E4 ~魂の叫び~

序章

 A.D.2070。
 20世紀末から21世紀にかけて、鋭い牙を剥いた地球温暖化の波。それはいつしかうねりを増し、幾つもの国がなすすべもなく海の底に沈んでいった。
 そればかりではない。
 中南米に近い太平洋、あるいは日本の三陸沖から東の地点でも海底火山の爆発や海底内のプレートが地すべりを起こし、日本を初めとした東南アジア諸国は、最大級の地震と津波に見舞われていた。その上、欧米では起こりえなかった地震が各所で頻発し、世界は徐々に混乱の様相を呈していった。
 そこにもって、欧米や中国山間部などでは、世界規模の歴史的火山噴火の余波を受け、地球が表面及び水面下で怒りを爆発させたかのような天変地異が続き、人類は住む場所を求め大移動を始めた。限られた大地には数億もの人類が押し寄せ、我先にと土地を確保しようとして争いが頻発した。
 その間、地球の温度上昇は、火山灰で地球が覆われる中、一旦収束したかに見えたが、太陽の紫外線が差し込むにつれ、その上昇率は悪化の一途を辿ったのである。

 2080年。
 10年に及ぶ第3次世界大戦が勃発。
 米国とロシアはアラビア周辺で代理戦争を繰り広げ、周辺国の死者は8割という惨事となった。EEC合衆国にはアラブ流民が入国したが、アラブ民族同士の争いは止むことが無く、EEC合衆国は今や死地と化していた。
 また2086年、戦争を終わらせるべく、核ミサイルが北ロシアと北中国、EEC合衆国、北米アメリカから発射され、人類の約3分の2と人類が住める環境の地の約半分を放射線に晒すという最悪の結果が待ち受けていた。
 そうした間にも、北アフリカに端を発したHIVウィルスから派生したHIVⅡウィルスが猛威を振るい、次々と人命が奪われていった。HIVウィルスと違いHIVⅡウィルスに対する特効薬はなく、座して死を待つのみといった状況下の中人々はパニックに陥り、世界規模で集団自殺やテロ行為さえもが続発し世界中を震撼させた。

 結果、地球の人口は約5億人にまで減少し、人類は滅亡の危機に瀕していたのである。

 2090年。
 どちらとも勝敗のつかぬまま、10年に及ぶ世界大戦は終結を迎えた。
 勝戦国や敗戦国が入り乱れる中、各国のトップは違う視点から今後の政を見定めていた。
 そして、一つの方向性が提案された。
 国の垣根を越え、皆が協力し合いこの危機を乗り越えようというものである。
 歴史的瞬間。世界が一つに纏まった瞬間である。人口激減の問題を受けた各国は、戦争を止め、現在の人口を維持することを最優先としたのだった。

 ここに、地球政府が誕生した。


 2120年。
 地球政府では旧各国を自治国として認め、人種間及び宗教間での争いを禁じたが、争いの火種が無くなることは望めず、各国は自治国軍隊と警察府を組織した。

 そうした中、世界医学だけは革新的に発達し、個人の細胞から作りだした人工臓器を様々な身体の部分に埋め込む技術が確立された。
 個人細胞から作りだした筋肉を埋め込み義体化した人間たちは、注射による義体化部分の油を指すことと、健康診断でのオーバーホールのみ。心臓までもが義体化された人類も少なくなかった。
 これらはマイクロモビルと呼ばれ、サイボーグに属する人間たちとして新たに存在することとなった。
 それは、スポットブースターと呼ばれる機能増幅器で電気信号を脳に送ることによって電脳化し、身体はオール義体というマイクロヒューマノイドとは一線を画していた。
 スポットブースターの誕生により、マイクロヒューマノイドが人型ロボットという概念は今や過去のものとなっている。
 マイクロモビルもマイクロヒューマノイドも、環境汚染化が進む中その身を守るために必要な技術とされ、瞬く間に地球上に広がった。

 日本は第3次世界大戦とその後の大地震及び火山噴火で本州の殆どが津波を被り、また、東日本から東海、四国と九州の南側が核戦争による放射線に晒され、居住できる土地の約3分の2を失った。1億人いた国民は、戦争や災害が原因で次々と犠牲者が出た。漸く世界が落ち着き日本自治国となった今、人口は半分以下の5千万人ほどに減少するという結果が齎された。
 現在居住できるのは、九州及び本州の旧日本海側と旧北海道のみ。日本に四季があった頃は冬場に雪の積もる地域だったが、地球温暖化の影響を受け、今では雪も降らない。


 旧北日本日本海側に位置する伊達市。其処にある東日本警察特別部隊支援班、通称、ESSS、イースリーエス。                   
 SIT、SAT、ERTと並ぶ日本自治国警察府の主要機関である。旧北日本にある伊達市の警察特別部隊支援班は東日本を管轄し、西日本を管轄しているのは、旧山陰は毛利市にある西日本警察特別部隊支援班。通称、WSSS。
 伊達市と毛利市は、20世紀までは冬になると雪で閉ざされた世界が広がっていたが、地球温暖化の波は顕著だった。両都市ともに冬に雪が降ることもなくなり、日本の四季は今や完全にその姿を消した。
 そして、大地震や火山噴火といった天災及び朝鮮半島を初めとした欧米からの住民大移動を発端とした核戦争により、今や日本の太平洋岸は、住むべき場所としての機能を失った。

 日本では、マイクロモビルやマイクロヒューマノイドの研究が追いつかず、一般国民が交通事故などでパーツを損壊した場合は、個人細胞から再び人工臓器を作り出し、身体に戻すという方法が採られていた。その作製期間は半年とされ、その間、入院が必要とされた。

 ところが心臓だけは、半年待っていられない。それは即ち、死に値することを意味していた。心臓を患った人々は日本自治国に対し心臓の人工臓器を作製しパーツとして組み込むことができるよう、デモ行進を繰り返したが、自治国内閣府では、この案件を承認しようとはしなかった。

 日本自治国内では、研究の一環として警察関係者は心臓を義体化し、事件に遭遇し被災した場合は、当該関係者は予備のパーツを組み込むこととされていたが、皆が皆、それに追従したわけでもない。
 特に、麻薬取締の囮捜査に就く職員や、中華系マフィア等に潜入する職員は、潜入する際にCT検査される場合が多く、心臓を義体化していれば囮としての役目が果たせないというジレンマの中、決死の覚悟で悪の巣窟に入り込むスパイ任務を担うのだった。

第1章  世界の終りと始まり

「いや、絶対あいつは女じゃない」
「賭けるか。俺は、あいつ男だと思う」
「阿呆。それじゃ賭けに為んないだろうが」

 ESSSの下部組織、E4。
 公的機関でありながら、その存在を殆ど外部に知られることの無い特別組織。
 ESSSとは別の高層ビル、49階部分がE4の根城。
 E4室内では、チーフの五十嵐杏(いがらしあん)をネタに、IT担当の設楽快斗(したらかいと)とITサブ担当の八朔聖都(ほずみせいと)が、持ち込み禁止のスコッチを飲んでいた。
 E4室内にいた他のメンバーは、設楽と八朔の会話についていく素振りを見せようとはしない。
 狙撃担当の倖田祥之(こうだよしゆき)は自前のライフル、ヴィントレスのオーバーホールをしているし、西藤均(さいとうひとし)はソファーベッドに丸くなりながら眠っていた。
 
 そこに、これも自前で持ってきたAK-47を、西藤の頭に照準を合わせるかの如く、へらへらと笑う男がいた。1か月前にERTからスナイパーとしてE4に配属された紗輝斗真(さきとうま)。
 紗輝は、どちらかといえば、皆との接点は薄い。
 
 一見だれたようなE4室内に、不破一翔(ふわかずと)と北斗弓弦(ほくとゆずる)を伴った五十嵐杏が姿を現した。
「誰が女じゃないって?」
 黒い革のライダースジャケットに細身の革のパンツを穿いた杏。他のメンバーも制服などというものには縁がなく、自由な服装をしている。ただし、 このまま任務に出掛けても差し支えのないようなラフな格好。

 杏は無表情のまま、腰に付けているCSAに手を掛ける。設楽と八朔は、口角を上げて二人とも作り笑いを浮かべた。
 もっともらしく、設楽が真面目な表情で応酬する。
「何のことです?」
 杏は、なおも拳銃に手を宛がったまま、微動だにしない。
「お前たちの減らず口が聞こえた気がしてな」
 すると設楽が左手を口元に当てて、くすくすと笑いだした。
「チーフ。空耳でしょう」

 設楽も八朔も、IT担当として警察に勤めているだけなので、心臓までをも義体化したマイクロヒューマノイドではないが、スポットブースターを経由して、脳を電脳化している。
 対して、杏と不破は全身を義体化したマイクロヒューマノイド。

 力の差は歴然としているから、設楽たちは力に任せた取っ組み合いは避けていた。
 北斗は、囮専門に相手方の懐に飛び込むため、全身が生身だ。

 皆が結婚という墓場に足を突っ込んでいるかといえば、それは首を横に振らねばなるまい。
 現代において、人間が生物の一端として子孫を繁栄させたいと思う心は、電脳化している限り、極力発信されないようプログラミングされている。
 一般市民のように、身体も脳も電脳化していない場合のみ、女性の妊娠は為しえることだった。
 ESSSが所在する伊達市でも、女性だけが妊娠し出産するまでの1年近くもの間、満足に動けない状況を作るのは不公平だと、女性たちが市役所前でデモ行進を行っていた。
 E4ではビルの地下に射撃練習場などもあるため、真面目なメンバーがそのデモを聞くことは殆どなかったが。聞いたとしても、チーフの五十嵐杏は、その声に耳を傾けたりしないだろうとメンバーは知っていた。
 女性への蔑視や不公平感など、今の杏には、さして重要ではない。

 杏にとって重要なのは、如何にして与えられたミッションをクリアするか、ただ、それだけだから。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 杏は小さな頃の思い出がない。
 なぜかといえば、杏は、医学研究の為に作られた試用体だった。5歳児として全身義体化された。オペに伴う脳がどこから調達されたのかさえ、杏は知らない。
 その全容を知っているのは、E4室長である剛田勝利だけ。剛田は、5年間研究材料として使われ10歳の時に試用体としてのお役を放免となった杏を、引き取り育てていた。
 しかし剛田は、試用体として作製されたことを杏には知らせていなかった。
 研究材料として自分の身体が使われていることは杏も知っていた。だから極秘というわけではなかったが、話すタイミングが遅れて、現在に至る。
 今、そのことを全て知るメンバーはいない。
 大凡を知っているのは、昔から仲間を組んでいる不破くらいのものだ。
 不破の場合、11歳で交通事故に遭い、両親を亡くした。自分も、唯一傷を受けず残ったのが脳だけだったために、仕方なくマイクロヒューマノイドになった。そして研究所で二人は出逢った。
 2人は経緯こそ違いはあれど、人口に対する割合でいえば圧倒的に少ないマイクロヒューマノイドという形体を、ある種ではあるが、重荷に感じていたのである。
 
 杏や不破のようなマイクロヒューマノイドの場合、身体全体のオーバーホールを6ケ月毎に行っていた。杏は5歳児の試用体として作られたため、脳の部分がどのように成長するのかは未知の領域だったが、脳はオーバーホールの対象外とされていた。それは剛田の心配の種でもあった。
 剛田は敢えて心配する素振りを見せなかったが、脳はオーバーホールが利かない。脳研究の技術者たちは、杏の脳が驚異的な進化を遂げているとして驚嘆していた。
 一般人の場合、使用されている脳の機能は、3分の1程度だという。杏の場合は、そんな経緯も手伝って、使用されていない3分の2を解放しながら、電脳化することで最適化し使っているのだった。

 翌晩もまた、オーバーホールが待っている。
 

 剛田が杏を引き取る際に教えてくれた「魂は肉体に宿り、生命の源として心の働きを司るのに対し、意識は毅然とした自律的な心の働きである」
 その言葉が、杏の心の中で木霊する。
 肉体をもった人の魂は、その肉体にあり続けるうちは本能的に生きるのに対し、意識は、ある種凝り固められたパッシブな生き方であり、必ずしも肉体を伴わない。
 というのが、杏が導き出した答えだった。
 肉体に宿る自分の魂を失うような気がして、杏はオーバーホールが好きではなかった。杏は、知らず知らずのうちに、深く溜息を吐いていたらしい。
 
 その時だった。落ち着いた感じのする香りと、男性の声が聞こえてきた。
「五十嵐。珍しいな、溜息か」
 杏は溜息を吐いたことも忘れ、声のする方向を見た。
「あら、剛田室長」
 剛田室長は、背が高く痩せ細った人物と一緒だった。剛田でさえ175cmの身長であるから、この客人は190cm近い身長であろう。細い眼は、シャープというよりも釣り上がった感じで、お世辞にも美男子ではなく、また愛想の良い顔つきでもない。

 いつもなら右手の人指し指を相手に向け相手の素性を聞くところだが、剛田室長の声色からして、この客はお偉いさんだと杏は当たりをつける。
「みんな、立って」
 しぶしぶと室内の男性陣が立ちあがる。奥のIT室にいた設楽と八朔も出てくる。
 剛田室長と並んで立っていた、先程の痩せた人物が一歩前に出た。
「私は、日本自治国警察府監理官の西條来未(さいじょうくみ)だ。これから私が君たちの間接的な上司となる。剛田室長に連絡のとれない案件は、私に報告するように」
 剛田室長をはじめ、皆が右手を目の高さにあげて敬礼する。
 西條は少しだけ頷くと、踵を返し、剛田室長を従えて自動扉の向こうに姿を消した。

(赴任の挨拶か)

 杏が心の中で一息ついた。
 緊張感もどこへやら、西條監理官と剛田室長がいなくなった瞬間から、また、元いた場所で何やら蠢く烏合の衆。
 設楽は滑舌が良い。噂話も大好きだ。
「お偉いさんねえ、何を今更」
 ERTからやってきた紗輝も、その噂は聞き及んでいるらしい。
「監理官殿か。今度はどのくらい持つのかね」

 噂。
 日本自治国警察府監理官。
 警察府は本来、自治国内閣府のある金沢市に本拠地を置いているが、ESSSとWSSSの内部抗争に頭を痛め、監理官をESSSとWSSSに派遣している。監理官は内部抗争を止めさせるために派遣されるのだが、全くもってその責務を果たさない。
 自分が育った警察府に肩入れする者が殆どで、そのため内部抗争は激化の一途を辿っている。
 というわけで、今回の監理官殿は公平にESSSとWSSSを纏めきれるのか、それが部下たちの噂になるという、如何ともし難い状況なのである。

 メンバーの先頭に立ち、一言も発しないで上司2人を見送った杏が、不意に後ろを向いた。
「設楽、八朔」
「はい」
「お前たち、酒臭いぞ」
 途端に、設楽は左手で口を押え、右手で何かを探している。
 一方の八朔は、右手で上着のポケットからマウススプレーを取り出すと、シュッ、シュッと2回口内に振りかけ、そのまま右手の人差し指と親指でそっとマウススプレーを挟み持ち、設楽の顔面に差し出す。設楽は息をしないようにしながら、自分の右手でマウススプレーを八朔から奪取した。
 設楽がやっと口を開いた。
「ばれましたかね」
 杏は二人の前に移動して、酒臭さを確認した。
「何が」
「さっきの監理官ですよ」
「さあな」
 紗輝がゲラゲラと笑い出した。
「勘づけばビンタくらいとんだかも」
 八朔は、紗輝が赴任して以来あまり親しく言葉を交わしていない。八朔が内弁慶なのもあるが、紗輝は失礼な言動も多かった。今回も、八朔は紗輝の方を見向きもせず、自分の持ち場でもある機器室の方へスタスタと歩いて行った。

 設楽が紗輝を右手で指差して、くるくると回す。
「あーあ、八朔、怒っちゃったよ」
 
 他のメンバーは、紗輝が赴任したばかりということもあり、掛ける言葉を選んでいるようだった。
 そんな中でも、杏の一言は厳しい。
「隠れて酒を飲む小賢しい奴が、何を言われて怒る。皆、自分の持ち場に戻れ」

 その言葉に、メンバーは皆、首を竦めて歩き出した。杏の見えない場所まで行くと、設楽は舌打ちをして悔しがった。八朔はやっと怒りを収めたようで、机に脚を乗せ、椅子に踏ん反り返っていた。
 機器室にいる八朔と設楽は、特段の命令が無いのをいいことに、ゲームに興じ始めた。
 自分たちの耳たぶ部分にあるアクセサリーを強く押し込むと、アクセサリーから電脳線が出てきた。線をゴーグルにつなぎ、VR(仮想世界)に飛ぶとゲーム画面が浮かぶ仕組みだ。VRでどんな世界に飛べるのか。
 そこに浮かぶのは、20世紀の穏やかな地球だった。


 今の日本では、一般市民は通常1か所も電脳化していないが、先の内閣府は、彼等への電脳化を進めようと画策していた。
 電脳化すれば、その脳内を、ある程度把握できるようになる。脳内を把握することによって、異分子を炙り出すことこそが、前内閣府長官である安室玲人(あむろれいじ)の腹積もりであった。
 現内閣府長官の壬生雅東(みぶまさとう)も、同じ路線を継承していた。安室と壬生は、現自治国政府のトップである、時の総理大臣、春日井理(かすがいおさむ)に勝る権力をその手に握っていた。

 無論、一般市民の電脳化は、一朝一夕に進められる計画ではない。
 現在、電脳化は、国家公務員と地方公務員、並びに、それに準じた職業にしか適用されていない。
 警察関係者は言わずもがな、学校の教師ですら公務員というだけで電脳化している。電脳化することで、モンスターペアレンツに対抗できるのかどうかはわからないが、暴力に走りそうな生徒を見極めることには役立っているのだという。

 現代において、脳を電脳化した場合の多くは、非子孫繁栄プログラムと言われる人間の本能を圧抑するようプログラミングされているが、一方で、そのプログラムをそのまま一般市民に適用させれば、必然的に少子化に拍車が掛かる。少子化問題をクリアしつつ電脳化を推進するためには、電脳化と非子孫繁栄プログラムを分けて試用させる必要があった。
 その試用体として、内閣府付属の研究機関では、秘密裏に杏のような試験管ベイビーを誕生させるとともに、刑務所に服役する軽事例犯、例えば、窃盗や売春、買春などの罪に問われた、サイコパス的要素を持ち得ない人間たちをモルモットとして選定していたのである。
 その計画については、内閣府の上層部及び研究機関の職員のみぞ知り得る、第1級の機密事項だった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 E4では、パワーアニマルと呼ばれる動物形体の試用機を、ミッションクリア用の補助として与えられていた。
 E4には二種類のパワーアニマルが配属されている。
 てんとう虫の形をした「レディバグ」が5機、カブトムシの形をした「レディビートル」が5機。バグは主に守備補助、ビートルは攻撃補助を担う。
 試用機たちは、正確にはオリジナルビーストリィと呼ばれ、内閣府の研究機関から借り受けている。この研究も、猿の脳を機械に嵌めこんで電脳化しているという噂もあるくらいで、アニマルたちは人間が教えないにも関わらず、人間たちの言葉を習得している。体色変化を得意とし、電脳化することで背景の色に溶け込むため、その姿を見つけるのが難しい其の体は、戦闘モードに入ると同時に、周囲の色と同化する。
 まるでカメレオンのような形体になるため、通称「カメレオン部隊」と呼ばれるくらいだ。

 北斗は、囮捜査のない日、カメレオン部隊の遊び相手と称するテストを繰り返しながら、設楽と八朔がチューンナップを担当していた。
 設楽がテストケースのサンプルをデータベースに入力する。八朔が、地下一階の機器室から、地下二階のテスト室にマイクを使って呼びかける。
「おい北斗、バグの3号機、オイル注しててくれよ。羽根部分から異音がする」
「了解」
 北斗は、自分たちの寝床目掛けて一斉に入ろうとするレディバグの所に走っていく。
「バグ!オイルオイル」
 すると、レディバグの5機が一斉に北斗の方に向き直った。1機のバグが器用に足を前後左右に動かし、北斗の前にやってきた。それにつられて、残りの4機も動き出す。
「ホクト、ナニ?」
 その一言を皮切りに、全機のバグが騒ぎ出した。
「ホクトハ、ヒマナンダネ」
「デモソノブン、コワイシゴトナンダヨネ」
「ボクラハオウエンデキナイデショウ」
「ソウダ!ホクト!キエルマホウヲカケレバイインジャナイ?」
「ボクタチハ、シュウイノイロニドウカスルヨ」
「ソレナラ、ホクトノヤクニタツカモシレナイヨ」

 北斗は普段、笑わない。囮捜査をするときは笑顔を見せないようにしているので、その延長線上で、人間を前にすると身体や表情が慣れてしまっている。
 だが、バグやビートルと遊んでいる時の北斗は、いつも笑顔だ。
「ほら、3号機、前に出ろ」
「ハーイ」
 3号機が一歩前に出た。その羽根部分にオイルを注すと、それまでミシミシと聞こえていた羽根部分の音が止んだ。
「ホクト、アリガトウ」
「どういたしまして」
「ジャアネ、オヤスミ、ホクト」
「お休み」
「オヤスミー」

 バグたちがまた、寝床目掛けて一斉に動き出す。さながら、まるで椅子取りゲームだ。
 10機は一つの部屋にギュウギュウ詰めになりながら、椅子取りゲームを楽しむかのように部屋の奥を目指し入り込もうとしている。
 部屋に入ったことを確認し、設楽がカメレオン部隊の電脳化を解き放った。
 バグやビートルたちは、つかの間の休息に入った。

第2章  日本自治国総電脳化計画

 翌日、剛田室長は金沢市にある内閣府で非公式に開催された、日本自治国総電脳化計画のカンファレンスに出席していた。
 その結果を受けて、部下に報告及び素案をもって行動を指示することにしていたのである。
 室長到着の時間が近づいたE4は、ミーティングの準備に入る。
 自治国軍が所有するオスプレイで伊達市に戻ると剛田室長から連絡があったからだ。
 同時間帯、日本自治国警察府会議のためWSSSに飛んでいた杏と不破も、ESSSに戻るべく、別のオスプレイに乗り込んでいた。
 杏、不破、共に夕方から身体のオーバーホールが待っている。


 剛田室長はESSSに戻ると、すぐに庁内のミーティング室へと足を向けた。
 杏と不破が戻るまで、剛田室長は椅子に座ったまま一言も話さず珈琲を飲んでいた。そこに、悠々と現れた、杏、不破両名。
「遅かったな」
 剛田室長が2人を下から見上げ、不機嫌そうな声を出す。
「あら、これでもマックスのスピードで来たんだけど」
「ま、いい」
 剛田室長は、1度だけ、深く溜息を吐いた。
 杏は壁に寄りかかったまま、腰に付けたピストルを取り出すと、ぐるぐると回して遊びながら、顔だけ徐に剛田室長の方を向いた。
「で、室長。そのくらい重要な機密って、何?」
 剛田室長が、杏に手招きをする。あまり大きな声で話したくないらしい。ひとり、もうひとりと、皆が剛田室長を取り囲むように席を立つ。
「内密の話だ。くれぐれも、洩らすな」
 メンバーも、少し緊張した面持ちで剛田室長の言葉を待つ。

「話題に上っているのは、日本自治国総電脳化計画だ」

 皆が一瞬、目を丸くした。
「室長、それって」
 一番初めに言葉を発したのは八朔だった。
「一般市民も総電脳化する、ってことですか」
「そうだ」
「今更なんのメリットがあるっていうんです?」
 あからさまに、馬鹿馬鹿しいという表情をする八朔。剛田室長の前でも本心を隠さない。
 それに比べ、北斗はいつもどおりのポーカーフェイスで呟いた。
「総電脳化すれば、少子化問題に拍車が掛かることくらい、小さな子どもでも解りそうなものですが」
 剛田室長は目を瞑り、一言だけ皆に告げた。
「そうだな、北斗。これには絡繰りがあってな。半島から移民を受け入れる作戦が内閣府内部で進行しつつある」

 これには皆が驚いたようで、いち早く設楽が素っ頓狂な声を上げた。
「何だそりゃ。国民が許しませんよ、そんなこと」
 西藤も右手を左右に激しく振りながら、設楽に同調する。
「今迄日本は世界中で唯一移民を受け入れていない自治国ですけどね。だからといって半島のために総電脳化するなんて、国民が納得するわけないでしょう」

 半島とは、第3次世界大戦で疲弊した朝鮮半島における居住民たちだった。ここには地球温暖化で国そのものを失った東南アジアの国々や大戦後行き場を失ったイスラム教国家、果ては天災による被害を受けたゲルマン民族や漢民族など、ありとあらゆる民族がひしめき合う様に暮らしていた。先住民族は、今や数えるほどしか残っていない。
 それらの居住民が日本に押し寄せるとなれば、国民の居住区は今以上に限られてくる。また、治安の悪化やテロ組織の流入も心配の種になる。これから先、日本自治国内にて少子化が進行するとあっては、移民の数は夥しいものとなり、日本という国は時を待たずして、破綻してしまうだろう。

 チームメンバーが固唾を飲んで見守る中、剛田室長はまだ目を開けなかった。
 漸く開いたその眼差しは、作戦とやらに否定的な感情を抱いているのがメンバーたちにも分った。
「何、作戦が実行されるのは何年か先だ。総電脳化に当たっては昔から市民団体の反対運動も盛んだしな。ただ・・・」
「ただ?」
 杏が剛田室長に聞き返す。
「移住期限が設けられているとしたら、強制的にでも電脳化するかもしれない」
 八朔が目を大きく見開いて、皆の後ろから剛田室長の前に躍り出た。
「ケツから逆算するってことですか」
 剛田室長は深く頷いた。
「この話を推進しているのは、安室玲人前内閣府長官及び壬生雅東現内閣府長官だ。彼らなら、本当にやりかねない。そのための準備を進めているという話も聞こえている」
「それにしたって」

 何も言わずに剛田室長の話を聞いていた倖田と不破、そして紗輝の3人は、ふうっと深呼吸するように溜息を吐いた。話のテンポについていけないのか、はたまたどちらとも言えない感情が胸の中にあるのか、3人とも口を開こうとはしない。
 そんな3人を、設楽が茶化す。
「俺達は電脳化してるから構わないとして、どうよ?5千万総電脳化して移民を流入させるってよ」
 
 不破がやっと口を開いた。
「時期尚早でしょう、どう見ても」
 そしてそのまま、再び口をつぐんだ。倖田と紗輝は、不破の意見に同調したと見える。目がそれを物語っている。ほんの少し、首を縦に振ったかと思うと、2人はその場を離れ、近くの椅子に座りこんでしまった。
 杏は、そんなメンバーたちを尻目に、テーブルに両手をついて剛田室長に問いかけた。
「内閣府で反対派はいないの?」
 剛田室長は、大きく首を横に振る。
「総理は賛成していない。その総理でさえ口出しできないでいる。薄い望みがあるとすれば、何らかの理由で内閣府の人事が一新されることだけだろうな」
 杏が口元をにこやかに上げて、ピストルを腰に仕舞い込んだ。
「その二人が何かの事件で弾劾されるか、若しくは、暗殺」

「おいおい、物騒だな、そりゃ」
 お喋りの設楽が杏の方に顔を向け、意地悪そうな表情を浮かべる。

 今日も設楽を無視している杏。
「総理の腹積もり次第でしょ。E4は総理の直轄組織だもの」
 直接行動に関わらない設楽は、執拗に質問する癖がある。杏にとっては、何より忌み嫌うべき行動である。
 設楽にしてみれば、噂話の一環だが、杏は噂話そのものに興味はない。故に、かなりの確率で設楽の問いかけを無視していた。
 今日もそうだった。設楽は一人ツッコミ一人ボケの準備がある。
「まあ、命令があれば暗殺も、ってことか」

 設楽を一瞬見た杏は、次の瞬間設楽に背を向けると、あらためて剛田室長に問いかけた。
「それがこの国における正義であれば、ね。ところで室長、暗殺が真実味を帯びてきたとして、E4はじめ、警察府にお咎めが来ないの?」
「総理の決断なら、当然マスコミを操作するさ」
 
 設楽はヒューッと口笛を鳴らす。
「そういう筋書きでしたか、これもケツから逆算して行われるんでしょ」
 剛田室長は勿論だと言わんばかりに設楽のいる方に顔を向けた。
「逆算するとなれば、ここ1~2か月の間に動かねばならん。総理の決断さえあれば、E4とW4に命が下るだろう」
 知りたがりの設楽と八朔は、また身を乗り出して剛田室長に近づいた。
「W4?向こうに凄腕のスナイパーなんていましたっけ」
「またお前たちのさるかに合戦が始まったな。向こうにだって優秀なスナイパーはいるさ。暗殺主体が複数の場合、同時に動かねば前長官、或いは現長官の傀儡が長官になる恐れだってある」

 剛田室長は、椅子に座っている倖田と紗輝の方に向き直り、一歩踏み出した。
「最後の瞬間は、お前たちに任せることになる。よろしく頼む」
 倖田と紗輝は小さく頷くだけだった。

 言葉を聞いた杏が、右手で剛田室長の背中をコンコンと優しく叩いた。
「で、あたしたちは何をどうすればいいのかしら」
 不破や西藤も再び剛田室長を取り囲むように移動した。不破の1オクターブ低い色気のある声が室内に響く。
「北斗は?今回出番あるんですか」
「今のところ考えていない。一番、一般人に近いからな」
「スナイパー主体となれば、倖田と紗輝だけに任せるんですか」
「いや」

 剛田室長はこれからのスケジュールを指示するといって、また皆を呼び寄せ、自分は椅子に腰かけた。
「皆、電脳を繋げ」
 各々が、耳たぶ部分についているアクセサリーを1回、強く押した。イヤホン型の線がアクセサリーから伸びる。その線を耳の鼓膜に押し当てるという、初期型の電脳線。現在では小脳を弄り電脳線を小脳に繋ぐパターンも多く存在していたが、E4の連中は、初期型で何ら問題なく職務をこなしているので、新規型に変えたいという申し出は誰からも無かった。

 各自が離れている時、また、何らかの事情で電脳を繋げない場合には、左右どちらかの腕を義体化し、ダイレクトメモと呼ばれる方法で連絡を取り合う。時計にインプットされた通信線を経由し、時計右端のボタンを1回押すことで通信が可能になる。同じように、脳内に囁きかけるという趣旨の機器だった。

 今日は皆が一堂に会し、尚且つダイレクトメモのオーバーホールを受けていない剛田室長がいるため、アクセサリを介して電脳を繋ぐ方法をとった。スクランブルをかけているので、他人に聞かれる心配はない。それはダイレクトメモも同じなのだが。
 杏にしてみれば、ダイレクトメモだけは設楽や八朔にも義体化を進めて欲しいところだった。

 そんなことを杏が考えていると、剛田室長が伝える言葉が、鼓膜を経由して皆の脳内に取り込まれていく。

(作戦についてだが、基本的に2人ずつ指示を与えるので聞き漏らすな)
 皆がコクリと頷く。

 剛田室長の指示がメンバーたちに飛ぶ。
 まず、設楽と八朔は今回、E4室内にて情報収集に当たることとされた。方法は、古来から使い古されているハッキング。
 ハッキング先は、内閣府と警察府。ハッキングする際には米国CIAの協力を得て、ハッキング元が何処だかわからないようにするのは常識中の常識である。

 設楽と八朔が同時に、春日井総理及び安室前内閣府長官並びに壬生現内閣府長官のスケジュールデータを盗むことが真の目的だと剛田室長は語気を荒げる。
 そして、素早くリアルデータをチョイスすることが求められる。
 ただし、スケジュールだけでは長官たちの警護が厳しくなることが予想されるため、そこらへんの些末なデータもチョイスせよ、という指示だった。
 それに対し、設楽のお喋りは留まる所を知らない。食い入るように剛田室長の目を見ている。

(なんでまた警察府なんですか)
(まあ聞け)

 内閣府のサーバーから、安室前内閣府長官及び壬生現内閣府長官のスケジュールを管理しているデータを盗むのが真の目的ではあるが、警察府に内閣府のスパイがいないとも限らない。
 また、両方同時にアタックすることで、内閣府に一種の安心を齎すことができるかもしれない。
 内閣府だけにアタックすれば、現内閣府長官のスケジュールが盗まれたことを知ったとしても、先方は何が目的か直ぐに気付いてしまうだろう。警察府長官のデータも同じように盗み、できるだけ攪乱させることが必要だ、というと、剛田室長は一息ついた。
 設楽は及び腰だ。
(上手くいきますかね)
(上手くやれ。それしか今は言えない)
(はいはい、了解です)
(内閣府はまだしも、警察府のサーバー覗くのって大変なんだよな)
(CIAの協力があるだろう。ぶつくさいわず、給料分の仕事をしろ)
(わかりましたー)

 剛田室長が次に命令を下すのは杏と不破だった。
(五十嵐、不破)
(はい)

 杏と不破に与えられたのは、レディバグとレディビートルを伴って安室前内閣府長官及び壬生現内閣府長官の居宅に向かい、内部を調査するという任務だった。
 長官たちのスケジュールが合わない場合、各居宅において暗殺を実行するという。
 
 だが、内閣府の長官ともなれば、SPやオリジナルビーストリィ、或いはマイクロヒューマノイドも存在するであろうことを杏も不破も知っている。居宅内に侵入し、間取りその他生活様式を隅々まで調査することは、至難の技になる。
 E4で使用されているレディバクやレディビートルたちは、カメレオン部隊として居宅に侵入も可能だが、今回の任務に向いているかといえば、答えはNOだった。

(あたしもカメレオンになれればいいのに)
(まあ、そう急くな)
(他に何かいい手があるかしら)
(お前、今晩オーバーホールがあるだろう)
(そこでカメレオン化してくれる?)
(研究所で、今迄研究させていた成果がでるらしいぞ)
(じゃ、不破も一緒に、ってことね)
(北斗と設楽、八朔と俺を除いた5人は、今晩8時から義体化とカメレオン化のオーバーホールを行う)

 そこに割って入ったのが紗輝だった。
(室長。ERTでは皆カメレオン化してますが、俺、それが嫌でこっちに回してもらったんですけど)
(じゃあ、どうやって相手に知られないで行動する)
(マジすか)
(お前が考える以上にE4は過酷だぞ。それが嫌ならERTに戻れ)
(半分喧嘩別れした部署になんか、戻れませんよ)
(なら、オーバーホールしろ)

 嫌そうに顔を歪めてそっぽを向く紗輝を除き、メンバーへの指示は続く。
 倖田と紗輝は、スケジュール先及び居宅周辺を網羅して、長官たちの暗殺場所を特定する役割を与えられた。
 紗輝はそれでも返事をしない。よほどオーバーホールがお気に召さなかったらしい。
 倖田は、普段から無口なので返事をしなくても差し障りが無い。少し頷いただけで、OKしたと判断できる。

 西藤は軍隊出身なので腕っぷしが強い。それを活かして、杏と不破の後方支援に回ることとされた。
(よろしくね、西藤。あたし非力だから)

 剛田室長が呆れたように言い放つ。
(何を言ってる、五十嵐。お前が一番、力が強いじゃないか)
(マイクロヒューマノイドだから、仕方ないの)
(五十嵐、これ以上ふざけないでくれ)

 剛田室長は、再度呆れたように口をへの字にしながら杏の方を睨む。
 他のメンバーも苦笑するしかない。何故なら、メンバーが本当のことを言えば、あとで杏に何をされるかわかったものではないからだ。

 皆にもう一度役割分担を確認すると、剛田室長は低く、一言だけ発した。

(皆、慎重に頼むぞ)

 皆が電脳線を外すと、早速設楽と八朔がIT室にのろのろと足取りも重く入ったかと思うと、そのまま篭った。
 他のメンバーは、今晩のオーバーホールまでお役御免と相成った。紗輝は面白くなかったのだろう。席を外したまま、待てど暮らせど戻ってこない。
 紗輝が研究機関に出向かない可能性があるため、見張り番として西藤を送ろうかと剛田室長が嘯く。
「今晩、紗輝が向こうに行かなかったら連絡を寄越せ。仕事を舐めている奴は元の部署に戻す。E4には必要ない」
「室長ったら、今日はやけに厳しいのね」

 何故か、杏は剛田室長の前では女性らしい話し方をする。剛田室長がいなくなると、途端に男と見間違えるように話すというのに。
 チーフという役目を全うするからこその男言葉なのか、それとも剛田室長に甘えての女言葉なのか、その違いは明確ではない。真意も明らかではなかった。
 
「さて、我々はどこで時間を潰そうかしら」
「遊んでいいとは言ってないぞ」
「あら、そう。じゃ、バグとビートルの点検にでも行きましょうか」
 そこに不破が賛同した。
 倖田は、自席に戻り相変わらずヴィントレスのオーバーホールに余念がない。紗輝もこれくらい真面目だったらいいのにと剛田室長は歯ぎしりしていた。
「まったく。使えないやつをくれといった覚えはないんだが」
「スナイパーなんて、仕事してナンボの世界でしょ」
「意識共有できないやつは好かん」
「そういえば、北斗は?」
「バグたちのところに行った。あいつは真面目だからな。一番大変な仕事をしているのに、文句の一つも言わん」
「囮として相手の懐に入り込むのは本当に大変よね」
 杏の言葉に、不破も頷きながらバグたちに注す油を探していた。どうやら北斗が持って行ったらしく、所定の場所には置いていなかった。
 不破が杏の肩をポンポンと叩く。
「じゃあ、俺達も行きますか。今頃バグたちに遊ばれてますよ、あいつ」
 不破の方に向き直り相槌を打ちながら、顔だけは西藤の方を向いている杏。
「そうね。西藤。貴方は時間になったら機関の方に出向いて。紗輝の姿だけは捜してちょうだい」
「了解」
 西藤の低い声を背に、杏と不破は、連れ立ってバグとビートルたちが眠っている地下に向かって歩き出した。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・◇
 

「ア、アンダ」
「フワモイッショダ」
「ドウシタノ、フタリデ」
 バグとビートルが杏と不破の方に走るようにやってきた。
 大好物のオイルを持っていないか前から後ろから、ぐるぐると見回す。オイルは、先程北斗が持ってきていたはずだ。
「オミヤゲナイノ?」
 不破がビートルの角を撫でながら頭を掻く。
「部屋になかったんだ。北斗が持って来てないか?」
「ソウイエバ、サッキホクトガキタヨ」
「バグノ3ゴウキガチョウシワルイミタイ」
 ビートルたちは、杏と不破の周囲を踊りながら回る。
「ボクタチハシヨウタイデショ?モシコワレタラココニハイラレナイノ?」
 杏はビートルの角をもう一度撫でた。
「壊れないように修理する。安心しろ」

 実際には、試用体を借用している限り、壊れれば研究機関に返すことになる。
 だが杏には、そこまで厳しくする気にはなれなかった。こいつらもオーバーホールさえできれば返す必要などないのだ、と。
 杏自身、自分がマイクロヒューマノイドとして小さな頃から生きてきた。当然、オーバーホールも数えきれないほど受けてきた。それが杏の唯一のコンプレックスでもある。
 同じ境遇とまではいかなくとも、バグたちを、何とかして助けたい気持ちが強かった。

 一番技術的に高度な腕を持っているのは設楽だ。お喋りさえ過ぎなければ、ヤツは優秀な技術者だなと、迂闊にも独り言を吐いたらしい。
 1台のバグが目を瞬かせて杏のことを見ていたが、不破はそれに反応するでもなく、ビートルやバグたちの相手をして遊んでいた。

 杏は北斗を探した。
 バグとビートルが遊ぶこの空間には姿が見えない。杏は、歩みを進め、バグたちの寝床に近づいた。
 何やら、どこからか掃除機のようなモーター音が聞こえてきた。バグたちの寝床に近づくにつれ、モーター音は大きくなる。
 バグたちの寝床を覗くと、北斗が中を掃除していたのだった。
 杏は北斗の後ろから、モーター音に掻き消されないように、大声で話しかけた。
「北斗、こんなところで何をしていた」
 北斗が掃除機のスイッチを切って杏に向き直る。
「チーフ。いやあ、中を見たら埃が溜まってて。バグの3号機が調子悪いのも、このせいかなと思って」
「何もお前の仕事じゃないだろうに」
「うちの掃除メカたちは、四角いところを丸く掃くようにインプットされてるような気がするんですよ」
「いえてるな」
「あとはビートルの寝床を掃除すれば終わりなんで」
「そうか。では、今日のところはお前に任せよう。設楽と八朔に言って、掃除メカたちの資質を改善してもらうことにするから、お前は無理するな」
「ありがとうございます」
「ところで北斗、バグたち用のオイルを知らないか」
「ああ、機材室の棚の中に仕舞ってあります。バグたちに見せたら取り合いになって、そこら中に振り撒いてしまうから」
「了解。皆オイルをご所望のようでな。そっちは私と不破が担当しよう」
「すみません、助かります」
「ここはお前の担当箇所じゃないんだ、謝るな」
「俺は生身故に戦闘には加わりませんから、皆のように激しい任務はないですからね」
「お前は根っから真面目な奴だな。生身故の過酷な任務だってあるだろうに」
「皆に比べれば、大したことないですよ」
 北斗は微笑んで、また掃除機のスイッチを入れ、今度はビートルたちの寝床へ向かった。

 実際には、北斗の任務が一番過酷である。
 生身のまま潜入、内偵捜査する役目を担っている北斗。囮となって敵に近づき、証拠を手に入れたり盗み出したりとスパイの役目を果たす。それは時に、命の危険さえ生じる恐れすらある。
 北斗自身、ハードな任務であるのは百も承知だろう。内偵捜査する場合、義体化していると公務系の仕事に就いているのがバレバレになるため、北斗は全身生身のままだ。電脳経由の会話もできない。だから、身体面も心理面もタフでなければならない。
 だが北斗は、辛いしんどいと音を上げたことがない。
 だからこそ、剛田室長も杏も、北斗を信頼している。

 杏から言わせれば、今日のこの掃除だって、設楽や八朔が地下二階に降りて現状を把握し掃除メカの性能をあげておけばいい話である。他の者は、設楽たちに声掛けさえすれば済む話なのだ。
 設楽と八朔は、基本的に腕はいいのに、どこか間が抜けている時がある。業務内に酒を飲み遊んでいることもしばしば。
 杏にしてみれば、剛田室長の了解さえもらえれば、彼らの脳内を掃除したくなることすらある。あるいは、フルバージョンでマイクロヒューマノイドの義体化を進めたいくらいだ。マイクロヒューマノイドになれば、過度の飲食を抑えられる。マイクロヒューマノイドに必要な飲食は、日に一度のドリンク剤だけである。
 妄想気味に杏が思い耽っていると、いつの間にか足音も無く不破が近くにやってきていた。
「チーフ。口元上がってますよ。また設楽と八朔のマシーン化、考えてたんでしょう」
 杏は目を丸くする。そしてふっと笑った。
「よくわかったな。あいつら、腕はいいのにチャラチャラし過ぎてる。マイクロヒューマノイドにでもなれば、酒も飲まないし食事も1度で済むだろう?」
「確かに。腕はいいですからね、全身義体化できたら室長も喜びますね」
「お前もなかなか言うじゃないか、不破」
「内緒ですよ、チーフ」

 バグとビートルに油を注し終えた不破と杏は、掃除をしている北斗を遠くから眺めながら、ジャンプし1階に上がることで、その足取りを地下から消した。

 
 午後8時。
 内閣府の研究機関である国立科学研究所。
 研究所では、複数のスタッフがのんびりと廊下を歩いていた。ここのスタッフは、全員がマイクロヒューマノイドである。
 杏も、力が発揮できなかったら、ここから放り出されていたかもしれない。
 なまじ腕力や筋力の数値が幼少の頃から抜きん出ていたために、5歳から10歳までをこの研究所で生活する羽目になった。
 お役御免とはいえ、6ケ月ごとのオーバーホールは欠かしたことがなかったが。

 杏と不破が研究所に着くと、倖田と西藤の顔が見えた。紗輝の姿は、まだ見当たらない。本当に来ないのなら、剛田室長のことだ、明日付で異動書にサインすることだろう。
 剛田室長を甘く見てはいけない。
 E4では、こういった人通りの多い場所でのやりとりは主にダイレクトメモを使用することにしていた。電脳線が見えると一般人ではないことが瞬く間に露呈するからである。

 杏は時計のボタンを押してダイレクトメモを使い、倖田と西藤に目線を向ける。
(倖田、西藤。お前たち、紗輝を見なかったか)
 西藤が首を横に振りながら杏の方を見た。
(いえ、チーフ。昼に部屋を出て以来、顔はみてません)
 倖田も話に交じってくる。
(カメレオン化がそんなに嫌なんすかね)
 杏は、苦々しいといった顔で首を竦める。
(ERTではやりたい放題にしていたようだが、E4は違う。今夜来なければ辞令が出るぞ)
 西藤が時計を見た。とっくに集合時間は過ぎている。
(チーフ、連絡してみましょうか)
 杏は軽く頷いた。
 西藤が、時計の右端ボタンを押す。
(こちら西藤。紗輝、聞こえるか)
 応答はない。
 杏の業腹は限界を超えつつあった。自分の時計をポケットから出し、右端のボタンに手を掛ける。
(紗輝、五十嵐だ。あと10分待つ。それで来なければクビだ。仕事を舐めるな)

 オーバーホール室は、研究所2階にある。
 杏たち4人は目の前にあるエレベーターに見向きもせず、ロビーの端まで行くと階段を使って2階に上がる。
 杏と不破は、並んで歩いていた。
(畜生が。来たとしても腕1本へし折ってやる)
(まあまあ、チーフ。そう怒らないで。利き手を折れば使い物にならなくなる。もう一本の腕は生身だから、折ったら傷害罪に問われる)
(構うものか)
(そんなこと言って。ここで暴れたら粉砕されますよ)

 怒り心頭に発しかねない杏を宥めつつ、不破は、とあるドアの取っ手に手を掛ける。ガラスで仕切られた室内には、スタッフが5人、待機していた。
「E4です。よろしくお願いします」
 スタッフは室内に入った4人の身分証明書をカードリーダーで読み込むと、各自の顔と一致させていく。
 一致させた順番でだろうか、それとも初めから順番が決まっていたのか、スタッフから先に名前を呼ばれたのは不破だった。

 不破のオーバーホールが始まった。
 通常、マイクロヒューマノイドの場合、身体全体に聴診器のように磁気を当て、パーツの力が弱まっていれば、そのパーツを交換する、という単純な作業工程が組まれている。
 一方で、スポットブースターと呼ばれるパワー増幅器に磁気を当てることで新しいパーツに力を吹き込み、己の能力を上げていくという方法が採られている。
 研究チームのスタッフによって、不破はスモックに着せ替えられ、十字架に磔にされたような格好になり、パーツ交換を待っていた。
 カメレオン化のオーバーホールがどんなものか、杏や不破でさえお目にかかったことは無い。
 通常のオーバーホールに何かを組み合わせて行うのだろうか。

 その予想は、半分だけ合致していた。
 研究チームのスタッフが、2人がかりで違う色のパワー増幅器のような機器を運んできた。
 杏も不破も目にしたことが無い機器だった。
 カメレオン化するためのパワー増幅器だというスタッフの言葉が示すように、機器の色は心なしか虹色に光っていた。
 通常のパーツ交換のようにパーツに磁気を当て、カメレオン化の能力を吹き込んでいく。
 今回は全てのパーツを交換するため、いつもよりスタッフの数も多い。時間も労力も2倍というわけであろう。

 不破のオーバーホールを廊下脇で見ていた杏は、しばしば玄関口の方に目をやっていた。
 杏の時計で、最後通牒の連絡をしてから8分。
 あと2分は約束通り待つつもりでいたが、杏はお人好しではない。ことビジネスに関しては、遅れるという選択肢は杏の中には無い。遅れたことに対する言い訳も一切聞かない。

 あと1分。
 あと30秒。

 不破のオーバーホールが終わり、磔状態から元に戻ったちょうどその時。
 残り5秒。

 玄関口に紗輝の姿が見えた。
 口笛を吹きながらエレベーターに乗り込む。階段の方が早いし研究室内に近いというのに。
 またも杏は切れかかったが、ここは研究所。ESSSのように暴れていい場所ではない。
 そうはいっても、一言いわねば気が済まない。
 オーバーホール室の前に来た紗輝に、杏からの強烈なパワハラ節が飛ぶ。

(殿様出勤だな)

 パワハラもなんのその。紗輝は上手くかわす。
(10分以内に着きましたよ、ご命令のとおり)
(あと5秒遅ければ、貴様の腕1本を室長に見せられたんだがな)
(5秒あれば楽勝ですよ)

 暖簾に腕押しの紗輝を見て、杏はなんだか馬鹿らしい気分に襲われてきた。パワハラして何になる。

(これから西藤がオーバーホールに入る。心臓くらいは倖田のように義体化したらどうだ?)
(それ、業務命令ですか?)
(まさか。貴様の身体を心配しての老婆心というやつだ)
(それなら、お断りします。人間が人間たる所以は、この生身の身体に凝縮されてますからね)
(私と不破に対する嫌味か)
(滅相もない。持論なだけです)

 杏は紗輝から目を逸らし、西藤のオーバーホールの様子を見つめた。
 不破のそれとは違い、義体化している部分はパーツ交換をするものの、義体化していない生身の部分については、特殊デバイスを駆使した結果、戦闘モード状態で身体が消えるようプログラムされた薄い膜が身体を包み込むというものだった。
 不破のオーバーホール時には見もしなかったが、そういえば、杏も不破も脳部分だけは手を付けない。杏は、カメレオン化する場合には既存の義体化した部分からパーツごとにカメレオン化する特殊デバイスを持ってくるのかと思っていたが、研究の進んだ今日、義体化していなくてもデバイスだけでカメレオン化できるという、単純でありながら世界の先端を行くオーバーホール方法が出来上がっていたことに、杏は感嘆の溜息を洩らす。
 先程の話だと、紗輝は義体化することへの拒絶感が犇いていた。これなら紗輝も文句があるまい。

 デバイスをオンにするためには、いくつかの方法があった。
 ひとつには、電脳経由で室長、あるいはチーフ等、プログラムに組み込んだ指揮系統から命令があった場合。その場合はオートロックが自動的に解除され、即座にカメレオンモードになる。
 もうひとつは、自己判断でカメレオン化する場合。時計の左端を2回押すと、カメレオンモードに移行する仕組みだった。

 西藤は利き手の右腕と心臓、両足と両目を義体化している。軍隊時代、軍主導の上、強制的に義体化したものだというが、今の任務では都合がいいという。
 目は濃い色のサングラスをかければ殆どわからない。なんでも、遠くの敵を見極めるに当たり、小隊全員が義体化の憂き目にあったのだという。
 だが、両足は敵を追いかける際、疲弊することが無い。消耗品ではあったが。利き手の義体化はE4に属する限り、この上なく便利である。
 武器が無くても素手で戦える要素が西藤には揃っていた。

 西藤のオーバーホールが終わると、次は倖田の名が呼ばれた。
 倖田は、利き手の右腕と利き目の左目、あとは心臓を義体化している。
 以前は利き目を義体化していなかったが、ライフル射撃の細かい作業は目を酷使するため、少しでもピントがずれると任務にならないのだという。
 ゆえに、義体化を決意したと聞く。
 心臓も任務に不可欠なためかと思いきや、心臓の場合はある種の安心感を得るために義体化していた。
 本人曰く、以前は蚤の心臓だったとか。あの太く大きな声からは、想像もつかない。
 
 次に研究室に入ったのは紗輝だった。
 杏のオーバーホールは、女性の身体ということも手伝って、最後に回されていた。
 紗輝は、利き手の右腕のみ義体化していた。
 先程の会話からもわかるように、基本的に義体化を好まない紗輝は、できることなら一般人に戻り、幸せに結婚したいと願っているようだった。
 右腕を切り落とし電脳事実を隠しておきさえすれば、一般人になれると思って疑わないようだった。小脳を弄らなければ電脳化もばれないと思っているのである。

 全身義体化し電脳化している杏からすれば、考え付きもしないことである。

 男性たちのオーバーホールが終わり、4人は杏に挨拶をすると研究所を出て自宅に帰っていった。
 杏のオーバーホールは、皆が帰った夜半に女性スタッフだけで行うこととされていたようだ。
 身体を酷使している杏の場合、一度に全ての部位を交換している。
 杏自身は身体の酷使だと思っていたが、それは試用体としての杏だからこそで、全てを交換しないと、どこかが急にバーストするのではないかという剛田の心配な思いを払拭するための願いでもあった。

 魂の宿った肉体が一度に無くなることで、自分が消滅したような感傷に浸る杏がいた。紗輝が義体化することに拘りを持っているのが何となく理解できるような気がする。
 それは一般人に限らず、マイクロヒューマノイドでも同じことだった
 杏にしてみれば、意識はどこへと限りなく飛んでいくものの、パッシブなものでしかないと思っている。
 自分の生い立ちを思い出せない杏にとって、誰にも相談できず、剛田にすら哀しみを打ち明けられない現状は、辛いとまではいかなくても、心にぽっかりと穴が開くような、そんな気分になっていた。


 5人のオーバーホールが終わった翌日から、前内閣府安室長官と、現内閣府壬生長官の居宅へ侵入する策戦に入るE4。
 設楽と八朔は、きちんと仕事分の業務をこなしていたようである。
 今日もまた電脳経由でミーティングが行われる。
 剛田室長を中心とし、周囲を囲むメンバー。北斗だけは輪の中から抜けて、地下のバグやビートルの世話をしに行った。
 剛田室長の低い声が皆の鼓膜に響く。

(設楽、どうだ、スケジュールの方は)
(ここ2か月で拾ってみました。午前10時からの議会出席が延べ20日間。議会終了後は、其々別の時期にロシアやアイスランドに行く予定です。期間は延べ2週間。それから、外国からの賓客を招いてパーティーを開いたり、会談を行う日が延べ1週間。あと、選挙の地元に戻って後援会とのミーティングで延べ1週間。地元では精力的に動くイメージあったけど、そうでもないかな。それでも結構ハードスケジュールですね)
 剛田室長と設楽の会話が続く。
(議会の時は無理だな)
(傍聴席に座るとしても、何も持ち込めません)
(国外に行くのは、最終手段か)
(行くったって、飛行機には武器持ち込めないでしょう)
(オスプレイがあるだろう。お前の運転でな)
(捕まったら向こうの刑事罰対象でしょうが。嫌ですよ、ロシアの警察に捕まるのは)
(向こうでは拷問が復活したらしいからな)
(パーティー会場が一番狙いやすいと思われますが)
(外国からの賓客か。どのレベルか分るか)
(長官たちと同じクラスです)
(そうか。パーティー会場を第一の標的としたいところだが、賓客にトラブルがあればこちらが孤立しかねん。会場の様子を確認し、作戦を実行するかどうか検討する)
(となると、パーティー終了後に自宅を狙うと?)
(総合的に判断する)
(了解)

 他のメンバーは、設楽と剛田室長の会話を黙って聞いていた。誰も口を挟もうとはしない。
 剛田室長は、ふうぅと溜息とも何ともつかない息を洩らし、一度電脳を解いた。
 椅子から立ち上がると、部屋の隅に設置してある珈琲メーカーに手を伸ばし、自ら豆を挽き珈琲を淹れ、熱い珈琲を一気に飲み干した。
「皆、今回は私の命令があるまで絶対に動くな。どんなにチャンスがあっても、だ」
 今度は八朔が珈琲メーカーの方に歩き出す。
「チャンスを逃したら、計画が水の泡となって消えるのでは?」
 剛田室長は、皆に背を向けながら八朔の質問に答えた。
「なに、別のチャンスが巡ってくるさ」
「もしかしたら泡沫候補ですか、我々は。W4に花を持たせる気じゃないでしょうね」
「また、さるかに合戦か。いい加減にしろ」
 
 杏も移動して、珈琲メーカーに手を伸ばす。そして、席に戻ろうとする剛田室長を止めた。
「W4、か。彼らもあたしたち同様、内閣官房副長官からの勅命で動いているんでしょう?」
 剛田室長は面倒だといわんばかりに杏の目を見た。
「お前でもW4のことが気にかかるのか」
「まあね、今迄、どちらが成果を挙げたとか失敗したとか、競争意識が激しいもの」
「くだらん」
「まあ、そう言わないでよ。今回も向こうと被ってるの?」
「お前たちには、私が直接命令する。向こうのことは忘れて目の前の任務に集中しろ」
「わかってるわ。ただ、ちょっと嫌な予感がするだけよ」
「嫌な予感?」
「そう。嫌な予感」

 剛田室長は杏の横を通り自分の椅子に座ると、何やら机の引き出しから出すと、皆を呼び寄せた。
「皆、また電脳を繋げ」
 命令に参加しない北斗には、資料を渡さない。他のメンバーは、よろよろと剛田室長の机付近に集合した。

(W4の現在のメンバー表だ。興味があるなら見ておけ。ただし、比べっこはするな)

 不破が、やれやれといった表情を浮かべ、口を尖らせた。
(今回、向こうには期待しない程度に頑張ってもらうとしますか)
 
 杏は、別の意味でW4のメンバーに興味を持っている。
 昔から、E4とW4は仲が悪い。杏と不破は、今迄の経緯を良く知っていた。
 どちらかといえば、W4メンバーがE4に敵意を持っていたと記憶している。協力すればすぐに終わらせることのできる計画も、W4から協力拒否の電話1本で関係はこじれ、そのたび目眩を起こしそうになったものだ。
 E4とW4は、同時に創設されてから3年が経つ。
 どちらも暗殺部隊として創設されたが、現在、E4はテロ行為制圧を担っているのが現状だ。それに比べW4は、未だ暗殺主体のチームである。
 杏は、配られたW4のメンバー表を見た。
 一条芳樹、三条卓、四條正宗、六条詩織、九条尚志。
 全員、元華族の末裔だ。チームリーダーの九条と、三条、一条はスナイパーとしての力量がE4の倖田に勝るとも劣らない。四條はITが得意、六条は情報屋と聞く。女だてらに情報屋とは、畏れ入るばかりである。

(五十嵐、聞いているか?)

 剛田室長の声が杏の鼓膜に響く。杏はW4の面々に気をとられ、ミーティングの内容を聞いていなかった。

(ごめんなさい、聞いていなかったわ)
(スケジュールが確定した。今度はお前と不破、西藤で安室前長官と壬生現長官の居宅内に潜り込んでくれ)
(了解)
(居宅内の情報を得たら、今度は長官たちの身辺を洗って欲しい)
(あら、身辺調査?うちはそういうの苦手の部類じゃない、それこそW4の六条に聞いた方が早いと思うけど)
(向こうが掴んだ情報を、こちらに流すと思うか?)
(無理ね。わかったわ、でも苦手分野は時間もかかるわよ)
(何言ってる、町の情報屋を何人も握ってるだろう。知りたいのは、W4の動きだ)

 杏は、剛田室長のいうとおり、町の情報屋に詳しい。彼らを動かせば、ある程度、いや、それ以上の情報が耳に入ってくる。精度はピンキリ。それでも、週刊誌と繋がっている情報屋は、精度の高い情報を握っている場合が多々ある。
 剛田室長の檄が飛んだ。
(ミーティングは終いだ。五十嵐、不破、西藤。早速、長官たちの居宅に行け)

 杏が剛田室長にウインクする。
(了解。カメレオン化の精度も計ってくるから。とはいっても、カメレオン化しなかったら蜂の巣ね)

 剛田室長は、杏の方に目もくれず、不破と西藤を見る。
(ああ、そうだな。不破、西藤。くれぐれも、蜂の巣にはなるなよ)
(了解です)
(こちらも了解。蜂の巣なんて、穏やかならぬ響きですよ。勘弁してください)

 西藤がそういうと、剛田室長はニヤリと両側の口角を上げた。
 それに呼応するかのように、杏、不破、西藤の3人は電脳を解き、室内を出た。
 廊下に出ると、ダイレクトメモを使うため、3人とも時計に手を伸ばす。右端のボタンに手を掛け、一斉にボタンを押す。
 最初に話し出したのは杏だった。

(これから、まず安室前長官の居宅に忍び込む。いいか、居宅周辺にもマイクロヒューマノイドがいるはずだ。万が一に備えて、あいつらには近寄るな。あとは、犬にも近づくな。人間と違って、匂いで嗅ぎ分けるあいつらはカメレオン化なんぞ知ったこっちゃないからな)

 不破と西藤も、ゆっくりと頷いて杏に賛同する。
(そういえばテストケースで、動物だけは無駄に終わりましたね)
(チーフ。今どきのお屋敷で、護衛用の犬がいない家なんて、あるんですか?)
(ロボット犬なら反応しないさ。生身の犬はダメだ)
(カメレオン化してるロボット犬なんていないだろうな、自分、実は犬が苦手で)

 途端に杏が口を大きく開け、あっはっはと豪快に笑う。
(そうか、西藤、お前犬が苦手だったか。どうして今回の任務を引き受けた)
(設楽と八朔に知られたくなかったんですよ。あいつら、すぐ人のことを言いふらす)
(じゃあ、お前も奴らの弱みを握って脅せばいい)
(昼間っから酒飲んでる事と、ゲームして遊んでることですか)
(立派な弱みじゃないか)
(自分は犬も苦手だけど、人間同士のいざこざも苦手でして)
(それなら、目も耳も口も塞いでいるしかないな)
(ライ麦畑でつかまえて、の名言ですね)
(さ、戯言は仕舞いだ。安室前長官の居宅を設楽に確認しろ。拳銃は携行しているな。行くぞ)

 不破たちも腰に下げた拳銃を確認する。
(了解)

 地下の駐車場に着いた3人は、古き良き時代を彷彿とさせるミニクーパーに同乗し、西藤が運転して地上に出た。そして、安室前長官の居宅がある南の方向にハンドルを切った。
 伊達市から金沢市まで、高速道路を使って2時間。
 現在の高速道路は、かつてのドイツアウトバーンと同様に、速度無制限道路として車が行き来している。冬でも雪の降らなくなったこの時代、札幌市から旧日本海側を縦断して、九州は福岡市まで伸びている。
 四季の無くなった日本は、暮らしやすくなったが、その分風情に欠けると識者はほざく。
 杏から言わせれば、風情より生活だ。
 昔、日本海側といえば、冬は雪の為に毎日のように雪かきが必要だったとも聞く。何十年に一度の割合で、雪が大地はおろか天空まで伸びるのではないかというくらい降り、生活空間さえも雪に埋め尽くされたとも聞く。
 風情も何もあったものではない。
 それに比べれば、今は四季が無くなったがゆえに、風情は感じられないが生活空間としては上々だ。

 そんなことを考えながら、杏は後部座席で足を伸ばしていた。
 杏に、足を伸ばすように言ったのは、剛田だった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・◇


 10歳の頃、杏は、毎日のように研究所の外で膝を抱えて縮こまり、下ばかり向いていた。大人たちは、杏に色々なことを課した。杏がそれを拒んだり成功できなかったりすると、途端に顔色を変え、言葉尻さえ異様なほどに変化した。
 杏は、毎日研究所の一室に寝泊まりしていた。
 両親が尋ねて来たことは無い。両親の顔さえわからない。
 何度となく、逃げ出したい心境に駆られた。
 それでも、知っていた。
 逃げ出せば、追っ手が地の果てまでも追いかけてくることを。
 口で言われたわけではない。
 研究員たちの目が、それを物語っていた。

 そんな時だった、剛田に会ったのは。
 いつものように研究所の外で下を向き、足を抱え座っていると、目の前に男性が現れ、頭を撫でてくれた。
「足を伸ばしなさい。自由になれる」
 剛田は研究所長の部屋に入ると、暫く出てこなかった。
 杏は、剛田の言葉に後ろ髪を引かれ、いつまでも研究室に入ろうとしなかった。研究員たちが、杏を連れ戻そうと玄関先まで下りてくる。

 早く、早く。

 あたしを自由にして。

 早く。

 ねえ、早く。


 研究員の1人が、杏の腕を大きな掌で握ったときだった。
「君、その腕を放しなさい」
 漸く、剛田が姿を見せ、杏の方に歩いてきた。
 研究員たちは訝ったが、剛田の後ろから研究所長が顔を出すと、途端に皆、背筋を伸ばしたのを覚えている。
「行こう」
 剛田が杏に手を差し伸べてきた。
 それ以来、杏は剛田の下で育った。
 口数こそ少なかったが、剛田は、杏を機械ではなく人間として扱ってくれた唯一の人だった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


「聞いてます?」
 どこからか声がする。
 それが、運転している西藤の声だと認識するまで、数秒の時間を要した。

「ん?どうした、西藤」
「やっぱり聞いてませんでしたね、チーフ」
「悪い」
「今しがた、倖田から連絡がありました」
「何だ」
「金沢市内、安室前内閣府長官宅で、狙撃未遂事件があったそうです」
「何だと?」
「どうします、これから」
「二人とも、ダイレクトメモで話すぞ」
「了解」

 杏たち3人は、再び時計に手を当てる。
(今回の計画はおじゃんだな)
 助手席の不破が、後部座席の杏を向いた。
(W4でしょうか)
(たぶん、な)
(安室前長官は無理として、壬生長官宅はどうします)

 杏は、伊達市にいるはずの倖田にメモを飛ばす。
(おい、倖田)
(なんでしょう、チーフ)
(安室前長官宅で狙撃未遂事件があったのはいつだ)
(10分前です)
(そこに剛田室長はいるか)
(はい)
(室長に、今後の方針を聞け)
(ドライブして戻れ、だそうです)
(となると、壬生長官宅への侵入も無しということだな)
(狙撃未遂事件の直後ですし、壬生長官宅でも警戒していると思われます)
(わかった。往復4時間のドライブか。室長に、ダイレクトメモのオーバーホールをしてくれと言え)
(俺の口からは・・・)
(じゃあ、戻ってから直接言うとするか)

 杏は、車内のバックミラーに目を移し、わざとミラーをずらして杏を除いている西藤と目を合わせた。
(西藤、聞いてのとおりだ。このままとんぼ返りするぞ)
(了解)
(室長と設楽たちも、至急ダイレクトメモのオーバーホールをしてもらわないとな)
(今回は皆揃っていたから良かったですよ)
(全くだ。倖田がいなかったら今頃どうなっていたか)

 帰路、誰も言葉を発しようとはしない。制限速度のない道路で、コンクリートのザラザラとした音だけが3人の耳に残るのだった。
 金沢市での事件を受け、警察車両が続々と金沢市内に向かっているようだった。昇り車線では交通規制も行われ、検問を強いている箇所もあったが、反対車線を走る杏たちの車に目を光らせる者はいないも同然。
 車は、往路にも増してフルスピードで伊達市に向かい走り続けた。


 2時間後。
「ご苦労」
 杏たち一行が帰るなり、剛田室長が一言だけ呼びかける。
 その机の前に、杏が立ちはだかった。
「室長。ダイレクトメモのオーバーホール、よろしくね」
「うむ。今迄さして重要性を感じなかったが、いかんな。危機管理意識に欠けていた」
「そうよ、今日だって倖田がいたから良かったようなものの」
「私と設楽、八朔もダイレクトメモを入れるとするか。北斗にも入れてやりたいが、任務に差し支えそうでな、可哀想だが」
 自分の椅子に座っていた北斗がくすっと小さく笑った。
「大丈夫ですよ、電脳化してるとばれたら、それこそ生きて帰れやしない。僕はこのままで構いません」
「五十嵐、設楽と八朔を呼んでくれ」

 剛田室長は、奥のIT室にいた設楽と八朔を呼び寄せろという仕草をした。杏が奥の部屋に声を掛ける。
「設楽、八朔。出てこい」
「何ですかー」
「二度とは言わない。出てこい、早くしろ」
「チーフは人使い荒いですよ」

 だらだらとIT室から出てくる設楽、八朔両名。2人は、剛田室長に睨まれると蛇を目の前にした蛙のように身体が凍り付いたようになった。
「設楽、八朔」
「何でしょうか、室長」
「お前たち2人と私で、これからダイレクトメモのオーバーホールに行く」
 相変わらず、設楽はお喋りに花を咲かす。
「あれ、今の計画から離れていいんですか」
「馬鹿者。こういう齟齬があるから、今日中にオーバーホールするんだ」
「あ、計画台無しってやつですね」
「口を慎め。誰が聞いているかわからん」
 ぺろりと舌を出す設楽。
 剛田室長は、新聞を丸めて作ったメガホンで設楽の頭を何度も叩きながら八朔を見る。
「向こうには予約を入れてある。八朔、お前が運転しろ。設楽は後ろを向きながら運転しそうで怖くてかなわん」
「了解」
「すみませーん。車の運転中くらい、大人しくしてますよ」
「嘘を吐け」

 IT組2人を伴った剛田室長は、1分もしないうちに上着を羽織って廊下へ出た。慌てて室長の後を追う設楽と八朔。
 杏のパンチが2人の背中に炸裂する。
「室長において行かれるぞ、走れ!」
「はいはい、わかりましたよ」

 いつも五月蝿い設楽と八朔がいないと、本当に室内が静かになる。紗輝は何処へいったものやら、先程から姿が見えない。
 倖田はライフルの手入れをしていたし、北斗は活字新聞を読んでいた。杏は倖田の右側に寄り、その肩を叩く。
「倖田、状況を詳しく聞かせてくれ。電脳に繋ぐ。北斗は、もし聞きたければ活字オンラインに繋げろ」
「了解」
 北斗は左手を横に振る。
「僕はこのままで。明日の新聞に詳細が載るでしょうから、そちらを見ます」
「そうか。不破、西藤、お前たちも電脳に繋げ」
「了解」

 倖田が太く大きな声で話し出す。
(今日の午後2時30分、金沢市にある安室前長官の居宅にライフル銃が発射されました。確認された銃痕は全部で3発。角度から見て、2人の人間がライフルを発射した模様です。中には安室前長官の妻がいましたが無傷。安室前長官はちょうど議会中で内閣府に出掛けていて、実害はなかったようです)
(議会中なのに居宅に向けて発射されたのか?)
(はい。何かスケジュールの確認違いがあったものと考えられます)
(W4ともあろうものが、凡ミスだな)

 倖田の声とは正反対の、不破の低く甘い声が響く。
(チーフ。何か他の意図があってのことかもしれませんね)
 
 杏は少し驚いたように不破を見た。
(他の意図?)
(狙っているぞ、という意志表示)
(あるいは、狙われているぞというサイン、か)
(W4が真面目に仕事しているなら、こんなヘマは冒さない。端から暗殺計画などないのかもしれませんよ。そう考えれば、我々の計画がどこからか漏れていたと考えても不思議ではない)
(そうだな、誰かが向こうにリークした)

 杏は、電脳を繋ぎながらも意識は別の所に飛んでいた。
 今回の1件、自分たちの空回りだったということか。いや、違う。
 E4の動きを知る者。E4内部ではなかろう、さすれば、内閣官房副長官。総理直結の命令指揮系統。
 総理は長官たちに「狙っているぞ」という意志表示をしたのか。
 そのためにW4が使われた。そしてE4には暗殺の命が下った。

 杏にはどうしても違和感が残った。
 全てW4に任せても良い案件のはず。どうして自分達に命令が下ったのか。W4がどんな命を受けたのか知らないが、自分たちは、剛田室長からはっきりと「暗殺」と聞いた。
 待てよ、その時の記憶が欠落している。
 やはり、空回り。

 どちらにせよ、今回の長官たちを狙った事件で、一般人への電脳化を進める計画をストップさせるまではいかずとも、その時期を遅らせることはできるだろう。
 命と引き換えにしてまで、電脳化計画を進めはしないはず。
 それにしても、春日井総理の掌で踊らされたE4ということか。


 電脳を解いた杏は室内の飾り棚に寄りかかり、疲れたように、ふっと目を閉じた。

第3章  電脳汚染

 杏たちが内閣府長官暗殺計画から解放されたある日、長官たちの推進する朝鮮半島移民政策が、ゴシップ誌によって白日の下に晒された。俗に言う、スクープというやつである。
 日本自治国内は、右往左往の大騒ぎになった。
 テレビ番組では毎日のように移民政策が繰り返し放映され、一部の識者達は、国民の相知らぬところで電脳化計画が進んでいると息巻いた。
 そこに移民政策反対勢力が現れ、内閣府前では移民政策反対のプラカードを掲げ、毎日のようにデモが行われた。

 そんな非日常の毎日に、一人の男性が興した新興宗教が、日本国内を席巻し始めていた。
 名を麻田彰寅といい、宙に浮くことができる導師として、世の興味を独り占めにしつつあった。
 だが、古来からある宗教法人にしてみれば、異端者である。宗教法人では、麻田が教えを説くフリーランスリバティー教通称FL教を、カルト教団と呼び、自分たちと区別しようと躍起になっていた。

 麻田は、大学を好成績で卒業した者たちを側近として重用した。側近たちの中には、医師や薬剤師はおろか、軍隊や警察官、IT、理学系など、各方面に秀でた者たちが多かった。
 徐々にカリスマと呼ばれるようになった麻田は、以前は学者として大学で教鞭をとっていた。麻田もご他聞に漏れず電脳化していたわけだが、何故かマイクロヒューマノイドであることは秘密にしていたようだった。
 大学教授としての評判は然程ではなかったが、麻田が仕事を辞め、ライフワークとして宗教を興すと、一般人に電脳化やマイクロヒューマノイド化の普及を説いていた。
 麻田の訓えは瞬く間に持て囃され、世の中に生きづらさを感じていた人ほど、リバティー教にのめり込んでいくのだった。

 遠い過去の出来事からも分かるように、カルト教団は自分たちを認めさせるため、テロ行為を行う可能性が往々にしてあるため、E4では、いつでも活動できるように訓練を行っている。
 暴走するカルト教団を制圧する任務は、W4ではなくE4が担っている。設楽はダイレクトメモのオーバーホール後、なお五月蝿くなった。
「チーフ。これって俺達の出番ですよね」
「危険な教団だと指定されればな」
「俺の勘では、絶対に危ないですって、この教団。そのうち爆弾や毒ガスばら撒きますよ、きっと」
「向こうも電脳化しているだろう、お前、ハッキングして来い」
「ばれたら?」
「ばれないようにするのがお前の仕事だ」
「確かに」
「ほら、任務に精を出せ。その前に、バグとビートルの様子を見て来てくれ。そして北斗に、ここに戻るよう伝えろ」
「了解。うちのチーフはやっぱり人使いが荒いや」

 
 地下でバグとビートルと遊んでいた北斗が49階のE4室内に戻ってきた。北斗は背筋を伸ばして杏の目の前に立つ。
「何でしょうか、チーフ」
「近頃目立ってきた教団なんだが、お前に潜入捜査をお願いするかもしれない」
「実は僕にお鉢が回りそうかな、と思っていたんです」
「事件化しているわけではないが、怪しいのは確かだ」
「命令されればすぐにでも」
 杏は身体の力を抜いて、壁にもたれた。
「まあ、室長の判断を待つさ」

 剛田室長からの命令は、暫くなかった。北斗を送り込むのは最終手段と決めているようだ。それとも、危なすぎて手を拱いているのかもしれない。
 しかし、いつまでも傍観しているわけにはいかない。
 潜入捜査の時期を見極めている、というのが、杏の予想だった。
 そんな折、公務の種類を問わず、電脳をハッキングし死に至らしめるという事件が勃発した。行方不明になった者も多かった。
 犠牲になったのは、役人、警察官、学校の教師と様々だったが、やっと行方が知れたとぬか喜びしていると、その人間は真逆の性格に変わっていたという。

 ある日、剛田室長からの命令が北斗に下った。
「本当はキャンセルしたかったが、仕方がない。北斗、フリーランスリバティー教団、所謂ところのFL教に潜入してくれ」
「了解しました、室長」

 今回北斗が化けるのは、大学を卒業し大企業に就職したが、半年前に職を失ったという設定。周囲には、現在は無職か夜勤の警備会社でアルバイトをして食いつないでいるというもの。
 一般人に電脳化を勧めているということは、電脳化して自分たちの信者を増やす目的もあるかもしれないと杏に言われ、電脳化だけは避けて潜入を続けます、と。何とも頼もしい限りである。
 ダイレクトメモを使えないのは少々痛かったが、衛星通信を使いE4には定期的に連絡するという。
 衛星通信とは、スマートフォンの進化版である。
 E4では、衛星通信にスクランブルをかけて発信者や受信者、通信ログなどが部外に漏れないようなシステムを採用している。
 通常、電脳を繋いでおけば無用の長物だが、北斗が潜入捜査に就くときだけは、この方法を使い、北斗の衛星通信が何らかの方法で外部との通信の記録を傍受できないようにしている。
 とはいっても、衛星通信は日に一度が限界だ。外部へ通信しているとなれば、受信者が誰なのか、傍受はできずとも北斗自身の信用を損ねてしまう恐れがあるため、必要最小限の通信のみに限られている。


 翌日、北斗の姿はE4から消えていた。
 早速、FL教団を訪れたものと思われる。
 地下では、バグやビートルたちが五月蝿い。

「ネエ、ホクトハドコニイッタノ?」
「ハヤクカエッテコナイカナ」
「マサカ、クビニシテナイヨネ」
「シタラー!アブラサシテー!」
「ホズミデモイイヤ、アブラ!アブラ!」

 設楽は椅子にどっかりと座りこんで、ハッキングに忙しい。代わりに八朔がバグたちの寝床に歩いていく。
「オソイヨ、ホズミッタラ」
「ハヤクシテー!ウゴケナクナル」

 八朔は、少し機嫌が悪かった。北斗の代わりに行くこともそうだが、設楽がハッキングの美味しいところを独り占めしているからだ。
「ほら、並べ。順番に油を注してやるから」
「ジュンバン?」
「なんだ、言葉の意味知らないのか」
「イチレツニナラベバイイノ?」
「そうだ」
「ホクトハボクタチノバンゴウオボエテテ、ナラバナクテモアブラサシテクレタカラ」
「俺は北斗みたいに優しくないんだよ。ほれ、並べ」
「ハーイ!ミンナ、ナラボー!」

 そういいながら、順番に並ぼうとしないバグたちを見て、八朔は目を三角にして怒り出す。
「並ぶまで、油注してやんないぞ。北斗が甘やかしすぎたんだな」

 バグたちが八朔の周りを囲む。
「ホクトノワルクチイワナイデ!」
「ソウダヨ、イチゴウキカラナラベバイインデショ」

 やっと、バグやビートルが整列し始めた。
 八朔は、ふと考えた。こいつらも、北斗が潜入する教団周辺で、今回は稼ぐようになるかもしれない。オーバーホールはしないまでも、すぐ出動できるよう点検だけはしておかなくては。
 誰か手の空いている人間を、地下に派遣してもらおう。

 それにしても、北斗はビートルやバグたちに愛されているんだと、今更ながらに恐縮した。それもこれも、北斗の愛情がこいつらにも判るのだろう。
「今から点検するけど、誰に来てもらうからな」
「フワガイイ」
「サイトウデモイイ」
「サキハイヤ」
「何でだよ」
「ロボットノクセシテシャベルナ!ッテオコルンダ」
「そうか、じゃあ、紗輝だけは声かけないでおくよ」

 49階のE4室に戻ると、八朔はまず不破に声掛けする。
「不破さん、これからバグとビートルの点検するんだけど、手伝ってくれない?」
「いいよ。暇だし」
「ありがとう、バグたちにさ、紗輝だけは嫌、って言われちゃって」
「紗輝は人見知りが激しいのかな」
「ロボットが話すのがお気に召さないらしい」
「そうなの?役に立つのになあ」

 そして、八朔は地下1階の指示室へ、不破は地下2階のバグの寝床へと別れて入り、点検に入った。
 不破がバグたちに一列に並ぶよう指示すると、バグたちは素直に並ぼうとしている。
 そこで、不破が先日の北斗と杏の会話を思い出した。
 掃除ロボットの改良である。
 四角い部屋を丸くしか掃かない掃除ロボットたち。
 いつも北斗が掃除していることを伝えると、八朔は不破に頭を下げた。
 北斗もIT担当者に言えばいいのにと口にしそうになった八朔だったが、北斗の性格を知っているため言葉にはしない。
 その代り、バグたちの点検後、掃除ロボットのプログラム変えておくことに同意するのだった。


 最初にバグの点検をする。動かない、あるいは身体の一部分に軋む音がするなどの修理個所は見つからなかった。ただ、バグたちがまたオイルを欲しがるので、各自に1滴のみ、不破が注してあげた。
「フワモカモクダケドイイヒトダネ」
「アリガトウ」
 不破はバグたちに対して久しぶりに笑顔を見せた。
「どういたしまして」
 
 次はビートルの番だ。大きな修理個所は見つからなかったが、カメレオンモードだけは八朔と不破では見極められなかった。

 不破が杏にダイレクトメモを飛ばす。
(チーフ。今地下のバグたちのところにいるんですが、カメレオンモードに入るのに、命令指揮系統の人間がいないとダメですよね。チーフにお願いできますか)
(了解した。今すぐそちらに向かう。地下2階だな)

 5分もしないうちに、杏は地下2階に着いた。ダイレクトメモを使ったままだ。
(今後、北斗を助けるためにお前たちの力を借りることがあるだろう。準備をしておいてくれ。バグ!ビートル!カメレオンモードに切り替えろ!)
 一瞬で、バグやビートルの姿が見えなくなった。
(よし、そのまま天井に移動)
 天井からミシミシと音がする。
(今度は、壁に足をつけろ)
 杏の声に従い、バグとビートルたちは動いていく。
(最後だ、ビートル、角から糸を出してくれ。バグは羽根を使ってこのボールを撃ち落とせ)
 言われたとおりに、ビートルは角から太めに糸を出し、バグは羽根を鳴らしながら、杏が投げたボールを落していく。

 杏は満足げに語った。
(これなら大丈夫だろう。皆、ご苦労だった。北斗の任務に関わる補助で、お前たちが必要になるかもしれない。その時はよろしく頼むぞ)
 バグやビートルたちは皆、元気に叫んだ。
「ハーイ!マカセテー!」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 その頃北斗は、FL教団の門を潜り、教団幹部と会っていた。
 比較的広い部屋に通された。応接室だろうか。FL教団設立者のカリスマ麻田導師と、教団幹部の写真が至る所に貼られている。
 そこに、1人の幹部と思しき人物と、SPだろうか、がっしりした体格の男が2名、現れた。写真に写っているのを見れば、目の前の人物は幹部だろう。その男性が、にこやかに笑いながら北斗の前に座った。
「こちらには、どういった理由から」
 北斗は嘘八百を並べ立てる。
「半年前に失業して、今は無職です。その後思うように就職も出来ず、人間が信用できなくなってきたのです。導師様の訓えを巷の噂でお聞きして、教団に入信させていただきたいと思いまして」
「以前はどのようなお仕事を」
「夜勤の警備員です」
「お仕事もお辛かったことでしょう。導師様は、総ての入信者に幸せをとお考えです」
「入信させていただけますか」
「普段は入信料をいただいておりますが、お金が総てではありません。あなたのような方を救うことこそが、我々の本分です」
「ありがとうございます。わたしはいつからこちらにお世話になれますか」
「準備が整えば、いつでもよろしいですよ」
「感謝します」
「ところで」
「何でしょう」
「電脳化や義体化をされていますか」
「いいえ、そういった職とは縁がありませんので、全身生身です」
「そうですか。では、明日、教団本部までお越し願います」

 北斗は、相手の幹部職員が片方の口角だけを4~5mm上げたのを、見逃しはしなかった。


 翌日からFL教団内部に入ることを許された北斗。
 ザックに着替えを入れて、衛星通信のための小型電話をメガネケースに忍ばせ、ポロシャツに短パンという軽装で、アパルトモンを出た。
 E4のビルがある中心部から車で10分のところに北斗のアパルトモンはある。狭い間取り的に、独身者が多い。
 職種は様々で、お隣の年配男性は、それこそ警備会社で夜勤の業務に就いていた。彼との世間話から得た情報を基に、北斗は警備会社勤務の実情を潜入先で喋ることもある。その男性には、北斗自身、ウェブ監視の仕事に就いているという嘘を吐いている。嘘の上書きは、時に混乱を招くので北斗は好きでなかったが、警察関係者とは知られたくない。ましてや、E4だ。警察内部ですら知られていない組織なのだ。

 道すがら、北斗はFL教団のことを考えながら歩いていた。
 今回は、剛田室長に言われた通り、半年前に警備会社をクビになったというシナリオで、教団内部に潜入する。失敗すれば、自分もFL教の餌食となり得る。
 洗脳、マインドコントロール。たぶん、そういった流れで信者を集めているのだろう。誰もが電脳化、あるいはマイクロヒューマノイドになりたくて入信するわけではあるまい。
 その中で、使えに足る人物だけが幹部として重用され、一般市民からむしり取った金財で私腹を肥やしているに違いない。
 それよりも心配なのは、FL教団が更なる狂暴化を遂げ、内閣府を脅し、内閣が取引に応じない場合だ。一般的な例ではあるが、教団の首謀者たちは漏れなくテロを起こす。
 テロとなれば必ずや一般市民を標的にし、死の盾にするだろう。
 21世紀初頭、諸外国ではテロが頻発した。ある宗教が暴走した結果である。それが高じてある国は核のボタンを押し、負の連鎖が始まったと聞く。
 日本でも、20世紀末に彗星のように現れたカルト教団が、何度となくテロ行為に走った。その首謀者は全員拿捕され、死刑台の露と消えた。その現実があるからこそ、今、E4はテロ制圧組織として成立しているのかもしれない。

 北斗は、電車を2度乗り換え、1時間かけてFL教の本部に辿り着いた。
 玄関を開けようとしたが、固く閉ざされていた。
 インターホンなるものを見つけようとしたが、この周囲には無い。その代り、何台もの監視カメラが訪問者を食い入るように見つめていた。

「困ったな、時間の約束、しとくんだった」

 途方に暮れる北斗。
 そこへ、1人の若い女性が通りかかった。
「すみません、今日からお世話になる北斗と申します。こちらに来るよう仰せつかったのですが」
「お一人入信されると聞いておりました。さ、こちらへどうぞ」
 女性が案内したのは、正面玄関ではなく裏口だった。ここにも、監視カメラが2台。相当の気の入れようだ。
「正面玄関をお使いになるのは導師様だけ、ですか」
「はい、導師様と幹部の方々がお使いになられます。私どもは、こちらのドアから出入りしているのです」
「修練があると聞いたのですが、こちらで?」
「いいえ、修練は各地の道場にて行っております。たぶん、昨日お越しになられた場所が道場だと思います」
「すると、僕はどうしてこちらに呼ばれたのですか」
「導師様は、入信する方々のお顔を全員記憶されます。毎日想起されながら私どもにお力を与えてくださるのです」
 女性は、応接室に北斗を通すと、短く礼をして立ち去った。

 思ってもみなかったことだった。
 一度に何千人の顔を覚えるというのか。いや、そうではないだろう。監視カメラがあれば記憶の役割は果たす。入信者をぐっと引き寄せる作戦に違いない。
 ならば、どうして。
 北斗が瞬間的に感じ取ったのは、麻田導師が気に入った連中をこの本部に置き、幹部養成候補として別に洗脳するためという新たなシナリオだった。
 何故なら、勢いがあるこの教団に、今日、自分だけが入信するとは考えにくい。1日に数十人の入信希望者がいるだろう。それなのに、今、此処にいるのは自分一人。
 有り得ない。
 そうか、昨日、入信するには金が必要だと言った。
 なのに、自分からは取らないと言われた。
 あの時はさして気にも留めなかったが、幹部候補からは金を取らず、何か別の仕事をさせるのかもしれない。
 修練しないとなれば、それはそれ。
 都合の悪い話ではない。
 入信者からの情報が入ってこないのは不覚だったが、何れ、この教団で何が起きているのか、これから何が起きるのか捜査するのが自分の役割だ。
 
 北斗は、2回、大きく深呼吸して、部屋の中を見回した。
 こちらにも、麻田導師の写真が何枚も貼ってある。これでもか、というくらい。変装していても見抜けるかもしれないと、少し北斗の口元が緩んだ時だった。
「お待たせした、同志よ」

 麻田導師が姿を現した。サングラスをかけ、ぼさぼさの天然パーマ頭を、後ろに纏めてゴムで束ねている。その隣には、幹部らしき男性が2名、傍らに侍っていた。
 北斗は先程の口元を、きゅっと結び直し、爽やかな青年を装う。

「うむ。聞いた通りだ。君は目の輝きが違う」

 麻田導師が北斗を見て、にこやかに笑った。北斗の第一印象は、悪くなかったようだ。
 よし、これで中枢部分に入り込める要素が増えた。
 ただし、こういう場合、往々にして喋り過ぎは好ましくない。北斗はにっこりと微笑んで、あちらの出方を待った。
 導師が傍らの幹部らしき男性に何やら耳打ちした。
 もう一人の幹部らしき男性が、北斗の目を食い入るように見つめる。監視カメラじゃあるまいし。それとも、記憶術の勉強でもしているのか。
「君、運転免許は?」
「はい、持っています」
 北斗はまたもや驚いた。
 入信し修練するはずが、運転免許。何を運ぶというのだろう。

「君には、明日から導師様を全国にお送りするお役目をお願いしたいとのことです。今日はもうお出掛けにならないので、ご自分の部屋でお休みください」
「僕がですか?」
「そうです。導師様をお送りするということは、大変重要なお役目になります。朝は5時に起床し、お役目に備えるように」
「承知しました」

 導師様は、片脚を少しだけ引き摺りながら、ドアの向こうに消えた。導師様の傍らに侍っていた2名の内、1名が北斗を連れて部屋を出る。先程食い入るように見ていた男性だ。
 ここは、何も話してはいけない。
 北斗の勘がそう言っている。
 案の定、嫌味めいた言葉が男性の口から洩れてくる。
「お役目をただの運転手と思わぬよう。君はとても運がいいのだから。本当であれば道場にて苦しい修練を熟さなければここには来られないというのに」
 苦々しげに言葉を吐く。
 北斗は返事のしようがない。
「はい」
「兎に角、何か問題があれば道場に戻すことなど容易いのだから、注意しなさい」
「はい」

(のっけからパワハラかよ)

 北斗は心で声を上げる。それでも、うわべの顔は爽やかに。
 男性は、教団本部内の裏口脇の部屋に北斗を通すと、小走りで立ち去った。北斗は、4畳ほどの部屋の中を見回す。
 テレビが1台、小さな箪笥が一棹。テレビの隅に、監視カメラ1台、このぶんだと、盗聴器もついている予感がする。天井にも監視カメラが1台備え付けられている。

(ここで電話は無理か。いやいや、持ち物検査されなかっただけ幸運だと思え)

 着替えなどを箪笥に仕舞うと、押し入れから布団を出し、北斗は電話を入れてあるメガネケースを取って毛布にくるまった。音声電話は難しいが、活字オンラインなら。潜入捜査時、初日に連絡しないと、チーフが五月蝿い。


「チーフへ

 FL教団本部にて麻田導師の運転手を拝命。監視カメラだらけの建物ゆえ、定期連絡は1週間に一度の割合で。新展開があった場合のみ、都度、音声或いは活字オンラインを送ります。

                                北斗」

 北斗の身を案じていたE4メンバー。
「室長」
「どうした、五十嵐」
「ダイレクトメモで話すわ、準備して」
 皆が時計の右端に手を添えた。紗輝だけは、お腹一杯という顔をして、時計に手を掛けない。杏は怒鳴りたかったが、怒鳴って手を掛けるようならまだいい。紗輝は絶対に言うことを聞かないだろうと予想していた。
 剛田室長の声が響く。
(北斗から連絡が来たか)
(ええ、活字オンラインが届いたわ)
(無事に潜入できたか)
(無事みたい。FL教団本部で運転手するらしいけど)

 相変わらず、設楽は脳ミソが軽い。
(ダイレクトメモ、初めて使ったけどいいっすね。北斗、幹部じゃなくて運転手?笑える)
 ふざけている設楽を前に、剛田室長の雷が今にも落ちそうになっている。
(設楽。今度はお前がFL教団に行くか?)
(ご勘弁を。修練とか鍛練とか、苦手なんです、俺)
(北斗の任務を敬いこそすれ、軽々しく口にするな。お前が馬鹿に出来る任務ではない)
(すみません)

 心の中では、北斗に敬意を表しているであろう設楽は、素直に謝った。
 問題は、設楽ではなく紗輝かもしれない。
 オーバーホールしたばかりの機器調整を兼ねた会話だったが、紗輝にいくら言っても暖簾に腕押し糠に釘。
 もう、流石の杏も見切りをつけるしかなかった。
(室長、紗輝のことだけど)
(ああ、私からも話したんだが、無理だな。機器の確認も出来やしない)
(辞令渡せば?)
(どこにやる)
(どっかに吹っ飛ばして構わないんじゃないの。本人、一般人になりたがってるし)
(困ったやつだ。ERTでの行動は別に問題なかったらしいんだが)
(ERT側が、早く出したくて嘘ついたのかも)
(こら、そこまで言うな)

 この会話を聞いて、設楽と八朔が身を縮めている。辞令が出る、という事実が有り得るのだとすれば、自分達もその中に入ってしまいかねないと危惧してのことであろう。
 西藤が剛田室長と杏の会話に交じってきた。
(俺が後で話してみます。問題なく繋がれば、それこそ問題なく終わりますよね)
(西藤。そうしてくれると助かる)
(なんで西藤の言うことは聞くのに、あたしじゃダメなのかしら)

 剛田室長が、大きく一度、咳払いをした。
(さ、皆、これからのスキームをレクチャーするぞ)
 杏も真面目な表情に戻る。西藤が紗輝に声を掛け、レクチャーに入る様促した。紗輝は嫌そうにしていたが、北斗の命の危険を西藤が簡単に説明したため、仕方なく時計のボタンを押す。
 剛田室長は、不満げではあったが言葉にすることはなく、そのままレクチャーが始まった。
(北斗からの連絡待ちではあるが)
 杏がフォローする。
(あたしたちの突入シミュレーションだから、よく聞いて)
 剛田室長は杏の左肩をポン、と叩いて話を続ける。

 考えられる突入ケースは2,3通り。
 1つには、北斗からの定期連絡が途絶えた場合。かなりの危険が北斗に迫っていると考えられる。
 2つには、教団がテロ行為を断行した場合。北斗が警察府に捕まってはならないため、至急教団本部に乗り込む。
 3つには、その他北斗に命の危険が迫っていると判断されるとき。ただこれは、新展開があったときに連絡があるはずなので、総合的に判断しなければならない。
 これら突入に備えるため、教団本部周辺に工事業者風のバスを用意し、周囲で何かしらの工事が行われているような偽装を行う。バスには通常1名が乗り込み、アンドロイドを装備し教団本部の出入りを記録する。
 バグとビートルについても、突入時に備えて手入れを怠らぬように。

 本来はカメレオン化し北斗をフォロー、事件化する前に事態を鎮静させ、ハッキングによる公務関係者の死の理由を明かせれば北斗を引き揚げさせるのだが、運転手として雇ったということは、逃げられない様、何らかの画策しているのかもしれない。
 FL教団の真意が図りかねる今、やみくもに動くのは止め、北斗からの連絡を待つ。

 設楽が口を挟んできた。
(室長、公務関係者の死ですが)
(何か判明したのか)
(体重が死ぬ前よりも若干少ない状態で見つかっていると聞きました)
 杏が設楽の肩を突く。
(胃の内容物がゼロなんじゃないの)
(いえ、それがね、胃には固形物などの内容物が見つかっているというんですよ)
(とすると、外傷は?)
(特にないそうです)
 八朔も設楽に負けじと横から口槍を入れる。
(行方不明から戻った人間も同じですね)
(戻った人間もいるのか)
(はい、ただ、ですね)
(どうした)
(性格が真逆になったり、半身麻痺という異変が見つかっています)
 杏が八朔の方を向いた。
(まるで脳梗塞にでもなったような姿だな)
(チーフ、そうなんですよ。こちらもほんの少し、体重が減っているらしい)

 皆がしん、と静まりかえった時だった。
 紗輝が剛田室長にその眼を向け、初めて口を開いた。
(脳を切り取ってる)
(なんだと?)
(今の電脳化は、脳にシグナルを送って脳全体を見える状態にしているだけで、アンドロイド化しているわけじゃない。とすれば、やつら自分たちで電脳化の研究をしているのかも)
(なるほど)
(電脳化した人間が蜂起を起こせば、立派なテロになりますよ。信者を秘密裏に電脳化、マイクロヒューマノイド化すればいいわけだから、兵隊としては、いくらでも代わりが利く)
(電脳研究やマイクロヒューマノイドの実験をして、何を起こそうというのか)
(これはあくまで仮説ですが・・・電脳汚染)
(電脳汚染?)
(一般人を電脳化する際に、洗脳するわけじゃないですか。そこからウイルスみたいなものをばら撒いて我々公務関係者の脳を汚染するんですよ)

 設楽が鼻で笑う。
(そんなの、出来っこない)

 紗輝は、その一言が気に入らなかったらしく、横を向いて口を閉ざしてしまった。
 剛田室長の雷が設楽に落ちる。
(設楽。通常の思考に捉われるな。時に宗教団体は、我々の思考を遥かに飛び越して、とんでもない方向に走る)

 杏が紗輝の考えに同調するように、紗輝と設楽を見つめる。
(十分に考えられるシナリオね、だから電脳化を説いて回っている)
 今迄大人しかった不破も、紗輝に首肯し、杏を見る。
(教団だけのシナリオなんでしょうか)
(というと?)
(例えば、安室前長官や壬生現長官が背後にいるとしたらどうでしょう。法律を変えずに一般人を電脳化できる)
(電脳汚染は?説明がつく?)
(そちらまでは。ただ、自分たちに都合の悪い人間だけを排除して、大人しくさせることだってできるかもしれない。反対に、自分たちに都合の良い人間を増やすこともできる)
(朝鮮半島移民政策は完璧に国民の支持を得ることができる、というわけね)

 剛田室長が徐に立ち上がった。
(皆、いつでも教団にいけるよう、準備を進めておけ。バグとビートルも忘れるな)

 それにつられて、皆立ち上がって敬礼する。
(了解)


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 当の北斗は、麻田導師の運転手として、忙しい毎日を送っていた。
 街頭での演説が主だったが、時には2時間も離れた山の奥にいくこともあった。
導師が行く先々で、一般人の人だかりができ、しーんと静まった中、一般人の電脳化及びマイクロヒューマノイド化の演説をぶちあげる麻田導師。
 1時間ほどの演説が終わると、鼓膜が破れんばかりの拍手喝采が巻き起こる。人々と握手をしながら、微笑みかける導師。
 決して顔が良いわけでもなく、演説に適した声でもなく、上手い演説ではない。それでも、なぜか聴衆は麻田導師の演説に酔いしれ、我を忘れたように手を振り握手を求め、熱狂的な姿を見せる。
 何処に行っても同じ光景が見られた。
 北斗自身は、幹部職員と一緒に後ろに立って演説を聞いているのだが、声は聞き取りづらいし話し方もお世辞にも上手とは言えない麻田導師を見て、一つだけ感心したことがあった。
 決して上から目線ではなく、聴衆とともに歩むという姿勢の表れか、身振り手振りを交えたその姿は、そこを通りかかったとしても立ち止まってしまうようなカリスマ性が見受けられる。
 そこで感じるものは、得も言われぬ幸福感。
 一つの演説会場で2時間ほど聴衆と握手し終えると、車は何キロか先に向かう。こうして日本国内を回りながら、電脳化及びマイクロヒューマノイド化を説いて歩く。飛行機は使わない主義らしい。スケジュール管理がしっかりしていると見えて、日に3箇所くらい演説に費やし、あとは各地に設けられた道場に向かう。道場では信者に訓えを説き、修練を見守っていた。

 演説は週に5日のペースで行われ、主として土日に演説する。あとは、本部に戻り疲れを癒す日が1日。
 あとの1日は、2時間以上も離れた青森市の山の奥に行く。
 そこには研究施設と思われるコンクリートの建物が辺り一面に広がっていた。幹部連中に聞いたところ、これも、自分たちで建てたのだという。建築士や設計士なども信者の中に居て、幹部に重用されているのかもしれない。

 研究施設に行くときは、何棟もある施設内を比較的自由に中を歩き回れるのだが、1か所、厳重に鍵がかかって入れない場所があった。ここで衛星通信を使えばE4に場所を特定してもらえるのだが、周囲の目と監視カメラがそれを許さなかった。
 ここには、幹部の中でも一定の者しか入れない何かがある。
 教団のコアは此処にある。
 北斗の勘が働く。
 だが、北斗は此処に入れる術を持たない。

 北斗の休みは、麻田導師の休養日である。信者が殆ど道場から出してもらえないのに比べ、北斗は外出を許されることも多かった。ただし、尾行付きで。
 尾行を巻けば信頼を失う。北斗は知らぬふりをして、買い物に出掛けることが多かった。そして、必ずトイレに入ると、音声ではなく活字オンラインを使って定期連絡を行っていた。

「こちら北斗。青森市近郊の山中に、謎の研究施設あり。詳細判明次第、追って連絡する」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 北斗が教団に潜入してから、1か月が経った。
 普段なら半年スパンで潜入捜査を行う北斗だが、この教団に関しては、少し焦っていた。なぜこうも焦るのか自分でもわからなかったが、コアの存在を知ったからだと自分を冷静に見つめ直す。

 毎週、麻田導師が研究施設に行くたびに、北斗は散歩と称しながら例の研究施設が見える場所を必ず散歩コースにいれていた。
 今度は何か収穫があるのではないか、今度こそは、そんな思いが胸の底から湧きあがるが、そうは問屋が卸さない。
 研究室は固く鍵で閉ざされ、北斗の知らぬ何かが推し進められていた。

 そうして、またひと月が過ぎていった。
 
 そんなある日のことだ。麻田導師を研究施設に送り届けた北斗は、また散歩していた。例の研究施設が見える場所から人の顔が見える程度に離れて。
 すると、知った顔の先輩警官が研究員に連れられ例の研究施設に入っていくのが見えた。確か、応援部隊にいた人だ。
 警察府にいるとき、大きな金融テロがあった。テロ業者の尻尾を掴むため、裏取に時間が掛かり各警察に応援を求めたことがあり、その時北斗は若くして下働きを務めた。だから、北斗のことは覚えていないだろう。

 北斗の心臓は、ばくばくと音を立てる。心なしか、血圧まで上がっていそうな気がした。

 北斗は周囲を見回した。誰かいないか、誰か。
 その時、運よくメガネをかけた人のよさそうな研究員が、別の施設から出てきた。確か、VRの研究施設だった。

「すみません、ちょっといいですか」
「何か?」
 北斗は例の研究施設を指差す。
「あそこに知った顔の警官が入っていったんですが、何の施設なんですか?」
「どうして?」
「いやあ、半年前に職質されましてね、それが原因で職失ったもんで。今思い出しても腹が立ちますよ」
「なら仇が取れるさ」
「というと?」
「あそこは脳を切り取るところだから。あそこに入ったが最後、人間ではなくなる」
「人間で無くなる?」
「そう、良くて半身不随、悪けりゃ死体」
「半身不随ったって、切られた記憶があったら俺達みんな捕まっちまう」
「大丈夫だよ、海馬は必ず切り取るんだ。そして電脳化する」
「海馬?」
「短期の記憶中枢だよ、今日のことは忘れる」
「へへっ、そういうわけですかい。何にしても、あの時の仇がとれたってわけだ」

 薄ら笑いを浮かべ警備員上がりの芝居を打った北斗は、研究員に挨拶すると、早々にその場を離れた。
 北斗の両耳に、キーンとした音を感じたかと思うと、寒気が走る。全身にブツブツと鳥肌がたっていた。

 北斗は医療に精通しているわけではないが、職業柄、一般的な勉強はしている。
 短期の記憶中枢は海馬、すなわち側頭葉の古皮質にあるとされる。それに対し、長期の記憶は大脳新皮質で、連合野という部分にあると言われている。
 いや、記憶の話ではない。
 脳を切り取る、その言葉が頭の中をぐるぐると回っていた。気を取り直そうと努めるも、なかなか切り替えが上手くいかない。
 帰路の運転に支障が出ては不味い。早く冷静にならなければ。

 今、人類は、どんなことがあっても脳への介入を禁じている。
 マウス、ラット、ラビットで脳を弄る研究があったと聞くが、終ぞ人間には応用されなかった。
 それこそ、人類への冒涜だからである。
 禁忌を平気で破り、脳にメスを入れるという暴挙に出た教団。
 脳を切り取り、電脳化する。
 一体、どういうことなんだ。

 冷静になりながら、北斗は目の前の現実を整理していた。
 切り取った脳を、どのように使っているというのだろう。
 あの研究員は、電脳化と言った。
 脳死してしまえば、電脳化もへったくれもない。いや、脳死しても心臓は動く。違う、心臓が問題なのではない、切り取った脳は直ぐにその働きを止めるだろう。
 そもそも、今現在の電脳化の技術は、電気信号を脳に送り脳を活性化させるとともに、脳の並列化を進めているのだと聞く。
 脳を取り出してしまうなど、現在の方向性とは相反するような気がするが、もし、電気信号や他の何かを脳に繋げてマイクロヒューマノイド化してしまえば、少なくとも組織の壊死などは起こらない。

 そうか、試用体。バグやビートルのように、マイクロヒューマノイド化した試用体を作製しているに違いない。
 でも、なぜ?
 ここで疑問符が北斗の脳裏を過る。
 電脳化した警官たちが半身不随になるだけなら、元々電脳化しているから電脳化した人間を作製する必要もない。
 そうか。一般人への応用。
 脳のコピー。または、積み替え。積み替えて脳を空にしてしまえば、死体になって日本海や津軽海峡に浮かぶだけだ。

 北斗は、この事実と推理を一刻も早くE4に伝えたかったが、運悪く、次の休養日は1週間後だった。
 
 1週間、熟考に熟考を重ねた北斗だったが、やはり答えは出なかった。答えを出す必要もない。今の現実を送信しさえすれば、E4で調べてくれるだろう。自分は、自分のすべきことを冷静な判断力で熟していくだけだ。
 北斗はそう考えると、やっと体が軽くなった気がした。

「こちら北斗。例の施設は脳を切り取る電脳化施設と判明」

 外出のたび、トイレで活字オンラインとはいえ、尾行されている身では長々と文字を打つことも叶わない。ましてや、返事をもらうことはできない。返事が来るとき、どんなに頑張ってもバイブレーションの響きが辺りに伝わるからだ。尾行者に気付かれてしまう。
 活字オンラインを送り終えると、北斗はトイレを出て本屋に寄った。電脳化していない一般人は、本そのものか活字オンラインを使って本を読む。
 北斗は、過去に行ったとされる脳研究の本を、活字オンラインで購入したかったが、教団内では監視カメラも目を光らせていて、足がつく恐れがある。衛星通信を使っていると知られてはいけない。今回は諦めて、週刊誌とマンガを買って帰るのだった。


 また、麻田導師が山の中に行く日が来た。
 幹部たちの浅知恵なのかもしれないが、信者には、研究施設に行く日を「山中に篭る日」と嘘を吐いている。
 その日は、麻田導師の機嫌がすこぶる良かった。
 何かいいことがあった、或いはこれからあるのだろう。あの研究施設なのかもしれない。北斗はアクセル全開で山の中へと向かっていた。

 研究施設に着くなり、麻田導師は例の研究施設へと足を運んだ。幹部たちも然り。大勢の人間が、ドアの中に消えていく。
 
 北斗はその辺をぶらぶらしながら、また他施設の研究員を探そうときょろきょろしていた。
 そこに、1台の車が止まり、中からホームレスと思われる年配の男性が降りた。服装や顔の色からして、ホームレスに違いない。
 驚いたことに、その男性も例の研究施設に入っていく。
 男性は、一般人のはず。
 北斗のアンテナが、ビリビリと頭の中で鳴り響く気がした。
 もしかしたら、もしかしたら、一般人への脳の積み替え。今日はその記念日なのかもしれない。

 最初に中に消えた麻田導師や幹部たちは、なかなか出てこなかった。30分、1時間、2時間。北斗は、研究施設が見えるような場所を選んで散歩していた。ぎりぎり、顔が見えるくらいだ。
 すると、急に例の施設のドアが開いた。中から出てきたのは、麻田導師と幹部たちだった。導師たちは、談笑しながら応接間のある部屋へと移動していった。北斗は変わらず、散歩を続けていた。北斗の推理は、半分当たったと思われる。
 
 10分後くらいに、先程のホームレス男性が施設内から外に出てきた。別に、来た時と足取りも変わらず、ハタと見る限り、変化はない。その男性が歩いていく方向に北斗も歩き出した。
 何かしら変化があるのでは、と思っていた北斗は、がっかりした気持ちが先に立っていた。
 だが、ぼさぼさの髪をかきながら、男性が耳の後ろを触った時だ。
 一般人にはない、公職関係者でも少ない新タイプの電脳線が現れた。首の後ろに、電脳線を繋ぐセクションが施されていた。このタイプは、ダイレクトメモ機能を有しているとも聞くが、本当かどうかはわからない。
 少なくとも、E4で皆がオーバーホールしないところを見ると、些末なアップグレードしかないのだろう。

 男性を見るのに精一杯で何も考えていなかった北斗だが、一般人に電脳化を施したという事実は、些末なものなどではなかった。第1級の機密事項だ。2日後に休養日、即ち定期連絡の日がやってくる。そこで報告せねばならないと、はっとした北斗だった。

 定時連絡の日、北斗は何度もトイレに入って、尾行者を困らせた。トイレに篭りながら1回だけ、衛星通信を使った。
「こちら北斗。一般市民に電脳化施術成功の模様」


 北斗の潜入捜査は早いもので、3ケ月目を迎えようとしていた。これまで有益な情報は、2~3回くらいしかない。
 教団側も、流石に秘密の施術と見えて、ボロを出す様な真似はしない。
 北斗も休養日は毎週のように出かけていたが、「元気だ」という定時報告のみだ。

 空虚な毎日が続く中、北斗はちょっとぼんやりとしながら、研究施設の中を歩いていた。例の研究室界隈を歩くのが、最早週課となっている。今日も何も起こらない。そう決めて歩いていた北斗は、見たことのある顔を遠くに発見して驚いた。
 なんとそれは、以前国立研究所で見たことのある職員2名だった。
 北斗は皆のオーバーホールの際、ちょくちょく運転手をかって出ていた。その際に研究所から白衣のまま出てきたので、直ぐにあの時の研究員だとわかった。
 2人は、談笑しながら例の研究施設へと向かっていた。

 思わず北斗は、自分が監視カメラに映りこまないように注意して、研究員2人の顔を衛星通信のカメラで撮った。
 次の休養日は明日。
 活字オンラインに添付して送れば、2人の経歴や所在がわかるだろう。

 北斗には、いつにも増して時間が長く感じられた。
 暇つぶしに、石ころを蹴りながら、他の施設内を見学して歩く。この時北斗は余裕が無かったのか、信者のひとりが下手な尾行をしていることすら、気が付かなかった。

 翌日、朝から出かけた北斗は、また複合施設でぶらぶらと歩いていた。尾行者が2人、いつもより多い。
 気が付かないふりをしながら、またトイレに篭る。今日は1回目に活字オンラインを使って定期報告を済ませた。
「こちら北斗。2人の経歴探ってください」
 研究施設で撮った写真を添付して、急いで送る。もし尾行者に掴まれば、この電話機を水没させる。水没くらいは直ぐにデータ復旧できるのだろうが、その間に生き延びる方法を考えればいい。

 トイレから出た北斗だが、尾行者は北斗がトイレ内で活字オンラインを使っていることに気が付いてない様子だった。逃げられると思って、人数を増やしたらしい。
 尾行者を巻くこともせず、悠々とした態度で、北斗は教団に戻った。

 翌週。また山中への往路。
 麻田導師がぼそぼそと幹部に話しかけていた。
「オリジナルを通して、仕掛けるぞ」
「はい、何をでしょう」
「馬鹿。電脳汚染だ。オリジナルだぞ。コピーじゃないからな」
「承知しました」

 だいぶ低能の部下をお持ちで。
 北斗は幹部の馬鹿さ加減に呆れながらも、こちらにとっては、とっておきの報告材料になると思った。
 オリジナルによる電脳汚染。
 およそ、何を起こそうというのか察しはつく。
 ただし、ここで表情を変えてはならない。あくまで、寡黙な運転手に徹するのみである。

 例の研究施設に入って出てこなかった人間は、数十人に上っていた。もっといたかもしれない。北斗が確認しただけでも、1日で数人、中に入ることもあった。
 これだけの人数をどうやって集めたのか。
 そうだ、ハッキング。
 脳をハッキングして、教団にくるよう仕向けたか。電脳化しているからこそ、ハッキングには弱い。北斗のような生身では、ハッキングのしようがない。これらの人数を考えれば、かなりのマイクロヒューマノイドが出来上がるだろう。所謂試用体なのだろうが、かなりの数になる。たぶん、コピーというやつなのだ。
 最初に成功したのが、オリジナル。どれがコピーでどれがオリジナルなのだろう。
 どうやって見分けるんだ?
 北斗は運転に徹しながらも、オリジナル、電脳汚染という言葉をいつも考えていた。

 次の休養日、北斗は相も変わらず複合施設にいた。今日は、VRでパチンコをしてみる。そして、トイレに立つ。トイレの中まで音楽やパチンコ玉の音が聞こえるため、活字オンラインには便利だった。音声通信までは出来なかったが。

(なんだ、最初からパチンコ屋にしていればよかった)

「こちら北斗。オリジナルを通して電脳汚染をしかけるとのこと」

 E4では意味が分からないかもしれない。それでも、これしか言い様がない。通信が終わると、また北斗はパチンコに戻り、時間を潰した。

 北斗は、目をVRで隠していたので、気難しい顔をしていても大丈夫だった。
 今頃は、かなりの数の試用体、マイクロヒューマノイドが出来上がっているはずだ。それらはコピー。オリジナルからコピーを経由して電脳汚染。電脳が汚染されるとどのように変化するのかすら、生身の北斗は想像できない。
 壊れる?それともオリジナルと同じ動作をする?思考もオリジナルと同様になるかもしれない。脳の並列化を逆手に取った、教団の思惑。

 いよいよ、カルト教団の電脳汚染計画が始まとうとしている。
 そのXデーは、未だ北斗にも分からないままだった。そして、オリジナルがどこにあるのかも見当がつかない状況の中、北斗は運転手として麻田導師に近づきながら情報を得ようと必死だった。


 ある日のこと。北斗はいつもどおり車を綺麗に洗い上げ、麻田導師の演説に備えていた。車には、幹部2人が同乗する。これも、いつものパターンだ。
 ところが、その日は見たことの無い幹部が助手席に同乗した。
 ぼそぼそ声の導師が、助手席の幹部に向かって話しかけた。
「中村、計画は順次進行しているか」
「はい、導師。順調です」
「では、Xデーには間に合うな」
「オリジナルも動かせます」
「くくく。11月1日、午前11時11分11秒。この世は我々の楽園に変わる」
 
 北斗の顔がスッと赤みを帯びた。
 Xデーの情報を掴んだ。オリジナルはまだ判らないが、これを一刻も早くE4に報告しなくては。
 導師に心を見抜かれてはいけない。表情を硬く、いつもどおりに。
 逸る気持ちを抑えて、北斗はハンドルを右に切り、演説会場に向かうのだった。

 次の休養日。
 北斗はいつものように出かける準備をしていた。
 今日は、重大なことを報告しなくてはならない。
 周囲に尾行が付くのは承知の上だったが、パチンコ屋にでも入り浸り、本屋と往復しながら早めに報告を済ませてしまおう。
 複合施設についた北斗は、計画通り最初はパチンコ屋に足を踏み入れた。そこでトイレに入って衛星通信を使うつもりだった。
 ここなら、少々音がしても分からない空間である。
 パチンコを始めて30分。
 今日はついていない。すぐに弾が無くなる。
 座る台を変えながら、ある時点で、ふっと北斗はトイレの方向に足を向けた。
 トイレに入って、ツールをポケットから出す。壁の方を向いて文字を打ち込みだした時だった。
「こちら北斗。Xデーは・・・」
 瞬間、頭が割れるように痛んだ。そしてそのまま、北斗は床に倒れ込んだ。Xデーの通信報告は、行われることが無かった。

 北斗を後ろから殴ったのは、教団幹部の木村だった。初日からパワハラした人物だ。そうやら、北斗の存在が疎ましく尾行をつけて何とか追い落とそうと必死だったようだが、思いのほか、北斗を追い出す良い材料が出来たと喜んでいる顔だった。

 ただ、木村はあまり頭脳プレイの得意な人間ではないようで、北斗の衛星通信送信機は、木村によってトイレに沈められた。今回は、それが功を奏した格好になった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 徐々に、コピーの試用体が世の中に蔓延しつつあるのを杏は感じていた。
 北斗が車中にて聞いた「オリジナル」とは、一番初めに作られた試用体か。

 E4内部では、北斗からの報告を聞くたび、紗輝の予言が当たっていることに驚きを覚えつつも、証拠がなく教団の研究施設を捜索出来ない今、教団の動向を注視していた。
 北斗の報告によれば、ハッキングされ教団を訪れた公務関係者は、漏れなく電脳化研究の為に脳を切り取られているという。
 その脳は、試用体に移され、マイクロヒューマノイドになる。一方で、脳の提供者である公務関係者の死を意味する。
 もう、かなりの数のマイクロヒューマノイドが出来上がっているはずだ。
 
 北斗からの報告を待ち続けるだけのE4。教団周辺には西藤が待機しているが、万全の補佐状態とは、決して言えない。

 北斗からの定時報告の日。
 それは、突然起こった。
「室長!北斗の送信機、通信不能のエラーが出ました!」
 設楽の甲高い声が、奥のIT室からE4室内に響く。剛田室長も驚いたのか、今迄になく声が大きくなる。
「何だと?場所はどこだ」
「これは・・・新潟市の複合施設です」
 剛田室長の指示が飛んだ。
「そこに北斗を捨ててはいかないだろう。目立つからな。監禁も視野に入れて、新潟市の教団本部と複合施設を洗え!」

 E4では、北斗の電話が水没などによって通信不能となった場合、直ぐに分かるようなシステム設計になっている。それだけ、潜入捜査の危険性、重要性に重きを置いているのだ。
 今回は、Xデーとオリジナルを発見する前に、北斗の身が危うくなった可能性が大きい。E4ではまず、北斗を救出する作戦を決行した。

 杏が立ち上がり、時計のボタンを押しながら話す。
(バグとビートル、聞こえる?)
(キコエテルー)
(あんた達も一緒に行くわよ)
(ハーイ)

 杏は西藤に向けてオンラインメモで指示を飛ばした。
(西藤!お前はそのまま待機、教団本部の車の出入りを確認!)
 そして不破に声を掛ける。
「不破、行くぞ!」
「了解」

 伊達市のE4が入る建物から、バグとビートル、そして不破と杏が乗った2000GTが飛び出す。
 杏は、ダイレクトメモを切らずに不破と会話していた。
(フルスピードで何分かかる?)
(1時間弱)
(そうか、バグ!ビートル!フルスピードで行くぞ!)
(ハイハーイ)
(まったく、お前たち危機感というものが無いのか)
(アルヨー、ホクトノキキダシ)
(万が一、北斗が青森市の山中に運ばれたら不味いな)
(脳を切られる)
(西藤!そこから出る車のナンバーを基に、何処に行くか設楽たちに調べさせる。設楽!聞いているか!)
(こちら設楽。チーフ、聞こえてますよ)
(今言った通りだ、教団に出入りする車がどこに行くか調べろ)
(教団から出て、北上する車があったら知らせますか)
(高速に乗って北上する車があったら知らせろ。高速に乗らない場合は要らない)
(了解)
 杏が運転席の不破を見上げる。
(多分、トイレの中で殴られて倒れたはずだ。教団内部に一旦は戻るだろうが、そこで始末はしないだろう。教団本部に寄らないで、というのは考えにくい)
(どうしてです)
(お気に入りの運転手が突然いなくなったら、麻田はキレるだろうさ)
(その前に、北斗の正体を初めから知っていて運転手に雇ったのかもしれませんよ)
(向こうが一枚上手だったと?)
(そうなれば、新潟にいる必要はありません)
 不破は、北斗の運ばれるところが、教団本部説であることに些か懐疑的である。
(いや、脳を取り出す前に、北斗の正体を暴こうとするはずだ)
(その根拠は)
(どこの手先か、普通なら気になるだろう?)
(うーん。やはり、バグたちを全部新潟市にもっていくのは、ややリスキーかと)
(本部に寄らないで、そのまま研究施設に行くことも有り得るか)

 不破がハンドルをポン、と叩くと、益々車のスピードは上がっていく。
(例の研究施設ですが、もう場所は判明しましたよね)
(北斗がカメラを使用した1回だけだが、微弱電波が確認できたからな)
(ビートルと我々が別に追いかけては?)

 杏から、倖田と紗輝に向けて命令が飛ぶ。
(倖田!紗輝!お前たちは、青森の山中に行け!向こうでバグとビートルに合流しろ!)
(了解)
 杏は、緊張感の感じられないバグとビートルにも命令する。
(バグ!ビートル!2台は青森市の山中にある研究施設に向かえ!施設で倖田と紗輝に合流しろ!残り3台は、そのままついてこい!)
(ワカッター)
(バグ!研究施設に着いたら、門のところに張り付け!北斗の乗った車を中に入れさせるな!)
 ビートルは、自分の名が呼ばれないのが不満とばかりに杏に話しかける。
(ボクラハ?)
(ビートルは研究施設実験棟前に張り付け!万が一に備える!)
(ハーイ)
(皆、カメレオンモードにするのを忘れるな!)

 不破の運転する車は、猛スピードで教団本部のある新潟市を目指していた。一刻の猶予もならない。
 北斗が新潟に留まるのか、または青森に連れ去られるのか、それだけでもわかれば北斗奪還は容易い。もし、場所がわからなければ、どちらにせよ時間との闘いになる。
 事態は切迫していた。
 北斗の命が、最大級の危険に晒されている。
 普段、焦るということのない杏も、この時ばかりは焦らずにいられない。北斗の所在を示す唯一の通信機器にアクセスできない今の状況は、かなり逼迫した事態といっても良い。
 杏は、知らず知らず、右手で拳を作り、力を入れて握りしめていた。
(チーフ、焦りは禁物です)
 不破の言葉で、杏は我に返った。不破は杏の右手の上に、自分の左手をそっと置いた。
(すまない、つい)
(西藤の方は、どうなっているか確認しましょう)
(そうだな。西藤、そちらの状況はどうだ)

 新潟市にいる西藤から冷静な声が届く。
(先程1台の車が教団に入りました。裏口に寄せたところを見ると、麻田導師や幹部の乗った車ではないようです)
(北斗の可能性もあるな)
(はい。あとどのくらいでこちらに着きますか)
(不破、あと何分くらいかかる)
(あと20分もあれば)
(急げ。西藤、カメレオンモードにして、建物内を探ってくれ)
(了解)

 西藤一人では心許無かったが、今は西藤に託すしかない。あと20分、何としてでも持ちこたえてくれ、と杏は願った。

 杏たちが新潟市に入った。教団本部まで、あと10分。
 教団内に入ったのが北斗を乗せた車だとすれば、麻田導師、或いは幹部連中によって北斗に対する制裁を決めている頃だ。
 杏は、逸る気持ちを抑えて西藤に語りかける。
(西藤、北斗はいたか)
(いえ、見つかりません。まだ確認していない部屋があるので、このまま続けます)
(頼むぞ)

 教団本部まで、あと3分、2分、1分。
 着いた!
(カメレオンモードで行くぞ、不破!)
 杏はカメレオンモードになり、そのまま敷地内に入っていく。その後ろを援護する形で、不破とバグ、ビートルが敷地内を動き回っていた。
(西藤、どこだ!)
(建物西側の裏口脇の部屋にいます。北斗はここにもいません。残るは、麻田導師の書斎部屋だけです)
(わかった。我々もこれから突入する!)


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 殴打による失神から目覚めた時、北斗は車で移動している最中だった。どうやら、複合施設で捕まった時に、麻か何かの袋に入れられたようで、周囲の景色が見えることは無かった。北斗は車がどこを走っているか、見当もつかなかった。
 車内に何人乗っているかもわからないが、自分を襲った奴らは、少なくとも2人以上いたはずだ。
 北斗は、比較的冷静だった。
 周囲が見えない状況でありながら、道が段々でこぼこになっていることに気が付いた。教団本部の周辺では、道がでこぼこになっている箇所がある。 麻田導師は、でこぼこを上手く運転できる人間の車にしか乗らない。さすれば、ここは教団本部近く。
 さては、教団本部で拷問か。
 言わなければ言わないで、言えば言ったで青森市の山中に連れて行き、例の脳を取り出す研究施設に捨ててくる気なのだろう。
 どうにかして、自分の居場所をE4に知らせることができないものか。それは大変難しい問題であることは北斗自身、百も承知だった。
 
 自分を乗せた車が、どうやら教団本部に着いたらしい。
 袋のまま、腰の辺りを持ち上げられ、身体がへの字に折れ曲がった状態で北斗は教団内に連れて行かれた。
 皆、何も話さない。北斗も、まだ気を失ったふりをしていた。
 とある部屋のドアを開けると、北斗を担いでいた人間は、どさりと北斗を部屋の真ん中に投げ出した。余りに痛くて、思わず声を出しそうになったが、北斗は必死に我慢した。
「導師。やはりこいつ、胡散臭いやつです。トイレに篭って通信してましたよ」
「その通信機はどこだ」
「そのままトイレに流してきました」
「馬鹿者!通信ログを精査すれば、こやつが何も言わずとも素性が確認できたものを」
「す、すみません」
「お前はどうしてそう短絡的なのだ」
 麻田導師の声だ。
 もしかしたら、最初から俺が内偵者だと気付いていたのに、運転手を任せたのか?
 考えてみれば、おかしいことばかりだった。
 どこの馬の骨とも知れない俺を、一度見ただけで運転手として採用し、研究施設ではどこを散歩していても咎められることがなかった。入信するときだって、持ち物検査すらしなかった。
 麻田導師の方が一枚上手だったか。
 こうなっては仕方がない。E4のメンバーがここか研究施設を割出して、救出してくれるのを待つしかない。
 もし、それが叶わなければ、なるようにしかならない。

 すると、北斗を入れていた麻の袋が取られ、北斗は漸く室内の様子を窺い知ることができた。ここは、麻田導師の書斎部屋。信者がいないとき、ここの掃除を頼まれたことがある。書斎に、何か大切な書類があるかと思って調べたが、何もなかったのを覚えている。

 その麻田導師は、氷のような瞳を、北斗に向ける。そして冷たい口調で問いただした。
「お前が入信者でないことは、その眼を見れば直ぐにわかった。誰の差し金だ」
 北斗は無言を貫き通す。
 北斗を捉えた脳ミソの足りない幹部の木村が、北斗の頬を思い切り殴った。殴られた衝撃で北斗の頭は床に叩きつけられる。血の匂いがする。どうやら口の中を切ったようだ。
 すると、麻田導師は怒りに肩を震わせた。
「大馬鹿者!暴力は何も生み出さない。私の訓えに背けばどうなるか分かっているな」
「す、すみません。それだけはご勘弁を」

 
 麻田導師は、今度は信者に語りかけるような穏やかな口調で、北斗に話しかけた。
「魂は肉体に宿らず。尊厳ある死こそが高尚な意識の全て。この意味が分かるか」
 北斗は別の幹部に起こされ、後ろ手に腕を縛られていたが、口には何もされていなかった。
「自爆テロも辞さない、というわけですか」
 
 麻田導師がぐふふ、とシニカルな笑いを浮かべる。
「お前さんは賢い。どうだ、このままここにいては」
 生と死の狭間に立つと、人は冷静になるのか、それとも泣き叫び我を忘れ、そのまま地獄に堕ちるのか。
 北斗は地獄に堕ちたとしても、正義を貫きたいタイプだ。
「いえ、遠慮します」
「そうか。お前、あの研究施設についても知っているな。できることなら仲間になって欲しかったが、お前が望まないなら仕方がない。餌食になってもらうとするか」


 一瞬間。


 パン、パンと拳銃が発射される乾いた音、幹部たちの慌てふためく声。そして教団内の護衛ロボットが次々と、ガシャッと音を立てて崩れ落ちる。麻田導師の書斎部屋から教団内部全体に、皆が逃げ惑う姿が錯綜した。
 杏は目の前にいた幹部を蹴り飛ばし、右腕を撃つ。幹部は叫び声を上げてその場にうずくまった。
 幹部の中に、拳銃を所持している者がいた。恐怖のためか、辺り構わず銃口を向け発砲してくる。幹部の顎をパンチで叩き割った杏は、援護をしている不破に伝える。
(こいつにも手錠を)
(了解。また派手にやらかしましたね)
(足りないくらいだ)
 
 カメレオン化した杏、不破、バグは書斎部屋に留まり、西藤とビートルたちが教団本部内に散らばりながら、出くわした人間の手足を撃ち、教団を制圧していく。幹部たちや下働きの信者たちが、次々と後ろ手に手錠を掛けられていた。

 杏は倖田たちに向けて、帰還のメッセージを発する。
(倖田、紗輝!北斗を発見した。E4に戻れ!バグ、ビートルもだ!)
(了解。研究のカモにならなくて何よりです)
(ボクタチモカエルネ)

 北斗は教団幹部たちの制圧の邪魔にならぬよう、部屋の片隅に避難していた。その前にバグが現れ、カメレオン化したまま、北斗の縄を解き保護する。これで北斗の身は安心と思っていい。
  
 10分ほどで教団本部内を制圧すると、杏だけがカメレオン化を解き、床に降り立った。そして北斗の方を見る。
「大丈夫か、北斗」
「はい、怪我はありません」

 麻田導師は、杏を怖れるどころか、カメレオン化の技術が欲しいと言わんばかりに杏をじっと見つめていた。
「何という高い技術。やはり、義体化はこうでなくては」
「麻田。そういう場面ではなかろうが。これが見えないのか」
 杏の拳銃は、ピタリとその照準を麻田導師のこめかみに合わせていた。

 麻田導師は、シニックな笑いを止めず、なおも杏を見つめ続ける。
「君は私を殺せない。私の口から聞きたいことがあるはずだ」
 杏が拳銃を上に向ける代わりに、カメレオン化したままの不破が、銃の照準を麻田導師に合わせた。
 麻田導師がぼそぼそとした声で、杏に向けて呟いた。
「取引しないか」
 拳銃を再び麻田導師に向けながら、杏がじりじりとその顔に近づき、低い声で尋ねる。
「何を材料に?」
「Xデーとオリジナルを明かそう。その代り、私の命を助けてくれ」
「小賢しいやつだな。ま、いい」
 北斗がXデーを叫ぶ。
「11月11日午前11時11分11秒」
 麻田導師がくぐもるような声で笑う。
「それは、君を嵌めるための嘘だ。実際には、10月10日。10時10分10秒」
 杏が拳銃を構えたまま、今一度麻田導師を尋問する。
「今度は本当なのか?オリジナルは、誰だ」
「オリジナルは・・・」

 その一瞬。
 渇きながらも重みのある音が炸裂し、瞬きもしないまま、麻田はバタンッと後ろに倒れ込んだ。
 1発のライフル弾が、麻田の額に命中したのだった。血しぶきが室内に広がる。一旦麻田から離れた不破が屈みながら麻田に近づき、脈を計る。
 もう、麻田は絶命していた。
 杏は窓枠に近づき、弾丸が当たりひび割れた窓の外を睨んだ。200mほど離れた場所に、ビルが立ち並んでいた。
 多分、狙撃はそこから行われたものだろう。1発で獲物を仕留める程の、優秀なスナイパーと見える。
 これから駆け付けても、狙撃犯には逃げられるだけ。それより、狙撃されたことで、杏たちが犯人だと勘違いする幹部連中も出てくるはずだ。

 またも、狙撃。

 忸怩たる思いではあったが、杏はその場を離れることに決めた。
 そして、時計の右端ボタンを押す。
(皆!麻田が狙撃された!直ぐに警察が来る!ここを立ち去るぞ!)
(了解)
(アン、ラジャー!)
 
 西藤がバスに戻り、バグやビートルも門の外に出た。不破は北斗を2000GTの後部座席に乗せ、杏は自ら助手席に乗る。キュキュキュッとタイヤの音を鳴らしたかと思うと、不破が運転する車は、物凄いスピードでその場を立ち去った。地元警察のパトカーの音が、遥か遠くに聞えていた。


 オリジナルの存在を聞き出せなかったE4だが、麻田導師の死と幹部たちの逮捕により、年末Xデーの電脳汚染は阻止できた形となった。
 麻田導師が殺害されたことは、マスコミ操作の末、非公表とされ、各地の道場では幹部連中が訓えを実践し、信者に修練を行わせていた。
 そこから、教団は幹部同士がいがみ合う形になり、2つの組織に分れたという。

 新Xデーに備え、E4ではオリジナルを探し続けたが、当ての無い旅のようなものだ。どこをどう探せばよいのかわからない。
 麻田導師自身がオリジナルではないかという意見も出たが、狙撃されたということは、使い道がないと判断されたも同然。
 オリジナルは必ず生きている。
 そして、一般人の電脳化と洗脳、これがカギとなる。
 今、E4で分るのは、精々その程度だった。

第4章  ライ麦畑でつかまえて

 紗輝はスナイパーとしてE4に属していたが、必要最低限の仕事が終わると、ぶらりと外に出たまま、殆ど戻らない。それは、昼夜通してのことだった。
 どうやら、息抜きにドライブに出かけているようだ。
 別にダイレクトメモさえつながれば、杏たちが口を挟むことでもないのだろうが、こういう時に限って事件は起こったりする。
 杏は、注意すべきかどうか迷っていたが、以前の「暖簾に腕押し糠に釘」のようなことがあると、何をいっても聞きゃしない、という先入観にとらわれた。
 今日もまた、夕方になると紗輝は挨拶も程々に、E4を出て行った。定時退庁といえば聞こえはいいが、E4にいる限り、それは少し違う。
 だが、あの仏頂面を見ているよりは、ダイレクトメモで呼び出せば済むかという思いに至る。他のメンバーには申し訳ないが、呼び出しに応じない場合、4人とバグ、ビートルで何とかするしかあるまい、と腹を括っている。

 室長もこのことは知っているようだが、杏と同じような考えでいるらしい。室長は、紗輝のようなタイプが苦手と見える。テロ制圧部隊として、また、推理力において、紗輝は光るものがあるのは本当だが、すぐに鼻を曲げるのがいけない。

 次の日も紗輝はミーティングと射撃訓練のあと、事件が無いと知るや、日中からドライブに出かけて行った。ちょうど剛田室長は、カンファレンスに出掛けたあとだった。
 
 面白く思っていないのは、杏だけに限らない。
 あんなにお気楽な設楽と八朔でさえも、恨み節が出てくる。
「また行っちまった」
「今日は戻ってくるのかね」
「チーフ、あいつに何とか言ってくださいよ」
 杏は2度、肩を竦めた。
「あいつはあたしの手に負えない」
「げっ、チーフでも苦手な人間、いるんすか」
「そりゃいるさ」
「ドライブって言ってましたよね。Nシステムで調べてみるか」
「おいおい、いくらなんでもプライベートだろうに」
「本人には言いませんよ」

 そういうと、設楽と八朔はIT室に走り込んだ。そして部屋に篭ると、Nシステムルート探しゲームを始めた。杏から言わせれば、お前たちも同類だ、と。ただ紗輝と違うのは、この室内にいるかどうかだけ。

 こいつら全員、一度ビンタしたい。
 杏からビンタを食らえば、良くて打撲、運が悪ければ骨折。杏の手は、小刻みに震えた。

 北斗がドアの所に姿を見せた。
 3日ぶりの出勤である。
 潜入捜査は気を遣いすぎて、精神的に辛いものだ。剛田室長は、北斗に潜入捜査を頼んだ時は、捜査が終了すると少なくとも3日間の休暇を与えている。
 最初に北斗を見つけたのは、不破だった。
「おう、北斗。もう出てきて大丈夫か」
「うん。しっかり休んだし」
「バグとビートルが五月蝿くて。北斗はどこーって」
「あとで地下に降りてみるよ」
 こういった休暇や勤務時間など、E4はフレックス勤務に近い。

 倖田と西藤は、こと恋愛に関しては奥手のようだが、なぜかホステスさんの多い飲み屋がお気に入りで、非番の前日などは、夜が更けるまで飲んでいるらしい。
 ただ、倖田たちが入り浸っている店は、公務関係者のみ入れる店だった。やはり、一般人の前に出て飲むことは、かなりハードルが高い。
 不覚にも酔いが全身に回り脳がショートするだけなら未だしも、義体化した身体で一般人に危害を加えることのないよう、公務関係者の飲酒は厳しく取り締まられていた。

 百薬の長として古くから持ち入られてきたアルコール。身体に取り入れ過ぎれば百毒の長、悪魔の発明した水とも名を変えると言われる。アルコール依存症の一般人は国内に5百万人はいるとされていた。そもそも治療をしているのが5百万人なだけで、潜在的なアル中患者は1千万人とも言われているほどだ。
 アルコール依存症とは、鎮静剤としてのアルコール、すなわち薬物に依存する病気である。
 また、アルコールよりも強い有害物質としてアセトアルデヒド(ALDH)が挙げられる。ALDHが他民族より少なく、酒に酔い易い体質とされる日本人。アセトアルデヒド脱水素酵素や飲酒時に脳を司るとされるカタラーゼは肝臓に存在するというが、モンゴロイドはその働きが活性化しづらいのだという。それに比べ、コーカソイドやネグロイドは脱水素酵素の働きが活性化しやすい。
 旧露のお父さんたちが昼からウォッカを口にしても酔った様子が見受けられない絡繰りである。


 杏も、特に事件の無い夜は、剛田の家に帰る。不破も一緒に帰る。剛田と杏、不破は3人で暮していた。
 2人は仲が良いから、「交際している」と勘違いする人間もいるが、どちらかといえば、同志。
 2人とも、マクロヒューマノイドの研究材料として国立研究所で検査や訓練を受けてきたが、それは決して楽しいものでは無かったし、楽なものでもなかった。
 2人は歳も近かったが、特に仲良くお喋りを交わす間柄というわけでもなかった。ただ、何年も一緒にいたからこそ、お互いが隣にいるのが空気のように自然になっている。


 そんなある日のことだ、紗輝はE4を抜け出し、またドライブしていた。
 ただし、今日は一人ではない。助手席には、一般人の女性が乗っていた。
 ドライブ途中にナンパした訳ではない。きちんとした理由がある。


 女性は、花屋のスタッフだった。
 紗輝が女性を始めて見たのは、E4に来た当日。E4では、室内に生け花を飾っている。ほぼ男だらけの空気にはそぐわないが、男臭さも少しは抜けようというものだ。
 だが、そういった気遣いがあるのはE4ならでは、らしい。以前勤務していたERTでは、汗臭い香りが其処彼処に漂い、ただでさえ臭気に鼻の利く紗輝は、毎日のように吐き気をもよおしたものである。

 別に、一目惚れしたというわけではない。
 第一印象はE4に女性が尋ねてきた、という驚きだった。そして生け花を納品する花屋と聞いて、納得しただけ。
 それなら、なぜその女性が紗輝の運転する車の助手席に乗っているのか、不思議である。

 紗輝は帰庁後、ドライブに出掛けない日もある。そんな時は、きまって本屋に顔を出す。本屋も、昔は本ばかり置いていたものだが、今やディスプレイは様々で、花はその中心的な役割を果たしている。
 紗輝の寄る本屋も、然もあらん。
 生け花は出入り口の脇に始まり店内中にある。
 いつものように帰庁後、閉店ギリギリの時間に本屋に寄った紗輝が見たのは、店内を走り回る花屋の女性だった。
 忙しそうに誰か走っているなと思ったら、いつもE4に来る女性が、花束を持って本屋中を走っていたというわけだった。
 その日は閉店ギリギリということもあって、「ちょろちょろ動く女性」と紗輝の脳裏にインプットされただけで、それ以上の進展はなかった。
  
 それから何度も、紗輝は本屋で女性を見かけた。
 閉店した本屋の中で、花を活けていたようだ。3輪車を引いて、各営業先へと花を届けているのだった。普通なら、車で運ぶだろうに。

 紗輝は決して冷たい人間ではない。どちらかといえば、根は温かみのある30歳だ。
 本屋から出た女性に、思い切って声を掛けた。

「どうも。驚かないでください。自分の職場で貴方をお見かけしたことがありまして」
 女性は少し驚いた様子を見せたが、次第に、にっこりとした営業スマイルに変わる。
「思い出した。あのビルですね、いつもありがとうございます」
「お忙しそうですね、車で運んでいないのですか」
「私は入ったばかりだし、近場専門ということで車は使ってないんです」
「それだと花が痛んで大変でしょう。お手伝いしましょうか」
「そんな、ご厚意に甘えてしまっては申し訳ありません」

 紗輝が感じた女性の第二印象は、一所懸命に仕事をこなす真面目さ。
 次に紗輝が女性を見かけたのは、1週間後である。
 雨の日、3輪車も生け花の材料も濡れる。なるべく材料が濡れないよう、何かしら工夫しているようだが、車ならそんな必要もない。
 紗輝は、本屋から出てきた女性に、また声を掛けた。
「大変そうですね、お手伝いさせてください」
「申し訳ないですから」
「毎日というわけにはいきませんが、なるべく車を出せるようにしますよ、お店の場所を教えてください」

 そんな会話があった翌日。空はどんよりと曇り、今にも雨が降りそうだった。
 紗輝はミーティングが終わると、剛田室長に今週のスケジュールを確認する。
「室長、今日、何かありますか」
「特にない」
「じゃ、今日から1週間、休みもらいます」
「何かあるのか」
「いえ、特には」
「事件が起きたら呼ぶ。それでいいなら休暇を認めよう」
「はい、わかりました」
 紗輝はそういうと帰り支度をして、そそくさとE4を後にした。


 一旦家に戻り、車を出して紗輝が向かったのは、女性の勤める花屋。ダイレクトメモ機能のある時計は、家に置いてきた。事件があっても連絡を受けないことにしていた。
 
 家から車で10分。教えてもらった花屋の店先を覗くと、女性が、3輪車に生け花の材料を積み込むところだった。紗輝は店に入り、店長と思われる男性の目の前に立つ。
「僕は彼女の兄なのですが、天気の悪い日を中心に、妹の配達を手伝ってもいいでしょうか」
 店長は一瞬、訝ったのだろう。思い切り眉間に皺を寄せたが、断る様子はなかった。家族と聞いて、断る理由が見つからなかったのかもしれない。
 紗輝は外に出ると、女性が3輪車に運んでいた生け花の材料を、自分の車に積み直す。
 そして小声で、女性の耳元で囁いた。
「すみません、強引で。家族ということにしました」
 女性も驚いた様子だったが、嫌な顔は見せなかった。
「ありがとうございます。これで今日は楽に配達できます」
 
 配達を始めた頃、空から大粒の雨が降ってきて、道路を濡らし始めた。女性はほっとした様子で、紗輝の方を向いて頭を下げた。
「助かります」
「雨の中配達するのは大変でしょう」
 会話が弾むわけではなかったが、紗輝はある種の緊張を感じながらも、隣に女性が乗っていることを心地よく思った。

 その週は、毎日朝から晩まで女性の仕事に付き合った紗輝。女性がビルやホテル、その他様々な場所に配達し花を活けている間は、車の中で音楽を聴きながら本を読んで待つ。女性が配達先から車に戻ると、次の配達先に向かう。
 女性との会話も少しずつ増えてきた。
 互いの名前を教え合い、電話番号を聞く。
 紗輝が困ったのは、自分の職業を聞かれた時だった。
「紗輝さんたちのお仕事は何ですか?皆さん、机にかじりついていませんよね」
 E4では、常に皆、のんびりと座ったり寝転んでいたりする。紗輝は返答に困った。
「あ、ああ、そうです。気楽なIT系の会社ですよ、フレックス勤務の」
「あら、拳銃のようなものを磨いてる人を見たわ」
「彼は営業職で、射撃を趣味にしてるんです。IT室に篭ってる人間だけは、結構忙しい」
「そうなんですか、もしかしたら、公的なお仕事かもしれないと思っていたんです」
「違います。気楽な職ですから、いつも誤解される」
「じゃあ、義体化もしてないんだ」
「義体化か。僕はあまり好きじゃない」
「私も。今のところに仕事を見つけてからは、疲れないマイクロヒューマノイドもいいな、って思ったりするけど」
「お花屋さんの仕事は体力勝負ですね、今になってわかりました」
「そうなんです、綺麗なお花に惹きつけられて就職したのに、全然違ってびっくり」
 女性は右手を口元に寄せて、くすくすと笑った。
 紗輝もハンドルを操作しながら、つられて、あははと笑った。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 紗輝たちがほのぼのと会話を交わしているちょうどそのとき、E4では設楽がNシステムで紗輝の車を探していた。
 杏が設楽の後ろに立ち、突然大きな声を出す。
「悪趣味だぞ、設楽」
「趣味じゃありません、仕事ですよ」
「何が仕事だ。紗輝の車を追っているんだろうが」

 八朔が、杏の後ろに回り込んで設楽を突く。
「見つけましたよ、伊達市、国道13号線。A677区域です」
 設楽がにやにやしだす。
「どれ、あ、いたいた」
「助手席に誰かいますね」
「ん?もう少し大きく出ないか、画面」
「MAXです、これでも」
「雨露が邪魔してるのか。お?八朔のいうとおりだな、女が乗ってる」
「仕事休んで女とドライブ?ちょっとE4舐めてませんか」
 設楽は画面に釘付けになりながら、杏にお墨付きを貰おうとしている。
「どうします、チーフ」
「プライベートを注意できないだろう」
「この女、どっかで見たような気がする」

 杏は女性の正体に気付いていたが、2人に言うと大騒ぎしそうなので黙っていた。

 そのうち、設楽が女性を思い出した。杏のいることなど忘れたように、八朔との話に花が咲く。
「あ、生け花」
「そうだ、設楽さん。この人、うちで花活けてる」
「なんだ、紗輝のやつ。気に入って声かけてたってか」
「それにしちゃ、くそまじめな顔して運転してますよ」
「笑顔が無いと、フラれるぞー、紗輝くんよぉ」

 杏は一人カメレオン化し、Nシステムの電源を切る。
 画像は途端に消え、部屋の中は暗くなった。
「お前たち。紗輝のことを言えた口か。油売ってる暇があったら、FL教のオリジナルでも探せ」

 杏の声が聞こえたのか否か、設楽が小さく舌打ちした。カメレオン化した杏の目前で。杏はカメレオン化を解き、椅子にこし掛けている設楽を見下ろした。
「ほう、舌打ちするくらいこの仕事が嫌か。どうする、剛田室長から辞令でももらうか?」
 途端に設楽の顔が青ざめる。
「いやあ、そんなことありませんよ。オリジナル、探します、な、八朔」
「設楽先輩に同じです」
 杏は2人にプチ雷を落とした後、IT室を出た。

 頭を抱える杏。
 明日のミーティング後は、紗輝の話題で一部が盛り上がりそうだ。他人のことなど放っておけばいいものを。紗輝が出勤したら、また冷かして、紗輝が怒って帰るパターンが目に見えている。設楽のくだらないお喋りは何とかならないものか。

 といいながら、杏も紗輝のことを考えていた。
 紗輝のことだ、ここで見初めたとは思えない。あいつは非常に考えていることが顔に出やすい。見初めたのがE4内なら、顔が紅潮しても不思議ではない。でもそんな顔は見たことが無い。
 となれば、どこか他のところで偶然会い、仕事の手伝いでもしているというところか。今日は平日。普通の花屋なら休業日ではなかろう。花をビルまで運んで活ける仕事なら、相当な量の花を運んでいるはずだ。
 紗輝はどうしようもなく自分勝手だが、根は優しい。下心なく、手伝いをしているに違いない。それが恋心に変わるかどうかは、紗輝次第だ。
 それよりも、あいつは一般人になりたがっている。これを機に、チームを脱退するかもしれない。この仕事を辞めたいと申し出る確率は高い。
 取り敢えず倖田1人でもスナイパーは足りる。どちらかといえば、制圧部隊がもう一人は欲しい。
 剛田室長に、新たなメンバーのスカウトでも頼むとするか。

 E4室内に戻ると、みな寝転がっている。
 入口付近に、花屋の彼女が活けた花が綺麗に整えられていた。

 自分までもが紗輝の恋心に踏み入ろうとしている事実に気付いた杏は、首を2,3度横に振ると、そのままE4室内を出て、非常階段に向かう。非常階段に出た杏は、大きく身体を広げて新しい空気を吸い、脳まで活性化させた。

 
◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 1週間後。
 紗輝は遅刻もせずにE4に出勤した。珍しく、スーツを着用している。スーツのポケットには、退職届が入っていたのだった。ミーティング後、剛田室長に渡すつもりで神妙な顔つきを終始崩さなかった。
 そこに、設楽、八朔、杏と不破がほぼ同時刻に出勤してきた。
 設楽と八朔は、紗輝を見て右手を縦に口に当て、冷やかすような仕草を見せた。後ろに杏がいることを知っていたので、声には出さなかったらしい。
 不破がもろに不機嫌な顔つきになる。
「あの辺、朝から弛んでますね、チーフ」
「そうだな。また雷でも落とすか」

 全員が揃い、ミーティングが始まる。
 剛田室長から今週のスケジュールや注意事項などが話され、質問があれば受け付ける。今週は特に何もなく、ミーティングは早々に終了した。

 自分の椅子に座った剛田室長の前に、ささっと紗輝が進み出た。
「室長、実は」
「何だ」
「こちらを受け取ってください」
 スーツのポケットから退職届を取り出した。中身を見た剛田室長は、驚くでもなし、慰留するでもなし、ただ黙って、一度だけ頷いた。
「これから人事にもっていく。承認が出たら、承認書と、もろもろの書類を郵送しよう」
 紗輝は、安堵の溜息を吐いた。
「はい。では、今日はこれで失礼します」
 紗輝は剛田の机から離れると、杏を呼び止め挨拶した。
「チーフ。短い間でしたがお世話になりました」
 杏は、にっこりと笑って紗輝の肩を叩いた。
「辞めるのか。達者でな」
「はい、チーフもお元気で」
「皆にも挨拶していけ」
「チーフからお話いただけますか」
「そういうな」
 杏は声を張り上げた。
「皆、こっちにこい」
 背広姿の紗輝と杏のところに、皆が集まってくる。
「今日付けで、紗輝が退職する。紗輝から最後の挨拶だ」
 紗輝が、ややぶっきら棒気味に挨拶した。
「皆さん、お世話になりました。どうぞお元気で」
 設楽や八朔は、退職の理由が花屋の彼女だと、今、気が付いたらしい。
「あ、紗輝。もしかして」
「設楽。余計なことは言うな」
 杏が設楽を嗜める。
「いや、いいんです、チーフ。俺、花屋に転向することにしましたんで。ここにも配達にくるかもしれないし」
「配達に着たら、珈琲の1杯も飲んで行け」
「ありがとうございます、室長。それでは、これで失礼します」

 紗輝は皆から離れ、ドアを開けて一歩進み出ると、振り返り室内に向かって一礼した。
 廊下に出た紗輝を、杏は追った。
「紗輝。職はまだしも、電脳や義体の事実は伝えてあるのか」
「いいえ。隠し通します」
「それなら、国立研究所に相談してみよう。解けるものなら解いた方が気楽だろう」
「右腕はそのままでも。花屋って、結構体力勝負だったりするんです。足腰も義体化したいくらいですよ」
「そうか。何かあったらあたしに相談しろ」
「ありがとうございます」

 踵を返して廊下を歩く紗輝の後姿は、どこか愉しげだった。
 これからの人生が、紗輝にとって輝かしいものになりますように。

『ある種のものごとって、ずっと同じままのかたちであるべきなんだよ。大きなガラスケースの中に入れて、そのまま手つかずに保っておけたら一番いいんだよ』

 J.Dサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」の中で、杏の好きな一節だ。
 まさに、今がそうだった。本当は、紗輝は変わるべきではない。なぜだか分らないが、そんな気がした。
 杏は魂が疼くような気がして、一抹の不安を抱えながら紗輝を見送った。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 今日も平穏。
 紗輝がいなくなってからのE4は、主だった仕事も無く、皆、だらけきっていた。
 北斗だけが真面目にバグやビートルの世話をし、床を掃除していた。
 杏は、設楽と八朔のいるIT室に向かった。
「おい、また北斗が掃除してるじゃないか。掃除メカにさせろ」
「あいつがやるっていうもんで」
「北斗からお前たちに言うと思うか?」
「聞いたんですよ、こないだ、休養明けに。そしたら、自分がやるって」
「北斗は真面目だから何かしていないと嫌なのかもしれないな」
「そういうことです」
 杏が、設楽の頭に拳骨を入れる。
「馬鹿者。そういうことです、じゃない。掃除メカを直せ」
「北斗はどうします」
「こちらに寄越せ。遊ぶだけならいいが、掃除まで任せるな」
「りょかいでーす」

 北斗は49階に戻ってくると、飛んできて杏に声をかけた。
「すみませんでした。こちらで何かすること、ありました?」
「北斗。頑張り過ぎだ。バグたちとは遊ぶだけにしておけ」
 北斗が照れ笑いを浮かべる。
「いや、そんなんじゃないんです。あいつらと遊べるの、楽しいし」
 杏は北斗の左肩をぽんぽん叩く。
「だから、遊ぶだけにしておけ。掃除してる間は遊べないだろ」

 北斗はコクンと頷くと、自分の机に移動して、活字新聞を見始めた。
 不破は別室で筋肉調整のトレーニングをしている。マイクロヒューマノイドとて、修練しなければ筋肉が落ち、贅肉と化す。贅肉がパーツの繋ぎ目まで落ちてくると、大変みっともない姿になる。
 不破をはじめ、西藤、倖田も同様。皆で筋肉のあるべき場所を確認して、戻すことに力を入れていた。
 北斗も暫く新聞を見ていたが、筋肉増強のトレーニングをすると言って、別室に赴いた。
  

 すれ違いに、剛田室長がE4室内に入ってきた。
 設楽や八朔に聞かれたくないのだろう。電脳を繋げ、と杏に向かって耳の部分を覆う仕草をする。杏は言われた通りに耳たぶを強く押した。
(どうしたの?)
(国立研究所から、バグとビートルを引き揚げる旨の連絡があった)
(どうして今時期に。何かあったの)
(使用履歴がないからだそうだ。表向きは、な)
(裏向きもあるってわけ?)
(試用機を回収したいのだろう。別の思惑を感じる)
(折角大好きな北斗が3カ月ぶりに戻ったのにね、あの子たちの記憶は消されてしまうのかしら)
(おそらく)
(残念だわ)

 杏は深く溜息を吐くと、電脳を解いた。
 皆に今、言うべきか、言わざるべきか。
 IT室に聞えないよう、剛田室長の傍に寄る。
「いつ?」
「今週末」
「早いのね」
 杏はまた溜息を吐いた。2度も溜息を吐くチーフの存在に、まず、設楽が気付いたらしい。IT室から出てくると、杏の傍に陣取った。
「どうしたんです、さっきからこそこそと」
「別にこそこそしてはいないけど」
「嘘ばっかり。向こうのガラスに反射して写ってましたよ。電脳繋いで何か話してる姿が」
「あら、そうだった?」

 杏は、決意を固めた。
「設楽。別室にいる連中を呼んできて。話があるの」

 設楽が指でOKマークを作り、廊下に出る。その背中を見送った杏と剛田室長は、首を振りながら自分の椅子に座りこんだ。
 5分もすると、メンバーがぞろぞろと室内に戻ってきた。
 皆、何の話があるのかと不思議そうな顔をしている。杏の表情をよんで、テロ制圧の任務でないことだけは気が付いたようだ。
 杏は、そぞろに寂しさを覚えながらも、チーフとして毅然と振舞っていた。
「皆揃ったわね。今、室長から聞いたんだけど」
 設楽がいつものように横槍を入れる。
「で。何です?異動話?」
「異動には違いないわね」
「誰が異動するんです?」
「バグとビートルが研究所に帰ることになったわ」

 途端に、北斗の顔色が悪くなった。
「チーフ。今から地下に行ってあいつらと遊んできてもいいですか」
「ええ。今週末までだから、たくさん遊んであげて」
「はい」
 北斗は、取る物も取り敢えずと言った調子で、ドアをバタンと開けると、バタバタと地下に降りて行った。

 不破も杏に尋ねたいことがあるようだった。じっと杏の目を見ている。
「どうしたの、不破」
「なんだか急ですね、何かあったんですか」
「使用履歴がない、というのが建前みたい」
「本音は?」
「試用機の回収。そうよね、室長」
「そうだ。E4での任務には支障が出ない、という話だが」
 不破は納得がいかない様子だった。今度は剛田室長を見つめる。
「それにしちゃ、急ですよ」
「そうだな」
「何か裏にあるのかな」
「たぶん」
「調べてみてもいいですか。任務がないときに」
 剛田室長がワハハと笑う。
「じゃ、今が最適だ」

 杏と不破は、一度地下に降りた。西藤と倖田も一緒のエレベーターに乗る。誰も言葉を発しなかった。まるで通夜の団体のようだった。
 杏が、一言だけ発する。
「今週末に引き揚げられるそうだ。皆、なるべく遊んであげてくれ」
 エレベーターが地下に着いた。

 1台のビートルが4人に寄ってくる。
「ミンナデドウシタノ?」
 不破が極めて自然に返答する。
「任務がなくてな、暇なのさ」
「ニンムガクルマデアソベルノ?」
「ああ」
「ミンナ、ヨホドヒマナンダネ」
「そういうな。遊ぼう」
「ジャア、オイルサシテ」
「わかったよ」
 オイルの缶を3人がばらばらに持って、バグやビートルに注してあげる。
 杏はバグたちの寝床を見に行った。汚かったら、掃除をしようと思ったのだ。
 寝床の片隅に、本が落ちていた。手に取って、杏は驚いた。
 J.Dサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」だった。

 名言も数多くある中、殺人や暗殺の洗脳本という都市伝説もある著書。
 剛田に引き取られてから、杏もこの本に夢中になったことがある。
 現在、暗殺も任務のうち、を考えれば、都市伝説アリッというわけだが、別に関係はあるまい。

 それにしても、バグたちがこれを読んでいたのか。
 杏は、1台のバグを捕まえた。
「この本は誰が読んでいた?」
「ミンナデヨンダヨ」
「誰からもらった」
「ホクト」
「いつ」
「エフエルキョウニイクマエ」
「読めるのか、本当に」
「ウン、ヨメルシイミモワカルヨウナキガスル」
「そうか。ありがとう」

 たった3ケ月で、皆で回し読みしながらも意味がわかる。普通のロボットなら、意味をインプットしない限り自力で意味を考えるのは無理だ。
 バグもビートルも、人間が思うより遥かに成長している。
 こいつらを、研究所に返すのは惜しい。

 しかし、こいつらを研究所に返せない理由にはならない。

 そうだ、使用履歴の問題だった。
 もっと一緒に現場に行くんだった。
 そもそも、テロ制圧そのものの現場が少なかった。難しい任務がなかった。
 今更何をいってみても、空しく木霊するだけだ。
 杏は本を寝床に返すと、自分もビートルに油を注すため、オイル缶に手を伸ばした。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 
 週末、バグとビートルを研究所に返す日がやってきた。
 北斗は余程寂しかったらしく、言葉も掛けられないと言って、地下に降りようとはしなかった。
 杏も、バグ、ビートルたちに対して、お前たちを研究所に戻すとは言えず、オーバーホールがある、と嘘を吐いていた。
 久しぶりに研究所でオーバーホールするバグやビートルたちは、朝から騒々しかった。

「ミンナデナランデイケバイイノ?」
「イツマデムコウニイルノ?」
「ダレカイッショニイクノ?」
「ホクトハ?」
「サキハイナクテイイヨ」
「ウン、ウルサイモンネ」
「ソウイエバ、サキヲチカゴロミテナイネ」
「ヤメタンジャナイ?」
「イイヨ、サキノコトハ。ソレヨリ、ホクトハ?」
「ホクトヨンデキテー!!」
 
 倖田がエレベーターで北斗を呼びに行く。
 北斗は、E4室内で、1人涙していた。
 倖田が顔を出すと急いで涙を拭き取ったが、また、涙が溢れてくる。
 静かに北斗の左肩に手を添える倖田。
「バグたちが会いたがってるぞ」
 鼻をすすりながら、北斗は下を向く。
「こんなんじゃ、とてもじゃないけど顔出せない」
「もう二度と会えないんだ、最後に会ってやれ」
 しばらく身動きもしなかった北斗だが、こっくりと頷くと、涙を拭きサングラスをかけて目元が皆に見えないようにして、倖田と一緒に地下に降りた。
「ホクトダ」
「イマカラボクタチケンキュウジョニイクンダヨ」
「ホクトモイッショニイカナイ?」
「イコウヨ!」

 バグたち10機に囲まれ、北斗は今にも泣きそうな顔をしている。
「うん、運転してついていくよ」
 北斗は、それだけの言葉を絞り出すのがやっとだった。

 前日の夜、杏と不破はカメレオンモードで研究所に入り込んでいた。およそ不夜城と化している国立の研究所だが、戸締りをして帰っている研究員も多かった。研究員のいない部屋で、研究内容を探った。
 どの部屋を探っても、パワーアニマルに関する研究を行っている部署は無いようだ。
 とすると、パワーアニマルを必要としているのは誰なのか。
 2人には、見当もつかなかった。


 国立研究所はE4のビルから車で20分の山際にある。
 北斗は車に剛田室長と杏を乗せ、研究所へと車を走らせた。
 その後を、バグとビートルがついていく。なるたけ時間を稼ごうという北斗は、のんびりとしたスピードでアクセルを踏みこむこともせずゆっくりと車を走らせていた。
 それでも、20分は短かった。
 すぐに研究所へ到着した一行。
「ホクト、スコシマッテテネ」
「スグニカエルカラ」
「ホクト、バイバーイ」
 バグとビートルたちは、北斗にバイバイと前足を振りながら、剛田室長と一緒に研究所に入っていく。
 全てのバグ、ビートルが入り終えると、北斗は声を上げて泣きだした。
 杏が助手席から降り、運転席に回り込む。
「北斗、帰りは私が運転する。助手席に乗れ」
「すみません」
「あと、ほら」
 杏が差し出したのは、北斗がバグたちに渡した「ライ麦畑でつかまえて」の本だった。
「あいつら、3ケ月間、皆で回し読みして、意味もある程度わかったらしいぞ」
「どんな言葉が好きって言ってましたか」

「『幸いなことに、その中の何人かが、自分の悩みの記録を残してくれた。君が望むのなら、君はそこから学ぶことができる。それとちょうど同じように、もし君に他に与える何かがあるならば、今度はほかの誰かが君から学ぶだろう。これは美しい相互援助というものじゃないか。こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ』だそうだ。
あとは、
『ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとうになりたいものといったらそれしかないね』って言ってたビートルもいたな」

「俺より勉強家だ。研究所じゃなく、ライ麦畑に連れて行ってあげたかった」
 そういって、北斗はまた泣く。堰を切って溢れ出た涙は、ハンカチが何枚あっても足りないくらいだった。
 杏も少しだけセンチメンタルになりかける。
「お前から学んだことがたくさんあって、あいつらは嬉しかったに違いない。もう泣くな」
 北斗を泣き止ませ、本を渡した頃、剛田室長が研究所から出てきた。
「E4に戻るぞ」
 杏の運転する車は、ゆっくりと研究所を出た。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 研究所からの帰り道、杏は北斗のアパルトモンに車を停め、北斗を降ろした。
「泣き止んだらE4に出てきなさい」
 杏も剛田室長も、今日は北斗に休みを与えるつもりだった。北斗を必要とする潜入捜査は、今すぐにはない。
 杏が北斗を降ろしたのは、北斗が悲しみにくれているからでもあったが、別の、バグたちが引き揚げられた本当の理由を剛田室長から聞きたかったからだ。
 不破とともに研究所に忍び込んだ際には、これといった収穫はなかったから。
「室長。研究所長から、何か話があった?」
「いや、特には」
「聞かなかったの、理由」
「聞いたところで話しやしないだろう」
「それもそうね」
 なぜ、今。
 これから何が行われようとしているのか。
 杏は、曇天の遥か彼方に一筋の光が差し込んでいる空の方向に、車を走らせた。

第5章  パラドックス

 杏が北斗を車に乗せアパルトモンの前で降ろした後、北斗はサングラスをかけて下を向きながら自分の部屋まで歩いていた。
 部屋の前に着き、マイルームキーを探していた北斗の背後に誰かが立った気配がして、北斗は後ろを振り向いた。そこに立っていたのは、隣に住む年配の男性だった。
 北斗は、自分が車の中で泣いたのを相手に悟られ無いよう、下を向きつつも極めて明るく、はっきりとした声で挨拶した。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。今日は休みかい」
「はい」
「そうか」
 男性は、何故かそこから動こうとしない。理由があるにしても、薄ら寒い。北斗は鍵を上着のポケットに仕舞い部屋を開けることを諦め、もう一度後ろを振り向き自分の後ろに立ちつくしている男性を怪訝な思いで見つめた。

「あの、何か?」
 北斗が男性に尋ねたちょうどその時だった。ビリビリという感触を右腹に感じたかと思うと、北斗の思考能力は止まった。北斗はそのまま、廊下に崩れ落ちた。
 年配男性がおずおずとした為りで北斗を見つめながら、自分の部屋のドアを開けて部屋に中に向かって叫ぶ。
「言われたとおりにやったよ」
 すると、隣の部屋から男性2名が出てきて北斗をずるずると引き摺り、隣の部屋に連れ込んだ。
 廊下と鍵の色が同系色のため誰も気付かなかったが、引きずられた際にポケットから落ちた北斗の部屋の鍵は、玄関の前に転がったままだった。


 翌日、北斗は出勤しなかった。
 勤務時間になっても、連絡のひとつもなく、無断欠勤だった。
 普段遅刻さえ無い北斗が、無断欠勤。
 剛田室長が登庁し、ミーティングは北斗無しで行った。剛田室長は、杏に、何かあったら知らせるようにと言い残し、西條監理官のお供となり、警察府本部まで出かけてしまった。
 杏は、暫く様子を見ることにした。
 北斗は生身の身体だ。バグたちを失い、自分達には気が付かない心の疲労が出ているのかもしれない。
 
 北斗が感じたマイナス感情=意識という面では、一般人もマイクロヒューマノイドも変わりないはずだったが、北斗の無断欠勤という事実を客観的に認めたくない杏がいた。

 始業時間から、1時間が経過した。
 E4のメンバーは皆、烏合の衆となり口々に自分の推理を話し出す。
 不破はひたすら首を捻る。
「おかしいですね、北斗が無断欠勤なんて」
 設楽は今日も調子をこいていた。
「昨日泣き過ぎて顔腫れてんじゃないすか」
 杏は設楽の頭に拳骨をかます。
「阿呆。それにしたって、連絡くらいできるだろう」
 八朔は、杏の拳骨を避けながら設楽説に近い。
「ないですか、泣き腫らした翌日って、何時までも寝てますよね」
 杏は八朔に拳骨をかますのを止めた。
「確かにそれはあるが、あの時間に家に帰っていたんだから起きられない時間でもあるまい」
 倖田が立ち上がる。
「行ってみますか、北斗の家に」
 杏は倖田の方を振り向き、お願い、とばかりに頷いた。
「ああ、頼む。倖田と西藤で北斗の家に行ってくれ。何かあったら、すぐ知らせるように」

 倖田と西藤は、地下に降りて車に乗り込むと、フルにアクセルを踏み込んで、ビルを出た。
 10分後。倖田からダイレクトメモが届いた。
(大変です、チーフ。北斗が家にいません)
(出勤していて、すれ違いになったか)
(それが、鍵が玄関の前に落ちてまして。北斗の部屋の鍵でした)
(なんだと?)
(開けて家の中を調べたんですが、帰った形跡がありません。活字新聞もそのまま郵便受けに入ってますし)
(昨日午後3時ごろに別れて、その時間帯前後にいなくなったというわけか)
(俺達は周囲に聞き込みに入ります)
(頼む。あたしはここで連絡を待つ)

 不破が心なしか不安げに杏の顔を見る。
「まさか、ろくでもないこと考えてやしませんよね」
「それは無いと思うが。仕事に嫌気がさした可能性はあるか」
「僕も周辺のビルやらを探してみます。まさかの事態に備えて」
 不破が廊下に飛び出すと同時に、IT室にいた設楽と八朔が室内に出てきた。
「俺達も探しに行きますか」
 杏は、右手で2人を制して、首を横に振る。
「いや、お前たちは北斗の家周辺にある監視カメラ映像を当たってくれ」
「了解」
「Nシステムもだ。北斗の車を探してくれ。Nシステムはな、こういうときに使うんだ。わかったな」
「すんませーん」

 設楽と八朔をIT室に戻すと、杏は倖田にダイレクトメモを飛ばした。
(倖田、何かつかめたか)
(廊下の床が不自然なんですよ)
(どうした)
(ゲソコンが無いかどうか調べてたんですが、何かを引き摺った痕のようなものが見受けられます)
(引き摺った?)
(はい、北斗の家の前から隣に向けて)
(隣の住人は、確か年配の警備員だったな)
(北斗が前に言ってましたね。カムフラージュ警備員の話題を仕入れてるって)
(その警備員は、今いるのか)
(ドアを叩いても、インターホンにも応答しません)
(そうか。では、別の場所からその警備員が戻るまで張り込め)
(了解)

 杏は、不破に向かってダイレクトメモを発する。
(不破、聞いているか)
(はい)
(北斗は何かの事件に巻き込まれた可能性が高い)
(こういう言い方もどうかと思うけど、ビルから飛び降りてなくて何よりですよ)
(倖田や西藤と合流して状況を確認するとともに、お前は不破の部屋を捜索しろ)
(了解)

 杏は椅子にどっかりと腰かけ、机に脚を乗せて頭の後ろで手を組み考える。
 北斗は事件に巻き込まれた可能性が高い。それも、一般人の警備員が何かしら関与している。警備員は、金と引き換えに誰かに北斗を売ったに違いない。北斗は一般人とトラブルを起こすような男ではない。
 連れ去った犯人は誰か。
 一般論から言えば、北斗の身体を何かに入れて持ち去る行為は、単独では難しい。となれば、複数犯。
 今迄潜入した先で、こんなことはなかった。中華マフィアでさえ、E4の関与を知って、北斗から手を引いている。
 考えられるとすれば、FL教。確か教団はあの事件のあと、幹部同士がいがみ合って2つに分れたと聞く。そのうち一つの団体で、残った幹部たちが見せしめに北斗を連れ去ることは容易に想像できる。
 
 しかし、なぜ、今。
 
 麻田導師は何者かに殺された。
 ああ、FL教においては、麻田の死がE4の仕業とされているのかもしれない。それなら合点がいく。
 よしんばそう仮定して、なぜE4に誘拐の事実を知らせないのか。

 北斗が事件に巻き込まれたという仮定が成立してから半日。
 そろそろ、E4に対する犯行声明があってもいいはずだ。そもそも、やつらはE4の存在を知っているのか。となれば、E4に知られることを承知で何かしら北斗に罰を与えるというのが狙い。
 首を捻る杏。
 これでは、些か動機としては弱い。北斗を潜入させたのはE4であって、北斗の一存ではない。
 北斗を誘拐しFL教に留め置くことで利益を得るのは誰か。
 麻田が殺されたあの日、電脳汚染のXデーを企んだとして幹部たちは揃って逮捕され無期刑が確定したが、下っ端の幹部ほど有期刑で処分が済み、早い者ならあと3年で刑務所を出ると聞いた。
 そういえば、北斗が言っていた。木村という幹部が、やけにつっかかってきていたと。以前トイレで襲われたのも、木村の仕業だったという。
 杏は八朔にオンラインメモを飛ばす。

(八朔。FL教幹部の有期刑罪人の中に、木村という者がいるかどうか知らべてくれ)
 早速有期刑の幹部たちを八朔に調べさせると、木村の名がそこにあった。刑務所に信者が出入りしているはずで、木村はどこからかE4の存在を知り得たのかもしれない。
 今はまだ、推理の段階。北斗誘拐説の全容を語るには、ピースが足りない。

 頭の中を整理しようと、杏が椅子から立ち上がったときだった。
(チーフ)
 不破の声が低く聞こえてきた。
(どうした、不破)
(隣の男性が戻ったようなので、詰問の上、部屋を捜索します)
(上手くやれよ)
(了解)


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 北斗の隣室に住んでいる男性は、自分の部屋に向かって廊下を歩いていた。
 北斗の部屋で待機していた不破に、下で待機していた西藤から連絡が入ったのだ。通常、アパルトモン住まいの人間は、仕事から帰ると必ず郵便受けを確認する。西藤はカメレオンモードになって、郵便受けの前に待機していた。
 西藤は、不破の隣室の郵便受けが開けられた直後、不破と倖田にオンラインメモを送った。
 しばらくして、不破と同じく北斗の部屋にいた倖田が、隣の鍵音を聞きつける。
 2人は、そっと立ち上がり、北斗の部屋から廊下に出た。
 そして、倖田がカメレオンモードになって不破を援護する。
 不破は、隣室男性の家のインターホンを押した。
 2回、3回。いくら鳴らしても、応答はなかった。
 不破は痺れを切らしたようで、拳銃を腰から出すといきなり鍵穴に向けた。パン!周囲に乾いた音が大きく響く。不破はいつもの堅実さとは裏腹に時間の経過を気にしていたようで、直ぐに鍵穴は木端微塵に砕かれた。
 ドン!と扉を蹴り上げ部屋になだれ込む不破と倖田。2DKの部屋に、男性の姿は見えない。
 すると、窓の方からガラガラ、と音がする。男性は、窓を開けベランダを伝って逃げた後だった。西藤の足でなら追いつく可能性もあったが、どちらの方面に逃げたのかさえ、不破や倖田には判別しようがない。その口から、何かを話させることはできなかった。
 不破が膝を落して項垂れた時だった。
 カメレオンモードを解いた倖田が不破を突き、廊下の床を指差した。
(FL教じゃないか)
 オンラインメモで不破の声が響く。
(チーフ、聞こえてますか)
(すまん、聞こえなかった)
(逃げられました。ただ、部屋からFL教のバッジが見つかりました)
(飾ってあったのか?それとも落ちてたのか?)
(無造作に落ちてました。FL教の人間がここに入った証拠ですね)
(じいさんそのものがFL教の信者ではないのか)
(前に北斗から聞いた話だと、何らかの宗教に傾倒している様子はなかったそうです)
(それなら、じいさんを追いかける必要はないだろう。3人はこちらに戻れ)


 杏は、どっと疲れたような気分になった。脳が酸欠状態に陥ったような感覚。

 やはり、FL教の仕業だったか。
 となれば、今回こそ青森市の研究施設で北斗の脳を弄るに違いない。

 設楽がIT室から出てきて杏の傍に来ていた。声が耳元に響く。
「チーフ」
「オンラインメモを使え。どこで誰に聞かれるかわからん」
(了解。北斗の住むアパルトモン周辺の監視カメラから、怪しげな車が見つかりました。Nシステムで検索したところ、北上し高速に乗る車にヒットしました)
 杏は机をバン!と叩いた。

(聞いたか、不破。お前は一旦E4ビルに戻りあたしを乗せて青森に行く。倖田、西藤。お前たちはそのままフルスピードで例の研究施設に向かえ!)
(設楽、八朔。あたしはこれから下に降りて青森に行く。入れ違いに室長が来たら、状況を報告しろ)
(了解)
 杏は、上着を羽織ると部屋を出て小走りになりながらエレベーターに向かった。
 
 余程急いで来たのか、不破からオンラインメモが届く。
(チーフ、もう少しで着きますから下に降りててください)
(早かったな)
(たまたま青信号だったんで)
(嘘つけ)

 その言葉どおり、不破が運転する車が縁石に乗り上げ斜めになりながらビルに近づいてくる。
 ビルの前に乗りつけると、内側から助手席のドアが開いた。
「早く!」
 杏も無言で助手席に乗り込みドアを閉める。閉め終わらないうちに不破はアクセルを踏み込んだ。
 ギャギャギャッとタイヤが鳴いたかと思うと、車は猛スピードで赤信号も無視して北上する。
 冷静に現状を分析していた杏だったがゆえに、不破がいつになく冷静さを欠いているかが分る。
「そう急くな」
「焦るなって、もう北斗は現地にいるはずです。急がずにはいられませんよ」
「これからはオンラインメモで話すぞ」
 右に左に身体を振られGを感じる中、そこからは2人とも、一言も話そうとはしなかった。
 杏は少々酔い気味になりながらも、思い起こしていた。

 こんなとき、バグやビートルがいれば。
 やつらは本当によくやってくれた。ましてや北斗の事件となれば、何倍もの労力で稼いでくれただろうに。
 今頃、ラボでどんな仕打ちを受けているんだろう。
 記憶も掻き消されたのだろうか。
 本当に、本当に、惜しいことをした。
 不破の興奮した状態とはどこかかけ離れた杏は、胸の奥に寂しさを覚えるのだった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 意識を取り戻したとき、北斗は何やら息苦しさを感じた。
 周囲を見回して、驚いた。
 5,6人の人間が、北斗と同じように、背中で腕を縛られ、床に転がされていたのだ。幸い、さるぐつわは嵌められていなかった。
 この人たちは、どうしてこんな狭い場所に転がされているのだろう。
 そして思い出した。
 自分は、家の前であのじいさんにスタンガンを当てられたのだ。それ以降の記憶はない。
 思い切って北斗は、隣の人間に声を掛けてみた。
「ここはどこですか」
「知らない」

 監禁されている理由を知らない人間が殆どだったが、皆自分の身分を隠しているのかもしれない。中に1人、聡慧そうな若者がいた。E4で言えば設楽に当たる。仕事はデキるのに、口も達者なところが残念、というやつだ。
「僕は警察府の者です。ここにいる人、皆、警察府の関係者ですよ。僕はFL教の宗教団体について調べていました。そしたら昨夜襲われて。たぶん、FL教信者の仕業かと」
「FL教?」
「はい、あそこは教祖が秘密組織に狙撃されてから2つに分れたんですが、片方の団体がどうにも怪しくて」
「秘密組織?」
「内緒ですよ、E4です」
「E4?」
「伊達市に本拠を置くテロ制圧部隊で、警察府とは全く関係なく動いているんです」
「よく知ってるね」
「こう見えても、公安1課にいるもんですから」
「麻田導師が殺害されたのもE4の仕業だと?」
「暗殺に関しては、E4が担っていると聞きました。貴方、E4の人間ですよね」
 北斗は、例え相手が警察関係者だったとしても、絶対に身分は明かさない。
「身分に関してはノーコメント」
「でも襲われてここにいるくらいだから、警察関係者には違いない」
 質問には答えず、北斗からまた質問する。
「ここは、どこ?」
「たぶん、研究施設ですよ。青森市の山中に、FL教独自の研究施設があるんです。毒ガスの研究や、それこそ色々な研究をしている」

 北斗は漸く納得がいった。
 自分は部屋の前で誘拐され、青森の施設に連れてこられた。警察関係者がここにいるということは、漏れなく脳を切り取るオペを実行しているはずだ。
 しかし、それを周囲に漏らすことはできない。潜入捜査は、最後まで気を抜いてはいけない。もしかしたら、これが全員信者で、芝居を打っていないとも限らない。
 北斗は、当たり障りのない言葉を選んで会話を続けた。
「とにかく、縄が解けると良いんだけど」
「危ない武器は全て取り上げられたようです。何もできやしない」

 ただただ、北斗はこの部屋を出て研究施設を後にすることだけに神経を集中する。
 足は縛られていないということは、自力で歩かせるつもりだと推察できる。ここからオペ室までいくらか距離がある証拠だ。
 ということは、鍵がかかっている施設とは別かもしれない。
 いや、鍵がかかっていない施設だったとすれば、北斗が3ケ月前に潜入した時に見つけている。
 やはりここは、鍵のかかったあの施設。
 どうにかして抜け出さなくては。脳を切り取られるなど、真っ平御免である。

 そこに白衣の男が現れた。寝転んでいた男性達を一人一人起こして、顔を確認していた。
「おや、キミは」
 白衣の男が、北斗の顔を見るなりそういった。
「E4の北斗くんだよねえ。先日は導師や幹部が世話になったね」
 北斗は目を合わそうとしない。
 北斗の顎を鷲づかみにした研究員は、なおも続けた。
「僕はね、お前のところのチーフのせいで科研を追われたんだ。僕の研究成果を妬んだあの五十嵐のせいで・・・」
 それでも北斗は声を発しない。心の中では、チーフが怒るような研究をしていたんだろうが、と悪態をついていたが。
「そうだ、キミを一番初めに実験オペに連れて行くとするか」
 北斗はただただ、無言を貫き通していた。
「キミは生身だから、電脳化と洗脳の実験をしよう。もう1人、おや、そこで僕を睨んでる若造クン。脳を取り出すのはキミにしようか」
 先程まで喋っていた若者が、研究員の人差し指の方向に座っていた。

 脳を取り出すと聞いて、縄で縛られている何人かが騒ぎ出した。ひぃぃっという叫び声。ここがそういう施設とは知らずに監禁されたらしい。
 北斗は、若者の顔を見た。
 揺るぎもしない自信に満ち溢れた表情。こいつは一体何者なんだ?
 
 北斗と若者の縄を両手で持ちながら、北斗たちを前にして歩かせ、研究員は後ろからついてくる。
 まるで何かの襲撃に怯えるような足取り。

 オペ室までは、中を迷路のように歩き、5分程だった。
 北斗は、ガラス越しに、実験中のオペを視認することができた。

 男性が2人。
 ベッドに寝かされオペを受けている最中だった。
 開頭手術のように見えたが、違う。ガラスの手前には、次々と取り出され、移植に失敗した脳が、だらんとした血管を浮かび上がらせて、無造作にビーカーに入れられていた。
 それだけでも驚きなのに、なんと、オペに関わっている研究員たちの顔は、らんらんと瞳を輝かせ、口元には笑いがこみあげていた。こいつらにとって、命などいくつでも替えの利くパーツなのかもしれない。

 流石の北斗も、吐き気をもよおした。
 そして、隣の若者を見た。
 若者は、口元をキュッと結び、冷ややかな目でその様子を見ていた。
 北斗でさえグロテスクな物を見せつけられ吐き気がするというのに、これから自分があのベッドに乗せられようとしている若者は全くそんなことを気にかけていないようだった。

 その瞬間。
 外からガラスを突き抜けて、何かが壁に当たった。同時に北斗たちの縄を持っていた研究員の男の手が、血に染まった。ぎゃああと叫び声を上げて、のたうちまわる研究員。
 
 これは、狙撃。

 北斗は身を屈めると、比較的自由の利く右手で若者を引っ張った。
「狙撃だ、屈み込め!」
 それでも若者は、微動だにしない。
 北斗は不思議に思った。
 鋼の心臓とはいえ、この状況を分らない訳ではあるまい。
 
 すると、ヒビの入った窓が割られ、2人の男性がライフルを持って廊下に入ってきた。
「三条、まだ生きてたか」
 三条と呼ばれた若者は、苦笑いを浮かべる。
「もうすぐあの世行だったかも」
 2人の男性は、若者の縄を難無く解くと、今度は北斗の方に向き直り、申し出た。
「俺達の仲間になれば、その縄、解いてやるよ」
「E4より面白いぞ」
 自分をE4メンバーと知る彼ら。
 行き成りの展開に、北斗はガードを固くする。
「何のことですか」
「まったまた。白切ってもダメ」
「俺は九条。W4の人間だ、こっちは一条、お前さんと同じく縛られてたのは三条だ。知らなかったか。じゃあ、今後はどうぞお見知りおきを」

 北斗は、初めてW4のメンバーを知った。前回内閣府長官暗殺未遂事件の時、室長がメンバー表を配っていたが、北斗の目には入っていなかった。あの時きちんと見ていれば、今日、床に転がった状態でもW4メンバーと判ったはずなのに。

 そんなことを考えていると、背中が軽くなった。三条が縄を解いてくれたのだった。三条は拳銃をその手に持っていた。3人は考え込んでいる様子をみせたものの、次の瞬間、のたうちまわっている研究員を床に座らせたかと思うと、三条がその脳幹に拳銃を突き付け、パン!と1回だけ発射した。
 研究員の額は黒く焦げ、辺りは血の海と化した。
 E4ではテロ制圧時にも、犯人を死亡させる方法を採っていない。必ず司法の場に引きずり出す作戦を採っている。
 W4のやり方に違和感を覚えながらも、寸でのところで北斗は助かった。


 研究施設のオペ室内では、研究員たちが隅っこに集まり助けを求めていたようだった。他の施設のアンドロイドまでもが、オペ室に向けて走ってくる。
「さ、君は退散して」
 九条がそういうと、W4の3人は集まってくるアンドロイドの脳や首筋周辺を目掛けてマシンガンを発射する。一旦姿が見えなかった三条は、マシンガンを持って研究室に戻っていた。一条と三条も加わって、マシンガンでアンドロイドたちを倒していく。

 そんな時、物凄いスピードで施設内に入ってくる車の音が聞こえた。
 倖田と西藤、そして不破と杏だった。

 倖田も車に搭載しているマシンガンでアンドロイド目掛けて打ちまくり、運転している西藤と不破は、出てきた研究員たちの手足を撃ちながら、北斗のいる研究施設まで近づいてきた。
 不破の車の助手席窓からその身を出した杏が叫ぶ。
「北斗!大丈夫か!」
 北斗も負けじと大声で応答した。
「はい!W4に助けられて!」
 W4?と訝りながらも、杏は北斗を西藤に預けて研究員とアンドロイドの制圧にかかった。生きている者は手足を1か所だけ打ち、アンドロイドは動かなくなるまで脳周辺に拳銃を撃ちこむ。
 マイクロヒューマノイドと思しき研究員は、手足を撃っても痛みがある程度。仕方がないので死なない程度に脳に一発ぶち込む。本当に死なない程度なだけで、生ける屍も同然のような状態の者も多かったが。
 研究員たちは震えあがり、その場にへたり込む者が殆どだった。
 中には銃器庫から拳銃やマシンガンを持ちだす者もいたが、E4やW4のように上手く的に当たらない。初めて拳銃を手にしたものが、的に上手く当たる訳もない。
 そんな人間たちの目の前に現れ、顎を蹴り手首を押さえ付ける杏。不破達は手錠を掛けたり縄で縛っていく。

 何十台ものアンドロイドが山のように積み重なり、その周辺に縛った研究員を転がしたE4とW4のメンバー。

 一条が不満げに語る。
「E4は優しすぎるね、命を助けるなんて」
 それに反発するかのように、不破が声を荒げた。
「殺せばいいってもんじゃない。命があるからこそ内部の情報を得られる」
「その結果が有期刑」
「それは司法で決めることだ」

 杏が間に入る。
「どちらにせよ、今回はE4とW4との共同掃討作戦ということでよろしいか」
 向こうは九条が応対する。
「今回は君たちに華を持たせよう。北斗くん、僕たちはキミを待っているから」
 九条が片目を瞑りウインクすると、W4の3人は車に乗って早々にどこかへ姿を晦ました。

 杏は伊達市にいるであろう、剛田室長に連絡を取る。
(室長、聞こえてる?)
(ああ、今E4に戻ったところだ)
(W4の助けがあってね、北斗は無事よ)
(西條監理官の発案でな、W4の1人がFL教団に潜り込んだと聞いている)
(あら、そうだったの)
(で、研究施設はどうなった)
(制圧したわ。これから地元警察に引き渡して、その後警察府に回す予定)
(そうか。ならば、あとは直ぐに戻ってこい。事情聴取など以ての外だからな)
(了解)

 残された杏たち5人は、地元警察に連絡を取り、場所を教えると、衛星通信を切った。そして2台の車に分乗し伊達市を目指して走り出した。
 教団施設のアンドロイドは粉々に砕いたし、研究員たちは、手足を撃たれ怪我をした状態で歩けない。マイクロヒューマノイドの研究員だけは、どこを撃っても身じろぎもしないため、死なない程度に脳に一撃かましていた。
 それよりなにより、あのオペ室を見れば、何らかの捜査が入らないはずがない。
 脳がビーカーに何個も入っているのは紛れもない事実であり、どこから見ても尋常な研究とは言えないだろう。

 たぶん、第2のXデーが進行していたとみるべきか。
 だからこそ、何人もの警察関係者が犠牲になった。
 W4の連中がいなければ、もしかしたら北斗が犠牲者に含まれていたかもしれない。
 そう思うと、杏はブルッと震えを感じた。

 帰路はゆっくりのんびりと行きたかったが、地元警察が追ってくる可能性を考え、これまたフルスピードで伊達市を目指す。
 北斗は疲れのためか、後部座席で眠り込んでいた。
 杏は剛田室長を通し、北斗を助けてくれたお礼を兼ね、西條監理官とW4に謝辞を伝えることにした。
 不破は良い顔をしない。
 三条が研究員の脳幹を撃ち抜いたことが気に入らないらしかった。
「不破。もう、この件は仕舞いにしないか」
「わかってます。でもね、何でもかんでも狙撃すりゃいいってもんじゃない」
「そのお蔭で北斗は助かったんだ。今回ばかりは礼を尽くさないと、な」

 杏は不破の怒りに呼応する形で考える。
 勿論、W4のやり方を全部肯定しようとは思わない。
 でも。
 多分、E4とW4は、背中合わせの組織なのだ。
 どちらが正しいのか、それは杏にはわからない。
 どちらが光か陰かさえも、杏にはわからない。

 そこにはただ一つの真理があるだけ。

 逆もまた、真なり、と。

第6章  朝鮮半島移民政策の終焉

 研究施設の掃討作戦が終わり、日々の平穏に戻ったかのE4。
 杏が、思い出したように北斗を見た。
「九条の言っていた、”待ってる“ってのは、一体何なんだ?」
 北斗が活字新聞から目を離し、杏の声に反応する。
「仲間になれば縄を解くって。からかったんですよ、僕を」
「あれはからかってる物言いじゃなかったがな」
「そういえばチーフ。一般人の銃携行は許されてますよね」
「ああ、ペーパーテストさえ通ればな」
「僕、今迄銃を持ったことがないんですが、これからは持とうかなと」
「W4に触発されたか」
「まあ、その」

 倖田はライフル中心。西藤は素手がお得意。残るは、不破である。
「不破。北斗に銃の使い方を教えてやれ。設楽、北斗の書類を作成して申請しろ」
 設楽はIT室から出てきて、至極尤もなことを言う。
「潜入捜査に支障でないんすか」
「近頃は売り込む際に拳銃携行のペーパーがあると便利らしいぞ」

 W4といえば、青森の研究施設は壊滅させたが、FL教団そのものは2つに分れ未だに信仰を続け信者を募っていた。以前の麻田のように話が上手な祐という幹部が現れてから、麻田の真の訓えを取り戻したのだという。
 研究施設などは一切持たず、麻田導師を敬い、その訓えを実践することで魂に安らかなる日々を与えるのだとか。
 北斗はその訓えには反対の考えを持っているから、祐はどうやって人の心を掴むのか見て見たい衝動にも駆られる。
 だが、もう北斗の面は割れている。道場に通ったところで、ごみのように追い出されるのがオチだろう。

 北斗は真面目だ。
 何事にも一生懸命に取り組む。
 拳銃の発射準備に関しても、不破が下を巻くぐらい勉強している。
 あとは、命中率だけだ。
 今一度、不破が確認し、教える。

「北斗、片手で撃つ場合、次のことが重要になる」
・隙間を開けないでグリップの一番上を握る。
・指はフレームの上に置き、撃つ瞬間までトリガーガード内に指を入れない。
・銃の中心線が手首をとおるようにグリップする、そうしないと、当たらないどころか手を痛める結果になる。
「わかった?」
「たぶん」
「じゃ、握り方を実践してみよう」
 北斗は不破に言われた通り、片手で銃を握った。
「今度は、マズルジャンプについて。メモして」
 リコイル(反動)はバレル(銃身)の位置で発生し、発射時に手首を支点にして跳ね上がる「マズルジャンプ」が起こる。マズルジャンプを最小限に抑えるには、バレルから支点までの距離が可能な限り短くなくてはならない。また、低い位置でグリップすると激しくマズルジャンプするため、フレームの後退量が大きくなり、これがスライドの後退を相殺することで装填不良(ローディング・ジャム)が発生しやすくなる。この現象はリム・リスティングと呼ばれ、作動不良を避けるためにしっかりとグリップすることが求められる。

「次に、両手の場合だけど」
「映画でみるやつね」
「キミは右利きだよね。」
「左手の親指はどうするの」
「フレームに付ければいい」
・左手も可能な限りフレームの上の方をグリップする
・左手人差し指はトリガーガードに密着させて
・掌の底をグリップに密着させて包み込む
・内側は右手に被せ隙間なく密着させる
「いろいろあるけど、重要なのは首を傾けないで銃を目線まで上げること」
「そうなんだ」
「これによってターゲットを認識して、構えて、発砲するという一連の動作がスムーズに行われるから射撃スピードが上がる」
「自分なりに撃ってみる」
「そうそう、下手な鉄砲数撃ちゃ当たる、ってね」
「最初から不気味なこと言わないでくれ」
「北斗なら大丈夫さ、筋がいい」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 今日はE4室内で無言の杏。
 のんびりと過ごす時間が、心地よくもあり、まるで魂を失った屍のようでもある。
 杏は、カルト教団、FL教の今後について考えていた。
 
 第二のXデー計画を進めていたのだとすれば、そこには必ずオリジナルの存在があったはず。
 麻田がオリジナルでなかった以上、オリジナルは生きて今も闊歩している。
 世界中に1人のオリジナルを探すには、相当の労力と時間を要するだろう。
 さて、いかにしてこのミッションをクリアしたものか。

 杏の懸念を掻き消すように、剛田室長が妙な噂話を持って帰ってきた。確かまた、西條監理官のお供で警察府に出掛けていたのだが。
「皆、電脳を繋げ」
「了解。皆、出てきて」
 剛田室長の目は、北斗にも向けられた。
「北斗は活字オンラインで聞いてくれ」
 皆が集まり、耳たぶを強く押す。
(先程聞いた話だ。真偽はまだわからない)
 杏が身を乗り出す。
(何?)
(安室前内閣府長官が、FL教に多額の金が行き渡る様、各方面にプッシュしていたらしい)
(もしかしたら、陰のフィクサーってところ?)
(そうだな、FL教の本当の主なのは確からしい)
 北斗が杏と剛田室長の会話に交じってくる。
「となれば、オリジナルは、安室前内閣府長官なのでは?」

 皆、同時にしーんとしたまま、誰も身じろぎもしない。
 北斗は続ける。
「前から、FL教の電脳化及びマイクロヒューマノイド化を推奨する麻田導師は、何のメリットがあってそれを勧めているのか解せなかった。もしこれが安室前内閣府長官の命令だとすれば、全てのピースが当てはまります」

 麻田導師は、訓えを説きながらも、電脳化及びマイクロヒューマノイド化を全国で推奨していた。宗教関係者は、どこへでも演説にいく。研究機関のあの悍ましい実験は別としても、今だって祐現代表は麻田導師の訓えで信者を導いているはず。ならば、電脳化とマイクロヒューマノイド化を前面に押し出しても不思議ではない。
 世論をまず味方につけ、日本自治国総電脳化計画に繋がっていけば、朝鮮半島移民政策への大きな足掛かりとなるだろう。
 
 険しい道がここにきて一気に目の前に広がったのを、メンバーは皆感じ取っていた。

 
 今日は、1人で剛田の家に戻る杏。不破は、射撃場に行って北斗のサポートをしている。今晩は向こうに泊まると不破から連絡があった。
 急ぎ足で帰路を急ぐ杏。

 そこに、九条が顔を出した。
 杏は軽く会釈をして通り過ぎるつもりだったが、九条は後ろをついてくる。
 しばらく無視して歩いていたが、剛田家に近づく前にケリを付けようと、杏は徐に後ろを振り向いた。
「何か御用かしら、九条さん」
「お急ぎですか、五十嵐杏さん」
「ええ、急いでるの。だから手短に願うわ」
 九条は、クスッと笑いながら右手で口を覆った。
「あなたの生い立ちを知らせようと思って。ここじゃなんだから、どっか珈琲の飲める店にでも入りませんか」
「あたしはここでも良いけど。早くして欲しいの」
「そうですか、じゃあ、単刀直入に。あなた、剛田室長の娘ではないですよね」
「ええ。10歳の時に引き取られたわ」
「ご両親は?」
「5歳で離れたから覚えてないの」
「本当に覚えてないだけ?」
「何が言いたいのかしら」
「あなたは試用体として5歳児の身体で作られたんですよ。両親だっていやしない。その脳だって、どっから持ってきたかわかりゃしないんですよ」
 杏にとっては正真正銘、初耳だった。
 だがそのことを悟られてはいけないような気がした。
「で、あとは」
「あなたはコピーの試用体。これが全て。これでお終い」
「それだけを伝えるためにここに来たの?」
「はい」
「なら、残念ね。あたしは今の生活が気に入ってるし、昔のことなんてどうだっていいの。剛田室長が引き取ってくれたことだけがあたしにとっての幸せだったから」
「本当に剛田さんを信じていいのかな」
「信じるか否かは、あたし自身が決めるわ。自分の魂と相談して」
「稀に見る強い女性だな、貴女は」
「こないだの制圧劇みたでしょう、あれが全てよ」
「E4なんて辞めて、W4に来ればいいのに」
「無理ね。ごめんなさい。時間が押しちゃったから、これで失礼するわ」

 杏は、九条の方に振り向きもせず剛田の家目掛けて歩き出した。
 手に痺れを感じる。それは暫くすると、震えに変わった。
 九条に見つからない様、身体の前で手を組み、震えを止めた。すると今度は、足が震えてきた。思うように歩けない。
 杏は、ヒール靴にも関わらず小走りになっていた。九条から一刻も早く遠ざかりたかった。

 家に入ると、ちょうど剛田から杏に向けてオンラインメモが届いた。
(今日は会合で遅くなる。帰れないかもしれないから、不破と二人で食事してくれ)
 杏は、ふふふと声に出して笑う。
 なんだってまあ、マイクロヒューマノイドにご立派な食事なんぞいらないのに。いつでも心配してくれる。E4ではその片鱗も見せてはくれないが。

 剛田は、二人を引き取って以降、杏を娘のように、不破を息子のように育ててくれた。
 研究所であれこれと酷使された身体を、毎日動かさないことに慣れるまで、半年くらい費やしたのを子どもながらに覚えている。
 生活は、一夜にして変わった。
 不破と2人で、本を読みながら。音楽を聴きながら。たまに身体を動かしながら。
 剛田の帰りを待つ日々に。

 誰かの帰りを待つということが新鮮だった2人は、剛田がいくら遅くなっても起きて待っていた。オンラインメモをオーバーホールしていなかった剛田から、帰りのメッセージが届くことは無い。帰って来ない日もあった。
 そんな時は、杏が最初に睡魔に見舞われた。すると、不破が脚を伸ばして杏を膝枕しながら、自分も壁に凭れ掛かって眠りに着いた。
 両親が姿を見せることの無かった杏と、両親が他界した不破は、剛田がいなかったら一人ぼっちになっていたかもしれない。剛田のお蔭で、他の家庭とは全く違ったけれど、家族というものを感じて、生きてくることができた。
 
 九条の話が本当なら、自分は端から親さえいない試用体。研究の一環としてこの世に生を受けたに過ぎない。
 試用体である限り、人間とは違った生き方をするべきだったのか。
 バグやビートルのように記憶を消され、研究の補助的役割を担えればそれで良かったのか。
 
 杏はまた、自分の部屋に入り、膝を抱えて下を向いた。
 膝を抱えて下を向くのは、研究所にいた時以来だった。
 両親のいない、試用体。
 寂しさを感じないといえば嘘になる。不破の方が、両親を亡くし何倍も悲しく寂しいはずなのに。
 杏の心はそれでも痛んだ。
 オーバーホールでもないのに、魂がどこかに消え去るような気がして、胸の奥が苦しくなった。

 膝を抱えて縮こまる杏に対し、不破からE4回線を遮断したオンラインメモが届いた。
(サポートが終わったので、予定通りこちらに泊まるよ。剛田さんは?)
(今日はお泊りみたい)
(なら、帰る)
(いいわよ、北斗に申し訳ないし)
(男2人で何するわけじゃなし。いいよ、こっちは車だから、すぐに帰れる)
(いいって)
(声が暗いな。何かあった?)

 杏はドキッとした。九条から言われたことで、余程ナーバスになっていたのだろうか。あの内容を言うべきか言わざるべきか、一瞬、不破との会話に間が開いた。
(何かあったようだな、すぐに戻る)

 不破との交信が途切れ、杏の目から一筋の涙が零れ落ち、その頬を濡らした。

 10分もすると、不破の運転する車が戻ってきたのが分った。また、赤信号を無視して帰って来たに違いない。
 杏は涙を拭いて笑顔を作り、いつものように力強く振舞おうと心掛けた。
「お帰り。また赤信号、無視したでしょ」
「夜は車も少ないから大丈夫」
「北斗の調子はどう?」
「元々筋がいいんだろうね、確実にモノにしてきてる」
「そうか、これでいざという時は戦力になるわね」
「それより、何があった?」
「ん?ああ、九条にストーカーされただけよ」
「九条?W4の?」
「そう。何かと思ったら、あたしは両親すらいない試用体として生まれたんだって」
 不破の表情が強張った。不破は何か知っていたのかもしれない。それでも不破は、何も口にしようとはしなかった。
 口にしない代わりに、杏の前に立ち、頭を撫で始めた。
 しばらくの間、不破に頭を撫でられていた杏。
 不破の顔を下から見上げ、にこりと偽物の笑顔を作った。
「大丈夫。研究所に両親が来たこと無かったから、もう両親なんていないんだと思ってたし」
 それでも不破は杏の頭を撫で続ける。
 杏はまた笑顔を作った。
「E4のチーフたるものが、こんなことで凹んでられないよね」
 
 初めて不破が口を開く。
「そんなこと無い。九条に言われて、どんなにか悲しかっただろうに」
「ううん、大丈夫。今は剛田さんと不破、あなたが家族だから」
「そうだな、俺達は家族だ。これまでも、これからも」

 杏は漸く、本物の笑顔を不破に見せた。不破は、頭を撫でる手をジーンズのポケットに仕舞った。
「ところで、最近よく思うんだけど」
「何?」
「お前、剛田さんの前や家の中でだけ女言葉使ってきたけど、剛田さんがオンラインメモオーバーホールしたから、いつもの男言葉知って愕然としてんじゃないの?」
「そういえばそうね、今迄は聞かせなくて済んでたけど」
「剛田さん、お前をE4のチーフにするとき、すごく悩んでたもんな」
「男勝りになったらどーしよー、ってね。チーフの威厳もあるしさ。今更どうにもできないわけよ」
「家族のお前を何かと心配してるからね、今のやり方で正解じゃないかな」
「そういう不破は、物静かな男からお喋り男に変身してる」
「2人とも二重人格みたいだな」
 あはは、と2人は笑う。
「久しぶりに、俺の膝枕で寝るか?」
「遠慮。今晩は、あんたの方が最初に寝ちゃう気がする」
 杏は、いつもの快活さを幾分取戻し、不破とボクシングごっこをするのだった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇

 
 翌朝。
 やはり寝付けなかった杏は、早めにベッドから起き上がると、散歩に出かけることにした。
 ゆっくりとした足取りで歩きながら考えていたのは、青森の研究施設と安室前内閣府長官の関係。
 あそこでも、電脳化やマイクロヒューマノイド化の研究をおこなっていたらしいが、公務関係者の脳を埋め込んだ試用体の研究が主だったに違いない。試用体のオリジナルは安室前長官。そして、コピーを大量に作製する。
 電脳化は、勿論一般人向けの研究だろう。
 洗脳しておけば自分たちの有利に物事が進むし、脳の中を見ることができれば不穏分子の摘発にも役立つ。
 安室前長官は、麻田導師を前面に出し、自分はフィクサーとして暗躍していた。
 その麻田導師が殺害された。
 行動を起こしたのは、多分W4。
 W4はE4と並んで総理からの勅命を受けて行動している。
 
 となれば、麻田導師を殺害するよう指示したのは、総理、若しくは総理近辺。
 どうして、第1次Xデーの直前に始末したのか。
 考えられる理由は、ひとつも思い当たらない。思い当たるとすれば、素直に電脳汚染を止めたかっただけに過ぎないだろう。
 
 これが麻田導師と安室前長官の諍いなら、麻田導師が安室前長官の命令を無視したか、あるいは安室前長官側に不利な事実をもって脅迫したか、それに激怒した安室前長官がスナイパーを雇い麻田導師を襲う。そんなシチュエーションが考えられるのだが。
 
 それにしても、Xデーで電脳汚染が広がれば、麻田導師の『魂は肉体に宿らず。尊厳ある死こそが高尚な意識の全てだ』という訓えどおり、一般人皆が並列化し個性を削がれ生ける屍と成り果てた可能性は十分にある。そして脳をいつでも管理され、本当の自由はどこにもなくなる。
 まるで、20世紀に起きた宗教テロ。
 地下鉄サリン事件を初めとした、夥しい数のテロは、日本国中を震撼させたという。
 考えたくもない。
 
 それでも、剛田の言っていた
『魂は肉体に宿り、生命の源として心の働きを司るのに対し、意識は毅然とした自律的な心の働きである』
 杏自身、この意味を正確に捉えているわけではないが、凡そ正反対の真理であることは確かだ。
 
 色々考えながらのんびり歩いていると、急に後ろから右腕を掴まれた。
 不破だった。
「やっぱり寝てなかったな」
「そっちこそ」
「何考えてた」
「地下鉄サリン事件」
「何で今頃」
「電脳汚染考えたら、そこに行きついたの」
「Xデーか」
「多分麻田をやったのはW4だと思うのよ。でもね、総理近辺で麻田をやれって命令するかしら」
「Xデーが回避されるなら」
「オリジナルの安室前長官が生きてる限り、Xデーはやがて来るような気がしない?」
「だから、以前安室前長官の暗殺指令が出た」
 杏は、広げた左手に右手を当ててポン、と叩く。
「なるほど。ただで朝鮮半島移民政策を終焉させるつもりじゃなかったってことね」
「邪魔者は消えるし、一石二鳥ってところか」

 2人は家に戻ると、それぞれに着替えて車に乗った。早めにE4へ出勤である。
 活字オンラインを見ていた杏は、政治の話に目を留めた。

 日本自治国総電脳化計画に反対の立場をとる春日井総理が、今国会で、朝鮮半島移民政策をはっきりと断念する立場を表明、とされていた。
 朝鮮半島移民政策については、外国からの圧力もあったが、何より、総理は日本自治国総電脳化計画の是非を問う国民投票を準備している、と活字オンラインは伝えている。
 そんな総理だったが、必ずしも内閣府で纏まった意見ではないらしい。
 今度もまた、壬生内閣府長官が総理の意見に反対し、国民投票を行わず内閣府で審議する姿勢を見せているという。

 いや、それは国民の意思をはっきりと映し出さねばならない事案だろう、と杏は考える。

 そのうちに、剛田室長を除く皆が出勤していた。
 設楽がまた、お喋りに花を咲かす。
「日本自治国総電脳化計画の国民投票あったら、俺達も投票できるんですよね」
 西藤が渋々相手になる。
「まあ、投票資格があればだけど」
「え。もしかしたら、公務関係者で既に電脳化済みの者は投票資格が無いとか」
「有り得る」
 杏は、活字新聞で2人の頭をポカスカと叩いた。
「公務関係者だって自治国民だ。選挙の資格はある。ちゃんと勉強しておけ」

 ミーティングが始まる時間になっても、剛田室長は登庁していなかった。
 そういえば、会合があって帰れないと昨夜メモが届いた。何か急な案件でも入ったのだろうか。
 杏は少なからず、不安を胸に剛田室長の登庁を待った。

 始業時間から30分、漸く剛田室長が現れた。心なしか、疲れているように杏には見えた。
「室長、遅かったわね。疲れてるように見えるけど」
「大したことは無い。皆、ミーティングを始める。電脳を繋げ、北斗は活字オンラインを見ろ」
 皆が電脳に繋ぐために耳たぶを押す。
(いいか、オフレコで頼む。特に設楽。E4から出たら、絶対に喋るな)
(俺だって必要なことは黙ってますよ)
(そういって、今迄何回外で公言してきた。後始末する私の身にもなれ)
(すんませーん)

 剛田室長は、メンバー全員を見渡した。
(安室内閣府前長官と壬生現長官だが、業者との贈収賄疑惑が持ち上がっている。2人に関しては、電脳化の際に使用する機器メーカー、医療機関との癒着が数年前から取り沙汰されていたが、Xデー解禁に合わせ、多額の資金が懐に入った模様だ)
 倖田が手をあげて剛田室長を見る。
(今度は暗殺主体ではなさそうですね)
(そうだ。2人の家に家宅捜索に入るのは非常に難しい。それで、カメレオンモードになったお前たちが、重大な証拠となるべき書類なりを探し当てて画像化して欲しい。あとで警察が家宅捜索に入るだろうから、盗み出しちゃ駄目だぞ)
(その画像はどうするんですか)
(総理の下に届けて、指示を仰ぐ予定だ)
 杏が、立ち上がって今後のスケジュールを立てる。
(西藤とあたしが安室前長官、倖田と不破が壬生長官の家に入りましょう。暗殺未遂からだいぶ経っているから、少しは警備も緩くなっているでしょ)
(了解)
(設楽は安室前長官の画像をデータ化してちょうだい、八朔には壬生長官の分をお願いするわ)
(了解)
(早速、出るわよ)

 2台の車は、金沢市の壬生長官と安室前長官の家を目指してビルを出た。2時間余り、アウトバーンの走りを堪能できる時間である。
 杏は助手席でバンバンと車のボディーを叩きながら悔しがっていた。
(暗殺未遂事件さえなければ、今回のミッションなど容易かったろうに。な、西藤)
(仕方ありませんよ、どこから探します?)
(仕舞い込むとすれば、一義的には書斎だろう。まず、書斎を当たれ、不破たちもだ)
(了解)

 2台の車は、次第にスピードを上げて金沢に向かった。


 伊達市を出て2時間が過ぎた頃、ドライブの時間は終わった。
 陽が西の方に傾いていた。
 杏は安室前長官の家周辺の公園に車を停めると、オンラインメモを不破に飛ばす。
(不破、そっちも着いたか?車から降り次第、カメレオンモードで行くぞ!)
(あと5分ほどです。了解しました)

 カメレオンモードになり、安室邸を覗く杏。
 驚いたことに、犬が2匹、邸内を鎖付きで走り回っている。
(西藤、お前犬が苦手だよな?)
(はい)
(それじゃお前は、屋根に上って2階から入れ。あたしが犬を引き付ける)
(申し訳ないです)
(さ、行け)
 急いで不破にもメモを飛ばした。
(不破、壬生邸に犬がいるかもしれない。屋根に上がれそうなら、2階から行け。倖田にも伝えてくれ)
(了解)

 今どき、犬を番犬として飼う家は殆どない。
 ということは、安室か壬生のどちらかが、科学研究所のカメレオンモード実験結果データを見た上で、新たに犬を飼い始めた可能性もある。
 研究所のデータは、国会議員であれば誰でもチェックできる。カメレオン化のデータも、既に手中の上でこのような手立てを講じたとすれば、贈収賄の資料を見つけるのは容易いことではない。
 杏は、西藤が屋敷の塀を上り屋根の方に近づいていくまで、門の中に入るのを待った。屋根の方をちらちら見ていると、どうやら犬が人間の臭いに反応したらしい。ガルルル、と鳴きながら門の方に近づいてくる。
 西藤が屋根に移動したのが見えた。
 門の中に入る杏。そして塀から離れた方に走り出す。2匹の犬は、ワンッワンッと吠えて杏を威嚇する。これ以上犬が騒げば、家人が気付くことだろう。幸い、マイクロヒューマノイドは庭先に見当たらなかった。
 杏は犬を1m先まで近づけて、洋服のポケットから麻酔弾を出し拳銃に込めると、犬の身体に向け発射した。
 命中。
 犬は漸く大人しくなった。
 庭を走りながら裏口へと向かう杏。
 正面突破は、どんな危険が待ち受けているかわからない。
(西藤、中に入ったか)
(入りました)
(書斎らしき部屋を探せ)
(了解)
(あたしも裏口から入る)

 家の裏側に走り込むと、裏口は直ぐに見つかった。
 外壁に張り付きながら、そっとドアノブを回す。
 行ける!
 裏口は施錠されていなかった。
 そのまま身体を滑り込ませ、安室邸に侵入した杏は、各部屋のドアをそっと開けてみる。
 どうやら、奥方も今の時間出掛けていたようで、マイクロヒューマノイドはその護衛についていったのだろう。
 一体、幾つ部屋があるのかわからない。
(チーフ、2階は見終えました。書斎はありません)
(そうか、では1階に降りてくれ。犬は眠らせたから心配ない)
(家人もいないようですね)
(大方、ランチとショッピングにでも出かけたんだろう。帰ってくるまでが勝負だ)
(了解です)

 静かに動き回りながら、家の中にあるであろう、金庫を探す。
 リビングにはその手のモノが無い。隣のゲストルームにも見当たらない。その隣の部屋は、施錠されていた。
(ここだな)
 杏はブーツに仕込んである針金を2本取り出すと、鍵穴に差し込んだ。そして、器用に回し始めた。
 1分もしないうちに、カチャッという音が響く。
 部屋の鍵が開いた。
 ここが書斎らしく、部屋の奥には頑丈そうな金庫が置いてある。旧式の金庫だ。
 杏はまた金庫に針金を差し込んで、金庫のダイヤルを回した。
 30秒ほど、ダイヤルを回す。
 カチャリ。
 ギギギ、という渋い音とともに、金庫は開いた。

(設楽!聞いているか)
(聞いてマース)
(これから画像をそちらに送る。データ化して繋ぎ合わせろ)
(了解っす)

 危機感の感じられない設楽に呆れつつ、杏は西藤に向かって手を伸ばした。
(お前の目で画像化してくれ)
 義体化した西藤の目を通して各書類を画像化する。そして、瞬時にE4に送った。スキャナーの代わりができる義眼は、こんな時にも重宝する。

(不破、そっちはどうだ)
(書斎ではなく、長官の寝室の金庫に書類がありました。倖田がスキャンして八朔に送っています)
(家人やマイクロヒューマノイドはいなかったか)
(こちらはいませんでした)
(こちらもだ。2人揃ってランチにでも出掛けたか)
(となると、戻るまでに退散しないといけませんね)
(そうだな。西藤、倖田、スキャンのスピードを上げてくれ)

 杏たちが必死に書類をスキャンしていたとき、門の方から車の音がした。
 どうやら、奥方たちがランチを終え、帰宅したものと思われる。
 杏はオンラインメモを全員に飛ばす。
(安室邸に家人が戻った。壬生邸も気をつけろ)
(こちらはまだのようです)
(西藤、終わったか)
(あと10ページほど)
 家人が家の中に入ってくる音がする。護衛のマイクロヒューマノイドが一緒に違いない。どうか、前長官本人ではありませんように。
 西藤のスキャンは、残り5ページほど。

 その時だった。犬が寝ているのを不思議に思ったのであろう家人が、各部屋を見て回る音が聞こえた。
 誰かが、書斎の隣のゲストルームに入っていくのが聞こえる。たぶん、家人であろう。
 いよいよ、書斎の前に家人が着いた。家人らしき足音でそれが判る。
 ドアノブを回す音がする。
 静かにドアが開き、家人が部屋の中に入ってきた。
 家人は不審そうな顔をして、部屋の中をきょろきょろと見回していた。
 何も変化のないさまを見て安心したようで、直ぐに部屋を出て2階に上がっていく。

 間一髪。
 
 書類の入った金庫を閉め、杏と西藤の2人はドアの反対側に隠れていた。
 スキャンは終了した。
(西藤、犬はまだ寝てる。裏口から出るぞ)
(了解)
 
 2人は裏口まで廊下を静かに移動すると、外へ出て難無く塀を超えた。

 E4への帰路。
 流石に疲れたという西藤と倖田を眠らせ、杏と不破がそれぞれの車を運転していた。
(不破、ご苦労だった)
(こっちは寝室だったんで、見にも来ませんでしたから)
 杏はE4室にいる設楽にメモを飛ばす。
(設楽、八朔。データ化できたか)
(チーフ、それがですね、壬生長官の方は辻褄が合うって言うか、流れどおりに書類があったんですが)
(安室前長官の書類も全部スキャンしたぞ)
(明らかに流れを寸断したような跡がありますね)

 杏は剛田室長にメモを送る。
(室長。このまま戻ってもいいの?)
(仕方がない、今日のところは戻れ。多分、愛人あたりが書類をもっているんだろう)
(愛人?)
(有名な話さ。だから奥方は平気で書斎に入っただろう。安室前長官は帰らない日もあるようだからな)
(その愛人、ってのはどこにいるのよ)
(金沢市内にいるのは確かなんだが、まだ特定できとらん)
(じゃあ、もう一度ドライブが必要ってわけ?)
(そうなるな)
(了解よ。まったく、まさか愛人が複数いるわけじゃないでしょうね)
(探ってみないと、そればかりはなあ)
(はいはい、帰ります)

 杏の運転は知らず知らず雑になり、スピードも加速する。無理な追い越しが続いた。
 不破はついてくるのが精一杯のようだった。


「で、見つかった?」
 E4に帰るなり、杏の発した言葉だ。
 剛田室長は呆れたような顔をしながら杏を見る。
「お前、どれだけ無謀な運転をしてきたんだ」
「あら、そんなに無謀だったかしら」
 続いて入ってきた不破や倖田、西藤までもが口を揃える。
「チーフ、ついていくのが大変でしたよ」
「気が付いたら不破さんまでも無謀な運転してるし」
「俺なんて、直ぐ目覚めたけど怖くてチーフに話しかけられなかった」

 剛田室長がIT室を覗いた。
「設楽、八朔。安室前長官の行動を張れ。ナンバーから監視カメラを検索すればどこに立ち寄ったかわかるだろう」
「マンションだったらどうします?」
「カメレオンモードになって張りつくしかなかろう」

 杏はまだ怒っていた。
「愛人の身辺調査するわけ?」
「そう怒るな、五十嵐」
「むかつく」
「あと何枚かでデータは揃う。そうなれば、検察を動かすことができる」
「このデータそのものは日の目を見ないじゃない」
「このデータがなかったら、検察は動きようがないんだ」
 剛田室長は杏を宥めながらまたIT室のほうに目を向けた。
「愛人宅の方は、ここ1週間のうちに何かしらの動きがあるはずだ。よーく監視してくれよ」

 杏の目が、鳩が鉄砲を食らったように真ん丸になった。
「ね、室長。カメレオンモードの技術って、どこまで知られてるの?」
「どうかしたのか」
「安室邸にも壬生邸にも生身の犬がいたのよ。今どき番犬として犬を飼う家なんてないでしょう」
「研究室の人間くらいじゃないか。安室前長官があそこに出入りしているとは聞いたことが無い」
「麻田導師と安室前長官が繋がってたから?」
「それにしたって、カメレオンモードを見た直後に麻田は殺された。安室前長官に伝える術がなかろう」
「それもそうね」
 
 どこか心の奥で納得していない杏がいた。
 意識ではなく魂がざわめいている、そんな感覚。

 
 安室前長官の動向は、設楽と八朔により詳らかにされ、週に1~2回、スケジュールとは関係なく、前長官は自宅に帰らない日があることがわかった。
 その動向を掘り下げるのは容易ではなかったが、前長官用の送迎車ナンバーを基に監視カメラ映像やNシステムを掛け合わせた結果、金沢市内の高級マンションで車を降りる前長官の画像が映し出された。
 階数を探ることは、監視カメラからだけでは難しかった。
 そこで、杏たち4人の出番となった。
 2人ずつカメレオンモードで当該マンションに張り込み、長官が入ってくるのを待った。長官は、何故かこの週だけはスケジュールが閑散としているにも関わらずこのマンションには立ち寄らない。
 日を改めようかと思った週末。
 夜に訪れるものだとばかり思っていた前長官が、朝早くマンションに姿を現した。護衛を伴い、エレベーターに乗る。
 杏は一緒にカメレオンモードのままエレベーターの片隅に潜り込んだ。護衛がボタンを押したが、立ち位置が悪く何階かは確認することができなかった。仕方がない。あとは一緒に、上階へ昇って行くだけである。
 70階でエレベーターは止まった。
 前長官と護衛がエレベーターから出る。
 杏も遅れないように扉を押さえながら抜け出た。
 前長官たちは南東向きの7001号室の前で止ると、護衛がインターホンを押した。
 中から出てきたのは、20代半ばと思われる女性だった。女性は玄関先で前長官にハグすると、ゴルフバッグを中から廊下に引きずり出した。
 なるほど、今日はゴルフに託けて逢引というわけか。古今東西、逢引とはそういうものらしい。
 世の主婦諸君。旦那の休日ゴルフは、その半数が逢引かもしれない。

 杏はダイレクトメモで長官が立ち寄った部屋番号を皆に知らせる。皆が70階まで集まると、全員カメレオンモードのまま針金を鍵穴に差し込込んだ。これまた30秒ほどで鍵をこじ開け、4人で一斉にマンションに侵入した。
 中は、4LDK。リビングが30畳ほどあり、ちょっとしたパーティーくらいは開けそうだ。女性一人で暮らすには広々とした間取りである。
 リビングと寝室、クローゼット部屋、ゲストルーム。
 ありとあらゆる場所を4人は探していく。
 
 今日は相手がゴルフだから、比較的時間には恵まれていた。
 犬もいない。
 クローゼット部屋を探していた不破が、何やら小型金庫を見つけた。
 皆がそこに集まった。
 最新式の金庫で、針金が通用する代物ではない。
(不破、倖田。市内で金庫を調達してきてくれ)
(まさか・・)
(そのまさかだ。こいつにそっくりな金庫を替え玉としてここに置いていく)
(気付かれませんかね)
(気付いたとしても、泥棒だと思われて仕舞いさ)
(あまりに大胆な発想ですねえ)
(何、1日あれば設楽たちが開けるだろう?それまでばれなきゃいいのさ)

 不破と倖田がフェイクの金庫を調達してくると、杏は偽物と本物をすり替えた。
 杏と不破は、金庫を持って部屋を出た。猛スピードでマンションを後にし、伊達市に急ぐ。
 西藤と倖田は、そのまま金沢市のマンションに残った。勿論、盗聴器をリビングに仕掛けて。何か動きがあれば、すぐE4に連絡すればよい。

 2時間弱で伊達市についた杏と不破。
 E4では、設楽と八朔が待ち構えていた。
「チーフはダイヤル式ならお手の物なんでしょうが」
「お手上げだからここに持ってきたんだけど。悪い?」
「いいえ。今のご時世、色んな便利グッズがあるんですよ」
 設楽は小さいソーラー式電卓のようなものをIT室から持ってくると、金庫に翳す。
「指紋認証型金庫用のツールなんですけどね」
 翳したツールに、押した回数の多い番号が入力されていく。4つの番号が画面上に出る。
 そして、計算機が動き出した。
「あとは自動で4ケタの数字を割り出してくれますから」
 設楽の自信満々の言葉に、杏も笑いを抑えきれない。
「どこでこんなもの手に入れたの」
「蚤の市」
 杏は腰に両手を当て大きく口を開けて、あっはっはと笑った。
「これを使った金庫破りが続出するというわけね」
「警察関係者以外が入手したら、犯罪です」
「まったく。体の良い言い訳だわ」
 
 5分もすると、金庫は開いた。
 設楽と八朔が手分けして書類を探し、スキャンしていく。
 20分ほどでスキャンは終了した。
 杏がE4内の時計を見る。午前11時を回ったところ。
「これから戻っても十分におつりが来るわね」
 不破も頷く。
「なるべく早く返した方がいいですよ。一応、窃盗だし」
「はいはい。じゃ、行くわよ」
 剛田室長が杏たちの背中に厳しい言葉を放り投げる。
「気を抜くなよ」
「了解」

 杏と不破は、来た道を再び猛スピードで戻る。杏より不破の方が運転は上手だから、運転は不破に任せて。不破のドライビングテクニックは、E4の中の誰よりも巧みだ。
 2時間弱。
 ちょうど午後1時。
 カメレオンモードになった杏と不破は、マンション内に入った。
 7001号室の前では、西藤と倖田が待ち構えていた。
(まだ安室と愛人は戻ってないか)
(はい)
(よし、もう一度入る。西藤はマンションの外で待機、もし安室が戻ったら連絡しろ。倖田はこのままここで待機。不破は盗聴器を取り外せ。あたしは金庫を戻す)
(了解)
 杏は不破と一緒に部屋に入ると、すぐに二手に分かれた。
 クローゼット部屋は、埃が多かった。
(まったくなあ。掃除もしないのか、あの女は)
 不破が笑いながら応対してくる。
(チーフ。愛人への嫉妬はいけません)
(こんな部屋を与えてくれるパトロンか。撒き餌で釣れるかな)
(無理でしょ)
 金庫が置いてあった場所に正確に金庫を戻し、フェイクの金庫は洋服で見えないよう、カムフラージュして部屋を出る。
(さ、終了だ。不破、そちらも大丈夫だな)
(終了です、今出ます)

 杏と不破は部屋を出て、3人は揃ってエレベーターで階下に向かった。
 そこに西藤からオンラインメモが届いた。
(大変です、チーフ。やつらが戻ってきました)

 驚いたことに、安室と愛人が揃ってロビー前にいる。
 途中でプレーを止めて来たのか。
 あと1時間遅かったら、また1週間は張り込まなければいけなかったかもしれない。
 どちらにしても、書類はいただいた。
 カメレオンモードのまま、男性陣が金庫を持つ杏を守るように立ちはだかり安室たちをやり過ごすと、4人は2台の車に分乗し、マンションを後にした。


 安室前内閣府長官と壬生元内閣府長官の賄賂疑惑は、決定的なものとなった。
 剛田室長は設楽たちが纏めたICチップを手に、内閣官房に行く、とだけ言い残し姿を消した。仕事が一段落した杏たちは、まったりとした夕方を過ごし、夜になった。
「室長から連絡がないか」
 杏は少し苛立っていた。あの内容なら、すぐにでも前長官たちを逮捕できるはず。連絡のひとつもないということは、あれだけではダメだということか。
 E4室内にも、やや重苦しい空気が流れた時だった。
 剛田室長がE4に戻った。室長は何も言葉を発しなかった。
 痺れを切らした杏が剛田室長の机に向かう。
「遅かったのね。寄り道?」
「まさか。内閣官房に拉致されそうになった。あれを警察府直属の管轄にして調べると言われてな。抗議していた」
「そしたら内閣府に勝てっこないじゃない」
「そうだ」
「迷宮入りさせる気?この事件を。そしたらもう、あの2人の思うがままに進むわ」
「どうも、今は動かないでくれと総理がごねているらしい」
「どうしてかしら」
「どうにも解りかねている」

 杏は自分の机に戻ると、バン!と一回拳を机に叩きつけた。
「電脳汚染のオリジナル疑惑だってあるのに」
 北斗もぼやく。
「僕が死にかけながら掴んだ情報も、砂の城のように崩れ落ちて無くなってしまうんですかね」
「そんなこと、させない」
 息巻く杏を、剛田室長が止める。
「今は静かにしていろ。いつか必ず我々の働きは実を結ぶ」

 それだけ、長官たちの立場は揺らぐものではないということか。
 杏は肩の力が抜けていくのを感取した。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 暫くはこれといった任務も無く、E4メンバーはそれぞれに好き勝手なことをして日々を過ごしていた。
 倖田はライフルのオーバーホール、西藤はひたすら眠っている。
 北斗は溜息を吐きながら活字新聞を読んでいた。北斗は暇を持て余すと、すぐに地下に降りてバグたちと遊んでいたから、そのことを思い出したのかもしれない。
 設楽は、VRに興じていた。
 不破は活字オンラインを見ていた。

 と、バタバタと室内に入ってきた者がいた。八朔だった。
「モニターつけてください!」
 不破がモニターに寄りながら八朔に問いかける。
「どうしたの、一体」
「内閣府前長官と現長官、暗殺事件です!」
「何だって?」
「安室前長官は未遂、壬生長官は死亡したという情報が入ってます」
 皆は、モニターの前に集まった。
『・・・ライフル銃で狙撃され、壬生内閣府長官が心肺停止の状態です。繰り返します・・・』
 
 犯人はまだ捕まっていないとのことだった。
 皆がモニターから離れ、自分の席に着く。
 剛田室長は検察の捜査が行きつく前に壬生長官が死んだことに納得がいかない様子だったが、普段通りの仕事を熟していた。

 杏は、犯人が誰なのかとても気になった。
 W4。
 総理直轄の組織。
 春日井総理は、安室、壬生の存在が前から邪魔だったはず。安室前長官宅では、前にも未遂事件が起きている。
 安室前長官は、どこぞのパーティーの来賓挨拶として壇上にいた際、報道陣の後ろから狙われた。
 しかしその身に銃弾が食い込むことはなく、壇上のシャンデリアに突き刺さった銃弾で壇上は薄暗くなったという。皆が驚いた瞬間、もう犯人は部屋を抜け出ていた。
 退路を確保しておく俊敏な行動。そのことからしても、そこらのヤクザものの比ではないことがわかる。

 一方の壬生長官は、自宅にいるところを狙われた。
 1人でリビングにいるところを、1発後頭部に打ち込まれ絶命したという情報が齎された。

 なおも杏は考察していた。

 手を下したのはW4か。
 だから剛田室長のICチップは使わなかったのか。
 それにしても、検察で審議を行うべき事案であり相手であるにも拘らず、1発の銃弾ただ一つで幕引きをするとは。
 W4を取り仕切る春日井総理の考えなのだとすれば、相当イカれてるおっさんとしか言いようがない。

 それでも、杏にはひとつだけ疑問が残った。
 麻田暗殺、壬生暗殺に関しては1発の銃弾で仕留めたのに対し、安室暗殺未遂は的外れな方向に1発発射したのみ。
 仕留めるつもりがなかったのだろうか。
 いや、総理からしてみれば、安室前長官の方が厄介な人間だったはず。
 W4を召喚したとすれば、なぜ未遂で終わらせたのか。


 内閣府長官暗殺の続報は、1週間経ってもなりが止まず、官邸では次の内閣府長官に誰を任命するのか、そのことに世間の注目は移っているようだった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 内閣府新長官が決まってひと月。
 杏たちは特に定まった任務もなく、再びまったりとした日々が続いていた。
 今日は、内閣府新長官の挨拶があると言って、剛田室長は出掛けていた。


「チーフに手紙が来てます」
 急に八朔が杏の耳元で囁く。
「手紙?何処から」
「差出人はありません」
「あら、ラブレターかしら」
 不破の眉毛がピクッと動いた。

「僕、開けてもいいですか」
 八朔は、銃口を口に向けられ、黙った。
 杏は半分本気で八朔を叱っている。
「黙らっしゃい。若造が。人に着た手紙をどうしてあんたが開ける」
「すみません、つい」
「近頃任務が無いからと言って、浮かれるな」
 設楽が楽しそうに声を上げる。
「はーい」
「設楽。お前にも銃口向けてやろうか」
「遠慮しまーす」

 杏は差出人の無い手紙を、ペーパーナイフを使ってゆっくりと丁寧に開封した。
 
『五十嵐杏様  2月29日 午後3時  山下公園で』  

 文面は、それだけだった。
 何かの嫌がらせかと、一瞬手紙を破りそうになった。
 不破がその手紙を取り上げる。
「ちょっ、返して」
「ふむ、時限爆弾ではないな」
「かえせっ」
「チーフ。差出人、気になりませんか」
「気になる」
「じゃあ、調べましょう」
 不破は、IT室に戻っていた設楽に封筒を渡す。
「これ、指紋検索システムで調べて」
「了解!!」
 設楽は大喜びでシステムを稼働させた。

 それから1時間。
 設楽がワクワクした顔つきでIT室から出てきた。
「誰だと思います?」
 北斗が設楽に賛辞を贈る。
「1時間で差出人の指紋検索できるなんて、優秀なシステムだ」
「僕の作った指紋検索システムは、まず電脳化している公務関係者から始まって、一般人で過去に刑務所入所の経歴があるもの、小学校の生徒、と検索していくわけ」
「で、そんなに短時間で全員の指紋が検索できるのか」
「一般人の場合、小学校に入らない子はほとんどいない。入学が6歳だからその時点で指紋検索のターゲットになり得るわけ。小学校に通えない移民連中は事件に手を染める場合が殆どだろ。その時点でシステムにセットされる」

 6歳時点で、あたしは研究所にいた。設楽のシステムにヒットするのは、公務関係者だからだ。
 杏は素直に喜べないものがあった。

「で、今回の手紙を指紋スキャンした結果、じゃーん!W4の九条さんの指紋が出ました」
 さるかに合戦には興味の無い北斗が素直に聞く。
「伊達市まで来るの?彼」
「そうみたいですねえ」
「山下公園か。久しぶりに行ってみたいな」
 杏が北斗の喉を締めようと手を伸ばしたところを、反対に不破の腕に落ちた。
「く、くるしい、ふわ、はなせ」
「この中で九条さんに面の割れてない人は、一緒に行こう」
 北斗は寂しそうな顔をする。
「青森の事件ですっかり顔が割れたから、僕は無理だね。って、不破さんも無理じゃない」

 杏はふて腐れて言い放つ。
「こっちで向こうのメンバー表が流れたように、向こうだってあたしたちの顔くらいわかってるだろうが」
 不破はにっこり笑う。
「知らないふりしてればいいでしょう」
「まったく、鬼だな、お前は」
「何とでも言ってください。兎に角ついていきますから」
「北斗を可哀想だと思うやつはいないのか」
 倖田と西藤が同時に手を上げる。2人は顔を見合わせた。
「じゃあ、俺達が残りますよ」
 設楽と八朔は、滅多にないお出掛けに頬も緩んでいる。そこに杏のストレートパンチが飛ぶ。
「設楽と八朔のうち、1人は通信関係のバグ管理のため認めない」
「そんなー」
「あたしから付いて来いとは言わない。自己責任で、山下公園に散歩に行く奴は行け」
 
 2月29日といえば、明後日だった。

 九条との約束の日。
 ジーンズに薄手のネイビーのコートを着て、マフラーを巻く杏。
 不破と設楽は、帽子にサングラス、マスクまでしている。怪しさ満載の2人。カメレオンモードになれば済むことだが、それは杏がOKしなかった。
 3人は、揃ってE4を出た。
 山下公園まで、徒歩で10分。
 杏は怪しい不破と設楽を見てあはははと声に出して笑う。
「本当についてくるとは思わなかった」
 至って真面目な不破。
「僕はやるといったらやるんです」
 設楽は思ったより元気がない。
「何のことはない、僕は夫婦喧嘩の仲裁役ですかね」

 杏と不破が両側から設楽のこめかみを突く。
「誰が夫婦だ」
 
 公園に着く前に、不破と設楽は杏から離れた。本当に遠くから見ているつもりらしい。あの怪しさ満載の格好ではかえって悪目立ちすると思うのだが、真面目に扮している不破にそれを言い出せなかった杏。
 ま、いいか。
 それより、九条はもう来ているだろうか。
 公園の中を散歩しながら九条を探す。

 歩き回っていた杏は、少し疲れを感じ、ベンチに腰をおろした。
 周囲を眺めると、サッカー男子やカップルの散歩、ジョギングをしている人もいる。
 これらの人数分、違う人生があるのだと思うと、何故だかわからないけれど清々しい気分になった。
 すると、真正面に誰か立っているのがわかった。
「やはり来てくれましたね」
 マスク越しに、九条のくぐもった声が聞こえる。帽子を目深に被り、マスクをつけ、マフラーをぐるぐる巻きにしていた。
「怪しさ満載ね」
「こうしないと、外でお話をするには勇気がいるので」
 杏はくすっと笑う。
「随分な勇気だこと」
「お連れの方も似たような恰好じゃないですか」
「そうみたい」
 九条はマスクを取らないまま、聞き取りにくい声で話し出す。
「あなたには聞いて欲しくてね」
「何を?」
「僕らの正体」
「それを聞いてあたしはどうすればいいのかしら」
「別に。聞いてもらうだけでいいんです」
「今生の別れじゃあるまいし」
 九条は下を向く。何か考えているようだったが、漸く顔を上げた。
「僕ら暗殺チームは、総理の管轄下にありながら安室前長官の指令を受けていたんです」
 杏は驚き、瞬きもせず九条を見つめた。
「現監察官が安室と懇意でしてね。次代の総理は安室だと言って、僕らを安室に引き合わせた」
「それで?」
「元々暗殺主体のチームでしたが、より暗殺色が濃くなった」

 九条は、ぽつりぽつりと独り言のように語り出した。
 安室の下にいるうちに、安室がFL教と繋がっていることが判った。電脳汚染のオリジナルという事実も。
 麻田はあの時、電脳汚染のオリジナルの名をばらそうとした。麻田は一般人でありながら電脳化していたため、W4で脳監視をしていた。
 あの時、麻田邸の近くに陣取っていたのは、西藤だけではない。
 六条に任せた脳監視の末、Xデーとオリジナルを話そうとしていたのがわかったため、安室から暗殺指令が下った。

 国立研究所ではカメレオンモードを推奨していたから、W4も漏れなくオーバーホールしたが、安室はその時点で、カメレオンモードが動物には効かないことも調べ上げていた。だから、居宅に生身の犬を放った。
 
 青森の研究施設で暗殺した研究員は、カメレオンモードの研究者でもあった。まだW4のカメレオン化は認可が下りなかったが、安室がゴリ押しした結果、オーバーホールできた。

 壬生はもっと可哀想だ。収賄の事実が公表されるかもしれないと酷くびくつき、真実を警察府に行って話すと言ったから、暗殺の対象とされた。壬生の暗殺時、安室に捜査の目が向かない様自分をも襲わせた。

 杏の心の中で作られていたジグソーパズルの、全てのピースが揃った。
「カメレオンモード、犬、麻田の死、研究員の死。やっとピースが繋がったわ。要は、麻田はオリジナルをばらそうとして消され、研究員はカメレオンモードがどこからばれたのかわからないように、と、それだけの理由で消されたわけね」
「そんなところです」
「壬生が真実を話しそうになり、長官2人を襲わせ、壬生だけを消すよう仕向けたのも安室だったのね、あの時の銃痕見て、おかしいなとは思っていたの」
「僕らは百発百中ですから」
「脳監視ってできるものなの?」
「研究所にある機器ならできますよ。青森ではそれも使って、国民一斉電脳化後の脳監視に使えるよう研究していた」
「どうしてあたしに、今、それを話すの」
「もう会えないかもしれないから」
「自首でもするつもり?」
「そんな生易しいもんじゃない」

 杏には、九条の目は遥か彼方を見ているような気がした。
「たぶん、安室は僕らさえ裏切るに違いない」
「その前に官邸に行って真実を話せばいいのに」
「総理を裏切り安室側についていたと話せと?それこそ裏切り者のレッテルを貼られて、処分は重くなるでしょう」
「あなたたちは指令に従っただけよ。自らクーデターを・・・」
「そう、そのクーデターの犯人にされるんです」
 杏にはこれといった名案が浮かばなかった。
「逃げれば?」
「逃げ切れるなら。今度は軍を出動させるでしょう」
「軍、か。この国では、軍隊に重きを置いている」
「そうです、その軍に追い掛け回されたら一溜りもない」

 杏は、深く、大きく溜息を吐いた。
「どちらに転んでも、痛し痒しですよ。総理は怖い人だ。あなた方はそうならない様、忠告しておきます」
「わかったわ」
「それでは、お元気で」
「そちらもね、元気でまた会いましょう」
 
 九条が最初にベンチから立ち上がった。
 尾行がいないかどうかを確認するかのように辺りをきょろきょろと見回し、九条は公園の木々の間に消えて行った。

 不破と設楽が心配そうに近づいてくる。
「何を話していたんです?」
「ダイレクトメモに繋げ」
「はい」
(やはり、W4の裏には安室がいた。総理を裏切ったことを知られれば、それ相応の処分が科せられる)
 設楽が先程の杏と同じことを言う。
(逃げられないんですか)
(今度は軍隊とランデブーだとさ)
(怖すぎる)
(あたしたちはそうなるな、と忠告いただいた)

 不破はマスクを外し、深呼吸しながらメモを飛ばしてくる。
(チーフ。安室の電脳汚染計画はどうなるんでしょう。青森も無くなった今、安室一人で出来る代物じゃありませんよね)
(やるとすれば祐代表が麻田の意志を次いで、というところだろうが、どこまで進められるかはわからんな)
(安室は今後、どうするつもりなんでしょう)
(総理の暗殺まで視野に入れているだろう)
(で、W4がそれに従うと?)
(あのぶんだと、愛想を尽かしてるように見えるがな)
(あと、もうひとつくらい内緒にしてるでしょう、チーフ)
(クーデター計画)
(クーデター?)
(安室を中心としたクーデター計画。その実行犯としてW4は軍に追われる。それこそが総理の描いたシナリオだったんだ。W4が安室に寝返ったことも承知の上でな)
(そりゃ、非常にまずいですね)
(しかし、我々にできることは何もない)

 杏はベンチから立ち上がり背伸びをした。
 どうか、無事で。
 神様を信じていない杏だったが、今日は祈らずにはいられなかった。


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 3月に入り、警察府あたりでは異動の話で持ちきりのようだった。そういえば、剛田室長が紗輝の後釜に、と推した青年たちは、揃いもそろってE4を敬遠したらしい。
 未だに倖田1人にスナイパー役を任せていては、倖田が疲れる。ライフル銃は特別、肩に力が入るような気がしている杏。

 そんなところに、また八朔が走り込んできた。全速力で廊下を走ったらしい。息がすっかり上がっている。
「モ、モニター」
 西藤が八朔の代わりにモニター電源を入れた。
 そこに映し出されたのは、手錠を掛けられた安室前内閣府長官の姿だった。
『…総理は、非常事態宣言を発令し、反乱分子の確保、捕縛を急いでいます・・・』

 杏と不破は顔を見合わせ、モニター画面を食いいるように見た。
 今回逮捕されたのは安室だけらしいが、奴は絶対にW4のことを話すだろう。もう、総理側から警察府に指示が飛んでいるかもしれない。
 
 巷の活字新聞やオンラインライブでは、反乱分子にW4の名前が挙がり、もう犯人だと決めつけていた。
 軍が動き出す懸念は、活字新聞及びオンラインライブでは一切語られない。機密事項ゆえに、報道管制が敷かれているに違いなかった。

 そんな折、電脳汚染をすっぱ抜いた週刊誌が出た。FL教の祐代表が記者に取り囲まれ、応対している姿とともに。
 安室が逮捕されオリジナルがいない今、それは無理な話だった。いや、コピーを仲介しても良いのであれば、電脳汚染は実行できる。それでも、中心にいて指示を出していたのは安室に違いなかった。
 公務関係者を初めとした一部の国民はパニックに陥り、電脳化している公務関係者はストライキを起こした。汚染されないように、という名目の、パニック症候群。
 E4では、安室前長官が最後に仕掛けた罠と踏んでいた。クーデター計画云々を国民の目の届かない場所に持ちこむためである。

 しかし、その週刊誌は発売禁止となり出版社は倒産した。
 全て春日井総理の指示だと思われる。

 W4のメンバーは軍に追われ、次々と逮捕の記事が出た。
 一条が捕まったかと思うと、次に三条の名が挙がった。そして四條、六条までが逮捕者として活字新聞に名を連ねた。
 九条の名だけが逮捕者の中に名が入っていなかった。

 逮捕されたのか、それとも自ら死を選んだのか。
 九条のその後は、E4が精力を傾け捜しても、その動向は杳として知れなかった。
 なぜか杏は心の中で、九条の無事を願った。生きていて欲しいと願った。
 口に出せば、クーデター分子と言われかねないから、口には一言も出さない。
 近頃は、不穏な空気が日本中を包みこんでいた。

 当然のように安室は失脚した。
 一般人電脳汚染計画に始まり、日本自治国総電脳化計画と朝鮮半島移民政策は、ここに終焉を迎えた。

第7章  それぞれの思惑

 安室のクーデター未遂事件から、ひと月が経とうとしていた。

 陰の実力者である内閣府長官たちを追い落とし、自らが率いてきたはずのW4さえもその餌食として潰した春日井総理。
 九条の言うように、怖い部類の人間に属しているのだという認識が、E4の中でも大勢を占めた。

 総理は今迄安室たちの陰に隠れて生きていた。総理は、何事にも口を出せない、気弱な人。誰もがそう思っていた。
 
 ところが、実権をその手に握るや否や、春日井総理は次々と政策を打ち出していった。
 その中のひとつが、試用体やマイクロヒューマノイドを弾圧する政策だった。
 建前上は、試用体やマイクロヒューマノイドはクーデターの温床となる、というのが総理の見解だった。
 してその本心は、自分に対しイエスマンしか傍に置かないという独裁の表れ。

『・・・総理は、プロジェクトチームを立ち上げ、反逆分子の掃討作戦を決行するということです・・・』

 ニュース番組のアナウンサーやコメンテーターが、これまた毎日のように不穏な空気を齎してはいたが、総理に反発するテレビ局や新聞社は、即時休止の措置が取られた。
 一般市民は上っ面の部分だけを聞かされ、試用体やマイクロヒューマノイドに対し嫌悪感を抱くようになっていった。また、試用体やマイクロヒューマノイドを匿った一般市民も処罰の対象となったため誰も匿おうとはせず、反対に、懸賞金目当てに試用体やマイクロヒューマノイドを売り渡すものまで出たのである。

 試用体やマイクロヒューマノイドの弾圧。
 研究所や安室、壬生両名の指揮下にあった内閣府のマイクロヒューマノイドが先に掃討作戦の餌食となっていたが、杏たちのような試用体上がりも特例ではなかった。春日井総理は、軍を自分の指揮下におくと、警察府に属するマイクロヒューマノイドたちをも弾圧する策戦に出たのである。軍の中にも多数マイクロヒューマノイドは存在したのだが、それらが処罰されないことは一般市民には公表もされなかった。
 
 
 E4内部でも、試用体の弾圧作戦決行により、杏と不破が軍から追われる身となるだろうとの見方が強くなった。
 剛田室長が、E4室内で杏と不破を呼ぶ。
「五十嵐、不破。お前たちが反逆分子と見做されるのは時間の問題だ」
 杏は肩を竦める。
「どうやらそのようね」
 不破は、真っ直ぐに立ち剛田室長を見つめると、ポーカーフェイスで言葉を繰り出す。
「試用体やマイクロヒューマノイドが皆、反逆分子には成り得ないと思うのですが」
 剛田室長は、口に珈琲を運びながら不破の質問に答えた。
「独裁はもっとも春日井総理の目指したところなんだろうが、第2の安室を出したくないのだろう」
 杏が剛田室長の珈琲を取り上げて、机に置く。
「あたしたちはこれからどうすればいいかしら。兎に角、ここをでないとね」
 下を向いて、悔しそうに机に手を付く剛田室長。
「2人は暫くの間、姿を晦ましてくれ。良い方策が見つかったら連絡する」
 杏は剛田室長の肩を叩く。
「気にしないで。ここの皆に迷惑はかけられない。不破と2人で逃げるから安心して」

 皆が杏と不破を見つめる中、杏は不破の腕を掴む。
「みんな、元気で。あたしたちは絶対生き抜くから」

 設楽、八朔、倖田、西藤、北斗。
 皆が杏と不破に向かって、右手を折り曲げこめかみに当てて敬礼する。
「チーフ、不破さん、どうぞご無事で」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 杏と不破はE4から出て、住まう主のない館や足の付きにくいラブホテルなどを転々としながら身を隠していた。
 まだ今はいい。これが軍上部の直轄になれば、あっという間に館は廃墟と化し、ラブホテルでさえ各部屋にカメラが備えつけられるだろう。
 
 そうしながら2週間が過ぎた。
 誰かと連絡を取ろうものならその電波をキャッチされ、相手にも迷惑がかかる。
 E4のあいつらに迷惑はかけられない。
 最悪、あいつらまで掴まってしまう。

 軍が、どうやって一般人とマイクロヒューマノイドを見分けているのか、最初は解らなかった杏だが、不破がその絡繰りを教えてくれた。
「脳監視だろうな」
「あの青森で行ってたやつ?」
「そう。マイクロヒューマノイドには反応する、あるいはマイクロヒューマノイドだから反応しない何かがあるんだろう。詳しくは俺もわからないが」
「外見では見分けがつかないから、そうするしか方法がないというわけね」
「なるべく、人のいないところに身を隠そう」

 マイクロヒューマノイドは、一般人と食事が異なっていた。その辺りも見分ける一助になったらしく、密告する一般人は後を絶たない。
 
 人気のない場所で生活を続ける杏と不破だったが、食事だけはいかんともし難かった。
 街の中、それもスラム街のような場所で必ず闇市が出るはず。法外な値をふっかけて。
 何日かに一度、杏と不破はスラム街にその身を置いていた。

 闇市で食料を補充し食事を摂った後、2人で人目を忍びながら山下公園を歩いていた時だった。
 突然、剛田が目の前に現れた。すれ違いざまに、剛田は一言だけ告げた。
「すぐ国立研究所に行け」
 

 杏と不破は、恋人のふりをして手を組みながら、タクシーを拾い、国立研究所を目指した。
 運転手は怪訝な顔をしたが、口止め料としてチップを余計に払うことで、その表情はほくほく顔に変わった。
 
 研究所に入ると、すぐに研究員が駆け寄ってきた。
「こちらへ」
 後をついていく。これが罠でないことを信じて。
 2階のいつもの研究室は閉鎖されていた。
 2人は地下へと案内された。
「これからオーバーホールを行います。マシンガンを浴びせられても少々では倒れない頑丈な義体です」
「脳部分だけはどうにもできません、脳だけは隠してください」

 国立研究所の恩恵により、逃走中の杏と不破は、最後のオーバーホールを行った。研究員たちも狩りの獲物とされたため、オーバーホールさえもが時間との闘いだった。
 普段なら2時間かかるオーバーホールを1時間で済ます。杏は女性研究員だけでオーバーホールしていたが、今日は研究員が一斉に集まっていた。
 杏たちのオーバーホールが終わると、研究員たちはこぞって地下に潜り込んだ。そこには、研究する施設が秘密裏に作られていた。第3次世界大戦中の地下壕だったのかもしれない。


 剛田が準備したマシンガンなどの銃器類と、国立研究所のバンを一台貰い受け、青森の研究施設跡に急いだ。この車も研究所のものだから、Nシステムを駆使すれば直ぐに杏たちの所在が知れることになるのだが、今はそれどころではない。
 不破がハンドルを握り研究所を出ると、バンはタイヤを鳴らしながら闇に消えていくのだった。
 2時間も走っただろうか、辺りはもうすっかり暗かった。車は青森にある旧FL教の研究施設に着いた。杏たちがFL教を潰したあとも細々と研究が続けられていると聞いたのだが、施設はもぬけの殻だった。
 青森の研究施設跡では建物だけがゴーストタウンの様相を呈していたが、2時間も経たないうちに軍の一顧兵団がそこに到着した。Nシステムに反応したのだろう。
 夜も更けた頃だった。

 軍の車両から次々と浴びせられる銃弾。
 見切るのが精一杯の杏と不破。
「1発1発、大切に使うのよ!」
 杏はそういうと、不破と二手に分かれ、軍の関係者を二分した。
 杏と不破の身体は、少々の拳銃では弾痕さえ身体に残らなかった。今度は杏と不破から攻撃する。銃を構えている相手を特定し、スナイパーの手元を撃つ。
 銃の他にも、近づかれない様不破がマシンガンで相手を威圧する。
 それを何度繰り返したことだろう。
  
 今度は赤いレーザー照準器が、杏の脳部分を照らす。ライフルか。
 身体を低く保ちながら、左右に動いて照準を狂わせ相手の肩を撃ち抜いた。

 そうして、いかほどの時間が経過しただろうか。
 また、杏は不破と合流した。

 軍側は、しばらく動きが無かった。
 遠くに目を凝らすと、人間たちの他に、何か蠢いていた。


 それは何と、バグとビートルの形をしていた。
 まさか、あの子たちが軍に。
 研究所に行ったはずのバグやビートルがなぜ軍にいるのか、気が動転しかけた杏はフラフラと前に出そうになった。
「やめておけ」
 不破が杏の肩を押さえて引き戻す。
「あれは俺達が知ってるバグやビートルじゃない」

 軍では、E4から引き揚げたバグとビートルを研究所から取り上げ、対マイクロヒューマノイドの最終兵器として再開発していた。なんとバグやビートルは自爆装置を身体の正面に装着していた。
 最終兵器。
 とはよく言ったものだ。
 以前の装備を強化し、自爆装置を付けただけのチャチな再開発。

 バグとビートルは、攻撃の姿勢を見せないまま、そろそろと杏と不破に近づいてきた。
 前だったら、『アン~』と叫びながら寄って来たものだが、今は無言で近づいてくる。
 見た目だけがバグとビートル。

 杏は切なかった。
 あんなに人の心を知りつつあったあいつらが、再開発という名の下に魂を剥ぎ取られ考えるということを切り裂かれてしまった。
 杏の頬を涙が一筋流れた。

 はらはらと頬を伝う涙に、杏は心の底から軍を憎んだ。
 今は泣いてる時じゃない。自分達とバグたちを、その生活を、取り戻す。取り戻してみせる。
 
 しかし、バグたちを撃つことはできなかった。
 ビートルたちに敵意を向けることは無理だった。
 心のどこかで、彼らが昔に戻るのではないかという期待があった。
 0.001%の、ちっぽけな期待。

 どうしてもバグやビートルを戦うことができなかった杏と不破は、それぞれバグとビートルに捕まった。なぜか、軍はそれ以上襲いかかってはこなかった。
 自爆装置をバグやビートルが自ずから押す、それをわかっていたから。それ以上の犠牲を出したくなかったのだろう。

 杏は、バグを撫でて声を掛けた。
「バグ。元気だった?北斗が心配してるよ」
 不破もビートルに声を掛ける。
「オイル、足りてるか。いつも北斗に注してもらっていたな。今はどういう生活してるんだ」

 杏は、バグやビートルの好きだった、J.Dサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』から、その名言とも言われるフレーズを繰り返し語る。

「死んでから花をほしがる奴なんているもんか。一人もいやしないよ」
「Who wants flowers when you’re dead? Nobody」

「会いに来る女の子がすてきな子なら、時間におくれたからって文句をいう男がいるもんか。絶対にいやしないよ」
「If a girl looks swell when she meets you, who gives a damn if she’s late? Nobody」

「ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げてることは知ってるよ。でも、ほんとうになりたいものといったらそれしかないね」
「I’d just be the catcher in the rye and all. I know it’s crazy, but that’s the only thing I’d really like to be」

「未熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」
「The mark of the immature man is that he wants to die nobly for a cause, while the mark of the mature man is that he wants to live humbly for one」

「僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えた」
「I thought what I’d do was, I’d pretend I was one of those deaf-mutes」

「あなたは世界中で起こる何もかもが、インチキに見えてるんでしょうね」
「To you everything that’s happening in the world appears phony」

「幸いなことに、その中の何人かが、自分の悩みの記録を残してくれた。君が望むのなら、君はそこから学ぶことができる。それとちょうど同じように、もし君に他に与える何かがあるならば、今度はほかの誰かが君から学ぶだろう。これは美しい相互援助というものじゃないか。こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ」
「Happily, some of them kept records of their troubles. You’ll learn from them—if you want to. Just as someday, if you have something to offer, someone will learn something from you. It’s a beautiful reciprocal arrangement. And it isn’t education. It’s history. It’s poetry」


 軍の最終兵器だったはずのレディバグとレディビートルたちは、杏や不破を捕縛しても動こうとはしなかった。軍にすれば、そのまま起爆装置を押したかったのだろうが、なぜか起爆装置はスイッチが入らなかった。
 杏は気付いた。歩いてくる最中に何故かバグたちが自ら起爆装置の電源をOFFにしていたのだった。
 
 もしかしたら、バグたちは正常に戻っていたのかもしれない。

「・・・ホクト・・・ハ?ゲンキ、ナノ?」
 バグとビートルは杏と不破の声を聴き、ライ麦畑のフレーズを聞き、大好きな北斗の名前を聞き、懐かしきE4での記憶を取り戻したように見えた。
 バグとビートルに、再び魂が宿った瞬間だった。

 不破は笑ってビートルを撫でる。
「ああ、元気だ。お前らの事、毎日心配してる」
「ホクトニアイタイ」
「ボクモ」
 バグとビートルは、杏や不破の手を掴み、そしてぎゅっと抱きしめた。そして、杏たちから離れた。

「アン、フワ、ボクタチカラハナレテ」

 バグとビートルは、自身の自爆スイッチを入れた。そうか、軍がみているだけだったのは、こういうことか。杏は軍のやり方に猛烈に腹が立った。
 しかし、今はそんなことを考えている暇はない。
 杏と不破は、自爆スイッチを何とか切ろうとバグの身体を探す。
「ダメ、ハナレテ」
「バグ!生きて北斗に会おう」
「モウ、コノカラダガソレヲユルシテクレナイノ」
「ゴメンネ、アン、フワ。ホクトニヨロシクツタエテネ」
「ボクノコトモワスレナイデ、ッテ」
「ボクタチ、ミンナノコトダイスキダッタヨ」
「ウマレカワッタラ、マタE4ニイクカラ」
「ジャアネ、アン、フワ」

 不破は、ビートルの角で100m位飛ばされた。杏も同じく、バグによって遠くに吹っ飛ばされた。
 飛ばされた場所から立ち上がり、バグたちの方に走り寄ろうとした、その時だった。
 
「バグ!ビートル!」

 その声は、爆音に掻き消された。
 バグとビートルが自爆したのだった。
 E4のメンバーとして、杏と不破を守るために。
 
 杏と不破は、ばらばらになったバグとビートルのそばに駈け寄った。そこから、2台のICチップを拾った。
 杏は地面に膝をつく。再び目から涙が溢れ出た。
「不破。こいつを、北斗に渡したい」
「わかった」


 バグとビートルがくれた命。大事に使わせてもらおう。絶対に、生き延びる。
 杏と不破は、マシンガンで相手を威圧しながら軍の兵士に近寄った。皆、怪我をしているかビビッて杏たちを遠巻きに見ているだけだった。そんな中、陸軍の車を1台拝借し、ナンバーを壊して走り出した。そして、不破が運転し爆走する。行き先は、伊達市。どうしても、ICチップを北斗に渡したかった。

 そんな時だった。
 剛田からダイレクトメモが入った。
(今から研究所の地下壕に来てくれ)
(今何処にいるの)
(E4だ、この通信は設楽が丹精込めてスクランブルをかけてくれている。あと2分くらいもつそうだ)
(北斗はいる?)
(なんだ、伝言するぞ)
(バグたちの形見。ICチップが手元にあるの。北斗に渡したくて)
(研究所まで北斗を行かせよう。私を乗せて行ってくれるか、北斗)
 OKサインが出たらしい。
(どこでバグたちに会った)
(ひどいもんよ、軍も。研究所からバグたち取り返して、自爆モード埋め込んで)
(自爆したのか)
(あたしたちを庇って自爆したわ)
(そうか)
(北斗に会いたかったって。生まれ変わったらまたE4に行きたいって)
(伝えておこう、北斗に)

 研究所に着くと、外壁や1階、2階はマシンガンの餌食になっていた。
 原型をとどめない程に。

 杏は地下がどうなっているか心配だった。
 そこに、1人の研究員が姿を現し杏たちの道案内をしてくれた。
 すると、地下壕の入口は直ぐに見つかった。そこでは研究員たちが身を寄せ合っていた。
 これでは軍が来たらすぐにわかるのではないかと杏は心配したが、地下壕は迷路になっていて、すぐに居場所を特定するのは無理なように作られていた。研究員たちも、サーモグラフィーを駆使することで、軍の捜索を煙に巻いているという。
 
 杏たちが到着してから10分後、剛田と北斗が現れた。
 北斗はICチップを見ると、床に崩れ落ちて、泣いた。
 研究員たちもつられて涙する者が多かった。
 ある研究員は、ICチップさえあれば今後バグたちを蘇らせることができる旨、北斗に告げた。

 この理不尽な政治局面が真面な方向に変わったら。
 
 剛田は、杏と不破に今後の方針を提案した。
「私はもう、春日井総理を見限った。どうだ、2人とも半島に渡って身を隠さないか」
 不破が万が一のことを想像しながら剛田に聞く。
「上手く渡れますか」
「密航船が出る」
「いつまで向こうに?」
「総理の任期はあと2年だ。2年経つまで、五十嵐と不破、お前たちを守りたい」
 杏が心配する。
「総理が永遠にその座に就くことはないの?」
「今の憲法では、総理の任期は2期4年、通算8年限りだ。春日井総理は就任から6年が過ぎたところだから、残りの任期は2年ある」
 
 杏は、気になっていたことがあった。
「E4はどうするの」
「一旦解散しなくてはならない」
「設楽や倖田たちは?」
「西條監理官に頼んで、ERT、SAT、SIT、SSSに配属されるよう手筈を整えよう」
 杏は安堵の溜息を洩らす。
 不破も微かに頷いた。
「それなら安心だ」
「ええ、気兼ねなく向こうに行けるわ」

終章  

 E4メンバーは、設楽がSIT、倖田がSAT、西藤がERT、八朔と北斗がSSSに配属され、2年後の再会を約束し、それぞれの道を行くことになった。
 警察府SITは特殊事件捜査班。高度な科学知識・捜査技術に精通し、ハイジャック、爆破事件などに対処する部署である。

 警察府SATは特殊急襲部隊。警備部に編成されている特殊部隊。SATはハイジャックや重要施設占拠等の重大テロ事件、組織的な犯行や強力な武器が使用されている事件において、被害者等の安全を確保しつつ事態を鎮圧し、被疑者を検挙することをその主たる任務としている。

 警察府ERTは「エマージェンシー・レスポンス・チーム」の略称で日本語での部隊名称は「緊急時対応部隊」。ERTは、警察府の銃器対策部隊から選抜された隊員らが集まる。緊急事態に最初に投入される部隊である。

 警察府SSSはSATを支援する特殊部隊支援班(SAT Support Staff、通称スリーエス)。SSSは、都道府県警察刑事部との連携や警察本部長の補佐、警察府との連絡調整を担当する。


 剛田室長が皆に頭を下げる。
「すまん、私の力不足で」
「室長、とんでもない。自分たちの職場を見つけてくださってありがとうございます」
「皆、この言葉を胸に、2年間を過ごしてほしい」

『魂は肉体に宿り、生命の源として心の働きを司るのに対し、意識は毅然とした自律的な心の働きである』

「難しい言葉ですね」
「2年後、其々の解釈を聞くとするか」
「了解。では、お気をつけて」
「いってらっしゃい」


◇・・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・・◇


 杏と不破は、変装しビル街に再び身を隠しながら、何とか密航船の出る場所を目指していた。たまに遭遇する警ら隊。いそいそと恋人のふりをして腕を組みキスの真似事さえする。警ら隊が行き過ぎると杏は元の厳しい表情に戻り、港を目指す。空は明るさを失い、夕方が近づいていた。太陽がビルの合間に姿を隠した頃、目指す場所が見えてきた。1日がかりでやっと港に辿り着いた。あとは、乗船するだけである。
「剛田さん、遅いわね」
「E4で挨拶してるんだろう」
 そんな雑談をしている余裕があるのだろうかと杏は心なしか胸騒ぎがした。その時、後ろから剛田の声がした。
 ほっと一息ついた杏。
「遅かったのね、ご挨拶?」
 剛田は笑みを杏に向けた。
「お前に授けた言葉を、皆にも授けてきた。2年後に、皆の解釈を聞くとしよう」
 杏は一瞬、目を丸くしたものの、言葉にすることは無かった。興味をそそられたのは不破の方だ。
「剛田さん、俺にも教えてくださいよ」

『魂は肉体に宿り、生命の源として心の働きを司るのに対し、意識は毅然とした自律的な心の働きである』
 剛田は不破に対し、右目でウインクする。
「どうだ、わかるか」
 不破は両手を振ってお手上げだと笑う。
「全然ですね、2年間、ゆっくり考えます」

 杏たち3人は周囲を気にしながら、タラップをかけ上り、急いで船の内部に消えていく。密航船では、日本国内のマイクロヒューマノイドが多数を占めそこら中に犇いていた。この港では昼間外国からの商業船がひっきりなしに出入りする。何泊かして停留中の船も多い。その中に紛れれば、軍に見つかる可能性は限りなく低い。


「あら、あれ・・・」
 船の中で、遠くに九条の姿を見たような気がした杏。
 キツネにつままれたような顔の杏を見て、不破が笑う。
「どうした」
「九条を見たような気がして」
 犇きの中に、もしかしたら助かった命があるかもしれないと考えずにはいられなかった不破。杏と一緒に船の中をぐるりと見まわった。
「まだ生死がはっきりしてなかったな、1人だけ」
「気のせいかしら」
「船の中にいるんなら、そのうち会う機会もあるさ」
「そうね」

 杏はもう一度振り返る。
 本当に九条だったのだろうか。それとも他人のそら似か。

 杏は、コートがカサカサしたような気がして、ふとコートのポケットに手を入れた。
 そこには、差出人の無い手紙が入っていた。
 開封してみると、一行だけが記されていた。

「ごきげんよう」

E4 ~魂の叫び~

E4 ~魂の叫び~

大好きなアニメ 「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」 にインスピレーションを得た作品です。二次創作的な側面を持った作品です。

  • 小説
  • 長編
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. 第1章  世界の終りと始まり
  3. 第2章  日本自治国総電脳化計画
  4. 第3章  電脳汚染
  5. 第4章  ライ麦畑でつかまえて
  6. 第5章  パラドックス
  7. 第6章  朝鮮半島移民政策の終焉
  8. 第7章  それぞれの思惑
  9. 終章