無題

チョコレートの時の課題作品

 カチ、と聞こえた軽い音に、私はパソコンの画面から視線を逸らし、眼鏡を外す。立ち上がる時に口を衝いて出そうになるよっこいしょの言葉を、寸前で溜め息にすり替える。流石にまだそこまでの歳じゃない、と思いたい。
 とっくの昔に中身を飲みきったマグカップを机から掻っ攫って、真っ直ぐ台所へ向かう。インスタントコーヒーをカップの底が見えなくなるぐらいまで適当に入れ、白いケトルから沸騰したばかりの熱湯を適度に注ぎ入れる。溶け残らないようにくるくると、熱の移ってきたスプーンで掻き回す。
 普段はここでミルク一つとスティックシュガーを一本入れるのだが、今日は砂糖の入った棚ではなく冷蔵庫を開ける。上段に置かれたファミリーパックのチョコレートは、私が取り出しやすいように外に口を広げたままになっている。几帳面な母親がこの場にいれば小言の一つや二つが飛んできそうだが、生憎ここは私が一人暮らしで暮らしているだけのアパートだ。
 一人暮らし、最高。
 袋に手を突っ込んで、三つほどを引っ張り出す。お、今日はA、I、Hだ。全部線対称だ、なんてどうでもいいことを考えながら、湯気の立つカップを取ってパソコンの前に戻る。
 ぽわぽわとシャボン玉の飛び跳ねるスクリーンセーバーを眺めながら、コーヒーを一口。だが、猫舌にはまだ少し厳しい温度だったようで、舌が焼けるような感覚に眉がぐっと寄るのがわかる。カップの持ち手ですら熱いんだから当たり前か、と机の上でスプーンを回しながら熱を逃がす。
「……湯気すごいな」
 カップの横に置いておいたAを指先で弄りながら、片肘をついてぼんやりとゆらゆらと空中で消えるそれを見つめる。少し冷めるまでの、何をするでもない待ちの時間。先に一つ食べてしまおうか。彼は別に、順番なんて言ってなかったはずだ。
 両端を横に引っ張って、くるりと回って外に出てきたチョコレートを、口の中へ放り込む。まだひんやりとしていて硬いそれを、奥歯で思いきり噛み砕く。噛むなんて勿体無い、と以前言われたことを思い出したが、私としては口の中で舐め溶かす方がよっぽど気持ち悪い。そこは意見が合わなかった。
 包むものの無くなった小さな袋を、きちんと伸ばして細長く折っていく。きゅ、と結んだところでふと、これも癖が移ったなと気付き、苦笑が漏れる。それほど長い時間を一緒に過ごしたわけではないのに。
「でもさ、ほら、密度とか」
 自分で呟いておいてから、いやそれは無いなと否定する。長距離恋愛カップルのデートみたいに量より質、みたいな関係ではない。そもそも、そんな甘ったるい関係ですらなかった。こういう時に、テレビでもつけておけばよかったと後悔する。雑音が無いと自分の声だけが響いてしまって、ひどく空しい気持ちになる。音が欲しい、と無意味にスプーンを鳴らしてみるけれど、もっと一人を意識しただけだった。
 ……うん、飲もう。湯気も少なくなったし、カップも持てる位に熱は逃げたし。なんて、頭の中でちょっとだけ言い訳をしながら、ぐっと黒い液体を喉奥に流し込み、もう一つチョコレートを食べる。
『コーヒーとチョコレートを一緒に取ると、集中力が上がるんだってさ』
 少し高めの、耳馴染みの良い声を思い出す。友達以上特別未満みたいな、世間的に言えばそれは親友なんじゃないの、ってぐらいの関係で。でも多分親友ではない。普段は殆ど連絡を取り合わず、けれど、どちらからともなく突然メールを送りつけ合うような。一緒にご飯に行って、近しい人には話し辛いことを延々と喋りあうような。そんな間柄、のはず。一言でいえば、恐らく彼は私の逃げ場なのだろう。
 それぐらい曖昧な関係だったはずの彼と、最後に会ったのは三か月ほど前だっただろうか。前回は彼からメールが来た。今回は私からしようかな。
 いつもはふと思い出すことなんて無いのに、彼の声が頭を過ったと言うことは、きっとそういうことだ。
「……携帯どこやったっけな」
 ベッドの上に放り投げてあった携帯を開き、アドレス帳から彼の名前を探し出す。見慣れない番号と、見慣れないアドレス。そもそもアドレス帳を開いている時点で、どれだけの付き合いかがわかる。LINEなんかで気軽にやりとりをするようなことは、きっとこれからだって無いんだろうな。
 だけどたまには、メールじゃなくて電話もいいかもしれない。突然掛けたら驚くだろうか。けれど前回だってその前だって、連絡したいと思ったタイミングは一緒だった。だったら、今日だって。
 驚いた声が聞けるかもしれないし、馬鹿みたいと笑ってくれるかもしれない。もしかしたら、忙しくてすぐ切られるかもしれないけど。
「まぁ、意外とそういうものいいかも」

無題

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-06

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