水面の鴨

水面の鴨

鴨は水底を見ている。

ある河川敷を鴨が泳いでいた。
泳ぐといってもほとんどは橋の上から
時折舞い込んでくる一枚の葉のように
流れのままぼうっと浮かんでいるだけだった。
この狭い水の流れが彼の世界のすべてだった。

羽根はもちろん付いていたが、
その翼を広げたのはいつだったが
もう随分と前だった。

この小さな河川敷で十分に生活は事足りた。
彼とその仲間たちは絶えず水面を覗き込み
小魚を探していた。

そして群れなど見つけたときには
我先に、と水中に首を突っ込んで
互いに頭をぶつけあいながら、食事にありついた。

しかし、先程までバシャバシャと騒がしかった鴨たちが一斉に動きを止めた。

鴨はゆらりと水面がうねるのを感じた。
それは鴨たちにとって悪寒のような
たまらなく気持ちが悪い感じがするのだった。

すると間もなく、鴨の2,3倍はあろうかという巨大な鯉が
彼らの足元を通り過ぎた。

鯉が通り過ぎるまで鴨たちはぴくりとも動けなかった。
小魚はその隙に皆、一斉に逃げ出してしまった。
鴨たちは情けなさと惨めさでいっぱいだった。


ほんの少し前までは鴨たちがこの河川敷における
食物連鎖の頂点に君臨していたのだ。
魚たちは鴨に怯え、橋の上の小鳥たちも自分たちに一目置いていた。
しかし、ある日上流からこの巨大な鯉が姿を現して以来、全ては一変してしまった。

はじめ、突如現れたその大きな獲物に鴨たちは興奮し、即座に襲い掛かった。
しかし、その硬い鱗には歯が立たず、見事に顎の外れてしまった哀れな鴨もいた。
よくしなる尾に弾き飛ばされ、返り討ちに遭い、鴨たちは一日にして主の座を奪われた。

魚や貝たちは新たなる強い主の誕生に大いに沸いた。
魚たちは鯉の勝利に勇気付けられ小鳥は鴨の敗北に失望した。

その日初めて鴨は上には上がいることを知った。
そして顎の外れた仲間を見て、この体はそういう風にできている
あの大きな魚を捕らえるようにはできていない、ここが自分の限界なのだと悟った。

あれほど幅を利かせていた鴨はあの敗北以来、
鯉に逆らうことなく分相応に小魚を食べて暮らしている。
己の限界というものを知って以来、なにもかもつまらなくなった気がした。

鴨たちは河川敷での立場というものを完全に失ってしまった。
以前はへりくだっていたくせに
橋の上の小鳥たちは自分たちに向けて糞を落とすようになった。
糞は一日掛けて洗わなければ汚れも匂いも落ちなかった。

正直、相手にしないのが一番良いのだが
にもっとも小魚が集まるのはあの 橋の下なの だ。
食事にありつくにはどうしても避けられない。
小鳥たちもそれを知ってるから集まるのだ。
まったく嫌味な連中だ。今日もまた俺のことを笑いにくるだろう。

いや、何か様子がおかしい。橋の上に誰もいない。

不思議に思いながらも橋をくぐろうとした矢先、
水面が揺らいだ。また鯉が来る。また俺をいじめに来たんだ。
尾にはたかれるのを覚悟して思わず鴨は目を塞いだ。

しかしその瞬間、大きな黒い陰が鴨と水面を覆った。

一瞬の出来事だった。
バシャと大きな音がして、後ろを振り向くと
水底を泳いでいたはずの鯉がゆっくり、ぷかりと浮かんできた。
もう鯉に息はなかった。

そして橋の手すりに爪の掛かる音がした。
いつもの小鳥たちとは比べ物にならない重い音がした。

見上げると、太く鋭い爪に尖った嘴が
息絶えた自分の獲物を高々と見下ろしている。
それは鯉の2,3倍はあろうかという 大きな鳶だった。

一瞬、鳶がちらとこちらを見た。
鴨は背筋が凍ったように動けなかった。
自分も同じように水面に横たわり浮かぶ姿を
想像してしまったせいだった。

しかし、その後は一瞥もくれず
鳶は仕留めた獲物の上に飛び乗り
その肉を貪り始めた。

しかし幾らか啄ばんだ後、鳶はほとんど
鯉を残して飛び去っていった。

小鳥と小魚は一斉に鯉の死体に群がり、
禽が開けた風穴から肉をかじった。

水の下ばかり覗いていた鴨はそのときはじめて空の上を意識した。
自分たちががくだらない縄張り争いをしている間ずっと
彼は上からずっとそれを見ていたのだ。
空高くから機会を伺っていて
あの尖った嘴で鯉の急所を一撃で貫いたのだ。

ただ鴨は呆然と鷲を見ていた。
鳶が遠く、小さい点となって消え去った後も
その一点を見つめ続けた。

上には上がいて、その上にも何かがいる。
きっと鳶の舞う大空の上にも何かがいる。
たぶんその上にもまた何か・・・
キリがない。もう考えるのはやめにしよう。
そう思った瞬間、急にこの河川敷が小さく映った。

そうだ、別にいつまでもここにいる理由はないんだった。
なんで気付かなかったんだ。
窮屈ならほかの場所を探してもいいんだ。
鳶を見て思い出した、そういや自分も鳥だった。

鴨は、もう久しく閉じたままだった翼を開いて日に当ててみた。
内側が煤けて汚れていた。小さな虫も羽根の隙間にたくさん紛れ込んでいた。

まず掃除するところからはじめた。
水の中で身震いして汚れを洗い流し
羽根を一枚ずつ丁寧に毛づくろい、
そして一匹一匹、辛抱強く虫を取っていった。

そしてようやくのこと、鴨は一度羽ばたいてみた。
久々のことだったのでうまくいかずよろめいてしまった。

ほかの仲間たちは今も水面に顔を突っ込んで小魚を探している。
鴨は空を見ている。鴨はもう一度羽ばたいてみた。
風が空を切る快い音がする。
もう一度羽ばたいてみた。
もう一度。もう一度。

鴨は空を見ている。


おわり。

水面の鴨

水面の鴨

鴨は水底を見ている。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-18

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