恋をしている

 大学に戻るまでの道すがら、クーラーボックスを持っていかなければならないので、少し集団から遅れた。中には水で薄めたスポーツドリンクが入っている。練習の合間にみんな飲んでいたけど、夏場ほど減らないから、帰りも持っていくのに苦労する。
 ふと、数歩前をいく先輩の背中を見つめる。すらっと背が高くて、大きなその背中をしっかりと目で捉えながら、白い息を吐く。その息に紛らすように、好き、と呟いた。でも、その言葉はあっという間に空気に溶けてしまった。溶けてなくなってしまった。
 誰かを好きだと想う心は、言葉にするとこんなにあっさりと空気に溶けてしまう。
 聞こえたわけではないだろうけど、溶けきったタイミングで先輩が振り向いた。クーラーボックスを重そうに抱えている私に気づいて、しょうがないな、というふうに笑って、近寄ってきた。
「重そうだな。おれが持ってやるよ」
 言うよりも早く手を伸ばしてきて、持ち手の部分に手をかけた。その瞬間、微かに手が触れ合って、私の心はぐらりと揺らぐ。
 遠慮するタイミングもなく、私はあっさりとそれを手渡してしまった。
「あ、ありがとうございます」
「いいって。悪いな、すぐに気づかなくて」
 そう言って、私に向けて微笑みかけてくる。思考が停止するくらいには見惚れて、ぎこちない笑みを返す。
 先輩はいつも優しい。入ってすぐで緊張していた私に、気さくに話しかけてくれた。さっきみたいな、微笑みを添えて。たくさん話せたわけではなくとも、その笑顔を見られただけで私は心の底から幸せを感じる。本当に些細なことでも、私の中では他の何よりも重大なことになる。
 いつからか、私の目は先輩の姿を追っていた。気がつけば、先輩のことを考えていた。たぶん、誰に尋ねてみても「それは恋だよ」と答えられてしまうことだろう。そうだ、これは恋なのだ。そのことは認めざるをえない。でも同時に、恋の感情を抱くとき、胸に寂しいと訴える感情が存在することも、認めざるをえない。

     *     *

 朝のスポーツニュースを見ながら、私も変わったと思う。大学に入るまでは、スポーツが嫌いというわけではなかったが、そこまで興味のあるものでもなかった。
 画面では、プロ野球の昨日の試合について報じられている。大学生になって半年あまり、私は当たり前のように野球をテレビで見るようになった。
 スポーツが終わると、画面は天気予報に切り替わった。誠実そうな男のキャスターさんが、今日は晴れるだろうと教えてくれた。私は立ち上がって、玄関へと向かった。
「もういくの?」
 キッチンを通りすぎるときに、お母さんが訊いてきた。もういくの、と答えることでやりすごす。
 靴を履くために腰を下ろした。けれど、何となく鏡を覗いておきたくなって、結局また立ち上がった。洗面所の大きな鏡で、穴が空くほど自分の顔を見つめる。光の調節をしたり、見る角度を変えたりして。大丈夫だろうか、ちゃんとかわいく映るだろうか。自分が抜群にかわいい顔をしているとは、夢にも思ったことはない。それでも、少しでもかわいくありたいと願う。――先輩の目に、少しでもかわいく映りたいと願ってやまない。
 玄関に戻って、改めてしゃがみ込む。今日は寒いだろうか、さっきの天気予報、最高気温は何度と言っていたっけ、などと考えながら、ちゃんと靴を左から履く。そう、左から。右からではダメなのだ。
 いつから始めたかは曖昧だが、少なくとも大学に入ってからだと思う。私は靴を履くとき、加えて靴下を履くとき、必ず左から履くようにしている。これは願掛けみたいなものだ。好きな人とのよき縁がありますように、そんな願いが込められているのではないだろうか。別に、そこまで本気にしているつもりはないけど、ただ、そうしないと不安になってしまう。この願掛けを一日も欠かさずに続けているから、今の先輩との状態が保てているのではないだろうか。そう思うと、とてもやめられない。やめたら先輩との縁が薄れてしまうのではないか、そう心配するくらいには、自分に自信がないし、失いたくないほどに先輩が好きだ。

 杉内先輩は学年が一つ上で、私と学部が同じだ。とはいえ大きな大学だから、サークル以外ではめったに会えない。
 私は野球サークルに入っている。野球部の練習に比べれば、おそらく和気藹々としていて、のんびりしたものだが、決しておちゃらけたサークルではない。真面目に活動している。
 今でこそ先輩に夢中になっているけど、私は先輩目当てでそのサークルに入ったわけではない。ただ何となく、スポーツのサークルがいいかなと思い、ただ何となく、居心地がいいかなと思ったところに入った。その結果として、先輩がいただけだ。
 だから私は、今ではあの春先の確固たる理由のない選択は、運命だったと思っている。
 野球のルールが分かり始めて、野球が面白いと感じ始めるとともに、私に優しくしてくれる先輩を意識するようになっていった。私を包み込むような笑顔を見せてくれたから。寄り添うように傍にいてくれたから。私の気も知らないで、無造作に私の手を取るから――。       
 好きになってしまった。
 今日も授業の後にサークル活動があった。いい汗をかいて、その日一日あったことを話し、笑い合った。先輩はその中心にいて、私は端で遠慮がちに、それでも楽しく笑っている。
 話に興じながらも、私はそわそわしていた。気が気ではなかった。これから、帰るのだ。だけれど、ただ帰るだけじゃない。
 サークルの中で、私と同じ電車、しかも同じ方向なのは、なんと先輩しかいない。降りる駅はもちろん違うけど、途中までは一緒。ただ帰るだけじゃない、自然な流れで、二人で帰ることが許されるのだ。
 大学の正門前で私たちは解散した。ぞろぞろと、めいめいの方向へ別れていく。手を振り合って、また来週、明日もどうせ会うだろ、夜遊びすんなよ、彼女によろしく、とか好き勝手に言い合って見えなくなる。気がついたときには――嘘だ、ずっと目の端で窺っていた――私は先輩と二人きりになっている。
 じゃあ、帰ろうか。そう言うように、先輩がそっと私の顔を覗き込む。上目遣いに、ぎこちなく頷き返す。――ひょっとして、かわいく見えたのかな、今の仕草、とか頭の端っこで考える。
 並んで歩くと、背の高さの違いが明らかになる。私は女子の中では普通の方だけど、先輩は男子の中でけっこう高い方だ。当然、歩幅も違う。たまに歩調が合わないと、私は必死で追いつく。追いかけるのはいつも私だ。
「すっかり寒くなってきたよな」
 寒い、という言葉に反応して、先輩の防寒具に目をやる。赤と白のチェックのマフラーを首に巻いている。女子が身につけていてもおかしくなさそうだ。――誰かにもらったのかな。いやいやと、心の中で首を振る。それはない、きっとない。
「早く冬休みに入るといいですね。短いですけど」
「だよなぁ」
 延ばした語尾を引き締めるように、唇をきゅっと結んだ。先輩の癖だ。おかげで、早く冬休みに入ることに同調しているのか、冬休みが短いことに同調しているのか、分からなくなる。どっちもかな、と考えが傾きかけたときに、「春休みは恐ろしく長いのにな」と漏らしたことで、その答えが後者だと分かった。
 改札を抜けて、階段でホームまで上がっていく。もうすでに二人きりだが、電車の中はまた距離感が変わる。だいいち、歩きながらと、向かい合って、あるいは横に並んで話すのとでは全く違う。
 しかし、ホームに辿り着いたところで、男の人が私たちの方に向かって手を振ってきた。見覚えのない人だったから隣を見ると、先輩が手を振り返していた。どうやら友達らしい、と理解するとともに、軽く失望する。なんて間の悪い人だろう。初対面の彼を、私は憎みたくなった。
「よお、杉内。サークル上がり?」
 加えて、彼の話し方は何ていうか、ねばねばしていた。余計に憎らしい。
「ああ、お前一人なの?」
「おお、おれは授業あってさ。一緒に取ってるやつがサボりやがってよ。……えっと、どちらさん?」
 今さら気づいたかのように、先輩の隣にいる私を指し示す。
「ああ、サークルの後輩」
 私をどう紹介するのか少し緊張したけど、予想通りだった。まあ、当然の話だ。私たちは、ただのサークルの先輩と後輩。
 だから、そんなのこれっぽちも気にしていなかった。でも、次に耳に聞こえてきた言葉は、さすがに私の胸を静かに締めつけた。
「お前、他の女の子にちょっかい出してると、彼女に怒られるぞ」 
 男がへらへら笑っている。先輩は困ったように、苦笑いを浮かべている。
 カノジョ、という言葉の響きを舌の上で転がして、やっと「彼女」という漢字が浮かぶ。ああ、彼女か。恋人のことか。好き合っている人のことか。先輩が、好きな人。先輩を、好きな人。
 そんな人いたんだ。思い返してみれば、サークル内でそういう気配がないだけで、私は安心しきっていた。そうだ、私がかっこいいと思う人を、他の誰かがかっこいいと思ったって不思議ではない。それに、先輩は底抜けに優しいけど、私にだけ、私なんかにだけ優しいわけがない。
 ああ、そっか、そうだよね。それくらい覚悟しておきなさいよ。本当に頭が悪い。
 そのまま、先輩の友達も含めて三人で帰った。でも私は、無愛想に押し黙っていた。暗い女だと、先輩は失望したかな。だけど、無理だった。逃げ出さないだけで精一杯だった。泣き出さないだけで精一杯だった。
 電車から降りたとき、夜の街がぼやけて見えた。

 ――貨客船マンギョンボン号って、ちゃんと言えるか?
 一度だけ、カウントするのもためらわれるけど、一度だけ先輩が私を「かわいい」と言ってくれたことを覚えている。
 ――言えないだろ? 途中で絶対に噛まない?
 飲み会の最中で、先輩はかなり酔っていた。お酒にそんなに強くないのに、顔を上気させながら何杯も飲んでいた。上機嫌で、くだらないことで笑っている。私はそんな先輩を見るのも、悪くないと思っていた。
 ――なあ、相川は言える? 言えそうだな。滑舌いいし。
 体ごとにじり寄ってきて、すぐ傍まで近づいてくる。勢い余って、先輩の肩が私の肩にピッタリとくっつく。無理に引いたりしないで、そのままの距離感を保つ。
 ――おい杉内、後輩に変な絡みすんなよ。
 他の先輩に笑われても、先輩はまるで聞こえていないようだった。じっと私の顔を覗いてくる。こんなに近くに感じられるのは初めてだった。
 ――だって、かわいいじゃん、相川。絡みたくなるんだよ。
 肩先が熱くなる。今、確かに私をかわいいと言った。かわいいと言った。かわいいと。
 普段から思っていた本音なのかな、と甘い幻想を抱いてしまった。酔ったノリで言ってしまっただけだろうと、それを戒めた。
 本気で言ってくれたのか分からないけど、嬉しかった。胸がいっぱいになる。意味もなく、グラスの中で氷を回したりした。カラン、という音が思うよりも耳に大きく響く。
 グラスを持つ手が汗ばんでいた。ここで手を握られてしまったら、ガッカリされてしまうかもしれない。あるいは、想いを見抜かれてしまうかもしれない。
 嬉しかった。嬉しかったのに、でもとか、だけどとか、逆説がその後に続いてしまう。自信のなさがその理由。
 でも――ふと心の置き場所を引いてみると、あっという間に寂しくなる。
 先輩は、私をかわいいと言ったことを憶えていなかった。

 先輩の彼女は、先輩と高校からの同級生で、学部は違うが、同じ大学内にいた。私がその容姿を見る機会はなく、想像するしかなかった。だけど、先輩の彼女なんだから、きっとかわいいのだろう。私なんかよりも何倍も。
 夜は寝つかれなくなった。今まで、こんなことはなかった。夜な夜な、考えることは同じで、飽きもせず泣いた。彼女よりも先に先輩と出会っていたら、なんて、小学生でも思いつくようなことを真剣に考えた。そうしたら、先輩の彼女は私だったろうか。いや、それでも私は選ばれなかったかもしれない。いやいや、そんなことはない。頭の中で忙しく、肯定と否定を繰り返した。
 生まれ変わっても傍にいて、とかいう意味の分からない独り言も呟いた。今でさえ傍にいないのに、何が言いたいのか自分でも理解に苦しむ。ようは、ひたすら傍にいてほしいのだと、後づけの解釈で納得しようとしたりした。
 彼女がいると知っても、私は先輩との日々を夢想した。ひたすら、戒める必要があると自制を働かせても、想いを巡らさずにはいられなかった。
 だけど結局、私の恋人としての先輩を思い浮かべるとき、先輩との愛し、愛される日々に思いを巡らしてみるとき、私の胸は寂しさでいっぱいになる。――手に入れることのできない虚しさが、実体の伴わないやるせなさが去来するから。
 たまらなくなると、机の上にある縁結びのお守りに手を伸ばす。親戚からたまたまもらったものだったが、もらってからは靴を左から履くのと同じ理由で、手放せなくなってしまった。出かけるときも、鞄に忍ばせている。
 お守りの感触を確かめて、少し心が落ち着いてくると、やっと安らかに眠ることができた。

 気分が滅入っていたのと、講義が休校になったのとで、お昼ご飯を一人で食べるはめになった。せっかくだからと、活動のとき以外はめったにいかないサークルの部室で食べることにした。
 十階建ての建物の、九階へと向かう。大学の規模と相まって、サークルの数も多いため、たくさんの部屋が部室としてあてがわれている。
 エレベーターが混んでいたので、わざわざ九階まで階段で上がっていくことにした。
 気分とともに俯きがちな私は、靴がどうしても視界から外れない。同じ色の靴を右、左と交互に眺めていく。先輩に彼女がいると分かってからも、私は靴を左から履く、という願掛けをやめなかった。願掛けが失敗だったとは考えなかった。ただ、怖かった。願掛けをやめたら、今の関係――それなりに仲よく話せる、サークルの先輩と後輩、という関係さえ保てなくなるのではないか。そんなことを考えてしまったら、怖かった。とても、やめられそうになかった。
 部室に辿り着くころには、私の息はだいぶ上がっていた。息をきらして、扉をそっと開ける。誰もいないだろう、という直前の予想は外れ、中には人がいた。一人だけ。
 そう、それは先輩だった。
 先輩は私に気づいて、驚いたように目を瞠った。ほんの数秒、私にとっては数十秒にも感じられる間、見つめ合った。
「入ったら」
 先に口を開いたのは、先輩だった。
 扉を開けたままで、中途半端な立ち位置にいる私を、中に招き寄せた。私は、なぜか慌てて扉を閉めて、中に入った。
 しかし、慌てすぎたのか、九階まで上がってくるのに足が疲れきったのか――真相は分からないけど、私は何もないところでつまずいて、先輩に倒れかかった。転ぶ寸前で、先輩がしっかりと受け止めてくれた。両腕の温もりが伝わってくる。
 お昼ご飯の入ったビニール袋と、荷物の少ない鞄が足元に落ちた。口の開いている鞄から中身が見えて、私は奥底にあるお守りに目をこらす。これは、あなたが引き寄せた縁かしら。
 またとないことだった。私たちは、他に誰もいない閉ざされた部屋で抱き合っている。もし、狙ってやったのだとしたら、私はかなりできる女だ。でも、そんなことできるほど器用ではないことは、私自身がよく知っている。
 かわいい、って言ってほしかった。ちゃんと言ってほしかった。ただ、それだけだった。それ以外に何も望まない。いや、望むけど、とりあえず今は「かわいい」って言ってほしい。わがままみたいだけど、とても純粋な想いだ。
「私、私……」言葉が勝手に滑り出す。ずっと言いたくて、何度も言いそうになって、溜まりにたまっていた感情が溢れ出す。
「私、先輩のことが好きです」胸に顔を押しつけて、弱々しい声で囁く。涙が意思に逆らってまぶたからこぼれ、頬を伝う。泣くまいとすると、かえって涙は後からあとから続いた。
「ずっと、好きでした」
 ありふれた言葉だけど、ありふれた言葉でしかこの感情ははやり表現できない。
 先輩と想いを一つにすることはできない。――それは予感ではなく、切ないほどに確信の持てること。
「好きなんです」
 誰かを好きだと想う心は、言葉にするとこんなにあっさりと空気に溶けてしまう。それでも言わずにはいられないし、言うこと以外に想いを伝える術を知らない。
 いつものように優しく微笑んで、何かを言おうとする先輩の気配が伝わってきた。胸に顔を押し当てても、先輩の鼓動が速くなっているのかどうかは分からなかった。ぼやけた視界に、紺地のセーターが映るだけだった。
 私を好きだと言って。私をかわいいと言って。先輩がそう言ってくれるように願う、願ってやまない。

恋をしている

恋をしている

私を好きだと言って。私をかわいいと言って。先輩がそう言ってくれるように願う、願ってやまない。

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  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-10-12

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