神樹と神獣

旅人

遠い昔、一人の旅人がある村へたどり着いた。
その男は都への貢物を納めるため
故郷から送り出された使者であった。

彼はその足で山を越え川を渡り
途中、賊に襲われながらも臆せずそれらを振り払い、
大事な荷物を守りきった勇敢な男であった。

都への道のりは実に2ヶ月を費やした。
彼は無事、都へたどり着き任を果たして
故郷へと帰る途中だった。


そのひ彼は流れ出る汗を止める術を知らなかった。
昨日、大雨が降ったせいでその日は湿気が多く蒸し暑かったのだ。

それもあって、歩けど歩けどいつまでも続くように思われる
景色の変わらない山道に彼はうんざりしていた。
帰路、一度通った道となれば尚更だ。
しかし、すぐ彼の目の前にまったく見たことのない景色が現れた。

樹が根元からへし折れ、重なって横たわっている。
粘土質の地層が剥き出しになり、あたりには
自分の倍はあろうかという大岩がごろごろと転がっている。
行きに来た道が完全に塞がれていたのだ。

―土砂崩れだ。
理由は考えなくても分かる。昨日の土砂降りだ、言葉の通りだ。

どうする、俺はここ以外に故郷へ帰る道を知らぬ。
かといって闇雲に動いて夜にでもなってみろ、あっという間に迷子だ。
また山賊にも襲われかねない。

彼は途方に暮れていた。
しかし怪我の功名と言うべきか
山が崩れ森は倒され、視界は開けていた。
そこで彼の目にはある物が飛び込んできた。

それは大きな大きな樹だった。
空高く雲まで届くのではないか、と思うほどに

あれを目印にすれば今の自分の位置が分かる。
迷わなくて済むはずだ。ひとまずあそこを目指そう。

それにあんなに立派な樹だ。何かの御神木に決まっている。
きっと名のある神が祀られているに違いない。
神あるところに人ありだ。間違いない、あそこには里がある。
故郷を出るときそれなりの額の銭を持たされた。宿代には十分残っている。
今晩はどこかの家に泊めてもらおう。

この長い旅の間で培われた彼の直感が、そこに人の気配を告げていた。
そして歩いて歩いて膝が笑い出した頃、ようやく彼はたどり着いた。

村人

美しい村だった。
木々は輝き、田畑の作物は生命力に満ちていた。
風が吹き、汗に濡れた旅人の身体を心地よく冷やした。
どこか空気が澄んでいるような気がする。

それにしても一体どうすればこんなに大きく育つのか。
旅人は風に揺れる黄金色の絨毯のような
よく実った稲穂に近付いてみた。と、そのとき
「 どうだい? 今年は特によく出来たんだ。 」

突然後ろから声を掛けられ旅人は仰天した。
旅人に気付いた村人の一人が話し掛けてきたのだった。

ニコニコとした老婆だった。深く皺が刻まれているが
背は曲がっておらず足取りも軽そうだった。

「えぇ、ここはとても豊かな村のようですね、空気も澄んで快い。」
「へっへ、そうじゃろ、そうじゃろ、なんせうちの村には先生がおるからのぅ 」
―先生?聞き慣れぬ単語に 旅人は 引っ掛かったが、
今日の宿を取るという当面の目的を済ませるのが 先だと考えた。

「あの」
「しかし客人とは珍しい、ここにたどり着く者はめったにいないんだよ。」
「え、あんなに大きな目印があるのにですか」
旅人は大樹を指差した。
「あぁ、そのはずなんだがねぇ、なんでかねぇ?」
はっはっは、とお婆さんは快活に笑った。

「・・・ところで、あんた今日泊まる所あんのかい」
「あ、今からそれを探そうと」
「じゃあ、ウチに泊まらんかい。そんで飯食って寝て
畑仕事ちょいと手伝ってから、お国へ帰んな。」
「ありがとうございます。いくらほど出せばよいでしょう?」
「何がだい。」
「そりゃ、宿代ですよ」
「そんなもん、いらんいらん。 たいした家じゃねえ。
親戚の家に来たと思ってゆっくりしてきな。」

こうして交渉する前から問題は解決してしまった。

しかし、何だろう。 今までの経験からすれば
この手の村はよそ者に対してもっと閉鎖的ではなかったか。
どうやらそのような村ばかりではないらしい。旅人はこれまでの偏見を恥じた。

お婆さんに連れられて家へと向かった。
小さい造りだったが水車が付いていて
畑に 水を自動で汲み上げていた。
なんだこれは。都でもこのような仕組みは見なかった。

そしてその畑の樹には
やはり今まで見たことのない
赤く大きい果実が実っていた。

「食べてみるかい?」
呆気に取られていると
また 突然背後から声がして 旅人は仰天した。
今度は若い男だった。

「ワシの孫じゃよ。この畑を任せとる。これがよくできた孫での・・・ 」

お婆さんの孫自慢をよそに孫は果実をひとつ小刀で枝から切り取って旅人に差し出した。

「美味しい・・・」
「そうでしょう、そうでしょう」
孫はそう言って笑った。笑ったときの表情はお婆さんとよく似ていた。

「実に瑞々しくて甘い。水分も多いし、旅路にもってこいだ。 幾らか売ってくれませんか?
それに種も故郷に持って帰りたい、この果実の名はなんと言うのです?」
「よろしい、今年は良く採れますからお安くしておきましょう。
これは林檎というのですよ。しかし、種を持ち帰るのはお勧めしません。」

「どうしてです?」
「ここと同じようには恐らく実らないでしょうから・・・ ここは少し特別な土地なのです。
それに樹を育てる土はあらゆる混ぜ物をした肥料が加えてあります。
それは僕の作ったものではなく、先生から教わったものです。
ですから、もしどうしてもというのなら先生の下へお尋ねして頂けますか。」

「先生、ですか・・」
再び話の中に現れた「先生」に旅人は困惑した。

「まぁ、どちらにしても今日は遅い。 飯食って寝な。」
お婆さんはそう言ったので、その日は夕飯を頂き、
囲炉裏を囲んで三人で歓談を楽しんだ。
旅人の話す、都や道中で起きた出来事を二人は喜んで聞いてくれた。
お婆さんも負けじと孫自慢をした。

「この子は昔から土いじりが好きでね
おまけに先生から色々聞いてくるもんだから
ワシにはよく分からんけんども 灰やら何やらを混ぜると
それだけで肥料がうんと良くなるらしい
それからこの村じゃどこの畑でもずっと調子が良いんだ
ほんとにこれは親孝行な孫じゃ」
孫は照れくさそうに笑っていた。

食べて話して聞いて疲れて眠った。
翌日、孫の案内で先生に挨拶させて貰えることになった。
先生はあの大木の麓に住んでいるらしい。

旅人は必ず交渉を成功させると胸に誓い
村の中心部にある大木へと向かった。

先生

旅人が思っているよりも村は大きかった。
通りを行くと、みな気持ちよく挨拶を交わしてくれた。
孫はよく村人に呼び止められて作物を分けて貰ったりしていた。
お婆さんの自慢はあながち嘘ではないらしい。

村の様子の中でも際立っていたのは子供たちの表情が明るいことだ。
この自分を案内する若者もそうだが皆、活き活きとした聡明な瞳をしている。

人のことを言えた義理ではないが田舎の人間にしては
この村の人々の言葉遣いは洗練されすぎている。

なぜだろう。
畑を耕し、田を植え、自分たちと同じような暮らしをしている のに
この村にはどうしてか故郷よりも知性が溢れているように見える。

旅人は都にしばらく滞在して人々の暮らしの発展 に
少なからず衝撃を受けたものだが、この村ではまた別の新鮮な驚きを感じていた。
そしてその秘密は「先生」にあるはずだと彼の直感が告げていた。

「さあ、着きましたよ、ここです。この神樹の麓です。」

村の中心にあるこの巨大な樹は神樹と呼ばれているらしい。
神話に語られる塔のように空高くそびえ立っている。
その麓に社のようなものが建てられていた。

「あれが先生の館です。あぁ、良かった、いらっしゃるようだ。
私が案内できるのはここまでです。後はご自分で用件をお伝えください。
それではまた。」 深々と礼をして孫は家路へ帰っていった。

社の前に誰かが立って神樹を見上げていた。
間違いない、彼が先生だ。
旅人は先生の下へ歩いていった。

しかし徐々に近付くにつれ何か違和感が感ぜられた。
旅人の違和感が極地に達したとき
訪問者の足音に気づいて先生は振り返った。
「おや、珍しい。客人ですか。」

旅人は呆然とした。
目の前に上品な着物を着た羊が二本足で立っていた。

神獣

旅人は呆然とした。
目の前に上品な着物を着た羊が二本足で立っていた。
渦巻く角の上には茨で編んだ立派な冠をしていた。

いや、羊が立っているというよりは
人間の身体に羊の顔が付いていると言った方が正しいだろうか。
旅人は先ほどの考えを訂正せざるを得なかった。
この村は自分に都以上の衝撃を与えた。

「いや、失礼。ようこそ、おいでくださいました。 さ、どうぞ中へ。」
おまけに喋る。 開いた口が塞がらない。思わず腰を抜かしそうだった。
「・・・あ、よろしければ顔は隠しておきましょうか。こういうものがあるのですよ。」
そういって羊は薄い絹で出来た幕のようなものを取り出した。

それを聞いて旅人はハッと我に返った。
しまった、相手に気を遣わせてしまった。何をやっているんだ。
俺は元々、単なる都への使い走りじゃない。
故郷の代表として見聞を広めそれを皆に伝える役割を授かったのだ。

それによって、より自分たちの村を繁栄させるためこうして 旅をしている。
世には自分の知らぬことがまだたくさんある、それだけのことではないか。
こんなことで腰を抜かしている場合ではない。

旅人はすぐに体勢を立て直した。
「いえ、そのままで結構です。こちらこそ大変失礼いたしました。」
「いや、いいのですよ。私のような顔にはめったにお目にかからないでしょうから。」
そういって羊は笑った。その穏やかで朗々とした声も
仕草も 羊の顔以外は人間そのものだった。
旅人も釣られて笑った。

落ち着いてみれば、彼はどこか神聖な空気を帯びているように感じられた。
村人たちが先生と呼びたくなるのも無理はない。
その柔らかい口調に旅人は何の警戒も必要はない、と悟った。

二人は社へ上がり座敷で話を始めた。
先生は注意深く旅人の言葉に耳を傾けその一つ一つに丁寧に答えた。
先生の一言一句には知性の煌きがあった。
先生が旅人にもたらした知識は計り知れなかった。

先生は旅人にお茶を出した。
「ありがとうございます。・・・酸味が利いていて実に美味です 。この黄色の輪切りは何でしょう?」
「それは檸檬という植物です 。裏手の庭に樹がありますよ。見てみますか?」
「ぜひ」

庭にはその黄色い檸檬だけでなく先ほど見た林檎、緑や青、
見たことも聞いたこともない あらゆる色鮮やかな植物が 無数に実っていた。
「ここは植物の楽園だ、よくぞここまで。こんなに豊かな果樹を私は見たことがありません。
貴方は地の神ですか?やはりこの村は特別な村です。」
「 いやはや、 神などとは大げさな、村人の研鑽の賜物ですよ」

「謙遜なさらないでください、子供たちの目を見れば分かります。
この村の優しく清潔な空気は貴方の作られたものだ。
私をこちらへ連れて来てくれた若者もそうですが
みな活き活きとしている。 貴方がその知恵を教授なされたお陰では?」

「教えるなどとは恐れ多い。私こそ彼らから日々教わってばかりですよ。
・・・子供たちはそれぞれ大事な役割を持って生まれてきました。
それを少し見つけてあげるだけでよいのです。
彼らは自ずとこの豊かな自然から学ぶ力を生まれながらに持っています。
私に出来ることなどほんの少し。
むしろいかに彼らの邪魔をしないかに気を配っているくらいなんですよ。」

そう言って笑うと先生は照れくさそうに白い毛を撫でた。
「せっかく外に出たんです、少し散歩しませんか。」

二人は陽の差す森の中を歩きながらまた大いに語らった。

「いや、話の種は尽きませんね 。
そうだ、種といえば、あのような植物の種子を一体どこから手に入れたのです?」
「私が生まれたときから持っていたのです。」
「なんとおっしゃいましたか?」
「決してふざけているのではないのです。
私が生まれたとき持ち物としてそれは手の中に握られていました。
それが今回の私の役割だと知りました。」
「役割?」
「人には・・・いや、この世のすべてのものには役割というものがあります。
貴方もそうでは?」

旅人は故郷に思いを馳せ神獣の言葉に頷いた。
「そうでしょう、私にも役割があります。でもそれが何か分からないのです。
きっと、誰だってそうなのでしょうが・・・でも私はそれを知らねばなりません。」

先生は困ったように言い、ある場所で立ち止まった。
それは森の中に建てられた大きな墓碑だった。
「とても立派なお墓ですね。一体どなたが眠っておられるのでしょうか。」

旅人の疑問に先生が答えた。
「彼は遠い昔、義賊として名を馳せ、誰に頼まれるでもなく
民を苦しめるあらゆる悪人を斬って回ったという 伝説を持ついわゆる英雄です。
今でも彼のことは村人たちの間で語り継がれています」

「へぇ、そんな人がいるものですか。きっと強く優しい人だったのでしょうね。」
「確かに彼が悪人を斬って回ったのは事実です。
ただ真実というのは人の見方によって大きく変わるもの・・・」
「なんです、ほかにも彼には逸話があるのですか?」
「逸話と呼べるかどうか分かりませんがお話できることはあります。」
そう言って先生は裾を払い冠を整えた。
「なんせ、彼は私の生みの親ですから。」

そうして神獣は静かに語り始めた。
ある義賊の物語を。

神樹

頭の中で声がする。
誰かが俺を呼んでいる・・・。


―俺は死体を埋めたことがある。
賊だ、俺が殺したんだ。
夜中出歩いていた俺を追い剥ぎに来たところを返り討ちにしてやった。
腕っ節には自信があった。

俺は元々この村の子じゃねえんだ。
昔、ここら一帯を取り仕切ってた豪族が乱暴した娘の腹から生まれた。
その娘の命と引き換えにな。母は俺を産んですぐ息絶えたよ。

俺は生きることに嫌気が差していた。
何をしても喉の奥の焼け付くような渇きは癒えない。
でも賊の襲撃に遭い、死合を繰り広げたその一瞬だけは
何か感じるものがあった。俺は気が付いた。
自分を満たすものはここにある、と。

それから俺は真夜中に出掛けては
憂さ晴らしに賊を狩るようになった。
奴らも元は俺と似たような連中だ。

どうしようもないから、手の中に何もないから
人のものを奪う。俺はその感覚を知っている。
咎めてくれる父はいないし、守ってくれる母はとうに死んでいる。
見ている人は誰もいない。だから一人野を駆けて、奪う。獣のように。

たぶん奴等もそうなんだろう。そう、知っている。
だからこそだ。殺したって誰も困らない。
お前らが奪うのは物だ、俺が奪うのは命だ。
俺はきっと賊を狩ることで大嫌いな俺自身を殺していたんだろう。

まあ、そんなことはどうでもいい。大事なのは次だ。
俺は賊の息の根を止めた後、いつも同じ場所に埋めていた。
村の外れ、まだ拓かれていない森の中に。

もう何人殺したか数えられなくなった頃、
その場所に花が咲いているのを見つけた。

そればかりでない。明らかに周囲に比べて
そこの植物たちだけがより強く生命力に満ち溢れている。

すぐに俺の切り刻んだ盗賊たちの血肉が
こいつらの肥やしになったのだと分かった。

俺は渇いて渇いてしょうがないから
奪って奪って奪ってきた。

だがその行為がこいつらに潤いを与えた。
そのとき自分がはじめて何かを「与えた」気分になった。
俺は恐らくそのとき生まれてはじめて「嬉しかった」

それによってこいつらはこんなに・・・こんなに・・・
なんていうんだった・・・そうだ、「美しい」
こんなに美しく育った。俺が育てたも同然だ。
俺が育てたんだ。

それから俺は殺す為に殺すのではなく、
やつらを育てる為に殺し始めた。
追い剥ぎ、泥棒、人攫い、あちこちから悪人の噂を集めて
そいつらを殺して回った。そして花の根元に埋めた。
最初は殺しても文句を言われない奴なら誰でもよかった。

しかし、それじゃ足りない。
次は一人、領民に圧政を強いる領主を殺した。
確かにそいつは悪人だった。だが理由はもうひとつある。
そいつは贅沢な暮らしで太っていたんだ。

あの花たちの為には痩せ細った乞食や病者よりも
よく肥えた「餌」が欲しかった。
この時代に肥えているような輩は必然的に人を踏み台にして
成り上がっているような連中ばかりだった。
ちょうどよかった。

日に日に、どこからともなく死ぬのに相応しい連中の噂が
耳に入ってくるようになった。
俺にはあいつらが餌を求めて呼んでいるのだと分かった。

馬鹿な話だが、俺は死人を埋める度、植物たちに話しかけていた。
すると、頭の中で雑音が鳴るような気がした。
これは植物の声だ、俺の話に応えているんだ。
俺はそう勝手に解釈した。

だが時が経つにつれて徐々にその雑音は、はっきりと聴こえるようになっていった。
なにか途切れ途切れに言葉が聞こえる・・・捉えきれない・・・
俺はとうとう、―今までも大概だが、いよいよ頭までおかしくなったかと思った。
しかし、それは確かにある一本の小さな木から強く発せられているのだった。

俺はその樹一本に的を絞り肥やすことに決めた。
殺しては埋め、殺しては埋めた。
すると、そいつは竹のように目まぐるしく凄まじい勢いで成長しはじめた。

あいつは・・・そう、まさしく食事しているのだった。
ある時など埋めてから七日もすれば
根元にはもう骨と干からびた皮しか残っていなかった。
雑音交じりの声がする。

―もっと、もっと。

そして俺は取り憑かれたように来る日も来る日も奴の下へ死体を運び続けた。
俺は気付き始めていた。俺を呼んでいるのは、語りかけてくるのは
この樹じゃない。この樹に宿ったもっと別のなにか、なんだ。

そしてあっという間に樹は俺の背丈を越え、中心に小さな洞が出来た。
俺はもはや喜びとも渇きとも違う、何か大きなものに突き動かされていた。
一体、なぜこんなことを俺はしているんだっけ?
だがこの体は止まらない。俺は樹に血と肉を捧げ続けた。
捧げる?そうだ、これは神への供物と同じだ。
これは・・・儀式だ。

それが分かったとき、俺は樹に出来た洞が人の入れるほどにまで
大きく育っているのにはじめて気がついた。
我を忘れて、死体を埋めていたせいでちっとも気がつかなかった。
俺は樹を見上げた。もうこの樹より背の高い植物はこの森の中になかった。

いつの間にか喉の奥の渇きは収まっていた。
俺は満足した。自分の育てたものに。
もう何もいらなかった。ただひとつ儀式の最期に
どうするべきか俺には分かっていた。

俺は短刀を取り出した。この刀で俺は何百人を切り裂いてきた。

そして俺は自分で自分の心臓に血塗れた刃を突き立てた。
俺は前のめりに倒れ、とめどなく溢れ出す赤い血は
一滴残らず奴の根が飲み干していく。
遠のいていく意識の中、頭の中の雑音が消えていくのが分かった。

―あぁ、もう結構だ、どうもありがとう。

雑音は完全に消え、透き通った透明な声が聞こえた。
洞の中からまるで長い洞窟を抜けてきたかのように
それは現れた。

―どうか、安らかに、おやすみ。

そのやさしい声に俺は初めて何の不安もなく眠ることができた。
そして二度と目を覚まさなかった。

神樹と神獣

長い間沈黙が流れ、ようやく先生は口を開いた。

「それが英雄の真相です。彼は決して義賊や英雄などではなく
ただ可哀想な一人の人間でした。
そして数多の血肉を犠牲にして私はあの洞の中から生まれました。
先ほど貴方は私が地の神のようだと仰った。
しかし神などとは程遠い、私は供物を食らい誕生した悪魔です。
人々に尊敬される資格など私にはありません。」
「そんな・・・」

「真実です。いいですか、悪魔とはそれ自体を指すのではありません。
それを呼び出すに必要な代償こそが悪魔的なのです。
もし神があるならば・・・やはり彼の方は残酷だと思います。
常に彼の方は私に罪を背負わせる。」

「しかし、貴方のお陰でこれほどまでに村は活気に溢れているではないですか。」
「・・・豊かに実る植物はかつての死者たちの血と、この神樹の威光によって保たれている。」
神獣は彼らしくもなく声を荒立てた。
「幸せはいつも何かの犠牲の上に成り立っています。」

「・・・一体貴方はいつから生きておられるのですか?」
旅人は尋ねた。

「私に時間というものは流れていません。
私は連続しない断片的な存在です。
故に私に一生というものは存在しません。
私はまたどこかで悲劇と共に生まれる神樹の洞と洞との間を 乗り継いでいくだけなのです。
この世界と時間の外こそが私の本来の生です。
いわばここは駅で私は次の列車を待つ乗客のようなものです。」
「駅?列車とはなんです?」
「あぁ、すいません。この時代ではたとえになりませんでしたね。」

あんなに明解明晰であった先生の言葉が
突如理解不能な単語の羅列に変わり
旅人は窮めて困惑した。

「・・・申し訳ありません。少し取り乱しました。今の話は村人にもしたことがありません。 できれば内密にしていただきたい。」
「それはもちろんかまいませんが」
「・・・村人から既に聞いたかもしれませんがこの村に客人が訪れるのは本当に珍しい。
詳しくは私にも分かりませんが恐らくこの神樹が侵入者を拒むのだとおもいます。」
しかし、貴方はここへ辿り着いた。」
「つまり、どういうことです。」
「神樹が貴方を呼んだということ、それが意味するのは・・・ここでの私の役割の終わりです。
貴方にこれらの種子を渡すこと、それらの製法を授けること、それが私に残されていた仕事だったのでしょう。
誰にだって役割がある、私はこの樹の気まぐれで貴方たちの下に現れ、貴方たちの時を進める者。
それが私の役割。村人たちともこれでお別れです。」

先生は涙を流した。すると 間もなく雨が降り始めた。
二人は濡れるのも構わずその場に立ち尽くしていた。

「先生」
「誰にも言わないでください、どうか最後のお願いです。」
「分かりました・・・誓って誰にも話すことはありません。」
「ありがとうございます。貴方で良かった。
貴方との話はとても充実したものでした・・・。」
「そんな、こちらこそ・・・」

そして先生は数種の果実の種子を摘み袋に詰めた。
さらに肥料から食品加工に至るまでのあらゆる製法を記した
巻物を一晩で書き上げ旅人に手渡した。

雨はなおも降り続け嵐を呼びつつあった。
遥か遠くで天が輝き、叫ぶ声が轟いた。

「この雨に紛れて村を出てください。あなたには加護があります。必ず無事故郷へ辿り着くでしょう。」
「えぇ、さよなら、先生。本当にありがとうございました。必ずやこの実を実らせて見せます。」
「えぇ、頼みました、私はもう洞に入らねばなりません。」
「・・・先生は次はどこへいくのです。」
「分かりません。それこそ神のみぞ知ることです。
さあ、お行きなさい。何があっても決して戻って来てはなりません」

そして旅人は村を出た。
嵐はなおもひどくなり木の枝が折れる音があちこちでした。
これは無理があるのではないか・・・旅人は思ったが
先生の言ったとおり 不思議と自分だけは前に進むことが出来た。

これなら行ける・・・そう思った瞬間、強烈な光が世界を包んだ。
視界は真っ白く染まり、鼓膜をつんざくような轟音が鳴り響いた。

旅人は思わず村を振り向いた。
燃えていた。先生の神樹が雷に打たれ燃え盛っていた 。
旅人は一瞬迷った。しかし

―何があっても決して・・・

旅人は先生の言葉を思い返した。誓いは決して破らない。
旅人は顔をくしゃくしゃにして走った。
雨にも負けぬくらい大粒の涙を流しながら彼は走った。

豪雨の中でも樹は燃え盛り続けた。
嵐が過ぎ去っても火は葉を、枝を、幹を喰らい続け
三日三晩の後、神樹は巨大な炭と成り果てた。
洞はもうどこにも続いてはいなかった。

エピローグ

道のりのことは何も覚えていない。
旅人は気づくと故郷へと辿り着いていた。
使者が帰ってきた。人々は喜んだが
使者がボロボロの格好で泣き腫らしていたので
山賊にでも遭ったのか、と心配した。

疲れ果てた旅人は三日眠り続け目を覚まさなかった。
そして目覚めたのち彼は活力を取り戻した。
先生の教えを余すことなく生かし故郷は目覚ましい発展を遂げた。

技術は応用され改良され新しく生まれ変わっていく。
時が経つにつれ誰もが彼を自分たちの指導者だと認めた。

長い時が経った。
旅人は故郷の幼馴染と結婚し、子供を設け
彼らもすっかり一人前に育った後だった。

老いた彼に子供たちが声を掛ける。
「先生!」
「これこれ、先生はよしておくれといつもいっておるだろう。」
「でもおとうさんもおかあさんもいってるよ!あの人ほど物を知っている人は他にいないって!私にもいろいろおしえて!」

彼は少女の頭を優しく撫で笑ってこう言った。
「教えるなどとは恐れ多い。私こそ皆から学んでばかりだ。
いいか、君たちにはその一人ひとりに大事な役割がある。
それを見つけてごらん。
君たちの中には自分でそれを学ぶ力がちゃんと眠っているんだよ。
それを呼び起こしてごらん。
私に出来るのはほんの少し・・・君たちの邪魔を・・・」

その街はどの土地よりも繁栄した。
そこには先生と呼ばれる長老がいた。

彼は賢者とさえ称されるようになり、あらゆる者がその知識の真髄が
どこから発したものか幾度となく問うたが
生涯、彼はそれを誰にも話すことなく、神獣との誓いを破らなかった。


おわり。

神樹と神獣

神樹と神獣

遠い昔、一人の旅人がある村へたどり着いた。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 旅人
  2. 村人
  3. 先生
  4. 神獣
  5. 神樹
  6. 神樹と神獣
  7. エピローグ