君が好き

 左右から手が差し伸べられている。どちらを選べばいいのかなんて、はじめから知れていたというのに、どうしておれは迷ったりしたのだろう。

   *   *

「あれ、また会ったね。ひょっとして、バレー部に入るの?」
 あ、このひだまりみたいな笑顔は、よく憶えている。名前を思い出そうと記憶の部屋を漁って、入学式の日にたどり着く。
 上野さんだ。上野薫子、さん。
「うん、そのつもり。上野さんも?」
「そうだよ。中学からずっとやってたから。――えっと、水野くんもけっこうやってる?」
 少し考えたようだったけど、よかった、名前を思い出してもらえた。
「長いよ。おれは、小学校高学年の頃からずっと続けてる」
 へえ、それは長いね。彼女は目を見張る。「じゃあ、そうとう上手いんだろうね……でも、よかった」
 なにがよかったのだろうかと、おれは目でなんとなく尋ねてみる。
「わたし、絶対にバレー部に入りたいと思ってたんだけど、中学からの友達、みんな違う部活に入るって言うから。知り合いがいなくて困ってたんだよね」
 よかった、水野くんがいて。笑うたびに、きゅっと、目がやさしく細まる。猫を、お腹で抱っこしているような温かさ。
 よかった――彼女以上にそう感じていることを、おれはこの瞬間に確信した。

   *   *

 そもそもの出会いは、入学式の日だった。桜並木が鮮やかに続く線路沿いの道で、彼女がおれの肩を叩いたことから始まる。
「余裕だね?」
 振り返ったら、同じ制服を身にまとった少女が立っていた。まだ真新しいそれを見るかぎり、新入生だろう、と思った。
「どういう意味?」
 お互いに、名前も名乗ろうとしない。でも、この状況はそんなに悪くないと思った。春だ。なんとなく、そんな言葉が浮かんだ。
「みんな、友達作りにあくせくしているみたいなのに、すぐに帰っちゃうんだね、っていう意味」
 そういうことか。ようやく、理解に至る。
 入学式の後、それぞれの教室に分かれて、最初のホームルームがあった。でも、それは案外にも早く終わって下校時間となったから、おれはかばんを抱えて、立ち上がった。
 だが、周りはいつまでも教室から去ろうとする気配がなかった。あちこちで小さな輪ができていき、よそよそしいやり取りが交わされていた。
 大変だな。彼らの気持ちはよく分かったから、非難するつもりはなかった。でも、おれにとっては面倒くさいだけだったから、一人で帰ることにした。
「――ただ、面倒くさがりなだけだよ」
「ふーん」
 歌うような調子で言う。
「きみはいいの? 一人で帰っちゃって」
 それこそ、余裕なのかな、と考える。
「うーん、今日はいいかな。一応、中学からの友達もクラスにいたし、焦って作った友達で失敗したくないからね」
 それなりに自分の考えを持っているようだ。のんびりした口調で遠くへ投げるように言うが、その言葉は共感できる部分が多かった。
 その後も、いくつかの言葉のやり取りを通して抱いていったのは、彼女に対する好印象だった。
 やがて、道が分かれるところで、それぞれ逆の道へ進もうとした。
「あ、そっちなんだ」
「逆だね」
 互いに立ち止まって、向き直った。
「そう言えば、まだ名乗ってなかったね」
「ああ」おれは頷く。「別れ際に名乗り合う、ってのもおもしろいな」
 彼女は悪戯っぽく笑って、
「あえて名乗らない、ってのもアリだと思うけど」
「いいって。名前くらい名乗るよ」一呼吸置いた。「水野尚輝です」
「上野薫子です」
 それぞれの「これからよろしく」で、その日は別れた。

   *   *

 彼女のバレーの実力は想像以上だった。ポジションはスパイクを打つアタッカー。細身の体をきれいに反らして、鋭いボールを相手コートに叩き込んだ。
「上野さん」
 練習の合間に、話しかけた。
「上手いね。バネが利いてて、すごくかっこいい」
「ありがとう」
 彼女は素直に喜んだ。
「ずっとアタッカーやってたの?」
「うん、最初は違ったけど。一回任されたら、思ったより上手いこといって、それからはずっと」
「素質があったんだろうな」
「水野くんは?」
 ずっと、セッターだったの? 彼女は尋ねる。
「そう。おれの場合は、最初っから」
 セッターはアタッカーのためにトスを上げる役割だ。相手の動きを冷静に読み取って、ゲームをコントロールする司令塔。目立つポジションではないけど、試合を優位に運んでいく上ではかなり重要だ。
「目立たないことはないと思うよ。経験者なら、見ているだけで分かる。すごい、打ちやすそうなトスを上げてた。しかも、安定してる」
「それは、ありがとう」
 面と向かって言われると照れてしまうけれど、それだけうれしさもこみ上げてくる。
 セッターをずっとやってきてよかったかもしれない。
 おれは父さんみたいになりたくてバレーを始めた。父さんは学生時代、バレー一色の生活を送っていて、大人になってからも趣味で続けていた。父さんは背が低かったから、アタッカーはあきらめてセッターになった。しかし、そのポジションでやりがいを見出して、輝きを放った。
 おれはその光を傍で見てきた。だから、憧れた。中学の終わりの方から急に身長が伸びてきて、アタッカーを勧められても、かたくなに断った。おれにはセッターしかなかった。
「いつか、水野くんのトスで打ちたいな」
 そんなの、やろうと思えばいつでもできるじゃないか。そう笑うこともできたけど、笑わなかった。
 同じように思う。彼女のためにボールを上げたい。こっちも気分が爽快になるようなスパイクを見せてほしい。

 体育館を出たところで、大志に会った。
「よお、おつかれ」
「おつおつ。バレー部もけっこう残ってるんだな」
「まあ、中学と違って、ここは強い方だからな」
 大志は学生かばんのほかに、シューズケースを手にしていた。その中には、サッカー用のスパイクが入っている。何度も見せてもらったことがあるけど、サッカーのスパイクは足の裏のでこぼこがやさしいのだ。野球のそれとかと比べて、ゴムでできているし、そんなに危険そうではない。
 彼が誰かと言うと、おれの中学の頃からの親友だ。
「いま帰りだろう? 一緒に帰ろうぜ」
「ああ、いいよ」
 するとそこに、また見慣れた顔が近づいてきた。
「お、二人ともおつかれ」
 蒔田夏希だ。同じく、中学からの同級生。
「蒔田、なんか部活入った?」
「ああ、島津と同じ」
 と言って、大志を指差す。
「え、サッカー部?」
「そうや。知り合いの先輩に誘われて、マネージャーになってん」
 蒔田は小学校六年間を関西で過ごしたため、今でもたまに関西弁が混ざる。
「はあ、おまえがマネージャー? だいじょうぶかよ、できんのか?」
「失礼な。うちだって、飲みものを用意したり、ユニフォームを洗ったりするくらいならできるで」
「そう彼女は仰ってますが、どうですか?」
 大志を見やると、
「そうだな、とりあえず今日は大人しくしてた」
 と答えた。
 とりあえずってなんよ、うちはいつでもしおらしい――蒔田がそう言いかけたところで、体育館から上野が出てきた。
「水野くん、おつかれさま」
 笑顔で、通り過ぎていく。おつかれ、と返す。
 行き過ぎてから、蒔田が興奮気味ににじり寄ってきた。
「水野、いまの、知り合いなん?」
「そうだけど……」
 なにを興奮しているのか。
「かわいらしいなぁ。ちょっと、友達になってくるわ」
 言うが早いか、上野を追って駆け出していく。なんという行動力だろうと、おれは呆れる。
 ふと不安になって、隣を確認する。大志はどう思っただろうか。上野に対して、どんな感想を抱いたのだろうか。
 彼は尋常ではないくらいにもてた。中学時代、彼に好意を抱く女子たちは少なくなかった。人を引き込む明るい雰囲気が、柔らかい言葉尻が、好印象を与えるのだろう。
 彼と上野が仲よくなったら困る――でも、どうしてこんな風に思うのだろう。どうしてこんなに不安に感じるのだろうか。

   *   *

「やっぱりさ、決定力のあるアタッカーが不足してるよね」
 夕陽が斜めに差し込む。上野は机の上に乗っかって、足をぶらぶらさせている。
「でも、打てる人は何人もいるじゃん」
 おれはその向かいに座っている。
「小粒揃いだよ、正直に言って」
「正直に言うなー」
 だけど、彼女の言わんとするところは理解できる。自分自身、深く考えないようにしていただけで、潜在的に悩んでいたことだ。
 いくらトスを正確に上げても、鋭いスパイクを放ってくれる人がいなければ、得点は稼げない。もちろん、そこがセッターの腕の見せどころで、それぞれの個性を生かしたゲームメイクをして、実力以上のものを発揮させていけばいい。まだまだ、おれ自身も磨く必要のある部分はたくさんある。
 それでも。
「まあ、言っても変わらないし、いまの戦力を高めていくしかないだろう」
「そうだけど、そうじゃなくて……」
 上野が言いたいことは、もっとほかにあるらしい。
「どういうこと?」
「――わたしだったら」
 そうこぼして、机から下りる。紺色のスカートが、ひらりと揺れる。窓際へ寄って、肩をもたれかかるようにした。
「わたしだったら、もっと強烈なスパイクを見せつけられるのに」
 負けん気の強さが、その表情にもありありと浮かんでいる。女子と男子がどうして別々にプレーするのだろう、と言わんばかりの口調だ。
「練習ではできても、試合は無理だからな」
「――悔しいなぁ」
 テスト前なのに勉強もしないで、誰もいない教室に残っていていいのだろうか。バレーに対する思いは理解できるけれど、成績が悪くて補習とかに駆り出され、夏休みの練習に参加できなくなったりしたら本末転倒だ。
 人を向上させていくのは「負けたくない」という思いだ。思いの強弱が、それぞれの成長度合いを決めていく。もっともっとと、先だけを見据え、ひたすらに前進する人だけが栄光に近づけるのだ。
 彼女は、先を見据えている。足を引きずってでもたどり着きたい場所を思い描いている。
 おれは冷静に分析している場合じゃない。自分はどうなのだ。前へ進みたい。誰でもない、自らの足で。
 好きだ、と思った。ひたむきさが、彼女の素直な眼差しが。
「好きだ」
 気づいたら、声に出して言っていた。
「上野さんの、そんなところが好きだ」
「ありがとう」
 彼女は少し照れて、微笑んだ。
「――ただの好きじゃない」
 おれは椅子から立ち上がって、彼女に歩み寄った。
「付き合ってください。おれと」
「――えっ」
 見開かれたその瞳は、明らかに戸惑いの色をしていた。喜びとか拒絶はないものの、ただ、そこに浮かんでいるのは戸惑い。
「ごめんなさい」
 彼女は、走り去ってしまった。

   *   *

 海岸沿いのテトラポッドは、波を受け止める頼もしい姿をしている。しぶきが上がるたびに、水は深い青から白へと変わる。
 気分が晴れないときは、こうして海に来てしまう。ここに来て、めそめそと、膝に顔をうずめて泣くこともある。思い切り、遠くの方へと叫ぶときもある。
 でも、中学からの付き合いである蒔田には知られていたのかもしれない。なんとなく気配を感じて振り返ったら、制服姿の彼女が立っていた。
「どうして……?」
 そのとき、おれは泣いていた。
「たまたま、海に向かっていくのを見かけてん」
 なきむし、と彼女は呟いた。
「え?」
 と、訊き返すと、今度は波の音に負けないくらいの声で、
「泣き虫!」
 と言った。
「悪かったな――」おれは涙を拭った。「ふられたんだよ、好きだった人に」
 ――ごめんなさい、わたし、水野くんをそういう風には見られない。
 そういう風って、いったいなんだろう。
 その一週間後、噂で上野と大志が付き合い始めた、という話を聞いた。そうか、それでああいう返事だったのかと、ようやく合点がいった。
 やっぱり、大志はすごい。おれの親友だけど、憎たらしいくらいにすごいと思う。
 憎たらしいや。
「そっか」
 すると、蒔田がそっとおれを抱き締めてきた。突然のことで驚いたけど、とても温かかった。安心感を覚える。
「好きなだけ泣いたらええ」
 その日に抱いた蒔田への思いは、感謝だけではなかった。

   *   *

 ――向こうに行っても、みんなのことは忘れんから。ほんま、おおきに。
 時間の経過ってほんとうにあっという間だと、ふと省みたときに実感する。もう、高校生活の最初の一年が終わってしまった。
「水野くん」
 上野が話しかけてくる。変わらない、その笑顔。
「部活出るよね?」
「もちろん。二年の初部活だから」
「後輩、いっぱい入るといいね」
「そうだな。――でも、あんまり多すぎると困るかも」
「えー、多ければ多いほどうれしいと思うけど」
 ふられてからも、おれは上野と以前のように話せている。彼女と大志が別れてから、話す機会がもっと増えたような気がする。けっきょく、二人は長続きしなかった。
「ちゃんと、夏希と連絡取ってる?」
 おれは頷く。蒔田は、一年の終わりに転校してしまった。いきなりのことで驚いたし、いまもその不在をちゃんと受け入れられているのかといったら、答えはノーかもしれない。
 遠距離恋愛。ありふれたそんな言葉だけれど、そのそれぞれに降りかかってくる状況は決してありふれていない。
「じゃあ、後でね」
 スキップするような軽い足取りで、遠ざかっていく。その後ろ姿を見つめながら、一つの確信が心を埋め尽くすのを認める。やっぱり――。

   *   *

 春の風は冷たく、一人で過ごす夜の部屋はどことなく不安だ。こういうとき、人は誰かの声を聞きたくなるのかもしれない。感情のこもった声を、温もりを。
 おれは携帯電話を手にとって、未読のメールを一つずつ読んで、丁寧に返信を送る。でも、時間をかけてもすぐに済んでしまって、気がついたら、真っ黒な画面にぼんやりした男の顔が映っていた。
 画面に、着信表示が現れる。そこにある名前は「蒔田夏希」。
「もしもし?」
「おお、早うに出たな。うちや」
「分かるよ」
 向こうの気配に耳を澄ます。人を不安にさせるような夜なのだろうか。
「――なんかあったん?」
 おれは首を振る。
「いや、ちょっとボーっとしててさ」
「さよか」
 しばらく、沈黙が下りる。なにか用事があったわけではなさそうだ。
「部活、どないや? 新入生、ぎょーさん来た?」
「ああ、今年はけっこう豊作かもな。実力者もいるし」
「よかったな」
「そっちは、どう?」
「楽しいで。お茶を用意したり、ユニフォームを洗ったりの毎日やけどな」
 蒔田は、転校先でもサッカー部のマネージャーになった。
「なあ……」
「ん?」
 矢のように時間は過ぎていった。これからも、ただ過ぎていくだけ。後悔したくないとか、貴重な時間を無駄にしたくないとか、野暮ったいことは言わない。ただ、確かめたいことが自分の中にたくさんあるだけ。
「あのさ」
「……うん」
「別れよう」
 返事は、すぐにはなかった。
「ごめん、急に変なこと言って」
「なんとなく、そんな予感がしてたわ。ほんまになんとなくやけど。急に電話したくなったんも、いま思えばそういうことやったんやな。――神様って、いてるんやな」
「…………」
「薫子やろ? それも分かるで。いつかこんな日がくるんやないかと、ずっと思ってたんや。――たまに不安にもなったけど。でも、繰り返しとったら上手く折り合いつけれるようになってたらしいわ」
 ごめんなさい。おれはようやく口を開いた。「ごめんさない」
 蒔田は、ええねん、とやさしく唱えた。電話の向こうで笑いかけてくれているのではないかと思った。
「こういうときは、かんにんなあ、でええねん」
 泣き虫。
 これが電話じゃなかったら、またそう言われてしまったのだろうな。

君が好き

君が好き

左右から手が差し伸べられている。どちらを選べばいいのかなんて、はじめから知れていたというのに、どうしておれは迷ったりしたのだろう。

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  • 短編
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登録日
2016-10-19

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