最後の蝶々

「君は痛みを感じると口から悲鳴の代わりに蝶が溢れるらしいね。」

窓の外を眺めながら突然、彼の唇が微笑みながら言った。突然だったけれど私はあまり驚かずに、
「そうよ。悲鳴なんかよりもとても気に入っているわ。」と答えた。
実際に、私は痛みを感じると口から蝶が溢れる。蝶はちゃんと生きている。
そう答えた私を微かにみて、彼は立ち上がり、引き出しから裁縫用の小さなはさみを取り出した。裁縫なんてしないのに、かたちの美しさだけに惹かれて昔に買ったものだ。未だに使ったことはない。
「何をするつもり?」
先の微笑みのまま片手にはさみを持って歩みよる彼に問う。
「試しに切ってみても良いかい?」
みてみたいんだ。君の口から溢れる蝶がどんな色か。
彼はまだ見ぬ深海をみるような目をしていた。
私の生み出す蝶をみた彼はどんな顔をするだろう。私は私で、それが気になった。
「あなたにならみせてもいい」
そう言った。切るなんて、何処を?怖くなかったといえば嘘になるけれど、彼にならどうされてもよかった。
すると向かい合わせになった彼は手を伸ばし、よく切れそうな小さなはさみを私の頬にあて、ゆっくりと赤い線を引いた。思わず目を閉じる。そこから赤い血が流れる。みえないけれど、きっとそうなっている。彼のひんやりとした細い指が触れて、数秒、私を寂しくさせる彼の匂いで頭が一杯になって、それから痛みがくる。
(痛いよ)
音になりそこなった悲鳴は喉の奥で蝶へと姿を変えたのだろうか。一瞬、私は苦しくなって首元を手で押さえる。すると冷たい蝶が3匹私の口から舞出た。蝶はカーテンの隙間からわずかに差す光を反射させながら暗くて狭いへやをどこまでも自由にとんだ。
「あ、青色だ。青色の蝶だ。僕は青色が一番に好きなんだ」
彼は依然として綺麗でバランスのとれたかたちをくずさぬ微笑みのままそう言った。
そうして美しく深い青の蝶がひらひらと舞うのをうっとりとみている彼の目はゆるゆると色を失った。彼は目の裏の最期の記憶に、私が排出した美しい蝶の姿を残し、その両目は終には何もみえなくなった。彼は何も言わなくなった。何もみえなくなった。

最後の蝶々

最後の蝶々

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-30

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