はなして はなさないで

 洋館を前にして、写真を撮ってもらった。たぶん、それを現像することはないだろうけど、形に残るものだけが大切なものではないことは、この数年で学んだ。痛みとともに。
「きれいに撮れてるよ」
 宏之は屈託のない笑顔で、写り具合を見せにきてくれる。本当ね、ありがとう、と返すと、彼はまた微笑んだ。
 彼の笑顔を見ると、鬱屈した気持ちはどこかへ行ってしまう。何の悩みも抱えていなさそうな眩しさは、今の私に欠かせないものになっている。
「立派な洋館ね。戦前にできたものとは思えない」
 私たちは今、駒込の旧古河庭園にきている。寒いこともあり、平日ということもあり、見た限りでは老夫婦が一組いる以外に、見物客は見当たらない。
 宏之は大学生だ。文学部だそうで、時間割に多少の余裕があり、平日に休みを設けている。休日は混むだろうと避けたわけだが、この寒さなら心配しなくても大丈夫だったかもしれない。
 でも、人はできるだけいない方がいい。私と、宏之の二人だけが理想。
 短い階段を下りたところに、バラの庭園が広がっている。冬だから色鮮やかな景観は望めないはずなのに、それでも甘い匂いが漂ってくるのはどういうことだろう。感覚は思っている以上に信用できないのかもしれない。イメージが、匂いを添える。
 私は隣を歩く五歳下の宏之が好きだ。痩せ気味の身体も、いつも眠たげな目元も、彼を覆う柔らかな雰囲気も、声も、しぐさも。こうして一緒にいるだけで、ささやかな思い出を共有するだけで、私の心はこんなにも安らぐ。
 手を繋ぎ合う仲ではない。唇を絶えず交わす仲ではない。それらの行為は愛情の度合いを示すものではなく、二人を結びつけるための鎖だと互いに知っている。言葉だけじゃ不安だから、恋人たちは二人を繋ぐ鎖を作りたがる。
 私たちは、具体的な言葉や行為が介在しなくても、私たちの心が寄り添っていることを知っている。
 濃い樹林を抜けて、今度は和風の庭園に足を踏み入れた。さっきの洋風とは一気に様相を異にする。ここは冬でも寂しく感じられない。むしろ、趣がいっそう増しているように思う。松の雪吊りが、枯滝が、見ていてなんとなくホッとする。
 大きな石の上に並んで腰掛け、音もなく存在を主張する池を見据える。謙虚さを窺わせてはいるけど、主役を譲るつもりはなさそう。
 彼と私は、ただ黙って座っている。たまに感想を漏らしても、そこから話を弾ませたりはしない。同じものを見て、それぞれに感じ合うのだ。
 不意に、彼が笑った。湖面に波紋を生むように、彼の変化が私の胸中をじわじわと支配する。
「なあに?」
 話すことを忘れていた私の声は、掠れていた。
 そんな私の手を握ろうとしたのか、彼が細い腕を伸ばしてきた。ためらう表情の裏に、一縷の確信を潜ませて。
 その瞬間だった。私は全身に悪寒を感じて、とっさに後ろに退いた。石から滑り落ちて、お尻から地面に落ちてしまう。でも、その痛みが分からないくらい、私の意識は一点に――見えない凶器に――注がれていた。
 錯覚だった。彼が手を伸ばした刹那、私はハサミを突きつけられたような錯覚に陥った。いとも容易く血管を切り裂きそうな、冷たい意志を持つハサミを。
 嫌な汗をかいている。呼吸が上手くできなくて、肩で息をした。
 私を案じている彼が、しきりに大丈夫かと尋ねてくる。私はそれに、彼を抱き締めることで応えた。
 もっと話してほしい――言葉じゃなくて、思いで、心で、全身で。ずっと放さないでいてほしい――あなただけは、私を優しく包み込んでいて。
 話して。放さないで。

     *     *

 彼と出会ったのは千石の六(りく)義(ぎ)園(えん)だった。これまた、日本に残る庭園の一つだ。六義園といえば、ライトアップされる夜のシダレザクラが有名だろう。だけど、そんな間違いなく人が多い季節に、私はそこを訪れない。今日みたいな、誰もが外に出かけるのを敬遠するような日を選ぶ。
 彼もそうだった。見晴らしのいい「出(で)汐(じお)の湊」に通ずる細い道で、彼と私は出会った。
 彼は私に話しかけてきた。
 ――あの、よかったら一緒に回りませんか?
 明らかに年下と分かる男にそういわれて、正直、面食らった。でも、人のよさそうな顔からして、構わないと思った。
 後になってから、どうしてあのとき、あんな風にして声をかけてきたの? と尋ねた。すると、深刻そうな顔をして、幽霊みたいな足取りで歩いていたからだよ、と答えた。――そっか、あの頃は隠せないくらい、表情に出てしまっていたのか。
 それから、彼と――何といったらいいのか分からない、少なくとも意気投合とは少し違う――色々な面で重なり合って、よく二人で出かけるようになった。
 私たちが行ったのは、先に挙げた庭園しかり、古きよき日本文化の残る場所だ。浅草はもちろん、皇居の中にある北の丸公園や、王子駅に隣接する飛鳥山公園などに足を運んだ。歴史に興味のある私と彼は、はしゃぎはしないで、胸の内で小さな感動を覚え、それらを見て回った。
 出かけるときに日にちを指定するのは私。一方で場所を決めるのが、彼の役割。いつの間にか定まっていた、私たちだけの共通のルール。これには理由がある。
 彼は多くを尋ねてこなかった。歳も、家族のことも、どんな生活を過ごしているのかも。
 ――そういえば、名前は?
 始めて会った日、別れ際になってようやく訊かれた。これくらいしか、訊かれたことがなかった。私はとっさに、
 ――結城房子。
 と答えた。心の内の、私が稀にしか覗けない閉ざされた部屋の存在を感じる。意志に反しているのか、はたまたそれが真の意志なのか、ひょっとしたら私にも分からない。
 結城は、旧姓だった。

     *     *

 銀色という、見た目からして冷たそうなドアノブに手をかけると、静電気がかすかに走った。可愛げのあるくらい、それはかすかだった。だって、静電気って痛いものでしょう? 彼の不器用な優しさみたいに、私を微笑ませる。
 だが、せっかく微笑ましい気持ちになれたというのに、家の中に足を踏み入れた途端に萎えてしまった。表紙の折れた雑誌、洗濯物の山、菓子の袋、ビール瓶――男の一人暮らしも顔負けの、荒れに荒れた光景が広がっている。
 散らかった家の中を見るのが嫌でしょうがない。休みの日に出かけるのは、彼に会いたい想いと、この家にいたくない思いが同じくらいの強さであるからだ。
 いつからだったろう、亀裂が生じ始めたのは。最初の内は何とかしようという気持ちがあったと思う。でも、すぐにそれは諦めに変わった。夫に期待できなくなったし、夫の理不尽な怒りに理解を示すことは到底できなかった。
 夫に変化をもたらしたのは、不況だった。大学からしっかり就職して、社会人としての歩みを始めて数年経った頃、突然にリストラを宣告された。元々、理想と現実のギャップに苦しんで、ストレスから仕事に鬱屈した思いを抱きながらの日々だったが、いざ辞めさせられると、それを受け入れられないと混乱した。
 リストラといっても、ただ切り捨てられるだけではない。救済措置があって、年度末までは有休という形で、会社に出ていなくても給料は入るようになっていた。だから、それまでに次の仕事を探せ、というわけだ。
 ここで夫は必死になって、プライドもかなぐり捨てて転職先を探せばよかったのに、あまりの精神的打撃からか何もする気が起きなくなってしまった。次第に酒浸りになっていった。結婚当初は、夫がこんな風になるなんて想像できなかった。
 私の忠告を申しわけなさそうに聞いていた頃もあったのに、いつからか暴力で反撃するようになった。
 ――うるせえ! 口ごたえするな!
 頬を叩かれたり、腹を蹴られたり、髪を引っ張られたりした。その度に、男の人の力はこんなにも強いのかと実感した。不公平だと思った。女は男に真っ向から立ち向かえない仕組みになっていると、諦めの雪は降り積もった。冷たく、寂しく。
 ――何だ、自分は仕事してるからって、調子に乗ってんじゃねえぞ。バカにしてんだろ? 人を見下してんだろ? ふざけんな!
 パシンッ、と音がして、打たれた箇所にはあざができる。
 夫と、次へ進むための話し合いを設けても、話し合うたびに余計にこじれた。夫が近くにいることは、いつの間にか恐怖と同義になっていた。この最悪な状況から解放してほしい。これ以上、何も話さないでほしい。
 放して。話さないで。
 もう、ここを出ようかと何度も考えた。期待ができないのなら、夫を打ち捨てたっていい。そうすれば暴力からも逃れられるし、宏之に気がかりなしに会えるかもしれない。
 でも、とまた考えてしまう。社会から――努力していれば報われると信じていたそれから切り捨てられ、また妻に見捨てられた夫はどうなってしまうのだろう。かつて愛していた夫を想うと、心を鬼にすることはためらわれる。
 だけど、そんなの後付けの理由だ。私はただ決断できないだけ。無難な道を選んできたから、思い切った行動に移せないだけ。
 突如、動悸が激しくなってきた。私は胸を押さえて、しゃがみ込む。次には、また見えない凶器の脅威を感じる。霞んだ目がハサミを捉えて、首を守る体勢をとる。
「ハア、ハア」
 背中は嫌な汗でびっしょりだ。何なのだろうか、これは。私は無意識に、何かを予見しているのだろうか。
 そのとき、夫が帰ってきた。何もいわずに、玄関から上がりこんでくる。目が虚ろで、顔が赤い。昼間から酒を飲んでいたのだ。――しかし、そこまではいつもと一緒。いつもと異なっていたのは、その手に握られていたもの。錯覚で何度も目にしてきた、あのハサミ。
 そっか、私は妙な納得を覚えた。私はこれで死ぬのだろう。誰かのせいにしようとしていたのがいけなかった。決断できなくて招いた結末。
 音もなく、凶器は私を貫く。
「ひろ……ゆき……」
 激しい痛みに苦しくなり、意識が一気に遠のきそうになる。死にたくない。本当はそうだ、死にたくない。でも、そうも考えられないほど、圧倒的な苦痛で思考は停止寸前に陥る。
 刺された箇所から赤い血が滴り落ちる。ああ、血って本当に赤い色をしているんだ。きれいな赤だと思う。手ですくってみたくなるくらい、本当にきれい。私の人生の最後を飾るのにふさわしい赤。
 私は、本当にほしかったものを選べなかった。

はなして はなさないで

はなして はなさないで

房子は凶器に刺し貫かれる悪夢にここのところ悩まされていた。そんな精神状態の彼女は年下の大学生、宏之と出会い、互いに惹かれ合う。房子には夫がありながら。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-10-11

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