指の魔法

 部活帰りに、中学校からほど近い本屋に寄った。これといって目当てがあったわけではなく、なんとなく覗いてみたくなっただけ。文芸書の平台の前で足を止め、よさそうな新刊本を手に取る。
 一冊を棚に戻し、別の一冊を取ろうとしたとき、あたしの動きは静止する。――まさか、今の後ろ姿は。
 文芸書の棚のもう一つ向こう、学習参考書の置かれたあたりで、立ち読みしている男子学生がいた。あの制服は見覚えがある。確か、一つ隣の駅が最寄りの。
 でも、あたしが気になったのはその制服のせいじゃない。記憶よりも背が伸びた気がするけれど、静かに佇む雰囲気に感じるものがあった。
 確かめようと、彼の近くまで移動する。足音を忍ばせ、何気ない風を装って距離を縮め――。
 だけど、確かめる前に彼がこちらに顔を向けてしまう。まともに目が合って、あたしは不自然な体勢で凍りつく。彼は、黒縁の丸眼鏡越しに瞳を瞬かせる。
 こっそり確認することはできなかったけど、参考書を片手に、こちらから視線を逸らさない彼は、やっぱり啓太だった。

*     *

 それは、小学生の頃のこと。
 世の中には知らないことがたくさんある。それを日々、一つずつ知っていく。今まで知らなかったことと出会ったとき、誰かに話したくなる。テレビで見たことを友達に伝えたくなる。学校で教わったことをお母さんに自慢したくなる。本で得た知識をみんなの前で披露したくなる。
 だけど、啓太のことは、誰かに話してはいけないような気がした。あたしだけが知っていればいい。それは、二人だけの秘密――という言い方を与えてしまうと、違和感があるけど。
 ある日、学校へ登校する途中で、啓太の姿を見つけた。黒のランドセルを背負って、とぼとぼと歩いている。
 その日はいつもより早起きだった。せっかくだから学校に一番に行って、好きなだけ朝の時間を満喫しようと思っていた。それなのに、啓太もこんなに早く登校している。毎日、この時間なのかしら。
 声をかけようとして、ふと、足を止める。啓太の近くにカラスがいたからだ。あたしはカラスが苦手だった。真っ黒で、何を考えているか分からなくて、不気味だから。
 少し離れたところから、啓太が襲われないか様子を窺っていた。啓太は鈍いところがあるし。ところが、啓太は避けるどころか、近づいていって――そして、塀の上で羽根を休めているカラスに手を伸ばし、そっと頭を撫でた。
 信じられなかった。カラスに、あんな風にして触っている人を見たことがない。
 カラスは大人しく、撫でられるに任せている。心なしか、嬉しそうですらある。
「そっか、今日はここで集会があるんだね」
 啓太が声を発する。明らかに、そのカラスに話しかけているようだった。カラスも答えるように、短く鳴く。
 しばらく二人――もとい、一人と一羽だけの世界だったけれど、啓太が「またね」と呟くと、その黒い羽根の生き物は飛び立っていった。
 あたしはしばらく呆然としてしまった。絵本の世界を覗いたときみたいな、夢見心地。ためしに頬をつねってみて、どうやらこれは夢ではないと分かる。
 啓太が先へ進んでいたので、慌てて追いかけた。ずいぶんとのんびりした足取りだからすぐに追いついたけれど、今度は一匹の子犬にまとわりつかれていた。首輪がないから野良犬だろうか。やんちゃそうだし、噛みつかれないか心配だ。
 啓太は落ち着いた動作でしゃがみ、その子犬に指先でちょっと触れた。すると、とたんに子犬は大人しくなった。急に賢くなったように、きちんと「お座り」の体勢を取っている。
「ごめんね、食べ物は持ってないんだ」
 また、話しかけている。どうして、あんなにすぐ仲良くなれるのだろうか。動物の気持ちが分かるのかもしれない。
 子犬が立ち去るのを見送って、啓太は歩き出す。あたしは相変わらず声をかけられないまま、ただ後ろからついていく。
 次は何が起こるのか。楽しみというよりは、不思議な思い。
 学校が近くなっていた。まだ登校する生徒は見当たらない。狭い路地にいるのはあたしと啓太だけ。
 頭の上は嘘みたいな青空だった。いつもよりちょっと早起きしただけで、目にするものの印象も変わるのかしら。あの物静かな啓太がさっきから見せるのは、言うなれば魔法。
 考えごとをしていて目を離した隙に、啓太は何匹もの猫に囲まれていた。思わず声を上げそうになるくらい、大勢に。後方にいることを気づかれてしまうから、すんでのところで口を手で覆った。
 一匹ずつ、指で触れていく。そうすると、触れられた猫から啓太になつくようになる。その光景を眺めていて、あたしは一つの考えが閃いた。
 ひょっとして、啓太の指は、触っただけでどんな動物とも仲良しになれる、魔法の指なのではないかな。
 あまりに猫がたくさんだったためか、啓太は周囲を確認するように首をめぐらした。そのときに、数歩後ろに立っていたあたしは見つかってしまった。
 啓太が猫たちに何か囁いて、立ち上がった。同時に、猫たちは散らばっていく。「ぼくから離れて」と言っていたような気がした。
「おはよう」
 ぎこちない笑みで、この辺は猫がいっぱいいるね、と挨拶代わりに言われる。あたしは小さく「そうだね」と答えることしかできなかった。

*     *

 あの日に舞い込んだ小さな秘密。それが啓太に対する意識を変え、その後の関係にも影響した。そう言うと、大げさかもしれないけれど。
 どちらからともなく、どこかでゆっくり話そうということになり、あたしたちは徒歩で海を目指した。この街は海が近い。いつでも潮の匂いが漂っているほどに。しばらく歩くことになるけど、互いに馴染みの場所だから苦ではないだろう。
 海は小学校からの方が近かった。放課後、みんなで遊びにいくこともしばしばあった。でも、その「みんな」の中に、啓太はあんまりいなかったが。
「本、受験勉強のため?」
 啓太は立ち読みしていた参考書を買った。あたしは何冊か手に取っただけで、一冊も買わなかった。
「うん」
「偉いね」
「もうすぐ、みんな部活を引退する時期だし」
「中学でなんの部活入ってるの?」
「……帰宅部」
 入ってないじゃない、と思いながら、薄く笑う。再会してからようやく笑えた。
 あたしはサッカー部のマネージャーやってるんだよ、と伝えると、ふうん、だか、へえ、だか明瞭としない返答をされた。
「背」
「せ?」
「伸びたね」
 啓太は見ないうちに大きくなっていた。あくまで、あの頃よりは。やはり、同学年の男子と比べると小さい方。
 啓太の身長が伸びるくらいには、少しだけ時が流れたのだ。
「その眼鏡は変わらないけど」
 トレードマークの丸眼鏡。ずっとかけ続けていると思うと、安心する。
 海が見えてきた。歩いた距離は長かったわりには、交わされた会話の内容は薄かった。
 あたしたちは友達だった。なのに、あることがあって以来、なんとなく話さなくなってしまった。そのまま、小学校を卒業し、今日まで顔を合わせる機会もなく。
 潮の匂いがきつくなる。月明かりだけが淡く照らす夜の海は、暗い。

*     *

 啓太とは幼稚園から一緒で、ずっと仲良くしていた。魔法の指がある、と知ってからは、それが羨ましく思えた。動物に触れることはできても、あそこまで気持ちが通じ合うことはできない。
 啓太はずるい。あたしの指も、魔法が使えたらいいのに。
 あれから数日、啓太に魔法の指について何か訊いたわけじゃないため、今までどおり接した。学校での啓太は、弱々しく背中を丸めている、大人しい啓太だった。
 マンガの取り合いがきっかけだったか、クラスの男子二人の間に諍いが起きた。はじめは言い合いだったのが、一方が手を出してしまい、喧嘩に発展した。体が大きくて、強い男子たちだったから、クラスのみんなは遠巻きに止めるよう促すだけで、誰も割って入っていけなかった。
 休み時間だから先生は不在。どうしよう、と不安になっていると、横合いからすっと誰かが彼らに近づいた。
 あたしは目を疑った。だって、それが啓太だったから。すぐにはね返されてしまうのは目に見えている。どうして。
 喧嘩をしていた男子二人は近づいてくる影にちらりと目をやったが、「なんだ、啓太か」と言いたげな表情を浮かべて、また相手の顔を睨めつけ合った。そんな二人の至近距離まで歩いていき、啓太は、指先をそっと触れさせた。
 まるで風船がしぼんだように、興奮状態の二人が静かになる。
「先生が来たら怒られるよ」
 啓太が続けてそう言ったから、様子を見守っていたみんなは、啓太が宥めたのだろうと思った。
 だけど、あたしは見ていた。啓太が何か言う前に、二人は喧嘩を止めた。それも、指先を触れただけで。
 魔法の指を使ったんだ。そうじゃなきゃおかしい。あの魔法は、動物だけではなく、人に対しても使えたのだ。
 そういえば、と記憶が甦ってくる。
 あのときも、魔法の指を使った、ということ――?

 けーいたくん、あそびましょ。
 あたしたちが幼稚園に通っていた頃。いつ、どのようにして出会ったのか、何がきっかけで仲良くなったのか、正確には憶えていない。気がついたら、傍にいた。
「いいよ。きょうは、なにしてあそぶの?」
 啓太は女の子たちよりも少し背が低くて、性格も大人しかった。丸眼鏡もその頃からかけていて、よくいじられていた。
 仲間外れにされることはなく、みんなの輪に自然と溶け込んでいる感じだった。
「じゃあ、おにごっこにしよう」
 と言って、啓太にタッチする。
「はい、けいたくんがおにだよ」
 はしゃいだ笑い声を上げて、逃げ回る。啓太は足が遅いから、なかなか追いついてこない。楽しくて、あちこちを駆け回った。
 あまりにも興奮しすぎたのだろうか。走っている途中、なんにもないところでつまずいて、こけた。スピードを出していたため、勢いよくダイブしてしまった。目の高さが急に変わって、やや混乱気味になる。膝が擦り剥けていた。痛みを覚える。
 泣いた。痛みに堪えかね、あたしは声を大きくして、泣いた。いたい、いたいよ、と。
「だいじょうぶ?」
 心配そうな表情で啓太が寄り添ってくれる。泣き止まないあたしを慰めるように、そっと頭を撫でる。
 啓太の指が、あたしに触れた。
 不思議だった。頭を撫でられた瞬間から、痛みはなくならなくても、不安な気持ちはどこかへ飛んでいった。そして、啓太は優しいな、とほんのり温かい感情が胸の内に流れ込んでくる。
 それから、啓太とはずっと仲良し。

 もう、何がなんだか分からなくなっていた。幼馴染みだから。いつも一緒で、いろんな遊びをして。だから、こうして友達でいるはず。
 だけど、啓太には魔法の指がある。どんな動物とも心を通わせ合える、あの指。そしてきっと、それは人間にも使えるのだ。
 じゃあ、あたしが啓太と友達になったのは、魔法をかけられたから?
 そうだとしたら――そうだったとして、あたしはどうすればいいの。
 一度考え出すと止まらなかった。啓太に寄せる感情に自信が持てなくなる。
 いつしか、啓太に対してよそよそしい態度しか取らなくなり、関わることを避けるようになった。

*     *

 浜辺の錆びかけた青いベンチに腰掛けていると、缶ジュースを手渡された。
「ありがとう」
 啓太も隣に座る。あたしたちの間には、げんこつ三つ分くらいの距離があった。
 張らなくても、声は波に負けないで届く距離。
「二年以上は会ってなかったよね。それでも、お互い分かるもんだね」
「だって、幼稚園から小学校までずっと一緒だったんだから。飽きるほど相手の顔を見てきたよ」
 さっきから少しずつ、啓太の表情が柔らかくなっている。警戒を解いているかのような。
「いろんなことして、遊んだよね。懐かしいな」
 かつての光景を思い浮かべてみる。どんな遊びよりも、啓太の指の魔法を見てしまったとき、そして、屋上でのやり取りが思い出される――。
 幼いあたしには気持ちの整理がつかなかっただけで、啓太のことを嫌いになったことは一度もない。初めて動物を手なずけている様子を目の当たりにしたときは、羨ましく感じたほどだ。
 規則的な波の音が、なぜだか一抹の不安を誘う。
「会ってなかったのは二年とちょっとだけど、話してない期間はもっとある」
 啓太の声。心臓がきゅっと締めつけられるようだった。そっと啓太の横顔を窺うけれど、穏やかなままだった。

*     *

 またある日の放課後。帰ろうとランドセルを背負い、教室を出る。
 出たところで、啓太が待っていた。まっすぐに立って、その眼差しは間違いなくあたしを捉えている。何か言いたげな口元。
 けれどもあたしは、それに気づかない振りでやり過ごそうとする。一歩、階段のある方へ足を踏み出しかけた瞬間、腕を掴まれる。
 啓太の手はじっとりと汗をかいていた。「指」に触れられているのは分かったが、むげに払うこともできない。
 そのまま屋上まで引っ張られていき、あたしはそれに身を委ねた。従おうという気になっている。これは、正真正銘あたしの気持ち?
 屋上は緑色のフェンスに囲まれていて、あまり見晴らしはよくない。扉を出てすぐのところで、啓太は立ち止まる。一度、辺りに人がいないか確認していた。
 向き合う。啓太はいつも穏やかで、笑っている顔の印象が強いけれど、このときはどこか確かな意志みたいなものを感じた。
「どうして最近、仲良くしてくれないの?」
「――そんなことないよ。普通だよ」
「でも、話そうともしない。ぼくを見ると、どこかへ行っちゃう」
「そうかな」
「そうだよ」
 心苦しかった。啓太は悪いことしていないのに、勝手に距離を置いたのは自分だ。
 正直に気持ちを伝えてみようと思った。
 啓太が魔法の指で、動物たちと仲良くしているのを見たこと。誰にも明かさず、いいな、とただ憧れていたこと。教室であった諍いを仲裁したこと。そのときにも、魔法を使ったように見えたこと。そして、あたしと啓太が友達になったきっかけを思い出し――魔法で友達になれたのではないか、と考えてしまったこと。
 包み隠さず、順番に話した。たどたどしい説明を、啓太は辛抱強く聞いてくれた。
「ごめんね」
 謝ったのは、どっちが先だったっけ。
 屋上は陽の照り返しをまともに受けるから、熱気でむんむんとしている。あんまり長くいる場所ではない。
「自分の気持ちが分からなくなっちゃったの……」
 このまま話し続けたら泣き出していたかもしれない。そんなあたしの言葉を、ぼくね、と啓太が遮る。
「ぼくね、動物だったら誰とでも仲良くなれるんだ。ほんとに、魔法の指なんだと思う。ぼくは、自分の指が好きだった」
 だけどね、と顔を俯ける。
「人に使えるのかどうかは、分からない。気にしたことなかったから。喧嘩を止めに行ったときは、ただ夢中で、気がついたら二人とも大人しくなってた」
 魔法の指は、羨ましいものなんかじゃない。ほんとうは、とても淋しいものだ。
「この指のせいで、動物や友達と、指の力で仲良くなったのか、それともほんとうに仲良くなれたのか、分からない――」

*     *

 啓太が抱えていた、秘密。あそこで本音を打ち明けてもらえたのに、やっぱりあたしは、啓太を避け続けてしまった。小学生の少女には、どうすればいいのか皆目見当がつかなかった。
 小学校を卒業するまで、口を利かないまま別れた。後悔は、時間をかけてあたしの胸に去来した。
「あれから、できるだけ魔法は使わないようにしてる」
 啓太が言った。「動物にも人にも、指で触れないように気をつけてる。かなり大変なんだけど、おかげで知った」
「――何を?」
「魔法がなくても、動物や人とは簡単に仲良しになれる。……最初は、もしかしたら、幼稚園で魔法を使っちゃったのかもしれないけど。でも、そんなのがなくても、ぼくらはきっと友達になってた」
「うん。――もう、大丈夫だよ」
 ふふふ、と小さく笑いを漏らす。
 啓太の身長が伸びるくらいには、少しだけ時が流れた。あたしの胸のもやもやをどこかへ追いやるくらいにも、また。
「啓太」
 どうして海水がしょっぱいか、知ってる?
 あたしの突然の問いかけに、啓太は目をぱちくりさせた。なんで、そんなこと訊くの?
 大きな何かを見据えると、些細なことは少しも気にならなくなる。
 げんこつ三つ分を越え、啓太の手をそっと握る。指先は否応なしに触れるけれど、この胸の高鳴りが魔法なのかはどうでもよかった。

                         〈終〉

指の魔法

指の魔法

ひょっとして、啓太の指は、触っただけでどんな動物とも仲良しになれる、魔法の指なのではないかな。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-11-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted