みにくい白鳥の子

みにくい白鳥の子

第1章 嘘つきは作家の始まり

1 手紙

 正直者か嘘つきか、どちらかといえば私は嘘つきな方だと思います。3年近く通い続けている散髪屋のおばちゃんに、2年以上も嘘をつき続けているからです。
 散髪屋の中での私は、実在しない妻に対する日常の些細な愚痴や、かけがえのない架空の一人娘の成長を、おしゃべりなおばちゃんに現在も話し続けています。
 きっかけは散髪屋のおばちゃんの勘違いで、私を誰か他の妻子持ちの客と間違えて妻と娘の話をしてきたのですが、その時に人違いだと否定をせず、子供がいるという家庭生活に対する憧れと興味本位から、つい適当に受け応えをしてしまったことから嘘が始まりました。
 しかし、私は自らすすんで散髪屋のおばちゃんに嘘などつきませんし、相手を騙すつもりで嘘をついているのではありません。
 向こうから妻や娘のことを、あれこれと質問されなければ、私からは決して話題にはしないからです。
 要するに私は、38歳にして結婚もせずに独り者でいるという、世間に対する何かしらの負い目や後ろめたさを感じて、消極的に嘘をつき続けているのです。
 できることならば、区画整理や地上げなどによる立ち退きといった何らかの理由で、おしゃべりなおばちゃんが店舗ごと私の前から無くなってしまうか、それともいっそのこと、本当に亡くなってしまってもかまわない、とさえ思っています。
 店を替えれば済む話なのですが、私からしてみれば、店を替えて新たに髪形をリクエストするのが面倒ですし、変な髪形にされるかもしれないというリスクを負うよりも、おしゃべりなおばちゃんに嘘をつき続けるほうが楽なのです。
 以上のように、私は嘘つきな上に面倒くさがりという性分なので、これまで生きてきた中で、何かと不便や不都合が生じることもあり、多少の波風はありましたが、どちらかといえば平凡な人生を歩んできました。
 しかし、今回はそんな性格が災いして、つい苦し紛れについてしまった嘘がきっかけとなり、どういう訳か小説を書くことになってしまいました。
 では、どのような嘘がきっかけとなり、小説を書くことになってしまったのかというと、全ては一通の手紙が始まりでありました。

 その日、仕事が無かった私は午後の1時頃に目を覚まし、歯を磨いて顔を洗っているときに、
「ピンポーン」と、来客を知らせる呼び出し音が鳴りました。
 誰が訪ねてきたのかと、顔を拭いて玄関のドアの前に立ったとき、
「ごめんください。書留郵便です」と、若い男の声がしました。       
(書留郵便?)と思いながらドアを開けると、そこにはニキビだらけの赤い顔をした若い郵便配達員がおりまして、
「西村さんですね」と言って、白い封筒を差し出しました。
 小さく頷いて封筒を受け取り、間違いなく自分の名前が書かれていることを確認したあと、いったい誰から送られたものかと裏返してみると、そこには大阪市北区の住所と、『長谷川法律事務所 弁護士 長谷川健二(はせがわけんじ)』という文字が印刷されておりました。
「!」
 見知らぬ名前の人物、それも弁護士からの郵便物に驚いていると、配達員はボールペンを差し出しながら、
「こちらに受け取りのサインをお願いします」と言いましたのでサインをすると、彼は満足そうな笑顔で去っていきました。
 あらためて、弁護士から私宛に送られた郵便物だということを確認したあと、何がなんだか訳が分かりませんでしたが、中身についてあれこれと想像してみました。
 清く正しく、とは言えませんが、貧しいながらも社会の隅っこで慎ましく暮らしている私は、幸い借金はありませんし、誰かともめているという自覚もありませんので、弁護士からの通知やコンタクトなど、思い当たる節が全くありません。なので、嫌な予感やトラブルの臭いといった、ドラマティックな展開などは想像しませんでしたが、直感的に(新手の振り込め詐欺か?)という思いとともに、そんな身に覚えのない郵便物は、中を見ずにそのままゴミ箱に破棄しようかと思いました。
 しかし、振り込め詐欺がわざわざピンポイントで、しかも書留で送達してくるとは考えられませんし、もしも本当の弁護士であった場合、なにか重要な事項が記載されている可能性が高いですし、無視した場合は何らかの不利益を被るかもしれません。
 そして、何よりも後で、自分の想像以上に面倒なことになっても困ると思い直して、中身を確認することにしました。
 密封された封筒の口を指で破くと、中には薄いブルーの便箋が2枚入っており、とても綺麗な文字で文章が書かれておりましたが、
「?!」
 出だしの一行目で、送り主となっている弁護士が書いた文章ではないことが分かり、ますます頭の中が混乱してしまいました。
 この手紙を書いた人物は、私の20年来の友人で、2ヶ月前にとつぜん行方不明となってしまった、福山章浩(ふくやまあきひろ)こと、通称アキちゃんが書いた手紙でありました。
 訳の分からないまま、全ての文章を読み終えたあと、アキちゃんが私に対して何を訴えかけているのかが理解できなかったので、内容を確認するためにもう一度初めから読み返しました。
「?」
 しかし、当事者である私自身が二度読み直しても、彼が何の目的でこのような手紙を寄こしたのかさっぱり理解することができず、読み終えたあとに奇妙な印象が残る不思議な内容でした。
 手紙の内容を簡単に説明しますと、まずアキちゃんは突然居なくなってしまったことを詫びたあと、なぜか私がいまやっている仕事とボロ家暮らしを心配して、新たな住居の確保と就職の斡旋といった、生活のサポートを長谷川という弁護士に依頼した、となっておりまして、長谷川はアキちゃんの依頼をすでに了承しており、別荘の住み込みの管理人という、仕事と住む所を用意しているので、封筒に印刷されている連絡先に電話をしてほしい、という内容でした。
 確かに私は、他人様に自慢できるような真っ当な職には就いておりませんので、いつボロ家の安い家賃も払えなくなってしまうかもしれません。
 それにしてもなぜ行方不明となったアキちゃんが、とつぜん私の事をそれほどまで気に病んでしまったのか理解できませんし、彼と長谷川がどういう関係なのかは分かりませんが、弁護士がハローワークと役所の生活支援課が合わさったような訳が分からない依頼を、当人の意思も確認せずに引き受けたのかも理解できません。
 そもそもアキちゃんと私は、身内ではなく赤の他人ですし、20年近くの長い付き合いではありますが、お節介を通り越した彼の申し出の意味が全く分かりませんでした。
 アキちゃんが行方不明といっても、私は彼を心配して捜していたという訳ではありませんし、彼はもともと根無し草のような人物なので、連絡が途絶えてしまった事も特に不審には思っておりませんでしたが、手紙にはアキちゃんがなぜ失踪したのかの理由が書かれておりませんので、いったい彼の身に何が起こったのだろうという疑問とともに、妙な内容の手紙のおかげで、彼の安否を気遣う不安な気持ちが、このとき初めて生まれました。
 タバコに火を点けたあと、自分なりに彼の申し出の意味を分析して整理してみることにしました。
「・・・・ ?」
 タバコを2本吸い終わるまでの間、角度や視点を変えて一生懸命に考えましたが、やはり手紙の内容を理解することができなかったので、ここはひとまず気分を変えて、散歩がてらに残り少なくなったタバコを買いに出かけることにしました。
 季節は今、本格的な梅雨を迎える前の初夏です。
 私が暮らしている兵庫県伊丹市は、大阪の中心地の梅田と、神戸の中心地の三宮のちょうど中間地点に当り、市内全域が利便性の高いベッドタウンです。
 皆さんはご存じではないかもしれませんが、実は何を隠そう伊丹市には、関西の空の玄関口である伊丹空港(大阪空港)がありますし、なんといっても日本酒(清酒)発祥の地という伝説があることで、全国の一部の日本酒愛飲家たちには知れ渡っております。以上。
 道すがら、手紙の内容を思い出しながら、これから自分が執るべき行動を考えていました。選択肢は三通り考えられます。
 一つ目は、アキちゃんが弁護士に託した要望に応えるということで、二つ目は、それらの要望を無視するということです。そして三つ目は、長谷川という弁護士に電話をして、まずは先方の様子を窺い、相手の出方次第で臨機応変に対処するということです。
 ある出来事がきっかけで、5年前から世間の端っこでひっそりと孤独な生活を送っている私にとっては、三つの内のどの道を選んだとしても、今の生活が大きく変わるというわけではありませんし、手紙に書かれていることが本当であれば、私の暮らしぶりは今よりも安定して楽になるだろうと思った時、中学2年生の少年Aというバカ息子のおかげで、残念ながら店頭販売をしなくなってしまったタバコ屋の前に到着しました。
 どうでもいい話なのですが、なぜ彼がバカ息子なのかというと、A君は4ヶ月前、空き巣を働いて現行犯で警察に補導されたあと、5件もの余罪を白状したからです。
 A君が少年院から娑婆に戻ってきたとき、今度はちんけな空き巣などではなく、銀行を襲うようなナイスガイに成長して戻ってきてほしいという願いを込めて、自動販売機に恭しくタスポをかざして、メビウス10を3箱買いました。
 家に到着後、キッチンテーブルの上に置いていた手紙を手に取り、リフレッシュした気分でもう一度読んでみることにしました。
 アキちゃんは手紙で、私が暮らしている築30年の二階建て1DKのアパートを、
『次にまた、阪神大震災みたいな大きな地震がきたら、そのアパートは必ず倒壊するから引っ越してくれ!』と、大家さんを筆頭に、私や他の住人に不必要な不安を煽るような文章を書いた後、
『別荘は有馬温泉駅の近くにあって、お風呂は温泉を地下から汲み上げてるから、いつでも本物の温泉が楽しめるぞ!』と、自慢げに書いておりましたので、ここで簡単に有馬温泉を紹介します。
 有馬温泉とは、神戸市の北東部の山間に位置する観光温泉街で、今から約400年前、天下人の太閤・豊臣秀吉が湯治場としたことで、古くから全国に知れ渡った、日本最古の温泉のひとつであり、風光明媚な関西の奥座敷としても有名です。ちなみに名物は数々ありますが、『炭酸せんべい』と『人形筆』が有名です。以上。
 次にアキちゃんは手紙で、私の職業について、
『涼介、お前はもう38歳やねんから、いつまでもチンピラみたいなつまらん仕事をせんと、住むだけで給料が30万円もらえるから、別荘の管理人を引き受けてくれ!』と書いた、私の『チンピラみたいなつまらん仕事』について説明させていただきます。
 私は『スロットの打ち子』という職に就いておりまして、具体的にスロットの打ち子とは、パチンコ業界に蔓延る、ゴト師と呼ばれる違法な集団の生業(なりわい)の中のひとつで、パチンコ店の経営者側に内緒で、店長やマネージャーといった店の現場責任者らと組んで、(中には経営者側と合意の上での場合もありますが)店の営業終了後に行われるスロットマシーンの設定変更の際に、客寄せのために何台かのスロットを客が勝ちやすい高設定にするのですが、内通者がその高設定となった台の情報をゴト師側に流し、情報を受けたゴト師が翌朝一番で高設定の台を押さえて、朝から晩まで打ち続け、勝った金を店側の内通者と分けるという違法行為です。以上。
 では最後に、手紙を書いた張本人である、アキちゃんについて簡単に説明させていただきます。
 アキちゃんは東京の六本木にある、フリーのカメラマンを多く抱えたマネージメントオフィスに所属しているプロのカメラマンで、主に人物の撮影を専門としており、大手芸能プロダクションなどが有望な新人アイドルや、女優の写真集を売り出す場合、我先にと挙って彼に撮影を依頼するほどの、写真業界や芸能界では名の通った、41歳のカリスマ的な存在のカメラマンです。以上。


2 弁護士

 手紙を3度読み終えたあとも、やはり内容を理解することができなかったのですが、とにもかくにも長谷川という弁護士に電話をしてみないことには詳しい事情が何も分かりませんので、携帯電話を手に取り、長谷川法律事務所に電話をかけることにしました。
 電話は2コールで繋がり、電話に出た女性に自分の名前を告げて、長谷川弁護士につないで欲しいと言いました。
 事務職員と思われる女性は、どういったご用件でしょうか?と訊ねてきましたので、福山章浩のことで連絡しましたと伝えると、
「しばらくお待ち下さいませ」と言って、電話は保留にされました。 
 女性の言いつけを守り、しばらく電話の保留音を聞いていると、「お待たせしました。長谷川です!」という、中年男性の弾んだ声が聞こえてきました。
「初めまして、西村涼介です」
「あっ、西村さん! 連絡をお待ちしておりました!」
「福山章浩のことで電話しました」
「福山さんの件ですね。ありがとうございます!」
 長谷川のやけに弾んだ様子に、少し違和感を覚えました。
「なかなか連絡を頂けなかったので、西村さんのことを心配していたのですよ」
「え? 心配ですか?」
「はい。実はですね、私は福山さんと連絡が取れなくなってしまったので困っていたのですよ! 早速ですが、福山さんは今、どちらにいらっしゃいますか?」と、こちらの質問を先にされてしまい、少し面喰いました。
「ということは、長谷川さんは福山と連絡がとれてなくて、どこに居るのか分からないんですか?」
 すると長谷川は、2ヶ月前から連絡が取れなくなってしまったと言いましたので、私も同じく、2ヶ月前から連絡が取れなくなってしまい、どこにいるのか分からないと言いました。
「えっ! そうだったのですか!」と、長谷川は少し大きな声で言ったあと、「・・・・」しばらく沈黙が続きましたので、おそらく私との会話の、次の言葉を見失ったようでありました。
 とにかく私は、なぜアキちゃんがこのような手紙を送ってきたのかを含めて、すべての事情が何も分からないので、まずは長谷川とアキちゃんの関係から説明してもらおうと思い、
「あのぅ、そもそも長谷川さんと福山は、どういう関係なんですか?」と訊ねると、長谷川は私の問いには答えず、
「その前に西村さん、大切なことなので先にひとつだけお訊ねしたいのですが、福山さんから有馬の別荘の管理人の話は聞いておられますよね?」と言いました。
 どう答えようかと少し迷いながら、
「はい、そのことなんですけど・・・」と言ったあと、この先の話をどこからどう切り出そうかと考えました。
 弁護士という職業上、守秘義務を負っていますので、口が堅いであろう長谷川から、アキちゃんに関する情報を得るためには、こちらからある程度の情報をオープンにした方が、話がスムースで早く流れるだろうと思い、まずはアキちゃんから私宛に手紙が届いたということを話し、なぜかその手紙は、そちらの事務所の封筒で送られてきて、有馬の別荘に管理人として住むように、と書かれていたことを伝え、アキちゃんがあなたに連絡するようにと書いていたので電話しました、と話しました。
「そうですね。まず封筒なのですが、福山さんが私の事務所に来られたときに、封筒を2、3枚欲しいと言われましたので差し上げたのですが、おそらくそのときの封筒でしょう。それと、有馬の別荘の件は、今お聞きした通りの内容でほぼ間違いございません。それで、西村さんはいつから有馬に引っ越して来られるのですか?」
「ちょっと待ってください! 引っ越すも何も、さっき手紙を読んで、初めて管理人のことを知りましたんで、福山と話をしないと答えようが無いですね」
「えっ! さきほど手紙を読まれて、はじめて有馬の件をお知りになられたのですか?」と、長谷川は少し大きな声で言いました。
「はい、そうです」
「そうなのですか・・・ 私はてっきり、もうとっくに了承済みだと思っておりましたが・・・」
 私は訳の分からないまま、
「えっ? どういうことか、もう少し、詳しく説明してもらえますか?」と言いました。
「はい、実はですね、私は福山さんと4ヶ月前から有馬の件を話していたのですが、福山さんが行方不明になる少し前に、西村さんが管理人を引き受けることになったので、よろしくお願いします、ということだったのですよ」
 私は(初耳ですね!)と思いましたが、話の腰を折ってはいけないので、黙って続きを聞くことにしました。
「それで、2ヶ月前に福山さんと最後にお会いしたときも、管理人の件をよろしく頼みます、ということだったのですが、なぜかそれっきり連絡が取れなくなってしまったのですよ」
 長谷川の口ぶりから、嘘をついたり、とぼけているようには思いませんでした。まして弁護士である以上、嘘はつかないでしょうから、本当にアキちゃんと連絡が取れていないのでしょう。 
 ここまで長谷川の話を聞きましたが、話の全体像が全くつかめませんし、肝心のアキちゃんがいない以上、管理人の話を進めることができないと思いますが、先ほど長谷川は、私にいつ引っ越してくるのか?と訊ねてきましたので、その真意を確かめるために、
「ということは、長谷川さんも福山と連絡が取れなくなったことで、有馬の管理人の件は、無しっていうことになるんじゃないですか?」と訊ねました。
「ところが、そういう訳にはいかないのですよ」
「えっ! どういうことですか?」
「実は、有馬の別荘は私が顧問をしている会社が所有しているのですが、福山さんが別荘を見たときに大変気に入られまして、撮影のスタジオとして使用するということで、当方とすでに賃貸借の契約を締結しているのですよ」
「撮影のスタジオにですか?」
「はい。それで、契約の時に福山さんが出された条件というのが、西村さんを管理人として常駐させるので、西村さんの給料を支払ってほしい、ということでした」
「?・・・・」
 長谷川が言った言葉を、もう一度頭の中で繰り返したあと、
「それって、どうも話が理解できないですね。長谷川さんの言う通りやったとしたら、別荘を借りたのは福山の方で、その別荘の管理人も福山が置くって言うんやったら、管理人の給料は福山が支払うべきじゃないんですか?」と訊ねると、
「常識的にはそうなるのですが、私は上からの指示に従っているだけですので、有馬の件に関しては、これ以上の説明をいたしかねます」と長谷川は言いました。
「その、長谷川さんに指示を出した上の人って、誰のことですか?」
「それは、福山さんです」
 ということは、つまりアキちゃんと長谷川は依頼人と弁護人という間柄ではなく、どちらかといえば上司と部下に近いような関係になるのだろうかと思い、
「あのぅ、なんで長谷川さんは、福山の指示に従ってるんですか?」と訊ねました。
「それは・・・」と言ったあと、長谷川は私にどこまで話すべきかと迷っているのか、「・・・・・・」しばらく間を置きましたので、
「あのですね、長谷川さん。はっきり言うて、私は事情が何にも分からないんですよ。面倒やと思いますけど、福山と長谷川さんの関係を、できたら初めから説明してもらえませんか?」と言いました。
 すると長谷川は、
「あのぅ、西村さん、お互いに電話で済むような話ではないと思いますので、もしよろしければ一度会って話しませんか?」と言いましたので、私も(ごもっとも)だと同意して、会う日時はそちらにお任せしますと言いました。
「早速ですが、明日か明後日の都合はどうですか?」と長谷川が訊ねてきましたので、両日とも何時でも構わないと了承し、私たちは明日の午前中に会うことになったのですが、いちど有馬の別荘を見てはどうかという長谷川の提案で、明日の午前10時に、神戸電鉄有馬温泉駅で待ち合わせることになり、長谷川は駅前に白いクラウンを停めて待っていると言いましたので、私は自分が明日着ていく服装を話し、お互いの携帯電話の番号を教えあって電話を切りました。


3 失業

 アキちゃんの失踪の理由や、手紙の内容を含めて、全てが疑問だらけでしたが、とりあえず明日、長谷川に会えば何か分かるだろうと思い、のどが渇いていたので冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出し、一人でちびちびと飲みながら、明日行くことになった有馬の別荘について考えることにしました。
 プロカメラマンのアキちゃんが、撮影のスタジオとして気に入ったという別荘は、どのような感じなのでしょう?  
 家自体の造りがお洒落で豪華なのか、それとも辺りの景色が素晴らしいということなのか、どちらにしても撮影のロケーションに適した、恵まれた環境であるということが想像されます。
 私のイメージでは、紅葉樹の林に囲まれた、洋風の小ぢんまりとしたペンション、というのが思い浮かびます。
 実際に長谷川の話を聞いてみなければ、どうなるのか分かりませんが、もしも管理人を引き受けて、有馬に引っ越したときのことをシミュレーションすることにしました。
 本当に給料が30万円も支給されるのであれば、このアパートの3万5千円の家賃を支払っても、十分に生活していくことができるだろうと思い、とりあえずアパートの契約はそのままにしておいて、仕事をどうするかと考えました。
 私は打ち子の親方に電話して、今日限りで足を洗います!と更正を宣言しようかと思いましたが、もしも管理人の話がおじゃんになった場合を想定して、自ら退路を絶って背水の陣で臨むよりも、ひとつ位は逃げ道を確保しておいたほうが懸命だと思い、
『急用ができましたので、2、3日仕事には出られません。また、こちらから連絡します。』と、親方に休暇届けのメールを送りました。
 すると5分後、
『了解。ちょうど良かった。お前はメッコが入ってるから、どっちみち今の店はもう行けません。新しい店が決まったら連絡するから、それまで元気でがんばれ、西村!』という、無職となった私に、親方から励ましのメールが送られてきました。
「ということは、俺は足を洗う前にクビかぃ!」と、まるで自分が飼い主から見放された捨て犬になったような気持ちになりました。
 ちなみに『メッコが入る』とは、裏事情を知らない店員や常連客らが、いつも勝っている特定の客に対して、奴は打ち子ではないか?という疑いを抱くことです。私は今の店に通い始めて半年近くになりますので、そろそろメッコが入ってもおかしくない時期だと、つい最近に親方から言われておりましたので、あまりショックは受けませんでしたが、何か釈然としない忸怩(じくじ)たる思いがしました。
 ということで、ここはひとまず一人酒から自棄酒をあおることにしました。


4 有馬へ

 翌朝、目覚ましをセットした1時間以上も早い、午前6時に目を覚ました私は、せっかく早起きしたのだから喫茶店に行って朝食を摂ろうと思い、素早く身支度を開始しました。近所に馴染みの喫茶店などありませんので、どうせ行くなら有馬の喫茶店に行くことにして、昨日電話で長谷川に話した、白いポロシャツにジーンズという姿で、7時前に家を出ました。
 通勤・通学時間とガッチリ重なったため、阪急伊丹駅から乗った電車は勤勉な学生や、勤労な市民たちですし詰めとなっており、満員電車特有の様々な臭いが交じり合った人いきれに、私は早起きしたことを少しだけ後悔しました。
 電車は阪神大震災の後に、見事に復活した芦屋や神戸の街中を進み、三宮駅を過ぎてから地下に潜り、ここから先は神戸の歓楽街の真下を通る長いトンネル区間を通過しながら、終着の新開地駅に到着しました。阪急電車を降りた後、ここから有馬へ向かうために、乗り換えの神戸電鉄新開地駅のホームに向かいました。
 神戸電鉄線は始発の新開地駅から短いトンネルが断続的に続き、神戸市北区に入ってから地上に出て、そこから電車は、山間の谷に沿って走る有馬街道と並行して、北北東に向かって進みます。
 今の時期ですと、標高が高い有馬は、平地と比べて2週間は季節が遅れてやってきますので、六甲山系の残り少ない春の名残を発見できるかと思っておりましたが、六甲の山々は私の想像以上に季節が進んでいて、電車のドアが開く度にキセル(無賃乗車)してくる、谷を渡る生暖かい風に夏の息吹を感じながら、長谷川との待ち合わせよりも1時間以上も早い、午前9時前に終点の有馬温泉駅に到着しました。
 ゴールデンウィークが終わった今は観光シーズンではありませんので、駅に降り立った乗客は私を含めて7人ほどで、その内に観光客と思えるのは、50代の夫婦と思しき二人連れのみで、改札を出た駅前の通りは閑散としておりました。
 喫茶店を探そうと思い、周辺で一番にぎやかな駅の南側に行きますと、お土産屋が軒を連ねた小さな商店街となっており、ちょうど名物の炭酸せんべい売り場の隣に喫茶店がありましたので、扉を開けて中に入りました。
 朝と昼の間の中途半端な時間なので、店内には客が一人も居らず、カウンターテーブルの上の目に付いたスポーツ新聞を手にとって、入り口のすぐ傍のテーブル席に座り、メニューを見ながらモーニングセットを注文しようと思いました。
 しかし、さすがは成金の天下人が愛した観光地なだけに、値段が定食並みの700円もしましたので、どうしようかと迷っていると、女性店員が注文を取りに来ましたので、無職の私は思わず、
「アイスコーヒー」と、店で一番安いものを注文したとき、入り口の扉が開いて、口に白いマスクをしたスーツ姿の小柄な男が店に入ってきました。
 男は私の横を通り過ぎて、店の一番奥のテーブルに行き、私の方を向いて椅子に腰掛けました。
 男の白いマスクが少し気になりましたので、三つのテーブルを挟んで向かい合った男を、新聞を読む振りをしながら横目で観察することにしました。
 私が幼いころ、日本中のいたいけな子供たちを恐怖のどん底に突き落とした、『口裂け女』という、口にマスクをした女の妖怪が巷で大流行しましたので、どうしてもマスクに対して興味を抱いてしまうのです。
 年齢は45歳前後、身長は160センチそこそこの痩せ型で、花粉症気味なのかマスクをかけておりますので目鼻立ちは分かりにくいのですが、この男を一言で表現するならば、市役所の地域振興課の課長代理、といった肩書きがぴったりな、生真面目そうな性格が7:3分けの髪型と、小柄な体中から滲み出ている、といった雰囲気を持っておりました。
 男は注文を取りにきた女性店員に、私と同じくアイスコーヒーとマスク越しにくぐもった声で言ったあと、口にしていたマスクを外してテーブルの上に置きましたので、私は男の素顔をよく見ようと、新聞を折りたたんで横目でチラッと見た瞬間でした。
「!・・・」
 男の顔には、大きく横に張り出した立派なエラが備わっておりましたので、思わずそのエラに心を奪われ、一目で見惚れてしまいました。
 もしかすると、男は花粉症を装ってマスクをしているのであって、実は自慢のエラが人を魅了してしまうことが不満で、一年を通してマスクをし続け、立派なエラを出し惜しみしているのではないかと思えるほど、男のエラは偉そうでありました。
 私は思い切って、『もしかして、あなたはエラ呼吸ですか?』と、心の中からひそやかにメールを送信してみたところ、
「!」
 なぜか男は、私に向かってニッコリと微笑んだあと、笑顔のままいきなり席から立ち上がって、ゆっくりとした足取りで私に近づいてきました。もしかしたら、何らかのエラーが発生して、エラメールが本当に届いてしまったのではないかと焦り、慌てて視線を男のエラから外したのですが、時すでに遅く、男は私のすぐそばまで来て、
「もしかして、西村さんですか?」と言いました。
「!・・・」
 いきなり名前を呼ばれて驚いたあと、(ということは長谷川か?)と思いながら立ち上がり、
「はい、西村です」と言いました。
「初めまして、長谷川です」と言って、長谷川はスーツの内ポケットから黒皮の名刺入れを取り出し、中から名刺を一枚抜き取って、「いやぁ、偶然ですね」と言って、にっこりと微笑みながら名刺を差し出しました。
 私は自分が差し出す名刺がありませんので、
「そうですね」と言って長谷川の名刺を受け取り、手にした名刺を眺めながら、自分よりも極端にエラが発達、もしくは退化した人と話すことに慣れておりませんので、私の方が15センチ以上も背は高いのですが、どうも長谷川から見下されているといった気がして、(ちょっと苦手やなぁ)と思いました。
「もしよろしければ、こちらに席を移ってもいいですか?」と言われましたので、
「どうぞ、どうぞ」と言うと、長谷川は失礼しますと言って、私たちは同時に椅子に座りました。
 私は何から話そうかと思いましたが、なぜ待ち合わせと違った時間と場所で、しかも目が合った瞬間に私のことが分かったのだろうと疑問に思いましたので、店内の時計で時刻を確認したあと、
「待ち合わせの1時間も前ですし、場所も違うのに、なんで私のことがすぐに分かったんですか?」と訊ねました。
「いやぁ、ここで会ったのは本当に偶然で、実は私も早く着き過ぎまして、駅前に車を停めて待っていようと思ったのですが、道が狭くて停める場所が無かったので、駅前の駐車場に車を入れて、時間潰しでここに来たのですよ。そしたら電話で聞いていた服装の人がいましたので、もしかしたら西村さんじゃないかなぁ?と思ったことと、あとは西村さんの雰囲気ですね」と長谷川は言いました。
 私は(何じゃそれ?)と思いながら、
「私の雰囲気って、どういう意味ですか?」と訊ねると、長谷川はまるで、新型の冷蔵庫を品定めするかのように、私の顔を真剣な眼差しでじっくりと見たあと、
「そうですねぇ・・・・ 私は福山さんから、西村さんのことを弟みたいな存在だと聞いておりましたので、私の頭の中で男前のイメージが出来上がっていたのですよ。だから、西村さんだとすぐに分かりました」と、訳の分からないことを言いました。
「あのう、福山は誰が見ても男前って分かるんですけど、私は福山とまったく似てませんし、今まで初対面で男前って言われたことなんか、一回もないですよ」と、私が正直に話すと、
「いえいえ、西村さんはとても良い感じの雰囲気をお持ちですし、男前の文学青年という感じがしますよ!」と、今度は妙なことを口にしました。
 私は今まで愛読してきた小説が、文学のジャンルに含まれるのかと一瞬だけ真面目に考えたあと、戦国ものや官能小説は、おそらく文学には含まれないだろうと思いました。
「文学青年って言われたのは、生まれて初めてですね」
「いやぁ、本当に西村さんは知的な感じがしますし、物書きの作家という印象を受けますね」
「えっ! 作家ですか?」
「はい。それも、若くて男前の新進作家という感じを受けますよ」
「・・・・」
 何度も男前と言われて、(もしかしたら、こいつホモか?)と思ったあと、聞き慣れないほめ言葉に少し気色が悪くなりましたので、とにかく話題を違う方向に持っていこうと思い、
「あのぅ長谷川さん、昨日電話で話したことなんですけど、正直に言って私は疑問だらけなんで、私も長谷川さんの質問に答えますから、色々と質問してもいいですか?」と、本題を切り出しました。
「いいですよ。私も西村さんに色々と訊ねたいことがありますので、私から先に答えた方がいいのか、それとも先に質問した方がいいのか、どちらがいいですか?」
「じゃあ、長谷川さんの質問から先にして下さい。それとですね、私は普段から福山のことをアキちゃんって呼んでますから、今からはそう呼びますけど、いいですか?」と私が言うと、
「はい、分かりました」と長谷川は言いました。
 その時、私たちが注文したアイスコーヒーを女性店員が運んできて、伝票を一緒にされますか?と訊ねてきましたので、私は別にして下さいと言おうと思ったとき、
「いいですよ。一緒にしておいて下さい」と、長谷川はおごる気満々な言い方をしましたので、(モーニング注文しとったらよかった)と後悔しました。しかし、おごってもらう立場で贅沢は言えませんので、黙って彼のお言葉に甘えてご馳走になることにしました。
 私たちはお互いに、目の前のアイスコーヒーにミルクとシロップを入れて一口飲んだあと、「・・・・・」しばらく間を置いて、長谷川が質問を開始しました。
「では初めに、福山さんは今までに、このような形で突然居なくなったことがありましたか?」
「私はアキちゃんと20年近くの付き合いになりますけど、今までこんなことは一回も無かったですね」
「そうですか。私は福山さんが所属している、東京のマネージメントオフィスに電話したのですが、カメラマン仲間の誰一人として行方を知らないということなので、福山さんは誰にも行き先を告げずに居なくなってしまったのでしょうか?」
「おそらくそうだと思います。私もアキちゃんに用事があって、携帯電話がつながらなかったんで、そのオフィスに電話したんですけど、アキちゃんと仲がいいカメラマンの人が、奴はもともと神出鬼没だから、その内にひょっこり現れるだろうって言ってました」
「では、福山さんは最近、何かトラブルを抱えていたということは無かったですか?」
 私のイメージでは、アキちゃんは年がら年中、女性がらみのトラブルを抱えているような気がしましたが、話がややこしくなりそうだったので、
「アキちゃんは人と揉め事を起こすようなタイプではありませんし、どっちかって言うたら面倒見がいいので、人から揉め事を相談されることはあっても、自分が原因のトラブルは無かったと思います」と言いました。
「そうですか・・・ じゃあ、原因が全く分からないですね・・・ それで、西村さんに宛てた手紙には、具体的にどんなことが書かれていたのですか?」
 手紙の内容を思い返しながら、アキちゃんが私の将来を悲観して、あなたに全てを託す、と書いていたことを正直に話そうかと思いましたが、まるで自分の恥を自ら曝け出すような気がしましたので、「手紙には、別荘の管理人のことしか書いてなくて、詳しいことは長谷川さんと話してくださいとしか書いてなかったですね」と、事実をかいつまんで話しました。
「そうですか・・・」と長谷川は言ったあと、しばらく間を置いて、「では、西村さんが分かる範囲で構わないのですが、福山さんは現在と過去を含めて、どなたか特定の女性とお付き合いしていたとか、特別な関係の女性がいらっしゃったとかはご存じないですか?」と言いました。
(特定の女性か、特別な関係の女性?)
 私はアキちゃんの交友関係を含めた、私生活を殆んど何も知らなかったので、
「私が知る限りでは、今までそんな話を聞いたことがありませんから、特別な関係の女性はいなかったと思います」と答えました。
「そうですか・・・・では、付かぬことを伺いますが、福山さんにお子さんがいらっしゃるとか、そのような話を聞いたことはありますか?」と、長谷川は本当に付かぬことを伺ってきましたので、私は少し驚きながら、
「お子さんって、アキちゃんに子供がいるのかってことですか?」と訊ね返しました。
「はい、そのような話を聞いたことがありますか?」 
「それはないと思います」と私は即座に言ったあと、「面倒見のいいアキちゃんの性格からして、子供とか家族をほったらかしにするっていうことは考えられませんね」と答えました。
「そうですか・・・」と言ったあと、長谷川は私から何も情報を得ることができなかったといった感じで、少し残念そうな顔をして、「私の質問は以上なのですが・・・」と言いました。
 長谷川の質問があまりにもあっさりしていたので、少しだけ不審に思ったあと、質問の意図がいまいちよく分からなかったので、
「あのう、アキちゃんに彼女がいるとか、子供がいるとかっていうことが、行方不明になった事と、何か関係があるんですか?」と訊ねました。
「いえ、ただ何かの参考になればと思って訊ねただけです。では、さっそく西村さんの質問を始めてください」と、長谷川が自分の話を早く切り上げて、私に質問を急かしているように感じましたので、もしかすると長谷川は、何か隠しているのではないかと思いました。
 私は質問を始める前に、何から質問すれば、会話の主導権を握り、長谷川から上手く情報を引き出すことができるかと考えて、まずは肝心の別荘のことから訊ねることにしました。
「あのう長谷川さん、私が訊ねたい事はですね、そもそも別荘は誰の持ち物で、アキちゃんとどういうつながりがあって、借りることになったんですか?」と言いました。
 長谷川は私の質問に答える前に、アイスコーヒーを一口飲んだあと、ゆっくりとした口調で事の経緯を話し始めました。
「私は別荘を所有している、㈱ノマシステムという会社の顧問弁護士であり、野間製作所という会社の顧問弁護士もしておりまして、どちらの会社も野間会長という方がオーナーでした。それで私は、野間会長の個人秘書も兼任しておりましたが、会長は2ヶ月前に肝臓癌で亡くなられました。それで、会長は亡くなられる前に、私に福山さんのサポートをしなさいという指示を出されまして、私が福山さんと初めてお話したときに、福山さんから別荘の管理人の話を頂いた、ということなのです」
 話の内容よりも、(野間製作所?)の方が気になりましたので、
「あのぅ、もしかして野間製作所って、テレビでロボットが出てきて、変な踊りしてるコマーシャルの会社ですか?」と訊ねました。
「はい。今現在、そのCMを放送しております」
 私は(やっぱり!)と思いました。
 野間製作所といえば、工業機械全般を扱った総合メーカーで、中でも特殊な工作機械、ワークマシーンやマザーマシーンの製造にかけては、他の追随を許さない独自の高い技術力を誇り、近年ではロボット技術でも画期的なシステムの開発に成功し、世界中で高い評価を得るといった、様々な分野で世界を股にかけて活躍する、日本を代表する企業ですので、
「なんで、野間製作所みたいな大きい会社の会長が、アキちゃんのサポートをしなさいって、顧問弁護士さんに言うたんですか?」と、至極当然の疑問をぶつけました。
 長谷川は、私にどう答えるべきかと迷っているのか、「・・・・」
 しばらく間を置いたあと、
「実は、私も詳しい事情は何も分からないのですが」と言って、続きを話し始めました。
 長谷川の説明によりますと、全ての発端は2ヶ月前に亡くなった、野間製作所の野間会長の鶴の一声から始まったそうです。
 今からちょうど半年前、大阪の千里にある国立病院に緊急入院した野間会長が長谷川を呼びつけ、福山章浩なる人物と話ができるようにセッティングせよと命令されたそうです。
 長谷川は早速、情報網を駆使して捜索したところ、有名カメラマンのアキちゃんはその日のうちに発見され、会長自らが連絡を取って、二人は2日後に、会長の入院先の病室で会うことになったそうです。アキちゃんが病院に到着後、同席を許されなかった長谷川は、会長とアキちゃんが3時間もの間、どのような話をしていたのか分からなかったのですが、その後のアキちゃんは二日に一度の割合でお見舞いに訪れるようになり、彼のお見舞いは会長が亡くなる3日前まで続いたそうです。しかし、この間に長谷川は同席を許されなかったので、二人が何を話していたのか全く分からないまま、長谷川は会長からの指示で、アキちゃんを有馬の別荘に案内し、別荘を気に入ったアキちゃんが借りることになり、アキちゃんは会長が亡くなる3日前のお見舞いを最後に忽然と姿を消したので、長谷川は別荘のこと以外は、ほとんど何も知らないと言いました。
 長谷川が会長から受けた、最初で最後の唯一の指示は、有馬の別荘の賃貸契約を交わした時に、初めて同席を許されて、アキちゃんの目の前で会長が長谷川に言った、
『これから先、あなたは福山さんの指示に従いなさい』という言葉であったそうです。
 ということで長谷川は、私を有馬の別荘の管理人にして、給料が出るようにしなさいとアキちゃんから指示されたので、
「西村さんが管理人を断った場合、私は困ったことになってしまうのですよ」と言いました。
「?・・・」
 長谷川の話を聞く前と、聞き終わった後の違いを見つけることができないほど、ほとんど何も理解できなかったのですが、アキちゃんが長谷川に何と言ったのかを、もっと詳しく訊ねようと思い、
「じゃあ具体的に、アキちゃんは長谷川さんに、どのような指示を出したんですか?」と訊ねました。
「それは、西村さんを今から案内する別荘の管理人にするように、ということだけです」
「じゃあ、それ以外に、何も言わなかったんですか?」
「はい、本当にそれ以外は何もないのですが・・・」と言ったあと、長谷川は少し眉間にしわを寄せて、「でも、ひとつだけ気になることがあるのですよ」と言いました。
「えっ? それはなんですか?」
「それはですね・・・」と言って、長谷川は慎重に言葉を選んで、続きを話し始めました。
 長谷川の話によりますと、有馬の別荘は会長が10年前に自らが代表を務める、㈱ノマシステムという法人の名義で購入し、5年前に建て替えた当初は、自宅のある芦屋から車で45分と程近く、お風呂は本物の温泉を地中深くからポンプで引いて、本格的な温泉旅行気分を楽しめるということで、会長は週末や疲れが溜まったときなどに、家族や知人を連れてよく出かけていたそうです。
 しかし、どういう訳か、自らの体調の異変に気付いた2年前から別荘に引きこもるようになり、その後は家族や知人を含めた全ての人たちを出入り禁止にして、誰も寄せ付けなくなってしまったそうです。野間会長の別荘での引きこもり生活は、容態が急変して病院に入院した半年前まで続き、家族や長谷川を含めた関係者らは、会長が誰も寄せ付けずに別荘に引きこもって、何をしていたのか分からないまま、会長は他界されたそうです。
「私が思うに、野間会長が別荘に引きこもって何をされていたのか分かりませんが、そのことに福山さんが何らかの形で関係しているのではないかと思うのですよ」
「それは、なんでそう思うんですか?」
「それはですね、会長は別荘から病院に緊急入院されたその日に、福山さんと会って話がしたいとおっしゃりましたので、どう考えても別荘で福山さんのことを考えていたとしか思われませんし、あれほど誰も寄せ付けなかった別荘を、西村さんが管理をされて、その給料を支払うということを含めて、福山さんが出された条件を全て受け入れて貸し出したのですから、私は会長が別荘で何をされていたのか分かりませんが、その作業を福山さんが引き継がれたのではないかと思うのですよ」
 ということは、そもそも野間会長は、私が管理人になるかもしれないということを知っていたということになりますので、
「もしかして、野間会長はアキちゃんが私を管理人にするって言うたことを知ってたんですか?」と訊ねました。
「はい、おそらく福山さんも会長に話していたでしょうし、私からも福山さんのご紹介で西村さんが管理人を引き受けることになったと報告しましたので、会長はご存知でしたよ」
「それで、会長は私が管理人になることに対して、反対とかしなかったんですか?」
「はい、まったく反対されませんでした」
 ということは、長谷川の推理が当たっているとすると、会長が別荘に引きこもってしていた何らかの作業をアキちゃんが引き継ぎ、そのアキちゃんは私を別荘の管理人にしようとしている、ということになります・・・ だとすると、会長はアキちゃんを介して、私にその別荘で行っていた何らかの作業を引き継がせようとしているのではないかと思いましたが、「・・・・・」しばらく考えたあと、そんな馬鹿な話があるわけないと思いました。
 アキちゃんならともかく、私と野間会長の間には何の接点もありませんので、おそらく野間会長は、別荘の管理人はアキちゃんが決めた人なら誰でもいいということだったのでしょう。


5 嘘つきは作家の始まり

 どちらにしても、大会社の会長が引きこもっていた別荘ということで、考えようによってはとても興味が湧きますが、角度を変えて考えると、少し不気味な印象と薄気味悪さを感じて、
「なんか、長谷川さんの話を聞いてたら、その別荘は何かの曰(いわく)付きの訳ありっていう感じがして、住むのはちょっと怖いですね」と言いました。
 すると長谷川は、どうしても私を別荘の管理人にしたいらしく、「いや、そんな曰なんて付いてないですよ!」と少し慌てた様子で勢いよく言ったあと、「今からその別荘を案内いたしますが、建物は平屋建ての4LDKで、決して狭くはないですし、とにかく庭が素晴らしいのですよ。元々は純和風建築の建物と日本庭園の枯山水の庭だったのですが、5年前に建て替えた時に、本物の池に造り変えまして」と、どうやら別荘の自慢話を始めました。
 長谷川の話を上の空で聞き流しながら、そもそも野間会長とアキちゃんはどういう関係なのだろうと考えました。
 常識的に考えて、亡くなる3日前まで二人きりで会っていたということは、たとえばアキちゃんと会長が家族や親戚といった、余程の深いつながりがあれば理解できるのですが、私はアキちゃんとの長い付き合いの中で、野間会長のような立派な親戚がいるという話を一度も聞いたことがありませんし、何よりも長谷川の話し振りでは、二人は半年前に会ったのが初対面であった、といったニュアンスで話していたと思います。
 そして、なぜ野間会長はアキちゃんに、家族を含めて誰も寄せ付けなかった別荘を、あっさりと貸し渡したのだろうという疑問と、野間会長は有馬の別荘に引きこもって何をしていて、それがアキちゃんの失踪と、どう結びつくのだろうかと思ったとき、
「という立地条件なので、本当に静かで良い所ですよ。ところで、西村さんはどのようなお仕事をされているのですか?」と、とつぜん質問されてしまい、私は咄嗟に、本当のことは言えないという思いから、
「私の仕事は、ちょっと言いにくいというか・・・」と、無意識の内に言葉にしてしまいました。
「言いにくい仕事というのは、説明し辛いということなのか、それとも話したくないということですか?」
「・・・・」
 もしも真実を打ち明けた場合、打ち子という仕事は限りなくセーフに近いとは言え、ギリギリアウト的な犯罪行為なだけに、弁護士の長谷川は要らぬ警戒心を持つでしょうから、何か適当な職業は無いものかと必死で考えていると、
「もしかすると、西村さんは私が第一印象で思った、作家なのではないですか?」と言われました。
「!・・・」
 少し驚きながら、(なんで、そうなんの?!)と思っていると、
「私は福山さんから、西村さんの職業は気ままな自由業だとお聞きしているのですが・・・」と長谷川が言いました。
「えっ? アキちゃんが気ままな自由業って言うたんですか?」
「はい。私は気ままな自由業とは、どのような職業かと具体的に訊ねたのですが、福山さんは『御想像にお任せします』と言って明言を避けられたのですよ」
 おそらくアキちゃんも、私と同じような考えから本当のことが言えなかったのだろうと思っていると、長谷川は真剣な眼差しで、
「だから私は、西村さんを初めて見た直感で、もしかしたら作家ではないかと感じたのですが、違いますか?」と言いました。
 即座に(違うわ!)と、完全否定しようと思いましたが、
「・・・・?」なぜか言葉にすることができずに黙っていると、
「作家ではないとすると・・・ どのようなお仕事なのですか?」と、再度長谷川が訊ねてきました。
 とにかく私は、この場を取り繕うために、(気ままな自由業って、どんな仕事?)と必死に頭を回転させましたが、『男はつらいよ』の『フーテンの寅さん』以外にまったく思い浮かばなかったので、
「まぁ、作家というか・・・ そんな立派なもんじゃないんですけど・・・」と、アキちゃんと同じように明言を避け、言葉を濁したついでにお茶を濁したつもりであったのですが・・・
「やはりそうでしたか!」と、いきなり長谷川は大声で言ったあと、「気ままかどうかはよく分かりませんけど、確かに作家は自由業ですから、私の直感は当たっていたのですね!」と、清々しい笑顔で頓珍漢なことを言いました。
 大きな勘違いをした長谷川に、(当たってるどころか、かすりもしてないで・・・)と思っていると、
「実は私、職業柄と言いましょうか、こう見えても昔から勘が鋭いところがあるのですよ!」と、長谷川は自慢のエラと胸を張って、今度は得意満面といった笑顔を見せました。
「・・・・?」
 私は長谷川の、どの辺りの勘が鋭いのかよく分かりませんが、もしも作家ではないと否定すれば、別の職業を考えなければならなくなると考えていると、
「確かに私は人の職業を当てるのが得意なのですが、なぜ西村さんが作家だと分かったのかというと、実は勘だけじゃなくて、種を明かすと、今から案内する別荘の一室にヒントが隠されていまして、4LDKのうちの一室が書斎となっておりますので、おそらく西村さんの執筆の環境作りとして、福山さんが今回の話を進められたのでしょう。じっくりと考え事をしたりするには最高の環境だと思いますので、西村さんは落ち着いて執筆に専念できると思いますよ!」と言われてしまい、私は内心では冷や汗をかきながらも、他の職業を考えるのが面倒くさいという、少し投げやりな気持ちから、
「そうですか・・・ それは楽しみですねぇ」と、彼の勘違い話に乗っかるような形で、つい嘘をついてしまいました。
 すると、長谷川は目を輝かせながら、
「おそらく、一目で気に入っていただけると思いますよ!」と言ったあと、「それで、西村さんはどのようなジャンルの本を書いておられるのですか? できれば、作品名を教えていただければ、是非買って読んでみたいのですが・・・」と言われてしまいました。
 こうなってしまうと、『実は、昨日までゴト師の端くれをしておりまして、メッコが入ってしまったのでクビになってしまい、今現在は無職なんです』と、いまさら本当のことは言えませんので、最後まで嘘をつき通そうと思いましたが、私はいったい、どんな本を書いていると言えばいいのでしょう?・・・
 安易に恋愛やミステリーと言えば、次から次へと質問攻めに遭いそうな気がすると思った次の瞬間でした。
「!!!」
 ふと、目の前の霧がとつぜん晴れるが如く、ある妙案が思い浮かびました。
 私が思い浮かんだ妙案とは、下手をすると自らの身を危険に晒す可能性が高い奇策なのですが、この急場を凌ぐ方法は、これ以上もこれ以外も有り得ないと固く信じて、こう言えば長谷川も遠慮して話が盛り上がらなくなるだろうと思い、
「実はですね、恥ずかしい話なんですけど、私が書いてるのは官能小説なんですよ。だから私もアキちゃんも、ちょっと言いにくかったというか、話し辛かったんですよ」と、我ながら見事な第2弾の嘘をつきました。
 しかし長谷川は、
「えっ! そうだったのですか!」と、少し驚いた表情をしたあと、「実はですね、私も学生の頃は司法試験の勉強の合間に、集中力が途切れたときには、法律から遠く離れた内容を頭に入れた方がいいと先輩から薦められて、息抜きで官能小説をよく読んでいたのですよ!」と、清く正しい人格者であるべき弁護士が、意外にもエロネタに喰い付いてきましたので、私は想定外の展開に、(これは、困ったなぁ・・・)と思っていると、 
「いやぁ、西村さんがどんなことを書いておられるのか、ますます興味が湧いてきましたねぇ! それで、西村さんは本名で作品を出しておられるのですか?」と、まるで畳み掛けるように、矢継ぎ早に質問してきました。
「いえ、本名じゃないんですけど・・・」と言ったあと、「・・・・」私は必死のぱっちで考えた末に、苦し紛れの急場しのぎとして、
「もしもね、私が書いた小説を読んだら、おそらく長谷川さんは私の人間性を疑うか、人格を否定する可能性が高いんで、作家としての名前と作品名は伏せておきたいんですよ」と言ったのですが・・・
 私が放った第3弾の嘘は、まったく効果が無かったようで、逆に長谷川は興味津々といった感じで、身を乗り出すようにしながら、
「ということは・・・もしかしたらSMとか、スカトロ系の小説ですか?」と、話をどんどん膨らませてきました。
「・・・・」
 私は返答に困り、長谷川から目を逸らして、すっかり氷が解けてしまったテーブルの上のアイスコーヒーを無言で眺めました。
 ということで、アブノーマルな官能の世界へと踏み込み始めた、長谷川の頓珍漢な勘違い話に、これ以上乗っかるのは危険だと気付いた私は、自ら始めてしまった出たとこ勝負に、早くも限界を感じてしまいました・・・ 
 斯くなる上は、嘘をついていたと正直に話して、赦しを請うしか手はないかと諦めかけたとき、
「西村さん!」と呼ばれて、
「!」私は驚いたと同時に、もしかすると嘘がばれてしまったのではないかと思い、とっさに謝る覚悟を決めて長谷川を見ました。 
 すると、長谷川は私と目が合った瞬間、まるで心の琴線に何かが触れたかのように、彼はとつぜん神妙な面持ちになり、次のようなことを話しました。
「私は職業柄、いろんな人の趣味とか性癖とか、他人に言えないような恥ずかしい本音を聞く機会が多かったので、どんな話を聞いたとしても理解しようとは思いますが、決して軽蔑したりはしませんし、まして犯罪者じゃなくて、それを生活の糧とされている作家が、例えどのようなことを書いておられるとしても、私は西村さんの人間性を疑うとか、人格を否定するようなことは絶対に有り得ませんよ!」と、嘘という罪を積み重ねた罪深い私に対して、実に慈悲深い弁護活動を展開して下さいました。
 おそらく長谷川は、否定をせずに無言のまま押し黙っていた私が、スカトロやSMといった、えげつない内容の小説を書いていると思い込んでしまったようです・・・
「・・・・」
 私はしばらく考えたあと、ここで敢えて否定してしまうと、また別の嘘をつかなければならなくなりますので、このまま勘違いさせておくことにしました。そして、これ以上長谷川の話に乗っかることも、嘘を重ねることもできませんので、今度はこちらから先手を打っておこうと思い、
「長谷川さん・・・ 私は自分がどんなことを書いてるのかってことは、絶対に話したくないんで、もうこの話は止めにしてもらえませんか?」と言いました。
 すると長谷川は、自身の性癖と職業を誇れない、腰抜け野郎の私を蔑むといった感じではなく、どちらかと言えば憐れむといったような、どこか憂いを含んだ寂しげな表情を浮かべながら、
「分かりました・・・西村さんがどんなことを書いておられるのかについては、これ以上訊ねないことにします」と言ったあと、まるで私を勇気付けるかのように、とつぜん明るい表情をして、
「じゃあ、そろそろ別荘に行きましょうか!」と言いながら、伝票を取り上げて立ち上がりましたので、私は初対面にもかかわらず、しかも大企業の顧問弁護士に対して累計で10年分の嘘を一気につきまくってしまい、本当に申し訳ないという気がしてならず、せめてもの罪滅ぼしというか、こんな私を快く弁護してくれた弁護費用という気持ちで、長谷川から伝票を無理やり奪い取って代金を支払いました。


6 別荘

 喫茶店を出た私たちは、駅前のコインパーキングに停めていた長谷川の白いクラウンに乗り込みました。
 長谷川の説明によりますと、別荘は有馬温泉駅の南側に広がる、温泉旅館やホテルが密集した繁華街から少し離れており、小高い山の頂上付近に建てられているので、周りに民家などはほとんど無く、とても閑静な場所だと話してくれました。
 車は駅前の太閤橋を横切って有馬街道を西に進み、途中で二股に分かれた道を右にしばらく行くと大きな温泉旅館があるのですが、別荘はそこから100メートルほど先にあるということで、駅前からですと、徒歩15分といったところでしょう。
 走り始めて3分後、巨大な温泉旅館の前を通過してしばらく進み、道路の左側に面した幅4メートルほどの竹林の中に設けられた間道に入って行き、50メートルほどの竹林を抜けると、コンクリート製の坂が山頂に向かって30メートルほど一直線で伸びており、坂の頂には別荘のものと思われる白い外壁が見えました。
 長谷川は車を坂の入り口に乗り入れて、頂上付近に差し掛かったとき、助手席との間にあるコンソールボックスの蓋を開けて、中から何やら黒い小さな物体を取り出し、
「別荘のガレージのリモコンなのですよ」と言いました。
 坂を登り終えると、高さ2メートルほどの別荘の白い外壁があり、道は外壁の前で左に曲がり、外壁に沿って20メートルほど進むと、車が3台は同時に出入りできそうな、巻き取り式の巨大な白いシャッターが現れ、その隣に黒い塗装を施された金属製の両開きの扉があり、道はそこで行き止まりとなっておりました。
 長谷川が車内からリモコンのボタンを押しますと、巨大なシャッターはよほど精度が高いのか、音もなく静かに上がり始めましたので、流石は世界の野間製作所の会長の別荘だと感心しました。
 シャッターが開くと、中は車4台分の駐車場となっており、一番右側の駐車スペースに、白いランドクルーザーがひっそりと佇んでおりました。
 長谷川は左側のスペースに車を停めたあと、
「さぁ、到着しましたよ」と言って車から降りましたので、私も続いて車から降りますと、長谷川はズボンのポケットから鍵束を取り出して、駐車場の隣にあった黒い両開きの扉に鍵を差込んで右側の扉を開き、私たちは別荘の中に入りました。
 長谷川は入り口のそばで立ち止まり、
「西村さん、まぁ、じっくり眺めてください」と言いましたので、私は長谷川の隣で立ち止まり、じっくりと別荘を眺めました。
 山の頂に建てられた別荘の敷地は、テニスコート4面分ほどの広さがあり、先ず私の目を引いたのは、睡蓮の葉で覆われた25メートルプールほどの楕円形の池でありました。
 池の周りには柳や松や楓といった、日本の背の高い木々などが植えられていて、どこか東洋と西洋の文化の混在を思わせるような、異国情緒漂う不思議な印象を受けました。日本風太鼓橋は架かっていませんが、おそらく歌川広重の版画や、北斎の浮世絵に影響を受けたとされる、モネの『睡蓮』をイメージして造られたものだと思いました。
 次に家屋の方は、ハワイやグァムといった、常夏の高級リゾート地に多く見られる平屋建ての白い洋風の建物で、いかにもリッチなセレブが住んでいそうな感じの、洒落た印象を受けました。
 私はしばらく別荘の風景を眺めた後、
「庭は広くてきれいですけど、手入れとかが大変そうですねぇ」と、正直な感想を述べますと、
「いやぁ、そんな心配は全くいりませんよ!月に一度、野間家専属の庭師が庭の手入れに来ますので、自分がいじりたいと思わなければ手間も費用もかかりませんよ。それでね、ここのお風呂は地下から温泉を汲み上げていますので、いつでも本物の温泉を楽しむことができますし、2ヶ月に1度、別荘を所有しているノマシステムから職員がやってきて、温泉の汲み上げモーターの整備と温度調節と成分チェックを行いますから、手間のかかる作業は何も無いと思いますよ」と長谷川が言いました。
 私は自分がここで、管理人として暮らした場合を想定して、
「じゃあ、私はここで何を管理するんですか?」と訊ねますと、
「実は、私もそれを考えているのですが、家の中の掃除以外に何も思いつかないのですよ・・・」と言ったあと、「差し当たって何も管理するものがありませんので、西村さんはじっくりと執筆に専念できますよ。じゃあ、次は家の中を案内しますね」と言って、長谷川は家に向かって歩き始めました。
 私も長谷川に続いて歩きながら、もしも管理人を引き受けた場合、本当にスカトロ冒険物語か、SM官能ミステリー小説でも書かなければならないような気持ちになってきました・・・
 別荘の玄関に到着し、長谷川が見るからに重厚そうな木製のドアの鍵を開けて、
「どうぞ中に入ってください」と言って、ドアを開けて中に入りましたので、私も続いて中に入りました。
 長谷川は靴を脱いで下駄箱の中にあったスリッパを履き、
「まずは、キッチンから見ましょう」と言って、廊下のすぐ左側にあったドアを開けました。するとそこは、30畳ほどのダイニングを兼ねたリビングルームとなっており、その奥は6畳ほどのキッチンスペースとなっておりました。
 リビングスペースには6人掛けのベージュのソファーがL字型に置かれていて、その脇にはガラス製のサイドテーブルと50インチほどの巨大なテレビがあり、ダイニングスペースには6人掛けの大きなキッチンテーブルがありました。
 リビングとダイニングを抜けてキッチンスペースに行きますと、そこにはまるでレストランでも開けそうなほどの、巨大な冷蔵庫と巨大な食器棚があり、食器棚の中には様々な大きさの皿や茶碗やコップなどの食器が整然と並んでいて、機能的なシステムキッチンと一体となった収納スペースには、世界各国の調味料と、ありとあらゆる調理器具などが所狭しと収められておりました。
 私がキッチンルームの品揃えの多さに驚いていると、
「西村さん、もし管理人を引き受けてくれるのなら、ここにある全ての調味料や調理器具を、好きなように使ってもらっても構わないですよ」と長谷川が言いました。
「えっ! これみんな使ってもいいんですか?」
「もちろんですよ! 福山さんとの契約は、この別荘の中のものを全て自由に使用することができる、ということになっておりますので、何も問題はありませんよ」
 私はここで暮らして、何かの料理をしている自分の姿を想像して、
「こう見えても私は、調理師の経験がありますから、これだけ道具とか調味料が揃ってたら、調理人として幸せな気分になりますね」と、2年前まで勤めていた、居酒屋での経験を思い出しながら言いました。
「そうなのですか、私は料理が全くできないのでうらやましいですよ」と言ったあと、「じゃあ、次は自慢のお風呂に行きましょう」と言って、長谷川はキッチンからリビングを抜けて廊下へ行き、向かいの扉を開けて中に入りましたので、私も続いて行きますと、中は4畳ほどの脱衣所となっておりました。
 脱衣所の奥にある、曇りガラスがはめ込まれたアルミ製のドアを開きますと、そこには2人が同時にゆったりと浸かれるほどの大きな木製の湯船が現れ、風呂場の外壁は埋め込み式の小窓ではなく、ベージュ色の防水のカーテンが付いた、透明の大きなガラス扉となっておりました。
 おそらく山頂という立地条件と、別荘を取り囲む外壁のおかげで、誰かに覗かれる心配はないでしょうから、安心して風呂場から庭を眺めることは勿論、出入りもできますので、ちょっとした温泉旅館の露天風呂のようだと思いました。
「この湯船は檜なので、落ち着いた良い香りがしますし、この湯船の蛇口をひねると、本物の有馬の銀泉が出てきますよ」と言われましたので、
「銀泉って、なんですか?」と訊ねると、『銀泉』とは有馬特有の呼び方で、無色透明な炭酸を多く含んだラジウム温泉のことだと説明してくれました。
 ちなみに、湧き出し口では透明ですが、空気に触れると化学反応で茶褐色に変化する含鉄強食塩泉を『金泉』と呼びます。
 なお、『金泉』と『銀泉』という呼び方は、有馬温泉旅館協同組合の登録商標となっております。以上。
 私は湯船へと伸びた蛇口をひねり、銀泉とやらを出してみましたが、何の変哲もないただのお湯にしか見えませんでした。しかし、銀泉様に対してそんな失礼なことを言うわけにはいきませんので、
「なんか、いかにも体に良さそうなお湯ですね」と追従したあと、風呂場から見える庭の景色を眺めながら、(こんな所で温泉三昧の生活できたら、きっと幸せやろうなぁ)としみじみ思い、まさに至れり尽くせりといった言葉しか思い浮かばず、管理人を断る理由が全く見つかりませんでした。


7 作家誕生

 長谷川の話によりますと、別荘の間取りは家の真ん中を貫くようにして、玄関から廊下が裏の扉までまっすぐに伸びており、部屋は廊下を挟んで左右に分かれていて、左側の手前からリビングキッチンルームとトイレと寝室、庭の見える右側の奥から書斎と和室とゲストルームと浴室となっているということです。
 長谷川に連れられて、書斎を残して次々と別荘の中を見て回りました。別荘の中の家具やベッドといった家財道具は、特別に驚くほど金がかかっているとは思いませんが、家の中の全てのものが一人の趣味というか、一つの意思や方向性に基づいて揃えられたのではないかといった、統一性のようなものが感じられました。
「じゃあ、最後にメインの書斎に行きましょう!」と、あくまでも私に小説を書け!と言わんばかりのプレッシャーを掛けるような言い方をして、長谷川は書斎のドアを開けました。
 書斎に入ると、手前の真ん中に4つのソファーがテーブルを挟んで2つずつの対面式に並んだ応接セットが置かれていて、左側の壁際には百科事典が100冊は入るかと思われるような、中身が空っぽの巨大な木製の書棚があり、右側の壁際には木製の事務机と、黒い革張りの機能的でモダンなデザインの椅子が置かれておりました。
 書棚を眺めながら、なぜ一冊も本が入っていないのだろうと疑問に思ったとき、長谷川はソファーに腰掛けながら、
「その椅子は人間工学に基づいて作られた最新式なのですが、そのオークという楢の木で作られた机は、100年前にヨーロッパで作られたものですよ」と言いましたので、私も長谷川の向かいのソファーに座り、オークの机を眺めました。
 その机は見るからにデザインを重視したのではなく、機能を重視して作られた、とてもシンプルな形をしており、斬新な椅子とのセットの効果なのか、とても100年前に作られたものとは思えないほど、古臭さを全く感じませんでしたが、長い年月を経過しないと現れない、独特の味といいましょうか、趣が感じられました。
 それはまるで、日本の『侘び寂び』の文化に通じる、『職人が使い込んで良くなる道具で作られたものは、長く使い込むほどに良くなるものだ』といった、古き良き時代の質実剛健な職人たちの、物作りに対するひとつの答えが、この机ではないかと感じました。
「どうですか? その机で良い作品が書けそうですか?」と、長谷川が訊ねてきましたので、どう答えるべきかと迷いましたが、
「そうですねぇ、とりあえず机に向かってみないと分かりませんけど、なんとなく良いのが書けそうな気がしますねぇ」と、つい条件反射的に言ってしまいました。
「ということは、管理人を引き受けてくれるのですか?」
「いや、決定ではないんですけど・・・ でも、ほんまに全部、好き勝手に使っても問題ないんですか?」
「本当に何も問題はありませんし、もし気に入らなければ、自分好みに変えちゃってもかまいませんから、ぜひ管理人を引き受けてください! じゃないと、福山さんが戻られた時に、私が困ったことになってしまうのですよ!」と長谷川が言ったとき、
「!!!」
 私は重大なミスを犯していることに気付いてしまいました・・・
 その重大なミスとは、もしもアキちゃんが突然ひょっこり現れて、『涼介、お前いつから作家になったん?』と一言発するだけで、私がコツコツと築き上げてきた、作家としての地位や名誉が、まるで『砂の器』のように、脆くも崩れ去ってしまうということです・・・
 しかし、事ここに至っては(もう無理!)と諦めて、私が手にしているチケットは、決して後戻りすることが許されない『嘘の片道切符なんだ!』と自分に言い聞かせて、
「分かりました・・・ 管理人を引き受けます」と言うと、長谷川はにっこりと微笑みながら、
「そうですか! ありがとうございます!」と言いました。
 と、以上のようなつまらない嘘がきっかけの不純な動機で、私は小説を書く羽目に陥りました。


8 推理

 喉元過ぎれば熱さを忘れる、という言葉のとおり、人間とは一度腹を括って開き直ってしまうと、後は気が楽になってしまう動物のようで、もしもアキちゃんが現れて嘘がばれてしまった時は、また違う嘘をつくか、開き直ればいいや!と、段々と大船に乗ったような気持ちで、暴走、もしくは自滅して行く自分自身を止めることができませんでした。
「それで、西村さんは車の免許はお持ちですか?」と長谷川が言いましたので、(おっ!今度は車やな?)と、いつの間にかおねだりの品を先回りして予想してしまっている厚かましさを認識しつつも、「まぁ、一応ゴールド免許ですけど」と、期待を込めて言いますと、
「じゃあ、ここは坂道だらけで車がないと不便なので、駐車場のランクルも自由に使ってください。あの車もたまに動かさないとダメになりますし、たくさん荷物が載りますから、引越しの時とか便利ですよ」と、期待通りの答えが返ってきました。
「あ、はい。ありがとうございます」
「それで、引越しはいつ頃になりますか?」 
 無職となったおかげで、これから先の予定が何もありませんので、「引越しは一応、今週末3日後の土曜日位にしようと思ってますけど」と言うと、
「じゃあ、土曜日はちょうど私も暇なので、よければ引越しを手伝いましょうか?」と、なんだか長谷川は、銀座に土地を買ってくれと言えば、本当に野間製作所の金を横領して買ってくれそうな勢いだったので、(こいつ、やっぱりホモで、俺に気があるんか?)と少し引き気味になり、
「いや、この家のものが使えるから荷物は少ないですし、そんなことまでお世話になる訳にはいかないですよ」と断ると、
「じゃあ、車から管理人の契約書を持ってきますね。それで、認めでも銀行印でも、なんでも構わないのですが、いま印鑑をお持ちですか?」と言いました。
 私は(そんなもん、普段から持ち歩くか?)と思いながら、
「いや、持ってません」と答えると、
「じゃあ、今から契約書を2通渡しますので、それぞれ署名捺印していただいて、その内の1通は西村さんの控えで、残りの1通をもしよろしければ、土曜日の夕方にここへ取りに来ますので、その時に渡して頂けますか?」と長谷川が言いました。
「そんな、わざわざここまで取りに来てもらわんでも、長谷川さんの事務所に郵送で送りましょうか?」と言いますと、
「いや、私は引越しが完了したことを確かめなければならないので、
 どうぞ気を使わないで下さい」と言われました。
 私はしばらく考えたあと、(こいつ、よっぽど暇なんかなぁ?)と思いながら、「はい、分かりました」と言うと、
「じゃあ、西村さんの気が変わらないうちに、車から契約書を取ってきますので、ちょっと待っていてください」と言って、長谷川は少し慌てた様子で、そそくさと書斎から出て行きました。
(もう、気は変わらんわい!)と思いながらしばらく待っていると、長谷川がアタッシュケースを携えて戻り、中から管理人の契約書類を取り出してテーブルの上に置いたあと、広げて説明を始めたのですが、その内容は驚いたことに、水道高熱費はタダで、管理人はインターネットや固定電話を使用するのであれば、その通信費のみを負担するということでありました。
 その後、給料の支払方法や、細々とした契約内容をすべて聞き終わった私は、長谷川から契約書を2通預かり、土曜日の夕方に署名捺印した1通を渡すことにして、何かあったときのために、別荘の全ての予備の鍵を長谷川が保管することになりました。
「では、これで書類のほうはOKなので、あとは鍵をお渡しします」と言って、長谷川はシャッターのリモコンと、別荘の扉の全ての鍵と、ランドクルーザーの鍵をテーブルの上に置きました。
 私たちは別荘でするべきことを全て終了しましたので、長谷川は大阪の事務所に戻ることになり、私は別荘の中の設備や生活用品などをもういちど確かめてから、ランクルで帰ることにしましたので、「じゃあ西村さん、土曜日の夕方に、またお会いしましょう」と言って、長谷川は先に別荘を後にしました。
 ひとりになった私は、まず庭の睡蓮の池に行き、魚やカエルといった生物はいないかと池をぐるりと一周しましたが、あいにく池全体に睡蓮の葉や茎、そして季節的に花を咲かせるにはまだ早い、白い蕾で覆われていたため、残念ながらボウフラ以外の生物を目にすることができませんでした。
 次に私はキッチンに行って、もういちど調理道具や調味料などを調べたあと、書斎以外の各部屋を回って、ありとあらゆるところを調べましたが、浴室関係や掃除道具なども全て新品が揃っておりますし、寝室とゲストルームのそれぞれ2台のベッドにも、真新しい布団がカバー付で掛けられておりますので、今からでも快適に生活することができるほど生活用品が全て揃っており、逆にリサイクルショップに持って行きたくなるほど、この別荘の中にはありとあらゆる調度品や生活用品が揃っておりました。
 別荘の中の見るべきところは全て見終わり、最後にこれから私の職場となるであろう、書斎をもう一度見てから帰ろうと思い、書斎のドアを開けて中に入りました。応接セットの横を通り過ぎて、これから良きビジネスパートナーとして活躍を期待する、オークの机へ向かい、モダンな椅子に腰掛けた瞬間でした。
「?・・・」
 なぜだが急に、亡くなられた野間会長はいったい、この別荘に引きこもって何をしていたのだろう?ということを思い出しました。
 長谷川から、会長と別荘の話を聞いたときは不気味な印象を持っておりましたが、こうして別荘の隅々まで見て回った結果、不吉なものは何一つ発見することができませんでしたし、逆にこの別荘でのこれからの快適な暮らしを考えて、会長が引きこもっていたという事実さえ、完全に忘れていたのですが・・・
 そもそも事の発端は、アキちゃんからの手紙なのですが、なぜ彼は私をこの別荘の管理人にしようと思ったのでしょう?・・・
 彼の思惑は皆目見当が付きませんが、結果的に私は管理人を引き受けることになり、おまけに自身のつまらない嘘がきっかけで、この書斎で小説を書くことになってしまったのですが・・・ 
 もしかすると、逆に考えれば、野間会長とアキちゃんは、初めから私にこの書斎で小説を書かせようと企み、二人で共謀して綿密な計画を立てた結果、思惑通りに私をこの別荘に引きずり込むことに成功し、まんまと小説を書かせることにも成功した、という可能性はないでしょうか?・・・
 私は暫く考えたあと、
「そんなの、ありえないわ!」と、おネェ言葉で独り言をつぶやいたあと、なんだか急にアホらしくなってしまいましたので、これ以上バカなことを考えるのを止めて、白いランクルに乗って別荘を後にしました。


9 準備

 翌朝、何はともあれ昨日から作家となってしまった私は、引越しと執筆に向けた準備を進めるために、朝から大忙しでした。
 まずは荷造りから取り掛かろうということで、今から約10年前、日本国民の半数以上が熱狂と興奮の坩堝と化すほどの、圧倒的なインパクトを携えて衝撃的なデビューを飾った、『奈良の騒音おばさんこと、河原○代子』のデビュー曲、『近所迷惑の歌・布団叩きバージョン』の、
「ひっこ~し♪、ひっこ~し♪、さっさとひっこ~し♪、しばくぞ!」という軽妙なリズムの歌を口ずさみながら、『ひっこ~し♪』はあくまでリズミカルに、『しばくぞ!』はあくまで力強くという、近所迷惑防止条例違反のメロディーに乗って、軽快に荷造りを進めました。
 別荘にはありとあらゆる物が揃っておりますので、荷物はパソコンと衣類と洗面道具といった身の回りの必需品だけで済み、近所迷惑の歌の軽妙な布団叩きのリズムの効果も手伝って、荷造りは2時間ほどで終了しました。
 ということで、今度は執筆に向けた準備のために、別荘から乗ってきたランクルでJR伊丹駅前の巨大商業施設・ダイヤモンドシティーに行きまして、文房具店で安物の万年筆と原稿用紙を10冊買ったあと、書店に行って小説の書き方に関する本を買って、伊丹の自宅に戻りました。
 買ってきた商売道具をテーブルの上に並べ、何から手をつけようかと迷いましたが、やはり作家たるもの、まずは体の一部であるべき万年筆を手に取り、詰め替え用のインクのカートリッジを差し込んで命を吹き込みました。するとその万年筆は、まるで私の手に握られるために生まれてきて、私との出会いを一日千秋の思いで待ち望んでいたのではないか、という感じは全く受けませんでしたが、とりあえず原稿用紙を開いて、まずは『作家 西村涼介』と、自分の職業とフルネームを書いてみました。
「・・・・」
 しかし、どうもしっくりこないと感じました。やはり、生まれて初めての挑戦ですので、しっくりくるはずなど有り得ないと自分に言い訳したあと、気を取り直して『正しい小説の書き方』という本を読むことにしました。
 その本の出だしに、『作家を目指すみなさん!』と、誰かに呼びかけておりましたので、私は自分に対する呼びかけだと思い、
「はい!」と、元気よく返事をして続きを読みました。
『小説を書くという作業に入る前に、まずは自身の能力を本格的に過信し、才能を徹底的に過大評価した上で、「自分は天才だ!」と、暗示を掛けた上に輪を掛けて錯覚するという、大きな勘違いの作業からスタートです。』と書かれておりましたので、意味はよく分かりませんでしたが、(なるほど)と、思わず納得してしまいました。
『勘違いの作業の次に、みなさんはいまから、「自分はこれから作家になるのだ!」と、周囲の人たちに思いっきり宣言してください。 
 するとあなたは、周囲の人たちから理解や協力を得ることはできないでしょうし、時には侮辱され、時には白い目で見られた挙句、あなたが普段から迷惑を掛けている人たちからは罵倒されてしまうかもしれません。しかし、その心と体の痛みに耐えた者のみが、あなたが目指す「作家」という、素晴らしい・・・』といった、まるで人を小馬鹿にしたような自己暗示的な文面や、自己啓発的な文章が書かれておりました。
 こんな本をこれ以上読み続けてしまうと、私は『作家』ではなく、サッカにクとカをプラスした、『錯さっ覚かく家か』になってしまうだろうと思いましたので、5ページほど読んだところで本を閉じました。
 改めて、テーブルの上に並んだ品々を眺めながら、どうしてこんな無駄遣いをしてしまったのか、自分でも分からなくなってしまいました。
 どうもこの二日間、私は誰かに遠隔操作をされているような気がしましたので、もしかすると頭に無線アンテナが取り付けられているのではないかと、本当に頭を触って確認するという、輪を掛けてバカなことをしてしまいました・・・ 
 なぜこういった事態に発展してしまったのかというと、私の嘘が原因であることに間違いは無いと、本人も納得して素直に認めているのですが、果たして原因はそれだけでしょうか?・・・  
 複雑な真相に迫ってみたいと思います。
 私は時々、思いもよらない場面に出くわしたときに限って嘘をつきますが、私は決して妄想癖や虚言癖などを患っているという訳ではありませんし、私の嘘は面倒くさがりという性格が起因しているのであって、決して人を陥れてやろうと思って嘘をついているのではありません。なので、嘘をついたからといって、人から恨みを買うことなどありませんし、まして一度も目指したことが無い作家になってしまったということに、どうも納得がいきません・・・
 しかし、今更どうのこうのと言ってみても、もう後戻りすることはできないと諦め、本当に有馬の別荘の書斎で小説を書いてみようと決心しました。


10 引越し

 引越し当日、私は荷物をランクルに載せたあと、伊丹から有馬へ向かう最短路を走ろうと、私の実家がある宝塚市を抜けて、有馬街道を通ることにして、別荘に食べるものが何も無かったので、道中の関西スーパー桜台店に寄って、キリンの一番絞りの500mlを2ケースと、サントリーの角ビン2本と食材を買うことにしました。
 スーパーに到着して買い物したあと、少子化の影響で閉鎖されてしまった、宝塚ファミリーランドの跡地の前を通り、曲がりくねった有馬街道を抜けて、別荘には昼の12時前に到着しました。
 車から荷物を降ろし、買ってきたビールや食材を巨大な冷蔵庫に仕舞い、衣類や洗面道具などを所定の場所に仕舞ったあと、パソコンを書斎と寝室のどちらへ置こうかと迷いましたが、寝室にテレビがなかったので、その代わりとしてベッドの横のサイドテーブルの上に置くことにして、書斎のオークの机の上には、商売道具の万年筆と原稿用紙を置くことにしました。(ちなみに、『正しい小説の書き方』という本は、伊丹の自宅のゴミ箱の中に置き去りにしました)
 全ての荷物の整理を終えたあと、いま何時だろうとリビングの壁に掛けられた時計で時刻を確認すると、午後の1時半でありました。
 長谷川の到着予定が夕方の何時頃なのかが分かりませんが、その合間に本物の温泉を心行くまで堪能しようではないか、ということで、風呂場に行って軽く掃除をしたあと、銀泉の湯を檜の湯船へ流し込みました。
 長谷川が説明してくれたように、銀泉には多くの炭酸が含まれていて、銀泉が張られた檜の湯船には、まるでサイダーのように小さな気泡が絶え間なく現れては消えてゆき、手を入れて掻き混ぜると、手の甲にも気泡が無数に付着しました。
 ゆったりと温泉に浸かりながら、モネの睡蓮のような庭の景色を眺めていると、ほんの数日前までは夢にも思わないような、なんともリッチな気分になりましたので、しばし浮世の波を忘れて、大いに現(うつつ)を抜かそうではないか!と思いました。
 お風呂を出たあと、夕方にはまだ時間がありましたので、軽い運動を兼ねて庭を散策したあと、署名捺印した管理人の契約書をダイニングのテーブルの上に置いて、時間つぶしのためにリビングでテレビを見ているときに、玄関のインターフォンの呼び出し音が鳴りました。モニターを見ますと、画面からはみ出そうなほどの長谷川の大きなエラが映し出され、改めて立派なエラに惚れ直したあと、時計に目をやり時刻を確認すると、午後の4時半過ぎでした。
 応答用の受話器を取り上げて、
「鍵は開いてますから、そのまま入ってきてください」と言ったあと、出迎えのために玄関に行きました。
 しばらくして玄関のドアが開き、
「こんにちは!」という挨拶と共に、有名デパートの紙袋を携えた長谷川が到着しました。
「こんにちは」と私も挨拶を交わしたあと、リビングを抜けてダイニングに行き、テーブルの椅子に腰掛けました。
 長谷川は手にしていたデパートの紙袋を差し出しながら、
「これは引っ越し祝いのワインと、つまみの生ハムとチーズですけど、どうぞ」と言いました。
 ありがたく頂戴したあと、テーブルの上に置いていた管理人の契約書を長谷川に渡したときでした。
 神の啓示やお告げ、風の便りや虫の知らせといった、何の前触れもなく突然、私の背後でリビングのドアが開く音がしたと同時に、
「ハッセ!」という、女性の大きな声が聞こえてきました。
「!・・・」
(ハッセってなんや?)と思いながら、誰が訪ねて来たのかと驚き、振り返って来客者の顔を確認しようとした時、
「あっ! 瑞歩(みずほ)ちゃん!・・・」と、長谷川は目を大きく見開き、素早く椅子から立ち上がりましたので、どうやら二人は知り合いなのだろうと思いながら、ゆっくりと振り返りました。
 すると、私の目に飛び込んできたのは、

「!?×☆♨・・・・」で、ありました。

 私は釘付けになっていた若い女性の瞳から、まるで釘抜きで釘を抜くかのようにして、ようやく視線をそらしたあと、まっさきに思い浮かんだのは、5年前に別れた妻の顔でした。
 そして、長谷川が私に隠していた、アキちゃんに関する秘め事が、とつぜん目の前に現れたと思いました。

第2章 出会い

11 隠し子?

 瑞歩という名の、長身でとても姿勢の良い娘は、白いTシャツにジーンズ姿のラフな格好をしておりまして、Tシャツの胸元にはチワワという、小型犬の顔がくっついておりました。
 そのチワワの顔は、大阪のおばはんがよく着ているような、下品なアニマル柄のプリントとはひと味もふた味も違っていて、チワワの表情や最大の特徴である大きな瞳などが、細部までとてもリアルに刺繍で表現されていて、たかがTシャツとは思えないほど、見るからに上品で高級なお召し物だという感じを受けました。
 私はそのチワワの、ふざけた部分が微塵も感じられない、真剣で前向きな目を見た瞬間、いつかこの犬は私を噛むだろうと思いました。それはなぜかと言いますと、何しろ私は今まで4匹の犬に、延べ7回も手や足を噛まれてきましたし、そのうちの2匹は母の飼い犬という、とても親しい間柄でありましたので、私は犬に裏切られたり、噛まれたりすることに関しては、ちょっとした手て練だれとでも言いましょうか、慣れておりますので、私のことを噛むか噛まないかは、たとえプリントや刺繍の犬であっても、その目を見ればすぐに分かります・・・ 
 といったような感じで、目の前の現実を逃避していると、リビングの入り口で仁王立ちしていた瑞歩が、
「ハッセ! どういうことよ!?」と、大声で再び怒鳴りました。
「!・・・」
 私は自分が怒鳴られているのではないことは分かっておりましたが、椅子から立ち上り、思わず回れ右して気を付け!といった感じで畏まってしまいました。おそらくハッセというのは、ハセガワのハセからとった呼び方なのでしょう。
「あんた私に、今日から東京に出張やから、家庭教師は休むって言うたんと違うん?」
 どう見ても二十歳前後にしか見えない瑞歩は、長谷川に飛びっきりの上から目線でタメ口を利きました。 
 ということは、長谷川は瑞歩の家庭教師のアルバイトでもしているのでしょうか?・・・
 瑞歩は長谷川を睨みつけながら、
「ハッセ、とりあえず書斎においで!」と言って、踵を返してモデルのような歩行姿勢でリビングから出て行ってしまいました。
 まず私が思ったのは、なぜ瑞歩は誰の断りも無しに、他人の家に勝手に上がりこんできたのかということと、なぜこの別荘に書斎があることを知っているのか?ということと、家庭教師の件を含めて、その他諸々と数え上げればきりがないほど疑問だらけでしたが、自分でも何から説明を求めればいいのか分からなかったので、
「長谷川さん・・・ もしかしたら、あの子はアキちゃんの?」と、瑞歩を見た時に、2番目に思い浮かんだことを口にしました。
 長谷川は本当に申し訳なさそうな顔で、
「西村さん、隠していてすみません・・・・ 確かにあの子は福山さんのお嬢さんで、亡くなられた野間会長のお孫さんの、野間瑞歩ちゃんです」と言いました。
「!・・・」
 瑞歩がアキちゃんの娘ということには(やっぱり!)と思いましたが、(野間会長の孫?)ということに驚き、ますます頭の中が混乱してきました。
「私は野間製作所の顧問弁護士をしながら、瑞歩ちゃんが中学のときから家庭教師もしておりまして、野間会長が亡くなられてからは彼女の保護者であり、後見人という立場なのです・・・・ 今日は東京に出張に行くと言って嘘をついていたのですが、何故かバレてしまいました・・・」
「?・・・・」
 なぜ長谷川が瑞歩に嘘をついたのかが分かりませんし、それよりもなぜアキちゃんの娘が、野間会長の孫なのだろうと思ったとき、再び瑞歩がリビングの入り口に現れて、
「何してんのよ? 早くこっちに来て説明しいよ!」と言いました。
 長谷川は力なく私に微笑んだあと、まるで夢遊病者のような表情で、たどたどしくリビングを出て行きました。
 ということで、ひとりぼっちとなってしまった私は、アキちゃんの妹の愛子(あいこ)が突然、目の前に現れたのではないかと思うほど、瑞歩と愛子があまりにも似ていたので、目の前で何が起きていて、これから何が起ころうとしているのか全く想像できませんでした・・・・
 おそらく、長谷川が私に隠していたのは、アキちゃんの娘の瑞歩の存在であったのでしょう・・・ しかし、私はアキちゃんから娘がいるという話を聞いたことがありませんし、妹の愛子からも、そのような話を聞いたことがありません。
 そして、私はアキちゃんと愛子から、幼いときに両親は交通事故で亡くなったと聞いておりましたが、アキちゃんの娘の瑞歩が野間会長の孫ということは、アキちゃんは野間会長の息子ということになりますので、愛子も当然、野間会長の娘ということになります。 
 そうすると、私がアキちゃんと愛子から聞いていた、幼い頃の貧乏な身の上話は、いったいなんだったのでしょう?・・・
 もともとアキちゃんと愛子も良く似た兄妹なので、愛子と瑞歩が似ているということは理解できるのですが、それにしても良く似すぎているというか、とにかく二人は、意志の強さともろさを同時に感じさせるような、涼しげでいて力強い目元といい、透き通るような肌の白さといい、細く長い手足といい、今時珍しい胸元までの黒いストレートの髪形といい、おまけに愛子が一番自慢にしていた姿勢の良さまで、二人は頭のてっぺんから足のつま先まで、まるで生き写しの双子のように良く似ていて、二人の見た目の違いは、瑞歩がおそらく170センチ近くの長身なので、愛子よりも5センチほど背が高いというくらいでありました。
 しかし、瑞歩のことを全く知らない私が、こんなことを言うのもなんですが、二人の決定的な違いは、愛子は誰に対してもタメ口は利きませんし、人を頭ごなしに怒鳴りつけたりしない、とても大人しい性格の女性であったという事です。
 それにしても、瑞歩と長谷川の二人は書斎で何を話しているのでしょう? さきほどの瑞歩の物凄い剣幕を考えますと、おそらく長谷川は彼女からこっ酷く叱られていると思いますが・・・
 ということは、もしかすると流れ的に、私も瑞歩から叱られるのではないかと思いましたが、いくらなんでも初対面の善意の第三者を叱るなど有り得ませんし、私には叱られる理由がありません。
 ということで、どうも私は自分が部外者のような気がしましたので、本日引っ越してきたばかりでございますが、二人がいない間にさっさと荷物をまとめて、伊丹の自宅へ帰ろうかと思った時、
「!」
 長谷川と瑞歩が連れ立ってリビングに戻ってきました。
 二人はダイニングの椅子の横で突っ立ったままの私の横を通り過ぎて、向かい側の椅子の前で立ち止まり、長谷川はとても疲れた表情を私に向けて、
「西村さん、こちらは福山さんのお嬢さんで、野間会長のお孫さんの瑞歩ちゃんです」と、あらためて私に紹介した後、
「瑞歩ちゃん、こちらの方が、今日からこの別荘の管理人になられた西村さんです」と、私を紹介しました。
 私はどのように挨拶しようかと少し迷いましたが、
「初めまして、西村です」と、オーソドックスに瑞歩ではなく、胸元のチワワに向かって挨拶しました。すると、私が挨拶したチワワではなく、瑞歩の口から、
「初めまして、涼介叔父さん!」という言葉が返ってきました。
「!・・・」
 なぜ瑞歩は、涼介という私の下の名前を知っているのだろう?と驚いていると、長谷川が私の気持ちを代弁するかのように、
「リョウスケオジサン?って・・・ なんで瑞歩ちゃんは西村さんの名前を知っているの?」と言ったあと、今度は私に向かって、
「もしかして、お二人は知り合いだったのですか?」と言いましたので、私は首を横に何度も振りしました。
 すると今度は瑞歩が、
「だって、涼介叔父さんは、パパの妹の愛子叔母さんの、元の旦那さんやもん」と、長谷川の疑問に答えました。
「福山さんの妹の元の旦那さんっていうことは・・・西村さんは、福山さんの、元の義理の弟だったということですか?」と言いましたので、私は長谷川に向かって首を縦に振りました。
 いったいなぜ瑞歩は、私と愛子が結婚して、離婚したことを知っているのか全く分かりませんが、とにかく考えることがあまりにも多すぎて、頭の中を整理できる状態ではなかったので、まずは落ち着いて話ができるように、
「とりあえず、座って話しましょう」と言って、私たちは椅子に座ったあと、私は瑞歩に思いついたことから訊ねることにしました。
「あのぅ、瑞歩ちゃんって呼ばしてもらうけど、俺と愛子のことを、アキちゃんから聞いたん?」
「アキちゃんって、誰?」
(いきなりタメ口かぃ!)と思いましたが、「ごめん。アキちゃんって、瑞歩ちゃんのお父さんのことやねん」と言いました。
「違うよ。パパじゃなくて、探偵から聞いた」
「!・・・」
 私は非常に驚きながら、「探偵って、どういうこと?」と訊ねると、
「探偵って、いろいろ調べてくれる人」と、瑞歩がにべもしゃしゃりもない言い方をしましたので、(そんなこと、知っとるわい!)と思いましたが、
「ということは、俺のことを探偵に調べさせたってこと?」と訊ねました。
「そう」
(どういうことやろう?)と思いながら、
「なんで、俺のことなんか調べたん?」と訊ねると、
「だって、私はつい最近まで福山章浩が私のパパって知らんかったし、ハッセは私に隠し事ばっかりして、なんにも教えてくれへんから、探偵を雇ってパパのことを調べてん。それで、その内に愛子叔母さんと涼介叔父さんのことが分かってん」と瑞歩は言いました。
 すると長谷川は、いかにもばつが悪そうに、
「西村さん、本当にすみませんでした・・・ 私は会長から、福山さんが瑞歩ちゃんの父親だということを含めて、色々と口止めされておりましたので、話すことができなかったのですよ・・・」と言いました。
 なぜ野間会長は、アキちゃんが瑞歩の父親であることを口止めしたのか分かりませんし、それよりも瑞歩がつい最近まで、アキちゃんが父親だということを知らなかったということは、一体どういうことなのでしょう?・・・
「ほんだら、今その探偵はアキちゃんのことを調べてるの?」と、私は瑞歩に訊ねました。
「そう。パパの行方を調べてもらってるけど、ハッセと涼介叔父さんも尾行しててん。それで、4時間くらい前に探偵から連絡があって、涼介叔父さんがバァバの別荘にいるって聞いて、なんで?ってびっくりしてんけど・・・」 
(バァバって誰や?)と思い、「今、バァバの別荘って言うたけど、ここは野間会長の別荘やろう?」と訊ねました。  
「そうやで。だから野間会長って、私のママのお母さんのこと」
「!・・・」
 私はてっきり、野間製作所の会長は男だと思っておりましたし、何よりも野間会長が、アキちゃんと愛子の父親だと思っておりましたので、(会長って、アキちゃんの義理のお母さんやったんか!)と驚いていると、瑞歩は私がその事実を知らなかったことが意外であったのか、少し怪訝な顔をして、
「名前は野間のま陽子ようこっていうねんけど、それがどうしたん?」と言いました。
 私は先ほどまで、アキちゃんと愛子から、両親は亡くなったという嘘をつかれていたのでは?と思っておりましたので、(なるほど)と改めて納得し、
「ううん、なんでもない。それで、それからどうしたん?」と言いました。
「私が涼介叔父さんに会いに行こうか、どうかって迷ってる時に、今度は違う探偵から連絡があって、ハッセは東京に出張に行ったんじゃなくて、どうもバァバの別荘に向かってるみたいやって聞いたから、まさかハッセと涼介叔父さんが知り合いやって思ってなかったし、それに何で二人がバァバの別荘に?って思ったから、急いで彼氏に連れて来てもらって、ハッセが到着するのん待っててん・・・」
 ということは、一昨日、長谷川と初めて会ったときは探偵に尾行されていなかったのでしょう。
 私は次に、何を質問しようかと考えましたが・・・
「・・・・」
 何も思い浮かばなかったので、とりあえず(彼氏って、どんな人?)と、あまり関係のないことを訊ねようかと思った時、瑞歩が手にしていた白い携帯電話から着信音が鳴りました。
「こいつ、何回も、うっとうしいな!」と言いながら、瑞歩は険しい表情で電話に出て、
「ハッセに送ってもらうから、先に帰れって言うたやろう! このボケ!」と、とても良家の娘とは思えない、下町風のパンチの効いた捨て台詞を吐きながら電話を切りましたので、私は少しひるみながら、(ガラ悪っ!)と思っていると、瑞歩は真顔に戻り、私の目を見つめながら、
「私な、デートの途中に送ってきてもらってんけど、彼氏に帰れって言うたのに、まだ私のことを心配して外で待ってるみたいやし、私もまだ用事が残ってるから今から帰るけど、涼介叔父さんは今日から、管理人としてここに住むの?」と訊ねてきました。
「うん、さっき引っ越してきたとこやけど」
「じゃあ、明日の夕方に、大学の用事が終わってからまたここに来るから、その時にゆっくりお話ししよっ!」と、瑞歩は私に素敵な笑顔で言ったあと、椅子から立ち上がり、まるで大魔神のように素早く満面に怒りを露にして、
「ハッセ、あんたにはまだまだ訊きたいことがいっぱいあるから、一緒に帰るで!」と言いました。
 長谷川は驚いた表情で瑞歩を見ながら、
「えっ! 一緒に帰るって、今から?」と言うと、瑞歩は無言のまま右手で彼の腕をつかんで立ち上がらせたあと、腕をつかんだまま歩き出し、リビングの出入り口で、まるで忘れ物を思い出したかのように、いったん立ち止まって振り返り、
「涼介叔父さん、バイバ~イ」と、にこやかに左手を振り、二人は本当に帰ってしまいました。

 まさに台風一過といったように、瑞歩は突然現れては去っていきましたので、彼女がどういう人物なのかを判断するには、あまりにも材料が乏しすぎるということでコメントを差し控えますが、とにかく見た目が愛子とあまりにも似ていたので、私にとってはいつも温和でおしとやかだった愛子の、意外な一面を垣間見たような錯覚に陥り、初対面なのに妙なことですが、瑞歩がとても懐かしく、とても新鮮に映りました。
 彼女は先ほど、大学がどうのと言っておりましたので、おそらく女子大生だと思いますが、それにしては彼氏に対する言葉遣いや、長谷川に対する態度は大人気ないと言いましょうか、とにかく瑞歩は相当な勝気で、気の荒いジャジャ馬な娘だと思いました。
 何はともあれ、頭の中が非常に混乱しておりましたので、これまでの経緯を整理してみようと思い、アキちゃんの手紙から始まり、たった今起こった瑞歩の登場など、過去に何が起こり、これから何が起ころうとしているかを考えてみることにしました。
 そもそも事の発端は、野間会長が義理の息子であるアキちゃんを呼び寄せたことから始まった訳ですが、そのアキちゃんは会長が亡くなる直前に失踪し、2か月が経ってから私に手紙で別荘の管理人になるようにと指示し、私が別荘の管理人を引き受けた直後に、娘の瑞歩が登場した、ということになるのですが・・・
 おそらく、長谷川と瑞歩の言動から想像するに、二人も私と同じく、全ての事情を理解しているようには思えませんし、瑞歩に関して言えば、つい最近まで父親が誰なのかも知らなかったということは、もしかすると瑞歩は、アキちゃんの隠し子ということになるのかもしれません・・・
 ということは、全ての事情を知っているのはアキちゃんだけではないかと思いますが、肝心の本人は今、どこで何をしているのかは誰も知りません。彼が失踪した前後の状況を考えますと、おそらく野間会長はアキちゃんが今、どこで何をしているのかを知っている可能性が高いと思われますが、いかんせん死人に口無しで、今となっては聞き出しようがありません・・・
 そして、いきなり娘の瑞歩が登場したことによって、事態はますます混乱へと向かう様相を呈してきたように思いますが・・・
「・・・・・・」
 しばらく考えてみましたが、やはり混乱した頭でいくら考えても、未来の予想はおろか、現時点での分析や整理などできるはずがありませんし、考えれば考えるほど疑問が増えていくような気がしましたので、とにかく明日、瑞歩と話をすれば何か分かるだろうということで、冷蔵庫に行って冷たいビールを取り出して飲みながら、長谷川が持ってきてくれたワインで、一人寂しく引っ越し祝いをすることにしました。


12 愛子

 昨夜はビールから始まり、つまみの生ハムとチーズの美味さに、ついついワインにウィスキーと飲みすぎてしまい、二日酔いの気分の悪さで、朝の9時過ぎに目を覚ましました。
 昨日はいきなり瑞歩が現れては慌しく去っていきましたので、ゆっくりと話すことができずに気付かなかったのですが、よく考えてみると、野間会長の娘であり、瑞歩の母親という人物はどういう女性なのでしょう? 
 確かに昨日の話し合いは短すぎましたので、話題がひとつも上らなかったことも納得できるのですが、それにしても瑞歩の母親とアキちゃんはどこで知り合い、どういう経緯があって、瑞歩が父親の存在自体を知らないという状況になってしまったのでしょう?・・・
 そして、何よりもアキちゃんの性格からして、娘の存在を知っていてほったらかしにしていたということは考えられませんので、おそらく瑞歩の母親は、アキちゃんに内緒で彼女を産んで育てていた、シングルマザーであったのかもしれません。
 ということは、アキちゃん自身もつい最近まで、瑞歩の存在を知らなかった可能性が高いですし、おそらくそうであった場合を仮定すると、野間会長は自身の死期を悟り、自身亡き後の瑞歩の面倒を託すために、父親であるアキちゃんを呼び寄せた、というのが一番無理のない筋書きではないかと思いますが・・・
 しかし、それではなぜ野間会長は、瑞歩や私にアキちゃんが父親であるということを、長谷川に口止めしたのかが理解できませんし、何よりもなぜアキちゃんは、娘の存在を知ったあとに失踪してしまったのかが理解できなくなってしまいます・・・
 現時点で私が色々と想像してみたところで、真実に一歩でも近付けるような気がしませんし、深く考えるほど余計に頭が混乱するばかりなので、夕方に訪ねてくる瑞歩と話をするまで、何も考えないようにしようと思ったとき、
「!・・・」
 なぜだか急に、愛子のことを思い出しました。
 もしかすると、今回のアキちゃんの失踪に、愛子が何らかの形で関係しているのではないでしょうか・・・ 
 しかし、愛子とアキちゃんの兄妹は、私との離婚の理由が原因で疎遠となってしまったので、おそらく失踪とは何も関係が無いだろうと思い直しました。
 私はこの5年間、愛子との離婚の原因を数え切れないほど考え続けてきましたが、結局は何も分からないまま現在に至っています。 
 愛子は5年前にとつぜん、一方的に離婚を切り出し、最終的に私は渋々了承して離婚が成立したのですが、私は離婚してからの1年間は、あまりのショックで仕事も何もかも手に付かず、まるで廃人のように自宅に引きこもっていました。 
 愛子は離婚して家を出て行った後も、なぜか住民票を移動させなかったので、私は愛子の郵便物が届く度に、『もしかしたら、愛子が戻ってくるのではないか?』という思いから、引越しすることもできずに、ひたすら愛子の帰りを待ち続けました。
 しかし、それから更に1年が経過しても、愛子は住民票を移動させることも、私の元へ戻ることも無かったので、待ちくたびれた私は引越しを契機に、愛子のことをきれいさっぱり忘れることにしたのですが・・・
 アキちゃんは私と愛子が離婚した時の経緯や、その後の愛子の面影を引きずったままの、哀れな私の姿を間近で見てきましたので、心のどこかで妹のことを赦せない、という思いがあったと思います。 
 そしてアキちゃんは、行方不明となってしまった愛子の心配よりも、見捨てられた私に対して申し訳ない、という思いの方が強かったのではないかと、私は彼との付き合いの中でそう感じていました。
 しかし、いかなる事情があるにせよ、結果的にアキちゃんと愛子の兄妹は、明確な理由を告げずに私の前からとつぜん姿を消した、ということに変わりはありませんが・・・


13 捨て子の捨て子
 夕方に瑞歩が訪ねてくるまで、差し当たって何もすることがありませんので、リビングでテレビでも見ようかと思ったときでした。
「!・・・」
 私は自分が、作家ではないか?ということを思い出しましたので、瑞歩が到着するまでの間、小説の構想を練ることにして、職場である書斎に行って立派な机に就きました。
「・・・・・」
 ところが、いくら作家を目指す覚悟を決めたからといっても、書くべきことがセットで付いてくるというわけではありませんので、椅子に座ったまま身動きできずにフリーズしてしまいました・・・
 改めて机上の万年筆と原稿用紙を眺めていると、まさに自分が、『ここはどこ? 私は誰?』状態であることを認識し、このままではまずいということで、『ここは書斎で、あなたは作家ですよ!』と、必死に思い込もうとしましたが、「・・・」やっぱり上手く行きませんでした・・・ 
 少し迷いましたが、とりあえず目の前の現実と職場を放棄して、明日から本格的な執筆活動に入ることに決めて、原稿用紙と万年筆を机の引き出しに仕舞った時、いきなり書斎のドアが開き、
「あっ、おった!」と、ピンクの花柄の白いワンピース姿の瑞歩がとつぜん現れました。
「おはよう!」と、元気な挨拶と共に、瑞歩は書斎の中にズカズカと入ってきて、私のすぐそばで立ち止まり、
「挨拶は?」と言いましたので、私は慌てて、
「おはよう」と返すと、瑞歩は目を大きく見開いて驚いたといった表情を作り、
「びっくりした?」と訊ねてきましたので、私は素直に、
「びっくりした」と言いました。
 それにしても昨日といい、今日といい、なぜ瑞歩は勝手に上がりこんで来られるのでしょう?
「瑞歩ちゃん、この別荘の鍵を持ってるの?」と訊ねますと、瑞歩は不法侵入を悪びれた色もなく、
「持ってないけど、鍵掛かってなかったもん」と言いました。
 確かに引っ越してきたばかりなので、どのドアにも施錠することをうっかり忘れていたのですが、せめてインターフォンを鳴らすのが常識ではないかと思いました。しかし、元々ここは野間会長の別荘なので、彼女は自分の別荘だという感覚でいるのか、それとも瑞歩が社会通念上の一般常識から少しずれているということなのか、どちらにしても今現在は、私が正式な手続きを経て、この別荘の管理人となっておりますので、少し注意しようかと思ったとき、
「のどかわいた!」と瑞歩が言いましたので、私は注意する所か、
「そう、ほんだら冷蔵庫に色々あるから、キッチンに行こうか?」
 と、思わず傅かってしまいました。
「うん、行く!」と言って、瑞歩はリビングに向かって歩き出しましたので、私も続いて歩きながら、
「瑞歩ちゃん、夕方に来るって言ってなかった?」と訊ねると、
「ほんまは夕方に来るつもりやったけど、早く用事が終わったし、早くお話しがしたかったから、ダッシュで来てん!」と言いました。
 瑞歩はリビングに入ってすぐに、
「私が飲みもの持って来るから、椅子に座ってて」と言って、そのままキッチンに向かい、冷蔵庫の扉を開けて、しばらく中を見ていましたが、
「涼介叔父さん、ビール飲んでいい?」と訊ねてきました。
 私は冗談だと思い、テーブルの椅子に座りながら、
「うん、いいよ」と返事をしたのですが、瑞歩は両手に缶ビールを持って私の向かいの椅子に座り、一本を私の目の前に置いた後、
「いただきます!」と言って、本当に缶を開けて一口飲みました。
「!・・・・」
(朝からマ~ジっすか!)と少し驚きましたが、とりあえず年齢を確かめようと、
「瑞歩ちゃん、いま何歳?」と訊ねると、
「・・・」
 瑞歩は少し間を置いて、
「来年、二十歳」と言いました。
(ということは、19歳か)
 私は善良な市民として、未成年者の飲酒を警察に通報すべきかと少し迷いましたが、(まぁ、1歳足らずやからいいか)と思い、二日酔いでありましたので迎え酒ということで、目の前の缶ビールを朝っぱらから一緒に飲むことにして、缶のふたを開けました。
 すると瑞歩は、
「カンパ~イ!」と言って、私の缶ビールに自分の缶ビールを軽くぶつけたあと、私から視線を逸らさずに、まっすぐ見つめたまま、缶ビールを口に運んで二口目を飲み込んだあと、
「うまっ!」と、とても無邪気な笑顔で言いました。
「!」
 瑞歩の表情と所作があまりにも可愛らしかったので、年甲斐もなくドキッとしてしまい、思わず照れを隠すためにビールを飲みました。すると瑞歩は、しばらく無言で私の顔を見つめた後、まるで私の心の内を見透かしたかのように、
「涼介叔父さん、もう顔が赤いけど、もしかしてお酒弱いの?」と訊ねてきましたので、私は少しだけうろたえてしまいましたが、
「ううん、そんなに弱くないけど、昨日の晩、飲みすぎてちょっと二日酔いやねん・・・」と取り繕ったあと、話題を変えるために、「じゃあ、そろそろ話を始めようか」と言いました。
「うん、いいよ!」と笑顔で答えたあと、瑞歩は少し真顔になり、「じゃあ、私から先に質問してもいい?」と言いましたので、私は無言で頷きました。
「それで、先に言っておくけど、私はハッセから色々と聞き出してきたから、もしも今からする質問に、涼介叔父さんがハッセと違うことを話したら、二人のうちのどっちかが嘘をついてるってことになるから、正直に答えてな!」と、瑞歩は真剣な表情で言いましたので、(なかなか手強そうやな)と思った次の瞬間でした。
「!!!」
 もしかすると瑞歩は、私がスカトロやSMといった変態作家かもしれないという、本人さえも身に覚えの無い秘事を長谷川から聞いてしまったのではないかと、一気に血の気が引きました。もしも、そのようなことを尋問されたときは、知らぬ存ぜぬで、最後まで白を切り通そうと覚悟を決めて、
「うん、分かった。正直に答えるよ・・・」と、恐る恐る嘘の宣誓をしました。
 そんな不安で、今にも張り裂けそうな私の小さな胸の内を知ってか知らずか、瑞歩は軽く深呼吸をしたあと、
「じゃあ、まず初めに、私のパパは今どこにおるん?」と、質問を開始しました。
 どう答えようかと迷いましたが、他に言いようが無かったので、
「知らん」と簡潔に答えると、瑞歩は少し眉間にしわを寄せて、
「じゃあ、涼介叔父さんは、私がパパのことを最近まで知らんかったみたいに、パパも私の存在を知らんかったと思う?」と言いましたので、あくまで想像の域を脱しないと思いながら、
「たぶん、知らんかったと思う」と答えました。
「じゃあ、ハッセが私に言ったことやねんけど、パパは半年前に、バァバから呼び出されるまで、おそらくバァバのことも知らんかったと思うって言うてたけど、それについてはどう思う?」
 私は今までの流れを振り返り、
「多分、アキちゃんは野間会長のことも知らんかったと思う」と言いました。
「ということは、パパはママが私を産んだことも知らんかったし、ママの母親がバァバってことも知らんかったっていうことやんなぁ?・・・」
 私は少し考えたあと、
「そういうことになるなぁ」と言いました。
「じゃあ、パパがなんにも知らんかったということは、涼介叔父さんも当然、なんにも知らないっていうことやろう?」
「うん、そうやな・・・ 俺は昨日まで瑞歩ちゃんの存在も知らんかったし、野間会長が女性やってことも知らんかった」
「じゃあ涼介叔父さんは、なんで事情がなんにも分かれへんのに、ここの管理人を引き受けたん?」
「・・・・」
 口で説明するよりも、瑞歩にアキちゃんから送られてきた手紙を見せたほうが早いと思いましたので、
「俺はアキちゃんから手紙が届いて、その手紙にここの管理人になってくれって書いてたから引き受けてんけど、今その手紙を持ってくるからちょっと待ってて」と言ったあと、寝室に行ってサイドテーブルの引き出しの中に置いていた手紙を持って戻り、瑞歩に手紙を渡しました。
 瑞歩は無言で手紙を読みながら、たまに首を傾げたり、頷いたり、ビールを飲んだりして、手紙を最後まで読み終えたあと、
「この手紙の内容やったら、パパは涼介叔父さんを、只単にここの管理人にするっていうだけで、私と涼介叔父さんを会わせようという気が無かったっていうことやし、もしも私が探偵を雇ってなかったら、涼介叔父さんは私のことを知るはずが無いから、こうして私らが会うことがなかったってことやんなぁ?」と言いました。
 私は瑞歩が言った言葉を、頭の中でもう一度繰り返したあと、
「そうやなぁ・・・ もしも俺と瑞歩ちゃんを会わせるつもりやったら、アキちゃんは手紙にそう書くはずやし、探偵を雇ってなかったら、こうして会うこともなかったと思う」と言いました。
 瑞歩はビールを一口飲んだあと、何かを迷っているといった不安げな表情で、
「じゃあ、話は変わるけど、パパから私のママに関する話を、どんな些細なことでも聞いたことがない?」と言いました。
 私はアキちゃんとの長い付き合いを振り返り、
「一回も聞いたことがないなぁ・・・」と言いました。
「パパとママがどこで知り合ったとか、どういう経緯で別れたのかって、まったく聞いたことがないの?」
「?・・・・」
 なぜ瑞歩は、そんな質問をするのか意味が分からなかったので、「そんなことは俺に訊ねんでも、自分で直接、お母さんに訊ねたらいいんとちゃうん?」と言いました。
 すると瑞歩は、しばらく間を置いたあと、
「私もママに訊くことができたら、自分で訊いてるけど・・・」と言って言葉を濁しました。
 ということは、もしかすると瑞歩は、母親と親子喧嘩でもしているのでしょうか?
「瑞歩ちゃんは今、お母さんと話ができひんような状況なん?」
「ううん、違う・・・ 話ができひん状況じゃなくて・・・ 私はいままで、ママと1回も会ったことがないねん・・・」
「!・・・」
 私は非常に驚きながら、
「えっ!・・・ それって、どういうこと?」と訊ねると、瑞歩は一瞬だけ私と目を合わせたあと、とても言い辛そうな困った表情で、ゆっくりと話し始めました。
「私がバァバから聞いてるのは、私のママはバァバが猛反対した男性と結婚して、私が生まれてからすぐに離婚したらしいねんけど、それが原因でママとバァバが大喧嘩して、結果的にバァバとママは親子の縁を切って、ママは私をバァバに預けて、どこに行ったのか分かれへんようになってん・・・ だから私は、ママの顔も見たことがないし、名前も知らんねん・・・」
「えっ!・・・ お母さんの顔と名前も知らんの?」
「うん・・・ 今まで何回もバァバに訊いてきたけど、けっきょく教えてくれんかった・・・」
 ということは、生前の野間会長と瑞歩の母親の間には、よほどの確執があったのだろうと思いました。
 それにしても今の話で気になるのは、アキちゃんが結婚していたということです。私は過去に何度か、アキちゃんに結婚しないのか?と訊ねたことがあるのですが、彼はその度に、
「死ぬまでに1回くらいはしようと思うけど、俺が結婚に向いてると思うか?」といった感じで、結婚に対してとても否定的な考えを示しておりましたし、何よりもアキちゃんは私と違って、どのような状況下であっても、決して嘘をつきませんので、野間会長は瑞歩に、嘘をついていたのではないでしょうか・・・
「あのなぁ、バァバは今まで一回も結婚したことが無いし、探偵がバァバと私の戸籍を調べても、ママの存在がどこにも載ってなくて・・・・ 探偵曰くは、いくらバァバとママが親子の縁を切ったとしても、戸籍上にママのことが何にも載ってないっていうことはおかしいって言われたし、私とバァバは特別養子縁組っていうことになってて、私は戸籍の上では、バァバの長女っていうことになってんねんけど、それってどう思う?」
「?・・・・」
 私は頭が混乱して、瑞歩が何を言っているのか上手く理解することができなかったので、とりあえず今の話で一番印象に残っている、
「その、特別養子縁組ってなに?」と訊ねました。
 すると瑞歩は、特別養子縁組とは、家庭裁判所の審判を経て、特別な事情が認められれば、戸籍上に養子ではなく、長男や長女と表記することができる、比較的に新しい制度であると説明したあと、
「私は自分がバァバの長女になってることは知ってたし、バァバの遺産相続のことで、ほかの身内と色々と揉め事があって、その身内たちが私とバァバのDNA鑑定を求めてきたから検査してもらって、その時に間違いなく私とバァバは血が繋がってるっていうことが証明されてんねんけど・・・ それにしても、なんでバァバは私を長女にしたんか分からんし、なによりも私のママっていったい誰なんやろうって疑問が残るし・・・」
「・・・・」
 なんと言えばいいのか分からなかったので、黙っていると、
「ハッセは、パパがバァバの病院に何回も来てたのは、おそらくママの居場所をバァバから聞き出そうとしてたからやって言うねんけど、それについてはどう思う?」と訊ねてきました。
 私はしばらく考えたあと、(多分・・・そうかもしれんなぁ)と思いましたが、迂闊に返事をしないほうがいいだろうと思い、
「そうやなぁ・・・」と言ったあと、肯定も否定もしませんでした。
 すると瑞歩は、私から何の答えも得ることができないと思ったのか、少し残念そうな表情を浮かべ、
「バァバが亡くなる3日前やねんけど・・・ パパは会いたくなかった私と病院で会ってしまったから、それっきり行方を晦ましてしまってん・・・・」と言いました。
 瑞歩が言った、(会いたくなかった私って、どういうこと?)と思いながら、
「ということは、アキちゃんは瑞歩ちゃんと病院で会って、そのあとで行方不明になったってことなん?」と訊ねました。
「うん、多分そうやと思う」
「でも、なんで瑞歩ちゃんは、アキちゃんが自分と会いたくなかったって、そう思うの?」
「だって、パパは半年前からバァバと会ってたのに、私のことを無視し続けてたから、私と会いたくないんやと思って・・・」
(言われてみたら、確かにその通りかも?)と思いましたが・・・
 やはりアキちゃんの性格から考えると、瑞歩と会いたくなかったのではなく、裏に余程の事情があったのだろうと思い、
「アキちゃんと会った時のことを、詳しく話してくれる?」と言いました。
 瑞歩はしばらく間を置いた後、
「うん、じゃあ初めから話すけど」と言って、ことの経緯を話し始めました。
「私がパパと初めて会ったのは、今からちょうど3ヶ月くらい前に、バァバの入院先の病院に行った時やってん。でも、その時は会ったというよりも、たまたま見かけたと言ったほうが適切なんやけど・・・ その日はもともと学校やったから、お見舞いに行く予定は無かってんけど、私が車の免許を取ったから、学校をサボって彼氏とドライブに行こうってなって、一緒にバァバの病院までドライブに行ってん。今までは、私が見舞いに行く時は、いっつもハッセに連れて行ってもらってたから、初めて何の連絡も入れんと、抜き打ちみたいな形で病院に行ってんけど・・・
 それで、車を駐車場に停めようとしたときに、彼氏が『あの人、瑞歩のお兄さん?』って言うたから、彼氏が指差した方を見たら、背の高い男の人がハッセとお話してて、それからその男の人が車に乗り込んでんけど、私は一目で、その男の人がパパって分かってん・・・そしたら、パパが車を走らせたから、私は慌てて後を追っかけてんけど、結局見失ってしまって・・・  
 それで彼氏が、急に追いかけたりして、どうしたん?って訊ねてきたから、もしかしたら私のパパかもしれないって、事情を説明してんな。それで、その時の私は、バァバの方がパパを呼び出したことを知らんかったから、パパとママが何らかの事情でバァバがもう長くないことを知って、それでパパが見舞いに来たんやと思うって彼氏に言ったあとに、いままでバァバから聞いてきたことを彼氏に全部お話ししてん・・・ 
 そしたら彼氏がすごく興味持っちゃって、そういう事情やったら、こっちが下手に動いたら、パパとママに会えなくなる可能性が高いから、俺に全部任せとけって言うて、二人で色んなことを想定して、打ち合わせをしてから病室に向かってん・・・
 それで、病院の中に入った時に、たまたま私が知ってる看護士さんがおって、その時に私がパッとひらめいて、私のパパがお見舞いに来ましたか?って、かまをかけて訊ねてんな。そしたらその看護士さんは、いっつもお見舞いに来てるのは、私のパパじゃなくて、お兄さんやと思ってたって言ったあとに、さきほど帰られましたよって言うたから、これは間違いなくパパやって核心を持ってん。
 それで、二人で病室に行って、バァバもハッセもすごく驚いてたけど、私はハッセに、誰かお見舞いに来た?って訊ねてんな。そんだらハッセは、誰もお見舞いに来ていませんよって言うたから、私はハッセが嘘をついてることが分かって、その場で二人を問い詰めようとしたけど、彼氏に無理やり病室から連れ出されて・・・
 私は彼氏にどうしたらいい?って訊いたら、俺が真相を全部暴いてやるって言い出して、契約してる探偵がいて、何でも調査できるからって、その探偵を紹介してくれてん」と言ったところで、私は瑞歩の彼氏が何者なのかが気になり、
「ちょっと待って」と言って、話を中断させて、「あのさぁ、さっきから話聞いてたら、瑞歩ちゃんの彼氏って、真相を暴くとか、探偵と契約してるとか言うてるけど、いったい何者なん?」と訊ねると、
「ただの金持ちのアホボンやから、気にせんとって!」と言って、瑞歩は続きを話し始めました。
「それで次の日から、探偵が調査を開始してんけど、パパはバァバが入院した直後から、2日に一回のペースでお見舞いに来てることが分かって、私は学校をサボって朝から病院に行って、何回も陰からパパを見てたんやけど、どうしても声を掛けることができんくて・・・・ それから1ヶ月が経って、バァバの容態が急変して、もう2、3日って先生に言われて・・・
 私はバァバが亡くなったら、パパにもママにも会えなくなると思ったから、彼氏に連絡してん。そしたら彼氏が、パパに話しかけるのを手伝ってあげるっていうことになって、一緒に病院でパパを待ち伏せして、それでその時にパパと初めてお話ししてんけど・・・ 
 私は彼氏と一緒に、パパは何で私のことを無視するの?とか、何でママはバァバに会いに来ないの?とか、色々話しかけてんけど、パパは私が何を言っても、ずっと黙ったまんまで・・・」と言った後、瑞歩は急に黙り込んでしまいましたので、私はどうしたのだろうと思っていると、彼女はビールの酔いなのか、少し頬を赤くして、「そしたらパパは、いきなり私のことを抱きしめて、今は何も話すことができんから、もう少し時間が欲しいって言って、私がびっくりしてる間に、どっかに行ってしまって、それっきり行方不明になってしまってん・・・」と言いました。
 私は少し驚きながら、
「アキちゃんに、いきなり抱きしめられたん?」と訊ねると、瑞歩は小さく頷きました。
 おそらく瑞歩は、ビールの酔いではなく、抱きしめられたときのことを思い出しての照れで、顔を赤らめたのかもしれません。
(アキちゃんらしいなぁ)と思いましたが、話の腰を折ってはいけないので、何も言わずに話しの続きを聞くことにしました。 
「それから私は、ハッセを問い詰めたけど、ハッセは私のパパって知らなかったって、嘘ばっかりつくし・・・ バァバにも訊ねたけど、その時はほとんど意識がなくて、何も聞けずにバァバは亡くなってしまってん」と言ったあと、瑞歩は残りのビールを全て一気に飲み干し、椅子から立ち上がって冷蔵庫に行き、自ら新しいビールを持って再び椅子に座るなり、またもビールを一口飲みました。
(飲むペースが速いな)と思いましたが、注意をせずに、
「それからどうしたん?」と訊ねました。
「それで、探偵が愛子叔母さんと涼介叔父さんの存在を知って、所在が分かってる涼介叔父さんの尾行が始まってんけど、それから探偵がいろんなことを調べだして、私のママが誰で、どこにいるのかとか、涼介叔父さんは真面目に仕事もせんと、朝から晩までパチンコばっかりしてるパチプロやとか・・・」
 ということは、つまり瑞歩は、長谷川から私が変態作家の可能性が高い、ということは聞いていないのだろうと思い、ほっと胸を撫で下ろしたあと、(それが打ち子というお仕事の、本来あるべき正しい姿なのですよ!)と、説明しようかと思いましたが、話がややこしくなりますし、変態作家とパチプロを比べるまでもなく、定職に就かないろくでなしのままでいいや!と、開き直ろうと決めたとき、瑞歩は少しだけ表情を曇らせて、
「それと、こんなこと訊いていいのか分かれへんねんけど・・・・ 涼介叔父さんと愛子叔母さんって、今はどういう関係なん?」と訊ねてきました。
「えっ!・・・ どういう関係って、どういうこと?」
「今回のことで、連絡の取り合いとかしてないの?」
「いや・・・ 連絡は取ってないというか、俺は愛子と離婚してから一回も会ってないし、連絡先も知らんねん・・・」
「じゃあやっぱり、愛子叔母さんは行方不明になってんの?・・・」
「・・・・」 
 どう答えていいのか分からなかったので黙っていると、
「探偵の調査で分かったことやねんけど、愛子叔母さんは離婚した5年前から、涼介叔父さんと一緒に住んでた場所に住民票を残したまんまで、今も移してないらしいねんけど」と瑞歩が言いました。
「!・・・」
 ということは、愛子はこの5年間、いったいどこでどういう生活をしていたのだろうと思いながら、
「じゃあ、愛子のことも探偵に捜さしてんの?」と訊ねました。
「うん・・・ 愛子叔母さんも探偵に捜してもらってるけど、今のところは何の手掛かりも無しって感じ・・・」
 やはり、愛子はプロが調べても手掛かりひとつ残さず、完璧に姿を消したということなので、私は愛子の失踪は、決して自分に非があったわけでは無いと思いながらも、なぜか自責の念に駆られるという、とても複雑な思いがしました。しかし、それにしても愛子はいったい、今どこで何をしているのでしょう?・・・
「それで、これも探偵の調査で分かったことやねんけど、パパと愛子叔母さんの両親って、行方不明というか・・・探偵がいくら調べても、両親のことが全く分かれへんっていうことなんやけど、涼介叔父さんは何か知ってる?」
「それは行方不明じゃなくて、アキちゃんと愛子の両親は、二人が小さいときに亡くなってるから、探偵がなんぼ調べても、死んだ人間がどこにおるかは分かれへんはずやわ」
 瑞歩は非常に驚いたといった表情で、
「えっ!・・・パパと愛子叔母さんの両親って、二人とも亡くなってるの?」と言いました。
「うん、そうやで。俺がアキちゃんと愛子から聞いた話は、二人が1歳と2歳のときに、両親が交通事故で亡くなって、母方の身内で福山っていう伯母さんが結婚してなくて、子供もおれへんかったから二人を引き取ってんけどな、でもその伯母さんは、もともと病弱やったらしくて、アキちゃんと愛子が高校生のときに病気で亡くなって、それからは二人で暮らしてきたって聞いてん」
 瑞歩は私の話を聞いたあと、
「パパと愛子叔母さん、かわいそう」と言って、悲しみの表情を浮かべました。
 その後、瑞歩は無言のまま何かを考えている、といった様子でしたので、おそらく私に対する質問が終わったのだろうと思い、私は瑞歩が雇った探偵が、どこまで調べているのかが気になりましたので、調査の進捗状況を訊ねてみました。
「その、調査報告のことなんやけど・・・」と瑞歩は言ったあと、少し小難しそうな顔で、「現時点で分かってることは、いま涼介叔父さんに全部お話ししたと思うけど・・・ でも、報告書に書いてたことで、ひとつだけ気になることがあって、それを今から涼介叔父さんに訊きたいねん・・・」と言いました。
「いいよ。その報告書で何が気になったん?」と私が言うと、瑞歩は大真面目な顔で、
「私のパパって・・・ 変態なん?」と、いきなり妙な質問をしてきました。
「!・・・」
 私は自分が一番気にしていた、『変態』というキーワードを耳にして非常に驚きましたが、瑞歩は間違いなく私ではなくアキちゃんのことを変態呼ばわりしましたので、いったいどういうことだろうと思い、なんと答えようかと迷いました。
 おそらく瑞歩は、自分がいきなり抱きしめられたので変態だと思ったのかもしれません。
「それって、調査報告書に、アキちゃんが変態やって書いてたん?」
「ううん、違う。書いてたというか・・・ パパは失踪する前に、最近テレビによく出てくる、ミツコっていうおねぇキャラのおっさんの家に、3日連続で泊まってた可能性があるって、調査報告書に書いてたから・・・」と言いましたので、私は少し大きな声で、
「ミツコって、あのデブのオカマのこと?」と、訊ね返しました。
「そう・・・ 確認は取れてないけど、おそらくミツコの家に泊まってたと思うって書いてた」 
 ミツコといえば、強面で歯に衣着せぬ辛口のコメントが人気となり、今やテレビで見かけない日が無いほどの、超人気なオカマタレントです。
 確かに私が知る限りのアキちゃんは、基本的に動物愛護精神に富んだ立派な御仁なので、おそらく来る者を拒まず、というストライクゾーンも、常人には理解できないほど広いと思われます。
 しかし、いくら好事家なアキちゃんといえども、ニューハーフならともかく、オカマの超~デブにまで手を伸ばさないだろうと思い、「それは、たぶん調査が間違ってんのと違う?」と言うと、瑞歩は肯定も否定もせず、何も言葉を発しませんでした。
 その後、2本目のビールを飲み干した瑞歩は、またも自ら3本目を取りに行き、戻ってきていきなり私に訊ねたことが、
「愛子叔母さんって、きれいやった?」という質問でした。
「!・・・・」
(嫌な展開やなぁ)と思いましたが、不必要な嘘をつく訳にはいきませんので、
「愛子はすごくきれいやったし、瑞歩ちゃんと良く似てるよ」と言いました。
「じゃあ、なんで離婚したん?」と、瑞歩は予想通りの質問をしてきましたので、私はどう答えようかと迷いましたが、正直に話したら質問攻めに遭いそうな気がしましたので、無視しようかと思ったとき、瑞歩は少し声色を変えて、
「私と、ろっちがきれい?」と、まるで舌がもつれたような艶かしい声を出しました。
 私は瑞歩と話をしながら、なるべく彼女の顔を見ずに話していたのですが、(酔うとんか?)と思いながら瑞歩の顔を確認すると、「!・・・」思わずドキッとするほど、とても19歳とは思えない、とても色っぽい表情をしており、明らかに酔っていることが分かりました。
「なぁ、なんで離婚したん?」と、瑞歩がまた同じ質問をしてきましたので、私はその質問には答えず、
「瑞歩ちゃん、もしかしたら酔ってるやろう?」と訊ねると、
「もしかせんでも・・・ ちょっと酔ってる・・・」と、瑞歩は素直に答えました。
 これ以上、瑞歩にビールを与えまいと決めて、酔っている相手と建設的な話はできないので、
「じゃあ、もしかせんでも酔ってるんやったら、話はここで終わりにしよか」と言ったあと、これ以上瑞歩が酔っ払って、管を巻きだしても困りますので、とりあえず家に帰すことにしました。
 瑞歩はここまで、何で来たのかと訊ねてみると、
「タクシーで来た」と言いましたので、(やっぱり金持ちは違うなぁ)と思いました。
 幸い私は、ビールを半分も飲んでいなかったので、場合によっては時間を空けて、車で送っていこうと思い、
「瑞歩ちゃん、もうそろそろ家に帰ったほうがいいで」と言いましたが、瑞歩は不機嫌丸出しの顔で、
「なんで、もう帰すんよ!」と言いました。
 私は瑞歩の問いを無視して、
「長谷川さんに聞いたけど、野間会長の家って、確か芦屋やろう? タクシーで来たんやったら、俺が車で送ってやろうか?」と言うと、瑞歩はリビングに掛けられた時計を見たあと、
「もうすぐ彼氏が迎えに来るから、送ってくれんでもいい!」と言ったあと、「それより、お話しは終わりって・・・ 私はまだ大事なことをお話ししてないのに!」と言いました。
(良かった、彼氏が迎えに来るんやったら飲もう!)と思い、ビールを一口飲んで、「大事な話って、どんな話?」と訊ねました。 
「あのなぁ、考えたらパパって、私が生まれたときは知らんかったかもしれんけど、この前は確実に私から逃げて、結果的に私を捨てたから、私はパパに捨てられた捨て子やんかぁ・・・ 
 それに、私のママって、バァバに親子の縁を切られて、見捨てられた捨て子やんかぁ?・・・ それで、ママは私を産んですぐに私を捨てたから、結果的に私はパパと、捨て子のママに捨てられた子供ってことで、それって私は、捨て子の捨て子ってことになるの?」
 確かに瑞歩の言う通り、どのような理由があるにせよ、先日はアキちゃんが自らの意思で瑞歩の前から姿を消し、母親は瑞歩を産んだ後に野間会長から見捨てられ、結果的に彼女を預けて行方不明となりましたので、
「そうやなぁ・・・・ 捨て子の捨て子ってことになるかもしれんなぁ・・・」と言いました。
 すると瑞歩は、
「私って、かわいそうやなぁ・・・」と小声でぽつりと言ったあと、またも缶ビールをグビグビとのどに流し込みました。
 瑞歩の複雑にならざるをえない心境を考えて、なにか慰めの言葉をかけようと思い、
「あのな、なんて言うたらええんか分からんけど、とりあえずアキちゃんは瑞歩ちゃんに、時間が欲しいって言うたんやから、アキちゃんは絶対に嘘はつけへんし、約束は必ず守る人やから、今はアキちゃんの言葉を信じて、とにかく待ってみようや」と言いました。
 瑞歩は素直に、
「うん」と言って、小さく頷きました。
 私は瑞歩の不安や疑問を、少しでも解消できたと思いましたので、話しができて良かったと思う反面、アキちゃんはいったい、このような可愛い娘を置いて、どこで何をしているのだろうと思ったとき、瑞歩は急に酔いが回りはじめたのか、明らかに呂律の回らないといった感じで、
「あのさぁ、 最後に大事なお話しがあるねんけど」と言いました。
 何の話だろうと思って待っていると、
「私なぁ、涼介叔父さんって呼ぶのん、すんごく言いにくいし抵抗があるから、今から涼のおっちゃんって呼んでいい?」と言いましたので、(それが、最後の大事な話かい!)と、強烈に思ったあと、
「涼のおっちゃんって、嫌や!」と、拒否権を行使しました。
「じゃあ、涼介って呼ぶ!」
「なんで、いきなり呼び捨てやねん!」
「じゃあ、涼介も瑞歩って、呼び捨てにしいよ!」
 瑞歩から涼介と呼び捨てにされると、どうも愛子から呼びかけられているような気がして、不思議な思いがしました。そして、どういう訳か、こうして年齢の離れた瑞歩から呼び捨てにされても、不快な思いや腹を立てることもありませんし、自分でも不思議と違和感や抵抗を覚えませんでした。やはり、二人が似ているからそう感じるのかと思ったとき、瑞歩の携帯電話が鳴りました。
 瑞歩は電話に出ると、
「もう着いた? じゃあ、今から行くから待っといて!」と言って電話を切ったあと、椅子から立ち上がったときに、少しふらつきましたので、
「大丈夫か?」と声をかけると、瑞歩は大丈夫と言って歩き出し、リビングの入り口に差し掛かったときに振り向いて、私の目をまっすぐ見つめながら、
「涼介、バイバ~イ!」と言って、リビングから出て行きました。


14 書斎の謎

 翌々日のお昼、得意のパスタ料理を作って食べ終わった時にインターフォンが鳴りました。誰が訪ねてきたのだろうと思いながらモニターを覗くと、宅配業者のような格好をした中年の男が見えましたので、応答用の受話器を取り上げて、
「はい」と言いました。 するとその男は、
「こんにちは! ○○引越しセンターですけど、引越しのお荷物をお届けに上がりました!」と、元気良く挨拶しましたので、私は何かの間違いだと思い、
「引越しの荷物って、何のことですか?」と訊ねると、
「野間瑞歩様からのご依頼で、単身パックのお荷物をお持ちしたのですが」と言いました。
「!?・・・・」
(なんのこっちゃ?)と思いながら、非常に驚いていると、
「今日からこちらで生活を始めるので、夕方までにこちらのゲストルームにお荷物を運び込むように、とのご指示なのですが・・・」と、男がすこし不安げに言いましたので、まったく訳が分かりませんでしたが、引越し業者を追い返すわけにもいきませんので、
「分かりました。今からその扉の鍵を開けますから、運び込んでください」と言って、正門の扉の開錠ボタンを押しました。
 私は玄関のドアを開けて、しばらく待っていると、二人の引越し作業員がまずは挨拶に訪れて、運び込む先のゲストルームを下見したあと、荷物は少ないので20分ほどで作業が終わりますと言って、次々とダンボールや姿見の大きな鏡などを運び込んでゆき、本当に20分足らずで作業を終えて帰って行きました。
「・・・・」
 瑞歩に連絡を取ろうと思いましたが、連絡先を知らないのでどうすることもできず、彼女から連絡を待つしかありませんでした。
 そしてその日の夕方、瑞歩がいつ現れるのか分かりませんが、どうせ断りもなしに勝手に入ってくるのだろうと思いましたので、少し懲らしめてやろうと思い、この別荘のすべてのドアに鍵を掛けたあと、もしもインターフォンが鳴っても5分は無視して、そのあとで『これからは勝手に引越しませんし、世間の一般常識を守ります!』と、瑞歩に更正を宣言させてやろうと思いました。
 この別荘は、ゲストルームを除いた各部屋にインターフォンがありますので、瑞歩がいつ訪れて、私がどこにいても問題無しということで、そろそろ作家として、本腰を入れて執筆を開始しようと、書斎のオークの机に向かい、モダンな椅子にどっかりと腰を据えた後、引き出しから原稿用紙と万年筆を取り出し、構想を練り始めて5分後、なぜかまたしてもいきなり書斎のドアが開いたと同時に、
「おった!」という大声と共に、瑞歩が現れました。
「!!!」
 私は非常に驚きながら、
「鍵、掛かってたやろう?」と訊ねました。
「掛かってたけど、ハッセからこの別荘の鍵を取り上げてきた!」と、瑞歩は私のすぐ側まで来て言ったあと、
「あのな、涼介! 今日から私がいっしょに住んであげるから、うれしい?」と声を弾ませて、とても素敵な眩い笑顔で訊ねてきましたので、私は思わず、(うれしい!)と叫んでしまいそうになりましたが、
「なんで、そ~なるの?」と訊ね返しました。
「なんでって、私は芦屋の家に帰っても、お手伝いさんが夕方の6時に帰るから、それからは一人になるし、涼介もここで一人やねんから、丁度いいやん!」
(なんでさっきから呼び捨てやねん!)と思ったあと、
「あのなぁ、瑞歩ちゃん、俺ら他人同士やねんで」と言いますと、瑞歩は急に不機嫌な顔になり、
「瑞歩ちゃんじゃなくて瑞歩でいいし、私らは他人じゃなくて親戚やし!」と、力強く言いきりました。
「親戚っていうても、愛子と離婚したから、もう他人やんか」と言ったのですが、瑞歩は不機嫌な顔から、少し寂しそうな顔になり、
「だって、昨日、彼氏と別れたから、一人でおったら寂しいもん!」と、コロッと話題を変えました。
「えっ? 別れたって、なんで?」
「なんでって・・・ 一昨日、ここに迎えに来てもらったときに、私が酔っ払ってたやんか。それで彼氏が怒り出して、一丁前に私に向かって説教はじめたから、腹立ってほかしたった!」
「ほかしたったって・・・」と言ったあと、貧乏人の悲しい性と言いましょうか、「彼氏は金持ちやってんやろう?」と言ったあとに、瑞歩も金持ちだったことを思い出しました。
「金持ちっていうても、○○電鉄のアホボン息子やん!」と、瑞歩はさりげなくさらっと言いましたが、
「!・・・」
 私は非常に驚いて、「○○電鉄の息子って・・・ もしかしてナカバヤシ一族のことか?」と訊ねました。
「たぶん、苗字が仲林やから、そうやと思う」
「仲林の御曹司って、ただの金持ちとケタがちゃうやんけ! 瑞歩は電車を走らせるってことが、どういうことか分かるか?」と、勢い込んで言いましたが、本当は自分でもどういうことなのか、仲林家のスケールがあまりにも大きすぎて、まったく想像できません。「電車を走らせるっていうことは、国家の一翼を担ってるのと同じことやねんぞ! 今からすぐに電話して、彼氏とヨリを戻せ!」
「アホちゃう?国家の一翼か、国家の陰謀か知らんけど、あのボケが自分で電車を運転してるんやったら、ちょっとは偉いと思うけど、車の運転もまともにできひんのに、あんなん、もういらんねん!」
 電鉄会社の御曹司が、楽しそうに電車を運転している姿を想像しようとしましたが、「・・・・・」上手く思い浮かべる事ができませんでした。やはり、私は根っからの庶民なので、金持が何を考えているのか理解できませんし、まして金持ち同士のケンカの仲裁などできるはずがないと思ったとき、瑞歩は腰を屈めながら、椅子に座ったままの私の顔を覗き込むようにして、
「とにかく、私は今からここで住むの! 分かった?!」と、強い口調で言い切りました。
「・・・・」
 何と言えばいいのか分からなかったので、黙っていると、
「返事は?!」と、今度は怒気を含んだ言いかたをしましたので、これ以上、瑞歩を刺激しないほうがいいだろうと思い、
「うん、分かった」と返事をしました。
 すると瑞歩は、えもいわれぬ美しい笑顔で、
「分かればよろしい!」と言いました。
 私は瑞歩の顔が真横にありましたので、恥ずかしさから目を逸らしてしまい、少し俯いて目の前のまっさらな原稿用紙を見ていると、瑞歩は上体を起こしたあと、なぜか右手を伸ばしてきて、私が見ている原稿用紙を触りながら、
「なぁ、この原稿用紙って、どこにあったん?」と言いました。
「どこにあったんって、どういうこと?」
「私はこの別荘の中の、バァバの原稿用紙とか、その他諸々の細かい遺品は、書棚の本と一緒にすべて処分したつもりやったのに・・・」
「遺品と本を処分って・・・ これは、俺が持ってきたやつやけど」と私が言うと、瑞歩はすごく驚いたといった表情で、
「え?・・・なんで?・・・ これバァバの原稿用紙じゃないの?」と、訊ねてきました。
 私は訳のわからないまま、
「違うよ。これは、俺が自分で買って、ここに持ってきたやつやけど、バァバのって、どういうこと?」と訊ね返すと、瑞歩は次のように答えてくれました。
「だって、バァバはこの書斎に引きこもって、ずっと小説を書いてたんやもん」
「しょうせつ?!・・・」
「そう。バァバはずっと、ここで小説を書いててん」

 ということで、ひとつの謎が解けました。

第3章 作家生活

15 テーマ

 ということで、野間会長がこの別荘に引きこもっていた理由が判明したのですが・・・
 その理由が小説の執筆という、私がこれから始めようとしている事と同じなので、偶然の一致にしては話があまりにも出来すぎているという感を否めず、やはり初めから誰かに仕組まれていたのではないかと思いました。
 しかし、よく考えてみると、私が長谷川につまらない嘘をつかなければ、私自身は小説を書くことにはならなかったので、やはり思い過ごしの勘違いということになるのでしょう・・・
 そして、この別荘の特別な場所といえば、書斎以外に思い当たりませんし、書斎の代表的な使用目的を考えますと、本を読むか文章を書くということなので、野間会長が別荘に引きこもって、小説を書いていたとしても、特に驚くほどのことではありませんし、別に不思議な話ではないように思えます・・・
 むしろ、私を知る人は勿論のこと、私を全く知らない他人から見れば、何の肩書きも実績も無い私が小説を書こうとしている方が、よほど滑稽に映ることでしょう。
 野間会長は大企業のトップであっただけに、機械工学や経営能力以外にも、文才を筆頭に多才な方であったのだろうと思ったとき、
「さっきからずっと黙って、どうかしたん?」と、瑞歩が声を掛けてきました。
「あ、ごめん」と言ったあと、「野間会長って、作家活動もしてたん?」と訊ねました。
「うぅん、違う。たぶん、個人的に趣味で書いてただけやと思う」
「個人的に趣味で書くって・・・ どんな小説を書いてたん?」
 瑞歩は私の質問には答えず、
「話が長くなるから、ソファーに座ってお話ししよう」と言って、体を反転させてゆっくりとした足取りで書斎のソファーに向かいましたので、私も椅子から立ち上がってソファーに向かいました。
 瑞歩はソファーに座るなり、少し気難しそうな表情で、
「先に結論から言うけど、私はバァバがどんなことを書いてたのか知らんねん。それで、この書斎で書いてたのが、小説かどうかも、本人に確認したわけじゃないから、はっきり分かれへんねん」と言いました。
「えっ? それって、どういうこと?」
「それは、今から2年位前に、バァバがこの別荘に引きこもりだしてすぐの時やねんけど、私はバァバがなんで引きこもったのか理由が分かれへんかったから、すごく心配になって、学校が休みのときに様子を見に来てんな。それで、私がここに着いたとき、ちょうどバァバはお風呂に入ってて、それで私はここに来るのが久しぶりやったから、バァバがお風呂から上がるまで、各部屋を見て回って、この書斎に来たとき、ちょうど今みたいに机の上に原稿用紙があったから、私は何やろうと思って見たら、いっぱい文字が書かれてたから読み始めてんけど・・・ 
 その時は原稿用紙2枚分しか読んでないから、はっきりしたことは言われへんけど、何かの物語の途中からって感じの文章やったから、たぶん小説やろうと思って、3枚目を読もうと思ったときに、お風呂から上がってきたバァバがいきなり書斎に入ってきて、
『瑞歩! 出て行き!』って、大声で怒鳴られて・・・
 私はバァバから生まれて初めて怒られたから、すんごいショックでトラウマになって、1週間学校休んだし、それ以来、私はバァバがこの書斎で何を書いてたのかは、本人とも一回もお話ししてないから分かれへんねん」
 瑞歩が読んだ原稿用紙に、どんなことが書かれていたのかを具体的に訊ねてみましたが、
「もう忘れた」と言ったあと、「私が憶えてるのは、野間製作所って、バァバの会社の名前が出てきてたことと、四国の香川県って地名が出てきたことだけ」と言いました。
「四国の香川県?」
「そう、野間製作所は、今の関東に移る前は、四国の香川県に本社があってん」
 ということは、おそらく野間会長は会社に関連した物語を書いていたのではないでしょうか・・・
「だから私は、バァバが何を書いてたのかが凄く気になってたから、バァバが亡くなってから、ありとあらゆる所を探し回ったけど、何も見つけることができんくて、結局なにをそんなに一生懸命に書いてたのか、分からずじまいやねん・・・
 それでな、とにかくバァバは引きこもり始めた頃から、何かに取り憑かれたみたいに、急に人格が変わってしまってん」と言いましたので、野間会長の人格がどういう風に変わったのかと説明を求めました。
「それは、小説を書き始めてから、バァバの表情が硬くなったというか、感情の起伏が小さくなったというか・・・ とにかく喜怒哀楽の感情表現が乏しくなったって感じ・・・」 
 私はまだ、本格的に小説を書き始めたというわけではありませんので、執筆というのがどれほど苦しい作業なのかは分かりませんが、個人差はあるとして、人によっては顔の表情や人格まで変化するほどの、苦痛を伴う作業なのかもしれません。
「それまでのバァバは、確かに厳しい部分はあったけど、私に対してはめちゃくちゃ甘かったし、どんな我が儘もすべて叶えてくれたけど、私がこの書斎で怒られてからは、私に対する態度も、なんか急によそよそしくなったって感じた・・・」
 野間会長がどんな小説を書いていたのかは分かりませんが、ひとつだけ分かったことは、瑞歩が我が儘になってしまったのは、間違いなく野間会長に責任があったということです。
 それにしても、野間会長はいったい、どんな物語を書いていたのか気になりますが、溺愛していた瑞歩を初めて叱りつけたほどなので、よほど他人に読まれては困るようなことが書かれていたのかもしれません。
 もしかしたら、野間製作所の隠された闇の部分などが書かれていたのではないでしょうか・・・
「それで、涼介は原稿用紙なんか持ってきて、この書斎で何をするつもりなん?」と、いきなり訊ねられましたので、どう答えようかと迷いましたが、(俺も今から、ここに引きこもって小説を書くねん)とは言わないほうがいいだろうと思い、何か適当な言い訳はないかと考えました。
 しかし、ものが原稿用紙なだけに、思いつくのが小説や作文や記事といった、物書きに関連するイメージしか浮かんでこなかったので、どちらにしても苦しい言い訳にしかならないと諦めて、
「実は俺もな、せっかくこんなに立派な書斎があるし、素敵な机まであるねんから、何を書くってわけじゃないねんけど、とりあえず原稿用紙と万年筆を買ってみてん」と言いました。
 すると瑞歩は、とつぜん目を輝かせて、
「じゃあ、せっかくやねんから、涼介も小説を書きいよ!」と言いました。
「書きいよって簡単に言うけど、俺は小説なんか書いたことがないし、どんなことを書くん?」と訊ねると、
「そんなん、もちろん私が主人公の物語に決まってるやん!」と、瑞歩は自分の物語を私に書かせることが、まるで勤労、教育、納税といった国民の義務であるかのような言いかたをしたあと、
「私が全面的に協力してあげるから、涼介は作家を目指しいや!」と、力強く無責任な発言をしました。
(作家を目指すんじゃなくて、長谷川にとっては、もう既に俺は、変態作家やねんけどなぁ・・・)と思ったとき、
「!!!」
 またしても私は、重大なミスを犯そうとしている事に気付きました。
 その重大なミスとは、私の当初の予定では、嘘をついてしまった長谷川だけを相手にしておけばよかったのですが、想定外でいきなり瑞歩が現れましたので、もしもこの先、いつ長谷川が瑞歩に、スカトロやSMとは言わないまでも、私が作家だと言ってしまった場合、この時点で既に私は、瑞歩に嘘をついていることになってしまいます・・・ ということは、私は長谷川という名の、いつ爆発するのか分からない時限爆弾を抱えてしまったようなもので、今の時点で何らかの手を打たなければ、私はこれから先、長谷川と瑞歩の二人を向こうに回して、嘘をつき続けなければならなくなってしまうのではないでしょうか・・・
 瑞歩と長谷川の主従関係を考えますと、長谷川がいつ口を割るか分かりませんし、それ以外にもアキちゃんの登場や、何らかの理由で私が長谷川に嘘をついていたことがバレたとき、何よりも懸念されるのが、瑞歩から嘘つきの変態扱いされた挙句、彼女も敵に回るかもしれませんので、今後のことを考えると是が非でも瑞歩を味方に付けておいたほうが断然有利だと思い、(正直に話すんやったら、今しかないな!)ということで、私は嘘で塗り固めた作家人生を、瑞歩に正直に話すことにしました。
 しかし、いくら正直に話すからといっても、まさかスカトロやSMとまでは口が裂けても言えませんので、至ってノーマルな官能小説家止まりすることにして、
「あのなぁ、瑞歩・・・ 聞いてもらいたい、大事な話があるねん」と言って、私は長谷川の誘導尋問的な勘違い話に自ら進んで乗っかってしまい、立場が苦しくなったところで、起死回生の逆転ホームランを狙って大振りするも、見事に空振りして気が付いたときには、官能小説家となってしまった、ということを話したのですが・・・
 話している途中で瑞歩は、
「信じられへん、なんでそんな嘘をつくの?」とか、「涼介って、もしかして虚言癖持ってる?!」という感じでつっこまれるたびに、
「だから、話の流れで、ほんまはそんなこと言うつもりはなかってんけど」とか、「長谷川さんがどんどん喰いついてくるから、こっちも引くに引けなくなって、段々エスカレートしてしまって、」と言って、私は何度も話を引き戻しては説明を繰り返しながら、ようやく瑞歩に真実を伝えることができました。
 話をすべて聞き終わった瑞歩は、
「もしかしたら、涼介ってほんまは思いっきり賢いんか、それともめちゃくちゃアホなんか、どっちかよう分かれへんなぁ?・・・」と誉め殺ししたあと、
「分かった! もし涼介の嘘がバレて、ハッセが怒ったとしても、私が涼介を守ってあげるから、心配せんでも大丈夫やで!」という、いかにも頼もしい、理想的な返答を得ることができましたので、私は積年の溜飲が下がったような気持ちになり、今日から枕を高くして眠れると思ったとき、瑞歩は私に無邪気な子供のような笑顔で、次のようなことを言いました。
「とにかく、いま思いついてんけど、これから涼介はほんまの作家を目指して、捨て子の親に捨てられた捨て子の物語を、私と一緒に書いていくことに決めたから、二人で頑張ろうな!」
 ということで、私が書くべきテーマが決定してしまいました。


16 作家とゴミ箱の距離について

 突然ですが、皆さんは作家に対して、どのようなイメージをお持ちでしょうか?
 私のイメージでは、まずは万年筆、原稿用紙、渦高く詰まれた書籍の山、散らかった薄暗い部屋、猫背、丸メガネ、タバコ、そして最後にゴミ箱、というのが思い浮かびます。
 次に、皆さんにお訊ねしたいことは、作家が失敗作や書き直しの原稿用紙を手でくしゃくしゃに丸めて、背後の離れた所に置かれたゴミ箱へ向かって投げ入れる場面を思い浮かべたことがありませんか?ということなのですが、もし、思い浮かんだという方がいらっしゃるのならば、次にお訊ねしたいことは、なぜゴミ箱を傍に置かないのか?と、疑問に思ったことはありませんか?ということです。
 ゴミ箱が傍にあれば、わざわざゴミを放り投げる必要はありませんし、すべてのゴミがゴミ箱に入るわけがありませんので、必然的に部屋が散らかります。衛生面や精神面から考えても、清潔に保つということは大切だと思いますので、一番簡単な解決方法は、ゴミ箱を傍に置くことだと思うのですが・・・
 私は長年に渡って、なぜ作家はゴミ箱を傍に置かないのか?と、疑問に思っておりましたが、自分で執筆に励んでみて5日目に、初めてその理由(あくまで自論なのですが)が分かったような気がしましたので、これからその理由を書きたいと思います。
 共同生活を始めた瑞歩から、半強制的に書くテーマを決められまして、とりあえず仮題ですが、小説のタイトルを『捨て子の、捨て子の物語』ということに決めて、もちろんゴミ箱を傍に置いて書き始めました。私はタバコを嗜みますので、息抜きでタバコを吸いながら執筆をしておりまして、灰皿に吸殻が溜まると、当然ゴミ箱に捨てておりました。しかし、タバコの気分転換も全く効果が無く、肝心の物語の出だしの文章に躓き、一行目を捻り出すのにもがき苦しんでおりまして、原稿用紙に書いては消して、千切っては丸めてゴミ箱へ、という作業を繰り返しておりました。
 そして執筆開始から5日目の夜、瑞歩はわざわざ事務椅子を買って書斎に持ち込み、私の隣で本格的に執筆の手助けを始めました。 
 瑞歩の期待を一身に背負い、叱咤激励(ほとんど叱咤とダメ出しでしたが)を受けながら、一生懸命に努力していたのですが、私のセンスの無さに怒り疲れた瑞歩は、先に眠りに就くといって書斎から出て行った後も、私は深夜までがんばっていたにもかかわらず、どうしても出だしの文章が決まらず、焦りや苛立ち、瑞歩に対する怒りが頂点に達したとき、ものに八つ当たりするつもりはなかったのですが、たまたま足元にゴミ箱がありましたので、
「くそっ! もう止めじゃ!」と叫びながら、思わずそのゴミ箱を蹴飛ばしてしまい、丸まった原稿用紙と一緒に、タバコの吸殻と灰が部屋中に飛び散ってしまったとき、
「あぁっ!・・・ なるほど、こういうことか・・・」と、やはり作家はゴミ箱の近くで執筆してはいけないという事に気付き、ちらかった部屋の掃除を終えたあと、ゴミ箱を机から遠く離れた、遥か彼方へ追いやりました。
 ちなみに、『捨て子の、捨て子の物語』の出だしは、今書いたゴミ箱の文章をアレンジして使用する予定です。 以上。


17 新生活

 今から書こうとしている文章は、はっきり言って本編の物語を進めていく上で、あまり重要ではありませんし、書かなくとも然したる影響は無いと思って書きますので、もしかすると私の情熱や意気込みなどは感じられないかもしれませんが、先ほどゴミ箱がどうのという文章を、瑞歩との共同生活5日目からいきなりスタートさせてしまった都合で、目の肥えた読者の方たちは、彼女のことをもっと詳しく丁寧に説明しろよ!と、思われたのではないかということで、私が手を抜いていない証拠に、内容が前後して真に恐縮でございますが、今から補足として、瑞歩の個人情報を無断で公開させていただきます。
 ご存知の通り、瑞歩は19歳の大学2回生で、彼女が通う大学は、関西のお金持ちのご子息たちが多く通うことで有名な、神戸市東部の山手にある私立大学です。有馬から瑞歩が大学へ通う場合、車だと六甲山を超えれば40分強で到着するのですが、電車通学の場合は線路の軌道が六甲山を大きく迂回する関係で、徒歩を含めて2時間近くもかかってしまいます。
 本来、瑞歩の自宅は大学の隣町の芦屋なので、通学時間は車で10分、電車でも徒歩を合わせて30分と、有馬と比べて所要時間と道程の不便さがあまりにも可哀相だということで、元姪思いの私は、「どうせ俺は暇やから、車で学校の送り迎えしたろうか?」と、優しい言葉を掛けたのですが、
「そんな心配はいらんから、涼介は小説のことだけ考えとき!」と却下されました。
 瑞歩は本格的に始まった梅雨空の中、別荘から最寄りの有馬温泉駅までの、勾配のきつい坂が連続した道のりを、傘をさしながら上り下りし、徒歩と電車を乗り継いで通学し始めましたので、(意外と庶民的で我慢強いな)と、すこし見直してしまいました。
 そして、一緒に生活してみて私が驚いたのは、瑞歩は何もできないお嬢様だと思っておりましたが、ところがどっこい、彼女は男が家事をする姿を見たくはないといって、料理以外の家事を完璧にこなし、とても古風な考えを持っていることに驚きました。
 そして、瑞歩の料理の腕前なのですが、私は自分が元調理師で、和洋中を問わず、家庭で作る範囲の少人数の料理は、不味く作る方が難しいという考えと、それなりの腕を持っておりますので、採点が厳しいと自分でも思いますが、瑞歩はナウいヤング(両方死語で、意味は今時の若者です)にしては、達者な方だというレベルです。
 しかし、得意料理のオムライスは確かに美味しいのですが、二日に一回は作りますので、
「涼介、今晩はキノコの和風あんかけオムライスやで!」と言って、先ほど瑞歩は大学へ向かいましたので、今夜は6種類目のオムライスを食すことになります・・・
 しかし、なんにしても全く何もしない、或いはできない娘に比べれば、とても贅沢な悩みということで、瑞歩がただの我が儘なお嬢様でない、ということが理解していただけたでしょうか。


18 小説 『捨て子の、捨て子の物語』

「だから、主人公のみずほはファザコンで、行方不明になった父親の面影を追い求めてるから、好きになるのは歳の離れた男性ばっかりやって、何回も言ってるやん! 涼介、ほんまに理解してる?」
「でも、38歳と19歳は離れすぎやろう!」
「じゃあ、37歳と18歳にしときぃよ!」
「・・・・」

 翌日は、こんな感じでした。
「ちょっと待って涼介! みずほの台詞がおかしいって! 18歳の女の子はこんなこと考えてないし、こんなこと言えへんもん!」
「それやったら、さっきは折れたけど、明宏の台詞もおかしいで!  
 40のおっさんは、あんなことなんか考えてないし、あんなこと言えへんって!」

 そして、その翌日は、こんな感じでした。
「涼介、見て! 今日授業中にずっとネタを考えてて、ノート5ページ分も書いてしまったわ!」
「あ、そう! すごいなぁ! 今から見るわ!(そんだけスラスラとネタが出てくるんやったら、自分で書けや!)」

 そして、またその翌日は、こんな感じでした。
「だから、亮祐と亜衣子の離婚の理由を、もっと明確に書かなあかんねんって! なんで涼介は愛子叔母さんとの離婚の理由を隠すの? 実際に書いたりせぇへんし、参考にするだけやねんから、ええかげんにほんまのことを教えてよ!」
「だから、何十回も同じこと言うようやけど、俺はほんまに、愛子がなんで離婚しようって言い出したんか分からんねんって!」

 こうして私と瑞歩は、自分たちでも気付かぬうちに、お互いにストレスを溜め込んでいくのでした。そして、そのストレスが爆発する日が、刻一刻と近付いておりました。


19 衝突

 私はその存在すら知らなかったのですが、一流百貨店には外商という事業部門がございまして、短く簡単に説明しますと、季節ごとの洋服や靴やバッグなどの新作を大量に抱えて、金持ちの家々を回りながら売り歩くという部署なのですが、たいへん乱暴な言い方をすれば、早い話が、上品な押し売り集団みたいなものだと思っていただいて結構です。(私にどんな権限があって、何が結構なのか自分でもよく分かりませんが、とにかく外商の皆様、ごめんなさい!)
 季節はうっとうしい梅雨もようやく終わり、すっかり夏本番を迎えた、茹だるような暑さの日曜日。
 私と瑞歩は執筆を中断して、リフレッシュのためにリビングでオセロをしている時でした。来客用のインターフォンが鳴りまして、瑞歩はその来客を待ちわびていたようで、嬉しそうに笑顔で来客者を出迎えました。 
 訪れたのは、神戸にある百貨店の外商の若い女性二人と、これまた若い男性一人の三人で、中でも私の目を引いたのは、もちろん白いブラウスに黒いタイトスカート姿の、二人の女性でありました。二人とも年齢は25歳前後で、瑞歩と同じような背格好をしておりまして、まるでモデルのようだと思いながら、いまから何が始まるのかと見ていると、三人は引越しで使うような大きな衣装ケースを2つも風呂場の脱衣所に持ち込みましたので、私は瑞歩に何が始まるのかと訊ねると、
「ファッションショー」と言いました。
(なんのこっちゃ?)と思いながら、しばらく待っていると、男性だけがリビングに戻ってきて、ソファーから立ち上がった瑞歩に向かって、
「では、今から秋と冬の新作をご紹介させていただきます」と言うと、さきほどの二人の女性が衣装を着替ええてリビングに現れ、瑞歩は嬉しそうにはしゃぎながら二人に駆け寄りました。
 男性は瑞歩に向かって、女性たちが身につけている衣装の説明と金額を提示し始めましたので、どうやら展示即売会だということが分かり、大金持ちはわざわざ店舗に行かなくても、こうして季節を先取りした最新の商品を購入することができるのだと、感心してしまいました。
「このファッションショーな、バァバが私のために考えてくれて、私が11歳の時から特別に開いてくれてるねん!」と、さも自慢げに話しましたが、私は自分がTシャツに7分丈のズボンという、ほとんど下着に近いような格好をしておりましたので、目の前で繰り広げられる華やかなファッションショーを、とても恥ずかしい思いで見ておりました。
 なので私は、奥に行って小ましな衣装に着替えて、ショーに飛び入り参加しようかと思いましたが、瑞歩に殺されそうな気がしましたので黙って見ていると、なぜか瑞歩は、二人の女性が新しい商品を身に纏って現れる度に、手で肌触りなどを確認しながら、
「涼介、どう思う?」と訊ねてきたのですが、私は二人の女性の生着替えを、ぜひとも間近で覗きたい!と、切望しておりましたので、
「いいんとちゃう?」と、ろくに商品を見もしないで瑞歩に生返事をしていました。
 すると瑞歩は、私がいいと言った洋服や靴やバッグなどを、次々と購入すると言いましたので、外商の三人は、みすぼらしい格好をした私が、いったい何者なのかと注目し始めたときでした。
 瑞歩が突然、三人に向かって、
「このひと、私の彼氏やねんで!」と、なぜか得意気な笑顔で、いかにも誇らしそうに言いましたので、三人がいっせいに、私の顔をガン見してきました。 
「・・・・・」
 私は瑞歩が冗談を言って、三人から笑いを取ろうとしているのだと思いましたので、彼女のつまらないギャグの助け舟のつもりで、一人ずつと目を合わせた後、にっこりと微笑んだところ、一人の女性は「くっ!」と、くぐもった笑いをし、もう一人の女性は「ぷっ!」と小さく噴出し、男性に至っては「あはは!」と、声を出して笑いましたので、ついつい私もつられて、「はははっ!」と笑った瞬間でした。
「なにが可笑しいんよ!」と、いきなり瑞歩が大声で叫んだあと、鬼のような形相を男性に向けて、「もう、あんたんとこでは、二度と買いもんせぇへん! 全部持って帰れ!」と怒鳴りつけて、本当に三人を商品と共に追い出してしまいました。
「?・・・・」 
 なぜ瑞歩が、急にぶちきれてしまったのか理解できなかったのですが、三人を追い帰したあと、瑞歩は険しい表情のまま私のところに戻ってきて、
「なんで、涼介も一緒になって笑ったんよ?!」と、大声で詰め寄ってきました。
「なんでって、瑞歩はあの人らを笑かそうと思って言うたんやろう?」と言うと、瑞歩は力なく小さな声で、
「そんなんと違うわ・・・」と言ったあと、怒りではなく、悲しみや悔しさを滲ませた複雑な表情で、しばらく私を見つめていましたが、やがて何かを諦めたように、無言のまま自室と化したゲストルームに引っ込んでしまいました。
 おそらく瑞歩は、冴えない中年の私が彼氏な訳がないと、三人が私のことをバカにしたと思ったのと同時に、自分もバカにされたと思ったのかもしれません。
(変なところで、プライドが高いねんなぁ)と思いながら、彼女はいちど機嫌を損ねると、直るまでに相当な時間がかかりますので、そのまま放置することにしました。
 外商の3人が追い帰されてから3時間後に、またインターフォンが鳴りまして、今度は50代と思しき、立派な体格の、いかにも会社役員といったナイスミドルが、大量の紙袋を手にした先ほどの三人と共に現れ、私に名刺を差し出し、
「私は○○神戸店の店長をしております○○と申します。先ほどは弊社の社員が不仕付けな対応をいたしまして、まことに申し訳ございませんでした」と言って私に謝罪したあと、瑞歩に取り次いでほしいと言われましたので、私は瑞歩を呼びに行きましたが、
「会いたくない、帰して!」と素っ気なく言われてしまい、私は恐縮しながら百貨店の店長に、ただいま瑞歩は『天岩戸の天照大御神』状態だと報告すると、店長は私に向かって真剣な表情で、
「こんなことでお赦しいただけるとは思っておりませんが、」と言って、外商の三人から紙袋を次々と受け取り、それを私に差し出しながら、先ほど瑞歩が購入するといった品々ですが、代金は要らないので手渡して欲しいと頼まれまして、ついでに私にもお詫びの印として、アメリカの有名ブランドのポロシャツを受け取らせようとしました。
 こういった謝罪に、異例のトップが直々に訪れたことで、断ることは逆に失礼に当たることをわきまえておりましたが、それでもいったん断ったあと、より一層恐縮しながらそれらの品々を受け取りますと、4人はまた出直してきますと言って、本当に申し訳なさそうに帰っていきました。
 目の前に置かれた高価な品々を見つめながら、金持ちは貧乏人とタッグを組むことによって、やり方次第ではタダで物が手に入るのだと、妙に感心してしまいました。
 それにしても瑞歩の態度はいただけないと思いましたので、彼女の部屋に行き、ベッドの上でファッション誌を見ていた瑞歩に、
「今みんな帰ったけど、また日を改めて謝罪に来るって言うてるし、相手はお店のトップがわざわざ来て謝ってんねんから、今度謝りに来たときは、ちゃんと対応しいや」と、決してきつい言い方はしなかったのですが、瑞歩は間髪入れずに、
「なんでそんなこと言うんよ!? 悪いのは向こうやねんから!」と大声で反論しました。
「あのな、だいたい笑われたのは俺の方やし、俺が怒るんやったら分かるけど、あの人らは瑞歩を笑ったわけじゃないから、もう赦してあげようや。それとな、もし俺と瑞歩が逆の立場やったら、俺らも絶対に笑ってたと思うから、もう忘れてあげようや」と言いましたが、瑞歩は目を剥きながら、
「もう、そんなことはどうでもいいから、ほっといて!」と言いました。
「・・・・」
 私は少し、カチンと来ましたが、
「仮に向こうが全面的に悪かったとしても、こんな暑い日に大の大人が4人も雁首揃えて謝りに来て、お詫びにタダで色んな物も置いて帰ってんから、もう赦してやろう」と、優しく宥めるように言いましたが、またしても瑞歩は聞く耳を持たないといった感じで、
「もう、うるさい! 私も大の大人やねんから、ほっといてって言ってるやろう!」と、あくまで反発してきました。
 私はいったん、頭の中で父親のアキちゃんならどうするか?と考えましたが、とっさに答えが出なかったので、
「ええかげんにせぇよ! 自分で大人って言うんやったら、もっと考えて行動せぇや!」と、初めて怒鳴りつけたあと、そのまま瑞歩の部屋を出て書斎に向かいました。


20 涙

 オークの机の椅子に座り、少し気持ちが落ち着くのを待って、瑞歩を怒鳴ったことが正しかったのかを冷静に考えました。
 咄嗟のことで先ほどは思いつきませんでしたが、もしもアキちゃんなら、私みたいに怒鳴りつけるのではなく、その前の時点で何らかの手を打っていたに違いないと思いました。
 おそらくアキちゃんなら、瑞歩が三人に怒鳴り声を上げた時点で、また瑞歩を抱きしめて驚かせたあと、三人に向かって気の利いた冗談を言いながら、その場の空気を入れ替えると言って、本当に換気扇を回したかもしれないと思いました。
 しかし、残念ながら私には、アキちゃんほどの器量はありませんし、機転も利きませんので、無いものねだりをしても仕方がないと諦めました。
 それにしても、瑞歩のキレ方が半端ではなかったので、その怒りの原因はいったいなんだったのかと考えました。
 おそらく瑞歩は、今夏の記録的な猛暑の中、初めて経験する長時間の電車通学や、毎日休みなく追われる家事などを含めた、私との共同生活にストレスを感じ続けた上に、共同での小説の執筆という、ままならない環境が重なったことで、知らず知らずのうちに相当なストレスを溜め込んでいたのでしょう・・・
 私たちは小説が前に進むに連れて、それぞれが作品に対する思い入れや愛着が強くなっていくことをお互いに認識していましたし、それに比例して、意見の主張や対立も激しさを増していくことも、それなりに理解しあってはいたのですが・・・
 特にこの一週間ほどは、妥協点を見出すことがとても困難でありましたので、私達はお互いを尊重し、思いやる気持ちが薄れていることも気付かないほど、二人とも慣れない小説の執筆という作業に、疲れきっていたのかもしれません。
 やはり、瑞歩を叱り付けるべきではなかったと後悔しましたが、いまさら何を言っても後の祭りなので、とにかく瑞歩の機嫌が直るまで我慢強く待つことにして、目の前の小説の続きを書こうと思い、ペンを走らせようとしましたが、「・・・・・」30分経過しても、全く集中することができませんでした。
 続きを書くことを諦めて、椅子から立ち上がって窓辺に行き、久しぶりに暮れかかる夏の庭を眺めました。
 あらためて、夕闇に染まり行く美しい庭を眺めていると、こんなに綺麗な風景がいつでも見られたはずなのに、この別荘に睡蓮の池があったことすら忘れていたほど、私自身も小説に集中していて、周りを見る余裕すら無かったのだと思ったとき、ゆっくりと静かに書斎のドアが開き、瑞歩が中に入ってきました。
 瑞歩は入り口に突っ立ったまま、下を向いて力無くうな垂れておりましたので、私は彼女が謝るつもりで入ってきたのだと思い、しばらく何も話しかけずに待ってみましたが、
「・・・・」
 瑞歩は無言まま、うつむいて動く気配が感じられませんでした。
 瑞歩への対応をしばらく考えたあと、ここは大人の作法として、年上の私から仲直りするきっかけを作ろうと思い、
「さっきは大声出してごめんな。とりあえずリビングに行って、ビールで仲直りしよう!」と言って歩き出し、瑞歩の横を通り過ぎて廊下へ出ようとした時、瑞歩は蚊の鳴くような小さな声で、
「ごめんなさい・・・」と謝ったあと、
「!!!」
 驚いたことに、瑞歩が私の背中にそっと抱きついてきましたので、私は慌てて歩みを止めました。
 すると、背中から瑞歩のすすり泣くような声が聞こえてきましたので、耳を凝らして背中に集中すると、やはり瑞歩は声を殺して泣いていることが分かりました。
「・・・・・」
 私は瑞歩が泣き止むのをしばらく待ちましたが、彼女は一向に泣き止む気配がありませんでした。
 おそらく瑞歩は、私に怒鳴られたことだけで泣いているのではなく、父親の失踪や、判らぬままの母の正体、行方不明の叔母に、謎を残して亡くなった祖母など、様々な不安を胸に抱えて思い悩み、苦しんでいるのでしょう・・・
 頼るべき身内といえば私くらいで、おそらく瑞歩は私のことを頼れる叔父というよりも、手の掛かる父親か兄のような気持ちで身の回りの世話をし、いっしょに小説を書きながら、それらの不安を一時的に忘れようとしていたのだと思います。
 しかし、こうして何らかのきっかけで、心のバランスの均衡が崩れたとき、それらの不安が一気に頭の中を駆け巡り、自分で感情をうまくコントロールできなくなってしまったのでしょう・・・
 今の私は、瑞歩に声を掛けることしかできませんので、その掛ける言葉を頭の中で探し始めたとき、
「!・・・」
 瑞歩が私の背中から肩にそっと手を移動させて、軽く力を入れながら私を反転させたあと、私の胸元に両手を当て、まるで私に泣き顔を見せまいとしているかのように、私の左肩の辺りに顔を埋めて、嗚咽を堪えながら静かに泣き続けました。
 私はどうすればいいのか分からず、瑞歩の細い肩に両手をのばして、軽く抱きしめようかと思ったとき、
「!・・・」
 今度は私の背中に両手を回して、瑞歩は私を強く抱きしめながら、
「パパとママに会いたい!」と言ったあと、堰を切ったように大きな声を上げて激しく泣き始めました。
 私は瑞歩の肩の近くまで伸ばしていた手を下ろし、改めて瑞歩はアキちゃんの娘だということを認識したあと、久しぶりに愛子のことを思い出しました。


21 調査報告書
 神から与えられた能力だとは思いませんが、人間というのは長い進化の過程で、他の動物には見られない、『泣く』という特別な行為を手に入れた動物なので、泣きたい時に泣きたいだけ泣く、ということが、心理的にも生理的にもプラスに作用するという事を、瑞歩が身を以って示してくれました。
 瑞歩は大泣きした翌日から、精神的に成長したというべきか、とてもリラックスした状態が続いていて、それが何気ない仕草や態度にも表れて、ネックとなっていた言葉遣いもすこし改善されてきたのではないかと感じましたので、おそらく彼女は成熟した女性へと移り行く、過渡期を迎えたのかもしれません。
 瑞歩は大学が夏休みに入った翌日に、今週末から女友達と一緒に、北海道へ1泊2日のグルメ旅行に出かけると突然言いだしまして、旅行前日の本日、朝から旅の準備におおわらわにしておりましたが、夕方になってようやく準備を終えて、リビングのソファーに座ってテレビを見ていた私の隣にやって来ました。
「涼介、ほんまに明日から留守にするけど大丈夫?」
「朝から何回、おんなじこと訊くねん! もう5回目やぞ!」と、私が反抗的な口答えをした場合、以前ですと、
『朝から何回、おんなじこと訊こうが、私が質問するたんびに答えたらいいねん! だから、大丈夫なん? どうなん? どっち?!』という感じだったのですが、今回は、
「えっ? もう5回も訊いてる? それで、ほんまに大丈夫なん?」
 というように、まるで涙と一緒に毒気と勝気を流し出してしまったようでありました。
「ほんまに大丈夫やから、ゆっくり旅行に行っておいで」と言いつつ、私は明日の夜、鬼のいぬ間に命の洗濯ということで、神戸の三宮のキャバクラへ、3ヶ月ぶりに出かけることになっておりますので、頭の中が馴染みのキャバ嬢でいっぱいでありました。
「そう、じゃあ行ってくるけど・・・ 今日は買い物行ってないし、冷蔵庫も空っぽやから、今から晩御飯食べに行こう」ということで、私たちは有馬温泉駅の裏手にある居酒屋まで歩いていき、座敷の席に通されまして、二人ともビールを注文して、私が品書きを見ながら、まずは刺身から注文しようと思ったとき、
「涼介、お酒飲む前に、見てもらいたいのがあるねん」と言って、瑞歩はバッグから折りたたまれた白い紙を取り出し、「これ、昨日届いた探偵からの調査報告書」と言いました。
「調査報告書?」と言いながら受け取ると、
「そう。料理は私が適当に頼んでおくから、涼介は先に全部読んで、それから意見を聞かせて」と瑞歩が言いましたので、小さく頷いて中身を読み始めました。 
 探偵からの調査報告書は、A4サイズの用紙2枚にまとめられていて、1枚目を読み終えたのですが、1枚目にはアキちゃんの追跡調査と、瑞歩の母親の実態解明と、愛子の追跡調査の経過報告が記載されておりました。しかし、どの調査も特に新しい情報などもなく、引き続き鋭意調査を行います、という報告であったのですが、2枚目の報告書を読み始めてすぐに、
「!!!」
 とても驚いてしまい、すべて読み終わったあとに、2枚目だけをもう一度初めから読み返しました。
 2枚目の報告書に書かれていたことを簡単に説明しますと、私がアキちゃんと愛子から亡くなったと聞かされていた、二人の育ての親である女性が今も健在で、今回のアキちゃんの失踪に深くかかわっている可能性が高い、という内容でした。
 詳しくは、調査員は瑞歩から、アキちゃんと愛子の育ての親は亡くなったと聞いていたのですが、調査が進むに連れて、その女性は存命していることが判明いたしました、という前置きのあと、二人の育ての親の苗字は福山ではなく、その女性の名前は石本加代(いしもとかよ)ということが判明しましたとなっておりました。
 そして、あくまで石本加代は調査の対象外人物であるため、詳しく調査を行っていないので断定はできませんが、アキちゃんが失踪した時期を同じくして、石本加代も一人暮らしをしていた島根県の浜田市から姿を消して、現在も行方不明となっており、二人の失踪が何らかの形で関連している可能性が非常に高いと思われるので、今後は石本加代を、調査の対象人物に付加されますか?という内容でありました。
「・・・・」
 報告書を読み終えたとき、いつの間にか目の前にビールといくつかの料理が並んでおりました。
 私は頭の中が、『でも?』と『なんで?』という言葉に占領されていて、非常に混乱しておりましたので、瑞歩と話をする前に、まずは気持ちを落ち着かせようと二人でグラスを合わせて乾杯したあと、瑞歩に何から話そうかと考えました。
 しかし、なぜ苗字が福山ではなく石本なのか?という事と、なぜ石本加代は生きているのか?という事実を冷静に考えると、まったく逆の、『なぜアキちゃんと愛子の苗字は石本ではなく、福山なのか?』と、『なぜ石本加代は死んだことになっていたのか?』という疑問にたどり着きますので、実際に調査を行った探偵に、直接訊ねてみないことには詳しい状況が分かりませんが、もしかするとアキちゃんと愛子は、育ての親は亡くなったと、私に嘘をついていたのかもしれないと思った瞬間、
「!!!」
 私はアキちゃんと愛子の二人に騙され続け、裏切られたのではないかと思いましたので、
「瑞歩、この探偵社の人と、今から電話で話できるか?」と訊ねると、瑞歩はとても悲しそうな顔をして、
「探偵は24時間、いつでも連絡できるようになってるけど、もしかしたら探偵に電話して、石本加代は本当に生きてるんですか?って、確認するつもりやろう?」と言いました。
「うん・・・ そうやなぁ・・・ 俺は確認するなぁ」
「それはもう、私が昨日の夜に、実際に調査した探偵に電話で直接確認したよ・・・
 探偵の話やと、石本加代は別に隠れて生活してたわけじゃないし、何よりもパパは定期的に島根に行って、石本加代と会ってたみたいやから、なんで死んでることになってたんですか?って、逆に探偵から質問されてしまって・・・ 
 私は涼介から、育ての親はパパと愛子叔母さんが高校生のときに亡くなったって聞いてたから、なんで?って思って・・・・
 だから私、昨日と今日でずっと考えて、悩んでてんやんか・・・ もし、この報告書を涼介が見て、私と同じように探偵に確認したら、涼介はパパと愛子叔母さんに騙されてたというか・・・ 嘘をつかれてたってことが分かってしまうから、ほんまは涼介に黙っとこうと思ったけど・・・ 
 でも・・・やっぱり私、パパたちがなにをしてるのか分からんし、なんでみんな、涼介と私に嘘をつくんやろうと思ったら、急に怖くなって・・・ 涼介に黙ったまんまなんかできんくて・・・」
「・・・・・」
 私は瑞歩に、何と言えばいいのか何も思いつかなかったので黙っていると、瑞歩はとても不安そうな表情で私を見つめながら、
「涼介・・・ 顔色悪いけど、大丈夫?」と訊ねてきましたが、私は瑞歩の問いには答えず、
「瑞歩、もう探偵を使って調査するのは止めよう」と言いました。
「えっ?・・・ 急に、なんで?」
「あのな、もしかしたら今回のアキちゃんの失踪は、俺らが思ってるよりも、もっと複雑で深刻な気がするし、何よりもめちゃくちゃ嫌な感じがして気持ち悪いし、本音を言うたら、俺も怖い・・・」
「・・・・・」
 瑞歩はしばらく間を置いたあと、
「やっぱり、涼介も怖いと思う?」と言いました。
「思うなぁ・・・ なんか俺は、アキちゃんと愛子に騙され続けて裏切られたと思うし、蓋を開けてみたら、とんでもないのが出てきそうな気がして、これ以上は首を突っ込まんほうがいいと思うし、何よりも俺と瑞歩の手に負えるような気が、まったくせぇへん」
「・・・・・」
 瑞歩はまた、しばらく黙り込みました。私は瑞歩が何も言う意思がないことを確認して、
「俺らはこの時点で、もう一切関わりあわんとこう。分かったか?」と言いました。
「・・・・・・」
 瑞歩は無言で小さく頷いたように見えましたので、私はそれ以上、彼女の意思を確認しませんでした。
 その後、私は瑞歩と何を話したのか憶えておらず、自分が居酒屋で何を食べたのかも憶えておらず、気が付いたときには、エアコンで冷蔵庫のように冷えた寝室に戻っておりました。


22 添い寝物語

 私はベッドの布団の中にもぐりこみ、仰向けになって天井を見つめながら、なぜアキちゃんと愛子に裏切られたのだろうと考え続けていました。
 本当は裏切られたのではないのかもしれませんが、なぜ二人は私に、育ての親の名前を偽った上に、死んだという嘘をついていたのでしょう?・・・
 わざわざ常識に照らし合わせて考えなくても、いくら血のつながらない育ての親とはいえ、結婚相手に会わせないのではなく、その存在自体を消し去ってしまうとは、いったいどういう事情があったのでしょう?・・・・ 
 私に石本加代を会わせたくなかったのか、それとも逆に、石本加代に私を会わせたくなかったのか・・・
 おそらくそのどちらかだと思いますが、どちらにしても、二人の話を何の疑いもなく信じていた私にとっては、会って欲しくない、会わせたくない、という選択権も選択肢も無かったわけですから、今となってはもうどうでも良いではないかと思う反面、だからこそ余計に、悔しいという思いもあります。
 しかし、会わせる、会わせないの問題はともかく、なぜ育ての親の苗字を石本ではなく、福山と偽ったのでしょうか?・・・ 
 そもそもアキちゃんと愛子の苗字は、なぜ石本ではなく福山なのかが分かりませんが、おそらく初めから私に、石本加代を会わせる気が無かったので、自分たちの育ての親である母方の伯母の苗字を、石本ではなく福山だと話し、後になっても私が確認しないことを見越した上で、わざわざ嘘の作り話をしたのだと思うのですが・・・
 そして、何よりも私が一番悔しいのは、アキちゃんが私に嘘をついていたということです。私は彼が、決して約束を破らず、どんな些細な嘘もつかないことを尊敬していましたし、私は瑞歩にも、彼は風変わりですが、思いやりがあって、気の優しい、決して嘘をつかない立派な人間だと、自慢げに話しもしました。
 はたしてアキちゃんと愛子は、私にそんな嘘をつく必要性があったのでしょうか?・・・ 
 もしかすると、私が気付いていないだけで、二人は他にも嘘をついていたのではないでしょうか・・・
 そう考えると、私は愛子が離婚話を切り出してから離婚に至るまでの間に、その理由の説明を求め続けましたが、何ひとつ納得することができない回答ばかりで、いま思えば結婚していたという事実さえ、もしかしたら誰かに植えつけられた、嘘の記憶ではなかったかと思えてきました・・・
 ある意味で私は、愛子との離婚を境に、人生や社会に対する考え方が変な方向にゆがんで偏ってしまい、離婚と同時に当時勤めていた金融機関を無断退職し、これからは真面目に、まともな社会生活を送っていかなければならないという一般的な常識を失ってしまったので、今回のアキちゃんの失踪を皮切りに、誰かが私に何かを求めていて、そろそろ真面目に動き出せよということで、離婚と同時に止まってしまった、私の心の中の時計を、その誰かが動かし始めたということでしょうか・・・
 しかし、次々と事実が明らかになるに連れて、より一層謎が深まっていくように思いますし、私はルールを知らずにゲームに参加してしまい、次々と負け続けているような気持ちになりました。
 とにかく、私と瑞歩はこれ以上、この一連の騒動に関わるべきではないと思ったときでした。
「?・・・・」
 私はそれが、ドアをノックする音だとは思わずに、ただ「トントン」という音がしているという認識しかなかったのですが、数秒後にまた、「トントン」という音がしましたので、今度は瑞歩が寝室のドアをノックしているのだと気付き、上体を起こして、
「どうぞ」と、ドアに向かって言いました。
 すると、ゆっくりとドアが開き、薄いブルーに白の幾何学模様の入ったパジャマ姿の瑞歩が入ってきて、私のいるベッドのすぐ傍で立ち止まりました。
「どうしたん?・・・ 寝られへんの?」と私が訊ねると、瑞歩は私の質問には答えず、今にも泣き出しそうな顔で、

「これから、何が始まるの?・・・」

 と言いました。
「・・・・・」
 私はしばらく考えたあと、これから何かが始まり、現われ出ようとしているのか、それともこれから何かが終わり、消え去ろうとしているのか、そのどちらなのかさえ分からなかったので、瑞歩には何も答えることができませんでした。
 瑞歩は私が何も答えてくれないことを確かめたあと、ゆっくりと瞼を閉じて、それからゆっくりと瞼を開き、
「涼介・・・ 今日、ここで寝ていい?」と言いました。
「!・・・・」
 瑞歩の言葉に少し驚き、彼女が言った言葉の意味をしばらく考えたあと、(怖いの?)と訊ねてみようかと思いましたが、自分自身も見えない真実に対して、漠然とした恐怖を抱いていますので、瑞歩に対してそう問いかけるのは卑怯というか、適当ではないような気がしました。
 なので私は、瑞歩がそばにいれば、自分自身の恐怖を少しでも和らげることができるのではないかと思い、隣のベッドを指差し、
「いいよ。こっちのベッド、今まで一回も使ったことがないから、こっちで寝ぇ」と言いました。
 すると瑞歩は、まったくの無表情というよりも、光の当たる角度や見る角度によって、喜怒哀楽の複雑な感情を表現できる、能面のような無表情な顔で、
「いやや・・・ こっちのベッドで、涼介と一緒に寝る・・・・」と言いました。
「!・・・・・」
 私は瑞歩が言った言葉の意味を解き明かそうとしましたが、なぜだか急に、あれこれと考えても仕方がないという、投げやりな思いと同時に、ただ隣で寝るだけなので、いちいち断る理由を考えるのも面倒だと思ったとき、瑞歩が両手をきつく握り締めながら、
「さむい・・・」と言いましたので、その言葉を合図に、左手で布団をめくり、重ねていた二つのうちの一つの枕を右側に置いて、
「いいよ、こっちおいで」と言いました。
 瑞歩は無言でベッドに上がり、私に背を向けて頭を枕の上に乗せて横になりましたので、ゆっくりと布団を掛けました。

「・・・・・・・・・・」

 その後、私たちは互いに無言で身動きひとつせずに、しばらく時間が経ちました。おそらく5分ほど経過したと思われますが、私は時間に対する観念が、頭の中で溶解していくように感じて、5分という時間が長いのか、それとも短いのかの判断がつかなくなっていることに気付きました。
 私は沈黙に耐えかねて、瑞歩に照明を消そうかと訊ねようと思いましたが、この状況で明かりを消す事に、どこか後ろめたさのような妙な感情を覚えましたので、無言のままベッドの横のサイドテーブルに置いていたタバコを手にとって吸い始めたとき、
「なにか、お話しして・・・」と瑞歩が言いました。
 私は瑞歩に、何を話せばいいのでしょう?・・・ 
 この状況だと、何かを話さなければいけないのではないかという、何らかの責任や義務が生じたような気がする反面、話すべきことなど何も無いという思いもあります。
 しかし、どちらにしても何かを話すのであれば、今の私の頭の中は、アキちゃんと愛子に対する疑念が渦巻いておりますので、それ以外の話題を思いつきそうな気がしませんでした。
「・・・・・」
 私はしばらく考えたあと、瑞歩に話すためではなく、自分自身のために、アキちゃんと愛子のことを話してみようと思いました。
 そして、私は自分自身がもう一度、二人のことを初めから思い出さなければならないような気がしましたので、アキちゃんとの出会いと、愛子との馴れ初めを瑞歩に話すことにして、タバコを灰皿で揉み消したあと、
「瑞歩、あのな、」と言って、過去の出来事を話し始めました。

 私は高校卒業後、胸と声を張って名乗ることのできない、大阪の私立大学に進学して1年が過ぎたころでした。私が小学4年生の時の初恋の相手で、同じ小学校に通う1歳年下の佐藤 薫(さとうかおる)という女性が、同じ大学に入学してきまして、私たちは偶然ばったり再会し、正式に交際を申し込んだことはなかったのですが、お互いになんとなくといった感じで、多くの時間を一緒に過ごすようになりました。
 その当時、薫は芸能界入りを目指していて、女優やモデルを夢見て、12歳から大阪の芸能プロダクションに所属しており、なかなかチャンスが巡ってこなかったのですが、大学が夏休みに入ってすぐの頃に、私と薫にとっての転機が訪れました。
 薫が関西限定のあるファッション誌のモデルに抜擢され、モデルデビューを飾ることになったのですが、その初めての撮影のときに、薫が不安なので、私についてきて欲しいと頼んできたのが始まりでした。
 その頃の私と薫の関係は、キスまでは許してくれるのですが、その先はいつもお預けで、私は薫が一人暮らしをしているマンションに泊まりに行くことを夢見て、毎日が期待を膨らませてはへこむといった、蛇の生殺し状態でありました。
 撮影当日、私は彼氏面してノコノコと付いて行き、その初めての撮影のときに現れたカメラマンがアキちゃんでした。
 その頃のアキちゃんは、プロカメラマンとしてはまだ駆け出しの頃で、とにかく私がアキちゃんを初めて見たときの印象は、(こいつ、カメラマンじゃなくて、モデルやろう?)と思ったほど、彼は身長183センチの8頭身で、とにかくそのスタイルの良さと、男にもかかわらず綺麗な顔に驚いてしまいました。
 男の私でさえそう思ったほどですから、薫の場合はほとんど一目惚れのイチコロ状態であったと思います。
 そうして、ローカルファッション紙の名も無い新人カメラマンと新人モデルという、無名づくしの何の将来性も感じられない撮影が無事終了し、私と薫が帰ろうとしたとき、
「二人とも今から時間ある?」と、アキちゃんから声を掛けられました。
 薫が時間はあると答えると、アキちゃんは私の名前を訊いてきましたので、私はフルネームを彼に教えると、
「涼介と薫ちゃんは付き合ってんの?」と、彼はいきなり私を呼び捨てにしましたし、尚且つ初対面の人にする質問ではないと思いましたので、(こいつ、いきなりなんやねん?)と思っていると、
「いえ、私ら付き合ってません!」と、なぜか薫はきっぱりと否定してしまい、今度は薫に対して、(こいつ、なんやねん?)と思っていると、アキちゃんは私に向かって、
「良かった! 俺な、今から妹を呼ぶから、4人でご飯食べに行こう!」と言いました。
 私は(なんしに行かなあかんねん!)と思いましたので、断ろうとしたとき、
「はい! 行きます!」と、薫がはりきって返事をしたあと、「涼介、私、まだ福山さんに訊きたい事がいっぱいあるから、ついてきて!」と言われてしまい、私は惚れた弱みで仕方なく付いて行くことになり、私たちはアキちゃんの自宅近くの、近鉄上本町駅前の居酒屋に行きました。
 席に座るとき、薫が自ら率先してアキちゃんの隣に座りましたので、直感で(あかん、盗られた)と思い、20分ほどは黙って我慢していたのですが、お酒の入った薫がアキちゃんにメロメロになり始め、アキちゃんもまんざらではないといった感じでした。
 私は段々とアホらしくなってしまい、アキちゃんに向かって、
「福山さん、なんで薫と二人で来なかったんですか?」と言って、席を立って帰ろうとしたとき、
「なんでって、俺が涼介に一目惚れしたから、妹を紹介しようと思ってんけど、嫌か?」とアキちゃんに言われてしまいました。
 私は訳の分からないまま、彼にからかわれていると思い、怒るべきか、それともそのまま無視して帰ろうかと迷っているときに、
「あっ、来た!」とアキちゃんが言いましたので、私は振り返って店の入り口に視線を向け、こちらへ歩いてくる愛子を見た瞬間、
「うそ~! なんであんなにキレイんですか~!」と、私の気持ちを薫が大声で代弁してくれました。
 愛子は私たちの席に来て立ち止まり、すこし頭を下げながら、
「初めまして、福山愛子です。兄がお世話になっています」と言って、私の隣の席に座るなり、
「いやっ! 目の前で見ても、めちゃめちゃきれい!」と、またしても薫が、私の心の叫び声を大にして、愛子に届けてくれました。
「愛子、薫ちゃんと涼介」とアキちゃんが私たちを紹介すると、
「あっ、薫ちゃんと涼君、はじめまして」と愛子が言いましたので、私はいきなり涼君と呼ばれて、(この兄妹、どっちも馴れ馴れしいな)と、一瞬だけ思いましたが、その反面、涼君と呼ばれたことが、とても嬉しかったことを憶えております。(あとで愛子本人から聞いた話なのですが、このとき愛子は、アキちゃんが涼介と言った言葉がはっきり聞こえず、涼だけしか聞き取れなかったことと、明らかに私が年下に見えたので、咄嗟に涼君と言ってしまったそうです)
 私はアキちゃんと愛子が良く似ていることに驚きながら、とにかく愛子の美しさに、ほとんどではなく完璧に一目惚れしてしまい、確かに薫もきれいでしたが、愛子の近寄り難いほどの大人の女性の色気と、高貴な生まれを思わせるような、透明感のある凛とした美しさの前ではすっかり霞んでしまい、もう薫のような尻の軽い女はどうでもいいと、心の底から思ってしまいました。
 それから4人で食事を始めたのですが、アキちゃんがいきなり、「愛子、俺は涼介に一目惚れしてんけど、お前はどう思う?」とか、「愛子のほうが2歳年上やけど、お前らお似合いやで!」といった感じで、なぜか愛子に私のことを売り込み始め、愛子はその都度、
「もうっ、お兄ちゃん!」と言って、少し顔を赤らめていました。
 私はアキちゃんが冗談を言い続けていると思いながらも、とにかく愛子のことが気になって、ほとんど会話の内容も憶えていませんでした。しかし、その時に一番印象に残っていたのは、愛子が妙なイントネーションの関西弁を話していたということでした。
(後にアキちゃんと愛子から聞いたのですが、二人はもともと横浜で生まれ、両親の死後に東京の育ての親に引き取られ、それからは東京で育ったそうです。その後、里親が貧乏であったために苦労が絶えず、育ての親の死後に、愛子が高校を卒業するのを待って、二人でいい思い出の無かった東京から大阪に引っ越してきて、何事においても器用なアキちゃんは、すぐに関西弁をマスターしたと、当時はそう話してくれたのですが・・・)
 その後、私たちは2時間ほど食事をしていましたが、アキちゃんがとつぜん愛子に向かって、
「お前、お金貸してくれ」と言って、愛子から財布を受け取ったあと、今度は自分のポケットから鍵を取り出して、「涼介、愛子はお前のことを気に入ったみたいやし、俺は今日から薫ちゃんの家に泊まるから、涼介は愛子と一緒に、俺の家に住んでくれ!」と言って、本当に家の鍵を私に渡しましたので、私が驚いていると、アキちゃんは薫を連れて、勘定を済ませて本当に帰ってしまいました。

「!・・・」 
 その時、いきなり瑞歩が寝返りを打って体を反転させて、半身を起こしている私の顔を下から仰ぎ見るようにして、
「それで、それからどうしたん?」と言いました。
「それで・・・ その時、俺は実家暮らしで家が宝塚やってんけど、終電も出た後でタクシー代も無かったから、どうしようって正直に話したら、愛子も財布ごとアキちゃんに渡してしまったから、持ち合わせがなくて・・・ とりあえず店を出て、俺が朝までどっかで時間潰して始発の電車で帰るって言うたら、愛子が一緒に付き合ってあげるって言うてくれて、朝まで近所の公園で話ししてん」
「えっ? 家に行かへんかったん?」
「そんなん、初対面やのに、泊まりになんか行かれへんやろう?」と言うと、瑞歩は少しだけ首を傾げながら、
「そうかなぁ?・・・ 私やったら泊めてあげるけど・・・」と言いましたので、(そんなアホな!)と思いながら、
「そんなこと言うてるだけで、瑞歩も実際にその立場になったら、初対面の人を泊めたりできひんって!」と言いました。
「だから、私は涼介やったらって話やん。誰でも泊めるわけないやろう! それで、それからどうなったん?」
(なんじゃそれ?)と思いながら、
「それで、朝になって別れしなに、愛子が電話番号を教えてくれて、俺はいったん家に帰って寝てんけど、考えたらアキちゃんと愛子の家の鍵を返すのん忘れてたから、その鍵を返すことを口実に、夜になって愛子に電話してんな。そんだら愛子が、アキちゃんから電話があって、薫が俺の初恋の人で、俺が薫を好きやってことを薫がアキちゃんに話して、それをアキちゃんが愛子に話したらしいねんけど・・・ それでアキちゃんが、事情を知らんかったから、悪いことをしてしまったって、俺に謝りたいから、俺から連絡があったら家に呼んでほしいっていうことになって、今からでも家に来られへん?って愛子に言われたから、とりあえず家に行ってんやんか。
 そんだら、家の中に入った瞬間に、いきなり玄関のとこでアキちゃんがごめんなさいって、土下座して謝りだして、俺がもういいですよって言うたらな。アキちゃんが、お前が赦してくれるんやったら、俺は今から薫のとこに戻るけど、涼介は今日からほんまにここで住んでくれって言うて、ほんまに出てってしまって・・・
 そんだら今度は、愛子がアキちゃんの代わりに謝りだして、それからいろんな話をしてんけど、気がついたら電車が無くなってて、結局は家に泊まってんけど」と言った時、瑞歩が興味津々といった感じで目を輝かせて、
「それで、家に泊まってどうなったん?」と言いました。
「その時も、朝まで愛子といろんな話をしたな」
「えっ? また、朝までお話ししただけ? キスとかせぇへんかったん?」
「そんなこと、2回目でできるわけないやろう!」と言って、瑞歩の顔を見たとき、
「じゃあ、愛子叔母さんと初めてキスしたんは、いつ?」と、瑞歩は真面目くさった表情で訊ねてきました。
 愛子と始めてキスをしたというか、愛子から不意にキスされたときのことを思い出し、
「愛子と始めてキスしたんは、それから2ヶ月くらいあとやったな」と言いました。
「えっ! キスするのに2ヶ月もかかったん?」
「・・・・」
 確かに2ヶ月は早いとは思いませんが、決して遅いとも思いませんし、何よりも私から愛子にキスを迫ったのではなく、愛子のほうから仕掛けてきましたので、決して自慢するつもりはなかったのですが、なぜかとつぜん、瑞歩に自慢しようと思い、
「あのな、俺と愛子が初めてキスしたときな、俺からじゃなくて、愛子のほうから」と言ったとき、
「!・・・」
 とつぜん瑞歩が右手を伸ばしてきて、私の口を塞ぎ、
「私は状況なんか訊いてない!」と、不機嫌な顔で言ったあと、口から手を離しました。
(自分から訊ねとって、急になんやねん!)と思っていると、瑞歩は不機嫌な顔のまま、私を少しにらみながら、
「もう分かったから、そのお話しはもういい!」と言いました。
「?・・・」
 瑞歩が、何を分かったのかと訊ねると、
「パパが昔から、相当おかしな人間やってことが分かったし、涼介が初恋の人をパパに寝取られたってことが分かったし、涼介が意外と奥手やってことが分かった」と言いました。
「・・・」
 確かに瑞歩の言うとおり、アキちゃんは昔から相当おかしな人間ですし、私は初恋の相手をアキちゃんに寝取られましたし、私も考えようによっては奥手なのかもしれません。
 しかし、私が奥手かどうかという問題は、あくまで相手によりけりで、どんな名うての色男でも、愛子のような美しい女性を前にすれば、それ相応の時間がかかるだろうと思ったときでした。
 瑞歩が私の目をまっすぐ見つめながら、
「それと、涼介のお話しを聞いてて、私はパパと愛子叔母さんが、涼介に嘘はついたけど、裏切ったんじゃないって思った・・・
 確かにその当時は、どういう事情で苗字を嘘ついて、育ての親が死んだって言うたんか知らんけど、決して涼介を騙そうと思って嘘をついたんじゃなくて、何か理由は分かれへんけど、例えばドラマみたいに、石本加代が元犯罪者やったとか、よっぽどの事情があったから、その時は仕方なく嘘をついたんやと思うねん・・・ 
 涼介もいま、私に二人のことをお話ししてて、そう思えへんかった?」と言いました。
「・・・・」 
 瑞歩にそう言われて、改めて考えてみると、不思議なことに先ほどまで頭の中で渦巻いていた二人に対する疑念が、まるで嘘のように消滅していることに気付きました・・・
 確かに、アキちゃんと愛子は私にそんな嘘をついて、何かメリットがあったとは思われませんし、どの角度からどう考えてみても、私もその嘘によって、何か被害を被ったとも、不利益が生じたとも思いませんので、やはり当時の二人には、私に言えなかった特別な事情があったのでしょう。
「そうやなぁ、あの当時の二人は俺を裏切ったんじゃなくて、理由は分かれへんけど、俺にほんまのことを言われへんかった、よっぽどの事情があったんやと思うわ」
 瑞歩は、私の返答に安心したのか、表情を和らげて、
「そうやろう。だから、私は愛子叔母さんのことはよう分かれへんけど、改めてパパを信じてみようと思うねん」と言いました。
 やはり、私にとってアキちゃんはアキちゃんであり、信じるべき存在であるということを再認識したあと、
「俺も改めてアキちゃんを信じることにするから、いまどこで何をしてるか分からんけど、とにかくこれから何があるにせよ、すべてアキちゃんに任せてみよう」と言いました。
「・・・・・」
 瑞歩はすこし間を置いて、「うん」と言ったあと、とつぜん柔らかな表情が曇り、私が今まで見たことのないぎこちない表情で、
「なぁ、もし愛子叔母さんが見つかったら、涼介はどうする?」と言いました。
「・・・・」
 突然そんなことを訊かれても、どう答えていいのか分からなかったので、
「その時になってみな分かれへんけど・・・」と言ったあと、本当に愛子の居場所が分かったということを、しばらく考えてから、
「多分、愛子に連絡はするやろうけど、もしも愛子が俺に会いたくないって言うたら、俺から会いに行くことは無いと思う」と言いました。すると瑞歩は、複雑な表情のまま、
「私、初めて訊くけど、なんで愛子叔母さんと10年以上も一緒におったのに子供ができひんかったん? それは、作れへんかっただけなんか、それとも何かの原因があって、子供ができひんかったん?」と訊ねてきました。
 私は愛子と子供について、何度も話し合ったときの情景を思い出しながら、
「何か原因があって、子供ができひんかったんじゃなくて、単純に愛子が、40歳くらいまで子供は欲しくないって言うたから、作れへんかっただけやねん」と言いました。
「そうやったん・・・ 愛子叔母さんって、子供が好きじゃなかったのかなぁ?」
 私と愛子は2年の交際・同棲期間を経て、私が大学を卒業したと同時に入籍し、私は大阪の地方銀行へ就職しました。その後、順調に給料が上がっていきましたので、結婚3年目を過ぎたあたりから、私は愛子が子供を産んでくれることを望みました。
 しかし、何事においても穏やかで、主義主張の少ないおとなしい性格の愛子が、こと子供に関することだけは一歩も譲らず、私はどうしても愛子を説得する事ができずに、結局は子供のいない夫婦のまま離婚してしまったので、いま思えば結果的には、子供がいなくて良かったのかもしれません。
「もし、子供がおったら、愛子叔母さんと離婚してなかったと思う?」と、瑞歩が訊ねてきました。
「それは、どうか分からんわ・・・ もともと俺から離婚しようって言うたわけじゃないし、もし子供がおったとしても、世の中には別れる夫婦がいっぱいおるからなぁ」と言うと、瑞歩はとてもさびしそうな表情を浮かべて、
「涼介には悪いけど・・・ やっぱり私、愛子叔母さんのことを聞けば聞くほど、何を考えてたのか理解できひんような気がする・・・」と言いました。
「・・・・」
 どう答えていいのか返答に困っていると、なぜか瑞歩も私と同じく、困っているのか、それとも微笑んでいるのか、どちらともつかない奇妙な表情を浮かべて、
「涼介はまだ、愛子叔母さんのことを愛してる?」と言いました。
「・・・・・」 
 私は今でも愛子のことを愛しているのかと、自分の心に問いかけてみましたが、結局は自分でもどう思っているのか答えが出ませんでした。なので私は、
「別れて5年も経つから、愛してるかどうかは自分でも分からんし、そんな一言で片付けることが出来んくらい、いろんな思いがあるけど、今はほんまに、愛してるって感じじゃなくて、どこで何をしてるんやろうって心配はしてるし、愛子が無事で幸せに暮らしていてほしいと思う」と言いました。
「・・・・」
 瑞歩は無言で、何か考えているといった表情をしましたので、おそらく私の答えに納得していないのだろうと思いましたが、私は自分が思っている正直な気持ちとして、
「それと、別れるときに色々あって、今も疑問だらけやけど、改めて愛子のことも信じてあげようと思う」と言いました。
「愛子叔母さんのことを信じるって、なにをどう信じるの?」
「それは、はっきりしたことは自分でも分かれへんけど、愛子が俺と離婚したことも、その後で行方不明になったことも、今回のアキちゃんの失踪と同じで、裏によっぽどの事情があったから、そうするしか他に道はなかったんであって、愛子が俺を裏切ったんじゃないって、そう信じてあげようと思うねん」と言いました。
 瑞歩はぎこちない複雑な表情のまま、
「そう・・・涼介がそう言うんやったら、私も愛子叔母さんのことを信じることにする。それと、私は涼介のことも信じてるよ」と言いながら、布団の上に置いていた私の右手に自分の右手を重ねてきて、しっかりと握り締めて、
「もう眠いから寝る。おやすみ」と言いました。
「・・・・・・」
 瑞歩に『おやすみ』と言うのを忘れて、しばらく何も考えられずに、彼女の柔らかく暖かい手の温もりを感じていました。
 それにしても、この状況で私を信じているということが、どういうことなのかと、自から進んで複雑に入り組んで考えているうちに、いつのまにか瑞歩は、まるで安心しきった幼い子供のような安らかな表情で、静かな寝息を立て始めました。
 私は空いている左手で、頭上の壁に取り付けられた読書灯を点けたあと、リモコンで寝室のメインの照明の明かりを消しました。
 すると、月明かりのような淡いトパーズ色の読書灯に照らし出された、瑞歩の妖しいまでに美しい寝顔が浮かび上がりました。
「・・・・」
 私は無言のまま、しばらく瑞歩の寝顔を見つめながら、もしも隣で寝ているのが瑞歩ではなく愛子であれば、どんなに気が楽だろうと思いました。
 読書灯の明かりを消したあと、けっきょく朝まで眠ることができませんでした。

第4章 使者と、その使命

23 キス

 翌朝、隣で寝ていた瑞歩が起き上がろうとしている気配で目を覚ましました。結局、明るくなる朝の5時前まで眠れなかった私は、サイドテーブルの目覚まし時計で、いま何時だろうと確認しようとした時、ベッドから抜け出て立ち上がった瑞歩が、体を反転させて振り返りましたので、なぜか咄嗟に寝た振りをしようと、慌てて目をつぶりました。
 すると瑞歩は、ベッドの上に両手をついて、まるで私が寝た振りをしているのかを確かめるかのように、私の顔を上から覗き込んでいるような気がしました。
 彼女はいったい何をしているのだろうと思ったときでした。
「!」
 私はいいことを思いつき、瑞歩に『わっ!』と、大声を出して驚かせることにして、彼女が驚いた時の顔を想像して段々と笑いがこみ上がり、このままだと自分が先に噴出してしまいそうだと思った次の瞬間でした。

「!!!!!」

 とつぜん瑞歩が私に口付けしたあと、
「起きてるくせに!」と言い残して、ドアを開けて寝室から出て行ってしまいました。
「・・・・・・」
 驚かせるはずが逆に驚かされた私は、ひとまず目を開けて天井を眺めながら、なぜ瑞歩はキスをしてきたのだろうと考えました。
 朝の挨拶のつもりだったのか、それともただ驚かせようとしただけなのか、それとも一晩中、何もしなかった誠実さに対するご褒美のつもりなのか・・・ とにかく答えを求めて、目玉をキョロキョロと動かしながら天井を隈なく探しましたが、残念ながら私が求めている答えは、天井には書かれていないと諦めたとき、愛子から初めてキスされたときの情景を思い出しました。
 愛子と付き合い始めて2ヶ月で、同棲を始めたその日の夜に、初めて同じ布団で眠った時でした。私たちは互いに、
「おやすみ」と言ったあと、私は緊張と興奮から眠れずにいると、しばらく経ってから愛子が、
「もう眠った?」と訊ねてきたのですが、私はどう答えようかと迷っていると、愛子がゆっくりと半身を起こし、私の顔を上から覗き込むように自分の顔を近づけてきて、
「おやすみなさい」と言って、キスされてしまったのですが・・・
 サイドテーブルのタバコを手に取り、ライターで火を点けたあと、今がいったい何時なのかと目覚まし時計を見ますと、短針は7と8の間の8寄りを指し、長針はきっちり9を指しておりましたので、朝の7時45分でした。
 このあと、旅行へ出かける瑞歩を、伊丹空港へ11時までに車で送り届けることになっておりまして、ここから空港までの所要時間は1時間ほどなので、あと一時間半は余裕があると思い、タバコを吸い終えた後、このまま布団の中で、時を無為に過ごすことにしました。
 それはなぜかと言いますと、瑞歩と顔を合わせることが恥ずかしいからです。それ以外の理由はありません。
 しかし、なぜ瑞歩は私にキスをしたのでしょう?・・・ 
 彼女はキスをしたあと、『起きてるくせに!』と確かに言いましたので、私が眠っている間に不意を衝いてキスしたということではなく、私が起きていることが分かっていて、キスをしたということになりますので、私に対して自分の意思を、明確に表明したということになるのではないでしょうか・・・
 やはり、血は争えないと言いましょうか、『おやすみなさい』の夜と、『起きてるくせに!』の朝と、状況こそ違いますが、私は愛子と瑞歩の二人から、同意ではなく不意にキスされたことになりますので、もしかするとアキちゃん一族の祖先を辿っていくと、イタリア人やスペイン人といった、情熱的なラテン系の血が異文化合流していたのかもしれないと、またバカなことを考えてしまいました・・・
 確かに私と瑞歩は血がつながっておりませんし、厳密に言えば叔父と姪という関係でもありませんので、赤の他人と言えば間違いなく他人ですし、法律的に問題があるというわけではございません。 
 しかし、どう考えても(やっぱりチューはあかんやろう!)と思った時、もしかすると私の知らない内に、巷のナウいヤング(気に入っているので、また使ってしまいました)の間で、『欧米かっ!』ではなく『欧米化』が進んでいて、キスなどは日常茶飯事となり、ただの挨拶に毛が生えた程度に格下げされてしまったのかもしれない、といったバカな妄想をしながら、何とかタイムリミットぎりぎりの1時間半が経過し、意を決して布団から飛び起きたあと、まずは冷蔵庫の冷たい水を目指してリビングに入ると、
「!・・・」
 私の1時間半に及ぶ妄想劇は、何の意味も無かったことが判明いたしました。
 それはなぜかと言いますと、瑞歩はリビングのガラステーブルの上に置手紙を残して、すでに旅行へ出発していたからです。
 瑞歩が残していった手紙には、次のような文章がしたためられておりました。

『涼介え♡ 私がいなくなって寂しい? 旅行から無事に帰ってきたら、いっぱい慰めてあげるからガマンしてて!
 私がいない間、小説もすこし休んで、(勝手に書いたら怒るで!)ゆっくり羽を伸ばして、のんびりしててね♡ 
 それと、ハズイ(恥ずかしいやで!)から、友達と電車で行ってくるね♡ 
 PS、冷蔵庫がカラッポなので買い物おねがい!』

 皆様はこの文章をお読みになられて、どう思われますか?
 私は読み終えたあと、(まんまラブレターやん!)と思いました。もしかすると瑞歩は、百貨店の外商の三人に、私のことを彼氏だと言ったことは、案外本気だったのかもしれません。
 確かに本気でなければ、あのようにマジなブチキレ方はしないでしょうし、何よりもキスなどするはずがありません。
 そう思って考えてみると、二人で書いている小説の内容も、私たちの実生活を強く反映しており、今の流れで書き進めて行きますと、主人公の美少女と冴えない中年のおっさんが恋に落ちてしまいますので、これはもしかすると、と思ったとき、
「・・・・・」
 とつぜんアキちゃんと愛子の顔が思い浮かびました。
 元の姪に対して、なんという不謹慎な!とまでは思いませんが、やはり人の道を外れているような気がしますし、もしも私と瑞歩がそういう関係になったとして、それをアキちゃんに知られたとき、おそらく彼は怒ったりはしないと思いますが、どんなリアクションをするのか全く想像できません・・・
 そして、別れた妻とはいえ、もしも愛子が自分とそっくりな姪と私ができてしまったと知った場合、想像すること自体を自主規制してしまうほど、背筋が寒くなる思いがしました・・・
 しかし、私は美少女との暮らしの中で、自分自身の理性や自制心を、自分で誉めてあげたいほどよくがんばっていると思いますので、瑞歩からキスされたことくらいで、二人からとやかく言われる筋合いも、咎められることもないだろうと思いました。
 とにかく、もしも瑞歩が本当に私のことを好きだったとしても、本人に気持ちを確かめたわけではありませんし、自分一人で勝手に盛り上がって、あれこれと考えても仕方がありませんので、とりあえず瑞歩が置手紙で私に託した、冷蔵庫空っぽ事件を解決するべく、駅前のスーパーで食材とビールなどを買い込んで別荘に戻りました。
 冷蔵庫に食材を仕舞ったあと、久しぶりに自分で調理をして、出来上がった海鮮ヤキソバを食べながら、これからどう過ごそうかと考えました。
 昨日までの予定では、三宮のキャバクラへ行く気満々でしたが、探偵の調査報告書を見たショックで、すっかり気持ちが萎えてしまったのです・・・ 
 しかし、今の私は瑞歩からキスされたことで、もしかすると自分にもモテ期が到来したのではないかと舞い上がっていますし、せっかく瑞歩が、ゆっくり羽を伸ばしてと置手紙に書いてもいましたし、何よりも昨夜の状況を考えると、よくぞ元姪っ子に手を出さずにがんばった、自分自身へのご褒美として、私はキャバクラへ行く資格があるのではないでしょうか?・・・
 とはいえ、どうも心に何かが引っかかると言いましょうか、なにか後ろめたいような気がしますので、キャバクラへ行く、行かないは、その時の絶え間なく移ろい行く心の動きに任せることにして、この1ヶ月ほど有馬に閉じこもりっぱなしだったので、夜の娑婆の空気を吸いに、とりあえず三宮へ出かけることにしました。


24 使者の到着

 夕方になってひとっぷろ浴びたあと、こざっぱりとした格好で夜の7時過ぎに玄関を出ようとしたとき、来客を知らせるインターフォンの呼び出し音が鳴りました。
 私は「ちっ!」と軽く舌打ちして、こんな時間に誰が訪ねてきたのかと思いながら、紐靴の紐を解いて脱ぐのが面倒くさかったので、そのまま正門の扉を開けて、来客者を直に出迎えてやろうと思い、庭に出て正門へ向かいました。石畳を歩きながら、もしも来客者が長谷川なら、一緒にキャバクラに連れて行き、おごってもらうついでに、モテ期を迎えた男の凄まじさをまざまざと見せつけてやろうと思い、目の前に迫った正門の扉に向かって、
「どちらさまですか?」と言って、鍵を開けて扉を開いた瞬間、
「うわっ!」と大声で叫んだあと、『誰か、誰か助けて~!』とまで、思わず叫んでしまいたくなるほど驚きました。
 一瞬、目の前に巨大な熊が立ち上がっているのかと思いましたが、薄闇の中、目を凝らしてよく見ると、その巨大なシルエットは、グリーンをベースにとても複雑な色合いをしたロング丈のワンピースを身に纏った、巨大で肥大な女性であることが分かりました。
 年齢は不詳で、おそらく40代と思われます。身長は私と同じく180センチ弱、体重は明らかに倍以上の140キロはあろうかという巨漢で、右手に旅行用の大きなキャリーバッグの取っ手を握り締め、左手には紫の風呂敷で包まれた、出前箱ほどの荷物を持ち、長い髪を後ろでまとめて、今風に複雑な形でちょい盛りしておりました。少し落ち着きを取り戻して女性(?)の顔をよく見ると、
「!」
 間違いなく瑞歩が言っていた、アキちゃんが失踪する前に連泊していたという、おネェキャラの超~デブなミツコだということが分かりました。
 相手が人間で安心し、しかもテレビでお馴染みの人物だということで少し興奮した私は、とりあえず何か話しかけてみることにして、勤めて明るい笑顔で、
「こんにちは!」と、元気よく挨拶しました。
 するとミツコは、どこか挑戦的な視線を私に向けながら、
「こんばんは」と、おっさん丸出しの野太い声で、TPOに応じた正確な挨拶を私に返したあと、「あなたが涼介ね?」と、いきなり名前を呼び捨てにされました。
 なぜ私の名前を知っているのだろう?と疑問に思う前に、私は名前を呼び捨てにされても仕方がない、と思うほどの威圧感と圧迫感を覚えました。
「はい、そうですけど」
「私はアキの友達で、ミツコっていうの」
(やっぱりミツコで、アキちゃん絡みや)と思いながら、
「あのう、僕に何か御用ですか?」と訊ねました。
「あなたに大切な用があって訪ねてきたのよ」
「?・・・・」
 ミツコが言う大切な用というのが、どのようなことなのかさっぱり理解できませんでしたが、とにかく今日は朝起きた瞬間から瑞歩にキスされて驚き、先ほどもミツコと熊を間違えて、腰が抜けるほど驚きましたので、もしかすると、みんなで寄ってたかって私に罠を仕掛けているのではないかと思いながら、
「あのぅ・・・ 大切な用って、どんなことですか?」と、ミツコに訊ねてみました。
 ミツコは眼光鋭い目を細めながら、しばらく間を置いたあと、
「想像以上だわ」と言いました。


25 運命の使者

「?・・・・」
 私は訳の分からないまま、
「あのぅ・・・ なにが想像以上なんですか?」と訊ねると、
「さすがは、アキが一目惚れしただけの男だってことよ! それより、早く中に入れなさいよ!」と言いながら、ミツコは私より先に扉を潜り、別荘の中に入って行きましたので、私もあわてて後ろを付いて行き、象のような巨大な背中に向かって、
「あのう、いったいどういうことなんですか?」と訊ねると、
「質問は後にして! 私はお腹が空いてると機嫌が悪いのよ!」と、大声で一喝されてしまいました。
(なにキレとんねん!)と思いながらも、仕方なく玄関のドアを開けて、ミツコをリビングに案内しました。
 ミツコはリビングに入るなり、
「私、今日はどこで寝ればいいの?」と言いましたので、
(おっさん、泊まる気かぃ!)と、思わずツッコミそうになりましたが、何と言えばいいのか分からなかったので黙っていると、
「涼介、ここには使ってないお部屋はあるわよね?」と言われてしまい、私はすこし迷いながら、
「和室は普段から使ってませんけど」と言うと、
「あらっ! 私、和室は大好きよ!」と言って、ミツコはキャリーバッグの中から白い紙袋を取り出したあと、
「じゃあ、さっそくこの荷物を和室に運んで、ついでにお布団を敷いてきてよ」と言って、私にキャリーバッグを渡しました。
 意味の分からぬまま、(ホテルのボーイちゃうぞ!)と思っていると、ミツコはキッチンに移動して、右手に持っていた紙袋と、左手に持っていた紫の風呂敷の包みをテーブルの上に置いたあと、振り返って私を見るなり、
「私はお腹が空いてて機嫌が悪いって言ってんでしょうが! ボサッと突っ立ってないで、早くしなさいよ!」と口角泡を飛ばしながら、かなり傲慢な言い方をしました。
 おそらく本気でケンカしても、勝てそうな気がこれっぽっちもしなかったので、仕方なくバッグを持って和室に向かいました。
 バッグを部屋の隅に置いたあと、押入れの襖を開けて、まっさらな布団を敷きながら、やはり私にはモテ期など到来しなかったということで、キャバクラへ行くことを完全に断念しました。
 リビングに戻ってみると、ミツコはダイニングのテーブルの椅子に座っておりまして、テーブルの上には5段重ねの重箱がありました。そして驚いたことにミツコは、目の前に缶ビールを5本も並べて、手に持ったグラスには早くもビールが注がれておりました。
「涼介、先に失礼してビールを頂いてるけど、あなた、お食事は?」と言いましたので、私はとっさに、
「さっき食べました」と嘘をつきました。
 ミツコは重箱を上段から一重ずつテーブルの上に並べ、
「これね、神戸の知り合いの料亭で、無理言って作ってもらったのよ」と言いました。
 重箱にはそれぞれ、御頭付の鯛と伊勢海老の塩焼き、てんぷら、小鉢料理の詰め合わせ、和風サラダ、赤飯が入っていて、正に豪華絢爛といった料理でした。
 ミツコは私に割り箸を渡したあと、
「あなたも、ちょっとくらいはつまみなさいよ」と言いましたが、私は箸を動かす気分にはなれませんでした。
「いただきます!」と言ったあと、ミツコは今まで不機嫌な顔をしていたのがまるで嘘のように、いきなり満面に笑みを浮かべ、二重あごをタプタプと波打たせながら重箱の料理を次々と口に運び、合間にビールをどんどん流し込んでいく姿に見惚れていると、あっという間に3本の缶ビールが空になりました。
 このままだと冷えたビールがすぐに無くなりますので、私は箱に入った缶ビールを冷蔵庫に12本補充したあと、相手が飲んでいるのに、素面では付き合いきれないと思い、自分のために冷えた1本を持って、席に戻って飲もうとしたとき、
「涼介、あなたお酒は強いの?」と、ミツコに訊ねられましたので、
「はい、たぶん強いほうやと思います」と言うと、
「じゃあいいけど、あなたには大切なお話があるから、絶対に酔っちゃダメよ!」と、釘を刺されました。
(お前は、そんだけ飲んで、大事な話ができんのかい!)と思いながらビールを一口飲み、はたしてミツコはどんな大事な話をするつもりなのだろうと考えました。
 間違いなくアキちゃんの話なのでしょうが、どういった類の話なのかと思ったとき、瑞歩の話を思い出しました。
 瑞歩は確か、アキちゃんは失踪する前に、ミツコの家に3連泊していた可能性があると、探偵の報告書に書かれていたと言っておりましたので、もしかするとミツコは、恋愛の相談をするために、わざわざ私を訪ねてきたのかもしれないと思い、目の前の料理を夢中で貪り食うミツコと、アキちゃんのキスシーンを連想しようと試みましたが、「・・・・・」やっぱり無理でした。
 やはり、どう考えても恋愛関係などありえないと思った時、ミツコが席を立って冷蔵庫に向かいましたので、テーブルの上に目を移すと、5重の重箱が殆どカラッポになっておりました。
(食うの早っ!)と思っていると、またしてもミツコは缶ビールを5本抱えて戻ってきましたので、今度は(飲むの早っ!)と思っていると、ミツコは椅子に座るなり、
「さぁ、これで燃料も補給したし、私の機嫌も直ったわよ!」と言って、新しい缶ビールを開けて、グラスに注いだあと、
「本当は瑞歩が旅行から帰ってくるまでいる予定だったんだけど、とにかくテレビの仕事とかが忙しくって、1日しかお休み取れなかったのよ」と言いました。
「!・・・」
 なぜミツコが瑞歩の存在を知っていて、尚且つ旅行へ行っていることを知っているのかと驚き、その理由を訊ねました。
 するとミツコは、グラスに注いだばかりのビールを一気に飲み干したあと、
「それは、全部私が仕組んだことだからよ」と言いました。


26 建前と本音

(仕組んだって、どういうこと?)と考えていると、
「瑞歩を旅行に行かせたのは私なのよ」と、ミツコは言いました。
「?・・・・」
 私はまったく意味が分かりませんでしたが、
「なんでミツコさんは、瑞歩を旅行に行かせたんですか?」と訊ねました。
「それは、こうしてあなたと二人っきりになるためよ」
「!・・・・」
 私は身の危険、特に股間から尻の辺りに危険を感じながら、ここで一句。

『目に青葉 山ほととぎす 初がつお』

 江戸中期の俳人・山口素堂の作で、目にも鮮やかな青葉、美しい鳴き声のほととぎす、食べておいしい初鰹と、ちょうど今から少し前の季節を詠んだ有名な俳句なのですが、私の場合、目の前の切迫した状況を鑑みて、次の通りです。

『目にオカマ やば!ホモのゲス 初ケツを?』

 最後の『?』が意味するものは、私が掘るのか?、それとも掘られるのか?、どちらかよく分からないという意味です・・・
「あのぅ、僕と二人っきりになって、なにをするつもりなんですか?」と、様々な想像を胸に恐る恐る訊ねると、
「あなた今、変な想像してるでしょう?」と言われてしまいました。
「!・・・」
 図星だったので、どう答えていいのか分からず、はにかんだ作り笑顔をするしかありませんでした。
「さっきも言ったけど、私は今から、あなたと大切なお話をするために来たのよ」
「その、大切な話っていうのは、アキちゃんのことですか?」
「もちろんアキのことを含めて、あなたと瑞歩にとっても大切なお話なんだけど、この場に瑞歩がいると、すべてを話すことができないから、あの子を九州に行かせたのよ」
「えっ?・・・ 九州ですか?」
「そうよ。九州の博多よ」
 もしかすると、自分の記憶違いではないかと思いましたが、私は瑞歩に、お土産は北海道の地酒をと、リクエストしていたので、
「瑞歩は僕に、北海道のグルメ旅行って言ってましたけど」と、確信を持って言いました。
「それは多分、あの子があなたに嘘をついているのよ」
 なぜ瑞歩は、旅行先を偽ったのでしょう?
「じゃあ、瑞歩は九州の博多に、なにしに行ったんですか?」
「あの子は、博多にいる私の友人で、有名な占い師のところに行ったのよ」
「占い師って、何かを占いに行ったってことですか?」
「そうよ。普段は予約無しには絶対に占ってもらえないし、予約なんて半年先まで埋まってるほどの有名な占い師なんだけど、私が特別に頼み込んで、明日の昼に瑞歩を占ってくれるようにしたのよ」
(初耳ですね!)と言おうと思いましたが、雰囲気的にそぐわないと気がしましたので、言葉にしませんでした。
「でも、それは建前の話で、本当は今日、どうしてもあなたと二人っきりで話さなきゃならないことがあったから、瑞歩を半強制的に旅行に行かせて、私はあなたに会いに来た、ってことが本音なのよ」
 有名人のミツコがわざわざ、しかも私と話をするために、それほどまでに手の込んだ作戦を用意し、実行したことに驚きながら、
「瑞歩はなにを占いに行ったんですか?」と訊ねました。
「あの子は自分の運命、というか・・・・ 正確にはあなたと瑞歩の、二人の運命を占いに行ったのよ。だからあなたに、正直に話すのが恥ずかしかったから、北海道って嘘をついたんだと思うわ」
「僕と瑞歩の二人の運命って・・・ なんなんすか、それ?」
「なんなんすかって、二人がこれからどうなるのかってことに決まってんじゃない!」
 私はミツコが何を言っているのかが、よく理解できなかったので、
「ということは、今からする大事な話っていうのは、瑞歩には内緒で・・・ その瑞歩は今、僕との運命を占いに、博多に行ったっていうことですか?」と、自分でも何を訊ねたいのか、よくわからないような質問をしてしまいました。するとミツコは私に、
「そうね・・・」と言ったあと、次にどう答えようかと考えているといった表情で、「今からする大切なお話を、瑞歩に内緒にするかしないかは、私たちが決めることじゃないのよ」と言いました。
「?・・・・」
 私は益々、ミツコが何を言っているのかが分からなくなり、
「あのぅ・・・ はっきり言うて、僕は事情がなんにも分からないんで、できたら初めっから説明してくれませんか?」と言いました。
「そうね、確かにあなたは何も分からないでしょうから、初めから説明するわね。まずは瑞歩のことからだけど、1週間前にあの子が芦屋の自宅に、一日だけ戻ったことがあったでしょう?」
「はい、確かに一日だけ、自宅に戻りました」
「そのとき、瑞歩は自宅に戻ったんじゃなくて、本当は私が瑞歩に電話をして、悪いけど東京まで会いに来てって言ったのよ」と言って、ミツコは話し始めました。
 遡ること今から2週間前、瑞歩のもとに探偵から調査報告書が届きました。その報告書には、アキちゃんの失踪とミツコとの関連性は未だに不明で、ミツコ自身に謎が多く、非常にガードが固いため調査の続行が困難だと記載されていたそうです。
 その調査結果に不満を抱き、納得できなかった瑞歩は、思い切ってミツコと直接会って話をすることに決め、自らミツコにアポを取って面会を申し込みました。それで、ミツコが瑞歩と話し合うことを了承し、彼女は1週間前に東京へ向かったそうです。
「瑞歩と会った時に、あの子がアキとはどういう関係なんですか?って、何か変に勘ぐったような言い方で訊ねてきたから、私とアキは恋愛関係じゃないわよ!って、はっきり言ったのよ。私はいつでもウェルカムだけど、向こうが嫌がるわよ!ってね。
 それで、なぜ瑞歩が雇った探偵が、そんな中途半端な報告書しか出せなかったのかってことなんだけど、私はプライベートでは人と会わない主義だし、自宅に誰かを招きいれるなんて、絶対にあり得ないってことが業界に知れ渡っているのよ。それで、私がアキと3日間も、私の自宅で一緒に過ごしたから、私とアキが変な関係なんじゃないかって、探偵が勘違いしたんだと思うわ」
(そうやったんか・・・)と思いながら、
「それで、アキちゃんはミツコさんの家で、何をしてたんですか?」と訊ねました。
「そのことなんだけど・・・ 順を追って話さないと、あなたも分かり辛いでしょうから、まずはアキとの出会いから話してあげるわ。
 私とアキが知り合ったのは、今からちょうど10年位前、私がまだテレビのお仕事なんかする前で、勤めていた出版社を辞めてフリーのライターとしてひとり立ちしたときだったわ。
 当時流行っていたんだけど、売れなくなった元アイドルとか女優のヘアヌード写真集がいっぱい出ていたのよ。それで、ある売れなくなった女優のが発売されるって情報が入ってきて、私はそんな女優の写真集なんか、絶対に売れる訳が無いって、ある雑誌のコラムに書いて載せたのよ。
 でも、その写真集は発売されるや否や、前評判を裏切ってすごい勢いで売れ始めたから驚いたんだけど・・・ 私は売れるわけが無いって書いた手前、どんなものかと実際に買って見たのよ・・・
 そしたら、その写真集がなぜ売れるのかってことが、すぐに分かったわ・・・なぜなら、その写真を撮ったのがアキだったからよ。
 その写真集の中の女性は、本当にあの売れなくなったお払い箱のおばさんなの?っていうくらい表情が豊かで、とにかくつやっぽくてきらきらと輝いていて、女性の立場の私が見ても、思わず感動するくらいよく撮れていたから、私はあわてて、その写真集を絶賛する記事を書きまくったのよ。それで、それからアキは、その写真集がきっかけで、売れっ子の仲間入りを果たしたんだけど・・・」と言ったあと、ミツコはビールを一口飲み、昔を懐かしんでいるといった表情をしました。
「そうですね・・・ アキちゃんは、その写真集から有名になりましたね」
「確かにそうね。でもアキは、どれほど有名になっても、メディアには一切出ないし、私生活を含めてアキのことを知っている人間はほとんどいないし・・・ とにかくアキって全てが謎に包まれているじゃない。だから私、どうしてもアキに会いたくなっちゃって、半分ストーカーみたいな感じで、アキに取材を申し込んだのがきっかけだったのよ」と言って、ミツコは空近くになっていたグラスにビールを注ぎました。


27 覚悟

「以上が、アキとの出会いなのよ」と言ったあと、ミツコは大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出し、「それじゃあ、今から本題の大切なお話をするんだけど・・・・ その前に涼介、あなたに確かめておきたいことがあるのよ」と言いました。
「確かめるって、なにを確かめるんですか?」
「それはね、あまりにも事情が複雑すぎて、正直に言って私も何から話していいのか分からないんだけど・・・」と言ったあと、ミツコはこれで最後にするからと、グラスに残っていたビールを一気に飲み干したあと、とても真剣な表情で、
「涼介、私は今から自分が知っている事を全てあなたに話すけど、その前にあなたの覚悟というか、本当の気持ちを確認しておきたいのよ・・・・ あなた、正直に答えてくれる?」と言いました。
 ミツコの尋常でない雰囲気から、今から話すことがとても重要なことだということがひしひしと伝わりましたので、私も居住まいを正して、
「はい。正直に答えます」と言いました。
 するとミツコは、目を閉じて腕組みをし、なにやら考え事を始めているように見えました。
 おそらく本人が先ほど言ったように、何から話そうかと迷っているのだろうと思い、無言のまましばらく待っていると、ミツコは目を開けて、まっすぐ私の目を見据えたまま、
「あなた、これから先にどんなことがあっても、瑞歩を守っていく覚悟がある?」と言いました。
「!・・・」 
 私は少し驚き、
「それは・・・ 守っていくって、どういう意味の守るってことなんですか?」と訊ねました。
 しかし、ミツコは私の問いには答えず、
「アキが失踪する前の3日間、私の家に泊まりこんでやっていたことは、どうしたら瑞歩を助けることができるかってことを、二人で考えていたのよ」と言いました。
「!・・・」
 私はミツコの言葉に驚きながら、
「瑞歩を助けるって・・・何から助けるんですか?」と訊ねました。
「瑞歩はね、心が病み始めているのよ・・・」 
「心が病み始めている?」
「そう、病み始めているというよりも、とても深刻に病み始めていた、というほうが正確なんだけど・・・
 あなたは一緒に暮らしていて、どう感じているか分からないけど、瑞歩は気分屋で、人一倍プライドが高くて、情緒不安定なところがあるわよね。でもそれは、本来の瑞歩の姿じゃなくて、あの子はもともと素直で、頭がよくて、おとなしい子なのよ・・・
 でも、瑞歩が持って生まれた、逃れられない悲劇的な宿命というべきか、あの子の逃れられない悲しい生い立ちが、あの子の性格をゆがませて、心の病を患わせてしまったのよ」
「のがれられない宿命と、生い立ちですか?」
「そう、逃れられない悲しい宿命と生い立ちよ。瑞歩は2年前に、野間陽子が引きこもりだしたことがきっかけで心が病み始めたんだけど、初めは野間陽子の態度が急変した事で、不安とストレスを覚えて、それが原因で眠れない日々が続いたりして、本人はただの不眠症だと思ってたのよ・・・ 
 でもそれから瑞歩は、いつも何かにイライラするようになって、他人に対して攻撃的になったり、言葉遣いが悪くなったりし始めて、今度は急に塞ぎ込む日々が続いたりして、もしかしたら自分が心の病かもしれないってことを自覚するようになって、1年くらい前から心療内科に通院し始めて、あなたと出会う前までは、どんどん症状が悪化していくことが、自分でも分かっていたのよ」
「!・・・・・」 
 確かにそう言われてみれば、瑞歩はとつぜん泣き出したり、怒り出したり、急に落ち込んだりと、細かな例を挙げれば枚挙に遑がないほど気分にむらがあることは分かっておりました。
 しかし、それらはただの我が儘で、年齢や経験を重ねることによって徐々に緩和され、いずれは時間が解決してくれるものと思っていたので、まさかその原因が心の病であったとは、想像すらしていませんでした・・・
「瑞歩はね、これから知る、すべての真実が引き金となって、このままだとあの子は、自ら命を絶ってしまう可能性があるのよ・・・」

「!!!」

 頭の中が混乱し、ミツコに何をどう訊ねて、どう理解すればいいのか分からなくなってしまい、何も言葉が思いつかず、一言も話すことができませんでした。
「あのね、私はアキと3日間、瑞歩を救い出すためにはどうすればいいのかを話し合った結果、あなたを巻き込むことにしたのよ」
「えっ! じゃあ、僕を巻き込むことによって、瑞歩の心の病は治るんですか?」
「そうね、あとはあなたの努力次第なんだけど・・・本当はもう、あまり時間が無かったから迷ったんだけど、私がアキに手紙を書かせて、あなたをここの管理人にして、巻き込むことにしたのよ」
「・・・・・」
 私は何を話すべきかとしばらく考えたあと、今までの経緯を最初から振り返り、納得できなかった全ての疑問を、思いつくままミツコにぶつけることにしました。
「じゃあ、時間が無いって言うんやったら、何でアキちゃんが失踪してから2ヶ月が経って、それも何で手紙やったんですか?・・・ もっと早くに電話で話もできたでしょうし、よしんば手紙を送るにしても、あんな訳の分からん、弁護士が送り主の手紙じゃなくて、アキちゃんが自分の名前で手紙を書いて、瑞歩を助けろとか、力を貸せとかって、はっきり教えてくれへんかったんですか?」
「それはね、いくつか理由があって、確かに違う方法もあったんだけど、私とアキは少し遠回りだけど、一番成功率の高いと思った方法を選んで、アキにあんな手紙を書かせたのよ。
 その理由はね、まず、なぜ電話で話をしなかったのかなんだけど、もしもアキがあなたに電話をするか、それとも直接会って話したとしたら、あなたは根掘り葉掘り事情を聞き出して、自分が納得しないと、動かないことが分かっていたし、もしも事情を先に話していたら、あなたがこっちの思い通りにならないことも分かっていたから、一方通行の手紙にしたのよ。それで次に、なぜ弁護士事務所の封筒で送ったのか?ってことなんだけど、アキは自分がどこにいるのかを知られたくなかったことが一番の理由で、2番目の理由は、もしもアキがデタラメな住所で手紙を送って、あなたが何らかの事情で手紙を受け取らなかったら、その手紙は帰るところがなくなってしまうということと、次に普通郵便だとあなたが受け取ったのかどうかが分からないから、あなたに確実に受け取らせるために書留で送ったのよ。
 それで、送り主を弁護士にすることで、あなたが万が一、手紙を受け取らなかった場合、その手紙は弁護士のところに戻って、結果的に弁護士が、あなたに連絡を取るだろうと考えたからなのよ」
 私はミツコが話したことを、全て納得することはできませんでしたが、何をどう納得できないのか、自分でもどう言葉にしていいのか分からなかったので、黙って話しの続きを聞くことにしました。
「そして、何よりも一番大切な理由は、あなたと瑞歩が、二人とも何も知らない真っ白な状態でないと、おそらくこの計画は上手くいかないだろうって思ったからなのよ。
 もしも事前に事情を説明して、あなたたちに真実を打ち明けていたら、おそらくあなたは真実に背を向けて、逃げ出していたでしょうし、瑞歩もおそらく、益々自分の殻に閉じこもることになったでしょうから、どっちにしても先に事情を話すってことは、私とアキの考えではアウトだったのよ。
 そしてなぜ、アキが失踪して2ヶ月が過ぎてから手紙を送ったのかなんだけど、アキはその2ヶ月の間に、自分がこれからどうするべきかと悩んで迷っていたし、最後の最後まで、本当に涼介を巻き込むべきかと迷っていたからなのよ。それでアキは、どうしても自分では瑞歩を救うことができないっていう結論に至ったから、あなたに助けを求めて巻き込むことにしたのよ」
 私はアキちゃんが、明晰な頭脳と、何事にもそつが無い、秀でた器量の持ち主だということを、一番理解しているつもりなので、
「なんで、アキちゃんは瑞歩を救うことができないんですか?」と訊ねました。
「それはね・・・ アキ自身が、瑞歩を苦しめることになる張本人だからよ」
「!・・・」
 私は非常に驚きながら、
「えっ?・・・ なんでアキちゃんが瑞歩を苦しめる、張本人なんですか?」と訊ねました。
「それはね、あなたと瑞歩が、これから真実を知ったときに分かることなんだけど・・・ でもその真実は、アキの知らないところで既に完結してしまっている出来事で、アキにとっては防ぎようの無い、不可抗力な出来事だったから、自分の存在が瑞歩を苦しめることになるということが、アキにとっては理不尽極まりない話で、あまりにもアキが可哀想な話なのよ・・・
 アキと瑞歩が病院の駐車場で初めて会った時、アキは事前に野間陽子から、すべての問題が解決するまでは、瑞歩と接触しないようにって、頼まれていたのよ。
 それはなぜかというと、もしもあの時、二人が実の親子として関係をスタートさせていたら、おそらく何もかも中途半端な形で、何一つ問題を解決することができないだろうって、野間陽子はそう感じていたし、アキ自身も同じ考えだったのよ。だからあの時のアキは、瑞歩を抱きしめてあげることが精一杯だったのよ・・・」
 私は自分の気持ちを落ち着かせるために、深く深呼吸をして、
「それで、僕を巻き込んだことによって、瑞歩の病気は治るっていうか・・・ 瑞歩は助かるんですか?」と、訊ねました。
「そうね。確信は持てないけど・・・・ 確かな事実として、こうやってあなたを巻き込んだことによって、瑞歩の病は確実に改善し始めているし、瑞歩自身も大きく成長し始めているから、これからが一番大切だってことを分かってほしいのよ」
 ミツコが話している内容を、辛うじて理解しているという意味を込めて、ゆっくりと頷きました。
「瑞歩がね、東京に来て私に言ったのは、野間陽子が亡くなって、アキが行方不明になった事で、あの子は自分がすべての身内から見放されて、天涯孤独になってしまったように感じて、あの頃の瑞歩の精神状態は、崩壊寸前だったのよ・・・
 そんな時に、探偵からあなたの存在を知らされて、愛子と離婚してたから正式な親戚じゃないけど、瑞歩にしてみれば、唯一の所在が分かっている身内ということで、あの子は救われたと思ったのよ。
 それで瑞歩は、探偵から渡されたあなたの写真を毎日眺めながら、いつあなたに会いに行こうかと考えていたんだけど、あの子はあなたに会う前までに色んなことを想像していて、もしも自分が訪ねて行ったら、あなたもアキと同じように、行方不明になるんじゃないかとか、冷たくあしらわれたらどうしようとか、とにかく色んなことを想像しながら、いつしかあなたの存在を心の支えにするようになってしまって、つきあっていた彼氏のことなんて、もうどうでもよくなっちゃったのよ。
 それで、探偵からあなたがこの別荘にいるって聞いたときに、なんで野間陽子の別荘にあなたが?って、驚いたと同時に、瑞歩はあなたの方から、自分に近づいてくれたように思って、居ても立ってもいられなくなってしまったのよ。
 それであなたと初めて会った時に、あなたがここの管理人になって、自分の目の前からとつぜん消えたりしないし、どこにも行かないってことが分かった時に、瑞歩は心の底から、本当に救われたと思ったのよ。
 その時から、あなたを異性としてはっきりと意識し始めて、瑞歩は自分の感情を確かめるために、彼氏と別れて、あなたと一緒に暮らし始めたのよ。
 それから瑞歩は、いつもすぐ傍にいてくれる安心感と、あなたのつかみ所の無い変な魅力に惹かれていって、二人で一緒に小説を書きながら、日に日にあなたのことを好きになっていったのよ。
 瑞歩は私に会いに来た翌日から、毎日暇を見つけては私にメールや電話をしてきて、アキとか母親のことよりも、あなたのことを相談したり、報告したりしていたんだけど・・・
 探偵が石本加代の存在を嗅ぎつけたってことを、瑞歩が報告してきたから、事態は待った無しの状態になったし・・・
 何よりも、あなたに対する瑞歩の気持ちが、揺るぎ無いほど固まったことが分かったから、私があなたの瑞歩に対する正直な気持ちと、覚悟を聞きに来たのよ・・・ 
 涼介、アキと瑞歩の二人ではどうすることもできない運命でも、そこにあなたが加わることで、瑞歩の運命を大きく変えることができるはずよ!」 
 私はミツコが語った話を、頭の中で必死に整理して、理解したという証拠に、
「僕は、何をしたらいいんですか?」と訊ねました。
「それはね、これから瑞歩が味わう地獄の苦しみを、あなたが瑞歩の傍にいて、その苦しみを二人で一緒に乗り越えてほしいのよ!  
 そのためには、あなた自身の覚悟が必要だし、それも中途半端な覚悟じゃ絶対に駄目なの! これからあなたたち二人が知る真実は、瑞歩にとっても地獄だけど、実はあなたにとっても地獄なのよ」
「えっ?・・・ 僕にとっても地獄なんですか?」
「そう、あなたは自分の知らない、自分の辛い過去を、わざわざほじくり返して知ることになって、その辛い過去と真正面から向き合うことになるから、あなたにとっても地獄なのよ・・・」
 自分にとっての地獄というのが、どういうことなのかを訊ねようとしましたが、うまく言葉にすることができませんでした。
「それで、さっきも言ったけど、瑞歩が真実を知った時点で、アキが瑞歩の傍にいても、アキ自身が瑞歩を苦しめる張本人だから、どうすることもできないし、何よりも瑞歩の苦しみは、父親の愛情では救うことができないのよ。
 だから、あなたが瑞歩の傍にいて、一緒に苦しみを分かち合うことで、瑞歩は必ず救われるはずだから、瑞歩にとっても、アキにとってもあなたが必要なのよ・・・
 それに、あなたは真実を知った時、過去に起こったすべての出来事を受け入れて、瑞歩を守っていこうという気持ちが無いと、あなたは関係したすべての人たちを怨んだまま、もう二度と立ち直れなくなってしまうから、あなたには覚悟が必要だし、なによりも瑞歩自身が必要なのよ!」
「・・・・・・」
 これから私と瑞歩は、いったいどのような真実を突きつけられ、それによってどのような苦しみを味わうというのでしょう・・・ 
「無責任な言い方に聞こえるかもしれないけど、あなたと瑞歩なら、どんなに辛い出来事も絶対に乗り越えることができるはずよ!
 瑞歩はもう、あなたが思っている以上に、あなたのことを愛し始めているし、あとはあなたが真実と一緒に、瑞歩のすべてを受け止めるだけなのよ! だから涼介、私に約束して欲しいのよ! これから先に何があっても、瑞歩を守り抜くって約束してよ!」
 私は、自分も瑞歩を愛し始めているという正直な気持ちと、何があっても瑞歩を守り抜くという覚悟を、どんな言葉で表せばいいのか分からなかったので、ミツコの真剣な目を見ながら、小さくゆっくりと頷きました。


28 使者と、その使命
 ミツコは険しい表情を少し緩めて、
「涼介、ありがとう」と言いました。
 しかし、私はアキちゃんの行方や、瑞歩の母親といった、ミツコに確かめたいことがあまりにも多すぎて、今にも頭の中が破裂しそうに感じて、本当にこれから先、ミツコから真実を突きつけられたときに、上手く整理して処理する能力が、果たして自分に残っているのかと、先ほど覚悟を決めたにもかかわらず、言葉にできないほど、とても不安になりました。
 ミツコは隣の椅子の上に置いていた白い紙袋を手に取り、それをテーブルの上に置いて、
「じゃあ、今からが本当の辛い作業になるんだけど、この紙袋の中には、私がアキから、あなたに渡してほしいって頼まれた小説が入っているのよ」と言いました。
「しょうせつ?・・・」
「そう、瑞歩から聞いてると思うけど、あの子が必死に探していた、野間陽子がこの別荘の書斎で書いていた小説よ」
「!・・・」 
 なぜ、野間会長の小説を私に?と思いながら、
「それは、アキちゃんが僕に渡してほしいって言ったんですか?」と訊ねました。
「そうよ。野間陽子はこの小説をアキに渡して、アキに全ての真実を打ち明けたのよ。そしてアキはこの小説を、今度はあなたに託して、この小説に書かれた全ての真実を、あなたに打ち明けるのよ」
「・・・・・」
 私は白い紙袋を見つめながら、そこにはいったい、何が書かれているのだろうと想像しました。
「あのね、瑞歩があなたにどこまで話しているのか知らないけど、あの子が雇った探偵は、石本加代のことを含めて、もう色んなことを調べ上げていて、野間陽子が瑞歩に隠していた真実を、薄々気付き始めているのよ」
「えっ!・・・ 野間会長が隠してたことって・・・」と言ったあと、今までの流れを振り返り、「それは、瑞歩の母親のことを隠してて、アキちゃんはそれを会長から聞き出そうとしてたんでしょう?」と言いました。
「それは違うわ。アキは瑞歩の母親のことを聞き出そうとしていたんじゃなくて・・・ アキは、自分と愛子の本当の母親のことを、野間陽子と話し合っていたのよ」
「アキちゃんと愛子の本当の母親って・・・ 交通事故で亡くなったお母さんのことですか?」
「違うわ・・・ アキと愛子の、双子の兄と妹を産んだ女性は、今も生きているのよ・・・」

「!」

 私は一瞬、頭の中が真っ白な状態になり、まるで自分の意思とは無関係であるかのように、
「アキちゃんと愛子って・・・ 双子やったんですか?・・・」という言葉を口にしました。
 するとミツコは、私の問いかけを無視するかのように、
「涼介、この小説が書かれた書斎に行きましょう」と言って、紙袋を手に取り、椅子から立ち上がりましたので、私も続いて立ち上がったとき、二口しかビールを飲んでいないのに、まるで酔っ払っているかのように、頭の中がぐるぐると回り始め、よろめき、倒れそうになるのを何とか椅子の背もたれをつかんで凌ぎました。
「涼介、大丈夫?!」と言って、ミツコが駆け寄ろうとしましたが、
「大丈夫です」と言って、何とか歩き出し、ミツコと一緒にリビングを抜けて、書斎へ辿り着きました。
 ミツコは書斎に入ると、紙袋の中から大凡500枚、10冊分ほどの原稿用紙を取り出し、迷わずオークの机の前に行き、私と瑞歩が小説を書いている原稿用紙を机の引き出しに仕舞ったあと、野間陽子が書いた小説を、生まれ故郷の机の上に置きました。
 ミツコは書斎の入り口に立っていた私に向かって、とても悲しそうな表情を浮かべながら、
「涼介、あなたが訊きたいことは、すべてこの小説に書かれているけど、野間陽子はこの小説を、最後まで書き上げることができなかったのよ」と言いました。
「えっ?・・・ それって、どういう意味ですか?」
「今から説明するから、とにかくここに座って」
 私は不安定な足取りでオークの机に辿り着き、椅子に座って一番上の原稿用紙に目をやりました。
 そこには、『白鳥(しろとり)の里』という、小説のタイトルが書かれておりました。
「おそらく、野間陽子は最後まで書き上げる前に、病気で気力と体力を奪われて、限界が来たんだと思うけど・・・・」
「じゃあ、この中に、全ての真実が書かれてないってことですか?」
「いいえ、それは大丈夫よ。この小説を読めば、全ての真実を知ることができるんだけど、最後のほうは走り書きっていうか・・・
 この小説の3分の2を過ぎたあたりから、急に文体が変わるっていうか、文章がとても簡略化されているのよ」
「簡略化?」
「そう。おそらく野間陽子は、自分が生きている間に、完成させることができないって判断したから、過去に起こった事実を簡潔にまとめて、書き記したんだと思うわ」
「・・・・・」 
 ミツコが言っている、簡略化や、簡潔にまとめるという意味がよく分かりませんでした。
「それとも・・・ もしかしたら野間陽子は、自分で書いていて、あまりにも辛くなりすぎて、文字をつなげて文章にしていくことができなくなったのかもしれないわ・・・」
 瑞歩が言っていた、野間会長の態度が急に変わったということを思い出しました。ミツコが言うように、おそらく野間会長は、顔の表情や人格まで変わるほどの辛い思いで、この小説を書いていたのでしょう。
「もし、私が野間陽子だったら、罪の意識に苛まれて、一行も書くことなんてできないわ・・・」と言ったあと、ミツコは私の肩にそっと手を置いて、
「あなたと瑞歩の過去に、何が起こったのかを、今から自分の目で確かめなさい」と言いました。
 この小説を読み終わったとき、私はいったい何を失い、その代償として何を受け取ることになるのでしょう?・・・
「涼介、私は和室かリビングにいるから、全部読み終わったら私のところに来て」と言って、ミツコは書斎から出て行きました。
 真実が記された小説、『白鳥の里』を読み始める前に、深く目蓋を閉じました。
 世の中には決して知られてはいけない真実や、知らないほうが幸せという真実などがありますが、私が手にしている真実は、たとえ私が逃げ回ったとしても、決して避けて通ることができない真実であり、私の理解や納得など必要としない性質のもので、私が38年間かき集めてきた、わずかに人知と呼べるものなど及ばない次元で、私は知るべくして知るということが、既に決まっていたのでしょう。
 おそらく、もうこれで、すべての疑問から解放されると同時に、私に残されたすべての逃げ道を失うことになるかもしれません・・・
 しかし、私は自分自身のために、そして何よりも瑞歩のために、その逃げ道を自ら封鎖しなければならないでしょう・・・

 ゆっくりと目蓋を開いて、『白鳥の里』を読み始めました。

第5章 小説『白鳥の里』前編

29 白鳥町

 すべては、四国の小さな港町から始まりました。
 今から約40年前、野間製作所が香川県の大川郡白鳥町(現在の香川県東かがわ市)という、四国の北東部に位置する、播磨灘を望む静かな港町に在ったころの出来事です。
 この町の名が白鳥町となった経緯は、その昔、古くは古事記や日本書紀に登場する日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が戦死した後、大きな白鳥となって、この地に舞い降りたという伝説から由来しております。
 白鳥町は現在でも手袋の生産が日本一で、プロ野球選手やプロゴルファーを筆頭に、あらゆるジャンルのアスリートたちが使用する革手袋のほとんどが白鳥町で生産されており、野間製作所は手袋を製造するメーカーとして、約80年前に従業員30名ほどの小規模な町工場からスタートしました。
 野間製作所は野間陽子の父である和夫かずおが創業し、その頃の野間家の家族構成は陽子の母の節子、祖父母の一郎と清子でしたが、野間家を実質的に支配し、コントロールしていたのは、家長の和夫ではなく母の清子でした。
 野間家は江戸時代から続く由緒ある家柄で、明治時代には有名な科学者を、昭和初期のころには国会議員を輩出するなど、地元では有名な旧家でした。
 しかし、和夫の父である一郎が無能な男で、中国大陸での鉱山開発や、小豆や小麦の先物取引といった、ありとあらゆる投資の事業に手を出しては失敗を重ね、放蕩と浪費を繰り返した結果、和夫が家督を継いだ時には野間家の財政は逼迫し、いつ破産してもおかしくない状態でしたが、その危機を救ったのは清子でした。
 清子は旧華族出身で、倒れ掛かった野間家の財政を立て直すために、自らの生家から援助を引き出して、何度も夫の危機を救ってきただけに、野間家の誰一人として清子に逆らうことはできず、意見することもはばかられておりました。
 和夫は先先代が科学者で成功を収めたという実績と、清子が父と同じ轍を踏まないようにという強い勧めで、地元の工業高校を卒業し、堅実な物作りを志して野間製作所を興しました。
 折しも工場の創世記は、大戦前の世界恐慌などの煽りで受難続きでしたが、中国向けの輸出などで辛うじて食いつなぎ、徐々にではありましたが何とか業績を伸ばしていきました。
 その後、世界中を巻き込んだ大戦が始まり、和夫は手先の器用さを買われ、当時の神奈川県にあった軍の研究施設で、軍艦や潜水艦の開発に携わることになりました。 
 やがて戦争が激しさを増すにつれて、人々の暮らしぶりは困窮し、国民の間に戦況の悪化が伝わり始めた頃、アメリカ軍による本土への空襲が始まり、焼け野原の焦土と化した大阪から、13歳の石本加代という少女が、四国の白鳥町へ疎開して来ました。
 加代は戦災孤児で、1945年3月の大阪大空襲によって両親と兄を失い、自らも焼夷弾によって、背中から左腕にかけて大火傷を負いましたが、何とか一命を取り留め、四国の親戚を頼って白鳥町に疎開しました。しかし、疎開先の親戚の暮らしぶりも、一日一度の食事も食うや食わずとままならなかったため、親戚は遠縁に当たる陽子の母の節子を頼って、火傷が癒えずに働けない加代を厄介払いするかのように、野間家に預けることになりました。
 しかし、加代は野間家に暖かく迎えられ、火傷も節子の手厚い看病のおかげで回復し、野間家の人たちは体の傷が癒えた加代を家族の一員のように大切に扱い、戦争で家族を失った加代の心の傷を癒してくれました。
 やがて終戦を迎え、体に大きな火傷の痕が残った加代は、普通の女性としての幸せを諦め、世話になった野間家の女中奉公として生きる道を選択し、幼い陽子の姉のような役割を果たしながら、女中として一生懸命に働き始めました。
 そして野間家に待望の跡取りである秀夫(ひでお)が誕生し、加代は秀夫をまるで我が子のように愛情を注ぎ、陽子も9歳離れた弟の面倒を良く見ておりました。
 その後、野間製作所は和夫が戦時中に軍の優秀な技術者から培った技術と経験を生かし、手袋の生産以外にも特殊な工作機械、ワークマシーンやマザーマシーンの製造に、果敢にチャレンジしていきました。
 和夫は持ち前の勘の良さと根気強さで、試行錯誤を繰り返しながら、独学で工作機械の設計と製造を手がけて成功し、戦後復興の成長期に支えられて、会社は目覚しい発展を遂げ、和夫は家族の期待通りに野間家の財政を立て直すことに成功したとき、清子がとつぜん、野間家の跡取りとしての教育を施すという名目で、幼い秀夫を自身の生家がある大阪で育てると言い出しました。
 清子は旧華族出身なだけに特権意識が強く、嫁いだ頃から四国の田舎暮らしを嫌がっていたので、野間製作所の業績が軌道に乗り、自身の生家への借金を完済した直後に、無能であった夫が亡くなったことを千載一遇の機会と捉え、四国から逃げ出すための口実と、自身の寂しさを紛らわすために秀夫を連れて行くと言い出したのですが、野間家の誰一人として、清子の強引な申し出を断ることができませんでした。
 しかし、幼い秀夫が母や姉、そして加代と離れるのを嫌がったため、見るに見かねた加代は家族を失った大阪を嫌っておりましたが、自身も息子のように育ててきた7歳の秀夫と離れることに耐え切れず、自ら清子と節子に大阪行きを志願し、引き続き秀夫の面倒の見ることを許されて、秀夫の侍女として一緒に大阪へ移り住むことになりました。
 そうして三人は大阪に居を移し、清子の悠々自適な隠居生活が始まりました。しかし、秀夫の大阪での暮らしぶりは、清子が掲げた旧家の立派な跡取りとしての教育を施すという名目とは、意を異にしたものでありました。
 勝手知ったる実家で金と暇をもてあましていた清子は、歌舞伎の観賞や日本舞踊、華道や茶道といった自らの趣味に秀夫を引っ張りまわした結果、いつしか秀夫は家業の工業は勿論、経営哲学などには何の興味も示さない、芸術家肌の青年に成長しました。
 一方、陽子は秀夫とは対照的に、先祖と父の気質を多く受け継いだのか、幼い頃から機械とその仕組みに興味を示し、地元の高校を卒業後、大学へ進学する女性が少なかった当時にしては非常に珍しく、東京工業大学の機械化学科へ進学し、男子学生に混じって4年間を大変優秀な成績で卒業後、大学院の修士課程に進学し、機械工学に対する独自の理論の研究に没頭する日々を送っておりました。
 高校生となった秀夫は三島由紀夫を知り、その作品に魅せられて文学の世界に足を踏み入れていくようになりました。
 秀夫が三島にのめりこんでいった理由のひとつとして、三島の生い立ちが深くかかわっていたと推察されます。
 秀夫が三島と同じく、幼いときに両親から引き離されて、ヒステリックな芸術家肌の祖母に育てられ、その影響を大いに受けたという共通点に、秀夫が深く感銘を受けたものと思われます。
 しかし秀夫は、三島のような憂国を訴える思想信条や政治理念にはまったく興味が無く、その作品のみを愛してやまない文学青年でありました。
 いつしか秀夫は、三島のいる東京に憧れを抱くようになり、姉の陽子も東京で頑張っているということで、大学は早稲田の文学部に見事合格し、入学と上京の準備を始めたころ、大学生となった秀夫を見届けるようにして、彼に多大な影響を与えた清子が老衰で他界し、秀夫は遺言に従って、清子が遺した莫大な財産の半分近くを受け取り、秀夫が上京することによって、大阪での役目を終えた加代は、10年ぶりに四国の野間家に戻り、再び女中としての生活が始まりました。 
 その頃の陽子は、大学での数々の研究の成果が実を結び、若くして助教授(准教授)にまで上り詰めておりました。
 しかし、折しも時代は全共闘の真っ只中で、陽子は否応なく学生運動に巻き込まれ、自身の大学での研究もままならなくなった彼女は、自分の研究に参加していた5人の優秀な大学院生を引き連れて、四国の有数企業にまで成長した野間製作所に入社するために、生まれ故郷の白鳥町へと向かいました。


30 出会い

 秀夫が入学して1週間が経ったとき、大学の同じ文学部の教室で、ある女性と運命的な出会いを果たしました。
 その女性は、秀夫の同級生の白鳥久美子(しらとりくみこ)という娘で、偶然にも久美子は秀夫と同じ白鳥町出身で、二人は11年ぶりに再会したのですが、実際のところ相手を憶えていたのは秀夫だけで、久美子は秀夫から声をかけられたとき、彼のことをまったく憶えておりませんでした。秀夫は小学1年の途中まで過ごした、白鳥町時代の記憶をほとんど失くしておりましたが、久美子の苗字が町名と同じであったことと、何よりも彼女が幼い頃から大変美しかったので、彼は久美子のことをはっきりと憶えていたのです。
 読み方こそシロトリとシラトリの違いはあれ、久美子の苗字が町名と同じ白鳥となった経緯は、この地に古くから日本武尊を祀った白鳥神社があり、久美子の祖先が長年に渡って白鳥神社に仕えていたことから、白鳥という苗字を神官から授かったという由縁でありました。
 その後、秀夫は美しく成長した久美子に一目惚れし、積極的にアプローチを開始しました。
 秀夫は身長175センチと、当時としては高いほうでスタイルも良かったのですが、顔のほうは特別に男前という訳ではなく、端正な面立ちをしておりましたが、どちらかと言えば平凡な感じの青年でありました。しかし、久美子は秀夫に対して、今まで自分が接してきた地元の青年たちには無い、生まれ育ちの良さや、大阪で育まれた関西弁の、洗練された会話術と雰囲気に興味を抱き、二人はデートを重ねていきました。
 やがて久美子は、秀夫の持って生まれた毛並みの良さや、がさつさのない気配りと優しさ、そして何よりも読書という共通の趣味と、久美子が絵本作家を目指しているという、共通の将来の夢も手伝って、ほどなく二人は恋人同士となりました。
 しかし、二人のキャンパスライフは順風満帆とは行かず、やはり時代の大きな波に飲まれるようにして、秀夫と久美子は学生運動に巻き込まれていきました。
 政治理念や思想信条などにまったく興味がなかった秀夫と久美子にとって、学生運動とは厄介以外の何者でもなく、その活動が過激さを増すにつれて、大学が閉鎖と再開を繰り返す日々が続きました。
 やがて二人は大学と学生運動家たちに嫌気が差し、身の危険を感じたこともあって、二人は無期限の休学届けを大学に提出したあと、互いに借りていたアパートを引き払い、どうしても書斎がほしかった秀夫は、財力に物を言わせて、目白に一軒家を借りて一室を書斎とし、そこで二人の同棲生活が始まりました。

 久美子は幼い頃から絵本や童話が大好きで、アンデルセンやグリム童話、日本の昔話などを片っ端から読み漁る、とても本好きな少女でした。そして彼女は中学の頃から小説を読み始め、秀夫と違って日本の作家以外にも海外の有名な小説も好んで読んでおり、その数は優に300作を超え、中でも彼女のお気に入りの作家は、日本では川端康成と芥川龍之介、海外では『カラマーゾフの兄弟』を書いたロシアのドストエフスキー、『ジキル博士とハイド氏』を書いたイギリスのスティーヴンソンなどでした。
 秀夫は久美子から、国やジャンルを超えたそれらの名作のストーリーや感想などを聞くうちに、まるで自分が読んだかのような錯覚に陥るほど、彼女は小説という長い話を短くまとめて、説明することにも長けておりましたし、久美子は日本のことはもちろん、世界各国の国柄や人柄、風土や風習など、本から得た知識が豊富で多岐に渡り、特に日本の近世や中世ヨーロッパの歴史や文化に造詣が深く、とても19歳の若い娘とは思えないほど物知りでありました。

 二人の東京での生活が落ち着き始めた頃、相変わらず大学が再開と閉鎖を繰り返して先行きが不透明であったので、二人はその間に独学で小説を書き始めようと思い、書くべきテーマを久美子と相談した結果、秀夫の乳母であり、母や姉以上の存在である石本加代の半生を書くことにしました。
 戦後の混乱期を逞しく生き抜いた女性の物語を、まず秀夫が粗筋を書き上げ、後から久美子が参加して手直しするという手法で執筆を開始しました。
 二人で書き始めて間も無く、秀夫は久美子の中に非凡ならぬ文才が秘められていることに気付きました。
 久美子の豊富な知識から導き出されるアドバイスは的確で、文章の構成能力やストーリー展開、心理描写などが巧みできめ細かく、そこに秀夫のユーモアのセンスが加味されたことによって、小説は初めて書いた素人とは思えないほどのレベルで進んでいきました。
 秀夫にとって久美子との執筆は、彼の創作意欲や表現意欲を大いに満足させ、いつしか彼は久美子さえ傍にいてくれれば、自分は大学へなど行かなくても、作家として充分に成功できるのではないか、とさえ思うようになりました。
 そうしたこともあって秀夫は、久美子を人生のパートナーと決め、彼女に正式にプロポーズをして了解を得たあと、二人は互いの両親に結婚の許しを得るために白鳥町へ向かいました。
 いきなりの結婚宣言を聞いた両親たちは驚き、戸惑いはしましたが、特に反対する理由も無かったので、二人が大学を卒業するまで入籍をせず、子供も作らないというのであれば、正式に婚約者として認めるという条件を出し、もちろん二人は了承しました。
 しかし、かけがえの無い存在である久美子を得た秀夫が、自分の人生が何もかも順調に進み、後は作家となる夢を叶えるだけだと思った矢先、一人の女性の出現によって、二人の幸せな日々は予想もしない展開へと向かうことになりました。


31 妹

 久美子には2歳下の美智子(みちこ)という妹がおりまして、二人は美人姉妹ということで地元では有名でしたが、その性格は対照的と言っていいほど、姉は誰にでも優しい温厚な性格で、いつも笑顔を絶やさず優しさがにじみ出ているといった、才色兼備な女性でしたが、妹は今で言うクールビューティーといった、気品と気高さを身に纏い、冷静沈着で物静かな見た目とは裏腹に、とても気性の激しい勝気な娘でした。
 二人は幼い頃は仲の良い姉妹でしたが、その対照的な性格の違いから、成長過程に於いて二人の間に亀裂が生じ、品行方正で努力家な優等生の姉に対して、勉強嫌いな妹は成績が落ちるに比例して、その亀裂は徐々に広がり、やがて深い溝となっていきました。
 妹は幼い頃から周囲の大人たちが、そのあまりの可愛らしさに彼女の我が儘を聞き入れ、中学に入学してからは美智子のあまりの美しさから、周りにはいつも複数の男子生徒たちが群がり、その男たちはまるで女王に仕える下僕のように、彼女の機嫌を伺うようになったことで、彼女の我が儘は益々エスカレートしていきました。
 高校生となった美智子は、学校のマドンナ的存在であった姉に反発するかのように、次々と男を取っかえひっかえしたことで様々な悪い噂が立ちはじめ、二人は以前の美人姉妹としてではなく、別の悪い意味で有名になっていき、そんな妹を久美子は迷惑に思いながらも、やはり血を分けた妹だけに心配しておりました。
 しかし、久美子は妹の影響で、自身にも身に覚えのない異性関係の妙な噂が立ち始めたことがきっかけで、何度も美智子に態度を改めるように注意していたのですが、その努力もむなしく、美智子は自己中心的で、人の気持ちが分からない傲慢な娘に成長し、いつしか久美子は妹を遠ざけるようになっていきました。
 そうして美智子は、天性というべき小悪魔的な才覚を駆使して、言い寄る男たちを次々とはべらせ、手玉に取るような振る舞いを重ねた結果、美智子の周りではいつも男同士の小競り合いが絶えず、いつしか彼女は有名な美少女から、男を狂わすトラブルメーカーとなってしまいました。 
 そんな美智子の美しさは地元に留まらず、周辺地域にまで鳴り響き、彼女が高校2年生の夏休みに入る前の出来事でした。
 美智子と同じ学校の男子生徒と他校の生徒が、彼女との交際を巡って争い、やがて学校同士を巻き込んだ大きな抗争に発展し、双方に多数の重軽傷者を出したのですが、その内のひとり、美智子と同じ町内に暮らす男子生徒がナイフで腹部を刺され、2日後に死亡するという大きな事件となりました。
 高校側は問題の多かった美智子を退学処分とし、彼女の両親は顔見知りの息子が亡くなったということで、美智子を家の中に閉じ込めて一歩も外へ出さないようにしたあと、終わりの無い謝罪の日々が始まりました。
 地元に居づらくなった美智子は、疎遠となっていた東京にいる姉の久美子を頼り、何度も連絡してしばらくの間の居候を頼んでおりましたが、久美子は秀夫との安穏な生活を邪魔されるという思いと、何よりも美智子の激しい性格と、男を虜にせずにはいられない魔性のような美しさから、秀夫に何らかの悪影響や害が及ぶことを杞憂して、美智子の頼みを拒み続けておりました。
 そんなある日、美智子が懲りずに久美子に電話をしたところ、買い物に行っていた久美子の代わりに秀夫が電話に出てしまい、美智子はまるで実の兄に助けを求めるように自身の切迫した状況を陳情し、人の良い秀夫は久美子の憂慮を汲み取ることなく、まるで妹を東京見物にでも誘うかのような軽い気持ちで美智子を引き受けると約束してしまいました。
 当然のごとく、秀夫と久美子は大いに揉めましたが、美智子は猛反対した両親と親子の縁を切り、もう二度と白鳥町には戻らないと覚悟を決め、秀夫と久美子が暮らす大都会の東京へ向かいました。

 一方、その頃の陽子は、父の和夫が野間製作所の会長に就任したことによって、自身は社長に就任し、アメリカで開発されたコンピューターをいち早く導入して、独自の制御システムの開発に取り組んで成功を収め、精密機械の製造工程のほとんどを無人のオートメーション化することに成功したあと、その制御システムが重工業の様々な分野で応用が可能ということで、野間製作所の業績はまさに飛ぶ鳥を落とすような勢いで急成長し、業務が拡大するに連れて、陽子は東京までわざわざ足を運んで、通産省や特許庁との書類のやり取りといった、パイオニア企業としての宿命というべき、中央の各省庁への許認可申請などに追われ、もはや野間製作所の業績と規模、多方面に渡る取引先などへの対応や役割などを考えると、四国の手狭な片田舎では立地条件があまりにも不便であるため、陽子は会社ごと関東に移転することを真剣に考え始めておりました。


32 終わりの始まり

 東京で新たな生活を始めた美智子は、しばらくは借りてきた猫のようにおとなしくしておりましたが、やはり17歳という年齢と持ち前の旺盛な好奇心から徐々に本領を発揮し始め、久美子に気を使いながらも、執筆以外に暇を持て余していた秀夫を引っ張りまわして、都内の観光名所などを巡りながら日々を過ごしていました。
 大都会は美智子の生まれ育った白鳥町と比べるまでも無く、彼女の好奇心を満たすばかりか、一日が24時間では足りないと思うほど、毎日が新たな発見と刺激に満ち溢れておりました。
 秀夫は久美子の心配をよそに、美智子にデパートで洋服を買い与えたり、レストランでテーブルマナーを教えたりしながら、実の妹のように可愛がりましたので、久美子にしてみれば、婚約者の秀夫を信じながらも、気が気でない毎日を送るようになりました。
 しかし、秀夫にしてみれば、実の妹に嫉妬するなど馬鹿げた話と思っておりましたし、何よりも美智子自身は秀夫のことを、何でも言うことを聞いてくれる大金庫のようにしか思っていなかったので、久美子が心配すればするほど、秀夫はその嫉妬心は自分に対する愛情の裏返しだと思っておりましたし、美智子はそんな不器用な考えしかできない姉を不憫に思いながらも、どこか小馬鹿にしておりました。なので、姉妹は事ある毎に対立し、時には激しく口論することもありました。
 そんな姉妹喧嘩を微笑ましく眺めながら、いつしか秀夫は、今書いている小説が完成すれば、次は美人姉妹をテーマに小説を書いてみようと思うようになりました。

 やがて土地勘を養い、久美子の嫉妬を怖れた美智子は、夜な夜な一人で新宿や六本木、渋谷などに出かけるようになり、そこで知り合った複数の男たちと遊びまわるようになったことで、彼女は人生で初めて屈辱を味わうことになりました。
 四国では通じた、その美しさに任せた神通力も、大都会の男たちにはまったく通じず、何度も危険な目に晒されては窮地を脱し、時には痛い目に遭うこともありましたが、その心は決して折れることも挫けることもなく、危険な遊びを繰り返しながらも、彼女は次第に標準語と、東京の流儀というものを身に付けていきました。
 しかし、そのような美智子の常識外れな夜遊びに久美子の堪忍袋の緒が切れてしまい、美智子を家から放り出さなければ、自らが出て行くと言い出しましたので、困った秀夫は美智子のために、中野にアパートを借りてやることになりました。
 そのようにして美智子は一人暮らしを始めたのですが、彼女は物心付いた頃から女友達とつるむことを嫌い、いつも一匹狼的な単独行動を好むことが仇となり、ある時に渋谷の女性グループとトラブルを起こしてしまい、男を使って先に手を出し、ケンカ相手の女性に重傷を負わせたということで、非があった美智子は女性グループに身柄をさらわれた挙句、多額の治療費を要求されました。
 自身で解決することができずに困り果てた美智子は、秀夫に助けを求めました。
 秀夫は美智子の将来を考慮して、警察に届けることはせずに、身柄と交換に当時としては大金の50万円を支払うことになったのですが、身柄を引き受けに行ったときに、彼は美智子の身を案じるあまりに、生まれて初めて大きな怒鳴り声を上げて、彼女を平手打ちで思いっきりひっぱたきしました。
 これまで美智子は、秀夫のことを異性として意識したことは一度も無かったのですが、彼から本気で叱られたことによって、彼女は自分自身に対する悔しさと恥ずかしさを感じながらも、いくら迷惑を掛けても暖かく迎え入れてくれる、彼の度量の大きさと愛情の深さを感じて、この時に初めて秀夫に恋心を抱きました。
 その後、いちど恋心に火がついてしまった美智子は、姉に対する背信と遠慮から、すぐに行動を起こすということは無かったのですが、秀夫に対する思いを我慢すればするほど、いつしかその思いは姉に対する狂おしいほどの嫉妬となりました。
 しかし、秀夫に大きな迷惑をかけた直後なので、しばらくは夜遊びも控えて大人しくじっと我慢しておりましたが・・・
 そんな美智子の気持ちをよそに、秀夫と久美子は予てから執筆していた小説を完成させ、出版社の新人賞の応募に投稿したあと、久美子は作品に対する手応えのようなものは感じておりませんでしたが、最後まで書き上げたことによる達成感に包まれ、婚約者の夢が叶うようにと、成功を心から祈っておりました。
 しかし、秀夫は久美子と違って、書き上げた作品に自信を持ちながらも、どこか釈然としない複雑な思いを感じておりました。
 その理由はやはり、出来上がった小説は久美子の援助の賜物であって、もしも一人で書いていたら、これほどの完成度の高い作品となっていただろうか?という思いから、まるで借りてきたふんどしで相撲をとってしまったような気がしてならず、はたして自分の実力はどれほどのものかと、疑問を抱いておりました。
 そうして秀夫は、久美子の有り余る文才に対する嫉妬からか、今度の作品は一人で書き上げると言い出し、書くべきテーマを構想通りに、対照的な性格の美人姉妹に翻弄される男の物語と決め、書斎を出入り禁止にして単独で執筆を開始しました。
 一方、美智子が悶々とした気持ちを抱えたまま2週間が経った時、とうとう秀夫への思いを抑えきれなくなった彼女は、秀夫に対して驚くべき行動に出ました。
 彼女の思考回路は短絡で過激なだけに、秀夫に対して姉との婚約を解消して、自分と結婚してほしいとストレートに迫りましたが、秀夫にしてみれば寝耳に水のような話で、奇しくも自分が書き始めた小説の内容と、実際の生活が同じような様相を呈してきたことに驚きながらも、告白された当初は美智子の話を真に受けずに聞き流し、自分が愛しているのは久美子であり、あくまでも美智子は愛する女性の妹としてしか見ることができないといって、まったく相手にしませんでした。
 美智子にしてみれば、自分から告白したことも初めてでしたが、いくら姉の婚約者とはいえ、秀夫は初めて自分になびかない男ということで、彼女の自尊心は傷つき、思い悩みましたが、その後も美智子は手を変え品を変えながら、何とか秀夫の気を引こうと必死に努力しました。
 そのうちに秀夫は、どうやら美智子は本気で自分のことを好きなのかもしれないと思い始めたとき、事態は思いがけない意外な方向に向かって動き始めました。


33 三角関係
 一人で姉妹の物語を書き始めた秀夫は、執筆に行き詰まると、気分転換に買ったばかりの車でドライブに出かけるようになりました。 
 相変わらず美智子は自分に言い寄ってきていたので、秀夫は何度か美智子とドライブに行き、一緒に食事をしたりしながら、自分への思いを諦めるように説得していましたが、美智子は一向に諦める様子も無く、それどころか自宅のアパートに幽霊がでるとか、不審者が出没するなどと言って、なんとか秀夫を自宅へ招き入れ、なし崩し的にでも関係を深めようとしました。
 そんなある日、久美子に母親から電話があり、実家の隣町の引田町ひけたちょうで暮らしていた母方の祖母が亡くなったので、美智子を連れて帰ってくるようにとの悲しい知らせがありました。
 久美子と美智子は両親が共働きだったことで、二人は幼いころからおばあちゃんっ子として育ったこともあり、久美子は強い衝撃を受けました。一刻も早く、亡き祖母に別れの挨拶をと思った彼女は、秀夫に祖母の死を知らせたあと、美智子に電話をして、すぐに四国へ向かおうと言いました。しかし美智子は、祖母の死を悼みはしましたが、自分は両親と親子の縁を切り、二度と白鳥町には帰らないと決心しているので、葬儀には参列しないと言ったことで、二人は大喧嘩になり、久美子は美智子の説得を諦めました。
 久美子は妹に対する怒りを堪えたまま、帰郷の準備を始め、秀夫にも喪服と黒いネクタイの用意をと話したとき、秀夫から意外な言葉を聞くことになりました。
 それは、学生運動家たちが主催する討論会が2日後に開かれ、その会に三島由紀夫が参加するという情報を聞きつけたので、どうしても自分はその討論会に出席したいということでした。
 彼女は婚約者の秀夫なら当然、葬儀に参列してくれるものと思っておりましたので、軽い混乱と動揺を覚えましたが、とにかく秀夫と言い争う間もなく身支度を整え、一人で四国へ向かいました。
 そうして傷心の久美子が東京に戻ったとき、秀夫が婚約者の祖母の葬儀を差し置いてまで参加した討論会が、結局は三島の参加が見合わされたことによって、まったく無意味なものであったということを聞かされた久美子は、このとき初めて秀夫との間に、亀裂のような溝が生じたという感じを受けました。
 それから間も無くの頃、いつものように秀夫がドライブに出かけた後、書斎の掃除に来た久美子が、机の上にあった秀夫が一人で書いている小説を見て、いったいどんな物語を書いているのかと読み始めたことが、後の二人の運命を大きく変える始まりでありました。
 久美子は秀夫から、恋愛をテーマにした物語を書いているということは聞いていたのですが、まさかその内容が、一人の男を巡って姉妹が対立する物語とは思っていなかったので、心に強い衝撃を受けると同時に、もしかすると、秀夫と美智子が祖母の葬儀に参列しなかったのは、二人が不適切な関係を持ってしまい、その日は二人でどこかへ行く約束をしていたからではないかという、疑心と不安を抱き始めてしまいました。
 久美子が普段の冷静沈着な精神状態であれば、決してこのような疑いを抱くことは無かったと思いますが、やはり祖母の死が影響したのか、彼女は根が素直で実直なだけに、一度疑いだしてしまうと歯止めが利かなくなり、秀夫になぜこのような物語を書いているのかということと、美智子との関係を確かめようと思い、何度も秀夫に問いかけようとしましたが、真実を確かめる勇気も無く、日々を重ねるごとに、益々疑心暗鬼になってゆき、やがては食事もあまり喉を通らなくなり、夜もぐっすり眠ることができなくなってしまいました。
 そんな久美子の苦悩を知ってか知らずか、秀夫は自分が書いている物語の今後の展開に悩んでいて、もしも美智子と関係を持ってしまった場合などを想像しながら、彼女への対応を考えておりました。
 そのようにして3人の微妙な関係が始まり、1ヶ月が過ぎた頃、久美子がとつぜん腹痛を訴えて倒れ、病院へ運ばれて緊急入院することになりました。
 検査の結果、急性胃腸炎と診断されたのですが、おそらくその原因は、秀夫と美智子の関係を疑ってのストレスであったと思います。
 1週間の入院中、秀夫は朝から晩まで付きっきりで看病していたのですが、久美子は美智子が見舞いに来ないことを不審に思い、ますます二人の仲を怪しみ、自分が入院していることをいいことに、見舞いを終えた秀夫は病院から自宅へ帰らず、美智子のアパートに行き、二人で楽しく過ごしているのではないかといった、あらぬ疑いを抱いたり、もしかすると自分が入院中に、美智子が目白の自宅に入り込み、自分は退院しても帰る場所が無くなっているのではないかとさえ思うようになっていました。
 退院後も久美子の体調は優れず、食欲不振や不眠などに悩まされておりましたが、間もなくして彼女は、体調以上にもっと深刻な悩みを抱えるようになってしまいました。
 自宅に戻って5日目の夜、それまで体調を気遣って添い寝で我慢をしてくれていた秀夫がセックスを求めてきたのですが、久美子はそれに応じながらも、秀夫とのセックスがこれまでと違った、何か違和感のような妙な感情を覚えました。
 やがてその違和感は、秀夫とのセックスを重ねる毎に、次第に形を変えて苦しみとなり、しまいには耐え難いほどの苦痛となってしまった久美子は、彼とのセックスを拒むようになり、そのことが原因で二人の関係はギクシャクし始め、次第に言い争いになるまでに発展してしまいました。
 久美子は秀夫の求めに応じたい、あるいは応じなければならないと思えば思うほど、どうしても応えることができなくなり、そのこともプレッシャーに感じるようになっていて、次第に夜の訪れが恐怖に感じるようになり、秀夫がどこかへ出かければ精神が落ち着き、しまいには昼夜を問わず、秀夫がどこかへ出かけてくれる事を待ち望むようにさえなっていました。
 二人にとって不幸であったのは、久美子が秀夫と美智子との関係を疑っていることがストレスとなっていると、本人の秀夫に話せばよかったのですが、もしもそれが事実であった時のショックを考えると、どうしても話すことができなかったということでした。
 そして、現在であれば不眠や拒食、妄想やセックス拒否などといった、久美子の症例を挙げていけば、統合失調症やパニック障害、性嫌悪障害といった、何らかの精神疾患と診断され、治療を受けることも可能であったでしょうが、その当時は精神疾患に関しては、現在のように広く認知されておりませんでしたし、秀夫自身もまさか、このとき既に久美子が心の病を患っていたとは露ほども思っておらず、彼女がセックスを拒否し続けることが理解できなかったということでした。
 そうして若い秀夫は、肉体的欲望を満たされないことがきっかけとなり、美智子に振り向き始めてしまったのですが、いつしか彼は、久美子の力を借りずに作家として成功するには、美智子と関係を結ぶことが必要不可欠な経験となるのではないかと思い始め、自分が書いている物語の主人公である、男の行く末を想像するのではなく、先に自分が火宅の人として、その苦悩や快楽、悲哀や歓喜などを実際に味わい、愛憎劇の主人公として自らの行く末を見極めてみようと決心し、美智子の元へ向かいました。


34 泥沼

 こうして、久美子が最も恐れた事態が現実と化し、秀夫と美智子は肉体関係を持ってしまいました。
 確かに状況を考えれば、秀夫だけを責めることはできませんが、彼は文学青年らしく、どこか刹那主義的な考えを持っていて、自ら破滅すると知りながらも前に進んで行く、人間という滑稽な動物の可笑しみや、悲しさというのを経験しなければ、作家として人を惹きつけるような文章を書く事ができないのではないか、という身勝手な解釈を免罪符として掲げ、美智子との逢瀬を重ねてゆき、次第に目白の自宅にいる時間も少なくなっていきました。
 不実な人となってしまった秀夫は、久美子に対して細心の注意を払い、自分では決してボロを出していないつもりでいたのですが、もしかすると久美子は既に、美智子との関係を知らないまでも、薄々なにかを勘付いているのではないかと思い始め、彼はますます用心深くなっていきました。
 秀夫は自分が、美しい姉妹に翻弄される、優柔不断な金持ちの優男として次第に堕落していき、最後は二人から愛想を尽かされて、奈落の底へ落ちてゆく、という筋書きを想像していたのですが、彼にとって誤算であったのは、美智子が彼の想像以上に、愛に対して貪欲で嫉妬と執念が深く、独占欲が強かったということでした。
 そして、秀夫にとって最も誤算であったのは、久美子は彼の想像以上に神経が繊細で、脆弱な心の持ち主であったという事と、彼女の心の病は深刻な域に達していたということでありました。
 美智子は秀夫から、久美子がセックスレスとなってしまったと聞いていたのですが、彼女にとっては姉の心配よりも、むしろ恋敵の様子がおかしくなってくれたほうが好都合と、まるで追い風のように思っておりましたし、この際、姉と秀夫の婚約を解消させようと思い、自分が秀夫の子供を身ごもれば、姉も秀夫との結婚を諦めてくれるだろうと考え、彼女は自らが導き出した幸せに向かって猛然と突き進んでいきました。
 その結果、程なくして美智子は妊娠したと思われる兆候が現れ、産婦人科に行って確認したところ、やはり間違いなく妊娠していることが判明し、そのことを秀夫に報告しました。すると秀夫は非常に驚き、周りの状況を考えると産んでほしいとは言えなかったので、思い悩んだ末に彼は、美智子に中絶してほしいと頼みました。
 しかし美智子は、どんなことをしてでも絶対に産むと言い張りましたので、困った秀夫はとにかく妊娠したことを誰にも話さないように釘を刺したあと、自ら撒いた種とはいえ、これから先のことを考えて、憂鬱な日々が始まりました。
 こうなってしまうと、秀夫は態度をはっきりさせざるを得なくなりましたが、彼の心の中では既に、久美子と別れて美智子に子供を産んでもらおうという決心が固まりつつあったのです。
 その頃の久美子は、秀夫と寝食を共にすることも無くなっておりまして、いくら秀夫が気遣って話しかけても気の無い返事ばかりで、ほとんど会話もしなくなっておりましたし、何よりも今まで頻繁に話題にしていた美智子の話を一切しなくなったことで、間違いなく久美子は自分たちの関係に気付いていると確信を持ちながらも、何も問いかけてこない久美子が余計に恐ろしく感じるようになり、家の中は殺伐とした異様な空気に包まれて、とても美智子との関係を話すどころか、別れ話を切り出せるような雰囲気ではありませんでした。


35 別れ話

 しかし、現実問題として、日に日に美智子のお腹の中で子供が成長し続けており、これから大きくなり始めるお腹を隠すことなどできるはずもなく、いつ久美子にばれるかという不安から、秀夫は思い悩んだ末にある決断を下しました。
 彼が下した決断とは、幼いころから自身が困った時に、いつも傍にいて助けてくれた、実の母や姉ではなく、石本加代に頼る、ということでした。彼は思い切って、加代に相談することにしたのです。
 ことがことだけに、電話で加代に全てを打ち明けることなどできないと判断した秀夫は、かねてから加代が、東京見物をしたいと言っていたことを口実に、白鳥町の実家に電話をして加代につないでもらい、まるで騙し討ちみたいだと心を痛めながらも、東京見物に来るようにと、加代に嘘の誘いをかけました。
 もうこの頃の野間家には、お手伝いさんが3人もいましたので、加代が女中として働く必要がなくなっており、暇をもてあましていた加代は秀夫の誘いに喜び、すぐに準備をして、2日後に東京へ向かうことになりました。
 2日後、秀夫は羽田空港まで加代を迎えに行き、久美子がいる目白の自宅ではなく、美智子がいる中野のアパートへ加代を連れて帰りました。そして美智子と同席した上で、秀夫は加代にすべてを打ち明けたのです。
 初めての東京で、しかも観光客気分で訪れた加代にしてみれば、まさに青天の霹靂といった、心に強い衝撃を受けました。
 とにかく加代は秀夫を強く叱責して、二人にこれからどうするのかと激しく詰め寄りましたが、秀夫自身に何らかの答えがあるというわけではなく、美智子も押し黙ったまま項垂れておりましたので、結局は加代のほうから様々な提案が出され、二人はその提案に同意できる、できないといった形で話し合いは進みましたが、あくまでも当事者である久美子がいない欠席裁判での話しなので、結果的には秀夫と美智子の一方的な言い分を聞くだけとなりました。
 その言い分は、秀夫は久美子と正式に婚約を解消して別れ、美智子と入籍して生まれてくる子供を育てていくという内容であったのですが、肝心の久美子が婚約解消に応じてくれるか分かりませんし、秀夫は相応の償いをするつもりでしたが、果たしてそのような一方的な主張が通るのかも分からないのに、秀夫は加代に対して、さらに驚くべき条件を二つも提示しました。
 そのひとつは、これからは美智子のアパートで暮らすので、自分はもう目白の自宅には戻らないということでした。
 そしてもうひとつの条件は、これからは何でも加代に相談し、言う通りにするから、あとのことをすべて引き受けてほしいと、久美子との話し合いを含めた、全ての交渉や対処を加代に丸投げしたということでした。
 秀夫は幼い頃から加代に甘えきって育っただけに、このような身勝手極まりない要求を出してきたのですが、話を聞き終えた加代は、あまりにも無責任な秀夫に対して強い怒りを覚え、赦せないと思いながらも、やはり秀夫は自分にとっては息子同然なので、心の奥底では、苦しい立場に置かれた彼の気持ちが分かるだけに、自分が骨を折る以外に解決方法はないと諦め、久美子に秘事を打ち明ける覚悟を決めました。
 翌日、車で目白の自宅付近まで送ってもらった加代は、去っていく車中の秀夫を見つめながら、もしかすると今回の不幸な出来事は、すべて自分の育て方が悪かったのが原因ではないか、という考えが生まれ、いまから自分が犯した罪を償わなければならい、と思い込むことで、幾分前向きな気持ちになりました。
 しかし、久美子が待つ自宅へと近づく毎に、その歩みはずしりと重さが増していき、最後はまるで、鉛のように重くなってしまった心と足を引きずるようにして、ようやく玄関に辿り着きました。

 その翌日、加代と久美子のことで頭がいっぱいであった秀夫は、少しでも気を紛らわせるためにテレビを点けたとき、彼にとって衝撃的なニュースが飛び込んできました。
 三島由紀夫が割腹自殺をしたというニュースで、その最後の姿をテレビで放送していたのです。
 どうやら三島は、憂国を訴えて、自衛官に決起・クーデターを促すために自殺したということが判明したとき、秀夫は自分でも不思議と、その死をとても冷静な気持ちで受け止め、尊敬する心の師を失った悲しみよりも、三島と学生運動家たちの近況と活動をつぶさに観察していただけに、これで長く自分を苦しめてきた学生運動も、収束に向かうだろうと思いました。


36 婚約解消

 それから2日後の午後、久美子との話し合いを終えた加代が、中野のアパートに戻ってきました。
 秀夫と美智子は玄関で加代を迎えましたが、二人は彼女のただならぬ姿を見て、一気に緊張と不安が高まりました。
 このとき加代は四十路前で、決して普段から老け顔というわけではなかったのですが、彼女は初老を通り越して、一気に老婆となってしまったようにやつれ果て、顔には深いしわが刻まれておりましたので、加代がこの2日の間に、どのような気持ちで久美子と話をしてきて、どのような苦労を重ねてきたのかを、二人は今更ながらに理解し、こちらからは一言も話すことができませんでした。
 加代は美智子が入れた熱いお茶を一口飲んだあと、二人を見据えたまま、余計な話をする気力もないといった疲れた表情で、前置きも無く久美子との話し合いの結果を、単刀直入に話し始めました。
 まず結論として、久美子は秀夫と美智子の言い分を、条件付で全て受け入れたと言いました。
 その条件とは、一度は結婚を約束した相手に対する最後の礼儀として、二人で一緒に白鳥町の親のところに行って、自分を送り届けた上で、両親に婚約を解消すると話してほしいということでした。
 婚約解消の理由を、自分の心の病が原因とし、親には余計な心配は掛けたくないので、美智子との関係を内緒にして、折を見て自分が両親に話すので、それまで待ってほしい、ということと、久美子の両親への最後の挨拶は、できれば1ヶ月後のクリスマスイブにしてくれれば、賑やかな世間が暗い話題を少しでも軽減してくれるかもしれないので、是非そうしてほしい、ということでした。
 そして、今回のことを野間家に知られて、大騒ぎになることを避けるために、加代はまったく知らなかったことにしてほしい、ということでした。
 すると秀夫と美智子は、加代のやつれた様子から予想していた、こじれた話と掛け離れた意外な展開に戸惑い、お互いに顔を見合わせましたが、加代はそんな二人を無視するかのように、淡々とした口調で久美子の心境を話し始めました。
 久美子は秀夫と美智子の関係を早くから気付いて、遅かれ早かれこうなることは覚悟していたので、決して自分の心配はせずに、二人で生まれてくる子供を大切に育てて、幸せになってほしいと願っていると言ったあと、加代は抑えていた感情を口にすることなく、代わりに目に溜めていた涙を流しました。
 二人は加代の話を聞き終えて、あらためて自分たちが犯した罪を深く反省すると共に、心を深く傷つけたにもかかわらず、久美子が自分たちに示してくれた、最後の思いやりに深く感謝しました。
 このとき初めて美智子は、幼い頃から姉に対して抱いてきたわだかまりを捨て、心の底から溢れてくる悲しみと謝罪の気持ちを、声を上げて泣くことで表し、秀夫は俯いて絶句したまま、静かに涙を流し続けました。
 全ての作業を終えた加代が白鳥町に帰ったあと、秀夫は久美子を失った喪失感を痛感すると共に、心の中にぽっかりと大きな穴が開いてしまったような気持ちになりました。
 改めて久美子との再会から始まり、二人で一緒に書き上げて投稿した小説などを思い起こし、もしかすると自分は、取り返しのつかない、間違った人生を選択してしまったのではないか、という焦りと、今更どうすることもできない、という諦めが、彼の胸を交互に締め付けました。


37 双子

 美智子は産婦人科での定期健診で、産科医から驚くべきことを告げられました。産科医は自身の豊富な経験から、おそらくお腹の中の子供は双子かもしれない、ということでした。
 美智子は非常に驚きながらも、愛する男の子供を同時に二人も授かったという喜びと、果たして若い自分がいきなり2児の母親になれるのかという不安が入り混じった、とても複雑で不思議な気持ちを抱えたまま、そのことを秀夫に報告しました。
「双子?」
「そう・・・・ でも、双子と決まったわけじゃなくて、もう少し成長しないと、まだ分からないって」
 報告を聞いた秀夫は、美智子以上に驚くと共に、彼にとって双子という言葉が、特別な響きとなって耳に届いたのか、それとも双子という言葉の方が、彼に何かを訴えかけたのか、とにかく彼の頭の中であることが閃いたと同時に、あることを決心しました。
 秀夫が双子と聞いて、閃いたあることとは、
「そうか、俺は双子の物語を書こう!」ということでした。
 彼は目白の自宅で書いていた、美人姉妹の小説を諦め、双子の物語を書いてみようと閃いたのです。
 やはり、書きかけで残したままとなっている姉妹の物語は、あまりにも実生活を反映しすぎていて、現実と小説が混同してしまい、当事者であるが故に、逆にリアリティーを感じられず、現実の世界が想像していたよりも、遥かに平凡なかたちで幕引きを迎えようとしている今となっては、これ以上続きを書いていく自信と意欲が無くなっていたのでした。
 双子という、特別な子供を授かったということが、この先の未来に、何か特別なことが起こる前触れではないか、と思った秀夫は、図書館に行って、双子に関する民話や神話などを集めだし、それらを一心不乱に読み耽りました。
 そこで彼は、日本で過去に行われていた、双子に関する衝撃的な歴史と事実を知ることになりました。
 古来より日本では、双子に対してどちらかと言えば良いイメージよりも悪いイメージとして捉えた文化が多く、人間は一度の出産で一人しか産まない動物だという固定観念が強いため、双子のことを不吉な存在として忌み嫌っていたという傾向がありました。
 特に山間部の山村や農村といった、外部と接触の少ない排他的な村社会では、双子を出産した嫁のことを、まるで多産の犬や猫と同じ畜生だということで『畜生腹ちくしょうばら』と揶揄し、人間扱いせずに蔑んだ挙句、離縁するということがありました。
 そして、世間体を気にして、双子のうちの一人を取り上げて養子に出したり、ひどいときには一人を家の中から一歩も出さずに幽閉したり、最もひどい場合は生まれて間もなく、どちらかを殺していた、ということでありました。
 秀夫はこれらを、まるで目からうろこが落ちるような思いで読み終えたとき、彼の頭の中でいくつかのアイディアが一本の線で繋がり、ひとつの物語として完成したと同時に、自分が双子の物語を書こうと思った閃きに対する自信が確信に変わりました。
 双子というテーマに創作意欲を掻き立てられた秀夫は、さっそく美智子のアパートで執筆を開始しました。
 執筆中、彼はテレビから繰り返し流されていた、三島の最後の姿を思い出しながら、三島亡き後は自分が彼の遺志を継ぎ、彼が愛した、この美しい日本で嘗て行われていた、儚くも残酷な双子の物語を書き上げようと、大それた夢を真剣に見据え、まるで何かに取り憑かれたかのようにして、執筆に没頭していきました。


38 運命の物語

 秀夫が双子の物語を書き始めてから、すでに4週間近くが経過しました。この間に秀夫は、目白に居る久美子のことを気にしながらも、双子の物語の骨格となる粗筋が決まり、とにかく大雑把ではありましたが、最後までいったん書き上げ、後はそこに肉や皮を付けていくのみにまで仕上げておりました。
 出来上がった作品を前にして秀夫は、この時に初めて美智子に、自分が書いている小説は、美しい双子の姉妹が辿る、数奇な運命の物語だと語りました。
 しかし、美智子は今まで小説を一冊も読んだことが無く、まして文学に何の興味も無かったので、双子の物語と聞いても、特に何の反応も示しませんでしたし、その物語がどんな内容なのかということを確かめようともせずに、
「じゃあ、もしも私のお腹の中の子供たちが、女の双子だったらいいのにね」と、無邪気な笑顔で秀夫に語りました。
 それに対して秀夫は、自分が書いている物語は、おそらく美智子が考えているような、笑顔で語れる内容ではないと、説明しようかと思いましたが、結局は黙ったまま、美智子にぎこちない作り笑顔で答えるしかできませんでした。
 やはり、作家を目指す自分にとって、久美子はかけがえのない存在であり、彼女と執筆していたときに感じられた高揚感や安心感、書き終えたときに得られた達成感や充実感を思い出すほどに、打てど響かず、笛吹けど踊らないといった、自分の夢に何の興味も示さない、美智子との距離感を受け容れ難く思いました。
 果たしてこの先、活字に興味を持たない美智子との生活に、何らかの共通の価値観を見出すことができるであろうか・・・
 秀夫は次から次へと湧き上がる、さまざまな不の思いを払拭するために、7割近くまで書き上げた小説を読み返しました。
 しかし、読むほどに、作品に対する手応えのようなものが不安へと変化し、自分の才能に対する、新たな疑問が浮かび上がりました。
 やはり、久美子を失ったことによって、自分は作家として成功するどころか、作家になることさえ叶わないのではないか、といったプレッシャーが重く圧し掛かってきました。
 秀夫は悩んだ末に、自分勝手な我が儘だということを十二分に承知しながらも、どうしても双子の姉妹の物語を久美子に読んでもらい、アドバイスや意見を求めることにしました。
 そうしてクリスマスイブの早朝、秀夫は東京駅で久美子と落ち合い、運命の物語と共に二人は、生まれ故郷である白鳥町に向かいました。


39 心中

 なぜ、このような事態になってしまったのか、当事者の二人が亡くなった今となっては、判明している事実を元に推測するしかありませんが、秀夫と久美子に何が起こり、どのような経緯で死に至ったのか・・・ 
 二人は24日の朝に、東京から白鳥町にいる久美子の両親の元に向かったはずなのですが・・・
 久美子の両親は、24日に二人が帰ってくる事はおろか、二人が破局したことすら知らなかったので、彼女は加代と話し合って決めた婚約解消の内容を、両親には事前に何も話していませんでした。
 そして、なぜか二人は親元へは向かわず、同じ白鳥町の、海が見える小高い丘の上にある野間家の別荘に行き、二人はそれぞれ違う方法で自殺しました。
 警察の現場検証と捜査の結果、二人はそれぞれ自らの意思で自殺したことが判明したのですが、二人の死亡推定時刻が20時間もの開きがあったことから、以下のような流れであったと推察されます。
 二人は親元へ向かう前に、野間家が所有する白鳥町の別荘で、最後の夜を過ごそうと思ったのか、現場に残されていた、秀夫がスーパーで購入した食品類は、その日の夜の分と、翌朝の分という品数であったので、おそらく秀夫が食材の買出しに出かけている間に、久美子は遺書を認め、目白の自宅近くの薬局で購入したと思われる睡眠薬(警察は後に、久美子が自ら薬局で睡眠薬を購入したことを確認)を200錠近く飲んで自殺し、スーパーで買い物をして戻ったとき、無惨に変わり果てた久美子を発見した秀夫は、久美子の遺体を布団に横たえ、彼女が認めた遺書を読んだあと、死に追いやった罪を償うために、自らも命を絶とうと決意したと思われます。
 しかし、秀夫はすぐに行動を起こさず、彼は自分の死後のことを冷静に考えて、現実的な問題の対処と処置を施すために、美智子と加代に宛てた遺書を認め、彼が書いた小説とともに、翌日の朝に郵便局に持ち込み、美智子と加代に速達で出したあと、今度は白鳥町の家族に宛てた遺書を現場に書き残し、自らのズボンのベルトを居間の梁に結び、首を吊って久美子の後追い自殺をしたと思われます。
 以上のような事象から勘案すると、久美子は衝動的な自殺ではなく、初めから死ぬつもりであったことが推察されますが、秀夫のズボンのポケットの中には、帰りの電車の切符が入っておりましたので、おそらく彼自身は、初めから死ぬつもりでは無かったかと思われます。
 後に行われた検死の結果、久美子はクリスマスイブの12月24日の夕方から夜の間に、大量の睡眠薬を服用したことによって中毒死し、そしてその翌日、奇しくも秀夫は、心酔していた三島由紀夫が自殺した、1970年11月25日から1ヶ月後の、12月25日のクリスマスの朝から昼の間に、首を吊って自殺しました。


40 遺書

 二人が自殺して、亡くなったことを初めに知ったのは、野間家で秀夫の到着を待ち続けていた石本加代でした。
 加代は24日に、婚約解消の報告に帰郷する秀夫と久美子のことが気になり、朝から気分が落ち着かず、何も手につかないといった状態で、時計ばかりを気にして、ひたすら時が過ぎるのを眺めておりました。
 加代の考えでは、おそらく二人が久美子の実家に到着するのは、早くても夕方頃になり、話を終えて秀夫が野間家に帰ってくるのは、夜以降になるだろうと思っておりました。
 しかし、待てど暮らせど秀夫は現れず、連絡もありませんでした。加代は今回の帰郷の理由を、一切知らないことになっておりますので、誰にも不安な気持ちを打ち明けることもできず、一睡もできないまま、翌日の朝を迎えました。
 そして25日の昼、秀夫から加代に宛てた遺書を携えた郵便配達員が、白鳥町の野間家に到着しました。
 加代は秀夫からの速達と聞いて、なんとも言えない不吉な予感と、妙な胸騒ぎがしました。とにかく自室に行って、秀夫からの速達を読み始めてすぐに、加代は遺書の内容をよく確かめる間も無く、軽いめまいと同時に吐き気を催し、遠ざかろうとする意識を辛うじて繋ぎとめ、急いで自宅から少し離れた、野間製作所の本社ビルに居た野間陽子の元へ向かいました。
 そして、陽子とともに別荘に急行し、加代は無惨に変わり果てた二人の姿を、目の当たりにした瞬間に気を失い、そのまま病院へと運び込まれました。

 一方、そのころ美智子は、25日の夜には帰ってくると言っていた秀夫が、26日になっても連絡ひとつ無く、帰ってこないことを心配して、不安を募らせておりました。
 おそらく秀夫は、久美子の両親に話したあと、その足で実家に寄って、自分の家族にも話し、そこで足留めを食らい、帰りが遅くなっているのだろうと思っているときに、郵便配達員が運命の知らせと、秀夫が書いた運命の小説を携えてやってきたのでした。
 美智子は秀夫からの速達が、まさか久美子と秀夫の遺書、そして彼が書いた小説だとは思わずに、まずは久美子が書いた文章から読み始めました。

『秀夫へ。あなたが書いた小説を読みましたが、同じ双子の物語を書くのであれば、姉妹の双子ではなく、男女の双子の物語を書いてみてはどうでしょうか。
 嘗て、この日本の一部の地域で近代まで行われていた歴史的事実として、男女の双子は心中自殺した者たちの生まれ変わりと考える文化があり、来世で生まれ変わって、夫婦となることを誓い合って自殺した二人だと考え、生まれてきた双子のうちの、片方を養子に出して許婚とし、後に成人してから、赤の他人同士として結婚させていたそうです。
 秀夫、あなたは憶えているのか、或いは幼い頃に大阪へ引っ越したので、もしかすると知らないかもしれませんが、私たちが生まれた、この白鳥町の海には、双子島という二つの小さな島と、丸亀島という、別名・男島と女島という、満潮時には二つの島で、干潮になれば陸続きになって、ひとつになる島があります。
 私たちの故郷である、この目の前の海に、双子という名の島と、男と女という名の、ひとつにつながった、ふたつの島があるのです。
 双子と男と女。単なる偶然でしょうが、奇遇だと思いませんか?
 最後に秀夫、あなたが男女の双子にまつわる史実を参考に、いい小説を書き上げることを願っています。 さようなら、久美子』

 当初、久美子が書いたこの文章を読んだ美智子は、秀夫に対する小説の助言と、別れの手紙だと思っていたのですが・・・
 次に美智子は、秀夫が書いた文章を読み始めたのですが、
『美智子、勝手なことをして 赦してください。俺は久美子を死なせてしまった責任を取って、後を追います。』から始まり、次のようなことが書かれておりました。 
 自分たちは白鳥町の別荘にいて、そこで人生を終えますので、自分が死んだ後、もしも美智子と子供のことが明るみになると、これから先に、どのような辛い目に遭うのか分からないので、決して自分との関係と、子供のことは誰にも話さないでほしい。
 もしもこれらの遺書の存在や、自分たちが別荘で死んでいることを美智子が知っているとなれば、話がややこしくなるばかりか、全てが白日の下にさらされてしまうので、美智子は何も知らないことにしてほしい。
 当面暮らしていけるだけのお金は、金庫の中に入っているので、それを生活費として使い、自分の遺産を直接美智子に渡すことはできないので、いったん加代の手元に入るように、別の遺書で自分の家族に指示しているので、すべてが落ち着いてから加代の元を訪ね、遺産を受け取ってほしい。そして、もしもこの先、子供のことや、何か困ったことがあれば、遠慮せずに加代を訪ねていきなさい。といった内容でした。
 そして、遺書の最後の締めくくりとして、次のようなことが書かれておりました。

『美智子、やっぱり俺には久美子が必要やったし、俺らはこの世で一緒になることはできなかったけど、生まれ変わったら久美子を幸せにしたいと思います。
 美智子、もしも生まれてくる子供が、男の子と女の子の双子やったら、その子供たちは俺と久美子の生まれ変わりやと思って、大切に育ててほしい。よろしくお願いします。 秀夫』

 美智子は秀夫の遺書を読み終えたとき、これは何かの間違いか、冗談だと思っておりました。
 しかし、秀夫の遺書の内容が、あまりにも微に入り細にわたっておりましたので、『これは、もしかすると・・・・』と思った瞬間、彼女は気が動転して、悲しむよりも先に、驚きの感情が勝り、そのあとに激しく動揺しました。
 秀夫が遺書に書いたように、二人の死に美智子が深く関わっているということが判明すれば、彼女は周りから責められ、辛い思いをすることは明白で、何よりも二人を死に追いやった張本人とまでは言えないまでも、間違いなく二人が死に至った原因の当事者であり、まして自分が秀夫の子供を身ごもっているということが知られた時のことを考えると、頭が混乱して居ても立ってもいられなくなり、美智子はほとんど無意識のうちに、普段持ち歩いているバッグの中から、一枚の名詞を取り出しました。
 かつて夜の街で知り合った、芸能プロダクションの社長をしている、神崎良雄(かんざきよしお)という43歳の男の名詞でした。
 二人の出会いは、美智子が秀夫と関係を持つ前、六本木で夜遊びしていたころに、彼女の美貌を見初めた神崎が、女優にならないかとスカウトしたのがきっかけでした。
 芸能界にまったく興味が無かった美智子は、神崎の誘いを無視しながらも、ただ単に暇つぶしとして、一度だけ彼と関係を持ったことがありました。
 今の美智子にとって神崎は、東京という人で溢れた大都会の中で、思い浮かぶ唯一の存在であると同時に、女優になる気になるか、何か困ったことがあれば、遠慮せずにいつでも連絡してくれと言ってくれた、唯一の知り合いであったのです。
 美智子は藁にもすがるような気持ちで受話器を取り、神崎の事務所に電話をかけました。


41 もうひとつの遺書
 加代は病院に運び込まれてから、2時間ほどで意識を取り戻しました。目が覚めたとき、傍には陽子がいました。
 加代が秀夫と久美子のことを陽子に訊ねると、二人は司法解剖のために、県内の大学病院にいると言いました。
 そして陽子は、警察が二人の死の原因を調べるために、1ヶ月前に東京で二人と接触を持った、加代から事情を聞きたいということで、意識が戻り、話ができるようであれば、捜査に協力してほしいと、病院の別室で、警察官が待機していると言いました。 
 加代は警察の事情聴取と聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、嘘の証言をしなければならないのでは、ということでした。
 もしも、自分が東京に行った本当の理由を、偽り無く警察に話すとするならば、美智子のことを話さなければならなくなります。
 そうなった場合、事態はどういう風に流れ、推移していくのかを必死で考えましたが、問題があまりにも大きすぎて、自分ひとりの判断では乗り切れないと思い、警察に話す前に、目の前の陽子に話すことを考えました。
 加代は陽子に、何をどう話すかを必死で考えましたが、上手くまとめることができませんでした。もし、今の混乱した頭で陽子に話し、後で取り返しのつかない事態を招いてしまうのではないか、という不安を覚えた加代は、とにかく警察には余計なことは一切話さず、知らぬ存ぜぬで通すことに決めたあと、自分の気持ちが落ち着き、冷静さを取り戻してから、陽子に美智子のことを含めた、すべてを話すことに決めて、警察官を病室に呼びました。
 しかし、加代の心配は杞憂に終わりました。警察の事情聴取といっても、あくまで形式的なもので、秀夫と久美子が争った形跡も無く、何よりも現場に残されていた秀夫の遺書の内容から、久美子は心の病を苦にした計画的な自殺とみなし、遺体を発見した秀夫は、その死を目の当たりにして、衝動的に後追い自殺をしたとみなしておりましたので、加代が東京見物に行ったということを疑うどころか、自分が東京にいる間、確かに久美子は元気が無かった、という加代の証言だけで、警察は納得した様子でした。
 おそらく警察は、二人の死亡推定時刻が20時間以上も離れていることを不審に思っていたでしょうが、野間家が地元ではあらゆる方面に、隠然たる影響力を持つ実力者であるため、二人の死を深く追求することを控えたのだと思われます。
 警察が帰ったあと、陽子は別荘に残されていた秀夫の遺書の内容を、加代に話し始めました。
 陽子の話によると、現場に残されていた、家族に宛てた秀夫の遺書には、次のようなことが書かれておりました。
 久美子を心の病にして、死に至らしめたのは自分であり、自分はその責任を取って死にますと書いたあと、自分の財産の半分は久美子の両親に、そして残りの半分を、今まで散々迷惑をかけた加代に、退職金の前渡しとして渡してほしい、と書いていたそうです。
 秀夫が遺した遺産は、現金で2千万円と、現在の貨幣価値でも相当な金額でありましたが、当時の野間家はすでに、自分たちでもいくら資産があるのか分からない、というほど巨万の富を得ておりましたので、加代の長年に渡る野間家への功労と、何よりも秀夫の遺言に従い、彼の遺産を受け取ってほしいと、加代に話しました。
 しかし加代は、自分はそのようなお金を受け取るつもりは一切無いと言ったあと、今はそういう話をしている時ではなく、一刻も早く、秀夫と久美子のそばに付いていてやりたいと言いました。
 加代と陽子が病院から帰宅したとき、すでに司法解剖が終わり、野間家に戻ってきていた、秀夫と久美子の遺体と対面した加代は、いっそのこと、自分も二人の後を追い・・・ という気持ちが生まれました。
 二人の亡骸の傍で泣き疲れたあと、加代は喪服に着替えるために自室に戻りました。すると、部屋の中央の畳の上に、自分宛に届いた秀夫の遺書がありました。
 今朝、この遺書を読んだ時は、気が動転していて、最後まで読まずに部屋から飛び出したことを思い出しながら、加代は1枚の便箋を手に取り、何が書かれているのかを確かめるために、再び読み始めました。
 そこには、美智子に宛てた遺書と同じく、白鳥町の別荘で人生を終え、美智子との関係や、子供のことを内緒にして、自分の遺産を加代が受け取り、美智子に渡してほしい、といった内容のあとに、
 次のような文章で締めくくられておりました。

『美智子が無事に子供を出産して、この先に困ったことがあったら、加代を訪ねていくようにって言うてるから、あとのことは頼む。
 最後に加代、もしも美智子が子供を連れてきて、面倒をみてほしいって言うてきたら、その時は野間家の子供としてではなく、加代の実の子供として育ててほしい。加代が一生、野間家で人生を終える必要なんかないやろう? もう十分、がんばったやんか。
 加代は俺の子供の母親として、これからはまったく違う人生を送ってほしい。 今までありがとう。秀夫』

 遺書を最後まで読み終えたとき、加代の心の中で何かが消え去り、新たに何かが生まれました。
 何が消え、何が生まれたのかを、加代はうまく説明することはできませんが、とにかくこの遺書は、陽子や節子を含めて、誰にも見せないほうがいいのではないかと感じたのです。
 なぜ、見せないほうがいいのではと感じたのか、その訳を必死で考えましたが、今の加代には答えを出すことができませんでした。
 しかし、遺書を読んで、はっきりと感じたことがありました。
 それは、自分にはまだ、秀夫が遺した美智子のお腹の中の子供を、立派に育て上げなければならない使命が残っている、という強い思いでした。
 喪服に着替えた加代は、これから自分が執るべき行動を考えて整理したあと、真実を打ち明けるために、陽子の部屋に向かいました。


42 捜索の果てに

 加代から真実を知らされた陽子は、秀夫の遺留品の中にあった、手帳に記されていた中野のアパートに電話をかけました。
 しかし、美智子が電話に出ることはなく、呼び出し音がむなしく鳴り続けるだけでした。
 陽子と加代は、もしかすると、美智子の身にも何か良からぬ出来事が起こっているのではないか、という思いが頭を過ぎりました。
 その後も、20分に一度のペースで、中野と目白の両方に電話をかけ、深夜になってからもかけ続けましたが、美智子が電話に出ることはありませんでした。
 二人はすぐにでも、東京へ向かわなければならないと結論しましたが、いかんせん秀夫と久美子の葬儀が控えており、どうしても身動きが取れないということで、二人で話し合った結果、加代が翌朝一番に、東京へ向かうことになりました。
 加代は、自分の息子同然に育ててきた秀夫の、最後のお別れに参列できないことが、慙愧に堪えない思いでしたが、今は一刻も早く、美智子とお腹の中の子供の無事を確かめることが何よりも先決と、断腸の思いで東京行きを決めたのです。
 そして二人は、もうひとつ重要な問題を抱えておりました。美智子のことを、彼女の両親に話すか、どうかという問題でした。
 二人は相談した結果、美智子の両親に話すのは、もう少し後にしようと決めました。
 娘を亡くした悲しみの上に、その死因にもう一人の娘が深く関わっていて、今現在その娘と連絡が取れない、ということを知らされた両親の心境を考えると、いくら美智子に非があるとはいえ、せめて彼女の安否を確認して、無事でいるということを確かめてからでないと、とても両親に話すことはできないと思ったからです。
 翌朝、飛行機で東京入りした加代は、記憶を頼りになんとか中野のアパートへ到着し、呼び出し音を鳴らしましたが応答はなく、ドアを叩いて何度も呼びかけましたが、部屋の中からは物音ひとつ聞こえてきませんでした。
 しかたなく加代は、秀夫が持っていた鍵でドアを開けて中に入りましたが、やはりそこには、美智子の姿はありませんでした。
 部屋の中の様子は、加代が以前に訪れたときと、特に変わったところはなく、荒らされたり、引っ越したりした形跡も見当たりませんでした。次に加代は、目白の自宅に向かいましたが、やはり美智子の姿はなく、家の中の状態も変わった様子は見られませんでした。
 加代はすぐに陽子に連絡し、見たままの状況を話したあと、これからどうするかと指示を仰ぎました。
 すると陽子は、もしかすると美智子が居ないかもしれない、ということを想定していたのか、東京の知り合いの伝で、すでに探偵を紹介してもらっており、今からすぐに、その探偵を中野のアパートへ向かわせるので、加代も中野に戻るようにと指示しました。
 そして、そこで探偵と落ち合い、美智子の捜索を依頼したあと、その足で四国に戻ってくれば、二人の通夜になんとか間に合うので、すぐに戻ってくるようにと言いました。
 加代は陽子の指示通りに、全ての作業を終え、最終便の飛行機で四国に戻りました。

 秀夫と久美子の葬儀は、死因が自殺なだけに、密葬で執り行われました。葬儀の間中も、加代は美智子のことが気になり、合間を見ては中野と目白へ何度となく電話をかけますが、相変わらず誰も電話に出ることはありませんでした。
 加代は陽子と様々な事態を想定して、これからの対策を話し合いました。しかし、二人の頭に浮かんでくるのは、悲観的な情景ばかりでした。
 葬儀を終えた翌日、陽子と加代は悲嘆に暮れる間もなく、今度は二人で東京へ向かいました。二人はまず、調査を依頼した探偵社を訪れ、新たな情報の有無を確認した後、中野のアパートと目白の自宅に行き、遺品整理をする傍ら、何か手掛かりはないものかと、必死で捜しまわりましたが、何一つ見つけることはできませんでした。
 その後も加代は、何度も自ら東京まで足を運び、美智子の行方を追い求めましたが、やはり何の進展もないまま、探偵が調査を開始してから5週間が過ぎたときでした。
 陽子は探偵からの電話で、衝撃的な事実を突きつけられました。
 白鳥美智子は、1971年1月31日に、都内のマンションの屋上から飛び降りて、すでに死亡しているという、調査報告がなされたのです。
 警察は当初、遺書もなく、身分を証明するものがなかった美智子の遺体を、身元不明の行旅死亡人として扱っておりましたが、月が明けた2月2日に、美智子の知人と名乗る中年男性が警察署を訪れ、遺体を確認した上で、行方不明となっていた知人に間違いないといって、遺体を引き取りたいと申し出たそうです。
 当時は、都会での若者の自殺が社会現象化していただけに、警察は厄介事が一つ片付いた、といった様子で、何の疑いもなく美智子の遺体を、知人と名乗る男性に引き取らせたそうです。
 その後の探偵の調査で、美智子の知人と名乗り、彼女の遺体を引き取ったのは、神崎という名の男であることが判明しました。
 探偵は、警察の記録に残されていた神崎の記録を基に、彼を訪ねて話を聞いたところ、美智子は自分が経営する芸能プロダクションに所属している、女優の卵であったのですが、なぜか3か月前にとつぜん行方不明となり、神崎は行方を捜していたそうです。
 そして先月の末に、とつぜん美智子から電話があり、今から自殺するので、ご迷惑をおかけしました、と言って、電話は一方的に切られたのですが、神崎は彼女のことを心配して、都内の各警察署を廻り、彼女と良く似た特徴の自殺者がいないかと訪ね回ったところ、二日目に彼女の変わり果てた姿を発見したそうです。
 そして、美智子は神崎の事務所と契約をする際、自分は身寄りのない天涯孤独だと言っておりましたので、神崎は引き取った遺体を荼毘に付し、遺骨は都内の寺に預けた、ということでした。

 半ば茫然とした意識のまま、報告を聞き終えた陽子は、聞かずとも分かりきっているとはいえ、美智子のお腹の中の子供の安否を訊ねました。すると、陽子の予想と違った、意外な答えが返ってきました。探偵が警察から見せてもらった、美智子の検死に関する記録には、妊娠していたという記載がなかった、ということでした。
 ということは、もしかすると検視を行った医師の見落としではないかと思い、探偵に問いかけましたが、それはあり得ないでしょう、という探偵の見解に、陽子も少し冷静さを取り戻し、次のような仮説を立てました。
 おそらく美智子は、秀夫と久美子が死んだことによるショックで、身ごもっていた子供が流産したか、それとも責任を感じて堕胎したのちに、彼女は自殺したのではないか、ということでした。
 電話を切ったあと、陽子は加代の部屋に行き、探偵からの報告内容と、自らの見解を話しましたが、加代は美智子が死んだと聞いた次の瞬間から、彼女にはもう、これ以上何かを聞いたり、考えたり、理解したりする能力は、ほんの一握りも残されていないように、陽子にはそう映りました。
 こうなってしまうと、美智子の両親に話さないわけにはいかなくなり、陽子は翌日に速達で届いた、探偵からの調査報告書を持って、美智子の両親の元を訪ね、すべてを話しました。
 陽子は、秀夫の遺産を放棄した加代の了承と薦めもあり、弟が犯した罪の、たとえ何千分の一の償いとして、秀夫の遺産をすべて、久美子の両親に受け取ってもらうことにしました。
 そして陽子は、弟の死に関する、すべての対応を済ませたあと、忌まわしい過去と決別するために、野間製作所を北関東に移転させることを決意しました。

第6章 追憶 ~窓辺の風景~

43 雨音
 気が付くと、外はいつのまにか雨が降っていました。
 まるで、私の目に映るものをすべて濡らさずにはいられないといった、土砂降りの雨でした。
 ここ数年で耳にすることが多くなった、ゲリラ豪雨というものなのでしょう。
 これほど強い雨脚を目の当たりにすると、おそらく瑞歩は不安を覚え、或いは恐怖を感じるかもしれないと思いました。
 そして今、私自身も不安を覚え、恐怖を感じています。ゲリラ豪雨にではなく、真実が記された『白鳥の里』を読んだからです。
 ここまで読んでみて、この先どうなるのか全く想像がつかないという不安と、この先を読まなくてはならないという恐怖です。
 私でさえ、そう感じる物語を、これから瑞歩に読ませなければならないと想像するだけで、とても気が滅入り、とても嫌な予感がしました。
 ミツコが言っていた、私にとっての地獄というのが、おぼろげながらも頭の中で徐々に浮かび上がり、段々と色彩を帯びていき、やがてはその姿をはっきりと現すでしょう。
 私にとっての地獄というのは、間違いなく愛子のことなのです。
 しかし、私は既に愛子を失っており、愛する人との別れという形で、ある意味では地獄を通り抜けてきたという思いはあります。
 しかし、私が地獄と感じてきたことは、本当の意味での地獄ではなかったということを、降り続く激しい雨音が、そう教えてくれているように感じました。
『白鳥の里』と愛子がどう関係しているのか・・・
 もしかすると愛子の身に、何か良からぬことが起こってしまったというのでしょうか・・・
 これ以上読みたくはない、という思いと、最後まで読まなければ何も分からないというジレンマを抱えながら、愛子のことを思い出そうとしました。


44 追憶~窓辺の風景~

 しかし・・・
 私は必死に、愛子のことを思い出そうとしましたが、
「・・・・・・」
 なぜか何も思い出すことができませんでした。    
 愛子のことを考えれば考えるほど、なぜか瑞歩のことが思い浮かび、彼女が今九州で何を思い、どう過ごしているのかが気になり始めました。
 おそらく私の思考回路は、過去へと通じるラインが混線しているのか、それとも愛子へとつながるラインが完全に遮断されているかのように、愛子のことを思い出すことができませんでした。
 もしかすると、私が知らなければならない真実というのは、愛子の思い出を抱えたままでは、理解することも、受け入れることもできないとでもいうのでしょうか・・・
 それはまるで、自分自身の精神を正常に保つために、無意識に防御本能が働いて、愛子へと通じる全ての記憶を消去しはじめているかのように感じました。
 はたして、私は本当に真実を知らなければならないのかと、この期に及んでまだ尚、逃げ道を模索し始めようとする卑怯な自分を発見し、つくづく自分の事が嫌になりました。
 しかし、今は自己嫌悪に陥っている暇などはなく、ありのままの自分を受け入れた上で、前に進まなければならないのでしょう。
 私は『白鳥の里』を読み始める前と同じように、深く瞼を閉じました。
 すると、不思議なことに愛子のことを何も思い出せずにいたのに、先ほどよりも雨脚が弱くなったおかげなのか、ひとつだけ記憶が鮮明に甦りました。
 愛子と二人でよく聴いていた、歌を思い出したのです。
 SING LIKE TALKINGの『追憶~窓辺の風景~』という歌が、ざわめく程度の雨音に混じって、微かに聴こえてきたような気がしました。


 追憶 ~窓辺の風景~ 

 歌 SING LIKE TALKING
 作詞 藤田千章  作曲 佐藤竹善

 外はいつの間にか土砂降りに濡れて
 青褪めた記憶を呼び戻していく
 あの頃は若過ぎたなんて
 口にしてしまえば終わりになるけど

 振り返らず出て行く背中を止めもしないで
 煌めいた夏の日差しだけに縋り付いている
 雨音までも聴こえない


 めぐらせた通りに運ぶ風向きも
 ほろ苦く残った夢の後味も
 本当の手応えといえば
 積み重ねたことが高く見えるけど

 立ち尽くし留まる面影は儚い灯り
 今日でさえやがて窓を伝い落ちる雫だと
 知らされるとき

 目に映る美しい出来事に心から
 動き出せたことだけ忘れないで

 振り返らず出て行く背中を止めもしないで
 煌めいた夏の日差しだけに縋り付いている
 聴こえたのなら

 立ち尽くし留まる面影は儚い灯り
 今日でさえやがて窓を伝い落ちる雫だと
 目覚めたのなら・・・ 

 まだ間に合う

 振り返らず出て行く背中を止めもしないで
 煌めいた夏の日差しだけに縋り付いている
 聴こえたのなら・・・


 私は瞼を開き、再び『白鳥の里』を読み始めました。

第7章 小説『白鳥の里』後編

45 運命の子供たち

 それから半年後、野間製作所の移転に伴い、陽子は下準備のために東京へ居を移し、環境を変えてみてはという、陽子の誘いを断って、四国に残ることを決めた加代は、美智子の死によって、秀夫の子供を育てるという望みが絶たれ、茫然自失となって日々を過ごしておりました。
 しかし、そんな生きる希望を失くしていた加代の元へ、一通の手紙が届きました。差出人は清瀬麗子(きよせれいこ)という、加代にはまったく心当たりの無い名前の女性でしたが、その手紙には、次のような文章が書かれておりました。

『加代さん、このような、突然の便りとなったことを赦してください。白鳥美智子です。
 おそらく加代さんは、私が死んだものと思っていたでしょうから、さぞや驚かれるでしょうが、私は生きています。そして私は2ヶ月前に、無事に男の子を出産し、名前を秀喜(ひでき)と名付けました。
 加代さん、いろいろと複雑な事情があって、すべてを話すことはできませんが、私と秀喜のことは、決して誰にも話さないで下さい。お願いします。そして、私は秀喜のことで、どうしても加代さんに相談したいことがあるのです。勝手なことは十分承知しています。でも、今の私には、加代さん以外に頼る人が居ないのです。どうか、私に力を貸してください。
 私はいま、清瀬麗子の名で、秀喜と一緒に徳島市の○○○ホテルに居て、あと1週間は滞在する予定なので、ぜひ会いに来ていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。」

 死んだと思っていた美智子が生きていて、しかも秀夫の子供を無事に出産し、その子供とともに、隣県のホテルで私を待っている。
 加代は取るものもとりあえず、すばやく身支度したあと、本数の少ない電車ではなく、タクシーで徳島へ行こうと思ったときでした。ふと、秀夫の遺書を持って、美智子に会いに行こうと思いました。
 なぜ、そう思ったのかの理由を考える前に、先に体が勝手に反応し、箪笥の引き出しに仕舞っていた秀夫の遺書をバッグに入れて、野間家を飛び出しました。
 国道11号線を走っていたタクシーに飛び乗り、徳島へ向かう車中で加代は、なぜ秀夫の遺書を持ってきてしまったのかを考えました。今まで数え切れないほど読み返してきたので、一字一句とはいかないまでも、内容は頭に入っているはずなのになぜ?・・・と思ったとき、遺書の最後に書かれた内容を確かめるために、バッグから遺書を取り出して読み始めました。
『最後に加代、もしも美智子が子供を連れてきて、面倒をみてほしいって言うてきたら、その時は野間家の子供としてではなく、加代の実の子供として育ててほしい。』
 今まで幾度となく読んできた文章と、一字として違わないはずなのに、なぜかこの行が、まったく別の文章のように感じました。
(もしかすると私は、いつかこういう日が来ることを、心のどこかで予感していたのかもしれない・・・)
 そう思ったとき、加代の心の中で、何かが動き始めました。

 ホテルに到着した加代は、フロントで自分の名前を告げ、宿泊客の清瀬麗子に会いに来たと話しました。
 フロント係は宿泊簿を確認し、麗子の部屋へ電話をつないで、加代が訪ねてきたことを告げると、麗子は加代に、自分の部屋へ来てくれるようにと、フロント係に指示しました。
 加代はフロント係りから、麗子が泊まっている部屋番号を聞き、エレベーターを使って6階の604号室に到着し、チャイムを鳴らしました。すぐにドアが開かれ、加代が部屋の中に入ると、真白いベビー服を着た赤ちゃんを抱いた、白鳥美智子がいました。
 二人は互いに無言のまま、しばらく見つめあい、どちらからともなく歩み寄りました。
 加代はゆっくりと手を伸ばし、美智子の腕から秀喜を受け取り、優しく抱きかかえました。
 自分の腕の中で、ぐっすりと眠る秀喜の寝顔を見たとき、さまざまな思い出が脳裏に去来しました。秀喜の髪の生え方、そして秀喜の匂いが、今は亡き秀夫の幼いころを思い起こさせたのです。
(私は女として生きる道を諦め、野間家に一生を捧げたことを、今まで一度も後悔したことなどなかったはずなのに・・・)
 このとき初めて加代は、女としての最大の喜びとは何かということを知り、その喜びを捨てて生きてきたことを後悔しました。
「加代さん・・・ 来てくれてありがとう」
 加代は美智子に、なんと声をかけようかと迷いましたが、
「美智子さん・・・ いろいろと大変やったやろう」という言葉が、自然と口を衝いて出ました。この言葉で、美智子は胸の奥にしまっていた様々な思いが溢れ出したのか、ゆっくりと加代に歩み寄り、加代の腕にしがみつくようにして、その場で泣き崩れました。
 加代は秀喜を抱きながら、美智子の背中を何度もさすり、片手でそっと抱きかかえるようにして彼女を立たせ、近くにあったソファーに並んで腰掛けました。
 美智子はひとしきり泣いたあと、秀夫と久美子が自殺したことを知ったあの日から、何が起こったのかを、加代に話し始めました。

 あの日、美智子は神崎に電話をして助けを求めました。駆けつけた神崎は、美智子のただならぬ取り乱しように驚き、何があったのかを訊ねました。
 しかし、激しく動揺していた美智子は、必死に説明しようとするのですが、まったく事情を知らない神崎に、うまく伝えることができませんでした。そこで美智子は、秀夫と久美子の遺書を神崎に渡して、読ませることにしました。
 神崎が二人の遺書を読み終わったとき、少しだけ落ち着きを取り戻していた美智子は、まるで自分に言い聞かせるかのように、ゆっくりとした口調で事情を話し始めました。
 すべての事情を知った神崎は、美智子を一人にしてはいけないと思い、彼女を自分の自宅に連れ帰り、保護することにしました。

 美智子が神崎に保護されて3日目、ようやく普段の落ち着きを取り戻した美智子は、これから自分は、どうすればいいかと神崎に訊ねました。すると神崎は美智子に、過去に起こった出来事を全て忘れて、お腹の中の子供を中絶して人生をやり直し、自分が経営する芸能プロダクションに所属して、女優を目指すようにと言いました。
 しかし美智子は、絶対に子供は中絶しないと言ったあと、自分は女優になることなんてできないと言いました。
 その理由として、素行が悪かった高校時代に起こった、男子学生同士の喧嘩による刺殺事件を始め、その事件が引き金となって、親とも疎遠になったこと、そして何よりも秀夫と久美子を死なせてしまい、全ての責任から逃げ出した自分を、今頃は家族と秀夫の家族が、必死に捜しているはずなので、自分は顔を変えない限り、映画やテレビになど出られる訳がないと言いました。
 美智子の話を聞き終えた神崎は、諦めるどころか、彼女に驚くべき提案を持ちかけました。
「せっかく綺麗な顔に生まれてきたんだから、顔じゃなくて、戸籍を変えればいいんだよ」
 当時の芸能プロダクションは、興行の関係で裏社会とのつながりが深く、戸籍を偽造し、あるいは捏造することなど、容易い作業だと言ったあと、神崎は更に驚くべき計画を打ち明けました。
 その計画とは、白鳥美智子を、この世から消し去る、という内容であったのです。神崎の話によると、自分は裏社会とのつながりだけではなく、警察関係にも深いつながりを持っているので、美智子が死んだように見せかけるのは可能だと言いました。
 おそらく神崎は、美智子を保護した直後から、これらの計画を頭に入れていたと思われますが、話を聞き終えた美智子は、これだけの計画を、顔色ひとつ変えずに淡々とした口調で話す神崎を恐ろしいと思う反面、この男に付いて行けば、本当に人生をやり直せるのではないか、という気持ちになりました。
 翌日、美智子はお腹の中の子供は絶対に産むという条件を出し、神崎に了承させたあと、彼にすべてを委ねることにしました。
 神崎は早速、計画を実行するために動き始めましたが、清瀬麗子の戸籍を捏造するよりも、白鳥美智子を死亡させることのほうが、より一層の困難を伴いました。
 おそらく、白鳥美智子として火葬された実際の人物は、本当に遺体の引き取り手のなかった、身元不明の行旅死亡人か、天涯孤独の自殺者ではなかったかと思われます。
 神崎は独自のルートを使い、身元不明の若い女性の自殺者の情報を警察から入手し、美智子とすり替えることに成功しました。
 そうして白鳥美智子は、戸籍の上では死亡したことになり、神崎の計らいで、清瀬麗子という戸籍を手に入れた美智子は、彼の芸能プロダクションに所属して、女優の卵となりました。

「加代さん、私はもう、白鳥美智子じゃなくて、新しく手に入れた清瀬麗子という名前と戸籍で、別人として人生をもう一回やり直したいんです。でも、私が女優になるためには、どうしても子供を誰かに預けないとだめなんです・・・ 
 私は秀喜を手放したくないけど、もう後戻りができないんです! だから加代さん、秀喜を育ててください!」
 加代は迷いました。もしかすると自分は、野間家の人々を裏切ろうとしているのではないか、ということが脳裏を掠めたからです。
 このまま秀喜を野間家に連れて帰り、正統な跡取りとして育てるべきではないか・・・ いや、そうすれば、美智子のことを明るみに出すことになり、彼女と神崎が犯してきた罪を暴き、それらの犯罪に、裏社会や警察関係者が関わっているということが明るみになれば・・・ 加代は、それはできないと諦めました。
「加代さん、お願いです! 助けてください!」
 加代は自分の気持ちが、まったく動揺することなく、とても冷静でいることに気付き、自分で驚きました。なぜ、これほどの秘事を打ち明けられたにもかかわらず、冷静でいられるのだろうと思ったとき、なぜ家を出るときに秀夫の遺書を持ってきたのか、その理由が分かったような気がしました。
 私は初めから、美智子に見せるために持ってきたのだと気付いた加代は、バッグから秀夫の遺書を取り出し、美智子に渡しました。
 秀夫の遺書を受け取った美智子は、終始無言で読み終わり、内容を確認するために、もう一度読み返したあと、
「じゃあ、秀夫さんも、加代さんの子供として育ててほしいって?・・・」と言いました。
「そうやね・・・」 
「加代さん!・・・ どうか、私の代わりに秀喜を育ててください! お願いします!」
 加代にはもう、迷いはありませんでした。
 秀喜を野間家の子としてではなく、自分の子として育ててほしいと、父親である秀夫がそう望み、母親である美智子もこうして、私に秀喜を託そうというのであれば、たとえ裏切り者や、人さらいといった誹りを野間家から受けようとも、自分が育てなければならないと決心しました。
「秀喜は、私が立派に育て上げるから、あんたは生まれ変わった気持ちで、人生をやり直しなさい」

 二人は今後のことを念入りに打ち合わせたあと、それぞれの帰路につきました。

 白鳥町に戻った加代は早速、秀喜を迎えるための準備を始めました。まずは東京の陽子の元へ電話をし、秀夫と久美子が自殺したのは、自分が東京へ行った本当の理由を、陽子たちに話さなかったことがすべての原因であり、美智子が後を追って死んだことも、自分に責任があると言ったあと、無残な死を遂げた3人に対する責任を取って、野間家から去ることを決意したと話しました。
 しかし、陽子にしてみれば、まさに寝耳に水のような話で、加代に責任があるわけではないと強く言って、思いとどまるよう何度も説得しました。 
 しかし、加代は頑として聞かず、野間家を去る理由は、三人の死に対する責任だけではなく、自分も年を重ねてきて郷愁が芽生え、生まれ故郷の大阪に戻って、残りの人生を静かに暮らしたい、といった嘘の理由を並べて、あくまで野間家を去ることを固持しました。
 その後も、陽子は何度となく四国を訪れ、母の節子を交えて加代と話し合いましたが、どうにも加代の決心が変わらず、説得は無理と判断した陽子は、断腸の思いで引き止めることを諦めました。
 しかし、諦める代わりに、秀夫が遺言で書き残した要望通りに、彼の遺した財産と同額以上の金銭を、加代の退職金として受け取らせました。
 野間家を去った加代は、陽子に話していた、生まれ故郷であり、秀夫を育てた地でもある大阪へ居を移すのではなく、何の縁もゆかりも無かった岡山県の岡山市へ引っ越し、秀喜を迎えるための準備を整えました。なにがなんでも、野間家の人々に秀喜の存在を知られてはいけない、という思いから陽子に嘘をつき、野間家と袂を分かつことにしたのです。
 数日後、新幹線の岡山駅で、加代は美智子から秀喜を受け取りました。
 秀喜を加代に託し、東京に戻った美智子は、東京駅に迎えに来ていた神崎と落ち合い、彼女は彼の手に抱かれていた赤ちゃんを受け取りました。美智子が抱いている赤ちゃんは、神崎郁美(いくみ)という名の女の赤ちゃんで、秀喜の双子の妹でした。


46 或る考え

 話は遡りますが、神崎が美智子を保護して、2週間が過ぎたときでした。彼は美智子から預かっていた、秀夫と久美子の遺書、そして秀夫が書いた小説を読み、二人の死に関して、次のような仮説を立てました。
 久美子は遺書で、秀夫が書いた双子の物語を読んだとありましたが、双子の姉妹の物語ではなく、男女の双子の物語を書いてはどうかと、良くも悪くもその批評を避けていましたので、秀夫にしてみれば、敢えて批評を避けられたことが、評価に値しない駄作だということを、暗に示唆されたと受け止めたのではないか。
(実際、神崎が読んだ秀夫の小説は、お世辞にも良い出来栄えとは言えないレベルでありました)
 そして、久美子から男女の双子に関する、衝撃的な史実を知らされたことによって、やはり自分は作家となる才能も資格もないと落胆し、久美子を失った絶望感と罪悪感によって、死を決意したのではないか、という結論に達しました。
 次に神崎は、秀夫の遺書を何度も読み返した結果、次のような考えを抱くようになりました。

『生まれてきた子供が男女の双子であれば、自分たちの生まれ変わりとして、将来結婚させてほしいのではないか』

 当時の神崎は、近親交配によって生まれた子供は、様々な障害や疾患を持つ恐れがあるという、巷の流言飛語程度の知識は持っておりましたので、やはり近親者の結婚は行わないほうがいいだろう、という程度の倫理観も持っておりました。
 なので彼は、やはり双子の男女を結婚させるなど、道義的にも、倫理的にも受け入れにくいという思いはあったのですが・・・
 しかし、もしも秀夫が、男女の双子の子供たちを結婚させたいと、本当に願っているとしたら・・・と考えているときに、神崎はある重要なことに気付きました。
 その重要な事とは、自分の考えの見方を変えれば、まったく別の意味として捉えることができないか、ということに気付いたのです。
 もしも久美子が、秀夫と美智子を怨んでいて、復讐を考えていたと仮定した場合、秀夫は久美子に誘導されて、あのような遺書を書いたという可能性はないか・・・
 つまり、久美子は自分が自殺したことによって、秀夫が後を追うということを見越した上で、男女の双子は心中自殺した者たちの生まれ変わりと遺書に書き、秀夫は久美子の思惑通りに、生まれてくる子供が男女の双子であれば、自分たちの生まれ変わりだと書き、もしも自分が生まれ変わったら、今度こそ久美子を幸せにしたい、という遺書を書いてしまったのではないか・・・
 確かに文面だけを見れば、双子を結婚させてほしいとは書いておりませんが、決してその解釈が間違っているとも言い切れず・・・
 もしも復讐だと考えると、神崎は背中に寒気を感じました。
 しかし、そこまではあまりにも考えが飛躍しすぎている、という思いも同時にしました。
 神崎は美智子に話すことを迷い、躊躇いましたが、もしも自分の考えのどちらかが正しいのであれば、という思いから、彼女の精神状態が安定していたこともあり、どう解釈するのかは美智子の判断に任せる、という気持ちで、心に一抹の不安を抱きながらも、彼女に自分の考えを話すことにしたのです。
 しかし、神崎は美智子に話したことを後悔することになりました。
 もちろん、美智子も神崎の話を聞いた当初は、心に強い衝撃を受けると同時に、戸惑い、迷いましたが、日が経つに連れて次第に美智子は、自分のお腹の中の子供たちが男女の双子であれば、二人を結婚させることこそが、秀夫と久美子の願いではないか、と思い込むようになったのです。
 こうなると神崎は、自ら言い出した事とはいえ、二人を結婚させることが、秀夫の意思なのではなく、久美子の復讐なのかもしれないと言って、思い留まるよう説得しましたが、美智子は久美子の復讐説を真っ向から否定しました。
 美智子に医学的、生物学的、遺伝学的といった知識があったわけではありませんし、不幸なことに彼女は無学な上に、神崎のような倫理観も持っていなかったので、双子の兄妹を結婚させるということに、嫌悪や禁断といった、心の抵抗がありませんでした。
 何しろ、この日本で近代まで行われていた、古くからの文化であり、むしろそうすることが、亡くなった二人への供養となると言って、自らの考えを全うすると神崎に宣言しました。
 この時の神崎は、まるでミイラ取りがミイラになったかのような気持ちになりましたが、まだ、生まれてくる子供が男女の双子と決まったわけではありませんし、仮に男女の双子が生まれて来たにせよ、おそらく美智子は、子供たちの成長とともに、その考えもいずれは変わるだろうと、彼はそう思っていたのですが・・・ 

 美智子は二卵性双生児、男女の双子を出産し、どうすれば二人を他人として育て、将来結婚させることができるのか、ということを神崎と何度も話し合いました。
 もう、この頃の美智子は、神崎の言うことなどまったく聞かなくなっていましたし、美智子の本性を見抜いていた彼は、美智子を説得することは不可能と承知していたので、心ならずも彼女の考えにずるずると引きずられ、加担していくことになりました。


47 女優と子役
 女優、清瀬麗子のデビュー作となった映画は大ヒットし、美智子こと麗子は、見事に女優として新しい人生をスタートさせることができました。
 しかし、その道のりは平坦ではありませんでした。その理由は、撮影開始当初から麗子は、生来の自由奔放で破天荒な性格が現れ、入りの時間に遅れて、共演者の大物俳優を怒らせたり、演技指導で監督と対立したりといった、新人らしからぬふてぶてしさが周囲の度肝を抜き、所属事務所の社長である神崎の肝を冷やしました。
 しかし、映画が上映されるや否や、麗子は新人離れした高い演技力と、その美しさで、たちまち銀幕の大スターの仲間入りを果たしました。
 当時は日本映画の黄金時代で、麗子の元には次々と次回作の話が舞い込んできました。

 麗子はどんなに忙しくとも、月に最低でも一度は、親戚の伯母さんという立場で、岡山に居る秀喜に会いに行きました。
 そして、神崎の養女となった郁美には、養父である神崎の友人という立場で接触していました。
 神崎の実家で、彼の両親に育てられていた郁美に、麗子は3日と空けずに会いに行き、その接し方もハチャメチャでした。
 まだ2歳にも満たない郁美に化粧を施したり、宝石店で高価な指輪を買って与えたり、高級ブティックでわざわざ子供服を何着も作らせ、郁美をまるで着せ替え人形のように着飾ったりといった、常識はずれな接し方でした。しかし、決して虐待を加えていたというわけではなく、むしろ逆に、溺愛していたといっていいほど、麗子なりに愛情を持って接しておりました。

 郁美が5歳になった時、麗子は予てからの計画を実行するべく、神崎とともに行動を開始しました。
 郁美を、麗子の幼少時代を演じる子役として、彼女の6作目の主演映画に出演させることにしたのです。

 そして、二人が出演した映画が公開された直後、麗子は初めて郁美を連れて、秀喜と加代に会いに岡山へ行きました。


48 幼馴染

 加代は郁美を見た瞬間、あまりにも麗子と似ていたため、非常に驚きましたが、麗子は郁美を、自分の幼いころを演じるために選ばれた子役として紹介したあと、郁美は自身の貧しい家計を助けるために、自分が所属しているプロダクションの社長の養女となったと話しました。そして4人で岡山市内の映画館に行き、郁美と共に出演した映画を加代に鑑賞させたことによって、加代にはまったく気付かれることも、実の親子では?という疑いも抱かせることはありませんでした。
 その後、麗子は2週間に一度の割合で、郁美を連れて頻繁に岡山を訪れ、たとえ1時間でも秀喜と接触を持たせました。
 その結果、秀喜と郁美は幼馴染として育ち、思春期を迎えた二人は、いつしか互いに惹かれあい、自然と寄り添うようになりました。
 加代はそんな二人を眺めながら、このままこの二人が結婚して、夫婦となることを望むようになりました。
 しかし、すべてが麗子の思惑通りとはならず、その後の麗子の芸能活動は波乱続きで、彼女の性格が災いしたのは勿論のこと、作品にも恵まれず、神崎のプロダクションも、看板女優の落ちぶれとともに、次第に経営が傾いていきました。
 業績の悪化に比例するかのように、麗子と神崎の二人は私生活も荒んでゆき、いつしか酒とマリファナに溺れるようになり、しまいには覚せい剤にまで手を伸ばしていきました。
 そしてある日、麗子と神崎は覚せい剤を打ったあと、かつて自分たちの事務所に所属していた女優の元を訪れ、裏切り者呼ばわりしたことからトラブルとなってしまい、二人はその女優を監禁して暴行を加えたことにより、警察に逮捕されました。


49 結婚と妊娠

 麗子が刑期を終えて出所し、その1年後に神崎が出所して間もなく、秀喜と郁美は結婚式を挙げました。
 この頃の秀喜は、やはり血は争えないと言いましょうか、秀夫の中にあった表現欲を多く引き継いだのか、彼は映画監督を志望しておりました。

 そして結婚1年後、郁美は妊娠したことを秀喜と加代、そして麗子と神崎に話しました。

 麗子にしてみれば、二人の間にできた子供を無事に誕生させることが、久美子と秀夫に対する罪滅ぼしであり、何よりも供養の最後の総仕上げという思いを持っておりました。


50 発覚
 妻の妊娠を知った秀喜に、チャンスが訪れました。有名な映画監督の助手として、アラスカの大自然を舞台とした、ドキュメンタリー映画の撮影に参加しないかという、映画監督を目指す秀喜にとって、願っても無い話でした。

 秀喜はもうすぐ生まれる、我が子との対面を当分の間諦め、アラスカの長期ロケに出発しました。

 その間、郁美は秀喜の帰りを待っていましたが、郁美が妊娠16週を過ぎ、安定期に入ったときでした。
 偶然にも麗子が神崎と旅行中に、銀行から郁美に、貸し金庫の契約更新の手続きの連絡がありました。
 その貸し金庫は麗子が使用していたのですが、郁美の名義で借りていたので、当然のことですが銀行は郁美に連絡しました。
 郁美は麗子に頼まれて、その貸し金庫を開設したのですが、郁美自身は中に何が入っているのか分かっておりませんでした。
 その当時の銀行は、現在のように身分照明なども必要なく、架空の名義で口座の開設や、貸し金庫の利用もOKという、言わば何でもありの時代でした。
 銀行を訪れた郁美は、やはり女心と言うべきか、中に高価な宝石などが入っているのでは?という思いから、契約更新の手続きを終えたあと、貸し金庫の中身を確認しました。
 しかし、郁美が目にしたのは貴金属類ではなく、秀夫と久美子の遺書でした。

 二人の遺書読んだ郁美は、加代の元へ向かいました。

 加代は麗子に裏切られた、という怒りよりも、何も気付かなかった、自分の愚かさを嘆きました。
 二人は話し合った結果、まずは中絶を考えました。
 しかし、中絶するには父親である秀喜の同意書が必要で、仕事上でもっとも大切な時期を迎えている秀喜には、やはり話すことができないと諦めましました。
 郁美の場合、すでに妊娠12週を過ぎていましたので、中絶すると役所に死産届を出さなければなりませんし、何よりも中絶手術自体が、母親の命に関わる危険性が高い大手術なので、それなりの覚悟が必要でした。そして、このまま時間が経過し、妊娠22週を過ぎれば、法律で中絶することはできなくなってしまいます・・・

 困り果てた郁美と加代は、すべてを明らかにする覚悟を決めて、野間陽子を頼りました。


51 思惑

 郁美の姿を見て、素性を知った陽子は、生まれて初めて卒倒するのではないかと思うほど、心に強い衝撃を受けました。
 話を聞き終えた陽子は、秀喜を密かに育てていた加代を責めるのではなく、その心境を理解しました。
 自分も加代と同じように、女として生まれてきたからには、一度は子供を育ててみたい、という強い思いが生まれたからです。
 ましてその子供は、幼い時からあまりかまってやることのできなかった、不幸のうちに悲しい死を遂げた弟の子の、双子の兄妹の間にできた、なんとも哀れで、生まれる前から悲劇性を身にまとった子供ではないか・・・
 陽子は、私なら生まれてくる子供を幸せにしてあげられるかもしれない・・・ いや、私以外に、この子を幸せにすることなどできないと信じ、自分が育てようと決心しました。

 陽子は無理な中絶手術をして、郁美の身に何かあれば、それこそ取り返しが付かないと言って、そのまま出産するように話しました。
 そして、生まれてくる子供を自分に引き渡すように説得したあと、郁美が美智子と決別し、新しい人生を歩むことができるように計らうと約束しました。

 郁美は思い悩んだ末に、美智子と決別し、命の危険を伴う中絶手術を諦め、陽子の提案を受け入れて、出産することにしました。
 そして郁美は、兄である秀喜も救いたい、その一心で、秀喜の今後のことも考えてほしいと、陽子に訴えかけました。
 郁美は今後、できれば秀喜と、本当の兄妹として暮らしていきたいと願い出たのです。
 陽子は郁美の願いを了承し、二人が本当の兄妹として新しい人生を歩んでいけるように、その環境を全て自分が整えることを約束しました。

 陽子は郁美が無事に出産できるよう、その環境作りとして、まずは郁美から麗子を引き離すことにしました。
 麗子が引き続き覚せい剤を使用している事を、郁美から聞いていた陽子は、自身が持てる力と影響力を駆使して、美智子を社会的にも、物理的にも隔離させるために、彼女を逮捕させることにしたのです。


52 誕生
 麗子と神崎が2度目の覚せい剤所持、ならび使用で逮捕され、服役している間に、郁美はアラスカにいる秀喜に連絡し、お腹の中の子供は、残念ながら流産したという、なんとも悲しい嘘の報告をしたあと、悲嘆に暮れる秀喜のことを心配しながらも、陽子の庇護の下で、無事に女の子を出産しました。

 陽子は生まれてきた女の子に、瑞歩という名前をつけました。

 瑞歩の本籍地は、野間製作所の本社工場がある、北関東の或る地方都市で、その街はもともと、野間製作所が四国の香川県から工場を移転するまでは、人口の少ない小さな村でした。
 野間製作所の工場の移転と共に、人口が急激に増加して、今では街全体の人口の8割が、野間製作所の社員や関連企業の人達になり、初代の市長は野間製作所の出身者で、今もその流れは続いており、現在の市長を含めて、歴代の行政のトップは、全て野間製作所の出身者となりました。
 財政面でも、野間製作所から莫大な法人税が入りますので、とても潤っており、その街は言わば、野間家の城下町であったのです。 
 陽子にとって、その街の役所の資料を改ざんすることは、造作ないことでありました。
 陽子は瑞歩の戸籍と、秀喜と郁美の福山という、新しい戸籍を用意しました。
 郁美は自分が産んだ瑞歩と、一生会うことは叶わない苦しみを背負いつつ、忌まわしい全ての過去を清算するために、アラスカから帰国した夫であり、実の兄である秀喜に、瑞歩を出産したことと、野間陽子の存在を隠し、それ以外のすべての真実を話し、これからは本当の兄妹として暮らして行きたいと話しました。
 秀喜は郁美に対して、幼いころから違和感のような感情を抱いていたことを話しました。すると不思議なことに、郁美も同じような感情を抱いていたと言いました。
 おそらくその違和感とは、双子という特別な関係の者にしか理解できない、一種の連帯感みたいなものだと二人は言っておりました。
 そして、その連帯感が、麗子という狂人によって捻じ曲げられ、二人は本来ありえない間違った環境で育ち、いつしか連帯感が恋愛感情となってしまったため、二人は互いに、言い表しにくい違和感を抱き続けたのでしょう・・・

 秀喜と郁美の二人は、陽子が用意した福山章浩と福山愛子という、1歳違いの兄妹として新しい人生を歩み始めました。

 郁美は秀喜に、新しい戸籍を手に入れた方法を話しませんでした。陽子に迷惑がかかることを心配したのと、何よりも瑞歩の存在を隠すためでした。

 瑞歩の誕生と共に、陽子は周囲の反対を押し切って、まるで隠居するようにして野間製作所の社長から会長に就任し、生活の拠点を何の由縁も無かった関西の高級住宅地である兵庫県芦屋市へと移し、隠遁生活を送るようになりました。

 その後、章浩と愛子は、木を隠すなら森へということで、人口の多い大阪で暮らしはじめ、加代は知人が住んでいた島根県で暮らすことになりました。
 そして章浩は、麗子や神崎が携わっていた、映画業界を避けるため、映画を撮りたいという夢を諦め、趣味であったカメラで、自らの表現欲を満たすようになりました。
 そうして章浩は涼介と出会い、涼介に一目惚れした章浩は、彼を妹の愛子に紹介しました。

 その後、愛子は涼介と結婚して、幸せに暮らしておりました。


53 離婚
 刑期を終えて出所した麗子は、郁美と秀喜と加代の行方を必死で捜し回りました。

 章浩は有名カメラマンになってからも、メディアの露出を避け、マスコミ嫌いで通してきましたが・・・
 神崎は出所後、再び芸能界に返り咲こうと、今から6年前に芸能事務所を立ち上げ、スカウトしてきた有望な新人アイドルを大々的に売り出すため、写真集の出版を企画し、カメラマンの選定を始めました。

 皮肉にも章浩は、自身の活躍が仇となり、神崎に存在を知られてしまい、引いては美智子にも存在を知られることになってしまいました。

 探偵を雇った美智子は、章浩と愛子、そして加代と陽子の身辺調査を行った結果、愛子と涼介が結婚していることが判明し、瑞歩の存在を知りました。

 美智子は愛子を訪ね、涼介と離婚して、再び章浩と一緒になって、自分と暮らすように迫り、言うことを聞かなければ、瑞歩に全てを打ち明けると言いました。

 愛子は陽子に相談しました。

 話を聞き終えた陽子は、涼介と離婚して、あなたが一緒に暮らすという条件を出してみてはどうかという、どこか他人事のような提案をしたあと、もしもその条件を飲むのであれば、現金で1億円を口止め料として支払ってもいいと、交渉条件に付け加えました。
 陽子の心の中に、瑞歩を守り抜くためなら、愛子と涼介の幸せが犠牲になっても仕方が無い、という思いがあったので、そのような提案をしたのです。
 愛子は誰にも相談できずに思い悩みましたが、自分の幸せを犠牲にすることで、娘の幸せを守れるのならと、結局は陽子が提案した通りに、自分が涼介と離婚して、美智子と一緒に暮らすということを前提条件とし、了承すれば口止め料も支払うという条件で、瑞歩には決して近づかないと、美智子に約束させました。


54 自殺

 涼介と離婚した愛子が、東京で美智子と暮らし始めて3年後、金を使い果たした美智子はとつぜん、瑞歩に会いたいと言い出しました。

 困り果てた愛子は、再び陽子の元を訪れ、相談しました。

 陽子は発狂するほどの怒りを露にし、今度は現金2億円で手を打たなければ、自分が美智子を殺し、殺人者となってでも瑞歩を守りぬくと言ったあと、美智子と直接会ってけりをつけるために、3日後に東京の美智子の自宅へ会いに行くと言いました。

 今から約2年前、陽子が訪ねてくる前日の朝、
『お母さん、瑞歩のことは諦めてください。お願いします。』という短い遺書を書き残して、すべてに疲れ果ててしまった愛子は、父親と同じように、自宅のベランダで首を吊って自殺しました。

 しかし、死亡したのは福山愛子ではなく、神崎郁美として扱われました。

第8章 みにくい白鳥の子

55 彷徨う心

 すべてを読み終えた時、私は愛子の死に対して、悲しみよりもむしろ、驚きの感情を覚えました。
 そして、その驚きの感情のあとに、悔しさと、虚しさと、無力感を覚えました。
 何も気付いてやることができなかった悔しさと、ひとり蚊帳の外に置かれた虚しさと、救うことができなかった無力感です。
 愛子の死を受け入れ、悼み悲しむためには何か特別な感情が必要で、今の私にはその感情が、まるで鋭利な刃物で切り取られたかのように、すっぽりと抜け落ちているのではないかと感じました。
 その特別な感情を、どのような言葉で表していいのか分からず、まるでカオスのような・・・・ 
 いや、混沌というような、言い表せない曖昧な感情ではなく、敢えて言葉にするならば、無責任な・・・・
 そう、私は間違いなく、愛子の死に対して悲しみよりも、無責任な怒りを覚えたのです。
 白鳥美智子に対する怒りというよりも、野間陽子、石本加代、そしてアキちゃんと自分自身を含めた、関係したすべての人たちに対する怒りであるとともに、自ら死を選んでしまった愛子にさえ感じた怒りです。
 なぜ、悲しみではなく怒りを覚えるのか・・・
 もしかすると私は、過去に起こった全ての出来事を、自分が当事者としてではなく、どこか第三者として、客観的に捉えているからかもしれません・・・
 それとも、私が読んだ『白鳥の里』という物語が、まったくリアリティーを感じられない二流のサスペンスか、或いはあまりにも生々しく、現実的に過ぎる、タチの悪い御伽噺(おとぎばなし)を読んでしまったかのように、そう感じたから怒りを覚えたのかも知れません・・・
 どちらにしても、私の理解力や処理能力は既に限界を超えており、その機能や能力を失っているのでしょう。
 もう何も考えたくはないという思いと、何も理解できないという思いから、いっそのこと泣いてしまおうかと思いました。
 瑞歩のように、大声で泣くことができれば、少しは気が楽になるだろうかと思ったときでした。
 愛子がなぜ、私との間に子供を作ろうとしなかったのか・・・ 
 その理由がようやく分かったような気がしました。
 おそらく愛子は、瑞歩を手放したことで、自分は母親になる資格がないと思っていたのかもしれません。
 もし、愛子がそう思っていたのであれば、私が子供を欲しがったことで、私は愛子を苦しめ続けていたのでしょう。
 私が感じている怒りとは、愛子を苦しめ続けていたという、私自身に対する怒りであり、愛子を死に追いやってしまった原因の一端を担っていたということで、誰よりも自分自身に向けられるべき怒りなのです。
 しかし・・・
 その怒りは既に、愛子の死によって憎むべき相手も無く、晴らすべき恨みも無いといった、もうどこにも行けない、或いは行かない、行く当てを無くしてしまい、私の心の中で永遠に彷徨い続ける無責任な怒りなのです。
 やはり、今は泣くべき時ではないように思い直しました。
 悲しみよりも怒りの感情が勝るのであれば、今の私は泣くことができませんし、
 もしかすると私は、泣く資格さえないのかもしれません。
 そして、何よりも私と瑞歩にとって、本当に泣くべき時が、これから先に訪れるのではないかと、そう感じたからです。
 私は自分に残された、僅かな能力を振り絞って椅子から立ち上がり、机から離れて書斎を出ました。


56 決心

 書斎のドアを閉めるとき、昨夜の激しい雨はすっかり止んでいて、窓から太陽に照らされた庭がはっきりと見えましたので、おそらく朝なのか、それとも昼なのかと考えながら歩いているうちにリビングに到着しました。
 リビングの扉を開けると、ミツコはソファーに腰掛けていて、私を待ちわびていたかのような表情をしておりました。 
 ミツコは自分の隣のソファーを指差し、「ここに座って」と言いましたので、言われたとおりにソファーに腰掛けました。
 ミツコはしばらく無言で私を見つめたあと、
「疲れたでしょう?」と言いました。
「いや・・・ 大丈夫です」
「すこし、休む?」
「いや、ほんまに大丈夫です。それよりもミツコさん・・・・ 
 このことを、瑞歩に内緒にすることはできないんですか?」
 ミツコは悲しげな表情で、「それは無理ね・・・」と言いました。
「なんで、無理なんですか?」
「それはね、探偵の調査が、ある程度まで進んでしまっているし、瑞歩はあなたに黙って、探偵の調査を続けるつもりなのよ。あの子は私に、涼介から探偵の契約を解除しろって言われたけど、ここまで来たから、そのまま続けるって言ってたわよ」
「じゃあ、瑞歩を説得して、探偵の調査を止めさせたらいいじゃないですか」
「そうね、でも、仮に瑞歩が納得して、探偵の調査を中止にしたって、あなたに黙って、また依頼したら同じことよ」
「じゃあ、その探偵社に僕が行って、二度と瑞歩の依頼を引き受けんとってくれって、頼みますよ」
 ミツコは少し、呆れた表情で、
「あなたねぇ、瑞歩の元彼が紹介したワールドパズ社って、本社はアメリカなんだけど、世界中のセレブを相手に商売している、世界一の調査網と情報収集と分析能力を備えた会社よ。例え、どんなに圧力をかけられたって、絶対に屈しないというプライドがあるし、いくら莫大な金を積まれたって、決して依頼主を裏切ったり、寝返ったり、不利益になるようなことなんて、何があっても絶対にしないのよ。だから、依頼した本人以外の誰とも、交渉なんて絶対にしないわよ」と、世間知らずな私に言いました。
「じゃあ、僕が絶対に瑞歩を説得して、調査を止めさせますから、それやったら、瑞歩には何にも話さんでいいでしょう?」
「・・・・・」
 ミツコはしばらく沈黙したあと、
「確かに、あなたが真実を知ったことで、探偵の役割は終わったから、これ以上探偵に真実を知られることは避けるべきだし、もしも万が一、情報が外に漏れることを考えたら、一刻も早く契約を解除するべきなんだけど・・・ でもね、それでも残念ながら、瑞歩に隠し通すことはできないのよ」と、とても苦しそうな表情で言いました。
「それは、なんでなんですか?」
「白鳥美智子が、瑞歩に会いたがっているのよ」

「!・・・・」

 一瞬、言葉に詰まりましたが、
「そんなん・・・ あんまりにも勝手過ぎるじゃないですか」と言いました。
「そうね・・・ 勝手すぎるわよね」
 白鳥美智子に対して、激しい怒りを覚えましたが、口に出しても仕方が無いと思い、「アキちゃんは今、どこで何をしてるんですか?」と訊ねました。
「アキはいま、白鳥美智子を説得する、っていうか、瑞歩に会いに行かせないために、石本加代と一緒に白鳥町にいるわ」
「白鳥町って・・・ 小説に出てきた、四国のですか?」
「そう・・・ 白鳥美智子は愛子が亡くなったあと、神崎と別れて、生まれ故郷の白鳥町に戻ったのよ。それで、白鳥美智子はアキに、瑞歩を白鳥町に連れてきてほしいって頼んでいるのよ・・・・・
 だから、アキも石本加代も身動きが取れなくなっているんだけど、二人ともいつまでも四国に居るわけにはいかないし・・・」
「・・・・・」
 私は話すべき言葉を、思いつくことができませんでした。
「だから、あなたが瑞歩に内緒にしたって、いずれは白鳥美智子が何らかの形で、瑞歩に連絡をするはずだから、どうしたって瑞歩に隠し通すことなんてできないのよ・・・それに、瑞歩に真実を告げることができるのはあなただけだし、あなたにとってそれは、残酷な役割だって事は、みんな百も承知していることなんだけど・・・ でも、あなた以外に、瑞歩のことを任せることができないのよ」
「・・・・・・」
 これ以上、白鳥美智子のことを、あれこれと考えたり、ミツコと話したり、話題にすること自体が、とても無駄のような気がしましたので、何も言わずにミツコの話しを聞くことにしました。
「野間陽子はね、愛子が自殺したことで、白鳥美智子は責任を感じて、瑞歩のことはもう諦めたと思っていたのよ・・・ 
 そして野間陽子はね、自分が愛子を死なせてしまったんじゃないかって、そう思っていたのよ。もし、あの時に自分がもっと違う方法を考えて対処していたら、愛子は死なずに済んだんじゃないかって思ったときに、自分が癌に侵されていることに気付いたのよ。
 そのことがきっかけで、野間陽子は徐々に、体だけじゃなくて、心も病に蝕まれていったのよ・・・ 
 映画やテレビを見ても、感動したり、笑ったりできなくなっている自分に気付いて、それからは段々と様子がおかしくなっていくことを、はっきりと自分で認識し始めたから、そんな姿を瑞歩に見せる訳にはいかないと思って、野間陽子は別荘に引きこもることにしたのよ。
 それで、残り僅かな自分の人生を振り返るっていう意味と、どうしてこんな悲惨なことになってしまったのかを、検証するという意味で、小説を書こうと決めたのよ」
 私はミツコが話している、小説に書かれていなかった事実に対して、何か話さなければと思いましたが・・・
 ミツコの表情が、私のコメントなど求めていないように見えましたので、黙っていることにしました。
「それで野間陽子は、瑞歩を一人にしちゃいけないと思ったから、あの子に彼氏を紹介して、二人が付き合い始めてから、この別荘に来たのよ」
「えっ!・・・ 瑞歩の元彼って、野間会長が紹介したんですか?」
「そうよ。家が同じ芦屋の近所で、親同士の仲が良かったから、両家は二人を結婚させるつもりだったみたいだけど・・・
 でも瑞歩は、そんな申し分の無いサラブレットなんて、初めからまったく興味が無かったし、結果的にはその彼氏も、瑞歩の心の病を止めることができなかったし、何の支えにもならなかったから、野間陽子は余計に気落ちしたのよ」
 もしも、野間会長が生きていて、瑞歩がサラブレットよりも私を選んだことを知ったら・・・と考えましたが、思い直して考えることを止めました。結局のところ、答えを出すのは瑞歩であって、私と野間会長ではないと気付いたからです。
「野間陽子は、当てにしていた彼氏も駄目で、瑞歩の様子が自分と同じように、日に日におかしくなっていくことに気付いた時に、母親の愛子も、祖父の野間秀夫も、大伯母の白鳥久美子も自殺しているから、瑞歩が精神面でそういう部分を受け継いでしまっているかもしれないと思って、焦ったのよ。そんな時に弱り目に祟り目で、白鳥美智子から、瑞歩に会わせてほしいって、連絡があったのよ。
 野間陽子はもう、怒る気力もなくなっていて、自分は末期の癌に侵されていて、もう長くないから、そっとしておいてって頼んだんだけど・・・
 白鳥美智子は野間陽子に、あなたが死んだら、瑞歩に会いに行くって、宣言したのよ。
 だから野間陽子は、瑞歩の存在と、愛子が亡くなったことを、どうしてもアキに話すことができなかったから、アキを避け続けていたんだけど、自分が死んだあとに、白鳥美智子から瑞歩を守ることができるのは、父親のアキしかいないから、なりふりかまわず藁にもすがるような気持ちで、アキを呼び寄せたのよ。
 でも・・・ すべてを知ったアキ自身も、どうしていいのか分からなくなって、私のところに相談に来て、どうしたらいいかってことを二人で考えはじめたのだけど、アキは初めから、あなたにも力になってもらうつもりだったから、あなたを巻き込む、巻き込まないは一旦置いといて、いつでもあなたを巻き込めるように、アキがこの別荘を借りることにしたのよ。
 そして野間陽子が亡くなる寸前に、アキは最後の決断を下すために、私のところに来たのよ。
 アキはもうすぐ野間陽子が亡くなるから、自分は今から白鳥美智子のところに行って、瑞歩に連絡したり、会いに行ったりできなくするために目が離せなくなって、どうにも身動きが取れなくなるから、涼介を巻き込んで、力になってもらいたいって思ってたけど、まだ踏ん切りがつかなくて迷っていたのよ。
 それで、二人で散々話し合って、最終的に私が、涼介を巻き込みなさいって、アキの背中を押して、あなたに手紙を送ったのよ」
 私はしばらく目をつぶり、瞼の裏に浮かび上がってきたアキちゃんに、(ほんまに、俺を巻き込んだことが正解やったんか?)と問いかけたあと、ゆっくりと目を開けて、目の前のミツコにも同じことを問いかけました。
「正解かどうかは、これからあなたが証明していくことだから、私にはまだ分からないけど、私はアキの直感を信じているのよ」
「アキちゃんの直感?・・・」
「そう、アキの直感よ。瑞歩を救い出すことができるのは、あなただけだってことを、アキは本能で感じ取っていたのよ。
 それにアキは愛子の時も、あなたを見た瞬間に、あなただったら愛子を任せることができるって、」と言ったあと、
「!・・・」
 なぜかミツコは突然、声を殺して泣きはじめました。
 私はミツコが急に泣き始めたことが、よく理解できなかったのですが・・・ ミツコは悲しい表情で私を見つめ、その悲しげな両目から涙を流しながら、
「涼介・・・ 愛子はあなたと出会えて、幸せだったと思うわ・・・」と言って、静かに涙を流し続けました。
「・・・・・・・」
 自分と愛子のことで、ミツコが涙を流しているのが申し訳ないという気持ちになり、自分も泣かなければと思いました。
 しかし、涙が出ませんでした。とても悲しいはずなのに・・・
 やはり、私は愛子の死に深く関わっていた当事者として、どうしても素直に涙を流すことができませんでした。
 ミツコはしばらく泣いたあと、近くにあったティッシュで涙をぬぐい、再び話し始めました。
「アキがね、私に何度も話してくれたことなんだけど、あなたが瑞歩を愛して、守っていくことを、誰よりも愛子が望んでいるような気がするって、そう言ってたわ」
「愛子がですか?・・・」
「そう、確かにアキはそう言ったわ。それはね、双子じゃない私たちには理解できないけど、双子にしか理解できないシンパシーのようなもので、不思議なことだけどたとえ相手が亡くなっていても、アキは愛子の存在や、意思のようなものを、はっきりと感じ取ることができるって、何度もそう言ってたわ」
「愛子の意思ですか?・・・」
「そう、愛子の意思よ。私は霊感なんて持っていないけど、アキが言っていることがなんとなく理解できていたし、こうしてあなたと直接会ってみて、本当に愛子がそう望んでいるんじゃないかって、私もそう感じたのよ」
「・・・・・」
 私は心の中で、(愛子、ほんまにそう思ってるの?)と問いかけてみましたが・・・・・・ 
 愛子は何も答えてはくれませんでした。
「でもね、たとえ愛子とアキがそう望んで、あなたが瑞歩と一緒に生きていくって決心したとしても、あなたが思っている以上に、これから先に瑞歩と暮らしていくことは大変なことだと思うわ。あの子は愛する人が傍にいて、その人からちゃんと愛されていることが確認できないと、いつまた精神を病み始めるか分からないわよ。
 おそらく瑞歩はね、あなたから深く愛されるほどに、自分の運命を変えていく力を付けていくはずだから、あなたは余計なことは考えないで、瑞歩を愛することだけを考えればいいのよ。
 だから涼介、瑞歩に真実を告げた後は、あの子に余計なことは何も考えさせちゃだめよ! あなたはひたすら、自分の本能的な直感を信じて、瑞歩を深く愛し続けなさい!」
「・・・・・」
 私は自分に、本能的な直感などがあるのかなんて分かりません。
 しかし、そんなものがあろうと、なかろうと、瑞歩を愛し続けていくことを自ら選択した証として、
「わかりました」と言いました。
 するとミツコは、先ほどまでの悲しげな表情から、少しだけ穏やか表情になり、
「涼介、私から最後に言いたいことがあるんだけど」と言ったあと、
「物書きの先輩として、酷なことを言うかもしれないけど・・・
 あなたと瑞歩が書いている小説は、あの子から大体の内容は聞いたんだけど、もうその小説の続きを書くのを止めて、あなたたちは今から始まる物語を書きなさい」と言いました。
「今から始まる物語ですか?」
「そう、あなたと瑞歩の二人で、白鳥の里の続きを書きなさい」
「白鳥の里の続き・・・・」
「そう、白鳥の里が、どういう結末を迎えるのかなんて、今は誰も分からないけど・・・ でも、ひとつだけはっきりしてることは、あなたと瑞歩以外に、この物語の続きを書く資格が無いってことよ。だって、白鳥の里は、あなたたち二人の物語なんだから、良い結末が書けるように、瑞歩と二人で一生懸命に生きていきなさい!」
 改めてミツコからそう言われると、確かに白鳥の里は、瑞歩と私の物語であるような気がします。
 しかし、その物語の行く末や結末の鍵を握っているのが、自分であるとは到底思えず、続きを書く資格があるのかさえ、よく分かりませんでした。
「とにかく涼介、あなたは余計なことは一切考えないで、瑞歩の心と体を優しく包んであげなさい」
「瑞歩の、心と体をですか?」
「そう、人は生きている限り、心と体を切り離すことなんてできないのよ。だから、瑞歩の心と体がバラバラにならないように、あなたがしっかりとつなぎとめて、あの子を一生懸命に愛してあげなさい! わかった?」
 私は黙って、ミツコの目を見ながら小さく頷きました。
「じゃあ涼介、そろそろ迎えの車が着く時間だから、私は東京に戻るわね」と言った後、「それと、すべてが落ち着いたら、瑞歩と一緒に、私のところにいらっしゃい! 何か美味しいものでもたらふく食べさせてあげるわよ!」と言って、ミツコは帰っていきました。


57 空間 (悲しみのぬけがら)

 ミツコが帰ったあと、再び書斎に戻り、『白鳥の里』が置かれた机に就きました。
 一晩中、寝ないで読んでいたせいか、ひどく目が疲れていることに気付き、深く瞼を閉じたときでした。
 なぜだか急に、愛子と一緒に暮らした部屋を思い出し、その部屋の鍵を、最後にかけたときの情景を思い出しました。
 愛子と入籍したあと、二人で不動産屋を廻り、愛子が気に入って決めた、縦に細長い2LDKの部屋でした。
 そして愛子が出て行った後、私が2年間独りで暮らし、ひたすら愛子の帰りを待ち続けた部屋でもあり、愛子の帰りを待ちくたびれて、もう二度と愛子は戻っては来ないと諦めた部屋でした。
 私はこの部屋で営まれ、積み重ねてきたことを全て無かったものとして、出て行くことに決めました。
 愛子の思い出と一緒に、荷物をひとつ残らず運び出したあと、最後にドアの鍵をかける前に、玄関から細長いもぬけの殻の空間を見たときでした。
 10年近く暮らしていて、ただの一度も広いと感じたことはなかったのに、その空間はあまりにも殺風景で、ひどく広いように感じたことを憶えています。
 私にとって、その部屋がただの寒々しい空間へと変わってしまった時の記憶は、とても辛い記憶の中のひとつでした。
 しかし、私にとって、愛子との思い出の中で、その空間の記憶が一番悲しかったわけではないはずなのに・・・・
 これから先にもう二度と、その空間には何一つとして運び込むものはなく、その空間が再び、暖かい部屋に生まれ変わることはないだろうと思ったとき・・・

 なぜか生まれて初めて、大きな声を上げて泣きました。


58 涼風

 泣き過ぎたせいか、のどの渇きを覚えてキッチンに行き、冷蔵庫から冷たい水を出して飲みました。
 その時、リビングのテーブルに置いていた私の携帯電話から、メールの受信音が鳴りました。
 メールは瑞歩からでした。
『涼介、なにかあったん? なんで返事くれへんの?』
 受信BOXを開くと、未開封のメールが4件あり、全て瑞歩から送られたメールでした。
 次々とメールを開いてゆき、中身を見ましたが、どれも他愛のない内容ばかりでした。
 これから先のことを考えると、メールの内容が他愛無ければ他愛無いほど、それらのメールを開ける度に、まるで瑞歩を裏切っているかのような気持ちになりました。
 瑞歩に電話しようかと思いましたが・・・・
 今の自分は日常会話さえ、うまく話せる自信が無かったので、私は短く、いつ戻るのかというメールを返信すると、
『返事が遅い! でも許す♡ 今日な、駅前で涼介と同じ涼っていう字がついた、有馬涼風川座敷っていうイベントしてるから、夜の7時に太閤橋に来て♡』という返信がありました。
 私は短く、『了解』と返信して寝室に向かい、何も考えずにベッドで少し眠ったあと、ひたすら夕方になるのを待ち続け、シャワーを浴びたあとに、待ち合わせの場所である太閤橋へ向かいました。
 歩き始めて3分ほどで、額から汗が流れ出しました。
 ゆっくりと歩を進めて、駅前に到着すると、太閤橋の赤い格子の欄干がライトアップされていて、まるで時代映画のセットのように、とても幻想的な雰囲気を醸し出しておりました。
 学校が夏休みに入ったせいか、普段よりも人出が多く、特に子供たちの姿が多く目に付きました。
 太閤橋から有馬川を少し上流に行くと、ねね橋という橋が架かっており、二つの橋の間にある有馬川親水公園で、瑞歩がメールで知らせてきた、有馬涼風川座敷というイベントが行われておりました。
 川幅が3メートルに満たない有馬川の両岸に、ビールやたこ焼き、カキ氷などの飲食系の屋台のほか、スーパーボールすくいや射的といった屋台が軒を連ねており、私は有馬川に架かった小さな橋を行き来し、両岸の屋台や出店を見て歩いたあと、時刻が6時45分となりましたので、瑞歩との待ち合わせ場所へ向かい、太閤橋に到着したときでした。
「!・・・」
 橋の真ん中辺りの歩道に、薄いピンクの浴衣地に、赤い花が描かれた浴衣を身にまとい、白い狐のお面で顔を隠した、一種異様な雰囲気の女性が立っておりました。
 私は妙な女性を少し警戒しながら、反対側の橋の真ん中辺りで歩を止めて、正面の女性がかぶっている白い狐のお面を見たとき、
「涼介! さびしかった?」と、白い狐から大きな声をかけられました。
「!?・・・」
 いくらお面で顔を隠しているとはいえ、瑞歩と気付かなかった自分に疑問を抱きましたが、瑞歩が狐のお面を外した瞬間、
「!」
 気付かなかった理由が分かりました。
 瑞歩は胸元まであった黒く長い髪を、耳が隠れるくらいにばっさりと切っていたからです。
 瑞歩は車が走って来ないか、左右を確認したあと、小走りで橋を横断して、私のすぐ前に来て、
「びっくりした?」と訊ねてきました。
「うん・・・ びっくりした」と言ったあと、「そのお面、どうしたん?」と訊ねると、瑞歩は一瞬で険しい表情になり、
「うそ~っ!? なんで先にお面なん? ふつう、髪が先やろう!」と大声で言ったあと、
「髪の次が浴衣で、最後にお面とちゃうん?」と、私に女心というものを詳しく説明してくれました。
 瑞歩の望み通りに、髪から浴衣、最後にお面と質問すると、
「髪を切った理由は内緒! それで、浴衣は初めからここで着るつもりやったから、旅行から帰った時に、芦屋に寄って着替えてきて、お面は芦屋の家にあったから、ついでに持ってきた」と言ったあと、瑞歩はとてもうれしそうな表情で、
「そんなことより、これでもう、愛子叔母さんとは似てないやろう?」と、大きな声で言いました。
 瑞歩は私の記憶の中の愛子よりも、とても大人びて見えました。それはまるで、これから知る真実を受け止めるための準備として、急激な速さで外面を成長させてしまったように感じられ、そのあまりにも劇的な進化が逆に、心の成長を妨げてしまうのではないかと不安に感じるほど、瑞歩は髪を切ったことによって、より一層美しく、気品と色香を身に纏ったように感じました。
「うん。ぜんぜん似てないな」
「ほんまに、ぜんぜん似てない?」
「うん、似てないよ」
「じゃあ、この浴衣は似合ってる?」
「うん。髪型も浴衣もめっちゃ似合ってるし、すごくきれいよ」
 瑞歩は少しだけ頬を赤く染めて、
「知ってる」と言ったあと、まるで照れを隠すかのように、手に持っていた狐のお面で何度か顔を扇ぎながら、「そんなことより、お腹が空いた!」と言いました。
 私は先ほど、川沿いをぶらぶらと歩きながら、目にした景色を思い出し、
「なんか、この橋の下の川沿いに、レストランみたいな店があったから、そこに食べに行こうか?」と言いました。
「うん、そこに行こう!」と瑞歩が言った時、橋の左側から、5歳くらいの小さな女の子が、父親と楽しそうに手をつなぎながら、私達の方に向かって歩いてくる姿が見えました。
 やがて、仲の良い父娘が目の前を通過したとき、私たちは互いに顔を見合わせ、どちらからともなく自然に手をつなぎ、一緒に歩き始めました。
 私たちが向かったのは、『すき焼き桟敷席』という名の、京都鴨川の川床のような風情を思わせる、洒落たお店でした。
 私はピンクのTシャツを着た若い女性店員に、
「二人ですけど、空いてますか?」と訊ねると、なぜか店員は少し困ったような顔で、しばらくお待ち下さいませと言って、簡易で設けられた厨房らしきブースにいったん引っ込んでしまいました。
 しばらくして戻ってきた店員の話によると、この店は前日までの完全予約制であったのですが、たまたま本日は1組のキャンセルがあったということで、『今回は特別に』という、いかにも言い慣れた感じの台詞のおかげで、私たちは席に着くことができました。
 私は『太閤鍋』という、牛のすき焼きを、瑞歩は『ねね鍋』という、地鶏のすき焼きを注文した時、時刻がちょうど7時になり、目の前に設けられた特設ステージで、今から有馬涼風川座敷の様々なイベントが開催されるということで、私たちは食事をしながら、そのイベントを見ることにしました。
 MCの若い男女がステージに上がり、イベント開催の挨拶をした後、トップバッターとしてステージに登場したのは、テレビで何度か見たことのある、あまり売れていない若手の漫才コンビでした。 
 二人は元気な挨拶のあとに漫才を始め、喋り始めてからすぐに、私たちのテーブルにすき焼きが運ばれてきました。
 食事をしながらぼんやりと見ていると、あまり期待していなかった割には、彼らのしゃべくりはテンポが良く、ネタもそこそこ面白かったので、私は顔の表情が少し緩み、瑞歩は声をあげて無邪気に笑い、漫才を終えた二人に拍手を送っていました。
 次にステージへ上がったのは、まったく見聞きしたことのない、見知らぬ中年男性の歌手で、彼はギターを弾きながらイーグルスのホテルカリフォルニアを歌ったあと、自分の持ち歌を披露しましたが、残念ながら彼の熱唱に比例するほどの拍手を、瑞歩を含めた他の観客からは得ることができませんでした。
 私たちが食事を終えたころ、ステージ上では涼しげな浴衣を身にまとった、有馬芸妓衆たちの踊りが始まりましたが、
「涼介、花火がしたい!」と瑞歩が言いましたので、私はもう少し、何も考えずに芸妓衆の踊りを見ていたかったのですが、
「じゃあ、コンビニで花火買おうか」と言って、席を立ちました。
 勘定を済ませて店を出たあと、駅前のコンビニに立ち寄り、私が手持ち花火のセットを購入しようとすると、
「そんないっぱいいらん! この線香花火だけでいい!」と言って、瑞歩は線香花火が10本ほど入った小さな袋を手にして、自らレジへ行って代金を支払いました。
 コンビニを出たあと、瑞歩はまるで、幼い子供のように無邪気にはしゃぎながら、
「なぁ、早くお家に帰って、花火しよう!」と言って、私の手を引いて、少し足早に歩き始めました。


59 運命の人?
 別荘に帰ったあと、私たちは睡蓮の花で埋め尽くされた池の畔で、花火をすることにしました。
「この花火、私ひとりで全部していい?」
「いいよ」
「ほんまに、一本もあげへんけど・・・ 後で怒ったりせぇへん?」
「怒ったりせぇへんよ」
「ほんまに? 絶対に怒ったらあかんで!」と、私に釘を刺した後、
「じゃあ、ライター貸して!」と言って、瑞歩はしゃがみこみながら私からライターを受け取り、本当に一人で線香花火に火を点け始めました。
 私は瑞歩が手にした、線香花火の淡い光を眺めたあと、その線香花火の光に照らし出された、瑞歩の横顔を眺めました。
 花火をする瑞歩の美しい姿はまるで、これから彼女が真実を知るために必要な、神聖で特別な儀式を、自ら執り行っているように見えました。
 このまま時が、永遠に止まってくれればいいのにと思ったとき、私はふと、愛子のことを思い出しました。
 なんの手立ても知らないで、愛子を愛せたように、私は愛子の娘である瑞歩を愛することができるのでしょうか・・・
 そして、過去に起こった全ての出来事を知ってしまった瑞歩は、母親の夫であった私を受け入れ、愛してくれるのでしょうか・・・・ 
 おそらく、その答えは私ひとりでは見つけることができず、瑞歩と二人で探し求めていかなければならないのでしょう。
 すべての線香花火をし終えた瑞歩は立ち上がり、私に微笑みかけながら、
「私が花火してた間、何考えてた?」と言いました。
 どう答えようかと迷ったあと、瑞歩がまともに答えてくれるとは思っていませんでしたが、
「なんで、髪をばっさり切ったん?」と、先ほど答えをはぐらかされたた質問を、もう一度してみました。
 すると瑞歩は、私の目を見つめながら、
「涼介に、北海道に行くって嘘をついたから」と答えました。
(知ってるよ)と思ったあと、自分でも白々しいと思いながらも、
「うそ?」と、質問口調で言いました。
「そう・・・ 私、ほんまは北海道に行ったんじゃなくて、九州の占い師に会いに行って、占いしてもらってん」
 私は何も知らないふりをして、嘘をついた理由を含めて、いろいろと質問しなければならいかと思いましたが、
「嘘ついて、ごめんなさい・・・」と、瑞歩が謝ってくれたおかげで、面倒くさい小芝居をしなくてもいいだろうと思い、
「それで、占いの結果は、どうやった?」と言いました。
「占いは、びっくりするくらい、いろんなことが当たってたけど・・・ でも、一番肝心なことが外れてた」
「一番肝心なことって?」
 瑞歩は少し伏し目がちになり、
「私はもうすぐ、運命の人に巡り会えるって言われた・・・・」と言いました。
「運命の人?」
「そう、私はこれから、運命の人が目の前に現れるって言われたけど、私は運命の人やったら、もう出会ってますって言うてん・・・
 でも、その占い師は、私がいま想ってる人が、これからその運命の人になるかもしれんけど、今はまだ出会ってないって、はっきり言い切ったから・・・ だから私は、占いが間違ってるっていうことを証明するために、思いきって髪を切ってん・・・」
「?・・・・」
 瑞歩の説明が、いまいちよく理解できなかったので、
「でも、占いが外れてるからって・・・ それが髪を切ったことと、どんな関係があんの?」と、もう一度訊ねてみました。
 瑞歩は少しだけ間を置いたあと、言葉を一つ一つ選ぶかのように、ゆっくりとした口調で話し始めました。
「それは、占い師はまだ出会ってないって、はっきり言い切ったけど・・・ 私はもう、運命の人と出会ってて、私はその人のことが好きやねん・・・ それで、私が髪を切ったら、運命の人の心の中に居る女性の面影がなくなって・・・・ 私のことを好きになってくれるかな?って・・・ そう思ったから・・・」
 瑞歩が言った言葉を、もう一度頭の中で繰り返したあと、
「その運命の人って、俺のことやろう?」と言いました。
「・・・・・・」
 瑞歩は答える代わりに、手に持っていた狐のお面をかぶりました。
「その運命の人は、もう大分前から、瑞歩のことが好きやで」と言って瑞歩を見ましたが、お面で表情が分かりませんでした。
「さっきは似てないって言うてたけど、やっぱり私が愛子叔母さんに似てるから、私のことを好きになったん?」
「違うよ」
「こんなに髪を切ったから、ほんまにもう似てないやろう?」
 私はどう答えようかと迷いましたが、答える代わりに、瑞歩の顔を隠していた狐のお面を両手でゆっくりと外して、キスをしました。
 これでもう本当に、後戻りすることができないという思いと同時に、これから先に例え何があっても、瑞歩を守り抜こうと、あらためて自分に誓いました。
 唇を離したあと、瑞歩は真剣な眼差しで、私の目をまっすぐ見据えながら、
「もし、愛子叔母さんが見つかって、涼介とやり直したいって言うても、絶対に私から離れへん?」と言いました。
「離れへんよ」と即座に答えたあと、(もう、愛子はおれへんよ!)と、心の中で何度も叫んだとき、
「!・・・」
 あることに気付いた私は、瑞歩を引き寄せ、強く抱きしめながら、「俺は絶対に離れへんよ。でも、瑞歩が占い師から言われたことって、間違ってないよ。瑞歩はまだ、運命の人に出会ってない」と言いました。
「えっ!・・・ それって・・・ どういうこと?」

 なぜなら、占い師が言った運命の人とは、確かに今の私ではなく、瑞歩に全てを打ち明けたあとの、私のことだと思ったからです。

「運命の人って、今の俺じゃなくて、今からの俺やねん」
「どういうこと?・・・ 涼介、ちゃんと説明して!」
「瑞歩が今から、俺の言う通りにしてくれたら、俺が瑞歩の運命の人になれるねん」と言ったあと、ミツコと話したことを思い出し、「瑞歩、いまから俺の目の前で探偵社に電話して、調査を中止してくれ」と言いました。
「え?・・・ 今から?」
「そう、探偵には24時間、いつでも電話できるんやろう?」
「できるけど・・・ でも、なんでそんなに急なん?」
 やはり、瑞歩が素直に応じるとは思っていませんでしたが、彼女自身も、次々と明らかになる真実に対して、見えない恐怖を抱いておりましたので、
「前も言うたけど、探偵よりもアキちゃんを信じて、俺らは手を引こう」という言葉で瑞歩は納得し、私の言う通りに探偵社に電話をして、解除を申し入れました。
 その後、私たちはリビングに移動して、瑞歩が探偵社と契約時に交わした書類の中から、契約解除の申し込み用紙を取り出し、彼女に署名捺印させたあと、近くの温泉旅館の前に設置された郵便ポストに行き、二人で投函しました。
「これで、涼介が私の運命の人になったってこと?」
「いや・・・ 上手く説明することはできひんけど、とにかく明日になったら、上手く話せると思う・・・」
「なにそれ?・・・ ちゃんと説明してよ!」と言って、瑞歩は詰め寄ってきましたが、私はこれ以上、うまく説明する自信がなかったので、彼女の質問から逃れるために、旅館の前にいた4,5人の観光客の目の前で瑞歩を抱き寄せ、キスをして唇を塞ぎました。

 別荘に戻ったあと、これから自分が瑞歩に行う、言動や行為の重さを再び認識し、深く刻み込むために、この夜を最初で最後に、瑞歩のことをアキちゃんと愛子の娘として接することに決め、今夜だけは彼女の心と体を、そっと抱きしめて眠ることにしました。


60 岐路
 翌日の朝、私は瑞歩の、
「おはよう!」という挨拶で目を覚ましました。瑞歩は私が目を開けた瞬間、掌で私の目蓋を覆い、軽く口付けしたあと、
「今の涼介が、私の運命の人ってこと?」と言いました。
「違う・・・ 今からの俺やな」
「だから、どういうこと?・・・ 意味がわからん」
 私は今、自分が岐路に立っているということを認識し、後戻りする意思のないことを確かめたあと、自分の覚悟が、微塵も揺らいでいないことを証明するために、
「瑞歩、今から二人で書斎に行って、バァバが書いた小説を一緒に読もう」と言いました。
「バァバの小説?」
「そう、瑞歩が旅行に行ってる間、ミツコさんがこの別荘に来て、バァバがこの別荘の書斎で書いてた小説を持ってきてくれてん」
 瑞歩は目を大きく見開き、
「バァバの小説をミツコさんって・・・・ それって、私が涼介に話した小説のことで・・・それをミツコさんが、ここに持ってきたってこと?」と言いました。
「そう、『白鳥の里』っていうタイトルの小説やねんけど・・・
 今から二人で、その小説を読んで、俺と瑞歩の過去に何があったんか、一緒に確かめよう」
 瑞歩は、私が今まで一度も見たことが無いような、困惑しきったという表情で、
「涼介、どういうこと?・・・ 昨日から涼介、絶対おかしいって! 私に隠し事なんかしたらいやや! 全部、正直に話してよ!」と、大きな声で言いました。
 私は瑞歩に、ミツコが訪れた理由を話した後、アキちゃんが私に読ませるために、小説をミツコに託した、ということを含めて、今までの流れを大まかに説明しました。
 しかし、瑞歩は頭の中が非常に混乱しているらしく、うまく伝えることができませんでした。
 何の事情も知らない瑞歩が、頭を混乱させるのは無理もありませんが、その事情を説明しているはずの私自身も、はたして何から話せばいいのか、非常に頭が混乱しておりましたので、当然のように私たちの会話は、まったくかみ合わなくなりました。
 これ以上、的を射ない質疑応答を重ねても仕方がありませんので、
「瑞歩、とにかく小説を読んだら、すべて分かるから」と言って、私は岐路のその先にある、書斎という名の、不鮮明で不確かな未来へ、瑞歩を連れて行きました。

 読み始めてから4時間が経過し、瑞歩は第10章を越えたあたりから急に、次の原稿用紙をめくることを躊躇いはじめました。
 私はその都度、まるで瑞歩の心の傷口にできた瘡蓋を、無理やり引き剥がすかのような錯覚に捉われながらも、覚悟を決めて一枚、また一枚と、原稿用紙をめくり続けました。


61 運命の人

 夕方、小説を読み終えて、すべての真実を知った瑞歩が初めに口にした言葉は、
「なぁ、涼介・・・ 私って、被害者なん? それとも加害者なん?」という言葉でした。
 私は大学の時に読んだ、心理学の本を思い出しました。両親から虐待された子供の心理として、不幸な現実をあたかも自分の存在が原因と考えてしまうという、まさに被害者がいつの間にか加害者となってしまったかのような錯覚に陥るという、とても悲しい子供の話であったのですが・・・
「瑞歩は加害者なんかじゃないよ」
「でも・・・ 私の存在が、ママを自殺に追い込んだようなもんやんか・・・」と言った時、瑞歩の瞳から涙が零れ、頬を伝いました。 
「パパが、カメラマンなんかになれへんかったらよかったん?・・・ 
 もし、パパが有名になってなくて、どっかで平凡に暮らしてたら、涼介は今でも、私のママと一緒に暮らしてたんじゃないの?」
「アキちゃんが悪いわけじゃない」
「そんなこと分かってるわ! じゃあ、誰が悪いん?・・・ なんでこんなことになったん?・・・ 白鳥美智子ってなにもんなん?・・・ その女が、私の本当のバァバってことやろう!」
「・・・・・」
「ママはなんで、涼介に正直に話せへんかったん?・・・
 もし、涼介がその時に、ママから正直に全部聞いてたら、涼介はママのことを赦してたやろう?・・・」
「・・・・・・・」
「パパも、ママも、バァバも、白鳥美智子も、みんな最低やわ!」
「・・・・・」
 泣きながら質問してくる瑞歩に、なにも答えることができませんでした。
 瑞歩はしばらく泣き続けた後、まるで囁くかのような小さな声で、
「涼介と出会ってからは、一回も思ったこと無かったけど・・・・』と、つぶやいた後、よりいっそう小さな声で、
「・・・・・ 死にたいよ ・・・」と言いました。

「!・・・」

 この言葉を聞いて、私は自分自身に誓った『覚悟』を、もういちど思い起こしました。

「やっぱり・・・ 死にたいよ・・・」

 私は条件反射的に、瑞歩を抱きしめようと腕を伸ばしましたが、
「触らんとって! 私って、めちゃくちゃ汚れてるやんか!」と、瑞歩は私の腕を振り払いました。
「瑞歩は汚れてないよ!」
「じゃあ、なんで昨日抱いてくれへんかったん? ほんまは涼介も、私が近親相姦の子供やから、汚れてるって思ってんねやろう?」
「・・・・・」
「涼介は、自分だけ部外者でいるつもりなん?・・・・ 涼介も、アキと愛子の娘の私を抱いて汚れてよ! 私のことを好きって言うたやんか!」
「・・・・・・・・」
 これ以上、言葉で納得させることは不可能だと思いました。
 そして私自身も、まず動物的な欲望を満たさなければ、人間的な理性や思考が回復し、機能しないのではないかと思いました。
 この先、瑞歩の心と体がどこへ向かうのかを決める、いまが一番大切な瞬間であると同時に、一番危険な状態であることを自分に言い聞かせて・・・ 
 いや、言い聞かせるのではなく、自分の欲望に対する言い訳として、私は瑞歩の手を引いて、書斎から寝室へ向かいました。


62 心と体の行方

 瑞歩は寝室に入る寸前に、
「あかん!・・・ シャワー・・・」と言いましたが、私はそれを許さず、彼女をベッドに寝かせたあと、目の前にいる女性が誰の娘で、どのような宿命を背負っていようと、そんな現実的な問題や、非現実的な問題は全て後回しにして、ただ単に自分の欲望を満たすために、瑞歩の心と体を抱き始めました。
 瑞歩の中に入った瞬間、私の心の中には、アキちゃんの存在や、愛子の面影など既にありませんでした。
 心から瑞歩を愛しているという、単純で明快であり、純粋な気持ちで、ひたすらに瑞歩を求めました。
 しかし・・・ 心のどこかに、こうすることが本当に正しかったのかという思いと、もうこれから先に、どうなっても構わないという、投げやりな思いといった、様々な思いが交錯した時でした。
 瑞歩はどういう気持ちで、私を受け入れているのだろうと思いました。真実を知り、ずたずたに傷ついた心を、余計に傷つけてしまっているのか・・・ 
 それとも、こうして瑞歩を抱くことによって、傷ついた心を癒しているのか・・・
 そのどちらなのかさえ分からない自分が、はたしてこの先、本当に瑞歩を救うことができるのでしょうか・・・
 そうして私は、瑞歩を救うためには、どうすればいいのかの明確な答えを見つけられないまま、射精に近づいた時でした。
「私って、ママの代わりじゃないやんなぁ?・・・」

「!・・・・」

 瑞歩の質問に答えるためというよりも、射精を遅らせるために動きを止めたあと、
「違うよ。瑞歩は愛子の代わりじゃない」と言いました。
「じゃあ、私は・・・ 涼介の子供を生んでいいの?」
 彼女が言った言葉の意味を探し始めました。
 もしも瑞歩が妊娠して、彼女の体が、彼女ひとりのものでなくなれば・・・と思った時、ミツコが言っていた、本能的な直感を信じて、という言葉の意味が分かったような気がしました。
 おそらく瑞歩は、子供を宿すことが、生へとつながる唯一の道だということを、本能的に自らが感じ取り、導き出したのだと思い、私も自分の本能的な直感を信じて、
「瑞歩、俺の子供を産んでくれ!」と言いました。
 瑞歩は私の目をまっすぐ見つめたまま、ゆっくりと小さく頷きました。
 私は再び瑞歩を抱き始め、そして彼女の中に射精しました。
 それから3日間、私たちはお風呂も一緒に入り、トイレ以外はひと時も離れずに抱き合ったまま過ごし、私は体力が回復するたびに、何度も瑞歩を抱き続けました。
 そして私は、瑞歩が感じ続けているであろう、自分の出生に対する倫理的な嫌悪や、医学的な根拠、道義的な背徳や、遺伝的な不安などを、彼女の体から押し出すような気持ちで、激しく突き続け、瑞歩は自らの悲しい宿命を、まるで洗い流そうとするかのように激しく濡れ、私は瑞歩の中に、何度も生命を注ぎ込みました。


63 みにくい白鳥の子 

 目を覚ましたとき、瑞歩がまだ眠っていたので、起こさないようにゆっくりとベッドから抜け出てキッチンへ向かいました。
 冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して飲み終わったとき、リビングのソファーの上に置きっぱなしにしていた私の携帯電話から、着信を知らせるメロディーが流れてきました。
 携帯電話を手に取り、ディスプレイに表示された見たことの無い電話番号が、アキちゃんからの電話だと分かりました。
 根拠も理屈も証拠も、なにひとつ示すことはできませんが、アキちゃんからだということが、明確に分かったのです。
「涼介・・・ 大丈夫か?」
「大丈夫やで」
「そうか・・・ 瑞歩は?」
「瑞歩も大丈夫やけど・・・」 と言ったあと、決して悲しかったわけではなかったのですが・・・
 嗚咽をこらえることができずに、
「アキちゃん、ごめん・・・」と言って、泣いてしまいました。
 おそらく、アキちゃんの声を聞いて、張りつめていた何かが消えて、安心してしまったのでしょう。
 アキちゃんは私が泣いている間、私を慰めたり、励ましたりせず、無言でいてくれました。
 もしもこの時、アキちゃんから慰められたり、励まされたりしていたら、私はきっと、いつまでも泣き続けていたでしょう。
 アキちゃんは私が泣き止むのを待って、
「どうする?・・・ 四国に来るか?」と言いました。
「うん。瑞歩と一緒に、会いに行くわ」
「そうか・・・ 気をつけて来いよ」
「うん」 
 私たちは電話を切りました。

 おそらく私と瑞歩は、自ら命を絶ってしまった人たちから渡された『宿命』というチケットを手にして、『運命』という名前の天秤の皿に、二人で乗ってしまったのでしょう。
 そして、私たちの乗った運命の天秤の反対側の皿には、『生と死』、『善と悪』、『愛と憎』といった、それぞれ相反する意味を同時に持たされた、とても歪(いびつな)形をした不安定な錘(おもり)が乗っていて、私たちが少しでもバランスを崩せば、不安定な錘も連動してバランスを崩し、私たちは皿からこぼれ落ちてしまい、二度と自分たちの『命の重さ』や、『言葉の重さ』、『行動の重さ』や、『愛情の重さ』などを量れなくなってしまう、とても危うい天秤です。
 しかし、私と瑞歩はひとつの皿の上で、それぞれが足りないものを補い合い、余分なものは切り捨てながら、お互いに助け合って行くことでバランスを保ち、決して皿からこぼれ落ちることなく、これから始まる『運命』や『宿命』を、二人で乗り越えていくことができるでしょう。

 寝室のドアを開けると、瑞歩は目を覚ましていました。
「瑞歩、そろそろ行こうか」
「うん」
 私はこれから始まる物語を完成させるために、心の(みにく)い白鳥の子の、心の見難(みにく)い白鳥の子と一緒に、白鳥の里へ向かうことにしました。


                了

みにくい白鳥の子

みにくい白鳥の子

かつて日本では、男女の双子は心中自殺した者たちの生まれ変わりと考える文化があり、来世で生まれ変わって、夫婦となることを誓い合って自殺した二人だと考え、片方を養子に出して許婚とし、後に成人してから他人同士として結婚させていたという、この国で近代まで実際に行われていた、歴史的事実をテーマにした作品です。 2ヶ月前に行方不明となってしまった、元の義理の兄からの手紙がきっかけとなり、義兄の娘の瑞歩と暮らし始めた涼介だが・・・ 四国の小さな港町から始まった、涼介と瑞歩に隠され続けてきた、男女の双子にまつわる恐るべき真実と向き合い、全ての過去を受け入れる決心をした涼介は、精神を病み始めた瑞歩を救うために、敢えて彼女に全てを話すことにした。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-02

Copyrighted
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  1. 第1章 嘘つきは作家の始まり
  2. 第2章 出会い
  3. 第3章 作家生活
  4. 第4章 使者と、その使命
  5. 第5章 小説『白鳥の里』前編
  6. 第6章 追憶 ~窓辺の風景~
  7. 第7章 小説『白鳥の里』後編
  8. 第8章 みにくい白鳥の子