ありふれた世界のはなし

この広い世界の、ありふれた小さな物語。
一話完結の拳編集となっています。

ツタと計算ミス

 初夏の六時間目。
 教科は数学だが、暑いし、やる気がでない。窓際だから、日差しが当たる。
 日本、どうでもいいから早く全国の学校にクーラーをつけてくれ。
 心の中でそう呟くと、隣の席の女子が突如声をかけてきた。
「佐藤くん、佐藤くん」
 なぜ二回言った。
 とりあえずそちらの方を向く。
「ここが分からないのです。教えてください」
 黒髪のおかっぱ。
 まあ、顔は可愛い方なのだけれど、しゃべり方と言い、いろいろ変なところがある、ちょっと変わった女子だった。例えば、担任とやたら仲が良いとか。
 そして彼女は、自分のノートに途中まで書かれた方程式を指差していた。
「……めんどくさい」
 言っておくが、別にいつもいつもこうやって断るわけではないし今は暑くてだるくてしょうがないから断っているのであって別に俺が冷たい人物ということを象徴しているわけではないから誤解しないでほしい。
 というかあからさまに悲しげな顔をするのをやめろ。
「そうですよね。ごめんなさい」
 窓の方に目をやると、太陽に照らされた校庭が見える。
 窓の内側にある低い棚には、ツタのような観葉植物の茂る植木鉢があった。
「それ、惜しいけどね」
 言ってみる。
「計算ミス」

 やっと帰れる、と学校の下駄箱に辿り着いたところで、忘れ物をしたことに気がついた。
「ごめん、ちょっと忘れ物した」
「まじかーじゃあ先帰るわ」
「僕も帰りますっす」
 薄情すぎる。
 まあいいか、と来た道を戻る。
 忘れたのは、学校の図書館で借りた『蔦のススメ』とか言う本だ。題名はふざけているが案外面白かったので、家で読もうと思ったのを忘れていた。
 そんなことを考えながら、廊下を歩く。
 早く帰りたい。
 階段を登り、少し歩いて、教室についた。
 だが、ドアが開かなかった。
 なぜだろう。開かない。
「開けよ!!」
 キレて思いっきり引いたら、いきなり何かか外れたようになって、すごい勢いで開いてしまった。
 プラスチックのドアと金属の桟がぶつかり、乾いた爆音が鳴った。
 だが次の瞬間、俺は教室の中を見て唖然とした。
 ツタ。緑のツタが、床を、壁を、机を、椅子を、とにかく教室中を覆い尽くしていた。
 あれだ、よく家の外壁にまとわりついてる、ツタ。
 そしてその真ん中で鎌を振り回しながらこちらに目を向ける少女。
「え、まじか」
 俺の声に、彼女は動きを止める。そして焦った表情を浮かべた。
「な、なんで開いちゃってるんですか?いやいや、なんで開けちゃうんですか?!」
 隣の席のあの子……に間違いない。一応いうと、名前は、鈴(すず)。
 これは……。
 どういう状況だ。
「いや、忘れ物があって」
 内心クエスチョンマークを浮かべながら、俺はロッカーの方を見る。
「な、なるほど。では少々お待ちください」
 そう言いながら、鈴はツタを踏みつつロッカーの方に向かい始めた。ロッカーにまとわりつくツタを刈ってくれるらしい。
「おい! とりあえず説明しよう!?」
 まずなんなんだよこのツタは!
「あ、そうですか。あの、では、秘密厳守で。ささ、入ってください」
 進路変更してこちらに向かってくる鎌を持った少女。
 ホラー。
 とりあえず教室に入ろうとして、ツタのない部分を探したのだが、結局なかったので踏んだ。
 鈴は俺の後ろでドアを閉めると、ポケットからガムテープを出してドアに貼った。
「棒立てかけたほうが開きにくいと思うけど」
 呆れながら言うと、「棒がないので」とあっさり返された。
 よく見てみると、カーテンも閉めてあるし、そのせいで暗いのか電気もついている。そしてツタ。
 ドアを封印し終えたらしい鈴が、先生の机の方に歩いていく。
 なにをするのかと見守っていると、先生の机の引き出しを開けて、中から何かを取り出した。
 鎌だった。
「どうせなら、手伝ってください」
 鈴は、不敵げな笑みを浮かべた。
「え、うん、まあいいけど」
 いや早く帰りたいけど。
 ていうか先生引き出しに鎌入れてるのか。
 そう思いながら鞄をツタの上に下ろした。
 彼女はロッカーの方に向かいながら、「本体は傷つけないで下さいね」と言った。
 本体、あぁ、あれか。
 窓際の棚に置かれる植木鉢。そこから、教室中に伸びたツタ。
「すごくからまってるので、少しずつ切ってからじゃないと取れないんですよ」
 俺もロッカーの方に向かい、鎌でツタを切っていく。切れたツタも、幾重にも絡まっているせいか落ちてこない。
「で、これはどういうことなんだ」
「あの観葉植物、実は不定期に急成長するようで。大体下校時刻から5分以内であることが多いので、いつも私は教室に5分残るのです」
 はあ。全くわからない。
「で、なんでお前が刈ってる?」
 鈴は、ええとですね……と、語り始める。

 わたしは帰宅部なのですが、ある日、帰ろうとしたら忘れ物に気づき、教室に戻りました。そうしたら、ツタが茂っていたのです。
 だからわたしは先生のところに行きました。
「先生、ツタ生えてますよ」
「うん、刈ろう」

「……以上です」
 はあ。
 思ったより短いな。
 ていうかツッコミどころ多すぎてもう逆に困る。
 5分以内にここまで伸びるツタとか、もはや新種だろ。
「えっと……てかなんで隠蔽してるんだよ」
「先生にそうしろと言われたからです。ツタの茂っている教室は教育に悪いそうで」
 教育に悪いって。
 ただ単にみんなが驚くからじゃないのか。
 刈っている部分のツタが減ってきた。もう面倒になって手でちぎってはがす。
「今まで、ひとりでこれ全部刈ってきたのか?」
 少し間が空いて、声が返ってくる。
「まぁ、そうですね。確か春頃から、何回か。あ、でも、先生も手伝ってくれて、おかげで先生と仲良くなりました」
 そういうことか。先生とやたら仲が良いと思ったら。
 そういえばこの間休み時間に二人で蔦の話してた気がする。ツタの成長をとめるにはどうしたらいい、みたいな。

 天井に触れそうなほどのツタ。振り向いてみると、机や椅子もツタ仕様になっている。
 俺の机ももちろんそうだ。
 たまに他愛のない会話を交わしながら、俺らはツタを刈り続けた。

「とりあえず、ロッカーはきれいになりました」
 なんかすでに疲れた。
 ロッカーのツタはすでにゴミ袋に詰められている。
 ここまでで10分くらいだろうか。
 結局ツタは繋がっているので、うまくやれば短い時間で刈ることができるようだった。
「佐藤くん、ここからは私がやるので、いいですよ」
 そう言って、鈴は俺のロッカーを指差した。本がある。
「いや……まあ、手伝うよ」
 俺の言葉に鈴は驚いたようだったが、俺もびっくりだ。
 ……うん、俺は早く帰りたいんだよな。
 鈴の方を見てみると、にこりと笑顔を浮かべる。
「二人だと、すぐに終わるのですね」
 うん、案外かわ……いや、刈ろう。
 ていうか、これって、物理的に密室だよな。同級生と、二人きりで。
 だがそのシチュエーションをぶち壊すのは緑色のツタ。
 ロマンチックな空間も、滑稽なコメディに変えてしまうツタよ。
 まあ、いっか、と思いながら机と椅子のツタに取り掛かる。
「____そういえばさ、本体の撤去は考えないのか?」
 俺が言うと、暫し教室内にはツタの千切れる音だけが響いた。
「もうそろそろ、流石に教室の中に置くのはやめようと、先生とも話していました。でも」
 ツタは、へばりついている。
「誰かと一緒にツタを刈ると、仲良しになれます」
 言われて、俺は顔を上げた。
「それに、このツタも、れっきとしたクラスメイトですから」
 彼女は、どこか楽しそうだった。
 そうか、と笑ってうなずいて、俺も思考する。
 ツタは、複雑に絡みつき、図々しくも葉を伸ばし、健気に生きている。
 それは、俺達も、一緒なのだろう。
「____あ、そういえば、佐藤くん、忘れ物って蔦のススメという本ですよね?」
 唐突に現実に引き戻された。
「あ、うん。まあ」
 ロッカーの中を見たのだろうな、と思いながら相槌を打つ。
「あの本実は、私がツタを初めて見た時、教室に忘れた本なんです」
 え、まじか。
「そのせいで、こうしてツタを刈るはめになったのか」
「佐藤くんもです」
 そして照れくさそうに笑った。
「よかったら、また次も一緒に刈りませんか?」
 まあ、俺も帰宅部だ。
 理由は、早く帰りたいから。
 寝たいだけだけど、それに例外はないつもりだ。
 でも、これのためだったら、少しくらい家に帰る時間が遅れてもいいか。
 なんとなく、そう思った。楽しいわけでもないのだけれど。
「そうだね、また刈ろうか」
 そう答えておいた。
「あはは、佐藤くんも、蔦のススメのせいでツタ刈り係の一員になりました」
「厄介な仕事が増えたな」
 冗談めかしていうと、彼女は切れ落ちたツタを抱えながらいたずらっぽく笑った。
「じゃあ私も佐藤くんも、蔦のススメを借りたこと____計算ミスでしたね」
 ……計算ミス。謎の題名に惹かれて借りてみれば、面倒な仕事が増えたわけだから、確かにそうだな。
「でもまぁ、こんな計算ミスは悪くないな」
「ふふ、そうですね」
 そしてまた、俺は隣の彼女と、ツタを刈る。
 『蔦のススメ』に導かれて、誰かが計算ミスをするのを待ちながら。

スノードロップ

 薄暗い部屋で、キーボードを打つ音と、クーラーの稼働音が涼やかに響いている。
 閉められたカーテンの隙間から、明るい外の光が見えた。
「めんどくさいなぁ」
 ここは、中学校のパソコン室。
「でも、涼しいからいいよね」
 隣にいるゆきえちゃんにそう返された。
「廊下出たら暑そう……」
 廊下の方を振り返る。電気もついていないので、ドアの透明部分からあふれる光が眩しい。西日が入ってきているのだろう。
「花言葉、か」
 私たちは二人共緑化委員会で、今度掲示版に貼る『花言葉特集』のために花言葉を調べている。
「花言葉特集なんかやらなくていいのに。仕事が増える」
 私が言うと、そうだねー、と爽やかなゆきえちゃんが、調べたらしい花言葉をノートに書き込んだ。
「なになに……すずらん、幸福が帰る……そうなんだー」
「ていうか、仕事しようよ」
 はーい、と言いながら、自分が起動させているパソコンの画面を眺める。
 花の名前がズラーッと五十音に並んでいるサイトだ。
 適当にクリックしたら、『エリカ』という花のページに飛んだ。
 花言葉は、孤独、寂しさ、裏切り。
 うわ、なんだこれ、と思うと同時に、一人の少女が脳裏をよぎった。
 その花言葉はノートに書き込まずに、また先程のページに戻りながら、なんとなくゆきえちゃんに話しかける。
「江川さんのこと、どう思う?」
 少し間が空いてから、「うちのクラスの?」と訊き返された。
 そう、とうなずくと、手は動かしたままゆきえちゃんは寂しそうに笑った。
「私は嫌いじゃないけどな」
「……そうだよね」
 江川さんは____私たちのクラスで、いじめられている。
 勉強が壊滅的にできなくて、運動もダメで、歌も下手。
 どこか抜けているところがあって、普通に見たらめちゃくちゃ変わっている。
「いつも、笑ってるよね」
「うん、なんでだろーね」
 廊下を、誰かが笑いながら走り抜けていく音と声がした。
「江川さん、この前男子に転ばされてたなぁ」
「え、それはひどい」
「だよねー、ひどいよね」
 ゆきえちゃんは、そう言いながらまたノートに何か書き込んだ。
 江川さんは、真面目だ。
 音楽集会の時なんかは、みんなそんなに声を出さないのに、江川さんだけすごく大きな声で歌っていた。
 それも下手くそだから、他学年にも笑われていた。
「でもさ、あれ、全部演技だったりして」
 ゆきえちゃんが突然そう言った。
「あ、ホントはめっちゃ歌うまいとか?」
 そう、と笑いながら、ゆきえちゃんは続ける。
「頭もすっごいよくてさ、本気出せばテスト450点くらい取れたり」
 実際の彼女の点数は、五教科合計が百点に達していないのは明らかなのだけれど。
「足がめっちゃ早くて、五十メートル走六秒台だったりして」
 私もそう言うと、ゆきえちゃんはクラス一番になれるよ、と笑った。
 彼女が五十メートル走ったら、確実に十秒は越えるのだけれど。
「英語がペラペラかも」
「ピアノがすっごいうまかったり」
「料理がシェフレベルとか」
 そうやって、ゆきえちゃんと『もしも』を並べ立てていった。
 そして、二人でそうならすごいね、と、そんな江川さんを想像して、笑った。
 クラスの人たちが馬鹿にして笑うのとは違う、友達がヘマして仲間内で笑い合うときのように。
「頭のなかでクソゆきえめ、って思ってたりして」
「なわけー」
 また、二人画面を見つめたまま笑った。
「――もしそうだったらさ、いじめられなかったよね」
「うん、そうだね」
 一瞬の静寂。クーラーの空調音の奥に、どこかの教室で吹奏楽部の奏でる音色がかすかに聞こえた。
「そうだったら、よかったなぁ」
 椅子にもたれて、天井を見上げた。
 そうだったなら、彼女の浮かべる笑顔は本物だった、はずなのに。
 江川さんは、本当に、いつだって笑っている。
「今度、江川さんに勉強教えてみようかな」
「それ、いいかもね」
 江川さんが何か失敗して、みんなが顔見合わせて笑う教室。
 散々からかわれた後の、江川さんが取り残される教室。
 居心地も悪くて、生きづらくて、それは江川さんが一番感じてるはずで。
 それでもひた向きで、あり得ないほど真面目で――そこが笑われる原因にもなっているんだけれど。
 そんな江川さんが、いつか、報われる時が来るだろうか。
 来ると、いい。
「江川さんが、ほんとにそんな才能だらけの人間だったら、いいのにな」
 ゆきえちゃんが、寂しそうに言った。
 ……でもそれは本当に江川さんなのだろうか。
 そう考える。
 もしも江川さんがそうだったとして、それは江川さんが認められたということに、なるのかな。
 でも、江川さんが、元からそういう人だったら?
 今のあの人が嘘だったとして。本当の江川さんがそんな人だったなら。
 輝くような才能を、ただ隠しているだけなのだとしたら。
 それなら、良かったのかも、しれない。
 でも、それは――。
 考えるのをそこでやめ、何気なくノートを見たら、並ぶ花の名前と花言葉の一番下に、スノードロップという花の花言葉が書かれていた。
「……希望」
 ぽろりとつぶやくと、ゆきえちゃんも「希望だよ」と呟き、寂しそうに笑った。

まっしろな世界で君と

 もう会えないの。
 真っ白な世界で彼女はそうつぶやいた。
 しゃがんでいた僕は作業していた手を止めて、少し先に立っている彼女の方を見る。
「なんで?」
 なるべく素っ気なく言ったつもりだ。
 内心は、ちょっとというかかなり驚いていたけれど。
「うーん。えっとね、帰らないといけないみたいなの」
 へえ、とつぶやき、また視線を落として地面を見た。
 そこには真っ白な砂で作られた半分だけのお城があった。
「あ、じゃあ、お城完成したら帰るね」
 帰らないといけないと言いつつ、いつ帰るかは自分で決められるのか。明らかに何かを隠しているようにみえた。
「……まだ、色々約束あったじゃん。ほら。色々」
 とりあえずそう言ってはみたものの、やろうと決めたことはもうほとんどやってしまったような気もする。
 彼女は少し間を置いてから応えた。
「お城が最後だよ」
 僕は何も言えなくなって、再び手を動かした。
 別に、全力で引き止める勇気なんて僕にはない。あったなら、なにか言えたはずだった。
 でも僕は何も言えなかった。
 ただ、完成したら全部が終わりのお城を作り続けた。
「……この世界は、どうなるの?」
「そうだね、ええと、なくなりはしないけど、もう来れないよ」
 もう一度。手を止めた。
「じゃあ僕はまたあの悪夢とお付き合いするわけか」
「そういうわけじゃ……まあ、そうなんだけど」
 やけに回りくどいな。何か隠し事があるならもっとうまく隠せよ。
 そんな言葉を、飲み込んだ。
「お城、今日中に、できちゃう?」
「さあね」
 彼女はうつむいて、雪のような白い足で地面をつついていた。
 ――僕が彼女に出会ったのは、毎晩の悪夢で寝不足が日常になっていた日の事だった。
 眠るのは嫌だったが気がついたら眠っていたあの日、僕の目の前に広がっていたのは血みどろの絶望なんかじゃなかった。
 真っ白な世界だった。
 白いのに空では星が瞬いて、薄いピンク色の花が咲き乱れていて、限りなく続く水平線は、煌めいていた。
 そしてそこで、ひとりの少女と出会った。
 名前は今も知らないけれど、とにかく儚げで真っ白な少女だった。
 腰まである薄ピンクの髪が、眩しかった。
 その髪が今も、視界の隅でちらついている。
「ねえ」
 彼女がまた口を開いた。
「君はこの世界が、好き?」
 僕は顔を上げずに、答える。
「好きだよ」
 お城の屋根が、音を立てずに少しだけ崩れた。
 全部崩れてくれないかな、と、一瞬だけ思った。
「私とこの世界があってよかったって、思ってる?」
 僕は、手を止めずに、答える。
「思ってる」
「それなら、よかったよ」
 気づくと、小さなお城の向こう側に彼女がしゃがみこんでいた。
「君はいつも素直じゃないね」
「そんなことない」
「素直じゃないよ」
 少し顔を上げると、にっこりと微笑む彼女と目があった。
 もう見れないのかな、この笑顔は。
「お城、上手だね」
「……そうかな。この間作ったツリーハウスのほうが良く出来てたよ」 
「えぇ、あんなの?」
 彼女がちらりと左のほう、僕から見ると右のほうを見たので、僕もそれにならう。
 少し大きめな、やはり真っ白い木の上の方に、不格好なツリーハウスが乗っかっていた。
 僕が提案して、彼女が大部分を作ったものだ。なんだか今にも落ちそうである。
 直せたら、もっと良くなるのにな。
「あ、みて、くじら」
 彼女が声を上げたので見てみると、僕の真後ろを指差していた。
 指の指す方を振り返ってみると、白とピンクが混ざったような空に、パステルブルーのクジラが浮かんでいた。
「あのくじらに乗るの、すごい大変だったよね」
 そうだね、と返しながらそのくじらを眺めた。
 くじらに乗りたいなんて無謀なことを提案したのも僕だった。この辺で一番高い木に頑張って登って、くじらが近くに来るのをひたすらに待ち続けた。
 何日もの夜をまたいで、落ちそうになりながらくじらに飛び乗って。そうして空から見たこの世界は、ひどく綺麗だった。
「ブランコ、落ちちゃってないかなあ」
「そんなに落ちるものでもないよ」
「あのブランコ、作るの大変だったじゃん。壊れてほしくないの」
 たしかそれも僕の提案だった。あの木のてっぺんにブランコ作ろうよ、なんて言って。
 他にも、他にも、いろんなことをした。探検して見つけた池に手作りのいかだを浮かべて寝転んだり、動物のぬいぐるみを作ったり。彼女は僕がなにか言うと嬉しそうにして、どこからか材料だとか必要な物を取り出してくれた。
 どういうからくりなのかはわからないけれど、夢なのだからきっとなんでもあるのだろう。
 木の開けていて、さらさらする砂があって、近くに小さな池のあるこの場所を拠点にしようと言ったのも僕だ。
 全部、僕だった。
 理由なんて、分からない?
 いや、きっと、そうじゃない。
 そして、そんな僕の隣にいつもいてくれたのもまた、彼女だった。
 誰にも言えなかった悩みを打ち明けたのも、彼女だった。
 そして彼女と夢の中で会うようになって、あの悪夢を見ることもなくなった。それはあの悪夢の代わりにこの夢を見ているからであって、それが終わるのならまたあの夢を見ることになるのかもしれないが。
 彼女が、僕が夢のなかで作り出した虚像なんかじゃなかったらいいな。
「ねえ」
 僕の言葉に、彼女は「ん?」と聞き返してくる。
 僕は手を止め、しばらくそのままでいてから。
 そのお城を手のひらで一気に壊した。
「え? え? なんで? 壊しちゃうの!?」
 彼女の驚いた声を聞きながら僕は彼女の目を見て言った。
「今まで全部僕のやりたいことだったから」
 言葉が詰まりそうになる。
「……最後くらい、君のしたいこと、しよう」
 ぽかんと口を開けたままの彼女。
 僕は無性に照れくさくなって今すぐに目をそらしたくなってしまったが、しっかりと合ってしまった目はもう外せなくなってしまっていた。
 壊れたお城を挟んで、しゃがんで向かい合う僕と君。
 なんだか妙に変な光景だった。
「……やっぱり、素直じゃない」
 彼女は、笑った。そう例えたくはなかったけれど、まるで桜の花びらがぱっと散るような笑顔だった。
「お願いでもいい?」
「うん、いいよ」
 彼女は迷わずに口を開いた。まるで最初からなんて答えるか決まっていたかのようだった。それがまた、ちょっと悔しかった。
「――笑ってほしい」
 それだけなのか、と思ったけれど。きっとそれが、僕と彼女の過ごした時間の、意味だったのかもしれない。
「ずっと、笑って。いっぱい、笑って。あとね」
 彼女はまた、笑った。君のしたいことって言ってるのになあ、と思いながら聞く。
「最後くらい、素直になってもいいよ」
「やだ」
 ついそう答えてから、最後くらい、いいかなぁ、と心の隅で思った。
「……ほんとに、明日はもう会えないの?」
「そうだよ。もうこれで最後。ええっと、帰らないといけないから」
 最後くらい、ね。
「……さっき、僕はこの世界のこと好きだって言った。」
「うん」
「君とこの世界があって、よかったと思ったって言った」
「うん」
 でも、本当は。
「ほんとは、まだ、足りない」
 言ってから、後悔した。やっぱり言わないで、綺麗にお別れしたらよかったかな、と思った。でも、言って後悔するってことは、それが多分、本音だったからだ。
「明日眠るのが怖い。君に会えなくなるのが、怖い」
 素直になるって、案外簡単なのかな。
「また、あの夢を見たら、僕はきっと笑えなくなる。君の気持ちを無駄にする」
「……そんなことない」
 彼女の腕が、そっと僕の目元に伸びた。
 僕は、泣いていた。
「あのね、最後だから、私もちょっと喋らせて。」
 彼女は歌うようにその話を聞かせてくれた。
「ひとはね、自分だけの世界を持ってるの。それは、一つかもしれないし、二つかもしれない。でも、誰にでも、あるんだよ。この世界は私の世界なの。君に笑って欲しかったから、私はこの世界を君に見せたの。君にもね、あるんだよ、君だけの世界が。きっと、まだ気がつけないだけで」
 世界が、真っ白の世界が、眩しく輝いた。
「だから、大丈夫。君は、もう、あの夢を見ない。君は変わったから。変わりたいと、思えるようになったから。ね、そうでしょ?」
 変わりたいと。本当は最初から思っていたんだろうか、僕は。
 きっとそうだ。だって僕は、君に、君に恋をした。
 恋なんてもうできないはずだった僕が。素直になんてなれなかった僕が。
「――僕は、君のことが好きだよ」
 目に映る君の白とピンクが、弾けるように光った。
 好きだったから、本当は僕が創りだしたものだったんだとしても、ずっと一緒に居たかったから。だから僕はこの世界で君といろんなことをした。
 全部、最初から知っていたはずだったのだ。
「大丈夫。また会えるよ。だって私は君の近くにいるんだから」
 君が笑う。
「私だって、君よりもずっと前から、君のことが好きだったんだよ。だから、助けたいと思った。もっと知りたいと思った」
 すこしずつ、すこしずつ消えていく。
 僕だって、愛されていたんだ。僕が苦しんでいたのを、助けようとしてくれていた人がいたんだ。
「ありがとう」
 僕も、笑った。
 君が白に消えていく間際、また声が聞こえた。
 
 笑って。
 僕は目をそらさなかった。
 
 ――気づいていなかった愛を、見つけたい。
 いまはここにない世界を、作りたい。
 そう心に決めた瞬間、僕の瞳には眩しい今日が映った。

硝子のピース

 少女がいた。
 降り続く雨の向こう側、小さなバス停に。
 彼女は青い透明な傘をさして、手の中にある何かを眺めていた。
 それは、パズルのピースの形をした、硝子。
 少女がそれを透かして見ると、透き通った硝子の向こうに濡れた道路と雨の雫が見えた。
 そのピースは、少女がある日偶然に、道端で拾ったものだった。雨上がりの道路に広がる水溜りの中で、太陽の光を反射して煌めいていたのだ。
 それが、たまたまその形になった硝子の破片なのか、そういう形につくられた硝子細工なのか、少女は知らなかった。いや、知るすべもなかった。
 でも少女は、そのピースが好きだった。
 いつか、本当にどうしようもない問題を出された時。
 いつか、どうしてもピースの足りないパズルがあった時。
 なんとなく、憶測でしかなくても、硝子のピースが鍵になってくれるような気がしていた。

 木々が、人知れず雨粒を落とし、何処かで蛙が、鳴いたころ。
 道路の彼方から、バスが飛沫を散らしながら走って来る。
 少女は、硝子の欠片を鞄にしまい、傘を透かして空を見た。
 まだ、雨は止みそうもない。
 再び、視線を落とした。
 少女は、心の奥で、少しだけ、信じていることがある。
 硝子のピースは、空から、雨と一緒に降ってきたのではないかと。
 そんなわけは、ないのかもしれないとわかってはいたけれど、少女は、少しだけ期待していた。
 パズルのピースは、もしかしたら平和のピースなのかもしれないと、思ってもいる。
 バス停でバスが止まり、少女は傘を閉じて乗り込んだ。
 人のいないバスの中、席に座った少女はまた、雨に濡れた硝子のピースに触れた。

橙のレギ

 僕が彼女を見かけたのは、ある夕暮れの港街を歩いていた時だった。
 珍しく西の空は眩しいほどのオレンジ色に染まり、その夕日が川の水面を何処か別の世界に通じる道のように照らしていた。
 それは、橋の上での出来事だった。
 その少女は橋の欄干に手をかけ、
 表情をこちらに見せることもなく、
 ただ、そこにいた。
 それだけの、ことだった。
 僕はその横を通り過ぎて、次の瞬間には彼女の事なんて忘れる。
 その筈だった。
 その程度の舞台だった。
 けれど。 
 どうしてかはわからない。
 彼女が、セミロングの黒髪をなびかせて振り向いた時、僕はその動作に目を奪われていた。
 小さな橋の上、一瞬の物語が始まっていた。
 夕日を映していたのか、それとも元々そういう色なのか、その瞳は焼けるような橙色をしていて。
 僕は歩みを止めた。
 少女までの距離は、3メートルほどだろうか。
「……きみは」
 どちらが言ったのか、わからないような錯覚に陥りそうになる。
 ただそれを言葉にしていたのは僕の方だったようで、少女はその答えを響かせた。
「私……私は、レギ」
 ああ、そうか、と。
 何故か僕は納得し、
 自分の名前を名乗った。
 レギはすんなりと眺められる整った顔立ちをしていた。けれど何歳くらいなのかわからず、ふと目をそらすだけで思い出せなくなりそうな、そんな顔をしていた。
「会ったこと、あるのかな」
 ぼんやりと、レギにそう呟きかける。
「有るとも言えるし、無いとも言えるの」
 じゃあ、有るんだろうなと思った。
 ……風が吹いている。
 彼女の瞳はまだ橙色をしていた。
「……あなたは、レギがなんだか知っているの?」
「……いや、わからない。でもなんだか、知っているような、そんな気がする」
 そう、とレギは表情を変えずに言った。
 ……というよりも、なんというかその顔は、表情というものを表せないようにできているようにも見える。
「一つ教えてあげる」
 レギは、また川面に目を向ける。
 橙に煌めく川面を。
「地球は青いといった人間がいるでしょう。青は、生命の色」
 少し考える。
 海、空、水……。生き物は水から生まれるというし、そうなのかもしれない。
「あの、夕日は」
 彼女が顔を上げて西の空の方を見たのにつられて、僕も西の方に目をやる。
「……橙色は青の反対の色とも言われているわ。だから橙は、死の色で、世界と宇宙の終わりの色なのよ」
 レギはそう言い、こちらを振り向いた。
 顔は無表情のままだったが、なぜか少し笑ったように、見えて。
 その瞳は、オレンジに輝いていた。
「……なんて。ただの物語だけどね」
 僕は少し笑った。
 色は生き物によって見え方が違うものであるし、地球の青の反対の色が本当に夕日の橙であるかも、本当は分からない。
 けれど、それでも、本当にそうなんじゃないかと思わせる何かが、レギの話の中にはあった。
「……どうしてその話を?」
 尋ね、そして、ずれた呼吸のように答えが返ってくる。
「……私が、橙だから」
 レギがもしも人間だったらここで笑うんだろうな、と。
 自然にそう思ったのは、なぜなのだろう。
「あなたは私のことを知っている」
 冷たいようで暖かい、死んだようで生きている、そんな瞳が、僕を見据える。
 風が、止んだ。
「……夕凪」
 どちらともなくそう呟いた後、僕は小さく息を吸い込んだ。
「僕は、君のことを知っていると思う」
 答え、そしてレギの言葉を待つ。レギは少し考えるようにして、言った。
「思い出すとか、そういう存在じゃないことはあなたも分かっているでしょう」
 僕は頷いた。
 忘れているとか、思い出すとか、そういうことではなく。
 形になっていない、朧気な、蜃気楼のような。
 例えばそれは生命の闇であり。
 どうしようもない、誰かの胸のわだかまりであり。
 歴史に埋もれた誰かの本心であって。
 誰もが知っていて、誰もが知らないふりをしている。
「それが、レギだ」
 告げた。
 レギは変わらない表情で、言う。
「半分正解、といったところ。……あなたは少し変わっている。どの人も私をただの人間だと言うのにね」
「それが正しいかもしれないな。これも物語かもしれない」
「……それもそうね。やっぱりあなたは変わっている」
 でもレギが人間だったならやはりここで笑うだろうと思ったし、そこで笑わないレギがただの人間であるはずもないなと、勝手に思った。
 けれど、どうして僕がいま立ち止まって、彼女と会話を交わしているのか、それは何一つ、わからないままだった。
 夕暮れの橙が、少しずつ闇に紛れようとしていく。
 時間はあと少ししかない。
 レギは僕を黙って見つめている。
 僕は、なにか聞きたいことがあるような気がした。
 それも一つではない。
 たくさんだ。
 だけどそのどれも言葉になるようなものではなく、僕は黙ったままレギを見つめ続けた。
 橙の瞳をまっすぐに見るのに、その目と視線が交差する感覚がいまいち感じられない。……生きているということは、何なのだろうか。それをレギに問おうかふと思ったが、きっとそれは自分で探すべきものだと思った。
 そして、先に言葉を発したのは、レギだった。
「あなたが誰か。レギが何か。ここはどこか。明日は来るか。生きるとは何で、こんな話に意味はあるのか」
 少しの、焦燥。
「――わからない。わからないままでいい。知るべきことはいつか知ることができるから」
 レギは、笑わなかった。
 そして、僕はほんの少し安堵する。
 彼女が、そのすべてを言葉にしてしまわなかったことに。
 その答えを自らの力を使わずに知ってしまうのなら、きっと僕らの存在意味なんてなくなってしまう。
「大丈夫。あなたはもう、それをわかっている」
 夕暮れ、橋の上のひととき。
 僕は、やがて藍色に染まってゆく空に目を向けた。
 終わりということは、同時に何かの始まりである、と。
 そう思った時、もうそこにレギはいなかった。

 止んでいた風が、吹き始める。
 本当に短い、夕凪だった。
 水面がさざめく。木々が揺れる。
 僕は歩き出した。
 記憶の中のレギの姿は、すぐに朧気になって、陽炎のように消えていく。
 レギという存在そのものは、形ないものだ。
 けれど、僕や、それ以外のたくさんの人間の中に、確かにあるもの。
 ただの人間なのか、死の色なのか、或いは空想や物語なのか。今はまだ、きっと、わからない。
 ――それが、橙のレギ。

時間で出来たおにぎり

 高校帰りのことだ。
 俺はいつも通りコンビニに寄って、ツナとシャケのおにぎりを一つずつ買った。
「あ、袋いりません」
 食べるんで。
 なぜか最近無性にお腹が空く。成長期なのかもわからないが今更感は否めない。
 コンビニを出る前にツナの方のパッケージをあけて、ゴミ箱にちゃんと捨てる。
 歩きながら食べるのは行儀が悪いかもしれないのだが、正直そんなこと言ってられないくらいお腹が空いていた。
 薄暗くなりはじめる寸前の町を歩きながら、おにぎりを食べる。
 このおにぎりは実はあのコンビニのオリジナル商品で、一番上から具が入っているという親切さが売りだ。
「あの」
 ツナ、美味しいな。
「あ、じゃなくて、あなた」
 シャケはそんなに好きじゃないけど。
「あの!」
 まあ嫌いでもないけどね。
「ちょっと!」
「ん?」
 ふいに肩を叩かれて俺は振り向いた。呼ばれてたの俺だったのか。
「……あ、人違いじゃないですか? ほら俺はおにぎり食ってるだけの通りすがりの人なんで」
 とりあえずそう言ってから、口の中に残っていたツナを飲み込む。
 そこに立っていたのは、どう見ても年下気な女の子だった。
 全く見覚えがない。
「人違いとかじゃないです。別に誰でもいいんです」
「……あ、そう。で、なんすか?」
「二百円」
「…………ん?」
 その女の子は澄ました真顔でそう言った。
「私の呼びかけ二回無視しましたよね? 一回百円で二百円です」
「え? いや、なんで!? ていうかその前の要件とかないのかよ」
 彼女は何も答えない。無言で立ち続けている。
 ……最初からこれが目的かこの人。
 あれ、でも、3回呼びかけが聞こえたような気がしたんだけど。気のせいか?
「別に無視したわけじゃないんですけど。気づかなかっただけなんですけど」
「私は傷ついたんですけど」
 駄目だこの方。譲る気ないな。
「……時間とお金どちらが大事と思いますか?」
「いやおにぎりだよ」
 目の前のおにぎりが食べたくてしょうがなく、なんかそんなことを答えてしまった。
 と、さっきおにぎりを買ったおつりがポケットに入っていることを思い出した。
 出したのが五百円で……お釣りは多分二百円はあるはず。
「あー。まあいいや。俺みたいな人間にならいいけどさ、この世の中にはやばい奴いっぱいいるんだぞ? というか俺みたいな奴にもやるなよ絶対」
 俺だってツナのおにぎりを片手に持ってなきゃお金なんて絶対渡さねえ。
 ポケットから出した二百円を女の子に渡すと、俺はくるりと反対を向いて歩き出す。
「こんな私に投資するやばい奴もいますけどね」
 等という声が聞こえたが正直どうでも良い。
 ……忠告はしたからな。


 2週間ほど後。
 同じく、コンビニの前。
「絶対渡さないし。というか行かせろ!」
「駄目です。私の名前と年齢を知っておいてお金も払わず帰るんですか?」
「俺のを教えたんだからいいだろ……」
 例の女の子(千代というらしい)は俺の鞄の紐を離さない。よりによってそろそろ切れそうな部分なおかげで無理やり歩き出すこともできないし。
 ああ、なんでこんなことに。
「最初の一日目で払っちゃったあなたが悪いんです。見込みアリに分類されちゃいますから」
「それから丸2週間くらい断ってるけど。そろそろ見込みナシになってもいいだろうが」
「なりませんね」
 というかこの感じだとマジで払ったのは俺が最初なんじゃないか?
「俺だからまだいいけどこの世の中にはこわーい人もいっぱいいるんだぞ」
「ご心配なく」
 いつになく頑なだ。むしろ鞄の紐が千切られそうである。
「……お金と時間どちらが大事と思いますか?」
「今の俺的には時間だと思うね」
「では三百円渡しましょう」
「それは別の話だからさ」
 究極的な質問で惑わそうとしやがって。
 まあ実際答えはなんとなくわかってるんだけどね。
「……じゃあ」
「お?」
「その鞄に入ってるおにぎり一つくれます?」
「え? いや、嫌ですけど」
 てかなんで知ってんだ? あ、コンビニから出てきたところで会ったから予想してたのかもしれないな……。
「このおにぎりは譲れないな流石に。今もお腹が空いて死にそうなんだ」
 今このおにぎりを食べたら多分面倒になってこいつに三百円を渡してしまうだろう。
 それはなんというか断じて嫌だった。もうここまで来たら意地だ。
「……私もお腹が空いて死にそうなのですが」
「ん?」
「どうせ2つ買ったんですよね。ひとつくらいわけろです!」
 口調がぞんざいになりかけてるぞ。
 まあ確かに二つ入ってるが……奇しくも二週間前と同じくツナとシャケ。
 俺は千代の方をじーっと眺めながらしばし考える。
「好きな具は?」
「シャケは神です」
「うーん……」
 ……百円あげるのと百円のおにぎりをあげるのでは、後者のほうが抵抗が少ないのはなぜだろう。もらうのも、後者のほうが、多分嬉しい。
「……実は二週間前」
「え? お、おう」
 考えていると、千代は突然口を開いた。
「あなたではなくあなたのおにぎりに声をかけてしまったんです」
「……ん?」
 なんかこの人すごいこと言ってるぞ。
「仕方ないじゃないですか! お腹が空いてたんです。目の前をおにぎりが通ったら誰だって食べたくなりますよね」
「いや通ったのはおにぎりじゃない。俺だ」
 と言ってみたがスルーされる。
「ごまかすためとっさに思いついたのが無視した回数お金をいただくというものでした。でもこの手で稼げるなとは思います」
「いや、駄目だからさ」
 じゃあこの間つい渡してしまった二百円はおにぎりになったのか……。というかそんなにお腹が空くなら自分で買えばいいんじゃないのか?
 そう思った矢先。
「見てくださいこれを」
 不意にペラっと目の前に差し出されたのは一枚の紙切れだった。
『育ち盛りの千代には少ないよね。お母さん頑張ります』
「今朝の食卓に置かれたメモ。見てのとおりです」
「……そ、そうか」
 なんて悲しいんだ。
 ……どこぞの偽善者みたいなことになるし、なんかすごいありきたりだけど。
「それならそうと早く言えばいいのにー」
 俺は鞄からシャケのおにぎりを出して、嬉しそうにする千代に渡した。
 その瞬間、あんなに離れなかった千代の手が鞄の紐からあっさり離れる。
「可哀想とか思わないでくださいよ? ご飯が足りない意外は満ち足りてますから」
「ご飯が足りないってことが俺的には可哀想に思える。朝ごはんが食パン一枚とかで夕方おにぎりも買えないとしたら死んでる」
「それが私です」
 シャケのおにぎりを両手に持った千代が、いたずらっぽく笑った。
「ということで明日から百円の投資お願いします」
「それは無理だな。だが出来ることがひとつある」
 なんです? とか言いながらシャケのパッケージを破り始める千代を横目に俺は話す。
「俺がおにぎりを作ってきてあげよう。シャケとツナだ」
「……なんでですか? お金より時間が大事なら百円渡したほうが早いのでは?」
 年間で三万六千円は死ぬ。
「あーいや、好き寄りの人間にはお金じゃなく時間をかけてやりたいって思うんでな」
 ――お金と時間どちらが大事か。
 そう問われて時間と答えるのはお金を持っている人間なのではないかと思う。
 お金がなければ生きにくい世の中になってしまった。死んでしまえば時間はなくなってしまう。だから、この世の中で優先すべきなのはお金なんじゃないかと思う。
 お金に困っていなければ、目の前には一応お金と時間の両方が存在することになる。だとしたら、いつ絶対的なゼロになるかもわからない「時間」を大事と言う人は、きっと多い。
 でも案外、お金と時間というのは同意義なものなんじゃないかな、とかも思う。
「あー、お金を持ってるのを前提にするとな、人にお金をあげるのは楽なんだ。でも人に時間をあげるっていうのはわりと勇気がいることじゃないか?」
「……確かに」
 千代はおにぎりを頬張りながら相槌を打つ。
 百円と百円のおにぎり、後者を贈りたくなるのは。
 後者には、「お金」と「時間」両方が込められているから。
 「気持ち」があるから、「時間」を込めることができる。時間を費やしたものには、きっと気持ちも費やされている。
 大抵の人はそれを貰った方が嬉しいだろう。
 わざわざ何かをあげるってことは、その人に喜んで貰いたいし、だったら必然的に贈りたいのも後者になる。
「……それで、なんでシャケとツナなんです? 私ツナはそこまで好きじゃないのですが」
「そうだな、うん。あ、最初に言っておくが俺は全体的に偽善者かもしれん」
「偽でも真でも善は善と思います」
 ……そうか。
 どうなんだろうな。
 まあ、でも。
「要するにご飯は人と食べたほうが美味しい。これだけだな」
「……なんかすごくありふれたことを言いましたね」
「そんなこと言うなよ。な」
 なんて言いながら俺も耐え難くなってきて、ツナの方のおにぎりを出してパッケージを破く。
 おにぎりを口に運びながら、考える。
 俺は、誰か大切な人に時間をあげられるような、そんな人間になりたいと思う。
 そしてあわよくば、誰かに時間をもらえるようになったら、誰かに時間で出来たおにぎりを作ってもらえたりしたら……いいなと思う。へたでもいいから。
 それからは二人で、他愛もない話をして笑った。
「――ありがとうございました、やはりシャケは神ですね」
 俺が食べ終わったのとほぼ同時に食べ終えたらしい千代が言った。
 そして、すごくナチュラルにパッケージのゴミを渡される。
「明日同じ時間にここで会おう。その時はお金じゃなくおにぎりと一緒だ」
 真面目くさってそう言ってみると、千代は敬礼のポーズをとって「了解です」
と笑った。
「いや、それにしてもまさか同い年とはね……」
「うるさいですね。何か悪いですか?」
「いやいや、全然」
 少し満たされたお腹でそんな風に誰かと話すのは、やっぱりそこそこに幸せだった。

23時23分

23時23分

 時計の針は深夜十一時の二十三分を指していた。この時間になると、毎日廊下からとある声が聞こえてくる。
「兄さん、兄さん」
 この家に来て2日目から、その声は聞こえるようになった。
 扉を開けてやると、小さい少女が俺を見上げていた。白いワンピースを着ている。これもいつも通り。
「今日も、こんばんは」
「うん、どうも」
 目は虚ろで、体は痩せ細った少女。
「お腹が空きました」
「お腹が空いたと言っても、なにもないが」
「はいです」
 俺はそんな会話をしつつも、少女を招き入れる。
「兄さんの部屋は汚いですね」
 平然と言い放つ少女。
「いや、汚くないし、別に」
「わたしの部屋に比べたら汚すぎます」
 まあ……確かに少女の部屋は真っ白でただっ広いだけだし、物も少ないが。
「お前の部屋と比べるなよ」
「はいです」
 部屋の中心に、正座する少女。
 それをぼんやり眺めながら、俺は呟く。
「勉強しないとな……」
「なんの勉強です」
「えっと、除霊の」
「ひどいです」
 嘘だが、と言いながら、椅子に座って数学の参考書のページをめくる。
「兄さん、相変わらず喋り方おかしいです」
「お前が言うな。どう考えてもお前のほうがおかしいわ」
「はいです。それのことを言っています」
 ん……? よくわからないことを言うな……。
 ため息をつきながら、俺は、時計を見上げた。
 時計が時を刻む音が、淡々と響いている。じりじりと、秒針が右回りに――。
「兄さん」
 ぽつり、と少女の声が聞こえ。
 直後、どさどさっと、棚から本が十冊ほど落下し、電気が激しく明滅した。
 視界が瞬き、闇と光を行ったり来たり。
 あまりの明滅具合に、俺は顔をしかめた。
 そして、しばらくすると、何事もなかったかのように部屋は明るさを保つようになる。
「やっぱり除霊すべきだな」
 俺はきっぱりと言い、椅子から降りて棚に向かう。
「かまって欲しいのです。除霊はダメです」
 落下した不幸な本たちを棚に戻しながら、会話を続ける。
「いや、俺の部屋なんだから俺の勝手だろ」
「勝手はダメです。私だってちゃんと部屋でのルールは守ってます」
「白いペンキで塗ってある部屋だろ」
 皮肉を込めて言ってやると、少女は小さく首を傾げた。
「ペンキ……? ……はいです」
 あれ、ペンキじゃなくて壁紙なんだっけ? そんなことを思いながら俺が再び椅子に戻ると、入れ違いで少女は立ち上がった。
「今日もチカチカ楽しかったです」
「そうかな」
 俺も彼女の方に目をやる。 
「除霊はダメですよ。お化けも大事なお友達……いや、妹ですよね」
「……俺の妹じゃないけどな。この家に前住んでた奴の妹だからな」
「はいです」
 彼女は笑っていた。
 時計は、すでに十一時二十四分を指していた。
 少女は、ドアの方に歩いていく。
「それでは。怖がりな兄さん、おやすみなさい」
 言い返すまもなく、部屋から出ていったのは――俺の妹。
 お化けが好きな、ちょっと変わった妹。
 ぼーっとした瞳と、華奢な体つき。
 白が大好きで、部屋も服も白が基調となっている。
 
 夜十一時二十三分。
 その時間になると、この部屋では毎日決まって怪奇現象が起きる。
 前この部屋に住んでいた奴の妹が、病気で亡くなったらしいのだが………。
 優しい俺の妹は、毎晩二分間だけ俺の部屋に来てくれるのだ。

 そして、その五分後――。
 ドアが、再び開いた。
「ごめんなさいです、ちょっと寝てしまっていて……」
 開いたドアの向こうの彼女は、「来れませんでしたけど、大丈夫でしたか?」と、申し訳なさそうな顔で俺を見ていた。

桜の花びらを君に

 私の世界が終わるまで、きっとあと少しの時間しかない。
 私は病室の窓の向こうに見える桜の木を眺めた。
 今はまだ桜の季節ではないから、桃色の花が咲く姿は見られない。あと一ヶ月もしないうちに蕾は開き始めると思うのだけれど、それを見届けることは、きっとできない。
 そんなことを考えながらぼんやりとしていると、ドアの方から軽快なノックの音が聞こえた。
 私はそちらの方に目を向け、この病室の中で、唯一明るい音をたてるその人を待つ。
「や、おはよう」
 扉が開いて、そこにビニール袋をぶら下げた少年が現れる。
 彼は私のクラスメイトで……大して仲良くもなかったのに毎日のようにここに来てくれる、少し不思議な人、だと思う。
 この人が来てくれると、なんだか少し気分も明るくなるから、それも不思議だった。
「……今は、こんにちはじゃないかな」
「あ、そうか……こんにちは」
 そう答えながら私のベッドの方まで歩いてきて、置かれている椅子に座った。
 私も起き上がっているので、目線は同じくらいの高さになる。
「ラムネ買ってきたんだ」
 彼は不意にそう言って、手に持っていたビニール袋から、お菓子の袋を取り出した。
「そうなんだ……嬉しいな」
 差し出された袋には、桜の花びらの形をしたラムネが描かれている。
 私が小さく笑うと、彼も少しして笑った。
 私は早速その袋を開けてみる。
「……可愛い」
 小さな花びらの形をしたラムネが、ひとつひとつ包まれて、溢れるようにそこにあった。
 彼はにこりと笑って、袋の中を覗き込む。私は小さなラムネを二つ取り出して、一つを彼に手渡した。
 包みをほどいて、淡いピンク色のラムネを口の中に入れる。
 ささやかに幸せを感じて、私はもうすぐそこまで迫っているはずの終わりからそっと目を逸らした。

 私を蝕んだ病は、治療法も性質も全くわからないような、未知であり不治であるものだった。
 それこそ物語のようだと思う。
 原因もわからず、ただ死んでいってしまう病気。やがて眠るように死ぬと聞いた。
 苦しまないらしいというのは良かったと思うけれど、それでは死という存在がまるで「無」そのものに感じられて、怖かった。
 小さな可能性に縋るようにこの病院に留まり様々な治療を受けているが、すでに私はいつ死んでしまってもおかしくない状態で。
 ――そして、この病の特徴と呼ばれる症状は。
 生きる、という意志が異常なほどに収束してしまうことだった。
 精神的か肉体的か、それすらわからない、未知の病。

 ぼんやりとした世界に、私は不思議な浮遊感とともに存在していた。
 ……夢、だろうか。
 私は、何も深くは考えずに、何も見えない闇の中に目を向ける。
 ……死にたい、とは思わない。でも、生きる必要性が全くわからない。
 心の何処かで生きることを諦めてしまっているのは、この病気の症状ではなく自分の感情だろう。
 見たいものがある。行きたい場所がある。会いたい人がいる。
 でも、無理だ。私が死ぬのは仕方ないんだ。
 だからそれら全て、どうだっていいと、何故か思ってしまっている。
 この病気はきっと、内側から私を殺していくんだ。
 ……そう思った瞬間、空間にさざなみのようなものが生まれた。
 硬いような、それでいて柔らかいような、甘い……。
 ラムネの味を、思い出していた。
 空間がぱち、と光を生む。
 何も存在していなかった世界に、ホログラムのように色が映った。
 誰かが、いる。
 私は僅かに見えるそれに目を凝らして、耳を澄ました。
 声が聞こえたから。
 ――もしも。
 微かに、微かに聞き慣れたような声が聞こえる。
 ――君が明日、居なくなってしまうとしても。
 闇に掻き消されそうなその声を、私は必死で聞き続ける。
「僕は、君のことが――」
 そこで、声は消えた。
 その声と色と記憶に、世界の闇が書き換えられることはなかった。
 私はまたぼんやりと、なんの意味もなく虚ろな闇を眺め続けた。

 目を覚ますと、ただ何もない空間がそこにあるように思えた。
 味気ない病室。小鳥の声すらしない朝。
 自分の頭の中で煩く鳴り響く耳鳴りのようなものが、私が生きていることを示していた。
 また目を閉じようとした時。
 ふと、ベッドの脇にある小さな机に、桜の花びらのようなラムネがあるのに気がついた。
 あの柔らかくて暖かい「味」の記憶が、何故か蘇る。
 私はその花びらを手にとった。
 そしてぼんやりと、久しぶりに床に足をつけた。
 うたれた点滴がひどく鬱陶しく思える。
 どうせ死ぬのなら、今死んだっていいや。
 一瞬クラスメイトの彼の姿が浮かんで、すこしだけ笑みが浮かんだけれど、不思議と感じた寂しさがそれを消してしまった。
 私は点滴の針を自ら抜いた。
 なぜこんなことをするのだろう、と首を傾げる。理由もわからないまま、私は小さなラムネを握りしめながら立ち上がった。
 私の体を支えた二本の脚は、ひどく頼りなく思える。今、私の体重はどのくらいあるのだろう。まあ、どうでもいいか。
 ゆっくりと歩いてみる。
 今が何時かはわからないけど、もう明るいということは、そろそろ看護師の人が部屋に来る時間なのではないかな。
 そうわかっていながらも、どこかへ行ってしまいたかった。
 一歩、また一歩。
 確か……たしかこの病室を出て少し歩いたところには、階段があって。
 そこまで行くくらいなら、怒られ、ないかな。
 無気力な闇の中、かすかに残る私自身の意識がそんなことを考えた。
 私は扉を開ける。果てなく重いものに思えた。あの少年のことが頭をよぎる。君は、毎日、この扉を開けるときどんなことを思うのかな。
 朦朧と考える。なにかつかめそうで、何もわからない。
 私はただ、限り無く近づいている死を感じながら、何かに操られるように廊下に出る。
 偶然なのか、いつものことなのか、そこには誰もいなかった。もしかしたら明るく見えるだけで今は深夜だったりするんだろうか。実は人もいるのに私には見えていないなんてこともあるかもしれない。
 いよいよおかしい、と思う。
 誰か呼ばなきゃ。
 私は殺される。この病気に、殺される。
 ……呼ばなきゃ。
 誰か呼ばなきゃ。
 ……どうせ死ぬのに?
 今生き延びて、どうするの。
 冷ややかに、世界は、冷たくなっていく。
 それに対抗する何かを、私は持っていなかった。
 階段に向かう。
 そこは案外すぐ近くで、正面に立って見てみると、その階段は延々と続いているように思えた。
 先にあるものが、無に思えて仕方なかった。
 ……あの人が、夢の中のように。
 夢のような言葉を、言ってくれたら、いいのにな。
 そこで私の意思は完全に消えた。
 ただ、勝手に動く視界を呆然と眺めているような。
 私の頼りない足が、明らかに階段を降りるためではない風に踏み出された。
 死。
 ただ、それのためだけに踏み出された足だった。
 ゆっくりと、身体が前に傾いていく。永遠のような時間をかけて、生と死の間を。
 そんな意識に、何かが。
 触れた。
「――待って!」
 その瞬間に、私の世界は目まぐるしく変化した。
 まず、死に傾いていた私の身体が生の方へと引っ張られた。
 腕を掴まれていて、そんな私の横をひとつの影が通り抜けるのが見えた。
 そして朦朧とした闇の霧を振り払い、私の意識がはっきりと現れる。
 それでも、目が覚めたような視界に映る光景は、あまりにも悲しいものだった。
「……な、なんで……!」
 私が辿るはずだった結果を、なぜ彼が。
 階段を落ちていく、彼の身体を、覚束ない足取りで追いかけた。
「……あ、大丈……夫?」
 長い時間を超えて、私が彼の元で崩れ落ちた時、そんな言葉が聞こえた。
「な、なんで、そんなこと……」
 彼の頭から、血が流れていた。当たりどころが悪ければ、こんな階段でも、人はきっと――死ぬ。
「ごめん……ごめんなさい……!」
「君は、悪くないよ」
 彼は仰向けに倒れ込んだまま、ゆっくりと目を閉じる。
「わ、私なんて、明日死んじゃうかもしれないんだよ……! 助けたりなんか……しなくて、よかったのに」
 涙が頬を伝った。ぽたぽたと、床を濡らす。
 彼は目を閉じたまま、小さく笑った。
「もしも、君が明日いなくなるんだとしてもね」
 ……え、と私は小さく声を漏らす。
 いつの間にか忘れていた、手の中のラムネの重さを感じる。
「僕は、君のことが――好きだから」
 夢のような……いや、夢ですら聞こえなかったその言葉。
 でも。
「――僕は、君のためにいま死んだっていいよ」
 ……そんな。
 そんな言葉なら、聞きたくなかった、
 私の瞳から、また涙が溢れる。いつの間にか広がる彼の血に、その涙が溶けていく。
「嫌だ……そんなの……嫌だよ。私、死ぬんだよ。もう」
「今は、生きてる」
 そう呟きながら彼は右手をそっと伸ばして、私に触れた。 
 半身を起こして、座り込む私を抱きしめてくれる。
「君のために、死んでもいい。それだけ。僕は今死なないよ。それで、一緒に生きよう」
 彼の体温と、流れ落ちる血にすら残る温度が、闇を溶かしていくように思えた。
 私は、生きたい。
 死にたくない。
 だって、こんなに私のことを思ってくれる人がいるなら。
 ――生きたい。
 ラムネだけじゃない、本物の桜を絶対に見たい。
 涙がとめどなくこぼれ落ちた。私は声を洩らしながら泣いた。
 彼は、ただ優しく、私のことを抱きしめてくれた。
 この病が私を殺していくんじゃない。
 本当に私を殺そうとしていたのは、私だ。

 桜の花びらが、窓を越えて病室に入ってくる。
 綺麗な小石のように見えるラムネを眺めていると、また、明るい音が扉の方から響いた。

ありふれた世界のはなし

ありふれた世界のはなし

よく見かけるような日常の一コマから、ちょっと不思議なお話まで。 この世界の冷たさと暖かさを。 原稿用紙十枚以内の拳編集です。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ツタと計算ミス
  2. スノードロップ
  3. まっしろな世界で君と
  4. 硝子のピース
  5. 橙のレギ
  6. 時間で出来たおにぎり
  7. 23時23分
  8. 桜の花びらを君に