インペリアルホテルの逆襲

第1章 大阪インペリアルホテル

第1話 「メェ~」と「ワゥ」

「人として大切なことは、『何を恥と思うか』、それだと思う」

 劇作家であり、演出家であり、小説家であった故・つかこうへいさんの名言と出会い、昨年まで勤めていた会社を退職しました。

 自分がやっていた仕事を、『恥』だと思ったからです。

 大学を卒業して10年、大阪の経営コンサルタントの会社に勤めていたのですが、就職した当時はまだ、経営コンサルタントいう仕事が現在ほど世間に認知されておらず、どちらかと言えばマイナーで胡散臭いイメージの職業、という印象を持つ人が多かったのではないでしょうか。
 私自身も勤め始めて2か月ほどは、自分の会社がいったい何をやっているのかさっぱり分からなかったほどなので、やはり経営コンサルタントいう仕事は世間一般のイメージ通りに、どこかすっきりとしない、霧に包まれたような後ろ暗い職業なのかもしれません。
 では、私にとって経営コンサルタント業の何が恥なのかと言いますと、業務内容が恥ずかしかったという訳ではなく、私は自分自身の未熟さが恥だと思ったから退職したのです。
 私が勤めていた会社は関西では名の知れた、立派な会社であったのですが、創業者である会長が2年前に他界されたことがきっかけで、社を取り巻く状況が大きく変化し、その変化に対応することが困難になってしまったのです。
 会長は狭い業界内では立志伝中の人物で、良い意味でも悪い意味でもワンマンで、カリスマ性を備えた人物であっただけに、その会長が亡くなられたことによって、それまで懇意にして頂いていた取引先が、次々と手を引き始めてしまったのです。
 私は10年も勤めていたにもかかわらず、信頼関係を完璧に築いていたと思っていた得意先の社長から、
「会長はほんまに立派な人やった。あんたもあと、会長が5年長生きしてはったら、立派な人物になれたのに・・・」と、取引の継続を解除されてしまいました。
 結局のところ、会社は会長一人で保たれていたということを痛感し、自らの力量不足を思い知った結果、一度自分のキャリアをリセットするという意味で退職したのです。
 しかし・・・ 
 餅は餅屋、雀百まで踊りを忘れず、と言いましょうか、自身の実力を恥と思いつつも、何名かの昵懇にしていただいていた取引先の方々の要請と協力を得まして、3ヶ月前に経営コンサルタントの会社を設立してしまいました。

 そんなある日、変な依頼が舞い込んできました。

 その日は朝から銀行へ行く用事があったので、出社をせずに銀行へ直行し、所用を済ませて車に乗り込んだときに、会社から携帯電話に連絡が入りました。
「おはようございます。マリです」
 電話は、設立当初から事務職員として働いてくれている、佐々木マリからでした。
「おはよう」
圭介(ケイスケ)さん、何時に出社されます?」
「今、用事終わったから、今からそっちに行くけど」
「分かりました。それでね、昨日話した、私の同級生が11時に来るから、なにか甘い物買ってきてくださいよ」
「了解。じゃあ、いつものアールグレイでいい?」
「やった~! 早く帰ってきてくださいね」
「はいよ!」
 マリは大好きなケーキのお土産と聞いて、彼女の弾んだ様子が目に浮かびます。
 おそらく彼女は今、デスクの上でアイスコーヒーを飲みながら、業務命令として読むようにと私が貸し与えた、大藪春彦の『野獣死すべし』を読んでいることでしょう。
 どうでもいい話なのですが、なぜマリに業務命令としてまで『野獣死すべし』を読ませているのかと言うと、彼女の中に眠っている野生を呼び覚ますためです。
 では、なぜ彼女の中に眠っている野生を呼び覚まさなければならないのかと言うと、マリが犬に似ているからです。しかも、誰彼なしに噛みついていきそうな、凶暴な大型犬に似ているからです。
 しかし、だからといってマリは不細工というわけではなく、健康的な小麦色の肌の、目鼻立ちのはっきりとした、身長170センチのナイスバディーな27歳のエキゾチックな美人です。
 面接の時に初めて彼女を見た第一印象は、
「佐々木さんがもしも犬やったら、口の周りが黒い犬っていう感じですね」でありました。
 マリは一瞬、私が何を言っているのか理解できないといった怪訝な表情で、
「それって、不採用っていう意味ですか?」と訊ねてきました。
「いえ、採用っていう意味です」
 マリは今まで見たことがない、得体の知れない動物を見るかのような不思議な表情で、私の目をまっすぐ見つめたまま、
「それは、私が犬に似ているから採用するっていうことなんですか?」と言いました。
「いえ、ただの犬じゃなくて、口の周りが黒い犬です」
「・・・・」
 マリはしばらく無言で、何事か思案中といった、小難しそうな表情をしていましたが、やがておもむろに口を開き、
「採用してもらえるのは嬉しいんですけど・・・ 2、3日返事を待っていただけますか?」と言いました。
「いいですよ。良い返事を待ってますね」

 そして二日後、マリから連絡がありまして、
「私、母に口の周りが黒い犬に似てる?って訊ねてみたんですよ・・・ そしたら、母がゲラゲラ笑いながら、なんとなく分かるような気がするって言ったあとに、その人のところで働きなさいって言われたんですよ・・・ だから、よろしくお願いします」
 以上が彼女との馴れ初めでございます。

 ということで、ここで話を本筋に戻しまして、日本橋の駐車場から車を出して千日前通りを東へ向かい、我が社が入る小汚い雑居ビルの前を通過して、上本町にある『なかたに亭』という、少し変わった屋号の有名なケーキ屋に寄りまして、大人気のアールグレイというチョコレートケーキを3つ買ったあと、元来た道をUターンして会社に向かいました。
 話を元に戻した直後に申し訳ございませんが、思いがけずに『変わった屋号』というキーワードが突然現れましたので、ついでと言ってはなんですが、ここで私の会社を説明させていただきます。
 私が設立した会社の名前も少し変っていて、『株式会社WALSON』という社名にしました。
 スペルを直読みすると『ワルソン』となるのですが、実は何を隠そう、『ウォルソン』と発音します。
 ウォルソンの意味なのですが、直読みのワルソン(悪損)に因み、
『悪い奴には損をさせてやる~!』、という願いを込めてWALSONとしたのですが・・・
 しかし、残念ながら実際の世の中は皆様ご周知の通り、
『悪~い奴ほど♡得をする~♪』という複雑な仕組みになっておりますので、私は自ら掲げた高潔な理想に向かって、一層努力して参ります。敬具。

 ウォルソンは谷町9丁目の雑居ビルにオフィスを構えておりまして、従業員はマリと、竹下(タケシタ) (ススム)という新卒の新入社員一人の小さな会社です。
 進は私の数少ないお得意先の大事な一人息子なのですが、彼の採用理由は次の通りです。
 通り一遍の面接が終了した後、
「当社に採用されたと仮定して、今後の抱負を語ってください」と質問したのですが、彼は現役の大学生にもかかわらず、
「ホウフって・・・ どういう意味ですか?」と、逆に質問されてしまい、私はデスクからメモ用紙とボールペンを手に取り、『抱負』と書いて彼に見せたのでが・・・
 進は聞き取れないほどの小さな声で、
「抱いて負ける?」とポツリとつぶやいたあと、「もしかしたら抱負って、プロレスでベアハッグされて、ギブアップするっていう意味ですか?」と言われてしまい、余りにも意外な珍答に、
「採用です。卒業後、4月1日から出社してください」と、私は思わず即決して、彼に握手を求めてしまいました。
 ちなみに進は現在、新人研修という名目で、私の知り合いの京都のお寺に預けておりまして、4日後の来週月曜日に戻って参ります。

 マリといい、進といい、どうも私は物心ついたころから、毛色の変わった珍妙な生き物が好きなようで、8歳の時に田んぼのあぜ道で初めて螻蛄(けら)を発見した時の感動を、今でも鮮明に憶えております。
 私が所有している税込み3024円の国語辞典によると、
『ケラ(螻蛄)地中にすむケラ科の昆虫。農作物の根などを食べて害を与える。オケラ』となっております。
 失敬な! 実に不愉快である!
 日本国民の6割以上が口ずさんだことがある、『手のひらを太陽に』に登場する螻蛄殿に対して、これではあまりにも説明不足だし、味も素っ気も無いので、彼らの名誉のために私が補填します。
『螻蛄はハヤブサのように空を飛び、マッコウクジラのように水中を潜水し、モグラのように地中に潜ることができる、陸海空を厭わない、国際救助隊サンダーバードのような、実に素晴らしい昆虫』である! 以上。
 車をビルの裏手にある駐車場に停めた後、10階建の雑居ビルのエレベーターに乗り込みまして、7階で降りて事務所のドアを開けると、案の定、マリは自分のデスクに座って、『野獣死すべし』を読んでおりました。
「圭介さん、おはようございます」
 私はいつか、マリから本当に噛みつかれるかもしれないと思いつつも、手に提げたケーキを手渡す直前、その日に彼女と初めて顔を合わせた時に行う、
「メェ~」
 という、いつもの朝の挨拶を返しました。
 しかし、マリは一瞬で笑顔から険しい表情になり、私が朝の大切な挨拶をしたにもかかわらず、
「もぅっ! それは止めて下さいって言ってるでしょう!」と言いながら、私からケーキを奪い取り、「絶対に返事しませんからね!」と付け足しました。
「メェ~☠」
「そんな寂しそうな声出しても、もう絶対に相手しませんよ!」
「メェ~?」
「もぅ~っ! 気持ち悪い!」
 こうまで言われてしまうと、私と過去にお付き合いをして下さった女性たちに申し訳が立ちませんし、彼女たちの名誉を守るために、ここは黙って聞き流すわけにはいきません。
「気持ち悪い? マリ、俺は女性から、『気持ち良い!もっとしてぇっ!』って言われることはあるけど、気持ち悪いなんか言われたことないぞ!」
「そういうとこが気持ち悪いって言ってるんですよ!」
「メェッ!」
「わかりましたよ! やったらいいんでしょう?」
「メェ~♪」
「ウ~、ワゥワゥ!」
 私たちが何をしているのかと言いますと、マリは口の周りが黒い牧羊犬で、私はマリに追い立てられながら放牧地へと誘導されている迷える子羊、という設定であります。
 マリは見た目が美しいだけに、おそらくこれまでの人生で男性からこういった扱いを受けたことがないでしょうし、本来はプライドが高い生粋のジャジャ犬(馬)なのですが、そこは調教師としての腕の見せ所と申しましょうか、とてもやりがいを感じている今日この頃でございます。
 まさかマリ本人は、自分が牧羊犬を目指してパブロフの犬のように調教され、訓練しているとは露ほども感じてはいないでしょうが、こうした日頃のたゆまぬ訓練と努力を積み重ねた結果、いつの日か彼女が立派な噛みつき牧羊犬面美人として立派に成長し、世の迷える子羊たちを導くことができるでしょう。
 私は人類と迷える子羊とマリ本人にとって、とても意義のある偉大なチャレンジを続けていくことを固く誓いました。あらかしこ。
 ほとんど話が脱線しっぱなしで、大変恐縮なのですが、私とマリとの間柄には、『メェ~』以外にも『マリ~!』というのがございまして、具体的に説明しますと、
「マリ~!」
 と叫んだあと、
『ガクッ・・・』
 という感じで頭部を真下にがっくりと垂れ下げる、いわゆる社会通念上の一般常識的な、『イった』時の動作なのですが、私はこのニューチャレンジを、3日前から1時間に一度のハイペースで、勇猛果敢にアタックしております。
 ということで、自分のデスクに就いた後、マリの入れてくれたネスカフェゴールドブレンドのブラックのホットを一口飲んで、精神を集中して本日一発目の、
「マリ~!」
 と叫んだ時、この3日間の成果、もしくは賜物と申しましょうか、明らかにマリは、『ガクッ・・・』を期待している表情(口を半開き)を見せましたので、
「ところでな」と、意地悪すると、
「もうっ! やるんやったら最期までちゃんと、ガクッってやってくださいよ!」と、意外にも催促されてしまいましたので、
(仕方ないの~)と思いながら、リクエストに応えて、
「マリ~!」と叫んだ後に、『ガクッ・・・』としたところ、マリはさも満足そうな笑顔で、
「この、ド変態・・・」と、最上級の褒め言葉を頂きました。
 調教メニューに『マリ~!』を追加した当初、
「これって、セクハラ通り越して、プレイじゃないですか!」と、怒りをあらわにして、気色悪がっていたのですが、自らおねだりしてきたということは、マリは確実に進化していると言っても過言ではないでしょう。
 しかし、マリがどこに向かって進化しているのか、調教師である私自身もよく理解していないのですが、今後も経過観察を怠らずに、温かい目で見守って参りましょう。
 コーヒーを飲みながらタバコ(メビウス10)を一本吸い、関西のビジネスマンにとっては必読の主要な3紙(日経、デイリー、大スポ)の新聞に目を通して、朝の日課が終了いたしました。
「ところでマリ」
「ワゥッ! あっ、違うわ、はい」
「今から来る同級生って、かわいい?」
 マリは挑戦的な微笑みを浮かべて、
「私の友達ですよ! 可愛いに決まってるじゃないですか!」と言い切った後、勝ち誇ったような笑顔を見せました。
「あっ、そう・・・ それで、どんな用事で来るの?」
「それがねぇ、私もはっきり分からないんですよ。一昨日の夜に、いきなり電話がかかってきて」と、経緯を語り始めました。
 マリの話によると、今から私を訪ねてくる原田千里(ハラダチサト)という女性は、マリの大学時代の同級生で、彼女は卒業後、上京して東京のアパレル関係の会社に就職したそうなのですが、
「なんか、いろいろと事情があって、2か月前に会社は辞めたらしいんですけど、とにかく直接会って相談したいことがあるって言ってきたんですよ。 それでね、私は前から千里には圭介さんの話をしてたんですけど、千里ができれば圭介さんにも話を聞いてほしいって言ってきて・・・ 多分、就職の相談やと思うんですけど・・・」
「?・・・」
 私に聞いてもらいたい話というのが、どんな話なのか想像もつきませんが、マリが私のことを千里になんと言っているのかが気になりましたので、
「俺のこと、千里ちゃんになんて話してるの?」と訊ねました。
 マリは色黒なのでよく分かりませんが、おそらく顔を赤らめ、
「そんな恥ずかしいこと、圭介さんに言えるわけないでしょう?」と言いました。
「ということは、マリは千里ちゃんに、俺のことが好きって言うたんか?」
 マリは色黒なのでよく分かりませんが、おそらく顔を真っ赤にして、
「おっさんアホかっ! なんで私がおっさんのこと好きにならなあかんねん! セクハラで訴えられへんだけでも有難いと思え!」
 と、流石は大阪市生野区出身なだけに、下町風のパンチの効いた捨て台詞を吐きやがりました。
 ということは、おそらく千里が私に相談したい事というのは、先ほどマリが言っていた就職の相談か、もしくは私と結婚して永久就職を希望したいということなのでしょう。
「そんなことより、もし、千里がここに就職したいって言ってきたら、圭介さん、雇ってくれます?」
「そうやなぁ、俺もそろそろ朝刊だけじゃなくて、夕刊も配ることにするから、マリの言うとおりの良い娘やったら、仲良く一緒に新聞を配ってみたいなぁ」と言った時、
「ピンポ~ン」とチャイムの音が鳴りました。


第2話 千里

「あっ、来た!」とマリは席から立ち上がり、小走りで玄関のドアに駆け寄り、勢いよくドアを開いた瞬間、
(オー、ジーザス!)と、思わず心の中で歓喜の叫び声を上げてしまいました。
(*注意① 私は無神論者です)
 千里は目を引くような美人ではなく、一見、どこにでもいそうな平凡な感じの娘なのですが、白磁のような白い肌に、肩口までの艶やかな黒髪、やや細めの目元は涼やかで、清楚な感じの白いワンピースがよく似合う、清潔感漂うお嬢さん、という感じでした。
「ちさと~! 久しぶり~!」と、マリが両手を広げて、おそらく身長160センチ、体重50キロの千里を迎え入れ、軽くハグしている姿を後ろから眺めながら、
(あかん・・・ ドストライクや)と思いました。
 私は昔から、目鼻立ちのはっきりしない、どこか霞がかったような、ぼやけた印象の娘が好みであったのですが、まさに千里がズバリその通りでありました。
 逆に私は、目鼻立ちのはっきりとした、色の黒い女性が苦手で、私がマリを採用した一番の理由は、彼女とならば、絶対に恋愛関係に発展しないだろうと思ったからです。
 社内恋愛禁止というわけではありませんが、なにぶん小さな会社なので、男女間のもつれが仕事に影響するといったトラブルを、できるだけ避けたかったのです。
 とにかく千里は、清楚さの中に控えめなエロさを包み隠しているといった、なんとも表現しにくい神秘的な魅力を持った女性でありました。
 マリは千里を4人掛けの応接セットのソファーの前に誘導し、
「圭介さん、早く」と、私を手招きしましたので、私は席から立ち上がり、千里の真向かいのソファーの前に行きました。
「これが噂の圭介さん。言ってたとおり、見た目はどっから見てもマトモやろう?」
 千里はマリの問いかけに、無言のまま笑顔で頷きました。
 私は(どういう意味やねん?)と思いながら、
「まぁ、とりあえず座ってください」と促し、私と千里がソファーに座ると、
「めっちゃ美味しいケーキ持ってくるから、待ってて」と言って、マリは奥の給湯室に向かいました。
 私は勇気を振り絞って、千里の顔をチラッと見たとき、お互いの目が合った瞬間、
「はじめまして、原田千里です」と、千里が先制攻撃を仕掛けてきましたので、私も負けじと、
「はじめまして、北村圭介です。僕の事は圭介って呼び捨てにするか、圭ちゃんって呼んでください」と言いつつも、千里があまりにもドストライク過ぎて、恥ずかしさのあまり彼女の顔を直視することができませんでした。
 千里は「くすっ・・・」と、小さな笑いのあと、
「じゃあ、私はマリと同じように、圭介さんって呼ばせてもらいますね」と言いました。
「じゃあ僕は、せっかくのご好意なんでお言葉に甘えて、千里って呼び捨てにしますね」
 千里は「くくっ」とくぐもった笑いを浮かべ、「いいですよ」と言ってくれましたので、これからは呼び捨てにすることにします。
「圭介さん、身長が高いですね。マリと並ぶと、二人ともモデルみたいですよ」
「そうですね。確かに身長は181センチありますから、高い方やと思いますけど、マリと並んだらモデルじゃなくて、逃走中の凶悪犯の夫婦っていう感じがしませんか?」
「うくくっ・・・」と、小さく噴出したということは、おそらく私の表現は、千里のイメージの的を射たのか、それともかすっていたのだろうと思ったとき、
「千里、コーヒーはアイスとホット、どっちがいい?」と、奥からマリが訊ねてきました。
「じゃあ、ホットで」と、千里が答えた瞬間、私はこれからの会話の主導権を握るために、不意打ちを食らわせようと、
「二人は、和歌山の女子刑務所で知り合ったんでしょう?」と訊ねてみました。
「えっ?・・・」
「僕たち三人は務所仲間やって、マリから聞きましたけど」
「ムショナカマって・・・ どういう意味ですか?」
 恥ずかしくて顔が見れないので、千里がどんな表情なのか分かりませんが、おそらく疑問と不安と不信感が合わさったような、複雑な表情だと思います。
「マリは僕と一緒にコンビニ強盗で捕まって、千里は車上荒らしで捕まって、3日前に刑務所から出所してきたばっかりやって、マリから聞きましたよ」と言ったとき、背後から殺気とともに、
「おっさん、殺すぞ!」という、殺害をほのめかす供述をしたマリが、トレーにコーヒーとケーキを載せて戻ってきました。
 マリはそれぞれの目の前にコーヒーとケーキを置いた後、
「私と千里は立命館の同級生です!」と言って、千里の隣のソファーに腰掛けました。
「えっ! マリ、お前、生野出身やのに立命館に行ったん?」
「生野の出身やったら、立命館に行ったらあかんのかぃ!」
(*注意② 私は決して、生野区を馬鹿にしているわけではありません。私自身、生野区の舎利寺に2年住んでおりましたし、鶴橋の鶴一の焼き肉最高! 万才橋のチリトリ鍋最高! オモニのお好み焼き最高!と思っております)
「いうても私の場合、スポーツ特待生やったんで、あんまり自慢できないんですけどね」
「スポーツって、なんのスポーツ?」
「陸上の短距離なんですけど、こう見えても私、高校3年のときに、インターハイで100メートルが2位で、200メートルが3位やったんですよ!」
(やっぱり、口の周りが黒い犬や)と思いましたが、口に出しませんでした。
 ということは、千里も立命館なので、(頭もいいんや)と、さきほど一目惚れしたばかりなのですが、あらためて惚れ直してしまいました。
「二人はすっごく、仲が良いんですね」と千里は言ったあと、知的な微笑みを浮かべたまま、
「それに、良かった・・・ 想像していた以上に、圭介さんが話しやすい人で」と言ってくれました。
 そんなことを言われてしまいますと、こちらも気分が良くなってしまい、もっと自分の事を知ってもらうために、
「そうですね。僕の特技は話しやすいことと、親しみやすいことと、もてあそばれやすいことなんで、僕の事をもてあそんでくれませんか?」と、自己アピールをしたのですが・・・
「・・・・・」
 千里の微笑みは、バツが悪そうな苦笑いに変化し、マリは蔑みと憐みを含んだ、侮蔑的な目で私を見つめていました。
 その後、場の和んだところで私たちはケーキを食べながら、
「圭介さんは、何歳ですか?」
「来月の誕生日で34歳になります」
「へぇ~ 実際の年齢より、若く見えますね」
「それは多分・・・ 精神年齢が14歳くらいやからやと思います」
 といったような会話を千里と楽しんでいたのですが、
「圭介さん、そろそろ時間ですよ」と、マリがいきなり横から口を挟んできました。
「時間って・・・ 何の時間?」
「マリ~! ガクッの時間じゃないですか!」とマリが言った瞬間、
「ぷっ!」
 と、千里が大きく噴出したということは・・・ 
 もしかするとマリは千里に、私との秘密の不適切な関係を、洗いざらい全て供述しているということではないでしょうか?
「佐々木さん、今は一応、仕事中やから、そういう冗談は、」
「佐々木さんって・・・ 今の今まで、私のことを苗字で呼んだことなかったじゃないですか!」
「・・・・」
「だいたい、千里の前やからって、ええかっこしても無駄ですよ。私、千里には圭介さんのことを、何から何まで全部、電話で話してるんですから!」
「何から何までって・・・・ どんな話をしてるの?」
「私に毎日、セクハラしてることとか、ヤギの鳴きマネするド変態やとか」
(ヤギじゃなくて、ヒツジじゃ! ボケ!)と、訂正を促そうかと思いましたが、やっぱり止めました。
「千里も『ガクッ』っていうのん、見たいやろう?」
 話を振られた千里は、困惑した表情で、
「私は別に・・・」と、右の掌を小刻みに振りました。
 これ以上、千里の前で生き恥を晒すことに堪りかねた私は、終業時に行うマリへの挨拶を少しアレンジして、
「マリ~!」
 と叫んだあと、
「ハウス!」
 と言いました。
 ちなみに通常の終業時の挨拶は、普通のテンションで、
『マリ、ハウス』です。


第3話 変態観測

「なんで最後までちゃんとしないんですか?」
「・・・・・」
「ハウスって、ほんまに帰ってもいいんですか?」
 私は首を、一度だけ軽く横に振りました。
「帰るんやったら、千里も一緒に連れて帰りますよ?」 
 私は首を、何度も激しく横に振りました。
「ほんまは、千里の前やから恥ずかしいんでしょう?」
 私は首を、縦にゆっくりと一度だけ振りました。
「ド変態のくせに、何を恥ずかしがってるんですか? 千里の前で、いつもみたいにカッコ良く決めちゃってくださいよ!」
「ちょっとマリ!」と、千里が心配そうな表情で、私とマリの間に割って入ろうとしてくれました。
 これ以上、かけがえのない大切な千里に心配をかけるわけにはいきませんので、私は意を決して、
「そんだけ言うんやったら、いまからほんまにするけど、ひとつだけ条件がある」と言いました。
「どうせ、千里に外に出てもらって、その間にするつもりなんでしょう?」
「ちがうわぃ!」
「じゃあ、どんな条件なんですか?」
 マリは私が本当にできないと踏んでいるのか、人を小馬鹿にしたような(下目遣いで口を半開き)表情を見せました。
 事ここに至っては、『毒を食らわば皿まで』ということで、
「俺が『マリ~!』って言うたら、マリは同時に『ワォ~!』って、負け犬の遠吠えをしてくれや。そしたら、千里の前で堂々としたるわ」と、交換条件を提示したのですが・・・
「ま~け~い~ぬ~?・・・・・ 誰に向かって負け犬って言うてんねん! 私が『ワゥ』って言うてるときは、オオカミになったつもりで言ってんねん!」
「・・・・・・」
(ヤギといい、オオカミといい、勝手にキャラ変更しやがって!)と思いましたが、言葉にしませんでした。
「男のくせに、ごちゃごちゃ言うてんと早よしぃや!」
 こうまで言われてしまうと、もう後には引けません。
 私は目を瞑り、清水の舞台から飛び降りたような気持ちで、

「ちさと~!」

 と叫んだあと、『ガクッ』と、思い切り頭(こうべ)を垂れてイってやりました。

 しかし・・・

「☠☠☠・・・」

 その後、事務所内は殺伐とした冷たい空気に支配されてしまい、私は『後悔先に立たず』と『覆水盆に返らず』という言葉の意味をしみじみと噛み締めておりましたが、「あほや・・・ 千里と初対面やのに・・・・ イってしまいよった・・・」
 というマリの言葉に、なんだかよくわかりませんが、なんとなく少しだけ救われたような気がした次の瞬間、

「圭介さんって・・・ ほんとうに変態なんですか?」

 という千里の言葉で、私は再びフリーズしてしまいました。



第4話 大阪インペリアルホテル

 正常か変態か、どちらかと言えば、私は変態な方だと思います。3年近く通い続けている風俗店のお嬢さんに、2年以上も変態プレイを・・・ 
(この出だしは・・・ 『みにくい白鳥の子』を参照)

 さすがに千里も、私が本物の変態だと思い込んでしまったのかもしれません・・・
(*注意③ 私は変態ではございません。おそらくですが・・・)
 正常者の私は、その場の空気に堪えきれず、勢いよく立ち上がって給湯室に向かい、換気扇を回したついでに窓を開け放ち、空気を入れ替えて再び千里の前に座り、
「とりあえず、なんにしても場が暖まったことやし、そろそろ本題に入ろうか」と言いましたが、
「よう、そんだけ自爆っていうか、自滅したあとで、シレッと切り変えることができますねぇ! ほんまに尊敬しますわ!」と、マリが呆れ顔で誉めてくれました。
「マリ、それはな、オウンゴールもゴールのうちっていうことや」と、自分で言っておきながら、自分自身でも意味がよくわからない迷言を口走った後、視線を千里に向けて、
「さぁ、ほんまに本題に入ろう。それで、千里が僕に会いに来た理由から聞かせてもらおうか」と言いました。
 すると千里は、次のような驚くべき発言をしました。
「実は・・・ 圭介さんにお願いしたい事は、私の父に会ってもらいたいんですよ」
「!・・・」
 さらに千里は、次のような驚嘆すべき発言をいたしました。
「圭介さんに、父に会ってもらって、どうしても説得というか・・・ 話してもらいたいことがあるんですよ」
「!!!・・・・」
 この展開は、もしかして・・・
 千里はマリから私の話を聞いて、以前から私に好意を寄せていて、私に会うためにわざわざ東京から訪ねてきて、こうして実際に会ってみて、結婚の決意を固めたのではないでしょうか?・・・
 いや、私の実家の隣のじっちゃんの名にかけて、間違いなく千里は、私との結婚を決意したに違いありません。
「僕はこう見えても、人を説得するのが得意やし、結婚ってタイミングが大事やし、何よりも勢いが大切やから、なんやったら早速、明日にでもお父様に挨拶に行きましょうか?」と、千里の意を汲んだ私が、結婚の許しを得る覚悟を決意したことを表明すると、
「なんだか・・・ いつのまにか私と圭介さんが結婚するみたいな話になってますけど~?」と、千里は初々しく照れを隠しました。
 すると、私たち夫婦の問題に、
「大丈夫! 私が命にかけても阻止するから!」と、マリが割って入ろうとしました。
 ここはひとつ、トップブリーダーとして、誰がご主人様であるのかをはっきりと認識させるために、
「マリ、『夫婦喧嘩は犬も食わない』って、ことわざ知ってるか?」
 と問いかけました。
「聞いたことはありますけど、どういう意味なんですか?」
 私は自分の雑学を、マリにひけらかすつもりはなかったので、
「つまり、お邪魔犬は黙っとけ!っていう意味や」と、本来の意味を説明するのが面倒くさかったので、分かりやすく噛み砕いて引っ込んでろ!と言いました。
「もうっ!私は犬じゃなくて、オオカミやって言ってるでしょう!千里もなんか言ったってや!」と、マリは我が新妻の千里に無茶振りしました。
 すると、私とマリの激しい掛け合いに慣れてきたのか、それともウザくなってしまったのか、千里はマリのフリを完全に無視して、
「ところで、圭介さんの仕事は、経営コンサルタントなんですよね?」と、話題をころっと変えてきました。
「そうやで」
「えっ!・・・ うちって、経営コンサルタントの会社やったんですか?」
 マリは素っ頓狂な顔で、私に問いかけてきました。
「えっ!マリ、知らんかったんか?」
「知らんかったんかって・・・ 圭介さん、一度もそんな話、したことないじゃないですか!」
「でも、なんで3ヶ月も勤めていて、マリは自分の会社のことが分からないの?」と、千里が問いかけると、
「だって、私ここに来てから、仕事らしい仕事なんかしてないし、圭介さんから言われたことは、本を読みなさいっていうことだけやったもん」とマリが答えました。
 すると、千里は私に向かって、
「そうなんですか?」と訊ねてきましたので、
「確かにマリの言う通りなんやけど、内情を言うたら、会社は立ち上げたばっかりで、まだ準備段階やから、これから本格的に動き出すっていうことやねん」と答えました。
「っていうか・・・ なんで千里がうちの会社の事知ってんのよ?」
「だって、マリが会社の名前がちょっと変わってて、悪が損をするっていうのに因んでつけたってことを言ってたから、私は興味を持っちゃって会社のホームページを見てんけど、そのホームページにマリの写真と一緒に、経営コンサルタント業って載ってたし、事業内容はマリがひとつづつ、笑顔で説明してるみたいになってたよ」
 マリは今にも噛み付きそうな勢いで、
「おっさん、私の写真を勝手に載せたな?」と牙を剥きました。
「だって・・・ マリがあんまりにも美しかったから、つい勝手に載っけてしまって・・・ ごめんなさい・・・」と、私が素直に謝ると、マリは一瞬で笑顔を取り戻し、
「まぁ、そういう事情やったら仕方ないですねっ!」と、機嫌を直してくれました。
「とにかく圭介さん、結婚の話は置いておいて、一度父と会ってもらえますか?」
「うん、会うのはいいねんけど・・・ とりあえず、僕がお父さんと会う理由って、どんなことなん?」
 千里は少し伏目がちになり、
「実は・・・ 父の事業が傾きかけていて、それで圭介さんに相談したいと思って・・・」と言いました。
(そっちか~い)と、結婚話と早合点して、軽く勘違いをしていた自分自身を褒めてあげたいという衝動を抑えつつ、ここからは本気のビジネスモードに切り替えて、
「それで、お父さんはどんな仕事をしてるの?」と、真顔で問いかけました。
 すると千里は、とても真剣な表情で、

「父は、大阪インペリアルホテルを経営しているんです」

 と、これまた本当に驚くべき発言をしました。


第5話 斜陽

 私は一瞬、自分の耳を疑いました。
「えっ!? インペリアルホテルって・・・ あの、天満にある、世界のインペリアルホテルが経営難っていうこと?」
 千里は神妙な面持ちで、
「いえ、違います。天満にあるのは大阪が後につく、インペリアルホテル大阪で、私の父が経営しているのは、難波にある大阪インペリアルホテルなんです」と言いました。
「え?・・・ 難波にインペリアルホテルって、あったっけ?」と、マリに確認しましたが、マリも首を傾げて、
「私も、聞いたことがないです」と言いました。
「地元の圭介さんとマリが知らないほどの、小さなビジネスホテルなんですよ」
「ビジネスホテルで、名前が大阪インペリアルホテルってこと?」
「はい、でも中身は全然違いますけど」
「それで、そのホテルの経営が行き詰ってるっていうこと?」
「はい・・・ そうなんです」
 昨今のホテル事情といえば、海外からの観光客が多数押し寄せ、特に大阪市内のホテルは中国からの爆買いツアー客で、どこも盛況だという情報を耳にしていたので、その点を千里に確かめると、
「はい、確かにホテルの利用者は外国人の観光客がすごく増えて、本来であれば経営が傾くことはなかったんですけど、父のホテルは、元々は祖父が50年前に建てたホテルなんですけど、設備の老朽化でいろいろとトラブルが生じて、今現在は利用できる客室が全70室の内の半分程度になってしまって・・・」
「なるほど・・・ 確かに稼働率が半分やったら、しんどいなぁ」
「それに、20年近く支配人をしていた人が、3か月前に突然退職してしまって、父は業務のほとんどをその人に任せていたので、いろいろと勝手が分からなくて、業務に支障が出ていますし、現場は混乱状態なんです」
「・・・・・・」
 千里の話は聞くに忍びなく、悲惨な状況が目に浮かび、二の句を継げませんでした。
「それで、圭介さんにお願いしたいのは、父にホテルを手放すように説得してもらいたいんです」
「ホテルを手放す?」
「はい。父にはもう手を引いてもらいたいんです」
 一般的なビジネスの世界で、手放す、もしくは手を引くとは二通り考えられ、ひとつは事業を誰かに委託し、自らは一線を退いて隠棲するということで、もうひとつは事業自体を売り払い、一切の関わりを断つということなので、
「手放すって、具体的にどういうこと?」と、千里に訊ねました。
「それは、ホテルを事業ごと売り払うってことなんです」
「ということは、いまそのホテルを買いに来てる人がおるっていうことなん?」
「実は、そうなんですけど・・・・」と言って、千里はホテル売却の経緯を語り始めました。

 遡ること今から約半年前、千里の父である原田氏の元へ、大阪市北区の『みらい観光開発』という、旅行代理店やホテル業などを手掛ける、レジャー関連の会社の坂上という者が訪ねてきたそうです。
 坂上によると、みらい観光開発は東京に本社があり、関西への進出を目指していて、拠点となる事務所と旅行代理店の店舗を兼ねた手頃なホテルを捜していたところ、大阪インペリアルホテルが立地条件とホテルの規模、その他諸々の条件(大阪インペリアルホテルの1階に、空き店舗あり)が合致しているので、ぜひとも売却を願いたいと申し出たそうです。
 しかし、原田氏はホテルの売却などは考えていないということで、全く聞き耳を持たず、坂上が提示した好条件を無下に断ってしまったそうです。
 しかし、その後も坂上は引き下がらず、何度も足を運び、粘り強く交渉していた矢先、ある事故が発生しました。
 今から4ヶ月前、ホテルの最上階である6階部分の水道管が老朽化のために破損し、漏水で6階から4階までが水浸しとなってしまい、漏電による火災の恐れもあったため、ホテルは現在も4階から上の階は閉鎖されているとのことです。
 大阪インペリアルホテルは、もともと経営が上手くいっていたというわけではなく、原田氏に潤沢な資金があるというわけでもなかったので、莫大な費用を伴う改装工事も行えず、資金調達も目途が立っていないため、このままでは経営が破綻しかねない状況にまで陥ってしまったようです。

「そんなときに弱り目に祟り目で、支配人が突然辞表を出して辞めてしまて・・・ それに、ホテルのスタッフは6人いて、その内の3人は正社員で、残りの3人はアルバイトなんですけど、支配人が辞めたことでそれぞれに負担が大きくなって、正社員2人とバイトの一人が、この2ヶ月の間に次々と辞めてしまって・・・
 それで私は、ホテルの廃業か、売却かを含めて、父といろいろ話し合ってみたんですけど、父との話でひとつ気になることがあって、そのことで圭介さんの意見を聞かせてもらいたいんですよ」
「いいよ、千里は何が気になってるの?」
「それはね、ホテルがこんな状況になったのに、みらい観光の方は以前と変わらない金額でホテルを売ってほしいって言ってきてるから・・・・うちのホテルって、そんなに価値があるのかなぁって、不思議に思ったんです」 
「その、みらい観光は買取の値段を下げずに、同じ金額で買い取らせてくれって言ってきてるの?」
「はい、そうなんですよ」
「・・・・・・」
 私は率直に、(どうも解せん・・・)と思いました。常識的に考えて、ホテルの資産価値が著しく下落したにもかかわらず、同じ値段で買い取るということは、裏に何か余程の特別な事情があるとしか思われません。


第6話 歓迎会

「とりあえず、いま千里の話を聞いて僕も不思議に思うけど、いまのところは僕自身がホテルも見てないし、何も調査してないから、はっきりしたことは何も言われへんから、どっちにしても千里のお父さんに直接会ってみて、いろいろと話してみるわ」
「はい、ありがとうございます。それで、私の方なんですけど、ホテルが今説明したとおりの状況なので、新たに人を雇う余裕もありませんし、人件費を削減するっていう意味もあって、私が仕事を辞めて大阪に戻ってきて、ホテルの仕事を手伝うことになったんです」
(やった~♪)と、思わず叫びそうになりましたが、話の内容が内容なだけに、人間性を疑われる可能性がありますので、
「じゃあ、これからはこっちにずっと居るん?」と訊ねました。
「はい、実はもう東京の家は引き払ってきて、実家の箕面に帰るんですけど、今日はマリの家に泊めてもらうことになってます」
「千里は箕面の出身なん?」
「はい。生まれも育ちも箕面です」
 箕面市(みのおし)とは、大阪の北部に位置する閑静な住宅街で、関西の大物芸能人たちが多く暮らすことでも有名な高級住宅地です。
 名所といえば『箕面の滝』が有名で、特に紅葉の季節は絶景で、紅葉狩りに多くの人が訪れます。
 ちなみに名物は『もみじの天ぷら』が絶品です。以上。ではなく、どうでもいい続きの話がありまして、私は小学1年生のときに学校の遠足で箕面の滝に訪れたことがありまして、昼食のときに滝のほとりでお弁当を広げたところ、周辺にいた日本猿の群れに取り囲まれまして、彼らの偵察、威嚇、挑発、陽動、遊撃、強奪という一糸乱れぬ見事な連係プレイに遭いまして、
「ということで、僕は弁当をサルに奪われてしまったことがあるんですよ」と、千里に幼き頃のほろ苦い思い出を語りました。
 千里はクスクスと笑った後、
「そうですね、箕面のおさるさんは頭が良いですからね」と、弁当を奪われた幼き日の私に同情するのではなく、あろうことか同郷のよしみで、哺乳綱サル目オナガザル科マカク属に分類されるサルの肩を持ちました。
 すると、先ほどから無言で私たちの話を聞いていたマリが、
「さっきからずっと気になってたんですけど」と言ったあと、
「圭介さんは自分の事を話すとき、私には俺って言うのに、なんで千里には僕って言うんですか?」と言いました。
 自分では意識していなかったのですが、言われてみると確かに、そのとおりだと思いました。
「それはたぶん、箕面と生野の違いやと思うねん。生野の人に僕って言うたら、キショッ(気色わりぃ)って言われるやろうし、箕面の人に俺って言うたら、ガラ悪って思われるやろう? だから俺は、相手に合わせてというか、TPOに応じて使い分けてるねん」 
「でも、千里が箕面の出身って、さっき分かったばっかりやのに、圭介さんは初めから千里には、僕って言ってたじゃないですか」
 私は千里の頭のてっぺんから足のつま先まで、曇り無きいやらしい眼まなこで、なめ回すようにして見定めたあと、
「そんなん、千里はどこからどうみても箕面っていう感じやんか」と言いました。
「じゃあ、私は見るからに生野っていう感じなんですか?」
「いやっ、マリは生野っていうよりも、どっちかっていうたら、西成の~お洒落な、あっ! 痛っ!」
 驚いたことに、マリはわざわざ身を乗り出し、右手を伸ばしてきて、私の左腕をつねりながら、
「ワタシハ、ニシナリノ、オシャレナ、ナニ?」と、ゆっくりとした口調で、しかも一言一句を幼い子供に言い聞かせるかのような言い方で、はっきりと質問してきました。
(*注意④私は決して、西成を馬鹿にしているわけではありません。馬鹿にしているのはマリの方です)
「いや、ごめん・・・ マリはやっぱり、生野のミス猪飼野(いかいの)、あっ! 痛いっ! ごめんなさい! 今日の晩飯おごるから、ゆるして!」ということで取引が成立し、マリが左腕の制裁を解除して自国へ戻ってくれました。
 というわけで私は真顔に戻り、
「それで、僕は千里のお父さんに、いつ会いに行けばいい?」と訊ねると、もうこの頃になるとすっかり、千里は私とマリとのせめぎあいなど、初めからなかったものとして捉えているようで、
「私、来週の月曜日からホテルに出勤することになってるんで、父には私から事前に話しておきますから、一応来週の月曜日でかまいませんか?」と、ビジネスライクに答えてくれました。
「了解。じゃあ、とりあえず来週の月曜日に、千里のお父さんに会いに行くわ」
「はい、時間はまたあとで連絡しますので、よろしくお願いします」
「よし、じゃあ、仕事の話は終わったから、今日の晩御飯をどこに食べに行くかを相談しようか」と、私は千里に言ったのですが、
「あじ平!」
 と、間髪入れずにマリが即答しました。
「おっ! あじ平か・・・」
 先ほど、第1章の生野区が云々の件(くだり)で、元、生野区民として絶対に忘れてはならない、北巽のフグ料理専門店『あじ平』最高!と書くことを忘れておりましたので、
「千里は、てっちり好き?」
「はい!、大好きです♡」
「じゃあ、決まり! マリ、すぐに予約して」
 ということで、千里の歓迎会場が決定しました。


第7話 良書

 翌朝、久しぶりに二日酔いの気分の悪さで、吐きそうになって目が覚めました。
 昨晩は千里効果で調子に乗ってしまい、生ビール5杯に鰭酒(ひれざけ)を5杯飲み、そのまま流れでマリの地元の友達が勤めている、北巽のスナックビルのラウンジに行きまして、焼酎をガバ飲みしてしまったのです。
 昨夜の歓迎会で私が驚いたのは、控えめで奥ゆかしい感じの千里が、見かけによらずとてもお酒が強かったということです。
 私とマリは酔いかたがよく似ていて、酔うと多弁になり、笑いに対するハードルが下がって、ゲラになってしまうという、笑いに対して厳しい関西人として、あるまじき失態を晒してしまうのですが、千里はいくら飲んでも顔がほんのり赤くなる程度で、酔いつぶれるどころかほろ酔いの気配さえ感じさせないほど、まったく変化がありませんでした。
 ということはつまり、お酒を飲ませて開放的になったところを口説き落とすという、古典的な作戦が通用しないということではございませんでしょうか?
「それは、困ったなぁ・・・」とひとり言をつぶやいたあと、よろよろと布団から起き上がって、会社へ向かう準備を済ませて自宅を出ました。
 車を運転しながら、女性を口説き落とすのに、お酒以外の方法をあれこれと考えましたが、結局何も思い浮かばないままビルの裏手の駐車場に到着しました。
 私の自宅は大阪市西区の北堀江なので、距離が短すぎたのです。
 事務所に到着後、一連の『メェ~』からはじまり、『マリ~!』と続く日課が終了し、いつものように雑談が始まりました。
「千里、めちゃくちゃお酒が強いな」
「そうでしょう。私は昔から、あの娘が酔っ払ったとこ一回も見たことないんですよ」
 ということはつまり、誠実さで勝負をかけるしかないと思いますが、昨日の私のどこに誠実さが感じられたであろうと、自らの言動を振り返ると、
(誠実さ?・・・ そんなもん、どこにもない・・・・・)
 ということで急に不安になってしまい、
「マリ、千里は昨日の夜の寝る前とか、朝起きた時とか、俺のこと何か言ってなかった?」と、訊ねてしまいました。
「いろいろ言ってましたよ」
「千里、俺のことホンマの変態やとか、悪く思ってないかなぁ?」
「う~ん、変態かどうかってことは微妙やけど、悪くは思ってないと思いますよ。
 だって、千里は感心してましたもん。圭介さんは、その場しのぎの口から出まかせばっかりやけど、そうとう頭の回転が速いから、出たとこ勝負には強いはずやって」
「・・・・・」
 私はマリが言った言葉を、もういちど頭の中で繰り返したあと、
「それって、褒められてんのか、けなされてんのか、どっちかようわからんなぁ」と言いました。

 その後、私たちは無言でしばらく時は流れ、時刻が午前10時となりましたので、
「マリ~!」
 と叫んだあと、今回は『ガクッ』とはせずに、
「今からちょっと用事があるから出かけてくるわ」と言いました。
「分かりました。帰りは何時になります?」
「たぶん、そのまま夕方に人と会うから、マリは野獣死すべしを読んで、5時になったらハウスでいいよ」と言うと、マリは少し神妙な面持ちで、
「あのね、もうあの本、読むの止めにしたんですよ」と言いました。
「なんで? 面白くなかったか?」
「面白いとか面白くないとかじゃなくて、主人公の伊達邦彦は人を殺しまくるじゃないですか。私、ドラマとかでも人を殺すのんとか見ないほうなんで、どうせ読むんやったら、違う本を貸してくださいよ」
(ということは、野獣死すべしでは野生は目覚めんっていうことか・・・)と、自らの実験の失敗を反省しつつ、デスクの一番下の引き出しを空けて、きれいに並べている書籍の背表紙を眺め、次に何を読ませようかと考えました。
 大藪春彦の『汚れた英雄』
 阿佐田哲也の『麻雀放浪記』
 色川武大の『狂人日記』
 村上春樹の『羊をめぐる冒険』
 司馬遼太郎の『梟の城』
 ・・・・etc 
 どれもすばらしい本ばかりですが、並み居る名作を押しのけて、私はある一冊の本を手に取り、
「この本は、俺の人生に多大な影響を与えてくれた、言わば俺にとって人生の教科書みたいな大切な本やから、心して読むように」と言って、マリに手渡し、
「じゃあ、行ってくるわ」と言って、事務所を後にしました。
 ちなみに、私がマリに貸し与えたすばらしい本とは、中川いさみの『クマのプー太郎』という4コマ漫画です。
(*注意⑤ 漫画を馬鹿にしてはいけません)
 中川いさみ先生の『クマのプー太郎』との出会いは、本当に衝撃でした。
 関西人の私にとって、笑いの中心はあくまで上方であり、笑・を中心とした関東の笑いなど、『腹の底から笑ったことがない』と、はなから小馬鹿にしておりましたので、中川先生も当然、関西人だと決め付けておりましたが、氏が横浜の出身であると知ったとき、 
(これが、関東の底力かぁ・・・)
 と、笑いに対する考え方を根底から覆され、関西人にはほとんど縁のなかった、『さりげなくシュールな笑い』の大切さを学びました。
 悪貨は良貨を駆逐しますが、悪書は良書を駆逐しません。というよりできません、永遠に。


第8話 月とスッポン

 事務所を出て車に乗り込み、これから先の行動を頭の中で整理しました。
 月曜日に千里の父である原田氏と会う前に、私は大阪インペリアルホテルのことで気になっていたことを、先に調べることにしたのです。
 ひとつは、実際に自分の目で大阪インペリアルホテルを見ておきたかったことと、もうひとつは、なぜ、グループ傘下でもない千里の父が、インペリアルホテルという名称を使用しているのか、もしくは使用出来ているのか?ということです。
 相手が大手であればあるほど、名称に関してはかなり厳しい制約や基準が存在しているはずですし、ましてや、相手が世界のインペリアルホテルグループともなれば、なまなかな条件で名前を使用できるはずはないでしょう。
 ということで、我が社の顧問弁護士で、1歳年下の私の元部下であった、沢木紳一(サワキシンイチ)に電話をかけました。
「もしもし、紳、いま大丈夫か?」
「おはようございます、圭介さん。大丈夫です」
「あのさぁ、ちょっと調べてほしいことがあるねんけど」と、紳に大阪インペリアルホテルに関しての事情を大まかに説明しました。
 すると紳は、自分が気になったことや、疑問に思ったことなどを簡潔に訊ねてきて、いつものように要点を得たと思った時点で、
「わかりました。さっそく調べてみます」と言った後、紳にしてはめずらしく、
「最後にもう一度確認しますけど、大阪インペリアルホテルの名称に関する調査だけでよろしいんですか?」と、付け加えてきました。
「ということは、不動産関係か?」
「はい。一応は調べておいた方がいいんじゃないですか?」
 私自身は、今の段階でそこまでの調査は必要ないと思っておりましたが、彼が念を押してきた事もあり、
「そうやなぁ、とりあえず俺は今から現地に行ってホテルを見てくるから、その足でそのまま法務局に入って調べてくるから、夕方にそっちの事務所に顔出すわ」と言いました。
「わかりました。それじゃあ、夕方にお待ちしております」

 電話を切った後、大阪インペリアルホテルを見に行くために車をスターとさせました。
 大阪インペリアルホテルは大阪市中央区の西心斎橋にあり、難波の中心地である道頓堀と、若者が多く集うアメリカ村とのちょうど中間地点辺りに位置し、飲食店が多く軒を連ねる繁華街からは、少し離れた場所に建っています。
 カーナビに導かれるまま車を走らせて10分後、大阪インペリアルホテルに到着しました。
 私がホテルを見た第一印象は、
(まさに、月とスッポンやなぁ)
 でした。
 千里の話では、祖父が50年前に建てた、ということでしたが、ホテルの外観はおそらく、この50年の間に改装を最低でも2度は施したと思われ、見た目の印象はそれほど古びているふうには見えませんでした。
 しかし、比較対象である同じ名前が冠された、本家本元のインペリアルホテル大阪が、あまりにも豪華で、威厳と風格に満ち溢れているため、本来であれば同じ土俵で比較すべき対象ではないということなのでしょう。
 ホテルに駐車場が無かったため、近くのコインパーキングに車を停めて、再びホテルに向かいました。
 大阪インペリアルホテルは、地上6階建ての長方形型で、千里から聞いていたとおり、ホテルの入り口の両サイドが10坪ほどの店舗となっており、向かって左側には若者向けの派手な色合いのジーンズやジャケット、靴やアクセサリーなどが雑然と並んだ洋品店となっており、向かって右側の店舗は、シャッターが下ろされたままになっておりました。
(ここで、旅行代理店?・・・)
 このホテルを買収しようとしている『みらい観光開発』は、何の目的があってこの店舗で旅行代理店を始めようと思っているのか?・・・ 疑問に思わざるを得ませんでした。
 駅前でもなく、繁華街でもなく、オフィス街でもなく、幹線道路沿いでもなく、人通りの少ないこの場所で、わざわざ店舗を出さなければならないテーマなど思いつきませんし、たとえ家賃がタダであったとしても、旅行代理店には立地条件があまりにも不向きなため、とても強い違和感と不信感を覚えました。
 もしかすると、私の知らない何か特別なカラクリが存在していて、店舗はあくまでダミーとして使用するつもりなのかもしれません。
 とりあえず、あまりウロウロして、不審者と思われても適いませんので、携帯電話でホテルの外観や、隣接の建物、前面の道路幅などを撮影して、再び車に戻り、大阪インペリアルホテルの不動産に関する権利関係を調べるために、天満橋にある法務局の大阪本局に向かいました。
 時刻は午前10時40分なので、今からならどうにか午前中に間に合いそうです。
 それにしても、どうも、みらい観光開発のことが解せません。
 千里が言っていたように、みらい観光開発が大阪に進出するにあたって、拠点となる物件を探しているのであれば、他にいくらでも好条件の物件は見つかるはずで、なぜ大阪インペリアルホテルにこだわっているのかが、どうしても納得ができないのです。
 とにかく、月曜日に千里の父と話すことによって、何らかの事情が判明するだろうと思ったとき、天満橋に到着しました。
 法務局の駐車場に車を停めた後、大阪インペリアルホテルの不動産登記事項証明書と公図、地積測量図を申請して取得し、再び車に戻って、それらの資料に目を通し始めました。
 すると、改装費用の資金調達に苦しんでいるということが、一目瞭然となりました。
 第一根抵当権者である都市銀行が、ホテルの設立当初に設定した極度額2千万円から徐々に増額を続け、平成に入ってから箕面市の土地と建物(おそらく千里の実家)を追加担保として、4回も極度額を増額し、最終的には4億円にまで膨れ上がっており、第2根抵当権者である信用組合も、最終的には1億5千万円の極度額となっており、第3権利者である中小企業信用保証協会の抵当権の債権額は8千万円となっておりますので、登記簿上での借入金の合計は6億円を超えておりました。
 借入残高が返済に連れて減っていく抵当権の債権額と違い、根抵当権の極度額というのは、実際の借入残高が変動(借入金は極度額の範囲内で出し入れができる)しますので、正確な数字は分かりませんが、おそらく大阪インペリアルホテルの借入金の残高は、5億円前後と想定できるでしょう。
 その場合、箕面市の物件を省いた、大阪インペリアルホテル単体の現在の価値として、同質物件の相場よりもかなり低い、おそらく2億から2億5千万円と想定した場合、明らかにオーバーローンであることが伺い知れます。
 なぜ、大阪インペリアルホテルの評価が、収益物件にもかかわらず、相場(5億円前後)よりもかなり低いのかというと、築年数が50年も経過しているため、建物の評価としてはゼロではなくマイナスということになり、不動産としての価値は土地の値段から建物のマイナス分、つまりそのまま営業を行うのであれば改装費用、潰して建て直す場合は解体費用と新たな建築費用などをマイナス分として計算するため、何の手直しも必要としない他の物件に比べて、かなりのマイナス評価とせざるを得ないのです。

 本来であれば、この足でそのまま箕面市へ向かい、借入金の共同担保となっている千里の自宅を調査し、評価しなければならないのですが・・・
 どうも、千里のプライベートに土足で踏み込んでいくような気がして、足を向ける気になりませんでした。
 そして、何よりも新たな調査が必要なほど、今後の大阪インペリアルホテルに関する判断に苦しんでいるというわけではなく、私の中ではもうすでに答えが出ているということで、紳と約束した夕方まで時間がありましたので、先ほど近くを通った難波のニュージャパンサウナに行って、二日酔いの酒を抜くことにしました。
 車を再び難波に向けて走らせ、道が混んでいなかったおかげで20分ほどで到着し、サウナの中に入りました。
 このサウナに訪れるのは実に2年ぶりで、サラリーマン時代は紳とよく、南へ飲みに行く前に寄っていたことを思い出しました。
 どうでもいい話なのですが、紳は身長が私よりも少し高い183センチで、顔は彫りの深いイケメンで、なおかつ弁護士であるということで、私たちがどこに飲みに行っても、私はいつも紳の引き立て役となってしまい、とても不愉快な思いをしていたという、本当にどうでもいい話でした。
 サウナにゆっくりと入って、じっくりと汗を流した後、水風呂に浸かるという王道パターンを3度繰り返したことで、二日酔いはすっかり収まり、風呂上がりのビールを飲みたい衝動をグッと我慢して、トマトジュースとスポーツドリンクで喉の渇きを潤しました。
 サウナを出た後、難波から堺筋を通って北へ向かい、紳の事務所が入った、大阪地方裁判所の裏手にある、弁護士事務所が多く入居したビルに到着しました。
 32歳の若さで、しかも複数の弁護士による共同ではなく、単独の独立した弁護士事務所を構えているというだけでも、彼の弁護士としての図抜けた能力の持ち主であるということを物語っておりますし、事実彼は、私と一緒に前の会社を退社した後、元の取引先であった複数の企業からの要請で顧問を務めるなど、私としては実に頼りになる存在であるとともに、良い遊び仲間でもあるのです。
 完璧なセキュリテーが施された、紳の事務所のドアの前に立ち、インターフォンを鳴らすと、私が名乗る前にドアが開き、
「圭介さん、お疲れ様です」と言って、紳がわざわざ出迎えてくれました。
 私たちは事務所の通路を通り抜け、紳のオフィスルームではなくプライベートルームで打ち合わせをすることにしました。
 今回の所用が、正式な業務依頼ではないからです。
 互いに応接セットのソファーに腰掛けた後、
「何か分かった?」と、私が質問すると、紳はテーブルの上に置いていたファイルブックを手に取り、
「はい、こんなものが手に入りましたよ」と言って、差し出したのは、約10年前に結審された、ある裁判記録のコピーでした。

 本家本元のインペリアルホテル大阪が、大阪インペリアルホテルに対して名称の変更、若しくは名称の譲渡返還の裁判を起こし、驚いたことに、本家本元側が敗訴したときの記録で、詳しくは以下のとおりです。

 ①大阪インペリアルホテルはすでに、難波で40年以上も営業を続けており、38年前には特許庁に商標登録も済ませている。
 ②設立当初、大阪インペリアルホテルの創業者である原田氏(千里の祖父)が東京のインペリアルホテルの本部に出向し、大阪でインペリアルホテルという名称で営業を行いたいとお伺いを立てたところ、大阪を含めた関西エリアへの進出予定がなかったため、当時のインペリアルホテルの総支配人であったA氏が、名称の使用を許可するといった旨の覚書を発行しており、現経営者である原田氏(千里の父)は、その覚書を現在も所持している。
 ③名称を変更した場合、大阪インペリアルホテルの著しい営業損失が発生する可能性がある。

 以上のような理由で、インペリアルホテル大阪側の主張は認められず、裁判は敗訴となってしまったのです。

 私は記録を2度読み直し、自身で納得した後、紳に法務局で取り寄せた資料を手渡し、携帯電話で撮影したホテルの写真を見せるために画像を呼び起こし、携帯電話も紳に手渡しました。
 紳は無言でそれらを確認した後、顔を上げて私に何か話しかけようとしましたので、
「先に言うとくけど、箕面の物件は調査してないぞ」と、彼の機先を制しました。
 すると紳は、また資料に目を戻し、2度目の確認を終えた後、
「まぁ、箕面の調査は必要ないでしょう」と言いました。
 確かに紳の言う通りだと思いながら、 
「それで、紳は、どう思う?」と訊ねました。
「はっきり言って、大阪インペリアルホテルは、『お前はすでに、死んでいる』状態ですね」と、至極真面目な表情で答えました。
 ということで、私と紳の意見が一致したという結論に達し、お互いに納得したことを確かめた後、今後の方針として、
「なにがなんでも、みらい観光開発に買ってもらうことでいいか?」と、私が紳に念を押すと、
「たとえ騙してでも、それしか道はないでしょう」と、紳は答えてくれたのですが、
「最後にひとつだけ確認なんですけど」と言って、何か物足りなさげな表情を見せました。
「なに?」
「この仕事は、本当に圭介さんが引き受けなあかん、何か特別な事情があるんですか?」と、紳は小首を傾げながら訊ねてきました。
 私は心を痛めている、千里の悲しげな表情を思い浮かべながら、
「退っ引きならない、深い事情がある」と言いました。
「でも、これって・・・ 圭介さんの復帰第1戦にしては、あんまりにも地味すぎませんか?」
「・・・・・」
 私は紳の言いたい事はよく理解しているのですが、今の自分が置かれた状況や、力量などを判断して、
「まぁ、俺もリハビリを兼ねてっていうことやから、準備運動のつもりでぼちぼちやっていくわ」と言うしかありませんでした。
「なにかあったら、すぐに声かけてくださいね。僕ら、いつでも動けるように準備してますから」
「そんな、これ以上、お前さんたちに動いてもらうような仕事じゃないって」
 と、この時はそう思っていたのですが・・・

第2章 将を射んと欲すれば、先ず馬を射よ

第9話 不埒な月曜日

 みなさま、待ちに待った月曜日でございます。
 生まれてこのかた、これほど楽しい月曜日を迎えたのは初めてでございまして、なぜこれほど浮かれているのかと申し上げますと、ひとつは進が京都のお寺での研修を終えて、今日から現場復帰するということです。
 そして、なんといっても私の心をウキウキとさせているのは、千里との再会でございます。しかも、彼女は制服姿であるというではないですか! 
 土曜日の昼過ぎに、千里から打ち合わせの時間を知れせる電話がありまして、彼女が午前10時から業務を開始するということで、私たちは月曜日の午前9時にホテルの中で打ち合わせをすることになったのですが、
「それで・・・ ちょっと言いにくいというか・・・はずかしいんですけど・・・」と、千里は本当に言いにくそうでありました。
「なにかあったん?」
「あのね・・・ 私、月曜からホテルの制服を着ることになってるんですけど、前の支配人の趣味やったらしくて、スカートがちょっと短いというか・・・ だから圭介さん、私の好みとか趣味じゃないですから変に思わないでくださいね」
(変には思わないけど、変になっちゃいそうですね)と、良い大人としては正直に言わないほうがいいだろうという判断で、
「わかりました。とりあえず、月曜日の9時に行きます」
 と言って、電話を切った瞬間、
「そんなん言われたら、僕のトーマスが、ゴードンになっちゃうよ~!」と、以上のような不埒極まりない理由で、ワクワクドキドキしているのでございます。
 というわけで、これ以上千里のエロい制服姿が待ちきれませんので、いきなりホテルの玄関前、晴れ時々曇り、午前8時50分からスタートさせていただきます。
 ガラス製の自動ドアの前に立ち、左右にゆっくりとドアが開いてホテルの中に入った瞬間、
「いらっしゃいませ、あっ、圭介さん、おはようございます」
 制服姿の千里が、目の前のロビーに立っておりました。
(あぁ・・・ あかん! ほんまにエロエロやないかぇ!)と思いながらも、決して噯おくびにも出さず、あくまでもダンディーに、
「おはようございます。この前は、どうも」と、いたって冷静を装いました。
 黒いスーツに白いブラウス、首には薄いブルーのスカーフをお洒落に巻きつけておりまして、なんといっても極め付きは膝上5センチほどの、ミニの黒いタイトスカートでございます。
「圭介さん・・・ 見過ぎですよ・・・」
 という言葉で我に返り、
「ごめん、つい見とれてしまって・・・ でも、この制服は思わず見入ってしまうくらい、千里によく似合ってるよ」
 千里は瞬時に顔を赤らめ、俯いたまま必死で恥ずかしさを堪えている様子が、えもいわれぬエロさを醸し出しておりました。
「あのう、早速ですけど、父は奥の事務所に居ますので、ついてきてください」
 と言って千里が歩き出しましたので、後ろを付いて歩きながら、
(ほんまにあかん! 後姿もエロいし、ケツがやばい!)
 と、まさに『立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花』といった感じで、辛抱堪らんようになってしまいました。
 私たちはロビーを奥に進み、無人のカウンターを通り過ぎて奥のドアを開き中に入りました。すると、中は畳12畳ほどの事務所となっておりまして、右側に事務デスクが3つ並んでおり、左側に6人がけの割と大きな応接セットが置かれておりまして、ソファーにスーツ姿の初老の小柄な男性が腰掛けておりました。
 細めの涼やかな目元を見て、一目で千里の父親であることが分かりました。
「お父さん、こちらが北村圭介さんです」
 と、千里が私を紹介すると、お父さんは立ち上がり、私の目を見つめながら軽く会釈をしました。
 私はスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、自分の名詞を抜き出しながら、
「初めまして、北村です。宜しくお願いいたします」
 と言って、名刺を差し出すと、今度はお父さんがカッターの胸ポケットから名刺を取り出し、私に差し出しながら、
「初めまして、原田です。こちらこそ宜しくお願いします」
 といって、名刺交換をしました。
「北村さん、朝早くから申し訳ないですね。まぁ、とりあえず座ってください」
 と言われましたので、ソファーに腰掛けました。
「じゃあ私、コーヒーを入れてきますけど、圭介さんは確か、ホットのブラックでよかったんですよね?」
「はい、ありがとうございます」
 千里が席を外し、事務所の奥のパーテーションで仕切られた簡易の給湯室に向かいました。
 その後、私とお父さんは、互いの名刺に目を通した後、
「・・・・・・」
 しばらく沈黙が続きました。
 やはり、仕事の内容が内容なだけに、どうしても話を切り出しにくいという思いがあり、おそらくお父さんの方も、私と同じ思いであるようです。
 早く千里に戻ってきてほしいと思いながら、何から話を進めようかと考えていると、
「この前は、千里がえらい御馳走になったそうで、ありがとうございます」と、お父さんの方から声をかけてくれました。
「!」
 私は一瞬、『えらい』を『えろい』と聞き間違えてしまい、『エロい御馳走』とは、一体どんな御馳走だろう?と真面目に考えたあと、
(おい! 俺、しっかりせぇよ!)と、気合を入れ直し、
「いえ、こちらこそ、千里さんを遅くまで引っ張ってしまって、申し訳ございません」と言いました。
「そんな、いうても千里はもう27歳ですから、こっちは何も心配なんかしていませんよ」
 千里がコーヒーを運んできまして、それぞれの前に並べた後、お父さんの隣に腰掛けました。
「インスタントで申し訳ないけど、どうぞ」
 と、お父さんが勧めてくれましたので、
「いえ、私も普段からインスタントなので。いただきます」と言って、千里の入れてくれたコーヒーを一口飲みましたが、千里がソファーに腰掛けたことによって、スカートが少しずり上がり、
(あかん・・・ 千里の太ももエロ過ぎる! これがほんまのエロい御馳走やなぁ)と、今から重苦しい話をしなければならないのに、益々不埒となっていく自分を止めることができませんでした。
「北村さんは、マリちゃんの会社の社長さんやそうで。若いのに大したもんですなぁ」
「いえ、会社は立ち上げたばっかりですし、従業員は二人しかいない小さい会社なんで」
「いやぁ、それにしても千里が言うてたとおり、背は高いし、しゅっとした男前やし、」
「もう、パパ! ええかげんに仕事の話をせんと、圭介さんも忙しいねんから!」
「いや、私は別に時間は大丈夫ですよ」と言いながら、
(さっきはお父さんって言ってたのに、普段はパパって呼ぶんか)
 と、千里の古風なイメージから、てっきりお父さんと呼んでいると思っておりましたので、少しだけ意外に感じました。
「じゃあ、早速仕事の話に入りますけど、北村さんはもう、ある程度の事情は千里から聞いて、ご存知なんでしょうか?」
「はい、千里さんから事情は聞いています」
「そしたら、私は何から話せばよろしいですか?」
「そうですねぇ・・・・・」
 やはり、仕事とはいえ、経営者に苦しい事業内容を語ってもらうということは、どのような場合であっても自らの非を認めなければならないという、屈辱と苦痛を伴うことになりますので、千里の父に辛い思いをさせるのが忍びなく、あまりにも申し訳ないと思いましたので、ホテルの現況を先に調べることにしました。
「それじゃあ、詳しくお話をさせていただく前に、先にこのホテルの館内を案内していただけますか? 千里さんから聞いている話では、4階から上が水浸しになって、現在も閉鎖されているということなので、まずはそこから見せてもらえないでしょうか?」
「わかりました。じゃあ千里に案内させますけど、それでよろしいですか?」
「えっ? 千里さんにですか?」
「はい、ほんまは私が行くべきなんですけど、従業員が少なくて私が行ってしまったら、フロントが空になってしまいますし、千里は仕事が今日からなんで、まだフロントを任せることができませんから、申し訳ないんですけど千里の案内で我慢してくれますか?」
「いえ、こちらこそ忙しい時に申し訳ございません。それじゃあ、このコーヒーを頂いた後に、千里さんと一緒に一通り館内を見て、それからまたこちらに戻ってきます」
「はい、すみませんけど、よろしくお願いいたします」


第10話 ぷろぽ~ず?

 コーヒーを飲んでいる間、私たちは千里のお父さんを中心に他愛のない世間話をしておりまして、何気ない言動や立ち居振る舞いに、お父さんの人柄の良さを感じ取ることができました。
 そして、おそらく私も、お父さんの目には悪い印象で映っていないということが伝わりましたので、ほっと一安心しました。
 これから、どちらかの人生が終わるまでの末永いお付き合いとなりますので、やはり第一印象が大切です。
 コーヒーを飲み終えて、千里が後片付けをして戻ってきまして、
「おまたせしました。じゃあ圭介さん、案内しますね」
 と言って、私と千里は事務所を出ました。
「はじめは、どこから見たいですか?」
(千里のスカートの中)と、本気で思っておりましたが、
「まずは、水浸しになった4階から6階を見たいな」と、虚偽の申請をしました。
「分かりました、じゃあ行きましょう」と言って歩き出しましたが、
「?」
 なぜか千里は右手にあったエレベーターを素通りして、隣の階段に向かいまして、階段の前で立ち止まり、
「圭介さん、ごめんなさい。いまエレベーターは故障しちゃってて使えないんで、階段になりますけどいいですか?」と言いました。
「いいよ。でも故障って、やっぱり漏水が原因で故障したん?」
「さぁ、元々調子が悪かったみたいで、はっきりとした原因は分からないみたいなんですよ」と言って、千里は階段を上がり始めましたので、おいてけぼりにならないように後ろを着いて行きました。
 千里の真後ろを歩きながら、
(あぁ・・・あかんっ! ほんまにこのケツやばいわ! それと、千里はめちゃくちゃ良い匂いがするわ!)と思った時、千里は急に立ち止まり、クルッと振り返って、 
「圭介さんっ! 私の隣を歩いてください!」
 と、表情と声音に怒気が含まれておりました。
 おそらく千里は、私の曇りなきいやらしい眼と、詰まりなきいかがわしい鼻を感じ取ったようで、ここで私の楽しいサービスタイムが強制終了となってしまいました・・・・
 その後は風紀が乱れることもなく、私は完全にビジネスモードに切り替えて、最上階から視察を始めることにしました。
 6階に到着してみると、私の想像よりもはるかに片付いておりまして、確かに廊下や各部屋の床のカーペットは剥がされて、コンクリートがむき出しとなっておりましたので、生々しい爪痕といった印象を抱きましたが、
「なんか、想像してたよりも、すっごく片付いてるなぁ」と言いました。
「そうですね。でも、ここまでくるのに、相当苦労したみたいですよ」と言った言葉の意味が、5階と4階に行ってみて、よく理解できました。
 6階では見られなかった、壁のクロスの剥がれや、天井のボードの雨漏りのシミなど、何から手をつければ片付くのか分からないといった、悲惨な有様でした。
「ほとんどお父さん一人で後片付けをしてるから、あんまり捗らなくて・・・」
「えっ! これをお父さん一人で片付けてるの?」
「はい、そうなんですよ・・・」
 これは早急に手を打たなければ、今度はお父さんの体が壊れるのではないかと心配になってきました。
 言うまでもなく、千里は私の何倍も、そうした思いを抱えているでしょうから、私は自分ができることは何でもやろうと、千里に無言で誓いました。
 4階までを見終わって、ある程度の調査は終了し、最期に気になっていたホテルの裏側に行きまして、非常階段を調べたあと、ホテルの裏側と隣接する建物との距離を目測し、全ての調査は終了しました。
 表から見た限りでは分からなかったのですが、これだけ左右と裏の隣接する建物との距離が近い場合、解体作業は特殊な方法を執らなければなりませんし、前面の道路幅が約7メートルと狭すぎて、大型の重機も使用できませんので、おそらく解体作業は通常の倍近い時間と費用が掛かるでしょう。
 ということは、もしもホテルを建て直した場合、敷地面積が中途半端な広さなので、この地区の建蔽率と容積率からいって、今の6割から7割くらいの規模のホテルしか建てられませんから、通常の倍近い費用を投入してホテルを経営した場合、おそらく銀行の利子を払うのがやっとといった状態になってしまうでしょう。
 結論から言いますと、大阪インペリアルホテルは再建不能で、今から何をやったとしても延命治療にもならず、2時の葬式を3時に遅らせるだけで、死んでいることに変わりはなく、これ以上結論を引き延ばすと、今度はまた違う所に綻びが生じて、取り返しのつかない事態に発展する恐れがあるということです。
 おそらく、お父さんが銀行からの借り入れを繰り返してきたのは、古くなった内外装をやりなおしたり、消防法の改定よって設置が義務付けられた、スプリンクラーや坊火扉、排煙設備などを設置するためであったのでしょう。
 やはり、50年という歳月は、ホテルの老朽化という重石(おもし)となって、千里のお父さんに重くのしかかっており、これからもその重さを増し続けていくでしょう。
 最終的な結論として、やはり是が非でも、みらい観光開発に買い取ってもらう以外に、お父さんを救う手立てはありませんので、私は全力でお父さんを説得しようと決めた時、スタート地点の1階のロビーに戻ってきました。
「あのね、ここの反対側に下に降りる階段があって、地下に大宴会場がありますけど、そっちも見に行きますか?」と、千里が言いましたが、これ以上の調査は必要なかったので、
「いや、もう大丈夫。お父さんの所に戻ろう」と言って、私たちは事務所に戻ることにしました。
 二人で仲良く並んで歩き、再び事務所に入る寸前に、なぜか千里は足を止めて、
「あのぅ、圭介さん・・・」 
 と、今まで見たことがない、どこか思いつめたような真剣な表情で話しかけてきました。
「どうしたん?」
「この前、私の歓迎会をやってもらったあとに、タクシーで送ってもらって、マリが降りたあとで私が降りようとした時に、圭介さんが私に言ったこと、あれは本当に本気なんですか?」

「?・・・」

 私は相当酔っていたので、何のことだがさっぱり身に覚えがなかったのですが・・・ とりあえず流れ的に、
「本気やで」
 と、訳の分からないまま、恐る恐る真顔で答えてみました。
「でも・・・ そんなん急に言われても、私、まだ圭介さんのことよく知らないし・・・ 圭介さんも私のこと、よく分からないでしょう?」
 もしかすると、私は千里にプロポーズをしてしまったということでしょうか?
「さっき会ってもらって、なんとなく分かってもらったと思うんですけど、私のお父さんは別に気難しいタイプじゃないし、どっちかって言うたら話の分かるほうやと思うから・・・ だから、圭介さんも話しやすいと思いますけど・・・」
 もしかしなくても、この流れは間違いなく、私は千里にプロポーズをしてしまったようです・・・
「マリも、圭介さんはちょっと変わってるけど、ほんまに優しくて良い人やって言うてたし・・・」
「・・・・」
 おそらくマリも相当酔っ払っていたので、私が千里にプロポーズをしたことを知らないもようです。なぜなら、もしもマリが知っていた場合、二日前の金曜日の朝に、何らかのリアクションがあって然るべきであったからです。
「だから私、お父さんにはさりげなく、それらしいことは遠まわしで言ったんですけど・・・ ほんとうにお父さんに話をするつもりなんですか?」
 千里は困ったような表情をしておりますが、決して嫌がっているようには見えなかったので、
(おい、俺・・・ どうする?)
 と自問したあと、今度こそ本当の曇りなき眼で千里を見定めて、
(そんなもん、決まりじゃ! なんの迷いもないわぃ!)
 と自答し、このまま流れに乗って、押し切る覚悟を決めて、
「うん。仕事の話が終わったら、正式に話をするよ」
 ということで、人生において最も重大な決断を下しました。


第11話 将を射んと欲すれば、先ず馬を射よ?

『人生とは、思いがけない出来事の連続であり、予測できないからこそ面白い』
 誰が言ったのか(おそらく日本人の登山家?)、すっかり忘れてしまった名言なのですが、まさにその通りであると実感しました。
 ほんの5分前まで、まさか千里のお父さんに、今から結婚の許しを得ようなどとは、これっぽっちも思っていなかったので、本当に人生とは、思いがけない出来事で成り立っているようなものなのかもしれません。
 しかし、いみじくも私は、千里と初めて出会った時に、半分冗談とはいえ、お父さんに結婚の許しを得ようと思っておりましたので、こうなることが千里と私の運命であったのでしょう。
「じゃあ、行くよ」
 と言って、お父さんの待つ、『運命の扉』を開き、千里と一緒に中に入りました。
 お父さんは先ほどと同じように、ソファーに腰掛けておりましたので、
「おまたせいたしました」と言って、私はお父さんの目の前に座り、千里もまた、お父さんの隣に腰掛けました。
「どうでした? ひどい状態でしたでしょう?」
「いえ、後片付けはお父さんお一人でされていると聞いたんですけど、お体の方は大丈夫なんですか?」
 私がさりげなく『お父さん』と呼んでも、何の反応も違和感も示さなかったので、少し安心しました。おそらく、千里が根回しをしてくれていたおかげなのでしょう。
「まぁ、片付けっていうても所詮は素人なんで、自分の体と相談しながら無理がない程度にぼちぼちとやってますから大丈夫ですよ。それで、専門家の北村さんの意見として、やっぱりこのホテルはもうだめですか?」
「そうですねぇ・・・」
 と言ったあと、今から私が話す内容というのが、千里のお父さんに引導を渡すことになりますので、私も経営者の端くれとして、痛恨の思いが込み上がってきましたが、これもすべてはお父さんを助けるためであると自分に言い聞かせて、大阪インペリアルホテルの現況と、今後の方針を簡潔にまとめて話しました。
「そうですかぁ・・・ やっぱり手放す以外に、道が無いっていうことですね」
「はい、残念ですけど、それが一番良い方法だと思います」
「実は、私もいろいろと考えまして、これ以上ホテルをやっていくことは無理やろうと結論を出してたんですよ。それで、こうやって北村さんの意見も聞いたことやし、みらい観光開発に売ることに決めました」
「そうですか、ありがとうございます。それで、売るのはいいんですけど、具体的にどういう条件で話を進められているのか、詳しく説明して頂けないでしょうか?」
「はい、わかりました。じゃあ、みらい観光開発の出してきた条件を説明しますと、」と言って、お父さんは詳しく話してくれました。

 お父さんの話によりますと、みらい観光開発が提示した条件というのは、大きく分けて3つありまして、ひとつは、大阪インペリアルホテルの買い取りの金額については、不確定とするというものでした。
 不確定という意味なのですが、通常の売買ですと売主と買主が合意して、売買金額というのが決定するのですが、大阪インペリアルホテルの場合、銀行とその他の金融機関からの借り入れの際に、ホテルの土地と建物が担保となっており、根抵当権や抵当権が設定されているため、売買する場合はそれらの権利を抹消しなければならず、そのためには借入金を全額返済せねばならないのですが、売買金額よりも借入金が多い場合、その担保を抹消できないことになってしまいます。
 つまり、みらい観光開発は大阪インペリアルホテルの買い取り金額を3億円と査定しているのですが、大阪インペリアルホテルに設定された担保を抹消するためには、実際の借入金残高の5億円が必要なので、2億円の不足金が発生します。
 こういった場合、貸主である各金融機関と、買主であるみらい観光開発が間に弁護士を立てて交渉し、不足分の2億円に対して減額若しくは放棄といった措置を執ってもらい、設定された担保を抹消してもらうのです。
 なぜ、こういった取引が成立するのかというと、金融機関としては、このまま大阪インペリアルホテルが倒産若しくは破綻した場合、貸付金の回収が困難となってしまい、最終的には不動産を競売にかけて回収するのですが、こうなってしまうと競売の落札価格が2億円前後と想定されるため、みらい観光開発に3億円で買い取ってもらったほうが、回収金額が増えるというメリットが生じます。
 競売の場合、1回目で入札者が現れない、若しくは入札者の入札額が最低入札価格を下回った場合、次回に持ち越しとなってしまい、最低入札価格は回を追うごとに減額されるため、貸主としては何のメリットも生じない競売を避け、貸付金を減額してでも、大阪インペリアルホテルが倒産する前に、みらい観光開発に任意売却でホテルを買い取ってもらい、できるだけ多く回収しようという仕組みなのです。
 以上のような理由で、大阪インペリアルホテルの買い取り金額は、金融機関が幾らの減額で任意売却に応じてくれるのかが、これからの交渉次第となるために、不確定となってしまうのです。

 そして、二つ目に提示した条件というのは、箕面市の物件に関するもので、簡単に説明しますと、通常であれば箕面市の自宅は、大阪インペリアルホテルの借入金の共同担保となっているため、前述したホテルと同じ経緯で競売となってしまうのですが、貸主側に箕面市の物件は初めから存在しなかったものとして、切り離して考えてもらい、物件に設定した担保を抹消してもらうということです。
 この場合のメリットとして、まずは、貸主側は箕面市の物件での回収金額は1500万円以下と想定しているため、みらい観光開発の提案を蹴って、機嫌を損ねてホテルの任意売却が流れるよりも、提案を受け入れて担保を抹消する方が賢明である。
 次に、原田氏のメリットとしては、ホテルを手放す代わりに、自宅の借金が無くなる、というメリットです。
 みらい観光開発にしてみれば、箕面市の自宅をきれいな形で原田氏に残すことによって、原田氏に対して顔が立ちますし、スムースにホテルを取得できるというメリットが生じるということです。

 そして、みらい観光開発が提示した、3つ目の最後の条件というのは、大阪インペリアルホテルの名称に関するもので、原田氏が現在有する、大阪インペリアルホテルの商標登録、及び営業権を含めた、名称に関するすべての権利を、みらい観光開発側に譲渡するというものでありました。

「という訳で、箕面の家がきれいになって戻ってくるんやったら、こっちも納得するという話になりまして、ホテルを売ることに決めたんですけど、ここまでの話で、何か間違っているようなことはありますか?」
 私は、最期の名称に関する条件だけが、少し腑に落ちなかったのですが、全体としては納得のできる条件であったので、
「そうですね、はっきり言って、今聞いた限りの話では、ただの旅行関連の会社にしては、抜かりがないというか、落とし所を弁(わきま)えているというか、専門家にしか分からないような手順を踏もうとしていますから、おそらくみらい観光開発の方にも専門家が付いていて、そこからアドバイスをもらっているんだと思います」と言いました。
「じゃあ、みらい観光開発の坂上さんの話に、そのまま乗っても大丈夫っていうことですか?」
「はい、でもやっぱり心配なんで、今度その坂上さんと話をするときに、僕を同席させてもらえないでしょうか?」
「はい、それは構わないと思うんですけど・・・ 北村さんはどういう立場で、向こうと話をされるんですか?」
「そうですね・・・」 
 と言ったあと、話の流れ的に、このタイミングだと思い、
「経営コンサルタントという立場って言えば、向こうが変に身構えてしまう恐れがありますし、それで話が流れてしまったら元も子もないので、できればお父さん、僕の立場のことで、大切なお話があるんですけど、今からそのお話をさせていただいても大丈夫ですか?」と言いました。
 お父さんは特に身構えることもなく、とても自然体で、
「はい、どうぞおっしゃってください」
 と、穏やかな表情で言ってくれました。
 私は居住まいを正し、千里と目を合わせて小さく頷いて合図を送ったあと、お父さんの目をまっすぐ見つめました。
 まさに、文字通り『将を射んと欲すれば、先ず馬を射よ』ということで、弓弦を力いっぱいに引き、照準を合わせ、
「お父さん、いきなりで驚かれると思うんですけど、千里さんと結婚させてください!」
 と矢を放ち、(決まった!)と思った次の瞬間、

「えぇ~っ?!」

 と、なぜか千里は大きな声で驚きを示しましたので、ついつい私もつられて、(えぇ~?)と、サプライズしてしまいました。
「なんや千里、ほんまはもう、お付き合いしてたんかいな?」
「つきあってないよ~! 圭介さん、なんでいきなりプロポーズなんかするんですか?・・・ お付き合いさせてくださいって、言うだけじゃなかったんですか?」
 私はまたしても、
(そっちか~い!)
 と思いましたが、もう賽は投げられた、というか、矢は放たれたあとなので、今さら後戻りはできませんし、私は後戻りをする気など毛頭微塵もございません。
 なので、今度は千里というゴールをめがけて、
「千里さん、本当にいきなりでごめんなさい。でも、僕は本当に本気なんです! 僕と結婚して下さい!」
 と、おもいっきりシュートを放ちました。

「・・・・・ ?」

 しかし、いくら待てど暮らせど、私の耳には『ゴ~ル!』という歓声は聞こえず、千里は顔を真っ赤にして、
「・・・・・・・」
 俯いたまま何も答えてはくれませんでした。
(これって・・・ もしかして私、またオウンゴールを決めちゃったっていうことなのかしら?・・・)と、非常に動揺しておりましたので、マダム風のオネェ言葉で軽く取り乱しながら焦ってみたあと、もういちど千里にプロポーズしなおそうかと思った時でした。
「まぁ、結婚はとりあえず置いておいて、どうも千里は私が見る限り、北村さんのことが好きみたいやし、結婚を前提にお付き合いするっていうことで、北村さんはよろしいですか?」とお父さんが、策に溺れて死にかけている私に、助け船を出して下さいました。
 馬を射るどころか、そのお馬様に命を助けられてしまい、
「はい、ありがとうございます。本当に先走りし過ぎまして、申し訳ございませんでした」
 と、心の底から感謝と謝罪の意を表しました。
「千里も、それでいいな?」
 千里は俯いたまま、こっくりと小さく頷いて、僕の大切な、とても大切な許嫁(いいなずけ)に変身してくれました。


第12話 麿と妾

「まぁ、なんにしても北村さん、じゃなくて、もう圭介君でいいか。千里のことをよろしくお願いしますね」
「はい。大切にします!」
 ということで、私は馬を射ることはできませんでしたが、
『瓢箪から出た駒(駒とは馬のことです)』ではなく、瓢箪から出たお馬様のお力によって、千里とお付き合いができることになり、結果的に万々歳となったのですが・・・
「なんか・・・ どっと疲れた、っていうか・・・ お腹が空いた」
 と、千里は本当に疲労困憊といった表情をしておりました。
「なにか、買ってこようか?」
 と私が言うと、お父さんが腕にはめた時計で時刻を確認して、
「お昼にはちょっと早いけど、千里は圭介君と一緒に、ご飯食べてきたらどないや?」と言ってくれました。
「いいんですか?」
「いいよ。千里、行っておいで」
「うん」
「じゃあ、お父さんもご一緒に、どうですか?」
「ありがとう。でも、私は留守番せなあかんし、お母さんが作ってくれた弁当があるから、気にせんと二人で行っておいで」
 と言って、お父さんが千里の背中に手を回し、立ち上がらせようとしました。
 千里がゆっくりと立ち上がりましたので、私も続いて立ち上がると、
「お母さん、私のお弁当を作るの、うっかり忘れてたって言うたんですよ。ひどいと思いませんか?」
 と、私に問いかけ、若しくは同意を求めてきました。
(それを、俺に答えさす?)
 と、一瞬だけ返答に困りましたが、
「それは多分、千里さんがずっと東京におったから、お母さんはいっつもお父さんの分しか作ってなくて、それが習慣になってたからじゃないかな」と、我ながら見事な模範的回答だと思っていると、
「いや、私も弁当作ってもらったのは、もう20年ぶりくらいなんですわ」と、お父さんが隠された真実を白日の下に晒したことで、
「・・・・」
 少し気まずい思いをしました。
「行こう」
 と言って、千里が歩き始めましたので、
「じゃあ、すみません。行ってきます」と言って、千里の後に続きました。
 ホテルを出て、左右のどちらに向かうか少し迷ったあと、繁華街に近い左側に向かうことにしました。
「千里は何が食べたい?」
「私は何でもいいですよ」
「俺も別に、何でもいいねんけど・・・ とりあえず近くを歩いてみて、なんか店があったら、そこに入ろうか?」
「うん」
 二人で並んで歩き始めてすぐに、
「なんか、いきなり自分のことを僕から俺って言うてるし」と千里が言いました。
「えっ? 俺って言うてた?」
「もしかして圭介さんは、釣った魚にエサはあげない、付き合ったらいきなり態度が変わる人なんですか?」
「ちがうよ! じゃあ、今からは自分の事を、麿(まろ)かワラワって言おうか?」
 千里はクスッと小さく笑ったあと、
「ほんまに、次から次と・・・・ でも、ワラワって漢字やと妾(めかけ)って書くことと、女の人が自分の事をへりくだって言う時に使う、一人称って知ってました?」と、これみよがしに雑学をひけらかしてきました。
(さすがは立命館!)と思いましたが、我が母校の近畿大学も決して負けてはおりません。
 ひと昔前までは、近大のキンは、筋肉の筋と言われておりましたが、近年の卒業生たちの身を挺する、正に命を賭した輝かしい活躍を魅せる、『近大マグロと新発売の近大ナマズ』諸君を、私は先輩として誇りに思っております。
(*注意⑥ 大学の後輩たちを食するという、なんとも猟奇と狂気に満ちたおぞましい表現となってしまいますが、本当に美味です)
「じゃあ、これからは自分の事を麿って言うから、千里は妾って言うことにしよう」
「いいですよ」
「麿は、お腹が空いたでおじゃるよ」
「妾も、お腹が空いたでおじゃりまする」
「そうでおじゃるか。ならば、いざ参ろうぞ」
「・・・・」
 しかし、公家ではない私たちは当然なのですが、その後の会話がまったく続かなくなり、私は麿から拙者、おいら、小生、われ、千里は妾からワチキ、あたい、わて、うち、といった感じで、一人称は様々な変遷を経て、結局は目についた定食屋に着いたころには、元に戻すことにしました。
「じゃあ、今からは俺って言うで」
「じゃあ、私は圭介って呼び捨てにするし、敬語も使えへん」
(変わり身が早いなぁ)と思いながら、
「まぁ、そっちのほうが気兼ねなくていいけど、いきなりやなぁ」と言いました。
「だって、圭介は私に自己紹介した時に、自分から呼び捨てにしてくれって言うたやんか」
 確かに千里の言う通りであったので、黙って従うことにしました。
 店内に入り、私はとんかつ定食の大盛りを、千里はサバの味噌煮定食を、食後のコーヒーは二人ともホットを注文し、料理が運ばれてくるまでの間、
「さっき、ホテルで案内し始めたとき、階段のところで私のお尻を見てたやろう?!」
「うん。見てた」
「変態!」
「お尻だけじゃなくて、太ももも見たで」
「変態!」
「それからついでに、匂いも嗅いだで」
「ド変態!」
「千里は、すごく良い匂いがした」
「もう、いい!」 
 といった、付き合い始めたばかりの初々しいカップルが交わす、ごくありふれた日常の爽やかな会話が続き、
「私、何でこんな人と付き合うことになってしまったんやろう?」
 と、千里が真剣な表情で、しかもどうやら本気で悩み始めたもようなので、下手をすると、このまま別れ話に発展しかねないと思い、
「料理、おそいなぁ」
 と、話題を違う方向に持っていこうとしましたが、
「だいたい、圭介がいきなりプロポーズなんかするから、私は頭の中が真っ白になって、それでパパが結婚前提で付き合うかって言ってきたから、結婚するくらいやったら、付き合うほうがまだマシかって、そう思ってしまってん」
 と、千里はあくまで、この話題に固執するつもりのようです。
「・・・・」
「でも、圭介は本気で、私にプロポーズしてんやんなぁ?」
「うん、本気やで。でも、千里・・・  ほんまにごめんな・・・ 順序とか手順とか、プロセスを全部すっとばしてしまって・・・
 女の人にとって、プロポーズがどんだけ大事なことかは分かってるし、もっとゆっくり時間をかけて、俺のことを知ってもらってとか、そういう手順も大事っていうことは分かってるねん。でもな、千里を初めて見た時に、ほんまに一目惚れしてしまって、絶対に千里と付き合いたいっ、ていうか、どんなことをしてでも手に入れたいって思ってしまったから、もう手段を選んだりしてる余裕がなかって・・・ 
 ほんまに、いきなりでごめんなさい」
「ほんまに、悪いと思ってる?」
「悪いと思ってる・・・ だから、これからほんまに千里のことを大事にするから、ちゃんと見てて」
「・・・・・」
 千里はしばらく無言で、私の様子を窺がっておりましたが、私の神妙な面持ちが功を奏したのか、
「うん、分かった。これから圭介のこと、ちゃんと見ていく」と言ってくれました。
(よかった・・・ 命拾いした)
 と思ったとき、ようやく料理が運ばれてきました。
「美味しそう! なぁ、早く食べよう」と言って、千里が箸に手を伸ばしましたので、私も箸を手に取り、
「いただきます」と言って、楽しいランチタイムが始まりました。
 千里は食べ始めてすぐに、
「この味噌煮、すごく美味しいよ」
 と言って、自分の箸で一口大の味噌煮をつかみ、私の意思も確認することなく、何の躊躇も見せずに私の口に放り込んできました。
「おいしい?」
 と、まるで自分が作ったかのようなドヤ顔で訊ねてきましたので、
「うん、おいしい」
 と答えたあと、私もお返しということで、箸で一つまみして、
「こっちも美味しいよ。はいっ、あ~ん」
 と言って、千里の口中に投げ込もうとしましたが、
「ふつう、キャベツじゃなくて、トンカツやろう!」と言われてしまいました。
「ほんまに、ちょっと気を許したら、すぐに細かいボケをぶっこんできて・・・ 私、大阪に帰ってきたばっかりやねんから、ツッコミのスピードがまだ元に戻ってないねん!」
 と、キャベツをつまんだ時点でツッコめなかったのがよほど悔しかったのか、他府県から戻ってきた大阪人がよく口にする、言い訳ベスト3を口にしました。
 その後、お互いにボケもツッコミもなく無難に食事が終わり、食後のコーヒーを飲んでいる時に、
「圭介、さっきから私、いろいろ言ってごめんね」
 と、なぜか千里が謝ってきました。
「なんで、千里が謝るの?」
「あのね、ほんまは私も、圭介を初めて見たときに、多分この人と付き合うことになるんやろうなって思っててん」
「えっ! そうなん?」
「うん、そう思ってたよ。私、マリから圭介のことを変態やとか、どすけべぇやとか、いろいろ聞いてて、多分、圭介ってアホみたいな顔してるんやろうなって思っててんけど、マリが見た目はすっごく男前でかっこいいから、その見た目と言動のギャップが凄すぎて、あれこれ考えてる間に訳が分かれへんようになって、最期は圭介の言うことをなんでも聞いてしまうって・・・」
(マリ、それって、褒めてるつもりなんか?)と、会社にいるマリにテレパシーを送った後、
「マリが、そんなこと言うてたん?」
 と、目の前の千里に訊ねてみました。
「うん、言ってた。それで、私が圭介に会いに行って、初めて会ったときに、いきなり呼び捨てにしろとか、刑務所がどうだとか、もてあそんでくれとか、最後は私の名前を叫んで・・・ とか、普通やったらドン引きするねんけど、なんか圭介やったらアホ丸出しでも許せるって思って・・・ それで仕事の話になったら、すごく真剣な顔になって・・・ マリが言ってたことって、こういうことやったんやと思ったあとに、こういう感じで人を好きになることもあるんやって・・・ 自分でも凄く不思議なくらい自然に、気が付いたらもう圭介のことを好きになってた」
 私は千里がいま語ってくれた言葉をひとつひとつ噛みしめながら、
(えぇ話しやなぁ・・・ 録音しとったらよかった)
 と、しみじみ思いました。
「千里、ありがとう。ほんまに大切にするからな」
「うん、私も圭介のこと、大切にするよ」
 ということで、私が幸せな気分に浸っていると、
「でも、ほんまに先が思いやられるわ・・・」
 と言われてしまい、
(中々安定して、情緒不安定というか・・・気分の浮き沈みが激しいなぁ・・・ 
 これやったら、こっちがほんまに先が思いやられるわ)と思いながら、
「ごめんな。ほんまに大切にするよ」と言いました。
「ううん、違う。圭介の事じゃなくて、ホテルのこと」
 今回は、流石にもう慣れっこになってしまったので、
(そっちか~い!)
 と、思わないことにしました。
「私、今から明日の朝まで、ホテルでずっと働きっぱなしになってしまうねん」
「えっ! 明日の朝まで?」
「そう。今日は昼の1時から社員の人が出勤してきて、私はその人からいろいろと教えてもらうことになってて、私の本当の勤務時間は、夜の10時から明日の朝までなんよ。だから、今日の夜までにある程度仕事を覚えておかないと、大変なことになってしまうねん」
「そんなにシフトが厳しいん?」
「うん、そうやねん。ホテルって、24時間営業やから・・・」
 これから先に、こんなことが続くようでは、千里が体を壊しかねないと思った時、
「!」
 とつぜん良いことを思いつきました。
「じゃあさ、ひとつ提案なんやけど、マリと進っていう新入社員を、千里のお手伝いでホテルに行かせるから、それやったらシフトも組みやすくなって、千里の負担も減るやろう?」
「でも、それじゃあ圭介にあんまりにも悪いし、それに、うちはバイト料を払う余裕がないし・・・」
「そんなこと千里が気にせんでもいいよ。どうせうちの事務所におらしても、二人とも今はやることがないし、ホテルが売れるまでの期間限定っていうことで、二人には話をするわ。それに、マリは前から制服着たいって言ってたから、よろこんで行くやろうし、進はお坊ちゃんで、社会経験がほとんどないから、二人にとっても丁度いいねん。だから千里はバイト料とか気にせんと、二人をよろしく頼むわな!」
「・・・・」 
 千里はしばらくの沈黙の後、
「でも・・・ やっぱり悪いわ」と言いました。
「俺、千里のことを大切にするって、何回も誓ったし、お父さんの前でも誓ったやんか。だから、ほんまに千里のことを大切にさせて」
 千里は困惑した表情が少しずつ和らぎ、
「うん、ありがとう」
 と、とても素敵な笑顔で了解してくれました。
「よし、決まり。今からホテルに戻って、まずはお父さんに話をして、それから俺がマリに話したあと、千里に電話させるから、あとはマリと詳しく打ち合わせをしてな」
「うん、分かった」
 ということで話がまとまり、私たちは定食屋を出ました。


第13話 天涯孤独

 ホテルに到着後、千里との距離が急激に縮まったことによって、お父さんとの打ち合わせは実にスムースに、そして本当の義父と婿のような雰囲気で進めることができました。
「じゃあ、みらい観光開発の坂上さんには、お父さんの甥っ子っていうことにして、僕は元銀行員っていうことでいいですね?」
「うん、それでいきましょう」
「それで、マリともう一人の件は、OKということでいいですね?」
「でも、ほんまにそんなことでよろしいんですか?」
「いいですよ。僕の仕事はいろいろと事情があって、本格的に動き出すまでまだ時間が掛かりますし、このままやったら、僕もあの子らに、なんにもさせんと給料払うみたいになって、逆にあの子らが気を使いますから、むしろこっちからお願いしたいくらいなんですよ。それに、後々のことを考えたら二人にいろんな経験をさせておいたほうが、あの子らのためになりますから、ほんまにお父さんは気にしないでください。それと、4階と5階の片付けは、どうします?」
「まぁ、どうせ売ってしまうから、放っておいてもいいんやけど、長いことお世話になったから、せめてカビとかが生えへんようにだけはやっとこうと思ってるから・・・」
「じゃあ、僕が合間を見て手伝いに行きますから、お父さんは絶対に無理しないでくださいね」
「・・・・・・」
 お父さんはしばらく無言のあと、
「千里、もう早よ結婚したらどうや?」
 と、今度は私の隣にいる千里に言いましたので、
(お父さん、がんばれ!)
 と、心の中で声援を送りました。
 しかし、千里はお父さんと私を交互に見比べたあと、
「ふっ・・・」
 と、血を分けた実の父親と、手を握ったこともない赤の他人の婚約者を軽く鼻であしらった挙句、
「そんなん、まだまだ先や!」
 と、超上から目線で薄ら笑いを浮かべながら、お父さんと私を下眼遣いで見下してきました。
 もしかすると、お父さんと私は、千里にもてあそばれているのではないでしょうか?
 とりあえず、こんな我が侭な娘は置いておいて、
「お父さん、ひとつお願いがあるんですけど」と、実務を優先することにしました。
「どうぞ、なんでも言ってくださいよ」
「あのぅ、こうやってお父さんに挨拶させてもらったので、お母さんにも挨拶したいと思ってるんですけど、もしよかったら、みんなでお食事に行きませんか?」
「そんな気を使わんでも・・・ まぁ、でも、お母さんに言うてあげたら喜ぶと思うし、どうせうちのお婿さんになるんやから、あとで私から連絡しておきますわ」
「私まだ、結婚するって言ってないやん」
 と千里が言うと、終始穏やかであったお父さんの表情が一変し、軽く千里を睨みつけながら、
「一人娘やから甘やかして育ててしまって・・・圭介君、ほんまにこんな我が侭な娘でええの?」と言いました。
 私は間違いなく当事者でありますが、一応第三者的に判断して、
「いや・・・ あのう・・・・ たぶん、千里の方が正論で、僕とお父さんの方が、なんというか・・・ そのぅ、強引というか・・・」と、最後は言葉が見つからず、お茶を濁してしまいました。
「圭介の言う通りや」
 お父さんはまた軽く千里を睨んだあと、
「まぁ、確かにそうかもしれませんなぁ・・・ でもね、賛成してるのは私だけじゃないんですよ。実はさっき二人がご飯食べに行ってる間に、お母さんから連絡があって、ある程度は話したんやけど、本人は自分が結婚するみたいに舞い上がってしまって、早よ圭介君に会いたいって言うてましたから、うちは誰も反対する人がいないからいいけど、圭介君はご両親に、千里のことは話しているの?」と、訊ねてきました。
「・・・・・」
 私はどう答えようかと少し迷いましたが、まさか舅になる人に嘘をつくわけにはいきませんので、
「あのぅ、うちは母が6年前に、父は2年前に、二人とも癌で亡くなっていますし、僕も一人っ子で兄弟もいないんで、許しを得る人はいないですね」と、正直に答えました。
 すると、お父さんは少し驚いた表情で、
「そうやったんですか・・・ 辛いこと訊いてしまったなぁ・・・」
 と言ったあと、悲しげな表情を浮かべました。
「いえ、もうだいぶん時間が経ってますから、そんなに辛いとか、悲しいことはないですよ」
「でも、圭介君のご両親やったら、まだ若かったんじゃないの?」
「はい、母が58歳で、父が63歳でしたから、若いっていえば、若いほうですね」
 と、私が答えると、お父さんは私の目を見ながら何度も小さく頷いたあと、目線を千里に向けて、
「千里、大丈夫か?」と言いました。
 私はお父さんの言葉で、隣の千里を見ました。
「!・・・・」
 千里は目を赤くして、薄いブルーのハンカチで流れ出る涙をぬぐっておりました。
 おそらく千里は、私が身寄りのない天涯孤独だと知って、涙を流しているのでしょう・・・
「千里、ごめんな・・・ 変な話してしまって」
 千里はハンカチで涙をぬぐいながら、顔を横に何度も振ったあと、
「なぁパパ、明日、圭介をお家に呼んで、みんなで一緒にご飯を食べようよ!」と言いました。
「明日?・・・ 明日は二人とも、また晩から仕事やで」
「じゃあ、お昼ご飯でいいやん。圭介は明日のお昼、時間とれる?」
 私は何も予定がなかったことを、頭の中で確認して、
「俺は大丈夫やで」と言いました。
「じゃあ、明日のお昼は私とママでお料理作るから、圭介とみんなで一緒に食べようね!」
「うん、ありがとう」

 私は千里を、とても愛おしく思いました。


第14話 義務と責任

 自慢すべきことなのか、それとも恥ずべきことなのか、どちらかよく分かりませんが、私は今まで交際してきた女性を、泣かせてしまったことがありません。
 千里が初めてです。
 そして、千里の涙を見て、初めて気付いたことがあります。

 私たちはお互いに、本当に何も知らない者同士だということを、今初めて気付いたのです。

 千里にしてみれば、私が一人で勝手に話を進めておきながら、何を今更、という話なのですが、千里は私がどこに住んでいて、どんな生活をしているのかを知りませんし、どのような環境で、どういう風に育ってきたのかも知らない訳で、そのような男に、いきなりプロポーズをされて、即諾という訳ではありませんが、おそらく千里は私との結婚を受け入れてくれたと感じています。
 さきほど千里は、私のことを好きだと言ってくれましたが、おそらく深層心理では、私に興味を抱き、好きになりかけている、というのが本音であると思います。
 ただ、興味を持っただけの男が天涯孤独であると知っただけで、これほど悲しんでくれて、家に招待して家族として迎え入れようとまでしてくれる千里を、私は必ず幸せにしなければなりません。

 しかし・・・

 普通の温かい家庭で、優しい両親に大切に育てられてきた千里を、特殊な家庭で、特殊な両親に特殊な育てられかたをされた私が、果して幸せにすることができるのでしょうか・・・

 それは、私がこれから努力をして、証明していかなければならないことなのですが、私は既に、特殊な両親を亡くしていますので、私が特殊な生き方を選択しないかぎり、千里と共に普通の幸せな家庭を築いていくことができるでしょう。

 悲しみの感情が静まり、ようやく涙が止まった千里に、私は軽々しく愛しているなどとは言えませんし、大切にすると声に出して誓えば誓うほど、安っぽい台詞となって千里の心に届かないような気がしました。
 なので私は、声に出さずに何度も千里に謝ったあと、
「千里、そろそろ事務所に帰るわな」と言いました。
「うん」
「じゃあお父さん、明日のお昼に行きますね」
「うん、お母さんと一緒に待ってるよ」
「はい、ありがとうございます。じゃあ千里、行くわな」
「うん、外まで送る」
 二人で事務所を出て、ロビーに誰もいないことを確かめて、私は千里を抱きしめました。
 そして、何も知らないのにすべてを受け入れてくれた千里を、私は幸せにしなければならない義務を負い、その責任を果たしていくために、千里にキスをしました。


第15話 帰ってきた進君

 ホテルを出たあと、車を止めてある駐車場に向かっている途中で、マリから電話が掛かってきました。
「おはようございます、マリです」
「あ、マリさん、こんちくわ!」
「圭介さん、もう千里のお父さんと話は終わりました?」
(こんちくわ、は無視かぃ!)と思いながら、
「ちょうど今終わって、今からそっちに帰るとこ」と言いました。
「そうなんですか・・・ 良かった」
「良かったって、なんで? 何かあったん?」
「いえ、なんにもないんですけど、進君が戻ってきてるじゃないですか」
「うん、進がどうかしたん?」
「あのね、なんか、ちょっと雰囲気が変わって戻ってきてますよ」
「それはそうやろう。進を預けてたお寺は、全国でも有名な坊さんがおる寺やからなぁ」
「そうなんですか。でも、なんか、いきなり私のことを、『マリ姉(ねえ)』って呼んできたり、前まではずっと敬語やったのに、ちょっと砕けたっていうか、馴れ馴れしい感じになってるんですよ」
「別に、いいやんか。どうせうちの社風は、苗字を呼ばへんってなってんねんから、マリさんより親しみがあるやん」
「それは、そうなんですけど・・・」
「とりあえず、あと20分位で事務所に着くわ。それで、マリと進にやってもらいたい事があるから、帰ってから詳しく話をするわ」と言って、電話を切りました。

 進を預けていたお寺というのは、京都市内の最北部にありまして、全国に信徒を抱え、境内に立派な竹林があることでも知られた、そこそこ立派なお寺なのですが、なんといってもこの寺の住職が変わった能力の持ち主ということで、寺の名前よりも住職本人が有名になってしまったという、一風変わった名刹なのです。
 それで、その住職の持つ特殊な能力というのは、見たことも会ったこともない人たちの悩みを言い当てたり、その人達に降りかかる災いを予知したり、すでに亡くなった人たちの想いを語るといった、まるで霊能力者のような特殊な能力の持ち主ということで有名になってしまったのです。
 人によっては住職のことを畏れ、敬い、中には本物の仏の化身であるかのように崇め奉る人もいますが、昔から坊主は、悩みを打ち明けに来た人や、救いを求めに来た人たちに対して、納得のいく説法や説教を施せなかった場合、その相手に向かって、
『貴様、地獄に落ちるぞ!』とか、
『おぬし、バチが当たるぞ!』とか、
『そなたの先祖が怒っておるぞ!』とか、
『われは、来世で畜生に生まれ変わるぞ!』
 と言って逆に脅し、最期は開き直る達人なので、霊能力など無くても当てずっぽうで適当なことを並べ立てれば、あとは寺の中の非日常的な厳かな雰囲気や、坊主の派手な袈裟がけの衣装、声明(しょうみょう)を唱えて鍛え上げた低音でよく通る声などの効果によって、大概の人達は、無理やり納得させられてしまうものです。
(あくまで自論ですが)
 実は、住職の名を竹然上人(ちくぜんしょうにん)と申しまして、上人という偉いお坊さんにしかつけることができない僧位を名乗っていることから、若い頃はそれなりに厳しい修行を積み上げてきたと思われますが、かくしてその実態は、そこら辺にいるインチキ占い師と同様の、ただの嘘つきのペテン師で、尚且つギャンブル依存症のどうしようもない生臭坊主であることを、私は昔から知っておるのです。
 なぜなら、その竹然上人は、私の実家の隣のじっちゃんであるからです。
 しかし、私が竹然上人の能力をまるっきり信用していないわけではない証拠に、私は進をじっちゃんに預けたのですが、ハッタリと分かっていても、
『他人が尊たっとぶものは尊べ by 明智光秀』
 というように、私はじっちゃんの、危険に対する勘の鋭さと、妙に人を納得させてしまう人間力と言いましょうか、説得力だけは信じて尊んでおります。
 なんにしても、進はじっちゃんの元でしばらく過ごしたことによって、おそらく一皮も二皮も剥けて、大きく成長して戻ってきているはずなので、彼と会うのが楽しみなのです。

 ということで事務所の玄関前に移動いたしまして、私は勢いよくドアを開けて、デスクに座ってお利口さんにしている進に向かって、
「おぉ~、すすむ~! 元気やったか?!」
 と言いながら、無類のプロレスファンである彼を、アントニオ猪木のかかって来い!風に手招きしました。
「あっ! 圭介さん!」
 と言って、進が走りよってきましたので、私は彼を面接した時の『抱負』を思い出して、両手を広げて近づき、身長162センチの小柄な彼をギブアップさせるために、べアハッグで思いっきり強く抱きしめてあげました。
「あぁ~っ! アニキ~!」

「!・・・」

 私は一瞬、軽く驚きましたが、熱い抱擁を解除して、
「おぉ?・・・ アニキって・・・ お前もそういうギャグが言えるようになって帰ってきたんか! 一皮剥けて大きくなったのぅ!」と褒めてあげると、なぜか進は少し上目遣いで、
「一皮剥けて大きくって・・・ 圭介さん、いやらしいですね」
 という、訳の分からない解釈の下ネタが返ってきました。
「・・・・・・」
(こいつ、アホか!)と思いましたが、一刻も早く千里の職場環境を、安心・安全・快適にさせるために、マリと進を大阪インペリアルホテルに出向させる話を進めることにしました。
 みんなでソファーに移動して座ったあと、
「マリ、前から制服着たいって言ってたやろう?」
 と、千里とキスをしたばかりだったので、いきなり彼女の話をすることが照れくさくて、わざと遠まわしに話し始めました。
「はい。でも、前に圭介さんが選んでこいって言ってくれたから、ネットでいろいろ見てたんですけど、なんかぱっとしないのんばっかりやったから、別にもういいですよ」
「あのな、実はさっき千里と話してたことやねんけど、」と言って、千里の苦しい現状を話した後、二人に期間限定で大阪インペリアルホテルに出向してほしいと頼みました。
「えっ! じゃあ、千里と一緒に働けるんですか?」
「そう、とりあえずホテルが売れるまでの期間限定で、マリと進の二人でホテルに入って、千里のお手伝いをしてあげてほしいねん。それで、ホテルの制服はミニスカートで、めっちゃ可愛らしい感じやったで」と私が言うと、
「え~っ! うっそ~? やった~♡」
 と、なぜかマリではなく、進が歓喜の声を上げました。

「!・・・・」

 私はまた少し驚いた後、またもや進のギャグだと思っておりましたが、一応念のためにという気持ちで、
「お前が喜んでどうすんねん? お前の制服は、俺と一緒で作業着かジャージやぞ!」と進に言うと、
「え~っ! うっそ~? やっだ~☠」
 という、気色の悪い返事が返ってきました。
「・・・・・・・」

(もしかしたら・・・・ こいつ?・・・)

 私は疑惑を確かめるために、
「進、作業着のサイズ測るから、ちょっと立って後ろ向いてくれ」
 と言って、進を立たせて後ろを向かせた後、私も立ち上がり、こやつのケツに軽く蹴りを入れてみました。
「キャ~ッ!・・・・ もぅ~なにするんですか~ 圭介さん♡」

「☠・・・・・・」

 どうやら進は、一皮剥けて立派なゲイに目覚めて帰ってきたようです・・・

第3章 家族

第16話 滋賀のお母さん

 おそらくマリも気付いたようで、目を皿のようにして大きく見開き、半開きになった口を手で押さえておりました。
「マリ、あと頼む!」
「頼むって・・・ 何をどうしたらいいんですか?」
「とりあえず千里に電話して、できるだけ早く手伝いに行けるように打ち合わせをしてくれ」
「わかりました。すぐに電話します」
「うん、頼むわ。それで、俺は今から用事で出かけて、今日はもう戻って来ないから、後は千里に会いに行くなり、適当にしてくれ」
「はい、わかりました」
「じゃあ、行って来るわ」と言って、きびすを返してドアへ向かって歩き始めてすぐに、
「圭介さん、私はどうしたらいいんですか?」
 と、進が声をかけてきましたので、私は振り返らずに、
「私は俺の代わりに、世界平和を祈っといてくれ」
 と言って、取るものもとりあえず事務所を飛び出し、愛車のプリウスに乗って京都へ向かいました。
 阪神高速の高津の入り口から環状線に合流し、名神高速へ乗り継ぐために空港線へ向かいながら、
「あのくそじじい~、ゆるさん!」
 と、独り言をつぶやきました。
 勿論、竹然上人のことです。
 私は今から竹然上人に、進のことを問い詰めに向かっているわけですが、なぜ進がゲイに目覚めてしまったのかを空港線を走りながら考えてみました。
 あくまで仮定の私の想像ですが、おそらく進は研修中に寺のゲイの小坊主か、ゴリゴリマッチョの寺男(てらおとこ)によって手篭にされたのかもしれません。
 昔から寺にはゲイが多く生息しており、女人禁制の日本仏教と男色は切っても切り離せないほど、ひとつの文化として深く根付いており、真意は定かではありませんが、誰もが名前を聞けば知っている、有名どころのほとんどの僧侶にゲイ疑惑が持ち上がるなど、細かな例を含めて枚挙に暇がないほど、寺とゲイの関係は深い繋がりがあるといえるでしょう。
 もし仮に、私の想像通りであった場合、竹然上人に対して監督責任を問わなければなりませんが、竹然上人は自分の寺で、そのようなことが行われて気が付かないほど、間抜けでも不注意な人物でもありませんし、仮に寺の中にゲイがいたとしても、寺の歴史よりも古い隣家の出身である私の関係者の進に手を出すとは考えにくいと思われるのですが・・・
 しかし、私は昔から寺の関係者たちから毛嫌いされておりまして、その理由は私が竹然上人のことを、これっぽっちも尊敬していないというのが主な理由なのですが、幾ら私のことが嫌いだからといっても、進を手篭めにするなどとは、やはり余りにも考えが飛躍しすぎているでしょう。
 ということは、進に元々潜在的にゲイの素地があり、修行によって目覚めてしまったということなのでしょうか・・・
 だとすると、進がプロレスの大ファンであるということも、得心がいくというもので、屈強な裸の男たちの闘いに、異常な興奮を覚える輩は、世間の人達の想像以上に多く存在しており、実際に私の友人の中にも2名のゲイがおりますので、進がゲイであったとしても、特別に不思議なことではないのかもしれません。
 とにかく、竹然上人に会えば真相が明らかになることでしょう。

 阪神高速の豊中インターチェンジで名神高速に乗り継ぎまして、京都へ向かいながら、今度は進の両親、特に母親の顔を思い出し、
「どうしよう・・・・」
 と、気が滅入りました。
 進の父親は、滋賀県を中心とした全国に7か所、海外に6ヶ所の自動車や鉄道関連の部品、その他の精密機器などを製造する大規模な工場を構え、国内外の子会社や関連企業を合わせると、従業員数は優に5000人を超える準大手企業の3代目で、私は進の父親よりもどちらかといえば母親から絶大な信頼を得ておりまして、私自身も『滋賀のお母さん』と呼んで、公私共に非常にお世話になっている、特別な存在であるのです。
 進を預かることになった経緯も、実はお母さんからの要望でありました。
 今から約半年ほど前、進の母から呼び出しがありまして、滋賀県大津市の自宅へ訪ねた時の話です。
「圭介、うちのお父さんから聞いたけど、あんたやっと仕事する気になったらしいな?」
「うん、いつまでもプー太郎はできひんから」
「ちょうど良かった! あんたにうちの進を預けようと思ってねんけど、預かってくれるか?」
「預けるって、どういう意味で?」
「もちろん、あんたが新しく作る会社に就職させてほしいねん」
「・・・・・・」
 進は幼い頃から少し変わっていて、他人とのコミュニケーションがうまくとれないという、一種の自閉症のようなきらいがあり、家族はそのことで悩んでいるということを私は知っておりました。
 私が盆や正月の挨拶で滋賀に訪れた際、進と何度か顔を合わせたことはあったのですが、彼から話しかけられたことは一度もなく、私が話しかけてもほとんど受け応えをせず、会話が成立することもありませんでした。
 しかし、進は高校進学の頃からその症状は緩和され、地元の滋賀の高校を卒業後、鳥取か島根の名前を聞いたことが無い、比較的新しい大学に進学したということは聞いておりましたので、私は進の家族の心労が和らいだと思っておりました。
 そういった事情で、私は進を預かる自信が無かったので、この時はお母さんの申し出を断ったのですが・・・
 後日、また呼び出しがありまして、
「あんた、前の会社を整理したとき、みんなに退職金としてお金をばら撒いて、ほとんど残ってないらしいやんか」
「確かにそうやけど、別に飯食うていくくらいは残ってるし、俺がやろうとしてる仕事は、金なんか掛かれへんから大丈夫やで」
「あのな、圭介、よう聞きや。あんた自分の器量で何でもできるって思ってるかしらんけど、絶対にお金が必要な時が来るから、私にお金を出させて」
「でも、その代わりに進を預かってくれやろう?」
「そうやねん・・・ 預かってくれる?」
「いや、無理やって! だいたい俺が今まで何回話しかけても、まともに返事が返ってきたことも無いのに、預かっても上手くいかへんよ」
「あのな、進は大学に行って、私ら親元を離れてから大分ましになってんねん。だから、あともうちょっとやねん。私もお父さんも、今まで色んな人を見てきたけど、進を任せられるのは圭介しかおれへんって思ってるねん。それにな、何よりも進に圭介兄ちゃんと一緒に仕事したいかって訊いたら、あの子が圭介兄ちゃんとやったら、一緒にやりたいって言うたから、だからほんまに頼むわ」
「えっ? 進が俺と一緒に仕事したいって言うたん?」
「そうやねん。だから私らも、あの子がそう言うたからびっくりしてんけど・・・ だからな、もうほんまに圭介しか頼る人がおれへんから、進を預かって!」
 私はしばらく考えたあと、
「分かった。進は預かってみるけど、その代わりお金はいらんで」と言いました。
「ちょっと待って! それやったら話がおかしいやんか!」
「おかしくないよ。進が自分の意思で俺と一緒に仕事がしたいっていうたから預かるけど、一緒にやってみて俺があかんって思ったら、進には悪いけど辞めてもらうし、もしお母さんからお金を出してもらったら、俺は進をずっと預からなあかんことになるから、俺はそれが嫌やねん」
「あんた、ええかげんにしいや! 私がそんなせこいこと言うと思ってんのんか? 進が使い物になれへんかったら放りだすのは当然や。私があんたにお金を出すことと、進があかんかったらっていうことは別の話や! あんたも憶えてるやろう? あんたが中学生の時に、うちの会社が乗っ取りかけられて、あんたのお父さんに全部面倒見てもらって、うちが助かってんから。あんたにいくらお金を出したかって、その時の恩を返したなんか思えへんし、あんたのお父さんのこととは別に、私はあんたが好きやし、あんたを応援したいだけやねん。だから、悪いけどお金は受け取ってもらうで!」
 私はこれ以上、お母さんを説得することは不可能だと思いましたので、一旦は条件をすべて受け入れて引き下がりました。
 そして後日、実際にお金を受け取りに行った際、やはり後々のことを考えて、ややこしくなるのが嫌だったので、出資は断ることに決めて、
「もし、進を面接してみて、俺があかんと思ったら、その時点で進と一緒に、このお金を返しにくるで」と、最後の抵抗を試みたところ、
「それでええよ! とにかく圭介、進をよろしくお願いします。それと、お父さんのことはもう忘れて、あんたはあんたのやり方で、一生懸命にがんばりや!」
 と、以上のような経緯で、後日に進を面接したのですが、その時の彼の突拍子もないベアハッグで、私は敢え無く秒刹でギブアップし、それからは逆に私の方が進に興味を持ってしまい、今日に至っているわけなのです。
 進は私と波長が合ったのでしょう。そしてマリとも。進は勤め始めて1週間で私とマリに打ち解け、幼い頃と同一人物であったことが信じられないほど、明るく元気で何の問題も無く日々を過ごしておりました。
 そうして私は、お母さんから出資してもらったお金をそのまま受け取ることになり、進も居心地良く勤め始めたのですが、予定していた事業が予定よりも大幅な遅れが生じたため、この期間を利用して、進に社会経験をさせるつもりで、竹然上人に預けたのですが・・・


第17話 流清寺(りゅうせいじ)

 名神高速を京都南で降りて国道1号線を北上し、東寺を右折して東に向かいました。
 京都市内は比較的空いていて、ほんの少し前の花見の頃と比べると車の数は半減し、大通りを行き交う人の数も普段通りとなり、いつもと変わらぬ落ち着いた古都の雰囲気を取り戻しておりました。
 鴨川を左折して、あとはひたすら北上し続け、出町柳から川端通りを高野川に沿ってさらに北上し、滋賀県との県境付近、ちょうど比叡山延暦寺から西側の山を隔てた背中合わせの辺りに、私の母の生家と、竹然上人がいる流清寺がありまして、午後の4時前に到着しました。
 流清寺は元々、私の母の里である白川家が江戸時代の中期に建立に携わった寺で、白川家の菩提寺となっているのですが、400年以上続いた白川家は、私の母が6年前に亡くなり、生まれてから一度も私を抱いてくれもせず、触れることすらただの一度もなかった祖母が3年前に亡くなったことで、跡を継ぐ者が絶えてしまい、母の生家は現在無人となっていて、流清寺に管理を任せております。
 なぜ、私が祖母から忌み嫌われていたのかというと、原因は私の父にあるのですが、簡単に言いますと祖母は私の両親の結婚を猛反対し、駆け落ち同然で一緒になったものの、私が生まれて間もなく二人は様々な事情で別れてしまい、祖母は母が私を育てることを許さなかったために、母は私を父に託しましたが、父の身勝手な理由で私は再び母に引き取られといった、たらい回しを何度か繰り返し、私は成人してから自らの意思で白川家と断絶したことによって、結果的に白川家は後継ぎを失ってしまったということなのです。
 こうした事情から、私にとって流清寺は大嫌いな祖母の思い出と直結しており、尚且つ祖母の祖先が建立に携わったというWマイナス効果によって、どうも物心ついたころから気に食わない存在として、確固たる地位を占めており、私が竹然上人を心から尊敬できない理由のひとつとなっているのです。
 いつものように、境内のよく手入れされた立派な竹林の手前で車を停めて、寺の正面玄関からではなく本堂の裏へ回り、勝手口を文字通り勝手に開けて台所の中に入りますと、
「うわっ! びっくりしたぁ・・・ 圭介さんじゃないですか」と、寺の子坊主、といっても身長は私と同じくらい、体重は倍近い巨漢の、三重県出身、AB型、夢見る17歳の、
「おぉ! ヒットマン珍念(ちんねん)君やないか!」
 と、久しぶりの再会を、おそらく私だけが心から喜びました。
 私は寺の関係者の中で、彼のみが唯一の親友だと思っておりまして、本名も僧名も知らないので勝手に名前をつけたのですが、とにかく私は珍念のことが大好きなのです。
「圭介さん、100歩譲って、私は珍念じゃないですけど珍念は受け入れます。でも、ヒットマンだけは止めてもらえませんか」
「なんでやねん! かっこいい名前やんか」
「それは、私が殺し屋みたいな顔をしているからなんでしょう?」
 確かに彼は、ゴルゴ13とサモハンキンポーを合わせたような、実に複雑なシルエットと顔をしております。
「ちがう! 香港在住の殺し屋や! 何回も言うてるやろう?」
「その、香港在住に拘っているところがよく分からないのですが、私は仏門に身を置いておりますので、本当にヒットマンだけは勘弁して下さい」
 私は「は~っ」と小さく溜息をついて、
「相変わらず、抑揚のないっていうか、無感情というか、事務的というか、そのロボットみたいな喋り方は、なんとかならんのか?」と言いました。
「すみません、ほんとうに。それで、上人に会いに来られたんですよね?」
「うん、おるやろう?」
「はい・・・・ でも、今は書院です・・・」
 流清寺の書院とは、本堂とは別棟になっておりまして、全自動麻雀卓が4台設置された、竹然上人の麻雀ハウスのことです。
「面子(めんつ)は?」
「〇〇寺の〇〇和尚、〇〇神社の〇〇神主、〇〇神社の〇事務総長」
「ということは、神仏対抗戦やな?」
「・・・・」
 珍念は答えませんでした。
「それで、お前は朝からみんなの、飲み食いの用意をさせられてんのか?」
 珍念は少し疲れた様子の、遠い目をしながら、
「いえ、昨日の夕方からです」と言いました。
「昨日の夕方?・・・って、ほとんど24時間やないか! ほんまにおまえら、全員漏れなくバチが当たるぞ!」
「えっ! 私もですか?」
「当たり前やろう!」
 珍念は、本当に申し訳なさそうな真剣な表情で、
「・・・・」無言のまま押し黙ってしまいました。
 おそらく、心の中で仏様に向かって謝っているのでしょう。
「まぁ、お前が悪い訳じゃないこともないっていうか・・・じっちゃんに注意なんかできひんことは分かってるけど、信長がここの山向こうの延暦寺を焼き討ちしたんも、お前みたいなマトモな僧が、破戒僧(はかいそう)を庇って守り続けたからやねんぞ」
「・・・・・」
 これ以上、珍念を責めても仕方がありませんので、私は彼の将来のために、
「なぁ、珍念、今度一緒に、書院に隠しカメラを設置せぇへんか? 俺はあいつら脅して金を取るし、君はしんどい修行なんかせんでも、あいつらを脅したら、すぐに偉い坊さんになれるぞ!」と、取引を持ちかけたのですが、
「・・・・・・」
 またしても珍念は黙り込んでしまいました。
 しかし、今回は目の奥がキラッと光ったというか、明らかに目の色が変わりましたので、おそらく彼は今、良心の呵責と現実の打算との狭間をユラユラと揺れ動いているのでしょう。
「ところで珍念、ひとつ君に訊ねたい事があるねんけど、先週まで竹下進君っていう子が修行に来てたのは知ってるか?」
「はい、圭介さんのお知り合いの方ですよね。私が滞在中のお世話をさせていただきましたから、よく知っています」
(ということは、こいつが犯人か?)ということで、
「お世話をしたって・・・ ナニの方もお世話をしたっていうことか?」と、尋問を開始いたしました。
「何?とは、どういう意味ですか?」
 珍念は見た目は30歳前後なのですが、実年齢は花も恥らう17歳なので、
「お前、未成年相手に、そんな気色の悪いことを俺に言わせるつもりなんか?」と言ったあと、
「まぁええわ、質問を変えるわ。それで、夜寝る前とか、布団の中とか、もしかしたらお風呂の中かもしらんけど、君たち二人の間に色んな出来事があったやろう?」と、オブラードに包んで質問しました。
「夜寝る前って・・・ もしかして進さん、やっぱり怪我をされてたんですか?」
(ということは、やっぱりこいつが犯人か!)と少し色めき立ち、
「怪我って、お前、そんなに激しくやっつけてしまったんか!」と言いました。
「はい、すみません・・・ 寝る前にいろいろと話をしておりまして、私が中学の時に柔道をやっていたという話をしましたら、進さんがいきなりプロレスをしようっていうことなりまして、私は体格があまりにも違いますから断り続けたのですけど・・・ 進さんは、私が眠るとすぐに襲いかかってきて、私も初めは我慢していたのですけど、あまりにもしつこかったので、最期は寝技で締め落としてしまいました・・・」
(ということは・・・ 逆に進が襲い掛かってたんかい!)
「それで、進さんは大丈夫なのですか?」
「いや、大丈夫やで・・・ あいつも精神だけじゃなくて、珍念と体も鍛えることができて良かったって言うてたわ・・・」
 と言ったあと、(珍念、あらぬ嫌疑をかけてすまなんだ)と心の中で謝りました。
 ということで疑惑が晴れた珍念に、 
「とりあえず珍念、悪いけどじっちゃんを呼んできてくれへんか」
 と言いました。
「はい、わかりました。お呼びして参りますので、圭介さんは客間でお待ち下さい」
 と言って、珍念は勝手口から外へ出て書院へ向かいましたので、私は台所を通って客間に向かいました。


第18話 竹然上人(ちくぜんしょうにん)

 和室の客間で竹然上人を待っている間、私はテーブルの横に並んだ下座の座布団の上で胡坐をかき、襖に描かれた竹林の絵を眺めながら、進のことを考え続けていました。
(あいつ、ようあんなモヤシみたいな体で、珍念に襲い掛かっていきよったなぁ・・・ 勝てると思ってたんか、それとも客人という立場を利用して、なし崩しを狙ったんか・・・)
 どちらにしても、意外と恋愛に積極的な、肉食系の進に対する根本的な見方と考え方を変えなければ、この先に何かが起こったとして、その対応を誤る恐れがありそうです。
 おそらく進は、幼い頃から自分がゲイであることが分かっていて、それを両親や他人に打ち明けることができなかったため、心のバランスを崩し、対人恐怖症のような状態になってしまったのでしょう。
 成長過程において親の関与が薄れ、高校、大学と進学して親との距離が離れたことによって、様々な抑圧やジレンマから解放され、徐々に社会生活に適応できるようになり、最終的にはここ流清寺での自分を見つめ直す修行に取り組んだ結果、ゲイに目覚めたのではなく、ゲイとして生きていくことを決意したのでしょう。
 私の考えが間違っているのか、それとも合っているのかは、今から竹然上人と話をすればすぐに答えが出ます。
 なぜなら竹然上人は、こちらが訊きたいことや迷っていることなどを、ぴたりと言い当てる達人であり、もしもこちらが間違っている場合は訂正してくれますし、こちらが迷っている場合は正しい方向へ導いてくれるという、まるで人間カーナビのような便利な機能がついた、特別なじっちゃんなのです。
 それにしても、客間で待たされて、かれこれ20分以上経過しております。
 おそらく麻雀の勝負が、神道側か仏門のどちらかが大負けしていて、抜き差しならない状態になっているのかもしれません。
 なので私は、時間つぶしのために本堂内はすべて禁煙でしたが、携帯灰皿とタバコとライターをスーツのポケットから取り出し、タバコに火を付けたあと、ライターを握りしめながら、
「それにしても遅い! 信長みたいに、このまま火点けたろか!」
 と、危ない独り言を呟いた直後、竹林の襖がゆっくりと開き、
「圭介さんが言うと、あながち冗談には聞こえませんね」
 と、珍念がお茶を運んできました。
「珍念、まだか?」
「いえ、もうすぐ来られます」
 と言って、珍念がお茶を差し出してきましたので、私は受け取って目の前のテーブルに置いた時、
「圭介さん、ひとつお訊ねしたいことがあるのです」と、珍念が言いました。
「おう、どうしたん? なんでも訊いてよ」
「圭介さんのお仕事って、どのような仕事なのですか?」
「俺の仕事?」
「はい、興味がありまして・・・」
(もしかして、こいつ寺を抜けて、俺と一緒に仕事がしたいんか?)と思いました。
 珍念はこの寺に来て、まだ2年も経っておりませんので、私は彼の将来と自らの立場を考慮して、石の上にも3年、という言葉の通り、もう少し竹然上人の下で修業をする方が賢明と判断しました。
 私は携帯灰皿でタバコをもみ消したあと、お茶を一口飲み、
「こう見えても俺は、本気で世界征服を企んでるから、もし珍念が今すぐ俺のところに来るんやったら、司令官になれるぞ!」
 と言いますと、珍念は間髪いれずに、
「いえ、ただ興味があっただけなので、お仕事がんばってください。では、これで失礼いたします」と言って、そそくさと立ち上がりました。
 私は遠ざかる珍念の背中に向かって、
(珍念、いつか一緒に仕事しような!)と、一抹の寂しさを堪えながら、客間から出ていく彼を見送りました。

 珍念が去って間もなく、再び襖が開き、
「やぁ、圭介はん、えらいお待たせいたしましたなぁ。それにしてもええ時に来てくれはりました。このままやったら、寺のお金を全部持っていかれるとこでしたわ」
 と言って、竹然上人が現れました。
 竹然上人の見た目は、身長が160センチに満たない痩せ形の小柄で、笑うと円らな目が新月のように隠れてしまい、70代にしては肌の色つやがよく、可愛い孫と遊ぶツルッパゲの好々爺といった雰囲気を持っておりますが、見ようによっては、穢れを知らない生まれたての皺ばんだ赤ん坊のようにも見えるといった、老若の文目(あやめ)のつけがたい不思議な相をしております。
 人相学の一例として、年を取ってからの童顔は、善人か大悪人のどちらかに多くみられるというのがございますが、果たして善と悪のどちらなのか、付き合いの長い私でも判断に苦しむ、実に不可思議な老人であります。
「ほんまは、もうそろそろ圭介はんが来はる頃やと思うて、おとなしゅう待ってましたんやけど、急に勝負を挑まれましてなぁ」
 と言って、竹然上人は上座の座布団に座りました。
「もうそろそろ来るのが分かってたんやったら、俺がなにしに来たんかも分かってるやんなぁ?」
「分かっておりますよ。進君のことでっしゃろ?」
「そう。それで、じっちゃん、進に何したん?」
「・・・・・・」
 竹然上人は私の問いかけに答えることなく、いつものように黙り込み、精神統一を始めました。
 無表情のまま小さな瞳をより一層細め、私の目をまっすぐ見つめながら、口元をゴニョゴニョと小さく動かしております。
 それはまるで、無言でお経を唱えているようにも見えますし、硬いスルメを口中で舐め回して柔らかくしているようにも見えますし、もしかすると、放送禁止用語などの卑猥な言葉を無音で口走っているのかもしれませんが、やられているこちらとしては、決して気色の良いものではございません。
 何度やられても慣れるというものではなく、その度に自分が、別にやましいことは何もしていないのですが、何かしらの取り調べを受けているような気分になってしまうのです。
 やがて竹然上人は、「ふーっ・・・」と大きく息を吐いたあと、
「圭介はん、『芸は身を助く』っていう言葉を知ってはりますやろう?」と言いました。
「?・・・」
 私は質問の趣旨が理解できなかったので、何も答えませんでした。
「ただ、『芸は身を助く』っていう言葉には、もうひとつ違う意味があるのはご存じやおまへんやろう?」
「もうひとつの意味?」
「そうです」
「それは、俺が身につけた知識とか経験が役に立つっていう以外に、別の意味があるっていうこと?」
「いや、圭介はん自身じゃなくて、実は進君のことなんですわ」
「進のこと?」
「そうです。進君がなぜあないに変わってしまったのかは、圭介はんが思ってる通りなんで、敢えて詳しくは話しませんけど、私は進君と話をして、自分の気持ちを偽らずに、正直に生きなさいと言うたんですわ」
「正直に生きろって、ゲイとして生きろっていうこと?」
「そうです。それで私は、何回も進くんと話をして、圭介はんやったらありのままの進君を受け入れてくれるし、進君がこれからやるべきことを後押ししてくれるはずですから、圭介はんには自分がやりたいことを正直に全部話をしなさいと言うたんです」
「進がやりたいことって・・・ どういうこと?」
「それはね、進君は芸術家なんですわ」
「芸術家?」
「そうです。進君はこれから、芸術家として生きていくことになるでしょう」
 私は進の幼い頃からの記憶を呼び起こし、
「進が芸術家を目指してたって初耳やし、あいつの両親からも、そんな話は聞いたことないで」と言いました。
「それは、進君が今まで、自分を偽って生きてきはったさかいに、本来の進むべき道が見えてなかっただけで、あの人は素晴らしい感性の持ち主ですよ」
「その、芸術の中にもいろいろあるけど・・・ あいつは何を目指してるの?」
「それは今の段階で私にも分かりません。ただひとつはっきりと言えることは、圭介はんがこれから、進君の強烈な個性と独特な感性を尊重して、あの人の後押しをすることで、あとで圭介はん自身に、好事となって返ってくるということです」
「・・・・」
 話の内容があまりにも抽象的すぎて、私自身も何をどう訊ねればいいのか分からなかったので、
「とにかく俺は、進が何かをしたいって言うたら、それの手助けをしたらいいっていうことやんなぁ?」と言いました。
「そうです。そうすることによって、進君は圭介はんにとって、無くてはならない頼もしい存在に成長しますやろう」
 と言ったあと、竹然上人はテーブルの上に置いていた私のタバコセットに手を伸ばしてきて、
「圭介はん、一本おくれやす」と言って、煙草に火をつけました。
 住職自らが破戒しましたので、私も遠慮なく火を点け、二人で仲良くタバコを吸い始めました。
 竹然上人は実に美味そうにタバコを吹かしながら、
「浮世から離れた仏の道におります私が、ビジネスという厳しい世界におります圭介はんに、仕事のことで口出しするのはおこがましいことやと、よう分かっておりますけど、圭介はんの今回の相手は、よっぽど用心して掛かりませんと、えらい手痛い目に遭いますよ」
 と、今までの長い付き合いの中で、初めて仕事の話をされましたので、私は少し驚いて、竹然上人の顔を直視しました。
「今回の仕事の相手って・・・ 別に大した仕事じゃないよ」
「圭介はんはお父さんによう似て、確かに頭がよろしい。度胸もあるし、器量もある。しかし、今回の相手は私が見る限り、圭介はんが思っているような、こしゃな相手やおまへんよ。今は隠れて見えませんけど、おそらく圭介はんのお父さんでも相手にしたことが無いくらいの大物ですさかい、今の圭介はんの実力やったら、手も足も出ませんし、下手に噛みついて行ったら、手痛いしっぺ返しを食らうことになりますやろうなぁ」
「・・・・・」
 私は(どういう意味やろう?)と、混乱した頭で必死に大阪インペリアルホテルのことを思い返し、
「それって、この仕事に危険な奴が潜んでるっていうこと?」と訊ねました。
「いや、圭介はんが警戒せなあかんような、そんな危ない輩は見えませんけど、私からひとつアドバイスできるとしたら、『獅子身中の虫』を追いかけなさい。それが一番の安全策やと思います」
「獅子身中の虫って・・・ 俺の周りに裏切り者がおるっていうこと?」
「いや、もうその虫は体の中で食べられるだけ食べ散らかして、今は外に出て犬になってますさかい、その犬を追いかけなさい」
「いぬ?・・・ 虫が犬に変身したってこと?」
「そうです。飼い犬ですわ」
「飼い犬?・・・・ あのさぁ、もうちょっと具体的に説明してくれへんかなぁ」
「私はこれ以上の説明なんかできまへん。ただ、薄汚い犬が大きな家で飼われて、安穏としておる姿しか見えませんからなぁ」
 私は益々頭の中が混乱し始めておりましたが、落ち着きを取り戻すためにゆっくりとタバコを吸い、そして揉み消した後、
「じゃあ、この仕事は手を出さない方がいいって言うこと?」
 と、訊ねました。
 竹然上人も私から携帯灰皿を受け取り、タバコをもみ消しながら、
「そういう訳にはいきまへんやろう? お嬢さんのために、たとえ相手がどこの誰であれ、圭介はんは勝負せなあきませんし、必ず勝たなあきまへんやろう」
(今度は千里のことか・・・)と思いながら、
「それで、俺はその相手に勝てそうなん?」と訊ねました。
「それはやってみな分かりまへん。勝負は時の運やさかい、強い奴が必ず勝つとは限ってませんし、何よりも私が、圭介はんがどないして巨大な敵をやっつけんねやろうと、わくわくしてますさかい、用心して掛かればなんとかなるのと違いますか」
(無責任なこと言いやがって!)と思いましたが、言葉にしませんでした。
「それにしても、ええお嬢さんと出会いはったなぁ。今回の仕事の話を持って来はったのも、そのお嬢さんでっしゃろ?」
「分かるの?」
「わからいでか! ほんまに小股の切れ上がった、非の打ちどころのないええお嬢さんですわ」
(こ~のエロじじい!)と思いながら、
「ちょっと待って! 俺もまだ見たことないのに、変なとこ見るなよ!」と、抗議しました。
「ほう、圭介はんが『小股の切れ上がった』という言葉を知らなんだとは、えらい意外でしたなぁ。小股っていうのは、本物の股のことと違いますで。足首からふくらはぎにかけてキュッと引き締まった、足のきれいなスタイルの良い、粋なお嬢さんという意味ですわ」
「・・・・・」
 私は悔しさのあまりに歯噛みしましたが、これで一生忘れることはないでしょう。
「お母さんによう似た別嬪さんで、心が清らかで、思いやりがあって、聡明で気使いのようできる、我が侭なお嬢さんですわ」
(千里に言いつけたんねん!)
 と思いましたが、確かに私も相当な我が侭かもしれないと思い始めておりますので、チンコロは無しにすることにしました。
「そんなに、お母さんと似てるの?」
「まぁ、私としましてはお母さんの方が好みなんで、ここに連れて来はる時は、ぜひお母さんも一緒に連れて来てくれやし」
「なんで、ここに連れて来なあかんねん! しかもお母さんと一緒って・・・・ 俺もまだ会ったこと無いのに」
「明日、会いますんやろう?」
「・・・・」
「まぁ、どっちにしましても、もうちょっとしましたら、そのお嬢さんは圭介はんの手に負えんようになりまっさかい、その時に会うのを楽しみに待ってますわ」
 と、意味深な発言をして、竹然上人はゆっくりと立ち上がり、
「ほなら、はばかりさんどっせ。私はそろそろ体力の限界やよってに、眠らしてもらいますわ」
 と言い残して、客間を後にしました。


第19話 天下の千里VS千里の千里

 流清寺を出たあと、大阪へ帰る途中、川端通りのコンビニに立ち寄りまして、缶コーヒー(ルーツアロマブラック)を買って車の中で飲みながら、竹然上人と話した内容を思い返しておりました。
(巨大な敵? 獅子身中の虫? 飼い犬? 芸術家の進? 手に負えない千里)
 素直に納得のいくのは手に負えない千里だけで、あとはまったく意味が分かりませんでした・・・
(親父も相手にしたことが無いほどの巨大な敵って・・・ もしかしたら、国家の陰謀か?)といったクソ馬鹿げた発想が生まれてくるほど、私はまだ追い詰められてはおりませんので、ここはひとつ、(紳に相談しよう)ということに決めて、今のところはまだ手に負えそうな千里に電話をしました。
「千里、今日は朝まで仕事なんやろう?」
「うん、朝の6時までやで」
「いま京都やねんけど、今からそっちに会いに行っていい?」
「・・・・・」
 千里は少し間をおいたあと、
「ありがとう。でも今、社員の人に仕事教えてもらってて、10時まで一緒やから遅くなるし、明日のお昼に会えるから、無理しなくていいよ」と、遠慮がちに言いました。
「いやや! 千里の顔が見たいから11時に会いに行くわ」
「も~う・・・じゃあ、仕事の邪魔をせぇへんねやったら、いいよ」
(そんなもん、行った時点で邪魔するに決まってるやろう!)と思いながら、
「うん、絶対に邪魔せぇへん」と嘘を言ったあと、「それにな、俺もホテルの業務を覚えておいた方が、千里の役に立つやろう?」と、これは本当です。
「うん、ありがとう」
「じゃあ、夜食とかオヤツとか、なにかお土産はいらん?」
「うぅん、なんにもいらんから、気をつけて来てね」
 千里と電話を切ったあと、自分でお土産と言って、
「あっ、お母さんのお土産買わな!」
 といことで再び大阪に向かって走り出し、途中で平安神宮の東にあります大安だいやすの本店に寄って、千里のお母さんへのお土産として、『ちいさなだいやす』というお漬物の詰め合わせを購入しまして、元来た道を辿りながら名神高速に乗り、時刻が午後の7時前と、まだ大分時間がありましたので、吹田サービスエリアで休憩をとることにしました。
 トイレでションベンをした後、もちろん手を洗ってレストランに入り、新発売のドライバー応援メニューと書かれた『豚焼肉丼と竹輪の天ぷらうどん』というのが目に止まり、それを注文して食べながら、紳に話すべき内容を整理しました。
(どこまで話しよう・・・)
 業務のことではなく千里のことです。
 このまま竹然上人の言った通りの流れで行きますと、私は紳を引き入れなければ、とてもじゃありませんが戦える相手ではなさそうですし、そうなると紳に千里の話をしておかなければ、後々面倒なことになりそうです。
 自分が千里にしたことを他人に話すことによって、あらためて自らの行為を振りかえり、(紳、信用するかな?)と思いましたが、あれこれと考えても仕方がありませんので、食事を済ませてレストランを出て、車の中で紳に電話を掛けました。
「紳、あのな、いま京都のじっちゃんと話してきてんけど、」
 と、竹然上人と話した内容をかなり詳しく説明しました。
 話を聞き終わった紳は、少し嬉しそうな声調子で、
「なんか、初めからおかしいなと思ってたんですよ。圭介さんのところに、そんな単純な話なんか来る訳がないって・・・ とりあえず、竹然上人がそう仰ったんやったら、僕が行かないと駄目でしょう。今抱えてる案件を引き継ぎして、それからすぐにホテルに入ります」と言いました。
「お前がホテルに入って、何をするの?」
「あのね、圭介さん、ほんまにそんな相手が出てくるんやったら、僕としても絶対に逃したくないし、圭介さんの復帰第一戦というよりも、これはもう立派な初陣じゃないですか。その初陣に相応しい巨大な敵が現れて、軍師が参陣しないのはあり得ないし、圭介さんは相手が誰であれ、絶対に負けたら駄目なんですよ」
 私は心の中で、(紳、ありがとう)と感謝の気持ちでお腹がいっぱいでしたが、
「じゃあ、お前も一緒に、ホテルの後片付けを手伝ってくれる?」と、追加注文をしました。
「そんなん、当たり前じゃないですか!」
「でも、時給なしやで?」
「昼飯と晩飯で手を打ちますよ」
「よし、決まり! お前の時給なんか、高うて払われへんからな」
「そんな、勘弁して下さいよ。圭介さんから給料なんか貰えませんよ。それで、そのホテルの父娘(おやこ)には、どこまで話をするつもりなんですか?」
「どこまでって・・・」 
「いや、圭介さんと付き合いが深かったら本当のことを話しますけど、ただの知り合い程度やったら、様子を見ながら話していったほうがいいでしょう? 大体、その父娘って、圭介さんとはどういう関係なんですか?」
「・・・・・」
 私は少し迷いましたが、
「義理のお父さんと、その娘さん」と言いました。
「え?・・・義理のお父さんと、その娘さんって・・・ それって、どういう意味なんですか?」
「・・・・・」
 こうなってしまうと、話さざるを得ませんし、どうせ話すのであれば、紳には洗いざらい全てを話すことにました。
 話を聞き終わった紳は、
「え~っ! 圭介さん、ほんまにプロポーズしたんですか?」
 と、非常に驚いておりました。
「した・・・ やっぱり、おかしいと思う?」
「いや、圭介さんやからおかしいとは思わないですけど、おもしろすぎるじゃないですか!」
(こいつ、他人事やと思って、楽しむつもりやな?)ということで、これ以上笑い話のネタになっても仕方がありませんので、紳との電話をさっさと切りました。
 再び車をスタートさせて、千里に会いに行く準備を進めるために、いったん自宅に戻ることにしました。
 阪神高速を走りながら、千里とお父さんにどこまで話すべきかを考えました。
 まさか、竹然上人との話をそのまま話すことはできませんし、私自身が何も分かっていない段階で、あれこれと何かを話すべきではないという結論で、千里とお父さんには状況を見て、段階的に話すことに決めて、いまから千里と会った時の情景をシミュレーションすることにしました。
 私はいまから千里と会って、少し前にテレビで見た、今流行りの『女子をメロメロにする4つの攻略法』とやらを実践してみようと思っているのです。
 先ずは『壁ドン』、それから『アゴクイッ』、それから『爪先立ち』にして最後に『レロレロチュー』と、めくるめく波状攻撃で千里をメロメロにやっつけてやることにしたのです。
 果たして成功するのかどうかは分かりませんが・・・・
 しかし、よく考えてみると、私はすでに千里とキスをしておりますので、
(それって、やる意味なくね?)と、関東のナウいヤング風に疑問に思ったあと、
(成功したとしても、その効果は半分以下じゃね?)ということに気づいてしまいました。
 やはり、どう考えてもファーストキスでやらなければ、あまり意味はないと思われますが、とりあえずやってみる価値はあるだろうということで、実行することにしました。
 そんなバカなことを考えているうちに自宅に到着しまして、シャワーを浴びてさっぱりしたあと、どうせこのまま朝まで千里と一緒にいて、箕面の自宅に向かうことになりますので、スーツを着ることにしました。
 全ての準備を終えて、時刻が10時15分となりましたので、自宅を出てホテルに向かい、10時40分に到着しました。
 約束の11時には少し早かったのですが、早く千里に会いたかったのでホテルに入っていくと、千里はカウンターの中で座っていたのですが、私の顔を見て一瞬で輝くような笑顔になり、立ち上がって私の方へ歩いてきました。
 私は周囲に誰もいないことを確かめた後、真剣な表情で千里に近づき、彼女の左腕をつかんで壁際に連れて行きました。
 千里を壁際に立たせたあと、私は左腕を動かして、千里の右の頬の横の壁に向かって、勢いよく『壁ドン』をしたのですが、
「ペチッ」という、水槽で小魚が跳ねたようなショボイ音しかしませんでした。
 しかし、そんなことでめげている場合ではございません。
 右手を千里の顎に持っていき、親指と人差し指で軽くつまんで、『クイッ』と持ち上げ、『壁ぺチッ』した左手を千里の腰にまわして少し持ち上げて『爪先立ち』にさせたあと、今朝のフレンチキスではなく、今度は本格的な『レロレロチュー』を開始して、舌を絡ませ、押し入れたり、千里の舌を吸いこんだりして、(も~うメロメロやろう!)ということで、私自身も十分に堪能して唇を離した瞬間、
「痛っ!」
 と、なぜか千里は、私の左腕をかなり強めに抓ってきました。
「なに? どうしたん?」と言って、千里の顔を見ますと、
「!!!」
 驚いたことに、千里は涙を浮かべながら、次のように語りました。
「圭介って、女の子にいっつもこんなことしてきたんやって思ったら・・・ 急に腹が立ってきて・・・」
(なんじゃいこれ! おいっ、テレビ局! 恋愛アドバイザーのおばはん! ホンマでっか~?!)と、強烈に思いながら、
「いや、違うよ! 俺もこんなことしたのは、ほんまに初めてで・・・・ 実はな、この前テレビで、」と、必死に謝りながら説明しました。
 千里は黙って、私の言い訳を聞いておりましたが、ようやく私の誠意が通じたのか、
「もういい、わかった・・・」 
 と言ってくれましたので、ホッと胸をなでおろした直後、
「でも、いままで、いろんな女の子といっぱいキスしてきたんやろう?」と、言われてしまいました。
「・・・・・・」
 答えようがなかったので、黙りこんでいると、
「でも、これからは私以外とキスしたらあかんねんで!」
 と言って、千里がキスを求めてきましたので、うまく仲直りすることができて、ほんとうに良かったです。
 ということで、『女子をメロメロにする4つの攻略法』は、『女子の怒りの炎をメラメラにする着火法』である可能性がありますので、使用の際は十分ご注意を、という話でした。
 その後、すっかり仲直りした私たちは、時の経つのも忘れて、実に様々な話をしました。
 私は進の話をし、千里はマリとの打ち合わせの内容などを話しながら、途中で何度も抱き合ってキスをしました。
 ちなみに千里は、私たちの関係をマリに話していません。
 出会ったばかりで、もう?ということと、マリと一緒に私の悪口を言った手前、恥ずかしすぎて話すことができないということで、折を見て私から話すことになったのですが、私もマリに話すのは恥ずかし過ぎますので、結局二人で話し合った結果、自然に気付くまで内緒にすることにしました。
 そして、話題は明日会うことになっている千里のお母さんの話になりました。
「へ~、千里のお母さんって、そんなに森高千里と似てるの?」と言いながら、竹然上人が千里よりもお母さんの方が好みだと言っていたことを思い出しました。
「若い頃はしょっちゅう言われてたみたいで、それで調子に乗って、私に千里って名前をつけてん」
「そう言われてみたら、千里も似てるなぁ」
「うん、今でもたまに、中年のおっさんたちに言われるし、自分でも似てると思う」
(お前も調子に乗っとるやないか)と思いましたが、たとえ口が裂けても言えません。
「私、高校の時に千里中央(せんりちゅうおう)の駅ビルのカフェでバイトしててんけど、千里(せんり)の森高千里って、噂になったことがあるねんで!」
(おぅおぅ、これまた大きく出たのぅ!)
「その時は少し日焼けしてたし、メイクも今と違って、森高を意識してたから、ファンクラブみたいなもんも出来ててんで!」
 千里は本当に、本物の森高から目力を抜き、肌を真っ白にして、シャープな感じを和らげて、優しい感じにした美人なのです。
「圭介は、どっちが可愛いと思う?」
(よう、芸能人相手に、そんなこと訊けんのぅ!)と思いましたが、
「そんなん、もちろん千里(森高)の方が可愛いいに決まってるやん」と言って、(名前が一緒やったら、なにかと都合がいいな)ということに気が付きました。
「ほんまに、そう思ってる?」
「うん。ほんまに千里(森高)の方が可愛いと思ってるよ」と言って、これ以上嘘をつくのが嫌だったので、またキスをしました。
 千里はキスのあと、今度はターゲットを森高から、
「だから私、江口洋介みたいな人と出会えるんかなぁって思っててんけど・・・」と、江口に切り替えてきました。
「でも、現実は北村圭介って、背格好は似てるけど顔は全然違うし、名前も最期の介しか合ってないし」
(名前が一致せなあかん理由って、なに?)と思いながらも、
「でも、最期の介が一緒って、奇跡じゃない?」
 と訊ねてみました。すると千里は、
「なにが奇跡やの!」と言って、にっこりとほほ笑みながら、
「私らって、あの二人に何か勝ってるとこって無いかなぁ?」と、訳の分からないことを言い始めました。
(ないないないないないないないない)
「なんか、圭介とやったら、何かは勝てそうな気がするねんけど・・・ 圭介はどう思う?」
(むりむりむりむりむりむりむりむり、相手は天下の森高と江口やぞ! 勝てるわけないやろう!)と思ったあと、
(恋の魔法って、ほんまに恐ろしいな)と痛感しましたが、付き合い始めたばかりのバカップルとして、
「そうやなぁ・・・ 俺らがあの二人に勝ってるとこは、若さかな」
 と言いました。
「若さ?・・・」
 と言ったあと、どうも千里は納得していないようで、性懲りもなく抜け抜けと、
「ほかには?」と訊ねてきました。
(あるか~ぃ!)と思いましたが・・・ しばらく考えたあと、
「そうやなぁ・・・ それ以外やったら、俺らはいつでも二人で、食い逃げできるっていうことかな」と、苦し紛れに言いました。
「食い逃げって・・・ 私、マリみたいに足が速くないよ」
「いや、そういう意味じゃなくて、あの二人に比べたら、俺らは失うものが無いっていう意味で、もしも俺らが食い逃げして捕まっても、周りの人達が笑うだけで済むやろうけど、あの二人はそうはいかんやろう? 世間がひっくり返るし、失うものがあまりにも多いやんか。だから、時と場合によっては、失うものが無いっていう人間は、すごい強さを発揮するから、俺らは食い逃げ以外でも何かひとつくらい勝てるように、これから二人で頑張っていこうな」
「うん、がんばる」

 そうこうしている間に、結局朝まで来客も、宿泊予約の電話も、宿泊客からのコールすらもなく千里の就業時間が終わり、出勤してきたアルバイトの40代の主婦と交代して、私たちは箕面の実家に向かいました。


第20話 家族

 千里の実家は箕面市の白島(はくのしま)というところで、大阪の南北の大動脈である新御堂筋の最北部にありまして、この10年で有料道路の開通や大型商業施設などの出店によって、劇的に様変わりしたニュータウンです。
 研修を含めて20時間以上勤務していた千里は、よほど疲れていたのでしょう。
 難波から梅田へ向かう途中で微睡(まどろ)み始め、南森町から新御堂筋に入った頃には、ぐっすりと眠ってしまいました。
 千里を起こさないように、追い越し車線から走行車線へと移動して、なるべくゆっくりと車を走らせ、新大阪駅を通過し、江坂を超えると、やがて千里が高校時代にバイトをしていて、本人曰く千里(せんり)の森高千里と噂されていたという千里中央駅を通過し、白島へと到着しました。
 国道423号線の側道に車を停めて、千里を起こそうと助手席を見ますと、気持ちよさそうにぐっすりと眠っていたので、起こすのがとてもかわいそうな気持ちになりました。
 千里の寝顔はとても無邪気で、そしてとても無防備に見えました。それはまるで、自分の幼い妹か、あるいは愛娘のように感じられ、出会ってすぐに感じ始めた愛情とは、また少し違った愛おしさを覚えました。
 あらためて大切にしなければと、静かに眠っている千里に誓いながら、左手を伸ばして頬にそっと手を添えて、
「千里、着いたよ」と言って、千里の温かい頬を触りました。
 どうやら千里は寝起きがいいみたいで、
「ごめん、眠ってたね」
 と、すぐに目を覚ましました。
 私は千里の頬を触り続けながら、寝起きドッキリということで、
「千里、東三国のところで鼾(いびき)かいてたで」と言いました。
「えっ、うそ~?」
「ついでに千里山のところで、『ぶひぃ~ ぶひぃ~ んごぁ~』って、豚鼻も鳴らしてたで」
「も~う、嘘ばっかり!」と言って、千里は辺りを見回し、
「あっ、もう家のすぐそばやんか」と言って、半身を起しました。
 千里が半身を起したついでに、顔を近づけてキスをしました。
 これから先も、私は何度も際限なく千里にキスをいたしますので、読みたくない、もしくは飽きた、という方はその部分だけを飛ばして、後は必ずお読みくださいませ。よろしくお願いいたします。
「千里の家は、こっからどう行ったらいいの?」
「そこの初めの信号を右折して、2本目の筋を左に曲がって2軒目のお家」
「了解」と言って、車をスタートさせて、すぐに到着しました。
 千里の自宅は、日本風建築の木造瓦葺の2階建てで、白い外壁にグレーのオーソドックスな瓦屋根で、車庫は2台分のスペースがありまして、おそらくお父さんの車と思いますが、10年くらい前の白いクラウンが停まっておりまして、その隣に車を停めました。
 千里が先に車から降りまして、私は後部座席に置いていたお母さんへのお土産を手にして車から降りて、千里と一緒に玄関のドアを開けて家の中に入りますと、
「ただいま~」と、千里が声を掛けました。
 すると、玄関を入ってすぐ右側にあるドアが開き、
「おかえり~」と、千里のお母さんが笑顔で出迎えてくれて、続いてお父さんが廊下の奥のドアを開けて現れ、
「おかえり、圭介君、よう来たね」と言って、出迎えてくれました。
「おはようございます」と一礼して、両親に挨拶したあと、
「はじめまして。北村圭介です。よろしくお願いいたします」と、私はお母さんにもう一度一礼しました。
「はじめまして。千里の母です。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
 私とお母さんは互いに目と目が合いまして、
(うわっ・・・ ほんまに森高と似てる・・・)と思った後、不謹慎にも(お母さん、かわいい)と思ってしまい、思わず千里に、
「千里の言ってたとおり、お母さん、森高千里に似てる」と、初めて交わす会話として、いかがなものか、ということを口走ってしまいました。
「そうやろう。ママ、圭介が似てるやって、よかったね」
「千里! あんたそんなこと言うて、もう恥ずかしいやんか!」
 と言って、お母さんは顔を真っ赤にしました。
「まぁ、とりあえず圭介君、中に入って」
 と、お父さんに促され、私たちはリビングに移動しました。
 ダイニングを兼ねたリビングには対面式の4人掛けのソファーが置かれていて、先ずはお父さんが腰掛け、次に私がお父さんの対面に座り、千里が私の隣に座ると、お母さんが私に、
「私も圭介君って呼ばしてもらってもいいかな?」と訊ねてきましたので、
「はい、大丈夫です」と答えました。
「じゃあ、圭介君はお茶とコーヒーの、どっちがいい?」と言って、お母さんが奥のダイニングに向かおうとしましたので、
「お茶で結構です。それと、お母さん」といって立ち上がり、
「これ、昨日京都に行ってまして、お口に合うか分かりませんけど」と言って、手に持っていたお土産を手渡しました。
「いやぁ、ありがとう。そんな気を使わなくてもいいのに」と言って、お母さんはお茶の用意をするためにダイニングのほうへ向かいました。
 しばらくして、お母さんがトレーに湯飲みと急須を載せて戻ってきて、それぞれに熱いお茶を入れてくれましたので、私が一口飲んだときに、
「ママ、お風呂沸いてる?」と、千里が訊ねました。
「あっ、ごめん。沸かすの忘れてたから、お茶を飲んだらシャワーしてきなさい」
「も~う、ゆっくり湯船に浸かりたかったのに・・・ お茶はもういらん。圭介にあげる」と言って、私の前に湯飲みを置いたあと、千里は立ち上がり、
「圭介、悪いけどシャワー浴びてくるね」と言って歩き出し、リビングのドアの前で立ち止まり、両親に向かって、
「ママもパパも、圭介は一睡もしてないし、疲れてるから、私がシャワーしてる間に、いろいろ話したらあかんで!」と言って、ドアを開けて出て行きました。
「圭介君、昨夜は一睡もしてないんか?」とお父さんに訊ねられましたので、私は少し気が引けましたが、
「はい、昨日は千里が朝までだったんで、ホテルの業務を教えてもらってました」と、半分だけ嘘をつきました。
「じゃあ、圭介君、朝ごはん何か食べて、お昼までちょっと眠ったほうがいいね」とお母さんが言ってくれましたが、
「いえ、大丈夫です。それで、今からお父さんとお母さんに、大切なお話があるんでけど、よろしいですか?」と言いました。
 お母さんはお父さんと顔を見合わせ、それから私に向かって、少し不安げな表情で、
「どうぞ、圭介君、何でも言ってよ」と言ってくれました。
 おそらくお母さんは、娘にプロポーズをした男が、今から何を話すのだろうと不安なのでしょう。
 私はお母さんの不安を払拭しなければなりません。なので私は、千里がシャワーをしている間に、自分から両親にできるだけ簡潔に、自分の話しをしようと初めから決めておりましたので、
「お父さん、お母さん、あらためてちゃんとしたご挨拶をさせていただきたいんですけど、よろしいですか?」とお伺いを立てました。
 すると両親はまた、互いに顔を見合わせ、
「はい、圭介君、どうぞ」
 と、今度はお父さんが許してくれましたので、私は話し始めることにしました。

「本当は、千里のいる前で話すべきなんですけど、どうしてもその前に、お父さんとお母さんに謝りたいと思いまして、千里にいきなりプロポーズをしてしまって、本当に申し訳ございませんでした。
 千里は僕と付き合ってくれることになりましたけど、本当に僕のことを何も分からないのに受け入れてくれましたので、僕はどんなことがあっても千里を大切にしていきたいと思っています。
 それで、僕は今からお父さんとお母さんに、自分のことを理解してもらうために話をしますので、聞いてください。
 僕の自宅は大阪市西区の北堀江のマンションで、父と母が遺してくれたで遺産で購入したんで、ローンとかはありません。
 僕の今の資産は、会社の運営資金以外に個人の貯金は1000万円以上あります。そして僕の収入なんですけど、会社を立ち上げたばっかりなんで、なんとも言えないんですけど、固定収入として父が遺してくれた収益物件に、店子として弁護士事務所が入っていて、家賃が月に60万円ほど入ってきます。
 そして、母が私に遺してくれた土地が京都にあるんですけど、その土地には寺が建っていまして、母の先祖が土地を提供して寺を建てたんですけど、そういった経緯があって、今僕はその寺の宗教法人の役員になっていて、そこから役員の報酬として月に20万円ほど入ってきます。
 ですから、本業以外で収入が月に約80万円ほどありますので、千里と結婚しても経済的に苦労をかけることはないと思います。
 そして、僕の両親は父が2年前に、母が6年前に亡くなったんですけど、父はむかし、10代の頃に僧侶になるために母の実家の寺に修行に行ったんですけど、そこで私の母に一目惚れして、あっさり僧侶になることを諦めて、ふたりで駆け落ちして一緒になりまして、僕が生まれました。
 それで、僕は父から教えられたことで、今でも守っていることがあります。それは、僕は今まで何人かの女性とお付き合いしてきましたけど、僕は一回も浮気をしたことがありません。父が、浮気をするのはモテない男がするもんやから、お前は絶対に浮気なんかするなと、子供の時から叩きこまれました。
 父は母が亡くなった後、金もそこそこの地位もあったのに、母のことだけを思い続けて死んでいきましたから、そんな父を僕は尊敬しています。
 ですから僕は、千里と結婚しても絶対に浮気なんかしません。
 そして、母が亡くなる前に僕に言ったことは、父と母が一緒になったときの経緯が駆け落ちだったんで、父は母の実家からとことん嫌われてきました。だから、僕が結婚するときはお嫁さんの実家に、絶対に嫌われることがないように気をつけなさいと言われました。
 それが母の遺言です。
 ですから僕は、これからは焦らずに時間を掛けて、自分のことを千里に理解してもらえるように努力します。それで、結婚は千里がOKしてくれるまで僕は頑張りますから、千里がOKしてくれたときにあらためて、お父さんとお母さんに御挨拶させていただきたいと思っていますので、これからよろしくお願いいたします」

 千里の両親は、私の話を最後までちゃんと聞いてくれました。
 上手く伝わったのか、どうかは分かりませんでしたが、お母さんは目に涙を浮かべて、
「圭介君、こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。こんなにちゃんとした立派な挨拶をしてもらって、私としては心から千里をお任せできるなって、本当に安心しました」と言ってくれました。
「お母さん、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ本当にありがとうございますやわ。それと、圭介君は千里が、何も分からないのに付き合ってくれたって、罪の意識を感じてるみたいやけど、千里は私とお父さんが結婚を決めた時のことを知ってるから、圭介君が思ってるほど、あの子は気にしたり、驚いたりなんかしてないと思うよ」とお母さんが言ったとき、終始無言であったお父さんが、
「お母さん、またその話をするつもりなんか?」
 と、まるでお母さんを窘めるかのような言い方をしました。
「いいやないの! ほんまのことやねんから。あのね、圭介君、実はお父さんも私に、いきなりプロポーズしてきたんよ」
 奥ゆかしいイメージのお父さんからは、想像できなかったので、
「お父さん、そうなんですか?」
 と、驚きながら訊ねてしまいました。
「まぁ・・・ ほんまのことやねんけど・・・」 
「あのね、圭介君、私とお父さんは高校の時の同級生やねんけど、卒業して何年か経って、みんなで集まるようになって、私が21歳の時にいきなりお父さんから付き合って下さいって告白されて、私はタイプじゃなかったし、ただの友達やって思ってたから断ったんよ。でも、それからもお父さんは諦めんと3回も申し込んできて、私は全部断ったの。そしたら、お父さんが5回目に、いきなり結婚して下さいって言ってきたんよ」
 私はお父さんの顔を見て、
「そうやったんですか」と言いました。
 お父さんはバツが悪そうな表情で、
「まぁ、どうせまた付き合ってくれって言うても、断られるやろうと思って、どっちみち断られるんやったら、結婚申し込んだろうと思って、半分やけくそでプロポーズしたんですわ」と言いました。
「私もびっくりしてんけど、この人、本気なんやと思って、それから付き合うようになったから、圭介君もお父さんも、あんまり変わりがないねって、昨日の夜に千里と電話で話してたんよ」
 と、お母さんが言ったとき、リビングの扉が開き、
「もう、気になるから速攻で上がってきたわ! 圭介、パパとママからイジメられへんかった?」
 と、バスタオルで濡れた髪を拭きながら、パジャマ姿の千里が、私の隣に座りました。
 風呂上りの千里は、とてもいい匂いがしました。


第21話 原田家

 すっぴんの千里を見たのは初めてでしたが、もともとノーメイクに近いナチュラルメイクだったので、(あんまり変わらんな)というのと、(やっぱり、すっぴんも可愛いな)というのが正直な印象でした。
「千里、あんた髪の毛をちゃんと乾かしてから来なさいよ」
 と、お母さんが注意をすると、
「だって、パパとママが圭介に変なこと言ってないか、気になってたんやもん」
 と、千里は変な言い訳をしました。
「別に、変な話なんかしてないわよ。圭介君から、正式にちゃんと挨拶してもらっただけやのに」
「そうなん?」と、千里が訊ねてきましたので、
「うん」と答えました。
「なんで、私のいない間に、そんな大事なことを勝手にすんのよ?」
「・・・・・」
 確かに千里の言う通りであったので、何も言えませんでした。
 すると、お母さんが私の代わりに、
「もう、せっかく圭介君の挨拶に感動してたのに、あんたのせいで一気にぶち壊しやわ! 圭介君には圭介君の考えがあんねんから、なんでもかんでも、あんたの思い通りになると思ったら大間違いやで!」と、私の気持ちを代弁してくれました。
「なによ、その言い方! それに、なに自分だけ勝手に感動してんのよ?」 
「あんたこそなによ? それが親に向かって言う言葉なん?」
「・・・・・・」
 千里とお母さんのやり取りは、まるで小学生の仲の悪い姉妹のようだと思いました。
「おまえら、圭介君の前でええかげんにせぇよ! 恥ずかしくないんか!」と、お父さんが二人を叱りつけると、 
「圭介君、ごめんなさいね。千里は久しぶりに帰ってきたから、もう甘え放題の我が侭し放題になってしまって、ほんまに親子喧嘩ばっかりで恥ずかしいわ」と、お母さんが言いました。
「いえ、お母さんは本当に若く見えますから、千里と親子喧嘩というよりも、姉妹喧嘩みたいですね」と、私は点数稼ぎというつもりではなく、本心から言ったのですが、
「いや、もう圭介君! そんなこと言われたら、本気にしてしまうやんか」と、お母さんが言いました。
 すると今度は千里が、
「圭介! ホンマにそんなこと言うたら、ママが調子に乗るから、言うたらあかん!」と言うと、
「なにが調子に乗るやの! あんた、ママにヤキモチ焼いてんのと違うん?」とお母さんが言い返し、
「もう、ほんまにええ加減にしてくれ!」と、お父さんが一喝し、
「・・・・・」
 私は千里とお母さんには、不用意に迂闊な発言は慎むべしという、『原田家の家訓』を教えていただきました。
 お母さんはお父さんから気合を入れられて、少しションボリしておりましたが、とつぜん何かを思い出した時のような表情で、
「そうや、圭介君もシャワー浴びてきたらどう? それと、スーツを着てたらゆっくりできないから、お父さんの新品の浴衣があるから、それに着替えたら?」と言いました。
 私は初めて訪れた家で?という妙なこっぱずかしさから、シャワーを浴びる気などサラサラなかったのですが、
「えっ、いいんですか?」
 と、なぜか浴びる気満々といった、本心とはまったく逆のことをつい口走ってしまいました。
「圭介の浴衣姿が見たいから、シャワーしておいでよ!」
 と千里からも勧められましたので、
「じゃあ、すみません。シャワーをお借りします」と言って、ほんとうにシャワーを浴びることになってしまいました。
 千里に連行されて、お風呂場の脱衣場に行きますと、
「圭介、私ってワガママ?」と、いきなり千里が訊ねてきました。
(この人、自覚してないんや・・・ 自覚せぇよ!)と思いながら、
「いや、女の人は、みんな我が侭やからなぁ」と、何気なく社会通念上の一般論を言ったのですが・・・
「ちょっと! それ、誰と比べてんのよ!」と、なぜか千里はいきなり怒り始めてしまいました。
(いまいち、沸点がよう分からんなぁ)と思いながら、
「・・・・・・」
 答えに窮して押し黙っていると、
「圭介が付き合ってた女の人って、みんなワガママやったん?」
 と、嫉妬深い女子必殺の、『過去狩り・ほじくり返し』が始まりました。
「いや、俺は一般論として言ったつもりなんやけど・・・」
「私が訊いてるのは一般論じゃなくて、圭介のことや!」
「・・・・・・」
(あぁ~、もうウザい!)と思い、私は黙々と服を脱ぎ始め、
「ちょっと、すぐ出るから待って!」
 と、千里を脱衣場から追い出しました。
 とりあえずスッポンポンになり、風呂場のドアを開けてシャワーを浴び始めてしばらくすると、
「圭介、スーツはハンガーに掛けて、私のお部屋に持っていくよ。それと、パパの新品の浴衣は、ここに置いておくからね」と、ドア越しに千里が声を掛けてきましたので、私はチンポコに泡を塗りたくったあと、このまま勢いよくドアを開けて、究極のクールビズスタイルを披露してやろうかと思いましたが、悲鳴を上げられても困りますので、
「うん、ありがとう」と言いました。
「じゃあ、シャワーが終わったら、私はリビングにいるからね」
「うん、わかった」 
 私はチンポコの泡を洗い流し、続いて頭を洗いながら、先ほどの千里とお母さんとのやり取りと、私の過去の女性問題を口にしはじめた千里のことを考えました。
 もしかすると千里は、私の想像を遥かに超える我が侭で、ヤキモチ焼きな娘なのかもしれません。
 しかし、個人差はあるとして、私は全ての女性は良い意味での我が侭で、嫉妬深い生き物だと思っておりますので、千里のちょっと度を越した我が侭と嫉妬など、残さずに全部きれいに食べてやろうと決めて、シャワーを終えて風呂場を出ました。
 先ほど脱ぎっぱなしにしていた私の服が、パンツ以外はきれいさっぱり無くなっていて、パンツもきれいにたたまれておりましたので、千里がやってくれたのだろうと、すこし嬉しく思いました。
 パンツをはいた後、千里が用意してくれた、無地の紺色のお父さんの浴衣を羽織り、脱衣場を出て千里が待つリビングに行きました。
 千里はダイニングの方にいたのですが、私の方へ歩いてきて、
「やっぱり、パパの浴衣は圭介には小さすぎたね」と言いました。
「ちょっと、手足が短い感じかな」
「うん、でも圭介ってスタイル良いから、なに着ても似合うね」
 と、仲良くイチャイチャしていると、
「千里、あんたの部屋に布団敷いといたから、圭介君と一緒にちょっと仮眠しときなさいよ。私とお父さんは、今からちょっと出てくるから」と、玄関のほうからお母さんに声を掛けられましたので、千里と一緒に玄関へ行きますと、お父さんとお母さんは既に靴をはいていて、ドアの前に立っておりました。
 お母さんは私の顔を見るなり、
「いやぁ、やっぱりその浴衣、圭介君には小さかったねぇ。でも、男前やからなに着ても様になるし、かっこいいわ!」と言ってくれました。
「もうっ!ママはそんなこと言わなくていいねん!ママにそんなこと言われたら、なんか腹立つ!」
 と、またもや千里が喧嘩を吹っかけていきましたが、
「ところで圭介君は、お魚は好き?」と、お母さんは千里を完無視して私に訊ねてきましたので、
「はい、大好きです」と答えました。
「よかった! じゃあ、私とお父さんで、今からお昼の買い物に行ってくるから、ゆっくりしといてね」
「いや、お母さん、僕は全然疲れてませんし、買い物やったら僕が行ってきますよ」
「ありがとう。ほんまにそんな気を使わんときよ。私ら今から庄内までお魚を取りに行ってくるから、ちょっと時間掛かると思うわ」
「えっ! 庄内って、豊中の庄内まで行くんですか?」
「そう、私とお父さんの同級生が、庄内の市場でお魚屋さんをしてて、今日は千里の婚約者が挨拶に来るって話したら、お祝いやっていろいろ用意してくれてるんよ。それで、挨拶を兼ねて取りに行って来るから、圭介君は気にせんと、ゆっくりしときよ」
「なんか、すみません。わざわざ僕のために」
「いいえ、うちの大事なお婿さんになる人やのに、圭介君はゆっくり休んどいて。じゃあ千里、行って来るね」
 と言って、両親は出かけて行きました。
 私たちは再びリビングに戻り、
「圭介、なにか朝ごはん食べる?」と千里が訊ねてきましたが、私は朝食を摂るという習慣が無かったので、
「いや、別になんにもいらんよ」と言いました。
「じゃあ、私も何もいらんから、私のお部屋に行く?」
「・・・・・・」
 私はしばらく間を置いた後、
「うん」と言いました。
「じゃあ、行こう♡」
 と言って、千里は私の左手を握ってきましたので、私たちは仲良く手をつないで階段を上がり、一番手前にあったドアを千里が開けて、二人で中に入りました。
 すると、私たちの目に飛び込んできたのは、
「!・・・」
 一組の布団に枕が二つ、尚且つ枕元にティッシュが置かれているということは・・・
 おそらくお母さんは、『どうぞ、千里をお召し上がり下さいませ』という意思を明確に表明したということではないでしょうか・・・
「お布団、ひとつやね・・・」
 と千里が言ったあと、
「・・・・・・・」
 私たちは互いに無言で、微動だにせず立ちつくしておりました。
 私は正直、(どうしよう・・・)と思いました。
 今から千里を抱こうか、それとも添い寝して・・・・ 
 いや、おそらく私は、添い寝で我慢できる自信が全く無かったので、千里に拒まれたら大人しく我慢しようと決めて、
「千里、おいで」
 と言って、千里を抱きしめたあと、今の今まで全くこれっぽちも思いつかなかったのですが、なぜかいきなり千里を『お姫様抱っこ』してしまいました。
「きゃっ!」
 と、千里は小さな悲鳴を上げましたが、すぐに私の首にしがみついてきましたので、私は千里を抱っこしたまま布団の前に行き、ゆっくりと千里を布団の上に寝かせました。


第22話 プロポーズ

 布団の上で千里は、私の目をまっすぐ見つめながら、とても複雑な表情をしておりました。
 それはまるで、驚いているようにも見えますし、それとも悲しんでいるようにも見えますし、見ようによっては喜んでいるようにも見えなくもないと言いましょうか・・・ 
 しかし、よく見ると怒っているのかもしれないと思った時でした。
(怒ってるっていうことは・・・・ もしかして!)
『圭介って、女の子にいっつもこんな『お姫様抱っこ』してきたんやって思ったら・・・ 急に腹が立ってきて・・・』
 と、一連の『壁ドン』、『アゴクイッ』の流れかもしれないと思い、
(あかん! これ以上考えさせたら怒りだす!)という結論に達し、
「千里・・・」
 と名前を呼んでキスをしたあと、流れのままに千里を抱き始めました。

(SEX中・・・・)

 決して手を抜いているわけではございません。
 恥ずかし過ぎて、詳しく書くことができないのです・・・
 しかし、恥ずかしいからと言って、私が変なことをしているわけでは決してございません。
 至ってノーマルな攻めでございます。
 千里も恥ずかしさを必死に堪えているようで、その初々しい反応と、透き通る様な白い肌と、想像していた以上に薄い陰毛などが、より一層私を奮い立たせといった、ごく一般的な初めての相手とのエッチと、なんら変わりはありません。
 敢えて余人との違いを論(あげつら)うとすれば、私は舐めることが大好きなので、ある意味変質的とも思える丁寧さで、千里の全身を隈なく舐め回し、前戯に多くの時間と労力を費やした、ということで、あとの表記はご勘弁願いたく候。
(*注意⑦最期に候と書きましたが、私は決して早漏ではございません)

(SEX終了間際・・・)

(もしかしたら、『ちさと~! ガクッ』っていうのん、期待してるんかなぁ?)と思ったあと、
(もし、やってもウケへんかったら、どうしよう?)とためらい、
(いまって、そんなウケを狙う時かなぁ?)と迷い、
(もしここで、また何か変なことして、『圭介って、女の子にいっつもこんな変なことしながらイッてきたんやって思ったら・・・ 急に腹が立ってきて・・・』って言われて、今はマッパやから、金玉を抓られでもしたら、どえらいことになってしまうぞ!)ということで、トリッキーな行動は封印することにしました。
 なので、
「千里・・・ イっていい?」
 という感じで、60分一本勝負は無事に終了いたしました。

 千里のあそこをティッシュできれいに拭いてあげた後、私たちは布団の中で抱き合って、しばらくは放心状態といった感じで余韻に浸っておりました。
 ぼんやりとした頭で、胸元に顔を埋めた千里の頭を優しく撫でながら、こんなに一生懸命にエッチしたのは、高校1年の時に初めて同級生の彼女として、その彼女以来だと思いました。
 初体験以降、風俗を含めずに、ちゃんとお付き合いをした彼女や、一夜限りの女性などを含めて30名ほどの女性とエッチをしてきましたが、私はSEXに対する考え方が少し変わっていて、女性に対してSEXの行為自体が最終目的ではなく、そこに至るまでの口説き落とす過程と、前戯をしながらパンツを脱がせるまでが、私にとって楽しいSEXであり、最終目的であったのです。
 なので、パンツを脱がせてしまったあとは、その責任を取り、義務を果たすといった感じで、どこか醒めた気持ちでSEXの行為自体を行っておりました。
 しかし、こうして千里と初めてSEXをして感じたことは、明らかに今までの女性とは違った、義務や責任などはまったく感じず、SEXの行為自体がとても大切に思えて、
(これが、俺の嫁さんになる女性なんや)
 と、何の疑いも無く心から素直にそう思い、家族になるための神聖な儀式であったように感じました。
 千里は私の胸に埋めていた顔を少しだけ動かし、
「圭介・・・ パパとママに、どういうお話をしたの?」
 と訊ねてきました。
 私は先ほど、千里の両親に誓ったことを、千里の頭を優しく撫でながら、一つ一つ丁寧に話していきました。
 話をすべて聞き終わった千里は、しばらくの沈黙の後、
「圭介のお父さんとお母さんに、会いたかった・・・」と言って、小さく肩を震わせ、嗚咽を堪えながら静かに泣き始めてしまいました。
 私は千里の頭を撫でていた右手を背中に回して、ゆっくりと背中をさすりながら、
「今度の休みに、京都におやじとおかんのお墓があるから一緒にお墓参りに行って、その帰りに千里のところのお墓参りに行こうか」と言いました。
「うん。うちのお墓は箕面墓地公園にあるから、こっからすぐやよ」
「じゃあ、お父さんもお母さんも一緒に、みんなで先に千里のとこのお墓参りに行って、それから京都にお墓参りに行って、帰りは京都で何かおいしいものをみんなで食べようか」
「うん、そうしよう」
 しばらくして千里が泣き止んでくれたので、背中をさすっていた手を止めて、千里をほんの少しだけ強く抱き締めました。
 すると千里が、
「私、圭介に抱かれて、初めて気付いたことがあるの」
 と言いました。
「なにを気付いたの?」
「女の人って、頭で考えて相手を選ぶって以外に、子宮で考えて男の人を選ぶっていう言葉は知ってたけど、どういうことか、今までそんなこと感じたことも無かったし、意味が分かれへんかったの・・・ 
 でも、圭介を初めて見た時に、なんとなく分かったような気がして、それで圭介が私のことを好きっていうか、プロポーズをしてもらった時に、出会ったばっかりでとか、会った回数とか時間とかの、頭で考える理屈じゃなくて、子宮のところがなんか熱くなってきて、圭介に抱いてもらいたいって思ったの。
 それで今、こうやって圭介に抱かれて、その言葉の意味が、子宮でも頭でも、両方でちゃんと理解することができたよ」
「・・・・・・」
 どう答えていいのか分からなかったので、黙っていました。
「圭介は嘘やと思うやろうけど、私は男の人に嫉妬したり、ヤキモチなんか焼いたりしたことなかったし、ワガママなんかも言ったことなかったの。私がワガママを言ったことがあるのは、自分の家族だけやったの」
(うそや・・・)と思いましたが、
「・・・・・」口にしませんでした。
「私が今まで出会った男の人って、何を考えているのかが、悲しくなるくらい手に取るように分かってしまって・・・ だから、嫉妬したり、ワガママを言ったりしたことなんか無かったの」
 私はしばらく考えたあと、
「そうやったん」と言いました。
「うん。だからなんで、圭介には嫉妬したり、ワガママを言うのか、自分でも不思議なくらい分からなかったけど、私は圭介みたいな人に出会ったことがなかったし、圭介は私なんかがすぐに理解できるような、そんな単純な男の人じゃないし、言ってることとかやってることは多分、目茶苦茶やと思うねんけど、その目茶苦茶をちゃんと筋を通して、私を含めてみんなを納得させてしまう不思議な力を持ってるやんか・・・ 
 だから私、圭介にワガママを言ったり、ヤキモチを焼いたりして、どうしたら圭介が怒るんやろうとか、どこまでしたら嫌がるんやろうとか、どこまでワガママを聞いてくれるんやろうって、圭介のことを知りたくて、いろいろと試してたんやと思う・・・ 
 だからな、私はこれからも圭介のことを、もっともっといっぱい知りたいから、ワガママを言ったり、ヤキモチを焼いたりするけど、それでも圭介はいい?」
「いいよ。千里が我が侭を言えるのは、家族だけなんやろう?」
「うん」
「じゃあ、俺と家族になろう。千里、俺と結婚して下さい」
「はい」


第23話 誓い

 おそらく、千里が幼い頃から想い描いていたプロポーズの場面と、随分と違った結果となってしまったことでしょう・・・
 きれいな夜景の見える星空の下でもなければ、気の利いた音楽が流れるお洒落なレストランでもなく、千里がどのようなシチュエーションを想い描いていたのかは分かりませんが、間違いなくこのような場面では無かったはずです。
 ゆっくりと考える時間を与えず、冷静な判断を下せるほどの、基準となる材料を与えなかったことを申し訳なく思う分、私は千里とその家族を大切にして、千里を必ず幸せにすると、心の中で何度も誓いました。
 千里は私の腕の中から、ゆっくりと半身を起し、下着を身につけて立ち上がり、
「シャワー浴びたばっかりやのに、また浴びに行かなあかんね」
 と言いました。
 私は千里の下着姿を見あげて、(かわいいなぁ)と思いながら、
「うん、そうやな」と言いました。
 千里はパジャマを取り上げて着用しはじめましたので、私も半身を起こしてパンツをはいたあと、浴衣を身に纏いました。 
「圭介、お風呂にお湯を溜めて、ゆっくり浸かったほうが疲れが取れていいんじゃない?」と、千里が訊ねてきました。
 確かに、陰暦の上では初夏ですが、薄着ではまだ肌寒い4月の終わりなので、
「そうやな、お風呂に浸かりたいな」と言いました。
「分かった。じゃあ、お風呂にお湯を溜めてくるね」
「うん。一緒に行こう」
 と言って、私たちは一階に下りまして、先ずは冷蔵庫からコーラを出して喉の渇きを潤しました。
 千里は一人で掃除に行くと言ったのですが、家事に勤しむ姿が見たかったので、二人でお風呂場に行って湯船を軽く掃除したあと、湯船にお湯を張り始め、段々とお湯が給って行くのを意味も無く二人で眺めておりました。
「千里、一緒に入ろうよ」
「いやや、はずかしい」
 私は両手を合わせて、千里に頭を下げながら、
「お願い! なぁ、一緒に入ろう!」と嘆願しました。
「も~う、恥ずかしいから嫌やって!」
 と言って、千里は何度も拒否しましたが、嫌よ嫌よも好きのうち、ということで脱衣場に連れて行き、半ば無理やり服を脱がせて一緒にお風呂に入りました。
 私は千里に背中を流してもらい、お返しに嫌がる千里の全身を洗っている間に、どうにもこうにも我慢ができなくなってしまい、
「えっ! 圭介、こんなところで嫌やって!」
「ごめん、でも千里が悪いねんで」
「なんで、私が悪いのよ?!」
「千里がエロいからや」
「なにがエロいやねん! ちょっと、もう、やめろ変態!」 
 といったような感じでふざけ散らしながら何とか2回戦を終えて、また洗いっこしたあと、少し狭かったのですが無理やり二人で湯船に浸かりました。
「もう、信じられへん・・・ マリが圭介は口先だけの変態やって言っててんけど、ほんまの変態やったって教えてあげなあかんわ」
「・・・・・」
「もう、マリにも変なことしたらあかんねんで!」
「変なことって、どういうこと?」
 千里は『マリ~!ガクッ・・・』と『メェ~』と言ったあと、
「それを変なことやと思ってない時点で、圭介は本物の変態やわ」と言いました。
「・・・・・」
「マリには彼氏がおるねんから、もう変なことしたらあかんよ」
「えっ! マリって、彼氏がおったん?」と、本当に初耳だったので驚いてしまいました。
「おるよ。プロのサーファーらしいねんけど、私も会った事が無いから、よく知らないねんけど、すごくかっこいいらしいねんて」
「そうやったんや・・・ だからマリは、色が黒かったんやなぁ。でもあいつ、俺にはそんなこと一回も言うたことなかったのに」
「それは、圭介が一回も、マリに彼氏がいるのかって訊ねへんかったからやろう?」
 確かに私は、マリに彼氏がいようといまいと、何の興味も無かったので訊ねたことがありませんでした。
「じゃあ、今度マリと一緒に4人で、ご飯でも食べに行こうか」と私が言うと、
「それは、多分無理やと思う」と千里が言いました。
「えっ、なんで無理なん?」
 千里はすこし言いにくそうな表情で、
「なんか、人に紹介できないくらい、アホらしいねん・・・」と言いました。
「えっ! そうなん?」
「うん・・・ なんか、敬語とか一切無理やし、アルファベットも最期まで言われへんし、九九も7の段から上が、半分以上間違ってるって言ってた・・・」
(今時珍しい、中々の強者やなぁ・・・)と思ったあと、他人のまま見過ごすにはあまりにも惜しい逸材であるような気がして、一度機会があれば会ってみたいと思いました。
「マリが言っててんけど、圭介さんって、私に興味が無いんかなって、言ってたよ・・・ 」
「興味が無いって、どういうこと?」
「それは、さっきも言うたけど、圭介はマリに彼氏がいるのかって、一回も訊いたことないんやろう? だからマリは、圭介が自分のことを、恋愛対象で見てないんかなぁって言ってたよ」
 私はあまりにも意外な裏話に、驚いてしまいました。
(恋愛対象じゃなくて、調教対象や)と、千里に説明しようかと思いましたが、確実に怒られるので止めました。
「マリがね、もし、自分に彼氏がいなかったら、圭介のことを好きになってるかもって、言ってた」
「えっ! マリがそんなこと言ってたん?」
「うん・・・ 別にマリじゃなくても、圭介に毎日あんなことされ続けたら、訳が分からんようになって好きになってしまう女の子は多いと思うよ」
「・・・・」
 私は複雑な女心について、しばらく考えたあと、
「でも、それやったらやで、変態の俺に変なことされて俺のことを好きになるんやったら、マリのほうがもっと変態っていうことじゃないん?」と訊ねてみました。
 千里はすこし呆れ顔で、
「ほんまに圭介って、女の子のことを全然分かってないなぁ・・・ とにかく、もう絶対にマリに変なことしないって約束やで!」
 と言って、指切りゲンマンで約束させられてしまいました。
 マリという優秀な牧羊犬を手放すことは、誠に遺憾で慙愧の念に堪えない、痛恨の極みでございますが、妻の言うことは絶対なので、これにてマリの調教を諦めることにしました。
 しかし、私には進という、無限の可能性を秘めた秘蔵っ子がおりますので、これからは進に全力投球することにします。
「私、今日の晩から仕事やから、お風呂上がったら、大人しく二人で眠るねんで!」
「うん、分かった。でも、これから千里は、ずっと深夜勤務になるの?」
「うん。深夜勤務は時給が高いから、これからは私とパパが交代で入ることになると思う」
(ということは、千里もそうやけど、昼も夜も仕事で俺の体が持つかなぁ?)と思いました。
「それで、私は今日の夜の10時から明日の朝の9時まで勤務やねんけど、明日の朝の9時にマリと進君が来て、それからいろいろと打ち合わせをすることになってるねんで」
「そうなんや」と答えたあと、どうすれば千里が少しでも楽になれるかを考えました。
「うん、でも私、進君とどう接したらいいのか分かれへんわ・・・ 今までゲイの知り合いなんかいなかったから、圭介はどうしたらいいと思う?」
 私は千里の問いかけの答えが、自分でも全く分からなかったので、質問自体を無視して、
「あのさぁ、千里はもう、俺と一緒に俺の家に住むことにしよう。俺の家からやったら、送り迎えは俺がするし、もしも無理な時でもホテルは自転車でも行けるから、ここから通うのと比べたら、ずっと楽になるやろう?」と言いました。
「えっ! 圭介のお家うちに住むの?」
「そうやで。だって結婚してくれるんやろう?」
「それは、そうやけど・・・」
 と言ったあと、千里はしばらく何事か思案中といった表情をしておりましたが、 
「ほんまにいっつも、何でも勝手に急に決めて・・・ でも、圭介がどういう暮らしをしてるのか見ておきたかったから、そうする」
 と言って、了承してくれました。
 ということで話がまとまり、私が両親に話をして、了解を得ることになり、早速今日の夜から少しずつ荷物を運ぶことにしました。  
 お風呂を上がったあと、千里は下着や衣類、メイク道具といった、差し当たって必要なものを旅行バッグや段ボール箱に詰め込み、二人で車のトランクに積み込みはじめ、千里は最後の荷物を私が積み込んだのを見届けたあと、
「これで、ここはもう私の帰る場所じゃ無くなったっていうことやんな」と言いました。
「え? どういうこと?」
「これから私は圭介の嫁になって、圭介のお家が私のお家になるから、もうここは私の帰るところじゃなくて、私が帰るとこはパパでもママでもなくて、世の中に圭介しかいないっていうことやねんで!」
「うん、そうやな」
「私はどんなことがあっても圭介から離れへんって覚悟を決めたから、圭介も私を離せへんって誓って!」
 私は千里の目をまっすぐ見つめながら、
「俺はこれから何があっても、千里を離せへんって誓うし、何があっても絶対に千里を幸せにするって誓うよ!」と言いました。
「よし! じゃあ、これから私は圭介のために幸せになってあげるから、先ずは本当にちょっと眠るよ!」 
「うん。寝よう」
 ということで千里の部屋に戻ったあと、さすがに私も千里も疲れきっていたので、布団に入って少しだけいちゃついたあと、いつの間にか千里は眠ってしまい、私も千里の寝顔を見ながら、いつの間にか眠ってしまいました。

「zzzzz・・・・・・」


第24話 約束

 目が覚めた時、隣で眠っていたはずの千里が居なくなっていて、
「!・・・・」
 なんとも言えない寂しさと不安を覚え、なぜかふと、子供の時に暗闇で目が覚めて、母を必死に捜しまわった時の記憶が甦りました。
 幼い頃に何度も母から引き離され、その度に何度も味わってきた、物哀しく救いようのない辛い記憶でした。
 私は今まで、4人の女性と同棲してきて、数え切れないほどこういった場面を経験してきましたが、目覚めて隣に彼女がいないからといって、何らかの特別な感情を覚えたという記憶はなく、これほどの寂しさと不安を覚えたのは、母以外では千里が初めてでした。
 一度こういった形で記憶と経験が結びついてしまうと、おそらくもう二度と忘れることはできなくなり、癒されることもなく、決して慣れることもない悲しみとして、私の心の中に深く根差してしまい、私はこれから千里の隣で目覚めない限り、この悲しみから逃れることはできないでしょう。
 まるで母の記憶と千里の存在が、オーバーラップしているかのような・・・
 いや、そうではなく、幼い子供が母を必要とするように、私にとって千里は、なくてはならない特別な存在なのだと、母が亡くなる直前まで私に謝り続けた、幼い頃の私と過ごせなかったという、自らの悲しい記憶を使者として遣わし、母が私にそう知らせてくれたのでしょう。

 千里は本当に、特別な存在であるということを・・・

 私は千里の姿を求めて布団から起き上がり、一階へ向かいました。
 リビングのドアを開けると、うっすらと化粧をして、白いトレーナーにジーンズを穿き、腰にブルーと白のチェック柄のエプロンをした千里を発見して、心から安堵し、胸を撫で下ろしました。
「起きたん?」
 と、母のように優しく微笑む千里を抱きしめたあと、何度もキスをして千里が実在していることを確かめました。
「はい、もうおしまい! パパとママは一回帰ってきて、今はすぐそこのイオンに野菜とかを買いに行ってるから、もうすぐ帰ってくるよ」
「そうなん」と言って、リビングに掛けられていた時計を見ますと、午前の11時過ぎでした。
(ということは、2時間も寝てないんや)と、千里の体調を不安に思いました。
「圭介、これ見て!」と言って、千里が冷蔵庫を開けますと、
「うわっ!・・・ すごいな、これ」
 と、私の目に飛び込んできたのは、冷蔵室のスペースをわざわざ空けて、そのスペースを占拠している刺身の巨大な舟盛りでした。
「なんか、淡路島のほうから今朝獲れた魚を、わざわざ持って来てもらったらしいで」
「そうなんや・・・」
 私は釣りが趣味で、淡路島にもよく行っていたので魚は詳しいのですが、舟盛りには淡路特産の鯛や蛸、アワビやサザエのほかに、この時期に旬を迎え、超新鮮でなければ刺身にできない鰆(さわら)までが盛られておりましたので、まさに豪華絢爛という言葉通りの舟盛りに、
「なんか・・・ 俺のために申し訳ないなぁ」と言いました。
「いいやん! その分、私を幸せにしてくれたら」
「うん、千里は絶対に幸せにするけど、お父さんとお母さんも幸せにしたいから、今度は俺が、京都に良いお店があるから、そこでみんなにおいしいものを御馳走するからな」
「うん。ありがとう」
 と言ったあと、千里はテーブルの上から何かを手にして戻ってきて、
「圭介、はいっ、これ」と言って、新品の青い歯ブラシを手渡してきました。
 受け取った歯ブラシをよく見ますと、柄の部分にカタカナで、
『ケイスケ アホ』とマジックで書かれておりました。
「・・・・・」
「その歯ブラシ、脱衣場の洗面台のところに歯ブラシ入れがあるから、歯を磨き終わったらそこに入れといてね」と言われましたので、『アホ』と書かれていることには触れずに黙認して、
「うん」と返事をしました。
「じゃあ、私は食器を出したり、いろいろと準備をするから、圭介は歯を磨いてきて」
「うん、わかった」と言って、脱衣場へ向かいました。
 洗面台の前に立ち、あらためて自分の名前が書かれた歯ブラシを見ていると、本当に千里と家族になるんだという実感が湧いてきて、 
(アホは余分やけど、歯ブラシに名前を書いてもらうだけで、こんなに幸せな気持ちになるんや)と思いながら歯を磨き始めた時に、
「ただいま~」と、お母さんの声がして、両親が戻ってきました。
 私は慌てて歯を磨いたあと、円柱形の歯ブラシ入れの『チサト』と書かれたピンクの歯ブラシの隣にmy歯ブラシを差し込み、リビングに向かいました。
 お父さんとお母さんは、買ってきた品物をテーブルの上に並べておりまして、
「お父さん、お母さん、お帰りなさい」と声を掛けました。
「ただいま。圭介君、ゆっくりできた?」
 と、お母さんから訊ねられましたので、
「はい、ゆっくりできました」と答えながら、私はお母さんの顔をまともに見ることができないことに気づいてしまいました。
「そう、良かった。もうちょっとしたら準備できるから、ゆっくりご飯を食べて、それからまた夜まで時間があるから、千里と一緒にちょっと眠りなさいね」と、お母さんの言葉に、どこか意味深な言い回しをされているような気がしましたので、
(もしかしたら、エッチしたことバレてるんかな?)と思いながら、
「はい、ありがとうございます。お母さん、何か手伝うことはありますか?」と言いました。
 すると、お父さんが私の方へ歩いてきて、
「いいよ、圭介君は疲れてるやろうから、私と一緒にソファーに座って待っとこう」と、今度はお父さんにも、意味ありげな言い回しともとれる言い方をされましたので、
(絶対にエッチしたって思われてる・・・ しかも2回もしてしまったし・・・)と思ってしまい、お父さんの顔も見ることができないことにも気づいてしまいました。
 お父さんと一緒にソファーに座り、針の莚(むしろ)とまでは言いませんが、どこか座り心地の悪さを感じて、助けを求めて千里を見ました。
 すると千里は、お母さんと雑談をしながら、楽しそうに白菜を切り始めており、まるで何事も無かったかのように、顔色一つ変えずに普段通りに振る舞う姿を頼もしいと思い、これは夫として妻に後(おく)れを取ってはならいということで、
(圭介、ガンバ! やるっきゃない!)と、なぜか死語で自分を応援して、気を取り直しました。
 別に悪いことをしてしまったという、罪悪感を覚えているわけではなかったのですが、幾ら婚約したからといっても、やはり初めてエッチをした相手の両親と、エッチをした直後に一緒に食事をするということが今までなかったので、これまで生きてきた中で、全く経験したことのない、妙な恥ずかしさを覚えているのです。
 ということで、ここはひとつ、
(お父さん、お母さん、すみません・・・初めて来た実家で、千里と2回もエッチをしてしまいました。ごめんなさい)と、心の中で反省して謝りました。
 こうしたアホ丸出しのことを考えている間も、昼食の準備は着々と進んでおり、ダイニングの4人がけのテーブルの上には陶製の鍋が用意されていて、千里が切りそろえた野菜なども並び、どうやら魚の鍋と刺身という、豪華な昼食となりそうだと思った時、
「圭介君は、お酒は大丈夫やの?」と、お父さんに訊ねられましたので、
「はい、大丈夫です」と答えました。
「じゃあ、おかずが刺身やし、私も千里も仕事は夜からやから、軽くビールを一緒に飲もうか」
 私は時刻を掛け時計で確認して、8時間以上空けることができるということで、
「はい、いただきます」と言いました。
「刺身でビール無しやったら、初めから食べん方がましやからなぁ」と言ってお父さんが立ち上がり、
「圭介君、もう準備が出来上がるから、先に一緒に飲もう」と言って、テーブルに向かいましたので、私も立ち上がって続きました。
 確かに、お父さんの言う通り、酒飲みが刺身をお茶やジュースで食べるくらいなら、初めから手を出さない方がマシですし、ある意味では拷問のようなものです。
 お父さんとテーブルに就いて間もなく、
「おまちどうさま!」と、お母さんが冷蔵庫から舟盛りを取り出してテーブルの真ん中に置きまして、続いて千里が麒麟の一番搾りの瓶ビールを2本テーブルに置いて、昼食会が始まりました。
 私はビールをお父さんに注いだあと、お母さんに注ぎまして、今度はお父さんが私にビールを注いだあと、
「千里も、ちょっと飲むか?」と訊ねると、
「うん、ちょっともらう。それで、乾杯する前にパパとママに大事なお話があるねん」と言いました。
 私は両親に、千里が結婚を承諾してくれて、今日から私の家で生活することになったということを、報告する心の準備を始めた時、
「パパ、ママ、私は圭介と結婚する!」
 と、いきなり千里が話し始めてしまいました。
「おぉ、そうか! 結婚するんか!」とお父さんが言って、
「あぁ、そう! 千里、決心したんや! 良かったねぇ!」とお母さんが言って、両親ともに満面に笑みを浮かべて喜んでくれました。
「だからもう、今日から圭介のお家に住むことにしたから、ここには遊びにしか帰ってこないよ」
 と、私が言うべき台詞を、千里が全て話してしまいました。
「えっ! そう・・・ もう今日から一緒に住むの?」とお母さんが訊ねると、
「うん。いいやろう?」と千里が言いました。
「良いも悪いも、是非そうしなさいよ! でも、圭介君はそれでいいの?」 
「はい、大丈夫です。一緒に住もうって言うたのは僕の方なんで」
「あぁ、そう。じゃあ、よろしくお願いしますね。それで、千里はこう見えても料理は得意やから、圭介君はいろいろ作ってもらいよ」
「はい、ありがとうございます」
「もう、ビールが温くなるから、先に乾杯しよう」とお父さんが言ったあと、私たちはグラスを手に持ちまして、
「じゃあ、圭介君、千里をよろしくお願いします」と、お父さん。
「千里、幸せにしてもらいね!」と、お母さん。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」と私。
「かんぱ~い!」と、全員でグラスを合わせて、婚約記念昼食会が始まりました。
「圭介君、この鰆を食べてみ。今がちょうど旬やから美味しいよ」
「はい、いただきます」
「圭介君、この蛸も美味しいから、食べてみて」
「はい、お母さん、いただきます」 
 といった感じで、和気あいあいとした雰囲気で食事が進み、淡路の魚介の刺身はどれも絶品で、これだけ新鮮なものを揃えていただいた同級生の魚屋さんに、感謝をしながら美味しく頂きました。
 刺身のあとは鯛チリと続き、私たちは一つの鍋を囲みながら、他愛のない雑談を交え、私はビールの酔いも手伝って、もう何年も前から千里の家族と一つの屋根の下で生活を共にしてきたような錯覚を覚えるほど、みんなが私を家族として暖かく迎え入れてくれたことに感謝し、とても幸せな気持ちになりました。
 そうして宴も酣(たけなわ)、少し酔いが回り始めたお母さんが、
「ほんまにうちのお父さんは、人の保証人になって借金を抱えてしまったから、私が千里の結婚資金を貯金しといて良かったわ」
 と、私にとって2重で気になることを話しました。
「お母さん、今、そんな話はせんでええやろう」
 と言って、お父さんは少し不機嫌な表情をしました。
「ごめんなさいね。飲んだらつい、愚痴が出てしまって・・・
 それで千里、これから必要なものがいろいろあるやろうから、今度ママと一緒に買い物に行こうね」
「うん、ありがとう」
 私は千里とお母さんとのやり取りを聞きながら、私が嫁を貰う時に、親父と交わした約束を思い出し、
「あのぅ、お母さん、千里が必要なものは、僕が全部揃えますから、千里のために貯めてくれてたそのお金は、お母さんがそのまま持っておいてくれないでしょうか」と言いました。
「圭介君、ありがとう。でも、これは千里の親としてする分やから、圭介君はそこまで気を使うことないよ」
「すみません。差しでがましいことは分かっているんですけど、うちの家訓というか、父の遺言として、僕の嫁が必要なものは、全て僕が用意しなさいって、ずっと言われてきましたから、結婚式の費用とか、家具とか家電とかの費用も全部ひっくるめて、父が結婚資金として別に遺してくれてますから、僕に父との約束を守らせて下さい」
「でも、何から何までっていう訳にはいかないし・・・」
 私は少し考えたあと、
「じゃあ、お母さんは千里に、結婚に必要なものとは別に、何かを千里に贈ってもらえませんか」と言いました。
 すると、今まで黙って話を聞いていた千里が、
「パパもママも、圭介の言う通りにしてあげて。たぶん圭介はこういうことではすごく頑固やと思うし、自分が決めたことは私が言っても絶対曲げないと思うよ。
 それに、何よりも圭介のお父さんが決めたことやったら、私はその通りに従いたいし、圭介にお父さんとの約束を破らせたくないねん。
 だから、お願いやから圭介の言うことを聞いてあげて。
 それで、パパとママにお願いしたいことがあるねんけど、私のために貯めてくれてたお金から、圭介と私にペアで腕時計を買ってよ。それやったら、圭介もいいやろう?」と言いました。
 私は我が妻ながら、何と機転の利く娘だろうと感心し、
「うん、そうやな・・・ お父さん、お母さん、千里と僕に、結婚祝いとして腕時計を贈っていただけますか」と言いました。
「うん、わかった。圭介君、そうさせてもらうわ」と、お父さんが了承してくれたことで、話が上手くまとまりました。
 その後、鍋の締めとしてうどんをみんなで食べて、昼食会はお開きとなり、お母さんと千里が後片付けを始めましたので、私はお父さんと一緒にリビングのソファーに移動して、千里が入れてくれた食後のコーヒーを飲みながら、私はお父さんに、気になっていたことを訊ねてみました。
「お父さん、さっきお母さんが言ってたことなんですけど、お父さんは誰の借金の保証人になったんですか?」
 お父さんは少し寂しそうな表情で、
「前に辞めた支配人の関係で保証になって、それでまぁ、だいぶ苦しくなってしまってんけど・・・
 それでもまぁ、ホテルが無事に売れて、この家が残ったら、もうそれでいいかって、借金のことは諦めてるんよ」と言いました。
「・・・・」
 おそらく、竹然上人が言っていた獅子身中の虫で、今は飼い犬となっているというのは、元の支配人のことで間違いはないだろうと思いました。
 もっと詳しく訊ねてみたかったのですが、千里と私の婚約を祝ってくれたおめでたい席なので、これ以上元の支配人の話は訊ねないことにしました。

 私はこれから獅子身中の虫を追い、飼い犬を捕え、後ろに隠れた敵をあぶり出し、これから始まる勝負に必ず勝って見せると、心の中で私の家族に約束しました。

第4章 異変

第25話 巣立ち

 全ての片づけを終えて、千里が私の隣のソファーに座ったのは、午後の2時前でした。
「は~、疲れた」
「お疲れさま、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
 私は千里の体調を考慮して、今すぐ眠りに就けば6時間は眠れるだろうと、千里に話しかけようとした時、
「千里、あんた早く上がって寝なさいよ。圭介君も仮眠しか取ってないから、千里と一緒に上がって、ちょっと眠りなさいよ」
 と、お母さんが言ってくれましたので、
「はい、ありがとうございます。千里、行こうか」と言いました。
「うん」
「じゃあ、お父さん、お母さん、ちょっと眠ってきますね」
「うん、ゆっくり休みや」とお父さんが言ってくれて、
「夜の8時くらいに起こしに行くからね。おやすみなさい」と、お母さんが言ってくれました。
「はい、おやすみなさい」と言って、二人で2階の千里の部屋に行きました。
 部屋に入ってすぐに千里は、トレーナーとジーンズを脱いでパジャマに着替えたあと、
「圭介、もう疲れてクタクタやから、またお姫様抱っこして布団に連れて行って♡」と、甘えた声で言いました。
「うん、いいよ」と言って、千里を抱きあげて、ゆっくりと布団の上に寝かせ、掛け布団を千里から引き抜いて被せたあと、ついでに私も布団の中に潜り込みました。
「私って、重くない?」
「重くないよ。50キロくらいやろう?」
 千里は一瞬にして怒った顔になり、
「しつれいな! 私、46キロしかないわ!」と言いました。
(たった4キロの違いで、そんなに怒るんか)と思いながら、体重の話題から離れようと、
「そうなん、ごめん・・・ それで身長は?」と訊ねました。
「162センチやから、46キロやったら、痩せすぎなくらいやねんから!」
「えっ! 162センチって、そんなに高かったん?」
「そんな、高いっていうほどじゃないけど、圭介はマリと見比べて、私が低く見えたんじゃないん? マリはローヒールを履いてても、175センチ以上もあるんやもん」
 確かに千里の言う通り、マリと比べて低く見えていたのかもしれません。
 実際、千里の裸を見た時、スタイルは抜群に良かったのですが、想像していたよりも痩せていたので、ほんの少しだけ残念に思いました。ちなみに私の理想は、身長165センチ、体重55キロから60キロの間の、ほんのちょっぴりのポッチャリさんが好みです。
 といったようなことを説明している場合ではなく、早く千里を寝かしつけなければ、本当に体調を崩してしまいます。
 今はお互いに、何をやっても初めてづくしなので気が張っていて疲れを感じないかもしれませんが、『好事魔多し』という言葉があるように、順調に行っている時ほど体調を崩しやすいものなので、
「千里、もう寝ようか」と言いました。
「うん。さすがに、本当に疲れた・・・ もう寝るから、おやすみのキスして♡」
「うん。おやすみ」と言って、私が軽くキスをすると、
「おやすみ」と言って、千里が私の胸に顔を埋めてきましたので、イチャつきたい気持ちをグッと抑えて、千里の頭を優しく撫で撫でして寝かしつけることにしました。

 千里が眠りに就く間、私は元支配人のことを考えていました。
 竹然上人は確か、獅子身中の虫が体内を食い散らかした後、外に出て今は飼い犬となって、大きな家で飼われていると言っていましたので、それを当て嵌めていくと・・・
 元支配人はどういう経緯かはお父さんに訊ねなければ分かりませんが、お父さんを保証人にして、どこかから借金をし、何らかの理由で返済ができなくなってしまい、ホテルを退社した、ということは間違いないでしょう。
 ホテルを辞めた後、今現在は飼い犬となって、どこかの大きな家に飼われているということなのですが、いったいどこに飼われているというのでしょうか・・・
 大きな家というのが、もしも『みらい観光開発』であったと仮定した場合、元支配人とみらい観光開発がグルになって、大阪インペリアルホテルの乗っ取りを計画し、支配人は退社して業務に支障を生じさせ、お父さんの経営意欲を萎えさせて買収をしやすくした上で、借金を踏み倒した、ということになると思います。
 もしかすると、漏水の事故も元支配人が意図的に作為した、事故に見せかけた事件であったのかもしれません。
 その場合、器物損壊や営業妨害などの立派な犯罪となりますので、いくら借金を踏み倒し、尚且つ乗っ取りの成功時に報酬が出るからといっても、捕まることを覚悟で、20年も勤め上げた職場を破綻に追い込んだとは、常識的に考えにくいのですが・・・
 そして、何よりも大阪インペリアルホテルは犯罪に手を染めてまで、乗っ取らなければならいほどの価値があるとは到底思えず、ましてみらい観光開発が提示した条件は、通常の売買価格よりも相当な高値を提示していますので、やはり考え過ぎということになるでしょう。
 だとすると、漏水はただの偶然で、支配人はこのままだと大阪インペリアルホテルの経営が行き詰まり、共倒れになることを避けて辞めただけなのか・・・ 
 しかし、だとすると裏に隠れている本当の敵というのは、いったい誰のことなのでしょう。
 このまま大阪インペリアルホテルを売却すれば、敵も味方も関係なく丸く収まると思うのですが・・・
 とにかく、お父さんに詳しい事情を聞かなければ何も始まりませんので、今日の夜にホテルでお父さんから詳しい事情を聞くことにしました。
 そんなことを考えているうちに、いつのまにか千里はぐっすりと眠ったようです。
 幼い子供のように、安心しきった千里の安らかな寝顔をしばらく眺めながら、どうやら私も眠りに就いてしまったようです。


「zzzz・・・・」

 目が覚めたとき、辺りはすっかり暗闇に包まれていて、
「!」
 私は咄嗟に千里の存在を確かめようとして、すぐに柔らかい髪の感触と、リンスの匂いを確認して、不安や悲しみを感じる前に安心しました。
 どうやら私は、千里の隣で目覚めなければ、幼い頃の悲しい記憶が甦り、あの頃と同じような精神状態になってしまうようです。
 まるで軽いトラウマのような一種の精神的な病というべきか、私が千里を強く求め、依存しようとしていることが原因であると思われますが、このまま千里と生活を共にして、同じ布団で一緒に眠り、千里の隣で目覚め続けることによって、悲しみや不安は徐々に緩和され、いつかは解消されていくのでしょうか・・・
 その答えは、おそらく私一人では見つけることはできなくて、千里と二人で捜し求めて行かなければ、決して見つけることはできないような気がしました。
 千里の髪に優しく触れながら、今はいったい何時なのだろうと、壁に掛けられた時計を見ましたが、暗すぎて時計の針が見えず、何時なのかさっぱり分かりませんでした。
 今の時期ですと、夕方の5時過ぎには暗くなってしまいますので、おそらく6時以降だろうと思いながら、千里を起こさないようにゆっくりと布団から抜け出て、掛け時計に近づいて目を凝らすと、
「!」
 午後の8時半でありました。
(お母さん、8時に起こしに来るって言ってたのに・・・)と思いながら、千里のところへ行き、
「千里、もう時間やから起きよう」と、優しく頬を撫でながら言いました。すると千里はすぐに反応して、横に向いていた体を体を仰向けにして、
「圭介、起きてたん?」と言いました。
「うん、いま起きたとこやねんけど、もう8時半やから、あんまり時間が無いよ」
「えっ! 8時半?」と言って、千里はすばやく起き上がり、ドアの横にあった部屋の照明のスイッチを入れました。
 部屋の中が一瞬で明るくなり、私はもう一度掛け時計に目を向けると、やはり間違いなく午後の8時半でありました。
「もうっ! ママが起こしてくれるって言ってたのに! 圭介、下に降りよう」と言って、千里がドアを開けて一階へ向かいましたので、私も続いて一階に下りました。
 千里と一緒にリビングのドアを開けて中に入りますと、お母さんはキッチンの中でなにやら作業をしておりまして、
「二人とも起きたん?」と言って、作業の手を止めて私たちのほうへ歩いてきました。
「ママ、8時に起こしてくれるって言ってなかった?」と千里が言った後、続いて私が、夜なので適切ではないと思いましたが、
「おはようございます」と、挨拶しました。
「おはよう、圭介君。よく眠れた?」
「はい、よく眠りました」
「もう、ママ! なんで起こしてくれへんかったのよ!」
「ごめん、ごめん、一回起こそうかなって思って、8時に見に行ってんけど、二人ともぐっすり眠ってたから、そのまま寝かしてあげようと思って、わざと起こさなかったんよ。
 実は、お父さんがね、千里は今日、仕事に来なくていいって言うたから、自然に目が覚めるまで寝かせておこうと思ったんよ」
「えっ? パパが仕事に来なくていいって言ったん?」
「そう、千里は今日から圭介君の家に住むことになるから、いろいろと用意せなあかんやろうし、仕事はどうせ暇やろうから、お父さんが一人で朝まで勤務するから、千里は引越しを優先して、明日の朝にホテルにおいでって言ったんよ」
「そうやったん・・・」
 私は(お父さんに悪いことしたなぁ・・・)と思いながら、
「じゃあ、お父さんはもうホテルに行きはったんですか?」と訊ねました。
「うん、20分くらい前に出かけたよ」
「そうやったんですか・・・ なんかお父さんに申し訳ないことをしてしまいましたねぇ」
「そんな、圭介君が気にすること無いわよ。どうせほとんど何もすること無いから、ずっと本ばっかり読んでるって言ってたし。それより二人とも、お腹が空いたでしょう? せっかく圭介君がお漬物の盛り合わせを持ってきてくれたから、さっきの鍋の残り汁で、おじやして食べようか」と、お母さんが提案すると、
「うん、おじやして食べよう! 圭介もおじやでいい?」と、千里に訊ねられましたので、
「うん、おじや大好きやから、それでいいよ」と答えました。
 ということで、千里とお母さんが夕食の用意を始めましたので、私はテーブルの椅子に腰掛けながら、家事に勤しむ母と娘の姿を眺めて、(ほんまに千里を選んで良かった。お母さんもこれから大切にしていきますからね)と、家族と過ごす何気ない日常が、これほど幸せな気持ちにさせてくれるということを、あらためて認識しました。
 私は幼い頃、母に引き取られている間は、祖母が私を同じ食卓につく事を許さなかったので、祖母と母が食事を終えてから、母に付き添ってもらい一人で食事をしておりまして、幼心にも祖母から除け者、邪魔者扱いされているということが分かっておりましたので、楽しいはずの食事時が、とても辛い思いをしたという記憶しかなく、父に引き取られているときは、家庭で食卓を囲むということがほとんどなく、いつも外食ばかりであったので、今こうして千里とお母さんと食事をするということが、私にとっては何気ない食事時ではなく、特別な意味を持つ大切な時間なのです。
 やがて、私がお土産に持ってきた漬物の小鉢がテーブルに並び、雑炊の準備が整い、それぞれの茶碗によそいだあと、
「いただきます」
 と言って、夕食が始まりました。
 千里は雑炊を二口食べたあと、なぜか急に立ち上がって私の隣から正面の椅子に座りなおし、テーブルの上にあった箸立てからスプーンを取り出し、
「はいっ、圭介」
 と言って、なぜか私にスプーンを手渡してきました。
「?・・・」
(俺、箸で食べる方がいいのに、なんで?)と思いながらも、一応受け取ると、
「圭介、熱いからふぅふぅして食べさせて」と、千里が言いました。
(マジかぁ・・・ お母さんの前やぞ?)
 と思いながら、リアクションに困っていると、
「あんた、よう27歳にもなって、ママの前でそんなことができるなぁ・・・ 恥ずかしくないの?」
 と、お母さんが千里を窘(たしな)めてくれました。
「別に、ぜんぜん恥ずかしくないよ。圭介、早く! お腹が空いてるねん!」
「・・・・・・」
 私は仕方なく千里の茶碗を手に持ち、スプーンで雑炊をよそい、千里の口に持っていくと、
「ふぅふぅは? 私が火傷したらどうすんのよ!」と、まるで女王様と下僕のような振る舞いを見せました。
 私は言われたとおりに、「ふぅ~、ふぅ~」として、再び千里の口に持っていきますと、千里はぱくりと口に含んで食べ終わり、
「うん、おいしい♡ はい、次、あ~ん」
 と、まるで托卵(たくらん)で成長する郭公(かっこう)の雛のようなずうずうしさで、おかわりを要求してきました。
(俺、いつ食べれんねやろう?)と思いながら、千里の言いなりになっていると、そんな姿を見るに見かねたのか、
「あんた・・・ 見てるこっちが恥ずかしくなってきたわ。それにしても、圭介君はほんまに優しいねぇ」と、お母さんが言ったあと、
「ママ、なに泣いてんのよ!」
 と、なぜかお母さんは目に涙をいっぱい溜めて、小さなミニタオルで涙を拭き始めてしまいました。
(お母さん、俺のことが可愛そうやと思ってしまったんかな?)と思っていると、
「ママ・・・ やっぱり、私がいなくなったら寂しい?」と、千里が言いましたので、
(あっ、そっちか・・・)と思いました。
「ママ、ごめんね・・・ でも、何かあったらすぐに帰ってこられる距離やねんから・・・」
 と言って、涙腺の弱い千里も一緒に泣き始めてしまいました。
 私は(どうしよう・・・)と思い、二人に掛ける慰めの言葉を探し始めたとき、
「ううん、違うねん・・・ あんたが幸せになると思ったら、なんか段々腹が立ってきてん」と、お母さんが言いました。
「・・・・」
 私はお母さんに対して、初めて(そっちか~い!)と思ったあと、『急に』と『段々』という違いはあれ、『腹が立ってきた』という聞き覚えのある言葉で、やはり血は争えない母娘だなと思いました。
「なによ、それ! も~う、泣いて損したやんか!」と、千里が怒りを露にして、お母さんからミニタオルをひったくって涙を拭くと、
「冗談に決まってるやろう! 千里、これからいろんなことがあるやろうけど、圭介君と一緒に二人でがんばって、ちゃんとやっていきなさいよ。それと圭介君、あんまり千里の我が侭ばかっり聞いてたら、後からしんどくなるからほどほどにね」と、私にアドバイスをしてくれました。
「はい、お母さん、ありがとうございます」
「それと最後に、二人でがんばって、早く私に孫を抱かせてね」
「うん、分かった。ママ、ありがとう」

 以上のような楽しい夕食を終えて、千里と私はお母さんにしばしの別れの挨拶をして、一緒に実家を後にしました。


第26話 ご挨拶

 信号の無い新御堂筋は混んでさえいなければ、箕面から梅田まで20分ほどで到着できますので、実家から西区の自宅までは朝夕のラッシュを避ければ、車で1時間も掛からないほどの道程です。
 夜の10時過ぎに箕面を出ましたので、新御堂筋は全く混んでおらず、梅田へは10時半に到着しました。
 この間、助手席の千里は私の左手を握り締めたまま、車窓を流れる景色を無言で眺めておりました。
 おそらく、胸に去来する様々な思いが、千里を無口にさせてしまったのでしょう。
 実家を出て私と暮らし始めるということは、千里が言っていた、『何かあったらすぐに帰ってこられる距離やねんから』という、車でほんの一時間弱という実際の距離以上に、千里にとってはまるで別世界へ行くかのような、遠い道程に感じているのかもしれません。
 私は沈黙に耐えかねて、北新地から御堂筋を南下して、淀屋橋を通過するときに、
「千里、大丈夫?」と声を掛けました。
 ぼんやりと外の景色を眺めていた千里は、急に声を掛けられて、
「えっ、何が?・・・」
 と、少し驚いた表情をしておりました。
「やっぱり、実家を離れるのは寂しい?」
「・・・・・・」 
 千里は少し間を置いたあと、
「うん・・・ やっぱり、ちょっとだけ寂しいかな・・・ でも、これからは圭介とずっと一緒やから大丈夫やで」と言って、繋いだ手を強く握ってきましたので、
「うん。俺も、これからは千里と一緒やから、凄く心強いし幸せやで」と言って、ほんの少しだけ強く握り返しました。
 御堂筋の新橋の交差点を右折して、途中でコンビニに寄りまして、ミネラルウォーターやジュース、お菓子などを買い込んで再び出発し、蟹座橋の交差点を左折して少し行ったところに、これから千里と一緒に暮らし始める、自宅のマンションに到着しました。
「着いたよ」
「ここが圭介のお家なん?」
「もう、千里のお家でもあるねんで」と言って、マンションの敷地内の駐車場に車を停めて、二人で降りました。
 千里は12階建てのマンションを見上げながら、
「なんか、思ってたよりも小ぢんまりしてるねぇ」と言いました。
 確かに、マンションの建物自体の敷地面積は400㎡弱と、縦に細長いタイプなので、外から見る限りはワンルーム専用のマンションのように見えます。
「お家って、何階なん?」と、千里が訊ねてきましたが、
「それは、あとのお楽しみやから内緒」と答えながら、車のトランクルームから千里の荷物を2回に分けて運ぶことにして、まずは旅行用のキャリーバッグと紙袋を3つ取り出し、千里に紙袋を1つ渡して残りを手に持ち、マンションに入っていきました。
 オートロックにキーを直接差し込んで解除したあと、エントランスを抜けてエレベーターに乗り込み、12階のボタンを押しました。
「えっ? すごい! 最上階やの?」
「そうやで。でも、タワーマンションじゃないから、景色なんかなんにも見えへんよ」と言ってる間に到着しまして、エレベーターを降りて目の前のドアの鍵を開けて二人で中に入りました。
 玄関に入ってすぐにいったん荷物を置いたあと、
「残りの荷物を取ってくるから、千里は家の中を見といてな」と言いました。
 すると千里は、目の前に広がる空間を見つめながら、
「えっ!・・・ これって、広くない?」と訊ねてきました。
「そうやなぁ、最上階はうちだけやからな」
「えっ! じゃあ、この階はうちしかないってことなん?」
「そうやで。ここと11階と10階がフロアー丸ごと1世帯で、9階から下はフロアー毎に2世帯が入ってるファミリータイプやねん。とりあえず残りの荷物を取ってくるから、千里は中を見ときな」と言って、千里を残して荷物を取りにエレベーターに乗り込みました。
(多分、広いから驚くやろうなぁ)と思いながら残りの荷物のダンボールと旅行用のバッグを重ねて抱えたあと、再びエレベーターに乗って自宅のドアを開けました。
 千里は40畳のリビングに立ち尽くしておりまして、
「ここが、私のお家なん?」と、少し困ったような表情で訊ねてきました。
「そうやで。ここが今から千里のお家やねんで」
「だって・・・ こんなに広いと思ってなかったもん」
「5LDKやから、一部屋は千里のお父さんとお母さんの専用の部屋にしようか?」と提案したのですが、
「・・・・・・」
 千里は私の提案には答えず、困惑したままの表情で、
「いま、キッチン周りとリビングしか見てないけど、なんでこんなに全部揃ってるの?・・・・ もしかして、圭介はここで、誰かと一緒に住んでたの?」と訊ねてきました。
「いや、誰とも一緒になんか住んでないよ」
「じゃあ、なんで食器とかコップとか、こんなにいっぱい種類が揃ってるの?」
(女の人って、そんな細かいところから確認するんかぁ)と、半ば感心しながら、
「実はな、このマンションはもともと、親父の会社が建てて売りに出したんやけど、ここは5人家族用のモデルルームとして中身を全部揃えて、買いに来た人たちに公開してたんよ。でも、親父が自分で見に来て、それで気に入ってしまって売りに出すのを止めて、俺が結婚したらここに住みなさいって、親父が遺してくれた家やねん」と説明しました。
「そうやったん・・・」
「うん、だから、俺は親父の言いつけを守って、ここには誰も入れたことが無かったし、ここに連れてくるのは自分の嫁さんだけやって決めてたから、千里が初めてやねんで」と言って千里に近づき、強く抱きしめたあとにキスをしました。
 唇を離した後、千里は真剣な表情で、
「私、圭介のお父さんに、感謝しないといけないね」と言いました。
「この奥の和室に、親父と母さんの写真があるから、挨拶しとく?」
「うん、ちゃんとご挨拶したいから連れて行って」
「じゃあ、行こうか」と言って、千里の手を引いてリビングの右奥にある和室に向かおうとすると、なぜか千里は足を止めて、
「圭介、ちょっと待って。お父さんとお母さんの写真って、お仏壇に飾ってあるの?」と訊ねてきました。
「いや、仏壇じゃないねんけど、和室は普段から使ってなくて、大きなローテーブルがあるねんけど、その上に二人の写真を置いてるだけやで」
「そうなん、わかった」と言って、千里は私の手を離し、キッチンに行って食器棚からガラス製の透明のコップを二つ取り出し、先ほど買ってきたミネラルウォーターをコップに注いだあと、
「圭介、ひとつ持って」と言いました。
「お水をお供えするの?」
「うん、ごめんね・・・ 事前に分かってたら、ちゃんとしたお供え物とお花を用意してたのに・・・ 気が付かなかったね」
 私はコップをひとつ手に持ち、
「そんなん、千里が謝ることじゃないよ。普通はそこまで気なんかつけへんやろうし、俺が写真を飾ってるとか言ってないねんから」と言いましたが、千里は神妙な面持ちで、
「うぅん、違うねん・・・ やっぱり私、気が抜けてたわ・・・さっそく明日、ちゃんとしたものを用意するから、本当にごめんね」と言いました。
「・・・・・」
 これ以上、私が何か言っても、おそらく千里は自分を責め続けるだろうと思いましたので、
「じゃあ、行こうか」と言って、二人で和室に向かい、襖を開いて中に入り、照明のスイッチを押して明かりを点けたあと、私は父と母の写真に向かって、
「親父、母さん、嫁さんを連れてきたで」と言いました。
 千里は無言まま、ローテーブルの上の二人の写真の前に正座して、手に持ったコップを父の写真の前に置き、次いで私からコップを受け取って母の写真の前に置きました。
「初めまして、千里です。お父さん、お母さん、これからよろしくお願いいたします」
 と言って頭を下げて一礼したあと、目を瞑り、両手を合わせました。
 おそらく、心の中で挨拶をしているのでしょう。
 私も千里の隣に正座して、同じように目を瞑り、両手を合わせて、
(親父、母さん、千里です。いきなり連れてきたからびっくりしてるやろうけど、いい娘を連れてきたやろう? 俺はもう、千里の両親にちゃんと挨拶を済ませて、許しをもらったから安心して。これから千里と結婚して、幸せな家庭を作るから見守っといてな!)
 と、両親に報告し終わり、目を開けて千里を見ますと、
「・・・・・」
 千里は同じ姿勢で両手を合わせておりましたが、その瞑ったままの両目から涙が溢れて、頬を伝っておりましたので、私は正座したまま体の向きを千里のほうに向けて、両手で千里の頬の涙を拭ったあと、
「もう、挨拶は済んだ?」と訊ねました。
 千里は目を開き、合わせていた両手を広げましたので、私も両手を広げて千里を強く抱きしめながら、
「千里、愛してるよ」
 と、両親の前で初めて千里に愛を誓いました。


第27話 取調べ

 千里が荷物の整理をしている間、私はお風呂をきれいに掃除して、湯船にお湯を張り、いつでも入れるようにして風呂場を出ました。
 千里は壁に大きな姿見の鏡が取り付けられた西向きの部屋を自室にすることに決めて、私が部屋を覗いた時にはもうすっかり荷物の整理を終えていて、パジャマに着替えておりました。
「もう、整理終わった?」
「うん、終わったよ」
「じゃあ、お風呂の準備ができてるから、一緒に入ろうか」
「うん」
 ということで、千里が何の抵抗も見せなかったので少し残念に思いましたが、二人でお風呂に入りまして洗いっこしたあと、おそらく千里の実家の倍近くある湯船に二人でゆったりと浸かりながら、千里は私の両親の話をしてきました。
「圭介のお母さんって、写真で見ただけやけど、すっごく綺麗な女性やってんね」
「まぁ、綺麗って言うか、見た目も性格も、ほんまに女性らしい人やったなぁ」
「うん、それは写真からでもすっごく分かるわ。めっちゃ優しいお母さんやったんじゃない?」
「うん、そうやなぁ、優しい母さんやったなぁ」
「それで、お父さんもすっごく精悍な感じの男前やし、圭介はお父さんに似てるんやね」
「そうやなぁ、どっちかって言うたら、親父に似てるんかなぁ」
「うん、お父さんに似てる。でも、ほんまに圭介のお父さんとお母さんに会って、ちゃんとご挨拶したかったなぁ・・・」
 私はまた、千里が泣き始めるのではないかと心配して、
「千里、もう泣いたらあかんよ」と、釘を刺しました。
「うん、もう泣かへんから、キスして♡」
 私は千里にキスをしながら、可愛いトーマスが厳ついゴードンに成長してしまいましたので、どうしようかと悩みましたが、やはり布団の上のほうが体位的に色々と都合がいいので、必死に我慢することにしました。
 そして話題は、これからの新生活についての、様々なお話に移りました。
「これから千里が部屋の中を確認していって、家具とか家電はおそらくほとんど揃ってると思うけど、千里が見て足りないものがあったら買ったらいいし、気に入らないのがあったら、買い換えることにしようか」
「うん、でも別に私は家具とかにこだわりがあるわけじゃないし、わざわざ新しいのを買わなくてもいいよ」
「じゃあ、何か欲しいものは無い?」
「うん・・・ 今のところはまだ、全部のお部屋を見てないから、また気が付いたときに言うね」
「うん、わかった。とにかくここはもう千里のお家やねんから、自分の好きなようにしたらいいからな」
「うん、ありがとう」
 お風呂を上がったあと、二人でキッチンに行って喉の渇きを潤し、千里はまだ見ていない部屋を見たいと言いましたので、私は自室にしている北側の部屋に行って、机の引き出しから封筒に入った現金と預金通帳を取り出したあと、リビングに行ってソファーに腰掛けて、明日の打ち合わせのことを考えることにしました。
 明日の朝9時に、マリと進がホテルに来ることになっておりますので、千里と3人でこれからのシフトなどを打ち合わせしている間に、私はお父さんから元支配人について、詳しく話を聞くつもりなのですが、その話し合いに紳を同席させたほうがいいのではないかと考えました。
 私はもう、一年以上も現役から退いておりましたので、勘所というのが鈍っている可能性がありますし、紳はどのような細かい事象も見逃さない鋭さを持っておりますので、私としては心強い限りなのですが、さきほど自宅に戻ってきて車を停めた時に、隣に紳の車が停まっていなかったので、おそらく南か新地辺りで夜遊びでもしているのでしょう。
 紳はこの真下の11階に一人で住んでおりまして、女人禁制としていた私の自宅と大きく違って、彼の自宅は不特定多数の女性が出入りする、『愛の館』と私は呼んでおります。
 紳はクラブやラウンジに飲みに行って、気に入った女性を口説いては自宅に連れ込むといった、弁護士としてあるまじき行為を繰り返しておりまして、32歳のイケメン弁護士が独身貴族を謳歌するに相応しい、『愛の館』となっているのです。
 おそらくこの時間も、一生懸命に目の前の女性を口説いていることでしょう。
 私はしばらく考えたあと、ご近所さんで尚且つ顧問弁護士ということで、深夜ですが千里に紳を紹介しておいたほうがいいだろうという判断で、千里が了解すれば紳を今から呼ぶことにして、タバコに火をつけて千里が戻ってくるのを待っていると、2本目のタバコを吸い終わった時に千里がリビングに戻ってきました。
「全部見てきた?」
「うん、圭介のお部屋以外は、全部見てきたよ」と言って、千里は私の隣に座りました。 
「それで、どうやった? いるものとか見つかった?」
「ううん、別にいるものとかは特に無かったけど・・・ 正直な感想を言っていい?」
「いいよ」
「お掃除が大変そう・・・」  
 確かに、この広さだと掃除をするのは大変なので、
「心配せんでも、俺は綺麗好きやから汚したりしないし、掃除は好きやから、ちゃんと手伝うよ」と言って、千里を安心させました。
「うん、ありがとう」
 私はテーブルの上に置いていた封筒と通帳を手に取り、
「千里、とりあえず当面の生活費はこの封筒に入ってるから、それを使ってくれたらいいし、それとこの通帳に俺の全財産が入ってるから、これからは千里が全部管理してほしいねん」と言って、千里に手渡しました。
 千里は現金の入った封筒の中身を覗いて、
「これって、いくら入ってるの?」と訊ねてきました。
「俺も正確には分からないけど、たぶん・・・ 100万ちょっとやと思う」
「じゃあ、ここから食費とかを出していったらいいねんね?」
「うん、それで、それが無くなったら、その通帳から下ろしてくれたらいいから」
「うん、ありがとう。大切に使うからね」と言ったあと、次に千里はビニールの通帳入れから通帳とキャッシュカードを取り出し、通帳を開いて中身を確認して、
「えっ!・・・ 圭介の貯金って、たしか一千万くらいって言ってなかったっけ?」と、驚いた表情をしました。
「一千万以上って言うたよ」
「ちょっと・・・一千万じゃなくて、六千万もあるやんか・・・」
「うん。全部、親父と母さんが遺してくれたお金やで」
「・・・・・」
 千里はしばらく無言のまま、私を真剣な表情で見つめながら、
「圭介って、何者なん?」と訊ねてきました。
「何者って言われても・・・ どういうこと?」
「なんで、こんなにお金を持ってるとか、広いお家に住んでるとか、先に言ってくれなかったの?」
 私は少し考えた後、
「千里は、もしも俺が金を持ってなくて、狭い家に住んでたとしても、俺と結婚してくれるんやろう?」と訊ねてみました。
「それは、そうやけど・・・ 別に私は、圭介がお金を持ってるからとかで好きになった訳じゃないから、圭介にお金が無くても結婚するつもりなんやけど・・・ でも、後からこんなことを知らされたら、なにか圭介に騙されてたっていうか・・・ 試されてたような気分になってしまって・・・」
(そういう考え方もあんのかぁ)と思いましたが、えらく誤解を招いているようなので、
「いや、ちょっと待って! 俺は千里を騙したことなんかないし、試したことなんかもないよ!」と、勢い込んで言いました。
「それは分かってるねんけど・・・ じゃあ、ほかに何か隠してることは無いの?」
「隠してるって、俺は千里に隠してることなんか何も無いよ」
「・・・・・・」
 千里は何か私に言いたそうな表情をしておりましたが、上手く言葉にできないようでありました。
(やっぱり、いきなり色んなことを、いっぺんに見せないほうが良かったかなぁ)と思いましたが、見せてしまったものは取り消すことができませんので、話題を変えるために紳の話をすることにしました。
「千里、あのな、今から仕事の用事があって、うちの会社の顧問弁護士を家に呼んでもいい?」
「えっ! 今からって、こんな時間に?」
「うん・・・ 実はな」
 と言って、私は千里に紳の詳しい説明をしたあと、明日は紳と一緒にお父さんと打ち合わせをしたいということを話しました。
「うん、呼んでもらうのはいいけど・・・ 私、化粧してないけど大丈夫かな?」と千里が言いましたので、
「大丈夫やで。千里は化粧なんかしてなくてもめちゃくちゃ可愛いし、すっぴんの方がエロいというか、そそられる感じやな」と、私は褒めてあげたつもりであったのですが、
「もうっ! なにがエロいやねん! エロいって言うな!」と、千里は怒ってしまいました。
 私にとって『エロい』というのは、女性への最上級の褒め言葉のひとつと思っているのですが、どうやら千里にはまったく真意が伝わらないようなので、これからは禁句として放送を自粛することにしました。
 目の前のテーブルから携帯電話を手に取り、
「じゃあ、今から呼ぶよ」と千里に言いますと、
「じゃあ私は、パジャマだけ着替えてくるね」と言って、千里が自室へ向かいましたので、私は紳に電話を掛けました。
 電話はすぐにつながり、
「お疲れ様です。圭介さん、こんな夜中に、どうしたんですか?」
 と、紳が電話に出ました。
「紳、いま大丈夫?」
「大丈夫ですよ。何かあったんですか?」
(けっこう早口っていうことは、だいぶ酔ってるな)ということが分かりましたので、そのまま電話を切ろうかと思いましたが、
「いま、どこ?」と、一応訊ねてみました。
「今は、梅田から運転代行で帰ってますから、もうすぐ家に着くんですけど、どうしたんですか?」
 紳は酔うと、135度ほど人格が変わりまして、まるで頭のネジが2本ほどぶっ飛んだように、素面しらふの時のカミソリのような鋭さがなくなり、とても早口になり、ついでにおしゃべりな不注意人物に成り下がってしまいますので、私は彼が酔っている時は、仕事の話は絶対にしないのですが、今からする話は別に大した内容ではなく、明日は朝から俺に付いて来い!というだけなので、もしも紳が一人ではなく、女性と一緒であれば呼ばないことに決めて、
「いま一人か?」と訊ねました。
「一人ですよ。圭介さん、何かあったんですか?」
 ということで、紳を呼ぶことに決めて、
「あのさぁ、実は」と言って、お父さんから聞いた元支配人の話を簡単にして、明日の打ち合わせに参加してほしいということを言いました。
「明日は、午前中であれば大丈夫ですよ」
「あっ、そう、じゃあ頼むわ。それとな、お前に嫁さんを紹介しておこうと思ってな。実はもう今日から一緒に住んでるから、帰りにこっちに寄ってくれるか?」と言いました。
 すると紳は、とても興奮した様子で、
「えっ!じゃあ、名前は確か千里さんでしたよね!勿論、すぐに行きますよ!あと5分くらいで着きますから、待っててくださいね!」
 と、聞き取れないほどの早口で言ったあと、電話を切りました。
(あいつ、酔ってるから変なこと言わへんやろうな)と、少し不安に思いながら、タバコに火を点けたとき、
「圭介、どうなったの?」と、千里がトレーナーとジーンズに着替えて、私の目の前に来ました。
「あと、5分くらいで来るって」
「そう、じゃあ、お茶かコーヒーの用意するね」と言って、千里がキッチンに入ってしばらくして、
「ピンポーン」
 と、ドアフォンのモニターに紳が映し出されましたので、千里と二人で玄関に行って、ドアを開けて紳を出迎えました。
「いらっしゃい」
 と私が言うと、紳は私を無視して千里の目の前へ行き、
「初めまして、沢木です。よろしくお願いいたします」と言って、深々と頭を下げました。
「初めまして、千里です。こちらこそ、よろしくお願いいたします」と言って、千里も深々と頭を下げました。
「紳、夜中に悪かったな。とりあえず中に入ってくれ」と言って、私たちはリビングに移動して、みんなでソファーに座りました。
 するといきなり紳が、
「いやぁ~、圭介さんが一目惚れしたのがよく分かりますねっ! 千里さんって、めちゃめちゃ綺麗じゃないですか!」と言いました。
 すると千里は顔を真っ赤にして、
「ありがとうございます」と言いました。
「それにしても、千里さんって、ほんまに綺麗ですよね! 肌が透き通るように白くて、なんかすごく古風な感じなんですけど、匂い立つような美しさと言うか、流石に圭介さんが出会ってすぐにプロポーズしたのも、納得がいきました!」
「いいえ、ありがとうございます。沢木さんも背が高くて、彫りの深い男前ですね」
「ありがとうございます! でも、ほんまに千里さんは知的な感じでいて、それで尚且つ色っぽいというか、ふわっとした感じの美しさですよね!」
「もう、それって褒めすぎですよ~!沢木さんこそ、そんな若くて男前の弁護士さんって、世の中に沢木さんしかいないんじゃないですか?」 
 と、なぜか二人は私を無視して、お互いの褒めあいを開始しました。
「いやぁ、僕なんか圭介さんに比べたら、ぜんぜんですよ! やっぱり、千里さんも圭介さんのことを一目惚れっていうか、初めから良いなっていう感じだったんですか?」
「はい、なんていうか・・・ そのぅ・・・ もう恥ずかしいから、何か飲み物持ってきますね。沢木さん、なにがいいですか?」と言って、千里は立ち上がりました。
「すみません。じゃあ、お酒を飲んだ後なんで、熱いお茶をいただけないでしょうか」
「はい、わかりました」
 と言って、千里はキッチンへ向かい、あらかじめ用意していたお茶のセットをトレーに載せて運んできて、ティファールのポットから急須にお湯を注ぎいれてお茶を作り、それぞれの目の前に湯飲みを置きました。
 紳は熱いお茶を一口飲んだ後、
「やっぱり圭介さん! 散々モテてきた男が最後に選ぶ女性って、やっぱり千里さんみたいな女性なんですよねぇ・・・ いいなぁ~ 圭介さんがうらやましいなぁ~」と言いました。
 すると千里が、身を乗り出すようにしながら、
「沢木さん、圭介って、そんなにモテてたんですか?」
 と、勢いよく食らいついていきました。
「はい! 圭介さんって、昔からめちゃくちゃモテてましたよ!」
 千里は私に向かって、無表情のまま、
「そうなん?」と訊ねてきました。
 私は紳に対して、(われ、なんの話してけつかるねん!)と、河内弁で怒りを覚えながら、
「昔の話やで」と言いました。
「またぁ~、圭介さん、そんな謙遜すること無いじゃないですか!圭介さんは、今もめちゃくちゃモテてますよ!」
 私は(もう、あかん!)と思い、「紳! お前、もう帰れ!」と、大声で言ったのですが・・・
「圭介は黙っといて! 私は沢木さんともっとお話がしたいねん!それで沢木さん、圭介って、一回も浮気をしたことがないって、本当なんですか?」
「本当ですよ! 僕は女癖がちょこっとだけ悪いんですけど、圭介さんは今まで一回も浮気なんかした事が無いから、僕は本当に尊敬してるんですよ! 圭介さんは誰かと付き合ってる時は、どんなに綺麗な女性に言い寄られても、いっさい浮気なんかしませんし、付き合ってる彼女さんのことを大事にする人なんですよ!」
「そうなんですか。じゃあ、浮気をしたことが無いっていうのは本当なんですね?」
「はい、僕は弁護士なんで、絶対に嘘はつきません!」
「じゃあ、付き合ってる彼女がいない時の圭介って、どんな感じなんですか?」
「・・・・・・」
 紳は返答に困り、視線を千里から私に、目を泳がせながら移動させてきましたので、私は思いっきり紳を睨みつけてやりました。
「沢木さん、なんで急に黙り込むんですか? 圭介は付き合ってる彼女がいない時って、女の子をとっかえひっかえしてなかったんですか?」
「・・・・・・」
 ここに来てようやく、紳は千里という女性を理解し始め、弁護士である自分が、素人の千里の誘導尋問に引っかかっていることに気付き、自分の不注意な供述が後々の裁判で、どのように不利な影響を及ぼしてしまうのかを、ようやく理解し始めたようで、
「なんか圭介さん・・・ 僕は圭介さんの良いところを千里さんに話してるつもりなんですけど・・・ もしかしたら、僕は自分で墓穴を掘ってるような気がするんですけど・・・気のせいですか?」
 と、あろうことか弁護士のくせに、取調官である千里の目の前で、被告の私に助けを求めてきやがりました。
(なにが気のせいやねん! お前は器用にも自分の墓穴と、俺の墓穴を同時に掘っとるんじゃい!)と、大声で怒鳴りたいところですが・・・
「いいえ、沢木さんは墓穴なんか掘ってないですよ! だから、圭介の良いところを、もっといっぱい教えてもらえますか? それで、圭介って、彼女がいなかったら、女の子を、」
 といった感じで、それから20分も千里の取調べが続き、紳は完全に酔いが醒めたらしく、最後は千里に向かって頭を下げながら、
「千里さん、僕は今思い出したんですけど、明日の朝までにまとめないといけない資料がありますので、今日はもうご勘弁というか・・・明日必ず僕はホテルに行きますから、続きは明日にしてもらえないでしょうか?」と言って、ようやく開放されて、そそくさと逃げるようにして帰っていきました。
 飛ぶ鳥、後を濁しまくった紳が去った後、私は恐る恐る千里に向かって、
「千里、もう遅いから寝ようか」と提案したのですが、
「私、今日はソファーで寝ようかな」と千里が言い出しましたので、私は必死に説得して、ようやく寝室に辿り着きまして、ベッドに二人で入ったのですが・・・
「触るな、この変態!」から始まり、
「それ以上触ったら、ほんまにソファーに行くよ!」と経まして、
「じゃあ、パジャマの端っこをつまむことだけ許してあげる」ということで最後は落ち着き、私は千里のパジャマをつまみながら眠ることになりました。

「zzzz・・・・」

 しかし翌朝、夜討ちが駄目なら朝駆けを、という戦法に乗っ取って、朝起きた瞬間に奇襲攻撃を仕掛けて、見事に性交(成功)を収めることができました。
 めでたし、めでたし。


第28話 打ち合わせ

 朝から一戦交えたおかげで、ゆっくりと過ごす時間がなくなってしまい、慌しく用意をして8時20分に自宅を出ました。
 駐車場には紳の車が無かったので、おそらく先に向かっているのだろうと思いながら、車に乗り込んですぐに千里は、
「もう、朝から絶対に変なことしたらあかんで!」と言いました。
(自分だって、めちゃめちゃ燃えてたくせに!)と思いましたが、
「うん、ごめんなさい」と謝りました。
「明日からはもっと早く起きて、朝ご飯もちゃんとゆっくり食べるようにするねんから、圭介もお利口さんにして協力してね!」
「はい」
 というような感じで、朝から軽く気合を入れられまして、心身ともに引き締めました。
 ホテルへ向かう途中、千里は憂鬱そうな表情で、
「なんか・・・ マリと顔を合わせるのが怖い」と言いました。
「俺も、進と顔を合わせるのが怖い」
「圭介は別に、進君に何か悪いことをした訳じゃないねんからいいやんか! 私の場合は、もしもマリに知られたら、何を言われるのか分かれへんし、それに今、『結婚テロ』っていう言葉が流行ってるから、このタイミングでマリには知られたくないねん・・・」
「結婚テロって、物騒な言葉やけど、どういう意味なん?」
「それは、女子の友達同士で事前に何の相談も無く、いきなり結婚の報告をしてきて、それが原因でねたまれたり、気まずくなったり、絶交したりすること」
「それを、結婚テロって言うの?」
「そう、いま世間でけっこう注目されてて、私とマリも半年くらい前に仲の良かった友達にされてしまって、二人でその友だちの悪口を言ってたところやのに・・・」
 複雑な世の中、いったい何が流行るのか本当に分かりません。
 そうこうしている間にホテルの近くの駐車場に到着しまして、車を停めて歩いてホテルに向かっている途中で、紳から電話が掛かってきました。
「おはようございます、圭介さん・・・」
「・・・・・」
「あのぅ昨夜は本当にすみませんでした・・・ それと昨日は僕、勘違いをしてまして、ほんまは今日、朝から大事な仕事の打ち合わせが」といったところで、私は電話を切りました。
(あのボケ~! 千里から逃げやがって!)と思いましたが、逆に考えると紳がいないほうが余計な神経を使わなくてすみますので、私は千里に、紳が敵前逃亡した腰抜け野郎だと説明すると、
「なんか、あんまり頼りにならない顧問弁護士さんやね!」
 という一言で片付きました。
 ホテルの前に到着し、二人で仲良く出勤しているところをマリに見られると大変だということで、先に千里がホテルの中に入っていきまして、私は5分ほど時間を空けて入ることになりましたので、ポケットからタバコのセットを取り出して、少し離れたところで一服してからホテルに入っていきました。
 すると、ロビーで千里とマリと進の三人が、何やら物々しい雰囲気で話しておりましたので、(もしかして?)と思いながら三人に近づき、「おはよう」と挨拶しました。
「おはようございます」と進が挨拶した後に、マリが険しい表情で私を睨みつけながら、
「おはようございます! 圭介さん! 千里のお父さんから聞きましたよ! どういうことなんですか!?」
 と、いきなり噛み付いてきました。
(そのパターンがあったんかぁ・・・)と、マリは方向音痴なので、待ち合わせた時間よりも、いつも早めに到着しようと心がけていることを、すっかり忘れていました。
「マリ、ごめん・・・ 急に決まってしまったから、報告する暇がなかって・・・」
「でも、ほんまにドッキリとか嘘とか冗談じゃなくて、本当に千里と結婚するんですよね?」
「うん。まだ具体的に日にちとかは何も決まってないけど、本当やで」
「じゃあ、お祝いしないといけないですね!」と、進が無邪気な笑顔で話に割って入ってきましたが、
「あんたは黙っとき!」と、マリに一喝されました。
「マリ姉、こわ~い!」
 と進が言ったとき、事務所のドアが開いてお父さんが現れてくれましたので、(助かった!)と思いました。
「お父さん、おはようございます」
「圭介君、おはよう」と、お父さんが私に向かって歩いてきてくれましたので、私もお父さんに近づき、
「お父さん、ちょうど良かった! 今からちょっと時間はありますか?」と、この場からいったん離れることにしました。
「うん、時間はあるから大丈夫やけど、それよりもマリちゃんに、千里と結婚することを言ってなかったんやな?」
「あっ、それは今、報告しましたから大丈夫ですよ! じゃあお父さん、この3人は今からシフトのこととかで打ち合わせをしますから事務所を使ってもらって、僕たちはどこか喫茶店に行って話をしましょう!」と言って、お父さんの二の腕を軽くつかんで一緒に外へ出ようとしたとき、
「もう圭介、待ってよ!」と、千里に呼び止められました。 
「千里、ごめん! お父さんと話が終わったら戻ってくるから、先に3人で打ち合わせをしといて」と言って、お父さんと一緒にホテルを出ました。
「圭介君、マリちゃんがえらい驚いてたけど、もしかしたら私がいらんことを言ってしまったから、千里が怒ってるんじゃないん?」
「いえ、お父さん、心配しなくても大丈夫ですよ。それより、どこか喫茶店はないですか?」
「じゃあ、たまに行くところがあるから、そこに行こうか」
 と言って、お父さんが歩き始めましたので付いていきますと、50メートルほど歩いたところの雑居ビルの一階に喫茶店があり、二人で中に入りました。
 テーブル席に座ってすぐにお父さんが、
「圭介君、朝ご飯は食べた?」と訊ねてきましたので、
(いえ、朝からちょっとバコバコしてて時間がなかったので、食べてないです)と、決して本当のことは言えないので、
「いえ、朝からちょっとバタバタしてて時間が無かったので、食べてないです」と答えました。
「じゃあ、私も食べてないから、一緒にモーニング食べようか?」
「はい、いただきます」
 私たちは二人ともホットコーヒーでモーニングを注文して、運ばれてきたトーストと茹で玉子を食べながら、千里の引越しが無事に終わったことを報告し、今度是非一度、お母さんと一緒に遊びにいらしてくださいと話した後、本題に入りました。
「お父さん、ホテルのことで気になってることがあって、今から話を聞かせてもらいたいんでけど、いいですか?」
「いいよ。なにが気になってんの?」
「実は、昨日ちょっと話した、元支配人のことなんですけど」
 と言って、私はお父さんに、元支配人の保証人になった経緯や、借金の総額などを訊ねていきました。
 お父さんの説明によると、元支配人の名前は島崎という人物で、年齢は55歳、小柄で痩せ型という以外に、これといった外見の特徴が無い人物で、気が小さく仕事も真面目な反面、どうも私生活では女癖が悪かったようで、妻との喧嘩が絶えない家庭事情を抱えていたそうです。
 島崎が大阪インペリアルホテルに勤めることになった経緯は、今から約20年前、島崎は元々、高校卒業後に地元の徳島のビジネスホテルに勤めていたのですが、東京のインペリアルホテルが大阪に開業するという話を知人から聞き、開業前にスタッフを募集しているということを知りまして、本人はどうせホテルに勤めるなら世界のインペリアルホテルに勤めてみたいということで、募集内容を調べて先ずは書類を送り、その後一次選考に合格して、直接面談の二次面接に向かったそうです。
 その時はまだ、インペリアルホテル大阪が建設途中であったため、面接会場は大阪の駅前ビルに開設して、そこで面接を行っていたのですが、島崎が大阪駅に到着後、面接会場を記したメモを失くしていることに気付き、電話帳でインペリアルホテル大阪の電話番号を調べて電話をし、面接会場を訊ねたのですが、実際は大阪インペリアルホテルに電話を掛けており、電話に出たホテルの従業員が、事情を詳しく訊ねることなく難波の大阪インペリアルホテルの道順を説明してしまったそうです。
「えっ! じゃあ、その島崎って元々は、インペリアルホテル大阪に就職するつもりで、場所を間違えてこっちに面接に来たっていうことなんですか?」
「そうやねん。それでこっちに来たときにはもう面接の時間が過ぎてたし、わざわざ四国から出てきてるから、私も申し訳ないなって思ってしまってな・・・・それで、経験者やから即戦力やし、もしよかったらうちで働いてみるか?って声を掛けたのがきっかけで、うちで働くことになったんよ」
(ということは、そうとう間抜けな奴なんやろうなぁ)と思いながら、お父さんの話の続きを聞きました。
「話はちょっと変わるけど、圭介君は千里が、東京でアパレル関係の仕事をしてたっていうことは聞いてるかな?」
「はい、詳しくは何も聞いてないんですけど、それが島崎と何か関係があるんですか?」
「実は、千里が東京で勤めとったアパレル関係の会社は、島崎の義理の姉さんの会社で、名前が田辺っていうおばはんが経営してたんやけど、今から15年位前に、会社が取り込み詐欺か何かで、倒産寸前までいってしまって、義理の弟の島崎に金の無心をしにホテルに来たことが知り合ったきっかけやったんやけど、私が保証人になって、借金を抱えることになった経緯は、その田辺のおばはんが原因やったんよ」
 と言って、お父さんはコーヒーを一口飲みました。
「ということは、お父さんは島崎じゃなくて、田辺の保証人になったっていうことなんですか?」
「そうやねん。島崎は女癖が悪くて、嫁と喧嘩ばっかりしてたから、結局はその浮気癖が遠因になって、私が田辺のおばはんと抜き差しならんような関係になってしまったんよ」
「でも、その島崎って、別に男前でもなんでもないのに、女にはモテてたっていうことなんですか?」
「いや、圭介君のお父さんの遺言通りに、浮気はモテない男がするもんやって、まさにそれが島崎のことで、本人は何の取り柄もないねんけども、とにかく女にはマメで、それも誰も相手にせぇへんような不細工な女に手を出すから、余計に始末が悪いというか、それが原因で嫁と仲が悪かったから、田辺のおばはんに頭が上がらなくて、金を用意してくれって頼まれても無下に断ることができなくて、結局は私が200万円を島崎に貸したことにして、その金がそのまま田辺のおばはんのところに行ったのが、私と田辺のおばはんとの金の貸し借りの始まりやったんよ」
 その後、お父さんと田辺の関係は、間に島崎を挟んで金の貸し借りは徐々に増えていき、気がついた時には島崎が一人で返済できないほどに膨らんでしまい、お父さんは田辺の会社を債務者として、会社同士の貸し借りという形を取ったことで、ひとつの大きな過ちを起こすことになってしまいました。
 この間、田辺のアパレルメーカーは常に業績不振というわけではなく、斬新なデザインなどがテレビや映画関係者らの目に留まり、有名女優などに衣装を提供するなどして、マスコミに取り上げられたりしたことが、お父さんの判断を誤らせた原因になりました。
「千里はね、大学を卒業した時に、ほんまは地元の信用金庫に就職が決まってたんやけど、どうしても田辺のおばはんが、これから自分とこのブランドが有名になって、事業が成功して大きくなるから、ぜひ千里を預からせてほしいって言ってきて、まぁこっちは金を貸してるから、千里は破格の条件で雇ってくれるということやったし、千里が入り込んだら会社がどういう状態なんかも分かるやろうから、こっちからしたら願ったり叶ったりという話で、私が千里に、悪いけど東京に行ってくれって頼んだんよ」
「そうやったんですか・・・ それで、そのアパレルの会社はどうなったんですか?」
「それがなぁ、世の中そう簡単に上手いこと行く訳がなかって、千里が勤めだしてからも、メーカーとしてはある程度は成功を収めたりして、ブランドの名前もそこそこ有名になって、私も新作発表会や色んなショーにお母さんと一緒に東京まで呼ばれたりして、知ってる女優さんとかの華やかなショーを見せられたから、私は自分のメインバンクに相談して、本格的に投資し始めてしまったんよ。
 それで、段階的に資金を出していって、上手いこと行くかなって思った矢先に、おばはんのめちゃくちゃなワンマン経営に嫌気が差して、側近が次々と辞めてしまって、それが原因で業界からそっぽを向かれて干されてしまって、それからは3ヶ月に一回くらいのペースで資金繰りが苦しくなって、田辺のおばはんはとうとう夜逃げしてしまったんよ。
 それで気が付いたら、私は総額で2億円近い負債をかぶってしまったから、今度はこっちの資金繰りが完全にショートしてしまって、ある程度の借金の整理をすることになって、私は今まで自分の事業で借り入れた借金は一回も遅れたことなく返済してきたから、銀行もある程度は無理を聞いてくれて、箕面の自宅を追加で担保に入れて、ぼちぼちと返していきますっていうことで、一旦は落ち着いたんやけどなぁ・・・」
 私はお父さんの話を聞いて、大阪インペリアルホテルの多額の借入金の謎が、ようやく理解できました。
「それで、しきり直しでやっていこうとしたときに、みらい観光開発が来て、ホテルを売ってほしいっていう話になって、交渉している最中に水漏れが起こって、島崎もいろいろと責任を感じてたみたいで、このままやったら自分の給料も出すことが難しいことが分かってたから、自分が他所に働きに行って、田辺のおばはんの借金は少しづつ返していきますっていうことで退社してんけど、1回だけ5万円を送ってきただけで、今はもう連絡が取れなくなっていて、どこにいるのか分からないようになってしまったんよ」
「・・・・・」
 私は自分がこれから執るべき行動を頭の中で整理して、
「お父さん、島崎と田辺の写真ってありますか?」と訊ねました。
「写真って、二人を捜し出そうと思ってるの?」
「はい、おそらく捜し出しても二人からはお金を取り戻すことはできないと思いますけど、一種の勘というか、二人を捜し出しておいたほうがいいと思いますから、見つかるかどうかは分かりませんけど、一応は捜してみますね」と言って、お父さんには余計な心配を掛けたくなかったので、竹然上人の話はしないことにしました。
「写真はホテルの事務所にいっぱいあるから渡せるけど、私はこのままホテルを売って、自宅が戻るだけでいいと思ってるから、圭介君には無理をさせたくないと考えてるんよ」
「いえ、これが僕の本業なんで全然無理じゃありませんから、心配しないで下さいね。それよりお父さん、これからみらい観光開発の坂上さんとの交渉なんですけど、僕は娘婿っていう立場で参加しますけど、それでいいですか?」
「そうやな、圭介君はほんまにうちの娘婿になるんやから、そうしたほうがややこしくなくていいと思うわ」
「分かりました。とにかく、僕は田辺と島崎を追いかけますから、お父さんはみらい観光開発の坂上さんから連絡があったら、すぐに連絡してくださいね」
「はい、分かりました」
 ということで話がまとまり、お父さんと私はホテルに戻って事務所に入りますと、千里とマリと進の3人はソファーに座って、打ち合わせをしておりましたので、その横を通り過ぎて私はお父さんから田辺と島崎の写真と名刺、住所や連絡先などの、お父さんが知る二人の情報をメモしてもらって受け取りました。
 私は二人の写真を眺めながら、島崎はお父さんの言ったとおり、10回写真を見ても憶えられそうにないほど、何の特徴もない平凡な印象を持ちました。
 そして、田辺のおばはんは、年齢はおそらく60歳前後と思われますが、こちらは島崎と違って、一度見れば忘れられないといった感じの派手なおばはんで、いかにもファッションブランドの代表を務めていたといった、派手な衣装を身にまとった厚化粧のガマ蛙といった印象でした。
「その写真で大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ圭介君、私はもう帰るけど、あとは任せていいかな?」
「はい、大丈夫です。お父さん、お疲れ様でした。気をつけて帰ってくださいね」
 ということで、お父さんはみんなに挨拶をしたあと、事務所を出て帰路に就きましたので、私は仕方なく、3人の座るソファーに向かいました。
 マリの穏やかな表情を見ますと、どうやらマリの怒りは収まっているようでありました。
 私は千里の隣に座って、正面のマリと目が合った瞬間、
「圭介さん、私は千里のことも圭介さんのことも好きやから、二人が結婚することは、私にとってもうれしいことなんですよ」とマリが言いました。
「私も、圭介さんのことが大好きやし、千里姉のこともいろいろお話してて、大好きになりましたよ♡」と、またもや進がマリの話の腰を折りますと、
「もうっ、あんたが喋ったら話がややこしくなるから、ちょっと黙っとき!」と、強めの口調で注意されました。
「もう~、マリ姉こわいっ!」
 マリは真犬じゃなく、真剣な表情で私を見つめながら、
「千里も本気やし、圭介さんも本気っていう事が分かったから、私は心から二人を祝福しますけど、もしも千里を泣かせるようなことをしたら、私が絶対に許さないですからね!」と言いました。
 すると、またしても進が、
「私も、千里姉のことを泣かしたら、たとえ圭介さんでも許さないですからねっ!」と茶々を入れたのですが、マリは怒ることなく、
「進、あんた、なんで泣いてんのよ!?」と言いました。
「!」
 驚いたことに進は、なぜか涙をポロポロと流しながら、
「だってぇ・・・千里姉のお話を聞いてたら、すごい感動してしまって・・・ 世の中に実際、こんなドラマみたいに感動的で、こんなに素敵な出会いってあるの?って思ってしまったんやもん♡」と言いました。 
 すると千里が、申し訳なさそうな表情で、
「あのぅ、進君・・・ 確か私は、圭介との出会いって、どっちかって言うたらお笑い話っていうか、出会いとしては最悪やったってお話したと思うねんけど・・・」と、真実を伝えました。
 しかし進は、そんな真実などには目を瞑り、
「もうっ、そんな細かいお話はどうでもいいの~っ! とにかく、二人って本当に運命の出会いなんやって思ったし、圭介さんが千里姉の手も握ったこと無いのに、ご両親にご挨拶に行ったって聞いたときに、やっぱり私のアニキってすごいと思って、おしっこちびりそうなくらいに感動しちゃったんやもん♡」と、恍惚とした表情で熱く語りきりましたが、そんな進を完璧に無視して、
「それはそうと圭介さん、私と進がホテルに入ったら、事務所の留守番は圭介さんがするんですか?」と、マリが現実的な質問をしてきました。
「いや、あのな、実はウォルソンの本社は大阪市の北区にあって、顧問弁護士の事務所の中にあるねんけど、そこにはちゃんと事務員さんがおるから、谷町の事務所は無人でもいいねん」
「そうやったんですか。じゃあ、私と進はホテルの業務のことだけを考えたらいいんですね?」
「うん、事務所のことは大丈夫やから、ホテルのことをしっかりと頼むわな」
「はい、わかりました。それで圭介さん、いつ婚約記念パーティーをするんですか?」とマリが言うと、
「えっ! パーティー? じゃあ、圭介さんのお家でホームパーティーしましょうよ♡」と、すかさず進が食いつきました。
「俺にそんなこと決める権限は無いから、千里がOKしてくれたら、 パーティーでも何でもするよ」と私が言いました。
 すると千里は、作成したばかりのシフト表を見ながら、
「じゃあ、明後日がちょうどみんな夕方から空いてることになってるし、私は一日お休みで朝から準備ができるから、お家でお食事会しようか」と言いました。
「やった~♡ パーティーピーポー♪」
 と、はしゃぐ進を無視して、
「うん、それやったら、千里のお父さんもお母さんも呼んで、みんなで一緒にご飯を食べようや」
 ということで、明後日は自宅でみんなを招いて婚約記念パーティーを開くことになりました。


第29話 依頼

 この日も千里は夜の10時から仕事ということで、私と千里は10時に出勤してきた社員にマリと進の研修を任せて、二人でホテルを出ました。
 難波の百貨店に行って、私の両親に供える花と花瓶を購入し、地下の食料品売り場でお供え用の和菓子と食材を買い込んで自宅に戻りました。
 千里は買ってきた花瓶に花を挿して両親の写真に飾り、和菓子をお供えしたあと、昼食用に買ってきた海鮮丼を二人で食べて、食後のコーヒーをリビングのソファーに座って飲みました。
「圭介は今からどうするの?」
「俺は今から事務所に戻って、いろいろとやることがあるからもうすぐ出掛けるけど、千里は今から寝ないとあかんやろう?」
「うん、そうやねんけど・・・」
「夜までには帰ってくるから、それから一緒にご飯を食べて、また二人でホテルに行こうな」
「でも、そんなことしてたら、圭介の体が持たないやんか」
「そんなこと大丈夫やって! 千里が働いてるのに、俺が家におってゆっくりしたり、寝たりできると思う?」
「でも・・・」と言って、千里が不安げな表情をしましたので、
「千里が働いてる間、俺は事務所のソファーで仮眠取ったりするから大丈夫やで。だから千里は何も心配せんと、もうねんねしいよ」と言って、千里を軽く抱きしめました。
「うん、じゃあ今からねんねするから、私が眠るまで隣で一緒に横になってくれる?」
「いいよ」と言って、二人で寝室に行きました。 
 千里はパジャマに着替え始め、私はスーツがしわになるのが嫌だったので、ネクタイを外してカッターを脱ぎ、ズボンを脱ぎはじめたときに、何を勘違いしたのか、千里は顔を赤くして、
「私、横になってって言っただけやで・・・」と言いました。
「うん、分かってるよ。スーツがしわになるから脱いだだけ」と言って、恥ずかしそうにしている千里を(可愛いなぁ)と思いながら、二人でベッドに入りました。
 いつものように、おやすみのキスをした後、千里の頭を優しく撫でながら、島崎と田辺を捜し出す方法を考えはじめたとき、
「!・・・」
 ふと、千里に田辺のことを訊ねてみようかと思いました。
「・・・・」
 しかし、千里は今まで一度も、東京での生活を私に話さなかったということは、おそらく話したくないことが多かったのでしょう。
 もしかすると千里は、自分が田辺の傍で働いていたにもかかわらず、適切な判断を下せなかったことで、お父さんの借金が膨れ上がってしまったと、自らの責任を感じているのかもしれません。
 なので私は、千里には何も訊ねないことにしました。
 私は今までお付き合いをしてきた女性に、男性関係を含めて過去を訊ねたことが一度もありません。気にならないという訳ではないのですが、聞いて嫉妬するくらいなら、知らないほうがいいだろうと思っておりますので、相手が自ら話してこない限り、私からは決して過去を訊ねないようにしてきたのです。
 そんなことを考えているうちに、千里は静かな寝息を立てて眠り始めましたので、私はそっとベッドから抜け出て、千里の額に軽くキスをして自宅を出ました。
 車に乗り込み、島崎と田辺の捜索はプロに任せることに決めて、梅田にある探偵事務所に電話を掛け、所長の渡瀬さんに繋いでもらいました。
「所長、ご無沙汰しております」
「圭介さん、こちらこそご無沙汰しております。元気でしたか?」
「はい、元気にしてました」と挨拶したあと、私と渡瀬さんの間に、前置きなど必要なかったので、
「実は、人探しをお願いしたいんですけど、今からそちらにお伺いさせてもらってよろしいですか?」と訊ねました。
「はい、大丈夫ですよ」
「じゃあ、3、40分くらいで到着できると思いますので、よろしくお願いいたします」
 昔から懇意にしていただいてる探偵事務所で、所長の渡瀬さんと会うのはもう2年ぶりくらいだと、最後に仕事を依頼した時のことを思い出しながら、車を梅田に向けて走らせました。
 今から約2年前、ある事件がきっかけで、私は今回と同じように渡瀬さんに人探しを依頼したのですが、その時は残念ながら上手く見つけ出すことができませんでした。
 渡瀬さんは年齢45歳で、中肉中背の黒縁メガネを掛けた、至って普通の中年男性といった外見をしており、彼を一言で表現するならば、市役所の地域振興課の課長といった、生真面目そうな雰囲気を持つ、見た目通りの物静かな男性です。
 世間一般の探偵のイメージとして、派手なアクションをこなすタフガイを想像される方も多いと思われますが、渡瀬さん曰く、
「探偵って、いかに目立たなくするのかが難しくて、優秀な探偵ほど、どこにでもいるような普通の雰囲気を持ってますから、圭介さんは探偵には向いてないですね」と言われたことを思い出しました。
 道路は比較的に空いていて、ちょうど30分で梅田に到着し、探偵事務所の近くのコインパーキングに車を停めて、事務所へ向かいました。
 事務所はお初天神の近くの雑居ビルの5階にありまして、私は事務職員に案内されて所長室に入りました。
「圭介さん、久しぶりですね」
「はい、所長もお元気そうで」
「まぁ、お掛けください」と言って、私たちは応接セットのソファーに腰掛けました。
「圭介さん、もう2年ぶりですね。あの時はお役に立てなくて申し訳ございませんでした」
「いえ、こちらこそ無理なお願いをしてしまって、ご迷惑をお掛けしました」 
「いえいえ、こちらこそ本当に申し訳なく思っています。それで、あれから圭介さんは、北都興産(ほくとこうさん)を解散されたって聞いてたんで、また思い切った決断というか、賢明な判断というか・・・
 心配はしてたんですけど、少し前にまた新しく会社を立ち上げたっていう、風の噂を耳にして、安心してたんですよ」
 私は名刺入れから名刺を抜き出し、所長に手渡しました。
「株式会社ウォルソン・・・ また、ガラッとイメージを変えた名前を付けたんですね。仕事の内容は同じなんですか?」
「はい、内容は同じなんですけど、」と言った後、ウォルソンの名前の意味を説明しました。
 すると渡瀬さんは、普段はにこりともしないのに、
「悪が損する・・・ 圭介さんらしいですね」
 と言って、にっこりと微笑んでくれました。
「それで所長、今回の依頼なんですけど、」と言って、島崎と田辺の写真と資料を渡瀬さんに手渡し、依頼内容を詳しく説明しました。
 話を聞き終わった渡瀬さんは、
「分かりました。これは私が直に調べることにしますから、報告は圭介さんに直接するということでいいですか?」
「はい、ありがとうございます」と言って、渡瀬さんは無駄話を一切しない人なので、席を立って帰ろうとしたとき、
「圭介さん」と呼び止められました。
「はい」
 と言って、何の話だろうと思っていると、
「私はあれから、あの事件のことがどうしても忘れられなくて、個人的にアンテナを張って、何か分かればすぐに圭介さんに報告しようと思ってたんですけど・・・ 結局は警察も犯人を捕まえられず、私も何も分からないままで、本当に申し訳ないですね」と、渡瀬さんが言いました。
「いえ、本当に所長が気に病むことじゃありませんよ。警察も本腰を入れて、親父を殺した犯人を捕まえようとは思ってないでしょうし、社会の屑かダニが一人減ったというくらいにしか思ってないでしょう」と私が言うと、渡瀬さんは今まで見たことがないような冷たい表情で、
「会長は、本当に立派な方ですよ。だから圭介さんは、そんなことは思っていないことは分かっていますけど・・・・・」と、静かな口調で、後の話を濁しました。
 私は渡瀬さんが何を言いたいのかが分かっておりましたので、
「・・・・・・」
 沈黙で理解していることを伝えました。
「私は探偵で駆け出しの頃から、会長には本当にお世話になりっぱなしで、いつかは恩返しをと思っていましたから、本当に残念でならないですけど・・・ こうやって圭介さんが無事に立ち直られたことで、会長も安心されていると思いますから、これからは圭介さんの役に立つことで、私は会長に恩返しができると思っていますから、よろしくお願いいたしますね」
「はい、ありがとうございます。では所長、失礼致します」と言って、事務所を後にしました。


第30話 異変

 渡瀬さんと別れた後、一度自宅に戻ろうかと思いましたが、せっかく梅田に出てきていますので、抜き打ちで紳に会いに行くことにしました。もしも事前に連絡をすれば、居留守を使われるか、どこかに雲隠れされるかもしれないと思ったからです。
 紳に千里の取り扱い上の注意事項を説明しておかなければ、この先また同じような痛い目に遭いかねないので、嫌な思いをするのは懲り懲りです。
 ということで、いつものように裁判所の北側にある駐車場に車を停めて、紳の事務所のインターフォンを押しますと、
「お疲れ様です。圭介さん、すぐに開けますね」と、ウォルソンの事務を代行してくれている慶子ちゃんという、30歳の新婚ほやほや、最近幸せ太り気味の事務能力の高い女性職員がオートロックを解除してくれましたので、ドアを開けて中に入りますと、
「おはようございます。圭介さん、所長に用事なんですか?」と、慶子ちゃんに訊ねられました。
「慶子ちゃん、おはよう。紳はおる?」
「はい、いますけど、いま接客中なので、奥でお待ちください」と言って、紳のプライベートルームに案内されました。
 ソファーに座って待っていると、慶子ちゃんがコーヒーとビアードパパのシュークリームを持ってきてくれましたので、おいしくいただきながら新婚の惚気話(のろけばなし)を聞いていると、
「圭介さん、お待たせしました!」と、紳が現れましたので、慶子ちゃんは交代して退室しました。
「急に、どうしたんですか?・・・ じゃないですよね・・・」
「じゃないよ」
「ほんとうに、すみませんでした・・・ 反省してます」
「まぁ、酒を飲んでるのに呼んだ俺が間違ってたんやけども、千里のことがよう分かったやろう?」
「はい・・・ やっぱり千里さん、怒ってはるんですか?」
「いいや、もう仲直りしたから大丈夫やけど」と言ったあと、千里に対する注意事項を話し、今後は決して女性の話はしないと約束させたました。
「それでな、明後日の夜に、うちの家で婚約記念パーティーするから、お前も来いよ」
「パーティーですか、はい、行きます」
「来て、お酒を飲んでもいいけど、千里の両親も呼ぶつもりやから、さっき約束したことは絶対に守ってくれよ!」
「はい、分かりました。それで、今朝のお父さんとの話はどうだったんですか?」
 と、紳が訊ねてきましたので、島崎と田辺の話をして、二人の行方を渡瀬さんに捜索してもらうことにしたと話しました。
「そうだったんですか。渡瀬さんなら抜かりはありませんから、おそらくすぐに見つけてくれるでしょうけど・・・ でも、その二人が見つかったとして、圭介さんはどうするつもりなんですか?」
「どうするって、今は何も思いつかへんけど、もしもじっちゃんの言うとおりに、どっかで飼われてぬくぬくと生活してるんやったとしたら、たとえなんぼかずつでも回収したいわなぁ」
「でも、話を聞く限りでは、お父さんは投資として田辺の会社に出資したんでしょう? だったら、おそらく借用書もないから給料の差し押さえは無理でしょうし、道義的責任を追及するしかないと思いますけど、そんな奴等に道義的もクソもヘッタクレもないでしょうから、やるとしたら法律ぎりぎりの追い込みか、嫌がらせくらいでしょうね」
(こいつ、ほんまに弁護士か?)と思いながら、
「確かに、そんな奴等に嫌がらせをしても仕方がないから、どっちにしても最後は泣き寝入りっていうことになるわなぁ・・・ ほんまに悪は損をせぇへんのぅ! 会社の名前をヨイソンに変えたくなってくるわ・・・」と言いました。
「そんな、立ち上げたばっかりなんですから、弱音なんか吐かないでくださいよ」
「それにしても、親父が相手にしたこともない大物って、やっぱりみらい観光開発のことなんやろうか?」
「・・・・・」 
 紳は真剣な表情で、しばらく間を置いたあと、
「僕もそのことをずっと考えていたんですけど・・・ 圭介さん、どっちにしても、みらい観光開発の事を、詳しく調べたほうがいいんじゃないですか?」
 と言った時、私の携帯電話が鳴り、相手はお父さんからだったので、話を中断して電話に出ました。
「お父さん、お疲れ様です」
「お疲れ様、圭介君、今大丈夫かな?」
「はい、大丈夫ですよ」
「あのな、実は今、うちのメインバンクの担当者から電話があって、」
 と、いつも冷静沈着なお父さんが珍しく、少し慌てた様子で話し始めました。
 お父さんの話によると、今日の午前中に大阪インペリアルホテルの第一根抵当権者である銀行と、みらい観光開発の坂上との話し合いが持たれることになっていたのですが、約束の時間に坂上が現れなかったそうです。
 銀行の担当者が坂上に電話をしましたが、留守番電話で通じなかったため、今度はみらい観光開発に電話をしたところ、坂上は先週の金曜日で会社を退職したと告げられたそうです。
 銀行の担当者は驚きながらも、引継ぎはどなたがされるのかと訊ねたところ、みらい観光開発は大阪インペリアルホテルのことは初めて耳にすると言ったあと、坂上が何をしていたのか全く報告が無かったため、彼がやっていた仕事に関しては一切関知していなかったと言われたそうです。
「・・・・・・」
 私は言葉を失い、頭の中を整理するのにしばらく時間が掛かりましたが、「お父さんは今、どこにいるんですか?」と、先ずはお父さんと会って話すことにしました。
「いま自宅なんやけど、今から銀行に行って話をしに行くことになったから、すぐに本町に向かうつもりなんよ」
「そうなんですか」と言ったあと、もしも自分が銀行との話し合いに同席した場合を考えて、(逆効果やな)と判断し、
「じゃあ、お父さんは銀行と話が終わったら、僕と会って話ができますか?」と訊ねました。
「うん、それは大丈夫やで。私は話が終わったらそのままホテルに入ることにするから、銀行との話が終わったら、圭介君に電話するわな」
「はい、分かりました」と言って、電話を切りました。
「圭介さん、どうしたんですか?」
「あのな、いまお父さんからやねんけど・・・」
 私は紳に、事情を話しました。
 紳は話を聞き終わったあと、
「・・・・・・・・」
 しばらく無言で、何かを考えておりましたが、
「ということは、坂上は初めからホテルを買うつもりなんかなくて、大阪インペリアルホテルを倒産に追い込むことが目的やったっていうことですね」と言いました。
 確かに紳の言うとおり、坂上は金融機関をひっかきまわして雲隠れしたことによって、お父さんは信用を失い、各金融機関は債権を回収するためにあらゆる手段を行使してくると思われます。
「圭介さん、ホテルは今の稼働率半分の状態で、借入金の返済は可能なんですか?」
 私はしばらく考えた後、
「いや、おそらく今の状況やったら、金利を支払うのがやっとこさやと思う。銀行とお父さんが最終的に合意した再建案は、あくまで全室の稼動が前提ではじき出した返済計画やから、改装を済ませて稼働率を上げない事には、どうしようもないやろう」と言いました。
「じゃあ、とにかく銀行が保全に走る前に、4階から上の改装費用を用意しないと、自主再建は無理ということになりますね」
「もし、このままの状態で、何とか支払いだけ続けたら、ホテルはどうなると思う?」
「おそらく、お父さんは著しく信用を失くしていますから、仮に支払いを続けたとしても通常取引は無理でしょうし、金融機関は事故扱いにして、待ったなしで回収に走るでしょう。だから、残された道は会社更生法の民事再生手続きをするか、破産の申し立てをして破産するか、最悪の場合は夜逃げですね」
 確かに紳の言う通りなのですが、
「俺の親やぞ、破産とか夜逃げなんかさせられる訳ないやろう!」
 と、声を少し荒げてしまいました。
「確かに・・・ そうですよね」と、紳は申し訳なさそうにしておりましたが、とつぜん何かを思い出したときのような表情で、
「それじゃあ圭介さん、いっそのこと大阪インペリアルホテルを、ウォルソンで買収したらどうですか?」と言いました。
「買収って、どういうこと?」
「ようは、みらい観光開発がしようとしてたことを、そのままウォルソンでやってしまうんですよ。それも、資金を出すことなくホテルの債務はそのままにして、ホテルの土地と建物の名義を事件売買でウォルソンに移転してしまうんですよ」
(事件売買かぁ・・・ なるほどな)と思いながら、
「そっちの方が、銀行と話がしやすいんか?」と訊ねました。
「はい、不動産を一旦こっちの名義にして、経営権も営業権も含めた全ての権利と、借入金とかリース代金とかの負債の一切合財をウォルソンに移してしまった方が、話はしやすいですね。向こうは嫌でもこっちと話をしないといけないようになりますし、お父さんの負債をそれでチャラにしてしまうんですよ」
(そういうことか・・・)と思いましたが、公的な金融機関に対して、通常の売買と違って事件売買を仕掛けるということは、真正面から喧嘩をふっかけるようなものなので、
「でも、そんなにすんなりといくか?」と訊ねました。
「はい、事件売買なんかしたら、勿論すんなりとは行かないでしょうから、向こうがテーブルに就きやすくするために、先にこっちが改装費用を捻出して、すぐにでも改装工事を始めて、ホテルの経営を立て直すっていう姿勢を見せないと、相手は乗ってこないと思いますけどね」
「そうやなぁ。じゃあ、金はこっちが出すから、相手をテーブルに就けさせて、尚且つお父さんに箕面の家をきれいにして残すことができるか?」と、私が訊ねると、
「そんなん、僕が交渉するんですよ!当たり前じゃないですか!」
 と、紳は自信満々に答えました。
「よし、じゃあ改装費用はウォルソンから出すことにしようか」
 紳は少しだけ首を傾げたあと、
「それは、止めておいたほうがいいと思います」と言いました。
「なんで?」
「圭介さん、ウォルソンは株式会社で、出資してくれた株主たちがいますから、会社の金を動かしたら後で報告しないといけないんですよ。それに、大阪インペリアルホテルは普通やったら絶対に手を出さない案件なんで、株主たちに納得のいく説明ができないですから、会社の金は使わないほうがいいですね。
 それと、会社の金は使わないほうがいいという一番大切な理由は、圭介さんはこれから千里さんと結婚して、株主の人たちに千里さんをお披露目しないといけないじゃないですか。それで、大阪インペリアルホテルが千里さんのお父さんの案件ということが株主たちに知られたら、圭介さんも千里さんも肩身の狭い思いをすることになるでしょう?」
(こいつ、やっぱり酒を飲んでなかったら凄いわ・・・)と、あらためて感心しました。
「確かに、その通りやな・・・ じゃあ、俺の個人の資金を出すことにするわ」
「そんな、圭介さん一人に出させる訳にはいきませんから、僕と半分ずつ出しましょうよ」
 私はホテルの悲惨な現況を思い出しながら、
「お前、そう簡単に金を出すって言うけど、壁とか天上とか床も張替えやし、部屋の内装に什器備品が乗ってきて、水道の配管やら電気の配線も、全館でやり直しせなあかんし、おまけにエレベーターもやから、軽く5千万は越えてくるし、下手したら億までいくかもしれんねんぞ」と言いました。
「別に、5千万が一億になってもいいじゃないですか。あとで僕が必ず回収しますし、僕も自分で掛け金を払わないと気合が入らないんで、半分出しますよ!」
 こうなってしまうと、これ以上紳を説得しても言う事を聞かないことは分かっておりますので、
「分かった。半分出してくれ」と言いましたが、何かが引っかかっているような気がしました。
「じゃあ、今からお父さんに話をして、了承してもらったら、すぐに業者の手配に入りますよ」
「うん、分かった」と言ったあと、(そうや!)と、引っかかっていたことを思い出し、
「考えたら俺、千里には全財産が六千万って言うてるから、もしもそんなことを訊かれたら、話を合わせといてくれよ」と言いました。
「六千万!?・・・ なんでそんな嘘をついたんですか?」
「いや、実際に俺の名義の資産は六千万だけやから、先にそれを渡して後から他の分を正直に言おうとしてんけど、六千万って知ったただけで、なんでこんな大金を持ってることを黙ってたの?とか、私のことを騙してたとか、試してたとか言われたから、これはいっぺんに言わない方がいいやろうと思って、まだほんまのことを言ってないねん」
「分かりました。もしも何か訊かれた時は、話を合わせときます」
「まぁ、とりこし苦労やろうけど、千里はまだ、俺のことを全部知ってるわけじゃないっていうことを自分で認識してるから、お前に何を訊ねていくのか分かられへんから、今後はその点も注意してほしいねん」
「分かりました。注意しますね。それじゃあ、僕はまだ仕事が残ってますから、今日は遅くなりそうなんで、できたらお父さんとの打ち合わせは10時くらいが有難いんでけど、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫やで。じゃあ、紳は10時にホテルに来てくれや」
「はい、分かりました。それじゃあ仕事に戻りますね」と言って、私たちは一旦離れまして、私はお父さんからの電話を自宅で待機しながら待つことに決めて、愛する千里が待つマイホームへ向かいました。


第31話 対策

 自宅に到着したのは夕方の5時過ぎでしたが、お父さんからまだ連絡が来ていませんので、おそらく相当ややこしい込み入った話になっているのでしょう。
 お父さんの心配をしながら寝室に行って中を覗くと、千里はまだぐっすりと眠っていたので、リビングに行ってソファーに座りながら、お父さんからの連絡を待つことにしました。
 それにしても、坂上が辞めたというのはおそらく嘘だろうと思いますが、坂上は何の目的があって、今回の事件を引き起こしたというのでしょうか・・・
 大阪インペリアルホテルが倒産して喜ぶ人物といえば、お父さんに迷惑をかけて雲隠れした島崎と田辺だと思われます。
 もし仮に、坂上と島崎、そして田辺の三人がグルで、島崎と田辺の借金を帳消しにするために、坂上が今回の事件を仕組んだ、とは考えられないでしょうか・・・
 しかし、そもそもお父さんは島崎と田辺を追い込んでいた訳でもなく、追いかけることすらしていなかったので、こんな手の込んだ仕掛けをしたとは考えられませんし、それになによりも坂上は私の勘なのですが、おそらく彼は旅行代理店の社員などではなく、金融の知識に長けたプロだと思われますので、二人の借金を云々といった、そんな一銭の得にもならない眠たい話に乗るとは考えられませんし・・・
 だとすると、どうしても大阪インペリアルホテルを欲しがっていた第三者が存在していて、何らかの理由で予定が変更となり、必要でなくなったので坂上は手を引いたということでしょうか・・・
 どちらにしても、坂上とみらい観光開発の身辺調査をしないことには埒が明かないので、渡瀬さんに電話をして、追加で調査を依頼することにしました。
 渡瀬さんの携帯電話に直接電話を掛けて、
「所長、先ほどはどうもありがとうございました。実は、」と言って、坂上とみらい観光開発のことを簡単に説明した後、追加で調べて欲しいと依頼しました。
「分かりました。明日から東京に入ろうと思っていたので、その前に圭介さんと会って詳しく内容を聞かせてもらうとして、私も一度ホテルを見ておきたいですし、その坂上の容姿を知っておきたいので、おそらくホテルの防犯カメラに映っている可能性があるでしょうから、ホテルで9時に打ち合わせでどうでしょうか?」
(さすがは渡瀬さん!)と思いながら、「はい、了解しました。それまでに坂上が防犯カメラに映っているのかは確認しておきますので、よろしくお願いいたします」と言って、電話を切りました。
 キッチンに行って冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出して飲んだあと、再びソファーに座ってタバコを吸い終わったときに、お父さんから電話が掛かってきました。
「圭介君、えらい長いこと待たせて悪かったね」
「いえ、それで、話はどうなったんですか?」
「まぁ、簡単に言うたら、銀行から引導を渡される一歩手前っていうことやな」
(そうやろうな)と、予想通りだと思いながら、「じゃあ、お父さんは今からホテルに入るんですよね。僕も今から向かいますから、会った時に詳しく話しましょう」と言いました。
「いや、今更慌てても仕方がないし、圭介君は千里を送るつもりなんやったら、千里の出勤時間に来てくれたらいいよ」
 私は少し考えた後、紳も10時にホテルに来ますし、今の今まで銀行と神経の擦り切れるような厳しい話をしていたお父さんに、少し休んでもらうことにして、
「分かりました。それじゃあ10時に千里と一緒に行きますけど、実はうちの顧問弁護士にも話しに加わってもらうことにしたんで、一緒に連れて行ってもいいですか?」と訊ねました。
「さすがに用意周到やなぁ。それじゃあ、悪いけども一緒に話を聞いてもらうことにして、気をつけて来てくださいね」
「はい、じゃあお父さん、あとで行きますね」

 お父さんと電話を切った後、今夜も朝までホテルに缶詰となってしまいますので、もう何も考えずに少し仮眠をとっておこうとそのままソファーの上に横になっていると、いつのまにか眠ってしまったようです。

「zzzz・・・・・」

「圭介、ご飯できたよ」
 という千里の優しい声で目を覚まし、意識がはっきりしてくると、醤油の香ばしい匂いがしてきました。
「千里、おはよう」
「おはよう、早く起きて、一緒にご飯食べよう」
 寝ている間に千里が掛けてくれた毛布を畳んでソファーに置いてキッチンに行きますと、テーブルの上に炊き立てのご飯とおかずが並んでおりました。
「すごいなぁ!」 
「鶏の照り焼きとピリ辛のきんぴらゴボウ、オクラ納豆と和風サラダ、大根と玉ねぎ入りの豆腐のお味噌汁やで!」
「こんなに作るの、時間が掛かったやろう?」
「ううん、1時間とちょっとで出来る簡単な料理ばっかりやで」
「そうなん、じゃあいただきます!」と言って、先ずは味噌汁を啜り、「うまい!」と言ったあと、鶏の照り焼きときんぴらゴボウを食べましたが、どれもこれも申し分のない美味さで、千里はお母さんが言ってた通り、料理上手であったので、
「千里、すごいな! めちゃくちゃ美味いで!」と、とても幸せな気持ちになりました。
「ほんとは、もっと手の込んだ料理を作ってあげたいねんけど、時間のあるときにもっと美味しい料理をいっぱい作ってあげるからね」
「うん、ありがとう」
 料理と共に幸せを噛み締めながら、明るい話題を話そうとしましたが、これから紳と一緒にお父さんと打ち合わせをすることになっておりますので、話題を避けることは逆に不自然ということで、仕方なく事実をかいつまんで話をしました。
「じゃあ、これからホテルはどうなっていくの?」
「それは、俺と紳でなんとか上手くまとめるから、千里は心配しなくても大丈夫やで」と安心させて、明後日のパーティーの話題を持ち出し、なんとか明るく食事を終えました。
 食後の片づけを仲良く二人で終えたあと、仲の良さを保ったまま二人でお風呂に入り、仕事へ向かう準備をして9時過ぎに自宅を出ました。
 ホテルに到着すると、玄関の前に既に紳が到着しており、紳は千里に何度も謝って許しを得まして、無事に仲直りをしてからホテルに入っていきました。
 千里は更衣室に行って着替えてそのままフロントに入りますので、紳と私は事務所の扉を開いて中に入りまして、お父さんに紳を紹介しました。
「初めまして、沢木です。よろしくお願いいたします」
「初めまして、原田です。こちらこそこんな遅い時間に申し訳ないですね。よろしくお願いいたします」
 名刺交換と挨拶が済んだあと、早速本題に入りまして、お父さんが銀行と、どういった話をしたのかを語り始めました。

 まず銀行は第一希望として、大阪インペリアルホテルの半世紀に渡る長い実績を考慮して、あくまで自主再建を目指して欲しいということでした。
 要は、保証人や不動産の追加担保などの条件をクリアーすれば、改装費用を含めた事業資金の融資に応じる用意があると話した上で、追加した保証人や担保の信頼性、あるいはその価値によっては、事業として成り立つ程度に現有の債務を減免し、新たに金銭消費貸借の契約を締結し直すということです。
 続いて第二希望として、前述の自主再建が無理な場合は、ホテルの売却を前提に、債務整理を行うというもので、早い話が、みらい観光開発に代わる事業体をお父さんと銀行の双方で見つけ出し、事業ごとホテルを売却するということで、銀行としては事業倒産による競売を避け、少しでも多く、そして早く債権を回収したいということです。
 そして銀行が提示した最後の条件として、第一希望と第二希望が無理な場合は、あとはお父さんの好きなようにしてください、といった投げやりなもので、お父さんが受けた印象として、おそらく銀行は提示した二つの条件のどちらも、端からお父さんが絶対にクリアーできないものとして、話し合いが行われたそうです。

 話を聞き終わった私は、思わず紳と顔を見合わせ、あまりにも想像していた以上の好条件に驚いてしまいました。 
(これやったら、事件売買で喧嘩なんかせんでも、第一希望を叶えてやろうか)と思っていると、
「圭介さん、僕からお父さんに結論を話してもいいですか?」と紳が言いましたので、どのような話をするのか興味深々で、
「どうぞ」と返事しました。
「ではお父さん、こちらの結論として、銀行が提示した第一希望から第三希望まで、すべての条件をクリアーすることにします」
 お父さんは意味が分からないといった表情で、
「それって、どういう意味なんですか?」と言いました。
「はい、先ずは第一希望なんですけど、ホテルの改装費用は圭介さんの会社であるウォルソンが全額出しますから、銀行から借りなくてもホテルを現状復帰ができます。その上で、圭介さんがお父さんの借り入れの保証人になって、ウォルソンが大阪インペリアルホテルとコンサルタント契約に基づいて業務提携をした上で、借入金の減免の交渉をするということです。この場合、銀行が圭介さんの個人保証だけでは弱いと難色を示したら、ウォルソン所有の不動産が何箇所かありますから、どれかを追加担保に入れることでクリアーできると思います。
 そして第二希望なんですけど、もしもお父さんが事業を圭介さんに全て任せて、ハッピーリタイアを希望されるのであれば、あとはウォルソンが全てを引き継ぐか、圭介さんが大阪インペリアルホテルの代表に就任して、お父さんには退職金として箕面の自宅をきれいにしてお返ししますし、リタイアしたあとでも役員として名前を残して、生活が出来るように給料をお支払いいたします。
 そして最後の希望なんですけど、今私がお話した以外に、お父さんが何かを希望されるのであれば、それを仰っていただきたい、というのが、こちらの結論です」
 話を聞き終わったお父さんは、まるで狐につままれたような不可思議な表情で、
「圭介君・・・ ほんまにそんなことでいいの?」と言いました。
「はい、大丈夫ですよ。本当はもっと厳しい条件を突きつけられると思っていましたから、銀行と正面から喧嘩するつもりだったんですよ。やっぱり、お父さんとお爺さんが築いてきた50年の実績のおかげで、想像以上にやりやすくなりましたから、お父さんは何か希望があれば、遠慮なく何でも言ってくださいね」
「・・・・・・」
 お父さんはしばらく無言のあと、
「なんか、信じられへんくらい想像と違ってたから、頭が回らないというか・・・ もう私が何か考えるよりも、圭介君に全部任せてもいいかな?」と言いましたので、
「はい、分かりました。これから僕も考えて、お父さんに提案していきますね」と言った後、「それで、話は変わるんですけど、お父さんは坂上の写真とか持っていますか?」と訊ねてみました。
「坂上の写真って・・・ それは持ってないけど、坂上も捜し出すっていうこと?」
「はい、そうなんですけど、じゃあ、あとは監視カメラに坂上が映ってるかって確認できますか?」
「監視カメラの映像は、ホテルの入り口とフロントのやつがパソコンに自動録画されているから、それを見てみようか」
 ということで、三人でパソコンの映像を確認すると、
「こいつが坂上やわ」と、鮮明な映像が確認されました。
 私は坂上の顔を見た瞬間に、(やっぱりこいつ、金貸しか事件師やな)と確信を持ちました。
 ただのサラリーマンにしては、着ているスーツや履いている靴も高級品のそれと分かるような一級品で、きちんとした身なりをしているのですが、鋭すぎる眼光と痩せこけた頬のおかげで、まるでインテリヤクザのような怪しい雰囲気を漂わせておりました。
「坂上の捜索も渡瀬さんに依頼するんですよね?」と紳が訊ねてきましたので、
「明日の朝に、ここに来てもらうことになってる」と言いました。
「じゃあ、この映像をDVDに落としたほうがいいですね」と言って、紳が事務所にあった保存用の空のDVDディスクに坂上の映像を落とし込んでくれました。
 ということで全ての打ち合わせと作業を終えましたので、
「お父さん、なんの心配もいりませんから、後は僕と紳に全て任せてくださいね」と言って、お父さんを安心させました。
「はい、分かりました。圭介君、迷惑掛けるけど、あとはお願いしますね」
「はい、任せてください。ということで紳、明日からすぐに金融機関を廻って、事情の説明と交渉に入ってくれ」
「はい、分かりました。任せてください!」

 翌日の朝、ホテルに来てくれた渡瀬さんに全ての事情を話した上で、みらい観光開発と坂上の調査を追加で依頼しました。


第32話 あほパーティーピーポー

 本日は千里と私の婚約記念パーティーを開催するということで、朝から二人で食材の買出しや、料理の下ごしらえなどで大忙しとなっておりました。
 パーティーはテラスでバーべQと焼肉をすることになりまして、昼から千里の両親が応援に加わってくれたおかげで、3時には大方の準備を終えることができました。
 千里がお母さんを連れて家の中を案内している間、お父さんと私はテラスでデッキチェアに座ってビールを飲みながら、これからのホテルの経営についての話を少しだけした後、ここ最近は気の休まることのなかったお父さんは久しぶりにゆったりとした時間を過ごしている様子で、とてもリラックスしているように見えました。
「それにしても、圭介君はすごい家に住んでるねんなぁ」
「いえ、全部親が遺してくれたものですから、自慢なんかできませんよ。それで、千里にも話したんですけど、東側の部屋はお父さんとお母さんの専用の部屋ですから、今日はゆっくり泊まってもらって、これからはいつでも好きな時に来てくださいね」
「ほんまに、もしも千里が圭介君と出会ってなかったら、今頃はどうなってたんやろうって、お母さんと話してたんやけど、親孝行の娘を持って幸せやわ」
「いえ、僕のほうこそ、千里に出会えたおかげで、本当に幸せなんですよ。だから僕は、お父さんとお母さんが千里を生んで大事に育ててくれたことに感謝しています」
 家の中を見て回ったお母さんと千里が戻ってきて、
「圭介、これ見て! パパとママから婚約記念の贈り物!」
 と、左腕にはめた腕時計を見せながら、私の隣に来て、
「はいっ、これ圭介の!」と、右手に持っていた腕時計を私に手渡してきました。
 私は椅子から立ち上がって受け取り、
「うわっ! ロレックスじゃないですか!」と、驚きました。
「見て!デイトジャストのメンズとレディースで、圭介とペアやねんで! 早くはめてみて!」
 受け取った腕時計を左腕にはめてみますと、
「えっ! ぴったしやわ」と、また驚きました。
「圭介が寝てる間に、私がメジャーでサイズを測っててん」
「そうやったん・・・ でも、これ・・・ お母さん、めちゃくちゃ高かったんじゃないですか?」
「なに言うてんのよ! こんな我が侭な娘をもらってもらうのに、ちっとも高くなんかないわよ!」
「何よ、その言い方!」
 また、恒例の喧嘩が始まりそうだったので、
「お父さん、お母さん、ありがとうございます。一生大事に使わせてもらいますね」と、感謝の気持ちを述べつつ、千里とお母さんの間に割って入りました。
「いいえ、どういたしまして。じゃあ千里、準備も終わったから私らも一緒にビール飲もうよ」
「うん、私が持ってくるから、ママも座って待っといて」
 それから私たち4人は、軽くビールを飲みながら、千里が作ってくれたスライスしたキュウリとレモンを載せたスライスサラミと、クラッシュアイスの上に並べた輪切りのレーズンバターをつまみながら、みんなが到着するのを待っておりました。
 家族団欒の幸せな時間が流れ、時刻が5時を過ぎましたので、私とお父さんで炭に火を点けてバーべQのセットをしているときに、千里の携帯電話が鳴りまして、電話に出てなにやら話した後、
「圭介、マリからなんやけど、進君が友達を連れてきていいかって訊いてきてんねんけど」と言いました。
「いいよ。連れておいでって言っといて」
「うん、わかった。マリ、あのな、圭介がいいよって」
 進が友達を連れてくるとは非常に珍しいと思い、(どんな奴を連れてくるんやろう?)と、興味が沸いてきました。
 その後、6時前にマリが到着し、お土産に幻の焼酎『森伊蔵』を持ってきてくれまして、千里とお母さんの3人で、また家の中を見学に行きまして、そのあとすぐに紳が到着しまして、彼はお土産に、私と千里の生まれた年に作られたワインを持ってきてくれました。
 紳はお父さんと私の隣に来て、
「今日は、全ての金融機関を回って話をしてきましたよ」と言いました。
「それで、どうやった?」
「首尾は上々、細工は流流、仕上げを御覧じろ、ですね」と言いましたので、私もお父さんもそれ以上なにも訊ねないことにしました。
 あとは紳の思いどおりにことは運ばれていくでしょう。
 そのあとすぐに、インターフォンが鳴って進と友だちが到着しまして、千里が出迎えに行きましたので、みんなでいったんリビングに集まって、自己紹介をすることにしました。
 進が連れてきた友人というのは、紺色のリクルートスーツを着た、髪型もさっぱりとした感じの短髪で、年齢はおそらく進と同じくらい、170センチほどの中肉中背で、顔立ちは一昔前の苦学生といった、ナウいヤングにしては珍しい、とても真面目そうな好青年といった印象を抱きました。
「初めまして、小池浩史(こいけひろし)です。この度は御婚約、おめでとうございます。本日はお招きいただきまして、真にありがとうございます」
 と、見た目に違わずきちんとした挨拶のあと、
「これは、みなさまで召し上がっていただこうと思いまして持って参りました」と、これまた幻の日本酒『越乃寒梅』をお土産に持ってきましたので、
(こいつら、今日はとことん飲む気やな・・・)と、私も覚悟を決めました。
 みんなでテラスに出て、ビールで乾杯をすることになり、それぞれビールを片手に持ちまして、乾杯の挨拶は紳がすることになりました。
「それでは、圭介さんと千里さんの婚約を祝しまして、乾杯!」
「かんぱい!」
 こうしてみんなでバーべQを囲みながら、塩タンから焼き始め、串刺しした野菜や肉などと続き、今度はロースやバラ、ハラミやテッチャンと焼肉に移行して、ある程度お腹がいっぱいになったところで、
「ピロシと進は、どういう関係なん?」と訊ねてみました。
「あっ! ピロシってかっこいい♡ これから私もピロシって呼ぼう!」と進が言った後、
「はい、僕と進は、鳥取の○○大学で知り合いまして、僕のほうが一学年上だったんですけど、それからお付き合いしています」
「ピロシはね、籠の中の私を救い出してくれた王子様やの♡」
(ということは、ピロシのおかげで、進がマトモ?じゃなくて、自分らしく生きることができるようになったっていうことやな)と、見た目からはゲイであるとは想像できないと思いましたので、
「ということは、つまり・・・ ピロシもあっちの人か?」と、ピロシに訊ねてみました。
「はい、でも僕はタチ専門なので、リバの進とは違いますけど」
「ちょっとピロシ! 私はもうリバじゃなくて、ネコ専門なんやから、アニキに変なこと言わんといてよ!」
「ちょっと待て! 変なこともなにも、さっきからお前ら、ネコとかタチって何を言うてんのか全然分からんわ! 専門用語を使うな!」
 といったような、とても楽しい雰囲気で宴は進み、ビールから焼酎へと切り替えて、あっという間に『森伊蔵』が無くなりまして、今度は『越乃寒梅』に手を伸ばし、またもや瞬きしている間に空となってしまいました。
 とにかく千里とお父さんはいくら飲んでも全く酔わなかったので、紳が持ってきてくれたワインも開けて飲み始めた頃、進とピロシはなにやらひそひそと打ち合わせをした後、二人で立ち上がってリビングに置いていた紙袋を持ってきまして、
「アニキ、今からピロシと二人で、アニキと千里姉にダンスを披露したいの♡」と言いましたので、
「おぉ、そうか! じゃあ見せてもらおうか!」と私が言うと、
「二人とも、がんばって!」と、千里も声援を送りました。
「それでは、幸せなお二人に捧げる、僕と進の愛の社交ダンスを披露したいと思います」と言って、二人は抱き合い、片手を垂平に上げてしっかりと握り合い、もう片方の腕はお互いの腰に回して上半身をのけ反らせ、
「アニキ、千里姉、見ててね♡」と言って、二人は踊り始めました。

「スコーンスコーン小池がスコーン♪(回転しながら移動)
 スコーンスコーン小池がスコーン♪(回転しながら移動)
 カリをサクッと進にスコーン♡(ピロシがバックから進に一突き)
 カリをサクッと進にスコーン♡(ピロシがバックから進に一突き) 
 スコーンスコーン小池がスコーン♪
 スコーンスコーン小池がスコーン♪
 カリをサクッと」

「もういい! わかった!」

(こいつら、お父さんとお母さんの前で、なにさらしとんじぇい!)
 と、一気に酔いが醒めてしまいました。
 紳とマリは二人とも、「あ~はっははは!」と笑っていましたので、二人を軽く睨んだあと、
「お前ら、今のダンスは、俺と千里に何の関係があんねん?」と、進とピロシに訊ねてみました。
「それは、僕たちのように、華麗に愛し合っていただきたいという想いが込められています」
「そうやよ! アニキたちも一緒に踊る?」
「・・・・・」
(華麗って・・・ こいつら、マジかぁ・・・)
 と思いながら、二人が持ってきた紙袋の中を見ました。
「それで、この紙袋の中のロープで、次は何をするつもりやねん?」
「それは、SM官能ミュージカルの『アクメくん』を披露するために持ってきました」
「そうやの! アニキと千里姉に見てもらうために、二人で一生懸命に練習してきたの!」
「・・・・・・」
(あかん・・・ こいつら、やっぱり本物やわ・・・・)と、声も出ませんでした。
 すると、お父さんとお母さんが、みんなには聞こえないような小さな声で、なにやらぼそぼそと会話をした後、
「圭介君、私らちょっと疲れたから、あとは若い人たちで楽しんでもらって、私とお母さんは先に休ませてもらうわ」
「圭介君、千里、おやすみなさい。みんなも楽しんでくださいね」
 と言って、お父さんとお母さんは逃げるようにして自室に去ってしまいました。  
「みてみぃ! お前らのせいで、お父さんとお母さんがドン引きしてもうたやないか!」
 と、二人を叱ったのですが、声を殺して笑い続けていた紳が、
「圭介さん、『アクメくん』を見てあげましょうよ!」と言うと、
「そうですよ! せっかく二人で一生懸命に練習してきたって言ってるんですから! 千里も見たいやろう?」と、マリも一緒になって、千里を巻き込みました。
 千里はとても複雑な表情で、
「うん・・・ 見てみたい」と言いましたので、みんなで居住いを正して観劇することになりました。
「それでは、SM官能ミュージカル、『アクメくん』をご覧ください」と言って、ピロシはロープを手に取り、進は両手を後ろに回して、
「アニキ、千里姉、見ててね♡」と進が言うと、ピロシは進の後ろに回した手にロープを掛け始め、
「ミュージック、スタート♡」という進の合図で幕が開きました。

「エロS~M愛撫♪ エロS~M愛撫♪ 
 さぁ!バコスコバコスコお縄を巻~きつけろ♪ 
 エロS~M愛撫♪ エロS~M愛撫♪ 
 ほら!バコスコバコスコ僕らの~ ア~クメくん♪」

 ピロシが歌い終わったとき、目にも留まらぬ見事な早業で亀甲縛りが完成致しました。
「ぎゃははは!」といった、爆笑の渦の中、
「みてぇ~♡ アニキ~、千里姉~、すごいでしょ~♡」と、どうやら進は、恍惚とした表情でエクスタシーを迎えて、文字通り『アクメくん』へと変身してしまいました・・・・
 そんな進に刺激を受けたのか、腹を抱えて笑い転げていた紳が、
「じゃあ、僕も負けてるわけにはいきませんから、歌を唄います」と、歌い始めました。

「あなた~と私が~ 夢の国~♪ 
 森の小さな教会で~ 結婚式を挙げました~♪ 
 照れてるあなたに~ 虫た~ちが~♪
 く~ちづけせよとはやしたて~♪ く~ちづけせよとはやしたて~♪
 く~ちづけせよとはやしたて~♪ く~ちづけせよとはやしたて~♪」
 やがて、『テントウムシのサンバ』は、
「く~ちづけせよとはやしたて~♪」
 というフレーズが千里と私以外で合唱となってしまい、
「・・・・・」
 しかたなく千里を抱き寄せ、みんなの前でキスをしました。

 とても楽しい一日でございました。

第5章 手に負えない千里

第33話 巨大な敵

 三日後、調査を終えた渡瀬さんが大阪に戻ってきまして、午後の1時に渡瀬さんの事務所で報告を聞くことになり、驚くべき事実が次々と明らかになっていきました。
 先ず、みらい観光開発は関東最大の金融グループ『東興物産(とうこうぶっさん)』の傘下企業であることが判明し、ここ数年のホテル需要の高まりから新設された事業部門で、地方の有力なビジネスホテルなどを次々と買収して傘下におさめて、急成長しているとのことです。
 東興物産は関東最大=日本最大の仕手グループで、仕手株による企業の乗っ取りをメインとした複合企業体です。
 事業内容は株以外では貸し金、手形割引、不動産の売買、貸しビル、レジャー施設の経営、人材派遣などと多岐に渡り、業界内で知らない者はいない日本一有名な金融業者です。
 私の父が経営していた北都興産は、西日本最大のコンサルタント会社であったのですが、業務内容の違いはあれ、東の東興物産、西の北都興産と並び称され、国内で東興物産に資金面で対抗できる唯一の存在と言われておりました。
 私が中学の頃、進の父が経営する近江精工所(おうみせいこうしょ)に乗っ取りを仕掛けてきたのが東興物産で、その時は私の父が仲介に入って乗っ取りは失敗に終わり、事なきを得たのですが、父は生前、そのときのことを私に語ったことがありまして、北都興産の全資金と全精力を傾けて、ようやく双方痛み分けという、勝敗のはっきりとしない引き分けという決着に持ち込むことができた、という苦い経験から、二度と東興物産と関わりを持ちたくないと言っていたことを思い出しました。
「渡瀬さん、じゃあ東興物産が、みらい観光開発を仕向けて大阪インペリアルホテルの買収に掛かったということなんですか?」
「いや、どうもそうではないみたいで、実は私の友人が東京で探偵をしてまして、その人物が東興物産のある幹部のお抱えになってるんで、うまく探りを入れてもらったんですけど、どうも坂上という人物は東興物産の社員でも、みらい観光開発の社員でもない、フリーの事件師やということで、それもかなりやり手の事件師らしくて、東興物産の社長と昵懇の仲やそうです。
 それで、今回はみらい観光開発にヤドカリして、大阪インペリアルホテルに近づいたんじゃないかと思いますね」
「ヤドカリですか?」
「はい、フリーの事件師がよく使う手で、自分だけでは裁ききれない大きな案件のときに、東興物産みたいな大手と手を組んで事件を仕掛けたりするんですけど、今までにも坂上が東興物産の傘下の企業にヤドカリして、事件を引き起こしたことはあったそうなんですけど、信用金庫の不正融資事件とか、上場企業トップの絵画取引とか、どれも世間を騒がせるような大きな事件ばっかりやったみたいで、その幹部曰く、もう3年以上も坂上が何かを仕掛けたっていう話は聞いたことがないっていう話なんで、おそらく坂上が大阪インペリアルホテルに仕掛けたのは非公式というか、知ってるのは東興物産の社長とみらい観光開発の一部の人間だけやと想像したんですけど・・・・」
(確かに、そんなやり手の事件師が、公式に大阪インペリアルホテルに手を出すとは考えられへん)と思いました。
 大阪インペリアルホテルを引っ掻き回し、倒産に追い込むことなど、赤子の手を捻るようなもので、わざわざ坂上クラスの事件師が直に手を出すとは考えられませんので、裏によほどの事情が隠されているとしか思えません。
 なので、その点を渡瀬さんに訊ねてみました。
「はい、確かに圭介さんの言うとおりなんですけど、坂上の話は一旦置いておいて、先に島崎と田辺の話からしますけど、島崎と田辺は東興物産の息の掛かった、東京の清掃会社の役員に就任していたことが判明したんですわ」
「東京の清掃会社ですか?」
「はい、東興物産の傘下っていうても、別に大した会社じゃなくて、東興物産が所有する貸しビルとか、ビジネスホテルの清掃をやっている会社で、はっきり言って誰が役員になろうと、なんの影響もない会社なんで、二人は畑違いやけども役員になれたと思うんですけどね」
「ということは、坂上が裏から手を回して、東興物産の社長に頼んで、島崎と田辺を役員にしたということになるから、島崎と田辺は大阪インペリアルホテルを倒産に追い込んだ見返りで、役員になったということですよね?」
「そこまで裏を取ることはできなかったんですけど、そう考えて間違いはないと思いますね」
「・・・・・」
 私はしばらく考えた後、もしかすると島崎と田辺は、随分と前から坂上と組んで大阪インペリアルホテルを倒産に追い込むための仕掛けを行っていたのかもしれないと思いました。
 お父さんが田辺に投資した約2億円の資金も、実は裏で坂上が糸を引いていて、最終的には東興物産に流れていたのではないでしょうか・・・
 でなければ、清掃事業に何の役にも立たない畑違いの島崎と田辺を会社役員にしてまで、給料を支払う理由が見当たりませんので、渡瀬さんの見解を訊ねてみました。
「そうですね・・・ 私も初めはそう考えたんですけど、どう考えてもお父さんが出した2億が丸々東興物産に流れたとは思えませんし、仮に全額流れていたとしても、東興物産ほどの会社が2億くらいで役立たずを二人も雇い入れるとは思えませんからね・・・
 だから私は、全く違った角度から、もう一回この事件を初めから整理してみることにして、ある重要なことを見落としてることに気づいたんですよ」
「重要なことですか?・・・」
「はい、圭介さんからこの話を初めて聞いたときに、雑談の中で私が大阪インペリアルホテルっていう名前を不思議に思って、圭介さんに訊ねたじゃないですか」
「はい、渡瀬さんも難波に大阪インペリアルホテルがあるっていうことは知らなかったという話でしたよね?」
「そうです。それで圭介さんは確か、本家のインペリアルホテルが大阪に進出したときに、名称の譲渡の裁判を起こして、本家が敗訴になったっていう話をされてたのを思い出して、もしかしたらこの事件に本家のインペリアルホテルが絡んでるんじゃないかと思って、調べてみたんですよ」
「!・・・」
 私は非常に驚きながら、
「本家のインペリアルホテルがですか?」と訊ねてみました。
「はい、それでインペリアルホテルを調べてみたんですけど、実に興味深いことが分かりまして、今から説明しますけど」と言って、渡瀬さんはゆっくりとした口調で話し始めました。

 渡瀬さんがインペリアルホテルを調べた結果、10数年前に引き起こされた大阪インペリアルホテルの名称の裁判で、ある人物の名前が浮上し、深く関わっていることが明らかになったのです。
 その人物の名は、近藤貞和(こんどうさだかず)といって、裁判を提訴したときのインペリアルホテルの取締役兼総務部長で、名称に関する全ての責任者であったのです。
 近藤は提訴に踏み切る前、千里の祖父の元を訪れ、名称の譲渡、もしくは変更を求めて交渉に向かったのですが、近藤は現場から叩き上げで取締役にまで上り詰めた人物であっただけに、無駄にプライドが高く、エリート意識が強かったため、小ぢんまりとした薄汚い大阪インペリアルホテルを見た瞬間に、同じ名前が冠されているということに憤りを感じ、千里の祖父に対して随分と失礼な態度で交渉を行ったそうです。
 その結果、交渉は決裂し、提訴となったのですが、近藤自身、裁判は当然勝訴するに決まっていると高をくくっていたようです。しかし、大方の予想を覆して結果は敗訴となってしまったため、近藤はその責任を取って取締役を辞任し、総務部長の職も解かれて降格となってしまったそうです。
 それから月日は流れて、近藤は昨年の人事で見事に取締役に復活し、総務部長に返り咲いたそうです。

「それで圭介さん、私の見解としては、近藤が捲土重来(けんどちょうらい)を期して、10年前の敗れた裁判の仕返しに、大阪インペリアルホテルを倒産に追い込んで、『大阪インペリアルホテル』の名称を抹消しようとしているんじゃないかと思うんですよ」
「!・・・・」
 私は改めて、亡き父の『懐刀(ふところがたな)』と恐れられた渡瀬さんの千里眼というべきか、探偵としての資質や能力を遥かに超えた分析能力に舌を巻きました。
「確かに・・・ 辻褄が合いますね・・・ じゃあ、坂上は近藤から依頼を受けて動いたということですよね?」
「でなかったら、坂上ほどの人間が携わる案件じゃないですし、近藤が総務の現場で叩き上げでのし上がっていった人物なら、東興物産の社長とか坂上と知り合いであってもおかしくないですからね」
「そうでしょうねぇ・・・ 確かにホテルは不特定多数の人物が出入りしますから、色んなトラブルが生じるでしょうし、そのトラブルを解決してきたのが近藤やったら、そういう知り合いがいて当然でしょうからね」
「・・・・・・」 
 渡瀬さんはしばらく無言で、何かを考えているといった、小難しそうな表情をしながら、
「だとしたら圭介さんは、非常にまずい立場に立たされたということになりましたねぇ・・・」と言いました。
「えっ?・・・ 僕がまずい立場にですか?」
「はい。圭介さんがこのまま大阪インペリアルホテルの再建をするっていうことは、東興物産に真正面から喧嘩を売ったと捉えられると思いますよ」
「!?・・・・」
 私はあまりにも意外な見解に非常に驚きながら、
「僕が、東興物産に喧嘩を、ですか?・・・」と言ったあと、自分の頭が上手く回転していないことに気づきました。
「はい、それと東興物産だけじゃなくて、インペリアルホテルにも喧嘩を売ったと思われても仕方がないでしょうね・・・」
「・・・・・」
 渡瀬さんに何か言おうと思いましたが、上手く言葉にすることができませんでした・・・
 すると、渡瀬さんは私の動揺を捉えたのか、
「あのね、圭介さん、今から話すことは、私が昔、圭介さんのお父さん、北村会長から聞いた話なんで、圭介さんにはそのまま伝えますね」と、父の話を始めました。
「今から約20年前に、私は会長のお供で六本木の六丁目開発で東京に長期滞在してたことがあったんですよ。
 その時に定宿にしてたのは六本木のホテルだったんですけど、仕事が全部片付いて、最後に一泊するのに会長はインペリアルホテルに泊まりたいと仰られたので、私が会長と自分の分の部屋を予約したんですけど、なんでインペリアルホテルに泊まりたいんですかって訊ねたんですね。
 そしたら会長は、インペリアルホテルは日本の国家そのものやから、一回泊まってみたかったって仰られたんですよ。
 インペリアルホテルはその辺の一流ホテルと違って、世界各国の要人を迎える、日本の表玄関であり、迎賓館と同じ役割を持った特別なホテルなんですよ。
 詐欺師や事件師はよく相手を騙すのに一流ホテルを使うんですけど、インペリアルホテルだけは詐欺や騙しの舞台にしないんですよ。
 その理由は、あまりにも格が違いすぎるし、敷居が高すぎて畏れ多くてホテルに入っていけないということもありますし、そんなことよりも何しろ歴史が違いますからね。
 太平洋戦争のときに、アメリカ軍が東京大空襲で東京を焼け野原にしたんですけど、インペリアルホテルだけは空爆しなかったんですよ。なぜかといえば、戦後のGHQの本部をインペリアルホテルに置くことを、アメリカは端から決めてましたから、インペリアルホテルの周辺だけは焼かなかったんですよ。
 それから実際に、GHQの本部が置かれて、戦後の日本の歴史はインペリアルホテルから始まったと言っても過言ではないほどの、そんな重い歴史を持った特別なホテルなんで、会長は一回でいいから泊まってみたいって仰られたんですよ。
 そんなホテルと事を構えたらえらいことになりますし、揉めても得することなんかひとつもないと思いますよ。
 それに、会長が近江精工所の時に、東興物産と揉めてえらい目に遭ったことはご存知でしょう?
 だから圭介さん、悪いことは言いませんから、大阪インペリアルホテルの再建を続けるのであれば、私の東京の友人に仲介してもらって、東興物産の社長に大阪インペリアルホテルの名称を商標登録ごと買い取ってもらうか、もしくは名称を変更しますっていう話をされたほうがいいと思うんですけど・・・」
「・・・・・」
 私の思考回路は、まだ混乱したまま回復していなかったので、何も答えることができませんでした。
 ただ、千里に会いたいという想いだけが、頭の中をグルグルと駆け回っておりました。


第34話 Got to Begin  Again

 渡瀬さんの事務所を出て車に乗り込んだあと、私は父のことを思い出していました。
(親父やったら、どうする?)
「・・・・・・」
 しばらく待ってみましたが、父は何も答えてくれませんでした。
 竹然上人と話した後、(親父も相手にしたことが無いほどの巨大な敵って・・・ もしかしたら、国家の陰謀か?)といったクソ馬鹿げた発想と思っておりましたが・・・・
(実際、親父が勝ったことない相手に、俺が勝てるわけない・・・ まして、国家を代表するインペリアルホテルも敵にまわして・・・)
 と思ったとき、一曲の歌を思い出しました。
 父が凶弾に倒れてから一度も聴かなかった、父が一番好きだと言っていた曲を思い出し、CDケースからビリージョエルと書かれたCDを取り出してデッキに差込み、3年ぶりくらいに聴きました。

 Got to Begin Again  by Billy Joel

 Well so, here I am at the end of the road
 Where do I go from here?
 I always figured it would be like this
 Still nothin' seems to be quite clear

 All the words have been spoken
 And the prophecy fulfilled
 But I just can't decide where to go
 Yes, it's been quite a day
 And I should go to sleep
 But tomorrow I will wake up and I'll know
 That I've got to begin again
 Though I don't know how to start
 Yes, I've got to begin again, and it's hard

 Well, it's been quite a while since I lifted my head
 And I'm sure the light will hurt my eyes
 I see the way that I've been spendin' my days
 And reality has caught me by surprise
 I was dreamin' of tomorrow
 So I sacrificed today
 And it sure was a grand waste of time
 And despite all the truth that's been thrown in my face
 I just can't get you out of my mind
 But I've got to begin again
 Though I don't know how to start
 Yes, I've got to begin again, and it's hard
 Yes, it's hard, oh, ooh, ooh


 竹然上人が言っていた、様々な言葉を思い出しましたが・・・

 戦うことは止めて、この歌のように、もう一度初めからやり直そうと決めました。


第35話 決意

 いつまでも途方に暮れている場合ではありませんので、予定通りに紳の事務所に行って打ち合わせをすることにしました。
 紳は渡瀬さんとの打ち合わせに参加したいと言っていたのですが、どうしても抜けられない仕事を抱えていたため、私ひとりで報告を聞いたのですが、おそらく紳が参加していても最終的には私と同じ結論に達していただろうと思いました。
 今現在、紳が金融機関と進めている大阪インペリアルホテルの再建計画は、先ずはこちらの資金で改装工事を行い、全面改装をしてリニューアルを施し、ホテル自体の資産価値を大幅に上げた上で債務をウォルソンに移管して、新たにウォルソンが借主として現有債務の借り換えを行い、その際に箕面のお父さんの自宅に設定された担保を全て末梢し、代わりにウォルソンが所有する大阪市内の収益物件、価値として2億円近いワンルーム専用マンション一棟を担保として差出し、債務の減免交渉に入るという筋書きなのですが、金融機関側はウォルソンを調査した結果、資産価値として20億円近い収益物件を法人で所有しており、何よりもウォルソンの株主に進の父親を筆頭に、電鉄会社の役員、中堅の住宅メーカーの社長、中堅ゼネコンの創業者などが名を連ねていることが功を奏して、銀行側は思い切った減額に応じる用意があると、口答ですが返答をもらっております。
 早い話が、銀行は大阪インペリアルホテルの借金を大幅に減額する代わりに、今後はウォルソンのメインバンクに納まり、これから共に歩んで行くほうが得策と判断したということです。
 以上のような理由で、ホテルは4日後までの営業となり、それから全館を閉鎖して全面改装工事に入るのですが・・・
 私は今後の方針として、東興物産とインペリアルホテルとは揉め事を起こさず、『大阪インペリアルホテル』という名称を、今後は使用しないという方向で進めていこうと思っておりますで、その意向を渡瀬さんを通じて相手側に伝え、穏便に再建計画を実行していくことに決めました。
 でなければ、もしも東興物産とインペリアルホテルを敵に回した場合、これから始まる改装工事に邪魔が入ったり、せっかくまとまりかけている金融機関との話し合いが、東興物産が銀行に圧力をかけることによって、振り出しに戻ってしまう可能性などが考えられますので、先ずは紳に相談をしたあと、最終的にお父さんの了解を得て、新しい名前でホテルを再開しようと思っているのです。
 お父さんとお母さんに買ってもらった腕時計を見ますと、午後の3時前でありました。
 ちょうど紳が用事を済ませて事務所に戻る時間が2時過ぎと言っておりましたので、そのまま紳の事務所に向かいました。
 事務所に到着すると、紳は既に戻ってきており、今回はプライベートルームではなくオフィスルームに案内されまして、紳に渡瀬さんがまとめてくれた調査報告書を手渡し、応接セットのソファーに座って紳が報告書を読み始めました。
 その間、私は慶子ちゃんが持ってきてくれたコーヒーと、またもやビアードパパのシュークリームをいただきながら、紳が読み終わるのを待っておりました。
 やがて紳はいつものように2回、目を通した後、
「それで、圭介さんはどうするつもりなんですか?」
 と、少し険しい表情で訊ねてきました。
 私は今後の方針を詳しく紳に語ったのですが・・・

「嫌ですね! 僕は今まで圭介さんに逆らったことは一回もなかったけど、今回は絶対に引きませんよ!」 

 と言われてしまいました。
 紳なら当然、私と同じ意見で納得してくれるものと思っておりましたので、あまりにも意外な返答に面食らいました。
「圭介さん、僕はね、北都を解散した時だって、本当は反対だったんですよ・・・
 確かに会長が誰に殺やられたのか分からなかったから、次に誰か狙われるかもしれないっていうことで、みんなを守るために圭介さんが解散したことは十二分に分かっているんですけど・・・
 でもその時、圭介さんが下した判断に賛否両論分かれたじゃないですか。正しい判断やったという人もおれば、親の命を取られて仇を討たんと会社を畳んでしまうんかって、みんな好き勝手に散々陰口を叩きよったじゃないですか・・・
 だから、圭介さんがウォルソンを立ち上げたことは、業界の人たちもみんな注目してるんですよ。
 もしここで圭介さんが弱気な態度を執ったら、ウォルソンは出鼻を挫かれるだけでは済まないんですよ! 初陣で戦う前に降参なんかしたら、これから先に舐められっ放しになってしまいますし、仮に負けても相手が相手やから、敵前逃亡するよりもマシでしょう。
 圭介さん、冷静に考えてみてくださいよ。
 北都を解散した僕らに、これ以上なにか失なうようなものなんかあるんですか?
 もし仮に工事を妨害してきたらって話ですけど、僕が陣頭指揮を執ったんで、近隣対策は問題なく済みましたし、抜かりなく万全にやりましたから心配なんかしなくていいですよ! 
 それでもまだ何かイチャモンをつけてきたら、それこそ警察沙汰の犯罪になるでしょうから、その時は警察に言ったらいいんですよ。
 それと、銀行に圧力を掛けられたらって話ですけど、それこそ望むところじゃないですか!
 仮に銀行が東興物産に屈したとして、話をひっくり返してきたら、こっちは開き直って工事を中止にして、先ずはウォルソンでホテルを専有して、それからお父さんとお母さんには不便をかけますけど、圭介さんの家に引越ししてもらって、箕面の家も専有して、絶対に競売で落ちないようにしてから、タダ同然の値段に落ちるのを待って、こっちで落札したらいいじゃないですか。
 それが一番金の掛からない方法ですし、本来はそうするべきなんですけど、圭介さんがお父さんのことを慮(おもんぱか)って、わざわざ金を掛けてまで、スマートに軟着陸させることにしたんじゃないですか。
 だからもし、うちがそんなことをしたら、銀行側は5億もの債権が未回収で5年以上、下手したら10年も寝たままになって、最終的には1億も戻ってこなくなることを考えたら、東興物産に何か言われたって、上手くかわしてこっちに付いてくれると思いますよ。
 だいたい、今僕が話したことは、全部圭介さんから教えてもらったことなんですよ。
 圭介さん、そろそろほんまに目を覚ましましょうよ!」
「・・・・・・」
 私はしばらく考えた後、紳に何か言おうとしましたが、上手く言葉を見つけることができませんでした。
「だから、『大阪インペリアルホテル』の名前を売るとか、使用しないっていうことは、最後の最後まで切り札として持っておくべきじゃないんですか?
 それに、同じ売るにしても、相手を散々てこずらせて、売値を吊り上げてから売ったほうが得ですし、その方がウォルソンの名前と株が上がるってもんじゃないですか。
 それにもし、向こうの狙いが名称じゃなくて、インペリアルホテルの近藤の個人的な原田家に対する恨みで、あくまでも大阪インペリアルホテルの倒産による、お父さんの社会的地位と社会生活の抹消やったとしたら、圭介さんはどんなことをしてでも戦うことになるでしょう?
 千里さんのお父さんを路頭に迷わせるようなことができるんですか?
 だから圭介さん、ウォルソンは初陣で、東興物産とインペリアルホテルを相手に華々しくデビューしましょうよ!」
「・・・・・」
 確かに紳の言うとおりかもしれないと思いましたが、なんと答えていいのか分からなかったので、黙ることしかできませんでした。
 紳の言うように、私はハッキリと目を覚まさなければならないことは分かっているのですが・・・
「それにね、僕は東興物産と知って、これはもう、避けて通ることができない因縁の対決やと思ったんですよ」
「因縁の対決?・・・」
「はい、もしも会長の死に、東興物産が関わっていたとしたら?って、すぐに頭を過ぎったんですよ」
「!・・・」
 私は非常に驚きながら、
「ということは、もしかしたら親父を殺したのは東興物産かもしれないっていうことか?」と訊ねました。
「いや、断定なんかできませんけど・・・ でも確かに会長を襲った実行犯は、新宿のチャイニーズマフィアで間違いはないと思いますけど、背景が未だに謎のままじゃないですか・・・
 会長は人から恨みを買うような仕事なんかしてませんし、考えられるとしたら東興物産しかないと思うんですよ。
 東興物産は近江精工所の時に、20億近い損失を出していますし、乗っ取り専門の大物の個人投資家たちも巻き込んでましたから、そいつらからの信用も失ってしまったということを考えたら、会長の命を狙うのには十分すぎる動機だと思いますけどね・・・」

(親父の死の真相を探る?・・・)

 私の心の奥底で眠っていた何かが、突然目を覚ましたような気がしました。
「それに、なんで渡瀬さんほどの人が、圭介さんに戦う前から降伏を勧めたのかってことを考えた時に、おそらく渡瀬さんも会長の死に、東興物産が絡んでるんじゃないかって思ったはずなんですよ。
 だから、今度は圭介さんの身の危険を感じて、争いを避けさせようとしたんやと思ったんですよ」
(確かに、そうかもしれんなぁ・・・)と思いましたが、口にしませんでした。
「でもね、竹然上人はこの仕事に、危険な奴は潜んでないって仰ったんでしょう? それと、圭介さんがどうやって巨大な敵をやっつけるのか、楽しみにしているとも仰られたんですから、逆に圭介さんの方から東興物産の社長に出向いて行って、大阪インペリアルホテルを経営していくって宣戦布告をした上で、北都は解散したけど、西にウォルソンの北村圭介ありって、名乗りを上げたらいいじゃないですか!
 そしたら向こうの本当の狙いも見えてくるでしょうし、会長に関することも含めて、色んなことが見えてくると思いますよ」
「・・・・・・」
 私はしばらく考えた後、
「わかった・・・ お前の言うとおりにするわ」と腹を決めました。
 紳は一瞬にして無邪気な子供のような笑顔になり、
「それでこそ、本来の圭介さんですよ!」と言ってくれました。

 その後、紳は私を説得するのに喋り疲れたのか、慶子ちゃんにアイスコーヒーを頼んで一口飲み終わり、ほっと一息ついたところで、
「圭介さん、実は仕事とは別に、大切な話があるんですけど・・・」と、私が今まで見たことがないような、とても複雑な表情をしておりましたので、なにやら嫌な予感がしたのですが・・・


第36話 恋はそよ風と共に

 紳の話を聞き終わり、今まで話していた仕事の内容とあまりにも掛け離れた突拍子もない相談であったので、拍子抜けすると同時に、馬鹿らしさを通り越してなんだかワクワクしてきました。
「紳、マリは俺の家族やねんぞ!」
「はい、分かってます」
「家族に手を出すっていうことは、どういうことか分かって言うてんねやろうな?」
「はい、それも十分に分かってます。でも、僕が今まで、圭介さんに女性のことを相談したことがありますか?」
 どうやら紳は、千里と私の婚約記念パーティーでマリと知り合い、一目惚れしてしまったようです。
「確かにないけども・・・ でも、マリには彼氏がおるねんぞ」 
 紳は顔色一つ変えずに、
「そうなんですか」と、全く意に介していないようです。
「まぁ、彼氏がおろうがおるまいが、どうせお前にとっては、そんなこと関係ないんやろう?」
「はい、まったく関係ないですね!」
(この自信、どっから来るんやろう?)と思いながら、マリの彼氏に関するデーターを頭の中で呼び起こし、ここはひとつ、紳の自信過剰を懲らしめてやることにしました。
「でもな、マリの彼氏は、お前が今まで出会ったことのないタイプの強者やぞ!」
「えっ! それは、圭介さんから見ても強者っていうことですか?」
「そうやなぁ・・・ 俺も今まで出会ったことが無いくらいの強者で、まずは誰に対しても、敬語なんか一切使えへん奴や!」
 紳は少し興味を持ったようで、顔色を少し変えながら、
「ということは、社会的な地位が相当高いっていうことですね?」と言いました。
「まぁ、地位が高いって言うよりも、どっちかって言うたら、波に乗ってるっていう感じやな」
「波に乗ってるっていうことは、IT関連か何かのトップっていうことですか?」
(えらい、勘違いしながらも食いついてきたな)と思いながら、
「いや、そんなITとかっていう横文字が大嫌いな奴で、アルファベットをぶっ飛ばすような凄い漢(おとこ)やねん」と言いました。
 すると紳は、少し身を乗り出すようにしながら、
「アルファベットをぶっ飛ばすっていうことは・・・・ じゃあ、日本の伝統工芸とか、伝統芸能とか・・・ もしかしたら歌舞伎俳優かなにかなんですか?」と言いましたので、
(こいつ、なに言うとんねん?)と思いながら、
「いや、そうじゃなくて、数字に対する概念が、俺らみたいな凡人と違って、独特の世界を繰り広げるというか・・・ とにかく凡人には理解できない頭脳の持ち主っていうことや!」と、勢い込んで力強く言い切りました。
「・・・・・・」
 すると紳は、少し間を置いた後、
「じゃあ、どっかの大学の数学者ってことですか?」と、先ほどまでとは打って変わって、どこか元気のなさそうな声で言った後、
「なんか・・・ 圭介さんの話を聞いてたら、だんだん自信が無くなってきましたねぇ」と、へこんだ様子で力なく呟きましたので、
(もういいか)と、紳の鼻をへし折ったところで懲罰を解除して、マリの彼氏の真実を伝えてあげました。
「も~う、勘弁して下さいよ! そんな奴と僕は、ほんまに闘わなあかんのですかねぇ?」
「そんなもん、決めるのは俺でもないし、お前でもなくて、マリが決めることや」と言った後、(!)あることを思い出して、紳にいいアドバイスをしてやることにしました。
 私が思い出したある事とは、たしか千里が言っていた、
「あのな、紳、いいこと教えてやるけど、マリはギャップに弱いらしいねん」ということでした。
「ギャップですか?」
「そうや、それで紳、お前の車、確かオープンカーやったな?」
「はい、そうですけど」
「よしっ! 俺がマリを落とす、とっておきの作戦を伝授するから、よう聞けよ! 
 名づけて、『魅惑のオープンカー、そよ風と共に』っていう作戦や!」

 ということで2日後、ホテルの改装工事が終了するまでの間、一時的にホテルの事務所を谷町のウォルソンの事務所に移すことになり、作業で服が汚れないように千里とマリにみんなの分の作業着としてジャージとスニーカーを買ってこさしまして、みんなに配り終わったマリが、私の元へやってきました。
「圭介さん、沢木さんって、うちの会社の顧問弁護士さんなんですよね?」
「そうやで」
 紳の話をしてきたということは、どうやら紳は、私が伝授した作戦を実行に移した模様です。
 ちなみに千里には、全てを話しておりましたので、マリが話しやすいようにと、
「圭介、私はみんなのお弁当買って来るね」と言って、席を外してくれました。
「それで、沢木さんって、どういう人なんですか?」
 私が紳の助け舟のつもりで、彼の良い所を話そうとした時、
「ちょっとマリ姉~、このジャージって・・・ よく見たらアシックスじゃなくて、ASECSA(アセックサ)ってなってるやんか!」と、進が横から口を挟んできました。
「あんたがリクエストしたピンクのジャージって、それしか無かったから仕方がないやろう? そのジャージ捜すのに、千里とどんだけ苦労したと思ってんのよ! 最期は鶴橋のバッタモン(偽物)の店で、やっと見つけてきたのに! 
 どうせ汗臭くなんねんから、アシックスでもアセックサでも、どっちでもええやんか!」
 とマリは言って、私との話を再開しようとしたとき、
「進、この靴もよう見たらアシックスじゃなくて、今度はASICSA(アシックサ)ってなってるよ」と、今度はピロシが話の腰を折ってまいりました。
 言い遅れましたが、ピロシは親の後を継ぐために大阪市の東住吉で酒屋を手伝っていたのですが、彼ほどの豪傑を私が見逃すはずがありませんので、半ば強制的にウォルソンの正社員としてしまったのでした。
「ちょっとマリ姉、アシックサってどういうこと? 私、足臭くないし~!」
 マリは鬼のような形相で二人を睨みつけながら、
「もううるさい! そんなもん、誰でも2,3回履いたら足なんか臭くなんねん! こっちは圭介さんと大事な話をしてんねんから、お前らはちょっと黙っとけ!」と吼えまくりました。
 私は紳についての長所のみを、いくつかのエピソードを混ぜ込みながら話をすると、マリは真剣な表情で耳を傾けておりました。

 そして更に2日後、大阪インペリアルホテルの改装工事が始まった日の夜、千里と両親と一緒に自宅でしゃぶしゃぶをして夕食を終えた後、リビングで酔い覚ましの紅茶を飲んでおりました。
 ちなみに、お父さんとお母さん、そして千里には、東興物産やインペリアルホテルの近藤の話を一切しておりません。
 余計な心配を掛けたくなかったことと、紳と相談した結果、あくまで想像の域を脱しない架空の話はしないほうがいいだろうと結論したからです。
 人間とは一度腹をくくってしまうと、あとは気が楽になる動物のようで、たとえ相手がどこの誰であれ、戦うことを決意した後は頭も冴え渡り、非常にリラックスした気分で家族団欒の幸せな時間が経過し、時刻が10時を過ぎた時、
「圭介、電話やで」と言って、千里が私の携帯電話を持ってきてくれて、手渡す時に、「マリからやで!」と、にっこりと微笑みました。
 千里に吊られて、思わず私もにっこりと微笑みながら、マリからの電話に出ました。 
「はい、むしむし?」
「あのね、圭介さん! 今日、沢木さんとドライブに行ってきたんですよ!」
 初めから『むしむし?』は無視されることは織り込み済みであったので、心が折れることなく、
「あぁそう、楽しかったか?」と、平常心で訊ねました。
「楽しかったというか、おもしろかったというか・・・ それでね、沢木さんが二人乗りのオープンカーしか持ってないけど、それでもいい?って言ってたから、どんな車で来るんやろうと思って、私はオープンカーなんか乗ったことが無かったから、楽しみにしてたんですけど・・・ でも・・・沢木さん、なにで来たと思います?」
「さぁ・・・ なにで来たん?」
「自転車ですよ! しかも、ママチャリで『チリンチリン♪』って、ベルまで鳴らしながら迎えに来たんですよ!」
(あいつ、ベルを鳴らすって、教えた以外の余計なアドリブをブッコミやがって・・・)と思いましたが、勿論口にはしませんでした。
「まぁ、確かに二人乗りのオープンカーに違いないけど、私、ビックリしてしまって、一瞬、言葉が出なかったんですよ!」
「・・・・」
 どうやら生野区の法律上では、ママチャリは二人乗りのオープンカーというカテゴリーに属する模様です。
「でもね、そこから続きがあって、私が『自転車でサイクリングに行くんですか?』って訊ねたら、沢木さんが、『乗って』って言ったから、後ろに乗ったんですけど、そしたら沢木さんが自転車を漕ぎ出して、すぐそこの角っこを曲がったとこに、白いベンツのオープンカーが停まってて、その隣に行ってから沢木さんが『降りて』って言ったから私は降りたんですけど、沢木さんはそのまま自転車を乗り捨てて、そのベンツに乗り込んだんですよ!
 だから私は、頭が混乱したまま、『自転車はどうするんですか?』って訊ねたんですけど、沢木さんがね、『そこの歩道橋の下からパクッてきたやつやから、気にしなくてもいいよ』って言って・・・
 まさか、弁護士の先生が私を笑わせるために、わざわざそんな身の危険を冒してまでしてくれるんやと思って・・・私は笑うどころか、感動してしまったんですよ!」
(あいつ、自転車はその辺の人に借りろって言うたのに!・・・
 弁護士がチャリパチって、捕まったらどうすんねん!)と思いながら、
「でも、お前、彼氏がおるんやろう?」と訊ねてみました。
「そんなん、もうとっくの昔に別れましたよ!」
 私は千里から、マリが彼氏と別れたとは聞いていなかったので、
「えっ! いつ別れたん?」と訊ねました。
「5分前ですよ!」
「・・・・・」
 どうやら生野区では、『5分前』というのは『とっくの昔』と定義されるのでしょう。

 ということで、『魅惑のオープンカー、そよ風と共に』作戦は、どうやら成功した模様です。


第37話 お墓参り

 最近、千里のことを疎(おろそ)かにしていると感じているのは、私だけでしょうか?
 実は、そんなことはありませんで、この度、私と千里はめでたく入籍をすることになりましたので、ご報告させていただきます。
 来る2日後の5月9日に、私は34歳の誕生日を迎えますので、その日に籍を入れておけば絶対に結婚記念日を忘れないだろうということで、千里と話し合って決めたのですが、本日は結婚前にご先祖様へのご挨拶ということで、千里の両親と家族4人で墓参りに行くことになりました。
 箕面へ両親を迎えに行きまして、すぐ近くのイオンでお供え用の仏花やお酒、おはぎやお菓子などを買い込みまして、先ずは箕面墓地公園に行って、千里の父方のお墓参りに向かいました。
 ゴールデンウィークが終わった後なので園内は閑散としており、私たち以外は誰も見当らず、初夏の穏やかな陽気の中、静かにお参りすることができそうです。
 お墓の前に到着し、みんなで掃除をしたあと、お父さんが蝋燭と線香に火を点けまして、お母さんが買ってきた仏花を飾り、お供え物をお墓に供えました。
 千里と私はお父さんから火の点いた線香を受け取り、線香立てに供えて二人で両手を合わせ、私は目を瞑って原田家のご先祖様にご挨拶したあと、千里と結婚することを報告しました。
 そして、大阪インペリアルホテルの創業者で、6年前に亡くなられた千里の祖父に、千里と両親を大切にしていくことを誓ったあと、
(お爺さん、インペリアルホテルの近藤が、今度はお父さんに失礼なことを仕掛けてきましたよ! 
 でも、僕がおるから安心してくださいね! お父さんも、ホテルも両方守ってみせますから、楽しみにして見守っていてくださいね!)と誓い、目を開けたときでした。
「!」
 ふと、あることが思い浮かんできたのです。
(お爺さんは、なんでホテルの名前を大阪インペリアルホテルにしたんですか?)
 考えてみると、今更ながらなぜインペリアルホテルと名付けたのか、その理由を訊ねたことがなかったことに気づきました。
「圭介は、私のご先祖様に何をお願いしたの?」と千里から訊ねられましたので、
「いや、お墓参りでお願い事なんかしたらあかんから、なんにもお願い事はしてないよ」と答えました。
「えっ! なんでお願い事したらあかんの?」
 私が答えようとした時、
「お墓参りは先祖にお願い事をするためにしてるんじゃなくて、なにかお願いしたいことがあるんやったら、頑張るから見守ってくださいねって、先祖に報告するためにするもんや」と、お父さんが代わりに答えてくれました。
「そうやで。何かお願い事をするんやったら、神社に行かなあかんねんで」と私が言うと、
「そうやったん・・・ よかったぁ・・・ 今から圭介のお父さんとお母さんのお墓参りに行って、いっぱいお願い事しようと思ってたから、先にこっちに来て正解やったわ」と千里が言いました。
「あんた、圭介君のご両親に、お願い事なんかするつもりやったん? そんな恥ずかしいことせんといてよ!」とお母さんが言うと、
「ごめんなさい」と、千里はしょんぼりとしてしまいました。
 私は千里が少し可哀想だと感じましたので、
「別に、うちの親にお願い事なんかせんでも、千里のお願い事は、俺がみんな叶えてあげるよ」と、格好良く大見得を切りました。
 すると千里は、目を爛々とさせながら腕を組んできて、
「ほんとに? でも、いっぱいあるねんで!」と言いました。
「うん、いいよ。全部叶えてあげる」
「やった~♪ さすがは私の旦那様やわ♡」
 無邪気にはしゃぐ千里にお母さんが、
「ほんまに圭介君は優しいねぇ。千里、あんまり無理ばっかり言うてたら、しまいに捨てられるで!」と、苦言を呈しました。
「圭介は、そんなことせぇへんわ!」
(また、始まった・・・)と思った時、
「さぁ、次は圭介君のご両親にご挨拶に行こうか」という原田家の家訓通りに、お父さんの一言で私たちは流清寺に向けて出発しました。
 時刻は昼の2時だったので国道171号線は混んでおらず、京都へ向けて車を走らせ、名神の茨木インターから高速に乗りました。
 流清寺へ向かう車中で、私はお父さんに、なぜお爺さんはホテルの名前を大阪インペリアルホテルにしたのかを訊ねてみました。
 すると助手席のお父さんは、昔を懐かしむかのような遠い目をして、
「それはね、今から70年前、うちの親父は10歳の時に終戦を迎えてんけど」と、過去の経緯を語り始めました。

 千里の祖父である原田康夫の叔父さん、原田義夫氏は戦前、京都の老舗の料亭で料理人として働いておりました。
 その料亭へ、東京のインペリアルホテルの代表取締役で、総支配人のA氏がたまたま商談で訪れた際、義夫氏の料理に感動して、インペリアルホテルの和食の担当責任者として働いてみないかと声をかけ、その後のA氏による説得が功を奏して、義夫氏はインペリアルホテルに赴くことになったのですが・・・
 しかし、時は戦争真っ只中で、戦況が激化するに連れて義夫氏は徴兵で太平洋のフィリピンのある島の戦線に送られ、敵の機銃によって右腕の肘から先を失い、負傷兵として日本へ帰国しました。
 帰国後、料理人としての道を絶たれた義夫氏はインペリアルホテルを退職し、まともな職に就くことができなくなったため、生まれ故郷である大阪の生家に戻り、将来は料理人を目指していた甥っ子の康夫に料亭で培った技術を伝授したそうです。
 原田家は元々、明治時代から大阪で旅館を営んでおりましたが、空襲で旅館は焼失し、旅館の跡地は更地となっていたのですが、戦後復興の波に乗りまして、再び旅館を立ち上げようとしたところ、短い期間でしたがインペリアルホテルでのホテルの業務を経験をした義夫氏の、これからは旅館よりもホテルのほうが良いという意見を酌んで、跡地にホテルを建設することになったのです。

「その時に、親父と大叔父さんがインペリアルホテルに行って、支配人に名前を使わしてもらってもいいかってお伺いを立てたんよ。
 なんせインペリアルホテルは、戦後復興の日本のシンボルみたいな存在やったから、どうしても叔父さんがインペリアルホテルって名前を付けたいと申し出たんやけど、支配人はもしも自分が叔父さんをホテルにスカウトしてなかったら、戦争で腕を失くしてなかったかもしれないっていう後ろめたさがあったから、いいですよって、二つ返事で了解してくれて、覚書まで書いてくれたんよ」
「そうやったんですか・・・ インペリアルホテルの名前に拘ってたのは、お爺さんじゃなくて、大叔父さんだったんですね」
「そうやねん。それで大叔父さんは30年近く前に亡くなってるんやけど、今から22年位前かな、大阪にインペリアルホテルが進出してくることが決まって、その時に名前を返してくれって総務部長が来たんやけども、なんか若いくせに態度が横柄で、はなっから喧嘩腰で話してきよって、それでうちの親父も職人気質で頑固やったから、名前になんかなんにも拘ってなかったんやけど、総務部長の態度にへそを曲げてしまって、最後は裁判で争うことになってしまって、こっちが勝ってしまったんよ」
 やはり、渡瀬さんが調べた結果通り、インペリアルホテルの近藤の横柄な態度が仇となり、自らの首を自分で締めてしまったということなのですが・・・
 しかしその近藤は今、おそらく坂上と東興物産と徒党を組んで、お父さんに事件を仕掛けてきていると思われますが、私がいる限り、向こうの思い通りになど絶対にさせないと、無言でお父さんに誓いました。
 どうやら後部座席の千里とお母さんは眠ってしまったようなので、起こしてしまわないように運転に集中して慎重に車を走らせ、流清寺には午後の3時半に到着しました。
 私は事前に珍念と連絡を取り合っておりましたので、竹然上人が本日は奈良まで出張麻雀で不在であることを知っており、珍念が私たちを出迎えてくれました。
「珍念、俺の嫁さんと、ご両親やで」
「ようこそおいでくださいました。私、流清寺の高橋と申します。本日は私がご案内をさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」と珍念が挨拶しましたので、
(こいつ、高橋っていう苗字やったんか)と、シンプルな苗字に驚きながらも、そんな単純な名乗りなど許すわけにはいきませんので、
「お父さん、お母さん、千里、ヒットマン珍念君です」と、彼の僧侶としての正式な名称で、みんなに紹介し直しました。
 すると千里が、小首を傾げながら、
「高橋君じゃなくて、ヒットマン珍念君?」と訊ねてきましたので、
「そう、顔はゴルゴ13のデューク東郷に似てて、体はサモハン・キンポーに似ている、香港在住の殺し屋やねん」と言うと、千里と両親はキョトンとした表情で、訳が分からないといった様子でした。
「圭介さん、高橋じゃなくて珍念で結構ですし、香港在住で構いませんから、ほんとにヒットマンだけは勘弁してください」
「じゃあ、香港在住の、ヒットマン高橋・珍念丸でどうや?」
「・・・・」
 珍念は少し間を置いたあと、
「最後の丸は、どこから出てきたのですか?」と訊ねてきましたが、そんなこと私に分かる訳がありませんし、両親の手前、これ以上珍念と遊んでいるわけには行きませんので、
「さぁ、墓参りに行きましょう」
 ということで、境内の裏手にある墓地に行きまして、父と母が眠る北村家の墓と、少し離れたところにある白川家の墓参りを開始いたしました。
 まずは白川家の墓参りをさっさと済ませたあと、父と母のお墓に行きまして掃除を始めたのですが、涙腺の弱い千里は終始涙を流しながら、丹念にお墓の掃除をしたあと、花やお供え物を供え終わり、蝋燭と線香も供えました。
 お父さんとお母さんがお参りを済ませたあと、千里と二人でしゃがみこんで手を合わせて目を瞑り、 
(母さん、心配してた嫁の家族に、俺はこんなにも大事にしてもらってるから、安心してな!)と母に報告したあと、
(親父、俺はやるで! 東興物産と親父が憧れていたインペリアルホテルとも喧嘩をすることになってしまったけど、親父も俺の立場やったら、同じようにするやろう? それと、親父を殺したのは、東興物産なんか? まぁ、これから戦っていったら何か分かると思うけど、とにかく頑張ってみるから、見守っといてな!)と報告しました。

 墓参りを終えて、珍念にさよならをしたあと、帰りに少し足を延ばして嵐山の嵯峨まで行き、湯豆腐と湯葉の会席料理を食べて帰路に就きました。


第38話 祝宴

『人間は判断力の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する』

 アルマン・サラクルーの名言なのですが、自分が結婚するまでは、(なるほどなぁ)と、どこか他人事のような気持ちで、(うまいこと言うたもんやなぁ)と思っておりましたが、いざ自分が結婚するとなると、この名言を第三者的に捉えることができず、自分たちのケースを当て嵌めて、照らし合わせてしまうというのが人情というものです。
 私と千里の場合、どちらも一目惚れであったので、お互いのことをよく知らないうちに、私がイケイケドンドンと勢いだけで結婚まで押し切ってしまったため、判断力の欠如と言うよりも、それ以前に判断力の皆無と言うべきか、お互いに自分の直感を信じて結婚を決意したので、この名言には当て嵌まらないような気がします。
 しかし、今や世の中の三組に一組の夫婦が離婚する時代、お互いの忍耐力が欠如しないようにと願いつつ、さきほど千里と二人で区役所に婚姻届を提出してきました。
 これで私たちは晴れて夫婦となったのですが、披露宴は仕事が落ち着く予定の9月以降に行うことにして、本日は私の誕生日ということもあり、家族4人で心斎橋のステーキハウスに行って、結婚と誕生日のお祝いを兼ねた食事会をすることになっております。
 西区の区役所を出た後、その足でウェディングリングを買うために、心斎橋の大丸百貨店内にあるブルガリに行きまして、千里が以前に予約していた、プラチナのシンプルなデザインのリングを受け取りに行きました。
 ちなみに、千里への永遠の愛を誓うエンゲージリングのほうなのですが、私は母の遺言に従って、母の形見である宝飾品を嫁となった千里にそっくりそのまま贈ったのですが、その中に父が母に結婚20年目?(実際は離婚18年目)にして初めて贈ったダイヤのリングがありまして、千里はそのリングをエンゲージリングにすると言いました。
「別に、新しいのを買ってもいいねんで?」
「ううん、この指輪でいい! 指のサイズもお母さんとぴったりやし、なによりも、圭介のお父さんとお母さんの想い出が詰まった、この指輪でいいの!」
 ということになりましたので、買うのはウェディングリングだけとなってしまったのです。
 買ったばかりの指輪を二人で嵌めてみますと、私は普段からアクセサリーなど身に付けたことがなかったので、少しだけ違和感と照れ臭さを覚えたのですが、
「なんか、不思議なことやねんけど、自分が結婚指輪を嵌めてる喜びよりも、圭介が嵌めてくれてることのほうが、何倍も嬉しい!」
 と言って、千里はとても喜んでくれました。
 ブルガリを出た後、今度はアルマーニに行きまして、千里は誕生日のプレゼントとして、落ち着いた色合いのネクタイと夏に向けた半袖のシャツを買ってくれました。
「ありがとう。大切に使うわな」
「いいえ、こちらこそ、指輪をありがとうね♡」
 買い物を終えて自宅に戻り、妻となった千里に、
「なぁ、今日はお父さんとお母さんが泊まりにくるから、今からエッチしよう!」と、初めての共同作業を申し入れました。
「えっ! 今から?」
「うん! 千里が人妻になったって思ったら、我慢できひんねん」
「人妻って、私は圭介の、ちょっと、きゃっ!」
 押し問答してる間ももどかしくて、千里をお姫様抱っこして寝室に行き、ベッドに寝かせて襲い掛かりました。
 考えてみると、私は素人の人妻とエッチをするのが初めてだったので、『初めての素人妻』という、まるでAVのタイトルのような、なんともエロい響きにテンションが上がってしまいました。
 千里の服を脱がせながら、よく考えてみると先ほど入籍したばかりなので当たり前なのですが、
(ということは、千里も人妻になって初めてのエッチかぁ)と思っただけで、輪をかけて興奮してしまい、いつもと違った攻めにチャレンジすることにしました。
 千里はいつまでたっても初々しさと羞恥心が残っており、それがまたなんとも可愛らしくて堪らないのですが、
「奥さん、こんな恰好で舐められるのは初めてですか?」
「もうっ、うるさい変態! なんで自分の嫁に、こんなことするんよ?! あっ、あかん! いややって!」
「奥さん、さっきからあかんとか、いやって言うてるわりには、カラダのほうはナイスな、あっ、痛っ! ごめんなさい・・・」
 といったような感じで、千里が怒り出すぎりぎりまで、ありとあらゆる卑猥な言葉で羞恥心を煽りながら攻め続け、入籍を済ませた後は『中田氏OK♡』という、予てからの約束どおり、最後は深刻な少子化の対策として、千里の中で思いの丈を遂げました。
 とても気持ちが良かったです。
 いつものように布団の中で抱き合って、イチャイチャしながら余韻に浸っていると、
「もし、赤ちゃんができたら、圭介は男の子と女の子の、どっちがいい?」と千里が訊ねてきました。
「女の子!」
「私は男の子が欲しいねんけど、初めに育てるのは女の子の方が免疫力が高くて、体が丈夫で育てやすいって言うから、やっぱり私も女の子でいいかなぁ。それで、子供は何人欲しい?」
「やっぱり、少子化のことを考えたら、3人は欲しいな」
「うん、一姫二太郎で、3人目はどっちでもいいね」 
 といったような日本の社会問題について真面目に語った後、千里は表情を曇らせて、
「なぁ、明日は大丈夫かな?」と訊ねてきました。
「なにが?」
「明日は沢木さんの家で、入籍祝いと圭介の誕生日パーティーをしてもらうやんか・・・ それで、私とマリの友だちが5人来るし、進君とピロシ君の友だちは7人も来るって言うてるから、何か事件が起こらなければいいねんけど・・・」
 千里の言うとおり、明日のパーティーは同棲を始めたばかりの紳とマリが主催してくれるのですが、メンバーから想像して、何か起こることは必至で、放送事故は火を見るよりも明らかです。
「たしか、進とピロシは大学の時に演劇部やって、その時の友だちが来るって言ってたよな?」
「うん・・・ だから、絶対に何か変なことすると思えへん?」
「そんなん、するに決まってるやん! 進とピロシは、なにかやらかすために、そんだけの人数で来るねんから」
「やっぱり、そう思う?」
「超激アツの鉄板ですよ!」
「もぅ、どうしよう・・・ 私、友達になんて言ったらいいん?・・・ 旦那の会社って、変態ばっかりやって思われてしまうやんか・・・」
「・・・・」
(まぁ、そう思うやろうなぁ)
「もし、進君たちが変なこと始めたら、圭介が止めてよ!」
(絶対むり!)と思いましたが、
「うん、分かった」と、気のない返事をしました。

 夕方になって両親と心斎橋で合流し、4人でまた大丸百貨店に行きまして、私は両親から誕生日のプレゼントとしてビジネスシューズを買って頂きました。 
 その後、みんなでウィンドウショッピングをしながら時刻が6時を過ぎましたので、予約していたステーキハウスで食事をして、食後の軽い運動で歩いて自宅まで戻り、翌日は朝からそれぞれ用事がありましたので、寝酒で軽くビールを飲んで就寝しました。

 翌日、両親は私がプレゼントした城崎温泉へ旅行に行くために、朝から大阪駅へ向かいまして、私と千里は朝食を摂って少しだけゆっくりとした後、紳が仕事で不在なので一人で準備をしているマリのお手伝いのために、11階の紳の自宅へ行きました。
「おはようございます。圭介さん、ご結婚とお誕生日、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「千里、おはよう。それと、結婚おめでとう! でも、主人公やのに手伝ってもらって、ほんまにごめんな」
「おはよう、そんなこと気にしなくてもいいよ。今日は鶏の水炊きするんやろう?」
「うん、そう」
「じゃあ、仕込みは簡単やから、とりあえず家の中を案内してよ」
 ということで、千里はマリの案内で自宅見学をしている間、私はリビングでタバコを吸って待つことにしました。
 紳の自宅も基本的には上と同じ造りなので、男の私は何の興味もないのですが、千里は何をそんなに一生懸命に見学しているのか、二人が戻ってきたのは一時間も後でした。
「おまたせ、圭介、買出しに行こうよ」
 ということで近所のスーパーへ行きまして、大量の食材を購入して紳の自宅に戻ったあと、千里とマリが料理の仕込みを始めましたので、私は自分の家から折りたたみ式のテーブルと座布団、カセットコンロや土鍋などを紳の家に運び込み、宴会の準備を進めました。
 途中で昼食を挟み、千里とマリが料理の下ごしらえを終えましたので、3人でビールを飲みながらみんなの到着を待つことにしたのですが、千里は買ったばかりのリングをマリに見せた後、わざわざ自宅に宝石類を取りに行き、持ってきてマリに見せ始めました。
 やはり女性は宝石と貴金属類には目がないようで、二人はまるで子供のようにはしゃぎながら、心から楽しそうにしていました。
 時刻が5時を過ぎた頃、千里とマリの大学の時の友だち5人が到着しまして、自己紹介を兼ねて挨拶したあと、千里と私はお祝いの言葉と花束とプレゼントを受け取り、私はお礼を述べた後、彼女たちにちゃんとした披露宴は秋に行うと報告しました。
 友人5人はいかにも立命館出身といった、知的な感じの女性ばかりで、その内の2人は既に結婚していて、年齢相応の落ち着いた雰囲気の女性であったのですが、千里がまた宝石類を見せたことによって、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎになってしまい、そのままの流れで千里はみんなを連れて、上の階の自宅の見学に行ってしまいました。
 一人取り残された私は、ビールをちびちびと飲みながら待っていると、6時前に紳が戻ってきて、続いて進とピロシが仲間たちを連れて到着しました。
 進が連れてきた7人というのは、チビ、デブ、メガネ、ノッポ、悪人顔、といった、それぞれ個性的な若者たちで、どこか垢抜けしていないところが好感を持てるといったメンバーでした。
 やがて女性陣が戻ってきて、全員で挨拶と自己紹介を行ったあと、千里と私は男性陣のみんなからのお祝いとして、ペアのパジャマをいただきました。
 紳の乾杯で食事会が始まり、二つの鍋を囲んで様々な話をしながら酒を飲み、場が盛り上がってきたところで、
「アニキ、そろそろお芝居を始めてもいい?」と進が口火を切りましたので、
「いいけど、あんまり無茶なことはするなよ!」と、糠に釘と分かっていましたが、一応念のために釘を刺しました。
 すると、7人が立ち上がって、それぞれの荷物を持っていったんリビングから出て行ってしまいました。
「みんな、なにしてんの?」と、ピロシに訊ねますと、
「みんな着替えに行ってるんです」と答えました。
「着替えって、えらい本格的なお芝居をするつもりなんやなぁ。それで、どんなことするの?」
「はい、時代劇をやらせていただきます」
「時代劇?」と私が言った時、
「それじゃあ、準備が整うまでの間、私とピロシで愛の社交ダンスを踊りますので、ご覧下さ~い♡」
 ということで、前回と同じように進とピロシが『スコーン』を披露した後、そのまま続いて『アクメくん』を披露し終わったとき、衣装を着替えた7人がリビングの扉を開けて戻ってきました。
「はい、では準備が整ったようなので、みなさま、大変お待たせいたしました。
 只今から官能冒険時代劇、『見て!肛門』をご覧ください」とピロシが言ったあと、進と一緒にバッグを持ってリビングから出て行きました。
(感動冒険時代劇って、水戸黄門の芝居をするんかぁ)
 と、なにやら嫌な予感をひしひしと感じながらも、芝居を鑑賞することにしました。
 やがて芝居が始まり、どうやら物語の内容は、先の副将軍が全国を旅しながら、悪を懲らしめるという、皆様お馴染みの勧善懲悪な物語のようで、おそらく黄門役が進、助さんがピロシで、7人はそれぞれ格さんと町娘、町人と悪代官、悪い庄屋とその手下2名に扮し、衣装も本格的とは言えませんが、そこそこ趣向を凝らしたもので、さすがは元演劇部なだけあって、芝居の中身も板についた演技と言いましょうか、素人には真似できない中々の演技力でございました。
 やがて物語りは進み、悪い庄屋に騙された町娘が、悪代官に差し出されて手篭めにされる時、
「お代官様! 私には操を立てねばならぬ人がおります! どうかご勘弁を!」
「よいよい、わしはそっちには興味がないのじゃ! そちの純潔を守ってやる代わりに、こっちはどうじゃ?」
「それってお代官様、『は・じ・め・て・の~ アナル♪』ということでございますか?!」
「さよう、なので、『ほのぼのレイプ~♪』といこうではないか!」
 と、サラ金のアコムとレイクのCMソングの替え歌をぶっこんできた以外は、至って真面目に演じ続けておりました。
 しかし、着替えを終えて黄門役の進が登場してからは、ストーリーがまったく頭に入ってこなくなってしまいました。
 進は正面から見た限りでは分からなかったのですが、振り向いた瞬間でした。
「!」
 彼の衣装が、中国の農村部で見られる子供用のズボンのように、お尻の部分が丸い形でパックリと開いたOバックの履物で、もちろん進はノーパンであったために、とにかくケツペロ&裏キンポロ(お尻丸出しの金玉の裏側ぽろり)が気になって、ストーリーなど全く頭に入ってこないまま物語はクライマックスへと向かい、
「静まれ~! 静まれ、静まれ~い!
 この菊の紋所が目に入らぬか~!」とピロシが言った時、
「!」
 進が突然、お尻をこちらに向けて四つんばいになりました。
「きゃーっ!(女性陣の悲鳴)」
「こちらにおわすお方をどなたと心得る! 畏れ多くも先の菊将軍、見て!肛門様にあらせられるぞ!」 
「アニキ~! 千里姉~! 見て!肛~門♡ ご結婚おめでとう~♡」
「・・・・・・」

 その後の表記は筆舌に尽くしがたいほどのお下劣という理由で、自主規制として控えさせていただきます。

 しかし・・・・ この時に彼らの今後の活躍を予見できた者は、彼ら自身を含めて一人もおりませんでした。


第39話 事業計画

 入籍に伴うプライベートのイベントが落ち着き、ホテルの改装工事も懸念されていた妨害などもなく順調に進み、今のところ金融機関との話し合いも順調に進んでおります。
 この間、私と千里は結婚の報告を兼ねて、ウォルソンの株主となっていただいたスポンサーの方たちと、関係者の皆様方への挨拶回りなどで、少しだけバタバタとしておりましたが、最後にメインスポンサーである進の両親への挨拶に向かう前、私は進に、カミングアウトのことをどうするのかと話をしました。
「じゃあ、アニキからパパとママにお話してくださいよ」
「そんなこと、できる訳ないやろう! それでなかっても、たまにお母さんから電話が掛かってきて、進はちゃんとやってますよって言うてんのに!」
 ということで、進の両親にはまだしばらく内緒にするということで話がまとまりまして、
「圭介、どうせ来るんやったら、みんなでお酒を飲むから一泊してから帰り」
 というお母さんの要望で、本日は千里と泊まり支度をして、滋賀県大津市の進の実家へ夕方の6時前に到着しました。 
 両親と一緒に、竹下家で20年以上お手伝いさんをしている、京都出身の料理上手な孝子さんという、初老の小柄な女性が出迎えてくれました。
「初めまして、千里と申します。どうぞ、宜しくお願い致します」
「初めまして、進の父です。よう来たね」
「初めまして、進の母です。こちらこそいつも進がお世話になってるみたいで。
 いやぁ~、それにしても進から聞いてたけど、ほんまに綺麗な娘さんやねぇ!
 圭介が一目惚れしたんがようわかるわ!」
 私の美的感覚が少しおかしいのか、私はみんなが褒めてくれるほど、千里が一見で人目につくような美人だとは思っておらず、どちらかと言えば紳が言っていた、匂い立つような美しさ、もしくはえも言われぬ美しさという、古い言葉でしか表現できないような、とても古風な面立ちと思っているのですが、本人は天下の森高以上だと思っておりますので、この思いは誰にも告げずに墓場まで持って行くことにします。
 早速ダイニングに案内されまして、ピロシの実家から仕入れた、お土産の『越乃寒梅』をお母さんに手渡した後、孝子さんが作ってくれた京風の懐石料理をいただきながら、千里はお母さんから馴れ初めを含めた様々な質問攻めに遭い、私は本来であれば、ウォルソンの初仕事になるはずであった、近江精工所の移転に伴う用地買収の話を、お父さんとすることにしました。
 近江精工所は現在、滋賀県内に4ヶ所の工場を展開しておりまして、生産性の向上や工場間の移動や輸送コストなどの効率を考えて、以前から一ヶ所にまとめようと話が持ち上がっていたのですが、何しろ広大な敷地を必要とするため、移転の話が進まなかったのですが、今回、草津と米原の間にあった、大手食品加工会社の工場が関東に移転することに伴い、その工場の跡地と周辺の用地を買収することができれば、近江精工所の念願であった効率化を目的とした移転を行えるということで、お父さんは工場の跡地を、私は周辺の用地の買収に取り掛かっていたのですが、私の方は紳の助けもあって、一通りの目途は付いていましたが、肝心の工場の跡地の買収に手間取っておりまして、ウォルソンの事業も止まったままになっていたのです。
「圭介、もうすぐ工場が手に入るから、周りの方はまかせたぞ」
「うん、お父さん大丈夫やで。一ヶ所だけ正式に書面は交わしてないけど、別にトラブってる訳じゃないから、まかせといて」
 千里は一目でお母さんに気に入られ、
「千里ちゃん、あんた、着物の訪問着を持ってるか?」
「いえ、持っておりません」
 ということで、千里は京友禅の訪問着を買ってもらうことになりました。
「千里ちゃん、生地から選んで仮縫いとかもあるから、何回か京都に来てもらうことになるけど、別にかまへんやろう?」
「はい、大学は立命館だったので大丈夫です。ありがとうございます」
「お母さん、京友禅って、何百万もするようなやつ、買うつもりじゃないやろうな?」
「あんたの嫁さんにええのん着させて、なんで文句言われなあかんのよ! 私は娘が欲しかったから、今日から千里ちゃんが私の娘やねん! 私は昔から娘に、着物を買ってあげるのが夢やったんよ。
 ほんまに、進が娘やったら良かったのに」
「・・・・・」
 私は千里と顔を見合わせ、(進は娘やで)と思いましたが、今度は千里と目と目を合わせて、
(目と目で通じ合う~♪ た~しかに~ ん~ ホモっぽい~♪)ということは内緒にしようと合図を送りました。
 会席料理は進み、メインの但馬牛のサイコロステーキの後、滋賀県名産の『鮒寿司』を肴に、ビールから日本酒に切り替えた頃、
「圭介、再来週にJR東と西の担当課長と、今度は初めて責任者の、東日本の部長も一緒に奈良で食事をすることになったから、いろいろと用意しとけよ」と、今後の私の経済人としての人生を大きく左右する、とても大切な話をお父さんが切り出してきました。
「うん、分かった。JR東日本の部長がわざわざ出向いてくるっていうことは、本格的に始まるっていうことやなぁ」
「そうや、工場の移転もそうやけど、お前にとっては、何が何でも成功させなあかん大仕事やから、がんばれよ!」

 ウォルソンのこれからの事業計画として、JR東日本がメインとなってJR西日本と共同で推し進めている、いわゆる国家プロジェクトであるリニアモーターカーの、名古屋から新大阪間の延伸事業で、奈良県内に於ける用地買収に伴う様々な前捌まえさばきと、そこで発生するトラブルの解決というのが、今後のウォルソンのメインの仕事となっていくのです。
 なぜ、何の実績もないウォルソンで、しかも若造の私に白羽の矢が立ったのかと言うと、進の父が近江精工所のメインの取引先であるJR側に、強力に後押しをして尽力してくれたこともありますが、裏に隠された本当の理由は、私の父が、リニアの通る奈良県の出身であったからです。
 奈良県は歴史が古いだけに昔から特殊な地域で、行政の力が及ばないアウトロー的な、いわゆる合法・非合法を問わず大小さまざまな団体が地域ごとに根強く権勢を握っており、用地買収は一筋縄ではいかないという背景がありまして、私の父は生前、事業が成功したあと、奈良県内の合法・非合法を含めた様々な団体と結びつきを強くし、県人会を発足して初代の会長に就任し、高速道路の開通や、古寺の復興、観光誘致など、様々な形で地域の発展や振興に巨額の私財を投じて尽力しましたので、各団体のトップから絶大な信頼を得ていたというのが裏にありました。
 私の父は、リニアが京都ではなく奈良を通ることを早くから察知していて、父と竹下会長が相談した結果、進に後を継がせないことにした近江精工所の後継者を、取引先のJR東日本から呼び寄せて、その人物は現在、近江精工所の社長に就任しており、行く行くはJRの傘下に収まろうというほどの、JRとの結びつきを強固にしたあと、JR側にリニアの窓口を設けさせると同時に、来る用地買収に向けて奈良県人会を発足したという、父の約四半世紀に渡る先見の明によって計画された、壮大な事業であったのです。
 元々は父が年齢的に考えて、北都興産でする最後の大事業となるはずであったのですが、志半ばで凶弾に倒れたため、既にJR側と接点を持っていた私が県人会の理事に就任して、父の後を引き継いだという訳なのです。
 しかし、いくら亡くなった父が大物であったとはいえ、本来であれば射殺された実業家の息子が引き継げるようなプロジェクトではないのですが、前述した奈良の特殊な事情に加え、私が県人会のメンバーたちから非常に可愛がられ、亡き父の人柄や信義、人情などのおかげで信頼を得ておりましたので、
「窓口は会長の後を継いで、圭介君がやりなさい」
 という、亡き父が私に遺してくれた、最も価値のある、『人との信頼関係』という遺産を受け継ぎ、私が県人会の総意一致を得たことによって、JR側も私を無視できなくなってしまったというのが本音なのです。
 来週、私は千里を連れて、県人会の副会長(会長は空位のまま)が主催してくれる奈良市内のホテルでの食事会に参加して、ただの理事から専務理事に就任することが決まっております。
「圭介、延び延びになってたけど、ようやくまとまりそうやから、兄貴の遺志を継いでやるぞ!」

 考えてみると、私が父から受け継いだ遺産の中に、進たち親子から『あにき』と呼ばれることも含まれていたのかもしれません。


第40話 手に負えない千里

 進の実家で一泊して夕方に自宅に戻り、千里が夕食の準備を始めましたので、私はリビングのソファーに座りながら、予てから心に刺さっていた棘を抜くために、ひとつの決断を下しました。
 私は千里と両親に、父は癌で亡くなったと嘘をついていたことを正直に話そうと決めたのです。
 来週、奈良の県人会に行く前に、どうしても千里に父の過去を話しておかなければならない事情があり、たとえ棘を抜いて大量に出血したとしても、いつまでも隠し通すことはできないのです。
 県人会に行けば、誰からともなく必ず父の話題になりますし、特に非合法の組織の方たちは言い方がストレートなので、どうしても千里に隠し通すことなど不可能なのです。
 そして、県人会には木村さんという、父の同郷の幼馴染がメンバーに名を連ねておりまして、私が今回の会合に参加する本当の目的は、ただの理事から専務理事に昇進することなどではなく、木村さんに千里を紹介するのが真の目的なのです。
 木村さんは奈良の建設会社の創業者で、奈良県ではトップクラスの実績を持った準大手の立派な会社なのですが、木村さんは3年前に会長を退いて、現在は相談役となっている方です。
 しかし、それはあくまで木村さんの表の顔であって、木村さんの本当の姿というのは非合法の組織、いわゆるヤクザの大親分なのです。
 私は幼い頃から木村さんに可愛がられておりまして、子供のいない木村さんにとって私は、親友の息子以上の実の息子のような存在であり、進の両親とは違った意味で、木村夫妻は私の裏の両親と言うべき存在なのです。
 千里と入籍前に、私は奈良県生駒市の木村さんの自宅を訪ねて、結婚することを報告し、千里を紹介するために一席設けようとしたのですが、
「そらぁ、私も圭介の嫁に会いたいけど、私と会う時は若いもんがいつも一緒やから、その娘さんに変な風に思われるやろう?
 だから、今度の県人会のパーティーやったら、若いもんは会場の外で待たせるし、うちのお母さんも一緒にパーティーに行くから、その時に圭介の嫁と会うことにするわ」
 と、木村さんは四六時中、自宅にいる時でも部屋住まいの若いボディーガードに守られている自らの立場を考慮して、公の場で千里と会うことにしたのです。
 ということで、いつまでも父の話題や、私の裏社会とのつながりを隠すことはできませんし、何よりも私たちの披露宴に父親代わりである木村さんを呼ばない訳にはいきませんので、とりあえず木村さんの話をして流れを作り出し、タイミングを見計らって父の話をすることにしました。
 夕食はお好み焼きで、わざわざネットで注文して取り寄せしている、神戸の森彌食品の『ブラザーソース』の焼ける香ばしい匂いに誘われてテーブルに着きました。
 千里が作ってくれた大阪風のお好み焼きは本格的で、生地には本だしと味の素、トッピングは豚とイカ以外に、マリから教えてもらった鶴橋の精肉店で買ってきた、『油かす』まで入っており、有名店に負けぬほどの美味しさでありました。 
「これ、今まで食べたお好み焼きの中で、お世辞抜きで一番美味しいかもしれん」と、私が絶賛すると、
「うん、確かに油かすを入れたらこんなにコクが出て、香ばしくて美味しくなるんやってこともあるけど、やっぱりこのブラザーソースが最高に美味しいね!」と、千里は自らの料理の腕前を謙遜しました。
 食事が終わり、いつものように食後のコーヒーを飲みながら、
「あのさぁ千里、来週の奈良県の県人会のことやねんけど」と、先ずは木村さんの話からすることにしました。
 話し始めてすぐに千里の顔は曇り、表情も緊張のためか、少しこわばったように見えましたが、何とか最後まで話し終えると、
「・・・・・」
 千里は無言のまま、複雑な表情で私を見つめていました。
 私は本題に入る前に、気持ちを落ち着かせるためにコーヒーのおかわりを注文し、千里は私のコーヒーカップを手にして椅子から立ち上がり、もう一度コーヒーを入れて戻ってきて、私の前に置いた後、再び椅子に座り、私の目をまっすぐ見つめたまま、
「なんとなく、圭介にはそういう知り合いがいるんじゃないかって思ってた・・・ だって、圭介もスーツ着て黙ってたら、ヤクザに見えなくもないっていうか・・・ そういう雰囲気を持ってるもん」
 と言いました。
「・・・・」
 私はなんと答えていいのか分からなかったので黙っていると、
「でも、圭介の仕事には、そういう人たちの力が必要な時があるんやろう?」と、千里が言いました。
「そうやねん・・・ 正攻法で表から行くだけでは、どうしても解決しない問題とかが出てくるから、その時に・・・」
 これ以上、説明することはできませんでした。
 すると千里は、少しだけ表情を和らげ、
「わかった・・・ 圭介にとって両親と同じ存在なんやったら、私にとっても両親と同じやし、私は圭介の嫁になった時から、何があっても圭介に付いて行くって決めてるから、心配しなくてもちゃんと対応するから大丈夫やで」と言ってくれました。
「うん、ありがとう・・・」
 とは言ったものの、本題はこれからなのです。
 やはり、どう考えてもいきなりストレートな話はできないと思い、
「千里、あのな、俺の親父のことで聞いてもらいたい話があるねん」
 と、私が知る父の一番古い話から、順を追って話すことにしました。

 私の父、北村浩介(きたむらこうすけ)は奈良県の奈良市で生まれ、早くに父(祖父)を交通事故で亡くしたため、母と二人暮らしで家庭は貧しく、学費を稼ぐために小学生の頃から新聞配達をして家計を助けておりました。
 浩介が中学に入学した頃、奈良県の桜井市で寺の住職をしていた母の兄が軽い脳梗塞で病に倒れ、左半身に麻痺が生じて住職としての勤めを満足に果たせなくなってしまいました。
 跡継ぎを育成できるほどの立派な寺ではなく、だからといって宗教法人ごと廃寺にしてしまうのはもったいないということで、浩介に後を継がせようと考えた叔父は、浩介が中学を卒業後、知り合いの京都の寺へ修行に行かせることにしました。
 その寺が、流清寺であったのです。
 浩介は流清寺で私の母の白川祐美子(しらかわゆみこ)と運命的な出会いを果たし、浩介が16歳、祐美子が15歳の時でした。
 寺での修行を始めた浩介は、兄弟子であった竹然(後の竹然上人)と共に修行に励みましたが、どうにも隣家の祐美子が気になって仕方がなく、修行にはまったく身が入っていなかったそうです。
 この頃の様子を、私は竹然上人から聞いたことがあるのですが、父と母はお互いに一目惚れであったそうで、由緒正しい良家の深窓の令嬢と、どこの馬の骨かも分からない小坊主との恋など許されるはずもなく、二人はいつも夜中に寺と自宅を抜け出しては、境内の竹林で逢瀬を重ねていたそうです。
 しかし、そのような関係がいつまでも続くはずがなく、間もなく二人の関係は白川家と寺の関係者らに発覚し、浩介は寺を追い出されそうになったのを竹然が必死に嘆願したことによって免れましたが、祐美子は高校進学を機に、大阪の親戚の家に預けられることになり、二人は離れ離れになってしまいました。
 その後浩介は、祐美子を忘れて寺での修行に打ち込もうとしましたが、若い浩介は忘れることなどできようもなく、寺を逐電して祐美子に会いに行くことに決め、世話になっていた竹然に全てを打ち明け、手助けを求めたそうです。
「浩介、お前はこのまま修行しても坊主になることは無理やさかい、わしは止めはせんけども、祐美子ちゃんとのことは修行よりも辛い棘の道になるけど、覚悟はできてんねやろうな?」
「兄(あに)さん、覚悟は出来てます。だから、せめて大阪まで行く片道の電車賃を貸してもらえませんか」
 と言った浩介に、互いに修行の身であったので、まとまった金を持っているはずもなく、竹然はなけなしの現金六千円を手渡したあと、
「ええか浩介、お前は将来、必ず事業に成功して大金持ちになるやろうから、その時にこれよりも立派なものを寺に返しに来いよ!」と言って、寺に代々伝わる宝物の、純銀製のお輪を持たせてくれたそうです。
 そうして寺を飛び出した浩介は、祐美子から届いた手紙の住所を頼りに大阪へ向かい、白川家と断絶した祐美子は親戚の家を飛び出して浩介と共に幼馴染の木村さんを頼って奈良に行き、紆余曲折を経て二人は結ばれ、私が誕生しました。
 その頃、木村さんは家業のヤクザの組を継ぐために、三下修行中であったため、父も同じように組の構成員となる傍ら、木村さんと二人で建設業を立ち上げ、業績は順調に延びて行きました。
 その後父は、建設業以外に宅建の免許を取得して、大阪で不動産屋を立ち上げ、バブルの頃に巨万の富を手にした後、白川家と流清寺と和解するために、様々な手を尽くしましたが、流清寺の方は純金製のお輪と、寺の修復に莫大な資金を寄進したことによって関係が修復され、その後に竹然が住職となったために、何の問題もなくなったのですが、祐美子の両親は生涯、浩介を許す事はありませんでした。
 父は巨万の富を築き上げる間、木村さんと共に何度か身の危険を感じるような無茶を重ねており、母と私を実家に帰して雲隠れをする羽目に陥ったりしましたので、私と母の今後のことを考えて敢えて離婚し、白川家に帰したのですが、私が白川家で不当な扱いを受けていることを母から聞いて知っていた父は、自分の生活が落ち着いている間は私を迎えに来て共に生活し、また雲行きが怪しくなったら白川家に戻すといったことを繰り返しましたので、私は常に冷静で物怖じしない代わりに、想定外の出来事に対しては意外と打たれ弱い、といった複雑な性格に育ってしまったのかもしれません。
 そうして父は、裏の経済界で知らぬ者のいない存在へと上り詰め、父と共に両輪となって組を成長させた木村さんは、日本で最も金を持ったヤクザの大親分となったのです。

 しかし、その父が2年前、商談で東京の新宿に行き、一泊して商談を終えて大阪に戻るためにタクシーで東京駅へ着いた直後、白昼堂々と二人組みの殺し屋に銃撃され、命を落としました。
 父を襲った犯人は、中国語を話していたという目撃証言と、その後の警察の捜査などから、新宿を根城とした福建省のチャイニーズマフィアであったということまでは判明したのですが、未だに犯人は逮捕もされておらず、そもそも父が何の目的で新宿まで行ったのかも分かっていないため、なぜ狙われたのかも含めて、全てが闇に包まれたままになっています。
 父が殺された直後、木村さんは自ら動き、実行犯とその背景を警察よりも早く割り出し、父の仇を討つために関東のヤクザの協力を得て自らの組員を新宿に総動員し、ローラー作戦を展開しましたが、チャイニーズマフィアは想像以上に巨大であり、組織自体が複雑で尚且つ横のつながりが強いために、たとえ日本のヤクザが相手であっても全く怯まず、新宿は一触即発の異常は緊張がしばらく続きましたが、警察の面子を掛けた強烈な介入によって、木村さんの作戦は徒労に終わり、現在に至っています。
 私は父の死に対して、あまりにも当事者でありすぎたために頭が回らず、全く思いも着かなかったのですが、紳が東興物産と思い至ったということは、おそらく木村さんも背景に、東興物産が絡んでいるのではないかと考えていたでしょう。
 私は事件発生直後、紳と一緒に木村さんの作戦に参加しようと申し出たのですが、
「圭介、殺されたのはお前の親父やけど、こっから先は堅気のお前が手を出すもんじゃない」と言う一言で蚊帳の外に置かれてしまい、それ以来、木村さんは私の父の死に対する話を一切しなくなったため、木村さんが東興物産のことを、どう思っているのかは不明なのですが・・・
 なので私は渡瀬さんに依頼して、背後関係を探ろうとしましたが、渡瀬さんを以ってしても真相を解明することができませんでした。
 そうして私は木村さんと相談した結果、背景が分からないだけに第二、第三の犠牲者が出る可能性を払拭することができなかったことに加え、やはり、リニアの仕事は会長が射殺された北都では何かと不都合が生じるため、私は木村さんの許可を得て北都興産を一年がかりで解散したあと、一年間の休養と冷却期間を経てウォルソンを立ち上げ、そして千里と巡り会い、結婚したのです。

 話を聞き終わった千里は、ただでさえ色白なのに顔面蒼白となり、しばらくは無言のまま思いつめたような表情をしておりましたが、
「別に、私は圭介が泥棒でも詐欺師でも、例えどんなに悪い人間でも別れようなんか思ってないよ。
 でも、これから先に私は、圭介が仕事で出かけてる間中、ずっと心配し続けることなんかいやや!
 だからお願い! もう今の仕事はやめて! もし、圭介がお父さんみたいに殺されたら・・・ 私、どうしたらいいの?」
 と言って、堰を切ったように泣き出してしまいました。
「・・・・・」
 私はしばらく考えた後、
「俺が今やってる仕事はお父さんのホテルのことだけやし、これからするリニアの仕事は、危険性なんか全くないし、それに俺は親父に比べたら、千分の一、じゃなくて万分の一も行かないくらいの仕事しかしてきてないから、誰かに命を狙われることなんかないよ」
 と、これ以上、千里を動揺させたくなかったので、東興物産が父を狙ったのかもしれないということを含めて、余計な話は一切しないことにしました。
「でも、たとえ万分の一でも同じ仕事なんやし、ヤクザともつながりがあるねんから、お願いやから仕事はやめて・・・
 パパなんか助けなくてもいいから、私は圭介の命のほうが大切やねん!」
 自分でもやり口が汚いということは承知しているのですが、どう考えても今の仕事を辞めることなどできませんので、
「わかった・・・ 考えるから少し時間をちょうだい」
 と、答えをはぐらかし、時間を稼ぐことにしました。

 しかし、その後、千里は県人会には出席しないと言い出し、私との会話も必要最低限の言葉しか交わさなくなり、何かを急に思い出したかのようにいきなり泣き出したりして、食事もろくに摂らなくなってしまいました。
(じっちゃんが言ってた通り、手に負えん・・・)

 ということで、千里と一緒に、竹然上人に会いに行くことにしました。


第41話 説教

 翌日、県人会への出席が二日後と迫った中、私は両親の墓前に入籍を報告した上で、仕事を辞める話をするということにして、千里を騙して連れ出し、流清寺に向かいました。
 竹然上人には事前に連絡をしておりません。そんなことをしなくても、千里が手に負えなくなったことで、私がいつ、どのタイミングで会いに行ったとしても、竹然上人には必ず会えることが分かっているからです。
 そして、千里には竹然上人のことを詳しく話していません。事前に何か話せば、警戒して行かないと言うかも知れませんし、話したところで信じてもらえるとも思っていないからです。
 自分で撒いた種とはいえ、ここまで千里が私の身を案じてくれることを有難いと思う分、自分の力でなんとか千里を納得させ、普通の状態に戻すことができない不甲斐なさと悔しさを痛感しました。
 そんな思いを抱きながら、先ずは心斎橋の大丸に行きまして、お供え用の供物を買った後、寺のみんなへのお土産として神戸プリンを買い、竹然上人には個別に、大好きな大阪の池田市の銘酒『呉春』を、未成年の珍念にはベルギー産のチョコレートを買い、午後の1時過ぎに大阪を出発して、流清寺には2時半に到着しました。
 いつものように竹林の前に車を停めて降りた後、この時間帯は珍念が竹林の掃除をしていることが分かっていたので、
「お墓参りの前に、先に珍念を捜そうか」と言いました。
「うん」
 二人で流清寺の名物となっている竹林の散策路を歩き、千里が普通の状態であれば、私の両親がデートを重ねていた思い出の場所として、二人を偲ぶ思い出話のひとつもできるのですが、私たちは終始無言で歩き続け、軽く左にカーブになっている先で、掃き掃除をしている珍念を発見しました。
「こんにちは、圭介さん、千里さん。よくおいでくださいました」
「こんちは、珍念」
「高橋君、こんにちは」と、元気のない千里が力ない挨拶をしたあと、突然の来訪にも珍念は驚きもせず、
「もうそろそろ到着されるということで、上人はさきほどから客間でお待ちですよ」と言いましたので、やはり竹然上人は私と千里が来ることを知っていて、待っていてくれてたのでしょう。
 珍念に買ってきたお土産を渡して、一緒に台所に運んだ後、千里と二人で客間の襖を開けて中に入りました。
 竹然上人はいつものように、ローテーブルの座布団に座っておりましたが、わざわざ立ち上がって私たちを迎えてくれました。
「初めまして、千里と申します。どうぞ宜しくお願い致します」
「初めまして、住職の竹然です。よう、おこしくださいましたなぁ。
 ささ、そこに座っておくれやす」と言われましたので、二人で座ろうとすると、
「圭介はんは、外で待っといてもらいましょか」と言われました。
 千里が不安な表情で私を見つめてきましたので、
「大丈夫、じっちゃんは初めて会う人には、いっつもこうやって一対一で話をするから、心配しなくてもいいよ」と言って、安心させようとしましたが、千里の表情を見る限り、私の言葉などあまり効果はないことが分かりましたので、あとは竹然上人に全てを任せるしかありません。
 不安げな千里を残し、後ろ髪を引かれる思いでしたが客間を出た後、台所の椅子に座って待つことにしました。
 千里にしてみれば、ただ墓参りに来ただけと思っていたはずでしょうから、まさか自分ひとりで、しかも初対面の竹然上人と話をするとは思っていなかったので、余計に不安を覚えているのでしょう。
 とにかく千里が、早く元に戻ってほしいと願いつつ、台所に到着すると、珍念がお茶の用意をしておりましたので、
「珍念、ごくろうさんやな」と声を掛けて椅子に座りました。
「いえ、こちらこそお土産をありがとうございます。ところで圭介さんは、ここでお待ちになるのですか?」
「そうやで。じっちゃんに追い出されてん」
「・・・・・」
 珍念は無言でお茶の用意を終えた後、私の目の前のテーブルにお茶を置き、
「千里さんは、お体の調子が悪いのですか?」と訊ねてきました。
「なんで? そういう風に見えた?」
「いえ、千里さんが元気を取り戻すために、もうすぐ圭介さんと一緒に来られると上人が仰られましたので、ご病気か何かと思いまして、心配していたのです・・・」
「心配してくれてありがとうな。それでな、ちょっと色々あって、千里は病気じゃなくて、元気を無くしてるだけやねん」
「そうなのですか・・・・ それで、どことなく圭介さんも元気が無かったのですね。でも、上人とお話をすれば千里さんは元気を取り戻すでしょうから、そしたら圭介さんも元気になられますよね。それでは、私はお茶をお持ちして参ります」と言って、珍念は台所を出て行きました。
 珍念の言ったように、私も竹然上人に任せておけば大丈夫なことは分かっているのですが、どのような話し合いが持てれているのかが気になり、気分を落ち着かせるためにお茶を飲みました。
 しばらくすると珍念が戻ってきて、
「圭介さん、私はまだ掃除の途中なので、終わりましたら戻って参ります」と言って、勝手口から外へ向かいました。
 一人ぼっちとなってしまい、何もすることがなかったので、お茶を飲んだ後に勝手口から外へ出て、車の中でタバコを吸いました。
 今ごろ千里は、竹然上人に心配しすぎだといって説教されているのでしょうか・・・
 それとも、どうしたら私が仕事を辞めるのかと相談しているのでしょうか・・・ 
 やはり、どの角度からどう見ても仕事を途中で投げ出すことなどできませんし、もうすぐ始まるであろう、東興物産、インペリアルホテルの近藤、そして坂上との戦いに向けて、どうしても私は神経をすり減らすでしょうから、是が非でも千里に元気を取り戻してもらわなければなりません。
 そんなことを考えていると、珍念が掃除を終えて戻って参りました。
 私は珍念の所へ行き、時間つぶしで何か話しかけようかと思いましたが、珍念も忙しいでしょうし、それに気の利いた冗談を言う元気が無かったので、そのまま車の中でタバコを吸って待ち続けることにして、車のエンジンを掛けてCDのスイッチを入れ、リピート再生にしたままのビリージョエルの、
『Got to Begin Again』を聴いて、父のことを思い出しました。
 おそらく父はこの歌を、今の私のように一人で何かを考えている時に聴いていたのではないかと・・・ ふと、そう思いました。 
 父が殺されたことを知り、紳と一緒に東京へ駆けつけるために新大阪駅に向かっている途中、ラジオからニュース速報が流れてきて、父は日本最大の暴力団の金庫番で、北都興産は日本最大の総会屋と、キャスターは原稿を読み上げておりましたが、木村さんの組は日本最大などではありませんし、北都は総会屋などではなく、父は一度も他社の株主総会などに出席したことはありませんし、社員も誰一人として総会屋の真似事すらしたことがなかったので、紳が怒ってラジオのスイッチをCDに切り替えた時、この歌が流れ始め、私は母が亡くなった時以来、久しぶりに涙を流しました。
 やはり、私は父の死の真相を明らかにするために、戦わなければなりません。
 おそらくもう、戦いの火蓋は切って落とされているような気がしました。
 いずれ、もうすでに戦端が開かれているということが、何らかの形で浮き彫りになっていくことでしょう・・・
 そんなことを考えていると、勝手口のドアが開いて珍念が現れ、続いて千里と竹然上人が出てきましたので、私は車から降りてみんなの元へ行きました。
「圭介はん、えらいお待たせしましたな。千里はんはもう、なんの心配もいりませんから、今度は若くて綺麗なお母さんを連れて遊びに来ておくれやす」
(なにを暢気なこと言うとんねん!)と思いましたが、
「今度ね、上人様が私と母に、精進料理をごちそうしてくれることになったの」と、千里がとても機嫌が良さそうなニコニコ笑顔であったので、
(良かった・・・元気が戻って)と、ホッと一息ついたとき、寺の入り口から巨大な黒塗りのベンツが2台、境内に侵入してきまして、私のプリウスの隣に停車しました。
「圭介はん、申し訳ないけんども、私は今から絶対に負けられない戦いが始まりますさかい、後は千里はんの言うことをよう聞いて、あんじょうきばっておくれやす」と言いましたので、私たちは竹然上人と珍念に、後は墓参りを済ませて帰ると挨拶しました。
「そうですか。ほな、はばかりさんどっせ」と言って、竹然上人はベンツから降りてきた老人たちを、珍念と共に出迎えに行きました。
 やがて一行は書院へと消えましたので、私は今度、書院に隠しカメラの設置を本当にしようと、一瞬だけ真剣に考えた後、お供え物を持って千里とお墓参りに行きました。
 お墓の掃除を終え、お供え物をして線香を上げてお祈りをし、私は入籍を報告した後、千里が元に戻ってくれたことを感謝し、これからも色々とあるでしょうが、二人でがんばって行きますので、どうか見守ってくださいと報告してお墓参りが終わったとき、
「この世の中で、圭介を救えるのは私だけしかいないねん」
 と、千里が言いました。
「俺を救う?」
「そう。もし、圭介が私と出会ってなかったら、これから圭介はボロボロになってるとこやってん。
 だから、圭介のお父さんとお母さんが、圭介を助けるために私を捜し出して、それから圭介の元に私を導いてくれたんやで!」
 おそらく、竹然上人からそう言われたのだろうと思いながら、
「そうなん・・・」と言いました。
「そうやで! だから、私のことを大事にせぇへんかったら、圭介はお父さんとお母さんに罰を当てられてしまうねんから、お墓の前でちゃんと誓って!」
 確かに千里の言うとおり、もしも千里と出会っていなければと思うと、想像すること自体を自主規制してしまうくらい、今の私には考えられないことなので、
「うん、わかった。これからも一生、千里を愛し続けて、大事にしていくからな」と、墓前で誓いました。
「千里を、じゃなくて、千里だけをやろう?!」
「うん、千里だけを愛し続けます!」
「よし! じゃあ、とりあえず圭介、私はお腹が空いた!」
(ほんまに元気が戻って良かった?・・・ 前よりもっと我が侭になってんちゃうん?・・・)と思いながら、
「なにが食べたい?」と訊ねました。
「らーめん!」
 ということで、千里がすっかり元気を取り戻してくれたことで、私も自動的に元気を取り戻し、帰り道にあるラーメン横綱の一乗寺店に寄って、私は彩ラーメンの大盛りを、千里は味玉ラーメンを注文し、久しぶりに笑顔の食事を楽しむことができて、本当に良かったです。

第6章 敵を知り、己を知れば・・・

第42話 切り札?

 流清寺からの帰り道、千里の両親にも父のことを話すことに決めて、箕面の実家に寄ることにしました。
 千里は話さなくてもいいと言ってくれたのですが、どうしても私の気持ちが落ち着かず、このままでは溜飲が下がらないので、千里に連絡してもらい、夕食を一緒に食べようということになり、私たちはそのまま泊まることにして箕面に向かいました。
 夕方の帰宅ラッシュ前に名神高速に乗ることができましたので、箕面へは6時前に到着し、家の近くのイオンでビールと刺身、イカの沖漬けや鯨のおばけ、十と一いちの奈良漬やカラシ蓮根といった、山海の珍味などを買って実家に着きました。
 買ってきた食材を冷蔵庫にしまった後、お母さんがお風呂を沸かしてくれていたので入ることになったのですが、
「一緒に入ろうよ!」
「いやや! はずかしい!」
 と、初めて実家に来た時と、千里と私の立場がそっくり入れ替わってしまいまして、
「夫婦やねんから、一緒に入りなさいよ」とお母さんにも薦められ、仕方なく一緒に入ることになり、いつものように洗いっこした後に湯船に浸かりながら、
「ほんまに言うの?」と、千里が念を押してきました。
「言うよ」
「そんなん、言ったとしてもパパとママは驚くやろうけど、圭介に対して態度が変わったりなんかしないよ」
「だったら、余計に言ったほうがいいやろう?」
「・・・・・」
 ということで、予定通りに話すことに決めてお風呂から出た後、この前に来た時に千里が新品の下着や靴下、パジャマなどを持ってきて、実家に置いていたのでそれに着替え、ダイニングに向かいました。
 すでに夕食の準備が整っておりましたので、そのままテーブルに着きまして食事が始まり、私と千里はラーメンを食べた後であったので、軽く刺身をつまみながらビールを飲み、私は酔いが回り始める前に、
「お父さん、お母さん、実は僕の父のことで、ずっと黙ってたというか・・・嘘をついてたことがありまして・・・」と、言いにくさを我慢して、話し始めたのですが、
「知ってたよ」
 と、いきなりお父さんから言われてしまい、
「えっ! お父さん、知ってたんですか?」と、確認しました。
「うん、圭介君には黙っておこうと思っててんけど、どう考えても圭介君の若さで、あれほどの財力と実力を持ってるのが信じられなかって、只者じゃないなと思ってたんよ。
 それで、私も新聞とかニュースは欠かさずに目を通すほうやから、2年前の事件のことは記憶に新しかったし、確か亡くなられたのは日本一の経営コンサルタント会社の会長やったということを憶えてたから、その時の記事をネットで確認したら、やっぱり苗字が北村さんやったから、圭介君のお父さんということが分かってんけど・・・ 私もお母さんも千里には黙ってて、知らない振りをしようって決めてたんよ」
「そうだったんですか・・・」
「うん・・・ でも、なんて言うたらいいのか・・・ 圭介君が言いにくかったというのは分かるねんけど、私はほんまに、圭介君のお父さんには、どんな言葉で表していいのか分からないくらい感謝しているし、圭介君が千里と一緒になってくれたから、今こうして何の心配もなくゆっくりできているし、それもこれも全てお父さんのおかげやと思っているから、ほんまに感謝してるんよ・・・
 それに、なによりも圭介君を見てたら、ご両親がどれだけ立派な方やったかがよく分かるから、圭介君が気に病むようなことなんか何一つないよ」
「そうやよ、ほんまに私も圭介君のご両親には、心から感謝しているし、圭介君にも言葉に出来ないくらい感謝してるねんよ」
「ありがとうございます。でも、本当に感謝しなくてはいけないのは僕の方で、もしも千里と出会ってなかったら、僕のこれからの人生はボロボロになってたんですよ」と私が言うと、両親は得心の行かないといった表情で、
「人生がボロボロって・・・ どういうこと?」と、お父さんが訊ねてきました。
「はい、実は、僕を助けるために、僕の両親が千里を捜し出して、僕のところに連れてきてくれたんですよ」
「?・・・・」
 両親は互いに顔を見合わせ、益々分からないといった怪訝な表情になりました。
 すると、黙って話を聞いていた千里が、
「あのね、今日、圭介のご両親に入籍の報告をしにお墓参りに行って来て、流清寺の住職の竹然上人様に会ってきて、色々お話してきたの」と言って話し始めましたので、私も千里から竹然上人とどういう話をしたのか詳しくは聞いていなかったので、両親と一緒に聞くことにしました。

 竹然上人の話によると、私はもうすぐ巨大な敵が目の前に現れて、戦わざるを得なくなるのですが、もしも千里と出会っていなければ、徒手空拳の私は再起不能なほどに叩きのめされて、ボロボロになっていたそうです。
 そんな私の危機を救うために、私の両親が敵を打ち負かす切り札を手にした千里を捜し出し、私の元へ連れてきてくれたそうです。
 その、肝心の切り札というのは、原田家が所有しているものなのですが、原田家だけではその力を発揮させることはできず、北村家とひとつになることによって、初めて効力が生まれるもので、すなわち私と千里が出会い、結婚したことによって、巨大な敵を打ち負かせるほどの切り札となるということらしいのですが、ここまでの竹然上人との話で舞い上がっていた千里は、肝心の切り札が何なのか、具体的な説明を求めなかったので、
「たぶん、切り札って私自身のことやと思うけど・・・」
 と、最後はなんだか訳の分からない解釈となってしまったところで、千里の話は終了しました。
「?・・・・」
 千里の話があまりにも抽象的すぎて、私はいまいちよく理解できませんでした。
 すると、お父さんが珍しく険しい表情で、
「巨大な敵って、もしかして圭介君のお父さんを襲った連中じゃないやろうな?」と訊ねました。
「大丈夫! 私が圭介のそばにいる限り、危険な奴らは一歩も近づくことができないねんって! だから、これからは私が圭介を一生守っていかなあかんようになってん」と、千里は自信満々といった表情で言い切りました。 
 すると、今度はお母さんが、
「もしかして圭介君、そのチク~なんとかっていう住職さんって、20年位前にテレビのお昼のワイドショーで、心霊写真の鑑定とか、悩みの相談とかしてたお坊さんじゃない?」と、私に訊ねてきました。
「はい、おそらくそうですよ。竹然上人は一時期、テレビで占いとか除霊とかやって、すごく有名になってた時がありましたからね」
 尤も、調子に乗ってテレビに出まくったことによって有名人になってしまい、大好きだった競馬、競輪、競艇、雀荘、パチンコなどに気軽に通えなくなってしまったことを、死ぬほど後悔していたことは、千里を元気にしてくれた御礼として、黙っておいてやることにしました。
「え~っ! やっぱりそうやったん? 私、テレビでよく見てて、本物のすごい霊能力者やって思ってたんよ! じゃあ千里、あんた色々と占なってもらったりしたん?」
「うん、そうやで! 私の過去のことをびっくりするくらい、全てパーフェクトに言い当てられたから、初めはめちゃくちゃ怖くなってしまってんけど、ママのことも私とママしか絶対に知らないことまでズバリと言い当ててしまって・・・
 それで、今度はママと一緒に遊びにおいでって言ってくれて、精進料理をご馳走してくれるって、約束してくれてんで!」
「うっそ~? 行こ行こ! めっちゃドキドキしてきたわ!」

 以上のような、分かったような、分からないような、どちらかよく分からない千里の話であったのですが、竹然上人がどうしても私に伝えなければならない重要な事は、直接電話が掛かってきますので、千里に対してこれ以上の詮索はしないでおくことにしました。
(切り札って、本当に千里のことなんかなぁ?)
 と、ぼんやりと考えながら、再びビールを飲み始めました。


第43話 アルバム

 夕食の後、妻の幼い頃の写真を見るというのが私のひとつの夢であったので、原田家の写真を引っ張り出してもらい、リビングで見ることになりました。
 几帳面な性格のお母さんはアルバムの整理もちゃんと行っていて、千里の生まれた時からの写真から順に見ることになりました。
「やっぱり千里は、赤ちゃんの時から飛び抜けて可愛かったんやな」
「そうやろう、当たり前やん!」  
(ちょっとは謙遜せぇよ!)と思いながら、赤ちゃんの時の千里を抱っこしているお母さんの若い頃は、本当に天下の森高とそっくりであったので、
「お母さんは今でも綺麗ですけど、若い時は本当に可愛らしかったんですね」と言った後で、うっかり原田家の家訓を破ってしまったことに気付きました。
「ほんまに、圭介君って可愛いわぁ。千里、圭介君と結婚してくれて、ありがとうね!」
「もう、うるさい!」
「あんた、なんて顔してんのよ? ふつう、自分の母親が褒められたら喜ぶんじゃないん?」
 千里は般若のような形相で、私を睨み付けながら、
「圭介! 早く次のアルバム見いよ!」と言いましたので、言われた通りに次のアルバムを手にして、慌ててめくり始めました。
 千里の小学生の頃のアルバムを見終わり、中学と高校の時の写真を見ていきますと、途中途中で彼氏らしき男性とツーショットで写っている写真が目に付き始めたとき、
「圭介、怒ってる?」と、千里が訊ねてきました。
「えっ! なにが?」
「だって、顔が怒ってるように見えるから、嫉妬してるんかなぁと思って」
 私は元々、嫉妬深い性格ではありませんので、千里の元彼に対して、特に何も意識せずに、ただ若い頃の千里の可愛らしい姿だけを目で追っていたのですが、
「そんなん、あんたが今まで付き合ってきた男性が、全員で束になって掛かっていっても、圭介君には適えへんねんから、圭介君が嫉妬なんかする訳ないやろう!」と、お母さんが私の気持ちを代弁してくれましたので、
(Yes Off Course)と思っていると、
「何よ、その言い方! 確かに大した奴なんかおれへんかったけど、圭介は写真見て、ほかしたろうとか思えへん?」と訊ねてきました。
(いぃやぁ、大切な思い出の1ページなんやから、別に置いてたらいいんじゃないん?)と、本心では思っておりましたが、この場合は私がヤキモチを焼かないと、千里の自尊心が傷付くという、複雑な女心は理解しておりますので、面倒くさいと思いながらも、
「なんか、やっぱりこうやって写真を見たら、腹立つわな!」と、千里の自尊心を満足させてあげました。
 すると千里は、さも満足げな笑顔で、
「やっぱり、ヤキモチなんか焼いて・・・圭介ってかわいいなぁ♡」
 と言いながら、私の頭をなでなでしてきました。
(あぁ、うざぁ・・・)
「もし、あんたが圭介君の元彼女の写真を見たら発狂するやろう?」
 とお母さんが訊ねると、千里は間髪いれずに、
「そんなん、発狂するに決まってるやん! 圭介、アルバムって、どこに置いてるの?」と言いました。
(発狂するんやったら見るなよ!)と思いながら、
「俺の写真は、母さんの実家に置いてるから、流清寺の隣やで」と言って、ここ10年近くに彼女と撮った写真は、自室の机の中にありますので、それらを全て処分することにしました。
「じゃあ、今度はいつ連れて行ってくれるの?」
「いつって、母さんの実家にってこと?」
「そう、私も圭介のアルバム見たいねん」
「・・・・・」
 どうやら千里は、発狂せずにはいられない模様です・・・
 私は中学と高校の頃、なぜか後輩のちょいブスやブサカワな女の子たちに異常に人気がありまして、母の実家には50人以上の女の子たちと撮った写真が、数え切れないほどありますので、ヤキモチを焼くだけでは済まず、母の実家と流清寺を巻き込んで、大炎上してしまうかもしれません・・・
「なぁ、いつ連れて行ってくれんの?」
(しつこいな!)と思いながら、「じゃあ、県人会が終わってからにしようか」と、具体的な日時を定めずに、千里が忘れてくれることを期待しながら、最後のアルバムを手にとってめくりますと、
「?・・・」
 なぜか写真が一枚もありませんでした。
「あぁ、それはまっさらやから、写真は一枚も貼ってないわ」と、お母さんは言った後、何かを思い出したときのような表情で、「そうや、お父さん、今から浜さんに写真をお願いしようよ!」と言いました。
「そうやなぁ、隣の浜さんがカメラマニアやから、今から呼んで圭介君を紹介して、ついでに写真を撮ってもらおうか」
「うん、パパ、そうしよう! 私が浜のおっちゃん呼んでくる」

 こうして原田家の新しいアルバムに、最初に飾る一枚目の写真が決定しました。


第44話 宣戦布告

二日後に行われた奈良の県人会は、千里が専務理事の妻として、さすがは立命館の文系出身といった立派な挨拶をしてくれたおかげで恙無つつがなく終了し、様々な団体の代表の方たちから就任と結婚のお祝いの言葉を頂きました。
なかでも木村さんからはサプライズなプレゼントとして、
「圭介、専務理事の自宅が大阪やったら具合が悪いやろう。結婚のお祝いに、今から奈良市内に家を建てるから、できあがったら千里さんとそこに住みなさい」
と、家をプレゼントしてもらうことになりました。
「それから千里さん、これから専務理事の奥さんとして、いろいろと忙しくなるやろうから、分からないことがあったら、うちのお母さんとよう相談して、圭介を立派な人間に育ててやって下さいね」
「はい、お義父さん、ありがとうございます。一生懸命に努力いたします」
「千里ちゃん、披露宴の時の着物とドレスは私が作ってあげるから、何も心配しなくてもいいよ。それとね、あんたに良く似合いそうな真珠のネックレスとか、指輪とかいっぱいあるから、今からお家に行って、気に入ったものは全部あげるから持って帰りね」
「はい、お義母さん、ありがとうございます」
といったような具合で、千里は木村さん夫妻に一目で気に入られ、帰りに木村さんの自宅に寄りまして、私は木村さんの秘書と、来週に奈良のホテルで行われる、JR東日本の部長との初めての顔合わせに関する報告をした後、これから建ててもらう自宅について、簡単に説明を受けました。
千里はお母さんから両手に抱えきれないほどの、宝石や貴金属類をプレゼントされて、それらを入れて持って帰るのに、高級バッグを3つもついでにプレゼントされておりました。
 帰り際に木村さん夫妻がわざわざ玄関まで見送りにきまして、
「圭介、竹坊(進の父)の一人息子が、お前のところにおるんやろう?」と訊ねてきました。
「うん、うちで働いてるよ」
「どうや、使い物になりそうか?」
「・・・・」
 私は一瞬、なんと答えようかと迷いましたが、
「うん、まだまだ世間知らずやけど、色んなゲイを持ってるから、先が楽しみやで」と言いました。
「そうか、芸達者やったら大丈夫やな。もし、使い物になれへんかったら、うちに連れて来いよ」
(むりむりむりむりむりの、もうひとつおまけに絶対むり! 俺も一緒に殺される~!)と思いながら、 
「うん、わかった。じゃあ、お父さん、お母さん、帰るよ、おやすみなさい」と、帰りの挨拶をしました。
「お義父さん、お義母さん、ありがとうございました。では、失礼致します」
「千里ちゃん、なにか困ったことがあったら、すぐ私に言うておいでよ! それと、がんばって早く私に孫の顔を見せてね!」
「はい、お義母さん、がんばります。おやすみなさい」
 帰りは木村家お抱えの個人タクシーに乗り込みまして、私は何度も利用していたので道の説明をしなくて済みました。
 タクシーが走り出してすぐに、
「圭介・・・ これどうしよう?」と、千里はもらったばかりの貴金属類を指差しました。
 自宅に置いてある母の形見と合わせると、いったい幾らになるのか想像もつきませんので、
「金庫を買うか、銀行の貸金庫を開設して、そこに入れておくか、どっちかにしようか?」と訊ねました。
 千里はしばらく考えた後、
「じゃあ、悪いけど金庫を買ってもらっていい?」と言いましたので、私は明日、取引のある金庫屋に電話して、早速手配すると言いました。
「うん、ありがとうね」と言った後、千里は朝から緊張の連続で、相当疲れているのでしょう。
 私の手を握り締めて、深く瞼を閉じました。
「お疲れさんやったね。家に着くまで寝ときよ」
「うん、おやすみ」
 千里を休ませている間、私は明日からの予定を頭の中で整理してみることにしました。
 明日の日曜日、朝から紳の自宅に行きまして、本日行われた県人会での議事録をまとめた後、専務理事となった私に全てを委任するといった内容が記された、各団体の代表と買収予定地となっている地権者らの委任状と同意書の整理をして、JR東日本の部長へ手渡すためのコピーを作成する予定となっているのです。
ホテルの改装工事は進とピロシに全て任せておりまして、彼らなりに現場監督と打ち合わせをしながら、問題なく進めておりますし、マリは束縛と独占欲の強い紳の要望で、自宅に待機しながら何かあればいつでも動けるような、一種の軟禁状態となっておりまして、今のところマリも凶暴な本性を現さずに、犬のくせに借りてきた猫のように、猫を被って大人しく振舞っております。
 そんなことを考えている間に、クラウンのロイヤルサルーンの特別仕様タクシーの乗り心地のよさに、いつのまにか私も眠ってしまい、運転手さんに起こされた時は自宅に到着しておりました。
 代金はいつも木村さんが支払ってくれるので、運転手さんにお礼を述べた後、いつものようにチップとして一万円を手渡してタクシーを降りました。
 自宅に戻り、千里が宝石類を整理している間、私はお風呂を沸かして速攻で自室に行き、机の中の元カノとの写真をコンビニの袋に入れてキッチンの大きなゴミ箱の中に放り込み、宝石の整理を終えた千里と二人でお風呂に入りながら、本日を振り返りました。
やはり、千里のように度胸があって、機転の利く頭の良い女性でなければ、とてもじゃありませんが私の妻は絶対に務まらないということを改めて認識し、感謝の印として風呂上りにマッサージをしてあげることにしました。
「ほんとにいいの?」
「いいよ、早く横になって」
 千里をベッドに仰向けに寝かせた後、腕や足を揉み解していると、
「!」
 ネットで見たAVの『人妻マッサージシリーズ』を思い出してしまい、思わず(これは、立派な犯罪やけどやってしまうやろうなぁ)と、自分の妻なのですが、異常な興奮を覚えてしまいました。
「はい、今度はうつ伏せになって」と言って寝返らせた後、黙々と太ももを揉みながら、悶々とした気持ちを着々と蓄積し、
「ちょっと、なんでパジャマのズボンを脱がせるのよ?」
「いや、パジャマの上からやったら滑ってやりにくいねん」と、変態マッサージ師と同じような台詞を吐きながら、千里のパンツが私の大好きな薄いブルーのシンプルなデザインのやつであったので、形のいいお尻がプルプルと揺れるのを見ていると、どうにもこうにも辛抱堪らんようになってしまいました。
「きゃっ! なに? マッサージしてくれるんじゃないの?」
「いや、体の内側から揉み解さないと、本当の、痛っ! ごめんなさい・・・・
でも我慢できひんねん!」
「も~ぅ! やめろ変態!」
「だって、奈良のお母さんも早く孫の顔が見たいって、痛い!」

 翌朝、朝食を済ませ、金庫屋に電話をして明日の午前中に自宅に来てもらうように手配をした後、千里と一緒に資料を抱えて10時に紳の家へ行きました。
 朝の挨拶で、マリの顔を見た瞬間、久しぶりに『メェ~』と鳴きそうになりましたが、辛うじてマトモな挨拶を交わした後、紳と私はキッチンのテーブルで資料の整理をすることになり、マリと千里は奈良のお母さんからもらった宝石を見ると言って、上の階に上がりました。
 紳と二人で集中して、先ずは議事録を作成した後、紳がJR用の資料として要点をまとめて短く作り直している間に、私はコピー機で同意書と委任状をコピーしてまとめ上げた時、紳も作業を終えて、プリントアウトした資料に目を通して、全ての作業が終わりました。
「紳、お昼はどうする?」
「そうですねぇ、みんなで何か食べに行きましょうか?」
と言ったとき、私の携帯電話が鳴りました。
 電話は石井さんといって、近江精工所の移転先の用地買収に協力してくれている地権者の一人で、買収予定地で喫茶店を経営されている方で、近江精工所の新しい工場内で喫茶店を出店するという条件で、用地の売却に応じてくれた方です。
「はい、おはようございます、北村です」
「おはようございます、石井です。日曜日なのにすみませんな」
「いえ、どうかされたんですか?」
「いや、あのね、なんか意味はよく分からないねんけど、とりあえず連絡したんですわ」と、少し慌てた様子が、何か異変が起こったということを物語っているようでした。

 近江精工所の移転先となる買収用地の地権者は全部で6人なのですが、一名だけ仮契約を交わせていなかった、吉川さんという方がおりまして、50代のトラックドライバーで、買収予定であった土地の面積は、吉川氏の自宅及びその周辺の敷地面積3500㎡と、地権者の中では一番狭い面積でありまして、吉川氏は土地を売るのを渋っていたわけではなく、昨年の6月に父が亡くなり、先祖伝来の土地であったので、できれば父の1周忌以降に仮契約を締結したいということになっていたのですが・・・

 石井さんの話によると、
「今ね、買い物に行こうと思って、吉川さんの家の前を通った時に、家に大きな看板が掛けられてるから、ちょっと停まって見てるんですわ」
「看板ですか?」
「はい、管理物件っていう看板が掛かってて、東新総業(とうしんそうぎょう)っていう会社の名前が書いてあるんやけど、これって、北村さんの会社と関係あるんですか?」

(あかんっ!・・・ やられた!)

と思いました・・・


第45話 風雲急を告げる

「石井さん、その東新総業って、こっちとは関係がない会社なんですよ」
「えっ! やっぱりそうやったんですか!」 
 私は紳に、メモを取るようにジェスチャーで伝えた後、
「はい、それで、その東新総業の連絡先って書いてますか?」と、訊ねました。
「はい、書いてますよ。03やから東京ですね。言いますよ?」
「はい、どうぞ」
 石井さんが読み上げた数字を復唱して、紳に伝えた後、
「それで、吉川さんは留守というか、家の中にいない感じなんですか?」と訊ねました。
「いや、留守というか、看板は玄関のドアを塞ぐような感じで掛かってるから、もう引越しした後っていう感じやね。私は毎日この前を通るけど、昨日まではこんな看板掛かって無かったから、昨日の夜か今日の朝に取り付けたんやと思いますわ」
「・・・・」
 私は少し考えた後、
「とりあえず、私は今からそっちに行きますから、石井さんは今日、時間はありますか?」と訊ねました。
「はい、大丈夫ですよ。じゃあ、他の売主さんにも声を掛けておきましょうか?」
「はい、よろしくお願いします。それじゃあ、現地に着いてから、また連絡させていただきます」と言って、電話を切りました。
 目敏い紳は、私が説明しなくても電話の内容を理解していましたので、自室から近江精工所の移転に関する資料を持ってきまして、地図を広げて二人で改めて吉川さんの土地を確認しました。
「完全に歯抜けの状態になりますね・・・」
「そうやなぁ・・・」
 吉川さんの土地は、面積は大して広くはないのですが、県道に面しておりまして、新しく取得する土地のちょうど中間地点に位置し、新工場の完成時の予定では、大型トラックが出入りするための出入り口となっているため、もしも吉川さんの土地を取得することができなければ、新たに取得する土地はまるで、歯が抜けたような状態となってしまい、敷地全体が利用価値のない死に地になってしまうのです。
 近江精工所はこれから、リニアの製造に関する新たな事業をJR側から約束されており、その事業を展開するために今回の工場の合併を計画したのです。
 もしも近江精工所の工場をひとつにまとめることができなければ、新たにリニア専用の工場を建設することになってしまい、その場合、近江精工所は滋賀県内の狭い範囲に5ヶ所の工場を構えることにり、現在よりも更に効率が悪くなるために、今回のような社運をかけた思い切った設備投資に踏み切ることになったのです。
 しかも、近江精工所の滋賀県内の4つの工場のうち、3つが移転後に買い取ってもらうことが既に決まっており、その売買代金を新しい工場の建設費用に充てる計画であったので、今更それらの計画をひっくり返すことなどできないのです。
 用地買収の場合、何よりも前捌きが大変重要で、できるだけ同時期に、しかも一気呵成に不動産の売買を行わなければ、値を吊り上げる人が出てきたり、今回のように横槍が入る危険性がありますので、細心の注意を払わなければならないのですが・・・
 今回、吉川さんには通常では考えられないような十分すぎるほどの好条件を提示しておりましたので、私と紳は何の警戒もせずに、ただ時間が経過して吉川さんの亡くなられたお父さんの一周忌が無事に終わるのを待っていたのです。
 とにかく、ここであれこれと考えていても埒が明かないので、私と紳はそれぞれスーツに着替え、千里とマリには急用が出来たので適当に過ごしてほしいと言って自宅を出ました。
 私の車を紳が運転して滋賀県の米原へ向かい、車中で滋賀のお父さんに連絡して事情を説明しました。
 話を聞き終わった滋賀のお父さんは、
「圭介、それって、どいうことやねん?」と、声を少し荒げました。
「お父さん、ごめんなさい。とりあえず今、紳と現場に向かってるから、自分たちの目で実際に確認して、それからまた連絡入れるから待っといてください」と言って電話を切りました。
 私と紳は互いに無言で、それぞれ今回の不始末の真相を解き明かそうと必死に思いを巡らせた結果、
「紳、やっぱり、これは東興物産やろうな?」
「そうですね、東新総業っていう似たような名前と、東京っていうことを考えたら、おそらく間違いないでしょう。やっぱり、近江精工所に対して、昔の恨みを晴らすのを狙ってたんやと思いますよ」
 と、私も紳と同じ意見に達したのですが、なんとしてでも打開策を見出さなければなりません。
「仮に、裁判を起こした場合、勝ち目はあるか?」
「100パーセントありませんね。うちと吉川さんとの間で、売買予約とか売り渡しの仮契約とかの、何らかの契約を書面で交わしていて、尚且つこちらが手付金とかを支払ってるんやったら話は分かりますけど、あくまでも口頭での約束だったんで、裁判自体も起こせないですよ」
「確かに、そのとおりやな・・・」
「とにかく、理由はどうであれ、どう考えても今回の僕と圭介さんは間抜けもいいところやし、これは下手したら、リニアの仕事もひっくり返ってしまう可能性がありますね」
「リニアにも影響が出てくるか?」
「はい、出てくると思いますよ。だって、このまま工場の移転にもたついてたら、リニアの部品の製造もできませんし、そうなったら近江精工所の本体もぐらついてくるから、JR側も黙って見てないでしょう。 
 それに、こんなド素人もせんような初歩的なミスを犯す間抜けに、国家プロジェクトなんか任せて貰えるとは思えませんから、どっちにしても一番早い解決方法は、圭介さんと僕で、東新総業の言い値で土地を買取るしかないと思いますよ」
「・・・・・」
 私の脳裏に、様々な関係者らの顔が浮かんできました・・・
 みんなに会わせる顔がないと思いながらも、少しでも厳しい現実から逃れ、或いは目をそらすために、竹然上人が千里に語った話を紳に話しました。
「千里さんが握ってる切り札?・・・」
「そうやねん、じっちゃんがそない言うててんけど・・・」
 紳はしばらく間を置いた後、 
「それって、たぶん嘘じゃないですか?」と言いました。
「うそ?」
「はい、千里さんを元気にするための、方便として嘘をついたんやと思いますけどね。どう考えても、東興物産をやっつける切り札が思い浮かばないんですけど・・・」
(なるほどな)
 確かに紳の言うとおりで、私が幾ら考えても思いつかず、紳が思い浮かばないということは、千里を元気にするためについた嘘だということなのでしょう。
「とにかく圭介さん、負けは負けですよ! もしも、その切り札が存在していたとしても、この用地買収に関しては、これ以上なにも好転することなんかありませんよ」
「・・・・・・」
 その後、私たちはお互いに無言のまま米原に到着し、吉川さんの自宅の前で車を停めて外へ出ました。
 石井さんが言っていた通り、吉川さんの自宅の玄関のドアを塞ぐような感じで、東新総業のちゃんとした立派な看板が針金で強固に貼り付けられており、外から見る限りですが、吉川さんは既に引っ越していることが窺い知れるほど、自宅は必要以上にひっそりと静まり返っておりました。
 紳と相談した結果、これ以上事態が悪化しないように、このまま残りの5人の地権者から予定通りに土地を取得した上で、東新総業と交渉することがベストだと判断し、先ずは滋賀のお父さんに電話をして現況を説明したあと、これから残りの地権者と会って、予定通りに買取りを進めると話し、全ての作業を終えたあとにまた連絡すると言って電話を切りました。
 次いで石井さんに連絡すると、石井さんは既に、残りの地権者を自分が経営する喫茶店に集めてくれているということで、ここから150メートルほど離れた喫茶店に向かいました。
 石井さんの喫茶店に到着すると、皆さんはそれぞれ様々な憶測を巡らせていたようで、表情が優れず不安を抱いていることが一目で分かりました。
 素早く空気を読んだ紳が話し始め、早速明日から予定通りに買取りの作業を開始するということで皆さんは納得し、安堵の表情を浮かべてくれました。
 その後、不動産の売買に関する細々とした実務の説明を終えた後、紳と私は皆さんと別れて車に乗り込み、再び滋賀のお父さんに電話をして、今後の対策を打ち合わせるために、そのまま大津市の自宅へ向かいました。


第46話 敵を知り、己を知れば・・・

 大津の自宅に到着し、応接室に通されて3人で話し始めたのですが、巻き起こされた事象があまりにも単純明快すぎて、こちらの対応策も横取りされた土地を向こうの言い値で買い取るという以外に、何も思い浮かびませんでした。
「買い取るのはいいけど、どれくらいで言うてくると思う?」
「・・・・」
 お父さんの問いかけに、紳も私も答えることができませんでした。
 私たちが吉川さんに提示していた金額は、相場の2倍近い一億8千万円だったので、東新総業は吉川さんに私たちの話を反故にして、即決で売ることを決意させただけの金額で買い取っていると思われ、おそらく2億から3億の間ではないかと想像されます。
 したがって、東新総業が私たちに買い取らせる金額は、その倍以上と覚悟しなければなりません。
 しかし、幾ら金を払ってでも必ず買い取らなければならないという、私たちが置かれた苦しい立場や、取得できなかった時の悲惨な状況などを考慮した場合、東新総業がいくら上乗せして吹っかけてくるのか想像できないのです。
「お父さん、いまウォルソンが所有してる、親父が残してくれた収益物件を叩き売ったら、おそらく15億くらいにはなるやろうから、それで決着をつけるわ」
「何言うてるねん! あのな圭介、今回の事はお前の責任じゃなくて、わしの責任なんや! どう考えても、うちの社内に、それもこの合併の話を知ってる幹部連中の中に、情報を流してた裏切り者がおるとしか考えられへんから、責任はわしが取る。おそらく10億くらいで収まるんやったら、高い授業料やと思って、会社の内部の引き締めに入るわ」
 お父さんの言ったとおり、今回の事件は相当内部事情に詳しい人間の手引きによって引き起こされたことは明白なのですが、犯人探しなどしている場合ではありませんし、これからの動きを相手に察知されないようにすることの方が肝要であると思った時、
「いや、そんな金額では済まないと思いますよ」と、紳が言いました。
「紳君、それは10億以上か、それとも15億以上で言うてくるっていうことか?」と、お父さんが訊ねると、紳はとても深刻な表情で、次のように語りました。
「はい、おそらく最低でも20億以上で言うてくると思いますよ。その理由として、もし、20年前の乗っ取りの失敗の伏線で、今回の事件をやらかしたんだったとしたら、その時に東興物産が出した損失の20億円が最低金額になるでしょうし、この20年間にその20億円を回して、生じたであろう利益のことまで考えるんやったら、もしかしたらその倍を要求してくる可能性も考えられますよ」
「・・・・・」
 はっきり言って、私の全財産を処分しても、とてもじゃありませんがまどえる金額ではありません・・・
 事の深刻さを再認識し、全身の筋肉が弛緩してしまったように、何者かによって体の内側から力を奪い取られているような錯覚を覚えました。
「とにかく、いま僕たちがここで幾ら想像しても、なんの解決にもなりませんので、明日さっそく僕が東新総業に電話をして、向こうの様子を窺いますから、話はそれからにしましょう。
 それから圭介さんは明日、渡瀬さんの所に行って、東新総業の裏取りと、東興物産が今抱えてるどんな小さな案件でもいいですから、それを調べてもらって、何か反撃できるようなネタが見つかるかも分かりませんから情報を集めてください」
 ということで話がまとまりました。
 私と紳は夕食を一緒にと、お母さんから誘われましたが、とてもじゃありませんが食欲などありませんし、気まずい思いで食事をするのが嫌だったので、明日からの準備が忙しいと言って、そのまま自宅に戻ることにしました。
 大津インターから名神高速に乗りまして、日曜日なので郊外に出かけていた車の帰宅時間と重なったため、高速は軽く渋滞しておりました。
 私は千里に電話をして、まだ少し時間が掛かるのでマリと二人で食事をしていて欲しいと言って電話を切りました。
 渋滞は茨木まで続いておりましたが、そこからは流れがスムースになり、私も紳も食欲は無かったのですが、何も食べないわけにも行きませんので、いつものように吹田サービスエリアに寄りまして、レストランで食事をしながら、渡瀬さんに話す内容を打ち合わせました。
「あのな、前に渡瀬さんに言われた通りに、東興物産と和解するっていう方向で考えてみることはできひんか?」
「圭介さん、それは大阪インペリアルホテルに限ったことで、近江精工所とは別で考えないといけないし、向こうは和解なんかする必要性が全くないんですから徹底的にやってきますよ。
 おそらく、大阪インペリアルホテルのこともあるし、東興物産は相当頭に来てるはずやろうから、どっちにしても僕らは戦うしかないんですよ!」
「戦うって・・・ どうやって戦うねん・・・」
「それは、今は何も思いつきませんけど、諦めない限り何か方法は見つかりますよ。とにかく今は渡瀬さんの調査に期待するしかないんで、明日の話はお願いしますね」
「うん、わかった」
「それで、その後なんですけど、圭介さんは進とピロシを連れて、法務局の長浜支局に行って、二人に仕事を教えながら、吉川さんの土地が東新総業に移転されているのかを確認して、それから前に挨拶をしに行った米原の司法書士事務所と、石井さんに会いに行って、二人を顔合わせだけしておいて、いつでも僕らの代わりに動けるようにだけしておいてくれますか」
「そうやな、そうしておいたほうがいいな」
 ということで明日の予定が決定し、レストランを出て自宅に戻りました。
 吹田からは全く混んでいなかったので、自宅には1時間弱で到着し、千里とマリは私の自宅にいることが分かっておりましたので、紳と一緒に我が家に入りまして、私と紳は勤めて明るく振舞い、4人で軽くビールを飲みながら雑談をしたあと、二人は自宅に戻りました。
 千里と一緒にお風呂に入ったあと、疲れていたのでそのまま寝室に行きまして眠ろうとしたのですが・・・
 やはり、神経が高ぶっていて中々眠ることができず、いつもとは逆に私が千里の胸に顔を埋めて眠ることにしました。
「どうしたの? 帰ってきてから元気がないみたいやけど、仕事で何か大変なことがあったの?」
「ううん、別に何もないねんけど、千里の心臓の音を聞いてたら落ち着くねん」
「そうなん・・・ それやったらいいねんけど、なにかあったら正直に全部話してね。じゃあ、おやすみ」
「うん、ありがとう。おやすみ」
 もう一度お休みのキスをしたあと、もう何も考えずに千里の心音を聞きながら眠りました。

 翌日の朝、9時前に進に電話をして、昼からピロシと一緒に滋賀へ向かうと話したあと、9時になって米原の司法書士事務所に電話をして、打ち合わせを兼ねて社員の顔合わせを行いたい旨を伝えた後、石井さんにも同じ話をして、夕方までには到着しますと伝えて電話を切りました。
 その時、インターフォンが鳴りまして、依頼していた金庫屋が到着しましたので、リビングで千里と一緒にパンフレットを見ながら説明を聞き、金庫を選んで後の対応を千里に任せ、私は自室に行って渡瀬さんに電話を掛けました。
 電話はすぐにつながり、挨拶を交わした後、
「所長、いま話は大丈夫ですか?」と、本題に入りました。
「大丈夫ですよ。いま出張で東京に来てるんですけど、どうしたんですか?」
「東京ですか!ちょうど良かったです。実はね、」
 渡瀬さんに全てを話しました。渡瀬さんは私の話を聞きながら、メモを取っておりましたので、そのメモに書かれた私からの依頼の内容を復唱した後、
「圭介さん、以上でよろしいですか?」と、確認を取ってきました。
「はい、所長、それでお願いします」 
「・・・・・」 
 渡瀬さんはしばらくの沈黙の後、
「やっぱり、圭介さんは東興物産と戦う運命になってたんでしょうね」と言いました。
「そうですね・・・ でも、どうやって戦っていいのやらで・・・」
 渡瀬さんはまたしばらく間を置いた後、
「あのね、圭介さん、なんで私がいま東京にいるのかって言うたら、実は東興物産のことを調べるために来てるんですよ」と言いました。
(!)
 私は驚きながら、「それって・・・ 誰かに依頼されて東興物産の調査をされてるんですか?」と訊ねました。
「いえ、誰かの依頼とかじゃなくて、私は自分の意思で調査をしてるんですけど、もしかしたら、会長が殺された本当の理由が分かるかもしれないんですよ」
(!・・・)
 私は非常に驚き、
「やっぱり、近江精工所の時の恨みで、東興物産が絡んでいるっていうことですか?」と訊ねました。
「はい、それもあるんですけど、実はね、全ての鍵を握っているのは、おそらくインペリアルホテルだった可能性が高いんですよ」
「えっ!・・・ インペリアルホテルがですか?」
「はい、私は圭介さんから大阪インペリアルホテルの依頼を受けて、インペリアルホテルのことを調べて圭介さんに報告したじゃないですか。それで、私の勘なんですけど、会長がインペリアルホテルに泊まってみたいって仰ったことも気になっていましたし、どうもまだ裏に何か隠されてるような気がして、インペリアルホテルの近藤のことを徹底的に調べて、それから今度はインペリアルホテル自体を調べている途中なんですけど、まだ調査を始めたばっかりなので、確証を握ったわけじゃないから詳しく説明する事はできませんけど、もしかしたら会長は、インペリアルホテルとも深い関係があったかもしれないことが分かってきたんですよ」
「えっ! 親父とインペリアルホテルがですか?」
「はい、おそらく関係があった事は間違いないということで、それを今、必死に追いかけてるんですけど、ここで調査は一旦中断して、先に東新総業を調べて、すぐに報告しますから、会長の事はもう少し時間を下さい」
「はい、わかりました。じゃあ、親父のほうもこっちの依頼ということで、引き続き調査をしてくれるんですね?」
「いえ、会長のことは私にとっても弔い合戦ですから、圭介さんの依頼じゃないですよ。でも、絶対に真相を突き止めて、すべて分かった時点で報告しますから、今回の近江精工所の件も含めて、一緒に戦いましょう。では、今から調査に入りますね」
「はい、よろしくお願いいたします」

 渡瀬さんとの電話を切った後、深く瞼を閉じました。
(インペリアルホテルと親父が?・・・)
 頭の中が混乱し、その後の言葉が見つかりませんでした。


第47話 兆し

 様々な思いを胸に抱きながらリビングに戻りますと、すでに金庫屋は帰った後でした。
「さっそく明日、金庫を持ってきてくれることになったよ」
「そう、思ってたよりも早かったな」
「うん、午前中に持ってきますって言ってた」
「わかった。これで安心して眠れるな」
「うん、ありがとうね」
 と言いつつも、もしかすると、それらの宝石類も手放さなければならないようになるかもしれないと思いました。
 キッチンに行って二人でコーヒーを飲んで、気分を落ち着かせた後、頭の中はまだ混乱したままであったのですが、
「じゃあ、今から仕事に行ってくるね」と言って、椅子から立ち上がりました。
「うん、いってらっしゃい」
 千里に見送られて自宅を出て駐車場に到着し、車に乗り込もうとした時に、紳から電話が掛かってきました。
 そのまま車に乗り込んで電話に出ますと、
「圭介さん、東新総業に朝から何回も電話してるんですけど、誰も出ないんですよ」と、紳が言いました。
 もしかすると東新総業は、名前だけのペーパーカンパニーで、実体のない東興物産のダミーかもしれないと思いながら、
「そうか・・・ とりあえず渡瀬さんに調査は依頼したから、引き続き電話をしてみてくれ」と言ったあと、渡瀬さんと話した内容を紳に伝えました。
 珍しく紳も非常に驚いた様子で、
「会長とインペリアルホテルが、深い関係にあったということですか?」と言いました。
「いや、まだ調査を始めたばっかりやから分からないけど、根拠のないことなんか一切言わない渡瀬さんのことやから、おそらく間違いはないやろう」
「そうですよねぇ・・・ とりあえず僕は、引き続き東新総業に電話を掛け続けますから、何か進展があったらまた連絡します」
「うん、わかった」
 電話を切った後、車を出発させて改装中の大阪インペリアルホテルに寄りまして、進とピロシを連れて米原に向かいました。
 道すがら、二人にこれから行う仕事の内容を説明した後、大阪インペリアルホテルの改装工事の進捗状況を聞きました。
 改装工事は問題なく進み、今は電気の配線のやり直しを行っていると、助手席の進が話した後、
「アニキ、ホテルの地下の宴会場は改装も何もせんと、そのまま放置するの?」と、訊ねてきました。
「うん、ホテルを建てた当初は、千里のお爺さんが和食のレストランをしてて、そこそこ評判も良かったらしいねんけど、なんせ場所が悪いし、難波の駅周辺が栄えてからは客が減ってしまって、今度は宿泊客用の宴会場にしてんけど、その当時は田舎の方から大阪見物をしにくる人がおった時代やから成り立ってたけど、今はあそこで何をしても成功しないやろうから、ほっとくしかないやろう」
「じゃあ、もし何か良いアイディアがあれば、自由に使ってもいいっていうことなんですか?」と、後部座席のピロシが訊ねてきましたので、
「そりゃあ、良いアイディアがあったらの話やけど、あんな所で何をしても上手く行くとは思えんけどな」と、答えました。
「うん、わかった。ピロシと二人で何か考えてみるね」
 この時、私は地下の宴会場のことなど、頭の片隅にも入っておらず、そんなものがホテルに存在していたこと自体も忘れ去っていたのですが・・・
 途中、いつもの吹田サービスエリアで昼食を摂って再び出発し、米原へは午後の1時前に到着しましたので、もう一度吉川さんの自宅を見に行き、もしかすると看板が掛かっていたのは夢ではなかったかと、馬鹿な期待をしながら到着すると、やはり夢などではなく実際に立派な看板が掛かっておりましたので、否応無く現実に引き戻され、そのまま車を北に向けて走らせて、大津地方法務局の長浜支局に行きました。
 進とピロシに不動産の調査方法を教えながら、吉川さんの土地を確認すると、東新総業によって4月の下旬に移転されていたことが発覚しました。
 ということは、やはり今回の事件は、大阪インペリアルホテルとは全く関係が無く、ずっと以前から計画されていたということが明らかとなったと思った時、
「!」
 あることが思い浮かびました。
 もしかすると、東興物産にしてみれば、今回の用地買収の仕返しとして、或いは対抗手段として、私が大阪インペリアルホテルの再建に乗り出したと思っているのではないか、ということが思い浮かんだのです。
 偶然にも時期的には合致しますし、普通であれば再建などしない案件なので、向こうは向こうで、私が何らかの意図や目的があって、大阪インペリアルホテルの倒産を妨害してきたと思っているのかもしれません・・・
 しかし・・・ 実際の所は大阪インペリアルホテルの再建に表も裏もなく、純粋に千里のお父さんを助けるためであり、どの角度からどう考えてみてもホテルの救済が対抗手段や切り札となるとは考えられませんので、もし、効果があるとすれば、意味の分からない再建を行ったことによって相手は警戒し、真意を探り始め、裏を取るまで下手に仕掛けてこないといった、一時の時間稼ぎくらいの効果でしかなく、それも時間の経過によってやがてメッキは剥がれ落ち、何の意味もない再建をわざわざ金を掛けて行った馬鹿共、という結論に達するでしょう。
 気を取り直して法務局を出た後、予ねて挨拶をしていた地元の司法書士事務所に行きまして、用地買収に於ける不動産の移転に関する登記の手続きを正式に依頼したあと、石井さんの喫茶店に行きまして、私が来れない場合は進とピロシのどちらかが代わりに来れるようにと顔合わせを済ましました。
 全ての作業を終えて帰り道、ピロシに運転を任せて、私は今までの経緯を簡潔に短くまとめて二人に話しました。
「じゃあアニキ、私のパパもピンチっていうことやんね?」
 私は渡瀬さんに、一縷の望みを託しながら、
「そうやな、でも戦いは今始まったばっかりやから、勝負は下駄を履くまで分からないって、昔から言うやんか。だから、これからが本当の勝負っていう感じやな」と、希望的観測を述べました。
 すると、終始無言で運転をしていたピロシが、
「圭介さん、僕は何の役にも立たないでしょうけど、僕に出来る事は何でもしますから、遠慮なく言ってくださいね」と、とても静かな口調ですが、彼の内に秘めた気概を感じ取り、
「うん、ありがとうな。頼もしいわ」と言いました。

 こうして進とピロシは、私が気づかない間に、着々と成長を続けていきました。


第48話 分析

 この日は結局、東新総業と連絡はつかないまま夜になり、紳を自宅に呼んで対策を話し合うことにしました。
 一緒についてきたマリと4人で千里の手料理で夕食を終え、仕事の邪魔にならないようにと千里とマリは紳の自宅に行きましたので、久しぶりに自分でコーヒーを入れて、紳と飲みながら対策を話し始めました。
 先ず私は、昼間に思いついた大阪インペリアルホテルへの介入が、相手方にとっては反撃の狼煙となっているのではないか?ということを紳に話すと、
「そうですねぇ、言われてみれば確かに東興物産はそう捉えてる可能性は高いと思いますよ。だから、向こうも警戒して、こっちの狙いが分からないから東新総業の電話に出ないのかも知れませんね」
 と言ったあとで、しばらく間を置き、
「でもねぇ・・・」
 と、やはり紳も私と同じ結論で、警戒心を持たせて時間稼ぎをするという以外に、大阪インペリアルホテルの有効な活用方法を見出すことは出来ませんでした。
 方程式が分からない以上、答えを導き出すことは出来ませんので、これにて大阪インペリアルホテルの利用価値についての話は終了し、次に4日後に迫ったJR東日本の部長との会合についての話に移りました。
 もしもこのまま部長と会って話をした場合、様々な議題の中に必ず工場の移転問題が含まれますので、まさか嘘をつくわけにも行きませんし、先行きが不透明な現時点で正直に話すことも避けたいということから、奈良県側の取りまとめは無事に成功したと報告し、私と紳でまとめた書面を郵送で送ることにして時間を稼ぎ、なんとか会うことを避けることにしました。
「じゃあ、竹下会長に病気になってもらって、入院してもらいましょうか」
「そんなん、もしお見舞いに行きますって言われたらアウトやろう」
「インフルエンザがあるじゃないですか」
(なるほど)
「2週間は時間が稼げますよ。でも、その間に決着をつけないと、後からどえらいことになってしまいますから、本当は自分で掛け金を吊り上げるようなことはしたくないんですけど、この際仕方がないでしょう」
 携帯電話を手に取り、滋賀のお父さんに電話をしました。
 話を聞き終わったお父さんは、
「そうやな・・・ 確かに今のままでは延期した方がいいやろうから、インフルエンザということで、知り合いの病院にほんまに入院しとくわ」
 ということで、最も重要であった担当責任者である部長との初会合を、こちらの失態によって延期することにしました。

 その後、話題は父とインペリアルホテルの関係に移り、様々な角度で話し合ったのですが、
「もしかしたら、会長はインペリアルホテルと何か仕事を一緒にしようとしてたんじゃないですか?」と、紳が言いました。
「それは俺も考えててんけど、インペリアルホテルが命を狙われるようなやばいことに手を出すとは思われへんし、そこに東興物産がどう絡んでくるのかってことが、いまいちよう分かれへんねん」
「それはね、僕も昼間に色々と考えてたんですけど、もともとインペリアルホテルの近藤と東興物産の社長と坂上がグルになってて、近藤が大阪インペリアルホテルの一件で干されてる間に、インペリアルホテルの揉め事を会長が解決してたんじゃないですかね?
 それで、このままやったら近藤は自分が戻るポジションが無くなりますし、東興物産と坂上にすれば、インペリアルホテルのトラブルシューティングと裏の仕事をするって言うことは、光栄この上ない名誉職みたいなものじゃないですか。それをそっくりそのまま会長と北都に奪われることを、指を咥えたまま見てることに我慢ができなくて、近江精工所のこともありましたし、どうしても会長の存在が邪魔になって、命を狙ったんじゃないですかね」
「なるほどなぁ・・・ 確かにインペリアルホテルの後ろに付くっていうことは、イコール裏日本の経済界の頂点に立つっていうことになるから、東興物産にしてみたら、どうしても死守したいポジションということになるのか」
「はい、それで会長が亡くなられて、インペリアルホテルのトラブルを解決できなくなったことで、冷や飯を食らってた近藤が総務部長に返り咲いて、東興物産と坂上も元の鞘に収まったと考えたら、全ての点が線で結ばれるじゃないですか」
「・・・・・」
 改めて紳の分析能力の高さに舌を撒きましたが、褒めるのが嫌だったのでお馬鹿さんになってもらうことにして、
「まぁ、とりあえず後は渡瀬さんの報告を待つということで、ビールでも飲もうや」と言って、千里とマリを呼び戻し、一緒に酒を飲みながら、紳がアホになっていく姿を眺めました。


第49話 死の真相

 翌日の昼過ぎ、渡瀬さんから連絡が入り、やはり東新総業は東興物産のダミー会社で、それも重要な案件の時にのみ使用する、社長直轄の精鋭で組織された特別な部隊であることが判明しました。
「精鋭部隊ですか・・・」
「はい、それだけ近江精工所の件は、東興物産の面子をかけた勝負ということなんでしょう。それで、色々と探りを入れてみたんですけど、今のところ東興物産は目立った動きは控えているようなきらいがありまして、近江精工所のことに集中しているみたいですね」
「そうですか・・・ じゃあ、反撃するネタは期待できないということなんですね?」
「そうですねぇ、引き続き調査してみますけど、あまり期待はできないと思っておいてください」
(やっぱり無理やったかぁ・・・)と気落ちしましたが、
「はい、わかりました」と答えたあと、私はインペリアルホテルと父の関係についての、紳の見解を渡瀬さんに話してみました。
「さすがは紳君ですね。8割くらいは正解で、残りの2割を今から調べるんですけど、ここからが一番難しい作業になると思いますから、何か分かった時点で連絡しますね」
「はい、よろしくお願いいたします」
 その翌日からの3日間、何の動きも無いまま実務だけをこなすことに終始し、用地買収は東新総業の土地を残して無事に近江精工所へと移転の登記を申請し、後は補正を経て登記の出来上がりを待つだけとなり、JRの部長との初会合も滋賀のお父さんが入院したことによって延期したのはいいのですが・・・
 肝心の東新総業との連絡は一向につかないまま、こちらが最も避けたい長期戦の様相を呈してきました。
 おそらく東興物産は、大阪インペリアルホテルへの不可解な介入が功を奏しているのか、それとも私が自分の首を自分で絞めているだけなのかもしれませんが、今のところは接触を拒否しておりますので、このまま膠着状態が続くと、根を上げるのはこちらの方で、おそらく向こうの戦法は兵糧攻めの持久戦に持ち込み、こちらが干上がった所で総攻撃を仕掛けてくるものと思われます。
 このままでは無駄に時間が経過するだけですし、JRの部長との会合もこれ以上引き伸ばすことができないということで、私の方から東興物産に白旗を上げて降参する以外に、事態を打開することが出来ないと諦めかけていた時、待望の渡瀬さんからの連絡が入りました。
 渡瀬さんは開口一番、

「圭介さん、会長の死の真相が明らかになりましたよ」

 と、とても落ち着いた声音で、はっきりと言い切りました。
「!・・・」
 渡瀬さんは私が言葉に詰まり、何も話せなくなっていることを察して、静かな口調でゆっくりと話し始めました。

 遡ること今から20数年前、全ての発端はやはり近江精工所の乗っ取り阻止から始まったのですが、当時の東興物産は近江精工所以外にも重要な案件を抱えておりまして、その案件というのはインペリアルホテルとの共同で、ホテル事業の中国の上海への進出と、名古屋への進出計画でありました。
 その頃すでに、インペリアルホテルの近藤と坂上は昵懇の関係であったのですが、坂上の紹介で近藤は東興物産の社長と知り合いとなり、その後に関係を深めていき、インペリアルホテルの中国と名古屋への進出の前捌きを東興物産が坂上と共に引き受けることになったのですが、思いもかけない不測の事態が発生し、計画の練り直しを迫られることになってしまいました。
 その思いもかけない出来事というのが、大阪インペリアルホテルの名称の裁判であったのです。
 近藤の失脚によって計画が暗礁に乗り上げ、坂上と東興物産は新しく総務部長に就任したA氏に接触を試みるも、A氏と近藤は元々犬猿の中であったようで、坂上と東興物産との接触を拒み続け、計画は頓挫するかに思えた時、A氏が中国と名古屋への進出に向けた前捌きを東興物産から、ライバルである私の父に乗り換える方針を固め、父との接触を試みたそうなのです。
「それで、親父はインペリアルホテルの仕事を引き受けたんですよね?」
「はい、会長は引き受けたんですけど、インペリアルホテルの要望で、全て極秘に進めてほしいということだったんで、圭介さんと私を含めた会長の側近の誰一人として、このことは知らなかったということなんですよ」
 その後、父は東興物産らの妨害を避けるために、私たち側近にも極秘で全く新しいチームを結成して中国に派遣し、発展目覚しい上海での調査を開始したのですが、日本と中国の政権交代によって日中関係が悪化し、ホテルの進出計画は一時中断を余儀なくされてしまったのでした。
 そうして父は、中国に派遣していたチームを呼び戻し、今度は名古屋の前裁きに取り掛かったのですが・・・
「インペリアルホテルはリニアの開通を見越して、名古屋への進出を決めたんですけど、会長が調査に入った時点で、東興物産はダミーの別会社で用地買収に取り掛かっていて、この時既に80億円以上の資金を投入して、地上げはある程度の目途が立っていたみたいで、それを北都にひっくり返されたら、東興物産は面目丸つぶれになるだけでは済まないことになりますからね」
「確かに、近江精工所の20億円と合わせたら、100億円以上の金が動いてることになりますから、どんなことしてでも親父を排除しようとしますよね」
「・・・・・」
 渡瀬さんはしばらくの沈黙のあと、
「そうですね・・・」と言って、続きを話し始めました。
「それで、会長を襲った実行犯の方なんですけど、これは裏を取ってないんで真偽はなんとも言えないんですけど、会長はインペリアルホテルの中国の進出を、東興物産が使っていた政府関連の実業家のルートと対立していた、共産党幹部の大物政治家のルートを使って前捌きをしようとしていたみたいで、この時に会長は中国の実業家の恨みを相当買っていたようで、その実業家が差し向けた殺し屋だったんじゃないか、ということらしいですね」
「じゃあ、直接の原因は、その中国の実業家の恨みっていう事ですか?」
「いや、やっぱり東興物産が深く関わっていると思わざるを得ないんですよ。
 その理由はね、会長が亡くなられた後、インペリアルホテルの総務部長のA氏は定年前に退職してますから、次は自分の番やと身の危険を感じて手を引いたと思うんですけど、そのA氏は退職したあとに交通事故で亡くなってますから、おそらく口封じで殺された可能性が高いでしょうね」
「えっ! じゃあ、二人も殺したということなんですか?」
「さきほど圭介さんが言ったように、100億以上の金が動いていることを考えたら、やりかねんでしょう」
「・・・・・・」
 私は改めて、世の中で最も厳しい『利害』という掟を頭の中に叩き込まれ、再認識させられたという思いと同時に、そのような連中と果して自分が戦えるのであろうかと、言葉に出来ない不安と恐怖を抱きました・・・
「それでね、東興物産は既に取得している名古屋の土地を、行く行くはインペリアルホテルに買い取ってもらうことになってるらしいんですけど、地上げはまだ全部終わってないということなんで、私は今からこの足で名古屋に入って、すぐに調べることにしますね」
「はい、了解しました」
「圭介さん、もしも地上げに食い込めることが分かったら、すぐに手を打ちますから、資金の方をいつでも投入できるように準備だけしておいてください。では、また連絡します」
「はい、よろしくお願いいたします」

 私は無神論者なので、今まで一度も神頼みをした事が無かったのですが、

(親父、頼む! 仇を討つために、名古屋の地上げに食い込ませてくれ!)

 と、亡き父に初めて祈りました。


第50話 一縷の望み

 渡瀬さんとの電話を切ったあと、時刻を確認すると夕方の5時前であったので、紳に電話をしてウォルソンの事務所に来てもらうことにしました。
「紳、親父のことが分かったぞ」
「渡瀬さんから、連絡があったんですか?」
「うん、詳しくは会った時に話すわ。いま谷九やねんけど、来てくれるか?」
「はい、もうすぐ終わりますから、すぐに行きます」
 紳を待っている間、これから誰と、どういう話をすればいいのかを考えることにしました。
 父を殺した犯人が分かった以上、木村さんに話さないわけにはいきませんし、もし、名古屋の地上げに横槍を入れることが出来るとして、資金を用意するのにどれくらい必要なのか見当もつきませんが、おそらく滋賀のお父さんが搔き集めても、この前の話から予想して10億から15億が限度でしょうから、それ以上となるとやはり木村さんに頼るしかありません。 
 しかし、もしも木村さんに話した場合、東興物産の社長に必ず報復に向かうでしょう。
 生き証人であったA氏が亡くなった以上、死人に口無しで立件するのは困難ですし、証拠が無ければ大義名分が立たないのですが、木村さんにとって確たる証拠などは二の次で、昔から信頼している渡瀬さんの証言のみで、必ず仇討ちに走るでしょう。
 もし、木村さんが報復として東興物産の社長を的に掛けて殺害した場合、様々な伏線と過去の経緯から木村さんが警察に逮捕される可能性は非常に高く、もしも本当に逮捕された場合、県人会は解散に追い込まれ、リニアを含めたウォルソンの全ての事業が頓挫するだけではなく、東新総業の土地は永遠に手に入らなくなり、用地買収の失敗と竹下会長が木村さんとつながりを持つ背景を知ったJRが手を引くことによって、近江精工所は倒産に追い込まれる可能性が出てきます。
 しかし・・・ 
 築き上げたものが全て失うことになろうと、木村さんはヤクザなので、そんなことは百も承知で、必ず報復に走るでしょう。
 先ずは中国の実業家を殺害して、東興物産の社長に思う存分恐怖を味あわせたあと、地獄の果てまでとことん追い詰め、そして最後は確実に殺害するでしょう。
 理屈や屁理屈を超えて、それがヤクザの恐ろしさなのです。
 よく考えてみると、木村さんにしてみれば、自分の存在を知っていながら近江精工所に手を出したということで、完全に舐められていると解釈するでしょうし、今回の用地買収の失敗を知った時点で、父の死とは関係なく、東興物産の社長を狙うかもしれません。
 逆に東興物産にしてみれば、100億からの金を動かしている以上、既に二人を殺害しており、たとえヤクザが相手でも引くに引けない状況となっているのでしょう。
 だとすると、もしも私が大阪インペリアルホテルの再建をしたことで、インペリアルホテルの近藤が臍を曲げてしまい、名古屋の土地を東興物産から買い取らないと言い出したら・・・
 ということは、もしかすると竹然上人が言っていた切り札というのは、大阪インペリアルホテル自体のことではないかと考えられないでしょうか?
「・・・・・・」
 しばらく考えてみましたが、やはり切り札となりえるとは到底思えませんでした。
 近藤にしてみれば、大阪インペリアルホテルを倒産させることが出来なくて、煮え湯を飲まされている思いかもしれませんが、そんな感情でひっくり返せるほど、インペリアルホテルにとって名古屋への進出は、社運を掛けた一大プロジェクトのはずなので、今回は腹の中にそれらの感情を押し込めて収めてしまうでしょう。
 もしかすると、一段落して暇になった時に、坂上と東興物産を差し向けて、また違う方法で仕掛けてくるかもしれないと思ったとき、紳が到着しました。
「おつかれさん、コーヒー飲むか?」
「お疲れ様です。はい、いただきます」
 私は給湯室に行って、コーヒーを入れてソファーに腰掛けている紳の前に置いた後、私も腰掛けて話し始めました。
 話している間、紳はカバンからノートを取り出し、メモを取りながら時々質問し、私が全て話し終えたあと、自分が取ったメモを読み返し、険しい表情でしばらく黙り込んでいましたが、
「もし、名古屋の地上げに食い込むことが出来て、莫大な資金が必要になった時以外は、奈良のお父さんには黙っておきましょう」と言いました。
「やっぱり、お前もそう思うか?」
「はい、渡瀬さんと話を合わせて、僕らが会長のことを調べていたことを隠して、全く無かったことにしてもらって、もし、名古屋の地上げも無理で、対抗手段が無くなったとしても、近江精工所の用地買収の失敗は、少しでも先が見えてから報告しましょう」
「そんなん、隠してたことがあとでバレたら、どえらいことになるねんぞ」
「でも、今の時点で報告義務を怠ってることに変わりは無いから、どっちにしても既にどえらいことになっていますし、せめてJRの部長と話をして、その反応を見てからでないと、今の時点で奈良のお父さんに動かれたら、本当に取り返しがつかないじゃないですか。
 だから、報告するのは手持ちのカードが全て無くなった時にした方がいいでしょう。それからやったら、こっちも全て失ったとしても諦めがつくじゃないですか・・・
 とにかく、明日の名古屋の調査に全てが掛かってますから、僕と圭介さんも一緒に名古屋に入りましょうよ」
「そうやな、そうしよう」

 翌日、朝の6時過ぎに紳と一緒に名古屋へ向かい、8時に到着しましたので、駅前のファミレスに入って朝食を摂りながら時間を潰し、9時前に渡瀬さんに電話を入れて合流することにしました。
「私は今、名古屋の法務局に入ったところですから、先に調べ始めておきますね」
「はい、こっちもすぐに向かいます」
 ファミレスを出た後、名古屋城の二の丸公園の前にある法務局に到着し、不動産の登記係りに行きまして、渡瀬さんを見つけて軽く挨拶したあと、渡瀬さんが申請して、既に手にしていた不動産の登記事項証明書と公図を、実際の住宅地図と照らし合わせて地上げの状況を確認していきました。
 驚いたことに東興物産は、この地上げのために5社ものダミー会社を使い、その内の3社は名古屋の住所となっていたので、少し調べただけでは絶対に背景が分からないように細心の注意を払っていたことが判明し、渡瀬さんの調査がてこずったことが理解できました。
 地上げを行っている場所は、名古屋駅から南東に向かって、少し離れたところに位置し、雑居ビルや老人ホーム、細かい商店などに混じって、小規模のマンションや住宅などが点在する地域で、全体の区画はおよそ20000㎡と、大型のホテルを建設するのには十分な広さを有しておりました。
 東興物産が使い分けていた5社が所有する土地を蛍光ペンで塗りつぶしていき、すべて塗り終わった時に、一区画だけぽっかりと塗りつぶされていない空白の場所が残りましたので、私たちは色めきだってその場所の位置を住宅地図で確認すると、どうやら老人ホームとなっていることが分かり、所有者を調べてみますと、老人ホームの場所を現住所とした個人の名前になっておりましたので、
「これや!」
 と、渡瀬さんが大きな声で叫び、渡瀬さんが興奮したのを初めて見ましたので、私と紳は非常に驚いてしまいました。
「圭介さん、これで逆転できるかもしれませんよ! すぐ現地に行きましょう!」と言って、取るものもとりあえず法務局を出て、私と紳は車を法務局に置きっぱなしにして渡瀬さんの車に同乗して現地へ向かいました。
 移動中、渡瀬さんが私と紳に語った地上げの確認方法は、もしも老人ホームなら、自分の父を入所させたいという話を取っ掛かりにして調べるということでした。
 現地に到着し、地図通りに実際に老人ホームが建っておりましたので、私と紳は一縷の望みを渡瀬さんに託し、
「渡瀬さん、お願いします」と言いました。
「わかりました、待っててください」と言って、渡瀬さんは車から降りて老人ホームの中に入っていきました。


第51話 挫折

 渡瀬さんを待っている間、紳と私は互いに無言で、それぞれ様々な想像をしながら、私はタバコを吸い続けていました。
 途中で紳が車を降りて、近くの自動販売機で缶コーヒーを買ってきましたので、飲みながらしばらく待っていると、時間にしておよそ30分ほどで渡瀬さんが戻って参りました。
 元々表情が豊かな人ではないので、顔から結果を読み取ることは出来なかったのですが、渡瀬さんは運転席に乗り込んだあと、
「ふぅー・・・」と、大きくため息をついて、次のように語り始めました。

 結論から言って、地上げに食い込む事は不可能であることが判明しました。
 一歩違いであったのです。
 いや、実際には一歩違いではなく、10歩も100歩も先に到着していたとしても、私たちでは地上げが不可能であったのです。
 渡瀬さんの話によると、老人ホームの所有者は渡瀬さんが話をした老人ホームの経営者の父で、地上げが掛かり始めたことは15年以上前から承知していたのですが、先祖伝来の土地を手放すことに頑として応じず、地上げは難航していたのです。
 地上げをされている他の地権者たちは、ここに何らかの商業施設、もしくはホテルが建つらしいという噂を耳にしていたので、公共性の高い施設が建つのであればという理由で、好条件を提示されて次々と地上げに応じていったのですが、老人ホームだけが最後まで抵抗して地上げは完了しなかったのです。
 痺れを切らした東興物産は、今月の初めに入って、秘密裏に行っていた方針を転換し、最後の手段として本当の買主はインペリアルホテルであることを明かした結果、
「私の先祖伝来の土地に、インペリアルホテルが建つのであれば、よろこんで立ち退きましょう」
 ということで、2日前に売買契約を取り交わして既に手付金は受け取っており、老人ホームは東興物産が用意する代替地で営業を再開するので、お父さんの入所の話は新しい場所も考慮して欲しい、と言われたそうです。
 なので、たとえ私が以前から情報を入手していて、横槍を入れていたとしても、買主がインペリアルホテルでなければ成立していなかったということなのです。
「万事休すかぁ・・・・」
 と、紳が呟きました。
 確かに万策尽きたといった感は否めず、なんだか全身の力が抜けて、体が妙に軽くなったような気がしました。
 もう何も考えたくはないといった投げやりな思いから、そのあと渡瀬さんと何を話したのかよく憶えておりませんでした。
 おそらく、引き続き東興物産の調査を続けて、何か反撃の糸口を見つけ出す、といったような内容であったと思います。
 とりあえず今のところ打つ手がありませんので大阪に戻ることになったのですが、法務局で渡瀬さんと別れたあと、紳に運転を代わってもらって、これから先のことをぼんやりと考えていたのですが、私に残された道は、大阪インペリアルホテルの経営以外に、何も残されていないのではないかと思えてきました。
 ウォルソンの全財産を処分して、今回の不始末の尻拭いをした後は、千里と両親を含めた社員たちを路頭に迷わせないように、ホテルの経営に専念して、一からやり直す以外に、何も考えられなくなってしまいました。
 やはり、こういった状況で目に浮かぶのは家族たちということで、今夜はみんなを自宅に呼んで、食事会を開くことにしました。
 集まる名目は何でも良かったのですが、とにかくみんなの顔を見ながら食事がしたかったので、先ずは紳に話し、次いで千里に電話をして今夜はみんなで鍋を囲もうと話し、マリと進とピロシを自宅に呼んでほしいと話しました。
「うん、わかった。じゃあ、なんのお鍋がいい?」
「そうやなぁ・・・ 魚がいいな」
「うん、今マリと一緒やから、いまから黒門市場に行って、お魚屋さんに選んでもらうね」
「うん、夕方には帰れるから、頼むわな」
「うん、気をつけて帰ってきてね」
「はい、じゃあ後でね」
 電話を切った後、何も考えずに眠りました。

 「zzzzzz」

 紳に起こされて目が覚めると、自宅に到着していました。
「運転ごくろうさんやったなぁ、ありがとうな」
「いいえ・・・ さぁ、今日はとことん飲んで、思いっきり酔っ払いましょうよ!」
 妙に明るく振舞う紳に申し訳ないという思いを感じましたが、
「そうやな! 今日は飲むぞ!」と言って、車から出て自宅に戻りました。
 紳は一旦自宅に戻って、風呂に入って着替えてくるということで、11階でエレベーターを降りまして、私は自宅に入ってマリが入れ違いで自宅に帰った後、千里にただいまのキスをして、そのまま一緒にお風呂に入りました。
「今日は何の鍋なん?」
「今日はカワハギやで! 黒門に行ったら大きなカワハギがあって、刺身と鍋と両方楽しめるようにいっぱい買ってきてんで」
「そう、カワハギの刺身って久しぶりやなぁ。楽しみや」
「うん、みんなでいっぱい食べようね」
 お風呂から上がってソファーに座りながらビールを飲んでいると、紳とマリが加わりまして、一緒に飲み始めた直後、進とピロシが到着しまして、鍋を囲んで食事会が始まりました。
 カワハギの刺身を肝醤油と旭ポン酢の両方で楽しんだ後、みんなで鍋をつつき始め、私は食事をしながら、みんなに今まであった出来事を全て話すことにしました。
 もう隠しても仕方がありませんし、経営者の義務として、これからの展望を社員に話さなければなりませんし、みんなの意見も聞きたかったのです。
 一通り食べ終わり、みんなの箸の動きが鈍った所で、私は話し始めました。
 みんなに聞いてもらうために話しているのですが、なぜか自分に言い聞かせるために話しているように感じて、少し不思議に思いながらも話し続け、みんなは食事の箸を止めて、真剣な表情で私の話を聞いてくれました。
 全て話し終えた時、別に悲しかったわけではないのですが、なぜか自然と涙が溢れてきて、とにかくみんなに謝ることにしました。
「みんな、ごめんな・・・ 俺って自分で何でも出来るって思ってたけど・・・ 親父の仇を討つどころか、実際はなんにもできひん、ただの腰抜けの間抜け野郎やったなぁ・・・」
「圭介、泣いたらいやや・・・」
 と言って、千里が泣き始めてしまいました。
 すると、今度は進が目に涙を浮かべながら、
「アニキ・・・ お願い泣かんといて・・・ アニキは腰抜けなんかじゃないし、間抜けじゃないってことは、私らが一番よく分かってるから、泣いたりしたら嫌!」
 と言って、大きな声で泣き出してしまいました。
「圭介さん、なに泣いてるんですか! 圭介さんが泣いたら千里も泣くし、みんな泣くじゃないですか! 私はそんな弱い圭介さんなんか見たくないですよ!」 
 と言って、とうとうマリまで泣き出してしまい、紳の胸元に顔を埋めました。
 私は沈痛な表情の紳と目を合わせたあと、マリが泣くのを見たのは始めてだと思った時、黙って私たちの話を聞いていたピロシが、泣きじゃくる進を連れてドアを開けてリビングから出て行ってしまいました。
 おそらく、ピロシは人前で泣くのが嫌なのだろうか、それとも進の泣き声がうるさくて連れ出したのか、どちらだろうと思っていたのですが・・・

「おい、進! 泣いてる場合じゃないぞ!」
「だって・・・ だって、私のアニキが・・・」
 ピロシは進が少し落ち着くのを待って、
「もう泣くな。 泣いてる場合じゃない」
 と言って、進を励ましたあと、大きく深呼吸をして、
「進! 俺らの出番や! 俺らがなんとかするぞ!」
 と、普段は感情を表に出さないピロシが、めずらしくとても力強い口調で言い切りました。
「うん、ピロシ分かった、もう泣かない!」
「二人で考えた、あれをやるぞ!」
 進は涙を拭い、今まで泣いていたのがまるで嘘のように目を輝かせて、次のように語りました。
「うん、分かったピロシ! あの作戦をやるんやね!
 よ~し、も~う怒ったで~! 私の大切なアニキと、千里姉とマリ姉まで泣かせやがって~! 
 よ~し、オカマの恐ろしさを、とことん思い知らせてやるねん!」

 こうして私たちは、彼と彼女?の本当の恐ろしさを思い知らされる時が、刻一刻と迫っておりました。

第7章 インペリアルホテルの逆襲

第52話 豚頭狗肉(とんとうくにく)

 しばらくして進とピロシが戻ってきまして、二人はリビングの隅に置いていた自分たちのカバンを開けて、それぞれ中からノートパソコンを取り出して元の場所に座り、パソコンを開いて電源を入れた後、
「圭介さん、大阪インペリアルホテルの地下の宴会場を、僕と進に貸してもらうことは可能ですか?」と、ピロシが訊ねてきました。
(急になに?)と思いながら、
「ホテルの地下の宴会場?」と聞き返しました。
「はい、このまえの話では、今のところ使用しないということだったので、僕と進に貸してもらいたいんですよ」
「別に、貸すのはいいねんけど、何に使うの?」
「はい、インペリアルホテルを叩きのめすのに使いたいんですよ」
「!!!」
 私は非常に驚きながら、ピロシの顔を見た後、進の顔を見ましたが、二人とも真顔で、どちらかと言えば真剣な表情をしておりますので、ふざけて冗談を言っている訳ではなさそうです。
「インペリアルホテルを叩きのめすって、地下の宴会場を使って叩きのめすってことか?」
「はい、進と二人で色々と考えまして、インペリアルホテルを地獄の底に、確実に叩き込む方法を思いついたんですよ」
「そう、アニキ! 私とピロシで考えた、すごい作戦があるの!」
「?・・・・」
 私は意味が全く分からず、紳と千里とマリの顔を見ましたが、みんなも同じく、訳の分からないといった頓狂な顔をしておりました。
「その、すごい作戦って、どんな作戦?」
「はい、先ずは圭介さん、沖縄料理のチラガーってご存知ですか?」
(なになに、なんの話?)と思いながら、
「チラガーって、豚の頭のことやろう?」と答えました。
「はい、そうです。それと、僕と進は大学の時に、韓国に旅行に行ったんですけど、その時にソウルの市場の中で、犬の肉を食べたことがあるんですよ」
「イヌのニク?」
「はい、正確には『犬鍋』っていう料理なんですよ」
「そう、ピロシと一緒にワンちゃんを食べちゃったの!」
「????」
(こいつら、頭がおかしなったんか?)と思いましたが、
「その、豚の頭と犬の肉が、インペリアルホテルとなんの関係があるの?」と訊ねました。
「はい、それを今から説明させてもらいますけど、その前に圭介さん、大阪インペリアルホテルって、インターネットでインペリアルホテルで検索したら、本家のインペリアルホテル大阪よりも上の、一番上に表示されることはご存知ですか?」
「いや、知らんけど、そうやったん?」
「はい、おそらくホームページを立ち上げた時期が本家よりも古かったので、今でも一番先に表示されていると思うんですけど、そのことが原因で、こんなエピソードがありまして、僕と進が日曜日にホテルに入った時に、何組ものお客さんが本家のインペリアルホテル大阪と間違えて入ってきまして、友だちの結婚式とか、企業の新製品の発表会とか、医師会の会合に来た医者とか、みんな、うちのホームページを間違えて見て来た人たちだったんですけど、僕と進はホテルのマニュアル通りに、本家の行き方を印刷した紙を渡して、謝りながら間違いですよって説明したんですよ」
 私は少し驚いて、
「それって、ホテルのマニュアルになるくらい、本家と間違える人が多いってこと?」と訊ねると、
「うん、そうやで。特に日曜日と祭日は間違えて来る人たちが多いから、注意してくださいねって教えられた」と、千里が言いました。
 すると紳が、
「だから、どうしてもインペリアルホテルは名称を取り戻したかったんでしょうね」と言いました。
「僕と進は、お客さんに迷惑掛けて申し訳ないと思ったんですけど、それって本家のインペリアルホテル大阪にも迷惑を掛けてるってことになりますよね?」
「確かに、本家も迷惑に思ってるやろうな」
「それで、僕は進と色々考えて、どうせやったら、もっと迷惑掛けたら、どえらいことになるやろうなっていうことに気づいて、ある作戦を思いついたんですよ」
「!・・・」
 私は彼らが何を思いついたのか、おぼろげながらに見えてきましたので、すぐに紳に目を向けると、
「圭介さん・・・ じっくりと聞きましょう」と、私よりも頭の回転が数倍も速い紳は、何かの確信を得たように、目がギラギラと異様な輝きを帯び始めました。
「それでその作戦なんですけど、いま世界中で大流行のピコ太郎の動画で、サングラスのネタのトントンっていうのがあるんですけど、先にピコ太郎の動画を見て下さい」とピロシが言うと、進がパソコンの画面をこちらに向けて、ユーチューブの動画を流し始めました。
 変な格好をしたおっさんが、サングラスを使って、なにやら訳の分からないことをしておりまして、見終わったあとに、
「これが、いま流行ってるの?」と訊ねてみました。
「はい、本当はこの前に出した、ペンパイナッポーアッポーペンっていう動画がすごいことになったんですけど、とりあえず今のトントンっていうのをちょっとパクりまして、こんな写真を撮ってみたんですけど」と言って、今度はピロシが自分のパソコンを操作して、画像を見せてくれました。
 チラガーという沖縄料理の豚の頭に、サングラスを片目だけ掛けて、口には火の点いたタバコを咥えさせ、その豚の口から出されたコメントとして、
『トントン わし、うまいで』という言葉が添えられておりました。
「・・・・・」
 なんとも言えない、おぞましい画像であったのですが、ピロシはまたパソコンを操作して、違う画像を表示しました。
 可愛い小型犬のポメラニアンの画像であったのですが、そのポメラニアンのコメントとして、
『わしも、うまいで』という言葉が添えられておりました。
「僕と進が思いついた作戦っていうのは、ホテルの地下の宴会場で、チラガーと犬鍋を販売することで、名付けて羊頭狗肉じゃなくて、『豚頭狗肉作戦』です!」
「とんとうくにくさくせん?」
「はい、今見てもらった画像をうちのホームページに乗っけて、大々的に宣伝したら、どうなると思います?」

「!・・・・」 

「うちのホームページを本家とそっくりに作り変えて、住所と連絡先を消してしまって、いかにも本家がチラガーと犬鍋を販売するかのようにしてしまったら、世界中の愛犬家と動物愛護団体から、インペリアルホテル大阪だけじゃなくて、本家本元のインペリアルホテル東京にも、
『世界のインペリアルホテルは、豚の頭と犬を食わせんのか!』
 って、とんでもない抗議が殺到するでしょうから、どえらいことになってしまうでしょう?」
(こいつら・・・ こんなこと考えとったんか)という思いと同時に、(もしかしたら、これがじっちゃんが言ってた切り札か?)と思いました。
 千里の原田家が裁判で勝ち取った、『大阪インペリアルホテル』という名称に、このようなとんでもない利用価値があったとは・・・
「圭介さん、実行してもいいですか?」
「アニキ! やろやろ! まずはインペリアルホテルの近藤ちゃんを、血祭りに上げてあげようよ!」
「圭介さん、こいつら凄いですよ・・・ やりましょうよ!」
 私は竹然上人が言っていた言葉を思い出し、
「!」
 たった今、その意味が分かりました。
『芸は身を助く』の、もうひとつの意味が、進とピロシが私を救ってくれるという、『ゲイはmeを助く』と分かったのです。

「よし、やるぞ! 反撃開始じゃ!」


第53話 戦評定

 古来より、今まで無かった全く新しい戦法というのは、なんの先入観も固定観念も持たない素人から生まれることが多く、私や紳や渡瀬さんといった、社会経験が豊富な金融のプロが3人集まっても文殊の知恵とならなかった難局を、進とピロシの素人はいとも簡単に答えを導き出してしまったようで、二人が思いついた豚頭狗肉作戦を実行するべく、みんなで意見交換を始めました。
「どうせやったら、シーシェパードも仲間に入れて、鯨の肉も売りましょうか?」と、開始早々と紳があぶない意見を述べたのですが・・・
 私はシーシェパードの過激な抗議活動を思い出し、
「いや、シーシェパードは過激すぎて、事件になる恐れがあるから、可愛そうやけど今回は仲間外れにしよう。だから、その代わりに、どうせやったらホームページを思いっきり人を小馬鹿にしたような感じにしようや。
 例えば、
『我が、世界のインペリアルホテルグループが誇る総料理長、原田マリ氏の渾身の会心作、チラガー犬鍋を是非ご賞味あれ! 乞うご期待!』
 っていうような感じで、インペリアルホテルの感情を逆撫でしまくったような内容にしたらどないや?」
「なんで私の名前をつかうのよ!」
「圭介さん、私も嫌ですよ!」
 と、あろうことか千里とマリは協力を拒否しました。 
 進は得意のWEBデザイン技術を活かして、みんなの意見を聞きながら、ホームページの修正を始めましたので、
「おい進、その犬の写真を、口の周りが黒い、いかにも凶暴そうな大型犬に差し替えてくれ!」と、社長命令を発しました。
「え~っ? でも、口の周りが黒い犬って、どう見ても美味しそうじゃないやんか~!」
「いや、これだけは譲れん! なぁマリ、そうやろう?」
「なんで、私に同意を求めてくるんですか!言っておきますけど、私はもう日焼けしないんで、口の周りが黒い犬から遠ざかっていってるんですよ!」
「?・・・・・」
 私とマリ以外、今の会話の意味が分かりませんので、妙な表情を浮かべておりましたが、気になる方は第1章の『メェ~』と『ワゥ』をご覧下さいませ。
 その後、みんなで膝を突き合わせて、
『ハッスル爆発間違いなしの「チラガー犬鍋」はじめます!』
『ナウいヤングのナイスな集い♡「魅惑のチラガー犬鍋パーティー」開催決定!』
『妻よりも、仕事よりも、チラガー犬鍋・・・』
 といったような喧喧諤諤、様々な意見が飛び交い、 
「圭介さん、なんだか凄く楽しいんですけど、これって不謹慎ですか?」と、紳に言われてみると、
「いや、俺もめちゃくちゃ楽しい!」と、久しぶりの浮き浮き感で相好が崩れてしまったのですが、
「あのう、圭介さん、本当の楽しみは豚頭狗肉の次の作戦なんで、これはあくまで小手調べというか、先ずはかる~くジャブで挨拶をしておいて、そこからじわじわと寝技で締めていって、最後はキックの鬼、沢村忠の必殺技、『真空飛び膝蹴り』で、インペリアルホテルをマットの底に沈めてあげる予定なんで、本当の楽しみは必殺技が炸裂した、その時ですよ!」と、不敵な笑みを浮かべたピロシが、自信に満ち溢れたコメントを発表しました。
「真空飛び膝蹴りって・・・ いうことは、まだ他にも違う作戦があるっていうことなんか?」
「はい、今回の作戦で宴会場を改装して、ほんまにチラガーと犬鍋を売ろうと思ったんですけど、色々と調べていったら、調理師の免許とか、飲食業の登録とか、沖縄からチラガーを取り寄せるのも面倒なんですけど、何よりも韓国から犬の肉を輸入するのがややこしかったので、豚頭狗肉作戦はあくまでWEB上の空中戦にしておいて、次の作戦は本格的に肉弾戦の地上戦をやりますから、地下の宴会場を改装して、『鳳凰の間』というネーミングにして、その作戦の檜舞台にしたいんですよ!」
「ほうおうのま?」
「はい、インペリアルホテル東京と大阪の宴会場の名前が両方とも『鳳凰の間』なんで、法律的に問題がなければ同じにしたいと思ってるんですけど、紳さん、どうなんでしょうか?」
 紳はしばらく考えた後、
「いや、それは法的に問題があるな。まったく同じ名前は避けて、漢字をひっくり返して『凰鳳の間』にしたらどうやろう。
 漢字の弱い奴は違いに気がつかないやろうし、気がついたらついたで、世界のインペリアルホテルのくせに間違ってるやないか!ってクレームになるから、こっちとしては願ったり叶ったりやから、ひっくり返して使おう」と、瞬時に素晴らしい意見を提言しました。
「なるほど・・・ じゃあ名前はそれでいくことにして、お前ら、宴会場を改装して、何をするつもりやねん?」
「はい、とりあえずインペリアルホテルの近藤君を血祭りに上げて、それからインペリアルホテルの企業としてのコンプライアンスを正したあとで、近藤君に対する管理義務を怠った監督不行き届きの責任として、世界中に恥を晒してもらう予定なんですよ」
「そう! 世の中で変態のオカマが、一番敵にまわしたら怖いっていうことを、近藤ちゃんたちに分かってもらうの♡」
 と言ったあと、二人は嬉々として『必殺技』を私たちに説明してくれました。

「おまえら・・・ 本気でそんなことするつもりなんか?・・・」

「はい、最終的にはマスコミを巻き込んで、SNSを最大限に活かしながら、近藤君に詰め腹を切らせて再起不能にしてしまったら、引いては東興物産も坂上も大阪インペリアルホテルを倒産させることが出来なかったことが全ての原因ですから、ただじゃ済まないでしょう?」
「・・・・・・」 
 私は改めて、ピロシと進の真の恐ろしさを、骨ぬ髄まで思い知らされた後、
「紳・・・ どう思う?」と訊ねました。
「想像しただけで、恐ろしくて震えてしまうんですけど・・・やるしかないでしょう!」
 ということで意見がまとまり、先ずは小手調べの豚頭狗肉作戦の具体的な実務の作業に取り掛かりまして、
「もし、こちらの住所と連絡先を消して宣伝してしまったら、インペリアルホテルに訴えられた場合、信用毀損と威力業務妨害の罪に問われる可能性がありますから、とりあえず住所と連絡先は分かりにくい所に小さく残しておいたほうが無難ですね。
 それで、実際に誰か文句を言いに行っても、ホテルは改装工事中ですし、電話はウォルソンの事務所に転送してて、ただいま工事中っていう音声を流していますから、どっちにしてもこちら側は問題が無いですし、ほんまに文句を言いに行くようなややこしいヤカラは、本家の方に行くやろうから問題はないでしょう」
 と、完全に酔いが醒めた紳は弁護士としての自覚を取り戻し、専門家として犯罪ぎりぎりのアドバイスの下に、ホームページの内容を精査していきました。


第54話 反撃開始

「はい、そうです、4本足で歩くワンちゃんのお肉です・・・
 ですから、貴方様にとってはご家族かもしれませんけど、・・・・
 はい、そうなんです。大変申し訳ないんですけど、食べたら美味しいんです ・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・
 だから、あんたの家族を食べてるわけじゃないって言ってるでしょう?・・・・・ 
 ・・・・・・・・
 ほんだらなにかぃ! 世界中のチワワがあんたの家族なんかぃ!
 言うとくけど、チワワなんか小さすぎて食べるとこないし、食うても美味くないんじゃい! 
 このボケ~! 2度と電話してくんな!」
 マリは受話器を叩きつけるようにして電話を切りましたが、間髪入れずに、
「プルルルル プルルルル」と電話が鳴りまして、マリは満面に怒りをあらわににしながら電話に出て、
「ウゥー、ワゥワゥ!」
 と吼えて電話を切ったあと、すかさず留守番電話に切り替えてしまいました。
「もう、圭介さん! 紳一! 私もう電話に出たくない! なんで私とピロシの時にはクレーマーばっかりで、進の時には訳の分からん、楽しそうな電話が掛かってくるのか知らないけど、そんなん不公平じゃないですか!」
 確かにマリの言うとおり、なぜか不思議と進が出る電話は頭のおかしな連中ばかりで、進は積極的に話を弾ませて、時折笑みを浮かべながら嬉々としてクレーム対応を楽しんでおりました。
 さっそく進は留守番電話を解除して、鳴り止まない電話に出て話し始めました。
「はい、大阪インペリアルホテルでございます。・・・・・ 
 はい、チラガー犬鍋の件でございますね?・・・・・
 はい、大変申し訳ございません! 今のところ出前を行う予定はございませんので、当ホテル内のレストランにて、」
「ほら! また進の時だけ変な電話じゃないですか! これって、なんなんですか?」とマリが言うと、
「マリさん、それは勘違いなんですよ」とピロシが言いました。
「かんちがい?」
「はい、進は基本ドMなんで、あいつが楽しそうに話している時は、本当は相当きついクレーマーからの電話で、あいつは酷いことを言われれば言われるほど喜びを感じているから、傍から見たら楽しそうに見えてるだけなんですよ」
「え~っ! そうやったん?」
 ピロシは進の所に行って、電話のスピーカーのボタンを押して、相手の話し声がみんなに聞こえるようにしました。
「われ、こら! 俺がいつ、出前を注文したんじゃい! さっきから訳の分からんことばっかしぬかしやがって! 俺が訊きたいのは、お前らほんまにインペリアルホテルのくせに、あんな怖い顔した犬を食うのんかっていうことなんじゃ!」
「はい、ありがとうございます。いずれは出前を行えるよう、より一層、企業努力をして参りますので、」
「だから、俺は出前なんか注文してないって言うとるやろうが! われは頭がおかしいんかぃ!」
 ピロシはスピーカーのボタンをOFFにして、
「ねっ、酷いこと言われているでしょう?」と言いました。
「・・・・・」
「まぁ、所詮クレーマーなんて、進にとっては奴隷みたいなもんですからねぇ」
「どれい?」と、マリがピロシに訊ねました。
「はい、進の叱って欲しい願望とか、怒られたい欲望を満たすための、ただの奴隷なんですよ」
「・・・・・」
 私たちは改めて、進のまるで底無し沼のような奥の深さを理解し、戦慄を覚えると同時に、畏敬の念を覚えました。

 ということで豚頭狗肉作戦は既に始まっておりまして、私たちは今後の参考のために、どういったクレームが来るのかを検証しようということで電話に出ているのですが、掛かってくる電話の内容は実に多様で、そのほとんどが『なぜ、世界のインペリアルホテルが犬の肉を?』という問い合わせと、『沖縄と韓国の食文化を馬鹿にしているのか!』といったクレームで、『韓国に魂を売った売国奴め!』といった辛辣な意見もありました。
 しかし、中には戦時中にフィリピンで食べた犬の肉の味が忘れられないといった、93歳の老人から、必ず食べに行きますと言われましたので、罪の意識を覚えて胸が苦しくなるような内容などもあり、とにかく期待しているので頑張ってほしい、といった叱咤激励な意見なども含めて、まさに千差万別な貴重な意見を今後に活かせるのかは別にして、実に様々なデータを採取することができました。
 こうなると、当然気になるのは攻撃対象であるインペリアルホテル大阪で、向こうがどうなっているのかを確認するために、全員で電話を入れているのですが、何度電話しても一向につながらないので、おそらくあちらの電話回線はパンク状態になっていると思われ、一度だけピロシの電話がつながったのですが、チラガー犬鍋と言った瞬間に、
「当ホテルとは一切関係がございません!」と言って、わざわざ親切丁寧にこちらの電話番号を教えてくれましたので、インペリアルホテル大阪の業務は非常に混乱しているということで、作戦は大成功と言っていいでしょう。


第55話 必殺技

 翌日、私と紳は木村さんに報告するために、昼から奈良へ向かうことになりまして、インペリアルホテルに対して反撃を開始し、初戦は見事に勝ちを収めたということで、ようやく木村さんに対して全てを話し、今後の対応と対策を検討する事となったのですが・・・
 正直に言って、木村さんに報告をしたあと、どうなるのか全く分からない状況で、滋賀のお父さんとも相談したのですが、
「圭介、頼む! どう考えても俺から兄さんにちゃんと報告せなあかんねんけど、さっき電話で話した時に怒鳴り散らされて、ほんまに血圧が上がって具合が悪くなってしまったから、もうしばらく入院することになったから、あとは紳君とお前に任せた!」
 ということになってしまい、仕方なく紳と二人で行くことになったのですが・・・
 とりあえず午前中はウォルソンの事務所に入ることにして、紳と一緒に自宅を出て私の車に乗り込み、事務所に向かいました。
「圭介さん、奈良のお父さんは僕らに時間をくれますかね?」
「そうやなぁ・・・ 滋賀のお父さんが東新総業の用地買収の話をしただけで、怒鳴り散らされたらしいから、親父の死の真相を話したらどうなるのかは全く分からんけど・・・
 だいたい、大阪インペリアルホテルのことも話してなかったし、親父が殺されたきっかけがインペリアルホテルやったってことも初めて話すねんから、どんなに怒られても仕方がないやろう」
「確かにその通りなんですけど、せめて用地買収のことが決着するまでは、大人しくしておいてほしいですよね」
「まぁ、いま二人で何ぼ考えても仕方がないから、とりあえずこっちの必殺技を説明して、インペリアルホテルと東興物産を追い込んで、東新総業の土地を必ず取り戻すから、それまで仇討ちは待ってくれって言うしかないやろう」という結論に達しました。
 事務所に到着してみると、状況は昨日と同じで朝から電話は鳴りっ放しの状態でありました。
 進はニヤニヤと笑いながら、言葉攻めを楽しんでおりましたので、
「ピロシ、どうや、変わった事がないか?」と訊ねました。
「はい、特に変わったことはないんですけど、進はもうだいぶ飽きてきてるみたいですし、とにかくインペリアルホテルは大阪も東京も、ネットの書き込みを見る限りでは、どえらいことになってるのは間違いないですね」
「そうか、まぁ進を満足させられるようなモンスターなんか、滅多にお目にかかれないやろうから飽きてくるわな。とりあえず俺と紳は今から、奈良のお父さんの所に報告に行くから、そろそろこっちも第2弾と行こうか」 
「はい、わかりました。じゃあ、告知内容を奈良のお父さんに確認してもらって、OKが出たらすぐにアップすればいいんですね?」
「うん、そうや。こっちはタブレットを持って行って、その告知を見てもらいながら説得するから、後は頼むわな。じゃあ、行ってくるわ」
「はい、いってらっしゃい」
 様々な不安を胸に奈良に向かいまして、木村さんの自宅に到着して応接室で話し始めたのですが、
「・・・・・」
 木村さんは私が何を話しても終始無言で、顔の表情は怒っているようには見えず、どのような感情をも感じ取れないといった無表情が余計に不気味であったのですが、とりあえず私は今までの流れを話し、父の死の真相や、東興物産とインペリアルホテルとの関係などを話した後、今行っているインペリアルホテル大阪に対する攻撃の成果を話し、次に用意している必殺技を話し始めました。
「お父さん、今説明した必殺技っていうのは、こんな感じやねん」と言って、タブレットで大阪インペリアルホテルのホームページを開き、必殺技を告知する内容を見てもらいました。

『出でよ、勇者たち! 家畜以下の下等動物どもに、その神々しい崇高なる御姿を見参に入る時が来た!
 我が世界のインペリアルホテルに降臨するのだ!

『第1回 変態ファッションショー大阪大会開催決定!』

 優勝賞金300万円 
 会場は我が世界のインペリアルホテルグループが誇る、『凰鳳の間』で近日開催いたします。
 くわしくはWEBにて、順次発表いたしますのでご確認ください』

 と、以上のような内容を木村さんに見てもらいましたが、
「・・・・・」
 木村さんは見終わった後、目を閉じて腕組みしたまま何事か思案中といった様子で、引き続き黙り込んでしまいました。
(もしかしたら、怒ってしまったんかな?)
 と、紳と二人で緊張が走り、私は沈黙に堪えきれずに、
「お父さん、このファッションショーの当日は、本家のインペリアルホテル大阪の鳳凰の間で、関西の政財界の人たちが集まってパーティーするんやけど、関西2府4県の知事も参加する大きなパーティーで、そこに変態の格好した連中を乱入させようと思ってるねん。
 インペリアルホテル大阪は絶対に阻止しようと、一切関係がないって向こうも告知したりするやろうけど、向こうの記事に惑わされるなとか、告知合戦をしながらも、とにかくみんなをうまいこと誘導して、変態を一旦インペリアルホテル大阪に集めて、爪あとを残してからこっちのホテルに連れて行って、ほんまにファッションショーをするつもりやねん」
 と、私が言い終わったあとも、
「・・・・・・」
 木村さんは無言でありました。
(あかん・・・ やっぱり怒ってはるわ・・・)と、叱られることを覚悟して、謝罪の言葉を探し始めたとき、木村さんは徐に目を開き、私の顔を見つめながら、
「わかった。お前らの好きなように考えてやってみぃや。
 東興物産にはリニアのことがまとまるまで手は出さんけど、その代わりに、中国の実業家は好きにするぞ。そっちのほうが、東興物産を降参させやすくなるやろう」と言いました。
 私は木村さんの言った言葉を、頭の中で精査したあと、
「うん、わかった。お父さん、ありがとう」
 と、ホッと胸を撫で下ろしました。
 なにはともあれ、とりあえず心の底から進とピロシに感謝をしていると、木村さんは手を伸ばしてきて私からタブレットを取り上げて、興味深そうに再び告知の内容を確認した後、
「圭介、この優勝賞金の300万円は誰が出すねん?」
 と訊ねてきました。
「それは、俺と紳で半分づつにして出すつもりやけど・・・」
「あのな、それやったら賞金総額を1000万円にして、優勝者以外にも敢闘賞とか特別賞とか、色んな賞を設けて、みんなに金をばら撒けよ。そうじゃないと、警察に捕まるのを覚悟で、スッポンポンで乱入するごっつい奴とかも出てくるやろうから、そういう人たちに感謝の印として賞金を受け取ってもらうんや。それで、その金は俺が出すわ」
「!・・・」
 私はあまりにも予想外な展開に、一瞬言葉に詰まりましたが、
「お父さん、ほんまにいいの?」と、真意を確認しました。
「いいよ、金は俺が出す。それで紳、もしも逮捕者が出たら、お前が弁護して、あとのこともちゃんと面倒みてあげろよ」
「はい、分かりました、お父さん!」

 これで、全ての懸案事項が解決となりましたので、あとは4日後の改装工事の終了と、10日後の決戦の日を待つのみとなりました。


第56話 アメとムチ

 翌日の朝、滋賀のお父さんから連絡がありまして、JR東日本の部長との会合が、先方の都合で2週間ほど延期となったという、こちらにとっては吉報が入りました。
 とにかく今、私たちにとって一番必要なのは時間であり、少しでも多くの時間を稼いで、その間に近江精工所の用地買収を完成させることが最優先課題なのです。
 米原の用地買収さえ無事に終了すれば、あとはどうとでもなるというもので、リニアの奈良県での取りまとめは、県人会の結束によって妨害されることは不可能ですし、大阪インペリアルホテルの経営も、紳のおかげで金融機関との契約も無事に終了し、お父さんの箕面の自宅は綺麗な状態に戻すことになりましたので、あとは全力で東新総業の土地を取り戻すのみなのです。
 時間的に余裕が出来たということで、ある考えが思い浮かび、少しだけ方向転換して作戦を実行することにしました。
 思い浮かんだ作戦というのは、実にオーソドックスなアメとムチを使い分けるというもので、今回のように複雑な事情が絡み合っている場合には特に有効で、一旦攻撃の手を緩めて相手に考えさせる間を与えておいて、次に何を仕掛けてくるのだろうという恐怖を味あわせ、それから一気呵成に攻めていくという戦法です。
 ということで、まずは今行っている、豚頭狗肉作戦は諸般の事情を考慮し、チラガー犬鍋はやむなく販売を中止しました、とホームページで告知しました。
 すると、世間の反応は中止したら中止したで、なぜ販売を中止するのか、食べるのを楽しみにしていた、といった問い合わせが殺到し、中には販売を中止してもいいが、豚がしていたサングラスを詳しく教えて欲しい、あの口の周りが黒い犬の名前を教えてほしい、などといった訳の分からない問い合わせなどもあったりしまして、あらためて世の中には色んな人たちがいるのだなと思いました。
 インターネットの普及によって、目の前に世界中の情報が溢れすぎているため、世の人々の関心が薄れていくのも早く、2日後には一時ほどの電話が鳴りっぱなしという状況が落ち着きまして、3日目には電話の掛かってくる本数が極端に減り、世間の関心事に対する熱しやすくて冷めやすい、ということを身を以って体感することが出来ました。
 この間、もしかするとインペリアルホテル側から、販売を中止してくれてありがとう、とか、2度とこのような騒ぎを起こさないで欲しい、といった何らかのアクションがあるかと思い、期待しながら待ちましたが、何の連絡もありませんでした。
 おそらく、あちら側もクレーム対応が落ち着いているものと思われますので、ホッと一息ついたところで安心し、じっくりと今回の騒動の経緯を考えた結果、私たちが鳴りを潜めてしまったのは嵐の前の静けさで、次に何かを仕掛けてくる前触れだろうという恐怖を味わってもらうことにして、あと3日間は何もせずに大人しくしていることにしました。
 やはり、どう考えても必殺技の変態ファッションショーは、こちらもかなりのリスクを負うことになりますので、できれば避けたいというのが本音なのです。
 もし、本当に告知してしまった場合、参加資格に対する年齢制限や性別の不問、審査方法や審査基準などといった、具体的な問い合わせが殺到することが予想され、それらの対応に追われることは必至で、やるからには中途半端なことはできませんので、人員を増やして設備や会場の充実を図るといった、ソフトとハードの両面で不慣れな作業を行うことになりますので、どう考えても全て対応できるだけの体制を整えることは困難であります。
 進とピロシは大学時代の友人を動員し、SNSの様々なアイテムを利用して、どうやら大阪インペリアルホテルとインペリアルホテル大阪が揉めているということを世間に伝え、ファッションショーの本当の会場は難波の大阪インペリアルホテルなのですが、当日にインペリアルホテル大阪に乱入した者には敢闘賞として賞金が授与される、といった情報を流して、大混乱を巻き起こす構想を抱いております。
 しかし、もしも実際に実行してしまった場合、全裸にコートを羽織るだけといった兵つわものが現れ、本当に逮捕者が出る可能性がありますので、そうなった場合は主催者のこちらも責任を問われることになりますので、今後のホテルの健全な経営を考えた場合、やはりリスクが高すぎると言わざるを得ないでしょう・・・
 以上のような理由で、みんなで話し合った結果、
「じゃあ、考えたら別に変態ファッションショーなんかしなくても、またチラガー犬鍋を販売しますとか、今度は愛猫家も敵に回して、本物の猫鍋を販売しますっていう告知だけでも、十分な効果があるっていうことですよね?」
 と、ピロシが紳に訊ねると、
「まぁ、はっきり言うたら、それだけで十分すぎるほどの効果は見込めるわな」と紳が答えました。
 すると、進が目を輝かせながら、
「じゃあ、前から考えていたんやけど、ただの饅頭に干しブドウを乗っけて、その上からカルピスの原液をぶっかけたセクシー饅頭っていうのもあるし、私的に一押しなのが、剥いたバナナの先っちょに練乳をぶっかけて、セクシーマジカルバナナっていうのもあるし、ジャンボフランクフルトにホワイトソースをぶっかけて、セクシーうまい棒っていうのはどう?」
「・・・・・」
 と、あくまで白い液体に拘った進の意見は聞き流して、もう少し様子を見るということになりました。

 翌日、ホテルの改装工事が無事に終了し、お父さんを含めてみんなで点検と視察を兼ねてホテルに集合しました。
 追加で改装を依頼していた地下の宴会場も、小劇場のようにリニューアルされ、予算と工期の関係から客席などは無く、小さな舞台を設置しただけのチープな造りであったのですが、進とピロシは大学の演劇部時代から、自分たちの劇場を持つことが夢であったということで、喜びも一入ひとしおであったのでしょう、とても感動しておりました。
 私はお父さんと修理されたエレベーターに乗って最上階に行き、そこから各階の部屋を見て回り、リニューアルされた部屋の点検を行い、4階に来た時にお父さんの携帯電話が鳴りました。
 携帯電話のディスプレイに表示された、相手方の情報を見たお父さんは、非常に驚いた様子で、
「圭介君、坂上からやわ!」
 と、表情を一変させました。

「!!!」


第57話 転落

(来たか!)という思いと同時に、(なんで?)と思いました。
 私は連絡があるとすれば、インペリアルホテルの関係者からだと思っておりましたので、あまりにも意外すぎて非常に驚きましたが、
「お父さん、出てみてください」と言いました。
 お父さんは電話に出て、なにやら話しておりましたが、
「ちょっと待ってくださいね」と言って、電話の通話口を手で押さえて、
「今、坂上は大阪にいるらしいねんけど、今から私に謝罪したいって言ってきて、それから是非とも圭介君にも会いたいって言うてるよ」と言いました。
「・・・・」
 私は少し考えましたが、
「じゃあ、今から会いましょうって話してください」と言いました。
 お父さんは再び話し始め、坂上が新大阪駅にいるということで、私たちが新大阪へ向かうと話したのですが、出来れば誰もいない所でゆっくりと話がしたいと坂上が言いましたので、大阪インペリアルホテルに来てもらうことにしました。
 とりあえず点検作業を中断して、お父さんと私は一階の事務所に行き、ソファーに座って工事費の見積もりと請求書に目を通していた紳と三人で、これからのことを打ち合わせることにしました。
 私が紳に、今から坂上が訪ねて来ると話すと、紳は少し緊張した面持ちで、
「坂上が来るっていうことは、決着を付けに来るっていうことでしょうね」と言いました。
「やっぱり、坂上やったら使いっぱしりなんかせぇへんから、ある程度の結論を持って来たっていうことか?」
「はい、そうとしか考えられないですね。東興物産とインペリアルホテルが結論を出して、坂上に交渉を託したんでしょう。もし、交渉の結果次第で、答えを持って帰るような使いっぱしりなんか、坂上は絶対に引き受けたりしないでしょうからね」
 確かに紳の言うとおり、坂上がインペリアルホテルと東興物産を結びつけた張本人であることを考えると、両社の意向を託されて、しかも話し合いの結果の如何いかんによっては、その場で結論を出して決着を付けるつもりなのでしょう。
「どういう話になると思う?」とお父さんが訊ねてきましたので、私が何か答えようとした時、紳が先に口を開き、
「おそらく、こちらにとって有利な内容の話になると思いますよ。じゃないと、わざわざお父さんに謝罪なんかしないでしょうし、お父さんに謝罪するっていうことは、向こうがこちらに礼節を尽くして、何かお願いしたいことがあるっていうことだと思いますよ」と言いました。
(おっしゃるとおり)と、いつものことながら、紳の分析能力の速さと高さには、舌を巻く思いでありました。
 どういう話し合いになるのか分かりませんが、紳はタブレットで次の作戦を見せるつもりのようで、画面を開いてチェックを始めましたので、私は地下の劇場に行って、進とピロシに4階から1階までの部屋のチェックの引継ぎを頼み、今から坂上が来ることを話しました。
「アニキ、大丈夫?」
「大丈夫やで。おそらく今日で決着がつくと思うわ」
「じゃあ、もしかしたら豚頭狗肉作戦が利いたっていうことですか?」と、ピロシが訊ねてきましたので、
「うん、おそらく相当効果があったと思うよ。まだどういう決着になるのか分からないけど、とにかく二人ともありがとうな」と、お礼を言って事務所に戻り、坂上が到着するのを待ちました。
 紳が入れてくれたコーヒーを飲み終わり、地下の劇場についての話題を話し始めた時に、事務所内の来客を知らせるチャイムが鳴り、坂上が大阪インペリアルホテルにやってきました。
 紳が立ち上がって、事務所のドアを開けて坂上を迎えに行きまして、ほどなく二人で事務所に入ってきました。
 私とお父さんもソファーから立ち上がり、坂上はまずお父さんにきちんとした挨拶を交わした後、名刺を取り出しましたので、私と紳も名刺を取り出しながら坂上の前に行きますと、
「初めまして、坂上です」と言って、坂上が先に名刺を差し出してきましたので、私は名刺を受け取った後、
「初めまして、北村です」と言って、名刺を差し出し、続いて紳も名刺交換を行いました。
 濃いグレーのスーツ姿の坂上は、おそらく50代と思われ、身長はやや高く細身で、やはり超一流の事件師だけに、目付きさえ鋭くなければ、外資系の証券会社の役員といった雰囲気の男でした。
「原田さん、数々の非礼をお詫びいたします。申し訳ございませんでした」と、頭を下げてお父さんに謝罪した後、
「北村さん、沢木さん、時間をとっていただいて、ありがとうございます」と、私たちにも頭を下げましたので、私と紳も軽く頭を下げたあと、6人掛けのソファーにお父さんと坂上、お父さんの正面に紳が座り、私は坂上の前に座りました。
「私は前置きが苦手ですし、お互いにお互いの内情は分かり合っていると理解していますので、私が訪れた理由を単刀直入に話しますけど、それでよろしいですか?」
 お父さんが私に目で合図を送ってきましたので、
「はい、それでよろしいですよ」と答えて、これからは私が主体となって坂上と話すことにしました。
「私が話したいのは4つありまして、先ず一つ目は、昨日、インペリアルホテルの緊急役員会議が開かれまして、近藤は懲戒解雇になりました。なので、こちらが今から提示する条件を納得していただけたら、今までのことは全て水に流して、インペリアルホテルへの攻撃を即時に中止して頂きたい、というのが一つ目です。
 そして二つ目は、東興物産が横取りした滋賀県の土地を、大阪インペリアルホテルの名称に関する全ての権利と交換して頂きたい、というのが2つ目です。
 そして、3つ目と4つ目の話は、いま話した2つの話を説明した後で話しますので、一つ目の話に戻りますけど、よろしいでしょうか?」
 坂上は落ち着いた雰囲気の見かけによらず早口で、しかも話の内容が多岐に渡っているので、もしかすると聞き漏らしているのではないかと不安を覚えましたが、隣に紳がいるので、ここは大船に乗ったような気持ちで、
「はい、どうぞ」と、自信を持って答えました。
「では、インペリアルホテルが提示した条件というのは、一つ目と2つ目の話と連動しているのですが、攻撃を中止して、大阪インペリアルホテルの名称に関する全ての権利を、5億円で買い取らせてほしいということです。
 そして、その5億円とは別に、東興物産が横取りした滋賀県の土地を、無償でそっくりそのままお返ししますので、そちらが用地買収で用意されていた約2億円と合わせると、そちらの利益は7億円ということになりますし、東興物産は滋賀の土地を3億円で取得していますから、もしも東興物産から買い取るということを考えると、実質的には8億円以上の利益ということになりますね」
「?・・・」
 私は話が複雑すぎて、いまひとつ理解していなかったので、助けを求めて紳の顔を見ますと、紳が小さく頷いて話し始めました。
「坂上さん、お話の内容はよく理解できたのですが、なぜ、東興物産は無償で滋賀の土地を手放すことになったんですか? こちらはその土地を、20億円で買い取れと言われても仕方がないと思っていたので、それを無償で手放すということが理解できないんですけど、どういった理由があるのですか?」
「それは、東興物産が決めたことではなくて、私がこれから先のことを考えて、私の判断で滋賀の土地をお返しするということを決めました。
 その理由として、まもなく東興物産は空中分解しますから、これから話す3つ目と4つ目の話で、是非とも北村さんの協力が必要なので、これから先に色々と協力をして頂くための交換条件として、滋賀の土地のことを考えて頂ければ理解してもらえると思うのですが、どうでしょうか?」
「!」
 私は非常に驚きながら、
「東興物産が空中分解するというのは、どういう意味なんですか?」
 と、坂上に訊ねました。
「はい、実は東興物産の森田社長は、2日前に海外に逃亡しまして、森田は逃げる前に、私に東興物産の全ての権限を譲りましたので、実質的に東興物産の実権を握っているのは私なのです」
 と言って、経緯を話し始めました。

 東興物産は5年ほど前から経営が苦しくなっておりまして、その理由は名古屋の用地買収が進まず、100億からの資金が10年以上も塩漬けになっていたこともあるのですが、最も大きな理由として、メインの事業であった貸金業の、利息の過払い請求で大きな損失が発生したことでありました。
 今から20年ほど前から貸金業の合併による淘汰が始まり、中小規模の多くの貸金業者は大手のサラ金グループに吸収されて淘汰されていった訳ですが、東興物産の場合は貸し金の残高が大手に匹敵するほどに巨額であったため、大手でさえ飲み込むことが出来ずに孤軍奮闘していたのです。
 しかし、その後に始まった出資法と利息制限法の差額を遡って請求することが裁判で認められた、いわゆる利息の過払い請求問題に東興物産は直面しました。
 大手のサラ金グループは、あろうことかメガバンクの傘下に入るという、一昔前までは考えられないようなとてつもない離れ業で難局を乗り切ったのですが、東興物産はどこからも支援を受けることが出来ずに、自社内のグループで損失の補填をしなければならなくなってしまったのです。
 過払い請求によって、東興物産は屋台骨を揺るがすようなダメージを受けてしまい、手間取っていた名古屋の用地買収も追い討ちを掛けた結果、既に取得していた名古屋の土地を担保に、資金を調達することになってしまったのですが、そんな苦しい内情が発覚すれば、インペリアルホテルは三行半を突きつけて手を引き、用地買収でせっかく掛けた梯子を外されてしまいますので、東興物産は名古屋の土地を買収するのに使用していたダミー会社を、用地ごと後から買い戻すという、とてもリスキーで複雑な方法を使って資金を調達し、難局を乗り切ろうとしました。
 しかし、貸金業での失敗は想像以上にダメージが大きく、その後も東興物産は先細りを続け、虎の子である最後の資金を使って、近江精工所に対して起死回生の勝負に出たのですが・・・
 私たちから思わぬ反撃を受けた結果、インペリアルホテルが調査に乗り出し、近藤を問い詰めた結果、元々はどうでも良かった大阪インペリアルホテルの名称問題が引き金となって、今回の大騒動となってしまったことが発覚し、近藤はクビとなりました。
 次に、名古屋の用地買収が、東興物産が自社の資金繰りに利用したことによって、インペリアルホテルが買い取るはずであった当初の買い取り価格を遥かに超える金額にまで膨れ上がっていることが判明し、東興物産はインペリアルホテルから正式に、名古屋の用地買収から手を引くと通達されてしまったのです。
 それによって、最後の地権者であった老人ホームとの契約条項の中に、特別事項として記された、
『当該の跡地に、インペリアルホテルが建設されることが前提条件である。』
 ということが履行できなくなってしまい、万事休した東興物産の森田は後の処理を坂上に託し、名古屋の用地買収で使用するはずであった資金を持って、海外に逃亡してしまったのです。


第58話 決着

 東興物産が目立った動きをしていなかったのは、目立った動きができなかったほど、資金繰りに困っていたということが分かり、表から見ただけでは中身が分からないもので、まるで巨象のように思っていた強大な敵が、あっけない幕切れを迎えるということに、栄枯盛衰と諸行無常という言葉を思い浮かべました。
「それで、私はこれから東興物産を解散するつもりなのですが、どうしても名古屋の土地をこのままにしておく訳にはいきませんので、北村さんのウォルソンで引き継いでもらって、最後の総仕上げをして頂きたい、というのが3つ目の話です」
「・・・・・・」
 私はしばらく考えて、頭の中を整理したあと、
「でも、今お聞きした話でしたら、名古屋の土地は相当ややこしくなっているということで、私なんかが出て行って、解決するとは思えないですし、その最後の総仕上げというのは、どういったことなんですか?」と訊ねました。
「確かに名古屋の土地は東興物産以外に3社の名義になっていまして、その3社はどれもややこしい連中なので、インペリアルホテルは手を引かざるを得なくなってしまったのですが、やはり名古屋への進出は20年近くの歳月を掛けて行ってきた大事業ですから、おいそれと手放すことは出来ないのが実情なのですよ。
 ですから、出来ればもう一度整理しなおして、きちんと仕上げることができれば、インペリアルホテルはいつでも買い取る用意は出来ているということなのです」
「ということは、私にそのややこしい連中の取りまとめをやってほしいということなんですか?」
「いえ、そのややこしい連中は私が取りまとめるつもりなので安心してください。そこで4つ目の話なのですが、私に奈良の木村さんを紹介して頂きたい、というのが最後の話なんです」
「!・・・」
 私は坂上の言葉に驚き、何を意味するのかということは理解できたのですが・・・
 おそらく、名古屋の土地の名義人となっている連中は、木村さんクラスの大物がバックに付かなければ取りまとめることが出来ないほどややこしいということなのでしょう。 
 どちらにしても、私が木村さんを紹介するということは、相手があることですから即答できるような話ではないので、
「じゃあ、木村さんを紹介することが、私の最後の総仕上げということなんでしょうか?」と訊ねました。
「いえ、木村さんを紹介して頂く以外に、北村さんには一番大切な仕事を用意していますので、その仕事が最後の総仕上げということになります」
「?・・・」
 私は意味が分からなかったので、
「その、最後の総仕上げということを説明して頂けますか?」と訊ねました。
「はい、では説明いたします。北村さんは、名古屋の老人ホームの地権者である遠山さんのことは、どこまでご存知なのですか?」
「いや、私はご存知も何も、お会いしたこともありませんし、名前も遠山さんと、憶えていなかったくらいなので、何も分からないのと同じですね」
「それじゃあ、遠山さんがなぜ、インペリアルホテルに拘っているのかも、勿論ご存じないということですね?」
「はい、そうですね」
「・・・・・」
 坂上はしばらく無言で、何事か思案中といった表情をした後、
「用地買収は、木村さんがバックに付いてさえくれれば、私が必ずまとめてみせます。でも、最後の遠山さんとの契約は、是非とも北村さんにお願いしたい、ということが最後の総仕上げで、どうしても北村さんに、遠山さんとの契約をお願いしたい大切な理由があるのです」
「?・・・・」
 私は益々意味が分からなくなり、
「その理由というのは、どういうことですか?」と訊ねました。
 すると坂上は、しばらく間を置いた後、
「実は・・・」
 と言って、理由を話し始めました。

 15年以上も土地を手放すことを拒み続けた遠山さんは、地上げの後にホテルが建つという事は噂話で知っていたようで、地上げを行っていた連中に、どこのホテルが建つのかをしつこく訊ねていたそうです。
 しかし、インペリアルホテルとの契約で絶対に秘密にしなければならなかったため、遠山さんに明かすことは出来ませんでした。
 そうこうしている間に東興物産の資金繰りがいよいよ苦しくなり、社長の森田は坂上を呼び寄せ、遠山さんとの契約を依頼しました。
「それで、私が遠山さんに会いに行きまして、色々と世間話をしながら、何度も足を運んで、ある程度の信頼関係ができましたので、インペリアルホテルからは内緒にすることが絶対条件であったのですが、これ以上時間を掛けることができなかった事と、これは正直に話さなければまとまらないと私が直感で判断して、インペリアルホテルが建つことを遠山さんに話したのですよ。
 そしたら遠山さんが非常に驚かれて、インペリアルホテルが建つのであれば、喜んで立ち退きましょうと、二つ返事で了承してくれたんです。
 それからは話がとんとん拍子に進んで、遠山さんは契約の条件に、必ずインペリアルホテルが建つということを明記してくれと言われまして、その通りの文言を入れて仮契約を結んだ後に、なぜ、遠山さんはそれほどまでにインペリアルホテルに拘っているのかと訊ねてみたんですよ。
 すると遠山さんはね、戦争中に南方戦線に送られて、フィリピンのある島に上陸したんですけど、上陸してすぐに高熱が出て動けなくなってしまって、物資の補給を上官が自分の代わりに行ったときに、その上官は敵襲に遭って腕を吹き飛ばされたそうです。
 それで、その上官はインペリアルホテルの元料理人ということで、遠山さんは自分の身代わりになって腕を失ってしまったことを申し訳ないと思い続けていて、いつかその人に恩返しを、という気持ちがあったんですね。
 だから、インペリアルホテルが買い取ると言った瞬間に、契約してくれたんですよ」
「!!!」
 私とお父さんは互いに顔を見合わせ、
「坂上さん、もしかしてその料理人っていうのは?・・・」
 と、お父さんが坂上に訊ねました。
「はい、原田さんの大叔父の原田義夫さんだったんですよ。
 私は大阪インペリアルホテルを倒産させて欲しいと近藤から頼まれまして、普段はこういった話には乗らないのですが、東興物産との絡みもありましたので、どうしても断ることが出来なくて引き受けたんですけど、その時に近藤から大阪インペリアルホテルの名称に関する話は聞いていたので、遠山さんから原田義夫さんの話を聞いたときに、非常に驚いたのと同時に、この話は東興物産では絶対にまとまらないなと思ったんですよ。
 今だから正直に話しますけど、私は初め、北村さんの正体が分からなくて、探偵を使って北村さんのことを調べたんですよ。
 そしたら北村さんが、北都興産の北村会長の実子であることが分かった時に、初めはとても驚いたのと同時に、みんなは不思議がっていたのですよ。
 なぜ、北村さんが大阪インペリアルホテルの再建に乗り出したのか、その意味が分からなくて、どう対処すればいいのかを考えたんですけど、答えが見つからなかったのですよ。
 そしたら北村さんが、原田さんのお嬢さんとご結婚されたことを知った時に、みんなは益々分からなくなりましてね・・・
 もしかすると、東興物産に対して正面から喧嘩を売るための偽装結婚ではないかと、みんなはそう解釈したんですけど・・・ 
 でも、私はすぐに気付いたんですよ。
 これは偽装とか政略結婚なんかじゃなくて、東興物産を叩き潰すために、亡き北村会長と原田義夫さんが二人を引き合わせたんだということが分かりましたから、これはもうこちらが完全に負けたと思いまして、大阪インペリアルホテルの名称に関する権利を、はした金で買い取るという、最後の仕上げを放棄して、私は全てのことから手を引いて、あとは見守ることにしたんですよ。 
 それで私は、北村さんがどんな手を使って攻撃してくるのか、こう言っては不謹慎なのですが、楽しみにしていたんですよ。
 私が北村さんの立場だったら?、ということで色々と考えてみたんですけど、どうにもこうにも答えが出なくて、いったいどうされるんだろうと思っていたら・・・
 まさか、東興物産じゃなくて、インペリアルホテルに攻撃するとは思っていなくて面食らいましたし、それも豚の頭と犬の肉で攻撃するなんて、想像すらしていなかったので、これはもう、完全にこちらの負けだと認めた瞬間に、なんだか笑いが止まらなくなってしまいまして、こんな痛快な負け方があるんだなと、あらためて思い知らされましたよ」
「・・・・・」
 ここまで坂上の話を聞きまして、全ては進とピロシの活躍だと明かし、私のことを大いに買いかぶり、過大評価しすぎだと訂正を促そうと思いましたが・・・
 今後のことを考えまして、進とピロシは私の懐刀として存在を隠し、坂上に勘違いしたままでいてもらうことにしました。
「それで北村さん、今後の参考に是非ともお聞きしたいのですが、次は、どんな攻撃を仕掛けるつもりだったんですか?」と、坂上が訊ねてきました。
 すると、紳がタブレットの電源を入れて画面を呼び起こし、坂上にタブレットを手渡しました。
「・・・・・」
 坂上は時間をかけて、じっくりと画面に見入ったあと、
「なるほど・・・ この画面をデータで私のパソコンに送っていただけますか? この画面をインペリアルホテル側に見せるだけで、名称の買取金額を、あと1億円以上は上乗せできるでしょう」
 と、こちらにとって非常に有難い話をしてくれましたので、紳が早速、坂上からアドレスを聞いて、送信しました。 
「それにしても、よくこんな作戦を思いつきましたよね・・・
 私も長いことこの世界にいますけど、こんな作戦は見たことも聞いたことも無かったので、まさに目から鱗の前代未聞の素晴らしい作戦で、今回のことで良い勉強をさせて頂いたと、本当に感謝しています。
 ですから北村さん、是非とも名古屋の総仕上げを引き受けてもらえませんか?
 元々、名古屋の用地買収は、北村会長が北都興産で仕上げる仕事だったことを考えると、最後の総仕上げは北村さんにお願いするのが筋だと思いますし、ましてや原田家のお嬢さんとご結婚された北村さんが、遠山さんの願いを叶えるということにもなると思うのですが、どうでしょうか」

 千里の先祖であり、お父さんの大叔父さんである原田義夫氏の遺産を、巡りめぐって原田家の一員となった私が受け継ぎ、戦友であった遠山さんの願いを叶えることになろうとは・・・
 ただの偶然などではなく、とても深い縁(えにし)を感じずにはいられませんでした。
 私は坂上さんの目を見ながら、やはりこの男はそんじょそこらの事件師とは次元の違った、超一流の事件師であり、日本有数の仕事師であるということを理解し、遠山さんとの契約は、坂上さんが私に用意した餞(はなむけ)なのだということが分かりました。
 この男なら信用できるということで、視線をお父さんに移して、
「お父さん、大阪インペリアルホテルの名称を売却してもいいですか?」と、訊ねました。
「うん、圭介君の思うとおりにしてくれたらいいよ」
「ありがとうございます」と言って頭を下げた後、坂上さんに視線を戻して、全ての決着をつけるために、
「坂上さん、分かりました。お聞きした4つの話は全て了解ということで話を進めましょう。インペリアルホテルへの攻撃は中止しますし、大阪インペリアルホテルの名称も売却します。それと、遠山さんの件と木村さんの件もお引き受けしますけど、ひとつだけ坂上さんにお訊ねしたいことがあるんですけど、よろしいですか?」と、最後の質問をすることにしました。
「はい、どうぞ」
「こうやって坂上さんがこちらに来られて、私と会って話している時点で十分に理解していますし、私に対して餞まで用意して頂いていることもそうですし、ましてや木村さんを紹介してほしいということで、本当に不仕付けな質問になって申し訳ないんですけど、坂上さんは、父の事件に関与はしていなかったんですよね?」
 坂上さんは私と視線を合わせたまま、真剣な表情で、
「はい、私はまったく関与していません。あの事件に関する私が知っている全てを北村さんに話すつもりなのですが、できれば木村さんとお会いした時に、北村さんと木村さんの前で話そうと思っていたのですが、いま話したほうがいいですか?」と、最後まで視線を逸らさず、私の目をまっすぐ見つめたまま話しましたので、本当に関与はしていなかったと確信を持ちました。
「いえ、それは木村さんと会った時にしましょう」
「はい、分かりました。それで、私があの事件に関与していなかったということは、おそらく木村さんはもうご存知だと思いますよ」 
「?・・・」
 私は意味が分からなかったので、
「それは、どういうことですか?」と訊ねました。
「東興物産がインペリアルホテルの中国進出に向けた前捌きを行っていた事はご存知ですよね?」
「はい、知っています」
「その時に現地での協力を要請していた実業家の楊さんが、3日前から行方不明になっている事はご存知ですか?」
「!」
 私はお父さんの前なので、これ以上の話を避けることにしました。
「坂上さん、申し訳ございませんでした。木村さんとの顔つなぎは、私が責任を持って必ずセッティングしますから、全てはその時に話しましょう」
 坂上さんも私の胸の内を察したようで、
「いえ、こちらこそすみませんでした。では、私は今から東京に戻りまして、インペリアルホテル側と話をつめることになっていますので、申し訳ございませんが、これで失礼致します」と言って、私たちはお互いの携帯電話の番号を教えあったあと、坂上さんが手を差し伸べてきましたので、私たちはガッチリと握手を交わし、これからはファミリーとして付き合っていくことを互いに黙契し、坂上さんは東京へ戻っていきました。

 2日後、再び坂上さんがこちらへやって来まして、私と一緒に木村さんの自宅に行って顔つなぎを済ませ、名古屋の用地買収を木村さんが引き受けることが決まり、父の死の詳しい真相を聞きました。
 やはり、渡瀬さんが調査した通りでありまして、東興物産の森田が海外へ逃亡した本当の理由は、中国の実業家が行方不明になったことが、直接の原因であったということを知りましたが、それ以上の話は木村さんによって、私は席を外されてしまったので、あとの話はどうなったのかは分かりません。
 私が知る必要がないということなのです。
 その通りだと、私自身も納得しました。

 そしてその2日後、私はお父さんとお母さんと千里を連れて、家族4人で名古屋へ行き、坂上さんが用意してくれた料亭で、遠山さんのご家族と一緒に食事を楽しみました。
 遠山さんは涙を流しながら、とても喜んでくれました。

 こうして、インペリアルホテルとの決着がつきまして、これにて一件落着と言いたいところなのですが・・・

 このまま終われるはずがありませんよね?


第59話 ホテル・ウォルソン大阪

 私と千里が出会ったことによって始まった、インペリアルホテルを巡る一連の騒動によって、公私共に目まぐるしい日々が続きましたが、秋の気配を感ずる頃には全てが落ち着き、大阪インペリアルホテルは『ホテル・ウォルソン大阪』と名称を新たにし、今回の大勝利の功労者であった進とピロシに特別ボーナスとして、ホテルをそっくりそのままプレゼントしました。
 ホテルの事業は進とピロシに任せて、私と紳は奈良のリニアに関する事業をメインに、坂上さんと一緒に東興物産の後始末を手伝ったりしながら、それなりに忙しい日々を送っておりましたが、仕事が一段落した所で、千里の念願であった披露宴を行うことになったのですが・・・
「いやいやいやいや、ぜ~ったいにいやっ! 私は絶対に出席せぇへんで!」
「でも、せっかく進とピロシが、手作りの真心を込めた、」
「もういい! な~にが手作りの真心を込めたハートウォーミングな披露宴やの! 
 その真心が一番怖いねんって! 
 そんなん、絶対にハートウォーミングになんかなれへんし、ハートブレイクの間違いやろう! 
 圭介はあの二人が、地下の劇場で何をやっているのか、もう忘れてしまったの?」
「うぅん、憶えてる」
「じゃあ、断りなさいよ! なんであんな劇場で披露宴なんかせなあかんのよ? インペリアルホテル大阪で披露宴するねんから、それ以上、何を望むの?」
「・・・・・」
「昨日、大阪の支配人と会って、インペリアルホテル東京の総支配人も出席するし、インペリアルホテルが総力をあげて演出してくれるって約束してくれたやんか! そんな披露宴を挙げたあとで、何のために進君とピロシ君の演出で披露宴なんかせなあかんのよ? どうしても断られへんねんやったら、圭介が一人で出席しいよ!」
「・・・・」
 ということで、千里の鬼ギレによって、進とピロシの真心は踏みにじられ、真に残念でございますが、第2披露宴は新婦の出席拒否により中止せざるを得ないということになりました。
 しかし、よく考えてみると千里がキレるのも当たり前の話で、進とピロシは自分たちのホテルとなった地下の劇場で、
『ゲイの、ゲイによる、ゲイのためのミュージカル』
 というスローガンを掲げてミュージカルを主催し、二人は総合演出兼俳優として参加しており、ホテルの利益のほとんどを注ぎ込んで、本格的に劇場経営に乗り出してしまったのです。
 私は千里と紳とマリと、4人で何度も観劇に行ったのですが、私は一度だけ宝塚歌劇団を観に行ったことがありまして、その迫力と華やかさに、驚嘆と感動を覚えたのですが、進とピロシが目指している方向は、宝塚歌劇団の『清く、正しく、美しく』の真逆を行くような、『汚く、まがまがしく、おぞましく』といったスローガンとしか思われないような、とてもお下劣なミュージカルでありました。
 しかし、それはそれでゲイの間で評判になり始め、近頃はゲイだけではなく、ホモやニューハーフ、レズやおナベ、SM愛好家やスカトロジストといった、様々なジャンルのエキスパートたちにも評判が広がり、
「スローガンをゲイに限定するのは差別だ!」という抗議を受け、
『変態の、変態による、変態のためのミュージカル』という概念に拡大解釈し、今後は演目もミュージカルだけではなく、様々なジャンルに挑戦していくと、進とピロシは話しておりました。
 その後、二人は公言通りに、多くの売れない芸人や、ネタがお下劣過ぎて、テレビなどに出られず、日の目を見なかった下ネタ芸人たちを集めて、定期的にライブを行うようになり、テレビなどで活躍する若手の芸人なども客として出入りするようになったことで、劇場は大繁盛となりました。
 こうして、進とピロシの成功を目の当たりにした今となっては、彼らは間違いなく一流の演出家であり、芸術家であり、実業家であると認めざるを得ないでしょう。
 しかし、進とピロシの演出は過激の一途をたどり、次第にマスコミからも注目を集めることになってしまいました。

 そんなある日、滋賀のお母さんから電話が掛かってきました。
「お母さん、進はもう、俺がどうとか言えるレベルじゃなくて、あいつは間違いなく、超一流の本物やったわ」
「そう・・・・ 圭介がそう言うんやったら間違いないやろうけど・・・
 私もな・・・ 親として進を応援したいし、あの子のミュージカルとか時代劇とかを見に行ってあげたいねんけど・・・ 
 でもな、私は親である以前に、一人の人間として見に行かれへんねん! うあぁ~! 」
「お母さん、大丈夫?・・・・ 泣いたらあかんって・・・」
「私、どうしたらいいんやろう?・・・ 進がどんどん遠くに行ってしまう~・・・ うわぁ~・・・・」
 その後、お母さんは20分間泣き続けました。

 そして、お母さんが懸念していた、進が遠くへ行ってしまうという心配事は、ある日突然、何の前触れもなく現実に起こってしまいました。

 月日は流れ、3年後。

「パパ、早く起きて! 今日は進君が帰ってくる大切な日なんやから、千尋と京介の着替えを手伝って」
 私は千里に言われたとおりに、ベッドから起き上がって長女に服を着せていると、
「でも、2年半なんかあっという間やったね」と、長男を着替えさせながら千里が言いました。
「そうやなぁ、紳が一生懸命に弁護してくれたおかげやし、進本人もよう頑張ったから早く出てこれたなぁ」

 進はスカトロ冒険時代劇『見て!肛門、からの~?』の公演中、

「人~生、浣腸ありゃム~チもある~♪ 
 しょ~んべんのあとには バ~バもでる~♪
 き~ば~って~ イ~ク~ん~だ~ し~っか~り~と~♪
 自分のク~ソを 噛~み締~め~て~♪」

 と、テーマソングで幕が上がり、勧善懲悪なストーリで劇は進み、物語の終盤、最大の見せ場である、
『見て!肛門、からの~? 脱○!』をする寸前に公然猥褻で現行犯逮捕され、進は駆けつけたマスコミのカメラに向かって、
「ゲイ術は爆発よ!」と叫んだあと、
「ちなみにゲイジュツのゲイは芸能の芸じゃなくて、私たちゲイのゲイだから、そこんとこヨロピク♡」
 と言って、パトカーに乗せられて連行されていきました。

 その後、進の裁判が始まり、当然、紳が弁護をすることになり、裁判が始まったのですが・・・
 ただの公然猥褻の弁護が、いつのまにか古代ギリシャの裸の彫刻から中世ヨーロッパの裸婦画の芸術論となり、そこから日本古来の裸祭りに於ける全裸の正当性と信仰心について熱く語った後、最後は『ゲイの刹那主義に於ける破滅論と、露出癖と人間の尊厳について』という、訳の分からないテーマにすりかえて弁護を展開し、裁判官は途中で何度も笑いを我慢するのに裁判を中断するといった、異例な奇妙さで裁判は進み、紳の主張は当然ながらほとんど認められなかったのですが、裁判官も人間なので、ただの公然猥褻なのに面倒くさいと思ったのか、ある程度の情状酌量が認められ、執行猶予中に同じ罪での2度目の逮捕にしては、随分と軽い判決を勝ち取ることに成功したのです。

 ということで本日、千里と長女の千尋と生まれたばかりの長男の京介、千里の両親、紳とマリ夫妻、進の両親、竹然上人、珍念、渡瀬さん夫妻、木村さん夫妻、坂上さん夫妻のみんなで、ホテル・ウォルソン大阪に集まり、進の出所祝いをすることになっておりまして、しょんべん刑で先に出所していたピロシが進を連れて到着しました。

「アニキ~! ただいま~♡」
「おぉ~! すすむ~! 元気やったか~!」

 親父と母さんへ。 これが俺の大切な家族です。

 守ってみせますよ、これからも。


        了

インペリアルホテルの逆襲

インペリアルホテルの逆襲

「窮鼠猫を噛む」、ということわざがありますが、もしも窮鼠に毒があったら?という単純なテーマで書き始めます。 関西VS関東という、永遠のライバル?(ライバルと思っているのは関西人だけ?)の対決を軸に、関東の大猫(大企業)に追い詰められた関西の鼠(零細企業)は、窮地を脱するために奇妙な仲間たちを集い、奇想天外な作戦を駆使して、大猫を逆に追い込んでいく、というのが大筋です。 複雑な人間関係はありませんし、何かを考えさせられるような重いテーマなどありませんので、気軽に読んでいただければ幸いです。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第1章 大阪インペリアルホテル
  2. 第2章 将を射んと欲すれば、先ず馬を射よ
  3. 第3章 家族
  4. 第4章 異変
  5. 第5章 手に負えない千里
  6. 第6章 敵を知り、己を知れば・・・
  7. 第7章 インペリアルホテルの逆襲