エナ

東京農工大学文芸部 2016年度部誌「漆」十五号掲載作

1.fall day



 これから綴るのは、僕と『彼女』が暮らした何の変哲もない七年間の思い出だ。



 僕とエナが出会ったのは、紅葉が舞い落ちる静かな秋晴れの日だった。

 始まりは、親戚の一言だった。「誰も引き取り手がいない子がいる、預かってくれないか。」と。正直、気乗りはしなかった。今まで一人暮らしを続けてきて誰かと生活することに慣れていないし、子どもなんて手がかかる、そもそも顔も見たことのない子だ。不安しかない。
 面倒だな、という顔をしていたのだろう。その叔母は、一回だけでも会ってみてから考えてくれと、半ば強引に僕の日曜日を奪っていった。



 待ち合わせは、小金井公園だった。いくつかある入口の一つへ着いた頃に、ポーンと着信音がした。画面を見れば、「売店のあたりにいる」と、叔母からの簡潔なメールが一文。ちょうど近くにあった地図を確かめれば、中ほどに売店があった。おそらく、そこのことだろう。
 子供たちで賑わうSLの脇を通り抜け、何組もの家族連れとすれ違った。頭に赤いリボンを付けた幼稚園ぐらいの子が、お揃いのリボンを付けた丸っこい子犬を抱いて、とてとてと父親の方へ走っていった。僕が預かるのもあんな子なのだろうか。ますます現実味がなかった。
 しばらく歩くと売店が見えたが、叔母が見当たらなかった。メールを送ると、どうやら違う売店の前にいたらしく、そっちへ行くから動くなと言われ、おとなしくベンチに座った。あの幼稚園児を見かけてから、どうにもそわそわと落ち着かなかった。
 太陽が不意に雲でかげり、ざわりと風が吹いて枯れ葉が舞い上がった。顔を上げると、叔母が歩いてくるのが見え、慌てて立ち上がった。緊張が、僕の手を嫌な汗で湿らせた。
 ちらり、と叔母へ目を遣れば、その腕の中に小さな生き物がいるのを、僕の眼はとらえた。そして次の瞬間、何故だか僕は、この子を預かるだろうな、という予感がした。あんなに現実味がなかったのに、運命すら感じた。おかしな話だ。けれど、それほどまでに彼女は僕の心を鷲掴みにしたのだった。
 紅葉の赤い絨毯の上を一歩一歩近づいてくるたびに、黒々としたまん丸な瞳に映る僕の姿が大きくなっていく。まるで黒真珠。吸い込まれるようだった。瞳の中の虚像が、僕と入れ替わってしまうような気さえ、した。

 幼いエナ。聞いた限りでは身寄りはなく、かつていた場所も決して良い環境とは言えなかった。親から引き離され、知らない場所を転々とする辛さは、どれほどのものだろうか。それなのに、穢れを知らない純朴な瞳で僕を見つめてくる彼女は、地に舞い降りた天使のような神々しささえまとっていた。こんな子に出会ったことなど、かつて一度もない。
 大人しく抱かれたまま、時折窺うように叔母の顔を見上げる。かと思えば、ひらひらと宙を揺れ落ちる葉に興味を惹かれたように首を伸ばす。その仕草がまた、あまりにも愛らしくて。


 僕は、エナに心を奪われた。

2.Girlfriend


 その日から、僕とエナの生活が始まった。


 彼女は、すぐに僕に慣れ、僕もすぐに彼女に慣れた。そして、驚くほど僕の生活を豊かにした。
 くるくると目まぐるしく変わる表情。旺盛な好奇心。彼女の一挙一動が僕を虜にした。


 例えば、彼女は牛乳が好きだ。
 毎日、朝には一杯の牛乳を飲む。僕が四角いパックを持って準備するのを待ちきれない様子で跳ねまわり、僕の服を引っ張って邪魔をする。そしてある日には、ついに彼女の頭が僕の腕に当たり、僕はパックを取り落した。
 ぱっとグレーのカーペットへ広がった白に、彼女は自分の非を自覚したらしい。それまでと打って変わってシュンとした顔で僕を見上げ、どうしよう、と言うようにおろおろとその場を歩き回った。多少おてんばでも、素直で純粋なのがエナだ。そんな彼女に僕は愛おしさを抑えられず、つい失敗を許してしまいそうになるが、彼女は子ども。道を示すのが大人の役目だ。
 僕は、膝をついてエナに向き合った。指先で染みをトントンと叩き、
「駄目だよ。」
 と静かに告げた。これだけで、エナはわかってくれる。例え言葉が通じなくても。
 僕が後始末に使ったキッチンペーパーのゴミを、彼女は教えもしないのにゴミ箱へ捨ててくれた。賢い子だ。ああ、なんて素敵な僕のエナ。大きくなったら、どんな子になるんだろう。成長が楽しみでたまらないのに、この愛らしさが失われることを恐れてもいた。



 ある日には、公園へ出かけた。エナと出会った場所、小金井公園だ。広い敷地に芝生や木がゆったりと構えているこの公園が僕とエナのお気に入りだった。
 この日は、前日に降った雨がところどころに水たまりや濡れた葉を残していた。エナは、水たまりが好きなようだった。ちょっと駆けては、ぱしゃんと音を立てて勢いよく水たまりに飛び込む。泥水が跳ね上がっても気にならないらしい。僕は非常に気になった。彼女に着せた新しい服が、泥まみれだ。それでも、彼女が楽しいならそれでいいと思うから、僕は一度も止めなかった。彼女は飽きるまで延々と水たまりで遊び、公園に着くころにはもう、ドロドロに汚れてしまっていた。彼女は白いから、跳ねた泥が余計に目立つ。あちこちにできたまだら模様に、僕が思わず吹き出すと、彼女は不思議そうに僕を見上げた。
「あとで拭いてあげるから。」
 そう言って頭を撫でると、褒められたと思ったのか彼女は嬉しそうに笑った。僕も、なんだかおかしくなって、一緒になって笑った。
 夜には庭の物干し台に、真新しいエナの服が揺れた。



 エナを連れて外に出るようになってから、近所の人に声をかけられることが増えた。かわいいだとか、いい子だとか、エナに関する言葉ばかり。それが嬉しかった。僕のエナが、周りに認めてもらえている。
 ただそれは、僕の醜い感情を助長するきっかけにもなった。エナは人当たりが良いせいで、誰とでもすぐ仲良くなる。大して深い付き合いでもない他人に構われたり、あまつさえ触れられたりでもすれば、僕の嫉妬が首をもたげ、あっちへ行けと騒ぎだすのだ。そんな醜い僕を見られたくなくて、僕は曖昧に笑いながらエナと他人を眺めているしかない。エナに嫌われたら、僕は生きていけない。
 そんな僕を知ってか知らずか、エナは時折ふと僕を振り返ると、遊びをやめて僕のそばに来る。そして、いたずらっぽく見上げて笑うのだ。心配しすぎ、とでも言うように。僕の心など、見透かされてしまっているのかもしれない。幼くても、エナは賢い子だ。
「好かれているんですね。」
 だから、そんなことを笑いながら言われても、僕は素直に頷けなかったりする。僕など、彼女の掌で転がされているだけなのかもしれないと、そう思うのだ。



 エナは虫が好きだ。公園に行けばあちこちで虫を追いかけまわし、捕まえた虫を僕のもとへ持ってくる。女の子と思えないやんちゃさが、好ましい。ただ僕はと言えば、都会人にありがちな虫嫌いで、カブトムシやバッタくらいならまだいいけれど、クモだとか蛾だとか、ましてやゴキブリなんて震えそうになる。それなのに彼女が誇らしげに持ってくる虫は、僕が絶対に触りたくないもののオンパレードだった。
 目の前で自慢げに見せられると、思わず口元を抑えながら「すごいじゃないか。」とか「エナはすごい。」とか、嘘くさい褒め言葉をどうにか並べると、エナは嬉しそうにまた新しい獲物を探して駆け出していく。きっと、捕まえること自体が楽しくて仕方ないから、僕の反応なんてあまり気にならないんだろう。そもそも、僕とエナの間に言葉のやり取りは意味をなさない。
 ただ一度だけ、僕が虫のことで本気で褒めたことがある。
 その日、公園から帰ってくると玄関先に黒光りするあいつがいた。かなり新しいマンションだから、発生したというよりは外からエレベーターに乗って一緒に入ってきた(それも十分気持ちが悪くて考えたくないが)のだろう。僕は背後で玄関扉がガチャンと閉まる音を聞きながら、目線はゴキブリからそらすこともできず、ただ突っ立っているしかなかった。殺虫剤は玄関先にも置くべきだ。
 と、どこか現実逃避気味に考えていると、不意にエナがパッと飛び出した。土足のまま上がったと思うと、反射的に逃げ出したゴキブリを足で思い切り踏み潰す。ぐちゃり、と音がした。
 自慢げなエナの顔を見て、ようやく僕はエナがゴキブリを仕留めたのだと理解した。
「すごいじゃないか。」
 心からの賛辞を贈ると、彼女は嬉しそうに頷いた。
 そのあと、彼女に励まされながら後始末をしたのは、別の話。



 エナは毎晩、僕の布団に潜り込んでくる。
 正確には、ベッドだ。家具屋で買った木製の安い寝台に、やはり安いマットレスと、実家から持ってきた古い布団を乗せただけの、簡素なものだ。よほど新しく買いそろえたエナの寝具の方が高価だというのに、彼女がそれを使うことは昼寝以外にほとんどなかった。
 初めは寒いのかと思った。彼女の寝床に紅葉柄のホットカーペットを敷いてやったり、毛布を増やしたりした。それでも彼女は僕の隣を選んだ。どうやら、一人で寝るのは寂しいらしい。知的で大人びているくせに、こういうところは子どもだ。
 僕はそっと彼女を引き寄せ、頭を撫でながらうろ覚えの子守唄をうたった。彼女にはきっと、歌の意味など理解できないのだろう。それでもかまわない。彼女はいつだって、僕の下手な歌で安心したように眠りに落ちるのだから。



 エナは僕がいないとひどく寂しがった。
 ほんの数時間姿を見せないだけで、普段大人しい彼女が小さな体で暴れ、泣き叫ぶ。僕の仕事は在宅で出来るものばかりで(だからこそ叔母は僕に預けたのだろう)あまり心配はなかったが、一度外へ出なければならないことがあった。それも半日。彼女を人に任せるのは嫌だからと、僕はエナに良く言い聞かせ、退屈しないように彼女の皿に山のように菓子を盛り、お気に入りのおもちゃを並べて、家を出た。言った意味は分からずとも、賢い彼女なら大丈夫だろうと、そう思って。
 不安になりながらも仕事を終え帰宅した僕は、玄関の前で耳を澄ませた。静かだ。案外平気だったのかもしれない。ほっと息をついて鍵を開け、
「ただいま。」
 だが一歩家に入れば、大惨事だった。ゴミ箱は倒れ、ちぎれたティッシュが雪のように舞い、クッションは破れて綿が飛び出し、お菓子は床にぶちまけられていた。小さな台風に襲われたかのようだ。僕は頭を抱えながら、エナを呼んだ。
「エナ。」
 いつもなら元気よく飛んでくるはずなのに、彼女は来なかった。家中、不気味なほど静かだ。僕の声だけが吸い込まれて消えていく。僕は不安になりながらもう一度エナを呼んだ。返事はない。
 部屋の惨状が、エナではなく泥棒か何かだったら。エナが連れていかれたとしたら。
 不安に押しつぶされそうになりながら、僕の部屋に入る。と、ベッドの掛布団が膨らんでいた。まさか、と思いつつ布団をそっとめくると、そこにエナがいた。すうすうと小さく寝息を立てていた。
 胸をなでおろしながら、彼女のそばへ腰かける。目を覚ましてしまったのか、びくっと身震いして起き上がった彼女は、ひどく小さく見えた。わずかに怯えてさえ、いた。彼女がこれほどまでに哀れに見えたのは初めてだった。
「エナ。」
 びくりと肩が跳ねた。僕はそっと、ゆっくりと手を伸ばし、彼女を抱き寄せた。
 その夜は、彼女が安心して眠るまで、その背を撫で続けた。

3.My fair lady


 幼いエナも、あっという間に大人になった。
 彼女は、僕と流れる時間が違う。そういうものだと初めから、彼女を預かったその日から分かっていたけれど、それでもその速さには驚く。
 子供らしいふくよかさがなくなり、細身ですっきりとした後ろ姿。長い睫毛。切れ長の目。誰が見ても、美人だった。
 そのせいか、彼女と連れ立って出かけると、必ずみな振り返る。「あら可愛い。」「美人さんね。」と、昔と変わらず近所のおばさま方が囁く。僕はもう、嫉妬したりしなかった。僕も大人になったのだろう。だいぶ前に気づいていた。エナが見ているのは僕だけだ。安心できるだけの時間を共に過ごし、お互いに信頼を築いてきた自負があった。
 だが大人になったエナに惹かれるのは、近所の住民だけではない。
…そう、『彼ら』だ。エナと同じ、言葉が通じない上に僕らよりずっと早く成長する『彼ら』。エナは、必然的に男の『彼ら』を魅了した。エナを見かければ彼らは一様に騒ぎ、すり寄ろうとし、エナの気を引こうと躍起になる。当の彼女は、そんな露骨なアピールには目もくれず、僕の隣を颯爽と歩くのだが、僕は気が気でない。
 僕はこれといって特徴のない凡人であり、特別すばらしい魅力があるわけでもないことは重々承知していた。悲しいことに。エナから見れば、血筋の近い『彼ら』の方がずっと格好いいということもあるだろう。…いや、むしろそうに違いない。大人になっただなんて、嘘だ。いつだって、彼女が僕の元を離れ、いわゆる『イケメン』の方へなびいてしまうのではないかと思うと、怖かった。そして、エナを信じ切ることのできない自分の浅ましさが、大嫌いだった。
 もちろん、彼女の前ではそんな素振りはおくびにも出さないよう努めていたけれど、僕が不安になると決まって彼女は僕の顔を覗き込み、その黒々とした瞳で見透かしてくる。何でもないように笑えば誤魔化されてくれるけれど、彼女には全部バレているような、そんな気もした。いつか彼女に見放されそうで怖い。拾ったのは、僕だったはずなのに。



 ある晴れた日、二人で散歩に出た。近所に出来たカフェへ行くために。そこは珍しいことに、『彼ら』と共に入れることを売りにしていた。エナや『彼ら』が入れる店は少ない。『彼ら』の中には大人しくして居られないのもいるし、『彼ら』に対して好意的でない人もいるから仕方のないことだけれど、僕にとってはエナと一緒に出かけられる場所が少なくてつまらなく思ってはいる。エナならどんな場所でも落ち着いて上品に振る舞えるだろうに。
 出かける前、エナに「カフェへ行く。」と伝えると、意味は分かってないはずなのに目に見えてはしゃぎだした。こういう時の彼女は勘が良い。お気に入りの服を引っ張り出し、耳に飾りまでつけて、上機嫌に僕をせかす。僕は楽しそうなエナの様子に頬が緩むのを止められないまま、連れだって外へ出た。ひらり、ひらりと桜の花びらが散っている。デート日和だった。
 
 カフェは混んでいた。たくさんの話し声や注文を取る店員の声、陽気な有線、『彼ら』が騒ぐ声。森をイメージした店内は緑と木目が心地よくて良い雰囲気なのに、それが損なわれている気がして少し残念だった。エナも慣れない場所で、不安そうに僕を見上げていた。大丈夫だよ、と子供の時にしていたように頭を撫でると、少しは安心したようだった。
 入り口で名前を書いて待っていると、店員に呼ばれて席についた。僕はホットコーヒー、彼女にはショートケーキ。運ばれてきたそれに彼女は目を輝かせた。今までにケーキを一緒に食べたことはあったが、カフェで食べるのは初めてだった。
「おいしい?。」
 半分ほど食べ終わった頃を見計らって声をかけると、エナはじっと僕を見つめ、少ししてゆっくりと頷いた。なんだろう、可愛い。真剣な表情でケーキと向き合う姿は、子どもの頃と変わらない無邪気さを秘めていて、あまりに愛おしかった。ともすれば、切なくなるほどに。
 幸せなひとときに、時がたつのも忘れていたらしい。帰り際に慌てて冷めたコーヒーを煽れば、苦さが舌に残った。



 ある蒸し暑い夏の夜。幼いころからの日課で、彼女は僕の布団に潜り込んだ。横になった僕の腕の中へ無理やり入ってくるのがおかしくて、笑ってしまいそうになるのをこらえようと抱き寄せて彼女の頭に鼻先を埋めた。陽だまりのような匂い。
 そっと背中をなでると、滑らかな手触りが心地よい。心地いいのは彼女も同じで、とろけそうな表情をしているのが見なくてもわかる。
「エナ。」
 なんとなく名前を呼ぶと、彼女は鼻先を僕の胸にこすりつけた。吐息が、近い。
ゆっくりゆっくり飽きることなく撫で続け、ただそれだけで穏やかに時が流れる。次第に瞼が落ちてくるのを、僕は抗うことなく受け入れた。
「エナ。」
 ぽつり、と声が漏れる。睡魔は僕の理性を鈍らせる。
「僕を選んでくれて、ありがとう。」
 エナはぴくりとも動かなかった。
 彼女と暮らすことを選んだのは、確かに僕だ。けれど、それを選ばせたのは、エナに他ならない。僕を魅了し、『暮らさない』という選択肢を強引に消していった。だから、僕は間違ったことは言っていない、はずだ。
 眠くてたまらなくて僕は思考を放棄した。ただ肘で少しだけ起き上がって、エナの横顔を見下ろした。常夜灯に照らされ、口を半開きにして無防備に眠る彼女の姿は、子供のころから何も変わらない。愛しくて、愛おしくて、たまらない。
 眠りに落ちる前の一瞬、僕はエナにキスをした。



 金切り声が聞こえた気がして、僕はハッと読んでいた本から顔を上げた。
 慌ててベンチから立ち上がり、そう広くはない公園を見渡す。小金井公園とは違い、住宅に囲まれた小さな公園だ。すぐに僕は茂みのあたりにエナがいるのを見つけて、駆け寄った。大人になってもやんちゃなところがある彼女だ、てっきり木の尖りでも触ってケガをしたかと思ったのだが、目を疑った。
 『彼ら』がそこにいた。見るからに凶暴そうな、色の黒い、エナと同じ種族の『彼ら』。否、単数だから、『彼』だ。野良だろうか。昔ほど、外で勝手に暮らすような『彼ら』はいないはずなのだが。
 『彼』は荒い息で、地面に横たわったエナを見下ろし、見るからに興奮していた。だが真っ先に僕の目を引き付けたのは、地面とエナの白い体躯に点々と飛び散った鮮やかな紅色。―――血だ。
 途端、カッと体が熱くなって、瞼の裏が真っ赤に染まった。こんな怒りに襲われたのは初めてだと冷静に考える僕の脳みそは、思考の裏で落ちていた太い木の枝を取るよう手に指令を出すと、ぶん、と振り回した。
 びくっ、と『彼』が一瞬、身を引く。だがますます興奮したのか、僕へ好戦的な目を向け、低く唸るだけで立ち去る様子はない。
 僕は静かな怒りを込め、もう一度棒切れをぶん、と振った。
「行けよ。」
 思いのほか僕の声は冷え切っていた。じっと『彼』を見据える。
「今なら許してやる。」
 だから、行け。
 じっと睨み合いが続いた末に、折れたのは『彼』だった。
 ちくしょう、とでも言いたげに一声わけのわからない叫び声をあげると、脱兎のごとく走り去っていった。
 今なら許してやる、なんて我ながらくさい台詞、いや幼稚ともいえる台詞だ。『彼』が僕の言葉を理解できるわけもないし、ほかにもっとやり方があったはずだ。けれど『彼』は僕の意志―――本気で殺そうと一瞬でも思っていたことに、おそらく察しがついて逃げ出したのだろう。
 なんにせよ、エナの敵はいなくなった。
 からん、と手放した木の枝が乾いた音を立てる。僕はゆっくりとエナのそばにひざまずいて、浅い息を吐く彼女の身体を抱き上げた。彼女の身体は嫌になるほど熱を持っていて、消えてしまいそうなほど小さかった。そして首や肩には固まってこびりついた血。
「ごめん。」
 口をついて出たのは、情けない一言。
 こんな目に合わせないために僕がいるのに、何の役にも立たなかった。
「ごめんな。」
 ぽつりぽつりと雨が、エナを守れなかった負け犬の背中を濡らした。



「まあ一週間もすれば良くなるでしょう。心配いりませんよ。」
 数時間後。専門医の言葉に僕はほっと胸を撫で下ろした。エナは鎮痛剤の影響で寝ている。
 出血の原因は医者曰く、爪で引っかかれたのだろうとのことだった。手入れのしていない野良の爪だ、やや深くまで抉られていたが、運よく傷はそう深くない。
「傷口が化膿すると良くないので、毎日朝晩きちんと消毒をしてください。で、一週間後に経過を見て、おしまいでしょうねぇ。」
 医者はサラサラとカルテに何かを書き込むと、「これ処方箋。」と紙を僕に渡し、診察台の上のエナの頭をわしわしと撫でた。
「最近、野良が増えてるんで、気を付けたほうがいいかもしれません。こんな別嬪さんだと悪い虫も寄ってくる。」
 わはは、と笑うこの医者は、どこか安心感があった。僕は「気を付けます。」と強張っていた頬を緩めて頭を下げた。
「先生、ありがとうございました。」
「いやあ、私らこれが仕事ですからねぇ。」
 始終、笑顔を絶やさなかった医者が、「あ。」と何かを思い出したような顔で僕を見た。
「そういえば、エナちゃん、最近ちゃんとご飯とか食べてます?」
 唐突な問いに、まさかどこか悪いのかと頭が真っ白になった。ここ何日かの食事を思い出し、恐る恐る食欲は普通だということを伝えると、「それなら良いんだけどねぇ。」と医者はまた笑顔に戻った。
「前回の健診から、何となく痩せた気がしたから。」
 腕の中のエナを見下ろし、内心首をかしげる。確かに、抱き上げた時の感覚としては、少し軽くなったような気もする、が。
「気のせいかも、まあ忘れてください。」
 それ以上何も言われることもなく、僕は看護師に促されて待合室へ戻った。



 エナのケガが完治して、傷跡が少しばかり残る程度になったころ。「遊びに行くから、よろしく。」とメールが届いて、うちに叔母が来た。
「まあ、エナちゃん大きくなって。」
 叔母を見るなりすぐさま駆け寄っていったエナは、どうやら世話になったことを覚えていたらしい。やはり賢いなあと再認識する。彼女は叔母に撫でられながら気持ちよさそうに目を細めた。
「もう5年くらい経った? 思ったより中身は変わらないわね。」
「そうなんですよ、意外とやんちゃで。」
 はしゃぎつかれて大人しくなったエナを横目に苦笑しながら、お茶と叔母が携えてきたお土産――小金井の有名なチーズケーキだった――を切って出す。
「これ美味しいのよ。食べたことある?」
「いや、まだ食べたことは。」
「じゃあ買ってきて正解ね。」
「ええ、ありがとうございます。」
 叔母が手を付けているのを見て、僕も一口フォークで切り分け、口に入れる。
 とろ、と生地が舌の上で溶けてチーズの濃厚な香りが広がった。
「……おいしい。」
「でしょう?」
 自慢げに笑う叔母の言うとおりだった。チーズは甘みが少ないけれど、中のドライフルーツがアクセントになっていて、飽きない。大きさも手ごろだ。
 ひと口ひと口ゆっくりと崩していると、いつの間にかエナが横からじーっと僕を見つめているのに気が付いた。正確に言うと、僕と、チーズケーキの皿を交互に見るのを何度か繰り返して、それから何秒間か僕を見つめる、という流れだ。要するに僕は、おねだりされている。
「……食べる?」
 ほんの少しだけ切り取って、エナの前に差し出すと、彼女はぱくりと口に入れて、嬉しそうに目を輝かせた。美味しかったのだろう。
 良かった、と僕も嬉しいような気持ちになっていると、叔母があまりいい顔をしていないのに気が付いた。
「……あまり人間と同じ物食べさせちゃだめよ。その子と私たちは違うんだから。」
 叔母の口から出た言葉に、言葉を失う。
「……少しだけなら、大丈夫ですよ。」
 声は震えていただろうか。自分の心臓の音がうるさい。
 叔母は気付いているのかいないのか、遠慮のない溜息を吐いた。
「ねえ、なんで私が今日来たのかわかる?」
「……いいえ。」
「あなた今年いくつよ。」
「さんじゅう……に、です。」
 もうさすがに何が言いたいか分かった。
「で、いつまで独り身でいるつもり?」
 姉さんも心配してるのよ、と僕の母親の話まで持ち出して、僕を逃げられなくしようとする。大した理由もなく遊びに来るなんて珍しいと思ったら、そういうことかよ。
相変わらず自分勝手で、そのうえエナを無視されて、腹立たしさを押し殺しながら、へらりと笑う。
「一人じゃないですよ、エナがいるんで。」
 僕の言葉に、叔母はまた溜息を吐いた。
「そうかと思ったわ。あなたにその子預けたのは失敗だったかも。」
 僕が口を挟む暇もなく、叔母はよく喋った。
「あなたがその子にぞっこんだっていうのは聞いてたけど、ここまでとはねえ。もうちょっと現実を見られる子だと思ってたのに。あなたそもそも出会いの少ない仕事してるんだから、もっと外に出て探す努力をしなきゃ。あっという間に四十、五十になって独身貴族の出来上がりよ?」
 会話の内容はわからなくても何か勘付いたのか、エナが不安そうに僕の肩に頬を摺り寄せてくる。
 大丈夫、君を一人にはしない。
 僕はそっと彼女の頭を撫でて、もう一度言った。
「僕にはエナがいますから。」
 叔母の顔が歪む。
「その子が人間だったら何も言わないわよ。でも違うでしょう?」
「叔母さん。」
 強く遮って、何か言わせる前に言葉を続けた。
「勝手すぎないですか。僕にエナを預けておいて、今度は嫁探しに邪魔だから、捨てろって。」
「捨てろとは言ってないわよ、ただ、」
「要するに手放すか何とかしてきちんと身を固めろってことでしょう。でも今さら無理ですよ。」
 エナと出会ってなかったら、もっと違う五年間だっただろう。けれどエナがいる生活を知ってしまった。エナは生活の一部であり、家族であり、僕の大切な『彼女』。
 ここに、誰かが入り込む余地なんて、あるわけがなかった。
「……わかったわ。」
 溜息ひとつ落として、叔母は立ち上がった。
「何を言っても無駄そうね。もう好きになさい。」
 わかってくれた、わけではないのだろう。世間から見れば僕は『彼女』にかまけて独身を謳歌する親不孝者、になってしまう自覚はある。
 身支度を整えた叔母は玄関に向かいながらエナを一瞥すると、
「どうせあと数年でしょうしね。」
 
 ばたん、と玄関の戸が閉まる音で僕は我に返った。
 叔母の言葉が、嫌に耳に残っている。
『どうせあと数年でしょうしね。』
 なぜだか無性に悔しかった。
 『彼ら』は僕らに比べずっと短命だ。もうすぐ別れの時が来るという恐怖が、今まで目を向けていなかった不安が、急に目の前に突き出されると、混乱してどうしようもなかった。

「エナ。」

 呼べばすぐそばへ寄り添ってくれる。抱きしめれば彼女の体温が伝わる。
 それが冷たくなる日なんて、考えたくもなかったのに。

 君が選んだ僕を、君はいつか置いて行ってしまうのか。

4.Innocence

 最初に異変に気付いたのは、いつだったか。
 毎日欠かすことのなかった朝の牛乳に、彼女はほとんど手を付けなかった。
「珍しいなぁ。」
 具合でも悪いのかと顔を覗き込んだが、彼女はふいと僕から目をそらしてしまう。どうやらご機嫌斜めらしい。まあ、気まぐれなところもある彼女のことだ、そういう時もあるだろう。
 そう思って気に留めなかったのが間違いだったと気付いたのは、それから何日か経った後のことだった。



「ただいま。」
 夕方、仕事の打ち合わせから帰ってきた僕は、首を傾げた。いつもなら飛んできて出迎えてくれるエナが、今日は来ない。
 靴を脱ぎながら、いつだったかもこんな日があったのを思い出した。エナがまだ幼くて、留守番に慣れていなかった頃。あの時は確か、寂しくて僕の布団に潜り込んでいたのを見つけたのだったか。
「エナ。」
 なんとなく声を掛けたが、やはり気配はなかった。秋は日が暮れるのが早い。既に真っ暗な廊下から室内へ、ひとつひとつ電気をつけながらエナを探す。
「エナ?」
 真っ先に寝室を覗いたが、ベッドは朝整えたままの状態だった。彼女はいない。昔のように小さな台風が荒らした形跡もない。
 ようやく、僕は何かがおかしいと思い始めた。
 居間に戻り、室内に目を走らせる。カーペットの上には、いない。昔エナがこぼした牛乳の染みが、目につく。
「エナ。」
 ソファの裏には、昼寝用のベッド。ぽつんと彼女のお気に入りの耳飾りが乗っかっているだけで、彼女はやはりいない。
 振り返って目に入ったテーブルの上には、朝に洗っておいたエナ専用の器。
「……エナ。」
 どくん、どくん。心臓の音が耳に痛い。
 僕は、ゆっくりと台所へ向かった。何事もありませんように、と祈りながら。
「エ、ナ……」

 そしてとうとう僕は。

 キッチンマットの上で身動きひとつしない彼女を見つけてしまった。



 それからのことは、あっという間だった。
 台所で見つけた時、エナはまだ息があった。けれど、病院に連れて行った時には虫の息で、医者も首を横に振った。要するに、助かる望みはなかった。いつかは訪れる日とはいえあまりに突然で、すっぽりと感情が抜け落ちてしまったようだった。わけがわからなかった。
 君を一人にしないと、約束したはずだったのに。
 公園で襲われた時のことを思い出す。また僕は彼女を守れない。約束を果たせない。
 診察台に横たわる背中を震える手でそっと撫でた。形容できない感情でぐちゃぐちゃになった僕は、何度も何度も彼女の柔らかい背中を撫でた。それ以外に何もできる気がしなかった。だが、
「―――、」
 不意に彼女に呼ばれた気がして、彼女と目があう。言葉が通じないはずなのに、彼女は確かに僕を呼んだと分かった。僕は混乱した心が不思議と落ち着くのを感じた。そして僕は、心からの笑顔を彼女に向けた。泣くわけにはいかなかった。
 だって、エナが口角を上げ、白い歯を見せて、いつものように笑っていたから。

5.To the memory of Ena

 エナの最期なんて書きたくないから、これで僕の思い出話は終わりにしようと思う。彼女の死の原因だとか、骸をどうしたとか、そんなことは誰も知る必要はない。ただ、エナという存在が、七年間を僕と共に過ごしたという事実さえあればそれでいいと思うのは―――僕のエゴだろうか。その七年間が彼女にとって幸せなものだったと思うのは、僕の自惚れだろうか。
 少なくとも、僕にとってはその七年間が輝かしいものであったということは、ここへ確かに記しておく。

 言うまでもなく、彼女は僕の光だった。
 出会った時から彼女は僕の心を魅了して、奪って、空っぽのそれを満たして、返すどころかありあまるほど僕に与えて去っていってしまった。七年間の日々を、僕の人生の四分の一にも満たないその時間をこんなにもかけがえのないものにしてくれた。けれど僕は……、僕は、彼女に何かを与えることができていたのだろうか。僕は、与えられるだけで何も返せていなかったのではないだろうか。約束すら、果たせなかったのだ。
 これを書いている間も、そう悩んでいたのだけれど。僕の担当編集は「悩みすぎですよ。」と笑った。
「エナちゃん、先生といるといつもとっても幸せそうでしたから。」
 え、と思った。そんなことを言われたのは初めてだった。
「本当に?」
「誰が見てもそう思いますよ、きっと。」
 どこへ行っても楽しそうにはしゃいで、耳をピンと立てて、綺麗な毛並みのしっぽを振って。思い返せば、僕のそばから離れて行ったことなんて一度もなかった。
 そんなことを思い出してまた涙ぐみそうになっている僕の心は、まだ彼女に奪われたままなのかもしれない。



 さよなら、僕のエナ。



      この本と思い出を、愛犬エナへ捧ぐ。

エナ

お読みいただきありがとうございます。
この作品のコンセプトは「少女を可愛がる気持ち悪い男」でしたが伝わりましたでしょうか?
ともすればロリコンとも思われそうな彼が純粋に「彼女」を愛していた様と、エナの愛らしさが十分に描けていたら幸いです。
最後まで読まずに気付けた人がどれくらいいるのか気になるところですが……もし最後まで異世界の生き物だと信じ込んでくれていたら、私の勝ちですね(笑)

ところで部誌の方では付けなかった小題をこちらではつけてみました。折角なので意味を少し。
”fall day”は秋の日と、”僕”がエナに心を撃ち落とされた、という意味を。
”Girlfriend”は大好きなAvril Lavigneの曲から。元気で可愛い曲だというのと(曲調がエナの雰囲気に合ってるとは言い難いですが)、エナの少女期を表したかったので。
”My fair lady”は言わずもがな、有名な映画のタイトルですね。この言葉には”美人”という意味があるそうで、大人になったエナに合わせて付けました。
”Innocence”は同じくAvrilの曲から。以前、演劇部の舞台でも使わせて頂いた大好きな一曲で、曲の雰囲気と歌詞、そして単語自体の意味全部を踏まえてこれを4節の小題にしました。
”To the memory of Ena"これは本の末尾にある”○○に捧ぐ”というアレです。これに関してはこれ以上の説明は無用でしょう。そういうことです。

最後になりましたが、もし感想などありましたらTwitterでお待ちしております。
ありがとうございました。

エナ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-14

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  1. 1.fall day
  2. 2.Girlfriend
  3. 3.My fair lady
  4. 4.Innocence
  5. 5.To the memory of Ena