翡翠の塔

翡翠の塔

 何か違う道もあったのかも知れない。
 ただもう取り返しがつかないことはよくわかっていた。
 だから通り過ぎた美しい真昼のことは考えないようにしていた。
 考えないようにと、考えていた。

 駅へ向かう道の市松模様のタイルの、白が沈んで黒が浮かび、左右のビルの窓のうち、灯かりを漏らしているものだけが乾いた音を立てて粉々に砕けた。破片は飛散せず、吸い込まれるように行儀よく真下へと落ちた。
 ほぼ同時に車道のアスファルトに幾何学的な亀裂が走り、ただちにそれを突き破って、セコイアの樹が勢いよく生えてきた。樹はいたるところに、およそ十メートルの間隔を空けて生じた。ビルの中でも樹が伸びて床を貫いていることは疑いなかった。鈍色の森が、鉛色の夜空へと駆け上っていた。
 高々と突き上げられたタクシーのドアが開き、運転手が素早い身のこなしで幹にしがみつくと、乗り捨てられた車体は太い枝に弾かれながら落下した。見上げれば二人に一人は(あるいはそれより少なかったかも知れないし、多かったかも知れない)樹の幹や枝につかまり、難を逃れていた。彼らの姿はみるみるうちに小さくなった。
 地面は既に大きく波打ち、自動販売機や街灯や、自転車などを飲み込んでいた。しかし正しくは地面ごとその下の広大な空間に飲み込まれているのだった。数秒のうちに足場は粉塵の層となって、身体が重力に絡めとられた。あんなにたくさんあるのに、手の届く位置に樹はなかった。上空には乳白色の三日月があった。
 転落が始まった。自分が選ばれなかったことが、大変よく理解できた。

 背中から水面に叩きつけられ、深く深く沈み込んだ。気泡が散ると紙のように平たい銀色の魚の群れが四方に逃げていった。光って揺れる水面の向こうに、巨大な蓮らしき花の桃色の花びらが透けて見えた。
 しばらく経ってもなかなか浮力を感じなかった。沈み続けている。右手に下げた鞄が下から引っ張られていることに気付いた。それほど重いものは入れていなかったはずだが、とにかく右手を離した。鞄は急降下し、水底から走った青白い稲妻のような閃光を受けると、鞄の形状を保ったまま、透明な緑色の物質に変化した。緑色の鞄が見えなくなる頃には、身体は水面近くまで浮かんできていた。
 顔を上げると、星空があった。頭上一面に星が瞬いている。星の光だけでかなりの明るさだった。眩しさに細めた目が光に慣れると、それは星空ではなく、宝石を多分に含んだ洞窟の天井だった。その一角に古めかしい時計が埋め込まれていた。銅の長針がその時確かに動いた。現在、一時五十分……だろうか。文字盤には一ら十三までのローマ数字が刻まれていた。
 周囲には蓮の花が幾つも浮かんでいた。乗れるものなら乗ってみようと近くの葉に手をかけると、左前方から大きな白いアメンボが近づいてきた。アメンボの尖った口先がこちらを向き、頬が急激に膨らんだ。咄嗟に水中に潜ると、炸裂音が鳴って頭上の水が一瞬のうちに直径三十センチほどの氷の塊になった。アメンボの足は円盤状の氷に乗っていた。
 水中にいる限り向こうからこちらの位置はわからないようだったが、このままでは息が続かない。思い切ってアメンボの真下に浮かび上がり、右後ろの足を掴んで力任せに引っ張ると、細い足は簡単に折れた。バランスを失って水面に触れた瞬間、アメンボの身体は一瞬のうちに蒸発した。あとには円盤状の氷だけが残った。
 近くに仲間はいなかった。改めて見回してみると、陸地が見えない。かなり広い地底湖(?)であるらしかった。その時、視界の隅で一輪の蓮の蕾が開き、音楽が聴こえてきた。オルゴールに似た高い音で、聴いたことのあるメロディだったが、何という曲かは思い出せなかった。ともあれ、開いた蓮の方へ泳いだ。
 近づいてみるとちょうど音楽は終わり、それを引き継ぐようにしてまた別の場所で蕾が開いた。そうして四つか五つの蓮を渡っていくと、陸地に辿り着いた。

 水から上がると、衣服はまったく濡れていなかった。改めて手を差し入れてみても間違いなくそれはごく普通の水の感触だったが、引き抜いた手は完全に乾いていた。何にせよ濡れていないのはありがたかった。
 傍らの岩に腰を下ろして息をついた。先ほど失った鞄の中には、数冊の本と筆記用具と折りたたみ傘と、非常食の乾パンが入っていた。非常時に食べられないのでは非常食の機能を果たしていない。とは言え今のところ腹が減っているわけではなかった。それより読みかけの小説の続きが気になった(予備知識として、主人公が死ぬことは知っていた)。
 突然、尻の下の岩が動き出した。驚いて飛び降りると、それは岩ではなく、岩に似せた亀の甲羅だった。亀の身体は爪先から瞳まで一様にくすんだ灰色をしていて、まるで石像だった。亀はコマ送りのような動きでこちらを一瞥した後、大儀そうに数歩歩いて止まり、再び首と足を引っ込めた。
 陸地は野球のグラウンドほどの広さで、湖と壁にぐるりと囲まれていたが、壁づたいに幅二メートルほどの上り坂があった。登っていくと壁の側面に回り込む形になった。どうやらこの陸地の壁は大きな円柱で、坂はその周囲を螺旋状に取り巻いているようだった。七周と半分登ったところで、円柱の頂上から、宝石の灯かりとは異質な、蛍光灯のような光が溢れているのが見えた。
 頂上には一軒の板張りの小屋が建っていた。窓を覗くと、中にはまさに蛍光灯がぶら下がっていた。部屋の中央に四角いテーブルがあり、四つの椅子が置かれていて、いずれも厚く埃をかぶっていた。椅子は一つだけ斜めにずれていて、いかにも誰かが立ち上がってそのままという風だった。ドアは二つあって、一方がわずかに開いていた。その上には鳩時計が掛かっており、二時十五分を指していた。

 小屋の反対側に回ると、ブリキのロボットが崖に腰掛けて湖に長い釣り糸を垂れていた。人間の子どもぐらいの小さなロボットだった。近づいてもロボットはこちらを見向きもしなかった。頭のてっぺんには煙突(?)があり、絶えず煙の輪が吐き出されていた。
 ロボットの横に座り、当たりを待った。自分が動いていないと、時々蓮のオルゴールが聞こえてくる以外、洞窟の中はほとんど無音だった。
 やがて竿がかすかにしなった。ロボットはゆっくりと竿を引き、またひどくゆっくりとリールを巻いた。反応の軽さからして逃げられたように思われたが、現れた糸の先には最初に見た平たい銀色の魚がかかっていた。糸の先端には針ではなく分銅のようなものが付いていて、魚は薄い鉄板が磁石に貼りつくようにして捕らえられていた。
 ロボットがリールのスイッチを押すと、魚は分銅から離れ、ロボットの手に落ちた。改めて近くで見ると本当に平板で、絵に描いた魚を切り抜いたかのようだった。ロボットは魚を自分の胴体の、紙幣の投入口のような部分に差し込んだ。ロボットの目の色が青から赤に変わり、玩具のような風貌に似合わぬ複雑な電子音がして、それが鳴り止むと共に、魚を飲み込んだ投入口から一枚の真っ黒な紙が出てきた。
 ロボットはその紙を持って小屋の横へ歩いていった。ロボットに目を奪われて気付かなかったが、そこには日光が注いでいた。天井に丸い穴が空いていた。
 ロボットが小屋の軒先にかけられたU字の金属をハンマーで叩くと、太い鎖に繋がれた大理石のバスタブが降りてきた。バスタブは空っぽだった。ロボットはバスタブの中に紙を入れ、再びU字の金属を叩いた。バスタブは再び外の世界へと引き上げられていった。
 あのバスタブに乗れば洞窟を出られるのかも知れなかったが、ロボットの仕事に便乗するべきではない気がして、魚は自分で釣ってみることにした。幸い釣り竿は小屋の壁に立てかけてあった。ロボットは既に元いた位置に座っていた。見よう見まねでゆっくりと分銅を降ろしていった。きっと音を立てない方がいいのだろうと思った。
 それから自分が釣り上げるまでに、ロボットはさらに二匹釣った。
 魚を渡すと、ロボットはそれを黒い紙に変えてこちらに寄越した。U字の金属は自分で叩いた。バスタブが降りてきた。紙を持ってバスタブに乗り込んだ。帰りの合図はロボットが叩いてくれた。人が乗った状態で引き上げられるのか少々不安だったが、バスタブは難なく上昇を始めた。太陽の光が暖かく、洞窟の気温が随分低かったことにその時初めて気付いた。
 ロボットはこちらを見上げながら短い電子音を鳴らして、しかし見えなくなるまでは見送らず、また自分の仕事へと戻っていった。

 登っていくと、縦穴の外壁は滑らかな瑠璃色のレンガで固められていた。下からは光が溢れてよく見えなかったが、縦穴は思ったよりも長いようだった。
 手元の黒い紙はポラロイドの写真のように少しずつ何かの像を現し始めていた。それは人の顔だった。鎖は力強い音を立てて着実にバスタブを引き上げていた。
 西洋人だった。頭を丸く剃り上げていたが、間違いなく少女の顔だった。病気なのか酷く痩せこけ、好奇心の強そうな大きな目が爛々と光ってこちらを見つめている。
 地上に着いた。縦穴の出口は井戸のような造りになっていた。バスタブを引き上げていたのは下にいたのと同じ型のロボットだった。ロボットは少女を写した紙を黙って受け取り、どこかへと歩き出した。
 すぐ目の前に苔むした石の壁の塔が天高くそびえている。頂上は雲に隠れて見えない。地面は芦の草原で、四方を切り立った崖に囲まれ、対岸に見える幾重もの山々と樹海から切り抜かれたようになっていた。崖の底はこれもまた霧に覆われて見えなかった。
 ロボットは塔の反対側へと歩いていった。そこは春の花の花畑になっていて、ミツバチたちがあわただしく飛び回っていた。ロボットは石畳の細い道を通って花畑の中央へ進み、両手で紙を空にかざした。しばらくして紙は炎を生じ、勢い良く燃え上がって灰になり、緩やかな風に吹かれて花畑に撒かれた。ロボットは再び石畳の道を渡り、井戸へ向かった。

 塔の扉はトロイの木馬がそのまま入れるぐらい巨大だったが、軽く触れただけで開いた。荘厳な外観とは対照的に、中は派手なカジノになっていた。人の姿はなく、コインやカードが浮遊して、自分たちだけでゲームをしていた。コインのこすれ合う音や機械音が絶え間なく鳴り続けている。その音に紛れて門はひとりでに閉まり、二度と開かなかった。
 トレイに乗ってグラスワインが運ばれてきた。ワインは女の口紅の色をしていた。飲み干すと右横のスロットマシンが「三・三〇」で止まった。それはスロットマシンを模した時計であるらしかった。
 ホールの中央を真紅の絨毯が横切り、一番奥に景品交換所があった。見本にプレートを添えた形で展示されていて、文字は読めなかったが、数字はアラビア数字だった。景品のほとんどは何に使うのかわからない道具だった。最も高い一万という数字が書かれたプレートは桃色のリボンがかかった扉の前に置かれていた。扉の横には上下を指す三角のボタンがあり、一目でエレベーターとわかった。他に出口はなかった。
 コインはあたりを目まぐるしく飛び交っていたが、床に落ちているものは動く気配がなかった。それらを何枚か拾ってポケットに詰めた。見ればコインは割と頻繁に力尽きている。どうやら手持ちが底をつく心配はなさそうだった。
 ポーカーのテーブルについた。賭けの種目は数え切れないほどあったが、ルールがわかるのはポーカーと二、三種だけだった。
 最初の手札はスペードの四、ダイヤの四、ダイヤの九、クラブの十一と、数字のない絵札だった。クラブの十一には細身の剣を掲げた青年が描かれている。一方、数字のない絵札はハンカチを持った黒人の絵だった。十一に数字が書かれていることから、数字のない絵札はジョーカーと判断した。四のペアとジョーカーを残すと、クラブとハートの六が来た。初っ端からのフルハウスに気を良くして、やや芝居がかって手札を開いた。ディーラーもクラブのフラッシュを完成させており、これはなかなか劇的な勝利だと思ったが、何故か賭け金は奪われてしまった。
 早速、次のゲームで謎は解けた。隣の席のプレイヤー(コイン)が例の絵札と一のペアで、スリーカードと認められていた。つまりこの絵札はスペードの一で、先ほどフルハウスのつもりで開いたのはツーペアだったということになる。ジョーカーは天秤の絵だった。
 一進一退の数ゲームの後、ジョーカー含みのフォーカードで手持ちのコインが百枚を越えると、どこからともなく大きなシルクハットが飛んできて、コインはひとりでにそこに収まった。シルクハットには金色の刺繍でコインの総数が示されていて、出し入れの度に糸は自ら解け、新しい数字を綴った。
 順調に勝ちを重ね、手持ちのコインが二百八十八枚になった時、ホール全体の照明が暗転し、中央のステージがライトアップされ、軽快なジャズの演奏と共にマジックショーが始まった。勿論そこにも人間はいない。万事は道具たちの手によってのみ運ばれ、そのこと自体十分に奇異であって、ショーの内容は随分と幼稚に感じられた。
 最後の演目では、ステッキが薔薇の花束を蝶の群れに変えた。蝶は色とりどりの金属の羽根を羽ばたかせ、スポットライトを反射して光の屑を撒き散らした。ステッキをはじめ道具たちが得意げに一礼すると、コインたちはお互いを鳴らし合って喝采した。それから演奏に合わせて道具たちが去り、ホールの灯かりは通常の状態に戻った。
 ショーが終わっても蝶たちはまだ天井付近にいた。どうやら出口を捜しているらしい。しかし窓はすべて締め切られており、蝶たちは門の上にある一番大きな窓の近くに集まって、為す術なく羽根を動かしていた。
 ブラックジャックのテーブルから紫水晶の灰皿を取り、その窓に向かって投げつけた。灰皿は首尾よく窓を突き破って外へ飛び出した。蝶たちは驚いて一度四散したが、すぐに割れた窓から逃げていった。陽の光が当たると羽根は一層輝いた。
 コインたちはこの出来事に特別関心を示さなかったが、間もなく靴音が聞こえてきた。振り向くと空っぽの黒服が一直線に走ってきていた。胸の筋肉に当たる部分が大きく隆起していて、取っ組み合いになれば勝ち目はなさそうだった。
 スロットマシンやテーブルの間を縫って逃げた。シルクハットは律儀に後をついてきた。角に追い詰められた。傍にあった椅子で殴りかかってみたが、黒服は微動だにせず、逆に椅子の脚が折れてしまった。革靴に蹴り飛ばされて尻餅をついた。黒服は内ポケットから葉巻を取り出し、うまそうにふかしながら一歩ずつ近づいてきた。
 思わずしゃがみ込んだ瞬間、黒服の上体はぐらりと傾いて床に倒れ、口の開いた風船のようにゆっくりと萎んで静かになった。見ると襟に一本のダーツの矢が刺さっていた。矢は小気味良く宙に踊り上がり、その場で二、三度回転して、ダーツ場の方へと去った。
 そこへ、先ほどの蝶がやって来て、顔の前を飛んだ。一頭だけ残っていたらしい。立ち上がり、誘われるままについていくと、着いたのはルーレットのテーブルだった。山のように賭け金が積まれ、まさにホイールが回り出す瞬間だった。ボールが投げ入れられると、コインたちはめいめい賭け金を追加したり、賭ける数字を変えたりした。
 蝶はテーブルの黒の三十一番にとまり、すぐに飛び去った。シルクハットを逆さにしてコインをすべて出し、蝶のとまった場所一点に賭けた。ディーラーがベルを鳴らし、銀色の輪のように見えていたボールは次第に速度を下げて玉の形を現した。
 果たしてボールは黒の三十一番に落ちた。一万三百六十八枚のコインが一斉に舞い上がり、渦を巻いてシルクハットの中に吸い込まれていった。蝶はもうどこにもいなかった。シルクハットにはせいぜい三百枚ぐらいしか入らなさそうだったが、コインは一枚残らず収まった。刺繍は正確な数字を示した。
 景品交換所へ行き、カウンターにシルクハットを置くと、周辺が薄明かりになって、景品のプレートが赤く発光した。エレベーターの前に置かれた一万のプレートに触れると、リボンが音もなく切れてはらりと床に落ち、ドアが開いた。

 エレベーターの中に階数の表示はなく、ドアの脇の通常ボタンがある位置には寒暖計が取り付けられていた。〇度から始まり、エレベーターが上昇するに従って水銀はみるみる伸びた。しかし暑くはなかった。
 寒暖計の下にある湿度計のように見えたものは、よく見ると時計のようだった。扇形の目盛りに一から十三までの数字が書かれており、数字が大きくなるにつれて目盛りの幅は小さくなっていた。時刻は四時二十分だった。
 寒暖計の値が三十六度を回った時、視界が急激に歪んだ。陽炎が生じ、さらにエレベーターの壁や柱が物理的に曲がり始めたのだった。依然として熱はまったく感じられなかったが、ひしゃげた天井が迫ってきており、このままでは押し潰されそうだった。
 四十二度に達した瞬間、耐えかねたようにドアが開いた。反射的に外へ飛び出した。振り返ると今やエレベーターは複雑な形に捩れ、やがてワイヤーとの接合部が溶けて一気に落下した。しばらくしても衝突音は聞こえなかった。

 そこは大聖堂だった。両側面の窓はすべて縦に細長く、薄暗い室内に何枚もの光の直角三角形を差し入れている。正面のステンドグラスには弓を携え、月桂樹の冠をかぶった女神が描かれており、その下の壇に向かって背もたれの高い真っ白な長椅子が二列に並んでいた。後方には中央に大きな扉が一つ、両脇に小さな扉が二つあり、エレベーターから降りた場所は左の小さな扉の前だった。
 出迎えたのは長身の紳士だった。初めて人間と出逢った。紳士は微笑んで深々と一礼し、身振りで長椅子に座るよう促した。後ろからでは見えなかったが、既に席は幾人もの正装した男女が埋めており、空席は一つだけだった。人々は皆一様に穏やかな笑顔を浮かべている。言葉は誰も発しなかった。
 着席すると、パイプオルガンの音色が厳かに静寂を破った。大きな扉がゆっくりと開き、向こうに青空と緑の山並みが見えた。太陽はちょうどステンドグラスの側にあるらしく、開いた扉から光は差さなかった。現れたのは白いタキシードの青年だった。青年は二列の長椅子の間を、緊張した面持ちで壇まで歩いた。
 続いてウェディングドレスの若い女性と、燕尾服の初老の男性が腕を組んで通過した。壇上にはいつの間にか神父が立っていた。神父は青い目を優しく細め、ぎこちなく花嫁のヴェールを外す新郎を見守っていた。花嫁の頬は桜色に染まっていた。
 神父が聖書を読み上げ始めた。口が動いているのに声は聴こえなかった。一瞬耳が利かなくなったかと思ったが、パイプオルガンの音は聴こえていた。周りの人間には、表情を見るに、神父の話も聴こえているようだった。退屈な時間が過ぎて、聖書が閉じられた。
 それから、やはり音は聴こえないが、新郎新婦が神に誓いを立てたようだった。ここの文句は何となく知っていた。そして神父が何事か言い、二人がお互いの方を向かい合った時、壇上の光が揺らめいた。光の根元を目で追うと、ステンドグラスが滑らかに配色を変え、女神が動いていた。女神は天を仰いで弓に矢をつがえ、壇の中心に狙いを定めた。新しい夫婦の顔の間に一際強い光線が差し、矢が引き絞られるにつれてその光量は増した。二つの顔が近づき、光線に触れると、照らし出されたのは骸骨だった。骨の唇が触れ合う直前、女神が矢を放ち、光線は一瞬のうちに膨れ上がって聖堂全体を満たした。
 光が霧消した時、そこには誰もいなかった。骨が残っているわけでもなかった。女神は再び元の形で静止していた。
 席を立つと、後ろから扉の開く音がした。エレベーターを降りた方と反対の小さな扉から、杖をついた老婆が現れた。老婆は長い時間をかけて長椅子の脇を通り、左の列の中ほどに腰掛けた。ややあって今度はフリルのドレスを着た少女が入ってきた。こうしてまた一人ずつ人が集まり、満席になれば式が始まるのだろうと思った。

 大きな扉から外に出ると、そこは日陰のバルコニーだった。階段などはなく、扉以外にこの空間の出入り口はなかった。そして扉は案の定ただちに閉ざされた。
 下を覗き込むと地面は遥か遠く、地図のように見えた。つまりここは既に相当の高さということになるが、山並みは見渡す限りどこまでも続いていた。文明の忘れ去られた世界に、この塔だけがぽつんと取り残されているかのようだった。
 地上と違ってここからは頂上が見えた。地上から見た時は雲がかかっていたが、今現在上にも下にもかかっていないということは、あの後風で流れたようだった。壁には頑丈な蔦が複雑に絡まっていて、どうにか登っていけそうだった。
 半分ほど登ったところで、そこにあった窓の縁に降りて休んだ。窓には鉄格子がはめられていた。部屋は壁も床も塔の外壁と同じ石でできていて、天井には蜘蛛の巣が張っていた。唯一の扉は窓と同じ鉄格子だった。窓は高い位置にあった。
 部屋の一角に蜀台があり、その下に羽根の生えた少年の真っ白な像があった。蜀台から零れ落ちた蝋がその像を形作っているのだった。羽根は優雅で力強く、口元は希望に微笑んでいて、瞳に光さえ宿れば今にも飛び立てそうだった。ただもしその時が来たとして、この冷たく黒光りする鉄格子をどうするのかは見当もつかなかった。
 像の横には木の机があり、その上に振り子の置き時計が置かれていた。短針は五と六の間、長針は十二と十三の間を指している。五時六十二分と読む他なかった。
 左手でつかんでいる格子が緩んでいた。捻って上下に動かしてみると、すんなりと外れた。できた透き間は大人が通過できるほどのものではなかったが、あの少年の華奢な体なら、翼さえ失えばあるいは通り抜けられるかも知れなかった。
 外した格子を腰のベルトに差して、再び蔦を登り始めた。

 頂上は広々とした楕円の人工芝だった。中央に様々な太さのパイプや計器が複雑に組み合わさった巨大な機械が据えられており、そこら中に直径およそ一メートルほどもある色とりどりの卵が転がっていた。機械は最も太いパイプが中心を縦に貫いていて、そのパイプは地面の少し上で三つ又に分かれ、地面に接する曲線を描いて、めいめいの方向へ口を開けていた。
 パイプの中を見ようとした丁度その時、何の前触れもなくその口から卵が転がり出てきた。危うくぶつかりそうになり、すんでのところでかわした。卵はカーブしながら地面を転がり、自分より一回り大きな別の卵にぶつかって弾き返され、機械の影に入るところで止まった。ここの卵は皆この機械から吐き出されたものであるようだった。
 やがて一つの卵にヒビが入り、殻を破って淡く薄緑色に発光するヒナが現れた。ヒナは小刻みに震えながら足を伸ばし、翼を広げて静止した。陽光にさらされて薄緑の光が乾き切った時、そこにあったのは一機の戦闘機だった。
 戦闘機はほんのわずかな助走で、そっと投げ上げられた紙飛行機のようにふわりと浮かび、青白いジェットを噴射して勢い良く空へ舞い上がり、旋回を始めた。それを皮切りに他の卵からも次々と戦闘機が生まれ、上空を賑わせた。
 突如、一機が爆炎に包まれた。その背後から別の機が体当たりした。ぶつかった二機はヒナの色の光を発しながら複雑に蠢き、光がやんだ時には一機の新しい戦闘機になっていた。それは以前の型より一回り大きく、速度も増していた。
 大混戦だった。他の機を捕食して強化された機は、当然戦闘で優位に立ち、加速度的に成長した。餌を獲るのに手間取った機は、進化した機にはまるで歯が立たなかった。しかし、どんなに強くなった機にも弱点はあった。融合の最中には幾分か装甲が薄くなるらしく、そこを何機かが共同して徹底的に叩くと、最新鋭の機もやがては爆音を上げて散った。そしてその残骸を巡ってさらに激しい戦いが繰り広げられた。
 ここへ来た時に機械から吐き出された卵は、一向に孵る気配がなかった。それより後に出てきた卵は続々と孵化して参戦していた。もしかしたら卵が孵るのには太陽の熱が必要なのかも知れない。
 卵は相当な重さがあり、少し押したぐらいではびくともしなかったが、歯を食い縛って大汗をかきながら転がし続けると、どうにか機械の影から出すことができた。卵に寄りかかって座り、袖で汗を拭った。風が心地良かった。空の戦闘は続いていた。
 突然背中が熱くなり、慌てて離れると、卵にヒビが入っていた。生まれたのはブリキのプロペラ機だった。高速で飛び交う百戦錬磨の機はともかく、他の生まれたばかりの機と比べても、少々見劣りした。
 プロペラ機のドアが開いた。乗り込んでベルトを締めると、操縦桿やスイッチが勝手に動き、プロペラが勢い良く回り出して、すぐさま景色が大きく転回した。軽さのためか、機体は驚くほどの速さで高度を上げていった。
 プロペラ機は塔の上空を離れ、斜め上に浮かぶ積乱雲を目指して飛んだ。他の機たちの戦いはますます激しくなり、最も大きな機はもはや戦艦のような姿にあっていた。
 運良く戦闘には巻き込まれずに済んだかと思った矢先、バックミラーに円盤型の機が現れ、機銃を撃ってきた。弾はすぐには当たらなかったが、少しずつ距離が詰まってきている。旋回すると、後ろの機も器用についてきた。
 あと少しで雲に入ろうというところで、衝撃が走った。右の翼に穴が空いていた。プロペラの回転が止まり、機体は徐々に失速しながら高度を下げた。円盤型の機がすぐ真後ろまで迫ってきていた。
 ところがぶつかる直前、プロペラは再び回り出し、機体は跳ね上がるように高度を取り戻して、ちょうど後ろの機を飛び越すような形になった。その直後、真下から爆音が響いた。プロペラ機が円盤型の機に爆弾か何かを落としたようだった。

 積乱雲を抜けると、眼下は一面、茜色の雲に覆われていた。雲の下から想像できた風景とはまったく異なっていた。
 気温はかなり低く、吐く息が白かった。被弾した右の翼は穴のふちに氷が張っており、エンジンの音は随分と弱ってきていた。
 前方に何本かの柱のようなものが見えた。柱はやや太いものと平板なものが二本一組で立っており、太い柱はどれも同じ高さで真っ直ぐなのに対し、平板な柱はそれより高く、途中からばらばらに方向を変え、あるものは横に、あるものは下に伸びていた。
 近づいて見ると、それらは縦向きになった駅のホームと線路だった。プロペラは既に止まりかけていた。線路が真上へ向かっているホームのすぐ手前まで来ると、ベルトが外れ、ドアが開いた。迷っている暇はなかった。通り抜けざまに機を飛び降り、待合室の壁に着地した。プロペラ機はゆっくりと雲に飲み込まれていった。
 殺風景なホームだった。石造りの床に、待合室と時計台が一つずつ立っているだけだった。時計の針は六時四十四分を指している。やはり人の姿はなかった。
 雲の大海原は遥か彼方まで切れ目なく続いており、その色は茜色から緋色に変わりつつあった。線路もまた熱を帯びたように赤く輝いていた。下に伸びる線路は雲の中へ潜っていたが、横や上へ伸びる線路は目を凝らしてもその先に何があるのかわからなかった。
 一番星がかすかに瞬いた時、下から電車の走る音が聴こえてきた。覗き込むと、雲から顔を出したのは、くたびれた深緑色のローカル車両だった。電車は徐々に速度を落とし、ホームの端にぴたりと頭をつけて停まった。
 ドアが開き、一羽の鳩が飛び出してきた。鳩は純白の羽を残りわずかな西日に染めて、やがて漆黒の闇に包まれるであろう空を真っ直ぐに飛んでいった。
 待合室の壁の縁からドアまでの距離は二メートルほどだった。助走をつけ、思い切り跳んだ。体勢を崩しながらも何とか座席の裏側に着地すると、背後でドアが閉まり、電車が走り出した。
 車内にはどこか懐かしい匂いが漂っていた。床は木造で、二人掛けで向かい合わせの座席にはびろうどのカバーが掛けられていた。網棚につかまりながら一つ下の座席に降り、背もたれに腰掛けた。
 窓の外をぼんやりと眺めていると、全身が急速に眠気に包まれていくのを感じた。

 目覚めた時、電車は星の海を走っていた。車内に灯かりはなかったが、星明かりだけで座席のびろうどの色がはっきりと見えた。時おり流星が閃いた。月ぐらいの大きさの星が二つあり、一つはその場で慌しく満ち欠けを繰り返し、もう一つは奇妙な速さで線路の周囲を回っていた。
 帆船の形の星雲を眺めていると、突然足が持ち上げられ、上体が後ろへ傾いた。何が起きたのか理解するまで数秒かかった。電車の向きが正常(?)に変わったのだった。窓を開けて振り返ると、線路は泥団子のような小さな星を中心にして、縦に九十度のカーブを描いていた。
 床が下にある感覚にようやく慣れた頃、電車は減速を始め、間もなく停まった。眺めていた窓と反対側のドアが開いた。
 そこは銀紙で作られたホームだった。建物は何もなく、大小様々な正方形の銀紙を敷き詰めた地面だけがあった。銀紙は気まぐれに剥がれてひらりと宙に浮かび、自らを折りたたんで動物や昆虫の形を作ると、それぞれの動きを模して四方に去っていった。銀紙が剥がれた下にはまた銀紙があった。
 ホームの端からは真珠色に輝く川が流れ出ていた。川は上下左右に複雑な軌道を描いて、ここから遥か頭上にある黒いひし形の物体へと続いていた。
 二畳ほどの銀紙を捜し、二そう舟を折った。二そうである必要はなかったのだが、それしか折り方を覚えていなかった。川に舟を浮かべると、銀の船体が水面から昇り立つ光の粒子を反射して、周囲は一挙に明るくなった。
 舟に乗って漕ぎ出そうとした時、どこから現れたのか、ホームの端に一羽の白兎がいた。手招きすると、兎は小さく跳ねて二そう舟の片側に乗り込んだ。
 水面を手で掻いて少し勢いをつけると、舟は上り坂でも滑るように登っていった。

 近づいてみると黒いひし形の物体は相当に巨大で、その上には五重の塔が建っていた。塔は屋根も壁も全て金箔で覆い尽くされ、中から音楽や笑い声がかすかに漏れ出ていた。あの転落の時から、人の声を耳にしたのは初めてだった。
 舟を降りると、続いて兎も跳び降りた。
 どこからともなく鐘の音が聴こえてきた。鐘は一打ごとに存分に余韻を残しながら、合計八度鳴り響いた。もしこれが時刻を知らせているのなら今は八時ちょうどということになる。もうあまり時間は残されていないような気がした。
 鐘の音がやんだ時、兎は薄紫の束帯に身を包んだ色白の青年に姿を変えていた。青年は線のように細い目をしていた。
 塔の扉はこちらを迎え入れるように恭しく開いた。青年に促されるまま中へ入ると、重々しい音を立てて扉が閉まり、閂をかける音も聴こえた。
 一階の中央には土俵があった。その周囲には兎の青年と同じように中世の装束を纏った何十人もの男たちが座り、聞いたことのない言葉で笑い合ったり罵り合ったりしていた。
 やがて萌黄色の装束の男が刀を抜き、鞘を振り捨てながら土俵に飛び乗った。わっと歓声が上がり、それに応えるようにして浅葱色の装束の男が土俵に上がった。浅葱色の男がゆっくりと刀を抜くと、観衆はしんと静まり返った。
 数秒、あるいは十数秒の睨み合いの後、一瞬二人の姿が消え、立ち位置が入れ替わって再び現れた。萌黄色の袖が大きく斬り裂かれていた。観衆は俄かに喝采し、浅葱色の男は口元に笑みを浮かべた。萌黄色の男は表情を変えずに斬られた袖に刃を差し入れて切断し、無造作に放り投げると、布切れは空中で急激に回転し、白羽の矢になって浅葱色の男に襲いかかった。浅葱色の男は素早く刀を振り上げ、弾かれた矢は天井に刺さった。しかしそれと同時に、萌黄色の男の刀が浅葱色の男の胸に深々と突き刺さっていた。
 大歓声の中、萌黄色の男は静かに刀を納めた。浅葱色の男が泡になって消えると、すぐさま大身の槍を持った墨色の装束の男が萌黄色の男に挑んだ。
 二階では競りが行われていた。ひな壇の上に貧相な行商人風の男が立ち、裕福そうな男たちが周りを取り囲んでいた。
 行商人風の男が行李から使いかけの蝋燭を取り出し、何事か叫びながら高く掲げると、周りの男たちもまためいめいに怒号を上げながら指で様々な形を作って頭上に突き上げた。それから挙がる指が徐々に減っていき、最後に握り拳を出した男がどうやら落札したらしく、罵声を浴びながら壇上に上がり、行商人風の男から使いかけの蝋燭を受け取った。
 行商人風の男は次に、鼻緒の切れた草鞋を取り出した。
 三階では宴が開かれていた。
 山のように料理が盛られた漆塗りの台が方形に並び、その中で三人の少年が忙しく動き回っていた。一人目は狸の面をかぶり、櫃を小脇に抱えて白米をよそっていた。二人目は犬の面をかぶり、鉄鍋をぶら提げて汁を注いでいた。三人目は狐の面をかぶり、徳利を片手に酌をして回っていた。米も汁も酒も、その容器から尽きることはないようだった。
 兎の青年が何事か声を掛けると、狐の少年が踊るような足取りで近づいてきて、懐から猪口を取り出し、酒を注いでこちらに差し出した。酒には金粉が浮いていた。一気に飲み干すと、酒は水のようにすっと胃の腑まで流れ落ち、全身がじわりと熱を帯びた。
 四階は妖しげな香りのする赤紫色の煙がたなびいていた。
 大広間全体を紅白の梅の花が描かれた金の屏風が四畳半ほどの空間に区切り、そこら中から喘ぎ声や吐息が聴かれた。区切られているといっても屏風同士の間にはかなりの透き間があり、そこを女の赤い唇や白い太腿が幾度となく通り過ぎた。
 一番近い屏風の脇から、珊瑚の簪を挿した女が顔を出した。女は肩に布団をかけていたが、その下は何も身につけていないようだった。女の青白い手が伸び、中指と薬指だけを動かして手招きをした。
 兎の青年はいつの間にかいなくなっていた。
 一段と濃厚になった匂いが鼻腔を直接突いて、自然と足が一歩女の方へと踏み出された。しかし一度この屏風の中へ立ち入ったら二度と出られなくなる気がして、二歩目は強引に階段へ向かわせた。
 五階は四方すべての戸が開け放たれていた。
 正面には満開の桜の森が広がり、強風で花吹雪が舞い上がっていた。右には向日葵畑があった。身を乗り出すと蝉の声が小さく聴こえ、桜の森があったはずの方へ目をやってもやはり向日葵畑が続いていた。さらにその右手は蜻蛉の舞うすすきの野原で、最後は薄い雪化粧をした荒野だった。
 塔の外は星空だったはずだが、四方の景色はいずれも昼のもので、それぞれの色合いの光が部屋の中で混ざり合って渦を作っていた。
 部屋の中央には袈裟を着た四人の僧が向かい合って禅を組んでいた。その表情は時が止まったかのように動かなかったが、心なしか満足そうに見えた。
 五階から急な傾斜の階段を昇り、さらに屋根裏部屋のような場所から梯子をつたうと、金色の屋根の上に出た。そこにはまた夜の闇と星の光があった。
 兎の青年が屋根の一番高い場所で横笛を吹いていた。星々はその済んだ音色に合わせて瞬いているように見えた。青年はこちらに気付くと演奏をやめ、頭上を指差した。すると指先から水平に波紋が広がった。どうやらそこには逆さまの海の水面があるようだった。
 青年が右手を差し出した。手を握ると、足がふわりと屋根を離れ、逆さまの海へ吸い寄せられた。つま先から水へ入り、青年が手を離した。身体は浮力によって上へ上へと運ばれていった。再び笛を吹き始めた青年の姿は水に揺れ、段々と粗くなり、やがて深い青に包まれて何も見えなくなった。

 浮かび上がったのは、強烈に明るい砂浜の沖だった。紺色の空には海猫が飛び、海の向こうには水平線だけがあった。砂浜は大きな三日月を描き、一方の突端には灯台が見えた。波打ち際と平行に高い堤防が造られていた。
 水から上がって少し歩いたところに、鉄の日時計があった。日時計は全体が赤く錆び、角がことごとく丸くなっていた。時刻は九時九分だった。
 砂浜には一人の女がいた。女は堤防の足元から海に向かって木の棒で何やら複雑な計算式を書いていた。女が動くたびに、艶やかな黒髪が白いワンピースの背中の上を滑った。歳は自分と同じぐらいに見えた。近づいてもこちらには一切関心を払わず、ただ黙々と砂浜に数字や記号を書き続けていた。
 堤防の上に立つと、その向こうにも砂浜が続いていた。遥か遠くに町の影が見えるが、恐らく蜃気楼のようなものだろうと思った。
 その時、少し大きな波が打ち寄せて女の足を洗うと共に、地面に書かれた計算式を途中からきれいにかき消した。女は眉一つ動かさず、消えた箇所まで戻り、濡れて黒く色が付いた砂を再び木の棒で掻き始めた。
 白いワンピースの裾は水を含み、女の足にはりついて透けていた。五重の塔の四階で芽生えた色欲がまた鎌首をもたげ、不意に周囲を見回した。当然他に人の姿はなかった。早足で堤防を降り、女の背後まで近づいていった。
 手を伸ばそうとした瞬間、自分の影が沸騰した湯のように激しく泡を立て、その中から真っ黒な蝙蝠が何羽も飛び出してきた。蝙蝠は耳障りな羽音を立てて女の周りを飛び回り、追い払おうとしても執拗にまとわりついた。やがて一匹の蝙蝠が女の持つ木の棒を足でつかみ、奪い取って海の方へと逃げると、他の蝙蝠たちもそれに続いた。
 木の棒を失った女はその場にただ立ち尽くしていた。女に対してつまらぬ感情を抱いたことがひどく悔やまれた。
 浜辺に樹は一本も生えていない。程よい長さの流木が偶然そこに流れ着くまで、女は待つつもりでいるようだった。
 ベルトに差してあった鉄格子を抜き、女に差し出すと、女は初めてこちらの目を見た。瞳の中で海原が凪いでいた。口元がかすかに綻び、女の細い手が鉄格子を受け取った。
 女は計算式の続きを書こうとはせず、少し離れた場所まで歩いていって、幾つかの三角形と円を組み合わせた直径三メートルほどの図形を描き、こちらを振り返った。
 線を踏まないように注意しながら図形の中心に立つと、女は足元の砂を一つまみ掌に乗せ、図形に向かってその砂をふっと吹いた。図形の中にだけ背の低い砂嵐が巻き起こり、足元からセコイアの樹が突き出てきた。危うく転げ落ちそうになって、夢中で樹のてっぺんにしがみついた。葉に乗った砂がなだれ落ちて噴水のようになっていた。
 もう一度だけ女の顔をよく見ておきたかったと思ったが、既に砂浜は人差し指と親指で作った三日月と同じぐらいの大きさになっていた。
 見上げると、青空が不自然に光沢していた。ある高さに巨大なガラス板が張られているようだった。樹はまったくスピードを落とさずに伸び続けている。ガラス板はあっという間にすぐ頭上まで迫ってきた。慌てて葉の下に潜り込み、幹につかまって目を瞑った。

 気が付くと、始まりの場所に倒れていた。地面は粉砕されたはずだったが、瓦礫の下にところどころ市松模様のタイルが覗いていた。とは言えそこはもう街ではなく、厚い葉の天井に光を遮られたセコイアの森だった。
 自分が乗ってきたらしい近くの樹の根元に、苔の生えた石の椅子があり、地底湖でなくした鞄が元の姿で置かれていた。中を調べてみると、読みかけだった小説のしおりが一番最初のページに戻されていて、その代わり小さな翡翠の宝石を埋め込んだ腕時計が入っていた。針は十時二十一分を指していた。
 一番下の枝でもかなり高い位置にあって手が届かなかったが、樹に床を砕かれながらもどうにか原型を留めているビルを通れば、枝が密集しているところまで登れそうだった。
 ところが、無性に小説の続きが気にかかり、石の椅子に腰掛けてページを開いてしまった。その上、つい目はしおりの挟まれていた最初のページから文字を追い始めた。
 それは一人の男の物語だった。
 一日目、義理の父親の暴力に耐えかねて、男は家を飛び出した。山を越えて橋を渡り、古い砦の跡で、三つ首の狼と出逢った。狼は牙を剥き出して襲いかかってきた。男は杖にナイフを括りつけて槍を作り、夜明け頃、狼を倒した。
 二日目、遅く起きた男は森へ樹を伐りに出かけた。壁と床は砦の跡をそのまま利用し、木材で屋根を葺いた。
 三日目は朝から雨が降っていた。戸を開けると、そこには額に鋭い角を持つ馬が立っていた。角には炎が灯っていたが、風雨にさらされて今にも消えそうだった。男は馬を迎え入れ、濡れた毛並みを拭いてやった。角の炎はすぐに勢いを得てぱちぱちと音を立てた。男は昨日余った木材と馬の角の炎を使って炭を焼いた。
 四日目、腹を空かした男は町へ出かけた。炭を売って金に換え、その金で食糧と油と空樽を買った。日暮れ頃に戻ると、馬は砦のすぐ近くで草を食んでいた。
 五日目、男は空樽を背負い、馬に乗って森を歩いた。ベリーのなった繁みの奥で小川を見つけ、樽いっぱいに水を汲んだ。
 六日目、男が薪を割っていると義理の父親が現れ、どこで聞きつけたのか、炎の馬を寄越せと言った。男は首を横に振った。父親は唾を飛ばしながら怒り狂い、酒瓶で男の頭を殴った。男は血を流しながらガラスの破片の中に突っ伏し、そのまま動かなくなった。父親が強引に馬に跨って手綱を握ると、馬は後ろ足で立ち上がって父親を振り落とし、角の炎を真っ赤にたぎらせて逃げる父親の背中を刺した。父親の身体は一瞬のうちに消し炭になった。同時に雷が鳴って滝のような雨が降り出し、角の炎が消え、馬は倒れた。
 七日目、男はまだ生きていた。傷の手当てもしないまま、砦のそばに穴を掘り、馬の亡骸を葬った。膝をついて永い時間手を合わせ、立ち上がろうとした時、男は死んだ。雨上がりの空に虹が出ていた。
 本を閉じた時、時刻は十一時二十七分になっていた。

 ビルの入り口はシャッターが降りていて、裏口も鍵が掛かっていた。窓は小さく、潜り込むのは難しそうだった。
 その時、裏返しになった車の陰から黒猫が現れた。左の目が青く、右の目は金色だった。猫はこちらを一瞥した後、尻尾をくねらせて歩き出した。ついていくと、瓦礫の地面が大きく口を開けていた。猫の黒い毛はさっとその闇に溶けた。
 ライターの火を点して降りていくと、そこは地下駐車場だった。何本かの樹に貫かれていたが、それがそのまま柱になったように天井を支えていた。スプリンクラーが作動したらしく、あちこちに水溜りができていた。階段からビルの中へ入ることができた。
 地下から一階への階段と二階へ続く階段は別の場所にあり、二階への階段は樹の直撃を受けて崩れていたが、停止したエスカレーターが階段の代わりになった。
 屋上では貯水タンクが横倒しになっており、その上で一羽の鳩が羽根を休めていた。縦向きのホームで擦れ違ったあの鳩だと思えた。
 乾パンを砕いて地面に撒いてやると、鳩はタンクから降りてそれをついばんだ。よく見ると白い羽根はあちこち汚れ、尾のあたりにうっすらと血が滲んでいた。食事を終えると鳩はこちらを見向きもせず、枝の迷路に向かって羽ばたいていった。
 針が十二時を回った。
 靴と靴下を脱ぎ捨て、樹のごつごつした感触を手足で確かめながら登っていくと、そのうち枝と葉で地面は見えなくなり、一方で上の視界が少しずつ開けてきた。時おり、虫や鳥の鳴き声が遠慮がちに暗い密林の中をこだました。

 頂上に出た。すべての樹が同じ高さで、枝を互いに絡ませ合って分厚く葉をつけているので、ほとんど地面と同じように歩くことができた。
 夜空いっぱいにただ一つの巨大な銀河があった。銀河は目に見える速度でゆっくりと回転していた。中心部は冬の満月と同じぐらいの明るさがあった。
 あたりには五色の蛍が飛び交っていた。その残像は通常よりもずっと長く残った。わずかに湿った冷たい空気の中で、不規則に曲がりくねった光の蛇が踊っていた。
 肺は緑の香りで満たされていた。

 ようやく辿り着いた。
 そう思って、大の字に寝転がり、大きく伸びをした。

 そして次の瞬間、すべての蛍が灯かりを失い、下から幾筋もの硬質な光線が葉の地面を貫いて、空を滅多刺しにした。続いて、千切れた葉を盛大に巻き上げながら、コンクリートのビルが勢いよく生えてきた。
 身体は仰向けのまま落下していた。腕時計の針は十三時ちょうどを指していた。

翡翠の塔

翡翠の塔

現実逃避がしたくて書いた幻想の世界です。 確か当時、失恋をしたんだったと思います。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-11-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted