いやらしさの研究
私は四十の職なし男で、幸か不幸にか、生涯一度の妻子もありません。容姿はまず確実に劣等の部類へ入ると思われ(思春期以降、特に私はひどいなで肩とみじめっぽい兎口とを気に病み続けてまいりました)、またあなたから拍手喝采を望めるような秘密の得意のあるわけでもありません。ですから、いま道端へと茣蓙しいて、私の細々とみすぼらしい見せ物を並べたてようとする手の先を、いくばくの興味もなく通り過ぎてゆかんとされるあなたへ、ごくわずかにでもそのお気を留めを願うためには、いよいよ私があのペテンじみた霊媒師、ハーティー吉野の実弟であることをうたい明かすほかに思い当たる手だてはありません。もっとも、ただいま私の弄したような客寄せ目当ての窮鼠の策も、あなたがまったくテレビを見ぬ、もしくはニュース番組のほかにはそれを見ぬという類の、断固たる非享楽家でありましたら、これも恥知らずの虚しいばかりの告白に終わるでしょう。確かにこれはつまらない、実際にみすぼらしい傷を売るばかりの安見せ物です。退屈しのぎの気晴らしにでも、それでもしばしの時間お耳をお貸しいただけましたら幸いです。
我が兄吉野の人物評とは、世間大抵の見方に習えば「厚顔無恥の愚の象徴」、張りぼてだけのけばけばしい、「舌先ばかりの虚飾家」というのが相場でしょう。また私の彼へ対する印象というのも、いまほとんどそれに違いません。ただし、少なくとも彼には金儲けに対する鋭敏なる嗅覚と、また羞恥の感覚とはまず無縁の勇壮なまでに図太い神経とが備わっており、正直なところその二つの才覚というのは、実弟の私には決定的に欠けている資質、うらやむべき資産だともいえるのです。
兄吉野は、いまでこそは徹底的にも道化ぶりしたテレビ屋ですが、元来かの妖しげなスピリチュアルなる概念へ凝りだす前は、実直な(という形容方法がその職業を形すのに正統であるかはわかりませんが)自己啓発心理カウンセラーとして飯を食い、またそれなりに名を売っていた男です。ですから、特に慢性的な不満気質を抱えた、いわば悩める現代人へ対する心理的な分析眼については、そうそう馬鹿にもできぬものを持っていたはずです。
以前私は、それはまだ彼と私との関係に決定的な罅の入る前のことですから、五年も六年も過去にさかのぼっての話ですが、一度だけ彼からのカウンセリングというものを受けたことがあります。その頃の私といえば、この目の覚めている限り常に自殺の想念の捕らわれになっていた、ともいえるほど、脆弱きわまりようのない精神状態にありました。まさに溺れる者は藁をもつかむの法に習って、当時の私は正規の相談料を払ってまでも吉野からの診断を希望したものでした。その際兄は私に、私の生活習慣上の問題点から考え方の傷に至るまで、大部分においてかなり真っ当といえるアドヴァイスをくれたものですが、その結論としては「私という人間には幸福人となるための資質が非常に乏しい」、というようなことをいったものでした。
幸福とは何か。その際彼の示した定義については、私も詳しくは思い出すことができません。ただし、漠然とですが、このようなことをいっていたのは覚えています。
すなわち幸福という概念は、いわば気分の一種であり、また心理状態の一形態を指すものなのだと。それは「今日はカレーを食べたいという気分」であったり、「身体が風邪にかかっている状態」というのに近い感じで、万人にとって生涯常にそれを維持し続けることは難しいものだというのでした。
ただし、人生において幸福の気分をより長く保てるタイプの人間もいれば(そういったタイプを指して彼は幸福人というタームを使っていました)、まったく正反対に最期までからきし縁のない人間もいる。
兄は職業技術として、その人の幸福人としての資質をはかる、いくつかの指標というものを持っていたようでした。そしてその指標の数々に照らし合わせてみた結果くだされた診断というのが、「私は幸福人とはほど遠い、幸せの劣等生である」ということでした。
彼の断じたところには、特にその指標のうちの一つが、私には決定的に欠けてしまっている。そしてその、私から欠けてしまっている性格的な資質、幸福人であるための代表的資格たるものというのが「恥や屈辱の感覚から自由でいられる人間である」ということでした。
そのとき私は、嗚呼……とうめいてうなずかざるを得ませんでした。
かつてトーマス・マンが、確か「トニオ・クレーゲル」においてこのようなアフォリズムを残したものですが、
『ある考えに取り憑かれると、どこへいってもその考えが表されているのに会う。まさに風の中の匂いにまで、その考えが入っている』
私の青春、いや今日までの私の全人生とは、まさにその考えの部分を「恥と屈辱」に置き換えたものに違いませんでした。いまや私の肌に穢れのようにこびりついたそれら恥垢は、どんなにも高価な石鹸で洗い流しても落ち尽くせることはありません。
一体私はいつからか、こういった呪わしい考えごとに取り憑かれてしまったのでしょうか。本当のところはわかりませんし、そもそもこれは明快なある解答を引き出せる類の問いではないのかも知れません。
しかしおそらくは、その方向性的なもの、下地のようなものは、私が物心つく前から定まっていたもののように思えるのです。いま兄の好むようないい方へ換言すれば、その方向性(ベクトル)というものこそ私の生まれ持ってきた運命だったのかも知れません。
激しやすい気分屋ではあったにせよ、幼い頃より他への面倒見の良いガキ大将タイプであった兄に対して、当方の私は神経質で線の細い、自分だけの些事をくよくよと悩んで思いつめやすいタイプの少年でした。
思い起こせば、それは私が小学校六年生の時のことであったと記憶していますが、このようなことがありました。級友の一人、もはや私はかの友人の名を思い出すことができませんが、確か商店街の端にあった豆腐屋の息子であったと思います、その級友の母が大病を患うという不幸がありました。
思いやりの教育を信条とする、我ら聡明な女性教師の提案により、私たち級友たちは全員で千羽鶴を折って、その枕元へと届けようということになりました。
しかし私は、幼少の時分より、ものを巧く折り畳むということができませんでした。紙や布の端と端をぴたと合わせて、掌ですっと折り目を引く。たったそれだけのことが、どうしても巧くいきませんでした。ですから、私の手に掛かった折り鶴たちというのは可哀想に、みな角が潰れて丸まってしまっていて、まるで平らく寝そべった河馬のように見えました。
あの日、私の机の上に不覚にも折り上げられてしまった色とりどりの河馬たちの群れを前にして、若い女教師はいいました。
「大丈夫。焦る必要はないのよ。それに、千羽鶴というのは、形よりも気持ちが籠もっていることが大切なの。さあゆっくりと、もう一羽だけ折ってみましょう」
すでに途方もない恥の感覚に捕らわれながら、それでも私はためらいのうなずきを返して、こわごわともう一枚の折り紙を手に取りました。しかし私はそれも駄目にし、またその次も駄目にしと、それこそ折れば折るほどに、クラスメート彼彼女が優しい期待をかけて私の手元を見守っていてくれればくれるほどに、私のつくる折り鶴たちは一層に醜く拉げては崩れてゆくのでした。その私の不手際のせいもあってか、畢竟一ヶ月ほどして、友人の母は二度と帰らぬ人となったのでした……。
また私が二十五、六歳のときのことです、このようなこともありました。いま告白のために思い起こすだけでも、そのときの恥と屈辱の念とがまざまざと私に思い出の酸のように甦ってくるようで、おぞましいくらいに恐ろしい気がするものですが、それでも私はこの手短かなカタルシスへの情欲に、またいやらしい自虐の喜びにこの口先を押さえることができません。
当時私には、婚約束こそはないものの、互いにそのことを意識しあう間柄の女性がおりました。彼女は、鈍ならずして流行からは身を引いていられるという類の、身心ともに素朴な美しさをもった女性で、私にはまずもったいないといって良いほどの人でした。彼女はおりをみて私へと結婚を希望する心の裡を伝えてくれていましたが、それでも私は思い切れずに、その度ごとにそれを交わしてまいりました。
私には文学の夢がありました。私は日本橋のM善書店に勤めながら、夜はせっせと机に向かい習作の升目を埋めていました。生意気にも、友人たちとの宴席で、恋は路傍の花に過ぎない、大望をかなえてこそが男だ、なぞと息巻いた記憶もございます。
意固地でひよわな文学青年タイプの典型的な思い込みとでも申しますか、若き日の私には、きっと自分には才能があり、いつかはひとかどの作家になることができるのだと信じて疑うことがありませんでした。いま苦々しくも振り返れば、結局それは青春の愚かしい錯覚、若さゆえの自信過剰といったものに過ぎませんでしたが!
しかし私は、川崎長太郎風の「文学だけの人生」というのも、どこか古くさくてあじけない、敗者のものらしいわびしさを感じていました。ですから私は、自他ともに納得のゆく第一作をものせたときにこそ、彼女へと正式な婚約を申し込もうと決意し、現にいやらしくそのことを相手の耳へもほのめかしたりしながら、無責任にも彼女との関係を続けてまいったのでした。
それは梅雨明けの季節のある夜の出来事でした。彼女の希望を容れて鎌倉見物へ繰り出した帰りのこと。吊革を握って、私たちは横須賀線の闇硝子の前へ並んでおりました。あるまずまずの習作を書き終えたばかりであった私は、高揚した気分も手伝ってか、独り勝手な饒舌で青臭いばかりの文学談をぶっておりました。そんな際にも、しかし彼女はつまらなそうな素振りもみせずに、まったく感心そうにして聞いていてくれたものです。
十時を少し過ぎていたでしょうか。列車の中は勤め帰りの会社員たちで混みあってきておりました。私は興奮者の無遠慮で、依然大声だして文壇のある大家をけなしてつけておりました。
不意に後ろから肩を突かれて、私はハッ、と振り向きました。
「偉そうな顔をして、つまらないことをいうな! いやらしい声をして、ふざけたことをいうな!」
唐突の狼狽、そして後悔。不良風の格好をした若者二人が、顔を凶器のように鋭く毒々しく歪めながら、私の顔を睨みつけていました。
不意の凄まじい恐怖が、私の背中を襲いました。その夜私を勇気づけていたはずの昂揚の気分は、一瞬にして私を置き去りにけし飛んでいってしまいました。
男二人は、私という存在への不快感、騒がしさへの非難から、私の容姿上の弱点などを、次々と刃物のように振り回しながら、ますます執拗にからみ続けてまいりました。痩せて頼りない私の背の裏に立ちながら彼女も恐ろしい思いをして震えていたはずです。しかし、私にはそれを顧みる余裕もありませんでした。
青ざめて黙すばかりの私に業を煮やしてか、男の一人が、彼女の肩をつかみました。そして、どんなにも卑劣な、いわれようのない性的な中傷の言葉を彼女へ対してぶつけたのです。さすがの私も、それには頭に血が上りました。反撃とまではいえぬものの、私は決然と覚悟をきめて、やめろ! というようなことを叫ぼうとしました、私が彼女を失わぬためには、いま絶対にそれをせねばならなかった。しかし結局、それは言葉にならかった……シュッ、シュウと空虚そのもののような呼吸音が、私の臆病の口から洩れただけでした。
もう一人の男が、(思えば、それは単なる脅しにしか過ぎなかったのでしょうが)いまにも私へと殴りかかろうとするような素振りをみせました。アッと私は目をつぶって、身体を後ろへ反らしました。気づけば私は、冷たい床っぺたに腰を抜かしていました。矢継ぎ早に唇へと命乞いの言葉をつぶやきながら、ただ私は目をつむり頭をたれて、あの恐ろしく無機的な床へ座り込んでしまっていました……。
見上げたとき、男二人は、じつに征服者のものらしい満足の表情を浮かべて、滑稽笑いを笑っていました。私は心底から命拾いした安堵感に包まれて、生ぐさい息を吐きました。それどころか脅迫者たちが気まぐれにも与えてくれた許しへ対して九死に一生を得た被救出者の素直さで、すみません、すみませんと繰り返しさえしていました。
最後の侮蔑の一声とともに男たちが私を解放してくれたとき、ようやく私は、彼女もまた、まだ私の掌の先に立っていることに気づきました。もう二度と、しかし私は彼女の顔を直視することはできませんでした、私たちは一言の言葉も交わさずに、乗り換えた次の列車を東京駅まで乗っていって別れました。その間、彼女が私をどのように見ていたのか。ひやびやとした失望の目を向けていたのか、もしくは目の中の不愉快な異物のように私を視界からはずすための努力を続けていたのかはわかりません。
そのときをもって、とにかく私と彼女との関係は終わりました。その後も二度ほど、私の下宿へと彼女からの電話があったようですが、私がそれに出ることはありませんでした。翌月までに、そして私は逃れるように下宿と仕事とを移ったのでした……。
それはどんなにも私を落胆させる、哀しみの出来事だったでしょうか。現実私はそのとき以来今日までに、女性とのまともな交際をもち得ませんでした。もしも人生をやりなおせるのならば、私はあの日に帰りたいと思います。そして、あの不良青年たちから、あの中傷の言葉たちから、彼女のことを守ってやりたい。怖じ気を殺して闘って、今日までついぞなり得なかった、本当の男になってみたい。殴られようと、のめされようと構うものか、の心境です。もう二度と、あんな後悔はごめんです。
しかし、そのときの私はいつまでも傷つき絶望しているまま、という感じではありませんでした。むしろ、生まれ変わったように清新な心持ちで、あらゆることにはりきろうとしていたようですし、本人でも意外なほどの行動力で、すぐにも次の仕事をみつけてきたものです。
それは確かに挫折でしたが、しかし、私にとってはある意味で救いの側面もある挫折でした。書店員という長時間拘束がお約束の重労働と、交際女性とのおつき合い、という二つの負荷がとれたところで、ついに私はあらゆる見栄をかねぐり捨てて、文学の生活へ打ち込むことを誓いました。それこそ私は、これぞ不意に湧いた僥倖、欲求不満の芋虫から蝶へとかわる絶好の機会とも思っていました。
パート扱いの補助公務員として得られる賃金は少なく、下宿の代金を支払うと、それはほとんど手元には残りませんでした。頼るところもありません。私の一方的な反旗心からですが兄とは昔から反りが合わず、故郷の両親は私が大学を出るまでに亡くなっていました。生活は苦しくなりました。それでも私ははりきっていた。何をするにも充実していた。
摂るものも摂らず、着るものも着ずで貯めた小金を、私はためらいもなく一冊の文学書へと投じました。いよいよ私は文学のための生活に、執念的にのめり込んでいきました。
形の上をみるだけでは、私の腕は上達しているようでした。図々しくも私は夜な夜な、自分が作家になったときのことを考えて、一人うっとりとさえしていたものです。それどころか、無為な想像を働かせて、芸術の値打ちもわからぬような愚才どもから、あれやこれやとあらぬ中傷を受ける様まで思い描いて、愚かしい恐怖にとらわれたりもしていました。しかし当然、それは無用の心配ごとでした。現実は厳しかった。私は壁に突き当たった。どこまでやっても、いくら草稿を重ねてみても、はかばかしい結果は得られません。ようやくテクニックだけでいくらかの予選を選ばれるようにはなりましたが、それも佳作どまりが精一杯でした。いつも私の書くものは、「虚飾だけで芯のない、まがい物」だそうでした。
「これだけやって、芽が出なければ、そのときは潔く諦めよう」と初めに定めた五年という修業期限は、あっという間に過ぎていきました。
血を吐くような葛藤の苦しみに身もだえしながら、そうして私は、あと五年だけ、と誓いなおしました。身を危に置いて叱咤するため、私は仕事をやめました。とうとう私は恥を忍んで、兄からの経済的な援助までとりつけました。
その後の五年間に、私の書いた作品は三度だけ活字になりました。ある同人賞の副賞へ選ばれた私の代表作は、屁のとまらなくなった臆病なドイツの死刑執行人の葛藤の苦しみを描いた『ガス』という作品でした。しかしそれも、代表的な文芸誌の評にあたっては、「血の通わない生半可なヒューマニズム」という批評に一言切って捨てられました。
私という人間の裡に明らかな狂いがきざしはじめたのはこの頃でした。幽鬼じみてきた容姿の醜さを隠すために私は大仰な黒サングラスをかけてでなくては買い物に出ることもできなくなりましたし、腐臭じみた体臭を人にかがれることが怖くって、乗り物に乗ったりレストランなどへ入ることもできなくなりました。たったそれだけのことが、どんなにそうしたいと願っても、もう私には絶対にできなくなってしまいました。
延長したその五年も終わったとき、私は三十五の歳を迎えていました。決断通り、私は筆を折りました。最後に残った持ち物を、文学への夢という私そのものを私はついに捨てたのでした。いまはっきりと、私は夢に破れたのでした。すでに私は若者の年齢ではなかった。しかし、そのときまでの私は精神の若者でした、それから私は一足飛びに、いわば精神の老人へと変じたのでした。
思えば私は、物心ついた少年の時代から少しずつ、しかし確実に持っていた何かを捨てながら生きてきたように思います。先にも述べましたように、このような生き方というものが私という人間が生まれながらにして背負わされてきた宿命、切り離しがたい運命だったのかも知れません。しかし、と私は思うのです。それにしてもしかし、私はあまりにも気前よく多くのものを捨てすぎました! そして空になった私にはそれまでには想像すらつかなかったおぞましいものばかりが捨て積みあげられていきました。
それからの本日までは、もう話にもならないものです。とうとう兄吉野からも勘当された私は、生活保護を受けながら精神病院への入退院を繰り返しました。
さあ、今日は私の記念すべき乞食生活の初日なのです。
このみすぼらしい掌に、ほんのいくらかでも憐れみのお心を頂戴できれば、こんなにも嬉しく、さい先の良い門出はありません。
えっ、それこそこんなことをしていて、おまえは恥を感じないのか? ですって。
そうですね。私は、もう、恥ずかしくはありません。つい先刻、さっそくいわれようのない暴行沙汰も体験しましたが、それでも私は懲りていません。すでに私はこの生活になじみはじめているようです。意外ながらも、向いているのかも知れません。
いま私の顔の皮膚は、あなたからどんなにも非難されようが、蔑んだ目で見られようが、もはやあの長き青春の日々のように、恥を感じて赤面することはありません。
しかし頬には、痺れるような痛みがあります。
皮膚の破れに、古く親しんだ恥へと替わって、とうとう露骨な恐怖(それ)そのものが、肉のぞかせているようなのです。
いやらしさの研究