淡い絵の具と画用紙の内側

この世界ではない、どこか遠くて近い世界でのお話。

640年前の終末

 私たちは歩いていた。
 もう日は落ちて空も街も暗く、冷たい冬風が吹き抜けていくような冬の夜。
 それは、いつもより少しだけ明るい。
「あれ、まだ明るいね」
 隣からのんびりとした声が聞こえた。
「いつまで光ってるんだろう」
 そう返し、東の空を見た。
 煌々と燃える星が、月と同じくらいの光を放っていた。
 名を、ベテルギウスという。
 地球と比べたらとてつもなく巨大な星だ。
「星が死ぬって、どんな感じかな」
「あんな感じじゃないの?」
 隣からの声に、そう返す。
 訊いては来るけど、こいつにとってはどうでもいいことなんだろうな、と思う。
「星って、生きてると思う?」
 逆に私が質問すると、「知らん」と返ってきた。まあ、別に答えを求めていたわけではないが。
 諦めて、またベテルギウスの方に目をやる。
「でも、いいよねー」
「……何が?」
 マフラーに顔をうずめながら訊く。
「死んだ時にはあんなに綺麗でさ、たくさんの人が見上げてくれるんだよ」
 まあ、たしかにそうだけど。
「それも、みんな眩しそうに目を細めてさ」
 それはいいことなのか、と思っていると、また次の言葉を喋りだす。
「人間が死んだってほんのちょっとの人たちの世界がちょこっと変わるだけじゃん。しかもみんな泣いてるし」
 ちょっと不満げな声で。
「死んだことを知ってくれるのもほんのちょっとの人だね」
 そう言うと、うん、と隣で頷く気配がした。
「でも私はそのほうがいいかな」
 ベテルギウスが瞬いて、私は目を細めた。
「んー、そうなの?」
「私はね」
 燃える星を、ぼんやりと眺めた。
  
 ベテルギウスは、どんなことを思いながら死んでゆくのだろう。
 超新星爆発で周りの星が消えてしまうことに罪悪感を覚えたりするのだろうか。
 長い長い、人間からしたらほぼ永久的な時を越えても尚、名残惜しいのだろうか。
 真っ暗な宇宙でひとりぼっちで浮かんでいることに、もう疲れてしまっているのだろうか。
 それとも、ベテルギウスは生きてなんかいなくて、そんな思考はないのだろうか。
 でも、星にも嬉しいとか悲しいとか、そんな感情があったらいいな。
「ベテルギウスも、やっぱり寂しかったのかな」
 そうつぶやくと、珍しくまともな返事が返ってくる。
「でも、最後の最後でたくさんの人に見送ってもらえて幸せなんじゃないの?」
「んー……死んだ時80億の蟻に見送られたら幸せ?」
 うーん、と唸ってから「何もないよりは幸せ」と言う。
 そっか、と笑った。
 私は、80億の蟻に見上げられるよりも、一人の友達の隣で死んだほうが、いいかな。叶うなら、だけど。
「ベテルギウスって、どれくらい離れてるんだっけ」
「ん、たしか640光年くらい?」
 唐突の質問に、私はそう答える。
「えっとじゃあ、640年前に死んだってこと?」
 そう、とうなずいた。
「んー、死んでから640年後に悲しまれても、嬉しくないかも」
「だろうね」
 ベテルギウスはとっくの昔に終末を迎えているのだ。
「じゃあ……死ぬ時もきっと、寂しかったんだろうな」
 ぽつりとこぼれた声が、冷たい闇に消えていく。
「次はたくさんの生き物に囲まれてるといいね」
 隣のぼんやりした声に、そうだねと頷いた。
 星は生きているかわからないけれど。
 生まれ変わるのかも、わからないけれど。
 もしもベテルギウスが生きていて、何かに生まれ変わるとしたら。
 今度は、私達と同じ人間に生まれてくるのもいいんじゃない。  
 愚かで、バカだけど。ひとは、暖かいよ。
 東の空の640年前の終末に、笑いかけた。

ヒトたちの世界にて

 世界の全ては、ヒトのものになった。
 それはいつからなのか。
 私には、わからない。
「あれ、綺麗なんかな」
 隣でつぶやく声が聞こえる。
 音は耳で、言葉は口で。
 それは、今でも変わっていない。
「……綺麗だよ。だって、綺麗に見えるように作られてるんだから」
 そう答えながら見上げる空は最早、空と言っていいのかもわからない。
「綺麗すぎるんかね」
「そうかもね」
 私達の空では、星屑があふれるほどにまたたいている。時折まばゆいほど大きな流れ星が横切り、世界を照らす。
 その空は、ヒトの手で作られた虚像だ。
 本当の『空』よりもずっと綺麗なのだと科学者は口を揃えて言い張っているけれど、本物の『空』を見たことがない私たちには確かめようがない。
「本物の空のほうが綺麗だったりしてー」
 隣から明るい声。彼女の名前は、なんと言ったか。……まだ、聞いていないような気もする。
 この世のものは、すべて番号で分類されている。それとは別にあるコードネームというものが、一般的には『名前』とされている。
 彼女とは、数時間前に出会ったばかりだ。ここで空を見上げていたら、急に声をかけられた。意外と、名前なんて知らなくても会話は成り立つものなのだな。
 そんなことを考えてから、口を開く。
「……私達もさ、結局ヒトに作られてるんだよね」
「ん……そりゃあそうだね。この世のもの全部、ヒトが作ってるんだからね」
 ヒトは世界を支配し、ヒト自身をも支配する。
 そんな言葉が、ふと浮かんだ。
「性格、容姿、思考から能力まで。何一つ魅力のない、つまらなくて生きる意味のない人間はいなくなっちゃったんかな」
 隣を見てみると、黄色の髪をした彼女は寂しそうに笑った。
 その後ろには高い高いビルや様々な建物が窮屈そうに並んでいる。
 ここは、とある街の小さなビルの屋上だ。
 こんなところで空を見上げるヒトなんていない。いや、そもそも空を見る人がいない。こんなに綺麗でも、結局は出来すぎた背景に過ぎないのだ。
「地球、滅亡しないかなぁ……」
「無理だよ。だって、あの空は、一応地球を守る防壁だから」
 そう答える。隣からは、「そうなんだけどさ~」と不満げな声が聞こえた。
「もう、疲れてきたかも」
「……そうだね」
 地球を守る、防壁。それの裏側に、あの星空は、映し出されている。仕組みなんて、わからないけれど。
「じゃあせめて、逃げない?」
 ……その提案は、ひどく魅力的に私の心に響いた。
 けれど、どこに逃げればいいというのだろう。
「逃げる? どこへ?」
「……どこか、遠いところ? ヒトの……いないところ? なんて、ないか」
 私は、思考を巡らせる。
 この空気すら、ヒトが調合したものだ。動物たちは、ヒトが遺伝子をいじくって、全部都合よくしてしまったらしい。森も同じだ。海も同じだ。
 ぜんぶ、そうだ。
「こんなにしちゃっていいんかね。地球は、命は、全部ヒトのものだったの?」
「……違うよ」
 そう言うことが、精一杯だった。
 私たちも、遺伝子をヒトの力によって整えたり混ぜたりして生まれた存在だ。
 『親』というものは、いない。……いや、生まれたからにはいるのだろうけれど、それは結局『ヒト』でしかない。
 では、私は果たして生きているといえるのだろうか。あの空を、空と呼べないのなら、きっと私は生きているなどとは言えないはずだ。
「……ねえ、考え過ぎも良くないって。変な話題、ごめんね」
 申し訳なさそうな声がした。私は、我に返って首を横に振る。
「ううん、大丈夫。……ただ、私は、生きてるのかなって思って」
 ほろりと、自然に言葉は溢れ出た。
 視線の先で、明るくて眩しい流れ星が滑る。
「……生きてるんかね」
 わからないね、と彼女は続けた。
 私は、長く細く息を吐く。
 つまらない模範解答を並べられたより、ずっと楽になれる答えだった。
 模範解答……そういえば。
「なんで、ヒトは完璧な……模範人間を、作らないんだろ。なんでこんな、世界に疑問を持っちゃうようなヒトを作ったんだろ……」
 遺伝子を操られ、計算の上に、生まれた私達。そんなのは、人工知能と同じだと思う。
 けれど、それならなぜ、私達を完璧な人間にしなかったのだろう?
「……てことはさ、私たちは、完全な作り物ってわけじゃ、ないんじゃない?」
 妙に軽い語り口調が、なんとなく響いた。
「多分さ……私たちは、生きてるんだと思う。だって、私、君のことが好きだし」
「え、何言ってるの、急に?」
 思わず隣を見ると、黄色な髪をゆらしながら、少女は笑う。
「どんな人を好きになるかとか、決まってたとしてもさ、運命がヒトの手で定められたとしてもさ」
 それを聞きながら、私は彼女から視線を外して空を見た。
 綺麗だった。
 数え切れないほどの星が、いつのまにかあふれる涙で滲み、揺れる。
「結局、それを選ぶのは私達で。私達には、心っていうものがある」
 少女は力強くそう言った。
 なんとなく、それは正しいように思えた。
「――そうだね、だって見て、私、泣いてる」
 隣に顔を向けたら、自然と笑みがこぼれて、笑った頬を涙が滑り落ちていった。
「心は、この心だけは、自分だけか作り上げたものだよ、多分ね」
 にじむ視界の向こう側で、少女の瞳もきらりときらめいたような気がした。
 結局は、不確かだ。
 心さえも、ヒトによって作られてしまったのかもしれない。運命も人も、結局は変えられないのかもしれない。それでも。
「自分の心が泣くなら、笑うなら、多分それは、生きてるって事なんじゃないんかね」
 星が流れる。
 夜景が瞬く。
 どこかで空気が作られて、どこかで動植物が生み出される。
 人工物にあふれた世界。
 ヒトから逃げられなくなった世界。
 不必要な人間なんていなくて、けれどロボットのような完璧な人間はいない。
「わたしは、そろそろ行こうかな」
 隣の少女は伸びをする。
「ん……どこにいくの?」
 残った雫を拭いながら尋ねると、彼女は立ち上がりながら答える。
「どっか、君みたいな人間がいるところに」
 彼女は、黄色い髪を揺らしながら、背を向けて歩き出す。
「え、あ、そうだ、名前教えて」
 本当は名残惜しかった。もっと話していたかった。でも、なんとなくまた逢えるような気が下から、それを抑えて、訊いた。
「エフ――」
 彼女は、一旦言葉を区切る。そして、私に背を向けたまま、再び口を開いた。
「……FH229、コードネームはエフ。」
「……FH? それって」
 私は思わず、立ち上がる。
 ……この世のものは、すべて番号で分類され、そしてコードネームという呼び名がいわゆる名前となる――。
「FHは……人工知能のコード……」
 私は、振り向く彼女をぼんやりと眺めた。
 そして、彼女は、笑う。
「笑ったり泣いたり、好きになったり」
 黄色の髪は、夜風に吹かれる。
「それができるなら、生きてるって言ってもいいのかね」
 気がつけば、舌足らずな私の口は開いていた。
「――いいんだよ……生きてる、生きてるよ……」
 暖かった。あの子は。彼女の言葉で、少しだけ……それでも確かに私は救われた。
 ヒトに作られたものだって、そうじゃないものだって、きっとみんな生きている。
 心が、あるのなら。
「……ありがとう」
 どちらともなく歩きだした私達は、その手を優しく握り合わせた。
 彼女の瞳は、まるで本当の瞳みたいに、強い意思を宿している。
 いや、その奥に意思があるのなら、それは本物の瞳なのかもしれなかった。
 瞬間、彼女の姿は少しのノイズを残して消滅した。
 手のひらには、確かなぬくもりが残っていて。
 ――FHというのは、ヒトに接触して心を癒やす人工知能だったはずだ。
 ひねくれ傷つき迷うヒトたちを、遺伝子の操作ではなく、確かなぬくもりで癒やそうというのなら。
 ……ヒトというのは、どうしようもなく馬鹿で、愚かなのだけれど。
 それでも、ほんの少しだけ、本当に少しだけだけれど、暖かいのかもしれない。
 私は小さく笑う。今頃、エフはまた別の人間のところにいるのだろう。
 私は、手のひらを握りしめる。
 僅かに明るくなっていく空。
 星が消えていき、空の色が青へと移り変わる。
 それには、確かな暖かさと不完全さがあって――。
 それを綺麗だと思う私の心は、やはり、生きているのだろう。
 生きていても、いいのだろう。
 
 それは、あの少女も、きっと同じはずだから。

ふたりぼっちと流れ星

「ねえ、見て。天の川」
 無機質な屋上に寝転んでぼんやりと夜空を見上げていたぼくの横で、そんな声が聞こえた。
「そうだね」
 なんとなく適当な返事をしながら、空の真ん中で煌めく星の川を見る。
「よく見えるね」
 君の静かな声には、ほんの少しだけ嬉しさが混じっていた。
「……あの天の川の何処かでさ、こっちを見てる生き物っているかな」
 答えを期待していたわけではないけれど、君は微笑を混じえながら答えてくれた。
「どうだろ。でも、もしそうならいいな」
 君は、続けて言う。
「その生き物たちが仲良しならもっといいんだけど」
「……うん、そうだね」
 なんとなく隣に目をやると、座り込んだ彼女の空を見上げる横顔が、星明かりに照らされていて。
 切なく寂しく見えたから、また空に目を向けた。……いや、君から目を逸らしたのだろう。
「――流れ星」
 そして、空をかけていく一筋の灯が見える。
 それは、流れ星なんかじゃ、ないのだけれど。
「流れ星はもっとずっと綺麗だよ。あんなのより」
 ぼくが言うと、君はぽつりと「そっか、そうだよね」と呟いた。
 あれは、流れ星なんかじゃなくて、すべてを壊す道具――ミサイルで。
「わたし、流れ星が見てみたいなぁ」
 君は、ずっと流れ星を見たがっている。
 ぼくだって見せてやりたい。あんな光を、ずっと見て育ってきた君に。
 でも二人で流れ星を見たことは、まだ一度もない。
「あ、また」
 再びいくつかのミサイルが空を飛び去っていく。その光が暗い夜の空を照らしてしまうのは、本当に、心から嫌だと思う。
「いつ終わるんだろう」
 無意識にそう呟いた。
「……いつか終わるよ。絶対。また、みんな仲良しになる日が来るんだよ」
 それは、そう信じているよりも、そうであってほしい、と願うような言い方だった。
 訊いたのが君の方だったなら、ぼくは多分、みんな死ぬまで終わらない、と答えていたのだろう。

 このほしでは今、大きな戦争がおきている。多分この星は
 それこそ途方もないほど馬鹿だと思うけど、何十年も、何百年も、とにかくぼくらが生まれるずっと前から続いている。
 大人はいつも正しくて、ぼくたちよりもずっと頭が良いはずなんじゃないのかな。それとも、この争いこそが、「正しい」ということなのだろうか。
 ずっと、ずっとそんなことを考えているけど、全然わからない。
 昔は大人になればわかるような気がしていたけど、今は、大人になっても何もわからないんだと、そう思っている。
「……わたしたちは、これからどうしたらいいんだろ」
 隣に目をやると、君もこちらを見ていたのだろう、目があった。
「分かんないな」
 何も、と付け加えると君は寂しげに微笑んだ。
「わたしも分からない」
 しばらく沈黙が続いた。
 ぼくらは、基本的に喋り続けることはしない。ぽつり、ぽつりと、時々思い出したように言葉を交わし、また黙り込む。 
 君が何を考えているのかは知らないし、君だってぼくが何を考えてるかなんて、知らないだろう。
 でも、ぼくには君しかいなくて。
 君には、ぼくしかいない。
 ぼくたちは、とっくの昔から二人ぼっちだった。
 
「……初めて会った時のこと、憶えてる?」
「うん、忘れてないよ」 
 憶えているではなく、忘れてない、と答えた意味は、憶えていることよりも忘れてしまうことのほうが難しい、という意味なのだろうか。
「あのとき会っていなかったら、本当に今生きていたかどうかわかんないや」
「それはまあ、ぼくも同じだよ」
 また、空を偽物の流れ星が流れていく。
 僕らが初めて会ったのも、今日のような星の見える日だった。ミサイルも、たくさん流れていた。

 あの頃、きみは街に、ぼくはここに、住んでいた。
 その日、僕はたまたま散歩か何かで近くの街に行ったのだ。夕方頃になって、帰ろうとしたら、丁度、これまでは平和だった街が戦争に巻き込まれた。つまり、襲撃を受けた。
 急いで帰ろうと走っていた時、足を怪我した君に出会ったのだ。
 割れたガラスの破片が深々と突き刺さった足で、幼い少女は必死にどこかへ向かおうとしていた。
 そんな君を、幼かった僕は助けようと思った。なぜだろう。他にも怪我をしている人はたくさんいたのに、僕は君を助けた。

 僕の家は、街の隣の山の中腹にあった。
 父が宇宙のことや、この星のことを研究している、研究所も兼ねた家だった。父が街に家を建てなかったおかげで、今もこうして生きていられるわけだ。
 君をおぶって、よたつきながら走った。背中の、いのちの重さを感じながら。
 君が泣きながらごめんなさい、と繰り返していたのを、今でもはっきりと覚えている。
 きっと、街には置いてきてしまった大切なひとがいたのだろう。
 見上げた空に、天の川を背景にしてミサイルが飛び交っていたことも、絶対に忘れることはないと思う。

 それからは、街も街の周囲も戦場と化して、君の帰る場所はどこにもなくなってしまって。
 絶えずミサイルの飛び交う日々が始まって。
 街に様子を見に行った父は二度と帰ってこなくて。
 二人ぼっちで生きていくしかなくなって____。
 
 研究所には、自動で野菜を育てる装置や、電気を発電したりする装置もあるから、それが壊れないうちはぼくらも生きていけた。
 はじめの頃はぼくも君もどうしたらいいか分からないで、ただ泣いたり震えていたりしていたような気がする。ぼくはその頃から、毎日宇宙を見上げるようになった。
 君は何度か街に帰ろうとしたみたいだけど、もうそこに街とよべるものはなかった。
 ぼくらの行く場所はもうどこにもなかった。だから、ここで生きていくしかなかった。

 太陽光から発電し、雨水をろ過した水を飲んで、育った野菜を食べて、ふたりぽつりぽつりと会話を交わして、星を見上げた。
 正確に数えたわけではないけれど、もう10年くらいそんな生活をしている。
 君も一緒に宇宙を見上げるようになったのは、確か5年前くらいからだったはずだ。  
 たまに晴れの日が少ない時期や、雨が全然ふらない時期があったりして、そんな時は困ったりもしたけど、基本的に不自由なく生きてこれた。
でも、生活に不自由がなくとも、孤独としか呼べない、いつ死んでもおかしくない日々は、本当に、本当にどうしようもない。
 それでも、これまで生きてきた。
 多分これからも、生きていけるのならば、ぼくらは決して死ぬという選択はしないだろう。
 二人しかいなくても、一人ではないから。
 同じ孤独を知っているひとが、となりにいるから。

「____やっぱりさ」
 君が、言った。
「戦争が終わる前に、みんな死んじゃうのかな」
 答えは決まっているような気がしたけど、ぼくは黙ったままでいた。けれど、代わりに君が、答えを言った。
「みんな仲良く、暮らせる日なんて」
 君の頬を伝う雫が、星の光か、ミサイルの光か、どちらかを反射させてきらめいた。
「きっと、こないんだよね」
 ぼくは、体を起こした。
 君をみつめながら、言葉を、選んでいく。
「そうかも、知れない。でも」
 君の瞳には星空が映っていた。
 宇宙は、ずっと、続いている。どこまでも。
「ぼくと君は、仲良く暮らしているんだよ」
 拍子抜けするような台詞だとは、思う。
 君が言ってるのはそういうことじゃないんだろうな、というのも、わかる。
 でも、言った。
「だから、いつか二人で探しに行こう」
 君の頬を止めどなく涙が伝う。 
「平和な星。みんな仲良しで、暮らしてる星」
 これが『どうしたらいいのか』の答え。
 君は、うん、うん、と頷いてくれた。
 本当は、平和な星なんかどこにもないんじゃないかと。そうも思った。
 でも君は、きっと信じているはずだから。
 宇宙の何処かに、平和があることを。
「____ありがとう」
 泣きながら君は、言った。
 ぼくは、控えめながら君を、抱きしめる。
 ありがとう。繰り返す君。
 ぼくの頬にも、いつしか涙が流れていた。
 ずっと昔、ぼくの背中で『ごめんなさい』を繰り返していた君は。
 長い孤独をこえて、今ぼくの腕の中で『ありがとう』と、言っていた。
 それでもまだ、終わったわけではないのだ。
 まだ、ぼくたちは生きていかなくてはいけない。孤独も、ずっと続いていく。
 でも、なんとかやっていけるような気がしていた。

 ぼくらはずっと、口にしてこそこなかったけれど、寂しかったんだと思う。
 二人きりで、争いばかりの世界に取り残されて。
「わたし、いま幸せだよ」
 君を抱いていたままだった腕を離し、顔を見合わせた。
「君に会えて、よかった」  
「ぼくも、そう思う」
 言った瞬間だった。
 あ。
 2つの、声が重なった。
 ____流れ星。
「あれ、いま」
 君が空とぼくを交互に見ながら言う。
 ぼくの、丁度真後ろだったようだ。 
 でも、ぼくにも見えた。
 空を見上げた、君の瞳に映っていたから。 
 まばゆく光る、流星が。
 それは、この世界でなによりも綺麗なものだったと、僕は思う。
「……あんなに、眩しくて、綺麗なんだね」
「そうだよ。やっと見せられた」
 並んで座りながら、また空を見上げる。
 ミサイルではない、本物の流れ星があるのなら、争いのない星も、あるんだろうか。
 いや、きっと、ある。
 
 まだこどものぼくらはそう信じて、朝が来るのを、ふたり並んで待っていた。

戦場の涙

 この国は、長い間隣国と戦っている。今はもう、単なる攻防戦になってしまった、そんな戦いが続いている。向こうはこの国を落とすまで諦める気はないようで、やがて崩れ始めた僕の国は攻めるのを諦め、完全な防衛戦に移行した。
 それもうまく行かなくて、僕がもっと小さかった頃この国は壊滅寸前だった。
 都市にまで辿り着いた敵兵が、逃げ惑う民間人を殺したり服従させたりした。
 敵軍の目的は王を殺しこの国の支配者となることらしかった。
 今はもう、その目論見は潰れようとしている。向こうの国が諦めるのはおそらく時間の問題だろう。
 なぜなら。
 僕の視線の先。
 遥か離れた丘の上。
 あの場所で戦うひとりの人間が、街に攻め込んだ敵兵を一人残らず倒してしまったから。
 僕は草原に突き立つ大きな岩の後ろに隠れたまま、少し顔を出して戦場の方に目をやった。
 先程よりは随分近くなった。戦いの様子が、見える。
 ひとつの閃光がひたすらに駆け回っている。その後に積み上がるのは倒れた人間だろうか。
 その人が国境で敵軍を迎撃し、仮にそれをすり抜けた敵兵がいたら街周辺の兵士が倒す。この守りに漏れはなかった。国は態勢を立て直しつつある。
 もう無駄だと敵国が悟れば、この戦いはすぐに終わる。

 なのに。
 終わらない。
 この攻防戦はずっと続いている。半年以上、あの人は、戦い続けている。
 だから僕は、ここに――。
「……っ!」
 思考の途中、思わず僕は声を上げる。
 舞うように立ち回っていた閃光が弾け飛んだ。
 飛ぶ。何十メートルも。僕の潜む岩の方に向かって。
 僕が顔を引っ込めて様子を窺っていると、かなり近いところで何かが落ちる音がした。それがしばらく転がって、そしてその次に音は素早く近づいてくる。
「……え……!?」
「あ……!」
 銃と剣を持ったその人は倒れるように岩の後ろに滑り込む。そして僕に気づいて、驚いたように声を上げた。
「な、な……」
「い、いや、敵じゃない……よ」
 そう言いながら、僕はその人の――彼女の姿を見て、どうしようもなく胸が痛くなった。
 傷。どこに目をやっても、体中を走る傷が見える。
 額から血が流れ、頬を涙のように濡らしていた。その頬にも弾が掠ったような傷がいくつもある。
 返り血か彼女の血か、所々赤く染まった肩までの髪は毛先がバラバラだった。
「……国の、人……どうしてここに? こんな場所に来ては……!」
 彼女はそこまで言って苦しそうに胸元を抑えた。激しく咳き込んで、目を閉じた。
「だ、大丈夫……?」
 僕の問いには答えずに、彼女は岩に寄りかかって浅い呼吸を繰り返した。
 まだ、幼いとも言えるのではないかという少女だ。その少女が、こんなに傷ついて、戦っている。
「……行かな、きゃ」
 不意に、彼女は言った。ふら、と岩に手をつき、剣を地面に突き立ててそれを支えに立ち上がった。
「そんな傷じゃ!」
 僕が思わずそう止めてしまうのは聞かずに、少女はこちらに目も向けず呟くように言った。
「あなたはもう帰った方がいい。何をしに来たか……知らないけれど」
 地面に視線を落とすその瞳は、冷たく暗く濡れていた。
「……待って――」
「……うるさい」
 僕の言葉を途中で遮った彼女は、瞳を向けて、睨んだ。
「私が戦わなきゃ誰が戦えるの! 私が守らなきゃ誰が守るの!?」
 僕は言葉に詰まる。何も言えなくなる。
 彼女は燃えるような光を宿す目を再び戦場に向けた。僕もとりあえず黙ったまま岩から顔をだす。敵軍も一旦退軍したようだ。姿は見えない。
 彼女はそれを確認するとどさりと倒れるように座り込んだ。
「行かなきゃ、だめなのに」
「…………」
 僕は黙ったまま、彼女の方に目をやった。
 小刻みに震えている。まだ新しい傷からあふれる鮮血がある。そして。
 泣いている。
「……あなたは、なんでこんなところに来たの」
 ぽつりと、ただ訊いた。
「……会いに来た」
 ただ、答える。
「誰に」
「君に」
「なんで」
「それは」
 淡々と交わした会話は、僕の方で途切れた。
「……なんでだろうね」
 本当にわからなかった。
 たくさんあるような気もするし、一つもないような気もする。
「……帰らないの?」
 ふと、少しだけ感情の混じったような言葉が聞こえた。僕は足元の草を眺めながら、「うん」と口にした。
「……死にたいのね」
「そうかもしれないね」
 はは、と僕は笑った。
 彼女は笑わなかった。
「そろそろ、行かなきゃ」
「だって、さっき撤退したんじゃ……」
 そう思いながら、丘の方を見る。
「別の、部隊か……あ」
 彼女は、僕が止める間もなく岩から飛び出した。
 そして、あたりには岩が砕けたようなあとが沢山あるのに気がつく。
 ……相手は爆弾のようなものを用いているのかもしれない。それならさっき彼女が飛んできたのもその爆風……?
 なら、彼女がすぐに飛び出していってしまったのも、この岩が撃たれないようにするためなのか?
 僕は彼女の後ろ姿を見た。
 走っていた。さっきはあんなに苦しそうだったのに。誰よりも速く、強く、国民全ての命を背負うかのように。
 その姿を焼き付けながら、僕は自分自身に訊いた。
 ここに、何をしに来たのか。

 7年ほど前だろうか。
 僕がまだ幼かった頃だ。その頃僕が住んでいた国の都市は、戦火に包まれていた。
 敵軍が攻め込み、みんな殺されていった。人なんかじゃないみたいに。
 友達が生きているかどうかすらわからない。親は僕を守って撃たれて死んだ。
 僕はそんな中、燃える街の中一人取り残されてしまった。
 どうしようもなかった。なにもかもなくなったと思った。もう自分は死ぬんだと思った。
 でもそこに、少女は現れた。
 真っ赤な火の海、どこから飛んだのか僕の目の前に降り立って、その手を伸ばした。
 長い綺麗な黒髪の少女は僕の手をひいて、火の海を駆けた。
 その時、少女は言ったのだ。
 守るから、と。ただそれだけを何度も何度も言い聞かせるように、繰り返した。
 やがて火の外に出た僕の背中を押して、少女はまた何処か火の海へ沈んで行った。誰かを救うために。誰かを守るために。
 その少女は今、戦っている。
 今、目の前で。
 そう、僕がこの場所に何をしに来たのかなんて、本当はもうとっくに分かっている。
 丘の上で少女は舞っていた。
 隙なく剣を突き刺し、その一方で銃を操る。敵から浴びる銃弾の雨を避けながら。空中や地面で爆発する爆弾をかわしながら。
 でも彼女は泣いている。
 涙が流れ落ち続けるのが、なぜか、ずっと遠くにいるのに見えた。
 長い間戦って、そして彼女はようやくここまで来た。
 たった一人で。
 僕は立ち上がった。
 腰に下がる金属に触れる。冷えた、鉄の塊。それを抜き放つと、金属同士の触れる耳障りな音が、あたりに響き渡った。
 反対の腰に下がる、銃を抜く。
 右手に剣を。左手に銃を、あの少女と同じように。
 そして、岩から一歩飛び出した。
 少女の華奢な体が、再び宙を舞っている。
 僕の近くに落ちて地面にぶつかって、彼女は小さく震えた。
「もう……いやだ……」
 声が聞こえた。
 この国を守り続けた、小さな少女の声が。その声がそよ風に掻き消される前に、僕は言葉を口にした。
「……さっきの質問の答えさ」
 彼女は僅かに顔を上げる。
「君が戦えないなら僕が戦う。君が守れないなら僕が守るから」
「……え?」
「あと」
 僕はゆっくり歩き出しながら続ける。
「もう一つ。僕はここに、君を守りに来たんだ」
「……どうして……」
 ぽろぽろと涙をこぼし続ける少女の方を見て、僕は少しだけ笑った。
「今までごめん。もう大丈夫だから」
 地面を蹴った。
 彼女と出会ってから、彼女に救われてから、僕はずっと戦い続けた。
 人々を守る人間は誰に守ってもらえばいいんだろう、そう考えたら、悲しくて仕方がなかった。
 守るために、僕は戦う。
 四散する爆弾。飛び交う銃弾。滑る切っ先。そこに繰り広げられるのはただひたすらな戦い。
 走り、斬って、撃つ。
 勝てないかもしれない。僕は弱い。でも守りたい。守るには、倒すしかないんだ。
 彼女の涙の意味を深く理解できた。本当は殺したくない。本当は逃げたい。 振り下ろす剣の切っ先の数だけ、罪を焼き付ける感覚が離れない。 でも、戦わなければ、自分も死んで、多くの人々は死ぬ。
 熱を纏う弾が全身を掠る。爆風で飛んだ石が当たる。避けきれない剣先が、皮膚を切り裂いていく。
 それでも戦えた。守りたいから。
 やがて、もう一つ足音が並ぶ。
「……私だって戦える! あなたを守れるから!」
 まだ濡れた瞳は凛と前を見据えていた。そして彼女はその目をちらりとこちらに向けて、小さく、小さく笑った。
「……ありがとう」
 そして僕らは剣を振りかざし、銃を向け続けた。剣が錆びるまで、弾が切れるまで。
 少女を突き刺そうとしていた剣を弾きながら、僕は口を開く。
「これが全部終わったら、どこか遠くに行こう」
「……うん」
 僕とは比べ物にならない、桁違いの「強さ」の才能を持った少女は、自身を犠牲にしながら国を守った。罪と苦しみを背負った。
 彼女は今も泣いている。でもきっと、敵軍の兵士達だって、泣いている。どちらも視線の先に描いているのは「平和」のはずなのに。
 なのに戦う。
 平和のために。
 守るために。
 愚かだと嘲笑う人もいるのかもしれない。でも僕らは武器を取ることしかできない。それでしか、守ることができない。
 だから願った。ひたすらに。
「……早く、終わって」
 でも彼女はもう一人じゃない。僕がいる。僕が絶対に彼女を守る。
「守るから」
 彼女は涙を空に散らしながら振り向いた。
「絶対に、守る」
 うなずいた。何度も、何度も。
 そしてまた兵士に向き直る。
 こんな戦いは――終わらせる。二度と起きぬよう。
 地面を、2つの足音が蹴った。

真夏のヒュプノス

 祈るように。
 からりと扉を開けると、そこに彼女はいた。
 街のはずれの小さな図書館。
 涼しく冷たい空気が室内から流れ込んできて、そして机に向かっている彼女は僕の方を見ると少し笑ってから、困ったように口を開いた。
「ちょっと、久しぶり……今日も暑いね」
「うん、暑かったよ」
 僕はそう返しながら扉を閉めて、図書館の中にある机のほうに歩いた。
「もうすぐ夏休みも終わりか」
「……そうだね」
 なにかノートを広げている彼女――白音の斜め向かい側の椅子を引いて、座った。
 しばし、ぼんやりと息をつく。
 すこしだけ気まずいような、戸惑っているみたいな、そんな空気が流れた。
「……でも、ほんと暑いよね。暑いのがなければ夏って最高なのになあ」
「そうか?」
 白音は、そうだよと頷いてから、ああ、でもと付け足した。
「暑くても、夏はすきだよ」
 そっか、と僕は笑って、でも上手く笑えたかどうかはわからない。
「うん、えーと……なに話す?」
 白音は、少し不安げにそう笑った。
「……うん、別に、なんでも」
 なんと答えたらいいのかよくわからなくて、僕はそんな風に曖昧に答えた。
 白音は視線を落として、シャーペンの芯をカチカチと出す。
「なんでも、か」
「……うん」
 カチ、カチ、カチ。
「何か、訊きたいことは?」
「訊きたいこと……」
「うん」
 僕は少し考える。訊きたいことはたくさんあるような気もするけど、そのどれも言葉にするのはためらわれた。
 なにも言えなくて白音の方を見ると、彼女は漆黒の瞳を細めた。
「……眠いなぁ」
 寂しそうに。
 悔しそうに。
 白音はそう呟いて、力なく笑ってうつむいた。
「……やっぱり、今日が最後かもしれない」
 白音のシャーペンが、ノートにぐるぐると円を描く。
「……そっか」
 なにか言わなきゃ、と頭を巡らせた。
「大丈夫だよ。……ほら、僕が助けてあげるから」
 白音が、顔を上げて、ふっとおかしそうに笑った。少し、身体がふらつく。
「嘘だぁ。だって、君そんなに頭よくないじゃん」
「うるさいな」
 なんだか、おかしくて、笑えた。
「うん、そうだよね。別に最後だからって、普通でいいよね」
「そうだね、あんまり真面目なのは似合わないから」
 白音は、あはは、と楽しそうに笑ったあと、そっと息をついた。
「……えっとね、前会ったのって多分三日くらい前なのかな」
「そうだね」
 さきほど漂っていた気まずいような雰囲気はいくらか消えていて、僕らはなるべくいつものように会話を進める。
「前にも話したけど、これ、三日っていう数字が出ちゃうと、もうだめってことなんだ」
「……うん」
 ――彼女、白音は。
 次に眠ったら、きっと恐らく目を覚まさない。
 今日までの三日間、白音はずっと眠っていたのだろう。
「変な病気だよね。原因も治療法もわかんない。ほんと、迷惑だなぁ」
「そうだね。迷惑だ」
 睡眠にのまれていく病。
 睡眠時間は日々比例してふえるというわけではなく、経過日数と睡眠時間を折れ線グラフに表したなら、階段のような形のグラフが出来上がるだろう。
 そしてそのグラフは、不思議なことに三日間を経たあと、次の数値は不明<無限>となる。
 その永遠の眠りは、安直に「ヒュプノス」と呼ばれていた。
「……もう、暑いの嫌だって言えなくなっちゃうなぁ」
 なにを言ったらいいのかわからない。
 でも僕は、白音の前で悲しい顔を見せることはできない。
「……僕が、白音の分まで一日百回暑いって言ってあげるよ」
「えぇ、ほんとに」
 じゃあ安心だ、と白音は笑った。
 蝉の声が聞こえた。
 この図書館には、誰一人いない。
 すぐ近くに大きな図書館もあるし、そもそもここは公民館に入っているただ小さな図書室だ。僕と、白音の二人だけの。
「ああ、でも――」
 白音の漆黒の瞳が、時々永遠の闇を映しそうになるのがわかる。
 今彼女の目に、この世界はどれだけ不明瞭に見えているのだろう。意識は、どれだけはっきりと僕を、この夏を、認識しているだろう。
「君と会えなくなるの、やだなぁ……」
 くらくらと、彼女の瞳が揺れる。
 もう、隠しきれない白音の悲しみと寂しさが、こぼれ落ちてくるのが見えた。
「あぁ、ごめんね、駄目だ、やっぱり、ちょっと怖いな……」
 ぽろぽろ。
 未だ握られていたシャーペンが机に落ち、一人の少女は自身を呑み込もうとする闇を振り払おうと頭を左右に振る。
「嫌だなぁ……」
 僕はどうしようもなくて、できることなんてひとつしかなくて、立ち上がって白音の隣まで歩いた。
「……大丈夫だよ。僕が、助ける……」
 白音はふら、と立ち上がり、僕の方にもたれた。
「……嬉しいなぁ」
 この奇っ怪な病を治す術はない。だから、その永遠の眠りに落ちる瞬間まで、病院にいる必要はない。
 白音には話していないけれど、病院からも、白音の家族からも、しっかりそばにいて、ヒュプノスに陥ったら連絡するように言われている。
 僕は、どうしたら白音をせめて幸せに送り出せるだろう。
 そもそも、最後に彼女といるべきだったのは本当に僕だったのだろうか。両親ではなかったのか。その尊く貴重であるはずの時間を、僕はどうしたら無駄にせずいられる?
「……暑いって、夏、暑いってほんとに私の分も言ってよ」
「言うよ、何倍も言うよ。寒いのだって……嬉しいのも、悲しいのもぜんぶ」
 白音は、涙に濡れた瞳で僕を見上げる。
 どうすればいいのかわからなかった。
 どうすれば彼女を幸せに送り出せるか、なんて。
 助けることができなくて、今、助けることを諦めてしまっている自分が、憎くて、憎くて、仕方なかった。
「……夢が」
「……?」
 僕が呟いた時、白音の身体から力が一瞬抜けて、僕たちはそのまま床に座り込んだ。
「幸せな、夢が見られるから、きっと、怖くないよ」
「しあわせな、ゆめ……」
 白音は虚ろに揺れる瞳を瞬かせながら、そう呟き、はっと一瞬目を覚ましたように頭を振った。
「ああ、もう少し大丈夫だと思ったのにな……。眠たいよ……」
 悔しそうに、少女は手のひらを握りしめる。
 もう、これで眠ったら二度と目を覚ませないと知ったら。
 それはどれだけ怖いだろうか。どんなに、不安だろうか……。
「幸せな、夢か」
「……僕も、毎日会いにいくよ、毎日」
 白音は小さく笑った。
「そんな、毎日じゃなくてもいいよ……」
「会いにいくよ、ずっと――」
 ずっと、
 好きだよ。
 ――眠らないで。
 それでも、白音は形ない闇に、内側へと引きずられていく。
 僕は涙を流さない。
「……好きじゃなくてもいいよ。だって、私は、もう」
 ああ、それでも、と白音は続けた。
「もし、それでも好きでいてくれるなら、すごく嬉しいんだ……」
 蝉の声も、夏の温度も、白音と過ごしたこの部屋の香りも。
 すべてが意識の外に消える。
「……夢の中でなら、ずっと一緒にいられるかな」
「いられるよ」
「ほんとかな」
「……絶対」
 白音は、幸せそうに笑った。
 僕は、白音を抱きしめた。
 それはまだ暖かくて、これからはもう話せないなんて全然思えなくて、その儚い存在が悲しくて、寂しくて、なによりも愛しかった。
「一緒にいてくれてありがとう……」
 もう表情は見えない。白音からは甘い夢のような香りがした。
「……泣いても、よかったのに」
 白音がそんなことを呟いて。
 ああ、かなわないなあ、と、ふとそんなことを思った。
「……また、逢えるよ」
「うん……」
 白音の身体から徐々に力が抜ける。
 いかないで。
「私、幸せだ……」
 あぁ、
 白音。
「ありがとう……」
 ――すきだよ。
 声が聞こえて。
 白音は、ヒュプノスに、眠りの神に連れていかれる。
 僕は、ただ頬を伝う涙を無視して、震える手で病院に電話をかけた。
 案外声は落ち着いたままで、僕は簡潔に白音がヒュプノスに陥ったことを伝える。
 携帯を取り落とすように地面において、もう一度白音を抱きしめる。
『――ねえ、ヒュプノスのときが来たら、私、眠り姫みたいに、キスで目が覚めるかな』
『――じゃあ、約束しよう』
 僕は、そっと腕を動かして、白音の顔を覗き込んだ。
 ただ眠っている。
 幸せそうに、心地よさそうに。
 僕は、一瞬だけ唇を重ねた。
 夢のように甘く感じたそれは、錯覚だったんだろうか。
 白音は目を覚まさない。
 どんなに願っても、もうその瞳と視線を合わせることはできない。
「……白音――……」
 あぁ、白音。
 僕が最後に泣いてしまったら、悲しんでしまったら、君の夢の中の僕はずっとそのままだろう。
 いかないで、ねむらないで。そんな風に縋られる夢に白音を閉じ込めたくはなかった。
 それしか、僕にできることは見つからなかったよ。
 ごめんね、白音――。
 ――カタン。
 音が聞こえた。
 瞬間、蝉の声も、部屋の温度も、感覚が戻ってくる。
 音のした方にふと目をやると、そこにはシャーペンが落ちていた。
 ああ、机から……そういえば、白音はさっきまで、なにを書いていたんだろうか。
 僕は、左手で白音を抱きしめたまま、右手を伸ばす。
 指先が紙の冷たい温度に触れた。
 ――。
 ぱらり。
 少しふらついた、白音の文字。
『私は多分お姫様じゃないから、目がさめることはないかな』
『でも、君は王子様みたいで、優しくて……』
『もしも生まれ変われるんなら、眠り姫がいいなあ……。君は、王子様で、わたしを助けに来てくれるんだ』
『そうしたら、今度はずっと一緒に暮らせるのにね』
 その隣に、ぐるぐると、黒い線の塊。
 涙の落ちたようなあとを、隠すように。
「あ……」
 白音。
 涙が落ちる。
 白音はきっと世界で一番愛しいお姫様だ。
 王子様は僕じゃなくてもいい。誰でもいい。誰でもいいから、白音を救い出してくれ。
 そう思わずにはいられなかった。
 
 ――夏が終わる。
 僕は、白音がヒュプノスから開放されるその日まで。
 白音のぶんも、一緒に。
「……暑いなぁ」
 そう呟いた時、きっとまた逢えると、なぜかそんな気がしたのは、どうしてだろう。

淡い絵の具と画用紙の内側

淡い絵の具と画用紙の内側

淡い空想の描かれた画用紙の内側。 目の前にあるようで、どこか遠い世界のお話を。 原稿用紙十枚以内の拳編集です。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-27

Copyrighted
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  1. 640年前の終末
  2. ヒトたちの世界にて
  3. ふたりぼっちと流れ星
  4. 戦場の涙
  5. 真夏のヒュプノス