花たちが咲うとき 五

花たちが咲(わら)うとき

第五話 ~五月雨道中~

 うすぼんやりとした空の薄闇では、時間感覚もおぼろげにされてしまう
微かな音で降る雨は、緑も土も何もかもを色濃く見せて重みを増したようだ
天候も芳しくないためか人通りも少ない住宅地の一角、田と民家が共存した住宅地の中で未だ古めかしさを残した平屋の瓦屋根が黒く水気を帯びて光っていた
その下で色鮮やかに開いた緑色の傘をさした青年、月下(つきした) (きょう)は軒先でしゃがみこんでいた
家の壁面に沿うようにずらりと並んだ鉢から伸びた新緑の葉を、自分の指先が濡れるのも構わず撫でている
「今年も大きくなったな」
誰に言うでもなく呟いて微笑む香の足元に黒猫が擦り寄った
香は少し驚いたように足元を見降ろして、今度はそちらに手を伸ばす
「ごめんな、これから出かけないと……。雨がやむまでここに居てくれていいからさ」
そう言うと、足元の白いビニール傘を持って立ち上がった
黒猫は香を見上げるように小さい頭を持ち上げている
「いってきます」
パシャリ、パシャリと水を踏む音が遠ざかっていった


※※※


「だから、適当にそっちでやっといてくれよ」
(まぐさ)は若干荒げた声を落ち着けるように、マグカップを口につけた
ツタの様にうねった髪から垣間見える表情は苦々しいが、決して口に運んだコーヒーのせいではないのは確かだ
―― ……分かったよ。お前の部屋がまた一歩、物置に近づくな…… ――
「使えそうな奴は兄貴達が貰っていいからさ」
―― お前宛だぞ、そうそう我が物顔で使えんだろう ――
艸は耳にあてたスマートフォンを気遣う素振りもなくため息をついた
―― ため息をつきたいのはこっちなんだが? ――
「いらねえって言ってんのに送ってくるんだから好きにすればいいだろうが」
―― そうもいかんだろう…… ――
(かや)が小さく息を吐くのが聞こえて、艸もつられるように二度目のため息をついた
―― ……ところで、以前そこそこの金額が請求されていたが、何に使ったんだ? ――
「あぁ……」
思い出したくもない出来事が蘇って、艸はこめかみを押さえた
艸の言葉が一拍途切れたことに、萱の声が少し低くなる
―― ……香 君か? ――
「違う」
萱の言葉の意味を素早く理解した艸は即答する
そう言われれば、アレも今日だった
萱が心配するのも無理はないと、艸は出来るだけ嘘のない言葉を選んだ
「バイクが、ちょっとな。調子悪かったから修理に出したんだ」
―― 修理? この金額なら新しいものを買ったほうが良かったんじゃないか? ――
「……今のが、気に入ってんだよ」
修理に出したと言っても艸のバイクではなく、春の終わりの一件で無断で借りた挙句、事故で壊してしまった例のバイクだ
今になっても特に騒がれていないのだから、なんとかごまかせたと思いたい
―― 事故を起こしたわけではないのだな? ――
「……あぁ」
一瞬バレているのではないかという不安がよぎったが、すぐに振り払った
あの時は、艸や一部の例外を除いて地域一帯すべての人が眠ってしまっていたはずだ
艸を見張っている従者がいたとしても、その人たちも例外ではない
萱のホッと息を吐く音が聞こえた
―― ならいい。お前はまだ未成年だ。金を勝手に使うなとは言わんが、用途くらいきちんと連絡しろ。
後はいつも通り、振り込んでおいたからな ――
「あぁ」
―― それと、……おめでとう ――
「……ども」
艸のなんとも言葉に詰まったような小声の返答の後に、ようやく電話は切れた
途端に艸の体はソファに深く沈む
ふとソファ脇に置かれていた絵本の表紙に目が行って、一冊手に取った
以前に萱が送ってきたそれらは、特に真剣に見返すつもりもないのに傍らに置いてある
時々手にとっては一、二ページ開くものの、すぐに閉じてしまうだけのもの
かといってベッド下の段ボールに一緒に入れておく気にもなれなかった
艸はカレンダーを一瞥してから、しばらく絵本の表紙を見つめていたが、やがて絵本を元の場所に戻すと、ソファから立ち上がりリビングを出て行った


※※※


 さあさあと降る雨の音は、がらんどうな黒木の寺内によく透き通り、そこの家主に音楽でも聞かせているのかと錯覚させるほど綺麗に思えた
「雨、止みませんね」
その音色に負けぬほどに静かで清らかな声が(うばら)の鼓膜を揺らした
吸い寄せられるように横に視線をやれば、曇り空に紛れた白雲のような男が口元にほのかな笑みを浮かべて庭を眺めている
「そうですねぇ」
茨の気の抜けた言葉にも、(こう)はただただ目を細めるだけだ
「もう、一週間くらい経ちますか? そろそろ迎えに行ってあげてはどうです?」
「はぁ、こう天気が悪いとどうもねぇ……」
そう言って茨はいつもの定位置にいない少女の面影に目を向ける
あの一件から茱萸(しゅゆ)は帰ってこないままだった
紅はチラと赤い瞳を茨に向けて、手元の湯のみから一口お茶をすすって唇を湿らせる
「本音を言うと、これから来客があるのでそろそろ出て行って欲しいのですが」
「えぇー。こんな非力でか弱い後輩を用心棒無しに追い出す気ですかぁ」
ぐでっと体を折り曲げた茨に、呆れたような声が落ちる
「だから早めに探しに行きなさいと言ったでしょう?」
「仕方ないでしょお。疲れてたんですよぉ」
「その言い訳、聞き飽きましたね」
さぁと、この雨の音にも似た衣擦れの音がして紅が立ち上がっていた
笹が描かれた着物の上を水が流れるかのごとく銀色の髪が光を滑らせて揺れる
「傘を二本、玄関に用意しておきました。今日は仕事があるのでしょう? 完全に気が萎える前に外に出てしまいなさい」
そう言って紅は茨に背を向けた
ぴしゃりと障子戸が閉まり、茨ひとりが取り残される
だだっ広い寺内に、雨音がバタバタと不平を漏らすような音を立て始めていた
「あーあ。本格的に降ってきたなぁ」
茨はよっこいせと重そうに腰を上げ、のそのそと部屋を後にした


※※※


 少女はただ立っていた
見覚えの無い景色
少女は絶えず落下し続ける水粒たちを前に、ただただ立ちつくすのみだ
いち早く茨の元に返りたい一心だったが、茨に買ってもらった服がこれ以上濡れない様にすることも茱萸には大切にい思えたのだ
歩みを止めて日も経った
トタンの屋根、ところどころ穴の開いた薄壁に囲まれた狭いスペース
そこに詰め込まれたように置かれた質素なプラスチックの長椅子に、茱萸はちょこんと腰掛けていた
茱萸の正面には壁も無く、黒く濡れた一本道が横切る向こう側は、若緑色の絨毯と山々が雨に白んでいるだけだ
―― 人を運べ
その命令を完遂した茱萸は茨の元に帰るはずだった
まさか茨の居る森林公園とは反対方向に進んでいたなどとは思ってもいないのだろう
一人で歩く少女を心配して声をかけてきた大人たちも、茱萸の寡黙さとひたすら歩みを止めぬ姿勢に離れていった
「……」
茱萸の光を宿さぬ瞳に、雨だけが通り過ぎていった


※※※


「すん、っげぇ―― 怖かったんだからなっ!」
 葵の力説にも、外野の反応は薄い
二限目を同じくした友人達は、昼食を機械的に口に運んでいたり、スマートフォンを片手に視線を落としている
一人は昼食を食べ終わって、机に突っ伏して仮眠を取っている
その姿に葵は胃が冷えるような不思議な感覚を思い出して目を逸らす
そんな葵に、友人の一人がスマートフォンをいじりながら吐き捨てるように言った
「つーか、その話前も聞いた」
「え? したっけ?」
葵が片頬を引きつらせて苦笑いを浮かべると、友人達は各々に他人事のような抑揚の無い声で感想を並べた
「したした。つぅか、俺も気がついたら床に寝ててビビッたわ」
「あの後、病院とか連れて行かれたよなー」
「うんうん。でも結局何とも無かったらしいじゃん? もうテレビでも見ねぇし」
それっきり己の作業に集中しだした友人達に、葵は不満そうに頬杖をついた
食堂はいつも通りの賑やかさで、自身が座っているテーブルだけがやけに静かに思えてきた葵は、周りに合わせるように何となくスマートフォンを開いてみるが直ぐに切る
「ところでさ、誰か香の誕生日、知ってたりする?」
「は? 〝今日〟の誕生日?」
「あぁ、月下のことだろ。オリエンテーションの時に皆自己紹介したよな? その時に聞いた気はするけど……」
そう言って「うーん」と唸った数人は、すぐに首を横に振った
葵はじゃあじゃと言葉を続ける
「香の家とか、行ったことある? 家族の事とか知ってたりしない?」
「家? 行ったことないなぁ。あいつ実家だって言ってたから、遊ぶときは大体下宿の奴の所に集まってたし」
「弟がいるっては言ってたけど?」
「え? 妹だろ」
「え?」
そうこうしているうちにいろいろな情報が飛び交い始め、豪邸に住んでいるだの、一家全員白髪だの、兄弟が八人いるだの言い始めるものだから、葵はこっそりため息をついた
意気消沈している葵に対して、周りは炎上するかのごとく話に尾ひれはひれが付きながら盛り上がっていく
香の事を知っている人は数え切れないほどこの学校に居るのに、それ以上のことを知っている人には出会えずじまいで、とうとう四月も終わってしまった
―― 「な、なんでも知ってれば友達ってわけじゃないだろ!」――
春の一件では(あざみ)にそう言った葵であったが、その時の悔しさに似た感情に突き動かされて今もこうして香の事を聞きまわっている次第だ
しかし、こうして香の事を大して知らない自称友人達に聞いて回っていると、自分もこのうちの一人なのだと感じて、あの時感じた悔しさとはまた違った胃を掴まれる様なじんじん痺れるような痛みが肺に溜まって重くなっていく
本人に直接聞くのは論外として、葵は本当のところ一番のアテを知っていた
それでもその人物に聞きに行かないのは、葵が嫌だからだ
そいつに助言求めるという行為をしたくないし、何よりその人物から誰からも聞き得なかった自分の望む情報が出てきたら腹立たしいなんてものじゃない
加えてそいつに連絡をとる方法も知らないのだから仕方が無い。……なんていう言い訳を建前にしているだけだが
葵は友人たちがワイワイと騒いでいる会話からそっと外れた
これ以上まともな話は聞けそうにない
こうなると昼食を食べ終わった葵は暇を持て余す
ついつい食堂を見渡して、現在噂の渦中にあるその色を探してしまった
「―― あ」
葵は言葉と同時に腰を浮かせる
「どした?」
「オレ行くわ」
「おー」
ショルダーバッグを肩に回し、葵は柱の向こうに見えた白い後姿を目指して小走りに人の合間を縫っていく
少し机に足をぶつけながらも、柱の向こうに座っている香に声をかけようとした
「うん。ありがとう、真赭(まそほ)
「―― !」
咄嗟に開いた口に手を当てて、柱に背中をこすり付けるように急停止をかける
そんな葵の様子を不審げに通り過ぎていく生徒達
しかし葵はそんな事を気にしている場合ではなかった
さっきまで気が付かなかったが、香は携帯で電話をかけているらしく親しげに話している
しかも相手は、名前からしておそらく女
―― もしかして、か、彼女!?
葵は咄嗟に息を殺して耳を澄ます
「じゃぁ、今日の晩御飯は頼むな」
―― 香の実家で手作りご飯!? 家族公認!?
てっきり香は同類と思っていた葵は、ワナワナと湧き起こるやり場のない衝動を抑え込みながら、その場から動けないままでいた
すると、不意に肩をたたかれた
「葵くん?」
「ギャッ!?」
気が逸れていたせいだろう、思わず声をあげた葵に相手も驚いて肩から手を離した
さっぱりしたブロンドの髪に蒼い目。葵が少し視線を上げて合わせた瞳は半分以上が瞼と色素の薄い睫に覆われている
「リ、リオン!?」
「う、うん。ごめん……。そんなに驚くとは……」
「あ、あぁ、いや……」
「葵? こんにちは」
「あ、お、おつかれ!」
既に電話を切ったらしい香が、葵のほうを振り返っていた
いつも通りに微笑みかけてくる香に葵は少し戸惑いながらも正面の椅子に腰を下ろす
リオンは少し迷ったようだが、葵に続いた
「きょう? ……君が?」
「? えっと……」
春の件で葵が零した友人の名と、目の前の男が同一人物であると気づいて声をあげたリオンだが、当然一方的な知人のため香は首を傾げるばかりだ
葵は自分が聞きたいことを横において、まずはリオンを紹介することにした
「あ、香。こいつは壇堂(だんどう)リオン。フランス人のハーフでオレらと同回生なんだ」
「葵の友人か。俺は月下 香、よろしくな」
「……よろしく」
律儀に手を差し伸べた香に、リオンは少し驚いたようだが握手を交わした
しかし次の瞬間にはリオンの表情がパッと変わり、握手したままの手を離すことも忘れてじっと一点を見つめている
「そ、それは……」
「そ、それ?」
「ガオリャーお花バージョン!!」
がっちり手を繋がれたままキョトンとしている香に、葵もうっかり唖然としそうになるが机の上の物を見て直ぐに春に話したことを思い出した
あの時は恐怖心を紛らわすために会話をしていたせいか、あれ以来内容を思い出すことが無かったのだ
そう、香の筆箱。そこについたマスコットを見るまでは――
「あー、香。実はな……」



「なるほど、そういうことなら」
 香は一通り話を聞くと筆箱のチャックの引き手に結わえてある紐に手を掛けた
相変わらず不器用な香は、てこずりながらもストラップを外す
「はい、どうぞ」
「本当に貰っていいの?」
そう言いながらもリオンの手は既に受け取る姿勢になっている
「いいよいいよ。弟から押し付けられたようなものだし、壇堂さんの方が大切にしてくれるだろうしね」
「ありがとう。あと、リオンでいいよ」
「え? あ、分かったよ。リオン」
満足そうに頷いたリオンは、半分覗いた瞳を鋭くしながら両手で持ったガオリャーをいろいろな方向から眺めている
「塗装とか剥げてたらごめんね?」
「大丈夫、綺麗なものだよ」
真剣な眼差しのまま答えるリオンを横目に、香は微笑ましそうに笑った
「そういえばガオリャーが映画化するんだってね」
「あー、言ってたな。最近人気絶頂なんだろ」
「もう、前売り買った」
リオンの行動力に感心する葵の横で、香は楽しそうだ
「本当に好きなんだね」
「うん」
「俺の弟もハマッているから、また余り物とかあったら譲ろうか?」
ガタンと大きな音に驚いている暇もなく、香の手は再びリオンにがっしり掴まれていた
リオンの瞳はまっすぐ香を射止めており、半分瞼が落ちているせいで迫力が倍増している
流石の香も若干身を引いていた
「香くん。友達になってください」
「あ、う、うん」
「お前の友人基準はガオリャーかよ」
葵のつぶやきをきっかけにするように予鈴が鳴った
食堂に居る生徒達が身支度を始めたせいか更に騒がしくなる
リオンは慌てながらも手の中のガオリャーを丁寧にポーチにしまうと席を立つ
「今日はありがとう、悪いけど行かなきゃ」
「場所は?」
靖心(せいしん)館」
「心理学科なんだ?」
香の言葉にリオンはうんと頷く
「やるなら心理って、決めてたから」
そう言ったリオンの声はどこか低く唸るようで、葵は少し怖いと思った
瞼に覆われた残り半分の瞳に、何かとてつもない思いを隠しているように見えたから
「それじゃ、俺も授業に行かないと」
「あ、香!」
席から立った香に、思考より先に声が出た葵は伸ばしかけた手を引っ込める
「どうした?」
「あ、あーいや。急ぎじゃねぇから……四限の後でいいや……」
「そう? それじゃ、また後で」
リュックを担ぎ、白と緑の傘を持った香は小走りでドアのほうへ向かっていってしまった
電話口の彼女らしき人のことや、香の事について
聞けることはたくさんあったはずなのに、気がつけば何一つ聞けないままだった
香と同じように走っていく生徒達が、葵を通り過ぎていくたびに微かな雨の匂いのが鼻先を掠める
ドアの向こうは大雨だ
「つか、何で傘二本……?」
葵の言葉は、本鈴のけたたましい音にかき消された


※※※


 雨音ばかりが耳についた道を進み続けているうちに、いつの間にか人通りもそこそこある場所に出ていた
車のタイヤが水たまりを踏み鳴らす、人々のガヤ、どこからか漏れてくる音楽
賑わいのあるところまで来たようだと、茨は黄色の傘からこっそり覗き見た
「全く、どこに行っちゃったのかねぇ」
バリバリと髪を掻き乱し、ぐらりと頭を傾ける
人探しの方法はいくつかあるのだが、探している相手が茱萸となると勝手が違う
それに茨は人探しに全力を出している場合でもなかった
絶対安全と考えられる場所からたった一人で放り出されてしまった茨は、自分の身の安全を確保するのに集中していた
春の一件で少なからず動き出したであろう者達に、見つからないようにしなければ
この一週間のうちに帰ってくれていればいい。なんて考えるのだが
「―― まぁ、そうはいかないよねぇ」
茨はゆっくり息を吐き出す
と、唐突に走り出した
近くを歩いていた人達が、一瞬何事かと茨に視線を取られる
茨が跳ね上げたしぶきに眉を寄せたスーツの男が、睨むように茨の背中を見送った直後だった
「ぅわっ」
急に引っ張られるような、押されるような衝撃が男の手元の傘を吹き飛ばした
風にしてはやたらと質量を感じた突風に、男はあわてて転がった傘を拾う
他にも通行人の何人かが短い悲鳴を上げ、中には骨組がひっくり返った折り畳み傘を手に唖然としている人もいる
「びっくりしたぁ」
「すごい風だったねぇ」
一瞬の出来事に驚きながらも人々は歩き出す
その前に走り去った男のことなど、突風に攫われたかのごとく忘れ去っていた


※※※


「こんにちは」
その声に顔を上げた茱萸の目の前には、白いレインコートを着た子供が立っていた
年齢は茱萸と同じくらいだろうか。被ったフードと長い前髪が両目を覆ってしまっているが、やんわりと弧を描いた口元には子供らしいあどけなさがあった
声色からは男の子とも女の子とも取れる
茱萸は小さく顎を引いた
その子はパシャリパシャリとわざと水溜りの上を跳ねながら茱萸の前に立つ
「君も待ってるの?」
その子はそう尋ねながら茱萸の隣に腰を下ろした
茱萸は少し首をかしげる
待っていると言えば待っているし、探していると言えば探しているとも言える
明確な返事が返ってこないのを、その子はどう受け取ったのか分からない
にこにこと笑いながら地面から浮いた足をバタつかせた
「ぼくもね、ずっと待ってるの」
そう言ってその子は雨空を見上げた
「一緒に待っててもいい?」
どのみちこの場から動けない茱萸は、こくんと一つ頷いた
その子は嬉しそうに口をほころばせ、より一層足をばたつかせた


※※※


 パタパタと交互に振れる振り子のように揺れる両足が、その歌のリズムを取っているように見えた
鼻から抜けるような小さな歌声は、閑散としながらも本の羅列に囲まれた室内にひっそりと溶けていった
「そなたぁの首ぃをチョンと切るぞぉ」
「……物騒な歌だな、おい」
「ん?」
彼女は背後の階段から上がってきた来訪者を確認して、ふと口元を緩めた
「君の顔も相変わらず物騒だね」
そう言われると艸に返す言葉は無い
くつくつと笑う彼女から少しバツが悪そうに逸らせた視線の先に、艸はふと目を止めた
いつも―― と言ってもまだ会って数回だが、彼女に会いに行った時は必ずと言っていいほど古めかしい本が机の上に広げられていたが、今日は一冊も乗っていない
代わりに、ガーゼや糸やペン。それに……――
「それ……」
「あ、これ? かわいいだろ?」
そう言った彼女だったが、艸にはどこをどう見て可愛いという言葉を当てはめるにいたったのかさっぱり分からなかった
丸っこくて、点々とした目があれば相応にして可愛いに入るのか
それともヒラヒラしている部分か
そもそも艸が気になったのは今彼女が可愛いと指したものではなかったのだが、そうこう思っているうちに彼女の話はヒートアップしていた
「本にとって湿気は大敵。紙が歪むわ、黄ばむわ、虫が食うわ災難尽くしなんだよ! 
ここは空調管理がしっかりされているから今みたいな梅雨時期でも基本大丈夫だけど、常識の無い奴がこんな雨の日に濡れた手で本を触ったり、濡れた傘を持ち込んだり……
だからこうして一日でも天気になるようにって、この子作ってんの」
「はぁ」
「どうでもいいって顔だね。南ってどっち?」
「あっち」
「はいよ」
彼女は跳ねるように階段のほうへ向かうと、手すりに彼女いわく可愛いそいつを吊り下げた
ぷらんと揺れるその姿に艸はやはり可愛いなどとは思えない
「というか、なんでそいつ左目が書いてないんだ?」
「ダルマと一緒だよ。達成できたら書いてあげるんだ。本当は窓辺に吊るのがいいんだけど、書庫は本が日焼けしないように窓が無いから仕方ない」
無理に書庫でなく窓のあるところに吊ればいいのにと思いながら、艸はその左目が無い姿を見て一人の少女が思い浮かんだ
当然、口には出しはしなかったが
「てるてるぼうずぅ、てるぼうずぅ」
艸がここに来た時、階段を上がりながら聞こえたリズムを再び歌い出した彼女は、その調子に合わせた緩慢なスキップで狭い室内を跳ねて回る
あの物騒な歌詞はこの歌のものだったのか、と艸は少し瞠目する
「あーした天気にしておくれっ」
艸の横を跳ねて横切り、跳ねた勢いのままいつもの椅子にストンと腰を下ろす
足を組む仕草までかっこつけのようにテンポ良い
そして、机に片肘を置いて頬杖を突いた彼女は心底楽しそうに笑った
「――で? 今日の御用は?」


※※※


 教師の声がお経のように教室内に響いている
雨とペンの走る音が、やけに耳につく
葵はそっと隣に座る香の横顔を覗き見た
香はあまり版書をしない
教師の話す言葉にじっと耳を傾けて、時折思い出したかのようにシャーペンを動かす
それで大丈夫なのかと始めのころは思ったりもしたが、直ぐにその考えは消えた
―― 生きたテープレコーダー ――
それが香に対する葵のイメージである
香は今も背筋をピンとしてまっすぐ前を見つめている
葵が机の下でこっそりとスマートフォンを確認すると、もう直ぐ授業が終わる時間だ
よくも同じ体勢で九十分も居られるものだと感心しながら、葵は黒板に向き直った
昼食後で一番眠い三限目に誘われるまま睡眠をとったおかげで、こうして四限目は眠気も怠惰になった様子だ
授業をまじめに聞くわけでもなく、板書をするわけでもなく、ただ目を開けて教師の言葉を聞き流すだけ
しかし葵の頭の中では、彼には珍しく思考の回路が繋がれては離れ、結ばれては切れることを繰り返していた
そう。今日になって沸いた出た「彼女」という単語で――
彼女、彼女、と彼女がゲシュタルト崩壊するほど脳内で反復するも、全くイメージがわかないでいる
香の会話内容から、家庭的な子ではあるようだ
それはしっくりきた
―― でもなんだろなー。悔しくないのが逆に悔しい! 
むしろなぜ今まで香に彼女いないと思ってたんだろうかと、葵は首をかしげてみる
女っ気が無いから? 下ネタ話をしないから? 
どれもピンと来ないと感じながら、葵は疲れてきた脳みそをぐるんぐるんと頭を動かすことでほぐそうと試みた
―― いっそ、本人に聞くか
結局最後にはここにたどり着くのだ
元々葵は、一つのことに長く取り組むことが苦手で、求める過程を楽しむよりさっさと答えを欲しがるタイプだ
例えるならプラモデル。作る過程を楽しんで出来上がった後は埃をかぶるタイプと、塗装済みのものをさっさと買ってガラスケースの中で愛でるタイプ
葵は確実に後者だ
今回のように一週間も粘ったのは、むしろ葵にとっては快挙と言えるだろう
「葵? おーい」
「へ?」
「寝てたのか? 授業、終わったぞ」
気がつけば周りの生徒達は席を立ち始めており、香の机の上も既に片付けられていた
雨の音が遠くて、周りの雑音がやけに耳元に留まって邪魔くさく感じた葵は、うざったそうに頭を振った
「葵? 具合でも悪いのか?」
いつもなら授業が終わった途端にさっさと教室を出たがる葵が、中々席を立たないことを不審に思ったのか香が少し身をかがめてきた
「風邪でも――」
「香って彼女いんの?」
あ、口滑った。しかもカブッた。なんて思った葵の正面で目を点にした香の顔がある
数回瞬きをした香の瞳は、まるで光が明滅するかのように鮮やかな緑が見え隠れして、そこだけ春が置き去りにされてしまったようだ
「きゅ、急にどうしたんだ?」
「昼電話してたじゃん、女だろ? 彼女かなぁって」
「え、ち、ちち違う! 違う!」
香が顔を紅潮させて、顔の正面で両手をぶんぶん振って見せている
その香の高揚を目の当たりにしている葵は、そんな彼に対して自分の指先がどんどん冷えていくのを感じていた
他人の部屋に一歩踏み込んでしまった時のような、身の置き場の無い閉塞感が葵を襲った
「あ、あの電話は、妹なんだ」
「妹? 弟の話は聞いたことあるけど……、妹は初耳」
「話す機会がなかっただけだよ。今日は俺の帰りが遅くなるから夕飯を頼んだんだ」
「でも香の妹って事はまだ義務教育だろ? 学校で携帯電話なんて使っていいのか?」
葵はふと自分の言葉を疑った
―― 過程なんて、どうでもよくね?
そう、彼女じゃなかった。自分の勘違いかと笑い飛ばしてそれで話を切るのが一番いい流れのはずなのに、こんなに深みに入ろうとして葵は自分で自分が何を知りたいのか分からなくなってきていた
「あ、うん。それは、大丈夫……」
香の表情が一瞬こわばったのを見逃さなかった葵は、途端に震えが走った
―― 踏み込みすぎた
葵はただ笑いあってバカやって横に居てくれる友が居ればそれでよかった
「友人」という結果だけあればいい
その過程は要らない
友人同士のいざこざ、意志のすれ違い、ぶつかり―― そんな重くて痛い空気などわざわざ乗り越えてまで得る友情に意味など得られなかった
要は周囲から見た「集団」の一人で居られさえすれば、いい
―― はず、だったのだけど……
「そんなに気になるなら、会ってみるか?」
「え?」
「え?って、俺の妹だよ。会えば納得するだろ? まだ疑っているみたいだしなぁ」
雀のように唇を小さく尖らせた香は、少しいじけたように葵を見返している
その様子に明らかな拒絶は感じられなくて、葵はすっと体に血が通うのを感じた
思わず息がこぼれる
「じゃ、じゃあさ。香の家、遊びに行って良い?」
「え?」
調子に乗りやすいのも葵の自覚している欠点である
「そ、そのほうが早いじゃん。その、香の家にも行ってみたいなぁ……、なんて……」
葵は恐る恐る香から逸らしていた視線を、ゆっくり香に戻す
戻そうと試みるのだが、逸らそうとしていないのに香から逃げるように視線がぶれて上手く見ることができない
「うん」
その言葉で、やっと香に焦点が合った
「いいよ」
いつもの香の笑顔だった
葵は急にさっきまで一喜一憂していた自分がバカらしく思えてきた
そうなると自然と頬の筋肉が緩む
香はリュックを担いで傘を手に持ったので、葵もさっさとショルダーバックにノートを押し込んだ
「今日は無理だけど、また日の良い時に誘うよ」
「う、うん。約束だかんな!」
「うん。約束」
そう言って香が差し出した小指に葵はハテ?と動きを止める
香も一拍置いた後に「あ」と口を開いて、慌てて小指だけを立てたその手を隠した
「ごめんごめん。つい弟妹にやる癖が」
「面倒見よさそうだもんなぁ、香」
「そうか?」
「そうそう」
いつの間にか二人だけになってしまっていた教室から追い立てられるように出て行くと、小雨ながらもどんよりとした空がある
しかし葵の表情はどこか晴れやかで開いたオレンジ色の傘の色に照らされて、なお血色がよく見えた
「あれ?」
そこで葵は後ろからついて来た香を見て声をあげる
「香、白いビニール傘は? 持ってなかったっけ?」
「あぁ。貸してしまったんだ」
「貸すって、誰に? てか、その為に持ち歩いてたとかじゃないよな?」
「はは、そんなわけ無いよ」
香は緑色の傘の下で困ったように笑っている
白い髪に少し緑色が差して、濃霧から山の端が覗いたように色が滲んでいた
「本当は俺が借りていたものだったんだけど……」
「え?」
「返すのはもう少し後になりそうだなぁ」
どこか遠くを見て笑う香に、葵はコテンと首をかしげるのであった


※※※


 もう何度目か知らないが、横に長い乗り物が茱萸たちの前で止まり、ドアを開け閉めして去っていく
そんな光景を繰り返していた
移動手段にバスを使ったことが無い茱萸が知らないのも仕方が無いことだが、茱萸は今バスの停留所に雨宿りをしていたのだ。当然である
「おはじきも飽きたね。次に何しようか?」
その子は指で小石を弾いて尋ねた
おはじきと言っても、足元に落ちていた小石をいくつか拾ってぶつけて遊んでいただけだ
雨はまた少し強くなったようだ
茱萸が少しだけ眉尻を下げて空を仰いだのに気がついたのか、その子は椅子から飛び降りて躊躇も無く屋根から外へ出た
ざんざかと降りしきる雨に打たれて、その子の輪郭が白くぼやける
「おいでよ! 雲の下で騒げばお天道様も出てきてくれるかもよ!」
そう叫ぶと、その子は雨の下で舞うようにくるくる回った
レインコートの裾がバタバタと音を立てて雨を振り払う
足元の水溜りが絶えず波紋を広げている様が美しい
茱萸は雨に濡れないギリギリ屋根の下まで来て、その様子をじっと見つめた
その表情は相変わらず何も語ってくれはしないが、その揺るがぬ瞳が何よりも興味ありげにしていることを決定付けていた
「ほらっ!」
その声と同時に茱萸の体は雨下に放り出された
雨に濡れたその子の冷たい手が茱萸の両手を掴んでぐるぐる回る
コーヒーカップのように回り続ける二人は、正面にあるお互いと、その背後で通り過ぎていく灰色の景色に不思議感覚に陥る
「君の服は可愛いくていいね。いいなぁ」
茱萸は小さく顎を引いた
その子は茱萸の心を読むように笑みを深める
「アジサイの妖精さんみたい!」
茱萸がコテンと首を横に傾けたのを見て、その子はようやく回るのをやめた
「アジサイ、知らない?」
今度はその子の方が首をかしげておちょぼ口になる
茱萸は垂れた髪を揺らしながら頷く
その子は少し驚いた様子だったが、直ぐに白い歯を見せて笑うと茱萸の手を握ったまま走り出した
流石の茱萸も不意をつかれたようで、カクンと体が前のめりになったが直ぐに立て直してその子に続いて走る
もう濡れることに抵抗がなくなった二人は、容赦なく水溜りに足を突っ込んで走る
茱萸が少し抵抗の意を示すようにその子の腕を軽く引っ張るが、その子は茱萸を振り返ると、大丈夫だからと笑って見せた
「アジサイ、見せてあげる!」



 茱萸は腕を引かれたまま走り続けていた
そこまで速い速度ではないが、このゆっくりすぎず早すぎることもない景色の流れが茱萸には新鮮に感じられたのだ
茨と共に居る時は大抵歩いているし、急ぐ必要がある時は全速力で走るので景色など見えない
茱萸は引っ張られている力に身を任せ、少し周りの風景に目をやってみた
全体的にどんよりした色合いながら、山も家も道もぼんやり白いベールに包まれているように見えて神秘的だった
ふと茱萸はふさがっていないもう片方の自分の手を見つめてみる
雨に打たれて濡れた手のひらは血の気の無い白い手だが、ベールを帯びてはいない
茱萸の睫が雨に濡れてか少し重そうに瞬きが繰り返され、見つめていた手をダランと下ろした
「ここ!」
その声に茱萸は顔を上げて、目を見張った
ただでさえ大きな瞳が更に大きく見開かれて、今にも雨粒のように零れ落ちそうだった
空と同じくらい薄暗い石塀を彩るように咲いた紫陽花は、そこだけ陰を取り除かれたような華やかさであった
「これがアジサイ!」
その子が両手で包むように紫陽花の花を持ったので、茱萸もまねして両手で持ってみる
茱萸の顔よりも大きそうな紫陽花は、よくよく見ると小さな花の集まりで、それが密集していることで大きな花に見せているのだと気づいた
―― 人のようだ
茱萸は茨と共に歩いてきた今までを思い返す
たくさんの人が集まって、束なって、大きくなっていく
高いところから眼下を見下ろした人の姿もこのように小さくて、たくさん集まっていた
茱萸は花が散らないように優しく紫陽花の花を撫でてみる
ザラザラとしているような、やわらかいような感覚が茱萸の手のひらを撫でて花から手を離す
茱萸が急にキョロキョロしだしたのに気がついたのか、その子も紫陽花から手を離して茱萸に声をかけた
「どうしたの?」
茱萸は少し口元をむずむずさせて、小さく身振り手振りで伝えようとする
その子は少しのあいだ口をつぐんでその様子を見ていたが、やがてパァと笑った
「アジサイはここにある色しか無いよ」
そう聞いて茱萸は少し残念そうに視線を下げた
黄色の紫陽花は無いかと探していたらしい
「どうして黄色なの?」
茱萸はかつて、茨に肩車をされて歩いていたときのことを思い出していた
その時茱萸が一番印象に残っていたのは高い所からの景色ではなく、目の前にあった茨の頭であった
砂場の砂のような、光のような色をしていたことを今でも覚えている
それがやけに暖かいものに思えて抱きついてみたら「前が見えない」と言われ挙句の果てに茨が転んで尻餅をついた
パサパサで少し軟らかかった茨の髪の感触にも少し似ている気がした
茱萸は仕方なく目の前の赤っぽい紫陽花を胸に抱えるように抱きしめてみる
耳元でカサカサと花が擦れる音と雨の音が聞こえる
湿っぽい雨の匂いが鼻について茱萸はパッと身を離した
茨の頭はもっとお日様のような温かい匂いがした
茨は背が高い。太陽に近いからだと茱萸は思っていた
黄色い紫陽花があったら、茨のようにお日様のにおいがするのだろうか。と茱萸が思案気に考え込んでいると不意に横から手が伸びてきた
その手のひらに渦巻きが乗っている
しかも少しずつ動いているものだから、茱萸はそっとその渦巻きを指の腹で押してみる
「マイマイさん!」
確認するように首をかしげた茱萸にその子は続ける
「マイマイさん!」
その子はキャッキャとカタツムリを手のひらに乗せて回っている
茱萸は未だ黄色い紫陽花に未練があるようで、紫陽花の花を再び見つめる
「君もマイマイさん?」
ふと真横から聞こえた声に茱萸は首を回すと、その子の顔が眼前にあった
相変わらずその子は微笑みを浮かべている
そしてもう一度白い歯を見せた
「君もマイマイさん?」
茱萸はそのこの手のひらに乗るカタツムリを見て首を横に振った
その子は少し唇を尖らせて「そっかぁ」と茱萸から顔を背けた
その子は手のひらのカタツムリの殻をつまんで持ち上げると、紫陽花の葉っぱの上に置いた
「見つかるといいね」
茱萸はその子の横顔を見て、カタツムリの渦巻きを目で追った
ゆっくり、ゆっくりとカタツムリは緑色の葉っぱの上を進んでいる
「黄色いアジサイ」
茱萸がその言葉に頷いた時だった
降りしきる雨の合間を縫うように届いたその音は、何かのメロディを奏でているようだ
かなり遠くから聞こえてくるようで、音が幾重にも重なって聞こえるせいで正確な音楽は聞き取れない
この地域の時報代わりに流れる音楽であることを茱萸は知らなかった
いつの間にか薄暗かった空は更に黒交じりに広がっているようだった
やがてその音楽も聞こえなくなった
雨音だけが残される
「時間……」
その子は遥か曇天の暗闇を見上げていた
今にでもその地上を覆い隠してしまいそうな黒がじわじわ迫ってくるのを恐れているように見えた
「ねぇ」
茱萸はその声に顔を向ける
「来なかったね」
その子は口元に笑みを浮かべながらも、どこか寂しそうな声色でそうつぶやくと茱萸の正面まで歩いてゆく
茱萸はその子が誰かを待っていたらしいことを思い出す
色々動き回ってしまったが、その子の待ち人はいったい誰だったのだろうか
茱萸がそんな事を考えていると、その子の手が再び茱萸の両手を握った
雨に打たれた手はやはり冷たく、茱萸の手も同じく冷たいであろう
その子の手は寒さのためか微かに震えていた
「こわい」
その子の手は誰かの熱を求めるように茱萸の手を握っていた手を、手のひらから手首へ、腕へとゆっくり這い上がってきた
茱萸はただ呆然と上がってくるその子の手の行方を目で追う
「かわり、に」
二の腕、肩、と茱萸のドレスの生地を撫でている
不意に遠方の空が白くひび割れた
茱萸がそれに気をとられたのは一瞬だが、その後にゴロゴロと空の腹が鳴って空気が微かに震えたのに、少し身震いがした
茱萸はその震えがやけに頭に響くと思った時、息苦しさを感じた
正面にはその子が居る
白い腕がまっすぐ茱萸に伸びていた
「くび、ちょうだい」



 今にもギリギリと音がしそうなほどに噛みしめられたその子の白い歯に、茱萸はただただ苦しそうだと思った
しかし茱萸も苦しい
茱萸が空気を口に取り込もうと唇を開いた
その時だ
ひとつ、瞬きをした
その子が、消えていた
さっきまでその子の顔しか見えなかった視界が一気に開けて、歩いてきた灰色の道と、紫陽花がボンボリのように淡く光って見える
そして
―― 頭
茱萸の首にかかっていた腕がだらりと落ちて、そのまま体ごと水溜りに沈む
二つになってしまったその子を、茱萸はただ見下ろしていた
「何やってんの?」
その声に茱萸は顔を上げる
しかしそれでは足りなくて、もっともっと顔を上げる
茨だった
閉じた白い傘を右手にサッと掃うと、そのまま傘をさした
「まったく……、まさか隣町まで行っているとはねぇ」
茨は長い体をゆっくりと折り曲げながら、足元に転がっていたあの子だったものをつまみ上げた
「たまたま出来たものか……」
そうつぶやくと、道横の用水路に投げ入れてしまった
なんとなくその軌道を目で追っていた茱萸の前に茨が立つ
「その様子じゃ、傘は無意味みたいだね」
茨はずぶ濡れの茱萸を一目見ると、持っていた黄色い傘をこれまたポイと投げ捨てる
投げ捨てられた傘は紫陽花の花壇のほうへ落ち、その衝撃で止め具が外れて傘が開いた
パッと開いた丸い鮮やかな黄色は、茱萸の目を釘付けにするには十分だった

―― 黄色い、紫陽花

「あ、やば。来た」
茨の零した声と複数の気配に、茱萸はすばやく思考を切り替えた
「今の一瞬でバレるとか……」などと茨は何ごとかつぶやいていたが、そんなボヤキはこの雨に打ち消されてしまっていた
「茱萸ぅ、何とかなりそ?」
茱萸は迷うまでもなく頷いて見せた
茨が茱萸から目を離したのを確認してから、茱萸はこっそり真上の空を仰ぎ見た
灰色の雲と真っ黒な闇がマーブルのように混ざり合っている
容赦なく振り続ける雨は茱萸の冷たい頬を叩き続けた
幾重もの雫が茱萸の頬を伝って流れ落ちていく
「さてと、戻るか」
茨が身の安全のためにこの場から走り去る
その後ろ姿を見送ったのちに、茱萸は今から雨粒ほど迫りくるであろう軍勢に備えて傍らにあった口をあけた赤い箱を地面から引き抜いた


※※※


「黒猫、ですか?」
 紅は懐紙の上に咲いた紫陽花の花を愛でるように眺めながら、言葉をなぞった
御簾(みす)の向こうでは、紅の物と同じ紫陽花をかたどった和菓子をさっさと一口で食べてしまったらしい人影がちょこんと座っている
出されたお茶も、もう飲みきってしまったのかそれ以上動かない
「そうですか。他には?」
「御座いませぬ」
水気で透明感のある美しい色合いのゼラチンが花びらに見立ててあり、それを菓子楊枝で割れば白い餡が覗く
紅はその様子にうっとりしながら、切り分けた欠片を口に運んだ
「庭に、紫陽花など植えてみましょうかね」
「……ご随意に」
人影は音も無く雨に濡れる庭へ目をやった
紅は少し口元に笑みを浮かべると残りの菓子を口に運び、茶をすすった
「今日はわざわざご足労頂きありがとうございました。また何かあればよろしくお願いします」
「御意」
どこか心を落ち着かせてくれる音に包まれるような感覚がそこにあった
紅は来客が中々腰を上げないことに、はて珍しいこともあるものだと首をかしげた
来客の性格上、成すべき事以上のことはしない性格だ
愛想がないといえばそれまでだが、それが来客の利点でもある
来客は日常的に相手に話題をふるという行為に慣れていないのだろう、先程からもぞもぞと座布団の上で体勢を整えるような仕草を繰り返している
流石にこれ以上放置するのも可哀想なので、紅から話を振ることにした
「……どうかなさいましたか?」
「あ、いえ。差し出がましいこととは存じますが、この頃の貴台は転楽(うただの)しげだと……」
「あぁ……」
紅は少し自分を嘲るように眉尻を下げて、笑みを深くする
御簾越しでも察せられてしまうほどに自分は浮かれていたのか、と
「えぇ、そうですね。楽しいですよ……。紫陽花の色変わりすら永遠に思えるほどに待ちわびて、ようやく邂逅を果せたもので……。今日もこの後いらっしゃるので、浮かれてしまって……」
「……」
「楽しいですよ……」
孤を描いた口元は美しい曲線を描いていて微笑みを表してした
御簾越しではその表情を読み取れないであろう来客は少し動きを止めたが、直ぐに頭を下げた
「……この上ないことです」
「えぇ」
「今宵はお招き頂きありがとう御座いました。おいとまさせて頂きます」
「はい。またいらしてくださいね」
来客が障子戸まで移動したところで、紅はふと暗んできた雨空を見て声をかけた
「傘は大丈夫ですか?」
「あ……、はい」
来客の妙な沈黙に、紅は少し首をかしげたが「それならば良かったです」と言葉を切った
しかし、言葉を繋いだのは意外にも来客のほうだった
「あの……」
「はい?」
「「ありがとうございました」と……」
紅の一瞬の戸惑いの間に、来客は再び頭を深く下げて出て行った
足音は直ぐに遠ざかり、あっという間に雨音に紛れた
紅は少し考え込んでいたが、案外直ぐに答えは出たようで笑みを隠すように手のひらで口元を覆う
くすくすと零す息とも声とも取れる音は、小雨と合奏するように旋律を奏でていた


※※※


 風が湿り気を帯びて冷たい
街灯がおぼろげに照らす並木道
それに沿うように等間隔に並んだシックなベンチがある
その頭上を青葉の傘がずらりと並び、街灯に照らし出された緑が闇夜から手を伸ばしているように見えた
通学路にもなっているこの道は、朝夕ならば学生で人通りも絶えぬ賑やかなところだが、日が沈めば沈黙の街道となる
青葉に紛れるように、一つの緑色のかさが開いていた
その下で香は何をするでもなく腰掛けていた
リュックを両腕で抱えるように回した手はすっかり冷え切ってしまっている
ふと、遠くで雨音とは違う雨垂れの音がした
水滴が落ちるような微かな音は、やがて水面を打つような音になる
それが足音だと理解するのに、香にはそこまで時間がかからなかった
それがどんどん近づいてくる
香はすっかり体温が移ったベンチから立ち上がり、リュックを担いだ
バシャ、バシャ――
パシャ、パシャ――
突如その場に現れたように、暗闇からぬっと出た人影に香は改めて向き直った
闇から声がかかる
「こんばんは」
その声を聞いて、香は短く息を吐いて微笑むと頭を下げた
「こんばんは、――」
急に二つの光が道の奥から眼光のように差し込んで、盛大にしぶきを巻き上げながら香たちの横をあっという間に走り抜けた
三つの影が、ぐんと足元を半周して直ぐに闇に混ざる
波が押し寄せるかのような水しぶきの音で掻き消された香の声は、確かにそう言った


「―― 蛇結さん」

花たちが咲うとき 五

※pixivではイラストつきで掲載しています。よろしければそちらもどうぞ※
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「pixiv」 http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7275216
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花たちが咲うとき 五

違(たが)え、迷ひ、見失う

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-12-03

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