花たちが咲うとき 三

花たちが咲(わら)うとき

第三話 ~白とクロ~

 (きょう)の言葉に葵は素っ頓狂な声を上げた
「え? この後か?」
「うん。学生代表者会議に出て欲しいって言われてて……」
「ガクセーダイヒョーシャカイギ……」
葵は外国語でも耳にしたかのように、その言葉を片言で反復する
「だから、今日はここで」
「そ、そっか。なんかよくわかんねぇけど、頑張れよ! じゃぁな」
「うん。またね」
いつもは家の方向が同じ葵と途中まで一緒に帰っているので、ここで葵を見送ることに(きょう)は若干の違和感を覚えながらも手を振った
大抵の人は四限後には帰宅するので、学校に残るのは五限がある生徒達だけだ。人が一気に減った学内は物寂しい
ニュースでは台風も近づいているらしく、家の事も心配だった香は少しでも早く帰れないものかと、早々に会議室へ向かった



「以上十名が今年度の代表者ですね。よろしくお願いします」
 その声に円卓に腰掛けた十人は各々頭を下げる
「今日のところは、台風も近づいていますので顔合わせのみで終わりたいと思います。次回からもよろしくお願いします」
教師がマイクを切るのが合図だったかのように、椅子の引く音がバラバラと静かだった教室に満ちる
(きょう)も早く終わったことに内心ほっとして席を立った
しかし、そんな(きょう)の横に一人の女生徒が立った
月下(つきした) (きょう)、食堂で待ってなさい。話があるわ」
(きょう)はその女生徒を前に、首を縦に振るしかなかった


※※※


 夕日はとうに沈んだにもかかわらず、未だ夕焼け色に染められた雲は赤く、その上の空は重い青を広げている
その二つの色が混ぜ合わさった空はどこか毒々しさをもって不気味に見せていた
今日の深夜には来るといわれている台風の危険を知らせているようだ
「ちょっと、月下(つきした) (きょう)。寝ているの!?」
その声に慌てて姿勢を正した(きょう)を乗せた椅子が、ガタリと音を出した
「ごめん、起きてるよ。利根(とね)さん」
「ふん、そう」
下ろした長い髪を揺らしながら鼻を鳴らすと、利根(とね) (あざみ)(きょう)の前に腰を下ろした
「少し、考え事をしていたんだ」
「考え事? あなたがやらかしてくれた入学式の反省文の内容でも考えていたのかしら?」
「え、えーと……」
(きょう)は困ったように笑いながら頭を掻く
そのしぐさが気に食わなかったのか、薊は意志の強そうな端正な顔を歪ませて、もう一度鼻を鳴らした
「呼び止められた理由は分かっていたようね」
「そうじゃないかなぁ、ぐらいには」
薊はこの大学の理事長の娘で、大学向上委員会の委員長を一回生ながらも務めることになった秀才だ
今日の学生代表者会議も大学向上委員会が主催であり、今期主席入学者の香も呼ばれ、出席した
そして、今に至る
「単刀直入に言わせて貰うわ。入学式の日、どうして髪を黒く染めてこなかったの?」
「……これが地毛だからね」
「またそれ? 別に毎日染めて来いと言っている訳じゃないわ。あの日だけでも染めて来いと言ったのよ。
貴方のそのふざけた頭が地毛だろうと、アイデンティティーだろうと私の知ったこっちゃ無いわ。けどね、日本は印象国家よ。冠婚葬祭のみだけでなく、様々なところで暗黙の了解があり、それに従って生きていく種族なの。それから外れた人間はつまはじきにされ、後ろ指差されるの。
貴方が気にしなくても、貴方のあの行動でこの学校に要らぬ印象を植え付けてしまった。だから私は貴方を壇上に上げるのは嫌だったのよ。それなのにお父さんったら……――」
一度流れ始めた水のように、薊の口からはとめどなく言葉が溢れ続けている
(きょう)はそんな薊の言葉を聴きながら、どのタイミングで謝ろうか考えていた
その様子が薊には良い印象を与えなかったようで、キッと声を荒げる
「聞いてるの!?」
「うん、聞いてるよ。ごめんね」
「私に謝ってもどうにもならないでしょう! 謝るくらいならやらない! 謝るならお父、理事長や貴方を推してくれた人に謝りなさい!」
「うん。ごめん……」
そう言って視線を下げてしまった香に、薊も興奮が収まってきたのか一息吐いて窓の外に目をやった
(きょう)もつられるように窓のほうへ顔を向ける
この時間だと食堂にはあまり人が居らず静かなもので、二人にも沈黙が纏う
「それでも」
そう言葉をこぼしたのは(きょう)だった
「俺は、よかったと思っているんだ。利根さん達には、本当に悪いけど……」
「……どういう意味かしら」
薊の問いに(きょう)は笑顔しか返さなかった
腹立たしそうに薊がもう一度同じ言葉を、さっきより低い声で聞き直せば、(きょう)は浮かべていた笑顔の眉だけをハの字にするという芸当を見せて、ポツリポツリと言葉をこぼした
「夢をね、見たんだ。懐かしい友人の夢。入学式に、その友人に会う、っていう夢……」
「……続けなさい」
「えっと、その友人には、この姿で会いたかったから……」
「その夢を信じて、髪を染めるという行為をしなかったと言いたいのね。馬鹿なの?」
(きょう)がすべて言い終わる前に彼女は結論を言い当てた
(きょう)が反論しないことを是と判断したのか、薊の言葉が再び奔流を起こす
「最近この学校で夢占いがどうとかいう話題が出回っているけれど、くだらないわ。
いい? 夢というのは無意識から見るものよ。過去のことを見ることはあっても、それで未来を知ることは出来ない。予知夢なんてものはデジャヴや思い込みよ。夢のメカニズムは科学であらかた証明されているの。貴方が見たのも過去の高校か中学の入学式の風景と、この学校の風景とが合わさって出来た無意識の願望よ。よっぽど会いたかった友人だったのね。まったくそんな事で――」
「会えたよ」
「え?」
薊は思わず聞き返した
(きょう)の言葉に疑問をもったこともあったのだが、何より薊にとって(きょう)に言葉を遮られたのは今のが初めてだった
薊は今になって、どんなに長い話でも、嫌味なことを言っても、(きょう)は最後まで口を挟まず話しを聞いてくれていたことを知った
薊のそんな驚愕を(きょう)は知る由もなく、嬉しそうな懐かしそうな悲しそうな表情で、口の端をあげている
右肩と胸の中間ぐらいに手をやる(きょう)の仕草は、西洋の敬礼や、黙祷の姿に似ているような気がした
「会えたんだ。そのことに確信を持ったのは、今日だったけど……」
そのなんともいえない表情に、薊も返す言葉が思いつかなかった
再び沈黙が訪れたが、次にそれを破ったのは薊のほうだった
「……くだらないわ」
その言葉に(きょう)が少し顔を上げた時、一瞬の閃光と共に訪れた轟音が、二人の足元を揺らすほどの地響きを引き連れてきた
「うわっ!?」
「っ!?」
ちょうど窓の方へ目をやっていた薊は、カメラのフラッシュを間近で直接見てしまった時のような感覚に、慌てて瞬きを繰り返す
近くに雷が落ちたようだ
いつの間にか、外はどす黒い雲に覆われて真っ暗だ
食堂内の蛍光灯が数回明滅を繰り返したが、何とか立て直したことに薊はほっとした
ふと、正面に座る(きょう)に目をやれば、両耳を手で押さえて身を縮こませている
「雷なんか怖いの? 情けないわね」
そう薊が声をかけると、(きょう)はゆっくり両耳から手を離して困ったように笑った
「少しね」
その言葉は、続いて降ってきた大量の雨の音と混ざった



「予報より大分早い到着ね」
 薊は大量の雨で歪んだ外の景色をガラス越しに見つめた
天井をぶん殴るような雨の音が食堂内にまで響いている
「利根さん。傘は大丈夫?」
「当然よ。一応用心して持ってきているわ」
流石だね。と笑う(きょう)に、薊はもう一度「当然よ」と言い返す
「そういう貴方は持ってきたの?」
「うん。持ってるよ。ありがとう」
「お礼の意味が分からないわ。引き止めたのは私よ。今日はこの辺にしておいてあげるから早く家に帰りなさい。貴方の身に何かあったら学校の責任問題になりかねないのだから」
「うん。ありがとう。でも利根さんを送ってからにするよ」
「はぁ!?」
その声はがらんとした食堂によく響いた
「私のアパートは学校の隣よ。送ってもらう必要は無いわ!」
「でも、雨も雷もすごいし、風もだんだん強くなってきているみたいだから……」
「雷に怖気づいてる貴方に言われたくないし、そもそも貴方の隣を歩きたくないの!!」
その怒りをぶつけるような叫びに、流石に(きょう)も折れてしまった
「そっか、じゃあ気をつけて帰ってね」
「言われなくても分かってるわ!」
薊は折りたたみ傘を取り出しながら、一秒もこの場に居たくないことを体現するように、さっさと早足で食堂を出て行った



「もう、ほんと最悪!」
 薊は骨組みが折れてひっくり返った傘を片手に、アパートに駆け込んだ
「おや、薊ちゃん。今帰ってきたのかい?」
「見て分かるでしょ」
管理人部屋から顔を出したおじいさんに答えながら、薊はもう役に立たないであろう折り畳み傘の雨を払った
「タオル、持ってこようか?」
「いいわ。エレベーター使って直ぐだから」
「そうかい? 体を冷やさないようにね」
「分かってるわ。ありがとう、おじさん」
ぽん、と鳴って開いたドアに薊は駆け込んでボタンを押した
部屋に帰って入る暖かいお風呂だけを楽しみに――


※※※


「貴方、私をどれだけイラつかせれば気が済むの?」
「ご、ごめんね」
薊がお風呂に入り終わってひと段落着いたときだった
チャイムが鳴って、覗き穴から見えた光景に思わずドアを開けてしまった
「何で家に帰っていないの? それに、こんな時間に女性の部屋を訪ねるのも非常識だわ」
「色々あって……この近くで知り合いって利根さんしかいなくってさ……」
「貴方に私の部屋を教えたりなんか――」
そこまで言って、薊は学校の隣のアパートに住んでいると言ってしまったことを思い出した
学校の近くにはいくつかアパートがあるが、学校の隣で、なおかつ大学が認定している学生アパートはここしかない
薊が理事長の娘であることを考慮すればこの結果には容易に行き着く
しかし、ここまでたどり着くには学校周辺の地形、アパートの正確な位置とその詳しい物件情報が頭に入っているのが前提だ
―― 化け物ね
薊は内心そう思いながら、水を頭からかぶったかのように濡れぼそった白い男を横目に見た
「言っとくけど、泊めてあげる気は無いわよ」
「う、うん。それはいいんだけど、こいつを……」
そう言ってパーカーのチャックをゆっくり下げ始めた(きょう)に、薊は若干身を引いたが、すぐに身を乗り出すことになる
「……黒猫?」
(きょう)が先ほどから身を抱くようにしていたのは気になっていたが、パーカーのチャックが腹の辺りまで下りて見えたのは、(きょう)と同じくらい濡れぼそった黒い毛玉だった
「学校の敷地内で雨に打たれてて……。近くの獣医さんを訪ねたんだけど、どのお店も台風のせいか閉まってるし、そうこうしてたら家や友人のアパートに続く橋が渡れなくなっちゃって……。俺一人なら学校で過ごすのも手だったんだけど……」
「学校にこの猫が暖を取れるところも道具もないから、私のところに来たのね」
(きょう)は小さく頭を下げた
それを確認した薊は(きょう)と黒猫を一瞥してため息をつく
さっさと部屋の奥に行ったかと思うと、両腕にタオルを抱えて戻ってきた
「貴方のことは大っ嫌いだけど、その猫に罪は無いわ」
(きょう)の腕から猫を慎重に奪い取った薊は、そう吐き捨てた
猫をタオルで拭ってやりながら、チラと(きょう)を盗み見た薊が見たものは、嵐さえも吹き飛ばしてしまいそうな笑顔だった
「ありがとう」
(きょう)はそう言って笑っていた



 猫は相変わらず元気は無かったが、体を乾かすことも出来てひと段落着いた薊の耳に入ってきたのは(きょう)の声だった
リビングから覗くと香は電話中だった
今時懐かしい二つ折りの電話だ
玄関の縁に座っている(きょう)の背中はまだ湿っており、髪の先からしずくが落ちている
「うん、うん。良かった。皆帰って来れたんだな……。……俺も知人のところにいるから心配しないで……。悪いけど弟妹達のことよろしくな……。うん、じゃぁ……――」
そう言って電話を切ったタイミングを見計らって薊が声をかけようとした時、休むまもなく(きょう)の携帯が鳴った
(きょう)も予想していなかったことのようで、慌てて電話に出た
―― (きょう)! 台風やべぇな! ――
その能天気な大声は香の耳だけに収まらず、薊の耳にも届いた
「葵、そっちは大丈夫?」
―― へーきへーき! 窓がスゲーがたがた言ってるだけ。ぼろアパートだからさ、そこがちょっと心配かも――
「テレビを切らないようにな。気象情報が流れていると思うし、酷な話かもしれないけど天気が落ち着くまで起きていたほうがいいかもしれない」
―― おう、さっきからテレビがずーっとピロリンピロリン言ってるしな。オレ夜型だから徹夜は大丈夫だ!――
「あ、いや、徹夜まではしなくても……。何かあったら管理人さんや、ご両親とかにも連絡しろよ?」
―― あー、親ね。ま、大丈夫っしょ。それよりも(きょう)は大丈夫かよ? なんちゃら会議とやらで学校残ったろ? ――
薊はドキリとした
「大丈夫だよ。ありがとう」
―― そっか、ならいいんだけどさ――
「うん。そろそろ充電切れちゃうから切るね。気をつけて」
―― おう、(きょう)も気ィつけろよ――
「うん。じゃあ……」
ようやっと会話が終わってひと段落着いた風の(きょう)の背中に、薊は今度こそ声をかけた
「文句のひとつでも言えばよかったじゃない」
「え?」
(きょう)は後ろからの声に振り返って、鮮やかな黄緑の瞳を見開いて首をかしげた
「私のせいで家にも帰れずびしょ濡れで風邪ひきそうです。とでも愚痴ったらよかったでしょ」
(きょう)は薊の言葉に電話の内容が聞こえてしまっていたことを察して、少し気まずそうに目を逸らしたが、直ぐに薊を見上げた
「それは違うよ」
そう言って笑った(きょう)の前髪からしずくがこぼれた
そんな些細なことが薊の全てを責めている様な気がして、たまらず(きょう)の湿った背中を押し飛ばした
「うわっと!?」
「あんたのそういうところが嫌いなのよ! とっとと出てって!」
薊は頭の隅で、部屋にいる猫が驚いてしまっているのではないかと思いながらも、怒鳴るのをやめることが出来なかった
(きょう)は相変わらず困ったように笑いながら「お邪魔してごめんね」と言って出て行った
ばたんと閉まったドアに急いで鍵とチェーンロックをかける
恐る恐る覗いた覗き穴の向こうは廊下しかなかった
そのことに安堵しながらも、どこか心細い気持ちで部屋に戻ろうとした時、玄関の縁に(きょう)の物と思われるハンカチが置きっ放しになっているのに気付いた
(きょう)が玄関に座っていたとき、床を濡らしてしまわない様に敷いてしたもののようだ
薊はそれを拾い上げ、猫を拭いて湿ったタオルと共に洗濯機に放り込んだ
「みぁおぁあ」
変な鳴き声が部屋から聞こえて、薊は慌てて部屋に走った



「にぃちゃん、にぃちゃん」
 一階まで降りてきた香を呼び止めたのは管理人のおじいさんだった
(きょう)はここに来たとき、このおじいさんに事情を説明して薊の部屋を尋ねたので、顔見知りではある
(きょう)は首をかしげながらおじいさんに駆け寄る
「狭い風呂じゃが入ってくか? そのままじゃ風邪を引いてしまうぞ」
そう言っておじいさんは管理人部屋のほうを指差す
「いいんですか?」
「構わん構わん。にぃちゃんあれじゃろ? 薊ちゃんの、コレ」
そう言って親指を立て、によによとガタガタの歯を見せて笑うおじいさんに、(きょう)はキョトンとして首をかしげるのだが、おじいさんは知った風に頷いている
「照れなさんな。薊ちゃんのコレとあっては無下には出来ん。薊ちゃんは素直じゃないからのぉ、許してやっとくれ。とりあえず今は管理人部屋に避難しとくとええ」
「えっと、それじゃあ、お言葉に甘えて……」
「うんうん、素直が一番じゃて」
いまいち噛み合っていない白い頭が二つ、管理人部屋に消えていった


※※※


―― カリッ カリッ
 その小さな音で薊の意識は浮上した
外では相変わらず雨が窓ガラスを殴り続けている
それでも薊の目を覚めさせたのは、その些細な音のほうだった
ベッドから身を起こすと、玄関へ繋がるドアに黒い塊がくっついている
「あ、ちょっと」
薊は慌てて黒猫をドアから引きはがし、ドアを確認するがこれと言って傷が無いことに胸をなでおろす
両脇を抱えられた黒猫はなされるがままダランと伸びている
「お前、意外と人慣れしてるわね」
夜のうちに毛玉を吐いた黒猫は昨日の鳴きっぷりに対して、元気になった今のほうが物静かだ
ドアから少し話したところに黒猫を置きなおして、カーテンを開ける
外はどんよりと暗く雨で煙った世界が溺れている様だった
薊はぐっと伸びをひとつして朝食の準備を始めることにした
黒猫はもう扉に爪を立てることはしなかったが、じっと玄関のほうを見つめ続けていた


※※※


 案の定、学校は休校になり薊は黒猫を連れて部屋を出た
一階のエントランスにいると思われる男のことを考えると、タオルの一枚くらい寄越してやるべきだったか、と過去の自分を責めるのだが、このまま部屋に閉じこもるわけにも行かないのでエレベーターに乗る
黒猫も香が気になるのか、ふかし芋もほとんど手もつけず玄関に居座るので一緒に連れてきた
エントランスに香がポツリと居る姿を想像しているうちに、ポンとエレベータの扉が開いた
「……は?」
薊は思わず声を上げた
「あ、利根さん。おはよう」
そう言って(きょう)は手を振る
そこは想像していた
驚いたのはその周囲に数人の男女がたむろしていた事だ
ここは学生アパートなので、学生であろうことは察しがつく
よく見れば管理人のおじいさんまで輪の中に入っていた
驚愕で固まっていた薊を置いて、黒猫はぴょいと薊の腕から飛び出した
まっしぐらに(きょう)の膝に乗る
「あ、それが例の黒猫?」
「ほんと真っ黒」
「ここってペット禁制でしょ?」
「こんな時くらい良いじゃろ。特別じゃ、特別!」
管理人のおじいさんがクワッと大口を開けて抵抗の言葉を口にすると、周囲からブーイングと笑い声が織り交ぜになって聞こえた
「みんな、こんなところで何をしてるの?」
ようやく声が出た薊に、(きょう)が黒猫をなでながら答える
「学校に行こうか迷って降りてきた人を引き止めてたら、こうなっちゃって……」
「学校? 休講メールが来たはずよ」
薊の言葉に周囲の学生達は決まりが悪そうに視線をそらせた
「登録すんの忘れてた」
「私も」
「てか、登録ってどこからするの?」
どうやらここに集まった生徒は一回生ばかりのようだ
ここでエントランスにいた香に呼び止められ、そのままここで時間をつぶしていたらしい
薊はひとつため息をついた
「学校のメールシステムのあり方を改める必要があるわね……」
薊は苦々しく呟きながらそこまで広くないエントランスを見渡す。ソファに座ってスマートフォンをいじっている学生や、立ったまま雑談している人もいる
黒猫は数人の学生達に囲まれて人気者になっていた
「オリエンテーションの時か、授業の一環として登録するようにさせるといいかもしれないね」
その声に視線を向ければ、いつの間にか(きょう)が人ごみから抜けて薊の前に立っていた
薊はとっさにスマートフォンのメモ機能を開いて、(きょう)の言葉を書き留める
「クロのこと、ありがとう」
「クロ?」
薊は手を動かしながら聞き返したが、直ぐにあの黒猫のことだと知る
「ずいぶん安直な名前ね」
「ピッタリだろ」
「ピッタリというか、見たままね」
呆れたように肩を上下させた薊に、(きょう)は少し心配そうに眉を下げた
「クロのこと任せちゃってごめんね」
「私から預かったことよ。毛玉を吐いたらすっかり元気になったし、心配は要らないでしょう」
「あ、なるほど……って、部屋汚れちゃったんじゃない?」
「都合良くタオルの上に吐いてくれたから、そこまでじゃなかったわ。それに、実家にいる時に猫は飼ったことがあるから……」
薊はそう言うと少し息を吐いた
(きょう)がまた心配そうに少し身をかがめたのを、薊はうざったさそうに無視を決め込んでいると、人混みから「あ」っと声が上がり、クロが飛び出してきた
(きょう)の足元に隠れるように擦り寄る
「よしよし」
(きょう)がクロを抱えてやると、クロは不機嫌そうになっていた顔を緩め、身を丸めて目を閉じる
(きょう)も嬉しそうに目を細めていた
そんな人と猫の優しげな姿に、薊はついつい口を滑らせた
「猫、好きなの……?」
「うん」
(きょう)は子供のように笑った
薊は自分でも気づかないうちに眉を寄せていた
入学式準備の時に初めて(きょう)と顔を合わせた時から、この月下(つきした) (きょう)という男が薊にはさっぱり分からない
子供のように一喜一憂するくせに、時折大人をも凌駕するようなことを言ってのける
頭が良いくせに、馬鹿みたいな行動をとる
人を寄せ付けない見た目のわりに、こうして気がつけば人に囲まれている
動物にも、好かれる
薊は急にふつふつと湧き出してくる感情に抗うことが出来なかった
「それで相手にも好かれるのだから、羨ましい限りね」
「え?」
「私が飼っていた猫は、最後まで私に懐いてくれないままだったわ……」
〝羨ましい〟そう音にした自身の言葉に、薊は目を覚まされたような気分だった
思考の深みにはまったように身動きできない薊の前に影が落ちた
急に暖かい重みを腹部に感じて咄嗟に腕を回す
驚いたのは一瞬で、薊は腕に抱えたクロの眩しい金色の瞳と、対照的な真っ黒な毛並みに見惚れていた
「ね? 大丈夫」
何が大丈夫だというのか
そう言ってやりたい気持ちはあったが、正面から降ってくる声はそこだけ陽だまりでも落ちてきたかのように暖かく、反抗する気すらほだされてしまう
クロは薊の腕の中で丸くなっている
小さな鼻息も、呼吸に合わせて上下する体も、生き物のそれだった
それが薊にはすごく優しいものに思えた
「利根さん、私にも抱っこさせて!」
「え? ええ……」
さっきの集団の一人だったのか女生徒が横から羨ましそうに顔を出してきたので、クロを差し出そうと抱えると、急に暴れて薊の袖に爪を引っ掛けて離れまいとする
「クロちゃーん、こっちおいでー」
女生徒がそう声をかけるが、虫をはらうようにパタパタと尻尾を振っている
服は心配だったが、薊はなぜか嬉しかった


※※※


「実は、私も見たのよ」
「ん? 何を?」
昼食の時間になって、エントランスにいた生徒の大半は部屋に戻っていった
ようやく空きの出来たソファに、(きょう)と薊は座っている
クロは両端に座る二人の隙間を埋めるように、ソファの真ん中に座って毛づくろいをしていた
「姉の夢よ。私の欲しい言葉をくれる」
「良い夢、だね」
「ええ。でも、それはありえないわ。姉が私にそんな言葉をかけてくれるはずがないもの。だから、所詮夢なのよ……」
薊は手首につけている髪ゴムの飾りを指ではじいた
パチンと軽い音がして、その音にクロがピクリと耳を立てる
毛づくろいを中断して、薊の手首に、正確には髪ゴムに鼻を寄せた
そんなクロの頭を薊の手のひらが包むように撫でる
「……姉は私が嫌いなはずだから」
「俺は……、兄弟間の好き嫌いは、どちらも愛情表現の一つだと思うけれど……」
「貴方には分からないわ」
「……うん、俺には上の兄弟はいないからね」
薊はその言葉から(きょう)が長男であることを知る
いくら理事長の娘とはいえ、学生の個人情報を見たりは出来ない
改めて薊は、(きょう)について何も知らないことを知った
「貴方は、下の兄弟と喧嘩したり、憤りを感じたりはしないの?」
「うーん、無い事もないけど……」
そう目を閉じて唸り出した(きょう)を横目に、薊はため息をこぼした
「貴方、人がよさそうだものね」
「でも、兄弟喧嘩はそれなりにするよ」
「そうなの? その時はどう思ってるの?」
「うーん、……どうして分かってあげられないのかな、とか思ってる。かな? 「何か悪かったか教えて」って言うと「もういい」って言われちゃうし……」
「……、……腹立つ」
ぎょっとするように肩をすぼめた(きょう)を、睨むように一瞥した薊はクロの喉を掻いてやりながら言葉を続けた
「その言葉って、自分が相手より立場が上と分かっているから言えることだわ。貴方の弟が貴方に突っかかる理由、私には分かる気がする……」
「え? ど、どうしてだと思うの……?」
(きょう)はすがる様に身を乗り出した
薊は少し詰まった距離を見ないように視線を遠くに向ける
「……多分、対等になりたいのよ。貴方の弟は。貴方と」
「?」
(きょう)は「そう思っているけれど?」と言いたげにコテンと首をかしげている
薊はその様子を見て、少し寂しそうにクロの背中へ手のひらを滑らせる
「……今になって言えるわ。私の姉は私を対等に見てくれていた。私が気づかなかっただけ。……これ以上は自分で考えなさい」
(きょう)はやっぱり首をかしげたけれど、ひとしきり首を左右に振り終わると薊のほうに向き直った
「わかった、考えてみるよ。ありがとう」
「……やっぱり、腹が立つわ」
「え? ご、ごめんね?」
時折強く吹きつける風に誘われるように外を窺えば、ガラス窓に桜の花びらがいくつも張り付いていた
「もう、春も終わりね」
そうつぶやいた薊に、(きょう)は何か言いたげに口を開きかけたが、管理人のおじいさんが(きょう)を呼んで管理人の部屋に連れて行ってしまった
しばらくして帰ってきたのはおじいさんだけだ
「薊ちゃんもご飯食べたらどうじゃ? それともおじさん達と一緒に食べるか?」
「いえ、部屋に戻るわ。……月下(つきした)(きょう)はどうしたの?」
「なんや電話きてな」
「電話? ここに直接? 月下(つきした)(きょう)あてに?」
「そうみたいじゃよ? 電話口でしっぶい男の声でな「月下香君に代わってくれ」ってな。(きょう)君の電話な、充電切れてしまったらしいからな。親父さんやろ」
薊は不審に思った
しかし、理由がまったく挙げられない訳ではない
「どうかしたんか?」
「いえ、なんでもないわ」
薊は関係のないことだと、それ以上考えるのをやめた
薊がソファから立ち上がると、クロは薊の膝からソファの上に移動し腰を下ろした
クロはやはり(きょう)のところがいいのだろう
少し寂しく思いながら、薊は「またね」と小さく声をかけると、エレベーターに乗った



 昼食を食べ終わってエントランスに行くことも考えたが、特に用事もないのに出向くのも変な気がして、薊はパソコンの前に腰を下ろしていた
慣れた手つきでパソコンを操作すると、画面に男性の顔が映る
「お父さん、ちゃんと通じてる?」
―― ああ、大丈夫だ。そっちは大丈夫か? ――
「ええ、大したことないわ。実は学校のメールシステムで―― 」
今日の出来事を織り交ぜながら、学校のメールシステムのあり方を考え直す事案を提示した薊に理事長は感心するようにうなずいた
―― なるほど、検討しておこう――
「ええ」
―― ちなみにそれは、薊が考えたことか? ――
「……いいえ、月下(つきした) (きょう)よ」
嫌々吐いた言葉に、理事長は少しおかしそうに笑った
―― なるほど、彼か ――
「……お父さんは、あいつのことを高く評価しているようだけど、どうして?」
―― そうだな、……うまく言えないが。言葉にするなら『勘』だな――
「勘?」
薊の眼光が鋭く光ったのを見て、理事長は一瞬父の顔に戻り降参のポーズをした
―― 怒らないでくれ。そうだな、もうひとつ……――
「もうひとつ?」
―― 何故か、彼は『君影財閥』と関わりがある――
「君影……」
―― そうだ。何かあると思ってね。嫌な言い方をすればコネ作りだ。うまく彼を使って『君影』の手を借りれないかと思っている。直接息子のほうにもアタックはしているのだが、流石というべきかガードが硬くてね……――
「……それは、学校のためよね?」
薊の恐る恐る確認するかのような声色に、理事長は軽快に笑った
―― それはそうだ。それにあくまでおまけだ。ついてきたらラッキーくらいにしか思っていない。入試で薊を負かせた彼本人の実力を評価しているのは確かだ――
「……今度は私が負かすわ」
そう言って切った画面に、もう理事長の姿はない
この大学は出来てまだ間もないゆえに、不備も多い
今は少しでも改善と安寧のための糸口と頭脳が欲しいのだ
それを薊も分かっていながら、あの能天気そうな男の笑顔が脳裏を掠めると腹が立つ
ストレスを発散させてくれるクロの撫で心地の良い毛並みの感覚が手のひらによみがえって、恋しくなる
そういう感情に一度陥ると、とことん抜け出せないもので、窓を打つ雨の音が部屋の静けさを訴えてくるようだ
猫が一匹いなくなっただけだというのに、部屋が物寂しく感じる
エントランスに集まっていたあの学生達も、こんな気持ちだったのかもしれない
そんな時に、(きょう)がいた
声をかけられて、そこにとどまっていたくなった
―― あの男は、春空のようだ……


薊はその日の夜、桜散る青空の夢を見た


※※※


「帰った?」
朝一でエントランスに下りてきた薊に、管理人のおじいさんは(きょう)が既にここを出たことを告げた
「早朝にな。家が心配だからと雨が止んだら帰っちまった。薊ちゃんによろしくとな」
「……そう」
薊は手に持っていた(きょう)のハンカチを背中へ隠した
「念のためにと傘を貸したから、返しにまた来るさ」
「来なくていいわ。あんな奴」
管理人のおじいさんは何やらニヤニヤしながら管理人部屋に帰っていった
薊はそれを不愉快そうに一瞥して、エントランスのドアを押す
生暖かい風が頬を打って髪を散らせた
昨日までの曇天が嘘のように晴れ渡っている
むしろ普段の青空より透き通っているような、遠いような気がして、ポツリと浮かんだ白い雲に手を伸ばしてみたくなった
「にぃあ」
風に紛れて聞こえた声に、薊は慌てて視線を落とす
青空を映した水溜りが転々と道路を彩っている中に、クロがいた
優雅に尻尾を揺らしながら、もう一度小さく鳴いたと思うと、あっという間に背を向けて走り去ってしまった
小さな体はあっという間に点になって、直ぐに見えなくなる
春風がもう一度、薊の髪をなでた


※※※


 奇しくもあの事故のおかげで夢も見ずぐっすり眠れた(まぐさ)の体は軽かった
寝ていたというよりも気絶していたというほうが正しいのかもしれないが
(うばら)が居なくなったことですっかり気が抜け、ベランダでぼんやりしていた(まぐさ)の意識を呼び戻したのは寝室に置きっぱなしになっていたスマートフォンからの着信音だった
寝室に戻り、確認した画面に一瞬戸惑いながらも通話ボタンを叩く
「……もしもし」
―― (まぐさ)。中々出なかったが忙しかったのか? ――
艸の兄、(かや)だった
「いや……。何?」
―― 何ってお前。本を探して欲しいと連絡してきただろ? ――
そこまで言われて、ようやく(まぐさ)は忘れていたことを思い出した
兄に実家の(まぐさ)の部屋から本を探すよう頼んだこと、その本が見つかったこと、そして見つかったことを兄に連絡し忘れていたこと――
「あー……、わりぃ。見つかったんだ、こっちで……」
―― そうか、良かったな――
兄はこれといって(まぐさ)を非難することもなく、そう言った
別に怒られたかった訳ではなかったが、兄も父ほどではないかもしれないが忙しいはずだ
何かしら言われるだろうと覚悟したのだが
「怒らねぇのな」
きっとまだ気が抜けていたのだ
いつもなら「それじゃ」と電話を切っているはずの(まぐさ)が、そんなことを聞いてしまったのは
―― まぁ、お前は昔からそうだったしな。……無くしたと言ったと思ったらいつの間にか手元に戻していたり、無いはずのものを在ると言いだしたり……――
「……」
―― こちらには無かったと言って、お前ががっかりするよりは良かったさ――
そう言って向こう側でくつくつと空気を小刻みに叩くような兄な控えめな笑い声を聞いた
そんなリズムよく鼓膜を揺らす音を(まぐさ)がぼんやり聞いていると、不意に兄は話し始めた
―― あぁ、そうだ――
「?」
―― お前の部屋を漁っていたらな、懐かしいものを見つけたから送っておいた。もうすぐそちらに届くだろう――
懐かしいもの、といわれても(まぐさ)は特に思い当たらない
(まぐさ)が黙ったのをどう思ったのか分からないが、萱はそのまま言葉を続けた
そして、その言葉はとんでもないことを言ってのけたのだ
―― それと、そちらを大型台風が通過したようだから、父さんが(きょう)君の身を案じて連絡を取ったらしい。その時にお前の今住んでいるアパートを教えたらしいが、問題ないだろう?――
「……、は……?」
(まぐさ)の頭の中をいろんなことが一気に駆け巡ったが
この場所は家族にも教えていないはず。なんて疑問の答えは聞かずとも分かった
なんだかんだ過保護なのだ、この大人たちは
それとも、(まぐさ)が何か問題を起こさないように見張っているのか……
色々な考えがめぐりながらも、返す言葉が思いつかない艸は、池の鯉のごとく口をはくはくさせることしか出来なかった
―― ピンポーン ――
そんな思考をぶった切るようなチャイムがひとつ
―― おお、ちょうど荷物が届いたのかも知れんな。私も仕事がある、切るぞ――
そう言い残してプツリと切れた後に虚しくなり続ける機械音を聞きながら、恐る恐るリビングでて確認したテレビドアホンには、宅配業者らしき男と想像通りの男がもう一人……
唯一、意外だったのが――



「リビング広っ! テレビでかっ! 部屋多っ!」
こげ茶と金で半分に分かれた髪を振り乱しながら、葵はしきりに(まぐさ)の部屋を見渡している
先ほどから短い感想を大声で叫んでいる
この部屋の壁が厚いからいいものの、近所迷惑な音量だ
(まぐさ)はこの煩い人間と一緒に届いた平べったいダンボールを片手にため息をつく
「ごめんな、勝手に。心配だったから……」
そう言う(きょう)は、申し訳なさそうにリビングの隅に立っている
改めて時計を確認すれば、もうとっくに一限目は始まっている時間だった
「……学校はどうしたんだよ」
「台風被害の片付けが大変だからって、今日の午前中も休講になってな……。連絡来てなかったか?」
「……」
そういわれてポケットに突っ込んでいたスマートフォンを取り出して確認してみると、確かに来ている
「で、お前はまぁ、ともかく。なんであいつも一緒なんだ」
まだ髭を整えられていない顎で、未だ部屋をうろうろしている葵を指す
(きょう)は少し困ったように笑って、葵の方へ目をやった
「葵も学校からの連絡に気づいてなかったみたいで、学校に行く途中の葵と偶然ばったり」
「今日半日休みになったことを知った暇人は、そのままお前について来た。と……」
(きょう)は肯定するように笑ったが、急にしおらしくなって視線を落とす
「……それにな、お前に何かあったときのことを考えたら……一人では、怖かったんだ。だから……葵にも着いて来てもらった。怒らないでやってくれないか?」
―― 大げさな
あの程度の台風程度で吹き飛ぶようなところに(まぐさ)は住もうと思わないし、むしろ被害が心配されるのは山と川が近い(きょう)の家の方だろう
「俺の家は大丈夫だったよ。あの川が少し心配だったけど……」
「……聞いてねぇよ」
「あ、そ、そうだね。えっと、あ、でもね。森林公園で土砂崩れがあったってニュースをやってたのはびっくりした」
(きょう)が慌てて変えた話題に、(まぐさ)は少しドキリとした
あの時、確かに(まぐさ)は危なかった。自業自得だったが
それを思えば大げさすぎる(きょう)の不安も、あながち外れていなかったというわけだ
「くぁ……」
(まぐさ)の隣から小さなあくびが聞こえて(きょう)を見下ろすと、(きょう)は少し恥ずかしそうに笑った
「なー! やっぱりアレはベッドの下ぁ?」
少し壁を隔てて聞こえた葵の声に、その姿を探すがリビングには見当たらない
言葉からして寝室に行ったのだろう
流石に牽制させるかと、思い始めた(まぐさ)はハッとする
―― ベッドの下には……
「おいこら!」
「ふげっ!」
怒号と共に寝室に飛び込んできた(まぐさ)に驚いた葵は、ベッドを覗き込んだ体勢のまま頭を上げたせいで、後頭部を思いっきりベッドの縁にぶつけたようだ
頭をさすりながら顔を出した
葵の様子からベッドの下のものには気づいていないようで、(まぐさ)は内心胸をなでおろす
「いい加減にしろよ」
「ス、スイマセン……」
すっかりしょぼくれた葵の襟首を掴んでリビングに戻ってくると、(きょう)はその場から動きもせず突っ立っていた
あまりにも変化のないその立ち姿に、人形にでもなったのかと錯覚したくらいだ
その錯覚はほんとに一瞬のことで、二人に気づくといつもの笑顔を見せた
「あ、おかえり」
「うー、怒られた」
「ほどほどにな、葵」
「つか立ってるのしんどくね? ソファ行こう! ソファ!」
そう言って(まぐさ)の手から逃れた葵は、香を引っ張ったままテレビの前のソファになだれ込むようにダイブした
巻き込まれるように(きょう)もソファに突っ込んで、二人そろって悲鳴を上げる
(まぐさ)が呆れたように二人のほうへ寄ると、葵がソファの上で跳ねるのを止めて(まぐさ)の手にあるダンボールを凝視する
「なに届いたの?」
「……」
(まぐさ)が黙ったのをどう思ったのか、葵は親指を立てて自分に向けた
「あ、オレ向日(むかひ) (あおい)ね。ヨロシク」
「……君影(きみかげ)(まぐさ)
「うん、で? それ何?」
葵は(まぐさ)よりも艸の持っているダンボールが気になってしょうがないようだ
(まぐさ)は仕方なくダンボールをふさいでいるガムテープを乱雑に剥がしにかかった
(まぐさ)も中身が何かまでは聞いていないので、中身が何かと問われたらこうするしかなかった
そうして開いたダンボールには(まぐさ)の思いもよらないものが入っていた
「……絵本?」
その声に葵はいち早く反応し、(まぐさ)の手元を覗き込む
途端にうるさいほどの声を上げた
「あー! 懐かしい! オレも持ってたわ、3D絵本!」
そう言って一番上の絵本を奪い取り広げた
(まぐさ)は残った数冊を取り出し、ところどころ汚れて角の曲がった絵本を眺める
数年前に流行った錯視を使った絵本だ。ひとつの絵をじっと見つめると絵が浮き出てきたり、消えたりする目の錯覚を使ったもの
タイトルの下に「目がよくなる!」と決まり文句。これが絵本のわりに幅広い年齢層に広まった理由ではないかと(まぐさ)は思う
もともと目が良い(まぐさ)にはその真偽は不明なままだ
しかし、確かに(まぐさ)はこの本が好きだった
―― そうだ、これは……
「……キリン」
そうつぶやいたのは(きょう)の声だった
(まぐさ)は手元の絵本から香に目を移すと、(きょう)は葵と共に広げていた絵本のページに目を落としていた
(まぐさ)はそのページに見覚えがあった
そして、(きょう)の手には今の季節には見られないカエデの葉が茶色く変色しながらも、しっかり形を保って一枚あった
「え? キリンに見えるか? オレには像に見えるけど……」
そう言って絵とにらめっこを始めた葵の横で、(きょう)はカエデの葉を確かめるように撫でている
(まぐさ)は見てはいけないものを見てしまったかのように目をそらせた
(まぐさ)の手元にある絵本のページから一枚、カエデの葉が落ちた


※※※


 昼も近くなって(まぐさ)の部屋を出た三人は、階段を使って一階まで降りた
(まぐさ)がそうしたので、二人も何となくエレベーターに乗れなくなってしまったのだろう
葵は最後までエレベーターに未練タラタラだった
エントランスでバイク通学の(まぐさ)は二人と分かれるはずだったのだが、いつものところにバイクがないことに(まぐさ)は唖然とした
そして直ぐに、あの桜の老人の件で森林公園にバイクを置きっぱなしにしていたことを思い出す
頭を抱えながら戻ってきた(まぐさ)に、(まぐさ)のバイクがどんなものか一目見ようと待っていた葵と(きょう)はキョトンとしていた
(まぐさ)はしぶしぶバイクを置き忘れたと説明し、学校まで三人で行くことになったのだ



「見てみたかったなぁ、バイク」
「また今度見せてもらえばいいさ」
(まぐさ)の憂鬱をよそに、香と葵はのんきに歩いていた
道の端の草木は昨日の雨のしずくを乗せ、きらきらとしている
それでもアスファルトの道は大分乾き始めていて、歪な斑模様を描いていた
いつもバイクで通る道だが、歩いてみると中々情緒があるものだと、(まぐさ)はぼんやり思って歩いていた
「金持ちって逆に庶民的なものに惹かれるってホント?」
前からの葵の声に顔を向けると、葵の隣を歩く(きょう)が少しばつの悪そうな顔をしている
(まぐさ)は少し眉間に力が入るのを感じながら、これと言って気にしてない風に装った
「そうかもな」
「へぇ~……」
葵は興味なさそうに間延びした声を返す
そこには無関心以上に嘲る様な険のある声色だった
「俺は好きだけどな。田園風景」
「まあ、嫌いじゃねーよ、オレも。ちょっと不便だけどさ。ただ、こんな田舎に好き好んで来るもんかなぁ、って思っただけ」
(きょう)の取り繕うような言葉も、葵はあっさり返してその矛先を依然と(まぐさ)に向けている
気がつけば校舎が見え始めていた
桜の花の色はすっかり消えうせている
「気がついたら、ここに来ただけだ」
(まぐさ)のその言葉に葵は首をかしげている
(きょう)も少し視線を下げたまま、口をつぐんでいた
春の風が沈黙をさらっていく
しかし、三人の間に言葉はなかった
まだ人の少ない学校の敷地内に入って、ようやく声を出したのは(きょう)だった
「また、遊びに行ってもいいか?」
そう言って笑った香に、(まぐさ)は少し迷った
「……僕がいないときなら、いい」
「それじゃ意味ないだろう」
おいおい、と言いたげに眉を下げて笑う(きょう)は相変わらずだ
「え、じゃあオレも! 今度はケーキとか用意しといてよ」
「来んな」
ぶーぶーと子供のように口を尖らせる葵をなだめるように、(きょう)が葵の背中を押す
これから先は所属学科ごとに建物が違う、ここで別れだった
「それじゃ、また」
(きょう)は何かを確認するようにその言葉を(まぐさ)に投げかけた
「……あぁ」
(まぐさ)は何の感情も含まぬように返す
そう言って互いに背を向けた



直後だった――
鈍い、音がした
その重い音は、気味が悪いほどに耳に届いた
(きょう)……?」
葵の声
振り返った(まぐさ)が見たものは、過去を彷彿とさせた
白い髪が、桜の花びらと共に地面に散らばっていた
「……、つき、した……?」

花たちが咲うとき 三

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花たちが咲うとき 三

白い彼、黒い来訪者――

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  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-04

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