彼女は明日もまた電車に乗る

ーえ?
彼女が「それ」に気付くまでどのぐらい時間がかかったのか、彼女は知らない。
「それ」がいつから始まったのか、電車に乗ってからどのぐらい時間がたっているのかも判らない。
彼女の頭の中には自分の臀部に不愉快な感覚を感じる現状(いま)しか残っていなかった。

彼女は今、電車の扉の近くに立っている。扉のすぐ前ではなく、座席の前だ。座席の両端にある、恐らく手摺の代わり使う為に用意された棒を手摺の代わりに握って立っている。彼女が乗っているこの路線は他の電車に比べるとそこまで混まない。それは普段より混雑している出勤の時間にも変わらなかった。更に一番混む時間代から微妙にずれている9時10分車は少し動きづらくても、人と人が不必要な接触を避けるぐらいの距離は取れるはずだ。その毎朝同じ電車を乗る彼女にとってあたり前だったことに、やっと思いついた瞬間、全身が固まった。
スマホ画面を見ていたうつむいた姿勢のまま、目だけ回して周りを見る。いつもと同じぐらい混んでいる。言い換えれば、そこまで混んでいない。ここまでくっ付いて立つ必要はない。前を見て窓ガラスを見つめる。透明なガラスにうっすら見える自分のシルエット、そしてその後ろに立っているスーツの男性のシルエットが見える。固まったままスマホを持っている手に力が入る。
そうだ、ミスかも知れない。
人を疑ってはいけない。少し足を置く場所が曖昧だったからちゃんと立つ為に体をちょっと寄せただけだ。その時偶然体がついただけだ。彼女はそう考えながらうつむいていた姿勢をまっすぐにしてみる。
そこから何十秒後、後ろの人も姿勢を変えたのか、耳元に気持ち悪い息を感じる。
耳、首から全身に鳥肌が立つのを感じた。素肌につくその息がたまらないぐらい気持ち悪かったので姿勢をもどす。するとまた不快な感覚が臀部に感じられる。気持ち悪い。だが、まだ服の上がマシだ。多分、そうだ。マシだ。
これからどうする。このまま気付いてない振りをするか?今日は何とか乗り切るとして明日はどうする。この電車は毎日乗る電車だ。違う車両に乗るか?今後避ける為には顔を見ておいたほうがいいかも知れない。だが後ろを振り向く勇気が彼女にはなかった。後ろを振り向いたとき、あの男性と目が合うのが怖かった。彼女にできるのは、何もなかった。
恐らく、今日を乗り切れば、何とかなる、自分でそういいながらスマホの画面に目をそらす。黒くなっていた画面を指紋認識ボタンで出すと、彼女が良く見るSNSの画面が出てくる。彼女の体がもう一度固まった。もし、スマホ画面が後ろで見えたら、男性が自分の個人情報を知るかもしれない。
彼女は極自然に見えるように気をつけながらかばんの中の本を出した。何がそんなに怖いのか、何故気付いたことが彼にばれてはいけないのかは彼女にも解らない。ただ、怖くて頭の中が真っ白になっているだけだ。しおりを挟んでいるページを開いたが同じ単語を何度も読むだけで、本が全然読み進めない。どんな文章も頭の中に入ると早く会社の駅に着くように、という思いに変わってしまう。
しばらく止まらなかった急行電車の扉がやっとひらく。普段より多めの人が降りる。男性が後ろから離れるが感じる。よし、これで大丈夫だ。やっとこれで開放だと彼女は思ったがあの男性が彼女に向いてすぐ左に立つのが彼女の視野内に入る。近い。彼女が持っている本を読んでいるのかと思うぐらい近くにたったまま、ずっと彼女を見つめているのを感じる。
何も気付いていないような顔をしながら本を読むふりをする。だが、文字は目の周りをぐるぐる回るだけで頭の中は入ってこなかった。何も理解できていないページをめくり次のページを見る。自分を見つめている男性の顔が彼女の視野ぎりぎりのところから消えない。
電車がまた止まって扉が開く。閉まる。そして永遠に底にたっていそうなその男性が動く。やっといくのか、と思った瞬間、先より空いているにも係わらず、男性は最初と同じ場所に立つ。彼女は底のない洞窟で落ちるような感覚を感じながら頭が真っ暗になる。
多幸に今までより短い間隔でまた電車が止まって扉が開き男性は扉の方向にうごく。いや、多幸ではない。恐らくこの一駅間隔の区間を計算しただろう。後ろから男性の気配が消えてから臀部に感じる接触。出る直前手で触ったに間違いない。若干顔を上げ扉の方をちら見する。降りる人は少なかったので先程窓ガラスで見たシルエットを探すのはあまり難しくない。メガネ、スーツ、どこでもいそうな中年の男性。
ー一瞬めまいがした。
扉が閉まった。先程そんなに固まっていたのが嘘のように、手先が少し震えるのを感じる。周りの人々が私の方向を見つめている気がする。静かな動作で本をカバンに戻す。両手で棒を持って棒によって支えられるように立つ。
いくつかの駅を通りながら何回も電車の扉が開いて、閉まった。数駅後、電車から降りる。降りた瞬間、足の力が抜けた。何とか駅のベンチまで足を運ぶ。頭の中は空っぽだ。そのまま座っていると少しずつ足に力が戻るのを感じる。この以上座っていると遅刻だ、彼女は立って階段に向いて歩く。
あんなやつ、死ねばいいのに、と彼女は小さく心の中でつぶやいた。

彼女は明日もまた電車に乗る

彼女は明日もまた電車に乗る

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted