽を聴いたり、ギターに触れてみたりしたが、すぐに眠気に襲われた。ひたすら眠った。病的なほどで、親にも心配された。その度に風邪がまだ抜けないだの、部活の疲れがここにきてどっと押し寄せた、だのと適当な言い訳を言い繕った。
 最初の数日は家から出なくても不自由なかったが、次第に外の光
を体が欲するようになった。
 アスファルトが焼けるように暑い中、近所を散歩しに出かけた。
 たぶん、心の奥底では誰かに会いたがっていた。あわよくば、散歩しているうちに偶然、誰かに会えればいいな、と思っていた。わがまま極まりない話だが、人に会わない期間が長く続いたため、その分だけ漠然と誰かに会いたい、と思うようになっていた。
 曲がり角で見覚えのある顔と鉢合わせになった。
「あ、相川」
 それは杉内だった。思っていたことが、こんなにも早く現実になった。私は驚きで言葉が出てこなかった。
「……」
 あるいは長らく人と接していなかったせいで、口が役割を忘れてしまったからかもしれない。
「……」
 私と杉内はしばらく見つめ合っていた。杉内も私の名前を言ったきり、押し黙っていた。不思議な沈黙が続いた。
「相川、千巾ヶ丘に行こうぜ」
 ようやく向こうから発した言葉は、思いがけないものだった。私は答えに窮した。
「行こう」
 杉内は私の手を握って、千巾ヶ丘の方へと、引っ張っていった。男子と手を繋いだのは初めてに等しかったから、心がときめいた。


 千巾ヶ丘は私たちが暮らす街の中心にあり、小高い丘である。この街の人たちにとっては馴染み深くて、私が通った小学校は、毎年、遠足に行く。かつて城があったそうで、小学生の頃、調べさせられたが、すっかり忘れてしまった。
 その丘の頂に登れば、街並みが一望できる。中学生になってからは行く機会が減り、ご無沙汰している。
 私は杉内に手を引かれて、久しぶりに千巾ヶ丘へと足を踏み入れた。その姿はあまり変わっていなかった。石が敷き詰められた歩道、手入れがほとんど施されていない木々、段ボールで滑った跡がある緩やかな斜面、錆びた手すり、何一つとして。
 あっという間に頂上まで上がっていき、着くと、杉内は腰を下ろした。私も寄り添うように隣に座った。
 杉内は前を見据えたまま、また黙ってしまった。最初はそれに我慢できたが、次第に耐えかねて、ついに私から話し出した。気分が急に憂鬱になったこと。浜中の誘いをむげに断ったこと。綾にひどい言葉を投げかけたこと。風邪で家に引きこもっていたこと。次から次へと言葉が口をついて出た。
「……」
 杉内はそれらを黙って聞いていた。聞いている証拠に、たまに小さく頷いていた。
 それでも杉内は何も言ってくれなかった。ただ、私の心は胸のつかえが取れたのか、すっきりとしていた。
 突然、杉内が立ち上がった。
「相川、立って前見てみ」
 言われるままに立ち上がり、前に視線を移した。すると、そこには色鮮やかな夕焼け空が広がっていた。
「わー、すごい」
 私は感動して、情けない声を漏らした。オレンジ色と所々に薄い紫が空に描かれていた。神様も粋な落書きをするなあ。
「元気出るだろ」
 杉内の声音は優しかった。
「うん」
「色々、思うところはあるだろうけど、部活来てよ。夏祭り、出ようぜ」
「うん」
「あと、浜中と岩永に謝っておけよ。あの二人、ずっと相川のこと心配してたぞ」
 そうか、心配してくれていたのか。悪いのは、全部私なのに。
「杉内君」
 私は夕陽色に染まった杉内の正面に立って、彼の目を見つめた。
「本当にありがとう」
 そして笑顔とともにそう言った。言ってから、鼓動が高鳴っていることに気がついた。とても不思議な、でも必然的な感情が胸をいっぱいにしていた。
 素敵な一日になった。私と杉内は名残惜しそうに夕陽を見送り、暗くなってから二人で千巾ヶ丘を下り、家に帰った。
 

 それからは部活に復帰し、夏休みの学校にギターを持って連日出かけた。夏祭りは八月の中旬ごろにある。すでに他のメンバーは、練習を始めていたので、私は後れた分を取り戻すように頑張った。
 夏祭りでやる曲は、バンプの『涙のふるさと』。とても良い曲で、練習する甲斐があるものだ。
 バンドに復帰するに当たって、部長である浜中に真っ先に謝罪の言葉を言おうとしたが、「やっと来たか。これ楽譜」と会ってすぐに言うタイミングを作らせなかった浜中の前に屈した。後から考えると、あれは浜中なりの思いやりかもしれない。あるいは、照れ臭かっただけかな。
 綾にはちゃんと謝ることができた。
「大丈夫だよ。私は、いつまでも紗希の友達だから」
 綾は優しくそう言ってくれ、私は泣きそうになってしまった。良い人過ぎる。神様から色々な才能を与えられなかった私だが、こんな素晴らしい親友を授けて下さっただけで、満足だ。 
 バンドの練習は、はかどった。夏休みは一日中、音楽室を使えるし、何より精神面で意欲的にやろう、という気持ちが強かった。
 本番前にはほぼ完璧に準備ができ、前日の夏祭りの会場でのリハーサルも問題なく終えられた。後は、緊張との闘いだけだ。


 打ち上げ花火の音が、空に響き渡った。それを合図に、今年も祭りが始まった。軒を連ねる屋台の数々。ヨーヨーつり、タコヤキ屋、射的、わたあめ、ラムネ。あちこちから威勢のいい声が聞こえてくる。
 人が増えて、会場が人で溢れるようになると、物見台を中心にして、盆踊りが始まった。これといった難しい動きはないため、途中から入っても普通に踊れる。
 最初の打ち上げ花火から一時間が経過し、ステージでは地元の小学生たちによる和太鼓の演奏が終わったところだった。次は、つぎはぎ細工の出番だ。
 今日の緊張は、いつもと一味違う。いつもなら同世代で、知っている人も多少はいたが、今回はそうはいかない。世代は幅広いし、知り合いはかなり限られる。
 そしてもう一つ、私は違うことにも緊張を抱いていた。
 千巾ヶ丘に二人で登って以来、杉内のことを直視できなくなっていた。見ようとすると、頬が紅潮して、妙に胸がドキドキしてしまう。
 そんな私だが、今日は祭りという事もあって、浴衣を着ている。髪も未姫によってかわいく結われている。これなら人前に出ても心配ない、と思ったが、動きづらくて敵わない。
 未姫は松田歩、阿部あおい、それから綾の三人と一緒に、私の応援も兼ねて祭りに来ていた。彼女らも浴衣で、色違いの洒落た、小さな手提げ鞄を持っていた。未姫の手作りらしく、彼女の器量の程を窺がわせた。
 ステージ裏で出番を待っている時、杉内を直視できないため、彼の今日の服装さえ分からなかった。おそらく、小笠原と浜中がいつもと変わらない服装であるから、特別な格好ではないだろう。
「続きましては、有志バンド、つぎはぎ細工の演奏です。どうぞ」
 紹介を受けて、私たちは順々にステージへと上がった。
 上がってから、綾たちと目が合った。私に声援を送ってくれている。私は笑顔で、手を振った。おかげで緊張が少しほぐれた。
 その勢いで隣の杉内を見てみた。ちょっと照れたが、やっと表情を拝むことができた。涼しい顔で、ギターを肩にかけ、マイクを握った。服装は予想通り、いつもと同じだった。夏休みの間にすっかり見慣れた私服だった。                               
「こんばんは、つぎはぎ細工です。今日は夏祭りで演奏する時間を頂いて、とても嬉しいです。精一杯やるので、温かく見守って下さい。バンプ・オブ・チキンで涙のふるさと」
 いつも思うが、杉内の語りは堅い。でもまあ、こういう公の場ではふさわしいのかもしれない。それに長過ぎない。浜中に喋らせたら、杉内の二倍は語りそうだ。小笠原だったら、冗談を言い出しかねないし、私だったら緊張で良く分からない事を言いそうだし、杉内が案外、適役だったようだ。
 さて、演奏の方はというと、練習ではノーミスできていた小笠原のベースがややはやり気味になり、私は戸惑った。だが、浜中が落ち着くよう目で合図し、目立ったミスにはならなかった。
 とはいえ、今回ばかりは皆が皆、顔が緊張で硬くなっていた。表情に余裕が見られない。落ち着くように指図した浜中も、小笠原に負けないぐらい落ち着きがなかった。
 私はギターに自信があるから、集中すればミスしないものの、他者を顧みる余裕はさすがになかった。
 そんなライブでの初めてのピンチを救ったのは、杉内だった。彼の歌とギターは安定していて、その空気が次第に伝播し、小笠原と浜中も徐々に緊張が抜けていった。
 そして最初のサビに入る頃には、いつもの調子を取り戻し、四人の音が重なり合った。歌が聞こえ、ギターの音が流れ、ベースが響き、ドラムがリズムをとった。バンドにとって当たり前のことが、苦労して到達できた。苦労した分、達成感は大きいし、この四人以外の誰にもこの気持ちは決して分からない。
 数週間前の沈んでいた自分を思い出した。あの時の私は、何で迷っていたのだろう。こんなに素敵な仲間が側にいるのに。あの時の私は、どうしてライブできる喜びを忘れていたのだろう。こんなに温かくて、楽しくて、充実した瞬間がここにはあるのに。
 これからもずっとここに来よう。心に悩みを抱えて辛い日も、悲しみに打ちひしがれている日も。きっと、また私を迎え入れてくれるから。
 ライブは成功といえる内容で終えた。終わった後のジュースは格別に美味く感じた。
 その後は綾たちと合流し、祭りを思う存分、楽しんだ。たくさん笑った。
 最後に見た打ち上げ花火は、とても綺麗だった。


 蝉の鳴く声が聞こえる。この声を聞くと、今が夏なのだと実感できる。
 今年も暑い日が続いた。一方で今年の私は、いつもと違う。いつもは、だらだら過ごして、夏休みを生きていたが、部活があったことで有意義な時間の使い方ができた。
 でも、誤算もあった。いつも、それなりにコツコツとやっていた夏休みの宿題をやる時間が部活のせいでなかったのだ。部活以外の時間にやれば良かったのに、と思うだろうが、そうはいかなかった。私は部活があると、それで体力を使い果たしてしまい、その日はもう何もやる気にならない、というだめ人間なのだ。
 そして夏祭りが終わり、本当はその後も部活が入っていたのに、私が宿題を終えてないために、二学期になるまでなしとなった。といっても、終わっていないのは私だけでなく、小笠原と杉内もで、一人しか参加可能な人がいないため、自動的になしとなった訳だ。
 私は綾を家に招いて、成績優秀な彼女に手伝ってもらった。でも、答えを写さしてもらう、なんていうずるい事は小心者の私はしない。きちんと教わりながら地道にやっていく。
 ただ、ずっと勉強しているだけだとつまらないから、時折、休憩を挟んだ。話したり、お菓子を食べたりと、まったりした。
「実は私さあ」
 その日も休憩時間と称して、お喋りに励んでいた。
「うん」
 綾が相槌を打つ。
「好きな人ができた」
「本当に?」
 この年頃は、恋愛話が大好きで、私たちも例外ではない。
「誰、誰?」
「どうしよう、言おうかな」
「そこまで言ったんだから、教えてよ。絶対、誰にも言わないから。秘密にする」
 こういう話題のときに頻出する言葉、「誰にも言わないから」。これを言う人ほど逆に信用できないが、綾は信頼しているから、教える事にした。
「あのね……」
「うんうん」
 綾の前でも、どうしても照れてしまう。
「杉内君」
 うつむき気味でそう言って、上目づかいで綾の顔の反応を窺がった。すると、その顔は納得気味で、悪戯っぽくニヤついていた。
「そうなんだ。それで、どうするの?」
 つまり、その想いを伝えるのかどうか、という意味だ。
 私は当然、迷っている。想いを告げて上手くいけば杉内と付き合えるが、部活の雰囲気が悪くなる可能性もはらんでいる。それを考えると、無理して想いを告げる必要はない気がする。
 でも、そんなのは思い上がりに過ぎない。上手くいく可能性は限りなく低いと思う。むしろ、伝えて、断られた時、部活の関係、特に私と杉内の関係がギクシャクしてしまう。この方が現実味のある話だと思う。
「綾、どうすればいいかな?」
 とりあえず話の流れで綾に尋ね返してみた。
「そうねえ」
 綾は少し困った顔をした。恋愛経験は、ほとんどない綾にとって、この質問は酷だったかもしれない。
「修学旅行がそろそろあるから、その時、伝えたら?」
 いつもは的確なアドバイスを授けてくれる綾も、月並みな事しか言えなかった。
 私はとりあえず頷いておいた。


 綾に杉内を好きになってしまった事を打ち明けてから、余計に彼を意識するようになった。
 二学期が始まり、始業式が終わった後、杉内とたまたま廊下で対面し、「明日から部活だからな」と言われただけで緊張した。
 だけど同時に嬉しくもあった。今は、話せるだけでいい。それだけで幸せを感じられる。
 綾に恋の相談をしても納得のいく答えが返ってこない。まあ、私と綾が逆の立場だとしても、私は綾に納得させる答えを返す事はできないだろう。
 代わりに恋の相談相手を探してみると、すぐに思い浮かぶのが竹早未姫だ。
 未姫は男子からの人気はものすごいし、いつ彼氏ができてもおかしくない。つまり、未姫には今、彼氏がいない。
 未姫は言動から振る舞いまで、余裕に溢れているように見える。自分が選ばれし人間だと誇っている訳ではないが、そんな風に見える。だから、こうして恋に悩んでいる私のような子羊は、未姫に向かって羨望と嫉妬の入り混じった鳴き声をあげるしかないのだ。
 とにかく、私はそんな完璧人間の綾に相談したかった。ゆっくり話す機会が欲しかった。


 その機会はまもなく訪れた。
 朝、珍しく早く学校に着くと、偶然に未姫も来ていて、私は彼女を屋上に誘った。
 屋上に向かう途上、未姫をじっくり観察してみた。綺麗な瞳、誰よりもかわいい髪形、スタイルも良い。制服の胸辺りにあるリボン一つとっても、自分をかわいく見せる技が自然と染み込まれている。人間は皆平等、とはよく言ったものだが、これを見ているとそうは思えない。
 屋上に着くと、未姫はベンチに座った。私も隣に並ぶ形で座った。
「ごめんね、突然」
「ううん、いいよ。いつも朝、暇だから」
 未姫は屈託なく笑った。その眩しさにちょっとたじろぐ。
「前から」
 何から話すべきか考えながら、話を始めた。
「思ってたんだけど、未姫って自信に満ち溢れているというか、余裕があるじゃん」
 未姫はキョトンとした。
「そうかな?」
 そうだよ。
「だって未姫ってかわいいし、何でもできるし、男子の人気あるから余裕を感じて生きているのかな、と思って」
「私、男子の人気あるの?」
 この反応は予想外だった。とぼけているのか、そうでないのか測れない。相当な天然なのか、そういう類を気にかけない人なのか。それとも演技かな。だとしたら、かなりできる女だ。
「私、人気あるとは思わなかったなあ。だから、自分を磨く事を努力してきたし、うん、その結果としてそうなってきたのかもね」
 どうやら、未姫の言葉には嘘はなさそうだ。
「でも、かわいいだけだったら、紗希だってかわいいよ」
「え、そんな事ないよ」
 意外な質問に全力で否定した。私がかわいいなんて、おこがましい話だ。
「紗希は自覚がないだけだよ。自分の顔を鏡でまじまじと見た事ある? 私はあるよ。だから、自分がかわいい事は知ってる。けど、男子の人気がどうとかは知らない」
 未姫は自信とか驕りとかじゃなくて、自分をきちんと理解しようとする人のようだ。
 そういえば私は、いつのまにか自分に対する自信を失うにつれて、自然と鏡を避けていたような気がする。まず、気持ちによって映り方は変化するけど、自分の顔を見られる道具、鏡をよく見てみようかな。
「あと――」
 ここで本題に入る事にした。
「未姫って好きな人で悩んだ事とかある?」
「あるよ」
 即答だった。意外だったが、話の流れから多少、想像できた。
「というか、今悩んでる。私、好きな人がいるんだけど、その人に中々振り向いてもらえなくて」
 未姫のアプローチに振り向かないなんて、贅沢な男がいたものだ。
「男子って、目の前のことに夢中になってて、色恋よりも自分の夢を優先させるんだよね。まあ、それがかっこよく見えるんだけど」
「ああ、分かるな、それ」
 まさに杉内だ。未姫と共感できるとは思わなかった。
「紗希も好きな人いるの?」
 一瞬、答えに迷ったけど、「いるよ」と答えた。
「そうなんだ。誰かは、あえて聞かないことにするよ」
「じゃあ、私もそうする」
 私たちは笑い合った。 
 秋を誘う冷たい風が吹いて、屋上の木が音を立てた。葉が心地いい調べを耳まで届けてくれる。
「でも、どうする?」
「え?」
 未姫が今の風のようにひんやりとした表情をした。
「もし、私と紗希の好きな人が同じで、私が取ったりしたら、どうする?」
 今まで見た事がない表情だったから、驚いて、少し怖くもなった。
 未姫と好きな人が同じだったら、勝てる訳がない。同じ部活だ、といっても未姫の前ではどんなアドバンテージもかき消される。それでも、簡単には諦められない。私が杉内を好きな気持ちは誰にも負けないと自負しているし、そんな簡単に諦められるのなら、それは好きじゃないのだと思う。
「なんてね」
 未姫がいつもの笑顔に戻った。 
「そろそろ教室戻ろうか?」
 私はやはり、杉内が好きだ。未姫でも誰でも、取られたりするなんて、絶対に嫌だ。たとえ未姫が相手でも、全力で闘って、勝ちたい。
「うん」
 宣戦布告の意を言葉の裏に忍ばせた。
 透き通るような青色の秋空の下、一つの強い意志が生まれた。
 

 それは、運命だった。
「今日からこのクラスの一員になる転入生を紹介しよう。皆、仲良くしてやれよ」
 先生に背中を押されて少女が教壇の前に立った。ボーイッシュなショートに、冷静な性格を感じさせる凛とした表情。でも、心の内は不安でいっぱいだったそうだ。
「岩永綾です。よろしくお願いします」
 綾は小学校五年生の時に、私が通う学校にやって来た。
 クラスは違ったが、遠足や運動会で接点が生じ、妙に意気投合した。話しているだけで、安心できた。今までのどの友達よりも、大切だと信じた。
 綾は転校する時、親に猛反発したという。友達と別れるのが、住み慣れた街を離れるのが、思い出の学校に別れを告げるのが、嫌だったからだ。新しい地で友達を作れるのか、心配で怖かったからだ。
 だから転校する人の気持ちは分かる、という。
 二学期の終わり頃、私たちの友達の一人、阿部あおいが転校する事となった。あおいは明るくその事を話し、寂しそうな素振りを全く見せなかったから、私たちもそれに合わせて明るく受け止めた振りをした。
 だけど、綾はそんなあおいの本心を見抜いた。心の内は、不安で不安で今にも張り裂けそうなはず、と。皆の前で泣き出したい気持ちでいる、と。
 無理しているのか。私たちを気遣っているのか。私は綾の洞察に納得した。転校が嫌じゃない中学生なんか、稀だ。友達と別れるのが寂しくない中学生なんか、いない。寂しくないなら、それは友達ではない。
 あおいに何かしてあげたい気がした。


「ライブであおいに別れの歌を贈ったら?」
 部活がない日の放課後、落ち葉の道を家まで歩いていた。あの暑かった夏は疾うに去り、今度は寒さに備える時期になった。制服も衣替えし、毛糸の帽子やマフラー、手袋もちらほら姿を現し始めていた。
 綾にあおいに何かしてあげたい、と何気なく言ったら、「別れの歌案」が返ってきた。
「ああ、それいいかも」
 言われてみると、何で今まで思い付かなかったのか不思議なくらい、単純で素晴らしい案だ。
「綾、転校の時、何かしてもらった?」
 言ってから、してもらってなかったらどうしよう、と不安になった。下手したら、綾の心を傷付けてしまうかもしれない。まあ、綾はそんなに気に病む性格でもないか。
「うん」
 綾は前を向きつつ頷いた。
「クラスで色紙もらって、仲良かった友達からは、携帯のストラップもらった」
 ポケットから携帯を出して、「これ」とストラップを示した。
「嬉しかった?」
「そりゃあね。もらった時は感動したよ。一生の宝物にする、って豪語してたから」
 私は笑った。綾がそんな言葉を言うなんて、想像できない。
「でも、色紙は色褪せて文字が見えづらくなったし、ストラップもあの時の感動を思い起こさせるのは、もう無理。魔法の効力が切れたみたい」
 寂しい事を淡々と話す。私は何とも言えず、ただ黙っていた。
「結局、形が残る物がいい、ってよく言うけど、私はそうは思わない。むしろ、思い出の方がかつてを懐かしむには打って付けだと思うな」
「思い出か」
 しみじみと呟いた。体験者にしか分からない複雑な気持ちが、綾の紡いだ言葉の内でかくれんぼしている。オニは、居所を分かっていながらも、見付ける事をためらっている。
「そう。だから、ライブであおいのためにやったら、きっと感動するよ」


「別れの歌?」
 綾の提案を聞いた翌日、休み時間に部長の浜中を捕まえて、彼にも提案してみた。
「そういや、阿部が転校するんだよな」
 ちょっと寂しそうな顔をした。あおいのためにその表情を作っているのかな、という考えが頭をよぎった。それぐらい浜中とあおいが関わっている姿を見た事がない。
 でも、誰だろうとクラスメートがいなくなったら、寂しさを感じるものか、と考え直した。
「良い考えだな。やろうか」
 浜中が賛成してくれた。
「曲は決めてるのか?」
「それは杉内君と小笠原君とも話し合って決めよう」
「それもそうだな。じゃあ、今日の部活で」
「うん」
 次の授業に備えるために別れた。
 自分の席について準備をしていると、あおいが近付いてきた。
「やばい、数学の教科書忘れた」
 転校が決まってからも彼女の言動に大きな変化はない。何となく目の辺りを見つめてみるが、涙のあとはないようだ。
「マジ? 土田先生だから怒られるかもよ」
「だよね」
「隣に借りに行く? 何なら私も付いてくよ」
 相手の返事を待たずに、私は立ち上がった。
「本当? ありがとう」
 二人で教室を出て、隣のクラスに向かった。
 教科書は無事に借りられた。
「ありがとね、紗希。今度、何かおごろうか?」
「いいよ、別に。付いてっただけじゃない」
「いやいや、感謝してるよ。でも、転校する前に土田に一回、怒られといても良かったかも」
 私は「転校」という言葉が彼女の口から出てドキッとした。でも、表情は明るいままだったから、私も明るく努めた。
「何その記念みたいな。最後まで良い印象持たせときなよ」
 あおいは屈託なく笑った。「それもそうね」
「最近さ、やっぱり転校を意識してんのか、何するにも最後かな、って考えちゃう」
「当たり前だよ」
 教室のドアを開けた。教室はそろそろ授業が始まるというのに、まだ隅々にお喋りしているグループがいた。
 あおいは自分の席に座ったが、私は話の続きをするためにその席に近付いた。
「あおい、強いよね。精神的に」
 搦め手から攻めるつもりだったが、良い言葉が浮かばなかった。
「何で?」
 あおいは当然の質問をした。これじゃあ、この話の流れでは、彼女の本音を聞き出せないだろう。
「転校するのに寂しそうな素振り見せないから。私だったら、毎日泣いてると思う」
 あおいは笑った。
「寂しいよ、そりゃ。紗希とか綾とか未姫とか、別れるのが惜しいけど、だからって、それまでの時間を無駄に過ごそうとは思わない。どうせなら楽しんで終わらせたいし」
 素敵な言葉の羅列だ。でも、すんなり受け入れられないのは、あおいが不安と悲しみでいっぱいだという固定観念があるから。
 それが本当にあなたの本性?
 チャイムが鳴って、先生が入ってきてしまった。私は慌てて自分の席に戻った。他のお喋りしていた人達も同様に。
 自分のダメさに呆れた。ドラマや小説だったら、言葉巧みに本音を聞き出す場面だったのに。


 ホームルームが終わり、放課後。部活の時間だ。ギターを肩にかけて、音楽室に向かった。
 最初はギターを抱えてるのが恥ずかしくて、足早に音楽室に向かっていたが、近頃はもう慣れた。そんなに人目は気にならない。サッカー部がサッカーボールを、剣道部が竹刀を持って行くのと同じだ、と考えるようになった。
 音楽室の扉を開けると、すでに三人が揃っていた。机四つをくっつけて、話し合いの体勢が整えられていた。
「相川も来た事だし、真面目な話しするか」
 浜中が私を手招きした。私は空いていた席に座った。
「何の話ししてたの?」
 小笠原が笑いを漏らした。どうやら面白い話をしていたようだ。私にとっても面白いか分からないが。
「こいつがさ」
 小笠原が杉内を指差して内容を暴露しようとした。
「ばか野郎」
 杉内が珍しく慌てた。「男の話だ」
「もういいから、始めるぞ。相川、簡単に経緯を説明してくれ」
「うん――」
 私はあおいが転校する事、それで別れの歌を贈りたい、という事を簡単に説明した。
「いい考えだな」
 小笠原が同調した。ふざけた顔の面影は、もう残っていない。
「ただ曲は話し合って決めたいから、皆で出していこう」
「贈る言葉とか?」
 小笠原が冗談口調で言った。古い。
「海援隊のか。古いだろ」
「かいえんたい? 違うよ、金八先生のだよ」
「金八先生はそのメンバーの一人だよ。まあ、それはいいや。杉内はどうだ?」
 杉内は考える目付きで、顎に手を当てた。まるで名探偵のように。
「車輪の唄とか?」
 事件の真相を切り出すように、名探偵が呟いた。そして私は、意外な事実に驚いた脇役のように「えっ?」と言ってしまった。三人は一斉に私の方を向いた。
「どうした相川?」
「私もそれがいいと思ってたから」
『車輪の唄』は、『天体観測』と同じバンプの曲だ。もちろん別れの歌である。
「なるほどね。二人も推してる人がいるから、車輪の唄は決定でよくね?」
 小笠原が浜中に言った。
「そうだな。じゃあ、一曲目は車輪の唄でいこう」
 良かった。私は心のうちで安心した。
「ってか、浜中は何がいいんだよ?」
「ん? おれか?おれは、SAKURAがいいかな」
「誰の? さくらって、いっぱいあるじゃん」
 小笠原が笑った。日本人は桜が好きだから、歌手も桜を歌にする。コブクロの『桜』、河口恭吾の『桜』、レミオロメンの『Sakura』、aikoの『桜の時』、嵐の『サクラ咲ケ』など。
「いきものがかりの」
 浜口は秘密基地の中を覗かれた子どもみたいな顔で答えた。いきものがかりは三人組のグループで、ボーカルが女の人、男の人二人がギターを弾く。
 浜中がいきものがかりを聴くなんて意外だ。
「でも、ボーカル女だけど、杉内君、歌えるかな」
 ちょっとだけ「杉内君」という所で緊張した。本人は手を横に振って、「ムリムリ」としかめ面をした。
「だったらさ、もう一曲もバンプでいこうぜ。プラネタリウムとかよくね?」
 小笠原が提案した。私は賛同した。浜中も理由をいくつか挙げて賛同した。杉内も「おれもいいよ」とやる気のない声で賛同した。
 二学期の終わりのライブは、『車輪の唄』と『プラネタリウム』に決定した。いつもの事ながら、本番まで時間がない。練習をその日から始めた。

                               
 乾いた空気に、白い息が溶け込む。かじかんだ手を吐く息で温める。明日は雪が降ればいいのに、と昨日の夜は思っていたが、今は絶対に思わない。ただでさえ寒いのに、雪が降ったら私は凍死寸前に陥る。
 今日はライブの日。二曲とも練習に練習を重ね、何とか間に合わせた。
 三日前まであったテストの最終日に、クラスであおいのお別れ会が開かれた。言葉を送って、色紙を渡して、あおいが言葉を返す、という簡単なものだったが、あおいは終始、笑顔だった。ただ、泣かなかった。皆の前だから我慢したのか、本当に笑みしかこぼれなかったのか、真意の程は分からない。
 だから今日は泣かせる。ライブで感動を与えて、周りがひくぐらい大泣きさせてやる。私たちにそんな力があるとは思えないが、それでも思いは伝わるだろう。
 学校に着いて、体育館でリハーサルをした。授業前に教室に戻って、昼休みまでいつも通り過ごした。今日はあまり緊張していない。強い決意が、胸の中であぐらを掻いているからだろう。
 昼食の時間を終えると、私たちは誰よりも先に体育館に向かった。途中で綾に「頑張ってね」と言われた。私は力強い目付きで頷いた、はず。
 舞台裏でセッティングとかチューニングとかしていると、体育館が少しずつ騒がしくなってきた。今はこのライブは恒例と化していて、全校生徒のうち見に来る人の割合は、選挙に投票に行く人のそれよりも高い。
 私たちは浜中、杉内、小笠原、私の順で舞台に上がった。同時に歓声が上がった。まるで人気グループみたいだが、中にはテンションの高い男子グループがふざけて叫んだものもある。それでもいい。見に来てくれただけで十分だ。
 杉内がマイクを握る。
「こんにちは、つぎはぎ細工です。寒い中、ありがとうございます。じゃあ、早速ですけど、始めちゃいます。BUMP OF CHICKENでプラネタリウム」
 まずは『プラネタリウム』から。ギターの前奏から、緩やかなメロディーで始まる。
 内容はまずまずだった。私は弾きながら、目であおいの姿を探した。あおいは綾、未姫などいつものメンバーと聴いていた。泣きそうな気配はない。でも、これで泣かせようとは思っていない。狙い目は二曲目だから。
『プラネタリウム』がノーミスで終わった。杉内の声は今日も安定している。頼りになるなあ。
 次に入る前に、私が杉内に近付いて、マイクを手に取った。予想以上に高い所にあって、杉内君って背高い、なんて思った。私が低いだけか。
「次の曲は、今学期限りで転校してしまう私の親友に送ります」
 女子は「親友」という言葉が好きだ、とよく言われる。一概にそうとは言えないが、少なくとも私は好きだ。仲のいい友達だったら、誰でも親友と呼ぶ。
 まして付き合いの長い、あおいだ。彼女を呼ばずして、誰を呼ぶ。
「遠く離れても、私たちはずっと友達だよ。寂しくなったら、この曲を思い出して、新天地でも元気でね。同じくBUMP OF CHICKENで車輪の唄」
 マイクを杉内に返して、元の立ち位置に戻った。浜中がドラムスティックを三回鳴らし、それを合図に前奏に入った。
 さっきとは打って変わって、軽快なテンポ。田舎を走る電車みたいな音が心地いい。
「約束だよ。必ず、いつの日かまた会おう」
 サビで歌われた歌詞が耳に響いた。約束だよ。私たち、必ずまた会おうね。
 あおいを見てみると、彼女は遠目でも分かるぐらい泣いていた。そして体育座りで丸くなって、顔を隠した。
 計画は成功した。『車輪の唄』も最後までミスなく終えられた。


 その日の夜、あおいからメールが来た。
「恥じかかせないでよ、もう。人前であんなに泣いたの初めてなんだから。……でも、ありがとう。嬉しかったよ」
 私たちの演奏でも、人に感動を与える事ができた。転校と身内というアドバンテージがあるが、それだけ私たちバンドが成長した証拠だ。
 次の日の終業式であおいは全校生徒の前で挨拶をし、笑顔で去っていった。
「上手くいったね」
 綾があおいの遠ざかる後ろ姿を見据えながら言った。
「ありがとう。綾のおかげだよ」
 私は何も、と言う綾を遮って、続けた。
「私、転校のこと甘くみてた。知らない人たちがいる所に飛び込んでいくのって、すごく勇気がいる。かけがえのない仲間たちと別れるのって、すごく寂しい。一般論で知っているつもりだったけど、正確には分かっていなかった。綾に言われなかったら気付かなかったと思う。だから、ありがとう」
 綾は、「大げさな」と笑った。
「私はただ、もっと良い別れ方をしたかったから、せめてあおいには、と思っただけよ」
 綾はいつだって優しい。しかもそれを何でもない事のように言う。
 何となく校舎の方を向いて、校旗を見上げてみた。風にたなびいて、後ろの夕焼け空とお似合いだった。あおいは、もうこの風景を見る事はないかもしれない。見上げた空は遠く離れても共有できるけど、その空と重なる物を共有する事はできない。
 次にこの風景を見る時、あおいをどんな風に懐古するだろう。


 冬休みに入った。
 部活は三学期までなしになった。理由は、寒いから。それに冬休みはそんなに長くない。家族とのんびりするのもあり、友達と遊ぶのもあり、それぞれの自由に過ごせる期間として、冬休みを設定した。
 私は暇になった。だから用もないのに綾の家に行った。くだらない事を話して、たまに宿題を教えてもらったりした。宿題には習字もあり、私は「挑戦」と拙い字で書いた。誰かとかぶりそう。綾は「知音」と書いた。「何て読むの?」って聞いたら、「ちーん」とお坊さんの真似をした。二人で笑った。
「ちいん、だよ。自分の心を良く分かっている人のこと、すなわち親友の意味」
 そんな言葉があったのか。綾は物知りだ。
 イブは日中、綾と過ごして、夜は家族と過ごした。「杉内とデートしたら?」と綾は冗談交じりに言ったけど、そんな勇気ない。転校する以上に勇気が必要だ。
 第一、杉内君とそんな仲にまで発展していない。頑張って話す回数を増やそうと試みるが、以前とあまり変わらない。
 それでも彼を意識するのは楽しい。授業中に仕草を見つめている時は、刺激的だ。振り返って目が合ったら、頭の中はパニックを起こしてしまうだろう。かれを見つめている時は、頬が自然と紅く染まるのが自分でも分かる。
 そんなこんなで、大晦日の前日を迎えた。明日は一年最後の日。その日ぐらい、杉内君と過ごしてみたい。
「ねえ、紗希」
 今日も綾の家にお邪魔していた。綾が持っているマンガを読んでいたら、綾が話しかけてきた。何だろう。悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「明日、大晦日じゃん」
「そうだけど」
「人集めて、忘年会しない?」
 忘年会。どうしてもサラリーマンがビールを飲んで、酔っぱらっている姿を想像してしまう。でも、クリスマスパーティーの遅くなったバージョンと考えれば、悪くない。
「いいね。やろうよ。誰、誘う?」
「未姫とまっさんと」
 まっさんとは、未姫と一番仲が良い松田歩のことだ。
「あと軽音部の男子」
 私はやっと綾の悪戯っぽい笑みの真意に気が付いた。ようするに私と杉内が会えるように仕組みたいのだ。
 でも、もし実現するなら、これほど喜ばしいことはない。
「……だめ?」
 反応のない私の顔を綾が覗き込んだ。
「ううん、いいと思うよ」
 まだ参加できると決まった訳じゃない。家族と過ごすのかもしれないし、男子で集まって何かするのかもしれない。
 ただ、未姫を誘う事に不安を感じた。まだ、あの日に彼女が言った言葉が脳裏に焼き付いている。
 もし、私と紗希の好きな人が同じで、私が取ったりしたら、どうする?
 だけど、これこそまだ決まった訳じゃない。たとえそうだとしても、私は負けない。女子二人は綾が誘う事にして、軽音部の男子三人は私が誘う事にした。携帯電話を手にとって、浜中からかけた。
 浜中は快諾してくれた。次に電話した小笠原も快諾。
 最後は杉内。やはり緊張してしまう。頭の中で何度も会話のシュミレーションを繰り返した。
 明日、岩永綾の家で忘年会するけど、来ない? 小笠原君と浜中君も来るよ。何か予定があるなら、そっち優先していいから。
 断られるパターンもOKしてくれるパターンも想像した。よし。私は携帯の呼び出しを押した。


 綾は朝から部屋の掃除と料理の準備をしていた。私は使えないなりに手伝った。綾のおかげで杉内と大晦日を過ごせるようになったのだから、今日は言いなりになって働く。
 電話の結果、杉内も来てくれる事になった。私は楽しみで昨日から心臓が小躍りし、夜はなかなか寝付けなかった。
 しかし、誤算もあった。お喋りな小笠原が言った事で、もう二人の男子も来る事に。一学期の頭に軽音部創設をかけたライブで敗れた方のバンドでギターだった森山と、スポーツ万能、成績優秀、学年一のイケメンと言われている与田武司。
 森山は未姫のことが好きで、この事実はみんな知っている。知らないのは本人だけ。
 未姫が来ると聞いて参加したくなり、でも一人で行くのは微妙だから、普段から仲の良い与田を誘ったのだろう。容易に想像できる。
 与田は同学年からも後輩からも人気がある。見た目が良く、クールな性格だが、さり気ない気配り上手、笑顔も爽やか、未姫の男子バージョンと言える存在だ。
 それだけに、未姫と与田の関係はどうなのだろう、と考える。お似合いなのに、噂にもなった事がない。未姫はどんな人が好きなのだろう。
「紗希、時間、七時からでいい?」
 綾がやや早口にそう言う。ずっと右に行ったり、左に行ったりと、大奥で奉公する女中のような働きぶりだ。綾は、目の前にいる私の親友は、どんな人が好きなのかな。恋愛の話はたまにするけど、綾が想いを寄せている人はおろか、どんなタイプが好きかすらちゃんと聞いた事はない。でも、私も杉内が最初の好きになった人だから、これから誰かを好きになるかもしれない。
 中学生の恋なんて、大人になって振り返れば、幼かったなあ、とか、甘いよなあ、って思うのだろう。でも、好きになっているこの瞬間は、胸の内が暖かい感情に包まれていて、不思議と幸せを感じている。
「いいよ。軽音部には、私がメールしとくよ」


 日が暮れてきた。冬は夜の時間が夏よりも長い。当たり前と思って過ごしているが、赤道直下の国は四季がないから、一年中、夜の長さが変わる事はないそうだ。四季がない生活なんて、つまらなさそうだ。桜も咲かず、雪も降らず、日本人の伝統文化はほとんどが通用しなくなる。ずっと暑いから、「プール開き」なんていう言葉
は存在しない。まあ、いいや。
 午後六時半、約束の時刻まであと三十分。部屋の片付けも買い出しも済み、綾はご飯の準備を始めていた。綾は料理が得意で、家庭科の時間は彼女の独壇場になってしまう。私はいると邪魔だから、テレビを見ながらおとなしくしていた。テレビでは、千葉県沖のサンゴが成長を続けている、原因は海水温上昇だ、とニュースで報じていた。
 呼び鈴が鳴った。私はテレビを消して、玄関に向かった。
 最初に来たのは、まっさんこと松田歩だった。
「やっほー、紗希。早いね」
 白地のマフラー、赤と黒が斜めに入り混じった柄のセーターを着ていた。ボーイッシュな髪型と、快活な口調がよく合っている。
「まっさんこそ、早いじゃん」
 彼女がまっさんと呼ばれるようになった所以は、本人を含めて誰も知らない。小学校の入りたてから呼ばれていたらしく、それ以来ずっと定着している。
「まーね。私、約束の時間に絶対、遅れない人だから」
 まっさんは、いつも陽気だ。裏表もないし、テンションの波も数センチぐらい。未姫と仲が良いのも、この性格が理由の一つだろう。
 まっさんが来てから十五分後、浜中が来た。襟が二枚重ねになっているポロシャツ、その上にカーディガンをはおり、下はジーパンだった。この時期にしては、ちょっと薄手。「寒くないの?」と聞いたら、「寒い」と正直に答えた。
 綾は料理の準備ができたのか、台所から出てきて、浜中やまっさんと言葉を交わし始めた。
 四人で話している内に、七時を過ぎた。時間通りに来たのは、二人だけだった。
 十分後、森山と与田が現れた。
「竹早さんはまだ来てないの?」
 森山は入るなりそう言って、いないと知ると、無表情のまま座って、与田とボソボソ話し始めた。
 その五分後、森山が待ちに待った未姫が小笠原と共に現れた。
「わりぃ、昼寝してたら、寝坊した」
「ごめん、電車の乗り換え間違えちゃって」
 それぞれ言い訳して、適当な場所に腰を下ろした。
「え、な、何で――二人が一緒に?」
 森山が動揺を隠せない面持ちで言った。付き合っているのかと、不安になったらしい。
「え? 下で偶然、会っただけだよ」
 森山の気持ちを知らない未姫は、何でもないように答えた。森山は安心したのか、息を小さく漏らした。その隣で与田は笑っている。
「あと一人だね」
 綾が呟いて、チラッと私の方を見た。私は曖昧に笑った。まだ来てないのは、杉内だけ。用事ができて、来られなくなったのかも。それなら、連絡ぐらいするか。ただ、時間にルーズなだけかも。付き合ったら、待ち合わせに苦労しそうだ。って、どうした私? 付き合ったらって、何考えているの?
 七時半、三十分遅れで杉内がようやく来た。良かった。
「おら、杉内。ちゃんと時間通り来いよ」
 小笠原が怒鳴ったが、「人のこと言えないだろ」と浜中にはたかれた。
「杉内、そういう時、何て言うんだ?」
 浜中は親みたいな事を言った。杉内も合わせて、「ごめんなさい」と子どもみたいに頭を下げた。
「いいから、早くこっち来て。乾杯しよう」
 まっさんがコップ片手に言った。
 杉内が私と浜中の間に座った。頬が熱くなる。
「乾杯!」
 そのまま、まっさんが音頭をとって、ジュースを飲み干した。
 綾が作った料理は好評だった。
 未姫はまっさんとそれを食べながら、二人で話していた。
 小笠原は、森山と与田の話に入っていった。話しつつも、森山は未姫に話しかける機会を狙っていた。
 綾は浜中と話していた。この二人に面識があったとは、知らなかった。
 気付けば、残っているのは私と杉内だけ。これは大チャンス。今いかないで、いついく。
「おいしいね」
 私はできるだけ笑顔で話しかけてみた。上手く笑えているかな?
「ああ、岩永すごいな。相川は何か作んなかったの?」
 私はちょっと後悔した。料理の話じゃ、私ができない事を言うしかない。
「何も。私、不器用だから」
「ふーん」
 杉内はコップの中を覗くように呟いた。その横顔からは、どう思ったか読み取れない。ポーカーフェイス、という言葉があるが、彼はまさにポーカーフェイス。
 杉内はテレビの下のゲーム置き場を見た。プレーステーションとそのゲームディスクが何個か置かれていた。私と綾は、たまにやる。
「何かゲームしようぜ」
 私の方を向いて言った。意外と顔が近くて、ドキッとした。
「ゲーム? そうだね、皆でやるんだったら、桃鉄とかマリオパーティーとかあるけど」
 私はできるだけ平静を装って答えた。コンマ一秒ぐらい、杉内と視線を合わした。
「いや、野球がいいな」
 するとどっかから紙とペンを持ってきて、トーナメントを書き始めた。九人いるのに、八人のトーナメントを。
 その様子に気付いた皆が、杉内の周りに集まってきた。
「じゃあ、おれ、クジ作る」
 与田が機転を利かして、クジを作り始めた。
「私、持ち主だから、優勝者と対決って事でいいよ」
 綾はトーナメントが八人用だと気付いて、そう言った。杉内は言われてから分かったのか、「わりぃ、自分カウントし忘れてた」と謝った。
 クジの結果、左から小笠原、森山、未姫、与田、私、浜中、まっさん、杉内の順で並んだ。私の一回戦は、浜中だ。
 一回戦第一試合、小笠原が圧勝した。森山は、「おれ、これやんの初めてだし」と言い訳した。そう言う割に、やり方は知っていた。
 一回戦第二試合、与田が未姫相手に手加減していたら、そのまま負けてしまった。与田は言い訳しなかったけど。
 一回戦第三試合、私は浜中の前になす術もなく敗れた。杉内とやりたかったのに。しかも、「私とよくやったのに」と綾に笑われた。どうせ私は、不器用ですよ。
 一回戦第四試合、杉内がまっさんに勝った。
 準決勝第一試合、小笠原は手加減せずに未姫に勝った。森山が何度か邪魔したけど。
 準決勝第二試合、浜中と杉内は接戦の末、杉内が勝利した。
 決勝は杉内と小笠原の顔合わせになった。そういえば、軽音部の男子は強い。この二人も接戦になり、杉内が制した。やりたいと言い出しただけある。
 でも、綾はそれ以上に強かった。優勝者の杉内に圧勝し、誰もが驚いた。私より強いのは知っていたけど、こんなに強かったとは。いつもは手加減していたのか。
 ゲームが終わると年越しそばが出てきた。これを食べなきゃ、一年が終わる気がしない。
 お喋りしながら、その合間に紅白歌合戦を見て、やがて新年を迎えた。
「明けましておめでとう!」
 今度は年が明けた事に乾杯した。気分がハイになっているからなのか、疲れを感じない。でも、明日に響きそうだ。
 それぞれ家路につく前に、皆で初詣に行く事になった。家族と毎年、行くけど、こんなに大勢で行くのは初めてだ。
 近くのお寺に九人で行って、一年の無事を祈った。ついでに恋愛成就もお願いした。杉内はどんなお願いをしているのかな。
 初詣を終え、深夜一時前に帰宅した。中身が濃くて、楽しい大晦日だった。
 帰ってから疲れがドッと出て、ベッドに直行した。初夢、見られたらいいな。でも、今日見た夢って、厳密には初夢と言わない事を思い出した。そして、ぼんやりと考えている内に眠った。


 新年がスタートして、三が日も過ぎ、会社勤めの大人たちは、早くものんびり過ごす時間が終わってしまった。
 私の父も会社に朝から出勤した。ああいう姿を見ると、まだ子どもでいいや、と思える。子どもは元気だ、とよく言うが、子どもは後先を考えないだけだと思う。目の前のことに夢中になって、それに全力を注いで、疲れたら眠る。子どもはストレスや悩みもないから、よく眠れて、体力を回復させる。でも、大人は違う。経験則から後先をあれこれ考えてしまい、大事な場面でしか全力を出さない事を癖としている。
 ただ、子どもと大人がどちらも全力を絶対に注ぐ事がある。それは、恋だ。意中の人ができたら、その人を手に入れるためにかっこいい姿を見せようとする、言葉で落とそうとする、妄想をフル回転させる人もいる。
 手に入れるためには、避けて通れないことがある。それは、想いを相手に伝えることだ。子どもなら「告白」、大人なら「プロポーズ」と呼ばれるものだ。海よりも深く愛していても、言葉にしなければ相手は分かってくれない。だが、それはとても勇気がいることだ。
 冬休みの終盤、森山が未姫に告白した。私は三学期が始まってから知った。結果は、ダメだった。まあ、誰もが予想していた結果だけど。
 でも、私は森山の事を尊敬する。彼の勇気に憧れの念を抱いた。告白する時、何度も迷っただろう。電話で呼び出す時、何度も手が止まっただろう。約束の場所に行く時、何度も引き返そうとしただろう。それでも最後には、ちゃんと想いを伝えたのだ。私は森山の事を軽んじている節があったけど、考えを改めた。その勇気は、見
習うべきものだ。
 そろそろ修学旅行がある。私も好きな人への想いを、言葉にしてみようかな。勇気を出して、一歩踏み出してみようかな。
 私なんかにできるかな?


 修学旅行は、四泊五日で京都と奈良に行った。かつての都があった場所は、清閑な雰囲気に包まれていて、心が安らぐのを感じた。
 部屋は女子七人一部屋で、私は綾とまっさん、未姫などと同部屋だった。
 自由行動の班は、男子三人、女子二人で、私は綾と軽音部の三人と組む事ができた。鹿苑寺金閣、慈照寺銀閣、竜安寺などの有名所を巡り、鹿に煎餅をあげたりした。鹿は最初、怖かったけど、慣れてくるとかわいいもので、お腹いっぱいにしてやった。
 結局、私は杉内に告白しなかった。修学旅行に行く前に結論を出し、それを綾には伝えておいた。綾は何も言わなかったけど、たぶん私の考えを尊重してくれたのだろう。逆にそれがつらくもあった。チキン、とでも罵ってくれた方が良かった。
 本当に? 心の声が私に問いかける。つらいのは、その決断に後悔があるからじゃないの?そうかもしれない。私は、今のままでいい、と心のどこかで思い、逃げただけかもしれない。
 だけど、杉内と何気ない話をすると、それだけで満足して、この関係を壊したくない、と考える。その一方で、好きだという気持ちは今にも溢れそう。たとえるなら、ギリギリまで入ったコップの水。表面張力で、何とか溢れないように保っている。
 話を変えると、また森山の話。森山は、また告白したのだ。といっても、相手は未姫ではない。まっさんだった。まっさんは返事を一時保留し、最終日に答えを出した。まっさんは付き合う事にした。私はさり気なく、森山が未姫に告白したばかりなのにいいの、と尋ねてみた。まっさんは、「大丈夫、細かい事、気にしない性格だか
ら」と笑い、「それに、森山の私を想ってくれる気持ちが、ちゃんと伝わってきたから」と答えた。
 正直、羨ましく感じた。私もこんな風に杉内に言われたい。
 修学旅行はあっという間に帰る日を迎えた。帰りの新幹線の中で、綾と話をした。
「三学期の行事って、あと何があるっけ?」
 テストを除いて、と付け加えて言うと、綾は笑った。
「あとは球技大会だね。紗希の好きな」
 私は笑えなかった。これは皮肉だ。運動音痴な私が、球技大会を楽しみにしているはずがない。どうせ何もできないで、コートで突っ立って、皆の足を引っ張るだけだ。
 いつか、未姫に自信をもっと持つように言われた事がある。でも、スポーツに関しては、全く自信が湧いてこない。人間には誰しも、絶対にできない事があるものだ。私はそれが人より少し多いけど。
 新幹線は風景を次々に通過していく。田んぼ、山、普通の町並みもあったりして、ぱらぱらマンガを速くめくり過ぎているみたいだった。
 ギターを弾きたい。早く帰って、ギターを弾きたい。

                               
 私はどうせ活躍が望めないから、せめて杉内の応援でもしたい、球技大会の今日この頃。しかし、杉内はそんなに球技が得意な方ではない。そもそも、やる気がない。前髪が長いから、余計にそう見える。
 球技大会にはバスケ、バレー、ドッチ、サッカー、テニスの五種目がある。その中から一人最低、二つ選ぶ。クラスの人数的な問題で三つ選べる人もいて、当然、球技が得意な人になる。私は何でも良かったから、綾と同じバスケとサッカーにした。
 未姫は勉強もできるが、運動も同様にできる。見ているだけならクラスも勝ち上がるし、応援しているのだが、同じチームだと困る。一試合でも少なく球技大会を終わらせたいのに、未姫の縦横無尽の活躍のせいで負けないのだ。表向きは未姫を皆とちやほやするけど、胸の内ではそんな頑張んなくていいよ、とひねくれた事を言っている。
 それを繰り返して、気付いたらどちらも決勝まで勝ち上がってしまった。女子だから、一人に依る所が大きい。バランスが悪くてもいい訳だ。
 決勝は両方、三年生が相手だった。暴力を振るわれたらどうしよう、と怯えていたが、あとで気付いた。私を潰しても意味がない。やるなら、未姫だろう。まあ、未姫に暴力を振ったら、男子からブーイングの嵐が湧き起こるけど。
 ボールを目で追って、何となく追いかけて、たまに触って、すぐに未姫にパスした。試合中のほとんど、おろおろしていた、と思う。ああ、杉内君の目には、私の姿はどう映っているのかな。他の男子にどう見られようと知った事ではない。でも、彼もあんまり人のこと言えないから、同情してくれているのかも。あるいは、おろおろしている私の姿がかわいく見えたりして。ありえないか。
 サッカーは敗れて準優勝だったけど、バスケは優勝してしまった。優勝チームは全校生徒の前で表彰されたけど、私なんかが表彰されていいのかな、と未姫以外のメンバーは思っていた。それだけ未姫に依る所が大きかった。
 球技大会が終わった。あとは、学期末にライブがある。ギターだったら、未姫に負けない。だって、未姫は土俵にも立っていないから。


 国会の参議院は、三年ごとに半数が選挙で入れ替わるそうだ。つまり、任期は六年。
 学校は、一年ごとに三分の一が入れ替わる。三年生が抜け、新一年生が入ってくる。その度に立場が後輩、先輩と変わっていく。そして後輩は、何かと先輩に尽くさなければならない。
 ウチの中学校には、「三送会」と呼ばれる行事がある。フルで三年生を送る会。卒業式の一週間ほど前に行われ、卒業式に比べればおふざけが許されていて、軽音部の他にもステージで何かする有志団体が募られる。そのため、三送会では軽音部は一曲しかやらない。
 曲はRADWIMPSの『有心論』というのに決まった。
 未姫は有志団体として、まっさんら女子何人かとダンスを披露するらしい。盛り上がりそうだ。まあ、つぎはぎ細工には劣るだろうけど。
 綾は、人前にあまり出たがらない。別にあがり性でもないし、人前でもいつもと変わらないのだが、面倒くさがり屋なのだ。
 部活がない日、綾と帰った。
 教室を出てから下駄箱まで、今日の事を話し、そこから校門まで何となくお互いに無言になった。私は校庭に敷きつめられた砂を見ながら、杉内と付き合ったら、綾と帰らなくなるのかな、なんて考えが浮かんだ。
 校門を出ると、正面はマンションが建っていて、道は左右の二つに分かれている。右はまっすぐ行くとまたマンションがあり、その左手側にはコンビニや商店、家々が立ち並んでいる。そこから右に行くと、橋があって、橋の下では電車が走っている。私もよく乗る環状線だ。校門から左は、私たちが帰る方向。ひっそりとした住宅
街で、抜けるととても大きなサッカーグラウンドが広がっている。その近くには高校や水泳の施設がある。子どもがたくさんいる場所なのに、いかがわしい店も軒を連ねている。
 綾は空を見上げて、いつもよりゆっくりと歩いていた。私はそれに歩調を合わせて進む。
 綾の顔がこちらを向いた。
「紗希、そろそろ三年生だね」
 そうだね、と私はとっさに返す。
「早いよね。ついこの間、入学した気がする」
「それは言い過ぎ」
 綾が笑った。かわいい笑い方をする。
「三年だから、受験生だよね」
「ああ、嫌だな、その響き。何で高校は受験しなきゃいけないのかな。こんな事なら、中高一貫校に行けば良かったよ」
 綾から返しはすぐ来なかった。珍しく言葉を探しているようだった。
 綾は普段、言いよどんだりしない。何でもはっきりと言う。何でも知っているからだ。
 ただ一つ、綾が知らない事がある。
「そしたら、杉内と付き合えても、あんまりデートとかできないかもね」
 恋愛の事だ。
「だから、急かすつもりはないけど、自分でタイミングをはかっていいけど、早い段階で告白した方がいいんじゃない?」
 綾はいつだってそうだ。自分の事より、他人の事をよく考えてくれる。綾自身は恋をしないのだろうか。本当はしているけど、自分を顧みないから、気付いてないだけじゃないだろうか。
「分かってる。綾の言いたい事は、すごくよく分かる」
 私も考えていた。ない脳みそ使って、トイレをしている時、眠る前のベッドの上、退屈な授業中、いつも杉内の事を考えているから。
「でも、背伸びしたって仕方ない。神様から与えられるチャンスを待つしかない」
 いつか綾が私に言った言葉を口にした。
「ありがとう、綾。大丈夫だよ。ちゃんと、後悔しない形で決着をつけるから。それまでは、そっと見守っておいて」
 綾は頷いた。全てに納得した様子だった。そう思って欲しかったから、そう見えただけかもしれない。それでもいいや。
 私の家の前で綾と別れた。乾いた空気が、私の目や鼻を刺激する。遠ざかる綾の後ろ姿を、無感情で見つめていた。


 三送会の日は、授業がない。午前中は大掃除と、春休みの課題を含めた先生の話。昼食後、体育館で三送会が始まる。
 本番当日は相変わらず緊張するが、今回はさほどでもない。慣れてきたのもあるが、他の有志団体がいる事が多少、楽にさせる。有志団体はもっと緊張している事が、ありありと分かるからだ。私も初ライブは、こんな風に見えたのかな。ちょっと優越感を感じる。
 教室を男子が雑巾がけし、女子がほうきで掃いた。女子はスカートだし、重労働な事を男子がやるのは当たり前だから。小笠原が、「女子にも雑巾やらせろよー」と不平を言ったら、女子に「やらしー」と言われて、「ちげーよ、そういう意味で言ったんじゃねーよ。ただ、男子ばっかり大変で不公平だろ、って思っただけだって」と慌てて否定し、教室では笑い声が起こっていた。でも皆、分かっている。小笠原は軽口を叩くけど、いやらしい人じゃない。
 春休みの課題は、夏休みほど多くないが、それでも皆、文句を小言で言い合っていた。
 昼食を食べ、私たちはひと足先に体育館に向かった。
 舞台裏では、いつもと違って人が溢れ返っていた。窮屈さを感じながらも、おかげで緊張はかなり和らいだ。
 有志の発表を聞きつつ、チューニングやらを済ませておいた。つぎはぎ細工はトリ。準備に時間をかけられたけど、有志の発表が見られなかった。未姫のダンスはかわいかっただろう、見たかったな。
 一つ前の発表が終わり、司会のアナウンスが入った。私たちの紹介と、三年生へ贈る言葉だ。その最中、四人で肩を組んだ。私の右は浜中、左が杉内、正面に小笠原。小笠原が私の左だったのだが、「お前はやらしいから、相川の隣、ダメだ」と杉内が掃除中の件を引き合いに出して、入ってきた。何の意図もなかったのだろうが、嬉しかった。別に小笠原の隣が嫌だったとか、そういう事ではない。
 右側の浜中が話し始めた。
「一年間、楽しかったな。おれは軽音部を始めて、最高に良かったと思っている。三年になって、受験生と呼ばれる学年になるけど、この部活は続けるつもりだ」
 ここでも受験生、という言葉が出た。思わず杉内の方に目をやる。
「じゃあ、一年の締めくくりライブ、楽しんでいこう」
「おう」
 三人で声を揃えて応えた。この雰囲気が好きだ。この四人が織り成す雰囲気が、たまらなく好きだ。壊したくないと思う。だから、杉内に告白するのを躊躇してしまう。
 ステージに上がった。この光景を見るのは何度目だろう。あと何度、見られるだろう。
 杉内がスタンドマイクの前に立った。
「こんにちは、つぎはぎ細工です。三年生の皆さん、ご卒業おめでとうございます。高校へと進学する皆さんに、最高のライブを披露したいと思います。それでは、RADWIMPSで有心論」


 泣いている人がいる。卒業証書に泣かされる人や、別れの歌に泣かされている人もいた。普段は先生たちを悩ませる問題児も、受験が上手くいって有名校に進学する人も、傍から見れば平凡な学校生活を送っていた人も、等しい価値の涙を頬に伝わせていた。
 今日は、卒業式。三送会の余韻が残る体育館で、厳粛とした中、予定がこなされていた。
 ライブは、大成功だった。アンコールを頂いてしまったが、一曲しか用意してなかったので、応えられなかった。「来年は、用意しておこう」と浜中が私たちに言った。もちろん、と三人で頷いた。
 卒業式が終わり、そそくさと家に帰った。三年生に知り合いはいないので、学校に残らなかった。
 桜がわずかに咲いていた。もうすぐ学年が変わる。
                               

 桜は春休みの間、とても綺麗に咲き誇っていたが、入学式の時には散りかかっていた。
 新一年生が幼い顔を並べていた。私たちが一年の頃、こんなに幼かったっけ、なんて思っていた。
 軽音部には、待望の新入部員がきた。一年生の広池紅海という、かわいらしい女の子だった。紅海で、くみと読む。肩まであるストレートの髪に、縁のないメガネをかけていて、頭が良さそうに見えた。実際に頭は良かった。
 キーボード希望で、ライブの幅が広がるから、即オーケーが部長浜中から下された。
 女子が一人増えた事で、私にとっては願ってもない事で、嬉しかった。物怖じしない性格だから、すぐに馴染むだろう。
 一学期末のライブに向けて、早速、練習が始まった。
 四月の下旬には、未姫がついに意中の人に想いを伝えた。その相手は、噂にもならなかった与田武司だった。意外な気もしたけど、あの二人ならお似合いだ。私は未姫に「おめでとう」と言ってあげた。未姫は珍しく、はにかんでいた。
 朝休み、教室に勉強しに早くに来ていた未姫を捕まえて、屋上で詳しい事を話してもらった。
「未姫、与田君だったんだね、好きな人」
「意外だった?」
「最初は驚いたけど、分かる気がした。未姫の好きそうなタイプだなあ、って」
 そうなんだ、と呟いて、未姫は足の上に置いた両の掌を見つめた。やっぱり、少し照れくさそうな面持ちだ。未姫も同じ人間だ。誰かに恋をする。当たり前だけど、目の当たりにするまで不思議な感覚がしていた。
「未姫」
 私は、私と未姫が同じ人を好きになっている、と思っていた事を正直に話した。
「そうだったんだ。じゃあ、私に取られるかも、って思ってた?」
「思ってたよ。不安でたまらなかった。未姫が相手じゃ、勝てないから」
 本当は、未姫が相手でも勝つ気でいたが。
「それは分かんないよ。好きな人にもよるし」
 未姫は綺麗な足を交差させた。未姫の足は幾人の男子の目に見られてきた事か。
「そういえば、紗希は誰が好きだったの? あ、別に言いたくなかったら、言わなくてもいいけど」
 私の好きな人を知っているのは、綾だけだ。他には誰にも言った事がないし、綾が誰かに言ったとは思えない。あまり人に知られたくないが、未姫は勇気を出して告白したから、ご褒美として教えてあげよう。
「杉内君が好きなんだ」
 努めていつもの口調で言おうとしたが、言ってから恥ずかしくなった。
「へえ、そうなんだ。とてもお似合いじゃない」
 未姫はそんなに驚かなかった。
「本当に?」
「うん。だって、軽音部とか、他の機会で一緒にいる姿とか見てても、何と言うか、合ってるなあ、って思うし」
「そう、かな。未姫に言われると嬉しいけど」
「そうだよ。自信持っていいよ。紗希に足りないのは、自信だけだから。少しは自分の事、信用してみなよ」
 暗示にかけられているみたいな気分だった。足りないのは、自信だけ。じゃあ自信というカードが私の持ち札に揃ったら、未姫のようになれるのかな。
 未姫はずるいや。自信なんか目に見えないから、足りないって言われても、満ち溢れているって言われても、納得してしまう。でも、そうじゃない。上手く言えないけど、未姫が言いたい事は違う。私に足りないものを総称して「自信」と言いたいのかもしれない。
「うん、ありがとう」
「あ、でも、驕りじゃないよ。自信過剰になったら、嫌われるのがセオリーだから」
 分かってるよ、と言って笑った。未姫も笑った。笑顔の作り方は、未姫を参考にするといいよ。誰かが本気なのか、冗談なのか分からない口調で言っていた。周りは、納得していた。でも、私は納得できなかった。笑顔は人それぞれ違って、人それぞれ輝きを放つ。アイデンティティの一つだ。未姫の笑顔は、未姫だけのものだ。真似できるものではない。だから、私も私だけの笑顔で笑う。そんな事を考えていたのを、未姫の笑顔を目の前にして思い出した。
「それにしても、いつ頃から杉内のこと好きになったの?」


 油断じゃない。人間は、起こるはずがないと思っている事に対して、警戒しないものだ。
 そして、起こったら、理不尽さを嘆き、神様のせいにする。
 だから、どうしようもなかった。どうすれば防げたのか、逆に教えてほしいぐらいだ。


 部活が終わって、音楽室を出たとき、ちょうどメールが届いた。綾からだった。
「悪いけど、教室にお弁当箱、忘れたみたいだから、家に届けてくれない? 追伸 今から塾なもんで」
 綾は私立高校に受験するため、少し前から塾に通っている。私は同じ高校に行きたいのはやまやまだが、受かるはずがない。そろそろ将来に関わってくるので、わがまま言えないし、綾を応援するのに徹している。
 でも、それは表向きで、本当は心中、曖昧な感情がうごめいている。流れに身を任せているだけで、強い意志からそう決めたわけじゃない。
「相川、帰ろうぜ」
 小笠原が急かすように言った。浜中と広池も私を見ている。杉内はそっぽを向いている。
「ごめん、教室に用があるから、先に帰っていいよ」
 じゃあね、と手を振った。
 じゃあな、と四人が返した。私は教室に向かって歩き出した。


 いつもと違う帰り道を通って、繁華街に出た。特に理由はない。何となく、だ。駅の斜めにある建物の一階にある小さな本屋に入った。
 文庫本の棚を素通りし、マンガの棚へ。好きなマンガの新巻が出てないかチェックし、ビニールに包装されていて立ち読みできないから、雑誌のコーナーに足を向けた。
 いつから本屋でマンガを立ち読みできなくなったのだっけ。私が幼い頃は、可能だった気がする。小説と違って、漫画はすぐ読めるし、立ち読みされたら買ってくれないのだろう。
 音楽雑誌が並べられた前に、杉内たちがいた。偶然に驚き、また杉内に会えたことで嬉しくなった。後ろから杉内と浜中の肩を遠慮がちにたたいた。二人が振り向き、小笠原もつられて振り向いた。
「相川じゃん。偶然だな」
 浜中が頬を緩めた。
「用事もう終わったのか?」
 と言ったのは杉内。私は頷いた。
「広池は?」
「もう帰ったよ」
「ここの本屋に来ることあるんだね」
「誰が?」
「三人とも」
「おれと杉内はめったに来ない」
 小笠原が笑った。
「浜中は常連だけどな」
 まあな、と浜中は素っ気なく返事した。
「じゃあさ、今からカラオケいこうぜ」
 雑誌に目を落としていた杉内が、唐突にそう提案した。
「じゃあ、って変だろ」
「いきなりだな。おれは別にいいけど」
「相川はどうする?」
 杉内が私の目を覗き込んできた。そんな、杉内君が一緒なら、どこだろうともお供します、なんて。
 そうだ。
「いいよ。だったら、広池も誘わない?」


「早く逢って抱きたーいー」
 小笠原が女の歌を歌って場を盛り上げていた。ノリノリだ。彼がいれば、自然と場は盛り上がる。
 杉内と浜中は爆笑しながら囃したてる。よ、社長、日本一! みたいな。
 広池も楽しそうに笑っていた。最初は、誘ってみたものの、後輩一人じゃ気まずいかも、と少し後悔したが、そんな事はなかった。私なんかとは違って社交性があり、丁寧に受け答えし、場に合わせて笑い声を上げた。すごいな。この前まで小学生だったとは思えない。かわいいし、キーボードも上手いし、頭も良さそうだ。一年生
の未姫的な存在かもしれない。
「広池も歌えよ」
 小笠原がマイクを譲った。まだ歌の途中だったが、広池はその途中から歌い始めた。
「あー、テトラポッド登って」
 う、上手い。表情は遠慮気味だが、声は堂々としている。透き通るような歌声で、耳に心地良く響く。
「上手いな、新人」
 杉内も感心の声を上げた。杉内が認めるなら本物だ。
 歌い終わると広池は恥ずかしさのあまりか、顔を赤らめた。
「広池、カラオケよく行くのか?」
 浜中に尋ねられて、上目遣いで答えた。
「いえ、今日が二回目です。でも、歌うのは好きです」
 喋りながら、しきりに後ろ髪を気にしていた。そんな仕草一つも、かわいく映る。
「よし、広池、一緒に歌おう」
 私もマイクを手に取った。広池は快く私の申し出に承諾してくれた。
「足引っ張んなよー」
 小笠原が調子に乗って、私を舐めた口を叩いた。言っておくけど、私はそんなに音痴ではない。少なくとも、小笠原よりは。


 帰りは広池と一緒になった。歩きながら、楽しかったねー、そうですねー、ありがとうございました、誘ってくれて、また行こうね、はい、とすっかり打ち解けた様子で話す。
「相川先輩」
 何だか、相川先輩だと長い気がしたから、「紗希先輩でいいよ」とすぐに言った。
「それなら、私のことも紅海と呼んで下さい。紗希先輩、家はこっちなんですか?」
 部活の後に皆で途中まで一緒に帰るけど、広池、じゃなくて紅海とはいつもすぐ別れるから、それを不思議に思ったのだろう。「違うよ」
「じゃあ、どうして?」
「友達が学校に弁当箱、忘れて、届けるために」
 私の鞄の中には、綾の弁当箱が入っている。もう塾が終わって、帰ってきているかもしれない。
「それって、岩永先輩ですか?」
「知ってるの?」
 紅海の口から綾の名前が出てきて驚いた。
「はい。登下校で先輩の家が通り道で、たまに見かけます。素敵な人ですよね」
 おお、綾、良かったじゃない。今度、伝えてあげよう。「お世辞でしょ」と軽くあしらわれそうだが。
「でも、不思議なんです」
 紅海がいぶかしんだ表情になった。
「いつも、少し遠回りして学校に行くんです。律儀に、毎日」
 それは自分で起きられない私の家に寄るためだよ、分かったが、言わなかった。見栄を張っても仕様がないけど、先輩としての見栄は捨てられない。「ああ」とだけ呟いた。
 綾の話はそこで打ち止めになった。
 それから、互いに身近で起こった事を脈絡なく話した。
 やがて紅海の家に達し、別れた。彼女の家は本当に綾の家のすぐ近くで、通り道どころか、ご近所さんもいい所だった。
 綾の家の前で足を止めた。そのタイミングで慌しくドアが開いた。窓から私が近付いてくるのが見えた綾が、出てくるのかと思ったが、出てきたのは綾のお母さんだった。
 私は目を見張った。いつも穏やかにニコニコして、私を迎えてくれる優しい顔が、この世の絶望を知ってしまったような顔をしていたからだ。
「あ――さ、紗希ちゃん。――綾が、綾が」
 言葉が震えていた。言葉以上に、顔が今にも泣き出しそうだった。
「どうしたんですか? 綾に何かあったんですか?」
 私はお母さんを落ち着かせようと、口調を柔らかくしたが、次に聞いた言葉で私自身も色を失ってしまった。
「綾が――交通事故に遭って、生死の境をさまよっているって」
 お母さんが言っていたのは、だいたいこんな内容だったが、ちゃんとした言葉として頭に入ってこなかった。
 綾――交通事故――死。
 人間はいつも死と隣り合わせだとよく聞くけど、こんなに人の死が傍に来ているのは初めてだった。見えない所から現れて、私の一番近くの座布団に座っている綾の隣に座って、微笑んだ。
 頭の整理がつかないまま、タクシーを拾って、「向井病院までお願いします」と綾のお母さんがかすれた声で告げた。どこかで聞いた事がある。そうだ、部活を始めようとした時に、校長先生が入院していた所だ。あの時は一筋の希望を追いかけるように目指していたけど、今は絶望が待っている。
 タクシーの中は、二人とも無言だった。何も話す気にならない。綾は大丈夫ですよ、とお母さんを励ますべきだったかもしれない。でも、無理だった。私も大いに沈んでいる。
 頭の中で、二つの光景が浮かんだ。色を失くしている私たちを、あちこちに包帯を巻きつけられながらも、一命を取り留めた綾が迎えて、「大げさだなー、二人とも」と笑う綾。もう一つは――浮かべようとして消去した。まだ決まった訳じゃない。
 私は油断すると何度も現れる「死」をその度に消去し、生きている綾を思い浮かべた。
 そんな作業を繰り返している内に、タクシーが病院の前で止まった。


 案内された部屋に行くと、意外と若い医者が待っていた。薄暗い部屋で私たちに椅子を勧めて、一つ咳払いした。
「結果から言わせてもらいますと、岩永綾さんは、先ほど、息を引き取りました」
 ただでさえ混乱に陥っていた私の脳内は、ついに限界を迎えた。無だ。何も考えられない。綾が――死んだ? 何を言っているのだ、この人は。
「車に轢かれて、悲惨な状態でして、とてもお見せできません」
 最後まで聞かない内に、私は立ち上がって、部屋の外へと駆け出した。そのまま病院も出て、あてもなく走り続けた。よくドラマで、こういう状況で駆け出す人がいるが、私は今までそれが不思議だった。でも、今なら分かる。一人になりたかった。


 公園に着いた。遊具が多く、木々が鬱蒼と茂っている。時間が時間だけに、人はいなかった。私はベンチに腰を下ろした。
 明るい時なら子どもを誘うオーラを放つだろうが、暗いために不気味さを漂わせるブランコ。風でギシギシと音を鳴らしている。
 トーテムポールみたいな木でできた遊具もあり、用途が分からない事も相まって、夜の公園を不気味にしていた。
 ベンチの背に体を預けて、ゆっくりと深呼吸した。今にも涙がこみ上げてきそうになり、咄嗟に空を見上げた。空には星はなかった。都会はどうして星が見えないのかは知らないが、あったとしても今の私には何の慰めにもならない事は知っている。
 月は見えた。半円の月が、一人ぼっちなのに堂々と輝いていた。彼なら友達がいないクラスでも、生きてゆけそうだ。
 綾――。涙が突如、溢れてきた。止まらずに流れ続ける。涙って、こんなに出るのか。このまま泣いていたら、干からびてしまいそうなぐらいの勢いだ。
 綾と初めて友達になった日を思い出した。仲良くなれそうだ、とは考えなかった。そんな事を考えなくても、日々を過ごしている内に自然と友達になった。馬が合った。
 二年生の初め、変わりたいと思っていた私に的確なアドバイスをしてくれたのも綾だった。
 去年の夏、私が家に引きこもっていた時も、心配してくれた。
 転校の経験をもとに、別れの歌を贈る事を提案したのもそうだった。
 杉内たちを誘って忘年会を開けたのも、綾のおかげだ。いつも優しかった。私に足りないものをたくさん持っていた。
 この世に神様という存在はいるのだろうか。もし、本当にいるのなら、こんなに無情な存在だとは思わなかった。綾が若くして――まだ、十四歳――命を落とさなければならない理由は、どこにもない。神様は、私に今までで最大の悲しみを与え、罪なき少女の命を奪った。
 綾、あなたがいなくなったら、誰が毎朝、迎えに来てくれるの? 誰が私の相談に乗ってくれるの? ずっと一緒にいてよ。傍で笑っていてよ。そのあたたかい眼差しで見守っていてよ。ねえ、綾。
「返事をしてよ、綾!」
 私の叫びは、虚しく暗闇の中に溶け込んだ。答えは返ってこないと分かっていたけど、それを待つように目を閉じて耳をすませた。
 涙は相変わらず頬を流れ続けた。
 トーテムポールだけが私の姿を捉えていた。


 昼過ぎまで眠っていた。眠る気にもならなかったが、疲れが溜まっていた。身体は正直なもので、いつのまにか私を眠りにつかせていた。
 起きてから、頭が混乱した。あれ、ここはどこだ。
 すぐに自分の部屋だと分かったが、イマイチ状況がつかめない。今日は何をする日だ。昨日は、何をしていた日だ。綾は――綾?
 じわじわと混乱が収まってきた。綾は、交通事故で死んだのだ。だから、迎えに来なかったのだ。いや、永遠に来ることはない。え、何それ? 綾が死んだ? そんな現実離れした話など、あるはずがない。夢に決まっている。そうだ、夢だったのだ。
 現実を直視しろ、相川紗希。心の声が聞こえてきそうだ。お前の親友は、もうこの世にはいない。
「綾……」
 弱々しく、かすれた声だった。流しきったと思った涙が、また目に溜まってきた。やがてこぼれ、昨日できた黒い筋をゆっくりと伝った。
 学校に行かなければ、とは思わなかった。それどころか、起き上がる気力さえ湧いてこなかった。何もかもがどうでも良かった。昨日の昼から何も食べていなかったが、食欲はないし、このまま餓死してもいいと思えた。綾のいない世界で、私はどうやって生きていけばいいというのだ。
 ふと、杉内の顔が浮かんだ。今頃、どうしているだろう。綾の死は、彼にどのくらい衝撃を与えただろう。空いている私の席を見て、どう思っているのだろう。心配してくれているといいな。
「会いたいよ……杉内君」
 そう呟いて、また眠った。

                               
 夕方、お母さんの呼ぶ声で目を覚ました。
「紗希、杉内君っていう男の子が来たよ」
 部屋の入口に立った母の顔は、ややくたびれていた。私を案じていたのが分かる。
 え、杉内君? 何でこんなに早く。しかも一人で。私はまた混乱した。
「上げてもいい?」
 混乱が収まらない内に、答えを求められた。反射的に、黙ったまま頷いた。お母さんは、スリッパの音をパタパタとさせて、部屋から遠ざかっていった。
 いったい、杉内は何で来てくれたのか。上半身だけ起こして、部屋を見回した。昨日、着ていた服やマンガ、教科書などが散らばっていたが、幸い、壊滅的に汚くはない。
 私自身は、普通のパジャマで、問題はないと思われる。あ、顔がひどい事になっているはずだ。一応、洗っておこうかな。そう思って立ち上がりかけた瞬間、部屋のドアが開いた。現れたのは、杉内だった。本当に一人だった。
「相川」
 ドアをゆっくりと閉めると、私のすぐ近くまで歩み寄ってきた。ベッドの脇でしゃがんで、いつになく優しい瞳で私の顔を凝視した。私もまっすぐ彼を見つめた。
「……」
 しばらく、無言で見つめ合っていた。最初に視線を外したのは、私だった。手がかゆくなって、掻きたくなったからだ。少し俯く形になった。
 すると彼は、その瞬間を待っていたかのように、私をそっと抱き締めた。温かくて、あれこれ考えていた頭の中を、一瞬で真っ白にした。彼の髪が頬に触れた。動揺して、ビクンと身体が微かに震えた。頬が熱くなっているのが、自分でも分かる。
「相川、前から言おうと思っていたけど、お前のことが好きだ」
 耳元で囁いた。
「だから、学校に来てくれよ。お前がいなくて困る人間だっているんだ」


 綾の告別式があった。私たちを初め、三年生が全員、参列した。飾られた写真の中の綾は、綺麗に微笑んでいて、見た事がないくらい素敵だった。
 私はなるべく泣かないでいようと思っていたが、綾のお母さんの綾に向けられた言葉に泣かされた。母親の愛情が滲み出ていた。
 式の前に、未姫とまっさんに会った。ずいぶん久し振りな気がした。
「紗希、私たちはずっと紗希の友達だからね」
「一人きりだなんて思わないでね」
 二人とも、本気で私を心配してくれているのが窺がえた。私は才能や特技といったものに恵まれなかったが、良い友達に恵まれたようだ。何度も、ありがとう、と繰り返した。
 私は生き続けることに決めた。理由は、杉内だ。
 彼は、綺麗事を並べて慰めようとはしなかった。伝えたい事を一言に集約した。そんな杉内が愛おしかった。そして、その愛おしさを生きる活力にしていこうと思う。いつ、またヒビが入るか分からない薄いガラス張りの心だが、彼なら大切に扱ってくれるはずだ。
 綾の入った棺が、出棺の時を迎えた。喪主を務めている綾のお父さんの手には、位牌があった。その隣でお母さんが俯き気味に並んでいた。目が腫れているように見えるのは、気のせいじゃないだろう。綾の面影を残す二人の顔は、悲しみを思い起こさせた。
 私の横には、杉内たち軽音部メンバーが並んでいる。おしゃべりな小笠原も、今日は一言も口を開いていない。
「綾は」
 小声で話し始めた。杉内、浜中、小笠原、それに紅海が私の方を向く。
「私の最高の親友だった。もしかしたら、これから先の人生で、彼女以上の親友は、現れないかもしれない」
 紅海が鼻水をすすった。目が充血している。――素敵な人ですよね――綾が死にそうなタイミングで、偶然にも紅海は口にしていた。彼女の涙は、私に対する同情心から、というのもあろうが、綾に対する悲しい気持ちもあるだろう。
「だから、死のうかと思った。それが真っ先に浮かんだ。綾のいない世界なんて、観客のいないステージで踊り続けるようなものだ、って思った。
 でも、行き続けることにした。綾を想って涙に暮れる人がいるように、私を想ってくれる人がいると知ったから。親友を失ったのだから、命を大切にする義務が、残された私にあると分かったから」
 棺を乗せた霊柩車が、クラクションを鳴らした。哀愁を誘う、切ない響きに感じた。
「ありがとう、杉内君。よろしくね」
 声をさらに潜めた。他の三人は、聞こえなかった振りをしてくれた。
「ありがとう、綾。さようなら」
 私たちは車が見えなくなるまで見送った。


「相川、元気になったな」
 事故から一週間が過ぎていた。私はすっかり社会復帰を果たし、落ち込んだりしないで、できるだけ明るく振舞うように努めた。慰められると、逆に辛いからだ。
 軽音部もちゃんと活動した。時間を大切に、有意義に過ごすことが、今の私に課せられた最大の宿題だからだ。
 それで冒頭の台詞は、そんな私に向かって放たれた、小笠原の言葉である。
「そんなに前までふさぎ込んでた?」
「ああ、いや、あんまり」
 小笠原の答えが不明瞭になった。それはそうだろう、私は人前にそんな姿はさらさなかった。目にしたのは、この中だと杉内だけだ。
「相川」
 浜中が歩み寄ってきたので、そちらの方を向いた。
「七月のライブはどうする? お前の一存で決めていいぞ」
「決めるって、曲のこと?」
 私はわざととぼけた。
「違う、やるかやらないかだ。気持ち的にライブはやりたくないと思うなら、正直に言え」
 浜中は優しい。頑張っている私には、その言葉は胸に響く。声を上げて泣いて、彼の胸にすがりつきたい衝動に駆られた。
「相川」
 今度は杉内が歩み寄ってきた。
「おれたちの前でくらい、弱さを見せてもいいんだぞ。いつものパフォーマンスができないなら、ライブはやらない方がいい。おれたちはそれで納得する」
 二人の言い方的には、やらない方向で進めているようだ。私自身、やらない方がいいのではないかと思い始めていた。
 逃げちゃダメだ。
 これから、綾がいない事を痛感する出来事が幾度と私の前に現れる。それでいつも逃げていたら、きっと後悔ばかりする人生になる。
「やろう」
 私が呟くと、浜中と杉内は顔を合わせた。もう一度、「やろう」と言うと、ちょっと笑みを浮かべた。
「いいのか?」
「うん。やりたい」
 浜中は何度も頷いた。「そうか、良かった」
                               



「その代わり、提案がある」
「何だ?」
 と聞き返したのは杉内。
「そのライブで、綾に捧げる曲をやりたい」
 二人は押し黙った。何か考えている様子だった。
「ダメかな?」
「いや、そんな事はない」
 浜中が否定した。
「だが、それだと本番で感極まって、演奏できなくなったりしないかな」
「私が歌う訳じゃないし、やると決めたからにはちゃんとやるよ」
「今はそう言えるかもしれないが、絶対とは言い切れないだろう」
「言い切れるよ!」
 私は少しムキになって答えた。私の気持ちは、私が誰よりも分かっている。心配してくれるのはありがたいけど、私の言葉を信じてほしい。
 杉内は腕組みをして、考え事を続けている風だった。が、やがておもむろに口を開いた。
「大丈夫だろ。相川がここまで言い張るんだから」
「でもな――」
「ライブは、見に来た人たちのためにやるもんだ。浜中の言い分も分かる」
 一度、言葉を切った。
「でも、ここは学校だ。岩永のことを皆、分かってる。相川がどれだけショックを受けたかも。
 だからって、失敗したら当然、許されない。皆が許してくれたとしても、おれたちが許さない。やるからには、完璧なライブを目指そう」
 私は力強く頷いた。浜中もゆっくりと首肯した。
「よし、だったら、曲を決めよう。小笠原と広池もこっちに来てくれ」
 いつもの浜中の口調が戻った。四人が私を中心に集まってきた。
 話し合いの末、今回はミスチルの『くるみ』とバンプの『supernova』の二曲に決まった。


 初デートは、千巾ヶ丘に行った。何をするかも決めないで、とりあえず登って、とりとめのない話をした。
 告白の言葉はすでに聞いたが、正式に付き合うのは今日から、という事になった。
                               



「おれと付き合って下さい」
 いつも涼しい顔をしている杉内が、ちょっと照れ臭そうにするのが印象的だった。
「はい、よろしくお願いします」
 初めての恋人が杉内で良かったなあ、という考えがどこからかやって来た。いつまでも彼を愛しているのだろう、私は。
「いつから私のこと好きだったの?」
 言ってから恥ずかしくて、膝に顔をうずめた。耳が熱い。
「お前はどうなんだ?」
 質問を質問で返された。「去年の夏休み」
「何かあったっけ?」
「ほら、私がちょっと引きこもってた時に、ここに連れてきて、綺麗な夕焼けを見せてくれたでしょ。あの時」
 そうだ、あの時も杉内が私を救ってくれた。
「ああ、覚えてるよ」
 そう言って、昔を懐かしむように目を細めた。彼の目付きが悪い、と形容される目が、私にとってはとても愛おしい。
 家に急に来た時、私を見つめていたあの瞳は、力強くて、本心から私を愛してくれているのが分かった。なんて。
「それで、杉内君は?」
「正確には分かんないけど、お前より少し後だな」
 ということは、一年近くお互いに意識し合って、ようやく通じ合ったわけだ。
 杉内には聞きたい事が色々とあった。付き合った今だからこそ言える話がお互いにあって、思い付くままに語った。
 途中で、これからの話になった。
「付き合うことは、誰までなら言っていいかな」
「まあ、バンドメンバーは薄々、知っているからいいとして――」
「あれ、そういえば」
 ふと気になって、話を遮った。
「小笠原君と浜中君は、杉内君が私のこと好きだったのは、知ってたの?」
「いや、どちらにも話してなかった。でもまあ、伝えてもあんまり驚かないかもな、浜中は」
「ああ、浜中君はね」
 小笠原君が大げさに驚く姿が目に浮かんで、笑った。
「竹早には言ってもいいぞ。そうすると、松田にも伝わりそうだけど、そこまではいいか」
 私が未姫に明かしていた事は、すでに話した。
「――呼び名はどうする?」
「呼び名?」
「うん、私のイメージだと、付き合ったら下の名前で呼び合うものだと思ったから。いつもじゃなくて、二人きりの時とか」
 すると杉内が、今までこらえていた様に笑った。
「相川、本当に恋愛経験ないんだな」
 その通りだけど、改めて指摘されると、否定したくなる。
「良かった、安心した。おれもゼロだったから」
 しかし、否定しなかった。どちらが引っ張っていくのでも、付いていくのでもなく、二人で一緒に歩んでいこう。愛を深めていこう。なんて。
「呼び名は保留で。でも、相川ってずっと呼んでたから、呼びやすいんだよな」
 私だって、そうだ。
 二人で寄り添って、夕焼けが見えるまで話していた。


 ライブがもうすぐ、という頃に、私は未姫を屋上に誘った。もちろん、報告のためだ。
 未姫のかわいさは、成長するにつれて増していた。何気ない動作が、近くにいる男子を惹きつける。そして、同時にため息をつく。ああ、彼女にはもう愛し合う人がいるのか、と。
 屋上に着くと、いつものように(といっても、まだ三回目だが)ベンチに並んで座った。
 いつもと違うのは、空模様だった。今にも雨が降り出しそうに曇っていて、冷たい風が吹いていた。空気もジメジメしている。
「未姫に報告があります」
 雨が降り出す前に言おうと、すぐに切り出した。
「うん」
 未姫は大方、予想がついているのか、嬉しそうに微笑んでいた。太陽のように眩しくて、灰色の空に不釣合いだった。
「念願かなって、杉内君と付き合い始めました」
「おお、やっぱり。そうだったんだ」
 未姫は納得気味だ。
「未姫、ありがとうね」
「そんな、お礼言われるような事してないよ。自力で勝ち取ったものでしょ」
 未姫にそう言われると嬉しい。
「紗希から告白したの?」
「ううん、向こうから」
「へえ! 好きな人に告白されるなんて、素敵だね」
 私はずっと片思いだと思っていたから、彼からの告白はとても驚いたし、未姫の言うように「素敵」だと感じた。
「それで、何て彼は言ったの?」
 何て? それは難しい問いだ。忘れたわけではない。ちゃんと覚えている。とても感動的な言葉だったが、どうしても綾のことに触れるので、「それは秘密」とごまかした。
「キスはしたの?」
 それは、まだです! 私は心の中で叫んだ。抱き合ったことはあるけど、キスはもう少し時間がかかりそうだ。
「その様子だと、まだみたいね」
 未姫は心なしか楽しんでいるようだった。「うん、まだ」
「未姫はどういうタイミングで、与田君とキスするの?」
「そんなの言えないよ」
 未姫は慌てて手を振った。動揺が窺がえる。
「まあ、例えばデートの別れ際とか。先輩たちの中には、学校のどっかで隠れてしていたらしいけど」
 そうだったのか。どこなら人に見つからないのかな。
 そういえば、まっさんと森山はどうしているのか気になる。機会があったら、やんわりと尋ねてみよう。
「あ、降ってきた」
 未姫が立ち上がって、両手を広げた。雨が目でも見えるほど降ってきた。
「ありがとう、未姫。教室、戻ろっか」
 もっと聞きたい事はあったけど、今日はこんなものでいいかな。
 私たちが座っていたベンチが、あっという間に雨に濡れた。遠くで雷の音が聞こえる。


 見渡す限り緑色の海が広がっていた。これをエメラルドグリーンと言うのだろうか。不思議と、手ですくっても緑色のままだった。水は、透明じゃなかったかしら。
 波打ち際で、少女が座っていた。膝に顔をうずめて、シクシク泣いている。寒くないのかな。少女はワンピース一枚で、びしょ濡れになっている。
 目が真っ赤に充血している。どのくらいここで泣いているのだろう。「あや――」少女が、その姿にお似合いの弱々しい声で呟いた。
「綾、綾――」
 え――? どうして綾の名が、少女の口から出てきたのだ。少女は、綾を想って、泣いているのか。
 少女が顔を上げた。それは、私自身だった。
「紗希、起きなさい! 後輩が迎えに来たわよ」
 母親の呼ぶ声で夢から覚めた。変な夢だ。私が泣いていた。私を客観的に見る夢なんて、初めてだ。
 今日は、紅海が私を迎えに来てくれていた。結局、見栄を張ってもばれてしまった。
 そして、今日はライブ本番の日。いつも通り、早朝にリハーサルをやるから、私が遅れる恐れがあるのを部活で指摘された。それを聞いた広池が、「私がお迎えに上がりましょうか?」と丁寧に提案してきた。そして、すがる事にした。
 急いで制服に着替えて、鞄を背負った。ギターは音楽室に置いてきた。
「いってきまーす」
 玄関を勢いよく飛び出し、外で待っていた広池に笑いかけた。「ありがとう、わざわざ」
「いえいえ、そんなに遠くありませんから」
 何とも、良くできた後輩過ぎる。一年生の私とは、大違い。
 一年生の頃、私はたいした夢や目標もなく、呆然と時が過ぎるのを見送っていた。バンドを始めなかったら、あの頃と変わらないままだったのかと思うと、ゾッとする。バンドを始めなかったら、杉内と付き合うことはなかっただろうし、こんな素晴らしい後輩と登校することもなかっただろう。
「よろしかったら、これから毎日、迎えに行きましょうか?」
 素晴らしい後輩は、そんな事まで言ってくれた。
 そして、朝に弱い先輩は、あっさりお願いしたのだった。


 昨日の夜、私は綾にライブでの健闘を誓った。どうせ朝は起きられなくて、時間がないと踏んだからだ。案の定、時間はなかった。
 写真の中の綾は笑っていた。隣には私が写っていた。自分が持っている写真たちから、綾が最高に良い笑顔のやつを写真たてに入れて、机の上に置いた。不思議と、綾が良い笑顔で笑っているのは、私も良い笑顔を浮かべていた。
「綾。明日は、綾のためのライブだよ。綾がずっと支えてきてくれたから、私は変われた。綾がずっと応援してきてくれたから、私はバンドを頑張れた」
 言葉を一度切った。
「だから、そんな綾に感謝の気持ちと、綾がいなくてもちゃんとやっていける事を示すために、明日のライブを成功させるから」
 私は泣き虫なのだと最近になって知った。今も、最後の方は声が震えていた。
 神様は、私たちにチャンスや試練を与える。それをどう生かすかが大事なのだ。


 昼休みの体育館に、ほとんどの生徒たちが集まってきた。ここでのライブは通算五回目だから、緊張はそこまでしない。
 ただ、紅海は初ライブなので、ガチガチに緊張して、顔が強張っていた。
 なんていう事はなく、いつも通り落ち着いていて、頼もしさを感じつつも、面白くない、という気持ちがないと言えば、嘘になる。
 彼女がキーボードとしてメンバーに加わってくれたおかげで、演奏の幅が広がり、バンドとしての可能性が増した。また、その人柄や性格が雰囲気を良くした。元々、浜中以外に几帳面でしっかり者がいなかったので、足りない部分を補ってくれた。容姿も良いから、華やかさも増した。
「円陣組むぞ」
 部長の浜中が呼びかけた。浜中、小笠原、杉内、私、紅海の順で円陣を組んだ。
「楽しんでいこう!」
 短い言葉だったが、それで充分だった。楽しむことは、大事だ。
 ステージに一人ずつ上がった。見に来てくれた人たちが、歓声で迎えてくれた。この歓声に応えるライブをしなければ。私は身が引き締まる思いがした。
「こんにちは、つぎはぎ細工です」
 今日は私が杉内に代わって、話をする。演奏より、こっちの方が不安だった。
 つぎはぎ細工、というバンド名だと紅海が知った時、その由来を説明するのに困った。忘れていたわけじゃなく、今思うと、そんなにたいしたものじゃない、とあの時の興奮を恥ずかしく思う気持ちがあったからだ。
 しかし、紅海はしきりに感心していた。縁なしメガネの目を輝かせて、「素敵ですね」と繰り返していた。その後ろで小笠原が、それは言い過ぎ、とニヤニヤ顔で語っていた。
「お集まりいただいて、ありがとうございます。私的な理由なんですが、今日、披露する二曲は、先日、不運な事故で亡くなった、私の親友、岩永綾に捧げたいと思います」
 噛まない様に、一字一句しっかりと発音した。少しざわついていた体育館が、一瞬で静かになった。
 私は黙って、わざと長い間を作った。途方もなく長く感じたが、実際はほんの数秒だったらしい。静けさを破るように、どこからともなく拍手が湧き起こった。彼らは、許してくれた。認めてくれた。理解してくれた。今までで最もあたたかい拍手だったろう。
「では、最初にBUMP OF CHICKENでsupernova」
 過去のライブでやってきた中で、この曲は一番、静かで、そして今の私の気持ちを代弁してくれるような感動的な歌詞だった。
 杉内の声は、胸によく響いた。一言々々が、耳にすっと入ってくる。演奏も、練習の成果を出せていた。紅海も心配なかった。
 一曲目が終わった。今度は杉内が曲名をコールした。
「続いて、Mr.Childrenでくるみ」
 前奏から歌が始まる。杉内の歌は、メンバー全員が信頼している。だから、私たちは安心して演奏に専念すればいい。
 どうしても、綾の姿が浮かんだ。出会ってから、約四年間。たくさんの喜びや、悲しみや、思い出を共有してきた。これからもできると信じて疑わなかった。せめて、あなたを失った悲しみの大きさを伝えたかった。
 出会いの数だけ別れは増える。『くるみ』の歌詞の一部だ。出会う喜びがあるからこそ、別れる悲しみも生まれる。人生は出会いの連続であり、別れの連続でもある。

 引き返しちゃいけないよね 進もう 君のいない道の上
 
 綾がいなくても、私は生きていく。胸を引き裂くような辛いことが待っていようとも。
 あーあ。ライブが終わったら、浜中に謝らなくちゃ。最後の最後で、涙のせいで演奏を全うできなかった。


 一学期の終業式。毎度、私を憂鬱にさせる通知表が渡された。そろそろ卒業なのに、こんな成績で高校生になっていいのか、というぐらい悪い。これも毎度のことだが、次は頑張ろう、と決意した。次がもう少ないけど。
 誰にも見られないように窓際でこっそり見ていたら、杉内に覗かれそうになった。
 杉内はほとんど勉強しないし、授業中もよく寝ているのに、テストの点数は私よりも良い。どうせ成績も私より良いのだろう。
「ダメ、見せないから」
「ええ、いいじゃん。おれも見せるから」
「嫌だよ、どうせ私よりも良いんでしょ」
 そこに小笠原がやって来た。テストは、私たちより良かった。
「夫婦喧嘩すんなよ。仲良く見せ合って、慰め合いなさいよ」
「誰が夫婦だ」
 杉内が鋭く言い返した。
「照れんなって。お、こっちはもっと照れてるな」
 指摘されて、余計に顔が赤くなった。夫婦の姿を想像してしまったのである。
 今度は浜中がやって来た。彼は私たちなんかより圧倒的に勉強ができる。
「楽しそうだな。成績、良かったのか?」
「しっ、しっ、あっち行け。お前とおれたちとでは、住む世界が違うんだよ」
 小笠原が追い払う仕草をした。
「バンド、っていう世界に同居しているじゃないか」
「だったら、広池とお利口さん同士、仲良くやってやがれ」
 二人のやりとりは、面白かった。紅海がいたら、彼女も面白がって笑っただろう。
 帰りは、杉内と帰った。他人の目があるから、手を繋げないのが残念だった。
「相川」
 相変わらず、紗希と呼んでくれない。私も杉内君のままだし。
「言っとくけど、まだ夫婦になれないからな」
 そんな事、わざわざ言わなくても分かっている。でも、「まだ」ってことは、いつかなろうという意味なのだろうか。そんな、まだ心の準備ができていないよ。
 なんて妄想を膨らませていたら、また顔が赤くなっていたのだろう、杉内が私を見て笑った。


 夏休みは受験勉強の追い込みシーズンだと、佐久間先生は言っていた。校長先生も、三年生は特にこの夏休みをどう過ごすかで、人生が決まります、と力説していた。何か苦い経験でもあるのかな。
 私も私なりに、参考書を買って毎日、勉強に励んだ。
 ただ、今年も夏祭りに出場すると、小笠原と杉内が勝手に申請し、浜中を絶句させた。
 それでも抜かりなく、「だったら、手持ちの曲にしよう。練習時間は多く取らない」と主張し、二人を従わせた。紅海は、基本的に個人練習となった。でも、たぶん、紅海は間に合わせるだろうが、キーボードを入れて何回もあわせた方が良いと思った。だけど、私たちよりずっと偏差値の良い高校を目指している浜中に、それ以上
は言えなかった。
 夏祭りは心配をよそに、無事に終わった。
 その翌日から、私はこれまでにないくらい勉強した。起きるのに苦戦したが、起きてからは寝るまで問題を解いて、覚えるものを覚えた。たぶん、人生で一番、勉強している時期になるのだろうな、と頭の隅で考えながら、机の一部になる勢いでひたすら勉強した。
 ただ、一回だけデートした。それは息抜きというか、カンフル剤というか、まあ、何を言っても言い訳になるのだが、杉内が恋しかったのだ。無性に会いたくなってしまったのだ。
 行き先は、映画館にした。お互い、見たい映画が重なっていたからだ。隣町の映画館に、電車で向かった。普段、めったに電車に乗
らないから、子どもみたいに興奮していた。
 行きは空いていたから、並んで座って、窓から見える景色に見惚れていた。
「電車通学の人っていいなあ。毎日、この景色、見られるんだね」
「毎日だと飽きるだろ。まあ、良い眺めだとは思うけど」
「私だったら飽きないよ。ぼーっと、時間も忘れて見惚れてると思う」
「それじゃ、自分の駅で降りらんねえだろ。相川に電車通学は無理だな」
「そうかな。あーあ、誰か私と変わってほしいな」
「そもそも、ウチに電車通学いたっけ?」
「え、誰かしらいるでしょ」
「でも、遠くから通ってくるほど、有名な学校か?」
「つぎはぎ細工っていう有名なバンドがいるよ」私は悪戯っぽく笑った。
「それは認める」杉内も笑った。
 付き合ってから、彼の笑顔を見る機会が増えた。
 隣町に着いた。時間があったので、あちこちを物色して時間を潰してから、映画館に入った。
 映画は恋愛もので、ベタな内容だったが、満足した。
 帰りの電車は混んでいた。狭い車内で、やっぱり電車通学は嫌だな、と早くも前言を撤回した。
 狭い分、杉内とくっ付かざるを得なかった。向かい合って、立っていると、彼の顔がすぐ近くにあった。衝動的に――キスしたい――という欲望に駆られた。淡い希望を抱いて、何気なく唇を見つめたが、彼は私の気持ちに気付いてくれなかった。あるいは、大勢の手前、遠慮したのかもしれない。
 何事もなく、自分たちの駅で降りた。
 私からキスしたら、彼は受けてくれたかしら。良いタイミングが分からない。だいたい、キスの仕方もよく知らない。
 どうしたのだろう、私は。何でこんな事を考えているの――?


 夏休みが明けた。三年生は部活を一学期限りで引退している中、軽音部は引き続き三年生が参加した。やめたら紅海が一人になってしまうし、何よりも最後までやり通したい、という意志があった。私の中学校生活は、軽音が全てなので、軽音で終わらせたいのだ。
 残されたライブは、あと二回。
 まずは十二月のライブに向けて、練習を始めた。
 練習中は、お喋りは少ない。演奏のことだったら、言葉を交わすけど、それ以外の話は杉内が嫌う。
 その日は、杉内が風邪で休んでいた。だからお喋りしよう、となったわけじゃ決してないが、何となくボソボソ話していたら、練習を中断して結果的にお喋りする事になった。
「小笠原君は、高校どうするの?」
 小笠原は、今まで考えてなかった、みたいな顔をして、「さあ、お前と同じじゃない?」と適当に答えた。
「そんなで、大丈夫? 高校浪人しないでよ」
 私も人のことあんまり言えた立場じゃないが、最近の勉強量が少なからず自信になっていた。
「相川は決めてるのか?」
 浜中が尋ねてきた。私は頷いて、近所の公立高校の名を口にした。
「そうか、だとしたら、お前たちとは違う高校になりそうだな。せめて三人が同じ高校だったらいいけど」
 それは、たぶん、大丈夫だ。同じぐらいの成績だし。
 どうして高校は受験しなければいけないのか。これだと仲の良い友達や、あるいは恋人と離れ離れになってしまう。それで疎遠になって、仲が悪くなったら、文科省はどう責任を取ってくれるのだ。
 その事を浜中に言ったら、微笑んだ。
「相川、面白いこと言うな。まあ、心配しなくても、お前と杉内は同じぐらいの頭だし、他のカップルもほとんど似た者同士じゃないか」
 そういえば、未姫と与田武司は二人とも頭良いし、まっさんと森山は――森山はあんまりよろしくなかった気がする。
 小学校、中学校はぼんやりしていても進学できたが、これからはそう甘くない、ということか。
 ピックが手からこぼれて、床に落ちた。上半身を折り曲げて、拾おうとしたら、カーペットに赤い染みがついていた。――これは、血? 昨日ここで練習していたのは、誰だったっけ。――確か、杉内だ。
「パンツ見っけ」
 小笠原が私の背後に立っていた。上半身を折り曲げた体勢のままだったから、スカートがその役割を果たしていなかった。
「私、気分悪いから早退していい?」
 浜中に言うと、彼は目を丸くした。
「え、おれにパンツ見られたの、そんなに嫌だった?」
 当惑している小笠原は無視して、許可を待った。
「うん、まあいいけど。お大事にな」
「先輩、大丈夫ですか?」
 私は紅海に、ありがとう、と返して、足早に音楽室を出て行った。


 杉内の家に来るのは初めてじゃない。打ち合わせのために、軽音部のメンバーで集まったことがある。それ以来だが、杉内のお母さんは私を覚えていてくれていた。
 お見舞いに来た、と告げると、部屋を案内してくれた。
 杉内の部屋は綺麗、というより寂しかった。物が少ない。本棚に雑誌が十冊ぐらいと、本、マンガが合わせて十冊ぐらいあった。机の上には教科書と筆記用具、携帯、時計が置かれている。
「お見舞いに来たよ」
 無意識のうちに小さな声で話しかけた。杉内を前にしても、元気が出てこない。
 そんな私の様子を不思議に思ったようだが、口には出さず、「今、部活の時間じゃなかった?」と尋ねてきた。
「音楽室のさあ」
 私は杉内が立っていた所に、赤い染みがついていた事を説明した。
「……」
 杉内は無表情で黙っていた。答えたくないのか。私に心配かけたくないのか。付き合っているのに、隠し事をするなんて。
「ねえ、杉内君――」
 突然、私の言葉を遮って、杉内の笑い声が聞こえた。驚いて顔を見たら、確かに笑っている。
「それ、絵の具だって」
「え、絵の具?」
「部活前に小笠原が絵かいててな。そしたら、赤い絵の具をぶちまけて、赤い染みになったんだよ。それだけ」
 理解するのに時間がかかり、やがて理解すると恥ずかしくなった。私は何てバカなのだろう――。
「何? おれが吐血するほどの重病患者だと思ったわけ? ただの風邪だって」
「……心配した」
 本当に心配した。
「杉内君も私の前からいなくなるんじゃないかと思って――怖くなった」
 私は泣きそうに顔を歪めて、膝から崩れ落ちた。
 杉内はふう、と息を漏らすと、私の頭に手を置いた。
「心配すんな。おれは勝手にいなくなったりしない。いつもお前の傍にいる」
「――うん、ありがとう」
 重病だと案じたのは杞憂に終わったが、私にとって杉内がかけがえのない存在だということは伝えられた。言葉にできた。
「じゃあ、心配かけた詫びとして、何か一つ要求を聞いてやるよ」
「要求?」
 私はずっと考えている。機会があったら、一度してみたいことがずっと頭の片隅に居座っていた。
「キスしたい」
 杉内が固まった。予想の範疇を超えていたのだろう。
「キス?」
「うん」
「本気で?」
「本気で」
「今?」
 私はちょっと考えた。今したら、風邪がうつるのかな。まあ、杉内にうつされるなら、別にいいや。
「今すぐ」
 私は目をつぶって、唇を結んだ。
 杉内はしばらくためらっていた。彼も未経験だから、どうすればいいのか考えあぐねていたはずだ。
 それでも、彼の唇は私のそれと重なった。目を開けると、当然ながら目の前に彼の目があった。甘い。ちゃんとできているかは分からないが、甘いと感じた。
「ん――」
 呼吸が上手くできなくて、私の方から放れた。顔が信じられないくらい熱い。心臓の鼓動が聞こえてきそうだ。
「あ、じゃあ、私、帰るね。お大事に」
 杉内の顔を直視できなくなって、慌てて部屋を出ていった。
 家を出て、帰り道を歩いていても、まだ感触が残っていた。スーツを着たおじさんが、私の横を通り過ぎて行った。私がついさっきキスしたばかりなんて、分からないだろう。
 嬉しさに急かされるように、小さくスキップして帰っていった。
 翌日、見事に風邪がうつった。「知恵熱ね」とお母さんは笑っていた。
 違います、お母さん。この風邪は、口移しです。


 十二月の半ば、またライブの時期が到来。ついこの間、綾のためのライブをやった気がする。受験は佳境を迎えていて、早くも受験があって、高校が決まった
人も数人いる。教室は受験時期の差がある人たちが醸し出す、それぞれの空気の違いで居心地が悪かった。
 そんな空気を吹き飛ばすべく、私たちはいつものように明るく楽しいライブを披露する。もう夏祭りも入れたら、八回目になる。経験は積んできた。今日も無難に終わるだろう、と思っていた――。


「すまなかった」
 放課後、臨時の反省会を音楽室の前で開いた。謝ったのは、浜中。全ての責任を一身に背負っていた。
「浜中君だけじゃないよ。私だって、ミスしたし」
 慰めるつもりで言ったが、浜中は苦い表情のまま。
 発端は、確かに浜中だった。汗で滑らせたのか、シャーペンの握り過ぎで握力がなくなっていたのか、ドラムのスティックを落としてしまい、動揺した。拾うのに時間がかかって、リズムが乱れた。
 その動揺が周りに伝播し、小笠原のベースが速くなり、私がギターをミスり、ついには杉内も歌い出しのタイミングを間違えた。
「おれが慌てずに拾って、リズムを戻せば良かったのに――」
 浜中はしきりに反省の弁を並べていた。それを私がその度、かばった。
「今回で八回目のライブだよな。初めてだぜ、こんな大きなミス」
 小笠原が明るく言おうとしているが、その声は元気がなかった。彼も責任を感じているのかもしれない。
 紅海も表情は暗かった。彼女だけミスがなかったが、自分の演奏に手一杯で、周りを顧みる余裕はなかった。あったとしても、一年生の紅海に動揺を鎮めることはできなかっただろう。
「そもそも」
 杉内が口を開いた。皆の視線が彼の方に向かう。
「今まで大きなミスなくやってこれたのが、奇跡的だったんだ。本番でのミスった経験がない分、誰だって動揺するし、慌てる」
 一度言葉を切って、「でも」と続けた。
「でも、今日は誰しも油断があったはずだ。何回もこなしてきたから生まれた過信があったはずだ」
 ハッとさせられた。杉内の話は、的を射ていた。
 油断――があった。慣れてきたせいで、緊張感に欠けていたのかもしれない。少なくとも、私はそうだ。
「杉内の言う通りだな」
 浜中が締めた。
「これも経験だ。これを糧にしたらいい。次に繋げよう」


 街は赤と緑の電飾で彩られている。デパートの入口には、等身大のサンタクロースの置物がある。それを指差す子どもの笑顔。ケーキ片手に通り過ぎる人。人目を気にしないでいちゃつくカップル。
 欠伸が漏れた。かれこれ三十分、立ち尽くしている。
 寒い。寒風が追い討ちをかける。
 クリスマスイブの街には、色んな思いが溢れている。誰かと一緒に過ごしたい、という願望。世間の風潮に対する憎悪。思うに、クリスマスを口実にして、楽しい夜を過ごそうとする人が多い。彼らの中には、クリスマスの本当の意味を知らない人たちが存在する。「左様なら」が別れの挨拶になったように、「メリークリスマス」は楽しい夜を過ごす合言葉になった。
 去年のイブは、綾がいた。今年はいない。そして、もう二度とイブを迎えることはない。綾にも夢があっただろう。幸せになりたかっただろう。ひょっとしたら、好きな人がいたかもしれない。
 幸せを感じると、綾の影を感じる。私だけ幸せになっていいのか、と後ろめたくなる。
「相川!」
 呼ばれて振り向くと、杉内が走って向かって来た。
「悪い、プレゼントどこにしまったか忘れて、探すのに時間かかった」
 息が切れていた。
「どうした? 大丈夫か?」
 暗い顔でもしていたのか、私を心配そうな表情で窺がった。
「何でもない。じゃあ、行こっか」
 中学生の私たちがオシャレなレストランで食べるわけにもいかないので、ファミレスに入った。
 飲み物を頼んで、メニューとにらめっこ。値段と好みを考慮して、マカロニグラタンを選んだ。杉内はハンバーグステーキ。
 料理が来る前に、プレゼントを交換した。
「メリークリスマス」
 合言葉を言って、渡した。私も受け取って中身を見ると、紺色のマフラーだった。生地がいい。高そうだ。
「ありがとう」
「こちらこそ。ってか、これ手編みなの?」
 杉内が灰色の同じくマフラーを掲げた。
「そうだよ。すごいでしょ」
「ああ、まさか本当にできるとは思わなかった」
 失礼な、私だってやるときはやるのだ。
 クリスマス前に、手編みのマフラーをプレゼントすることを宣言した。私は、マフラーはおろか、家庭科の時間の裁縫だっておぼつかないから危惧された。でも、自分ひとりの力で――は、無理だったので、未姫に協力してもらい、何とか完成した。
「長持ちしなさそうだな」
 杉内が冗談っぽく言って、笑った。
「するよ。大切にしてね」
「分かってる」
 丁寧に折りたたんで、袋に入れ直した。
 料理が来てからは、忘年会の話になった。
「なあ、今年も忘年会やろうぜ」
「ああ、いいと思う。でも、場所はどうする? 私の家でいい?」
「いいんじゃね」
 私は頭の中で呼ぶ人を考えた。浜中、小笠原、未姫、まっさん、与田、森山。
「紅海も呼ぶ?」
「呼ぼうぜ。あいつ料理できるらしいし」
「そうなの?」
 それは初耳だ。まあ、できても不思議じゃないけど。
「軽音部がない日、調理部に顔出してる、って浜中が言ってたぞ」
 調理部か。
「今年は料理できる人がいないし、広池に頼もうぜ」
 暗に綾がいないことと、私が料理できないことを示している。私は後者だと思った振りをして、
「どうせ私は当てにしてなかったでしょ」
 と膨れた。


 イルミネーションの下、杉内と肩を並べて歩いている。私たちの手は、互いの繋がりを示すように握られている。寒さに負けない、温もりが生まれる。
 家の付近まで来ると、住宅地だから人通りが少なくなる。
 私の家まで、あと角を一つ曲がるだけ、という所で立ち止まった。私は杉内の顔を見つめた。
 杉内も見つめ返し、しばらく見つめ合っていた。
「紗希」
 そう呟くと、私の肩を持って、そっと唇を重ねた。初めて私を名前で呼んでくれた。
 やがて放れてから、杉内は気恥ずかしそうに笑った。私も笑った。嬉しいけど、何というか、照れくさくい。
 家の前で別れたが、私は好きな人の後ろ姿をずっと眺めていた。


「去年の忘年会、何でやろうと思ったわけ?」
 一年最後の日。忘年会は私の家に決まった。参加メンバーも予定通り。
 紅海が先に来て料理を作り始めているが、小笠原と浜中も手伝うために早く来た。杉内はさっき電話したら、起きたばかりだと言っていたそうだ。ほっといたら、普通に遅刻してきただろう。
「ああ、そういえば言い出しっぺは相川だったな」
 小笠原の質問に浜中も興味を示してきた。早く来たけど、かえって紅海の邪魔になりそうなので、台所から退散していた。紅海は予想以上に料理上手で、いい匂いが充満している。
「本当の言い出しっぺは綾なんだけどね」
「岩永が? そりゃまた意外」
 小笠原が小さく驚いた。
「岩永とおれらって、その前あんまり繋がりなかったな」
 と言ったのは浜中。
「うん、そうなんだけど――あの、杉内君には言わないでほしいんだけど、綾が忘年会を提案したのは私のためで、私が杉内君と一緒に過ごせるように企画したの」
「おれらオマケだったわけか」
 小笠原が高らかに笑った。
「ごめん、そんな事はなかったけど」
「じゃあ、去年の今頃はもう好きだったわけだ。いつから好きだったんだ?」
 浜中の問いは、前に杉内にも聞かれた。
 でもこの場ではお茶を濁した。
「それにしても、バンドメンバーの二人が付き合ってたら、おれたちも焦るな」
「おれは別に。小笠原はいいキャラしてるから、作ろうと思えば作れるだろ」
「いやいや、おれ軽いと思われてるからかね、女子が寄ってこねーよ」
「何の話してるんですか?」 
 紅海が、濡れた手をエプロンで拭きながら、台所から出てきた。
「お、広池。お前、彼氏いるの?」
「いますよ」
「えっ!」
 小笠原と浜中だけじゃなく、私もとっさに反応した。
「冗談ですよ」
「え」
 今度は小笠原だけ。
「彼氏どころか、仲のいい男子も少ないです」
「もったいない」
「誰がです?」
「広池の周りの男子。こんなかわいい子がいたら、普通、狙うだろ。なあ、浜中」
 振られた浜中は首をかしげた。
「じゃあ、お前が狙ったらいい」
「狙ってるぜ。常にアプローチしてんのに、振り向いてくれないんだ」
「私、紗希先輩みたいなカップルが理想だなあ、って思います」
 紅海は小笠原を無視して、私に話を振ってきた。
 その時、呼び鈴が鳴った。
 私が玄関に出ると、杉内と森山が来ていた。
「いらっしゃい。あれ、森山君、まっさんは?」
「竹早さんと来る」
 森山は抑揚のない声で答えた。
 二人は靴を脱いで上がって、声のする方へ進んだ。
 玄関の鍵を閉めると、誰かに呼ばれた気がした。気のせいだろう、と思ってサンダルを脱ぎかけると、ドアの向こうから確かに私の名を誰かが呼んでいる。
「紗希、開けて」
 未姫とまっさんの声だった。
 もう一度、開けて、二人を迎え入れた。
「ありがとう、紗希」
「おじゃましまーす」
「どうぞ、狭い所ですが」
「本当に狭いね」
 と言ったのはまっさん。悪戯っぽい笑顔を浮かべている。
「こらこら、そこはお世辞の一つでも言いなさいよ」
「冗談だよ。私の家と同じぐらいだし。まあ、未姫の家よりは絶対に狭いね」
 未姫の家が大きいのは、噂に聞いた事がある。この辺では抜群の豪邸だというから、未姫と結婚できたら逆玉の輿になる。今のところ与田が付き合っているが、果たして結婚までこぎつけるか。なんて。
 未姫とまっさんも加わって、場はいっそう盛り上がった。今宵は楽しい夜になりそうだ。


 逆玉の候補である与田は、それから間もなく現れた。髪形も服装もきまっている。
 大きめの丸テーブルを皆で囲んで、適当な場所に座っている。与田は当たり前のように未姫とまっさんの間に座って、私は杉内と紅海の間に入った。
 料理がすでに目の前に並べられている。匂いと見た目は食欲をそそる。味も期待できそうだ。紅海がいて良かった。
「じゃあ、紗希が乾杯の音頭を」
 未姫に指名されて、戸惑ったが、頷いた。
「では、僭越ながら、乾杯の音頭を取らせていただきます。お手元のグラスをお取り下さい」
「何か慣れてんな」
 小笠原が感心の声を上げた。私は小さい頃から、家族で乾杯する時はこの台詞を言っていた。
「乾杯」
「乾杯!」
 グラス、もといコップが触れ合う音が鳴る。楽しい夜の幕開けにふさわしい心地良い金属音だ。
 男子は我先にと料理に箸を伸ばした。森山と小笠原が子どもみたいにから揚げを取り合っている。たくさんありますよ、と紅海がなだめる。その様子を見て、まっさんが笑う。杉内が横からから揚げを奪って、ためらわずに口に放り込む。二人の怒りの矛先が杉内に向く。彼は私に助けを求めてくる。非があるのは杉内なので、彼を二人に引き渡す。まっさんはまだ笑っている。笑い上戸なのだ。
 紅海の料理の腕は確かだった。どれをとってもおいしかった。
 紅海は料理にあまり手をつけてなかった。どうしたの? と聞くと、自分で作ったものってあんまり食べる気がしないんです、と答えた。え、そんなものなのかな、私は不思議に思ったが、自分はできないから確かめようがなかった。
 ほとんどの料理が片付くと、杉内が「ゲームやろうぜ」と呼びかけた。
「何のゲーム?」
「もちろん野球」
 普段、野球を見てないくせに、ゲームだと何故かやりたがる。去年もそうだった。そういえば、綾が強かったなあ。
「皆でできるものの方がいいよ。トランプしない?」
 そう言って、未姫がポシェットからトランプを取り出した。箱にはミッキーが出番を喜んでいるように、親指を立ててポーズをとって写っていた。
「いいね、大富豪やろう」
 まっさんが同調した。他の皆もトランプに賛同した。
 流れがトランプに傾いたので、杉内も不満そうだったが、トランプに加わった。
「ちなみに、大富豪のルールが分からない人いる?」
 私は手を上げたくなった。何故なら、ルールは分かるけど、とても弱いのだ。何かしらのハンデが欲しいぐらいに。
 大富豪とは全てのトランプを均等に配って、その手札を早く失くした人が勝ち、というゲーム。順番にカードを出していくのだが、カードには強さがあって、三が最も弱く、二が最も強い。ジョーカーは他のカードの代わりをしてくれ、強さは二よりも強い。ただスペードの三だけがジョーカーに勝てる。他にも「八切り」、「都落ち」、「革命」、ジャックでカードの強さを逆にする、というルールがある。これらはローカルルールと呼称され、地方によって異なる。
 普通は四人から六人でやるもので、勝敗によって呼び名がつく。大富豪、富豪、平民、貧民、大貧民がそれで、大富豪はいらないカードを二枚、大貧民に渡し、大貧民は手札の中で強いカードを二枚、渡す。富豪と貧民の間は一枚。平民は交換なし。
 私たちは九人いるから、二つに分かれた。
 私は最初に平民だったが、その後は大貧民と貧民を繰り返していた。
 強かったのは杉内で、めったに平民以下にならなかった。
 隣のグループでは、未姫が強かった。
 私は負けっぱなしだったが、楽しかった。


 年が明け、三学期がスタートすると、すぐに二者面談があった。名前順で最強の「相川」だが、面談は男子が終わってから女子だったため、男子にどんな内容なのか聞けた。
「ああ、進路の話だよ」
 と浜中は優しく教えてくれた。
 進路か。私は志望高校も決まったし、成績も少しマシになった。咎められるような事は、ないはずだ。
 浜中がやった次の日に、先生のお呼びがかかった。
 場所は教室で。もちろん、他の生徒は誰もいない。
「相川さんの志望校は、××高校でいいのね?」
「はい」
「そう――」
 佐久間先生が険しい顔で俯いた。何か問題でもあるのかな。
「バンドは続けるの?」
「へ?」
 予想外の質問だったので、間抜けな声を出してしまった。
「はい、続けようと思ってます」
「それは良かった。頑張ってね、応援してるから」
「はあ、ありがとうございます」
「相川さん、私の若い頃に似てるから、私がバンドやってたらどうなっていたんだろう、ってあなたを見てると思うのよ」
 前も言っていたが、若くて綺麗な佐久間先生が、どうして私に似ているのかしら。まあ、嬉しいけど。
「相川さんは、恋とかしてないの?」
 恋? この面談、大丈夫かな。
「ええ、まあ、そこそこ」
「バンドのメンバーといつも一緒にいるけど、私だったら杉内君かな。雰囲気的に」
 この先生、分かっていて言っているのではなかろうか。でも、表情からは窺がえない。
「あ、脱線してたわね。じゃあ、最後のライブ、頑張ってね」
 結局、脱線したまま電車は停まってしまった。
 まあ、私の将来は期待できたものじゃないから、進路の話しても肩が凝るだけだし、気楽で良かった。今は、目の前のことを全力でやり尽くそう。後先を考えて行動できるほど、器用じゃないし。


 三学期も残りわずかになってきて、卒業を嫌でも意識してしまう。受験はなんだかんだ言って終わって、私と杉内、小笠原は同じ高校になり、浜中も志望高校に合格した。未姫やまっさんらも順当に高校が決まっていった。
 面接が大変だった。テストは勉強してきたから、実力を発揮できたが、緊張しやすい性格は相変わらず。面接特有の雰囲気がさらに拍車をかけ、頭の中はパニック寸前だった。それでも、ちゃんと要領を得た答えを返せた。と、思う。あんまり覚えていない。まあ、不合格になるほどではなかったのだろう。
 今日は二月十三日。特にこれといった用事もない日曜日。何か飲もうかと思い、冷蔵庫に向かうと、リビングでテレビが点けっぱなしになっていた。消そうとしたが、よく見るとバレンタインデーの特集をやっていた。
「最近は友チョコと呼ばれるものがあって――」
 ああ、友チョコか。女子が友達同士でチョコを贈り合うのよね。
 だが、本当はそんな事どうでもよかった。すっかり忘れていた。明日はバレンタインデーだ。去年までは無関係だったから、その日になって「今日バレンタインデーか」と思う程度だった。今年も危うくそうなる所だった。
 今の私には、渡す相手がいるのだ。付き合っているのだから、誰もが認める「本命チョコ」だ。
 普通、手作りするべきだろうか。いかんせん、時間がない。不器用な私が材料も揃ってない状況で、明日までに間に合うとは思わない。
 買うしかない。手作りじゃない分、ちょっと高めの。
 部屋に戻って、いそいそと服を着替えた。杉内にもらったマフラーも巻いて。
 外はもう真っ暗だった。どうして冬は日が沈むのが早いか学校で習ったけど、理解できなかった。 
 デパートに着くと、バレンタインセールでチョコが安くなっていた。バレンタインデーはチョコレート会社の陰謀だと誰かが言っていたけど、誰の陰謀でも構わないし、むしろ感謝している。純粋に二人の愛を再確認できる日は、明日とクリスマスイブぐらいなのだから。そんな大切な日を忘れそうになっていたなんて、私はバカだ
った。
 少しばかり高いチョコを選んで、買った。これで明日は大丈夫。きっと喜んでくれるだろう。


 翌朝、紅海と学校に向かう途中で、当然、バレンタインの話になった。
「今日、バレンタインですね」
「そうだね。紅海は、誰かに渡すの?」
「女友達に何個か」
「男子には渡さないんだ」
 紅海にもらったら、さぞかし狂喜乱舞するだろうに。
「あ、先輩方の分はありますよ。――でも、杉内先輩に渡してもいいんですかね」
 どうなんだろう。彼女がいる人は、他の人からもらうのはルール違反かな。でも、紅海なら私の後輩でもあるし、杉内も多ければ嬉しいはずだ。
「いいと思うよ。渡してあげなよ」
「分かりました」 
 紅海は素直に頷いた。
 学校に近付くにつれ、同じ制服を着た人たちが増えていく。視界いっぱいになる頃には、もう学校の中に入っている。
 下駄箱で靴を替えて、別れようとした時、「あ、紗希先輩」と紅海が思い出したように言った。
「先輩は、いつ渡すんですか?」
「何で?」
 いつ渡すかは、考えていなかった。
「二人きりで渡したいでしょうから、タイミングずらした方がいいと思ったんですが――」
 いつがいいだろう。今からか、昼休みか。でも二人きりで渡すなら、帰りが一番じゃないかな。
「帰りに渡すつもり」
「じゃあ、昼休みに教室に行きますね。先輩の分もあるから、先輩もいて下さい」
 そう言って、改めて別れた。 


 昼休み、紅海はちゃんと教室に来た。かわいい後輩にもらったため、小笠原と浜中は冷やかしの対象になっていた。
 杉内がそうならなかったのは、私たちが付き合っている事が知れ渡っている証拠だろう。おおっぴらに言ったつもりはないけど、知られてしまうものだ。
 帰りに二人で教室に残って、皆が帰ってからようやく教室を出た。
 学校を出ると、もうほとんど人がいなかった。これで心置きなく渡せる。
 しばらく何でもない話をあえてして、話の切れ目でチョコを鞄から出した。
「ハッピーバレンタイン」
 杉内は受け取ると、「ん、ありがとう」と照れくさそうにはにかんだ。付き合う以前は、杉内の中にこんな表情があるとは知らなかった。
「手作りじゃないけど、大事なのは気持ちだから」
 言い訳だけど。
「まあ、紗希が作ったら、味は期待できないから、別にいいよ」
 と笑いながら言った。私が料理をできないのは、しばらくどうしようもない。高校生になったら、始めてみよう。
 杉内は二人きりの時、私を「紗希」と呼んでくれるようになった。薄い卵の殻を割らないようにするのと同じ感じの注意深さで、私はその響きを聞き漏らさない。
「期待してよ。来年は、手作りのつもりだから」
 杉内は、今度は笑わずに、「楽しみにしとく」と言った。


 寒さはまだ衰える事を知らないが、春が近付いてきている事は確かだった。学校の近くで梅が咲き、たまに春一番か、と思うような強い風が吹いた。
 学校は新しいものを迎える準備が始まり、三年いたものは、「卒業」という形で去っていく。記憶がどんどん塗り替えられていくように、そのスピードは時間以上に早く感じる。
 三年間。
 小学校に六年間、何も考えずに通っていた。それの半分の年月が中学校生活だが、年月を認識している分、とてつもなく短い期間だと、後から振り返って思う。
「明日で最後のライブか。あっという間だな」
 最後の部活を終え、音楽室で帰る気にならず、五人でだべっていたら、杉内が感慨深げに呟いた。私たちの気持ちは、その一言に尽きるだろう。
「早いよな。一年からバンドやっとけば良かったな」
 小笠原が残念がった。
「一年からやってても、たぶん早かったと感じるぞ。楽しい時間は、過ぎるのが早いものだ」
 浜中が彼らしい事を口にした。
「紅海は、私たちが引退したらどうするの?」
 来年度から、軽音部は紅海一人になってしまう。
「友達を何人か誘って、あとは新入部員に期待したいです。とりあえず、廃部にはしないつもりです」
 その言葉には、並々ならぬ決意がこもっていた。彼女がいれば、軽音部は安泰だろう。
「色々あったな」
 浜中はどうしても過ぎた思い出に浸りたいのか、口調はいつもより重い。
「阿部あおいのために別れの歌やったり、岩永のためにやったり」
「教頭の許しが出なくて――おれのせいだったらしいけど――校長の入院してた病院まで走ったな」
「相川が練習に来なくなった事もあったな」
 私は首をすくめた。「そんな時もあったね」
「そして、ライブで失敗した時もあった」
 それは、わずか二ヶ月前のこと。
「明日は最後のライブだから、絶対に成功させよう。だからって、気負わずに、楽しむことを忘れずに」 
 浜中の諭すような口調に、私たちは頷いた。


 夢に綾が出てこなくなった。綾がいない生活に慣れつつあるのかと、私が薄情なのかという罪の意識を感じて、眠りにつく前に綾のことばかり考えてみた。でも、出てこなかった。
 夢の仕組みはよく分からない。たくさん見ているけど、その中の一つを覚えているかいないか、らしい。じゃあ、きっと、綾の夢はそのたくさんの中に含まれているだろう。
 私はこう考えた。綾が夢に姿を現さないのか、覚えてないのか、なんてどうでもいいのだ。
 私の中にいる綾の存在価値は変わらない。失った悲しみはどんな喜びでも埋まることはない。だからといって、悲しみに明け暮れて生きていく必要もない。
 結局、結論は回りまわって、当たり前に辿り着いたのだ。考え過ぎても仕方ない。どんなに意識したって、綾が生き返ることはない。
 綾は中学を卒業できなかった。私はできる。高校にも行けなかった。私は行ける。永遠に中学三年生のままだ。私は大人への階段を上っている。
 彼女が残していった言葉を、今でも数多く覚えている。その一つに、「背伸びする必要はない」というのがあった。あれこれ悩んでいる時、ふと、この言葉を思い出して足を止める。
 綾は死んだ。これはどうしようもない事実だ。でも、綾の大切さを死なせたりしない。私の心の内で、ずっと生き続ける。


 教室を出る時、拍手で送り出された。改めて最後のライブだと実感する。もう、やる前から泣きそうになる。どうして人生には、最後があるのか。最後がなかったら、人間は頑張らない生き物に成り下がるのかもしれない。
 だけど今、この瞬間の感情はそんな理屈抜きだ。バンドを始めて、ライブをやって、その過程はとても恵まれていた。それが今日、終わってしまうのが寂しくないわけない。
 ステージ裏に入って、準備を始める。誰もが無言だけど、心の中で思うところは様々だろう。
 外の声が次第に大きくなっていく。生徒が入り始めた。これも本当は恵まれていることだ。見に来てくれる人たちの中には、私たちとまるでかかわりのない人も当然いる。同じ学校の生徒というだけの繋がりが、この関係を生んでいる。
 どうも私は感傷的になっているようだ。
 杉内の顔を窺がった。彼の表情は、普段と変わらず澄ましている。あの表情の奥には、どんな感情が渦巻いているのだろうか。
「円陣」
 浜中が呼びかけ、私たちは円陣を作った。
「ちょっといつもより早くないか?」
 杉内が指摘すると、浜中は認めた。
「これから一人ずつ、この二年間の感想を言ってもらう。広池も一年だけだが、言ってくれ」
 なるほど、粋な計らいだ。
「じゃあ、小笠原からいこうか」
「おれからか」
 小笠原は少し考えて、「まあ、ありきたりな事しか言えねーけど」と前置きした。
「楽しかった。一言で言うなら、楽しかったな。バンドがなかったら、おれの中学校生活の生きがいは、半分になってた。お前らとやれて良かったよ」
「次、広池」
 広池は目に見えて泣きそうだった。話す合間に鼻をすする音が聞こえる。
「私は……去年の夏祭りで、先輩たちのライブを見て――」
 初耳の話だ。
「バンドって、かっこいいな、って憧れを抱きました。私もその一員になりたい、楽しいライブがしたい、そう思って始めました。――続けてきて、本当に良かったです。ありがとうございました」
「杉内」
 杉内は話す内容を決めていたのか、考える素振りを見せずに話し出した。
「おれは、バンドをやるからには、完璧な演奏を目指そうと思っていた。――でも、途中から気付いた。いくら完璧でも、楽しくなかったら意味がない。中学生のバンドなんだから、楽しまなきゃ損だと思った。だから、この二年間は最高に楽しめた。ありがとう」
「相川」
 せっかく最後に回してもらえたのに、私は話す内容がまとまっていなかった。
 こうなったら、思いの丈を思うままに伝えよう。言葉に飾り付けをしたって、ありきたりの言葉になるのがオチだ。
「私を大きく成長させてくれたバンドメンバーの皆に感謝です。この二年間は、一生の宝物になると思う。二年前、誘ってくれてありがとう」
「最後は、おれだな」
 浜中は一度、目をつぶって、開くと同時に笑顔を作った。
「ぐだぐだと感傷に浸るつもりはない。短い言葉で締めよう。軽音部初代部長として、この軽音部を誇りに思う。以上!」
 浜中の言葉が終わると、円陣は放れた。
 三人が私を誘わなかったら、私が誘いを断っていたら、途中でまた逃げ出していたら、つぎはぎ細工は、つぎはぎのままだった。
 そして、最後のライブが始まる。
「こんにちは、つぎはぎ細工です」


 一歩一歩、過ごしてきた足跡を確認するように、ゆっくりと歩いていく。手には、卒業証書が握られている。先輩たちの手にしていたのを見た時は、途方もない憧れを抱いたけど、実際に手にとってみると、そんなに感動は起こらなかった。
 中学校の思い出を象徴するものは、目に見えないものなのだ。
 たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさんの人と出会った。
 保護者席の横を通って、自分の席に戻った。卒業式が今まさに行われている。誰もが真剣な表情で俯いている。練習ではふざけている人が誰かしらいたのに、不思議だ。私を困惑させるために皆で共謀しているのではないかしら。
 

 ライブは、大成功だった。前回の失敗を感じさせない安定感があった。途中から、失敗する気がしなかった。油断ではなく、確信。
 終わってからの拍手も、最高にあたたかくて、いつまでもこれに包まれていたい、と思った。
 紅海はぼろぼろ涙をこぼしていた。かく言う私も、小笠原に指摘されて泣いている事に気付いた。
 男子は誰も泣いていなかったが、その表情には、どれも達成感と寂寥感が入れ混じっていた。杉内でさえ、そうだった。
 校庭で集合写真を撮るために、卒業生とその保護者、先生方が校庭に出た。クラス順に撮っていくので、私たち四組はしばらく待つことになる。
 私は女子たちの塊から抜けて、杉内を呼んだ。
 二人で集団から少し離れた所で並んだ。出会った頃より少し背が伸びた。男子はこれからも伸び続けるのだろう。私との身長差は開いていくばかりだ。
「おれ、高校生活が不安だな」
 杉内のらしからぬ発言は、真意が図りかねた。「どうして?」と聞き返すと、「だって、中学が充実し過ぎてたから」と答えた。
 私にとって、中学校生活は万事、良かったわけではない。仲間に出会い、恋人ができたが、親友を失った。その喜びと悲しみを秤にかけても、どちらに傾くかは自分でも分からない。
 もしかしたら、私の高校生活で、その答えが見つかるかもしれない。
「将来って、怖い。予測がつかないから」
「つかないからこそ、人は期待もする。過去にしがみつくのは簡単だけど、それじゃあ人は成長できない」
「浜中君みたいなこと言うね」
 私は笑った。「おれだって、こんぐらい言えるって」杉内は不満そうに笑った。二人の笑いが重なった。
「まだまだ、子どもなんだよな、おれたち。お前の将来を約束することは、今のおれにはできない」
「……うん」
 たまに杉内はこういう事を言う。その度に私は照れてしまう。
「でも、一緒にいる限りは、お前を幸せにするよ、紗希」
 そう言っている顔は、微笑み混じりで、私の顔と向き合っていた。彼の目は、揺らぎのない決意を帯びていた。見つめ返す私の瞳は、彼の瞳にどう映っているだろうか。かわいく映っていればいいけど。
「ありがとう」
 日本語にこの言葉があって良かった。なかったら、今の素敵な誓いに釣り合う返しは不可能だ。
 写真が四組の順番になったようで、小笠原が私たちを呼んでいる。
「お二人さーん。次ですよー」
 私と杉内は小走りでそっちに向かった。
 目が覚めるとき、眠りが深い私はたまに思うことがある。この私には分不相応な二年間は、夢だったんじゃないかって。
 夢でもいいけど、夢なら、いつまでも覚めないでほしい。
 いつまでも、永遠に。

つぎはぎ細工

つぎはぎ細工

帰宅部だった一人の少女が、ギターの経験を買われて軽音楽部に誘われ、それまでそれほど親しくなかった男子三人とバンドを組むことに。自信のなかった自分を変えたい――彼らとの活動を通して、少しずつ少女は成長してゆく。親友との別れ、初めての恋を経て……。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-12-06

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