信奉者

 カップヌードルを食べるときもエレガントにみえるひとに憧れる。優しく息を吹きかけ、口にそっと運ぶ。時折、まっすぐの黒髪を耳にかける。とてもカップヌードルを食べているようには見えない。会食に招かれた令嬢のようだ。
「なに?」
 視線に気づいてやんわりと僕に問いかける。彼女は瞳の中にエメラルドの海を宿している。翠緑の眼差しが僕の心を射抜く。しかし、最近少しクマができてしまった。純白のドレスに滲む一点の染み。綺麗にしてあげなければ、と思う。
「ううん」
 僕たちはシンガポールに来ている。ホテルの一室で、静かにカップヌードルを頬張りながら、今後のことをぼんやりと話し合っている。でも、いつまでも結論は出そうになくて、加えてそこに焦燥感が存在しない。
 シンガポールはいい国だ。一年を通して季節は夏だが、日本の夏のような嫌らしさはなく、むしろ爽快だ。自然が豊かで、ポイ捨てに厳しい罰則が設けられているからか、街は美しい。一つ文句をつけるとするならば、カップヌードルの味。こればかりは日本のそれに劣る。
 食べ終えた彼女は、欠伸をしてから、窓際のベッドへ寄っていく。横になるのかと思ったら、窓枠に掌を当てて、外の景色を眺めた。砂浜と青い海が眼下に広がっていて、潮の匂いが鼻腔をくすぐる。その一連の動作ですら優雅で絵になる。感嘆してしまうくらい、僕の心をとろけさせる。微かに笑みを浮かべた横顔を捉えていると、動悸がする。
 これから、どうなるのだろう。僕たちはきっといつまでもこうしてはいられない。いつかは決断を迫られる時期がやって来る。だけど、もうなにも考えたくない。ここまで逃げてくることに疲れたのだ。しばらくは、縛られることなく日々を過ごしたい。
「素敵なところね」前を見据えたままで、うっとりと呟く。そうだね、と僕は返す。
「ずっと、こうしていられたらいいわね」
「……そうだね。本当に」無理だろう、とは言わない。「理想的だ」
「――ここには私たちを脅かす何者も存在しない」さりげない一言だったけれど、僕たちのかつての日常を暗に示している。
 発端は母親の急逝だった。突然の不幸に絶望しても、僕たちは強く生きていこうと誓っていた。当初は上手くいっていたのだ。しかし、歯車が一度狂い出すと、僕たちの生活はあっという間に崩壊へと転がり落ちた。父親の精神状態が平常を保てなくなり、家のものを壊すようになった。僕を殴りつけるようになった。それはまだいい。気が済むまで我慢すればいいのだから。ところが、ついには姉に性的暴力を振るうようになった。姉を信奉する僕は、それがどうしても許せなかった。姉の無垢な美しさを汚してはいけない。父親の金を奪って、僕たちは海外へと逃亡した。家族四人で旅行した思い出の地でもある、シンガポールへ――。
 そっと姉の肩を抱いた。これからどんな現実が待ち受けていようとも、僕が必ず守る。

信奉者

信奉者

カップヌードルを食べるときもエレガントにみえるひとに憧れる。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-10-05

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