シスター、腹ペコ、殺人鬼
本作には殺人を肯定するような登場人物がいたり、暴力的な描写がありますのでご注意下さい。また、本作で出てくる人物や建物、文化などはすべてフィクションです。
ここから東南にずっと歩いていくと、小さな町がある。郊外から外れているので知る人ぞ知る場所だが、大きな災害もなく、人々がのんびりと暮らすいい町だ。そして町外れには、この街唯一の修道院がひっそりと門を構えている。派手さは無いものの、50を過ぎた気の良いシスターが切り盛りしていて、別け隔てなく慈悲深いシスターの人柄も有ってか、訪れた街びとの評判は中々である。実際数年前まで、ここに愛着を感じ、休息日のお祈りや普段の参拝に集う人は少なくなかった。
しかし最近、ーーここ3,4年前だっただろうか。工業は機械生産が主流になり、街でも雇用の形態がガラリと変わってしまったことで、世間もすっかり様相を変えてしまった。世間の変化について行けず倒れた事業は失業者を大勢産み、その一方で新しい雇用はとどまることを知らず労働者は大人も子どもも急激に増えた。失業者は路頭に迷い必死で職を探し、雇れた人は新しいルール、厳しい労働条件についていくのがやっとだ。そんな風にみんな眼前の生活に手一杯のためか、わざわざ少し外れた場所にあるここまで足を運ぶ人はほとんどいない。ーーまあ、ただ1人を除いては。
すっかり寂しくなってしまった修道院で、お客様はひとり、食べ物をねだりにきた腹ペコ少年だけだ。今日も彼は、シスターにもらったパンを貪りながら、シスターの朝の務めを眺め、時に手伝っている。こうしてたまに訪れてはシスターにパンを貰い、御礼にお客様を存分に勤めてから帰る。つまり彼は、最近のシスターの唯一の話し相手だった。
少年は口をパンでいっぱいにしながら話しかける。
「ねえ、シスター。最近は誰も来ないね。僕の腹みたいに空っぽだ。」
「そうねえ、幾つか工場が街に出来てからはみんな忙しくて来れないようね。でも、いいんですよ。来たい時に来てくだされば。それに、あなたは来てくれますからね。」
シスターは優しく微笑んでそう返した。
そんなどうでもいいような会話を続け、いつもと同じ朝を過ごす2人だったがーー
ーーその平穏は、派手な音を立てて開かれた扉の音によって突然壊された。
「参拝の方かしら。すごいドアの音。随分慌てていらしたのね。」
シスターは乱暴な物音に少し眉を顰めた。だが努めて愛想よく声をかける。
「…あのう、参拝の方ですか。」
すると、乱入者は唸るように「俺は神に祈ったことはない」と答えた。
シスターと少年は顔を見合わせた。随分乱暴な物言いだ。男の醸す漠然とした狂気を感じ、シスターは先程よりも慎重に言を選んだ。
「こんにちは。こちらにどうぞ、いらっしゃい。あなたも何かを求めてこちらに来なさったのでしょう。良ければ、話してみてくださいね。」
だがシスターの丁寧な言葉に、男は口をひくりと痙攣させ、ぞっとする様なニヤリ笑いをした。そして声を荒げて、
「何かを求めるだって?いいや、別に!俺は暇な人殺しだ!教会に来た悩める子羊に、死をもって救いを与えに来ただけだ!」
と獣の様に獰猛にどなる。
少年はその剣幕に怯え、シスターの後ろにそっと隠れた。シスターは少年を庇いながら話を続ける。
「どうか、気を落ち着けてくださいな。確かに死を救いだと言う人も居ますが、人に手をかけ、命に干渉することは主の望むところではございません。人を助けるのは…」
男は焦れて話を区切る。
「ええい、説教なんぞいらん。俺は退屈なんだ。ーーそんなに説教がしたいなら、その前に俺とゲームをして遊んでくれよ。」
ゲーム、と呟く少年を一瞥し、男は「そうだ」と続ける。
「ただしクソガキ、お前らが楽しむ様な生温いゲームじゃあないぜ。ーーいいか、この教会に来る人間を、順番に自分の思う通りに扱うんだ。俺、婆ア、ガキの3人で。婆アが説教した人間をガキが遊んでもらって、俺が最後にそいつを殺す。そんな具合に。最高に楽しそうなゲームだろう?」
少年は顔をしかめる。男のゲームと言う発言は、まともに教育を受けていない少年にも酷く邪悪で、意義をなさないものだと分かった。命を弄んで楽しむとは、何と愚かで恥知らずな思考だろうか。受け入れるべきでは無いし、受け入れる義理もない。しかし、仰ぎ見たシスターはすぐに返事を寄こさず、緊張した面持ちだ。
ーーまさかシスター、このくだらないゲームをするつもりなの?
すると、少年の疑念に応える様に、男は暫く続いた沈黙を破った。
「婆アは分かっているだろうが、勿論これはお願いではなく強制だ。従わなければお前ら2人を殺す。」
至極楽しそうに男は話す。そこで少年はシスターの逡巡を納得した。彼女は男がこう切り出すのを予想していたようだ。人命を弄ぶ様なゲームは断固拒否したいところだがーー、まずシスターは少年の命を脅かすことは避けねばならない。そして、2人を殺した後の殺人鬼を、むざむざ野に放すような真似も。
暫く黙考した後、彼女は重い口を開いた。
「ーー分かりました。受けましょう。ただし、私たちも命を賭けるのです。こちらも条件を3つだけ付けさせてください。1つ、そのゲームは本日に限ること。1つ、あなたが来訪者に危害を加えられるのは、この建物内のみであること。1つ、その順番はあなたが1番か2番目であること。」
男は不愉快そうな表情を隠しもしなかった。大きな口を醜く歪めて押し黙り、どうやらシスターの条件を咀嚼しているようだ。
しかし、少年はこんな条件を男が飲むはずがないと思った。男の様相を伺うと、苛々としているのが手に取るように分かる。やがて男は言った。
「それでは面白くない。本日に限ること、教会内というのはまだ聞き入れてやっても良いとしてーー俺が最後でなくては面白味がないだろうが。」
男の言葉で、初めて少年はシスターの思惑に気付いた。この寂れた修道院は、ただでさえ来訪者が少ない。本日限りという制限は被害者を最小限に出来る。また、男の順番が最後でなく、ここの外で危害を加えることを禁ずるなら、自分かシスターが知恵を絞って来訪者を逃してやることが出来れば殺害を阻止できる可能性はある。
少年は感動した。危険な人物を前にして、シスターは最善策を賢明に探し出し、男と真っ向から対峙している。彼女の高潔さや聡明さをひしひしと感じ、自分の中に正義の心が湧き出すのが分かった。この条件は何としてでも飲ませなければならない。少年はついにシスターの陰から出て来て男の方を向いて言った。
「この条件を聞いてくれなければ、僕は今すぐシスターを殺して、僕も死ぬ。そうなるとあんたはせっかくここに足を運んだ意味が無くなって、楽しいゲームなんか出来なくなるよね?」
シスターは殺す死ぬの物騒な単語を聞いて、頬をわずかに痙攣させていたが、少年の思うところが分かったのだろう、何も諭さなかった。代わりに男に向かって、
「私はこの子の言い分に賛成です。つまりは、あなたも私たちの交渉を飲んでくれなければ今の発言は現実になります。」
と言い放った。
男は苛々と足を揺すって目を閉じた。交渉を受け入れるべきか判断しているようだ。やがてしばし間があったのち男が口を開いた。
「やはりダメだ。順番は俺が最後なのが条件だ。しかしお前らにもショウタイムに混ざって貰わねば何も面白くはないーーそうだ、こうしようじゃないか。まずは俺、婆ア、ガキの順。それからガキ、俺、婆アの順。最後に婆ア、ガキ、俺の順を繰り返してゲームをする。これならお前らの生意気な条件を無碍にはしてねえだろう。さあ、これが妥協点だ。それ以外認めないし、呑まないならお前らが自滅するよりも早く俺が殺すだけだ。」
男は表情に苛々を更に滲ませ、何も受け付けぬような危険な雰囲気を漂わせていた。これ以上はもう一切譲らなさそうだ。シスターは男の一髪触発の雰囲気を感じとり、男の言い分に承諾するを得まい、と思った。彼女に勝算は無くも無いのだ。男の思惑を叶えたいなら、来訪者は3人以上来なければならないが、今のめっきり寂れた修道院では来訪者が3人目まで到達する可能性すら極めて低い。彼女は決意した。
「いいでしょう。ーーでは、ルールの確認をもう一度。来訪者を、私達3人がそれぞれ〝対応〟する。対応の順番は、あなた、少年、私。そして少年、あなた、私。最後に私、少年、あなた。 この順は来訪がある限り繰り返すけれど、このゲームの期限は本日いっぱいまで。なお、あなたが来訪者に手を掛けることができるのは、この建物内のみ。これで間違いはないですか。」
男は「ない」と短く答えた。そして、例のゾッとする様なニヤリ笑いをした。
「では早速ゲーム開始だ。まず、俺は次の来訪者を迎え入れ、油断したところを凶器で殴り殺す。ガキ!お前の番だ」
少年は淡々と答えた。
「僕は、あんたが迎え入れた時点で、この中に殺人鬼がいるとそいつに警告するよ。最後はシスターだね」
「私は来訪者がここから避難するのを手伝います。」
男はさらにニンマリと笑みを深めた。
「良かろう。どう転ぶか分からない中々のシナリオじゃないか?全く楽しみだ。」
少年は、今日1日の事を思い、ようやく満たされたはずの腹がへんにうなって気持ちが悪くなった。長い1日が始まった。
時刻は昼時になっていた。
男が現れたのは太陽が顔を出したくらいだっただろうか。それから数時間、来訪者は案の定現れていない。シスターと少年は視線だけ寄越して男の様子をこっそりと伺う。
男は少年より頭3つ高い中肉中背、ガラガラの声に痘痕だらけの醜悪な顔で、そばに近づかずとも異臭が漂う。また、外套がクタクタで赤黒い汚れが酷くこべり付いていた。彼は足を苛々と揺すり、シスターや少年、主の偶像、内装などを代わる代わる睨んでいる。
さて、男の観察も十分にして段々この異常な雰囲気に慣れてくると、少年の腹は図太くも昼の飯を食べたいと不満の声を上げた。だが、いつ来訪者が現れ、男がその人物に手を掛けるとも分からない状況だ。少年は腹を何度か撫で、こら、と諌めて静まらせた。そしてそこからは無駄な動きは一切とらず、シスターも少年も自警団のような気持ちになって静かに寄り添い、時をやり過ごす。
ーーやがて、緊張が走った。
ぎしり。
扉が軋む音がなったのだ。3人は全く同じタイミングで、がばっと扉に注目した。
皆が見守る中、扉を開けて出て来たのは背の低い三十代ほどの男だった。シスターの馴染みの郵便屋である。
「シスター、どうもこんにちは。郵便です」
彼は緊迫した中の空気には気付かず、人の良さそうな笑顔を向けて、いつも通りシスターに挨拶した。そして、少年と男を見て、
「おや、今日はいつもよりお客さんがいらっしゃいますな。ーーあなた方に主の恵みがありますよう。」
とちょいと帽子を上げながら礼儀正しく言った。
すると男は郵便屋の挨拶を受けて、わざとらしい笑みを貼り付けながら郵便屋に一歩ずつ近寄っていく。
「やあどうも、ご苦労様です。私のような浮浪のものでも、こうしてたまには主に祈りを捧げるべきかと思いましてね。どうですか、あなたも仕事のついでに少し参拝されていっては?」
そうして男は手を差し出した。隠してはいるが、その反対の手にはハンマーが握られている。しかし何も知らない人のいい郵便屋は、握手に応じようと手を出しかけた。
少年はそれを見過ごさない。
「郵便屋さん、気をつけてね。今日はここに、殺人鬼がいるんだから。誰とは言わないけど。」
と、空気を裂くように声を張り上げた。
郵便屋は少年の突飛な発言に、怪訝そうな顔をしつつも、これで見知らぬ男の握手にはさすがに躊躇したようだった。そして、シスターに顔をむける。どうしたものか尋ねようと口を開けかけたところで、シスターはそれを遮った。
「郵便屋さん、お聴きの通りです。お引取り下さい。」
普段大らかで温かみあるシスターが、この時ばかりは厳然たる鬼のようであったから、郵便屋は恐ろしくなって「では失礼」ととってつけた様に言いながら、扉の方へ駆け出した。
すると、殺人鬼はハンマーを振り上げ、逃すまいと郵便屋を追いかけた。それに気付いた郵便屋は恐怖に叫び声をあげながら、ドアノブに手をかけた。殺人鬼はぐんぐん郵便屋に迫る。そして狙いを定めた殺人鬼がハンマーを振り下ろしーー
郵便屋が耳を劈く様な悲鳴をあげーー
ーーそこでやっと男に追いついたシスターが、力任せに殺人鬼に抱きついた。男は身をよじって直ぐにシスターを振り払ったが、郵便屋はこの一瞬で扉を開けて野外に転がり出た。
さて、かくして初めの来訪者は救われた。
男はちいっと舌打ちして、シスターを蹴り飛ばした。それから持っていたハンマーをめちゃくちゃな方向へ投げたので、内装の一部が破損して大きな音を響かせた。
男は気の狂ったように大声で笑い出した。
「ハハハハハ!やるじゃないか婆アとクソガキ!お陰で普通に殺すよりも随分愉快だ。俺は殺されそうになった人間が、恐怖で顔が歪む姿が好きなんだ。さっきのは本当に傑作だった。ーーさあ、次だ。来訪者が来るたび何回も楽しませてもらうぞ。」
男の笑い声は止まらない。少年は男の様子を恐ろしく思いながらも、シスターを案じて駆け寄った。幸いシスターは打ちどころがよかったのか、小さく咳き込むのみで、あとはなんとも無さそうに起き上がった。
シスターが立ち上がるのを見て、男はピタリと笑うのを辞め、じろりと2人を睨んだ。
「では次だ。ガキ、次の対応を決めろ。」
少年は直ぐに言った。
「次も僕は警告するよ。ここに殺人鬼がいるよ、早く帰りなって」
男はニンマリと笑う。
「では俺だ。俺は身を潜めて殺す機会を伺う。それから近づいた時点で殺す。」
シスターは先ほどよりも長く考え、のちに言った。
「最後は私ですね。ーー私は殺人鬼のフリをして来訪者を攻撃して追い出します。」
男はこれを聞いて不機嫌そうに唸った。シスターの返しが常に効果的で、かつ秀逸である事を彼も分かっているようだ。しかし、1日は短い様で長い。シスターは内心まだ太陽が傾き始めて間もないのに、もう1人目の来訪者があったことに焦っていた。そして男は逆で、そのことに幾らか励まされているようだ。幾ばくもなくニンマリと気味の悪い笑顔を取り返した。
「良いだろう。では諸君、次の来訪を待とうではないか。」
また気詰まりな時間が流れていく。誰も何も発さず、教会には沼の中の様なドロリと重々しい沈黙が広がっている。
しかしやがて少年の腹時計が、今度はおやつの時間だ、と文句を言いだす。少年は融通の利かない腹に苛つきながらも何とか宥めすかして、シスターを仰ぎ見た。彼女は緊迫状態に憔悴し、いつもより老け込んでみえる。だが、それでも風格は大木のように堂々としており、そのドッシリとした根の張りが限りなく頼もしく思えた。そこで少年は次の来訪者も必ず僕らが守ってみせよう、と固く決意した。
暫く聞こえるのは外の風の音と男が足を揺する音のみだった。だが、突然にシスターが切り出した。
「ーー工業が盛んになりましたね。おかげでここもすっかりさびれました。」
男はシスターを一瞥したが、俗的な世間話には興味なさげにそっぽを向く。
構わずシスターは続ける。
「新しい業務の台頭で、随分失業者も増えたと聞きます。最近では、懺悔にいらっしゃるのはそういう方ばかりで。ーーあなたの方はいかがですか。影響などございましたか。」
男は尚も無視する。シスターは続ける。
「ここでは、そういった方の相談会というか、集まりを開催しようかと考えています。辛い状況でも、同じ悩みをもつ人たちと共有が出来れば、辛さも幾分かは軽くなるかと思ったのです。」
シスターの話は嘘では無さそうだった。少年は過去に実際、懺悔にくる人達から、そういう会を作って欲しいという人たちを見たのだ。もしや、シスターは、この男を更生させようとしているのだろうか。少年は話の展開をただ見守る。
「あなたの抱えていらっしゃるものは分かりませんけれど、どうかしら。一度そういう機会に脚を運んでくださったら。なにかあなたのお役に立てるかもしれません。」
彼女は、いつも街の人達に向けるような穏やかな笑みで男に笑いかけた。少年は一瞬、シスターの慈悲深さなら男の気持ちも変わるかもしれないと思った。だが、男は簡単に言い放った。
「勘違いをするな。俺は裕福だ。幸福だ。何も困った事などない。言ったように暇を持て余しているだけだ。」
これを聞いたシスターは、流石にびしりと固まった。この男の殺害衝動は手段ではなく目的なのだ。ただ人を殺したいだけ。ーー何と冷酷非情、狂気の男だろうか。
「だから、そんな場所に呼ばれても、殺しの材料集めの役にしか立たんな。」
男はそう言ってくっくっと笑い、シスターもそれきりはやる方なく押し黙った。
そうするうちに、とうとう扉がぎい、となって次の来訪者の訪れを告げた。
シスターと少年は、先刻より一段と緊迫した空気に固唾を飲み、入り口付近に寄った。
そして男は、複数並んでいる白い像の後ろにさっと隠れた。その手には、鋭く光る刃物を握っている。
「こんにちは」
恐る恐るドアをくぐったのは、シスターも知らない顔の、年端のいかない少女だった。
「あの、ここに来たら、少し食べ物を分けてくれると思ったんですけど…、うちは貧しくて家族も多いから、私たちの稼ぎでは充分ご飯が食べられないんです。シスター、どうかお恵みを…。」
シスターはこの少女にこれから行わなければならない「対応」について、心を痛めた。お腹を空かせた子どもを、殺そうとしながら追いかけなければならないなんて。男はシスターの一瞬の逡巡を目ざとく把握して、付け入る隙があると踏んで、静かにニヤリと笑った。
だが、少年はただ一言、
「やめときな、ここは殺人鬼が出るよ。食うよりまず命だ。とっとと帰りなよ。」
と冷たく言い放った。シスターは、ハッとしながら少年を見た。食うよりまず命、当然のことだった。しかし、少女は怯みながらも、よほど困窮しているのか、少年に噛み付く。
「この神聖な修道院で殺人など…罰当たりな。私はあなたには何も頼んでないわ!ね、シスター、あなたからもなにか…」
すると、シスターは冷たい表情で、一歩、二歩と少女ににじり寄る。
少女は彼女の異常な雰囲気に恐怖を感じて、距離を保てるよう、一歩ずつ後ろに下がった。
シスターは冷たく笑う。
「どうして、怯えているの。まさか、シスターが殺人鬼なはずがないでしょう?」
シスターは右手を意味ありげに後ろに回している。少女はシスターの言葉、様子に彼女が自分を殺そうとしているのでは、という考えに取り憑かれた。
シスターは左手をゆっくりと手を少女に向けて伸ばした。
「いや…、やめて…、…そんな…」
少女はガタガタ震えながら涙をポロポロと流した。
シスターの手が少女に掛かろうとしたところで、少年は「走れ!走って逃げろ!」と叫んだ。
ハッと気づいた少女が、少年の声に励まされて、入り口に向けて走り出した。シスターはホッとして、彼女の幸福を祈った。
だが安心したのも束の間、その一瞬の隙を付いて、男が像から飛び出して来た。作戦が上手くいき油断したシスターと少年は、男の対応に少し遅れた。
少女が教会の扉に手をかけたとき、男は駆け出した勢いそのままに少女を襲った。
振り向いた少女は咄嗟に避けたが、肩口をバッサリと切りつけられ、突然のことにパニックに陥った。辺りには嫌な血の匂いが充満し、男以外の3人は、ひたすらに主に祈った。少女は、痛みと恐怖に泣き叫びながら、扉にすがってどうにか逃げ出そうとする。
男はなおも少女を襲う。頭髪を鷲掴みにして、次の刺しどころを吟味している。
しかし、彼らに追いついたシスターが男に取っくみ、ナイフを取り上げようと絡みついたため、少女は解放された。一方少年はもみくちゃのなかをかいくぐって扉を開こうと奮闘した。
呆然とする少女に、「ごめんね、日を変えてまたおいでよ。普段はこんな事無いからさ。」とウィンクして囁いた。
少年がドアを開け、即座に少女を突き飛ばして野外に送り出した。
少女は一瞬躊躇ったが、傷付いた肩をかばうようにして、元来た道へと帰って行った。
かくして、2人目の来訪者は、辛くも救われた。
また獲物を取り逃がした男は、悔しがってナイフを思い切り扉に突き刺した。ドキュ、と奇妙な音が反響し、やがて徐々に静けさを取り戻していく。
男は憎々しげに囁く。
「ーーあと、もう少しのところだった。」
しかし次の瞬間には、にやあっと破顔し、
「やはり緊迫したゲームは最高だな。何よりあのガキの恐怖に怯えた顔…、血の匂い…、ああ、早く次の奴が来ないかなあ。」と、陶酔した表情で呟いた。
シスターは先程の会話からも男の異常さは感じていたが、実際に男が少女を襲う所をみて、やはり彼は本当に殺人鬼なのだと実感した。
ーーやはり、今日が過ぎても男を野放しにするわけには行かない。
彼女はそう強く思った。ここにいる間に、何とか気持ちを更生させるか、それとも…男とともにここに立て籠もるか、ーーそうなるように仕向けなければならない。
そして、しばらく沈黙が流れたのち、次の「対応」についての話し合いが始まった。
「まず、私ですね。私は来訪者の傍に寄り添い守ります。」
と、シスター。
「僕も、シスターと一緒に守るよ。」
と、少年。
男は、眉をひそめた。
「何だ、面白くねえな。それでは俺とお前らの殴り合いになるだけだろうが。だが、…まあいい。対応の内容については干渉するルールはないからな。俺は、次の来訪者を絞め殺す。どんな邪魔をされようともな。」
運命の三巡目。男の殺害計画を、2人が殲滅するための方法は1つ、肉弾戦のみだ。
シスターも少年も、嫌な予感を感じていた。来訪者はまた来るだろう。2度ある事は3度あると言う。
だから、シスターも少年も、今度も、男と刺し違えてでも次の来訪者を守ろうと心に決めたのだった。
ーーしかし、それから誰も一向にやって来ない。
やがて夜も更けてきた。
約束の期限まであと少し。
男は例の膝を揺する癖をまた始めている。
「まさか、あのガキで終わりと言うことは無かろうな。頼むぜ、誰か1人は殺さねえと溜飲が下がらねえや。ーーそうだ、その場合は用済みなお前らを殺すかもな。」
男は最後の一言を付け加え、下品にげらげらと笑った。
一方シスターは思慮を重ねていた。いよいよ焦った。少年だけでも逃してやらねば、と手立てを考える。また、男を本日以降どうするか考えなくてはならない。あと数時間。この時間でうまく采配できなければ、結局のところゲームの終了とともに人生までもが終わってしまう。
それは少年ももう気づいていた。彼もかなり緊張した面持ちだ。彼は思わず、と言ったように、誰にも聞こえないほど密やかにひとりごちた。
「ーーもう、早く終われ…」
この呟きで、シスターは電流が何かのスイッチを入れたような感覚になった。
早く終わらせるのではない。ーー長引かせるのだ。
男をここに閉じ込めておく方法がある。
それは、男にゲームの継続を仄めかすことだ。ゲームが続く限りリスクは伴うが、男を野放しにするよりは犠牲を制限できるはずだ。少年には食糧調達を頼むとか、何らかの理由を付けて自警団にこの状況を伝えてもらう。自警団ともなれば、男1人身柄を拘束することは出来るだろう。もし、信憑性が足りなければ、あの郵便屋と少女に証言の後ろ盾をしてもらえば良い。
シスターは難題に対する解決策を見つけ出し、ひとまず安堵の息をはいた。
あとは、運命の三巡目の来訪者の命を守る事にだけ専念しなければならない。
少年の腹がけたたましく鳴る。果てには夜ご飯を食べ損ねた、と不満たらたらだ。結局、朝から何も何も食べていない。少年がまた腹を宥めすかしていると、男はその様子を不思議そうに眺めて言った。
「お前はみすぼらしいな、ガキ。」
話しかけられた少年は、ちらりと男の方を見たが何も言わない。男は続ける。
「ーー俺は貧しさがわからない。親には何でも与えられた。親が死んだあとも、自由に使える金はいくらでもあった。金がない状態がわからない。生活苦がわからない。それが俺の人生だ。」
男の境遇を知り、少し考えたあと少年は返す。
「そう。すごく恵まれて、全部を持っていたんだね。でも、それがなんだかかわいそう。あなたは、誰かに愛されたことはある?努力して、それを叶えた嬉しさは感じたことがある?」
少年の疑問に、男はせせら笑った。
「愛や努力など不要だ、生きる為の金があればな。」
少年は、ふーんと納得したようなどうでもいいような相槌を打つ。
「僕はお金がないけど、生きてるよ。それは多分運が良いのもあるけど、神様やシスターみたいな存在が愛してくれているからだ。あなたがどう生きていこうが関係ないけど、1つだけ教えてあげる。愛がなくても生きていけるなんてのは嘘だ。何も出来ない赤ん坊は、愛がなくては生き延びられはしない。気紛れだって、偽善だって結局ありがたい愛だ。愛を軽視しちゃいけない、いつかしっぺ返しがくるよ。」
少年の声は平坦で冷たかった。男は気にもかけず小馬鹿にしたように笑った。
「愛がなんだ!俺は親も死んだが金がある、気にくわないなら殺せばいい!この生き方でつまづく日が来るわけがないだろう!ーー俺も教えてやるよ、お前が惨めな人生だからと言って、人を妬むのはお門違いだ。余計惨めだぜ、クソガキ!」
男は愉快そうに笑うが、シスターも少年も惨めなのはこの男だと気付いていたが、それ以上は何も言わなかった。
そして夜半がすぎ、本日ももう終わりという時刻に迫った。
月が雲に隠れ、辺りは暗闇と静寂に包まれる。すると、外の境界から足音が聞こえる。
ーー来てしまった。これが、最後の来訪者だ。
しかし、重い音を立てて扉がやっと開いても、しばらく来訪者は固く口を閉ざしていた。
3人は来訪者からの言葉を待ち、様子を伺った。彼女は体格からして女だろう。頭にはフードをしっかりと被り、胸元になにか抱えている。
やがていつまでも口を閉ざしたままの女に、シスターが戸口まで近付いて、声を掛けた。
「こんばんは、どうなさいました。」
シスターが優しく女の肩に触れる。途端、彼女は泣きながら膝を折る。それから堰を切ったように話し出した。
「私の赤ちゃんを、どうか、天国にお送り下さい…!この子は、不治の病におかされているそうです。町中、いえ、町の外まで医者を探せる限り探して頼み込みましたが、どの医者も首を横に振るばかりでーー治す方法はないと見放されました。ああ、ーーこの子はあと数日の命です。間もなく死んでしまいます。でも、でもーーせめて、神のもとで安らかに眠りに付かせてやりたい…。天国に送ってやりたいのです。ーーどうかお願い…、お願い…。」
泣き崩れた彼女の肩を支え、気の毒に思いながらも、シスターは驚愕した。
ーー暇つぶしに人を殺す男。生きたくとも生きられない赤子。
愛を知らない男。母に愛されている赤子。
殺したい男と、死に向かう赤子。
この邂逅は、男に対する盛大な皮肉としか言いようがなかった。
男は黙って突っ立っていた。笑ってはいない。むしろ、何処までも無表情に母親と赤子を凝視している。そこで、少年は彼の心境を予想した。子どもに安らかな最期を、と望む母に素直に応えてやる事は、きっと男の望みに適わない。
ーーそうしてその通り、男はこう言った。
「良かろう。ーーただし母親、死を与えられるのはお前もだ。まさか自分の子どもは殺せと言うのに、自分の命は惜しいと言うのではあるまいな。」
この言葉で、やはり、と少年は納得した。男が望むのは、天に与えられた寿命に従い死を与えることではない。あくまでも自己利益、つまり恐怖を感じる人の様子を見て嘲笑うことが目的なのだ。シスターも少年も、もはやこの男の浅ましさについて今更どうこう言うつもりは無かった。肝心なのは、せめて母親の命を守ることだ。少年は母と男のやり取りと見守る。
しかし、女は間髪入れず言ったのだ。
「もちろん、構いません。私は、例えこの子の為をどれだけ愛し、想っていても、それが命を奪って良い理由になるとは考えていません。どんな罰でも受け入れる覚悟は出来ていますし、主がそのようにお望みなら、自分の命など惜しくはありません。」
彼女は、先ほどまで膝をついて泣き崩れていたとは思えないほどの毅然とした態度だ。
この強さは母の強さだ、と少年は思った。少年もシスターも、この女性の覚悟の深さに感嘆し、胸に熱いものが込み上げた。
しかし、男だけはその言葉を聞いて憤怒の形相で凶器を握りしめた。赤子も女も、男の思い通りにならない。そもそも、思えばここに来てから思い通りになった事など1つもない。この人生で初の、思い通りにならないことへの苛立ち。不安感、焦燥感。
ーー男にとって、その感情をぶつける為の象徴は、3人目の来訪者である。
男は激昂した。
そこからは一瞬だった。
狂ったような叫びをあげながら、いきなり女に襲いかかり、隠し持ったナイフで、女を深く数回突き刺した。その後、女から赤子を無理矢理に奪い取り、赤子の首に手を掛けて絶命させ、倒れた女の元に投げて寄越した。
余りにも突然の残酷な殺戮の瞬間に、シスターも少年も、微動だにできず、彼ら被害者を守ってやる事は出来なかった。腰を抜かしたシスターは「ああ…、何と…何ということを…」と呻いた。少年は床にへたり込み、ガクガクと震えながら押し黙っている。シスターは何とか身体を動かして、血を流し横たわる女と赤子の亡骸に力無く這い寄り、抱き込むようにした。シスターの体温に気づいた女が、死の間際にゆっくりと顔をあげ、微笑んだ。
「…ありがとう…、親切なおかた、…これで私も、〇〇も、神の国で一緒にくらせるわ…。ありがとう…」
そうしてその言葉を最後に息絶えた。女はしっかりと男を見て感謝を述べたのだった。
男は絶句して、血濡れた己の手をだらりと横に下げ、ただ立ち尽くしている。
鮮烈な殺害現場に変貌した修道院には、嫌な沈黙が流れた。いつもは荘厳で暖かな複数の白い像は、散った血に塗れ赤く染まり、その形相は厳しく恐ろしく見え、まるで男を責め立てているようだった。
白い像達に睨まれた男は何だか急に萎んだようになっていて、シスターはつい男を案じて手を伸ばそうとした。が、やっと手の震えが収まってきた少年がそれを留めた。例え今は大人しくしていようが、さっき殺人を犯した男に近寄るのはあまりにも危険だ。そのかわり、少年は男をキツく睨みつけ、
「ーーそれで?気は済んだの?」と冷たく問うた。
問われた男は虚ろな目で少年を見つめる。そして、口だけ動かして
「ーー同じ、名前だ」と呟いた。
言い出した途端、男は腰が抜けたようで膝から崩れ落ちた。
「ーーこの赤子は…俺と…、同じ名前だ。」
シスターと少年は急に男がか弱い生き物になったように思えた。男はぶるぶると震えて、縮こまっている。それでも口を開かないと不安なようで、話を続けた。
「…今まで殺しは何度かしたが、ここまで胸糞の悪いのは初めてだ…。理不尽な殺され方をして、死んでも構わない、だと?…ありがとう、だと?そんなのはおかしい、あり得ない…。こんな事は初めてだが…俺は、俺は、恐ろしい。痛かろう、苦しかろうにあんなに幸せそうに微笑みながら死ぬあの女が恐ろしい。あまりにも、理解不能だ。この手にかかる血!あの女の…ーーああいやだ。俺は…俺は、生まれて初めて後悔をしている。ーーシスター、主よ、俺はこの先どうしたら…。ああ恐ろしい、ああ、ああ…」
男はとうとう泣き出した。どうやら、人を殺めた罪を今更強烈に自覚し、悔いているようだ。
助けを乞われたシスターは静かに女と赤子の側から離れ、男の元へ近寄る。少年も今度は止めなかった。その疲れ切った抜け殻のような男には、もう何をする力も残っていないことが見て取れた。
シスターはか弱き生物に言葉を与えた。
「ーー悔いなさい。命を奪う行為は、あなたが許された力の範囲を超えています。天と命の密な関わりは、あなたが干渉できるものではありません。恐ろしい所業です。あなたは今やっとそれに気付いて後悔しているようですが、あなたの奪ったすべての命はこの女性の命の重さと変わりません。あなたは幾度にも渡って、天のお決めになった命の契約を勝手にズタズタにしたのです。ーー」
「ーーあの赤ん坊はあなたと同じ名前でしたね。彼は愛されていました。あの女性は母として愛していました。これはあなたの中には存在しない概念です。あなたは愛された実感がなかったから。だからあなたには今まで理解が出来なかったのです。人を愛することも。人を殺めてはいけない理由も。この理解ができる人たちは、命を奪うことの罪深さを心で知っています。命とは一体なんなのかをーー少なくともゲームの駒として奪ってはいけないことを知っています。しかしあなたはひたすら無知でした。私は、これは命に無関心で見向きもせず、軽んじたあなたへの罰だと思います。同じ名前の違う人生を奪うことで、あなたは自分まで殺してしまったのです。ーーー」
「ーーしかし、あなたはもう殺人鬼ではありません。あなたの手はもう、誰を殺めることもできません。何故なら、誰かを手にかけようとする度いつでも、あなたはあの女性を思い出して苦しむからです。」
シスターは、あの大木のような堂々たる威厳で男を叱咤した。そして優しく肩に触れる。
「悔いなさい。そして同じ誤ちを繰り返さないこと。それだけが、これからあなたに出来る償いです。」
男は何も答えなかった。シスターが優しい笑みを向けても、床に蹲ってただ泣きながら震えていた。その姿は、怪物を見て恐ろしいと泣く幼い子どもとそう変わらなかった。
男が何も言わないので、やがてシスターは少年に向き直った。
「ーーさあ、怖い思いをさせましたね。あなたは勇敢にこの状況に立ち向かってくれました。ありがとう。もし良ければ、あともう少し協力してくれませんか。この人を自警団の元に引き渡すのと、亡くなられた方たちに供養とお祈りをしなくてはなりません。」
少年はやっと頬を緩めて言った。
「もちろん。でも、そのあとで飯にしようぜ。頼むよ。満たされないことばっかり起きて、腹ペコだ。胃袋が愛を求めて鳴いてるよ。」
いやはやその通り、早速少年の腹は盛大にグルグルと悲鳴をあげた。
シスターもその音の盛大さに少しだけ気が緩んで表情を和らげた。
少年が自警団を呼んでくると、男は何も言わずにすごすごと付いて行った。自警団は建物内の鮮烈な状況に驚いたようだったが、シスターの人望の厚さのおかげか、母子の亡骸を丁寧に運び出して供養を手伝ってくれたり、町の住人も数多くの人が集まり、清掃と復旧に尽力してくれた。修道院は一時騒然としたが、仕事の早い協力者たちのおかげで、1週間もしないうちに小綺麗で荘厳な姿を取り戻した。
そして騒ぎが収まると、やはりお客様はただ1人。
少年は今日も相変わらずパンをもらってシスターの手伝いをしていた。
パンを食べながら少年は思う。
きっと、あの男もずっと腹ペコだったのだ。ずっと腹が鳴いていたのだろう。パンが食べたい。愛して欲しいって。
まるで赤ん坊みたいに。
シスター、腹ペコ、殺人鬼
この物語では、赤ん坊が殺害されるという残虐なシーンがあります。実を言うとそうしたくはなかったんです、私自身赤ちゃん大好きなので…。言い訳させて下さい。殺人鬼との対比のため、また、赤ちゃんが持つ特別な象徴が必要だったため、やむなくこの形にしました。
なおあの母親の発言に対する構想は、昔の日本の考え方に由来しています。年端のいかない幼児はその身体の未熟さ故亡くなる事が多かったために、「子を神に返す」という考え方があったそうで。現代に許されるかは微妙ですが、その時代の事情から倫理的な考えかたが異なってくるというのは面白いですね。
読んでいただきありがとうございました。