暗夜白光

 深夜の闇が包む街を、彼は歩いていた。
 空は雲に覆われ、月明かりはほとんど届かない。道に立つ街灯の明かりは心許なかった。
 疲れていた。ひどく、疲れていた。
 その原因を熟知していた。それが仕事によるものでも、職場の人間関係によるものでもないことを彼は知っていた。ただ、人生というものに、彼は疲れていたのだ。
 生きるということに苦痛を感じていた。代り映えのない日常。ただ過ぎていく毎日。彼の目に映る世界は無味乾燥としていた。
 その日も、彼は彼の中で段々と膨れ上がる黒い気持ちに夜の闇を重ねていた。
 重く伸し掛かるような暗闇。夜は、明日が来ることを約束するようで嫌いだった。夜が来れば、朝が来る。その朝は彼にとって命令であった。
 生きよ。そして跋扈せよ。
 そんな身勝手な命令のように感じた。だが、跋扈するほどの自由は彼にない。決められた仕事と向かい合い、夜になって帰宅し、そうして寝る。
 それが彼の一日であり、生きるということだった。だが、彼にとって唯一、自分が真に自由になる瞬間があった。それは、深夜の帰路だった。
 靴音が鳴り響く。暗闇が彼を包み込み、周囲は驚くほど静かだった。自分の足で歩くことに、彼は何かしら生きがいのようなものを感じていた。
 人気のない道、時折遠くで聞こえる犬の遠吠え、彼の自由はそこにあった。たとえ全身が疲労に蝕まれていようと、遠回りをして街を散策するのが彼の楽しみだったのだ。
 薄い街灯の光に照らされ、彼の影もまた歩いた。二人三人と別れては一人に収束する。また別れ、また合わさり、そうして繰り返す。
 彼の体は疲れている反面、心は晴れ晴れとしていた。足元で踊る影も一定のリズムから離れていく。駆けだしたい衝動に駆られるが、我慢した。一日の自由はここにしかいないのを彼は分かっていたからだ。
 ふわり、と。
 浮ついた彼の鼻腔に、甘い香りが通り過ぎた。花のように思えるその香りに、はたと立ち止まる。香りの元を辿っていくと、道から逸れた場所にひっそりと佇む暗い路地が現れた。
 民家の塀に挟まれ、身を乗り出した樹木が路地を覆っている。そこだけ、闇が口を開けているようにも見える。
 彼はその香りに誘われるように、路地に赴いた。彼自身も何故そこに行こうと思い至ったかは分からない。ただ、漠然とした何かが在ることを予感していた。頭上で手を広げる枝葉は、月明かりさえ通さない。街灯もなく、辛うじて見える前方には果てしない暗闇があった。
 壁に手をつき、歩を進める。甘い香りは未だ彼の鼻のまわりを漂っていた。
 自然のトンネルを抜けると、不意に周囲が明るくなった。見上げると、雲の切れ間から月が顔を出していた。
 路地は一本道だった。人が二人、肩を並べて歩くだけで道を塞いでしまう程狭い。そんな路地を進む彼の中に浮かんだのは、高揚感だった。前人未踏の地に踏み込んだような感覚。未知への快感と好奇心に刺激され、恐る恐るだった歩調が段々と踊るように軽くなった。
 路地を抜けると、目の前に雑木林が広がった。左右には空を覆う木達が生え、その間には獣道が敷かれている。樹木によって生じた影は、闇がこちらに向かって手を伸ばしているようにも見える。
 足を踏み入れるのを躊躇させるほどの不気味さがあったが、彼は意を決して歩を進めた。
 静かな様は、どことなく神妙な雰囲気がある。時折風に揺れる林が音を立てるが、それ以外はほとんど聞こえない。
 しばらく歩くと、突然、彼の視界に闇に広がる光が見えた。
 目を擦り、改めて見るとそれが光ではなく、夜風にはためく白地の布であることに気が付いた。
 白いワンピースに身を包んだ女性が、そこにいた。樹木から生えている枝葉の影が女性を差し、月明かりのコントラストが相まって、独特の雰囲気を携えている。
 口元には薄っすらと笑みがある。だが顔の半分は影に隠れ、見えなかった。
 綺麗だった。
 白く透き通るような肌は漆黒に映え、不気味さよりも美しさの方が際立っている。触れれば折れてしまいそうな体の線は仄かに揺れ、だらりと下がった細い手は繊細だった。透明という言葉がここまで似合う女性を、彼は他に知らなかった。
 傍を通り過ぎる寸前、視界の隅でとらえた女性の口元が静かに動いたように見えた。
「こんばんは」
 木々の囀りのような、短くか細い声が聞こえたような気がした。振り向くと、女性は微笑みを浮かべていた。驚きつつも軽く会釈をし、彼はその場を離れた。
 雑木林を抜け、見知った通りへと出た。あの香りもいつのまにか何処かへと消えた。
 自身が住んでいるアパートへと帰る。軋む戸を開け、暗闇の中に足を踏み入れる。彼は暗闇の中でもどこに何があるかわかっていた。ルーチンワークのような毎日が、部屋のどこに何があるかをすべて体に染み込ませていたのだ。月明りでおぼろげに見えるベッドに横たわる。頭の中には、あの光景が焼き付いていた。
 暗闇と、真白の女性。だが、疲れた体は考えようとする意を放棄して微睡んでいく。簡素な天井が段々と黒い靄に包まれていく。
 意識はより深く、深淵へと落ちていき、脳裏には女性の姿が見え隠れしていた。

 それからというもの、彼は帰路にはあの雑木林を使うようになった。
 女性は、いつもそこにいた。
 夜風に揺れる女性の姿はいつだって変りなく、彼はそこを通りかかる度、乾いた心に水分が沁みわたるように感じた。
 彼にとって、女性は生きがいとなっていた。荒んだ心を満たす潤いだったのだ。
 四六時中彼の頭にはあの白色が渦巻いていた。日中、どこにいても、何をしていても、頭を過るのは女性だった。
 今宵も彼は雑木林を行く。何をするでもなく、歩くだけだ。あの女性に会うために。声が聞こえたのは最初の晩だけだった。透き通るような声を聴けないことに若干の寂しさはあった。
 だが彼は、それでも良かった。絶えず微笑んで彼を迎えてくれる女性に愛おしさすら湧き出していた。女性は、何の変哲もなかった日常に差す光だったのだ。
 彼の一日は、今までにないほど輝いていた。仕事と家を往復する毎日が解放されたような気さえした。
 一週間程が過ぎた。
 甘い匂いは日に日に強くなった。酔ってしまいそうな程に。
 都合で日をあけ、久しぶりに女性の元へ向かおうと思ったある日。彼は体を引きずり、雑木林へと向かった。だが、あの強烈になった甘い香りは何処かへと消え失せていた。一抹の不安を抱え、彼は路地を抜け、雑木林へと足を踏み入れた。
 茂った枝葉の下を掻い潜り、月明かりを受けつつ道を進む。香りのない道はそれだけで不気味に思えた。
 静寂が耳を覆う。
 不安は段々と大きくなる。歩く靴音さえも静かになっていく。動かす足は重い。鼓動が早くなる。手に汗が滲む。不安が段々と大きくなる。もうしばらくすれば、いつもの通りに女性がいるはずだ。真白の女性が。闇に浮き立つ女性の姿があるはずだった。
 彼の期待は、無残にも散った。
 女性はいなかった。
 その場所には、伸びた枝にぶら下がっている紐があるだけだった。。それが静かに揺れていた。
 彼はふらふらと前に歩みだし、女性がいたはずの場所まで来た。輪っかになっている紐をそっとなぞると、彼はその場に座り込んだ。
 彼の中で、様々な感情が渦を巻いた。
 何故、どうして、何処に、突然いなくなったことに対する悲しみ、何も言わずに消えたことに対する怒り、これからどうすればいいのかという不安。
 足元に何かが引っ掛かった。見ると、風に運ばれた新聞の一面だった。
 広げた一面の片隅に、小さく女性の遺体発見の情報が載っていた。
 朝、この路地の近くを歩いていた青年が異臭に気づき、雑木林に足を踏み入れた。その先で、首を吊った女性を発見したのだそうだ。死後、一週間程その場で首を吊ったままだったという。腐乱した死体は見るに堪えない姿で、何故今までそれを発見できなかったのか謎であった。
 その一面に滴がぽたりと落ちた。彼は、その青年を羨ましく思った。女性のあの姿に神秘を覚え、美しさを感じていた彼にとって、死を認めるのは苦痛にしかならなかった。
 驚きや恐怖は感じなかった。
 ただ、あの女性の姿を見れないことが悔やまれた。彼にとって日常の指針でもあった。それを失くした彼に明日はないように感じた。

 静かな夜に、彼の慟哭は空に消えた。

暗夜白光

如何だったでしょうか。如何だったでしょうか。

「何を信じるか」というものは、とても大切なことだと思います。身近なところで言えば、小さなジンクス。または宗教。信じるものによって、人は生きる指針などを決定づけるのかもしれません。
神と崇めていたものが、他人から見れば、悪逆非道な悪魔だったとしても。

なんて、それっぽいことを並べ立てても、第三者がとやかく言えるような立場ではないものですね。何を信じようがその人の自由。それで充分です。

暗夜白光

彼の趣味は散歩だ。月明りの綺麗な夜に、街を散策するのが好きだった。

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-06

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