春の淡雪

寂しい男女の話です

寂しい男の話

   春の淡雪

 前略、あなたが好きです。
 面と向かっては、チサトなんて、呼び捨てにできないけど、だけど、つい、僕の中に肥大化した君が、どうしても忘れられなくて、僕の中に生まれた、もう一つの君に、どうしても手紙を出したくなってしまうのです。ハラグチヒトシです。覚えていますか?
 僕は、あなたに、死ぬ前に1回あなたに会いたいのです。今どこで、何をしてるのでしょうね。教えてください。興信所みたいなものは、使いたくありません。そして、僕はストーカーになるつもりもありません。でも、どうしてもあなたに、死ぬ前に1回、あなたに会ってみたいのです。
 君と出会った頃のことを思い出します。桜が散って、八重桜の季節でしたね。そのころの僕は君を見ても気になることはありませんでした。そして君を、君をよく見て、じっと見つめてしまって、目が釘付けになり、君から目が離れられなくなってしまったのです。しばらくしたら、今度は、あなたを見つめることすらできなくなってしまったのです。
 よく覚えています。新緑の若葉がなんだかむっとした匂いを漂わせている、ちょうど5月の終わりか、6月のはじめぐらいだったと思います。ちょうど僕の、斜め前の席でしたね。互いに高校1年生でしたね。今でもはっきり覚えています。
 僕は新しい環境に馴染むのが苦手な方でした。もちろん今でもそれは変わりありません。だから、新しい学校に入って、浮ついた気持ち、不安、なんだか居心地の悪い気分。教室の中の空気。新しいクラスメート。押しつぶされそうになって、僕にとってはなかなか難しい季節でした。ずいぶんとストレスがかかっていたようにも思います。よくつぶれなかったなって、そう、世の中にはつぶれていく人もいっぱいいますよね。不登校で学校に行けない人も、会社に行けない人も、僕もそんなうちの仲間の一人かもしれない。でも、僕は何とか、運動部に入って、部活に馴染むのにも時間がかかった頃でしたね。もちろん君はそんなことを知りもしないと思うけれども。君の場合はどうだったんですか?君は吹奏楽部に入りましたね。覚えていますよ。
 聞こえていますか、聞こえませんよね。当然です。僕は、授業中、君を斜め前の角度で君を見て、そして、あなたの横顔がたまらなくいとおしくなって、心の底から湧き出す、なにかの塊を、そのエネルギーを感じていました。
 倫理の先生に教わったこと、それこそがそのときの僕の気持ちであると、あとで知りました。それは高校3年の時のことです。ギリシャ哲学を学びました。プラトンはきっと、本当に誰かを、好きになった経験がある人だなと、若くて、青臭い、僕の頭の中で考えたことです。こんな話し、聞かされてもつまらないでしょうね。だから読まなくて結構です。でも、できたら、暇があったら読んでみてください。
 チサトって、呼ばせてください。あなたを抱いてみたかった。もしかしたらどこかで、あなたは誰かに抱かれているかもしれません。僕は、今でも、あなたを抱いて、キスしている夢を見ます。そう、夢は寝ているときも、起きているときも同じようなものです。でも、あなたの中に入ることはできないのです。そういえば高校生の頃、あなたを頭の中で描きながら、あなたが全ての衣服を脱ぎ去って、裸になって、僕のところに近寄ってきて、そんな夢想をしました。でも僕は、男としての何か、そう、勃つことができなかった。今でもそうです。他の女の子を想像したらできるのに、なぜあなただとできないのか、それがなぜだか分からなかったし、今でも分かりません。
 君との思い出は、夏休みに僕が部活に来て、3年間、正確にいえば2年2ヶ月、檻のような体育館で練習をしていたときに、あなたが体育館の脇を通りました。僕はそれを見逃しませんでした。あなたは、当時のはやりだった長いスカートもはかず、それからしばらく経って流行り始めた、短いスカートもはかず、膝が隠れるくらいの丈で、あなたはいつも清楚にしていましたね。髪の毛をいじったり、加工したり、そんなこともなくて、ストレートの黒い直毛が、黒い髪が、風に吹かれて、揺れていました。
 あなたが、そして僕が、夏休みに野球部の応援に行ったのを覚えていますか?もちろん一緒といっても、ただ、学校の集団行事の一つとして行っただけです。自由参加でした。試合の後半になって、急にあたりは暗くなり、雷鳴が響き始め、夏のむっとするような空気が覆いました。あなたは、突然の雨で、ものすごい風と雷雨で、球場を覆って、夕方の4時くらいだったかな?すごく、暗くなって、みんな雷が鳴り始めて、屋根のあるところに逃げ込みましたね。僕はそのとき、野球の試合のことなどどうでもよかったんです。ただ君を、探しました。友達と話しているときも、上の空で、でもその光景は決して忘れない。その光景は僕の人生を支えている。そう思います。あなたはいましたね。見つけました。灰色のコンクリートの壁のところに、あなたは、いました。髪の毛はびっしょり濡れて、雨粒が黒髪からポツポツとあなたの髪を伝って落ちていきましたね。そしてあなたは、ブラウスがびしょぬれでした。そして僕は見ては行けないものを見てしまったのです。あなたのブラジャーを。雨に濡れて透けて見える。他の女の子も、確かに濡れてブラジャーが見えました。赤や黄色や青のブラジャーをしている、そんな人たちもいました。だけどもあなたはそういうことに興味はなかった。あなたは真っ白なブラウスを着ていた。そして真っ白なブラジャーだった。その光景、蒸した空気、雨。雨の音、忘れられない一つの光景です。
 高校1年の時、9月になって、遠足に行きましたね。クラスのみんなでバスに乗って。そして男子と女子がそれぞれボートに乗りました。あなたと僕の距離が最も近づいたのは、そのときでした。信州の北、木崎湖に行ったんでしたね。少し山を、軽いハイキングをしました。湖のほとりで昼食をとり、そのあとボートに乗ったんでしたよね。覚えてますよ。
 歌のうまい、目立ちたがり屋の男子たちがカラオケを歌ってましたね。先生も歌わされていた。あなたは歌わなかった。君は僕の後ろの席だったから、僕は君の様子をうかがうことはできなかった。でも、常に、あなたのことを意識していた。後ろを向いてまで君を確認する、そんな勇気はありもしなかった。でもおそらく想像がつきます。あなたはバスの車窓に流れる風景を、秋を迎えて、徐々に、徐々に、涼しさを増して、少しずつ夏を捨てて秋を受け入れる、そんな光景をあなたは見続けていたんだと思います。
 そう、そして昼ご飯を食べて、ボートに乗りました。君と僕の距離が、人生の中で一番近づいた瞬間でした。でも残念なことに、もう一人の男子が一緒に乗っていました。3人で乗ったんですね。覚えてますよ、君と僕と一緒に乗ったN君はクラスの中でもお洒落で、かっこがよくて人気者でした。だから僕は、僕なんか、丸坊主にしてそんなに整った顔立ちでもなかったし、完全に僕の負けだと思っていた。
 あなたもそんなに背が高くはなかったですね。平均より少し小さいくらいだったかな。そしてあまりおしゃべりでもなかった。覚えてます。ボートに乗ったことは覚えてるんですが、何を話したのか、そんなことはすっかり忘れてしまいました。あなたに、どうしても伝えたかったことは、一つだけ、あなたをなぜか、僕の体中が、僕の脳なのかな、分からないけど、あなたに恋いこがれてしまったんです。理性であなたを判断したんじゃない。もっと別のところが反応したんです。君に会うために、僕は命を受けたのかもしれない。 僕はその街の中で、勉強が得意な人の集まる学校にたまたま入ることが出来、そしてあなたもそこにいた。そして偶然同じクラスになった。それだけのことです。でも、地球に、こんなに人がいっぱいいるのに、なんで。もうあなたを見なくなって20年くらい経つのに、どうしてあなたの代わりが出てこないのか、わからないんです。あなただけです。今まで僕にこんな思いをさせたのは。あなたは罪作りだ。でもあなたに罰を与えるなんて、とてもできない。あなたにつきまとうストーカーになんて、絶対なりたくない。この気持ちはどういう風に説明していいか、理屈では説明できないんです。どうやって説明すればいいのか、誰か科学者でもいて、この感情やこの気分を。なんというか、それをあなたに伝えると言うことが、どうしてもできないし、僕も分からない。もし、今の僕だったら、君に会えば、君に対して、「好きだ」って、いえるかもしれない。ただ、その好き、というのが、一体どんなものなのか分からないけれど、とりあえず、伝えることはできると思います。でも高校生の僕は幼くて、まだ父や母の胎内で、自立していない状態で、僕はいました。だから僕は無意識に母を選んだのかもしれません。
 でもよく分からないけれど、そのボートに乗っていた1時間くらいの間、そんなに乗っていたかな、三〇分くらいだったかもしれないけれど、たしか、あなたは流行の格好をしてませんでしたよね。どんな格好をしていたか、思い出せないんです。僕もどんな格好をしていたのか思い出せません。僕はドレスコードなんか、当時、分からなかった。だからその辺の安い店で、おそらく僕じゃなくて母が買った、シャツを着て、ズボンを履いていたのに違いないです。そして僕は3人でボートに乗った時間、会話は盛り上がらなかっただろうって思います。湖の風景なんかについて、ちょこちょこと、話しをしたかもしれない。クラスの誰かの話題をしたかもしれない。ただ、僕はお洒落な格好をしているN君に負けたと、痛切に感じたのです。どこに負けたのかというと、彼には自立した意志があったように感じるのです。彼は少なくとも親から自立していた。当時そのように感じた。少なくとも自分の着る服については、自分で決めていた。僕はそうじゃあなかった。圧倒された、と、当時は感じたものです。
 あなたは、吹奏楽部でフルートを吹いていた。僕はあなたが吹いているフルートの音色を聞いてみたかった。でも1回も聞く機会がなかった。いや、文化祭の時に、文化会館でやった演奏会の時に、確かに聞きに行った覚えがある。僕はあなただけを追っていた。でも、それだけのことで、君が出した音や息づかいは、聞こえなかった。座った席が遠すぎて、君の姿をしっかり確認することができなかったよ。
 高校2年の時に、君と同じ吹奏楽部に所属していた友人のM君に、つい、君のことが好きだと、口にしてしまいました。でもあのときは、恥ずかしい、恥ずかしいという気持ちでいっぱいだったのだけど、今は後悔していません。今や僕には、僕には、何ら守るべきものがありません。落ちるとこまで落ちた。それだけです。だから恥も外聞もないのです。いや、外聞なんてもっと無い。誰も僕に興味を示す人なんかいない。だから、構わない。でもあのときの僕はなぜか、若かったのか、僕は後悔したのです。もしかしたらM君は、君に僕の気持ちが伝わるのではないかと、淡い期待を持ったように思います。そのころの僕は自我が肥大していて、君と結ばれる可能性がものすごく現実とかけ離れた確率で僕の中で高まったのです。でも結局、伝わったかもしれないけど、君は何のリアクションもされなかったですね。だから僕はフラれたと思った。でもその後も、君と僕は目を合わせることもなかったし、会話を交わすことも1度もなかった。だから、今となっては、あのときの恥ずかしさは、胸が軽くきゅんとなる思い出なんです。
 高校時代の僕があなたを感じることができたのは、修学旅行の感想文だったなあ。製本されて、配られて、君が書いた文章を、まず最初に探した。そして何度か読み返した。自分のページより先に、あなたのページを探した。2年F組、そうです。それくらいです。僕と君がこの冊子の中で繋がっていた。僕は、そのころ頭を丸め、部活にいそしんでいた。だから、そして哲学というものに、なぜか、惹かれるようになっていって、特に宗教的なところ、悟りの世界なんてあるんじゃないかって、結構本気で考えてました。だから、永遠とか、輪廻とか、そんなことも少し考えていて、大原三千院に行ったときのこと、感想文に書きました。3月だから、まだ所々残雪があった。そしてそこの、木立の中で、寺院は静かに時を刻んでいた。そしてそれは、永遠に思えた。永遠・・・。大原三千院。修学旅行以来、2~3回訪ねた。でもいつも、そんな思いを感じさせてくれた。高校2年の時の春休みの修学旅行。
 そして君と僕が高校3年の春5月。噂で君に彼氏ができたと聞いた。隣町の優秀な私立高校の生徒だったという。彼は、おそらく医学部か、それとも東京大学に行くのかもしれなかった。そういうように僕は思っていた。僕は敗残者だと。とても勝ち目はない。最初から勝負はついている。そしてそれを受け入れざろう得ない運命だって。僕は思っていたから。でもその話を聞いて、かすかな、0.00001%の望みが絶たれた。僕はもしかしたら、恐ろしい願望を持っていたのかもしれない。僕は、あなたの処女を・・・無理だよ。だってあなたのことを思うと、僕のあそこは、ヘナヘナと力をなくしてしまう。だから無理。でも、どこかであなたの最初の男になりたかったのかもしれない。こんなことは口に出したことはない。そしてたぶん、誰も読まないこの手紙に、書いただけです。親にも兄弟にも、友人にも言っていない。恥ずかしくて。そして今や、僕には親もいなければ兄弟は遠くに去り、腹を割ってはなせる友人は、今は、もういない。遠くへ行ってしまって、親友と呼べるような友達と、もう3年は話しをしていない。年賀状は届くけどね。いいんですよ。四十男の生活はこんなものです。
 あなたに彼氏ができたという話を聞いたとき、食べ物を摂る、という力を失ってしまいました。何も食べられなくなってしまった。こんな経験初めてです。僕は3年間、あなたという魔力に、耐え続けなければならなかった。あなたが何かをした、何か言った、そのことに、いちいち、いちいち、意味を考えなければならなかった。それでも、僕は、いくら意味を考えても、それは行方不明でした。
 そういえば僕は、高校時代の写真はほとんど残っていないんです。別に撮らないようにした訳じゃない。でも、なぜかないんです。修学旅行の時のスナップが数枚。あとは部活の大会の時に、チームメイトの保護者が撮ってくれた数枚。わずかな写真。これだけが僕に残された、わずかな痕跡です。今はもう見る気もしません。でも、あなたが写っている写真はたった1枚しかない。1年生の時、入学式の時に撮った集合写真。その写真は、一人一人に配られ、君も写っていた。それだけです。君を感じられる。実在した君を確認きるものはそれだけです。でも、君は、僕の中では、悲しいけれど妄想の世界の存在かもしれない。君は実在してるんです。現実に存在しているんです。心の中に明確な形を持って。生き続けているんです。僕は君だけを支えに。君に会えた喜びと、君に会えた辛さ、この二つを背負いながら生きていきます。もし今、僕に、だれかが生きてきた意味を問えといわれたら、君に出会ったことだと答えるだけでしょう。
 そういえば、いつだったか、町の大きな本屋で、参考書を探している君に出会ったことありましたね。そして僕は、一瞬だけ君を確認したことがありましたね。君は僕を見なかった。僕はそんなに凶暴な男じゃない。いや、わからない。でも、君に危害を加えるつもりは、全くなかった。本の匂いと、受験をしなければならないという焦りみたいなものが、君に偶然出会ったということによる、心の動揺とが相俟って、なんか折り合いがつけられない、奇妙な匂いとして、今も僕の記憶の中に残されている。そして、君は消えた。君は別のコーナーに行ってしまったみたいだ。僕は君を追いかけて、本の山をぐるっと回ってみたところ、君の姿は見つけられなかった。僕はあわててもう1件の別の本屋に自転車で駆けつけてみた。でも、君はいなかった。どこにもいなかった。あれは君だよね。君によく似た幻を見たのかな。そんなことはないよね。僕はだから、僕はこのまま気が狂ってしまうんじゃないかと、ずいぶん恐れた。僕は、幻想や幻聴を聞くという、そんな病気にかかるんじゃないかと、そう思った。なぜならあなたというものを、過大に、そして幻覚のようなものを、そして幻覚ではなく、その本人として、つまり僕自身なんだけど、実在するものとして君に対して、大きく大きく捉えていたからだ。いや、そして受験の季節。僕は部活を引退し、半年間だけ、朝から晩まで勉強した。しかし、僕が目指していた大学には遠く及ばない。学力不足だった。僕は東京のW大学の文学部に進んだ。あのときのことはよく覚えているよ。君がどこの大学に行ったのか?それだけが、卒業式の時の思い出だ。僕は、自分から聞くことはせず、いろんな友達たちがする雑談に聞き耳を立てていた。
 そして大学に入って2ヶ月くらい。ある友達から、君が、医学部を受けて落ち、東京の私立の女子大に行ったということを聞いた。ホントかどうかわからない。たぶんホントだ。僕は東京に出た。君も多分出た。「あずさ号」に乗って・・・。方向は間違っていない。君ともう一度巡り会う機会は、そう簡単に訪れなかった。そして僕は、中央線沿線の阿佐ヶ谷に下宿を構えていた。僕ははじめて親元から出た。強力な吸引力を持つ母親の元を離れた。ようやく逃れられられるようになった。しかしお金の面では、親にかなりの分を出して貰っていた。
 東京という町の恐ろしさ。汚さ、混雑、文化。僕は大学に来て、いろんな世界があることを知った。テレビ局の世界、芸能人の世界、哲学の流行の世界、歴史の流行の世界、いろいろ知ったけど、僕にとって、役に立つ情報ではなかった。ただ知っていれば良かった。話を合わせて、だから僕は、ありとあらゆる分野の概説書を買って、そう、別冊宝島みたいなヤツだ。そして、カタカナの単語や人の名前を覚えた。そう、覚えるのは僕は得意だった。でも、肝心の、君の発した言葉の内容、音、雰囲気、これは思い出せない。
 音楽の世界でも同じだった。渋谷洋一の番組なんか聞いて、雑誌を買って、プログレッシブロックとか、ブルーアイドソウルだとか、そんなもの。劇団もそうだ。野田秀樹や鴻上尚史などの劇団を見に行った。アングラの、小さくて狭く、体育座りで2時間半我慢するような劇団も見に行ったよ。アバンギャルドのね。
 文学だってそうだ。ヌーボーロマンだとか、フォルマリズムだとか、よくわからないけど、とりあえず、レヴィイ・ストロースあたりから入って、読んだよ。面白かったね。知的マスターベーションというヤツかもしれない。言葉の遊びさ。金にならない。マルクス主義はもう、だいぶ衰えていたからね。だけどもう僕にとって、傍らに通り過ぎていく風景にすぎなかった。本当の風景は君だけだ。 そう、大学2年の初夏、僕は君を見つけた。西荻窪から吉祥寺の方に向かう道を、僕はなぜか歩いていた。そのとき君を見たんだ。君は閑静な住宅街を歩いていた。サツキが咲き、薔薇がそれぞれの民家の庭先で花を付けていた頃だ。僕は間違いないと思った。そして、僕は君の後を追った。君は右に曲がる。姿を消した。走らなければ追いつけなかった。でも、走ったらストーカーだと思われるから、少し早歩きをしてその交差点に来た。「通すな外環、千人集会」だったかな、そんなポスターが貼られていたよ。曲がったとたんに、君の姿はなかった。あれは多分君で間違いじゃない。君は少し背が低くて、色白で、そして、高校時代と同じ、清楚で、黒髪。流行のディスコ風のボディコン・スタイルなんかしていなかった。君は案外、鈍くさい女の子だったのかもね。僕も、ポパイとかホットドックといった雑誌を買い始めたときだから。メンズクラブを買って、アイビールックを上から下までとりあえず揃えた。
 そうこうしているうちに、僕にもつきあう女の子ができた。でも、一緒にボウリングに行ったり、食事に行ったり、といった程度だ。もちろんそれは君ではなくて、新しく知り合った彼女だ。人生はじめて、僕は女の子と付き合うということを始めた。僕は生まれて初めてセックスというものをした。それはただ単に、何かといえば、経験したかっただけの話だ。快感とか喜びとか、愛を成就するとか、そんなことはまるでなかった。ただ、経験したかっただけだ。だからそれは、新しい流行の音楽を知り、または、新しい哲学者の新刊本を読む、そんな程度さ。もしかしたら、僕の心の中では、君への復讐だったのかもしれない。君は、高校3年のときに彼氏と付き合った。もしかしたら、君は処女を奪われたのかもしれなかった。僕の童貞は、君以外に捧げる、いや、君と僕が、同時に処女を捨て、童貞を捨てて、神聖な、行為に及ぶこと、それが心の奥底からの願望だったのだ。それは成し遂げなければならない宿命だった。でもそれは、君が勝手に崩してしまったんだ。だから僕も、君以外の女の中に入れた。
 程なく僕はその彼女と別れた。就職してから、僕は東京に本社がある、一部上場だけど、あまり聞いたことのない名前の会社に就職した。僕は、あの信州の北アルプスの麓から、東京で暮らすことを決めた。そして北アルプスの麓のあの街には、もはや帰らないことを決めた。父と母も名古屋へ、そしてやがての話だけどね、東京近郊の街へ引っ越してきた。僕は高校時代以来、父母と同居していない。高校時代以来だ。ずっと一人暮らしだ。そう人生の半分以上一人だ。一人には慣れた。テレビやラジオやコンビニエンスストアがあり、時間をつぶすには困らない。
 入社して2年目だったか、母校から手紙が来て、母校の同期の同級会が行われることになった。僕は、友達には行きたくないなんていいながら、どうしても行って、確かめたかった。僕は、絶対に行きたかった。君を見たかった。でもそのとき、最大の過ちを犯した。僕はそのとき、君を見たはずなんだ。でも覚えていない。そして君のことを友達は、高校時代より、魅力がなくなったと言っていた。そう、君は、高校時代は学年の中でも、みんなが狙う、一、二を争う美人だったからね。でもだめだよ。隣町の学校の優秀だといわれている男以外の男とは付き合ったことは無かったんでしょう?誰かに告白されても、君は、はねつけたんでしょう?僕に対して無視したようにね。そう、Mくんから話は聞いていたはずだ。そして僕は2次会に行った。君はいなかった。ホテルを利用した1次会のパーティーは、広すぎて、人が多すぎて、僕もそう、ちょっとだけ、君以外の女の子と付き合っていた過去のことが、少しだけ罪悪感を感じさせていたのかもしれない。でも、今考えてみれば、たいしたことじゃなかった。後悔してる。君にあって、そう、話をしたかった。できたら抱きしめて、君の小さな背中を、ぎゅっと、押しつけそして、そう、僕がしたかったのはセックスじゃない。口吻だ。今、はっきりわかる。君に、キスしたかった。そして君は僕に抱かれたまま、目を閉じて、僕は続けて、頬にキスをする。目を閉じたまま、君は静かにしている。決して君の中に入らなくてもいい。そう思う。仮定の話だけどね、君を見てもいない男が、本当の君に出会うって、できるはずもなかろうよ。
 月日が流れて、母校から名簿を買ってほしいという知らせがあった。当然買ったよ。5千円も払ってね。でも、君の名前も住所も、どこにもなかった。母校から送られてくる広報誌に、寄付金を払った人の名前が出ている。でも、僕は、君の名を目にしたことはない。今何をしてるんだい?君は今、一体どこにいるんだい?教えてよ。ストーカーにはならない。ただ、もう1度君に会えればいい。君に会えれば、僕の人生は完結する。そう、君を思うことのできる人生を、幸せだったと思いたい。君に、君に会えたことがすべてだ。
 

  僕は、まもなく、この世を去ると思う。医者は直接言ってはいなけどね。僕の大腸にはガンが見つかっているからね。限りある残った時間の中で、君に会えるなら、本当に、奇跡的な偶然があるのなら、生きて生きて、生き抜いて、君に会いたい。僕は、来週から東京の病院に入院だ。医者は、僕に、「家族はいないのか?」、と聞いてきた。でも僕は、「いない」。と答えた。随分前から血便が出た。僕は、医者に行き、そしてレントゲンを撮り、診察を受けた結果、ガンだと分かった。あとどれくらい生きられるのか?分からないけど、君に会いたい。
 不思議なことに、僕の叔父が、去年ガンで死んだ。とてもかわいがってくれた優しい叔父だ。叔父は、松本で事業に失敗して、東京近郊の街に越してきた。叔父は、子供がいなかった。でも、とても優しい奥さんがいた。叔父の人生も、60数年、短かったけど、僕は母の弟であった叔父が、大好きだった。僕の母方のいとこはみんな女だったからね。唯一の男の甥である僕を、随分かわいがってくれた。だから僕はその叔父が大好きだった。そして、父の葬儀の時、久しぶりに会った。叔父は随分やつれていた。年齢以上に老けて見えた。程なく叔父はガンで倒れ、そして亡くなっていった。
 しかし父の葬儀の時、叔父から不思議な話を聞いた。そう、僕と君を繋ぐ、本当に不思議な話だ。本当なのか分からない。ヤマモトという家が、本当に君のルーツの家だったのか分からないけど、僕と君のルーツが、北アルプスの麓にある、穂高という小さな街の、その街から始まったと言うことを、叔父の話をかいつまんで、君に伝えることはできないけど、でも、僕と君は繋がっていたんだ。でも繋がっていたことを君に伝えるすべはいまない。そう、叔父から聞いた話は、僕の祖父と、君の祖母の話だ。
 叔父は白い長袖のシャツと黒いズボン。弔意を表す黒いネクタイを締めていた。少しはげ上がっていた髪の毛に、ポマードのように見える整髪料をつけ、そこから少し独特の匂いがした。通夜の宴席で、だいぶん酒を飲んでいた。でも、相変わらずの笑顔は変わらなかった。
 僕は良く叔父の家に遊びに行った。叔父の家には子供がいないから、叔父もそのお嫁さんも随分喜んでくれた。僕は楽しみで、しょっちゅう寄っていた。しかしそれも中学校までだ。そのあと高校では部活をやり、訪れることはほとんど無くなった。そして東京の大学に進むと、ますます会うことはなくなった。だから僕は、叔父とよく話したのは中学生までだった。社会人になっても、同じ東京近郊に住んでいても、なかなか会う機会はなかった。年賀状は毎年交換していたけど、通夜の席で会ったのは本当に久しぶりだった。僕が結婚をしていなくて、父母がこの世を去ったことに、叔父は触れなかった。叔父は上機嫌で、いろんな昔話をし始めた。父と叔父が昔良く麻雀をやったとか。パチンコ屋に一緒に行ったとか、お酒を飲んでぐでんぐでんに酔っぱらったとか、そんな話しばかりだった。話が進んでくると、叔父は、自分の父の話をし始めた。そう、僕の祖父だ。祖父は若い頃アメリカに住んだ経験を持っていると聞いていた。しかも、戦前の話しだ。そして、帰国してからは肝臓を患い、50代半ばで死んだと聞いていた。母は良く祖父の悪口を言っていたものだ。ヒロポンの中毒。それが終わったら、今度はアル中だ、働きもしない。でも、祖父が死んだとき、叔父は当時中学生で、叔父にとって、祖父は、神様のような存在だったらしい。今でも、誇りに思っているようだった。
 戦前、戦争中、自由主義者ということで、特高に狙われていたという。祖父は松本や安曇野に土地を持つ大地主だった。そう、小作人から巻き上げる小作料で生きていたからね。でも、彼は、自由主義者で、貧富の格差のない自由な社会を求めていた。戦時中、大きな邸宅の屋根裏に、隠し部屋を設けて、米軍のラジオ放送を聞いていたという。良く特高に逮捕されなかったものだ。そして、叔父は祖父の話を断片的に覚えていたみたいだが、やがて、叔父は、二.二六事件について話し始めた。叔父がこの話を聞いたのは、たった一度きりだという。祖父は珍しく、昔の話しをしたということで、叔父はよく覚えていたらしい。同じように酔って、同じ話しを繰り返していた祖父の話はすっかり忘れて、でも、この二.二六の話しだけは、叔父は忘れなかった。そして叔父は僕に、通夜の席で、この話しをしてくれた。まだ、祖父は若い頃だった。おそらく三〇代だった。そのときね、そして、祖父には好きな人がいたらしい。それは、ヤマモトサユリさんという、女性だったそうだ。しかし、祖父はヤマモトさんと結婚することはなかった。なぜならヤマモトさんの兄が、猛烈に反対したというのだ。


 一九三六年、二月二六日、夜の東京。ヤマモトサブロウは帝国陸軍の安藤中隊に所属していた。この男の出身は信州の安曇野の田舎町だ。彼の家は貧しく、小作農を営んでいた。彼は皇国の発展のため、そして、白色人種の横暴を食い止めるため、そしてアジアの独立のために立ち上がるべき、という思想を持っていた。たまたま安藤大尉の隊に組み込まれていた。そうして、安藤大尉たち、青年将校たちは決起することになった。ヤマモトの記憶によれば、この夜は随分雪が降ったという。安藤の檄に対して、下士官は誰も反対するものはなかったという。ヤマモトはこの東京が、アジアで最も繁栄し、工業化が進められてきて、そしてその東京が、白い雪に覆われていく様を目のあたりにした。安藤の声が鳴り響く中、ヤマモトの心は高鳴っていた。天皇陛下を仰ぎ、国民は赤子として平等であらねばならない。今の、大資本家や政治家、一部の特権階級が権勢を欲しいままにしている。こんなことは許すことができなかった。
 ヤマモトは自分の家のことを思い出した。ヤマモトは三人兄弟の二番目だ。兄は農業を嗣いで家計を助け、妹は看護学校を出て働いていた。この街に、ミズタという大きな地主の家があった。ミズタとヤマモトは同級生で、同じ小学校を卒業した。ミズタは大学に入るために東京に出て、慶應義塾を卒業し、アメリカに渡った。そして帰国していた。ミズタのような大地主、ヤマモトにとって許すべからざる存在だった。
 深夜の行動は半ば成功したと聞かせられた。しかし、安藤中隊、決起軍は、翌日から、包囲されていくこととなった。まるで雪が解けて、藻くずになってしまうような、淡雪だ。彼は山王ホテルでの守備隊を任ぜられた。ヤマモトは日が経つに連れ、イライラし始めた。しんしんと降り積もったあの夜の雪の、あの、高揚感はどこに行ってしまったのか?苛立ちと焦り、そして、時の権力の底力というのか、なにやら訳の分からない、世間の圧力というものを感じ始めていた。それはヤマモトにとっては、超えられない物であった。ヤマモトサブロウの所属する安藤中隊は、いよいよ、降伏をするということを知らされた。この東京の永田町の山王ホテルの拠点は、もはや空洞となり、陰りがあった。そして、ついに、決起部隊は投降した。将校たちは処刑され、下士官たちはちりじりにされ、各連隊に送られることになった。やがてヤマモトは、大東亜戦争の開始とともに、南方に送られ、そして、サイパンでヤマモトは命を絶った。
 ただ、事件の年の夏、ヤマモトはミズタと会って話しをした。暑くて、田園の田より沸き上がる水蒸気。ワサビ田を流れる小さな川。まるで世界史の大河から取り残されたかのような、そんな安曇野の、旧盆だった。ヤマモトはミズタの家を訪ねて、
「ここではなんだから、外で話そう」と言い、ふたりは小さな、街のカフェに入った。
 そこで、ミズタは切り出した。「君の妹さんが好きだ。もうこの気持ちは消えない。だから、僕と彼女を結婚させて欲しい。お願いだ。」
 するとヤマモトは、水を一口飲んだあと答えた。
「無理だ。」
「なぜだ?」ミズタは言った。
「おまえも分かっているだろう。身分が違いすぎるだろう。俺たちの革命は失敗したんだ。この国はそういう国だ。それでもオレは、この国のために戦い続ける。帝国陸軍でね。」
「違うよ、僕はこんなのは嫌だ。」
 外ではミンミンゼミが激しく鳴き、この一瞬の旧盆を、先祖との出会いを感じさせる光景に変えていた。ミズタはこのあと東京に戻る予定だった。彼は、ラジオの仕事をしていた。東京の中野に家を借りて住んでいた。ヤマモトは旧盆が終わるまで実家に帰省し、そのあとここを離れ中国に向かうことになっていた。
「なぜ違うんだ?僕はアメリカに行ってきた。あの国は身分の制度など無い。自由に発言でき、誰にでもチャンスがある。僕もそんな国を作りたい。
ヤマモトは言い返した。
「おまえは共産主義者だろう。または社会主義者なんだろう。今に、アメリカは日本の敵となる国だ。俺はそう思っている。奴らも中国を狙っている。アジア人のために守り抜かねばならない地だ。」
 確かにヤマモトの予言は当たった。日米の開戦は一九四一年。昭和一六年のことだ。ヒトシの母の生まれた年だ。ヒトシの母は、ヤマモトの妹ではない。別の女とヒトシの祖父の間でできた子供だった。松本の商家の出の女だったらしい。誰かが引き合わせたのだろう。呉服屋か何かをやっていた家で、大きな店構えだったという。ミズタの一族は、安曇野の街のみならず、松本にも大きな土地を保有していた。ミズタはそのことを苦悩していた。なぜなら、ミズタみたいな人間が、自由とか平等とかを説いていいのか。たまたま、地主に生まれたミズタが、民主主義が必要だと叫んで良いものだろうか?世の中は昭和恐慌のあおりを受け、不景気に泣いていた。不景気の波がこの信州の小さい街にも及んでいた。日本は何かを変えなければ行けない時期に来ていた。しかしその変化は、最も悪いシナリオに向かっていたようだった。ミズタは、ヤマモトが言ったことが頭を離れなかった。
「おまえのようなものに、妹をくれてやることはできない。オレはもう、この家の当主だ。この家のことはオレが全てを決める。」
「妹さんの気持ちを大切にしてくれないか。妹さんは、僕のことを好いていると思っている。間違いない。僕は東京から帰るたびに、彼女に会った。もちろん彼女に手を出してはいない。そんなのは当たり前だ。」
「おまえたちブルジョワジーと、俺たち貧民の暮らしが分かるというのか。ただ、頭の中だけで、自由だの平等だのと叫んでいて、俺たちは違う。体を張って、大地に根ざしている。半年前の革命は失敗したけれども、いずれそういう時代がくる。おまえたちみたいな寄生地主は、やがて放逐され、俺たちの時代がくる。間違いない。日本は、やがて世界の、最大の強国に成長する。そのはずだ。」
ミズタは言った。
「違うだろう。オレはアメリカに行ったことがあるからよく分かる。あの連中は、巨大な物質文明を作り上げている。奴らと戦うのは無謀というものだ。これからはアメリカの時代になる。間違いない。アメリカと戦ってはダメだ。」
「なぜそんなことを言う。」
「僕が映像の師匠として仰いだ人物はユダヤ人だった。ユダヤ人、知っているだろう?差別されているんだ。向こうではね。金に汚いとか。でもあいつらは、独創的な思想、学問、誰も探さないところに富を探し出し、そして新たなものを発明し、そして差別されたものの反感とでも言うのだろうか、そのエネルギーは凄まじく、芸術の分野でも素晴らしい功績を残している。そういう連中だ。僕はそういう連中から、アメリカという国が今後どうなるか聞いた。ユダヤの連中はみなアメリカに逃げてきているそうだ。これからはアメリカの時代がくるとね。ニューヨークへ行ったことがある。一度だけだけどな。二~三日泊まった。摩天楼というのは知っているか?東京もいいところだし、都市文明が発達している。しかしニューヨークはもっと、物質文明の粋を集めた、凄まじいパワーを感じる街だった。おまえも行ってみればいい。」
「俺もいくさ。いずれね。アメリカと戦って、ニューヨークを占拠する。そして陛下を中心としたこの国体を世界に広げていく。」
「何を言っているんだ。まず、アジア一つもどうにもならないじゃないか。」
「中国との戦争なんだ。おまえに帝国陸軍のことを、ああだ、こうだ、言われる筋合いはない。とにかくオレがまず成し遂げたいのは、陛下を中心とした、平等な社会だ。そして、おまえも知っているだろう?古代ギリシャのスパルタという国だ。市民は体を鍛え、戦い抜く。そういう国にするのだ。とにかくサユリの件はあきらめてくれ。おまえとは身分も違うし、おまえみたいなブルジョワは大嫌いだ。頭脳先行で、ファッションを追いかけて、命を賭けない。簡単にいえば非国民だ。アメリカにこの日本を売れというのか?そんなヤツにオレの妹を嫁に出すわけにはいかない。おまえの家の方だって、こんなに貧乏な小作人の家の娘を、嫁に迎えるなんて、きっと反対されるだろう。」
「いや、そんなことはない。俺もおまえもそうだけど、うちの父はもう死んだ。だから僕の家のことは僕が決めることができる。間違いない。僕の判断で結婚できる。サユリさんを、僕は好きなんだ。このことはサユリさんに言ったことはない。ただサユリさんを誘って、お茶を飲むだけだ。彼女の清楚な匂い。僕は君の妹さんを見るたびにね、胸がとてつもなく痛くなる。君の妹さんが僕にとっては、人生そのものなんだ。君の妹さんを欲しいと思う。他の何かを全て失ってもだ。そう、時々悪魔の誘惑に駆られることがある。正直に話すよ。金の力で買えないかってね。ふっと頭をかすめる。邪悪な考えだ。僕の、僕の思想を裏切ってまで、手に入れたくなる。でも、それは絶対違う。僕の理性はそこまで落ちてはいない。だから僕は、あくまで正攻法で、君の妹を、対等なパートナーとして、迎えたいと思ってるんだ。」
 ヤマモトは言った。
「ふざけたことを。貴様、人の心を、心まで買えると思っているのか?ふざけたヤツだな。いいか、オレはこれから、中国、満州に出かける。その後どうなるか分からない。アメリカやイギリスと戦争が始まるかもしれない。アジアの開放だよ。今までの歴史を知っているだろう?日本もあわゆく、植民地にされるところだったんだ。そしておまえはアメリカに行き、何を学んだと言うんだ?えっ、ひどい話しじゃないか。」
ミズタは小さな声で言った。
「アメリカから、学ぶものはあるよ。アメリカを舐めちゃいかん。」「もうこれ以上話しても無駄なようだな。」
ヤマモトはガラスのコップに注がれた水を一杯飲み干して、立ち上がった。ミズタは、後を追うように立ち上がり、
「ここの勘定は僕が払う。」と言った。
するとヤマモトはミズタの胸ぐらをやおら掴み、
「そういうところに地主根性が出てる。そういう態度に出るヤツは許さない。俺は俺の分を払う。思えはおまえの分を払え。」
 そうして、ツクツクボウシが鳴き始めた頃には、ふたりともこの街から姿を消していた。ヤマモトは部隊に戻り、そのあとすぐに中国大陸へ向かった。ミズタは、東京へ戻り、仕事を続けた。ハイカラな仕事というやつだ。
 やがてヤマモトの予言通り、近衛内閣から東条内閣に変わると、一九四一年一二月八日に、アメリカとの戦争が始まった。ミズタは松本に逃げた。そしてそこからあがってくる小作料で暮らしを続けた。一方、ヤマモトは満州から南方に送られる事になった。ヤマモトはどこかで戦死したらしいと、ミズタは風の噂で聞いた。山本の妹のサユリは、地元の男と結婚した。ミズタはこの話も風の噂で聞いた。ミズタもまた呉服屋の娘と結婚し、こどもをふたりもうけ、その子供はヒトシの母であり、ヒトシの叔父だった。
 戦争は、二発の原子爆弾が広島と長崎に落ち、終わった。アメリカ軍がやってきた。ミズタの心は複雑だった。アメリカに対する愛憎半ばする感情が、彼を空しくさせた。しかしアメリカで覚えた英語は、役に立つものだ。ミズタは米軍の通訳をし、その後は英語教師などをして生活を立てた。そしてミズタの所有する土地は、大部分小作人に分け与えられた。それでも彼の持つ土地はかなりあった。
 ミズタは、毎日のように酒を飲むようになった。そして、人を呼んでは陽気に振る舞った。空しさを吹き飛ばすかのように。自由で平等な世の中が実現したじゃないか。平和な国が訪れたじゃないか。自分は社会主義者ではない。共産主義者でもない。自由主義者だ。ミズタの心からは、どうしてもアメリカの体験から抜けきることができなかった。やがて朝鮮戦争が始まり、ソ連が強国として台頭し、アメリカでも日本でも社会主義への警戒感が強まった。やがて、ヤマモトサユリのことなど頭に浮かばなくなった。ヒトシの叔父が中学生になった頃、もはや、大方の財産は使い果たしてしまった。あとは家と土地が僅かに残るだけ。ヒトシの祖父母はよく離婚しなかったと、ヒトシは考えていた。これだけ財産をなくし、それも、自由で平等な世の中が訪れたことが、ミズタの没落を早めた。ということを、ミズタはうっすら気がついていただろう。
 ヒトシの祖母は優しい人だった。そして、ミズタは息を引き取った。哀れな最期だった。


 叔父は通夜の席で僕ににこう言った。
「いやあ、爺さんはねえ、悪い人じゃなかった。人がよすぎたんだ。だからさあ、財産や何から何までなくしてしまった。いいのさ、それで。いい人だった。」
「じゃあ、おばあちゃんは、サユリさんという人は知っているのかなあ?」僕は尋ねた。
「わからない。オレは、親父から聞いたのは一回だけ。だいぶん酔っていたときに聞いただけ。もしかしたらおまえのおばあちゃんは、知っていたかもしれないなあ。」確かに祖母は二〇年以上前に亡くなっていたから、聞くすべはなかった。そして叔父はこう付け加えた。
「うちは、ガン家系だからな。気を付けろ。」
 その通り叔父の死後、ガンにかかってしまった。
 僕は、死ぬなら東京のど真ん中と決めていた。その理由はなんだか分からない。ただ、あの二.二六事件が東京の中心の永田町で起こったこと。それは叔父からも聞かされていた。叔父は、東京近郊の病院でなくなった。父も東京近郊の老人病院でなくなった。自分はこの世に何か痕跡を残すことができなかった。そのように僕は考えている。もし何か残すとしたら、東京の中心で。僕の人生をふり返ってみた。自分は、なんの悪いこともしていなくて、世の中に何か迷惑をかけたこともない。そう自分の人生を総括していた。幼少の時からの人生を思い返してみて、一点の曇りもないことを確認した。しかし、唯一思い出すと恥ずかしい気持ちがいっぱいになることがある。それは君のことだ。それが、もしかしたら僅かに残った後悔であるかもしれない。あと、どれくらい生きられるか分からない。君を捜すことをしてみようか。僕は、なぜ君を捜すことを断念したのか、そうして、医師から言われた言葉をもう一度思い出す。
「だいぶん、厳しい状態にありますね。」
 僕は自分の余命を、三ヶ月から半年と覚悟した。ネットや書籍で、僕の症状を確認した。そして、僕は衰弱をしていった。やがて二〇〇八年の正月を迎えたよ。そうして、日に日に、僕は力を失い、僕は抗ガン剤による痛みと、うつ症状に苦しめられていった。常に、君のことを思い出したよ。
 僕は恵まれた人生を送った。君と出会った。そのことだけで十分だ。他人に迷惑をかけていない。僕は後世に何かを残してはいなかったけれども、そういった人間は山ほどいる。そのうちの一人に過ぎない。なんの悔やむこともない。充実した人生を送ってきた。
 僕はどうしても東京の都心で死にたかった。それだけは、僕の最後のわがままだと、世間に思ってもらいたい。僕は東京の千駄木にある大学病院を選んだ。そしてそこで、最後を迎えようと。その病院に入るための努力は精一杯した。予約を取り、診察を受け、地元の病院から紹介状を送ってもらい、ベッドが空くのを待った。そしてようやく一月の下旬に、その東京の病院に入院することが決まった。寒い日が続いた。関東平野は、真冬は日差しがある。しかし、強い北風がその暖かさを取り除いてしまう。久しぶりに来た都心だ。僕が学生時代によく通った小さな映画館。まだあった。高田馬場を早稲田まで歩いた。彼は昔会った食堂を探した。懐かしい人生の一ページだ。そのあと新宿から中央線に乗って、阿佐ヶ谷まで出た。その日は西荻窪まで歩いてみようと思った。僕は、朝から、ゆっくりと、地図を頼りに歩き続けた。二〇年前と少しも変わらないような風景が続いた。僕は少し安心した。そして、吉祥寺の方へ向かった。僕は君が通った大学を横目で見ながら、ようやく吉祥寺の駅に着いた。そこからまた中央線に乗りそこから病院に向かった。そして診察を受けた。久しぶりに君の匂いを感じられたような気がしたよ。寂寥感の中に一筋の明るい日差しを見た気がする。さあ、明日から入院だ。僕はほとんどの家財道具を処分した。叔母に頼んだ部分もある。もし僕が死んだら、片付けて貰えるように。机と椅子。君へのこの伝言は机の一番上の引き出しに入れておく。誰も読まなくていい。いや、読んで欲しい気持ちが少しだけある。特に君にね。でもいい。僕の人生のほとんどをこの手紙の中に書いた。
 最後にね。本当にありがとう。君に会えた偶然。チサト。いや、チサトさん。好きだよ。愛している。もうすぐ僕のこの胸苦しさは終焉を迎えるんだね。君とは結局結ばれることはなかったけど、このはち切れるばかりの思いは真実さ。これで終わりにするね。くどくど書いてもしょうがないから。

PS どうしようもないぐらい、腑抜けになってしまうくらい、君が好きだった人生だった。さようなら。


 ヒトシは便箋に書いた何枚かの手紙を細長い白い封筒に、丁寧に折りたたんで入れた。封筒にのり付けをして、その部分にハートマークを書き込んだ。書き込んだあと少し後悔した。子供っぽいかなと。でも、誰も見ないだろうし、見ても叔母くらいだ。どうせ死ぬから、気にもならないはずだ。そう思い直して、何も入っていない、机の一番上の引き出しに入れた。ヒトシは電気を消して床に入った。



 翌朝ヒトシが入院する日が来た。二月一四日、バレンタインデー。ヒトシはこの日を特別な思いでふり返った。そういえば、高校時代の二月一四日、彼はまず自分の靴箱を確認し、誰にも見られないようにしながら、入念に、そう、あの子から届いているはずのチョコレートを探した。しかし彼自身、その可能性は、〇.〇〇〇〇〇一%、その可能性はほとんど無いことは分かっていた。教室に入って、今度は自分の机の中を、探した。誰かに見られないようにそうっと。自我が肥大し、回りは自分に注目しているものだと思いこんでいた。練習が終わった夕方、また、靴箱を見る。ない。さらに、帰宅する道沿いに、彼女の姿を探すが、あるわけがない。チョコレートを三年間待ち続けた。しかしヒトシは、見つけることはできなかった。やがて、その二月一四日。病院の事務所で手続きを取り、前金を払った。会社は一二月に辞めていた。送別会をやってやろうか、という声もあったが、ヒトシは丁重に断った。いや、僕は病気で止めますから、そして退職金、その他の残りの財産を妹夫婦に残すことを決めた。妹夫婦は海外で暮らしている。かれは、その手続きを取るために司法書士の事務所を訪れた。
「私は死ぬかもしれない。残された僅かな貯金は、全て妹夫婦に。妹夫婦の子供の教育費にあてがってくれ。」と遺言のような物を書いた。残りは自分が万一生き残ったときのために備えた。
 ヒトシは、四人部屋の窓側のベッドを得ることができた。そこから、外をのぞむと、忙しそうな東京な光景が目に入った。灰色で澱んだ空気が漂っていた。ここが東京。日本の中心。そして、ふるさとを思い浮かべた。わさび田。マスの養殖場。そして、様々な自然、来たアルプス、美ヶ原、いいんだ、もう、。ヒトシは自分がもう、信州よりも東京に来てからの方が長いことに気がついた。僕も最後は東京で死ぬ人間なんだな、と思った。彼は痛みのない時、そおっと病棟の内部を歩いた。忙しそうに病棟では多くの患者がまるで倉庫に並べられたように配置され、死期が少しだけ遅らせられる。中には、奇跡的に回復にしてここを抜け出す人もいるようだが、ここ、ガン病棟では死者は毎日少しずつでて、空いたところにまた新たな患者がそこを埋めた。
 彼の入院は三ヶ月間と決められていた。三ヶ月の間に死ねなければ、僕は東京の中心では死ねない。なにか、妙な気分だ。それじゃあまるで自殺だ。死を願っているようなものじゃないか。どうしても生き続けたい。生きて、そう、這いつくばっても、泥の中を、蛇のように、生き続けるという、そういう思いと、両者が相まって、激しく対立しぶつかり合った。僕は治療を受けるんだ。そう自分を励ました。だから生きようとする。それでいいじゃないか。
「ヤマシタさん、食事です。」彼の楽しみは朝昼晩の食事だけになっていった。ただ、食欲はあまり湧いてこなかった。テレビを見てもつまらない。やがて彼は、本を読んだり、ラジオを聞いたりするほか、無くなった。暇になり、体調がまずまずの時に、ヒトシは病院内をうろうろ歩くことを覚えた。脳外科、整形外科、内科、患者の表情が少しずつ違うことを感じた。外来はいつも混んでいた。多くの老若男女が忙しそうに、つまらなそうに右往左往していた。自動販売機で缶コーヒーを買い、飲みながら人々の様子、来ているものや履いている靴を眺めては、その人々の日常の生活を想像したりもした。
 ある時、ヒトシが病棟を歩いていたとき、白い看護服を着ている女性の後ろ姿にピンときた。そう、あの子だ。凄まじく心臓が波打ち、ヒトシの心を動揺させた。そうだ。まさか。ヒトシは彼女の後をつけた。ストーカーだ。もうこれは最後のチャンスだ。こんな機会を逃さない手はあるものか。ヒトシは、彼女の後をずっと追い続け、そして彼女は心臓外科のナースステーションに入っていった。そしてヒトシは入院したときに借りた入院服のまま、もう逃げるようなことはしなかった。ただ、見続けた。彼女はこちらを振り向いてくれるようなことはなかった。一〇分くらい経っただろうか。彼女は気がつく様子はなかった。彼は彼女が気がつくことを願い、待った。しかしほどなく彼は、きびすを返して、自分の病棟に戻った。それは仕方がないことだ。でも彼女が、あれは間違いなく彼女だ。次の日、大分痩せてきた自分の姿を鏡で見て、苦笑いをし、再び彼は心臓外科の病棟に向かった。すると彼女が現れた。彼女の胸の名札は「遠藤」となっていた。彼女の顔をもう一回まじまじと見てみる。黒髪とそして、少し低い身長。飾らない様子。嘘だろ?彼女は結婚していたのか。僕と結婚するはずじゃなかったのか?彼女がこっちをを見ているのに気がついた。これは、もしかしたら人生で最初で最後かもしれない。ヒトシは彼女の目を見つめ返した。今やなんの恥ずかしさもない。なんの憂いもない。彼女の目をじっと見つめ続けた。彼女もヒトシの目をじっと見つめた。一分、二分、三分。彼女はずっとヒトシを見つめ続けてくれていた。ヒトシはもう、十分だと思った。
 ・・・僕は間違いなく彼女を見た。彼女と目があった。そして通じ合った。これは夢の世界じゃない。いや、これは夢なのかもしれない。夢は現実で、現実が夢であることもある。でも、間違いなく彼女と繋がった。彼女の中に入った、と思った。・・・
 ヒトシはその日から何度か、彼女がいる心臓外科の病棟に向かった。その経路は、ヒトシにとっておなじみのコースとなった。五階からエレベーターに乗って一階まで降り、そして通路をくぐって別館のエレベーターに乗る。そして七階まで行く。そこが彼女が働いている場所だ。しかしヤマモトではなくエンドウという名字が妙におかしく感じた。
 そうこうしているうちに三月を迎えた。時の経つのはあっという間だ。暦ではもう春だ。三月になって、相変わらず寒い日が続いた。そして、その日が訪れた。朝から、まるで叔父が言っていた二.二六事件の日のように、雪がしんしんと降り続けていた。窓から外を眺めると、巨大な都市東京は、灰色な闇に包まれ、東京全体がもやに覆われているような感じだった。雪が、ラジオで聞くと、今日は大雪になりそうだと予想されていた。都心でも二〇センチ。関東近郊は四〇センチと予報が出ていた。予報通りの大雪だった。ヒトシはこの雪を見て、故郷を、そして自分の高校時代のことを思い出した。寒かった。雪は迷惑千万だった。自転車に乗るのも、歩くのも。しかし彼は東京に出て考え方が変わっていった。雪は、この汚い東京を覆い尽くしてくれる。雪は、メガロポリスを、汚れのない、処女のような東京に生まれ変わらせてくれる。しかし、雪が溶け始めた東京は醜かった。ヒトシはそれを、自分のことだろうと思った。そして雪の様子を見に、屋上に向かった。エレベーターで最上階まで行き、そこから階段を上って扉を開ければそこへ着く。屋上は、緑化されていた。この汚い巨大都市が、腐敗し熱を出していくのを、すこしでも食い止めようとする、人間の罪滅ぼしのようなやり方だ。屋上は高い金網の塀で囲まれており、飛び降りることはできないような仕組みになっていた。今日のような雪の日には、屋上を訪れる人はいない。普段であれば、ベッドから出られるような病状の軽い人が、家族や友人と話しをするのに使われている場所だ。今日はベンチにも雪が積もっていた。彼は浄水槽の脇の、屋根があり、雪が積もらない、濡れていない場所を選んで腰をかけた。そして入り口から浄水槽の脇まで歩いてきた足跡が、まるで最後の自分の歩みのように思えてどうしようもなかった。一方で、高揚する気持ちを抑えることができなかった。ポケットに入れておいたタバコとライター、そして携帯灰皿を出して、タバコを一本取り出して火をつけた。ここのところ控えていたが、今日の一本は美味しく感じられた。そして、屋上に出る扉の方をぼんやり見ていると、誰かがそれを開け、入ってこようとしていた。彼女が現れた。彼女ではない確率の方が、圧倒的に高かったはずなのに、よりによってこの最後の最後に、彼女が現れたのだった。しかし、ヒトシは彼女がゆっくりと、自分が前に付けた足跡を踏み固めるように近寄ってきた。雪の中、履いているシューズに雪が入るのも恐れずまっすぐにこっちを向いて歩いてきた。
「久しぶりね。ヤマシタ君」
そう、ヒトシはどう答えていいか、答えに窮した。
「チサトさん。」
ふと名前が口をついて出てしまった。もういい、ヒトシは思った。僕の夢物語だから。夢は現実であり、現実は夢であるのだから、構わないだろう。僕はこの人に何か危害を与えるつもりはない。そして、彼女はヒトシのとなりに腰を下ろした。白い看護服に、濃紺のカーディガンを羽織って、ナース帽子をかぶっていた。ちょうど屋根があって、雪が積もらない。そんな場所に、おそらく世界の誰も注目されていない僅かな空間にふたりは座った。寒かった。でもヒトシは興奮で寒さを感じなかったし、それはダウンジャケットを羽織っていたせいかもしれない。この、六〇~七〇億いる人類の中で、なぜ僕は君の虜になり、人生の三分の二の時間、君を引きずって生きていたのか? 一生その問題を引きずっていかなければ行けないのか?ヒトシはこの問題を告げたいと思った。間違いない。彼女だ。あの二.二六事件の時に青年将校が、貧しい人たちを守るために、ただ、変えよう、世の中を良くしようとしたように、彼も、自分で最後の戦いを始める決意を固めた。しかし、その答えを言う前に、彼女が意外なことを言い始めた。
「ヤマシタ君に会うまで、高校を卒業してから、同級生にほとんどあったことがない。特に就職してからわね。」
「君は女子大に行ったんじゃなかったのか?」
「一度は大学に行って、英文学を学んだわ。でもその後に、いろいろ事情があって看護学校に行った。今の仕事をしている。私は、大学を出てすぐ結婚した。しかし、その夫とはうまくいかず、すぐに別れた。でも私のお腹の中にはそのとき子供がいた。離婚してから生んだ。私はどうにかしても、生きていかなければならなかった。だから最初の何年か、親の援助を受けて看護学校に通った。奨学金ももらった。私の祖父母が残した土地があって、それでお金が工面できた。そう、農地解放のおかげで、私の祖父母も土地を得て、アメリカ軍のおかげで。祖母は欲そんな話しをしてくれた。」
「君は理系だったよね。たしか。」
「そうね。そうだった。医大を受けて落ちたの。でも、医療に興味があった。」
「別れてから今まで、ずっと一人なの?」ヒトシはぶしつけかと思ったが、思いきって聞いてみた。もはや彼は何も失うべきものはないと思っていたから。
「そう、そのとおりよ。正確に言うと二人。息子とね。松本には母がまだ生きている。兄も松本に残った。全くひとりぼっちというわけではない。でも、私は、あの、離婚の衝撃から、人間が変わったと思う。大地に根を生やして、たくましく生きていこうと決意したの。それまでの私はアマちゃんだった。兄ふたり、末っ子の女一人はどうしたって親や祖父母にかわいがられる。生ぬるい温室で栽培された野菜みたいなものだった。幼稚で、夢見がちな少女。その子供ももう、一六歳。高校生よ。ヤマシタ君はどうしてるの?」
「ひとりさ。今まで結婚はしたことはない。」
 雪はしんしんと降り続け、より強く降り始めたようだった。そしてヒトシはついに直接言いたかったことを口にするチャンスが来たと感じ、はっきりと言った。
「高校生の時、君に出会って、君に一目惚れをした。それ以来今まで、その気持ちは変わらない。移り気な僕の気持ちであっても、その一点だけは変わらないんだ。君が好きだ。そのことは分かっていたの?」
「分かっていた。」チサトは下を向いて静かに答えた。続けて、
「分かっていたけど何もしなかったし、言いもしなかった。ごめんなさい。そのときの私は、あなたに対して特別な感情を持つことはなかった。だからそのまま何もしないで、静かに離れていくのがいいと思っていた。だから許してね。」ヒトシはその言葉を聞いて、僅かな間、絶句した。もしその言葉を、高校生の時に聞いたとしたら、彼は壊滅的に打ちのめされただろう。しかし時の流れは彼を強くした。いや、鈍感にさせたのかもしれない。どちらかは判然としないが、それはヒトシにとってもうどうでもよいことだった。
 運命の糸が結ばれてはいなかったというのは結果だ。心というものの現実性は失われていた。しかし、時の流れは、そのことによって彼を苦しめさせることはなかった。
・・・僕の横に、あの子がいる。それだけでいい。それだけで十分だ・・・とヒトシは思う。
「今、君がここにいるだけで、僕はたまらなく幸せなんだ。」
チサトは首をかしげながら言った。
「あなたは、自分がどういう病気で、どのくらいの症状なのか分かってるの?」
「分かってるさ。僕にはほぼ可能性はない。でもいいんだ。僕には十分な人生だった。なんの悔いもない。そう、それも、あなたに会えたからね。」
雪は相変わらず、これでもかと降り続けた。ヒトシには永遠にこの雪は止まないだろうと思った。ちょうど正午を迎えようとしているにもかかわらず、低い、暗い雲が立ちこめて、昼間とは思えないように感じた。回りを覆っていた。ヒトシはまだ話し続けた。
「僕が君に抱いていた勝手な妄想は、たくさんある。だから君にその個人的な妄想を説明することはしないで良いと思っている。だけど、僕は今この世の中から消え去ろうとしている存在。だから、この世に生きた証が欲しかった。この世に生きた何かがあったのだろうか。だから、君に手紙を書いた。僕の机の中の引き出しの中に入れてある。僕はこの病院に来る前に、ほとんど全てのものを処分したよ。思いでの残るものもね。幼稚園のときに行った遠足の写真。母がまだ若かった。父が仕事で海外に行ったときに、外国で買ってきてくれたぬいぐるみ。僕にとっては大きな存在。他人から見ればただ、布にウレタンのスポンジを埋めたものかもしれないけど。それからPCの中身もほぼ消した。本もほとんど全てを古本屋に買い取ってもらった。衣類も若干のものをのぞいて始末した。固定電話は解約し、携帯電話だけ病院に持ってきた。こうしていろんなものを脱ぎ捨てると、随分気持ちが軽くなるものなんだって、初めて知ったよ。思い出のあるものでもね。もしかしたら僕は、捨てられない人生だったのかもしれない。もっと早く、いろんなものを捨ててしまえば、新しい自分に生まれ変わって、違った運命をたどったかもしれない。特に君への思いを捨て去ることができれば良かったかもしれない。でも、できなかった。」
 雪はビルの谷間にも少しずつ降り続けて、いつの間にか白い絨毯のように積もり始めていた。不思議と寒くなかった。雪が降ると案外暖かい。それは彼が幼少時代から感じていたことだった。雪国の人はそう考えている人も多いだろう。ヒトシははるか向こうに霞む、東京タワーを見た。そしてここは、東京の都心。山手線の中。ここで死にたい。自分のこの気持ちは、チサトに告げることはなかった。
「あなたのこと、ヤマシタ君?悪かったけど、カルテを見せてもらったの。」とチサトは言った。その言い方は、長い間看護師をしている間に身に付いた、職業的な振る舞いが少し混じっていた。
「あなた、自分で自分のことが分かっているのね。だけど、辛くないかしら?」
「僕のことは気にしなくていい。だけどたった一つだけお願いがある。僕が知っている君は高校時代の時だけだ。だから、高校を出たあとの君について教えて欲しい。」ヒトシはそう言った。するとチサトは少し間をおいて話し始めた。
「私は東京の女子大に行って、卒業後にすぐ結婚した。しかし、翌年、証券会社に勤める夫とはうまくいかなかった。何もかもね。夫は朝早く出勤し、夜遅く帰宅した。私は都内のマンションの7階でひとりぼっちだった。大学時代の数少ない友人たちは、まだ働いている人も多かった。近所に友人はできなかった。孤独ね。私は甘えん坊だった。寂しかった。かといって実家は松本。簡単に帰ることはできなかったし、何かをするあてもなかった。こんな孤独感は生まれて初めてだった。私は良く自分の人生をふり返った。高校時代は結構もててたのよ。あなた以外の人からも告白されたり。他校の生徒と付き合ったりもした。軽いおつきあいね。これは本当よ。みんなままごとだった。少女だった。私は人生に対して、あまりにも楽観的すぎた。結婚して本当の人生にぶち当たった。簡単なものじゃなかった。人間関係を作るやり方なんて知るわけもなかった。幼かったわ。私は、夫を裏切るようになった。どんなきっかけだったか忘れたけど、通信機機会社の営業マンと不倫関係に陥った。今思えば、その瞬間の孤独を紛らわす為の時間つぶしに過ぎなかった。しかもお腹には夫の子が入っていたのにもかかわらず。そして私のお腹が大きくなるに連れて、そのつまらない営業マンは私から離れていった。時を同じくして、夫は、同じ会社のOLと付き合いだした。私は都内のマンションの一室で、孤独な夜を送らなければならなくなったの。やがて夫は、3日に1度は帰宅しなくなっていった。私は完全に孤立していた。状況を変えなければならないと感じ始めた。それまでの私は何か困れば、誰かが、そう、おもに母ね。助けてくれていた。だから私は乳離れしていなかった。でもこのときは母に相談できなかった。自分で何か解決する道を探らなければならなかった。毎日悶々とする日々だったわ。今も結構苦しい毎日を送っているけれど、あの頃が一番苦しかったかもしれない。やがて、夫の方から離婚を申し出てきた。私は肩の荷がおりたように感じた。離婚届に判を押して、私は2階建てのアパートに移った。そして子供を産んだ。元夫が付き添おうかと言ってきたけれど、断ったわ。母が付き添ってくれた。でも、新しい命にめぐり逢えたときに、私は完全にそれまでの自分とサヨナラしたような気分になった。生まれ変わった。子供と一緒に。それから、私はこれからの人生について、ぼんやりとしていたことを形にする努力をした。高校三年生の時にどうして医大を受けたのか。そう、私には祖母の思い出が強烈にあった。祖母は亡くなる前一〇年間、母に介護を受けて生きていた。その母の姿を見て、私は医療の道で生きていこうと決意したのだと、思い返していたの。」
「もしかして、そのおばあさんは、サユリさんっていう人じゃないの?」ヒトシは口を挟んだ。
「そう。なんで知っているの?」
「いや、実は僕の祖父がね。そのサユリさんという人と知人だったみたい。叔父から聞いたんだけど。」
「不思議な縁ね。でも、信州は狭い世界だから、そう言うこともあるのかもしれないわね。」
「君のおばあさんが、君を看護の道に導いたんだね。」
「そうよ。体が不自由だったけれど、おばあさんは頭はしっかりしていた。私を枕元に置いて、いろいろな話しをしてくれた。昔好きな人がいたけれど、結局結ばれることがなかったって。そう、昔は、戦前は、身分の差みたいなことがあったから。今は、自由で平等な世の中になってよかったって。母と祖母は仲がよかった。母も介護に疲れていたり、嫌なそぶりは見せなかった。なぜなら、祖母はいつでも、母に感謝の念を示し続けていた。私には理想的な嫁と姑の姿だった。そんな姿を見ながら、ぼんやりと私の生きている道が固まっていったと思うの。祖母の残した土地を売って、私は看護学校に通い始めた。これも祖母のおかげね。元夫からは若干の養育費が送られていたけど、保育所のお金やら何やらでバタバタしていたから、助かったわ。祖母のおかげで私は今の道を歩き始めることができたんだって。資格を取って最初に就職した総合病院に一〇年。それから今の医大付属の病院に移ってきたの今や副婦長よ。」チサトは苦笑いをした。
「子育てと仕事、大変だったのだろうね?」ヒトシは聞いた。
「ううん。それほどでも。かえって、生きている実感を強くもてるようになった。ただ、私は生まれ変わったと思う。だから高校時代の私は幻。ヤマシタ君の知っている私は何も知らない、何もできない人形みたいなもの。どうしてそんな私を好きになってくれたのか分からないわ。」
「僕も今の君を見て確かに不思議な気がする。高校時代当時の君は、人間の俗っぽいところというか、生きるための汚れた部分が完全になかった。たぶん、純化された少女の姿に、僕は惹きつけられてしまっていたのかもしれない。今の君を見て、僕はあのときのような胸苦しい気分にはならないし、緊張して話ができないような気もしない。君は、純化されていたところから、俗世間に降り、一人の女性として蘇ったんだ。たぶん。でもね、僕の心には君が通り過ぎた痕跡が、あまりにも強すぎたんだ。だから、そのような、なんというか、アニマとでもいうのだろうか?ユング心理学のね。少女の象徴のような偶像をいつまでも抱いていたいという願望はあるんだ。」
チサトは少し笑顔をこぼしながら、
「いいじゃない。その偶像と今の私とは違う。でも、あのときの私はあなたの中で生きている。それは幻想でも妄想でもなくて、確固とした現実じゃないかしら。」
ヒトシも苦笑いしながら、
「そうだね。大切にしまっておくよ。でも、そのときの君がまだ僕の中では、今の君へ繋がっている。だから君は君で変わらない。」チサトは言った。
「私は今、苦労をしているって、世の中の人はそう見るかもしれない。でも、実は今の生活が今までの人生の中で一番充実しているし、今の私のことを、私は一番好きだわ。」
ヒトシはそのときもう一度チサトの顔をまじまじと見つめた。確かに顔にはしわが増え整った顔立ちも若干崩れかけているようにも見えた。ヒトシにとっては永遠の少女、アニマからは随分離れてしまっているかもしれないが、彼にはそんなチサトも好きだった。いや、今こうして再会し、第二のチサトを好きになったのかもしれなかった。それは高校時代にあった感情とは全く別の何かだった。彼女は高校時代とは違った光を放っていた。それは、強くたくましく見える。生きていく力、その力だ。お嬢さんでもない、人形でもない。大地に根を張り、生き抜いていく、そんなオーラが顔や体から発せられていた。そしてヒトシは、その彼女がアニマのような偶像ではないことをはっきりと確認した。そして、チサトは続けた
「私は自分の子を授かって、私は親子ふたりで生きてきた。お金の大切さも分かってきた。ここの病院ね、結構実入りが多いの。それから、あの信州の街へ帰る気はしない。ヒトシ君は松本だったよね。」
「そう松本だよ。」
「お父さんとお母さんは松本に?」
「いや、東京近郊の町田に引っ越してきた。そのうち父も母も結構若くして亡くなった。父が死んだのは二年前のことだ。妹はスペインに行き、現地の男と結婚して戻ってこない。親戚なんてのはほとんどいないし、親しくしている人も少ない。一番縁のあった叔父は昨年亡くなったんだ。だからその奥さんに、僕が死んだ後、後始末をしてもらう予定なんだ。いくらかのお金も相続してもらうつもりだ。僕は四〇歳。だから孤児とはいえないけれど、この大都会では全くの孤独な身。のらいぬみたいにふらふらとこの東京に寄生している。または迷える子羊とでも言うのかな。母はクリスチャンだった。ただ、僕はね、誰かに迷惑をかけたこともなければ、誰かに非難されるようなことはしていない。そう、それだけは僕は確信を持っていえる。そう信じてきたんだ。だから、僕の人生がここで終わっても構わない。願わくば、僕の最後に君に、こういう人間がいたことを覚えていてくれればそれでいい。記憶の片隅にでも。それで十分だ。僕は、ああそう、生きていた証。職場や学校、そこに少しだけ何かを残しているかもしれない。君はいいじゃないか。息子さんがいる。彼の命は君から繋がれた。。」
「どうかしらね。私の子、障害を持っているの。私が最後まで面倒できるかどうか分からない。あの子の父親は最近連絡はないわ。連絡というのは銀行への振り込みのこと。中学を卒業した後無くなった。義務教育を終えたからでしょ。だから私が育て続けるつもり。軽度の発達障害なの。ADHDといって、多動性障害ともいう。なんとか普通学級で適応して生きていっているけれども。」
「よく分からないけど、聞いたことはある。でも世の中に適応している人たちはたくさんいるのじゃないかな。それならいいじゃない。」
「そのとおりね。私は信じて、そして、自分の人生を生きていくつもり。」
「そうか。」ヒトシは返す言葉を探したが見つからなかった。そして、チサトの目から一粒の涙があふれ出てきているのを見た。そして違う話題に変えてみた。
「二〇数年前、君とボートに乗ったのを覚えている? 」
「覚えている。」
「君と何を話したか忘れてしまった。」
「もういいわ。私も覚えていない。目の前にいる私は、いろいろなものに汚されて、堕落し、雑草のように生きている。あの頃のようなビニールハウスの中の小綺麗な一輪の花ではない。でも私はそのことに不満を言うつもりは全くない。私は私なりの人生をしっかり歩いてきた。誇ってもいい。」
「同じだね。生きてきたんだ。僕もそうさ。なんの悔いもない。ただ悔いがあるとしたら君にもう一度会いたかったこと。でもそれは現実に今、叶った。だからもう、本当に後悔はない。」
チサトはヒトシから目を離して、東京の街並みを見た。そして、降り続ける雪を見てこういった。
「ヤマシタ君。結婚する?」ヒトシはチサトの顔をまじまじと見たが、何も答えなかった。数秒時間が経ってからチサトはまた言った。「いや、今のは嘘。傲慢よね。高校時代のあなたが、高校時代の私を好きだったから、結婚してくれなんて。」
「いや、ありがとう。本当は受けたい気持ちだ。でも今の君は感情が先走っている。僕の病状への同情の念も含まれてるはずだよ。君にはまだまだチャンスがある。僕はその言葉で十分だ。」
 ヒトシはもはや彼女に抱いていた究極のエロスをなくしつつあった。そして一人の人間として彼女を見るようになっていた。その中には彼女への幻想を失い始めていた自分の心への惜別の情も含まれていた。ヒトシの心の中にある彼女の偶像はけして崩れない。しかし、今、目の前にいるチサトは別の人のように感じていた。だからこう言った。
「今のは冗談にしておいてくれ。僕はそれは望まない。君の人生はこれから長い。だから、いちいち、結婚なんて望んでないよ。もし君に一つだけ願いを言うならば、これこそちょっと照れるんだけど、高校時代の僕はこんなことは口が裂けても言えなかった。でも、今の僕は、今の大地に根ざし、力強く生きている君を見て、頼もしく思える。」
 チサトの顔は柔らかな笑顔に変わっていった。
「ヤマシタ君。私はあなたをかっこいいと思っていた。高校時代よ。部活に熱中していたし、勉強もできたじゃない。W大に現役で合格するなんて凄いじゃない。少しあこがれてもいたのよ。私も風の噂であなたのことを聞いたわ。だから知ってるの。そんなあなたに、好意を持ってもらっていたなんて、贅沢ね。そう、私のおばあさん、サカザキサユリというんだけど、昔、そのおばあさんからこんなことを聞いた。私のおばあさんは看護婦だった。だから影響を受けて私も看護婦を目指したのだと思う。私のおばあさんは、従軍看護婦として各病院を転々としていたそうよ。そしてあの日、八月六日。ちょうどおばあさんは呉の海軍病院に勤めていた。そしてそれから何日か地獄を見たという。そこには次々に原子爆弾によってやけどや、放射線障害になった人、そういった人たちが次々と送り込まれてきた。まさに地獄絵図だったと。そしてそのときの仲間たち、時々手紙で連絡し合っていたそうだけど、決してあの頃の出来事には触れない、って言ってた。おばあさんが年を取って、あの、八月六日以降の惨状について、死ぬ一年くらい前から繰り返し繰り返し話すようになった。そして、祖母は、いつも、平和はいいね、と繰り返した。今は平和で平和でいい。あんな資源のある国と戦っちゃダメだった、平和はいい、平和はいいと繰り返して、逝ってしまった。」
「君のおばあさんの旧姓はヤマモト?」ヒトシは千里の話を遮るように聞いてみた。
「うん。確かにそうだったと思う。でも、どうして知っているの?」
 ヒトシは、チサトの問いについて、詳しくは答えなかった。ただ、自分の祖父とチサトの祖母が知り合いだったこと。また、チサトの祖母の兄がヒトシの祖父と同級生だったことなどを、かいつまんで話した。もし、祖父の失恋の話しなどをすれば、自分とチサトを無理矢理結びつけようとするような気がしたからだ。
「ふ~ん、そうなの。縁って不思議ね。でも考えてみればあのあたりは狭いから、探せばそういうこともあるかもしれないわね」と、チサトは言った。
 一時間はゆうに屋上で過ごしたせいか、ふたりとも体が冷えてきた。看護師のチサトにとっては、患者の体にダメージを与えるようなことは避けたいという、職業意識があり、
「そろそろ、戻ろりましょう。」チサトが切り出した。ヒトシはこう言って返した。
「最後に、最後に、恥ずかしいんだけど、お願いがあるんだ。」
「何かしら?できることならしてあげたいと思う。」
「くちづけをして欲しいんだ。」ヒトシは静かにチサトの顔を見上げると、にっこりと笑顔を見せていた。
「いいわ。」チサトは小さな声で返事をした。ヒトシはチサトの紺のカーディガンへそおっと両手を伸ばし、右手を肩に、左手を背中にかけた。ヒトシは初めてチサトに触れたこと、そしてチサトから湧き出てくる女性の香りを感じた。言葉にできないような不思議な充足感を感じた。そして思い切りよく、静かに、ゆっくりと顔を近づけ、そしてもはやなんのためらいもなく、自分の唇を、チサトの唇に押し当てた。そして、それ以上もなく、それ以下もなかった。ちょうど1秒くらい、ふたりの唇は接していた。ヒトシはチサトの唇に僅かな湿り気を感じることができた。唇を離すと、ヒトシはある変化に気がついた。自分の局部が勃ちはじめたことを。それを感じたときヒトシは、長い間人生の謎として、自分を呪縛していた何かから解放されたような、安堵感に包まれた。彼が、チサトを偶像として感じ取っていたときにはインポテンツだったこと。そして今は、彼女を偶像ではなく、そこに、現に存在する実際のチサトとして、自分の脳が認識したこと、それは、何かを失うことでもあり、新たな何かを獲得したことでもあった。
「ヒトシ君、寒いから、もう戻りましょう。私は今日はもう帰るけれど、また明日以降、寄れるときには病室に寄らしてもらうわ。」チサトの声にヒトシは、
「うん、ありがとう。今日のことは、話を聞いてくれたこと、そしてキスしてくれたこと。本当に感謝しているよ。」ヒトシはこう言ったが、立ち上がらなかった。それは、まだヒトシの局部が熱持っていたからだ。立ち上がったらバレてしまう。いや、もうバレてもいいのかもしれないけど、少し落ち着きたいとヒトシは思っていた。
「もう少しだけ雪の東京を見たいんだ。」とヒトシは言い、チサトを先に帰した。チサトは了解し、「早めに戻ってね」と、言い残して雪の上を静かに注意を払いながら歩き、ドアを開いて、建物の中に入り姿を消した。ヒトシはその後ろ姿をある種の恍惚感を持って見つめていた。やがて、雪が舞い落ちてくる様子に気がつき始めると同時に、しばらくすると、彼の興奮も治まってきた。そして病室に帰ることにした。
 病室に戻ると一四時を過ぎていた。夕方になるにつれて、雪は小やみになり、雨が混じるようになっていった。ヒトシは病室の窓ガラス越しにその変化をつぶさに見ていた。やがてヒトシは眠りについた。心安らかな安堵の眠りだ。翌朝起きると、外は青空だった。都心と言うところは、人間によって吐き出された熱量により、積もった雪を溶かしすスピードが速い。ただ、今回の雪はなかなか融けにくかった。日の当たらない場所では一週間くらい雪が残っていた。そしてもとの醜い東京が、ヒトシの目の前に現れた。何もなかったように車は通りすぎ、人々は早足で家路に急ぐものもあれば、これから仕事に向かうものもいた。言葉通りに、チサトは彼の病室をときおり訪れた。他愛もない話しをした。ただ、チサトの息子の話、進学や病状については、チサトは真剣な様子で話した。昔話も少しした。翌4月にはいると、ヒトシの病状は悪化していった。ヒトシ自身も薄ぼんやりと終末を迎えつつあることが分かり始めた。ヒトシはある時に、チサトが訪れた際に頼み事をした。
「僕のアパートの机の一番上の引き出しの中に君への僕の書いたラブレターというのか、そんな手紙がある。封をしてのりで止めてある。でももう、その手紙を君に読んでもらう必要はない。あの雪の日に十分話した。だから、僕がもしこの世からいなくなったときに、その手紙は読まずに捨てて欲しい。僕の私物はほとんど処分したけれども、一部は残っている。それらについては亡くなった、僕の最愛の叔父の奥さんに処理を頼んでいる。」そう言ってヒトシはその義理の叔母に当たる人物の住所と電話番号を渡した。チサトは小さく頷いた。
 それからヒトシはますます衰弱していった。医者からは痛み止めを貰う日が続いた。
 ヒトシが死んだのは、四月の半ば過ぎ、ちょうどヒトシが初めてチサトを意識した八重桜の季節だった。もう冬は完全に終わり、春も終盤に向かっていった。ヒトシの通夜も葬儀も、簡単に小さく行われることになった。ヒトシの義理の叔母が喪主を務めた。会社関係の人たちが若干名、そして目立ったのはヒトシが高校時代に所属していた部活の仲間のうち、上京していたものたちが参列したことぐらいだった。チサトは通夜だけに参列した。息子も連れてきた。息子は黒い古風な学生服を着て、母の後を追っていた。どう見ても障害があるようには見えなかった。受付を済ませるとチサトは、喪主の女のところに近づき、丁重に挨拶をし、身分を名乗り、手紙を預かっていないか聞いた。すると女は、一通の封をしてある封筒を差し出して、
「ハラグチチサトさんですか」と尋ねた。チサトは、旧姓がハラグチで、今はエンドウと、別れた夫の名字を名乗っていることは伏せて、「はい、そうです。」そして、続けて初老の女にこういった。
「ご遺体を見てもよろしいですか?」
女は少し困惑した表情を見せた。「あなたは看護婦さんだったわよね。気味が悪いからあんまりどうかと思うんだけど、いいわよ。」
チサトは礼を言って、遺体を納めてある棺を丁寧に開け、ヒトシの死に顔を見た。そして、先ほど預かった封筒をそっと、棺の中の、ヒトシの胸の脇に置いた。そして一礼してそこを離れた。待っていた息子に、「さあ、帰りましょう。」といった。
「お母さん。死んだ人はどういう人だったの?」
「高校の同級生。松本の時の。お母さんが勤めている病院で亡くなった人よ。」
「随分若くて亡くなったんだね。」
息子の言葉に少し間をおいてチサトは答えた。
「人間って、いつ死ぬかなんて誰にも分からないのよ。病院でも多くの人がこの世からあの世に移っていった。だから、今を生きましょう。今したいこと、今やらなければならないこと。今好きな人がいたら、その気持ちを伝えること。あなたが、もしかしたらこの世に生まれてきた意味があるとしたら、誰かを愛すること。おかあさんはあなたを愛している。こんなことは普段言わなかったわね。今日は少しセンチメンタルな気分になったの。生きているだけでも価値がある。だから生き抜いていきましょうね。そうして、あの人みたいに焼かれて、土に帰る。死ぬときに後悔の無いようにしましょう。」チサトは自分に言い聞かせるように話した。続けて、
「人間なんて、生き物もみんなそうだけど、宇宙の時間から見れば、生きている期間なんて本当に短いものなの。あなたに、しっかり生きて欲しい。何があっても、人に迷惑をかけずに、やりたいことをやって、生きていくのに十分なお金を稼いで、そのための技量を磨いて、欲を言えば、笑顔で、楽しく、美味しいものを食べて、遊んで、ともかく愛する人を見つけて、そう、世の中のためになれれば文句はないわ。ちょっと贅沢な注文かしら。あなたはお母さんの言っている意味が分かるかしら。」
息子は母親と歩調を合わせながら、普段の母と少し違う調子にとまどいながら、
「お母さんにとって、今日のお通夜の亡くなった人は大切な人だったみたいだね。」
「そうね。大切な人。私の心に一生とどまって、忘れ得ぬ思い出をくれた人。人生って、輝く宝石みたいな思い出を胸に、少しずつ古いものやいらないものを捨てて、最後に残る宝石を胸にしまって死んでいくのかしらね。お母さんはあなたのために生きるわ。だってあなたが一番好きなんだもの。そのためには這いつくばっても、しがみついても、強く生き続ける覚悟がある。そしてそれがお母さんにとって一番の喜びなのよ。」チサトは少し間をおいて、
「迷惑かしら?」と、息子に尋ねた。
「なんだかよく分からないけど、今の僕はまだお母さん抜きでは生きていけない。でも、お母さんが年を取ったら面倒を見るつもりだよ。」息子は答えた。
「ちょうどあなたの年、高校一年の時に、お母さんはあの人と出会ったのよ。」そう息子に話して、時は巡り、人は永遠に繰り返し続けるような気がして、不思議だと、チサトは思った。

春の淡雪

お読みいただきありがとうございました。

春の淡雪

寂しい男女の話。命は雪のようにはかない。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-23

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