表情より湯気

 何となく、今日が雨であることは予想できた。当たり前のことに思えた。先生との日々を思い出すとき、その光景には雨粒がよぎる。
 ――小雨だからって、傘差さないと風邪引くぞ。
 優しげなまなじりで、先生はそっとその大きな手を差し伸べる。私の肩に残る雨のしずくを、不器用な手つきで払う。私はその手を握って、自分の胸に当てさせる。
 ――分かる? 
 当てさせて、私の鼓動の速さを確かめさせる。先生は戸惑いの表情を浮かべながらも、何の抵抗も見せなかった。何も言わない。知っているくせに、私の想いを。
 愛している。
 言ってはいけない言葉を、言っても何ら効力を発揮しない言葉を、心の内で唱える。
 

  雨降り 駅から走る塾までの距離

  突然 黒い傘を差し出されて

  「ありがとう」って言いながら 髪形気にする一人の少女


 私の放課後は何よりも先生と過ごせる時間を優先した。頭の中はそのことしかなかった。友人関係なんてどうでもよかった。同級生の異性を見ても、胸のときめきは感じられなかった。部活も入ってはいたけど、先生が忙しいとき以外、行かなかった。
 先生は往々にして、私に会ってくれた。仕事があっても、残業すればいいから、家に帰ったってできるし、と言ってくれた。そんな先生の優しさが持続していることを認められた瞬間、私はこの世界で最も幸せを感じている少女になる。
 校舎の脇に外付けされている鉄製の階段は、私たちの秘密基地。非常用の階段だから、人が来ることは絶対にない。
 階段に腰掛けて、何でもないことを愛の告白のように囁き合った。私たちはよく笑った。私たちはよく触れ合った。
 ――瑞希、今日かわいいな。
 桜色のグロスで色づく私を、先生は照れ笑いを浮かべて、褒めてくれた。若く、美しい母から拝借したものだった。
 ――今日だけ?
 楽しむように笑いかける。でも、嬉しかった。もっと言ってほしかった。
 ――いや、いつもかわいいと思ってるけど、急に言いたくなったんだ。え? 本当だよ、いつも思ってたって。
 また手が伸びてくる。大きな手、私の好きな彼の手が。驚いたように目を瞑り、感触に気付いて目を開けると、彼はいつものように不器用な手つきで私の頭を撫でていた。


  寒い冬の日はストーブつけて チンプンカンプンの数学

  先生はうたた寝

  雨もりの音 ポツリポツリ響く部屋で 先生はうたた寝


 私は先生をまっすぐに愛していた。先生以外の男の人が見えないくらいに。高校生という女の子にとって大事な時期を、惜しげもなく先生に捧げた。
 捧げた。それなのに。
 先生には奥さんがいた。小柄だけど、とてもかわいらしい人だった。こっそり先生の家で張り込んで、その姿を確認した。ああ、これなら別れるのがためらわれるのも頷ける。
 ――先生、私と結婚してくれないの?
 先生は思ったことを隠せない人だった。目に見えて、その質問に困っていた。答えに窮していた。
 ――やっぱり、奥さんと別れられない?
 ――あ、瑞希……。
 何か言おうとする先生の口を、私は唇を重ねることで遮る。甘い感触。いやらしい吐息が漏れる。
 ――ごめんね、変なこと聞いて。忘れて。 
 不安を打ち消すように、いたずらなキスを繰り返した。体を預け切って、快感に酔いしれた。そうすることでしか愛の表現方法を知らなかった。
 言葉は信用できない。言葉だけじゃ、安心は得られない。
 先生を愛している私の想いは揺るぎないもので、疑う余地のないもの――だけど、先生が私を好きでいてくれるかは容易に揺らいだ。いつまで、いつまで――。
 先生は、いつまで私を好きでいてくれる?


  外はこんなに寒いのに こわれそうな教室は

  温かさで包まれていた

  雨の音 ポツポツリ


 永遠に続いてほしかった私たちの関係は、正体の見えない外からの介入で終わりを告げた。
 気付いたときには、校内中に噂が広まっていた。――私と先生がいけない関係になっている、という噂が。
 どうやら、二人で会っているところを誰かに見付かってしまったらしい。こうなったら、もう終わらせるしかなかった。先生には奥さんがいるのだから。私はきっぱり諦めるしかない。諦めて、普通の高校生活を過ごせばいいのだ。
 分かっていた。
 分かっていたけど、どうしても期待してしまった。先生が、私のために奥さんと別れてくれるのではないか、と。私の卒業を待って、私をお嫁さんに迎えてくれるのではないか、と。
 期待は尽きなかった。尽きないくらい、私は先生だけを愛していた。先生の言葉だけが聞きたかった。先生の体だけが欲しかった。
 だけど、結局、先生は何にもしてくれなかった。奥さんと別れはしなかった。私をお嫁にもらうどころか、私との関わりを極力、避けようとした。やっぱり、自分がかわいいのだ。世間体を守ることが大事なのだ。
 そして、私のことが全てを打ち捨てられるほど好きではなかった、ということだ。
 私は全てを捧げる覚悟があったのに。私は先生のために、貴重な高校生活の大半を費やした。先生のためにお化粧を勉強した。先生のためにおしゃれな下着をつけた。かわいく映るように努力した。忙しそうなときは、気を使った。「会いたい」って言われたら、雨の中を傘も差さないで駆けた。 先生のために。
 劇的な何かは、やっぱり起こらなかった。噂が広まって以来、一言も言葉を交わさないまま、あっけなく高校を卒業した。私の高校生活は、私の中に何も残していかなかった。
 そして。
 先生の訃報を知ったのは、大学生活が軌道に乗り始めた頃だった。
 

  ずぶ濡れになったあの人は

  「お茶にしようか」って おやつを手に持っている

  まるで 花が咲いたみたいね

  やかんの湯気 妙に白く見えたんだ


 血は争えないものだと、苦笑いを噛み締めながら思う。――母娘そろって、許されない恋に走ってしまうとは。
 私の母は、通っていた塾の先生と恋に落ちた。雨漏りのする、時代を感じさせる塾だった。母とその先生との間には、劇的な何かがちゃんと起こった。二人は何もかもを打ち捨てて、駆け落ちした。誰も知っている人がいないような土地へ行き、そこで一つの命を宿した。
 それが、私だった。
 私も「先生」を愛した。塾ではなく、高校の先生だったけど。
 先生は、私が卒業した年の春に、奥さんと夫婦水入らずの旅行に出かけた。噂が広まったことに対する、先生なりの罪滅ぼしだったのかもしれない。夫婦仲は良好だということを、世間に示したかったのかもしれない。
 ところが、二人はその旅行先で崖から転落し、仲良くあの世へと逝ってしまった。
 自殺だとは誰も考えなかった。私も、自殺では絶対ないと思う。――それでも、先生にどうしても聞きたいことがある。
 かわいらしい奥さんの隣で微笑む、先生の遺影を前に見据える。お線香をあげて、静かに手を合わせた。涙が滲んだ気がして、指先を目元に持っていくと、気のせいではないことが分かった。
 先生に、これだけはどうしても聞きたい。聞いても答えてくれないのだろうけど、聞かずにはいられない。
 ――先生、あの噂を広めたのは、あなたですか? いいえ、あなたですよね?
 遺影に背を向けて、しずしずと遠ざかっていく。そのまま立ち止まることなく、式場を後にする。
 雨は依然、降り止む気配がない。さようなら、先生。
「好きだったよ」
 私の最後の愛の囁きは、雨の音に溶け込んで、やがて消えた。

表情より湯気

表情より湯気

私の最後の愛の囁きは、雨の音に溶け込んで、やがて消えた。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-10-20

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