春を待つ
管理用です。
二月の末日。
厚い雲間を突き抜けて射しこむ薄ら陽が、ぎすぎすと、埃っぽく、東京の街中を灰色めいてみせていた。
自動車にビル、それに人間。ありとあらゆるすべてのものが、いま硬質の寒風に生気のある色彩をはぎ取られて、ただそれぞれの劣化した偽物のように存在している冬の真昼だ。
新宿の繁華街のわずか外れ。木造の廃屋や年代物のビルのたち並ぶ一画。屋根の瓦が剥がれ落ち、モルタルの壁がひどく黒ずんだアパートの軒先に、一匹の蛾のような老犬がうずくまっていた。饐えた木とかびと焦げついた煙のような臭いの充満している、すさんで荒々しい雰囲気の一画だった。
その一筋を、向こうから、みすぼらしい印象の痩せて小柄な四十男と、その母親らしい老婆とがふたり連れだって歩いてきた。
急いて粗暴な足取りだった。褪せた紺色のジャンパーを着た男は、無精ひげの目立つ老いたぼらのような顔立ちをしていた。ただ異様なまでの警戒を帯びてぎらついた濡れた瞳が、男へといっそうに愚鈍な印象を与えていた。老婆はあえぐように表情をゆがめて、先をいく息子の袖へとりすがるようについていくのがやっとだった。
とうとう疲れ切った老婆が
「ねえ、義男ちゃん、ねえ、ねえ」とかすれた声で呼びかけた。
「ねえ、わたし、お腹が減って、歩けんよう」
男は張りつめた神経を刺激されたように憤慨してこわばった肩に振りむくと、ひとつ鋭く舌打ちした。そして軽蔑の目で相手を一瞥するだけでまた歩き出そうとした。
ぐんぐん先へいってしまおうとする男の背中へ、なおも老婆はうずくまったままみじめっぽく「ねえ、わたし、ほんとにお腹が減ったんだよう……何か食べさせておくれよう」と挑むかのように懇願した。
男は寸劇の滑稽役者のような急速な動作で立ち止まって振りむくと「何ですか、あなたはっ!」と声高に不意に感情を爆発させて叫んだ。
「わかっていますか? あっ、あなたは、仮にも僕の母親なんですよ! 頼ったり甘えたりするのも、いい加減にしてくれませんか!」
神経質に昂ぶった声を震わせながら、なおも男は怒りつづけた。
「あなたは僕を産んだ人なんでしょう、六十にもなって、あなたはれっきとした大人なんでしょう? それなのに、え、なぜ恥知らずにもあなたは、僕に対してそういったことがいえるんです!」
撃つような激しさで叱りつけられた老婆は、強く口びるを噛みしめてうつむいた。青ざめて深い哀しみをたたえた表情は、しかし、ふてぶてしい造り物のようでもあり、大してこたえてはいないようにも見えた。
男はふたたび、繁華街へ向けて歩きはじめた。また急いで老婆もひょこりひょこりと背を追った。
排ガスのもうもうと立ちこめた大通りを横ぎり、ふたりは安食堂へ入った。
安食堂は薄暗く、じめじめしていて埃っぽかった。ビールを飲みながら束ねた書類らしきものへ目を落としている学者風の老人がひとり。それと、座敷に職工風の男のふたり連れがいるだけだった。老朽と不衛生から、壁中がみすぼらしく黄ばんでいた。
品書きを一瞥してから、男はくたびれきって不機嫌な早口でカレーライスを注文した。
しかし老婆は、いつまでも注文を決めようとする素振りもなく、あたりを物珍しそうに見まわしていた。かたわらで待たせている給仕の次第に困惑し退屈してくる様子を横目に、男の苛立ちが募っていくのがわかった。
男が「一緒のものでいいね、母さんっ」とおし殺した早口でささやいた。
だが老婆は、男の焦りなど意にも介さず白痴のような笑みさえ浮かべて、「何かいいものは入っているのですか、このお店では何が美味しいのでしょうか?」などとのんびり給仕へ問いかけた。
「卑しいよ、母さんっ!」と男が短く、強いヒステリックな響きをこめて叫んだ。
「こんなところで、のろのろと頓珍漢なことを聞くもんじゃないよ。ねえ、ほらっ、お店の方だって困っているじゃないか!」
そんなことは、と今度は焦ったように給仕の女性が首を振ったが、男は「ほらほらっ、早く」と急いたてた。
しかし老婆は「だってねえ、わたし、そんなにすぐには決められないわよ」と穏やかな弾むような声でいい、それからうきうきしたように人なつっこく給仕の女性に微笑みかけて、「だって、わたしたち、十年ぶりの外食なんだもの」
「母さんっ! ふざけないでくださいっ!」と男がとうとうテーブルを激しく叩きつけて叫んだ。
まわりの客らの好奇の視線が襲うように彼たちのテーブルへ集まってくるのを感じ、男はいよいよ憤激に頬を紅潮させながらヒステリックに非難した。
「あ、あ、あなたはっ! なぜいつもそうなんです! なぜいつも自分のことばかりで、他の人の迷惑というものを考えない!?」
「おい、おめえ」とそのとき、据えかねたように座敷の奥で屈強な職工が立ち上がっていった。
「ずいぶん騒々しい野郎だなあ、あんた。それになんだ。母親ってもんに対してその口の聞き方はねえだろう。おれは断然、気にくわねえな」
「か、構わないでくれっ」と男は動揺の露わに表れてくる震える声で応えた。それからあまりの怒りと怯えとに皮膚のぶるぶると痙攣までしてくる物凄い形相になって、ふたたび憤りの矛を老婆へ向けて突きつけた。
「ああ、母さん、もういいでしょう? カレーライスでいいでしょう!」
「わかってねえな、あんた」と、職工が攻撃的な体臭をびりびりとにおいたてながら巨体をにじり寄せてきてすごんだ。「てめえ、ちょっくら、外でろや」
睨めつけてくる職工の凶暴な目の光を、男はネコのような敏捷さで振り払って立ち上がった。そして、謝罪の言葉を短く叫ぶと、ひとり外へと駆け出した。
老婆がようやく追いついてきていった。
「ねえ、義男、あの人をあんなに怒らせちまって、わたしが何か悪いことをしたんだろうか」
「そうだよ! すべて母さんの責任さ」
と男は呪詛のようにくぐもった高い声で叫んだ。
「父さんが家に帰ってこなくなったのも、こんなふうに僕らが外へ出ねばいけなくなったのも、全部が全部、母さんの責任なんだ! あなたにはそれがわかっている?」
老婆は応えを返さない。戸惑いに細めた目に男を見つめて、ただ何となくという感じにうなずくだけだ。
「あなたのひどすぎる我がままが、あまりにも幼稚な無神経さが僕らから父さんを出ていかせたんだ。あなたさえもっと大人らしければ、もう少しでも人の気持ちを察してやれたら、僕たちはずっと、あの家から出る必要はなかった。いつまでも父さんが、すべての世話をみてくれたんだ」
そうかねえ、そうかねえ、などと理解に悩んでつぶやきながら、のろのろと首をかしげる老婆を、不意のひと突きがつき飛ばした。硬く冷たい舗装の上に、老婆は声もなく転がった。
腰を打ちつけ苦しむ老婆を、男は傲然と見下ろしていた。
老婆は懸命に痛みをこらえながら、それでも何とか立ち上がると「ごめんよ、ごめんよ義男。わたしが悪かったんだね」と消え入るような早口であやまった。それから、どうにか許しを請うためと自らを励ますための愚かなまでの優しい声で「さあ、早く交番にいこうよ。ねえ、義男。オマワリさんにお父さんを捜してもらおうよ」
「これだから困るんだよ」と男が軽蔑して吐き棄てるようにいった。
「交番に頼んだところで、警官が父さんを見つけてきてくれる保証がどこにあるの? それも、もう一週間のうちに見つけてきてくれるのでなきゃ、僕らはすぐにも破滅なんだぜ」
また老婆が稚児のように戸惑って首をかしげた。
「だって、当たり前だろう。僕たちは金を持ってない。いわば木の幹から燻りだされて出てきた裸の虫も同然なんだ」と男が自らを純粋な被害者の立場として皮肉をこめていった。「もしも父さんが帰ってこなければ、僕たちは飢えて死ぬしかない」
「じゃあ、どうすればいいの? わたしは餓えて死にたかないよ」
老婆がはじめて現実的な不安感を露わにして尋ね返した。
「簡単なことだよ」と男が突き放すようにいった。「今度は母さんが働きに出てくれればいいことさ」
それから残酷に断定して
「だって、母さんは大人なんだよ。父さんがいなくなったいまこそ、子供の世話をみてくれて、当たり前じゃないか」と、人間を偽せた何かのような無感情でいった。
春を待つ