pancakes

 相変わらずその店は混んでいる。
 開店前に並んだとしても、開店した後も数時間並ぶ羽目になる。私は断っても良かったのだが、特段することもないので、断る理由もない。
「この店は、何でこんなに混んでいるのだろう」
「さあ、有名だからじゃない?」
「美味しいから、じゃないのか」
「まあ、美味しいんじゃないの?」
 彼女は、愚問を発するな、というような口吻で言った。すると彼女は、私のポケットに自分の右手を入れて、私の温まった手に触れた。軟らかな氷にでも触れたようだ。
「なあ、開店前から並ぶことないじゃないか。開店前も、開店後も同じように並ぶのなら、午後に来た方が待つ方としては良いと思わないか?」
「だめよ」彼女の熱を畜えた手は、私の手と同化しようとしていた。「雰囲気が、壊れちゃうじゃない」
「雰囲気?」
「そうよ、分からない?」
「分からないなあ」
 私は、本当に分からなかった。そもそも、この店で有名な、数種類の果物がのった二枚のパンケーキに一七〇〇円もかかることが、理解できなかった。
「じゃあ、夢の国に行くことを想像してみて。開園前に入場券を買って、入り口の長蛇の列で開園を待つのか、開園後に入場券を買って、既に園内を埋め尽くす人の群れに入るのか、どちらがいい? 雰囲気とは、そういうことよ」
「うーん、つまり、高揚感ということかな」
「簡単にその言葉でくくってはだめよ。どちらの場合でも、高揚はするのだから」
 彼女は、教鞭を執っているかのように、諭すように言った。
「そっか」
「で、分かったの?」
「何が?」
「雰囲気よ」
「分かったさ」
「あら、言ってごらんなさいよ」
「いやいや、それは無理さ」私と彼女は、言葉じゃなくても繋がれるような気がした。「感覚的に捉えたのだから」
「へえー、そうきたのね」
「簡単には、言葉で表せられないさ」
 その後、一時間半もの時間を、このビル風が舞う道の上で待たされることになった。私たちの後にもずらずらと人は林立しており、蛇の胴は伸び続けた。
 私たちは、店内に入ることが目前に迫っていることを知らせる椅子に腰かけた。すると、彼女は「もう帰ろ」と音をあげ始めた。私は、別に帰っても良かったのだが、この無意味に過ごした時間を、これ以上無意味にしないために、彼女の発言を退けた。
「二名様でお待ちになっている、橋下様」
 橋下とは、私の名前だ。
 店員さんが、在庫分と需要客の数を天秤にかけるために、開店前に店外に出てきたのだ。店の制服は、暖房が効いていても暑くならないような、半袖に長ズボンという格好のため、外での活動には適さないのだが、その女性の店員は顔を歪めることなく、私たちの前まで来た。彼女は、もちろん自分の名前を言うと思っていたのだが、私の名前をその店員に伝えていた。彼女は、寒さで耳が赤くなっていた。
 店内は、案の定、暖房が熱風のように吹き乱れており、百パーセントウールのセーターを着ている私に若干の汗をかかせた。おしぼりで顔を拭こうとすると、彼女は、とんでもない、というような顔になって無言でハンカチを渡してきた。
 彼女は、店の前で弱気になっていたが、いざ店に入ると、無邪気にメニューへ顔をうずめた。同じようなパンケーキに亡羊としている。
 曲がかかっている。今、流行りのバンドのものらしい。 彼女はこのバンドが好きなようで、ライブにも足を向けるほどだ。その都度、買ってきた限定グッズを写真に撮って、私に送りつけてくる。特に感想を言わずに放置しておくと、彼女は「今度、ライブに行きましょ」と唐突に話を変えてくる。
 私は、ライブに行ったことがない。ただ、大学在学中に友達に引き摺られて行った、学生バンドによる演奏に感銘を受けたことは、今でもよく覚えている。耳ではなく、身体にうったえかけてきたのだ。テレビからは感じられない音圧は、初めての私にも容赦なくぶつかった。現場でしか味わうことのできない臨場感に、私は耽溺した。映画館と同じようなサイクルなのだろうか。
 彼女に「ライブに行こう」と何度か誘われていた。今度、私から誘ってみよう。きっと彼女は驚くに違いない。私の選んだライブのセンスのなさに。
「この曲は、どうも速いね」
「それがいいんじゃない」
「何で、こんなに早くする必要があるのだろう」
「そうねえ。一つは、社会が速いから、かしら」
「それは、比喩的なこと?」
「いや、言葉のとおりよ。改札口を見てみなさいよ、スクランブル交差点を見てみなさいよ、車道を見てみなさいよ、みんな速いでしょ」
「それに感化されているというのかい」
「私見よ。けど、速い曲があるから私たちの社会は速くない、って錯覚を起こすことができるんじゃないかしら。私も、スローテンポの曲は好きよ。玉置浩二とか。でも、それは老後にゆっくりと聴くことにするわ」
「一緒に、聴こうよ」
「悪くないわね」
 彼女は、何にするか決めかねて、私が決めたものと同じものを頼むと言い出した。
「これにする」
「センスがないわねえ」と彼女は言い、「これにしましょ」と勝手に決めて、店員に注文した。
「何だ、決められるじゃないか」
「あなたと真逆なものを選べば、正解だということが今日分かったわ」
 彼女が選んだパンケーキは、ふわふわしていてとても美味しかった。どうも、家で作るような平べったい、べちゃっとしたパンケーキではなく、縦に積もったスフレのような生地のパンケーキだった。これを家で再現するのは、骨が折れそうだ。だが、一七〇〇円もかかることに、私は納得していない。

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-15

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