私の代わりに空が泣く



  白い花に埋もれた貴方は、眠っているようだった。角度を変えて見れば、優しく微笑んでいるようにも見える。急に強く肩を揺さぶれば、驚いて目を覚ますんじゃないかしら、と思えるほど貴方の横顔は、毎朝、目にしていた日々のように美しくて、あまりに現実味がなく、まったく涙が出ない。
 貴方が入った箱を囲む人達は私と同じような黒い服を着て、しくしくと泣きながら、溢れる涙をハンカチか手でぬぐっているのに、用意してきた私のハンカチはまだ乾いている。
 やがて別れを惜しむ為に設けられた時間は終わり、貴方が入っている箱は閉じられて、滑車で壁の中に押し込められ、分厚い蓋で閉じらた。それを見て私は、なんだかあっちとこっちで隔てられたような気分になる。
 皆、泣いているのに私だけ涙を流していないのに、妙な疎外感を覚え、1人で施設の外に出た。まるで工場のようにその建物から煙突が一本、空に向かって突き出ており、じっと見守っていたら、ゆっくりと白い煙が上ってきた。
 あれは貴方だ。貴方が天に昇り始めたんだ。しかし別れの日なのに、空は厚い雲に覆われ、お世辞にも旅立ち日よりとは言えない。やっぱり神様は不公平だ。
 頬に冷たい何かが当たった。空を見上げると、小雨が降り始めていた。

 ほんの数日前の朝、いつものようにユウ君の優しいキスで目が覚めた。いいえ、本当は起きていたんだけど、まだ夢の中にいるような真似をしていたら、ユウ君が口づけで起こしてくれるから、わざとそうする。王子様のキスで目覚めた眠り姫みたいって、年甲斐もない事を思ってみる。
 ユウ君はいつも朝御飯を食べない代わりに飲むヨーグルトをコップ一杯だけ飲む。同棲しはじめの頃、朝御飯を食べないと身体に良くないと信じていた私は、そう注意したのだが、ユウ君曰く、食べるか食べないかのどちらかが一方に決めるのが、一番良いらしく、体脂肪がつきやすいのは、食べたり食べなかったり、不規則なのが最も健康を害すると言った。確かに、ユウ君は太ってもいなければ、痩せてもいない中性的な体つき、大きく体調を崩したことも無いし、まあ問題ないのだろう。
「今夜、早く帰ってくるけど、家にいるか?」とコップを洗いながら聞いてきた。
「うん、シフトお昼だけだから。何か晩御飯、食べたいものある?」
「クリームシチュー」
 それはユウ君の好物だ。
「それじゃあ、ナオ、いってくる」
 軽いキスをしてユウ君は出ていった。
 2人で住むには少しだけ狭いワンルームのアパートの部屋。だけどコンビニや駅からも近いし、部屋も小さい分、掃除もしやすいので、不便さは感じていないし、何より大学生時代からずっとこの部屋で同棲生活をしているので、思い出も詰まっているから、社会人になっても離れがたいのも事実だけど、籍を入れたらもっと大きな家に引っ越さなければいけないのか、でも、ユウ君はどう思っているのだろう。お互い大学を卒業して1年経っているのに、ユウ君からは結婚を匂わせるような、仕草は感じ取れない。私が鈍いからなのか、それとも結婚を意識しているのは私だけなのだろか、そんな事を考えながら身支度を整えて、私も出勤した。職場は学生時代からずっと続けているファミレス、因みに雇用形態はアルバイトだ。
 一番忙しいランチタイムを乗り切り、ティータイムが終わる頃、タイムカードを切って退勤、帰りにスーパーマーケットでクリームシチューの材料を買った。私は基本、お肉が食べられないので、私達のタンパク質摂取源は専ら魚介類である。クリームシチューの具材も肉ではなく鮭を買った。
 日も完全に落ちて、すっかり暗くなった頃、クリームシチューとサラダが完成したが、ユウ君は帰ってこない。思いの外、仕事が立て込んでいるのだろうか、ただ待っていてもしかたがないので、机に向かって執筆中の小説の続きに手をつける。
 私が未だ就職してい所以でもある小説の執筆活動。
 ずっと、ユウ君と出会う前から小説家を目指していた。学生時代はデビューするために何回も出版社に持ち込んだりもしたが、結果は今の私の収入源を見れば一目瞭然である。最近、私に小説は向いていないんじゃないかと、思い始めた。そうすると自信だけが消失して余計に筆を重たくさせる。ここ一年、まともに完成させた事がない。
 ノートの上でキャラやストーリーをこねくりまわすが、思ったような造形が完成せず結局、ノートを閉じてしまった。そういえばクリームシチュー、冷めちゃったなと思ったとき、スマホに着信が来た。きっとユウ君だ。

 雨が降っていた。
 とても強い雨が、窓をバシバシと叩く雨の音、時折、稲光が青白い閃光を放ち、雷鳴が轟く、5月にしてはとても珍しい豪雨だった。
 私の代わりに空が泣いているような強い雨。
 生まれて初めて袖を通した喪服に身を包んだまま、虫のサナギになったかのように、私は明かりを点けていない、真っ暗な自宅の床の上で横たわっていた。長年住んできた自宅の床がこんなにも冷たいなんて初めて知る。
 不思議と涙は出ない。こんなにも悲しい筈なのに、心はただ冷めている。自分でも不思議なのだが胸の奥底から、嗚咽が溢れてくるのに、喉のところを通りすぎる内に霧にでもなったかのように、熱い感情は消えてしまうのだ。私が冷淡なのか‥‥‥もう、そんな事はどうでもいい。
 ほんの数日前、ユウ君は”今夜、早く帰ってくる”と言ったのに、約束を破って帰ってこなかった。そして、二度と帰って来る事はない。一度も嘘なんて吐いたことなかったのに、こんな酷仕打ちは初めてだ。
 私の恋人、ユウ君は仕事からの帰り道、突然死んでしまった。死因は急性心不全。倒れたのが人通りの少ない路地裏で発見が遅れ、救急隊が駆け付けた時には、もう手遅れの状態だったと言う。
 誰も悪者のいない予期せぬ不幸。動いている機械の電源を切ったかのように、ユウ君の心臓は停止してしまった。身体に悪いジャンクフードはあまり食べないし、私たち以上に無茶苦茶なお酒の飲み方をする人だって沢山いる。他人を騙したり身体的に傷つけたりしたことないのに、どうしてユウ君が死ななくちゃいけないのか、神は人に不公平だ。
 心の中で天に対する不満を叫ぶと、より強い雷鳴が響き顔を付けている床から振動が伝わってくる。近くに雷が落ちたのか、ならいっそのこと私に直撃して、ユウ君の所に連れていってくれたらいいのにと思った時、ピンポーンとチャイムがなった。驚き、背筋の筋肉が硬直する。
 一体、誰だろうこんな雨降りに、気にはなったが玄関まで出ていく気力はなく、居留守を決め込んで、再び筋肉を弛緩させ床に身を任せるとまたチャイムが鳴った。耳を手のひらで閉じて、必死に聞こえないようにしたが、甲高いチャイムの音は私の手では完全に遮断する事は出来ない。それでも私は頑なに床から動こうとしなかった。
 私とチャイムの押し問答は暫く続いた。しかしイタズラにしては確実に私に用事があって、尚且つ私が在宅しているというある種、訪問者の確信めいたものを感じた。
 もしかしてユウ君が帰ってきたのか、昔、中学生の頃、テレビで放送されていた「ゴースト ニューヨークの幻」という映画を思い出した。突如、亡くなった彼氏が幽霊になって、彼女の所に戻ってくる話だ。でも、映画や小説じゃない。死んだ人間は現実じゃ、戻って来ない。現代科学が全力を出して、宇宙にコロニーを建設する事は出来ても、一度死んだ人間を復活させる事は、たとえ日本の国家予算を全て注ぎ込んでも不可能だ。
 それくら人1人の命というのは儚くて尊い。
 私は仕方なく立ち上がり玄関へ向かう、その最中にもチャイムが鳴った。
 ドアノブに手をかける。もし強盗で扉を開けた瞬間、襲われたらどうしよう、もしそうなったら舌を噛みきって死んでやる。そう思えるくらい、私の生きる情熱は薄らいでいた。
 玄関の扉を開けると雨音が一層、強くなり、春とは思えない冷たい風が吹き込んでくる。
「あ、あの‥‥‥」
  不安そうな声で言ったのは、長い黒髪を雨に濡らし、眼鏡を掛けた女子高生だった。ブレザーの制服は近所の高校も物で、私の偏見だけど、夏目漱石とか芥川龍之介とか、古い小説を好みそうな文学少女に見える。
 眼鏡からも雨が滴り落ちる。顔は困惑してたが、心情を訴えたい必死さと熱意を持った瞳はレンズ越しにも伝わってくる。
「信じてもらえないかもしれないけど、俺はユウだ!」
 言われた瞬間、呆れた。
 ただでさえ恋人が亡くなって意気消沈しているのに、追い討ちをかけるような冗談は止してくれ、黙って扉を閉めようとすると、女子高生は扉をつかんで、さらに隙間に足をいれて簡単に閉めさせようとはしてくれない。
「いい加減にしないと、警察呼ぶよ!」
「俺の恋人、ナオ。血液型はAB型。近所のファミレスで働いている」
「それくらいの個人情報、調べればわかるでしょう」
「クリームシチューは?」
「えっ!?」
「俺がこの前、出掛ける時、ナオが何が食べたいって、聞いたから、クリームシチューって言った。鮭をタイムとオレガノで香り付けしたクリームシチュー。俺の好物だ!」
「嘘、でも、」
 まだ信じられない。
「告白したのは高校の図書室だった。誰もいない図書室で、俺が思いきって告白したんだ。放課後で夕日が綺麗だったのを覚えている。初めてキスしたのはクリスマスだ。付き合い出して三ヶ月もかかっている。その日ペアで買ったテディベアのキーホルダーは、まだ持っている。ナオが鞄に付けてて俺は車のキーに、クリスマスから一ヶ月後、ようやくセックスした。あと、大学の夏休みに海外旅行に行く予定だったけど、ナオがちゃんとバイトしてなくて、予算が足らず結局、国内の温泉旅行になったよな」
 個人情報は調べればわかるけど、そこまで細かい出来事は、私とユウ君じゃないとわからない。
「本当に、ユウ君なの?」
「ああ、信じてくれた?」
「でも、信じられない‥‥‥」
「俺だってこんな事、夢じゃないかって疑っている」
「とりあえず中へ」
 中身は知っているけど、全くしらない女子高生を家に迎え入れ、私はすぐにお風呂の用意をした。雨に濡れて冷えきったユウ君を、温めなければ、風邪を引いてしまう。
「まだ、喪服のままなのか?」
 お風呂の準備をしていると、いつの間にか後ろにユウ君がいた。
「すぐに着替えるわ。せっかく帰ってきてくれたのに、縁起でもないし」
「そうだな、ただいま、ナオ」
「‥‥‥おかえり、ユウ君、折角、クリームシチュー作ったのに‥‥‥」
 ユウ君にすがり付き泣き崩れた。お葬式でも見せなかった大粒の涙が、止めどなく溢れてくる。
「ごめん、ナオ。待たせて」
 ユウ君はそんな私の頭に手を、優しく置いて慰めてくれた。


 
 ユウ君の魂を入れた少女の身体。肌は上質の絹のように白い、長いユウ君の髪が湯船で痛まないように、タオルで巻いてあげて、二人で湯船に浸かった。いつも二人でお風呂に入る時は、私が上に乗る形になるけれど、今はユウ君が上になり、私に身を預けている。
「ところでユウ君、この子、誰なの?」
「実は俺もよく知らない。名前はルリという事しか教えもらえなかった」
 ユウ君、否、ルリという少女の肩が呼吸に合わせて、目の前で上下している。
「色々、約束して身体を貸してくれた?」
「何?」
「まず、身体を貸してくれるのは金、土、日の三日間だけ」
 今日は金曜日、高校生だから学校が始まるまでには身体を返せという事なのだろうか。
「最終日の夜に迎えが来るらしい」
「迎え、誰が!?」
「わからない。俺は名前しか教えてもらえなかった。それと、キスや性行為は絶対にするな、貞操は守れ。それだけは強く言われた」
「ふうん」
 なんとなくこのルリという子には、交際している人か、思いを寄せる人がいるんじゃないかと感じた。だから貞操だけは守りたいのだろう。
 ユウ君の身体を強き抱き寄せ「今もルリって子は、私達を見てるのかな?」と言った。
「わからない」 
 そうユウ君は私の質問に答える。
「黙っていれば、何をしてもバレないかも」
 ユウ君を強く抱き寄せる。
「ごめん、ナオ。それは出来ない!」
「なんで?」
「この子に悪いから」
「いつから他の女の子を気に掛けるようになったの?」
「バカ!そんなんじゃないよ!」
「冗談よ。ユウ君」
 そう言いつつも、内心、押し倒してほしいと思っている私がいた。

 お風呂から出た後、ユウ君に私のスウェットを着せたが、ルリの身体が私より一回り体格が小さいので、サイズが大きかったが、彼女の服が雨で濡れた学生服しか無かったので、私の服しかないのだ。
 私が「お腹空いた」と言うと「俺も」とユウ君が返したので、晩御飯をとる事にした。家には何も用意してなかったので、必然的に外食になる。
 窓を開けて外を伺うと、星空の見える快晴とまでいかなかったが、悪天候はすっかり落ち着き、鳴りを潜めていた虫の音が聞こえてきた。
 少し肌寒いので私はジャンバー、ユウ君にはスプリングコートを着せて家を出る。向かったのは少し離れた所にある小さな居酒屋。アパートから近いので、すっかり常連である。
 店に入ると「あら、いらっしゃーい、ナオちゃん、あらその子は?」と30代半ばで、オカマっぽいマスターがいつもの調子で迎えてくれた。
「えっと、従姉妹よ。週末に遊びに来てるの」と言いながら、一番奥のテーブル席を陣取る。店は比較的にお客さんが少ない。週末なのに、さっきまで雨が降っていたからだろうか、痩せていて細長い店のアルバイト店員が落ち着いた様子でおしぼりを持ってくる。 
 私はカシスソーダを頼み、ユウ君は生ビールを頼みたいだろうが、大人しく烏龍茶を注文した。暫くして飲み物を持ってきたマスターが「ユウ君はどうしているの?」と聞いてきた。
 マスターにはユウ君の訃報を伝えていない。今日、彼の告別式だった事は知らないのだ。
「女子会やるから実家に帰ってもらってるの」
「そうなの、まあ、社会人になったんだから、親孝行しないとねえ」
 ルリの姿をしたユウ君は下を向いている。親より先に逝くのは親不孝ものなんて言葉があるけど、やっぱり自責の念はあるのだろうか、誰も悪くない、心臓を止めてしまった神様の不公平なのに。
「料理を注文していい?」
「いいわよ」
「マグロユッケと特性サラダ、あとオススメのお刺身」
「はぁい、わかったわ。ちょっと待っててね」と言ってマスターは私達のテーブルから離れる。
「あ、あと、ネギマと牛スジの大和煮も!」
 ユウ君がマスターの背中に向かっていると「その頼みかた、ユウ君みたい」と振り向きながら言った。
「さて、残りの時間、何する?」
 マスターが厨房に引っ込んだところでユウ君が聞いてきた。
「時間限られてるから、有効に使わないとね。ううん、旅行に行くってのは?」
「土日だし今から宿の予約とるの難しくないか?」
「そうだよね。ユウ君は何かしたいことあるの?」
「そういえば、例のドラマ、まだ全部観てない」
 例のドラマとは、ゾンビアポカリプス物の海外ドラマだ。確か私達はシーズン1の途中までしか観てないのだが、シーズン1を見終わってもシーズン2もシーズン3も続いている訳で、いざルリの身体を離れても、続きが気になって、成仏出来ないんじゃないか‥‥‥そういえば、なんでユウ君は成仏しなかったのだろう。怪奇現象は絶賛体験中だけれど、霊感は基本的に皆無だなので、スピリチュアルな事はよくわからない。
 何故、ユウ君はこの世に留まったのだろう。
「ユウ君はどうして成仏しなかったの、やっぱり未練があるから」
「‥‥‥ああ」
 一瞬、言うのを躊躇ったようだったが、真っ直ぐ私の目を見て、未練がある事を認めた。
「それは、何?」
「言えない」
「何で?私には言いにくい?」
「言ったら成仏してしまいそうだから」
「えっ!?」
 急に怖くなった。再びユウ君を失いそうで、どうしてか私はユウ君を直視出来なくなって、思わず目を逸らし、カシスソーダを口に含み、その甘味で湧いてきた不吉な予感を誤魔化した。
 細長いアルバイトがサラダと刺身を持ってきて、当たり障りのない接客態度でテーブルの上に料理を並べる。
「ルリって子は、どうやって知り合ったの?」
 話題を変えるため、違う質問をしたが、なんだか浮気相手の素性を探っているようだと、言った後で思う。
「聞きたいか?」
「‥‥‥やっぱりいい」
「なんでだよ」
「知らない女だもん、私は、ユウ君さえいれば、それでいいの」
 私はそっとユウ君の手に触れる。いつもは温かいユウ君の手、しかし指が細くて柔らかいその手は冷たくて、小さく感じる。手の冷たい女性は心が温かいなんて言葉を思い出した。
 更にアルバイトがマグロユッケを持ってきた。マスターはカウンターの向こう側の厨房で、忙しそうにしている。店を見渡すと数組、お客さんが入ってきたようだった。
「ナオ、食べようぜ」
「うん」
 マグロユッケにのった玉子の黄味を、ユウ君は割り箸で潰す。姿は違うけど、その一挙一動が生前のユウ君の生き写しで、何故か泣いてしまいそうになった。
「本当に、三日間しかいられないの?」
「ああ、この子にも生活があるだろうし、高校生だからな」
「親はどうしてるんだろう」
「わからない」
 テーブルにネギマと牛スジの大和煮が仲間入りする。肉が好きなユウ君は真っ先にネギマに食らいつく。一通り料理に手を付けて、溜め息をつきながらユウ君は言った。
「女の子って、胃袋が小さいんだな」

 創作した街のモデルは数年前、高校時代、所属していた文芸部の合宿先だった。山と海に囲まれ歴史的な建物と由緒正しき神仏殿が点在する古都。
 そして多くの文豪達に愛され、様々な名作の舞台に選ばれた街。合宿先に選ばれた理由でもある。私もその街に感銘を受けたから、自分の作品の舞台にしたかった。けれど私のような半端者が、その街で主人公を活躍させるなんて、畏れ多くて、実際の場所はモデルにして、積極的に地名は変更した。
 主人公は女子高生、ちょうどルリくらいの歳だ。妖怪が頻繁に出現する土地で、主人公は妖怪退治に翻弄される。何故なら主人公の一族はずっとそうやってきたからだ。だから翻弄されている。自分の意思とは関係なく妖怪と戦う事を強要されているのだから。生まれてから死ぬまで、街の中の戦いだけで主人公の人生は完結する筈だった。しかし彼女の前に魔法使いが現れて、最初はお互い敵視しつつもやがて打ち解けて、共に妖怪と戦うようになり、魔法使いは主人公を街の外へ、そう鎖で繋がれた犬ような人生から解き放つ、そんなお話。ある程度、キャラや舞台設定を組み立てて、いざ本文に入るが筆は途中で止まってしまうい、結局、いつも執筆に使っているノートパソコンの蓋をそっと閉じて、溜め息をつくと小説家になりたいに、小説が書けない自分が情けなくなってきた。ドブの底に溜まったヘドロのような濁った感情が溢れてきて、ふと見ると机の上に置かれた”小説を書く方法”なんていう本が目に入り、それを手に取って頭に上って来た真っ赤に燃える怒りに任せ、引き裂いてやろうとした時。
「ナオ、起きてるのか?」
 ユウ君がベッドの布団に包まれながら、顔だけを此方に向けていた。本に八つ当たりしよとしていた自分が、恥ずかしくなり平静を装いつつ本を机の上に置く。
「起きてたというか、寝てない。今何時?」
 壁に掛かった時計を見ると、朝方5時だった。ノートパソコンの前で唸っているだけで、一晩も使ってしまったようだ。自分の才能のなさに嫌気がさす。
「少し寝たらどうだ?顔色悪いぞ」
「うん」
 言われた通りユウ君とのいるベッドに潜り込む。
「珍しいね、こんな朝早くに起きるなんて」
「わからないけど、勝手に目が覚めた。この身体は俺のものじゃないからな、睡眠サイクルも違うんじゃないか?」
 そう言いながらユウ君はベッドから出る。
「何処へ行くの?」
「トイレだよ。もう、遠くへは行かない」
 嘘つき、と口に出しそうになったが飲み込んだ。
 暫くして戻ってきたユウ君は部屋に戻ってくる。
「ナオ、眠れないのか」
「眠たくない」
「そうか」
 何も言わずベッドに腰を下ろすユウ君。彼の顔、いいえ、ルリという名の少女は酷く困惑した表情を見せた。
 彼女の姿をじっくりと観察する。長い髪は上質な糸のように滑らかで美しく、顔も小さくて小柄で華奢、眼鏡の向こう側の瞳も深い井戸のように、漆黒で澄んでいる。
 口調や仕草、思考と嗜好は一緒だけれど、やっぱり目の前にいるのは、知らない女子高生なのだ。
 私が今、抱いている気持ち、名前を付けていいのか、自分の思いを口にしたいのに、その行為がなんだか軽薄な気がして、
 でも、私は納得したい。自分に素直になりたかった。
「好きよ」
 ルリではなく、ユウ君に向けた言葉だ。
「俺も好きだ」
 ルリという壁を越えて、思いは私の恋人に届く。
 ユウ君はそっと私の頬に優しく手を添える。私はその手をぎゅっと握った。
「逃げちゃおうよ」と私が言うと、ユウ君は首を横に振って「それは出来ない」と言った。
 予想通のユウ君の言葉、わかったていた。だってユウ君は優しいから。
 私の瞳から涙が溢れ繋がったお互いの手と手の間に染み込んでいく。

 奮発して焼き肉を食べに行く事にした。しかもこの界隈じゃ一番高級な焼き肉屋さんに、勿論、私はサラダと冷麺しか食べないけど、ユウ君の送別会みたいな物だから、彼の好きなもの食べさせてあげないと罰が当たる。
 サシが沢山のった桃色の肉を焼いて、頬張るユウ君は、恍惚の表情を浮かべ、心の底から美味しそうに高級なお肉を味わった。
 私がお魚しか食べられないから、あんまりお肉を食べさせなかったけど、こんな事になるならもっとお肉を食べさせてあげればよかったと、今更ながら後悔していた。
 焼き肉屋さんの帰り道に、レンタルビデオショップに寄って、例の海外ドラマを続きからシーズン1の最終巻まで借りて、家に帰り、お風呂で焼き肉の残り香を落としてから観たけど、途中でユウ君は眠ってしまい、結局、シーズン1の最終回を観る事は出来なかった。
 ソファーで寝ているユウ君に毛布を掛けて私はベッドに潜り込んで目を閉じたら、貴重な時間をこんな事に使っていいのだろうか疑問に思えてきて、枕元にあったスマホで時刻を確認すると、最終日の日曜日に代わって数分経っている。
 暗闇に慣れてきた目でソファーで眠っているユウ君を見た。そこにいるのは素性の知らない女子高生。でも、どうして彼女がこんなにも愛しいのか、自然と身体は動き、ベッドを出て寝息を立てる女子高生に覆い被さった。
 滑らかな長い髪を優しく撫でみると、「ん」という甘い声を出し、寝息と共に微かに動く唇に自分の口を近づけると「ナオ?」不意にユウ君の目が開いて視線が合う。
「ユウ君、ごめん。その‥‥‥」
「いや、いいんだ」 
 妙な沈黙が暫く続き「本当は俺だって、ナオが欲しい」とユウ君は言て、私を少女の細い腕で抱き締めてくれた。
「こんなの、辛い、辛すぎるよ。ユウ君、今日でお別れなんて‥‥‥」
「最近、よく泣くよな」
 そう言うユウ君の目にも涙が溜まっている。
「よし、逃げてしまおう!」
「えっ!?」
「まだ大半の人が眠っている明け方、朝日に向かって逃げる若い二人。なんかカッコよくないか?」
「下手なポエム。カッコよくないよ」
「小説家志望に言われると自信なくすな。でも‥‥‥」
「でも?」
「気持ちは本気だ!」
 二人の行動は早かった。すぐに起きると明かりを点けて荷造りを始めた。旅行用のボストンバックやキャリーケースに衣類や日用品をまとめて、私の軽自動車に乗せる。出発の準備が整った頃には時刻は丑三つ時に差し掛かっていた。朝日ではなく月夜に向かって逃げる。ユウ君のカッコよくないポエムのようにはいかなかったが、何故か私はワクワクしていた。
 未成年を連れて逃げるのに罪悪感は全くない、長い旅行に出掛けるような気持ちである。何処へ行くかは決めてある。私が自分の小説のモデルにした街だ。
 ユウ君に運転させるのは法律上問題が発生するので、私が運転席に乗りエンジンを掛けると、カーラジオからベン・E・キングの”スタンド・バイ・ミー”が流れ始めた。
 適当な英語で曲に合わせて歌い始めるユウ君、ハンドルを握りながら私もつられて歌い出した。
 月明かりに照らされた住み慣れた街。もう戻ってくる事はないと決心した逃避行。
 曲が終わり陽気な女性DJが喋りだした時、ユウ君はカーステレオの電源を切って「後悔はしないか?」と聞いてきた。
「しないよ。寧ろ、ユウ君を手放す方が後悔する」
「そうか」とだけ言って、長い髪をかき上げて窓の外を静かに眺める。
「けど、どうして急に逃げようなんて言ったの?ユウ君らしくない。もっと大人しくて温厚だと思っていたのに」
「たまには冒険もいいだろう」
 郊外の田園地帯の真ん中に交差点があり、信号があり赤になった。深夜なので私達以外に車は走っていないが、一応停めた。
「ナオ、こんな時に言うのもおかしいかもしれないけど‥‥‥」
「なに?」
「俺と結婚して欲しい」と言って、ケースに入った指輪を私に見せた。胸が締め付けられる程、嬉しくて私は言葉を失い両手で口を押さえながらただ頷く事しか出来ない。
「俺が最後に出ていった日。プロポーズするつもりだった。けど、あんな事があったから指輪を渡せなくて、この世に留まったんだと思う」
「成仏しそう?」
「いや」と言ってユウ君は笑った。
 信号が青になる。しかし交通量の少ない深夜、私の車以外に走っている車両はなく、私はブレーキを踏んだままでも、文句を言う人なんていなかった。左手を差し出し「指輪、はめてよ」と言った。ユウ君は何も言わずケースから指輪を取り出し私の薬指にはめた。銀色に輝くエンゲージリング、飾られた小さな一粒のダイヤモンドは一等星のような強い輝きを、深い夜の闇の中でも輝いていた。
「ユウ君」
 恋人、いいえ、生涯のパートナーの名前を呼ぶ。
「これからは、ずっと一緒だ」
 お互い強い引力で引き寄せられたかのように、自然と2人の顔が近づく、私達の旅路をもう邪魔をする者はいないと思っていた。
 不意に車のエンジンが止まり、おかしいなと思ったとき、電源を切った筈のカーステレオから「ルール違反だよ!」という声がノイズに混じって聞こえてきた。


 
 プロポーズされた喜びと高揚感はすぐに消えた。背筋が凍っていくのがわかる。慌ててエンジンを再稼働させよとしたが、空回る音が虚しく鳴るだけだった。
「ルリを返してもらう!」
 また、カーステレオから声がした。
 嫌だ!折角、ユウ君と再会出来たのに、将来を約束したのに、またお別れなんて嫌だ。
「後ろにいる」
 ユウ君が言った。見れば車の後方、数メートルの所に人影が近づいてきている。きっとあの人影がユウ君が初日に言っていた”お迎え”なのだろう。
 私は半泣きになりながら、何とかエンジンを再稼働させようと試みたが、上手くいかない。 
「ナオ、俺はどこにもいかないよ」
 そう言ってユウ君は車を降りた。
 ユウ君はお迎えに向かって歩いていく。不安になり私も車を降りついていこうとしたら、「そこで待ってろ!」と止められて、車のトランクの辺りで成り行きを見守るしかなくなる。ユウ君はお迎えのすぐ前に立つ。
 こうして見るとお迎えは小柄なルリよりも、頭1つ分程、背が低く、パーカーを着て顔を隠している。
「ルリの身体で何処かに逃げるなんて卑怯じゃない?借りたものを無断で盗んで罪悪感とかないの?」
 それは若い女の声、10代後半から20代前半と予想された。
「深夜のドライブを楽しんでいただけさ」
「ドライブのわりに随分と大荷物なんじゃないかい?プロポーズまでしちゃってさ」
「俺達の事は筒抜けだった訳か、どこかに盗聴機でも仕込んであるのか?」
「まあ、そんなところだね。もう未練なんてないでしょう、最愛の人と永遠の愛も誓ったんだし、ただ別れが早かっただけと思ってよ」
「ああ」
「じゃあ、ルリを返してもらうから」
 お迎えの手がユウ君の頭に向かって伸びていく、駄目、何故か得たいの知れない力がルリの身体からユウ君を追い出してしまうと思ったとき。
「まだ、やり残した事がある!」とユウ君が言うと、突如、何かが光放った。
 ユウ君の手が煙を上げながら光って、厳密にはユウ君の持っている短い筒が輝いている。
 発煙筒だった。
 音と光と煙を放っている発煙筒を、お迎えに向かってユウ君は振り回している。恐らく車の助手席に常備してある発煙筒を持ち出して、上着の袖に中に隠してあったのだろう。
 お迎えが怯んだ隙に体当たりをして突き飛ばし、踵を返すと、走ってこっちに戻ってくる。
「早く車に乗れ!」
 ユウ君に言われて乗る。ユウ君も助手席に乗り込んできた。
「早く、車を出すんだ」
「わかってるよ!」 
 頼むエンジンよ。復活してくれと強く願いを込めて、キーを回すとエンジンがかかった。慌ててアクセルを踏み込んで、車を発信させた。
 ルームミラーで後方を確認するとお迎えは、まだ地面に膝を着いたままだった。逃げ切った。さっきの不調が嘘のように車は、田園地帯を抜けやがて、大きな河川に掛かった長い橋についた。
 橋の上を走っていく。やはり交通量は極端に少ない。世界に存在するのが、私達だけのような気がしてくると、安堵し自然と笑みが溢れてきた。それはユウ君も一緒だった。橋の中心を過ぎたとき2人は声を出して笑いあった。
 追っても振りきり、新しい門出は順風満帆。ユウ君は生物学的には女性なので籍は入れられないけど、そんな事はどうでもいい。2人が幸せなら役所の手続きなんて取るに足らない。
「ナオ」
「何?」
 私は甘い言葉を期待した。運転中なのでユウ君の方は見ない。
「停まれ」
「え?」
 首に何か冷たい物が押し当てられた。
「もう十分じゃん!一緒に遠くへ逃げる程の愛を実現できたんだから」
 カーステレオからじゃない。すぐ頭の後ろでお迎えの声がした。道路の路肩に車を寄せて駐車した。
 ユウ君の方に視線を向けると、青ざめた顔で私の首元を凝視している。首に押し当てられている物がなんとなくわかった。おそらくナイフだろう。


 ユウ君が何故どうやって車に潜り込んだのか聞くと、「死んだ恋人が女子高生になって戻ってくるとか、散々、非日常的な体験をして、どうやって車に潜り込んだとか、常識的に考えるわけ?」と言った。
 それがお迎えの答えだった。彼女は後部座席から私の顔を片腕で、抱えるように押さえ付けもう一方の手に持ったナイフを私の首筋に当てている。
「頸動脈を切られたら数分と持たず出血死だよ」
「止めろ。ナオを離せ!」
「君達と同罪。これでおあいこでじゃん!」
 お迎えがそう言った時、チクリとした痛みが刃の当たっている所に走る。
「ユウ君‥‥‥」
 殺される恐怖と不安に耐えられなくて、夫の名前を呼んだが、万策つきたのか苦いものを噛んだような渋い顔をしたまま、ユウ君は微動だにしない。
「それとも恋人、いいや、奥さんが死ねばあの世で一緒になれるとでも、思ってるのかな?」
 数日前まで、雷が直撃して死んでもいい、強盗に襲われたら舌を噛みきって自殺してやろう、そんな風に考え生きる情熱を失っていたのに死にたくないと思っている自分がいた。
「ナオを殺さないでくれ!」
「じゃあ、ルリを返して!」
 沈黙が車内に充満した。熱く冷たい視線をユウ君とお迎えは交わし、その不気味な静けさを破ったのはユウ君だった。
 ユウ君は車のドアを開け外にでると、扉を開けっぱなしのまま、橋の隅に歩いていく。
「何をするの!?」
 お迎えが尋ねるが、ユウ君は答えず、橋の両端に設置された手すりによじ登って、その上に立ち背中を向けたまま言った。
「少しでもナオを傷つけたら、ルリを殺す!」
「なんて身勝手なんだよ!こっちは身体を貸し出しておいて!」
 お迎えは叫んだ。
「恋ってそんなもんだろう」
 恐れを感じないのか、なんの躊躇いもなく、ユウ君は手すりの上でくるりと回ってこちらを向く、見ているこっちがハラハラした。風は吹かず穏やかで静かなのは、微動だにしないユウ君の長い髪が物語っている。強く輝く月を背負って、私を‥‥‥いいやフードの影に表情を隠したお迎えに、氷のような眼光を放っている。そんな冷たいユウ君を見たのははじめてだった。
 少しでもバランスを崩し足を踏み外せば、川にまっ逆さまだ。それなにユウ君は眉一つ動かさない。ユウ君の感覚に恐怖が欠如しているのか、それとも一度死んでいるから、死ぬのが怖くないのか、この切迫した状況をどう切る抜けるのだろう、ユウ君もお迎えも一歩も譲るつもりは無さそうだ。
 私の顔を掴んだ腕が微かに震えているえていた。そして後ろから虫が鳴くような小さな声で”ルリを失いたくない”と聞こえてきた。
 ああ、そうか、わかちゃった。お迎えがどんな人かわからないけど、こんなに必死に私達からルリを取り返そうとしているんだ。大切な人に違いない。それは、私にとってユウ君のような存在であり、ユウ君にとって私のような存在なのだ。
「ユウ君、もう止めよう。ルリを返してあげよう」
 表情のなかったユウ君の顔に、驚きという熱が戻る。
「どう考えても、悪者は私達だよ。自分達の幸せだけの為に、女の子1人の人生を台無しにしても、いつかきっと罰があたる。だから、もう止めよう。幸せだった。死んでも戻って来てれて、一緒に逃げてくれて、こんなにも愛されて私はとても嬉しい。だから、もうこの愛に後悔はないから、成仏して!」
 ユウ君は何も言わず見上げた。その背後の空は少しずつ紫色に染まりつつある。夜明けが近いのだろう。
「死者は墓場へ、魂はあの世へ‥‥‥俺は間違っていたのか?」
 誰も答えなかった。私も私の背後のお迎えさえも、ただ、ユウ君と私は自分達の愛を貫きたかっただけ、ある文豪の”愛することは、命懸けだよ。甘いとは思わない”という言葉を思い出した。確かに私達の行為は誉められたものではない。本来感謝すべき時間を与えてくれた人の親切を、踏みにじったんだから。けれど私達は愛に命を懸けた。だから2人で逃げた。
「ルリの身体は返すよ」とユウ君は言って手すりから降りようとした時、この静かな夜に似合わない、まるで嘘のような突風が吹いた。ユウ君の長い黒髪は扇状に広がり、明るくなりつつある夜空を隠しながら、バランスを崩し、こちら側でなく、川の方へ倒れてしまった。
 視界から消えるユウ君。私は何も考えず車から飛び出した。落ちる寸前でユウ君の腕を掴んだが、落下する威力を私の力じゃ、消すことは出来ず。手すりを軸に私の身体は一回転し、一緒にユウ君と橋から転落した。
 私達の冒険はここで終わった。

10

 空を眺めていたら、灰色の雲から雨粒が落ちてきた。気分は優れないけど、涙は出ない。本当は泣きたい気分なのに、何故か悲しみは結晶にならず、私の代わりに空が泣いているようだった。こんな気持ちにデジャビュを覚えつつ、病院のベッドから、ユウ君のいる方を向く。彼の姿は遠く離れた所にいるので、今、元気にしているのかわからない。
 ユウ君は雨の落ちてくる方向にいる。結局、別れの挨拶をまた出来なかった事は、どうしようもないが悔やまれる。
 あの冒険の最後、私とユウ君、そしてユウ君の魂を入れたルリは、一緒に橋から転落した。私は無傷で助かり、岸辺に流れ着いて気絶しているところを早朝、ランニングしてるおじさんに発見されたらしい。両親やバイト先の同僚、友人からはユウ君が亡くなったショックで自殺を試みたんじゃないかと思われた。本当の事を言っても、信用してくれないので朝日をみていたら、誤って落ちてしまったと適当な嘘をついた。
 まるで幻のような週末、夢だったんじゃないかと自分でも思うけど、左の薬指で輝くダイヤモンドの指輪だけが、真実を語っていた。
 ルリはどうなったのだろう。彼女の親切を踏みにじって、身体を奪おうとした私なんかが、安否を心配する資格なんてないかもしれないけれど、どうしても彼女が無事なのか気になる。もし、得体の知れない不思議な力が働いて、私が無傷なら、きっとルリも無事な筈だ。そんな希望的観測しか、病室のベッドの上ではできない。

 後日談

 梅雨前の清々しい五月晴れの日、私はリクルートスーツに身を包み電車に揺られていた。座席は埋まっているので、つり革に掴まっている。
 随分と遅れてしまったけど、就職活動の真っ最中だった。だって、これからは1人で生きていかないといけないんだから。ユウ君の事は、私は生者で、彼は死者。もう、相容れないと割りきっているけれど、寂し日や悲しい日は未だに巡ってくる。けれど、いつか自然とそんな感情が消える日が来るだろう、その時まで、私は私の感情に素直になって、涙を流すのも悪くなと思うようになった。
 創作はまだ続けている。専業作家でなくても、働きながら小説を書けない事はないという結論に至った。
 面接の帰り道、まだ帰宅ラッシュの時間ではないけど、スーツを身に付けた性別年齢様々な企業戦士がすくなからず電車に揺られていた。もうすぐ私も彼らの一員となるのだ。
 駅に到着し、乗客数名が入れ替わり、私の隣に立った人物を見て思わす「ユウ‥‥‥」と声に出してしまった。その人物は読んでいた文庫本から目を外し、眼鏡ごしの黒い瞳で私を見つめ「あの、何か用ですか?」と言った。
「ゆ、ゆ、揺れるから気を付けないとねえ」
「はあ」と生返事をして文庫本に目を戻した。
 服装はブレザーの制服、長い黒髪で眼鏡をかけた女子高生。車窓がスライドさせる街の風景を眺めるふりをしながら横目で観察する。読んでいる文庫本の内容はぱっと見ただけじゃわからないし、ブックカバーでタイトルは隠されていた。私の偏見だけど、芥川龍之介や夏目漱石、三島由起夫か太宰治だと勝手に予想をたててみた。
 何か話しかけようと思ったが、特に話題が見つからない、彼女が文庫本を何ページかめくっている内に、車窓の風景の流れはだんだんと緩やかになり、次の駅に着いた。
 彼女、ルリの舞台から退くべきだと思い自分の降りる駅ではなかったけれど、電車の外に出る。彼女の無事が確認できただけでも良しとしよう。
 プラットホームへと降り立つ、家まで少し遠いけど散歩するには調度いい晴天だ。
 電車の扉が閉まる前に、もう一度だけルリの方を振り向くと、お互い目が合った。合った時、扉が閉まった。

私の代わりに空が泣く

私の代わりに空が泣く

突如亡くなった彼氏が、女子高生の身体を借りて、彼女の所へ帰ってくる話です

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 冒険
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-10

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