柴犬カンの冒険1

柴犬カンが冒険します

カンの馬車   

 午後になると、久しぶりに雨が止んで、夕方にかけて薄日も差した瞬間があった。
 ここのところ雨であんまり遠くまで散歩に行っていない。だから今日は午後3時過ぎに出かけて、ちょっと遠くまで行ってみようと考えた。大便もここ2回の散歩でしていなかった。そのせいか、しばらく進んでいくうちに途中3回も太い大便をした。
 お腹がすっきりしたらカンは急に走り始めた。
 「あれっ!どこ行くの?」
 私はカンが引っぱる方向にそのままついていくように一緒に走った。
 しばらく行くと見慣れない風景の中を走っていた。知らないうちに日も落ちて、街並みはぽつぽつと明かりが灯っていく。カンは何かに憑かれたように走り続けた。私は汗びっしょりになって、やっとの事で後を追っていた。すると周りには、見たことのない建物が見受けられるようになってきた。イスラム教のモスクのような、ドーム型の屋根を持った建物。白壁や青い壁の洋風の建物。街灯にはランプが灯されて幻想的な雰囲気が醸し出されている。動物の毛皮でできたコートを着た人があちらこちらに見える。
 すると、ちらちらと雪が舞ってきた。
 そして驚いたことに、いつの間にか私はカンの引く馬車のような乗り物に乗っていた。馬車は煉瓦造りの3階建ての建物の間に走る、石畳の道を、器用に道行く人を避けながらかなりの早さで進んでいく。カンは一心不乱に走り続けていたのだった。

クリスマスパーティーの思い出

 街は、クリスマスのイルミネーションに彩られていた。商店が並んでいる。ガラス張りの向こう側には、クリスマスツリーが飾られ、クリスマスのバーゲンセールだろう、値札は赤く描かれていた。コートやセーター、ぬいぐるみが売られている。その隣はケーキ屋さんだ。客が2~3人列を作って、順番を待っている。いつの間にか雪が積もり始めていた。もう10cmくらいは積もっただろうか。
 気がつくと、またまた驚いたことに、カンに引かれた馬車はいつの間にか車輪の部分が橇(そり)に変わっていた。カンはまるで何も変わらなかったかのようにひたすら走り続ける。
 私は、街の光景に見とれながらも、ときおりカンのことが心配で目をやった。カンの背中にも雪が積もり始めた。毛皮のためかなかなか溶けない。
 どうやら我々は街の中心部に来ていたようだ。一層輝きを増したイルミネーションが道の両サイドに輝く。十字路には楽隊が、賛美歌をマーチにアレンジしたような曲を奏でている。
 私はふと、子どもの頃のクリスマスパーティーを思い出した。母に連れられ、妹と何家族かが集まって開かれたささやかな催しだった。15人くらい集まっただろうか。プレゼントの交換会をしたっけ。今思えばたいした金額を払わなくても買えるプレゼントをもらった。それでもとても嬉しかった。みんなで歌詞を見ながらクリスマスソングを歌った。今覚えているのは「もろびとこぞりて」だけだ。
 温かい人たちにに囲まれて、ひととき幸福な気分に酔いしれた。こんな時間が永遠に続けばいいと思った。
 今はひとりでこの道を進む。でもカンも一緒だ、と思うと少し心が安らぐのであった。

煉瓦の駅舎  
 
 一陣の北風が通りを吹き渡った。街路樹のプラタナスの葉が吹き降りてくる。カンはそのうち1枚の葉をめがけて橇を引くスピードを上げた。
「あ~あ~あ~」
 私は少し肝を冷やして叫んだ。
「あんまりスピード出すんじゃないよ!あぶないよ、カン!」
 すると、不思議なことにその葉は、風もないのにひらひらと舞い飛んで、われわれの行く先の方角へと逃げていく。カンはその葉の行く方向に進み続けた。今まで通りにぎっしり並んでいたお店や食堂、居酒屋が少なくなってきた。それでもぽつりぽつりと商店があり、明るい光でお客たちを引きつけていた。どうやら少し街の中心から離れてきたようだった。道の先に、石畳で覆われた大きな広場が見えてきた。その正面向こう側には細長く長方形の煉瓦の赤い建物が横たわっている。随分古いように見える。所々煉瓦がはがれ落ちている。我々は広場に入り、その建物に近づいてくると、それが何の建物かはっきり分かるようになってきた。駅だった。カンはどこまでもその葉を追いかける。とうとう赤い建物の入り口の前まで来てしまった。葉っぱはそこで舞い飛ばなくなった
 幅10m、高さ5mくらいの入口のわきに、大きなフクロウの彫刻が目に入った。直径1mはあろうかという高さ3mくらいの丸太の上に、ちょこんと停まっている。ただこのフクロウ、尋常な大きさではない。おそらく1mはありそうだ。
 辺りには再び冷たい風が吹き、雪が頬に当たって痛い。カンはそのフクロウに向かって吠えかかった。すると驚いたことに、今まで遠くを見つめていたフクロウが、光で真っ赤に反射したその瞳で、じろりと我々の方を睨みつけてきたのだ。
 なんと、そのフクロウ、生きていたのだった。


2枚の切符   

 カンが駅舎の中に入ろうとすると、突然フクロウが私たちに話しかけた。
 「どこへ行く」太く響く声だった。
 「私はカンに引かれて来ただけです。どこかに行こうというつもりはありませんでした。」と答えた。するとフクロウは、
 「私はこの駅の駅長だ。本当にこの駅から汽車に乗るつもりなら、相当な覚悟が必要だ。いろんな危険がある。覚悟がないならすぐ引き返しなさい。」と言った。
 私はカンの方を見ると、私の方をちらっと見たが、相変わらず駅の構内へ行こうと、綱をずんずん引っぱる。私はフクロウに答えた。
 「汽車に乗るつもりはありませんでしたが、カンがこのように引っぱるのは、きっと乗った方がいいということでしょう。私も考えてみると、今まで汽車に乗る準備をしてきたような気がします。危険があっても乗り越えられると思います。だから、中に入れてください。そして、汽車に乗せてください。」
 「そうか。そうまでいうなら行くが良い。2番線に止まっている汽車ならすぐ乗ることが出来る。」そう言うとフクロウは、瞳をどこか遠くの方へ向け、まるで我々など存在しないようなそぶりだ。そして私には、フクロウそのものも彫刻に戻った様に感じられた。
 ふと、2枚の紙切れがどこからか舞い降りてきた。私はそれを拾い上げて読んでみると、「切符」と書いてある。どこから乗って、どこに行くとも書かれていない、今まで見たことのない不思議な切符だった。私はカンの分と2枚握りしめて、ゆっくりと駅構内に歩を進めた。

少女アリス

 駅の中にはいると、プラットホームに汽車が停まっていた。6両編成の蒸気機関車だった。客車は焦げ茶色で塗られた、かなり古そうなタイプだった。私は2番線に停まっているその列車に向かい、後ろから2番目の車両に、カンとともに乗り込んだ。
 中は木製でできておりやはり古びた印象がぬぐえない。車両の両端にストーブが設置されていた。そのため、中は随分温かく感じられた。乗客はほとんど乗っていない。年老いた夫婦が1組。車両の最後部の座席に向かい合って座っていた。真ん中の方へ行くと、シャム猫を連れた黒人の女性がひとり腰をかけていた。紫のタートルセーターを着ていた。私たちはその2つ先の座席に腰を下ろした。
 座ってまもなく、大きな汽笛の音がした。ガクンと車両が揺れ、どうやら進み出したようだ。カンは落ち着かない様子で、座らず、立ったままの姿勢できょろきょろしていた。
 汽車が、暗闇の中を走り出した。ぼろぼろのカーテンを開けて窓の外を見ると、街の明かりが遠くにぽつぽつ見える。それもやがて、小さくなって、やがて消えていった。
 どれくらい時間が経ったろう。カンもやがて疲れたのか、床に伏せをして寝てしまった。汽車は一定のスピードで、一定のリズムを奏でながら進んでいった。そして、長いトンネルに入った。随分長かったが、それを抜け出たあと、2つ離れた座席に座っていた黒人の女性(と言うよりも少女と言った方がよいだろう)が、猫を抱いたまま我々に近づいてきた。カンも顔を上げた。
 少女は我々に声をかけた。
「こんばんわ。私はアリスというのよ。16歳なの。」と自己紹介を始めた。
「あなた達はどうして汽車に乗ったの?」と聞いてきたのであった。

アリスの告白  

 なぜこの汽車に乗ったかアリスに問われて、私はことの顛末を話した。日本の埼玉という所から来たこと。カンに引かれて何となく乗ったこと。逆に私はアリスになぜこの汽車に乗ったかを聞いてみた。
 「もう、何年も乗っているの。降りたいとも思わない。」
と言い、それから最初に乗ったときの次第を話し始めた。それによると、彼女は中学生まで成績優秀な学生であったが、両親の仲が悪く、高校1年の時ついに母親が失踪。ついでわずかなお金を残して父親もどこかへ行ってしまったという。二つ年下の弟とともに父親の妹の所に身を寄せたが、居心地が悪く、ある日の夜、ボストンの街をふらふら歩いていると、見知らぬ駅に行き着いたという。そこでフクロウの駅長に警告されたが、行く当てもなかったのでこの汽車に乗ったという。それ以来、汽車の旅は、いろんな出来事があったが、それは今は話すことができない。何年も乗っているのになぜか年をとらないという。確かに彼女は16歳の高校生くらいに見える。
 私はしばらく彼女と一緒に話をしながら旅を続けることにした。
「かわいいわね。これキツネ?」カンを見てアリスはたずねる。
「いやいやこれは犬ですよ。日本独特の種類なんです。」と説明した。
「このワンちゃんとても賢そう。あなたがこれから旅をするのにこの犬のことを信頼するといいわ。」という。その理由は話さなかったが、彼女はシャム猫のミーをなでて、
「この子は私みたいに、ボストンの街でひとりぼっちだったの。私はこの子に救われている。でもね・・・」
 私は細かいことを聞くのはやめた。おそらくこの汽車に乗っている人たちのルールだろうから。私たちは無料のジュースを車掌から受け取ってそれを飲んだ。車掌は恐ろしく背が高い男だった。2mはゆうに超えるだろう。ただ、つばのある帽子をとても深くかぶっており、表情を読みとることができなかった。
 そんな時突然汽車が激しく揺れ始めた。座ってさえいられない程だった。車掌が言った。
「伏せてください。外は見ないように。」
 すると、ものすごい轟音とともに、恐ろしく明るい、白い光が外で光ったように感じた。…伏せていたのではっきり見たわけではない…
「あれは何?」とアリスに聞いてみた。
「よくあるのよ。乗客たちは、超新星の爆発と呼んでいるわ。そしてそれは誰か、何かの生命体の終わりなのだと。」
 私はこれからとんでもないことが続けざまに起こってくることを予感した。

化石の街 

 超新星の爆発のあと、しばらくして、車掌が次の駅を案内した。
「次は化石の街、化石の街」何?私は、かつて見ていたTVアニメの銀河鉄道999を思い出しながら、その声を聞いた。
 アリスが教えてくれた。
「途中下車してもいいのよ。でも、降りた街ではそこの食べ物や飲み物は一切食べてはいけないわ。」
 私は理由を聞いたが彼女は答えなかった。
 やがて列車はゆっくり止まり、どうやら駅に着いた。私は降りようか迷っていたが、カンがやおら出口のドアの方へ強く引っぱるので、これはGOサインだと解釈して、降りてみることにした。
 改札口を抜けると異様に静かな街があった。雲は低く垂れ込め、灰色だった。
 私は街を少しぶらぶらしてみた。人の気配がない。しばらく行くと大きな公園のようなスペースがあった。とりあえずそこへ行ってみると、奥の方に巨大な塔のようなものが見える。そこまで行ってみようと考えた。公園には何やら見たことのない木々がおい茂っていた。古生代、ジュラ紀、白亜紀のような感じだ。小学校の校庭に生えていたメタセコイアらしきものもある。それにしても落ち葉が多く積もっていた。5cmくらいはあるだろうか。塔に近づいていく程厚くなる。カンは小便をあちこちにしていたが、ここへ来てくるくる回った後大便をした。私はそれをビニール袋にしまった。カンはいつもの癖で、落ち葉を後ろ足で激しく蹴り上げ始めた。ものすごい数の落ち葉が舞い上がり、地面は土が露出してきた。掘られた穴を見て驚いた。そこには、貝、魚、木の葉、動物、そして類人猿というか人間なのか、の化石があったのだ。
 突然誰かの声がした。
「レレレのレ~~~。落ち葉を掃いてくれてアリガトさん。」
 そこには箒を持ったレレレのおじさんがいたのだった。

不老不死の水  

 レレレのおじさんが言うには、遠くに見える塔は、実は巨大なメタセコイヤだという。その麓に神社があるからお参りしていくがいいと言う。私は丁重にお礼を言ってそこを後にしてメタセコイアに向かった。この積もった落ち葉はどうもメタセコイアのもののようだ。かれこれ30分くらい歩くと、いよいよ巨大なメタセコイアに近づいてきた。高さ100mはあるだろう。麓には、確かに神社がある。よく見ると「不老不死の水」と書かれた湧き水の取水口があった。そのそばには真っ白な長い髪をなびかせた老人が椅子に座っていた。
 「この水を飲むのかね。いくらでも飲んで行きなさい。年をとらず、永遠の命を手にすることができるのじゃ。」
 私は興味があって、その水に近づくと、何とも言えない良い香りがする。私は柄杓にすくってまずカンに飲ませようとした。ところがカンは、鼻づらにしわを寄せ何やら怒っている。そして次の瞬間、今まで見たことのないカンの姿を目の当たりにした。口から火を噴いたのだ。すると、火は命の水に燃え移り、油のように炎をあげて燃え始めた。しばらく呆気にとられて見ていると、次第に火の勢いは弱まり、やがて消えていった。冷静になって辺りを見回すと、例の白髪の老人は姿を消していた。
 やれやれ、危ない所だった。飲んでいたら、現実の世界には戻れなかったかもしれない。カンに助けられた。カンは何もなかったように、あごの下を後ろ足で掻いていた。
 我々は汽車に戻った。ちょうど列車は発車の時刻を迎えようとしていた。
 「お帰りなさい。」アリスが迎えてくれた。

孤独な街  

 しばらく汽車は走り続けた。すると、異様に背の高い車掌がまたあらわれて、次の駅を案内した。
 「次は、孤独な街、孤独な街~。」
 汽車はプラットホームに滑り込んでやがて停まった。私は今度も降りてみようと思った。するとカンはちょっと渋って行きたがらない。しかし私がリードを引っぱると仕方がなさそうについてきた。
 改札を降りて外へ出ると、随分華やかで人通りも多い。ちょうど夜で、超高層ビルが林立し、窓から明るい光が照らし出されている。ちょうどニューヨークのマンハッタン島のようだ。大通りには広い歩道があり、それに沿ってレストランやブティック、バーなどが軒を連ねていた。人混みで歩くのも容易ではない。カンとはぐれないように綱をしっかり持った。
 しばらく歩いていると、なぜか妙に哀しい気分になってきた。私がここにいることが無意味ではないのか。それどころか生きている価値がないのではないか、と思うようになってきた。ここには大勢の人がいるけれども、私に関心を持ってくれる人などただの1人もいない。圧倒的な孤独感が私を襲ってきたのだ。よく見ると、歩いている人々はみなひとりぼっちだ。そしてアリのように、行く当てもなく右往左往している。コートの襟を立てて、人との接触を避けているかのように見える。
 「どうせ俺なんか・・・」つい独り言が出てしまった。あたりの人を見てみると、同じようにぶつぶつと独り言を言っている。私は、カンと一緒にいるのも億劫になって、綱を持つ手をゆるめ、ついには離してしまった。少しづつカンが遠のいていく。そしてついに見失ってしまった。私は大通りから一本入った、裏通りに歩を進めた。無性に寂しくて、涙がこぼれだしてしまった。どこからか「サンタが街にやってきた」の曲が聞こえてくる。しばらく歩いているうちに、今度はカンを離してしまったことに無性に後悔の念が湧き始めてきたのであった。

冷たい雨  

 裏町をふらふらしていると、やがて冷たい雨が落ちてきた。顔に当たる雨粒はシャーベット状のみぞれだ。体はぶるぶる震え、どうしようもない絶望感にさいなまれた。
 私は場末のパブを見つけそこによろよろと入っていった。中は薄暗かったが、結構広くあたたかかった。客のほとんどが労働者風の男たちで、ビールやウイスキーを飲んでいた。私は長いカウンターに腰をかけて、ギネスを1杯頼んだ。黒い蝶ネクタイをして、口ひげを生やしたバーテンが程なく黒ビールを持ってきた。私は何も考えず、コップ半分くらい飲んだ。思えばアリスが忠告してくれた、駅を降りたらこちらの世界のものは飲んだり食べたりしてはならないという禁忌を破ってしまっていたのだった。ついでに唐辛子の効いたパスタを大盛り頼み、それも食べ尽くした。BGMで、「夢一夜」が流れていた。満腹になると、お金を一銭も持っていないことに気付いた。店を出るとき、店員にその話をすると、ちょっとこっちへ来いと言う。部屋の中には腕っ節の強そうな大柄な白人がいて、金が払えないなら、ここで働いていけという。私は他にすべもなく、そうすることにした。
 頭の中は空っぽにして約1ヶ月働き続けた。というより、思考能力が全く機能しなかった。1日12時間は働いて、夜はパブの2階の屋根裏のような所の小さなベッドで寝た。休みは1日もなかった。仕事は主に皿洗いと掃除だった。あっという間に1ヶ月経ったある日、この店のでっぷり太った店主が、
 「もう十分だ。食べた分を差し引いて、このお金を持っていけ。おまえはどうやらこっちの人間じゃなさそうだ。この金が必要になることもあろう。」そう言って10万円程の金貨を袋に入れて渡してくれた。
 私はその布袋を手に、再び夜の街をさすらうこととなった。

サーカス団  

 再び夜の街をふらふらし始めた私は、大通りに向かった。相変わらず避けて通らねばならない程の人の群が蠢いていた。私は無性にカンに会いたくなった。
「カン!カン!・・・」と、呼んでみた。考えてみれば、はぐれてもう1ヶ月は経つ。そう簡単には見つからないはずだ。今どこへ、生きているのやら。
 大通りに出てしばらく進むと、前から酒瓶を抱えた酔っぱらいが歩いてくる。顔を真っ赤にした中年の男だ。よく見ると見覚えがある。ハロウィンの時に出会ったジャックだった。向こうも気がついた様子で、話しかけてきた。
 「おいっ、おまえさんどっかで見たことがあるな。う~ん、そうか、おいらが日本に行ったとき、犬を連れてただろ。覚えてるよ。それにしてもどうしてこんな所をほっつき歩いてンだい。ヒック。そう言えばおまえの犬をさっき見たよ。あっちの方だよ。」
 月が出ている方角を指差した。私はジャックに礼を言った。
「あばよ!気を付けろよ!さっさと郷土(くに)に帰りな!」ジャックはそう言うといなくなってしまった。きっと今は暇なのだろう。
 大通りを月の方角へ進むと、ますます人混みが多くなり、多くの店が出ていた。途中、人だかりができている店があったのでのぞいてみると、客寄せに多くの動物たちが芸をしている。猫の綱渡り。熊の一輪車。亀の腕立て。ゾウのバク転。そして私は目を疑った。カンがいたのだ。赤いサンタクロースの衣装を着せられて、逆立ちをしたり、ブレイクダンスを踊ったりしている。それから犬用の巨大パソコンに字を打ち込んで、観客を喜ばせている。そうか、生きていたか。私は感無量で涙がこぼれ落ちてきた。そしてホッとした。もしかしたら保健所に送られていたかもしれない。でも、私がおもしろ半分に教えておいたパソコンが認められて、サーカス団に拾われていたのだろう。
 私は人混みをかき分けてカンに近づき、
「カン!カン!」と大声で叫んだのであった。

御犬様と再会   

 私は群衆をかき分けて最前列に出ると、「カン!カン!」と呼んだ。するとカンも分かったようで、逆立ちをやめて私の方をじっと見た。それから「くん、くん」と鳴いた。それを見ていたサーカス団員が近寄ってきて、
「あんたの犬なのかい。1ヶ月くらい前に我々の所に住み着いたんだけどね。芸をさせたら覚えが早いんで飼うことにしたんだよ。」
 私はカンと離ればなれになった理由を適当に作り上げて、返してもらえるように交渉した。すると団員は、カンを手放すのが惜しいような様子で、
「1ヶ月も飼ったんだから、えさ代くらい払ってもらわないとね。」と言ってきた。
 私が布袋の金貨を見せると、金貨20枚を要求してきた。私は値切って15枚にして貰い、ようやくカンを引き取ることができた。金貨はあと6枚しかない。綱も返してもらって、早速付けて、その場を離れることにした。
 後はカンに任せるようにしようと決め、カンの行く方向に進んだ。だんだん人通りの少ない方へ向かう。ついに建物が切れて、木立が見え始めた。どうやら森の中に進んでいくようだ。道幅もどんどん狭まっていく。明かりもないので暗がりで道もよく分からなくなってきた。すると、遠くの方に二つ、白い光が見えた。それはだんだん近寄ってくる。私はハッとした。そうだ、あれは御犬様の目の光りに違いない。ますます近寄って、それが間違いではないことが確認できた。高さ3mはあるシベリアン・ハスキーに似た巨大な御犬様が我々の前に姿を現した。カンはそこで止まった。御犬様がいつかのように空気を震わす低い声で話しかけてきた。
「おまえたち、こっちの世界の水を飲み、食べ物を食べてしまったな。」
 私は少し沈黙したが、やがて
「はい、確かに食べてしまいました。」と答えるしかなかったのだった。

ヌイバシ山の妖怪 

 すると御犬様はこう言った。
「おまえたちは、このままではもとの世界に帰れぬ。しかし、この森の奥にあるヌイバシ山の頂上に薬草が生えておる。香りが強くオレンジ色に輝いている花が咲いているからすぐ分かるじゃろう。これを煎じて飲めば体は清らかになり、もとの世界に戻れる体になるじゃろう。ただし、山に登り始めたら、一切声をあげてはならぬ。それと、後ろを振り向いてはならないのだ。もし禁を破れば、おまえたちは2度と元の世界に戻れぬどころか、ここにすら戻ってこれないであろう。」
 私たちはそれに従うしかなかった。御犬様はきびすを返してどこかへ消えてしまった。カンが早速ヌイバシ山の方へ向かい始めたので、ついていくと、やがて「ここより登山道」の看板が出てきた。先ほど御犬様が言ったことも注意書きで書かれていた。私たちは慎重に登り始めた。5合目を過ぎたあたりから何やら不気味な声がする。どうやら妖怪たちがこのあたりに住み着いているようだ。黒い影がときおり我々の前をものすごい早さで横切っていく。蝙蝠か?いや、どうやらこれも妖怪のようだ。道は大きな石がごろごろあって、とても登りにくい。半日かけてやっと8合目まで達した。その間不気味な声で脅かされ、何回声をあげようとしたことか。私はその都度ぐっと我慢した。カンは黙々と登り続ける。
 いよいよ、ヌイバシ山の主のような巨大な黒い妖怪が我々にからみついてきた。妖怪は後ろから何回も襲ってくる。私は後頭部や背中を強打され、意識がもうろうとし始めた。そして妖怪は助走を付けて(後ろからなので見えなかったが、多分そうだろう)ものすごいスピードで襲いかかってきた。近づいてくる轟音に、私はもうダメだ、これで終わりだ、と思った。
 その瞬間である。カンが禁を破って後ろを振り返り、妖怪に向けて口から火を噴き出した。妖怪は「ぎゃ~」と声をあげ、退散していった。しかし、その後、カンの足音が聞こえてこない。どうやらカンは禁を破ったため、大きな石に変えられてしまったようなのであった。

ハーブの威力   

 私はカンが死んでしまったこと。さらに私を守るために身をなげうったことにこぼれ落ちる涙を止めることができなかった。しかし頭のどこかに禁を忘れていなかったので、声をあげて泣いたり、後ろを振り返ることはしなかった。ぐっとこらえて、カンの遺志を継ぐべく、ひたすら山を登り続けた。
 ついに、頂上へと歩を進めることができた。そこには御犬様の言うとおり鮮やかなオレンジ色の花が咲く香りの強いハーブの群落があった。私はハーブをかき集めて、持ってきた鍋に水とそれを入れ、薪を集めて火を付けた。しばらくすると強烈な匂いがあたりにたちこめてきた。もういいだろうという所で私はそれを口にした。何とまずいこと!形容のしがたい渋み、苦さがあった。程なく強烈な腹痛が襲ってきた。と同時に吐き気がして、何回も吐いた。下痢もおこした。私は疲れ切って、その場に倒れ伏し、いつの間にか眠ってしまった。どれくらい経ったか分からない。目を覚ますと私の体はげっそりやせ細っていた。いよいよ下山することにした。何かに役立つかもと、鍋に入れたハーブの煮汁も持っていくことにした。慎重に降りていくと途中、つまずいてバランスを崩し煮汁を少しこぼしてしまった。すると、それがかかった大きな石が、瞬く間に立派な青年に変わった。青年は涙をこぼして喜んで、
「助けてくれてありがとう。母の病気を治すためにハーブを取りに行ったら、つい声を出して石になってしまったんです。」と言った。
 私と青年は手分けをして大きな石に煮汁をかけてまわった。すると、次々に人間たちが現れた。中には動物も出てきた。私は青年に
「私のパートナーの犬を探しているんです。」
と言い、探してもらった。するとまさにカンの形をした石が見つかり、早速煮汁をかけるとカンが甦った。私は歓喜の雄叫びをあげた。
青年は、「後は任せて、あなた達は山を下りて、早くもとの世界に帰りなさい。」と、勧めてもらった。私は言葉に甘え、お礼を言い、金貨を2枚渡すと、カンに煮汁を飲ませてから山を下りることにしたのだった。

さらば、「孤独な街」 

 山を下りる間、カンはハーブの煮汁のせいか、軟便を繰り返した。しかし無事に登山口まで降りることができた。すると御犬様が待っている。しかしどこか遠くを見つめて、微動だにしない。よく見るとその後ろに神社があった。私たちは御犬様に礼を言い、その神社にもお参りしていった。そこでお賽銭にと、金貨を1枚放り込んだ。すると、不思議なことにご神体の方から白い煙が湧き出てきて、馬車のような乗り物があらわれた。私たちはそれに乗り込むことにした。ちょうどカンは下痢で体力を消耗していて、もう歩けそうもなかったのだった。御犬様自らがその馬車を引いてくれた。凄いスピードである。町中にはいると人通りが多いせいか、御犬様は馬車を空中に向けて走らせた。私たちは「孤独な街」を空から眺めることができた。蠢く人々。街の灯り。ミニチュアのようだった。
 あっという間に駅舎に着いた。そこで御犬様に金貨を1枚渡して別れた。するとまた巨大なフクロウが待っている。
「切符を見せろ。」という。私は「なくした。」と答えると、「金貨を1枚出せ。」と言っててくる。そこでまた金貨を1枚出した。すると、2枚の切符がひらひらと落ちてきた。私たちはそれを持って駅構内に入っていった。金貨はついに後1枚になってしまった。ホームには、近代的で、リニア・モーターカーのような列車が止まっていた。乗ろうかどうか迷っていると、窓からアリスが顔を出して、「これに乗りなさい!」と声をかけてくれた。
 中に入ってみるとその設備の立派さに驚いた。全てがコンピューター化されていて、座席にはマッサージ器までついている。私はアリスに、「これは一体どうなっているの?前の古い蒸気機関車は?」と聞くと、「この汽車はときどき、いろんなタイプに急に変わってしまうの。」という。しかも何の前触れもなくだと言う。まあとにかく今までのものと同じ列車だと言うことが分かり安心した。
 程なく列車は走り出した。走り出したのが分からない程静かでスムースだった。

バンドロの箱   

 私はマッサージ機能を動かしてみた。何と気持ちの良いことか。旅の疲れも癒えるというものだ。カンは疲れたのか通路で伏せっていた。
 しばらくすると、のっぽの車掌があらわれた。
「次は、昨日の街、昨日の街~。」
 車掌はそう言うと私の方に近づいてさらにこう言った。
「お客さん、お降りになりますか。こちらで降りると元の世界に戻ることができますが。」
「ええ、そうします。少し疲れました。また来ますよ。」私は答えた。
 車掌は微笑を返して次の車両に行ってしまった。それを聞いていたアリスは、困惑し、寂しそうな顔をしていた。アリスは立って、頭上の荷物入れから二つの箱を取り出して、
「少しの間だけど、楽しかったわ。お礼にプレゼントをあげる。どちらか選んで。」と言った。
「ありがとう。君がいてくれたから、今回の旅も安心して続けることができたよ。」そう礼を言った。私は大きい箱と小さい箱のどちらの箱にしようかと悩んでいると、急にカンがむっくり起きあがり、箱に向かってバウバウ吠えかかった。
「カン!ダメだよ。アリスのプレゼントなんだよ。」そうたしなめてもカンは吠え続ける。私は急にアリスに疑念が湧いて、「ホントにこれはプレゼントなの?」と聞いた。するとアリスはぶるぶると震え始めて、涙をこぼし始めた。
「ごめんなさい。これはバンドロの箱というの。これを開けると中から煙が出てきて、それをかぶると永遠に元の世界に戻れなくなってしまうものなの。あなた達をだまそうとしてしまったの。」そう言うと、もう話ができないぐらい泣きじゃくり始めた。
「どうしたの?君が悪い人間でないことは知っているよ。何か理由があるんでしょ。教えてくれないかな。」
 アリスは顔を手で覆いながらうんうんとうなずいた。

たったひとり   

 「ごめんなさい。いつまでもあなた達と一緒にいたかったのよ。私はこの汽車に乗って以来ずっとひとりぼっちだった。あなた達が初めての友達だった。私はこの汽車に乗る前からずっとひとりだった。親もいなくて、親戚も私たち兄弟を面倒がっていたわ。弟はバスケットボールが上手だったの。だから高校や大学の選手や監督たちにちやほやされていた。いつも練習に出かけていた。だから私は与えられた部屋の中でいつもひとりで本を読んでいた。本だけが私の友人だった。私にいつも付き添ってくれる。裏切ったりしない。何時間でも読み続けたわ。ギリシャ神話、グリム童話、ドストエフスキー、カフカ、ジョン・アーヴィング、ポール・オースター、カート・ヴォネガット、レイモンド・カーヴァー、レイ・ブラッドベリ、サリンジャー、チェーホフ・・・。」
 「何でも読むんだね。」
 「そう。何でも良かった。きっと現実の世界を直視しなければならないで済むなら。私は何時間でも空想に浸ることができたわ。その中では私は何にでもなれたし、どこにでも行けた。空想の世界ではとてもいい気分でいられた。夢が醒めて現実の世界をみると、その落差に驚愕した。私はボストンの街をあてどもなくさまよい歩いた。ちらちらと雪の華が舞い散るクリスマスイブの夜、私は見たこともない街に迷い込んだ。そこで、ゴミ置き場の上でぶるぶる震えていたみなしご猫ちゃんと出会った。私みたいに孤独だったから、「ミー」と名付けた。私はミーの行く方向に一緒に行った。すると大きなフクロウのいる駅にたどり着いて、汽車に乗ったという訳なの。もう何年も汽車に乗り続けているわ。初めは楽しくて、いろんな駅に降りて散策したし、そこで、ダメだと分かっていたけれど、食べ物や飲み物を口にした。今まで食べたものよりはるかにおいしかった。でも、最近気付いたのよ。私はここでもひとりぼっちだって。それでいい、と決心したはずなのにときどき涙がこぼれて止まなくなる。」
「まだ、やり直せると思う。」私は何の根拠もなくそう言った。

黒いマント   

 ようやく涙の止まったアリスに私は訊いてみた。
「さっきの箱は二つともバンドロの箱なの?」
 するとアリスは首を横に振った。
「小さい方の箱がバンドロの箱。開けたら2度ともとの世界に帰れなくなるわ。大きい方は逆に元の世界に帰るとき必要なものなの。」
 私は、舌切り雀のばあさんの話と逆であることに気がついた。そしてアリスは、
「大きい方の箱はあげるわ。あなた達には随分心を癒されたもの。」
「ありがとう。」私はそう言って快く大きい箱を受け取った。開けて中をのぞいてみると、大きな黒いマントが入っていた。大の大人がすっぽりくるまれてしまう程の大きさだ。
「ああそうそう、カン君の分もよね。」そう言ってアリスは、マントの一部を思い切りちぎって、それを顔の前に持っていき、何やらぶつぶつ唱えた。すると、その端切れはいつの間にかちょうどカンがはおれるような大きさの、小さなかわいらしいマントになっていた。
「はいっ。これを持っていって。危険を予感したらこれを着るのよ。」
「ありがとうアリス。それじゃあ私からもプレゼント。」
そう言って私は、例のハーブの煮汁の入った瓶を取り出してアリスに勧めた。
「アリス。これを飲んでもう一度元の世界でやり直さないか。つらいこともいっぱいあると思うけど、きっとそれに見合う分だけいいことがあると思う。マイナスのカードを集めたら、いつかはプラスに転化するんじゃないかな。」
 アリスは少し躊躇している様子だった。しばらく考えたあげく、
「そうね、もう一度挑戦してみようかしら。あなた達を見ていたらそんな気になってきたわ。」
「そうだよ。万一辛くって息もできない程になれば、またこの汽車に乗ればいい。僕たちと一緒に、昨日の街で降りよう。」
 アリスは小さくうなずいて、瓶のフタを開けて煮汁を飲み干した。
「ウォエ~~」唸りながらアリスは何回か嘔吐を繰り返した。

猫又と激闘   

 列車は昨日の街に着いた。我々はのっぽの車掌に礼を言ってプラットホームに降りた。駅舎の入口には例のフクロウが遠くを見つめていた。私はカンを連れ、アリスはミーを連れていた。辺りは煉瓦の洋風の建物が建ち並ぶ閑静な街並みが広がっていた。
 しばらく一緒に歩いていると、一陣の風が吹き抜けた。そしてトラックのようなものが我々の方に猛スピードで近づいてくる。なんだ?つり上がった目。逆立った毛。高さ2mはありそうな巨大な猫だ。その後ろからはおよそ30匹の色とりどりの猫たちが、我々を襲ってくる。
 すると、カンとミーが防戦する。カンは火を吹いて応戦するが多勢に無勢である。巨大な猫は私やアリスに体当たりしてくる。
 「あれは猫又。猫のお化けよ。」アリスが猫たちの攻撃をかわしながら教えてくれた。どうやら配下の猫たちは猫又に操られているだけのようだった。
 「アリス!猫又に集中攻撃をかけよう!」と私は言って、カンにも猫又を狙うように指示した。私は残っていた1枚の金貨を思い切り猫又めがけて投げつけた。すると金貨は猫又の額のあたりに当たるとまぶしい光を発して炸裂した。猫又は「ギャー」と悲鳴を上げて、だいぶん弱まったようだった。しかし霊力は衰えていないらしく、配下の猫たちが鋭い爪で襲いかかってくる。
 その時だった。ミーが果敢にもひとりで猫又の顔面に飛びかかった。そしてあらん限りの力で噛みついた。猫又はまた大きな悲鳴を上げた。そして、そのまま東の方角へ反転して逃げていった。その時、ミーがポトンと猫又から落っこちたのである。アリスは真っ先にミーの所に行った。しかし残念なことに、ミーはもう事切れていたのである。その次の瞬間、ミーの体から何やらベール状のものが天上に昇っていった。どうやらミーの魂だった。ミーは飼い主アリスのために命をかけて猫又と戦ったのだった。アリスはその場でいつまでも号泣した。私とカンはそれを見つめて呆然と立ちつくすしかなかった。
 どれだけ経ったか分からない。やっとアリスが落ち着いて来た頃、私は話しかけた。
 「さあ行こう。ミーのためにも。」
 アリスは小さく頷いて立ち上がり、私たちとともに昨日の街の中心に向かっていった。

アリスとの別れ   

 我々はミーの亡骸を、近くの空き地に埋めて石を積んだ。それから冥福を祈って、その場を立ち去った。
 街の中心部に入っていくと十字路に看板があった。右、日本。左、アメリカ。私はアリスと顔を見合わせた。いよいよ別れの時が来たことがふたり分かったからだ。
「アリス、いろいろありがとう。君のおかげで随分助けられたよ。気を付けて帰ってね。きっといいことがあると思う。辛かったらミーを思い出すんだ。あの勇気を。」
「こちらこそありがとう。あなた達に会えて強くなれた気がするわ。カン君!元気でね。」
「所でアリス。君のマントはあるの?」
「あるわ。」そう言うとバッグをぽんと叩いた。
「それじゃあね」
 我々は軽く目で合図をして別々の方向に向かった。私とカンは看板にしたがってずっと西の方角へ進んでいった。やがて街並みが消え、原っぱに出た。すると急に辺りが暗くなり風が強まってきた。何やら顔に当たる。雪だ。雪はだんだん強くなって、ついには吹雪模様になってきた。風も猛烈に強まって、視界がほとんどゼロになった。もう前にも後ろにも進むことができない。あっという間に10cmは雪が積もった。日も暮れてきて、周りの様子が分からない。カンも途方に暮れた様子だ。私はアリスからもらったマントのことを思い出し、カンに着せ、私も着た。するとどうだろう。スローペースだが何とか前に進むことができる。マントが風と雪を跳ね返しているようだった。私とカンは2~3時間吹雪の中を進み続けた。ようやく風がおさまって、私たちは雪を踏みしめながら歩いた。カンの背中にはどっさり雪が積もった。

クリスマスケーキ  

 小雪の中を小1時間歩き回っているうち、次第に辺りは暗くなり、街の灯りがきらきらと光り始めた。ここは一体どこなんだろうと思いながらあてどもなくふらついているうちに、とある住宅地に行き着いた。そこは近所で相談したのであろうか、家々にクリスマスのイルミネーションが飾られていてとても美しかった。そしてしばらくしてはたと思い至った。
 そうだ!ここはたまにカンと散歩に来る所だ。どうやら我々は現実の世界に戻ってきたらしい。そう言えば黒いマントもいつの間にか消えてしまっている。雪が積もっていたので、いつもと違う風景に見えてしまっていたようなのだ。
 私とカンは家に向かってまだ積もったばかりの雪の上に足跡を付けながらゆっくりと歩いた。アリスも今頃はボストンのクリスマスイルミネーションに彩られた寂しい街に戻ったことだろう。でもきっと強く生きて行くに違いない。
 あと500m位で家に着くという所に妻がいた。
「どうしたの?散歩に行って2時間も帰ってこないから心配して出てきたのよ。あ~~寒い。」
「ごめんごめん。ぼうっとして歩いていたらこんな時間になってしまったんだ。」
そう答えながらも、あれだけの冒険が、現実界では2時間に過ぎなかったことに少々驚いた。まるで浦島太郎の逆だと思った。
 家に帰ると小さな丸いケーキが買ってあった。私たちはお茶を入れてそれを食べ、カンにもお裾分けした。私は疲れが出て床に入ったがしばらく眠れなかった。カンの様子を見に外へ出ると、丸くなってぐっすり寝ていた。
 「カン!しばらくしたらまた冒険に出ようね。」とカンを起こさないように小さな声で話しかけた。(完)

柴犬カンの冒険1

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柴犬カンの冒険1

ファンタジーです

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-23

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