空切

空切

 山へ入るのは本当に久々のことだったので、案の定シルベモドキがすっかり道を変えてしまっていた。彼らは人や獣の開いた道の上に好んで群生し、また道でない場所では自ら枯れ、絶えずその迷路を変化させ続けているのである。しかし男は迷うことなく歩いていた。初夏の太陽が分厚い葉の屋根を貫いて、腰の象牙刀(キバ)を閃かせた。右手に桜の杖を持ち、麻のザックを背負っている。男の名は水原牧人といった。
 あたりを包んでいた蝉時雨がやんだところで、牧人が立ちどまってコンパスを開くと、針の上に一匹のワタリアゲハがとまった。
「どっちへ行くんだ」
 声をかけるともう一匹、こちらは蓋の方にとまった。どうやらつがいのようだ。
 二匹は仲睦まじく、互いの蜜袋に蓄えられた蜜を飲みながら羽根を休めた。牧人は立ったままそれを見ていた。
しばらくして再び蝉が鳴き始めた時、二匹は南へ向かって飛んでいった。牧人の目指す山頂は北である。

  ◇ ◇ ◇

 彼女は新聞配達員だった。髪を少年のように短く切り、左目の下にいわゆる泣きボクロがあった。
「今何時ですか?」
 来る度に必ずそう訊かれるので、ある日思い切って訊き返した。
「腕時計はお持ちにならないんですか?」
「苦手なんです。革は汗の匂いがつくし、金属は肌が受け付けなくて」
 彼女は白い肌をしていた。ほとんど青白いと言ってもよく、そのせいか少々痩せ過ぎて見えた。
「今度からここに時計置いておきますから」
「あ、ありがとうございます。やっぱりご迷惑でした?」
「え?」
「いつもお尋ねするの」
「ああ、いえ、そんなことは。どうせ暇ですから」
 牧人は古書店を営んでいる。前の店主は若い頃画家を志していた男で、二年後にダムに沈む故郷の村を描き残すため、常連客であった牧人に店を預けたのだった。蓄えができる程ではないにせよ、学院に近いこともあって客足が途絶えることはなく、そして誰に気を遣うこともなく、牧人は自分が随分恵まれていると思っていた。
 本業は別にある。しかしその看板を掲げることは許されていない。
「じゃあ、ご苦労様です」
 こちらから話しかけたのに、これじゃ追い返すみたいだと言いながら気付いていた。
「どうも」
 彼女は会釈して店を出ると、真っ黒な自転車にひらりとまたがった。気分を害したようにはまったく見えなかった。
 仕掛け時計は箱に入ったまま、本棚の上で埃をかぶっていた。文字盤の下に舞台のような台座があり、据えられた蝋細工が一時間おきに縦に回転して入れ替わるようになっている。いつだったか旅先の露店で買ったものだが、仕掛けの動く音が耳につくので、当初店頭に飾られていたのはわずか二日間だった。
箱から取り出して電池を入れ、レジの横に場所を作って置いた。音にもそのうち慣れるだろう。
「わぁ、いいですねこれ。わざわざありがとうございます」
 明くる日、期待通りに彼女は目を輝かせた。
「えっと、一時五十五分ですね」
 見ればわかる。間抜けなことを言った。
「これもしかしてここが回るんですか?」
「あ、ええ。一時間おきに」
「じゃああと五分ですね。ちょっと見ていってもいいですか?」
「いいですよ、どうぞ」
 ここまで期待通りになるとは思っていなかったので、妙に高い声が出た。
 それから彼女は棚を眺めていたが、本を探している様子ではなかった。そこは学術書や辞典の棚で、一般向けの読み物は入り口の近くだった。
 本を探しに来たのではないのだから、普通の本はあちらですよと言うのもおかしい。今日も暑いですねと言って飲み物を出すことも考えていたが(そして冷蔵庫に用意もしてあったが)、白々しくなりそうでやめた。
「今日はお急ぎじゃないんですね」
 これもまた帰れという意味に聞こえそうだと今度は言う前に気付いたが、これ以上静けさに耐えられなかった。
「え?」
「いつも時間を気になさってるから、お忙しいんだろうなと思って」
「いえ、そういうわけじゃないんです。私、バンドをやってて」
「へぇ」
「カホンって知ってます? 四角い箱で、座って叩くんですけど」
「ああ、見たことあります。駅前の路上で」
「リズム感をつけるための訓練なんです。一時に郵便局を出て、六分ちょうどの曲を頭の中で十回演奏して、二時にここに着くようにするっていう。今日は随分早く着いちゃいましたね」
 確かに彼女が来るのはいつも二時前後で、さほど大きくずれることはないのに何故毎日訊くのだろうと、不思議に思っていた。
「私がリードしなきゃいけないのに、リズム感がないってみんなに言われてて」
「でも、頑張ってるんですね」
 彼女は照れ臭そうに笑った。その時、時計の針が二時を指し、波を切り裂いて進む帆船は台座の下に消え、代わって少女を乗せた牡牛が現れた。
「わぁ、いいですね」
 こういった類の小物に対しては、大抵誰でも「良い」と言う。しかし彼女は本当に心から気に入った風だった。
「なんていうバンドなんですか?」
「パプリカっていいます。聞いたことないですよね」
 元々音楽を聴く方ではない。やはりその名を耳にしたことはなかったが、ついでに彼女の名前を知ることができた。相庭由香里といった。

  ◇ ◇ ◇

 視界が開け、切り立った峡谷に出た。三年前に落ちた雷鉈(トール)の跡である。対岸の石灰岩層が強く光り、牧人は目を細めた。
 幅約六メートル、深さは三十メートルはありそうだった。遥か彼方まで完全な直線のその裂け目に、何本ものハシノキがその名の通り橋を架けていた。斜めに、時には完全に真横に伸びるこの木々は、競争の激しい森の中でほぼ唯一安定した日照を確保している。幹にびっしりと生えた苔のようなものが彼らの葉である。養分を奪う宿り木は通行する草食動物がその芽を摘んだ。
 ちょうど今、目の前のハシノキの中ほどで牡のアマイロジカが食事中であった。左右を見渡したが、安全に渡れそうなものはこれしかない。牧人は傍に生えていたオオテングダケに座り、あの牡鹿に付き合って少し早めの昼食をとることにした。
 茸の根元にはプラスチック製の空の弁当箱が捨ててあった。まだ新しい。立ち入り禁止の場所だというのに、奇遇にもごく最近、先客がいたようだ。牧人は弁当箱を拾い、ビニール袋に入れてザックに突っ込んだ。
 山へ入る時は晴玉屋のクロ麦サンドを何か二つと決めていた。牧人は水筒の水を一口飲み、大きく「晴玉」と印字された包みを開いた。
 濃い紺色の空に綿雲の群れが浮かんでいる。蝉の声の合い間に、谷底を流れる沢の音が小さく聞こえた。時おり柔らかな風が吹いた。
 一つ目のサンドを食べ終える頃、牡鹿はゆっくりとこちら側に降り、驚いたことにその場で腰を下ろして寝息を立て始めた。この眩い光沢を持つ毛皮は、主人の死と同時に素早く炭化してしまうため、商品としての価値はゼロに等しい。とは言え、ここまで警戒心のないものも珍しかった。
 穏やかな寝顔を見ながら食事を済ませると、陽光の暖かさと、久々に森を歩いた疲れも手伝って、牧人は体がじんわりと眠気に包まれていくのを感じた。時間はある。あぐらに座り直して、目を閉じた。

  ◇ ◇ ◇

 平日は薄暗い店内にこもりきりでいるので、定休日の日曜は自然と足が外へ向いた。日がな一日本を読んだり物書きの真似事をしたりするのが苦痛だったわけではないが、牧人の本能は新鮮な空気と変化する景色を必要としていた。
「こんにちは」
 声をかけられたのは、仕掛け時計を置いてから二度目の日曜の午後一時半、川辺のレストランのベランダ席で料理を待ちながら釣り人を眺めていた時のことだった。
 最初、自分のことだとは思わなかった。しかし聞き覚えのある声だった。
「あの」
 振り返ると、相庭由香里が立っていた。
「あ、どうも」
 牧人の顔はこういう時、自然な笑顔が作れるようにはできていない。
「お一人ですか?」
「ええ、まぁ」
「いいですか、ここ?」
「あ、はい」
 相庭が向かいの椅子に座った。その時、視界の奥でさっきから見ていた釣り人が何か一匹釣り上げるのが見えたが、それどころではなかった。
「あ」
 それどころではないはずなのに、思わず声が漏れた。
「何ですか?」
「いや、すいません。あの、魚が釣れたみたいなんで」
「え? ああ、川で」
 相庭は牧人の視線の先を認め、それからまた牧人を見た。牧人は目を合わせることができず、何となく川を見ていた。
「釣りお好きなんですか?」
「いえ、自分ではやらないんです。虫がダメで」
「ああ、餌の」
 幼い頃ジンメンガの幼虫に腕を刺されて以来、牧人は決定的に虫が苦手であった。山を歩くようになってからも克服されることはなく、体調を崩すと例外なく寝床の下から虫が大挙して這い出してくる夢を見た。という話をするのはやめた。食事の席で話す内容ではない。
「私も虫ダメです。みんなよく平気ですよね」
 そう言いながら相庭は再び釣り人たちの方に目をやった。牧人は曖昧な相槌を打ちながら、横目で彼女の横顔を見ていた。そしてテーブルにコップが置かれるまで、ウェイトレスがそこに来ていることに気付かなかった。
「ご注文は?」
 中年のウェイトレスは愛想よく尋ねた。
「何にしました?」
「リングィーネです。エビとブロッコリーの」
「じゃあ私もそれお願いします」
「かしこまりました」
 同じものを頼んだ。自分の脈が大きく鳴るのを聞きながら、コップの水を飲んだ。
「今日はどちらへ?」
「えっと、散歩、ですね。夕方からバンドの練習なんですけど。水原さんは?」
 名前は先日教えていたが、だからと言って覚えているとは限らない。自分が人の名前をすぐ忘れる性分であるだけに、嬉しいと思うよりもむしろ感心した。
「月末に街道沿いの古本屋が集まって青空古本市っていうのをやるんですけど、今日はその打ち合わせで」
 咄嗟に嘘をついていた。本当は公園の芝生で昼寝をした後、馬券を一枚か二枚買うという計画で、要するに自分もまぎれもなく散歩であったのだが、暇な人間だと思われたくなかった。古本市の打ち合わせは来週だった。
 相庭が純粋な散歩だと言っていたら、自分も同じだと答えただろうか。いや、万が一そうなれば話の流れ次第でちょっと一緒に歩きましょうかなどということになりかねない。これから食事が終わるまででさえ不安なのに、その後そんな長時間、間を持たせられるはずがなかった。
 それから相庭は、古書店の仕事について色々と尋ねた。牧人が店を継いだ経緯を話すと、彼女は前の店主を覚えていると言った。
「バンドは、どういうバンドなんですか?」
 話が一段落して、今度は牧人が尋ねた。我ながらひどい質問だとは思ったが、興味を持っていることを伝えたかった。
 と、そこへリングィーネが運ばれてきた。
「あ、じゃあ、いただいましょうか」
「そうですね。いただきます」
 フォークで麺を巻き上げると、塩の香りが湯気に乗って鼻腔をくすぐった。
「わ、おいしい」
「そうですね」
「良かったです、これにして」
 そう言いながら相庭はこちらを見て笑った。牧人は顔を伏せていた。この人はきっと、誰にでもこうなのだろう。そんなことはわかっている。
 ところで、さっきの質問は立ち消えになったのだろうか。それならそれで構わないが。
「あの、金曜日の夜って空いてます?」
「え? ああ、はい。空いてますけど」
「ライブをやるんですけど、良かったら聴きに来てくれませんか?」

  ◇ ◇ ◇

 聴石の洞窟の入り口には一匹のギンゼトカゲがいて、牧人が近づいてもまるで番人のようにじっと動かなかったが、ならばとしゃがんでつまみ上げようとすると、目にも止まらぬ速さで岩陰に隠れてしまった。洞窟の冷気は外にも溢れ出ていた。
 軽く靴を鳴らすと、壁面や天井がうっすらと翡翠色に光った。杖で少し力を込めて地面を叩くと、光は先ほどよりも強く、響きに合わせて導くように広がった。
 道は途中から上りの螺旋状になっており、少し進むと日光はすぐに届かなくなる。敢えて杖を突かず、足音の光だけを頼りにして進んだ。
 闇を吸い込むと、思考の回転は止まる。冴えているのに半ば酔ったような気分になる。そもそも考えるべきことなど何もない。やがて時間の感覚も失われて、足はひとりでに歩いていた。
 牧人は自分が巨大な機械の部品になったような気がした。最低限の情報だけを与えられ、ただ前に進む。身体の重さを感じない。透き通った真っ黒な粒子が、耳や鼻を自由に出入りしている。奇妙なほど楽だった。
 やがて前方にかすかな光が見え、牧人は我に返った。近づいてみると、巨大な鍾乳石があった。どうやら雫が一滴垂れて、下の水たまりに落ちたらしい。
 目を傷めないよう、瞼は閉じたまま出口を出て、ゆっくりと開いた。洞窟に入る前よりも、土や草の色彩が鮮やかに見え、蝉の声や風の音もよく聞こえる。少し冷えた体に、太陽の熱が心地よかった。
 ここまで来れば山頂は近い。
 再び歩き出そうとすると、足の間から何かが這い出た。入り口にいたギンゼトカゲだった。そう言えば彼らは自分で音を立てることができない。蜥蜴はちらと振り返り、瞬く間に消えてしまった。あとには切れた尻尾だけが残った。運賃、ということなのだろうか。牧人はそれを拾って口に放り込んだ。ギンゼの尻尾は知る人ぞ知る珍味なのである。

  ◇ ◇ ◇

 ライブハウスは雑居ビルの地下にあった。カウンターでジントニックを注文し、ステージに近い隅の席に座った。
「パプリカ」は女性のボーカルに、男性のギターとキーボード、それに相庭を加えた四人のバンドだった。軽快で、優しい音楽だった。この洒落たライブハウスには少々不似合いな気もした。相庭は、演奏をしているというより、ただ好きな音楽に合わせて座席を叩いているように見えた。
 演奏を終えると、出演者たちは一度ステージの袖に退場し、カウンターの脇のドアから客席に現れた。観客は大半が顔見知りであったらしく、そこここで談笑が始まった。牧人は所在なげにメニューを読んだり、氷が溶けてほとんど水になったジントニックを飲んだりしていた。
 口を閉じた紙袋には、手のひらに乗るぐらいの小さな花かごが入っていた。花を買うことなど何年ぶりだっただろう。
ふと顔を上げると、ちょうど相庭と目が合った。向こうもこちらを捜していたようだった。
「お疲れ様です。良かったですよ」
 本当に良いと思ったのだが、自分でも社交辞礼との区別がつかない。
「ありがとうございます」
 相庭は上気した顔をほころばせて、ぺこりと頭を下げた。
「あ、何か飲みます? おごりますよ私。チケット買ってもらったのにおごりますよっていうのも変ですけど」
「あ、いえ、大丈夫です」
 他にも話したい相手はいるだろう。長居をするつもりはなかった。
 音楽をほめる表現をまったくと言っていいほど知らなかったので、牧人は特にどの曲が気に入ったというようなことを簡潔に話した。相庭は、牧人の言葉の一つ一つに礼を言いながら、自分は楽曲作りには関わっておらず、ボーカルが詞を書き、キーボードが曲をつけているということを話した。
「あの、ちょっと上で話しませんか?」
 そろそろ出ようと思っていた時、相庭が顔を近づけてきて囁いた。
「ああ、はい。いいですけど」
 ビルの横の駐車場に二人で立った。牧人は手に下げた紙袋を落ち着きなく持ち替えた。先に渡しておくべきだったと思った。そして、何かを期待していた。
「水原さんって」
「はい」
空切(クギ)さん、なんですよね?」
 意外な言葉が続いた。
「ええ、モグリですけどね」
「仰木さんのお店でお伺いしたんです」
 仰木泰久の仕立屋が牧人の取引先であり、窓口であった。注文は必ず本人に出向いてもらうよう頼んであった。
「お願いできますか?」
「勿論です。それで、どういうの採ってきましょうか?」
 モグリになってから、注文はぴたりと止まっていた。最後に受けたのはいつだっただろうか。
「実は私、今度結婚するんです」
 眩しい照明が直に当たって、相庭の笑顔は恐ろしく大人びて見えた。都合のいいことにこちらの表情は逆光で見えないだろう。
 牧人は素早く理解した。そうなれば、目的のものは一つしかない。
「じゃあ、ドレスですね。結構天気選ぶんでお待たせするかも知れませんけど大丈夫ですか?」
「はい。よろしくお願いします」
「仰木の店のことはどちらで?」
「四年前に姉が式挙げたんですけど、その時お世話になって。ずっと憧れてたんです」
 ライブハウスの入り口から何人かの集団が出てきた。彼らを見送って残った男に、相庭が声をかけた。
「ユウジ」
 見ればギターの男であった。すらりと背が高く、頬はこけ、シャツから伸びた腕は引き締まっていかにも力がありそうだった。
 二人は並ぶと頭一つ分の身長差があった。
「じゃあ、あの、おめでとうございます」
 紹介が済むとそれ以上話はせずに立ち去った。帰り道、シャッターの下りた花屋の前で、花かごを渡しそびれていたことに気付いた。

  ◇ ◇ ◇

 訓練の末にできるようになる者もごく稀にあったが、空切(クギ)の技術は概ね素質によるものと言ってよかった。牧人の場合はうっすらと「線」が見えた。どこからどこへ、どのように刃を入れれば空が切れるかという線である。線のない場所ではいくら象牙刀(キバ)を振り回しても空布(クフ)は端切れも採れないが、線さえあれば、風の吹いている時などは線に合わせて象牙刀(キバ)をかざしているだけで面白いように採ることができた。
 山頂の湖には年中濃い霧が立ち込めている。真っ白な空布(クフ)を求められることは少なくなかったから、牧人にとっては馴染みの場所だった。ザックからレインコートを取り出して纏うと、ボートに乗って湖の中心の小島へ渡った。
 現地に着いたら必ず、仕事にかかる前にコーヒーを一杯すすることにしていた。コッヘルに水を入れ、コンロに置いて点火すると、一羽のタマハチドリが寄ってきた。炎が珍しいのだろうか。小鳥はしきりに首をかしげながら飽きずにコンロを見つめていた。やがてコッヘルの蓋がかたかたと鳴った。
 コーヒーを飲みながら、レインコートのフードを脱ぎ、牧人は霧を見た。空気の澄んだところでなら、目を凝らさずとも線はいくらでもあたりを漂っている。森の蝉時雨もここまでは届かず、湖はただ静かだった。
 ふと思いついて霧のスクリーンに相庭の顔を映し出そうとしてみたが、意外にも彼女の顔を思い出すことができなかった。すぐさま、感傷に酔おうとしている自分に気付いて、一人で笑った。あるいはとうに酔っているのかも知れない。視線を下ろすと小鳥はいつの間にかいなくなっていた。
 あれこれ考えるのはやめにしよう。立ち上がって象牙刀(キバ)を抜き、ぼんやりと浮かぶ太陽に向かって歩いた。そして、ちょうど目の前で生まれたばかりの線を狙って、大きく息を吐きながら、撫でるように刃を走らせた。線を見る目を持たない者には、それはまるで透明な何かが切っ先から滑り出しているかのように見えるだろう。切り取られた曲面はふわりと宙に舞い、やがて音もなく地面に落ちた。一振りでスカートを作るのに十分な大きさの空布(クフ)が採れた。牧人は自分の仕事に満足して、再び歩き出した。刃が線を捉えると、心地良い手応えがある。
 最後に霧の薄い場所を捜してヴェール用の空布(クフ)を採り、収穫を一枚一枚丁寧にたたんでザックに収めた。この荷を届ければ、あの人は花嫁になる。

  ◇ ◇ ◇

 湖を後にして、聴石の洞窟を抜け、ハシノキを渡る頃には太陽に西に傾いていた。雲は飴色に染まって流れている。風が出始めていた。
 牧人は自分の背丈ほどもあるシルベモドキの繁みを掻き分けながら、唐突にあの日、ライブハウスで聴いた最後の曲を思い出し、同時に相庭の記憶も蘇った。
 仕掛け時計に輝いた目、レストランで見つめた横顔、カホンを叩くしなやかな手、駐車場に伸びた二人の影。浮かぶものは決して多くはない。日々や、ましてや体を、重ねたわけではないのだから、思い煩う道理がどこにあるだろう。凍りかけた熾火が気まぐれに熱を出して、何事もなくまた雪に埋もれていく。それだけのことだ。
 純真な人だとは思う。しかしそれほど無垢だとも思えない。こちらが好意を持っていたことに、果たして気付いていなかったということがあるだろうか。時報(、、)のやり取りに慣れた頃には、目は既に意識して彼女を見ていた。心を見透かした上で、わざと脈のあるような素振りを見せて、愉しんでいたのではないだろうか。そこまで露骨なものではないにしても、しかしそのような要素がまったくなかったとは言い切れまい。根が謙虚であれば、「まさか」と考えて自分を騙すことも容易い。自分を慕う人間に花嫁衣装を作らせるなど、気付いていたとすれば、普通そんな酷なことはできるものではない。だが、普通でないことも、あり得る。
 わだかまりは急速に膨らんでいった。この疑いがそう的外れでなかったとしても、暴いたところで何かが変わるわけではないが、だからと言って片付けられるものでもない。あの人の内に魔物は棲んでいるのか否か。恐らくは、いる。この際いてほしいとさえ思う。しかしその真偽は決して確かめることはできない。そしてあの男は、存在するならばその魔物も彼女の一部として受け容れるだろう。
 シルベモドキの繁みはやけに長く続いていた。方向を間違えているのかも知れないが、コンパスを開くのも億劫だった。間違っているのなら、それはそれでいい。気がつけば早足で歩いていた。息が乱れ、立ち止まって見上げたホシブナの梢に、シロテンの親子がいた。親が子どもに木の実の採り方を教えているようだった。
 あの人は白い肌をしていた。あの人もいつか、母になるのだろうか。
 そう思った瞬間、親テンの真っ白な腹に小さな赤い光点が灯り、乾いた音がして、親テンが梢から落ちた。子どもは弾かれたように幹をつたって木を降りた。
 密猟者だ。蝉の声といよいよ唸り始めた風の音で、こちらには気付かなかったらしい。――見つけた。木の根元にいる。近い。だが今飛び出せば視界に入る。
 牧人は腰のポーチから熊避けの癇癪玉を取り出してピンを抜き、密猟者の背後へ山なりに投げ、素早く耳を塞いだ。大音響が空気を引き裂き、あたりの木々からは鳥たちが一斉に飛び立ち、密猟者が音のした方へ銃を、こちらに背を向けた。牧人は走りながら象牙刀(キバ)を抜き、跳び上がりながら高々と振り上げ、渾身の力を込めて密猟者の脳天へ打ち下ろした。鈍い感触に続いて、肩まで痺れが走った。無意識のうちに峰を返していた。頭を抱えてうずくまった密猟者を蹴り倒し、自分でも信じがたい力で胸ぐらをつかんで引き起こすと、木の幹に叩きつけた。
 それからのことはあまり覚えていない。ただ寒気がするほどの快感の余韻と、拳に酷い痛みがあった。密猟者は顔中を血で汚して足元で気を失っていた。

  ◇ ◇ ◇

 夕日の空布(クフ)を採り、親テンの亡骸をくるんで土に埋めた。子どもはじっとそれを見ていた。
「おいで」
 授乳期を過ぎているなら、きっと育てられる。何か名前をつけてやろう。
 柔らかな金色の光が降り注いで、牧人は今度こそ相庭由香里の結婚を心から祝福できるような気がしていた。

空切

空切

「空切」とは、空中から布地を切り出す能力のこと。心がキレイな頃(笑)に書いたファンタジーです。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-10-02

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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