舞台に、花は咲き乱れ


          ◯

 ここからまっすぐ道が伸びている。木々に遮られながらもあたしが通うことになる学校がなんとか見える。木造の、趣のある建物だ。
 近づくにつれて学校の全貌が露わになってきても、そこで始まる物語がどんなものかは見えない。どんな人やできごとがあたしを待っているのだろう。楽しみでもあり、またそれとは反対の感情も萌す。
 春を感じさせる強い風がふとした刹那に吹いた。前方に、肩甲骨のあたりまで伸ばした黒髪をその風になびかせている少女がいた。あたしと同じ制服姿。着られる日を待ち望んでいたセーラー服。ゆっくりとした足取りで、やはり同じ目的地を目指しているようだ。先輩なのか同級生なのかは、しばらく観察してみても分からなかった。
 揺れる長い黒髪を捉えて、小百合の顔が思い浮かんだ。小百合も今日が入学式だと言っていた。今頃どうしているかな。学校までの道のりを踏みしめているかしら。それとも、もう着いているだろうか。――別々の高校になったというのに、ついつい小百合のことを考えてしまう。
 風がまた吹いて、弄ばれた髪を手で抑えながら前方を改めて見据えた。いつの間にか小百合を想起させる遠因となった少女の姿はなくなっている。代わりに校舎が視界いっぱいに広がり、胸がときめいた。新しい場所への期待はそのときにしか味わえないものだから、ともすれば切なく、苦しい。だからせめて噛みしめていようと思う、この感情の動きを。
 学校の内部から華やいだ声がたくさん聞こえる。美しい鳥が鳴き交わしているようだった。早朝の柔らかな陽光と相まって、牧歌的な世界観を作り出す。この瞬間がかつてあった記憶に変わる日が訪れても、このイメージは褪せないはず。それくらい、焼きついた。
 校門を過ぎ、一歩ずつ校庭を踏みしめる。校舎の中にも木々が鬱蒼と生い茂り、今の季節はいくらか緑色が混ざった桜が咲き誇っている。受験のときにも足を運んだけれど、ほんとうに通うとなったら映り方も異なる。すべてのものが急に身近に感じられるから。古めかしさを揶揄する人もあるけど、あたしにはそれがいいのだと強く思える。もちろん、いつまでもこの新鮮な感想を抱けるわけではないだろうが。
 これからの日々、待っている運命。それに目に見える形がもしあるのなら、あなたの袖、ぎゅっと握ってもいいですか?

          ●

 小さくない駅、ここで降りる人はまばら。ほかの人の邪魔にならないような姿勢を保っているだけで苦労するほどの混雑ぶりだったのに、みんなはどこへ向かうというのだろう。そこまで考えて、すぐに当たり前の事実に心づく。そうだ、彼ら彼女らはほんとの「東京」へ向かうのだ。
 余裕を持って出てきたから、急がずに歩き出す。駅から学校まではほとんどずっとまっすぐに進めばいいから、と聞かされていたけれど、その言葉に嘘はなかった。こんもりと緑色をした山を背景に、新しい建物が存在感を放っている。ここからでもよく見える。あれが、今日からわたしが通う高校だ。造られたのが最近らしいのに、豊かな自然の中で浮いていないように見えるのは、景観に合わせて色合いを淡くしているからだ。観光地ならではの配慮、なのかな。
 駅周辺は温泉街だ。日中は温泉宿や商店街がそれなりの人でごった返すが、今日みたいな平日の朝はしんと静まり返っている。まだ営業を始めていない商店街のお店を一つずつ覗いてみる。お饅頭に大福など、どれもおいしそうだ。
 やがて温泉街を抜けるとあたりはより閑散とする。川沿いの道で、行き交う人は制服姿の女学生たちくらいだ。しばらくするとこの一本道も二つに分かれる。
 目を凝らすが、花音の通う高校はちゃんと見えない。わたしたちの学校と違って背が低いから、木々に覆われてしまっているのだ。――花音は初日から遅刻していないだろうか。基本的にはしっかりしているけど、たまに間の抜けたところがあるから。
 一本道は、それぞれの女子校へと枝分かれする。右手に進めば十年前に新設された旭山高校。左手を選べば前身の学校は戦前からあったという翡翠ヶ丘高校。
 ふいに、一陣の風。強い風に吹かれると春を思うのは自然なことだろうか。髪を手で撫でつけながら、よく晴れた空を見上げる。一人でいるときに空を見上げると気取っているみたいで嫌になる。今日の空は今日しかないもの、みたいな澄ました考えを抱きそうになるから。
 だけど、高校生活が一つの物語なら、最後のページで反芻する景色はきっとこの空の美しさだろう。悔しいけれど。

 掲示板に新入生のクラス名簿が張り出されており、確認するとわたしは喧騒から免れた。今のところ一喜一憂する身近な誰かは傍らにいない。
 高校生でいられるのは基本的には三年間だ。それぞれの一年ずつ、同じクラスのメンバーとほとんどの時間を送る。それを意識しているのかいないのか不明だけど、短くない期間の中で誰と一緒になれるかは気になるところなのだろう。
 わたしが通っていた中学校は一駅隣だから、この高校を志望したかつての同級生は少なくない。しかし、旭山高校に通いたいと望む人はたくさんいるのだ。豊かな自然に囲まれた、勉強や生活の面で環境の整っているこの高校は、都内各地だけに留まらず、関東地方のあちらこちらから志望者がやってくる。当然、倍率は高い。
 わたしも憧れていた。パンフレットを見て、人から話を聞いて、そして実際に訪問して――ここで三年間を過ごす自分の姿を何度も思い描いてみたものだ。想像するときにわたしと並んで歩くのは、ほかでもない花音だったのだが。
 ――小百合、わたし、だめだった。
 誰もいなくなった教室の片隅。日が暮れかかって、オレンジ色の光が教室に射し込んでいた。わたしは、背中を向けた花音の後ろ姿をずっと見つめていた。一心に窓の向こうを眺めている彼女の、いつもより小さく見えた後ろ姿を。
 ――それなら、わたし……。
 ――小百合。
 花音の低い、咎めるような声がした。彼女は、わたしが次に言おうとした台詞に心づいていた。
 ――憧れていたのでしょう? せっかく努力して掴んだのに、手放したら絶対に後悔するよ。
 ――でも……。
 わたしは花音と同じ高校に行きたかった。それはなによりも優先する願いだった。将来のことなんかどうだってかまわない。花音と違う高校を選んでしまったら、その方が後悔する。そう思っていた。
 いや、今もそう思っている。
 ――大丈夫。わたし、翡翠ヶ丘は受かったから。わりと近いところに、お互い通えるよ。
 その慰めに納得したわけじゃなかったけれど、結局、わたしは旭山に進学した。
 花音がいないせいでできた心の洞を、必死に別のなにかで穴埋めしようと試みる。だが、なかなか上手くいかない。わたしに幾人かの友達がいても、親友と呼べるのは彼女ただ一人だから。
 教室に足を踏み入れる。不思議と静かな心であたりを眺めやることができた。早くもそこかしこで小さな集団が生まれている。女の子はまったくよく喋る生き物だ。教室に反響するたくさんの笑い声が、わたしの胸中をざわざわとかき乱す。花音がいてくれたら、とは考えない。そこまで依存したくない。
 見た限り、中学時代の知り合いはいない。わたしの席は窓際だった。一番後ろから二番目。腰掛けて、なにをするでもなく、窓の外を見据えた。校庭を隔てた向こうに山が見える。旭山は山の麓にある。山に見守られながら少女たちは成長する。一方、翡翠ヶ丘は湖に接している。
 前の席二つが空いていた。鞄は置いてあるから、登校して友達の元へ行ったのだろう。そして、三つ前の席には座っている人があった。姿勢よく座していて、注意して見つめていても、まるで動く気配がない。読書でもしているのかしら。
 ふいに、後方からの視線に気づいたみたいにして、その少女がパッと振り返った。首だけ、ではなく、半身を逸らせるようにして。あまりのことでわたしに視線を外す暇はなかった。しっかりと目が合ってしまう。
 大きな目。眉毛の上で切り揃えられた前髪の下で、柔らかな光を放っている。やや厚い唇はきゅっと引き結ばれていたが、わたしと見交わした瞬間に花が咲くようにほころんだ。心が温かくなり、もっと見ていたいと思わされる笑顔――
 ドアを開ける音、席に着くよう呼びかける先生の声。急に現実に帰った気がし、図らずも居住まいを正した。
 笑顔を浮かべてくれた彼女はとっくに前に向き直っていた。――後で名前を尋ねてみよう。友達になれるかな。なんてことを、先生の話を聞き流しながら、頭の片隅で。

          ◯

 一つ伸びをして、肩が緊張していたことを自覚した。やっぱり今日は特別な日なのかもしれない。並木道を抜け、川沿いにまた出る。川面が陽の光をはね返しててらてらと輝いていた。
 入学式は恙なく終わり――とまとめたいところだけど、母親に大きな声で名前を呼ばれたときは頭から火が出そうだった。案の定、中学からの友達は肩を震わせていた。笑いそうになるのを我慢していたからだ。高校生にもなってあんな扱いをされては困る。
 でも、式全体はとてもよかった。先生方の話は素直に聞けたし、式の手伝いをしていた先輩方(生徒会かな?)もみんな素敵だった。なにより、学校の匂いみたいなものが心地よくて、すっと落ち着ける瞬間が確かにあった。
 あたしは、ほんとうは旭山に行きたかった。今はそれほど焦がれていないけれど、結果を突きつけられたときには絶望した。小百合と別々の学校になってしまうのも悲しかった。だけど、せめて彼女が合格してくれたから、旭山がどんな様子なのか教えてもらえる。それに両校はとても近いし、今日、翡翠ヶ丘を好きになれそうだと思えた。前に進める。
 下校になって、あたしは一人で帰ることにした。友好を温めるのは明日からにして、このあたりをゆっくり歩いてみたくなったのだ。太陽はまだ真上。残された時間は山ほど。川のせせらぎとたまに吹く風の音だけがあたしに寄り添って、気まぐれな足取りを後押しする。深呼吸した。名前の分からない花の香りが鼻孔をくすぐる。
 ぶらぶらして帰るなら小百合を誘うのもありかもしれない。そう思いついて、足を止めた。反転して翡翠ヶ丘のある方を捉える。見ていてもどんな様子なのか伝わってこない。遠すぎる。
 小百合はさっそく新しい友達を作って、歓談に耽っている可能性もある。彼女は自分自身を「人見知り」だと決めつけているが、実際にちゃんとあたしたちと友達になっているじゃないか。それに、見た目で特徴に乏しいあたしに引き換え、小百合は背が高くてスタイルがいい。つまり、初見で目立つのだ。
 もしかしたら、すでに誰かに目をつけられて、言い寄られているのかも、なんてね。
 あたしは一人歩きを再開させた。お饅頭でも買って帰ろう。考えただけでお腹が空いてきた。

          ●

 声をかけられなかった。
 すごすごと教室を後にする。荷物の量はほとんど変わっていないはずなのに、学生鞄が行きよりも重く感じるのはなぜだろう。
 かけようとはした。自他ともに認める人見知りのわたしは、普段なら初対面の人に話しかけるなんて絶対にしないけれど、前の席の彼女は気になった。近づきになりたいと思わせる笑顔だった。
 しかし、一歩踏み出した瞬間に、別の誰かが彼女の傍に行き、あっという間に親しげな雰囲気を醸し出す。その空気感に心づいてしまったら、もう割って入るのは無理だった。残念だけど、今日はまだ初めの一日。いつか仲よくなれるチャンスが訪れるかも。
 それにしても、と廊下をとぼとぼ踏みしめつつ、思い巡らす。入学式は華やかだった。わたしと同じ新入生たちはみんなかわいかったし、堂々としていた。なにより、歓迎のための歌を披露してくれた何人かの先輩方(生徒会なのか、有志なのか)は目映いばかりで見惚れた。わたしたちと違ってブレザーに着られている感じがまるでなくて、それぞれに着こなしていた。
 その歌のときにピアノを伴奏していた人。男の子みたいに髪を短くしていて、それが涼しい顔立ちによく似合っていた。かっこいい。あんな風にピアノを弾けたら、人生が楽しいだろうな。
 改めて、旭山に入ったことを強く実感した。あらゆるシーンで。それと同時に、肩にかかる荷物が増すような感覚になる。わたしがこの中にあって、やっていかれるのかしら。花音もいないというのに。
 つい、俯きがちに歩いてしまいそうになる。今はこの場を離れたかった。純粋に入学できたことを喜べる自分がいたらいいのに。そんなのいないのだ。
 肩を誰かに叩かれた気がした。最初は気のせいだと思った。わたしなんかを誰が引き止めるの。しかし、続けて肩に伝わる誰かの温もり。歩みを止めた。気のせいではなかったようだから。
 目を瞬いた。どうして、と声を上げそうになった。声をかけようとした彼女が、確かにそこにいた。ずっと前と同じように微笑んでいた。
「そないに目を大きゅうして」
 口元に手を当てる仕草。
 わたしは急に恥ずかしさを覚えた。笑い返そうと試みるけれど、やはり上手くいかない。
「もう帰るん?」
 うん、だか、まあ、だか明瞭としない答えが漏れる。「今日はもう帰ろうかと」
「わたしと、お話せえへん?」
 わたしは昔からかわいい女の子に弱かった。こんな風に誘われたら断れない。早くも心は傾いていた。
「わたし、三浦七瀬。中学の友達からは、苗字の三と七瀬の七を取って、ミナって呼ばれとった」
 よかったらそう呼んでな。打ち明け話を耳元で囁かれたみたいだった。
 あなたは、と問われる。ほんとうは問われる前に言いたかった。そうすればもう少しちゃんと会話していると思えたのに。
 高校生活一日目の筋書きを自ら手掛けてみても、こうはならない。運命の袖は掴もうとすると思いもかけないものを見せてくれるときがある。
「中田……小百合」

          ◯

 翌朝は一転して曇天。見上げると雲の動きが速い。今にも雨が降り出しそうな気配。鞄の中に折りたたみの傘を忍ばせて、湖の近くの学校を目指した。
 昨夜はよく眠れて心身ともにすっきりしている心地。人間は一日という区切りを設けるために眠る。いや、眠らなければならないからそういう区切りが生まれたのか。いずれにしても一日を迎える上での心身の状態は大切。
 翡翠ヶ丘に入学したら必ず入ろうと決めていた部活がある。その部活は通っていた中学校にはなかったから、ひたすらに憧れを抱いていた。
 それは演劇部。翡翠ヶ丘は演劇が盛んだった。その部活を目当てに志望する生徒が昔は絶えなかったという話だ。最近はそこまででもないらしいが、それでも一番人気の部活だ。
 後から創設された旭山も演劇に力を入れている。そして双子のように相並んでいる学校であるから、それぞれの演技を披露し合うのが恒例となっていた。毎年の秋、自分たちの学校へ相手を招くか、相手の学校へお邪魔するかを一年ごとに繰り返して、現在もその交流は続いている。
 演劇部に入れば旭山に行ける。小百合にも見てもらえる。
 あの日のことを昨日の出来事のようにして思い出せる。――中学二年の頃、どこかでその広告を見つけた。チェーホフ原作の『桜の園』の舞台をやる、という広告で、あたしはその絵から伝わってくる不思議な魅力に引きつけられた。チケット代はそう安くはなかったけど、どうしても見たくなった。一度その思いの火が胸のうちに点ると、容易に吹き消されなかった。
 一人で赴く勇気はなかったから、小百合を誘った。小百合は読書家だから、『桜の園』はすでに読んでいた。突然の誘いにも、むしろ嬉しげに応じてくれた。電車を乗り継いで都心の劇場へ向かった。一度しか足を運んだことのないその箱をありありと思い浮かべられる。その日の感動や興奮、すべてがきらきらして目に映ったことも。
 演技の終盤から涙していた。内容に、というよりも演技をしている役者の姿に。人の演技はこんなに心に迫ってくるものなのだと初めて知った。そして、カーテンコールの瞬間、惜しみない拍手を送りながら、その涙はまたはらはらと流れた。終わってから小百合と手を取り合って、互いの泣き顔を笑い合った。恍惚とした思いのままに、あたしたちは手をつないで帰った。きっといつまでも忘れない思い出。
 演劇部のイメージは漠然としたものしかなくて、実際憧れだけで飛び込んで失敗する恐れもあるけど、そのときはそのとき。中学時代、三年間帰宅部でも充実した日々を送れていた。
 見た目から自分を変えたかったわけではないが、春休みの終わりに、三つ編みにしていた髪を思い切って短くし、ショート・ボブにした。
 試してみたっていいじゃないか。

「演劇部に入るの……?」
 あっという間に放課後の時間になっていた。入学式の日は新しい友人を作れなかったけど、朝からオリエンテーションやら最初の授業やら休み時間やらと過ごしているうちに、だんだんと親しげに話せる人が増えてきた。ただ、比較的おしとやかな子が多く、そそっかしい部分のあるあたしはずれていないか心配だが、杞憂であればいい。
 旭山はお嬢様学校だとよく話に聞いていたけれど、翡翠ヶ丘も同様らしい。入ってから気づくなんて。でも、あたしはあたしだ。
 演劇部の活動場所に行ってみようとしていたところ、斜め前の席の子が部活動の志望届けを机上に置き、頭を抱えていた。だいぶクセのある髪質なのだな、と視界に映った頭を見て感じた。
 声をかけた刹那、彼女は機敏な反応で振り返り、ばっちりあたしと目が合った。大きく見開かれて多弁な瞳だった。
「あなたは……?」
 あ、あたしは塚原三七です、と先に名乗ってくれた。数字の三と七でミナ、と続けて。
「突然ごめん。深川花音っていいます」
「かのん、わ、いい名前。音楽的だね」
「音楽やってないんだけどね。それより、演劇部に入ろうと思ってるの? だったら――」
「迷ってるの」言葉で遮ってから、また頭を抱えた。「演劇が好きで、演技をしたい気持ちはあるんだけど、自信がなくて」
 彼女は好きな俳優の名前を何人か挙げた。みな、あたしの知らない人たちで、コアなファンなのだということが知れた。
「それなら、あたしと一緒に行かない?」手を差し伸べることにした。「あたしも演劇部に憧れていて、これからちょっと覗いてみようかなって考えてたの。迷っているなら、一緒にどんな感じなのか確かめに行かない?」
「ほ、ほんとに」
 目を輝かせた。表情豊かな人だ。こう言ってしまってはなんだが、「お嬢様」という感じではない。
 あたしの方も一人きりで顔を出すのは心細かったから、連れができて嬉しい。塚原さんとともに演劇部の部室へ向かった。

 校舎の奥まったところに空き教室がいくつかあって、そこが人数の多い文化系の部活の活動場所に宛がわれていた。ここらあたりまで足を伸ばしたのは初めてで、心なしか木の香りが強くなったような気がする。と、思ったら廊下の窓が少し開いていて、雨の匂いが流れ込んでいた。朝方の曇天はやはり雨を降らした。
 目的地へ到着する。教室の扉を前にして、塚原さん、もといミナちゃんはごくりと唾を飲み込んだ。おかげであたしも緊張する。
 ノックしてから扉をスライドさせようとして手を伸ばしたが、扉には触れられず、代わりになにか柔らかいものに当たってしまった。タイミングよく向こう側にいた人が扉を開けていたのだ。
「あら、見ない顔。もしかして新入生?」
 こちらが謝るよりも早く、そう訊いてくる。言葉尻が穏やかで、ふんわり包まれる感じの声だ。
 相変わらず声を上手く出せないまま、こくりこくりと頷き返した。そこでようやく、相手の胸元からさっと手を離した。
「演劇部へようこそ。あたしは部長の小坂井いのり。見学も大歓迎ですよ」
 お名前は、と自然な流れで尋ねられる。
「深川花音です」
「塚原三七です」
「よろしい。中へどうぞ」
 兎を追いかけていたアリスが穴の中へ吸い込まれるみたいに、物語が始まりそうな予感がした。この日、演劇部の教室へ一歩踏み出したことで、あたしの三年間は方向づけられたのだ。

          ●

 三浦七瀬さんは関西地方の出身で、親の転勤の関係で東京の高校を受験したそうだ。田舎育ちだから自然が豊かな学校へ進学したいと思っていて、しかし、旭山がこんなにお嬢様学校だとは予想していなかった、と笑った。
 笑みを交わし合った瞬間から、惹かれる部分があったと言ってくれた。黒髪が綺麗でスタイルもよく、クラス内で一際光を放っているかのようだったと、臆面もなくそんな風に告げてくれた。
 わたしは顔を赤らめる思いだった。ちょっと背が高いから目立つかもしれないが、彼女はよく言い過ぎている。嬉しいは、嬉しいけれど。
 それから、校庭の端に置かれたベンチで互いのことを話し、だんだんとパーソナルな側面についても知れた。彼女は絶えず笑んでいた。屈託のないその笑顔によって、ますます彼女と友達になりたくなった。
 帰りも駅まで一緒に歩いた。だけど、友達になってください、とは間違ってもお願いできなかった。改まった言葉がなくとも、友達になれるときは自然となっている。恋人ではないのだから。
 恋人――か。
 浮かんできそうな姿があって、わたしは慌てて首を横に振った。高校生活二日目。今日から授業が始まっている。しかし、授業の後半になってからようやく教科書を開くくらいで、まだまだ本格的ではなかった。
 昨日あれだけ喋ったわたしたちは、今日も二人で行動している。花音がいなくて友達がすぐ作れるか不安を抱いていたのだけど、こんなにあっさり解決するなんて。未来はなにも分からないが、ずっとミナちゃんと友達でいられたらいいのに、今はそう望んでいる。
 授業が始まったから、放課後は部活動へ参加できるようになる。入学前から入部先を決めていた人なら別だが、大多数は最初の一週間、部活見学をして、どこにしようか見定める。旭山は運動系の部活も文化系の部活も盛んだから、選び甲斐のあるというもの。
 最も盛んな部活は、おそらく演劇部だろう。しばしば、そんな噂を耳にする。
 ここは創立当初から演劇部に力を入れていて、それはなぜかと言えば、翡翠ヶ丘の演劇部がこのあたりで有名だったからだ。旭山でもしっかりとした部にし、交流のきっかけにできればという考えがどこかにあったのだろう。
 その結果、今では毎年の秋に、どちらかが学校へ招待して、劇を披露し合っている。それは保護者や他校の生徒までもが観劇に来るほど大きなもので、この街に欠かせないイベントの一つだ。
 ……と、こうまで演劇部について理解しているけれど、わたしは入る気持ちはこれっぽっちもない。これっぽっちも。
 だけど少し食指が動くとすれば、花音は中学のときから演劇部と決めていたのを知っていたためかもしれない。旭山であれ翡翠ヶ丘であれ、その点については鉄の意志だった。やっぱり、一緒に観に行った「桜の園」が大きかったらしい。わたしも、あの舞台には心を打たれた。
 だけど、想像できない。自分が舞台に立って、演技している姿なんて。初対面の人になかなか話しかけられない人間には、ハードルが高すぎる。
 わたしは文芸部に入ろうと思っていた。読書が好きだし、自分で書いてみるのも趣味でやっていた。部の雰囲気を確かめてからにしたいが、できればそこで、のんびり放課後を送りたいものだ。
 ところが、だ。
「演劇部?」
 ミナちゃんがほかでもない、演劇部に入部希望だった。
「うん。前から入りとうてな」
 小百合ちゃんは、と問われ、正直に「文芸部」と答えた。
「え、小百合ちゃん、小説書くん?」
「まあ、一応……読書が好きだから、趣味レベルで」
「そうやったんや。じゃあ、別々の部活になってまうね」
 同じ部活だったらなによりの僥倖だったけれど、そこまでは望まない。部活以外の時間、仲よくできたらそれでいいのだ。
 それにしても、よりによって演劇部か。
「ほなら、見学には付いてきてくれん?」
 見学くらいならかまわない。「いいよ」わたしは頷いた。
「その代わり、文芸部に一緒に行ってくれない?」
「もちろん。わたしは小説書けへんけど、どんな活動してるんかちょっと興味あるしな」
 こうして同行者を得、まずは文芸部の部室へ赴いてみることにした。
 ふと、窓の外を見つめた。灰色の空から幾筋もの雨の線が落ちてくる。このあたりは閑静な街だが、雨が降るといっそう静けさが増す気がする。
 この雨では運動部の部活見学は行えないのかな。天候に左右されるのは感情だけでいい。

 扉の前に立った。片耳を押し当ててみても、室内が賑わっている様子は伝わってこなかった。今日は活動していないのかしら。
 ミナちゃんと目線を合わせ、首を傾げた。とはいえ、ここまで来て踵を返すのもおかしな話だ。わたしはノックをしてから、そっと扉を引いた。
 夢でも見ているのかと思った。雨に煙る窓の向こうを、一人の少女が机に腰掛けて眺めやっていた。物憂げなその横顔はなんとも艶っぽく、そして髪がたいそう短くて、美少年と形容しても差し支えない覚えがした。
 美しい。完成された美しさだった。その横顔には見憶えがある。入学式で、ピアノの伴奏をしていた人だ。
 入口で立ち止まったわたしたちに気づいて、その人は声を投げてきた。
「そんなところに立っていないで、中に入ったら?」
 また、わたしたちは顔を見合わせた。どちらからともなく進み出て、薦められるままに空席に座った。隣のミナちゃんも少し緊張しているのが分かる。わたしの表情の硬さはきっとそれ以上だろう。
 間近で端正な顔を見ると、ますます気後れした。そんな眼差しで捉えられたらどうにかなってしまいそうだ。わたしはもっとかわいらしい女の子が好きなのかと思っていたのに。
「文芸部にご用?」
 質問をされたと理解するのに、わずかな間を要した。
「は、はい。わたしが。入部したくて」
「そちらは?」
 ミナちゃんに水を向けた。
「付き添いです。わたしは演劇部に入りたいので」
 ミナちゃんは徐々にいつもの調子を取り戻している風だった。
「そっか、なるほどね」
 微笑みを浮かべてから、手を自分の顎に軽く当てた。さりげない動作まで絵になる。「ようこそ、いらっしゃいました。文芸部は時間にルーズな人間が多くて、まだわたししかいないんだ。そろそろみんな来るかな、とは思うんだけど。――そうだ、自己紹介がまだだったね」
 その人は、成瀬葵、と名乗った。夏に咲く花。
「中田小百合です」
「三浦七瀬です」
 出会った場面を後になってから何度も思い返した。その度に、出会い方や順番が違ったら、この先に待っていた未来は少し形を変えたのではないかな、そう感じた。
 人生は一度きり。高校生活もやり直せない。だからこそ、繰り返されていく日々の狭間で、すべては必然だったと思えてしまう。
 だって――。
「わたし、演劇部にも入っているんだ。文芸部の部員はまだ来ないだろうから、もし演劇部に寄るつもりだったのなら、わたしが案内してあげようか」
 言うが早いか、成瀬さんは立ち上がる。意見を差し挟む余地もなく、つられてわたしたちも席を立った。
 だって、これでは、まるで用意された筋書き通りに動かされているみたい。

          ◯

 部の雰囲気はとても和やかだった。三年生も二年生も仲睦まじげで、装っていない素の表情だと見て取れた。あたしたちを含めた何人かの新入生に対しても居心地が悪くないようにと、頻繁に話を振ってくれた。
 その雰囲気の中心にいたのは、最初にあたしたちを出迎えてくれたあの人だった。あたしが胸に失敬してしまった人だ。すぐ後に分かったのだが、なんと彼女がこの部の部長だという。
 あたしはちらりと部長の小坂井いのりさんにまた目をやった。誰かの言葉に対して、笑んだり相槌を打ったりしている。柔らかく波打った髪と、相対した人に癒しを施すような笑顔が、確かにこの部活の雰囲気の形成に一役買っていた。
 伝統のある部だからつい厳しい部長を想像していたけれど、優しい人ならそれはそれでいい。ただ、稽古に入ったらまた様子が異なるのかもしれないし、ほかの先輩たちもたくさんいる。下手に安心するわけにはいかない。
 とはいえ、最初は迷っている、と口にしていたミナちゃんがだんだんとリラックスできている様子なのが、傍らにいて手に取るように分かった。リラックスしたミナちゃんは笑い上戸だった。
 初めから入部するつもりだった。今もその気持ちは変わらない。詰まるところ、部の雰囲気がどうあれ、あたしは自分らしくそこに居場所を作るしかない。自分らしく演技するしかない。
 小百合は部活、どうするのかな。文芸部に入りたいって話していたけれど、いい人たちと巡り会えたかしら。翡翠ヶ丘の演劇部はどんな感じなのだろう。小百合に訊いても分からないだろうが。
 別々の学校になってもこんなに度々思い巡らしてしまうのでは、世話がない。

 雨が上がった。川の水が汚れていて、さらに流れが急。雨が降っている最中はもっと降れと望みがちだけど、上がってしまうとどうしてこんなに降り注いだのか空に文句を言わずにおれない。わがまま。
 部活見学を無事に終了し、あたしはミナちゃんと一緒に下校している。ミナちゃんはとても明るくて、元気な人だ。仲よしになれたらいい。
 演劇部の先輩方にさようならを告げる前に、入部の意志を伝えた。あたしたち二人とも。部長の小坂井さんは嬉しい、と微笑みながら応じてくれた。
「いい人たちばかりで安心した」
 ミナちゃんの声は空に溶けるようだ。
「うん、そうだね」
「ありがとう、花音ちゃん」
「え、なにが」
「花音ちゃんが声をかけてくれなかったら、見学に行けてなかったかもしれない」
 あたしは首を横に振った。「そんな、あたしだって、一人で行くのは不安だったから……。ミナちゃんがいてよかった」
 それに、ミナちゃんは決断できない様子ながらも、かなり気持ちは傾いているみたいだった。それくらい好きなのだ、舞台が。出会ってまだ間もないけど、それは特に伝わる。
「花音ちゃんは、演劇のどんなところが好きなの?」
 不意に核心をつかれ、即座に返答することができなかった。
 どんなところが好きなのだろう。なんであれ、「好き」を人に説明するのは難しいかもしれない。感情が先に立ってしまうから。
 中学時代、観劇した際の感動。たまらなく惹きつけられた。でも、分かりやすいきっかけもなく運命を感じる瞬間ってきっとある。
「あたしは、どんなところが好きなんだろう」だから、今はこう答えるほか仕方ない。「それを、これから探すのかも。そのために演劇部に入るのかも。たぶん」
 最寄りの駅が近づいてきた。さっきから駅の向こうに薄く虹が架かっているのが見えた。雨上がりも悪くない。

          ●

 案内される道すがら、ミナちゃんは同行者を得たのだから、わたしは文芸部の部室で待っているべきではなかったかな、という考えが過ぎった。過ぎったけれど、歩みを止められなかった。先行する成瀬葵さんには、なんとなく逆らえないものがあった。
 女子校だから、演劇をするとなったら、男性の登場人物も女子が演じなければならない。目の前の彼女は男役がとても似合いそうだし、実際に演じているのではないかしら。
 わたしはむだに身長ばかり高いけど、男役なんてせがまれたって絶対にお断りだ。まあ、ありもしないたとえなのだが。
 体育館と併設されている講堂に着いた。体育館と別に講堂のある学校ってなかなかない。舞台上にたくさんの人がいる。座ったり立ったりはそれぞれだが、和やかに談笑している。新入生に向けて活動内容を紹介している風な上級生もいた。
「こっちはみんな揃っていたみたい」
 成瀬さんが身を翻して、わたしたちに笑いかけた。旭山で最も人気のある部、という話はほんとうらしい。百聞は一見に如かず、この景色がなによりの証左。
 舞台上の人たちが成瀬さんの姿に気づいて、声をかけてきた。そして、その呼びかけられ方に、わたしたちは度肝を抜かれた。
「部長!」
 絶えず笑みの形に細められるミナちゃんの目が、このときばかりは大きく見開かれた。それはわたしも一緒だった。だって、さっきまで文芸部の部室でのんびりしていたのに。この人が部長だったとは……。
「驚いた?」
 悪戯っぽい笑顔。少年みたいな表情になった。「改めまして、演劇部部長兼文芸部の幽霊部員、成瀬葵です。七瀬さんはいいとして、小百合さんもせっかくだからゆっくりしていっては? 新入生もたくさん来てるみたいだし、いい交流のきっかけになるかもしれないよ」
 いきなり名前で呼ばれ、もう覚えられたのかと驚く。
 あたりを注意深く見回す。演劇をやりたいという人たちだからか、みな、自信が漲っているように見えた。交流したいと単純には思えない。だけど、足を踏み留める理由を設けるとすれば、花音のためだ。花音は旭山の演劇部の様子がどんななのか気にしていた。わたしに伝える術はないと諦めていたけれど、今日一日だけでも花音の代わりに見学するのもいいかもしれない。
 成瀬さんの言葉は差し伸べられた手のようだった。一歩、そちらへ近づく。
 いつの間にか外の雨の気配は和らいでいた。

 駅までの道、遠くの方に虹が見えた。このまま歩いていけば虹の始まりに達するのではないかと思えるけれど、いくら歩を進めてもその大きさは変わらない。自然の不思議。
 演劇部に顔を出し、解散となってからミナちゃんと下校した。そんな気がしていたけど、文芸部には行けなかった。でも、明日以降また足を運んでみればいいし、今日はミナちゃんのためを思えば徒労でもない。
 演劇部所属の上級生、それに、入部希望の新入生たちは独特な空気感があった。圧倒されてばかりで、なんとかついていこうとするのにあくせくした。そのわりに、今思い返してみてもどんな人たちがいたかあまり思い出せない。
 憶えているのはあの人のことだけ。成瀬さんは輪の中心にいて、さまざまな表情を浮かべながら歓談に耽っていた。その横顔をつい見つめてしまう自分がいて厭わしかったが、どうしようもなかった。わたしは気になった誰かを意識しすぎる癖がある。
「ミナちゃん、演劇部はよさそう?」
「うん」即答だった。その笑顔が眩しい。陽だまりみたいだ。「いい刺激がありそうやし。小百合ちゃんもどう、一緒に?」
「そんな、冗談でしょ。演技なんて、わたしには……」
「普段大人しい人ほど、舞台に立つと豹変するもんやで。小百合ちゃんはスタイルもええから映えると思うけどな」
 でも、と言葉を一度切る。「でも、文芸部がええんやもんね」
 ミナちゃんも、せっかく親しくなれたのに、別々の部活になることが寂しいのかしら。
 駅の改札を抜け、向かい合わせのホームへとそれぞれ分かれる。わたしたちは反対方向に乗っていくから、ここでお別れだ。
「また明日」
「ほなな」
 手を振り合って二人の距離が一歩、また一歩と離れていく。また明日、と心の中でもう一度呟いた。
 ホームを歩きながら、電車を待つ間に読んでいようと、鞄から文庫本を取り出した。読みかけのページを開こうとして、ふと、視界の端に見知った顔が映ったような気がして、ゆっくりとそちらを見やった。
「あ、小百合」
 先に声をかけてきたのは向こうだった。その声を懐かしいと感じるくらいに、わたしたちはここのところ会っていなかった。というより、それ以前はあまりにもともにいる時間が長かった。
 ようやくちゃんと瞳を見交わしてから、彼女の目に映るわたしの顔が驚きの表情に変わった。――髪が短くなっている。三つ編みじゃなくなっている。
「花音」何度も呼んできて、これから何度も呼んでいくであろう、その名前。「髪、切ったの?」
 花音は照れ臭そうに手で髪を梳いてから、「うん、気分転換に。変かな? 前の方がよかった?」
 わたしは首を横に振った。そんなことない、と。
「似合ってる、すごく」
 花音の眼鏡の奥の目が細められ、カシューナッツみたいな形になる。「ありがとう」
 虹の始まりはここだった。世界は七色に輝いている。
 ほんとうは、惚れ直した、って言いたかった。

          ◯

 小百合は控えめに咲いているけれど、その存在に気づいたら目を離せなくなる花みたいだった。出会った頃から、あたしは人の輪に混ざれない彼女を意識していた。特別な意味ではなく、友達になりたいと直感的に思えた、初めての存在だった。
 小百合は読書家で、内側にあたしたちよりもたくさんの言葉を持っているみたいだった。心の中を覗いたわけじゃないけど、接していれば分かる。口数が少ないと受け止められがちだが、いつも自分の心情を的確に表すフレーズを探しているからなのだと、あたしは知っている。
 高校も同じだったらどんなによかったか、というのは本音だし、それにそもそもあたしは旭山に通いたかった。だけど、それほど距離を隔てない場所にあり、会おうと望めば容易に会えるのは嬉しい。
 それとは別に考えていることもある。異なる学校になったのだからこれを機に依存しすぎない関係に変わらなければ、と、そんな風に考えている。なんとなく、それがお互いのためだと感じた。ずっと、果てしなく広がる未来の先までずっと、友達でいたいと願っているから。
 高校に進学して会ったのは初めて。小百合はあたしの髪型の変化に驚いていた。一方の小百合はブレザー姿がよく似合っていた。だから、伝えてあげた。
「ありがとう」
 電車が揺れる。窓の外の風景はゆっくりと流れていく。
「でも、セーラー服もいいね。かわいい」
「あたしもけっこう気に入ってる」
 高校はどう? と問いかけられる。まあまあかな、と笑って答える。「演劇部、行ってみたよ。部長さんが素敵な方で、雰囲気よさそうだった」
「あたしも……演劇部に行ってみたんだ」
 小百合は恥ずかしそうにする。いじらしい。
「え、小百合、演劇部に興味あるの?」
「ううん、成り行きで。文芸部の部室に行ったら、演劇部と掛け持ちしている先輩がいて――その人が演劇部の部長だったんだけど――その人に連れていかれて」
 意外に思った。小百合が初対面の人にあっさりと連れていかれるなんて。そんなに惹かれるところがあったのかな、なんて。
「じゃあ、入らないの?」
「無理だって、分かるでしょう? あたしに演技なんか」
「やってみないと分からないよ。小百合、背が高いんだし、舞台映えしそうだけど」
「いいの。あたしは文芸部に入るから」
 もうすぐ電車が着いてしまう。あたしたちが住む街は学校から近い。最悪、徒歩で帰れないこともない距離。歩いてみたことはないけれど。
 友達できた? と訊いてみた。小百合は入学前からその点を案じていた。
 うん、できた、と小百合はゆっくり頷いた。なんだ、もうできているじゃない。安心した。
「どんな子?」
「ミナちゃんって言ってね、関西出身なんだけど……」
 小百合が言葉を噤む。あたしが遮るように笑い出したからだ。
 どうしたの? なにかおかしいところあった? あたしはようやく笑い止めて、ちょっとね、と理由を話すことにした。
「あたしもミナちゃんって友達ができたの。関西出身じゃないけど」
 小百合は目を大きく見開く。それと同時に電車がホームに滑り込んだ。座席から立ち上がりながら、あたしたちは目を合わせて笑い合った。妙な偶然もあったものだ。
 その後の帰り道、向こうのミナちゃんは三浦七瀬さんという名前で、演劇部に入部希望なのだと聞いた。あたしは塚原三七ちゃんのことをかいつまんで説明した。
 それ以外にも話したいことはたくさんあった。春の風は少女たちのスカートを揺らした。笑い声が空に溶け込むようだった。
 人気のなくなったところまで来て、どちらからともなく手を握った。別段、誰に見られてもかまわない。そのまま、別れなきゃいけなくなるまで寄り添って歩いた。
 点ってすぐだろう街灯の下で、手を振り合ってさよならを言った。また明日、とは告げずに。

          ●

 爪が伸びてきたことに気づいた。黒板の板書をノートに写している際に。わたしは爪を伸ばせない。すぐに気になってしまうからだ。
 ふと開かれたページを眺める。書いている最中はそう思わないけど、手を止めたときに真っ白だったページが少しずつ端から文字で埋められていくのは不思議だ。爪がいつの間にか伸びていくよりもずっと不思議だ。
 しかし、こちらのノートはちっとも埋まってくれない。机の中に仕舞われたノートに思いを馳せる。創作用のノートだ。高校生になってから新しく買った。
 これまでも話を書いたことはある。だいたいは好きな作品のオマージュで、たんなる自己満足に過ぎなかった。ところが、今回は違う。読んでくれる人がたくさんいる。それを意識し出すと、浮かんできた言葉が次々と泡のように弾けてしまうのだ。困った。
 行きそこなった文芸部に翌日一人で顔を出してみて、入部したい旨を伝えられた。部は人数も少なく、今のところ一年生はわたしだけだった。だからなのかやけに歓待を受け、むしろ戸惑ったくらいだ。
 さっそく短い作品を書いてきてほしい、と言われた。合評すると聞いて、とてもじゃないが自己満足の産物は持っていけないと考えた。そうなると、新しく紡がなければならない。書きたいものは漠然とあっても、曖昧なままでは形にならない。
 文芸部に成瀬さんの姿はない。ミナちゃんにそれとなく尋ねると演劇部の方には毎日来ているらしい。そっちの部長だから当たり前なのだが、「幽霊部員」と自称していたのならたまには化けて出てほしい。
 なんて。どうしてそう思うのだろう。会ってなにか話したいことがあるわけでもないのに。爪のことよりもページのことよりもこの感情がなにより不思議。
 今でも記憶の片隅に表情や声が過ぎる。一度会っただけの人をこんなに鮮烈に記憶しているのは、わたしにとって珍しいものだ。
 なんでもいい。今度、ピアノを聞かせてください、とか、爪を伸ばすコツはありますか(成瀬さんは綺麗にしているのかな)、とか、創作のアイデアなにかありませんか、とか、何食わぬ顔で訊いてみればいいのだ。そんなの、わたしにできるわけがないとしても。

 そこだけ女の子らしい可憐さを表しているように、爪は綺麗に磨かれていた。目に留めて、やはり、と胸のうちで呟く。
 またある日の放課後、早めに文芸部の活動場所へ赴くと、初めて会った日と同じように窓辺で成瀬さんが佇んでいた。澄んだ表情の横顔が、わたしの侵入に気づいてこちらを向き、笑顔になる。「おつかれさま」
「おつかれさまです。今日は文芸部に出られるんですか?」
「いや、今日も演劇部に顔を出さないといけない。活動前に文芸部に寄っていこうかなと思って来たんだけど、気まぐれを起こすときに限ってみんなの揃いが悪いから、困っちゃうね」
 おどけた風に肩を竦める。揃いが悪いのは成瀬さんの気まぐれのせいじゃなく、文芸部員がアバウトな性格の人ばかりだからだ。まあ、これくらいゆるい方が居心地いいけど。
「だいぶここに馴染んじゃったみたいだね。演劇部に入ってくれないかな、って期待してたんだけど」
 一歩、また一歩とこちらへ歩み寄ってくる。
「入りませんよ。わたしに演技は向いてません」
「そうかな」一気に距離を詰めてきて、成瀬さんはわたしの顎に片手を当てる。間近で顔を覗き込まれ、どうしようもなく緊張した。吸い込まれそうな瞬間。「声は綺麗だし、なによりスタイルがいいから、舞台で誰よりも魅力的に映ると思うけどな」
 このままでは魔法にかけられてしまう。わたしはパッと成瀬さんから離れた。
「そんなことないです。わたし、ただでさえ人見知りなので、人前で演技するなんて……」
 自分で言っていて情けない。
「人見知りの役者ってけっこういるよ。台詞を与えられると生き生きとする、というか。――それに、仲よしのミナちゃんもいるのに。こっちで友達できてるよ……と、ごめん」
 頬を膨らませているわたしを見て取り、成瀬さんは言い止める。
「成瀬さんはいじわるです」
「葵さん、ってよかったら呼んでよ。わたしも小百合って呼んでいるんだから」
 それくらいはかまわないが。
「葵さん。わたし、小説が書きたいんです。だから文芸部以外は考えていません」
「それ、小百合が書いたの?」
 葵さんはわたしが手にしたノートを指差す。ずっと書きあぐねていた物語が、なんとか昨日の夜、形になったのだ。それを今日見てもらおうと持ってきた。よりによって、葵さんがいるとは知らずに。
「はい、そうです」
 頷き返すと、わたしに手を差し出してくる。
「じゃあ、代わりに読ませてくれない? 今度、感想もちゃんと伝えるから」
 ほんとうは文芸部の先輩方に見てもらおうとして持参してきたのに。だけど、なんとなくだけど、これを逃したら二度と葵さんにわたしの文章に目を通してもらえないのかもしれない気がした。それが途方もなく嫌なものだったわけじゃないけど、わたしはぼんやりとした心地のまま、ノートを渡していた。葵さんは手に取って、ありがとう、とありがたそうに掲げる。
「読んだら返すから」
 そう言って、教室を出ていこうとする。やはり、行ってしまうのか。
「そうだ」こちらの思いに感づいたためでもないだろうが、ふと足を止める。「小百合ちゃん」
「なんですか」
「一度も演技に興味はない、って言わないね。多少は興味あるのかな」
 なんとも答えようがなかった。
 葵さんも答えを期待していたわけではなかったらしく、微笑みを残して立ち去る。その後ろ姿の名残をしばらく眺めていた。
 先輩たちが来たら、作品はまだできあがっていない、と告げよう。

 雨の日が増えてきた。女の子たちの髪に取って湿気は備えなければならない敵だけど、わたしと、向かいに座るミナちゃんは無縁で済んでいる。二人揃って腰に達しそうなほどまっすぐ伸ばしている。もちろん、それなりに気を遣っている。
「やっぱり、『嵐が丘』がよかったなあ」
 口を尖らせているミナちゃん。その口に、箸でつまんだブロッコリーが一つ放り込まれる。咀嚼して、葵さんのヒースクリフ見たかったなあ、と再び口を尖らせた。それは頷けるところだ。
 お昼休みはみんな好きな場所で昼食を摂ることができる。晴れた日には校庭の木製のベンチが人気だし、雨の日は教室の人口密度が高くなる。わたしたち二人も気分によって場所を異ならせているけれど、基本的には教室の同じ机に互いのお弁当を並べる。クラスメイトなのだから。
 部活の時間はつくづく会えないけど、それ以外の時間はほとんど一緒。
「もう、やっていたなんてね。でも確かに、葵さんが演劇部に入ったら、誰もがヒースクリフを演じさせてみたい、って思うよね」
「そうやけど、なにも一年生のときに実現することないやん。最終学年のとっておきにしておけばよかったんに」
「そうだね。ほかの作品だったら誰が似合いそうかな……。というか、既存の作品を基にするんだね」
「え?」
「いや、オリジナル脚本で披露することはまったくないんだ」
 ミナちゃんは顎に手を当てて、記憶を探るような表情を浮かべる。「うーん、そういえば、そういう話にはなってない。ずっと前にはあったらしいけど、有名な作品でやる方が外部からの集客が見込めるから、かなあ」
 ふと、二人の手元に影が差した。喋っているうちにいつの間にか誰かが傍まで来ていたのだ。互いに気づいて、顔を上げる。――そこにいたのはヒースクリフだった。
「やあ、お食事中失礼するよ」
 片手を上げて、爽やかな笑顔を見せる。予想外の登場に、即座になんの言葉も出てこなかった。
「どうしたんですか、葵さん」
 黙ったままのわたしより先に、ミナちゃんが尋ねる。葵さんは一つ頷いてから、「今日は文芸部の小百合ちゃんに用があってね」そう言って、わたしをまっすぐに捉えた。束の間、見つめ合う。
 葵さんのもう片方の手には、貸しっ放しだったわたしのノートが握られていた。「作品、読ませてもらったよ。……とてもよかった」
 そんなわけないと思った。書いた人間だから分かる、至るところ修正の余地があった。自分の手元から離れて気づいたこともあった。
「それで、できれば今年の舞台は、この作品を脚本にさせていただきたいと思い、演劇部部長としてお願いにきました」
 そうして、葵さんは軽く頭を下げる仕草をする。稚いお嬢を迎えに上がった執事みたいだった。
 しばらくは馬鹿みたいに口を開けて、どんな返答もすることができなかった。なにを言われたのかじわじわと理解し、そして慌てて首を横に振った。
「そんな、無理です。わたしの書いたのなんて……」
「確かに、長さや、ト書きがない点など、脚本としての問題はある。だけど、ストーリーの展開や設定、魅力的な登場人物はこのままでいきたい」
 信じられなかった。なんでこんなことになってしまったのか。長い夢を見ているのではないかしら。どこからが夢だった? ミナちゃんとお弁当を並べたところから? それとも、葵さんにノートを渡したあたりから? だとしたら、ずいぶんと壮大な夢物語であること。
「小百合、大丈夫? すぐに承諾してもらえないなら、考える時間を設けようか」
 だけど、と葵さんは去り際に口にした。
「だけど、できれば首を縦に振ってほしい。わたしは最後の舞台、この作品でやりたいと強く望んだのだから。とはいえ、作者の意向は尊重しなければいけないけれど」
 嵐が通り過ぎた後みたいだった。頭の中はほんとうに真っ白、どんな言葉でも埋められそうにない。
 わたしはミナちゃんをそっと見やる。ミナちゃんもこちらを見ていた。
「どないするん?」
 断れるものなら断りたかった。だけど、あんなお願いされたら、むげにできないじゃない。
「どないしよう……」
 覚えず、関西弁になってしまった。

          ◯

 梅雨ってどうして梅の雨って書くのだろう。この字面だとかわいく緑色に色づいた梅がたくさん降ってくるような気がする。それではファンタジーだ。しかし、つゆ、と音だけで聞くと、嫌でも今みたいなジメジメとした空模様とイメージが直結してしまう。
 もうこんな季節なのか。桜の花びらに降られていたのが昨日のことみたいに思い出せるのに。
「どうしたの?」
 鈴が鳴るような声で囁かれ、思考を中断させた。その声だけですぐに誰か分かった。芽瑠だ。
「ううん、季節の移ろいは早い、と思っちゃって」
「アンニュイだね。でも、花音のそんな表情も悪くないかも」
 いつもツインテールの芽瑠が愛らしく微笑む。こんな顔されたら異性はたまらないだろう、きっと。よく分からないけど。
 岡本芽瑠は同じクラスの同級生で、入学してから一週間で仲よくなった。話しかけてきたのは向こうだった。
 ――その髪型、かわいいね。どこかの美容院で切ってるの?
 そう言ってきた彼女の方がずっとかわいらしい容姿で、圧倒された。なんというか、絶対的に「かわいい」人。見た目も性格も含めて、「美人」には転ばない感じ。特に好印象は抱かなかったけれど、接し方はナチュラルだった。
 ――ううん、自分で切ってる。
 ――そうなんだ。器用なんだね。
 その後、当たり障りのない話を二、三したはずだが、記憶に残っていない。
 また話す機会があったのは翌日だった。部活へ向かおうとミナちゃんと並んで歩き出すと、呼び止められた。
 ――ね、何部に入ってるの?
 ミナちゃんの存在を無視するかの如く、あたしだけを捉えているのは気にかかったけど、たぶん二人は互いを知らないのだろう。
 演劇部、と答えると、芽瑠は顔を輝かせた。
 ――へえ、楽しそう。あたし、入りたい部活がこれといってなくて、見学してみたいんだけど……一緒に付いていっちゃ、迷惑?
 首を傾げられては断れなかった、というわけではないが、とにかく案内することにした。その頃にはあたしとミナちゃんは部の先輩方にも名前を憶えてもらえ、活動では基礎練習に励んでいた。
 かわいい女の子に目がないミナちゃんは芽瑠をいたく気に入り、次第に二人の関係は近しくなった。自然とあたしと彼女も親密になり、もっと仲良くなれるかなと、そう思えた。
 演技にそんなに興味のなかったらしい芽瑠だったが、意外と聡いところがあるようで、練習にもすぐに慣れた。あっという間に部に溶け込んで、愛らしい笑顔を振りまいている。
 芽瑠はかわいい人だ。あたしにとってそれ以上でもそれ以下でもないかもしれない。変な意味じゃないけれど、そう思いたくなる。小百合は、どうだろう。小百合は芽瑠みたいな子、苦手な可能性がある。
「なんの話してるの?」
 のんびりとした口調で、ふらりとミナちゃんが現れる。彼女を見ると心が和む。そうか、もしかしたら、この学校に来るような女生徒は、芽瑠のような人が普通なのかもしれない。
「花音が季節の移ろいを憂えてた」
 芽瑠の答えに、「え、詩人だね。一句詠んじゃう?」とおどける。あたしたちは笑った。
 それにしても、ミナちゃんと小百合の友達の方のミナちゃんを会わせてみたい。あたしも会ったことはないのだけど、小百合が言うにはけっこうかわいいらしい。こちらのミナちゃんのお眼鏡にかなう女の子だといいのに。
「そうだ、そろそろ秋の舞台でやる演目、決めるみたいね」
 ミナちゃんの言うとおりだった。この学校は秋に旭山と劇を披露し合う。夏はその稽古をみっちり行うため、すでに話し合いが始まっていた。毎年既存の作品を基にするのがほとんどだそうだけど、過去にはオリジナル脚本で行われた、とも。
 主演はきっと部長のいのりさんになるだろう。彼女の柔らかなイメージと重なる作品はどれがいいかな。
 旭山はどんな舞台になるのかしら。もちろん、そこに小百合は絡んでこないのだが。
「花音ちゃんは好きな話とかある?」
 規則的に打ちつける雨の音、教室内の喧騒、その間を縫ってこちらへ届くミナちゃんの声。即答しそうになるのを、眼鏡を上げる動作で一呼吸置いた。二人にばれないくらいのさりげなさで深呼吸した。
「『桜の園』」

 演劇部は人数の多い部なのだが、途中加入の人やほかと掛け持ちしている人も一定数いるため、学年が上がるにつれて中心となるメンバーは限られてくる。
 今現在秋の舞台に向けて行われている話し合いに参加しているのはたったの四人。最初は部員全員であれでもないこれでないと案を出し合っていたけど、収拾がつかなくなり、こうなったら中心メンバーに決めてもらおうではないかと流れた。おかげで一年生のあたしたちも蚊帳の外に追いやられた。それでも、どの作品が選ばれるか心待ちにするのは一種の高揚感を伴う。与えられるものを待つ。
 話している四人は部長の小坂井いのりさん、それから去年二年生ながら主演を務めた青山かさねさん、そして次の部長候補と目されている二年生の堀愛さん、刈谷紅美子さん。かさねさん以外、演技から離れたところでは控えめな性格なので、もしかしたら積極的にやりたいものはないのかもしれない。ただ一人、かさねさんは違う気がする。
 かさねさんは前述のとおり、去年主演を務めた。ただ、演じられたのは谷崎潤一郎の『細雪』だったそうで、四姉妹の四人が主演という形だった。姉三人を卒業した先輩方が演じ、末妹の妙子をかさねさんが演じた。あたしはその話を聞いてすぐ、実際に見たかったと思った。恋愛事件を起こして姉たちを困らせる妙子が似合ってしまう人なのだ、彼女は。
 とはいえ、それは去年の話。今年どうなるかは読めない。
 日が暮れてきて、下校時刻が迫ってきた頃合いになって、活動場所の空き教室に先輩たちが戻ってきた。疲れを滲ませながらも、瞳に安堵の光が宿っているのが見て取れることから、どうやら答えを出してきたらしいと踏んだ。
 部員らの視線が集中する中、いのりさんが一歩前に出、いつものふんわりとした笑みを浮かべて、その答えを明かした。
「どの作品で行くかの決定権はあたしたちに委ねられたので、だいぶ好き勝手に決めさせてもらいました。あたしたちの配役まで含めて検討したので、細かい部分はこれから詰めていきますが、いずれにしても、この提案に従っていただけると幸いです」
 あたしたちの配役まで、と言った。四人にふさわしいものを模索したらしい。それでこんなに時間がかかったのか。
 いったいなんだろう、もう『細雪』はないと思うが。
「それでは、発表します」下手に間を作らなかった。続けて、「『赤毛のアン』です」と繋いだ。
 教室は相変わらずしんと静まり返っていた。誰も反応できずにいる。それはただただ驚いていたためだった。憶測の外にある作品だった。
 いのりさんはその空気感に満足したみたいに笑みを深くし、さらに付け足した。
「アン・シャーリーはあたし、だから主演ということになるわね。ダイアナ・バーリーはかさね。マリラ・クスバートは愛。ギルバート・ブライスは紅美子。そのつもりです」
 よろしくお願いします、といのりさんが軽く頭を下げた。
 そこでようやくあたりから拍手の音が鳴り響いた。驚きや戸惑いから賛意へと。
 誰よりも先に両手を打ち合わせたのは……ミナちゃんだった。

          ●

 誰もいない舞台を見上げた。耳が痛いほどの静寂、鳥の囀りだけが遠くから聞こえる。
 舞台にスポットライトは当たらない。その薄明かりの中、イメージしてみる。わたしの考えた登場人物が、葵さんやミナちゃんによって演じられ、実体の伴った存在となることを。どんな風になるのか曖昧にしか思い描けないのに、瞳を閉じると身震いした。それはきっと作者冥利に尽きる、というものだ。そうとしか言い表せない。
 後方で、講堂の重い扉が遠慮がちに開けられる気配がした。少し驚いたけれど、前方に意識を集中させている振りをした。誰だろうとかまわない。お昼休みに講堂へ来る人は稀だ。
「小百合ちゃん、こんなところにおった」
 ミナちゃんだった。なぜか、葵さんが現れるのではないかと思っていた。
「ミナちゃん……」
「舞台、広いよね」
 頷いた。端から端まであんなにある。プロンプターを忍ばせることだって可能かもしれない。
「わたしのなんかで、ほんとによかったのかな」
 結局、言われた時点でこの未来は見えたが、わたしは葵さんの申し出を受けた。わたしの作品を秋の舞台で披露する。嬉しくなくはないけど、その感情だけを抱けるほど単純ではない。
 これから決めなければならないことがたくさんあるが、すでに運命の袖はわたしの掌から離れて、勝手に転がり始めている。もう、その行く末を見守る境地だ。
「葵さんが太鼓判を押してくれたんやから、大丈夫。自信持って」
 それより、とミナちゃんは首を傾ける。「それより、もう一つのお願いはどうするん?」
 わたしはその場で頭を抱えたかった。一応、言われた瞬間に断ったつもりなのだが、葵さんは諦めてくれないかもしれない。
 わたしも舞台に立たないかと誘われた。冗談でしょう、と笑い飛ばしたかった。そんなの無茶だって。

 学校帰り、川を挟んだ反対側に、知らない女生徒二人と並んで歩く花音の姿を見つけた。二人ともかわいらしくて、ほんの少し胸が苦しくなった。羨ましい、彼女たちは花音と同じ時間を共有できているのだ。あそこで腕を取っていたのはわたしだったかもしれないのに。
 わたしが視線を注いでいると、ツインテールの女の子がわたしに気がついて、傍らの花音の肩を叩いた。それで、花音もわたしを見つけた。手を振ってくる。観念して振り返した。
「友達? 翡翠ヶ丘の生徒やん」
 隣のミナちゃんが訊いてくる。
「うん、真ん中が、中学時代の友達」
「そうなん。高校、別々になってもうたんやね」
「そうなの」
「でも、翡翠ヶ丘と旭山なら、いつでも会えるな」
 会おうと望めばいつだってわたしたちは会える。声を聞ける、触れられる。だけど、会おうとしなければならない。同じ学校なら望まなくたって自然と居合わせられるだろうに。
 もしもの話を考えすぎたってしょうがない。分かってはいても、やめられない。
 温泉街の入口まで来ると、川は途切れる。ほんとうは海まで注いでいるから続いている。どこかへ逸れていくだけだ。
「小百合。ちょっと、久しぶりだね」
 髪が短くなった花音にもすっかり見慣れた。また、伸びてきたのではないかな。
「ちょっとだけね。部活の帰り?」
「うん、演劇部の。……同じ部の同級生、塚原三七ちゃんと岡本芽瑠ちゃん」
 花音が左右の連れを紹介してくれた。さっきから好奇心ありありの目でこちらを捉えているのが、話に聞いていた塚原のミナちゃん。もう一人の、ツインテールのお人形みたいなかわいい子が、岡本芽瑠ちゃん。わたし以外みんな、演劇部なのだ。
「はじめまして。……じゃあ、やっと会わせられた」
「ということは、やっぱり」
 ささやかな秘密を持っているわたしたちは、共犯者めいた笑みを交わす。
 わたしも紹介する。
「クラスメイトの三浦七瀬、みんなからはミナちゃんって呼ばれています。彼女も演劇部です」言いながら、自分の名前を告げていなかったのに思い当たる。「で、わたしは中田小百合、花音の友達です。ちなみに、わたしは文芸部です」
 同じく名乗り忘れていた花音の、「わたしは深川花音です」という声を遮って、塚原のミナちゃんが突然三浦のミナちゃんに接近する。三浦のミナちゃんはびっくりしつつも笑顔でそれを迎え入れた。
「え、ミナちゃん? かわいいー。同じミナちゃんとは思えない、ってわたしもミナちゃんなのになに言ってんだろ。わたし、今日からミナちゃんやめるよ。ほかの呼ばれ方されたことないけど。あー、それにしてもかわいいね、ミナちゃん」
 花音から、塚原のミナちゃんはかわいい女の子に目がない、という話を耳にしていたが、それがほんとうだったことがよく分かった。それにしても、自分の思いに正直な彼女もまたかわいらしい。
 花音と目が合う。互いに言わんとするところが理解できて、くすりと笑い合った。
「ええやん、あなたもミナちゃんで。同じミナちゃんで仲よくしてください」
「関西弁……」
 塚原のミナちゃんはもうメロメロだった。
 期待以上の出会いになって心が満たされた。
「三人とも演劇部なんやね。翡翠ヶ丘さんは、今年はどの作品でいくか決まったの?」
「『赤毛のアン』です!」
 塚原のミナちゃんが片手を上げて即答する。『赤毛のアン』にかなりの思い入れがあるようだ。
 そんな彼女の様子に、花音と芽瑠ちゃんが心配そうな目を向ける。
「あれ、それってもう言っちゃっても大丈夫なの?」
「どうなんだろ。いずれ分かることだから、まあ、秘密にする必要もないのかな」
 そうか、モンゴメリの『赤毛のアン』をやるのか。児童文学作品だから意外な感はあるけれど、少女たちの物語は、女子校の演劇部が演技するのにはふさわしいかもしれない。花音はどの役で出るのだろう。
「旭山の方は? もう決まったの?」
 花音に尋ねられ、わたしは知らない振りをして三浦のミナちゃんを見やる。「うん、一応。オリジナル脚本になるみたい」
 三人はオリジナル脚本という事実にいたく驚いた。それくらい、ここ最近なかったことなのだ。
 花音は、どう感じるかしら。その脚本を書いたのはわたしだって知ったら。
 そして、もし、わたしがその舞台に立つかもしれない、と知ったら。喜ぶのかな。
 表情の変化を悟られないように、空を見上げて心を落ち着かせようと試みた。絵の具で塗りたくったみたいな、気持ちのいい青に見守られていた。

          ◯

 暑中お見舞い申し上げます。夏のこと、好きですか、嫌いですか。
 高校生活最初の一学期が瞬く間に終わり、夏休みを迎えた。それでも、演劇部の部員たちはお盆休み以外学校に通うことになる。夏休み明けすぐに秋の舞台が待っているからだ。旭山も力を入れている。こちらも下手な出来栄えで臨めない。
 とはいえ、よく言えば趣のある翡翠ヶ丘も、オブラートに包まない言い方をしてしまえば古い。休業期間中は空調を完全に止められるため、蒸し暑くて仕方なかった。脱水症状に陥らないよう、いのりさんがこまめな水分補給を呼びかけた。
 校舎から木々の隙間に見える湖は、砂漠の中のオアシスだった。見ているだけで涼しさを感じる。それに、実際に近くまで行ってみると、その周辺だけ気温がまるで違うみたいなのだ。ほんとうにそうなのか、精神的な作用が大きいのか分からないけれど。
 いのりさんから電撃発表が行われた後、それ以外の役はオーディションで決められる運びとなった。
 そもそも、『赤毛のアン』とはどのような作品なのか。作者はルーシー・モード・モンゴメリ、カナダ出身だ。一九〇八年に発表され、この作品は大きな反響を呼び、シリーズ化された。プリンス・エドワード島を舞台に、孤児院から引き取られた少女、アン・シャーリーを主人公に据え、彼女の出会いと成長を描いている。友情や青春、少女時代の刹那性が切り取られている。
 中心メンバーによってアンとダイアナ、それにマリラとギルバート・ブライスが埋まっているため、そのほかの登場人物から選ばないといけない。
 アンはさっきも言ったように物語の主人公。赤毛とそばかすがチャームポイント。孤児院から引き取られ、空想することが大好きな彼女は、仕事を任されても手に着かない。そして、口ばっかり達者。トラブルメーカーだが、次第に魅力的な女性への階段を上がっていく。演じるのは部長のいのりさん。成長した姿はいつでも物腰柔らかないのりさんと重なるけど、それまでのお転婆な様子をどう表現するのかが気になるかな。
 ダイアナはアンの親友。綺麗で利口な少女だが、アンとの出会いで彼女自身の世界も広がっていく。演じるのは青山かさねさん。いのりさんとともに演劇部に三年間在籍し、支えてきた存在だ。容姿が優れているのは誰もが認めるところだが、ダイアナと比べてあざといというか、純粋さが足りないかもしれない……なんて、大きな声では言えない。
 マリラはアンを引き取り、育てた女性。子どもを育てた経験がなかったために当初はアンとの接し方に苦悩するけれど、アンに大切なことを諭していく。演じるのは堀愛さん。二年生。容姿も性格も大人びていて、マリラ役は適役と思える。仮衣装で割烹着を身に着けているのだが、それがあまりにも似合っていて、本番もそれでいこうかという話になっている。
 ギルバート・ブライスはアンたちの学校の男の子。ハンサムで学校の人気者だが、赤毛のアンに対して「にんじん」とからかってしまったがために、彼女とは長らく上手くいかない。だが、成績優秀な二人は常に意識し合い、やがては深く結ばれる。演じるのは愛さんと同じく二年生の刈谷紅美子さん。雑務を率先して行い、演劇の裏方事情に精通している。そのイメージが強かったから、ハンサムな男の子の役というのは意外だった。なんでも、いのりさんが提案したらしい。
 これだけ楽しみな要素が初めからできあがっていた。それ以外の役を誰がどう埋めていくのか、次の焦点はそこに移った。
 残りの役は立候補制で、候補者の中からオーディションを経て選ばれた。審査をするのはすでに役の決まっていた四人。顧問の相川先生は関わらなかった。というより、もともと相川先生は普段の活動にもたまにしか顔を出さないし、ほとんどお飾りなのだ。
 相川先生は若い男の先生で、数学科を担当している。見た目は地味だし、おもしろい話をしてくれるわけではないが、授業は比較的分かりやすく、生徒の評価もまあまあ高い。どうして演劇部の顧問を引き受けているのかはよく知らない。
 自主性を重んじている、と言えば聞こえがいいかもしれない。なんにせよ、翡翠ヶ丘の演劇部員は放っておかれてもまじめに活動するのだ。
 そんな先生はとりあえずさておき、熾烈なオーディションが行われ、あたしたちも傍観者を気取ってはいられなかった。
 結果、あたし、ミナちゃん、芽瑠は三人とも第一希望の役を掴み取り、秋の舞台にいきなり上がれることとなった。その喜びといったら、どんな言葉でも言い表せないだろう。憧れていた演劇部に入り、その晴れの舞台に立てるのだから。
 あたしはルビー・ギリス、ミナちゃんはエム・ホワイト、芽瑠はジョシー・パイ役を射止めた。ただ、実はあたしとミナちゃんはほかに立候補者がいなかったため、運がよかったとも言える。三人ともアンのクラスメイトで、特にジョシー・パイはギルバート・ブライスにひとかたならぬ想いを寄せていて、そのためにアンに対してやきもちを焼く、というおいしい役なのだ。……あたしもジョシー・パイをやりたかった気持ちはあったけれど、自信がなかった。掴み取った芽瑠は、やっぱり思っている以上に潜在的な実力があるのでは、と考えを改めた。

「お芝居、楽しい?」
 休憩時間、涼しさを求めてあたしたち何人かは湖へ向かった。ふらふらとそこへ引き寄せられていき、冷たい水を手で掬って、全身を湿らした。ただひたすらに気持ちよくて、疲れがどこかへ吹っ飛ぶ。
 その心地よさに浴している最中、あたしは尋ねられた。お芝居、楽しい? というシンプルな問いを。尋ねてきたのは二年の堀愛さんだった。
「お芝居……」簡単に答えられるものではなかった。楽しくないわけがない。だけどどうプラスの感情を言葉で表現したらいいか知れない。それでも、「楽しいです」と短く答えた。
 愛さんは大人びた容姿で、言動もいつでも落ち着いている。派手さはないが安定感があって、舞台上にそういう存在がいることがどれだけ大きいか、最近になってよく分かった。
 秋の舞台が終わったらいのりさんとかさねさんたちは部を辞める。部長はこの愛さんか、刈谷紅美子さんだろうと目されていた。どちらにしても居心地のいい部であり続けるだろうと信じられた。
「そっか」
 愛さんはあたしの答えに頷いて、わずかに口角を上げただけだった。満足しているようにも物足りないと感じている風にも受け取れた。どちらか分からなかったけど、愛さんはあたしにどうして楽しいのか追及してこなかった。もしされたら、安っぽい返答をしてしまい、自己嫌悪に陥っていたはずだ。
 お芝居の楽しさは果てがない。なぜなら明確な答えが存在するわけじゃないから。体操やフィギュアスケートみたいに点数化されることのない出来栄えを、居合わせた人たちは肌で感じる。化学反応。
 偉そうなことはまだ言えない。だけど、楽しい。これだけは言わせて。
「愛さんは、マリラ役を引き受けたいと思っていたんですか?」
 夏の日差しはじりじりと照りつける。陽炎が遠くに。
「うーん、まあ重要な役だから惹かれたけど、最初からやりたかったわけじゃないかな」苦笑する。「あたしの役も、紅美子とかさねさんの役も、いのりさんがこれがいいって提案したのよ。いのりさんからそんな風に言われたのは初めてだし、最後の願いだから、なんて寂しいこと言われたら、引き受けるしかなかった。それに、実際に役に寄り添ってみると、すごく魅力的な人だったからね、マリラさんは」
 愛おしげに微笑むのだった。
 だけど、と愛さんは吐息に言葉を紛らせる。目を伏せた横顔を見て、ちょっとだけ色っぽいと思った。
「だけど、自分からやりたいって言えたなら、あたしは……プリシー・アンドリュースがよかったかも」
 それに対して詳しく訊こうとするより早く、愛さんは立ち上がって離れていってしまった。その後ろ姿に言い知れぬ深いものを感じた。
 もうすぐ休憩時間が終わる。太陽はまだまだ高い。

          ●

 自分の殻に閉じこもって、誰とも親しくなれない少女がいた。彼女は吐き気がするくらい変化のない日常に絶望し、斜に構える振りをして、ほんとうは寂しさに身を震わせていた。
 そんな彼女が唯一自分自身を表現できる場が海だった。通っている高校からほど近い海辺まで行き、ほかの女生徒たちが部活に励んでいる間に、一人で海に向かって歌っていた。ときにはどこかで耳にした歌を。ときには自らの思いの丈をメロディーに乗せた歌を。打ち寄せる波に歌声が溶け込んでいくのが心地よかった。
 ところがある日、いつものように歌っていると、背後から誰かが現れ、少女の歌に合わせてその誰かも歌った。最初は戸惑いながらも、そのハーモニーがあまりに素敵で、歌い止める気にならなかった。
 突然現れた人は、少女と同じ制服を着た、しかし名前を知らない女の子だった。二人は次第に惹かれ合い、互いに心を開いていくが、海で出会ったその人には秘密があった――。
 ――というのが、わたしがノートに綴った物語の大まかな内容。こんなどこかに転がっていそうな、ありふれた作品を、葵さんは褒めてくれたのだ。だけど、照れ臭いことに、葵さんはわたしにしか描けない物語だと言った。どうしてそう思ったのだろう。尋ねても分かりやすい答えは期待できないかもしれない。あの人の胸の内を覗けたら。
 舞台化する上で、当然ながら問題がいくつかある。だって、されることを想定していなかったから……。さておき、まずは登場人物が少ないこと。ただ、葵さんはこの点は今のまま行きたいそう。無理に改変すると物語そのものに支障をきたす。
 次に殻に閉じこもるような少女が主人公なので、場面転換が少なく、さらに場所も限られている。学校の隅か、海か。観劇する際の盛り上がりどころを設けるために、小説では具体的な歌詞や曲名を記していなかった点を明らかにし、舞台上で歌うことにした。ここでは役のない人たちも参加するので、登場人物の少なさもある程度はカバーできる。
 では、曲をどうするのか。現実に存在する曲を歌っているから、それを歌えばいい。
 ただ、わたしは頭の中でぼんやりといくつかの歌を思い浮かべていたが、どれとは決めていなかった。なので、改めて選別しないといけない。
 それから主人公が海で出会った少女と作ったオリジナルの曲もある。これは一から考えないといけない。なぜなら、わたしは歌詞も曲調もイメージしていなかったからだ。
 曲をどうするか、については、演劇部の部員が協力するという。みんなで取り組んで、なんとか形になるようにがんばろう、と。
 秋の舞台に向けて動き出していた。その渦に期せずしてわたしは巻き込まれてしまった。幸せに浸っている暇はない。ただ、得難い機会なので、悔いを残したくない。
 ――主人公だけど、小百合ちゃんが演じてみない?
 相変わらず、葵さんはそんなことを簡単に言う。わたしは断固として拒んだ。ただでさえ登場人物の少ないストーリーなのに、どこの馬の骨とも知れない者が主役を張るわけにはいくまい。
 それに、これは誰にも言うつもりはないけれど、主人公の容姿のモデルは中学生の頃の花音だ。性格はどちらかというとわたし寄りだけど。演劇部の誰に演じてもらっても嬉しいが、できれば花音に近い人だといい。……だから、やはりわたしにはできない。
 それなら、歌うだけならどうだろう、と続ける。役名がなければいいじゃないかと、妥協を見せる。
 それも断った。理由は、ピアノを優雅に弾きこなす葵さんと違って、わたしは音痴だからだ。
 そんな葵さんは主人公が海で出会う、物語のキーパーソンとなる少女を演じる。

 三年生の宮川貴子さんが、台本を片手に、舞台上の人に向かって指示を出す。その指示は的確で、いつだって冷静で、彼女の瞳は些細なことにも気づけるように光っている。
 演劇部の部長は葵さんだが、それは名目上というか、部の顔として宛がわれている向きがある、といっても言い過ぎではない。実質的に部を動かしているブレーンは、宮川さんだ。文芸部の幽霊部員でもある葵さんはふらふらとどこかへ消えてしまいがちで、その一方、どっしりと一つの場所に根を張っている宮川さんは好対照。
 葵さんはよく、彼女を評して「堅物」と言うけれど。
 そんなことを考えながら、舞台に目をやる。翡翠ヶ丘は体育館の奥に舞台があるらしいが、旭山は体育館と別に講堂があり、そちらに舞台がある。照明、音響の機器はすべて新しい。
 高校は夏休みに入った。本来なら読みたい本を黙々と読み耽っていたかったけど、演劇部の稽古に引っ張り出されている。わたしが原作者だからだし、それとまだオリジナルの曲をまとめ上げられていないからだ。葵さんから提案があった。舞台を実際に目にしたら、なにかアイデアが閃くかもしれない、と。上手く丸め込まれた気がしないでもない。
 文芸部の活動はないから、出向くのはまったく問題ない。それに、こうして見ているのは楽しい。熱気を肌で感じ、演技が生き物であることを実感できる。
 主人公を演じるのは二年生の柳井瑞希さん。おだんご頭がトレードマークの、目を引く美少女だ。静かな佇まいから、よく通る声が発される。葵さんと彼女のやり取りがこの話の中心になるため、見事なキャステイングだなと感心してしまう。二人の演技は美しい。
 そしてある日のこと。その日もとみに暑く、しかし時折山の方から吹く風で幾分か気持ちが和らいだ。稽古は順調に進み、歌う場面以外は万全の状態で本番を迎えられそうだった。こうなれば、ほんとうにわたしに成功が懸かっている。
 ピアノが得意な葵さんが作品世界に合った既存の曲を一つ選び、さらにオリジナルの方もメロディーを作ってくれた。とてもありがたかったし、どちらもよかった。それでも、作詞だけはあくまでも原作者に、と告げられた。やるしかない。でも、どうしたら。
 そんな風に思い詰めていると、宮川さんが突然、「ずっと講堂にいても息が詰まるし、外の空気を吸いに行こう」と全員に呼びかけた。みんな出払ってしまうので、わたしも一番後ろからついていった。
 日差しがじりじりと照りつける。ほんとに、「じりじり」という表現がよく似合う。校庭から、いつもわたしたちを見守っている緑の山が窺えた。
「じゃあ、山の頂上までダッシュ。一番遅かった人はみんなにジュースおごり!」
 いきなり、宮川さんがそんな宣言をした。誰かが抗議を試みるよりも早く、葵さんが「よーい、スタート!」と叫んで走り出した。
 部員たちも弾かれたようにそれに続いていく。校門を抜け、校舎の裏側へ回り、木々が鬱蒼とした山へ向かった。
 わたしはなにが起こったのか分からなくなっていた。それでもぎこちなく走り出すが、文芸部のわたしでは、普段から体力トレーニングもしている演劇部員の人たちに追いつけるわけがない。だが、足を止めなかったのは、宮川さんが言っていたから。ビリがみんなにジュースをおごるのだと。戦慄。破産してしまう。
 旭山の背後に山があるのは認識していた。翡翠ヶ丘の傍には湖があるみたいに。その存在を目でいつも確かめていたけれど、駆け上がってみるのは初めてだった。舗装されてはいないけど、人が踏み入れられるくらいの道がある。たくさんの誰かがそこを通り、踏みしめ、やがて道になったのだろう。
 標高が高くなってくるにつれ、遠くの方が見渡せるようになる。登下校の道標となる川が、温泉街が、そして駅が小さく見える。俯瞰するとこの街はとても綺麗な造りで、いいところに通えていると思える。
 部員らの背中はすっかり遠くなっている。わたしは叫びたかった。わたしは、演劇部じゃない! だけど、この夏休み、なんだかんだずっといる。人間関係も見えてきた。知り合いも増えた。ミナちゃんとも会えている。
 ふと、前方で腕を組んで待ちかまえている人がいるのに気づいた。わたしはその影をミナちゃんかと思った。待っていてくれるとしたら、彼女。だけど、近くまでたどり着いてそうじゃなかったと知る。待っていたのは意外にも二年生の柳井瑞希さんだった。その美しさも相まって、わたしには天女に映った。
「どう、して」
 わたしはもう息も絶え絶え。
「一人だけおごりだとかわいそうだな、って思ったから」
 それに、あなた演劇部ではないしね、と付け加える。まったくだ。
「だけど、すっかり馴染んだね」走るのは止め、二人は並んで歩き出す。「この夏休みですっかり顔馴染みになったし。もう掛け持ちしちゃったら?」
「それは、どうですかね」
 今回、書いたものがたまたま葵さんの目についてこんなことになっているけれど、次はきっとないだろう。そうなると、わたしが演劇部にいる理由は存在しない。
 瑞希さんと話す機会はこれまでに何度かあった。でも、二人きりでこうしてゆっくり話すのは初めてだ。近くに感じられて嬉しくなる。
「葵さんとあなたは、特別な関係なの?」
 なにを言われたのか分からなくて、耳を疑った。訊き返しちゃいけない気がして黙っていると、「沈黙は肯定の意?」と重ねて問われた。
 わたしは慌てて首を横に振る。「ち、違います。ぜんぜん、そんなんじゃ……」
「ふうん」
 瑞希さんはまだ探るような目つきをしている。この表情って、もしかして。
「そうなんだ。ごめんね、変なこと訊いて」
 山の頂上にはまだたどり着きそうにない。両足が棒みたいだった。駆け上がってきたこの距離をまた引き返すなんて、果たせるだろうか。
 変なことを訊いたお詫びに、教えてあげる。瑞希さんは悪戯っぽい笑みを添えて、打ち明話を始める。わたしはこの切り出しの時点で、察するものがあった。
「わたし……好きなんだ、葵さんのこと。好きっていうのは、ほんとうの、そういう好き」
 そういう好き。言い方が妙に耳に残った。そういう好きって、どういう好きだろう。嘘だ、分かっている。わたしにももしかしたら心当たりがあるかもしれないから。
 そういう好き、そういう好き、そういう好き。花音の顔が浮かんでしまって、そうしたら泣き出しそうになってしまった。誰かを好きになることは、どうしようもなく臆病になることだ。
 涙が瞳からこぼれるのを寸前で留められたのは、あることが思い浮かんだからだった。曖昧なまま風に流されそうになるアイデアを、手放さないために瑞希さんに伝えようとした。
「それを、歌詞にしてもいいですか」
 ぱちくりと目を瞬かせている。その双眸に、必死すぎる表情のわたしが映っていた。
「どれを」
「その、なんというか、瑞希さんの想いを」
 今回の劇、葵さんと瑞希さんが演じる二人の少女は、印象的な出会いをし、そして形容の難しい、だけれど強い関係性を築く。その二人が歌う彼女たちだけの歌を、瑞希さんの言葉で彩りたい。そう思った。
「うん、いいかも」
 突然の申し出で意味が分からなかったはずなのに、瑞希さんは頷いてくれた。
 やがて頂上が見えてくる。部員たちの中心で涼しい顔をしている葵さんがこちらに気づいて手を振った。晴れやかで、少年みたいだった。
 ジュースをおごらなければならないのかと震えていたら、それは貴子さんの冗談で、ニンジンをぶら下げられただけだった。
 頂上からの眺めも相まって、胸がすっと軽くなる心地。

          ◯

 部活からの帰り道、一歩前を歩んでいたミナちゃんがすっと息を止めたのが分かった。と同時に足も止める。訝ってその視線の先に目を凝らすと、道の向こう、茂みの中に誰かいる。
 男の人と女の人が体を密着させ合っていて、見間違いじゃなければ、唇を重ねている。二人とも制服姿で、女性の方は翡翠ヶ丘の制服で――というか、三年生のかさねさんだった。夏季休業期間中、学校に来ている生徒は演劇部の部員たちくらいだ。
 金縛りにあったみたいに動けなくなってしまったミナちゃん、あたし、芽瑠の三人は、次の瞬間、顔を上げたかさねさんと目が合う。その見たことのない表情に胸がドキドキし、あたしは小走りでそこを離れた。後ろから二人の足音も追ってくる。あたしたちはわらわらと逃げた。
 男の方はずっと背中を向けていたから最後までどんな人なのか分からなかった。だけど、あれがきっと噂に聞いていたかさねさんのカレシなのだろう。
 川沿いを走りに走って、温泉街の手前まで来ると、あたしは足を止めた。喘ぎながら、いつまでも落ち着かない鼓動を持て余す。落ち着いて、冷静になって、自分。
「ばっちり目が合っちゃったね」
 芽瑠のいつものトーンの声が聞こえて、あたしは少しだけ自分を取り戻した。
「うん。なんで、こんな悪いことしたみたいな気持ちになるんだろう」
 笑えた。
「か、かさねさんの、か、カレシさんだったのかな」
 ミナちゃんが一番動揺している。普段からせわしない子だけど。
「カレシさんじゃなかったとしたら、あたしたち、助けに行くべきだったね」
「でも、明らかに親密な感じだったけど」
 男の人とキスをしたことはおろか、お付き合いをしたこともない。というより、付き合ってみたいと望んだこともない。それがどんなものだかよく分からない。
 曲がり角の先になにが待っているのか分からないように。
「あなたたち」
 背後からいきなり声をかけられて、あたしたちは飛び上がりそうなほど驚いた。ミナちゃんだけはほんとうに飛び上がっていた。
 かさねさんにいつの間にか追いつかれていた。
「見たわね?」
 照れた様子はおくびにも出さず、不敵に笑っている。かさねさんらしいと言えばそうだろう。
「さっきの方は、カレシですか」
 芽瑠が直球で質問をする。
「そうじゃなかったら、問題よね」
 やっぱりそうだったのだ。
「三人はそういう免疫ないの?」
 逃げ出したことを揶揄しているのだろう。思わず三人で顔を見合わせる。目顔だけで考えている内容が一致しているのが知れた。
「かわいいわね。彼は、隣町の高校に通ってるの。共学だから虫がつかないか不安だけど、こうしてしょっちゅう会いに来てくれるうちは、安心かな」
 そうですか。
「け、結婚は考えてるんですか」
 ミナちゃんによって話が飛躍する。頭の中でどんな想像が繰り広げられているのかしら。
「ええー。そんなの、分からないよ。まだ高校生だしね。……将来の話なんてちゃんとしてない。今が楽しければいいや、って思ってるから」
 今が楽しければいい。今が幸せなら――焦る必要はないし、別に焦ってもいないのだけれど、ただ、なんとなく、胸のどこかがざわついている。この感情はいったいなに。
「でも、付き合ってるのはあたしだけじゃないよ。いのりにもそういう相手がいるんだから」
「え、そうなんですか」
 意外だった。部を抜群の包容力で束ねているいのりさんに、そんな影はまったくちらついていなかった。どんな人なのだろう、そのお相手というのは。
「うん、詳しくは言わないでおくけど。……そうだなー、秋の舞台が終わったら、こっそり教えてあげる」
 でも、いのりには、あたしから聞いたって言っちゃだめだよ、とかさねさんは念を押す。あたしたちは揃って頷いた。
 秋の舞台が終わったら。
 とりあえず、今は目の前のことを全力でがんばっていくだけだ。その思いに至り、また、さっきの「今が楽しければいい」という言葉が脳裏をよぎる。
 どれだけのなにがあったら現状に満足している、そう言い切れるのかな。

 そしてときが少しずつ流れ、暑さが緩やかに大人しくなってきた頃、秋の舞台が目前に迫ってきた。ほんとうに聴衆の前で演技するのだと思い、緊張感は日増しに高まってきた。十分すぎるくらい準備を重ねてきたはずなのに、まだ安心に届かない。
 失敗が怖かった。演劇はたくさんの人が関わる。個人競技ではないから、あたしの失敗は、劇全体の印象を損なわせる。そして、みんなに迷惑をかける。それが怖かった。ときには逃げ出したくなった。
 観ている側の際はそれでよかった。いろんな人のプラスの様子が一つになり、圧倒的なエネルギーになっていると感じられる瞬間に立ち会えると、幸せになる。この舞台を観にきて心からよかったとそう思えるのだ。
 好きな場所のそちら側へ。だけど、そこには仲間たちがいる。苦楽をともにした先輩方や、憧れを同じくした同級生たち。その存在を信じ、前を向くしかない。不安でも怖くても足が震えてしまっても舞台に立たなければならない。
 本番の前日、いつものようにミナちゃん、芽瑠と帰っていたら、偶然小百合と会った。小百合は三浦のミナちゃんと一緒だった。
 舞台の準備が忙しくて、この夏はちっとも遊べなかった。久しぶりに顔を見られて嬉しいが、今の精神状態を思い合わせると複雑な心地。
「久しぶり、小百合」
「うん、花音」
 ところが、小百合の方でもなにか悩んでいる風なのが見て取れた。自分の不安はどこかへ一時的に去った。いったいどうしたのだろう。
 杞憂であればいいけれど。

          ●

 わたしたちが積み重ねた時間はどれくらいだろう。いろんなことを話した。いろんな思い出を作った。笑い合った、泣き合った。だけど、わたしの方が花音をずっと見つめてきた。実際には瞳で、あるいは心で。思いを寄せて。花音がわたしを見つめるよりも。
 だから、気づく、分かる。些細な表情の変化が。言おうとして言わなかった言葉が、言ったけれど本心ではない言葉も。
 電車の方向が反対側になるため、わたしと花音の二人きりになった。ミナちゃん二人と芽瑠は三人で仲よく同じ電車に乗り、さっきそれを見送った。わたしたちが乗るべき電車もその後で来たのだけど、ホームの椅子に腰かけたまま乗らなかった。じっくり話し合えたらとどちらも考えている。
 駅は静謐な佇まい。今日もたくさんの人たちをその深い懐で受け入れてきたその役割をもうすぐ終えようとしている。そこに残ったわたしたちはきっと珍客。もうしばらくだけ、ご容赦ください。
「花音、緊張してる?」
 花音はわたしに会って不安そうな影を遠くへ押しやったけれど、見逃さなかった。本番は明日だ。入りたいと願ってやまなかった演劇部の晴れ舞台についに上がれる。それは喜びでもあり、そして重圧でもあることだろう。
「うん、ちょっぴり」
 花音が笑っている。
「ほんとうにちょっぴり?」
「うん、ちょっぴりも言葉を失くすくらいちょっぴり」
「なにそれ」
 わたしも笑う。相変わらず駅は静かだ。
「楽しみなはずなんだ。だって、舞台に上がれることを夢見てたのだから」
 だけどね、と声を落とす。ようやく落としてくれる。「だけどね、三年生たちは最後の秋の舞台だし、もしわたしが間違えたらって思うと怖くなる。舞台の出来栄えを損なわせてしまうかもしれない」
「花音はまじめなんだよ。自分らしくいられれば大丈夫だって」
「まじめなのは小百合でしょう。――それより、小百合こそさっき不安げな顔してたけど、なにかあったの?」
 数日前から翡翠ヶ丘の生徒たちが訪れて、本番の舞台でリハーサルを行っていた。今年は旭山に招く年だからだ。実際に演技しているところは当日まで隠すものだが、リハーサルの前後では互いの部員らで交流していた。そこで翡翠ヶ丘の演劇部部長・小坂井いのりさんや、青山かさねさんなどの姿を遠くから目にした。
 わたしはその場に出ていかず、ずっと物陰に隠れていた。人見知りしていたわけじゃなく、なんとなく、今回の劇にわたしが関わっていることを花音に話したくなかったからだ。それは別に、脚本の下書きとなった小説の主人公のモデルが花音だったため、というわけではないけど。ただ、なんとなく。
 でも、今日ここで会ってしまったのもなにかの縁だ。やっぱり、わたしはちゃんと花音に明かさないといけない。今さらになってその感情が湧いてきた。
「わたし、ずっと黙っていたことがある」
「小百合がわたしに隠しごとなんて、珍しい」
「あのね、わたし――今回の劇の脚本を務めたの」
 しばらく花音は口を引き結んで反応がなかった。驚きはあるようだが、それよりもなにかを深く噛みしめているみたい。わたしは一抹の不安を覚えた。花音は、黙っていたことを嫌がるかもしれない。
 少しして、花音が口を開く。
「そういうことか」
 納得している風だった。そんな返しは予想外だった。
「どうして腑に落ちてるの?」
「ちょっと前から、小百合が、旭山の演劇部の事情にずいぶん詳しいな、って思ってたんだ。ミナちゃんが所属しているにしても」
「そ、そんなに話してたかな……?」
「話してたよ。葵さんのことをよく喋ってたし、最近では瑞希さんのことも」
 言われてみれば、わたしはかなり彼女らの演技に熱を上げていた。うっかり花音に感想を漏らしていたとしても不思議ではない。
「そっか、そういえば葵さんは文芸部にも一応入ってるんだっけ。そこでつながりができたのね」
「うん……わたしが書いた小説を葵さんが読んで、これを脚本にして舞台で演じたい、って言ってくれたの」
 あの日の、夢みたいな光景がありありと思い出せる。あの日からわたしの身の回りが落ち着かなくなった。
「へえ、そうだったんだ。――もともと楽しみではあったけど、より楽しみになってきたな。小百合が脚本を手掛けているんだったら」
 あまり注目されても委縮してしまう。でも、誰よりも花音には、注目してほしいとも願っていた。
「嬉しい」
 ぽつりとこぼれたひと言は、頬を赤らめた花音の口から発されたもの。
「嬉しい?」
「だって、小百合も演劇に関わってくれたから。嬉しいよ。舞台には立たないの?」
「それはないよ。葵さんにも勧められたけれど、わたしなんかが演技できるわけないし」
 葵さんは背が高いわたしに、舞台映えするだろうって言ってくれた。それは買いかぶりに違いないけど、だけど、そう言ってもらえたのは喜びだった。
「葵さん、葵さん、って」傍らの花音が頬を膨らませていた。「そんなに素敵な人なの? わたし、妬いちゃうかも」
 一瞬、耳を疑った。行き過ぎた願望が幻聴を聞かせたのではないか、と。
 ところが、花音の瞳を覗いて表情の色を確かめると、その発言が幻ではなかったみたいだと窺えた。
 それってどういう意味、と尋ねようとした刹那、間の悪い電車が音を立ててホームに入ってきて、花音は立ち上がってしまう。
「そろそろ帰ろう?」
 仕切り直して、後でどういうつもりで言ったのか訊きたい気持ちはあったが、だけど、今日はその気持ちを抑えることにした。自分の思いたい風に思えばいい。
「うん」
 明日は本番。花音はわたしの脚本を楽しみにしてくれているけれど、わたしだって、花音が舞台上でどんな演技を見せるのか楽しみにしている。
 車体が揺れたとき、わたしの右手が花音の左手にちょっと当たった。そのままぎゅっと握ってしまいたかったのを我慢したのは、理性の抗いかもしれない。なんて、稚い感情。

 翌日はあいにくの雨だった。朝からしとしとと降りしきって、演劇部の部員たちはみな恨めし気に空を見上げる。
 秋の舞台は学校が休みの日に行われる。朝から準備を始めて、お昼過ぎに開演となる。両校の生徒たちや保護者など、毎年大勢の人が見にやって来る。伝統として受け継がれてきたものだから、注目度は高い。
 お昼前には翡翠ヶ丘の演劇部が姿を見せた。衣装や小道具は事前にこちらへ運んでいるから軽装。表情には、どこかやってやろうという気迫が漲っていた。
 今年演じられるのは『赤毛のアン』と『海のプレリュード』。後者はわたしが書いたものだ。校門に立て掛けられている看板には、原作者の名前として「中田小百合」が大きく出ている。花音に昨夜伝えられなかったとしても、ここで絶対に明らかになっていた。小恥ずかしいけど、うん、やっぱり、ただただ小恥ずかしい。
「どうしたの、硬い顔して」
 本番を控え、楽屋で寄り集まって待機していた。わたしにそう問うてきたのは三年生の貴子さんだ。今日も翡翠ヶ丘の面々が到着したときの立ち合いには、部長の葵さんではなく彼女が出向いた。そういう対外交渉をそつなくこなすポテンシャルが彼女には備わっているけれど、部長はやはり葵さんだな、という感じがする。この、それぞれで役割分担できている形が自然なのだ。
「わたしの話が、こんな大事な舞台で披露されてほんとうによかったんでしょうか……?」
 翡翠ヶ丘みたいに名作をやってもよかった。オリジナルにしてもぽっと出のわたしが書いたものじゃなくてもよかった。今さらながらそんな思いに囚われる。
 しかし、貴子さんはそんな心配をあしらうように鼻で笑った。
「なに言っちゃってるのよ。――わたしね、いつも葵に、ちゃんと仕事しろってうるさく言ってるんだけど、彼女が真剣な表情でこうしたいって言ってきたら、必ず従うようにしてきたの。部長だしね」
 終わりの言葉は、少しおどけた風に。「葵が突然、知らない一年生の小説を引っ提げて、今年の舞台はこれで行きたいって言ったときは面食らったけど、反対する気は起きなかった。だって、葵の目がまっすぐだったから」
 それに、と貴子さんはさらに言葉を継ぐ。「それに、わたしも読ませてもらって、その一年生の作品がとてもいいな、って素直に感じられたから、これが最善の策なのよ。ね、原作者さん」
 言われているうちに、だんだん目を合わせられなくなってきた。正直な言葉をもらっているのだろうが、なんだか言わせたみたいできまり悪い。貴子さんには敵わない。
 演劇部に入るつもりはなかった。脚本を執筆しようなんて夢にも思わなかった。葵さんに見出されたのは運命の悪戯と言えばそれまでだけど、でも、この運命を引き寄せた一因に、心のどこかで演劇というものを意識していたことがある気がする。そして意識させられたのはほかでもない、花音という存在――。
 貴子さんと葵さんの関係に抱く憧憬は、自分と花音の関係に重ねることができるだろうか、という願望に通じる。
 ふと、思い出すもう一つの光景。そういえば、リハーサルのために翡翠ヶ丘の生徒たちが訪れていたとき、合間に葵さんと向こうの部長である小坂井いのりさんが親しげに話していた。背が高くボーイッシュな葵さんと、それを上目遣いで見つめる、いかにもお嬢様らしい容姿のいのりさん――その絵がどこか神秘的ですらあって、いつまでも眺めていたいと思ってしまったのだった。

          ◯

 告白するのは愛か罪か。いずれにしてもあたしには縁遠くて、雲霞の向こうに目を凝らすようだ。
 健気な乙女が泣いている。肩を震わせ、はらはらと涙を落としている気配がする。人の涙は胸の内に漣を起こす。その感情は本来とても熱くじわりと広がるものだからだ。
 決定的な瞬間に立ち会ってしまった自分の間の悪さが恨めしい。なにかを知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れない。
 スカートをぎゅっと握りしめる。それにしても、さっきから胸中を落ち着かなくさせるものはいったいなんだろうか。憐憫? 同情? 違う気がする。
 朝からしとしとと降っていた雨は、この結末を暗示していたのかしら。

 順を追ってあったことを思い出してみる。まずは、劇に臨んだ。
 最初に舞台に上がったのはあたしたち、翡翠ヶ丘高校。披露したのは『赤毛のアン』。世界的にも有名な作品だから、聴衆の反応はいいみたいだった。どんな人がどの役を演じるのか、好奇の目が注がれる。
 あたしはこの日を待ち望んでいた。焦がれていた。『桜の園』を観た日から、いつかあんな風に演技できる日がくるのを渇望し、その思いだけで翡翠ヶ丘の門を潜った。
 一年生から役がもらえるとは考えていなかった。最初は裏方などで手伝いをして、来年以降チャンスを掴めれば、くらいの気持ちだった。ルビー・ギリスになれたのは運がよかった部分もある。
 あたしは普段なにもない少女だ。どこにでもいる一人の高校生。特別なものなんてどこにも見当たらない。それを変えたかったわけではない。あたしはあたしだ。自分らしさを失ってまで特別な存在になりたいと望んだりしない。ただ、あたしが演技に惹かれたのは、きっとそこでなら表現できるからだ。あたしの内側にあるみんなが知らないあたしを、ほかの役に仮託して表現できる。自分ではない何者かになる瞬間は、狂おしさ、そして劇薬。
 確かに、緊張で委縮していたのは否定しないけど、小百合に話せて少しは心が軽くなったし、それに、なによりずっと憧れていた場所なのだ。できることまで放棄してしまったら、きっと立ち直れないくらい後悔するに決まっている。
 逆に考えればよかった。いのりさんやかさねさんと同じ舞台に立てる喜び、それは一度きり。
 いのりさんとかさねさんは、それぞれアンとダイアナの衣装を身に纏い、とても可憐だった。美術部の人たちがこちらのリクエストに応えて、期待を遥かに上回るものをしつらえてくれた。素敵だ。とにかく、メインの二人は華がある。
 平素は眼鏡をかけているあたしは、舞台ではコンタクトレンズ。見た目からまずは変えていこうとするのはどこか少女じみた行いだが、そういえば、あたしはまだ少女だった。自己暗示をかけられるのならば縋りたい。
 正直、眼鏡でもコンタクトでも映り方はそう違わない。
 むしろ、気持ちの作用が見えるものを異ならせる心地がした。光を当てられたステージ。いつもよりも輝いている仲間たち。暗がりの客席、鉄砲席にぼんやりと浮かび上がる小百合の顔。表情の細かい動きまで確かめている暇はないが、一念にこちらへ眼差しを向けているだろうことは感じる。胸が熱くなる。
 胸は熱く、だけど、頭はいたって冷静に。演技の基本。
 そして、あたしたちの『赤毛のアン』は、万雷の拍手で終幕を迎えられた。頭を下げながら降りかかってくる拍手と歓声に鳥肌が立った。いつまでもこの歓喜の海に浴していたい、そう思ってしまうほどに。
 頭をゆっくりと上げ、湧き立っている客席の中に親友の顔を見つけ、目を見交わした。初めて遠くてもその表情の色を読み取れて、頭の冷静さをついには手放した。

 あたしは舞台に弱い。観る側として。
 コミカルな内容であれ、切ないストーリーであれ、あたしは舞台を観劇するとほぼ毎回涙を流してしまう。日頃は涙もろい人間ではないと自負している。では、こうまで頬を熱いものが伝うのはどうしてだろうか、ずっと考えていた。
 その答えが見つかったかもしれない、と旭山高校が披露した『海のプレリュード』を目の当たりにして心づいた。ほかのどんな説明よりも得心のいく、答えとして据わりのいいそれだった。
 秋の舞台前半の『赤毛のアン』が無事に終幕し、数十分だけの休憩を挟んで後半へ移った。だから、ほとんど衣装を着替えて客席へ移動するだけで数十分は経過し、当然小百合たちから感想をもらうことはできなかった。
 小百合はあたしの演技を観て、どう思っただろう。演劇に熱を上げて翡翠ヶ丘に入学し、初めての晴れ舞台だったのだ。それなりに厳しい目で見られていたとしても仕方がない。
 今度はあたしが見つめる番。小百合の仲間たちが表現する、小百合の世界観。心が浮き立ってしょうがなかった。
「この話、原作は小百合ちゃんなんでしょう?」
 直前に本人から打ち明けられたあたしは、了解を得て、その事実をミナちゃんと芽瑠に教えた。二人とも驚いていたし、嬉しそうでもあった。特にミナちゃんは分かりやすいほどに。彼女は演劇を芯から愛しているから、それに関わってくれる存在が身近にできると喜ぶ。あたしと出会ったときもそうだった。
 芽瑠は、どうなのかな。芽瑠は入る部活に迷っていて、あたしたちに声をかけてきた。演劇部に興味本位で入部し、そのまま今でも居着いている。もしかしたらあっさりといなくなっていた可能性もある、そうしたら、あたしたちと友達になっていなかったかも。
 芽瑠は居着くどころか次第に存在感を増している。髪をツインテールにして、ふんわりとかわいらしい彼女だが、ときどき、聡い、って胸で呟きたくなる。要領がいいのだ、すべてにおいて。底知れない感じがする。友達なのに。
「うん、あたしも知らなかった。どんな内容なのか、だからすごく楽しみ」
「あとは、三浦のミナちゃんがどんな役で出てくるのか」
「成瀬葵さん、だっけ、かっこいい方。男装するのかなー。そしたら会場が湧くだろうなー」
「ミナちゃん、にやけてる。――あと、二年生の柳井瑞希さん、目を引く美少女よね。彼女の役どころも気になる」
「へえ、芽瑠、けっこう仔細に観察してるのね」
「観察眼は鋭くしていかないと、ってわけじゃないけど。ほら、芸は盗めと言うし」
 小声で話している最中、あたりが徐々に暗くなってきた。どうやら、もうすぐ開演するようだ。座り心地のいい講堂の椅子の背もたれに背中を預けた。
「始まるみたいだから、静かにね」
 一列手前の席に腰掛けているいのりさんが振り向いて、唇の前に人差し指を当ててそう呟いた。あたしたちは神妙に頷く。
 いのりさんの隣にはかさねさんがいる。――本番のことばかりが頭の中を占めていたから忘れかけていたけれど、かさねさんがカレシさんとキスをしている現場を目撃した日、彼女はこう言っていた。秋の舞台が終わったら、いのりさんが誰と付き合っているのかこっそり教えてあげる、そんなようなことを。
 気になるは気になるけど、でも、あたしたちなんかが知ってもいいのだろうか、だけどやっぱり……。純粋に興味がある。あのいのりさんが心を許している相手がどんな人なのか。
 ふと、思いついた。かさねさんが明かすのをもったいぶるのは、ひょっとしてその相手があたしたちのよく知っている人だから、なのかな。
 幕が上がる。雑念は遠くへやって、舞台に集中しよう。
 ピアノが現れた。鍵盤に向かって背筋を伸ばして座しているその人は、小さく笑みを浮かべた横顔を客席に見せていた。そして、弾き始める。静まり返っていた会場内にゆったりとしたメロディーが流れる。空気を縫うように流れていく。優雅だった。
 葵さんがピアノを弾けるとは知らなかった。そもそも、葵さんに関して知っていることは少ない。ただ圧倒的な存在感があって、そこからさまざまなイメージを膨らませてしまう人。女子校の中であの髪の短さは目立つ。そのくせ似合う。
 葵さんが最後まで弾き切ると、それと同時に舞台は暗転した。場面転換。まだ誰も台詞を発していない。葵さんが主人公なのだろうか。
 次には別の少女が一人現れる。真っ白なシャツの上に水色のセーターを着ている。そういえば、葵さんも同じ格好をしていた。翡翠ヶ丘や旭山と同様に女子校が舞台の話だと聞いていたから、あれが架空の高校の制服らしい。水色のセーターなんてなかなか着られない。スカートの色もそれに合わせた色合いのものになっている。
 その少女は芽瑠が名を上げていた柳井瑞希さんだった、と終わってから教えてもらった。あたしは顔と名前が一致していなかった。ただ、これまた綺麗な人だな、と素直に見惚れていた。
 瑞希さんは以前見かけたときおだんご頭にしていた憶えがあったが、このときは下ろしていて、そして、とても寂しい女の子だった。友達がいなくて、いつも一人で、物語は大きな変化もないまま進んでいく。
 この筋書きを小百合が作ったのか。なんとはなしに、彼女と出会った頃を思い出す。あたしから話しかけたはずだけど、楚々とした居住まいの小百合に寂しそうな影は見られなかった。でも、小説を書くに当たって、敢えてそういう感情を描き出そうと試みたのかもしれない。
 ほんとうはフィクションに作者の実人生を重ねるのは間違っている。どうしたって小百合に囚われてしまう心。
 物語の最初の変化は、瑞希さんが海へ足を運んだシーン。そこで彼女は、突然に歌い出した。ほとんど喋ることのなかった少女から澄んだ歌声が響いてきたことに、会場全体が意表を突かれた。
 瑞希さんの歌はまっすぐだった。卓越した上手さはないと思うけれど、混じりけがなくて瑞々しかった。その歌はただ歌いたくなったからそうした、というだけのものではない。友達のいない孤独な少女の、真摯な感情の吐露だ。胸に訴えかけてくるものがあった。――それに、この歌はどこかで聴いた憶えが……そうだ、映画だ。何年か前に観たジブリ映画の『コクリコ坂から』、それの主題歌だ。

  わたしの愛 それはメロディー

  たかく ひくく 歌うの

  夕陽の中 呼んでみたら

  やさしいあなたに 逢えるかしら

 隣の芽瑠をふと見やる。この映画の主人公は松崎海といって、同級生からフランス語の海〈ラ・メール〉から取ってメルと呼ばれている。こんな些末なことを思い出すなんて。
 一番を歌い切ったタイミングで、袖からすっと葵さんが姿を見せる。瑞希さんは不意の登場に一瞬だけ戸惑いを浮かべながらも、二人は同じ歌を口ずさむ。そのハーモニーが見えない海に溶け込んでいく。
 瑞希さんと葵さんの象徴的な出会い。大人しく殻に閉じこもりがちだった少女は、その邂逅から少しずつ自分らしさを表に出そうとする。二人は海辺で毎日のように会い、歌うのだけれど、学校ではどうしてか会えない。
 不思議な気持ちのままあっという間に卒業の日を迎える。卒業式の場で、瑞希さんは初めて葵さんを学校内で見つける。ピアノが得意な彼女は伴奏を任されていた。
 そして彼女が弾き始めたのはありふれた別れの歌なんかではなく、二人だけで作った、二人だけの奏で。それを知っているのは世界にたった二人きり。
 瑞希さんと葵さんが再び歌い出す。聴いたことのない曲だった。

  ふつうになりたい

 途中のワンフレーズが強く印象に残った。少女の願いは当たり前を手に入れること。
 最後には生徒たちみんなでその歌を歌い上げる。高らかに、感情を込めて。――あたしはこのあたりで涙を止められなくなっていた。
 そのまま劇は終わり、幕が下ろされる。目の前に存在した一つの青春が消えゆく。手を伸ばしても儚い光。
 再びカーテンが開き、カーテンコールとなった。出演者たちが二、三人ずつ客席に向かってお辞儀をする。その度に拍手が大きく鳴り響いた。
 あたしは舞台に弱い。その理由にたどり着く。あたしはどんなシーンよりもこのカーテンコールに弱い。演者たちの安堵したような、それでいて誇らしげな表情と、それから、彼らを讃える拍手喝采、そういった温かい空気感にやられてしまうのだ。これがあるからあたしは演劇に惹かれ、憧れ、焦がれ、飛び込んだ。
 手の感覚がなくなるまで叩きながら、絶え間なく涙を流していた。自分に、いいものをいいと思える心があってほんとうによかった。
 小百合に感想を伝えなければ。

 旭山の校舎からは山がよく見えた。茜色に染まりつつある。
 両校の劇が終わって数時間が経過した。お客さんたちはすべていなくなっていて、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静けさに包まれている。祭りの後、とはよく言ったもので。片づけをしながら、あたしの胸には寂しさが去来していた。
 寂しさの最も大きな原因に誰もが心づいているだろう。秋の舞台は一つの区切り。三年生が受験に専念するため、部を離れてしまう。この間出会ったばかりのような気がしていたいのりさんとかさねさんと、あたしたちは別れないといけない。もちろん、学校でいくらでも会えるだろうが、それだけでは足りない。
 舞台は生き物で、すべて一度きりのものでしかない。観ていた人の記憶にしか残らない儚いものだし、だからこそその奇跡みたいな瞬間に立ち会いたいという望みが多くあるのだろう。その望みは観客だけが抱くに留まらない。演じている側も、つまりはあたしも抱く。いのりさんと、かさねさんと、演技がしたかった。念願叶ったけれど、一度きりですでに記憶になってしまった。儚い、けど、儚いって思えてよかった。なにも思えないよりいい。
 つい、ぼんやりとしてしまう。早く片づけないといけないのに手に着かない。
「花音、元気ないね」
 ふわりと香りが立った。気づけば隣に芽瑠が立っていた。気遣うような表情を浮かべている。
「ううん、なんとなく、感傷的になっちゃって」
「先輩方が部を引退しちゃうから?」
 素直に頷く。「うん。もうそんな時期なんだな、って」
「なんだ」芽瑠は小さく笑った。「今日の演技に満足できなかったのかと思った」
「あたし、今日イマイチだったかな?」
「ううん、稽古のときよりも台詞に感情がこもってた。本番に強いんだね。――もし自分の演技に納得いっていないようなら、そんなことないって全力で慰めるつもりだった」
「ありがとう」芽瑠の声はかわいらしい、そんなことを思ったけど、もちろん口には出さなかった。「芽瑠もすごくよかった、と思う。自分の演技に夢中で、そこまで見る余裕なかったけど」
「台詞も間違えなかったし、緊張するかとかまえてたけど、意外と落ち着いていられた」
「芽瑠はリハーサルのときからいい具合に肩の力が抜けてたからね。本番でも大丈夫だろうなってことは分かってた」
「お世辞はいいよ」芽瑠は悪戯っぽく笑う。「なんてね、ありがとう」
 ミナちゃんものびのびと演技できていた。舞台に立つ日を誰よりも夢見ていた彼女だから、今日に懸ける思いは並々ならぬものがあったはず。さっきから姿が見当たらないから、ちゃんと感想を伝えられていないけれど。
「お二人さん」
 ふらりと再びの来訪者。かさねさんが顔を覗かせていた。ダイアナの衣装はもう着替えてしまっている。もっと見たかったが、色づいた彼女の唇にダイアナの名残が窺えた。
「かさねさん、おつかれさまでした」
「おつかれさまー。二人とも、堂々としてたね。頼もしい後輩がいるから、安心して去っていけるよ」
 なんて寂しい言葉を。
「……そんなこと言わないでください」
 ついつい、口を尖らせる。
「あれ、花音、感傷に浸ってた? ごめんね、あたしはもう心の準備できてたから」
「かさねさん、花音は、さっきまで先輩方を思って、暗い顔で俯いてたんですよ」
「芽瑠、ちょっと――」
「……そっか。そんな風に思ってもらえて光栄だな。演劇部のこと、よろしくね」
 はい、と応じる声が二人重なった。
「次の部長は、いのりがまた発表するだろうけど。――あ、そうだ、約束してたね。秋の舞台が終わったら、いのりが付き合ってる人を教える、って」
 それは憶えていた。
「あの、でも、本人に無断で聞いてしまってもいいんでしょうか。あたしたちなんかが」
「まあ、いいんじゃない。もういなくなる身だしね。聞くだけ聞いていってよ、絶対にびっくりするから」
 予感がした。やっぱり、その人はあたしたちの知っている人? だとしたら、あたしたちとかさねさんが共通して知っている男性ってかなり限られるというか、ほとんどいない気がする。いったい誰だろう。
 事実を告げられた瞬間、心の部屋で幾羽もの鳥たちが忙しげに羽ばたく心地がした。自分の演技力はまだまだ、こういうときにどういう反応を見せればいいかまるで分からないから。
 かさねさんの目論見どおりとても驚いたけれど、その組み合わせに違和感を覚えないし、むしろ容易にそれらしい絵が浮かぶ。あたしはこのことをもっと昔から知っていたのではないかしら、というほどに。
 いのりさんが上目遣いに見つめる、端正な葵さんの横顔を思い出した。あの二人は惹かれ合っていた。

 健気な乙女が泣いている。肩を震わせ、はらはらと涙を落としている気配がする。人の涙は胸の内に漣を起こす。その感情は本来とても――とても熱く、じわりと広がるものだからだ。
 舞台の幕が静かに上がり直したのではと錯覚した。目元を覆い、目の前を駆け抜けていったのは『海のプレリュード』で主演の瑞希さんだった。頬には光るものが。彼女は物語の中でも泣いていた。そのときは彼女の感情の動きに心当たりがあったけれど、だけど、今は違った。なんだか縁遠い気がした。具体的にどんな言葉のやり取りがあったのか分からないのに。
 取り残されて、感情の色のない顔を浮かべているのは葵さんだった。ますます、舞台の続きを見せられているみたいだ。これも小百合の描いた世界?
 小道具や舞台衣装を抱え、翡翠ヶ丘へ戻ろうとなったとき、ミナちゃんの姿が見当たらなかった。探してきます、と言うよりも早く、あたしは駆け出していた。校庭をぐるりと回って、いつの間にか人気のない校舎裏まで来ていた。こんなところにいるとは思えないけど、と一応顔を覗かせてみたら、決定的な瞬間に立ち会ってしまった。間の悪い自分が恨めしい。
 葵さんと目が合った。近くで見ると目元が涼しげで、優美だった。小百合が慕うのも頷けるというもの。
 感情の色が窺えなかったが、やがて肩を竦めるようにして苦笑した。それがまた様になっていた。
 あたしも合わせて笑うしかなかった。――たぶん、直前にかさねさんから聞かされていなかったら、この状況に出くわしてもピンとこなかったろう。だけど、今は少し考えれば符合する事実を把握していた。葵さんはいのりさんと付き合っている。二人は恋人同士だ。そして、校舎裏で一人の少女が流す涙と言えば、告白の産物。
 いろんな感情を知りたい。あたしは演劇が好きだから。

          ●

 プリンス・エドワード島にいつか行ってみたいと初めて夢見たのはいつだったか。つまりそれは、初めて『赤毛のアン』という物語と出会った頃だ。
 女の子のためのお話と言っても過言ではない。アンが経験したたくさんの人たちとの邂逅、彼女の成長、やがて訪れる別れは、少女たちの胸を必ず打つ。誰もがお転婆なアンを己と重ね、立派になったアンをやはり夢見る。いちご水が実際はどんなものか分からないのに飲みたくなってしまうような、憧れ。
 この作品を翡翠ヶ丘が演じると聞いたときは嬉しかった。絶対に観に行くと決めていた。まさか、わたしが一方の舞台の脚本を手掛けるとは予想すらしていなかった――このことについて言及するのは、もうくどいかな。
『赤毛のアン』には老若男女、さまざまな登場人物がいる。女子高校生だけでやるとなると、配役はかなり難しかったはずだ。花音に聞けば、中心になって話し合いをしていた四人があらかじめ重要な役どころにつき、それ以外をオーディションで固めていったという。そのやり方は正しかったろう。
 アン役の小坂井いのりさん、ダイアナ役の青山かさねさんはぴったりだった。二人とも三年生だが、どちらかというと童顔で、幼い少女たちを自然に表現していた。成長した姿は、今の彼女たちの等身大に思えた。
 アンを引き取り、育てるマリラ役は堀愛さん。二年生にしては声のトーンも動作も落ち着き払っていて、大人びていた。だから違和感なく、いのりさんの育ての親として見ていられた。もう一人、刈谷紅美子さんもまた二年生で、彼女は中盤から出てきた。演じたのはギルバート・ブライス、つまり男の子。赤毛のアンを「にんじん」とからかい、以来、二人は犬猿の仲となってしまうのだが、最後には深く寄り添う関係に。紅美子さんは演じている姿よりも、舞台の準備に汗を流している姿の方が印象に残っていた。直前の準備やリハーサルで目にしただけでも、衣装や照明、音響などを細かく確認していた、いのりさんも彼女をかなり信頼している風なのが窺えた。――だから、やがてアンが抱くギルバートへの信頼は、日頃の彼女たちと重なる。
 とにかく、再現率の高い、ちゃんと原作を愛したステージだった。わたしは心から拍手を送った。
 ただ、それが正当な評価だったか疑いの余地があるとすれば、花音が舞台上に現れたときは彼女しか目に入っていなかったことかしら……。

 休憩時間を挟んで、秋の舞台は後半戦へと移りゆく。わたしは座ったままで再び幕が上がるのを待った。原作者の人間が本番に施してやれるものはない。どんな風に転がるのか見届けるという意味では、周囲の席を埋め尽くす観客たちと一緒だ。
 果たして、わたしの拙いストーリーにどう息を吹き込んでもらえるのか。稽古中に何度か観ているけれど、やっぱり本番の反応は気になる。それに寄せるのは圧倒的な期待感。きっと、葵さんに見つけてもらえなかったら、文芸部で扱われただけで、やがて忘れ去られてしまったことだろう。
 もうすぐ『海のプレリュード』が開演となる。小説と演劇の差異を一つ挙げるとすれば、演劇には生の声がつくことだ。そして、もし作中に音楽があるなら、そのメロディーが実際に表現される。それがどう響くのかとても楽しみだ。
 冒頭はピアノのソロから始まる。入学式の日、光り輝いて見えた葵さんをよく憶えているし、おそらく何度も思い返すことになるのだろう。ピアノと向かい合って座り、伴奏を務めていたその姿は脳裏にしっかり焼き付いている。だから、劇で実際に弾いてもらうのはわたしたっての希望だった。……どうやら聴衆の反応もよさそうだ。
 もう一つ楽しみにしていたのは瑞希さんの歌。海辺で波の音に紛らわせるように、高らかに歌う。彼女の歌は変な癖がなくて透き通っていた。それに調和する葵さんの歌声。音感が優れているだけに見事に瑞希さんの歌を引き立てた。ちなみに歌は、ジブリ映画『コクリコ坂から』の主題歌。――確か、花音と二人で観た。
 ミナちゃんも舞台上に現れた。ミナちゃんは瑞希さんと中学時代まあまあ仲がよかったが、高校になって疎遠になってしまった少女を演じている。学生生活をもっとエンジョイしたくて、クラスのはみ出し者と距離を置くというのはありがちだが、ちゃんと描いてみたかった。
 部をずっと引っ張ってきた貴子さんの役はクラスの中心人物で、大人しい瑞希さんに嫌がらせをする。貴子さんは今までまっとうな人間の役しかやってこなかったから、今回はなんだか新鮮、と嬉々としていた。
 最後に締めの歌に入る。ピアノで始めて、合唱で幕を下ろすのは、起伏の乏しいストーリーだからこそ歌の印象を強く残させよう、という意図からだった。わたしが胃を痛めて作詞した歌詞をまず瑞希さんと葵さんが歌い、途中からほかの登場人物たちも歌う。葵さんがほんとうに存在するのか曖昧にさせながら、最後くらいはハッピーな雰囲気を漂わせたかった。
 ――講堂に響き渡る拍手と歓声。多少は喜ばしかったし、誇らしくもあったけれど、同時に思うのだ。
 舞台の脚本なんて、今回限りで満足だ。

 懸念は存在した。
 演劇部の人たちと山に登った日、わたしは瑞希さんの想いを歌詞に反映させることにし、ほんとうにやった。彼女から話を聞いて、いくつかの言葉をピックアップし、それらを織り交ぜて形にしていく。そのおかげもあって、これ以上待たせるわけにはいかない、というタイミングになんとか歌詞を渡せた。
 話し合いを繰り返す中で、瑞希さんはぽつりと漏らしていた。――きっと、秋の舞台が終わったら、葵さんは受験勉強が忙しくなってなかなか会えなくなる。そうしたら卒業まであっという間。告白するチャンスは限られている。――そのようなことを。舞台には集中したいし、させたいから、せめて幕が下りてから。当日の、片づけをしている最中にでも……。
 だけど、不安だった。もちろん瑞希さんの背中を押したいし、それに葵さんが応えてくれたら、と思う。舞台上の二人は息ぴったりで、見ていて惚れ惚れした。だけど、だけど、相手はあの葵さんだ。わたしはそんな話まったく耳にした憶えはないけれど、もしかしたら、葵さんには好き合っている人がいるのかもしれない。
 これは悪い予感だった。ただ、あくまでも些細な胸騒ぎで、恋する乙女を引き止めるには至らなかった。信じるしかない。双方が幸せになれるような結末を。
 後日、花音から聞いた目撃談などを総合して、その恋の行き着いたところを判じることができた。瑞希さんの想いは儚く潰えてしまったこと、葵さんにはやはり想い人がいて、それが翡翠ヶ丘のアン・シャーリーだったこと、などを。
 二人で額を突き合わせて話しながら、わたしはずっと訊きたかった。訊きたくてもすんでのところで我慢していた。だって、もし訊いてしまったら、この関係は壊れてしまうかもしれない。もう二度とこの日常を取り戻せないかもしれない。考えただけでぞっとした。失いたくないものがあった。
 花音、わたしの好きな人が女の子だったら、どう思う? 気持ち悪いって思う?

          ◯

 秋の舞台に向けて暑い中汗を流していた日々を昨日のことみたいに思い出せるというのに、季節はいつの間にか巡っていた。身を震わせ、吐く息も白い、冬。そしてまた、惜別と新しい出会いを運んでくる春が忍び足で、それでも確かにこちらへ歩み寄ってきていた。高校生活の一年が過ぎていくのは、光陰矢の如し、というありふれた言葉よりももっと早い。捉えられず、過ぎてからそれだと気づくような。
 三年生のみなさんが引退し、部は新体制でスタートを切った。いのりさんが新部長に指名したのは刈谷紅美子さんだった。納得の人選で、誰もがすんなり受け入れた。しかし、当の本人は「自分は裏方向きの人間だから」と遠慮気味で、快諾というわけにはいかず。時間を置いてから、周囲の声に背中を押される形で部長に就任した。いのりさんは、裏方向きだからこそ、部員のことをちゃんと見てあげられる、紅美子さんはそんな部長になれる、と太鼓判を押していた。
 副部長には堀愛さんが就いた。
 あたしたちは前に進むしかない。寂しくても不安でも、ときが待ってくれないのなら、せめて無駄にしないことだ。また舞台に立てる日を夢見て部活動に励んだ。
 そんな感情面の試行錯誤の間に、三年生は受験を経て、それぞれの進路を決めた。いのりさんとかさねさんは、二人とも別々の大学に進学するという。大学でも演劇を続けるつもりだと聞いて、嬉しくなった。
 彼女たちは卒業してしまう。
 学校へと通じる川沿いの道には、梅の香りがかすかに漂っている。離れたところへ旅立っても、風が運んだこの匂いによってこの街で出会った人や思い出を思い返してほしい、そんな歌になぞらえてみたい。

 卒業式の日の朝、演劇部の部員たちはみな空き教室に集まっていた。いつもの演劇部の活動場所。形ばかりの顧問である相川先生にお願いして、早朝から空き教室を開けてもらった。
「それでは、卒業生の入場です」
 現部長の紅美子さんが笑みを交えて告げると、教室の外から三年生の面々が一人ずつ入ってきた。演劇部は学年が上がるごとに少しずつ人数が減っていく。部にふさわしくない人間を弾いているわけじゃなく、初めは一番人気の部活に惹かれて入ってきた人たちが、その本気度の差によって残ったり、離れたりするからだ。今年の三年生は十人。
 あたしたちは拍手でそれを迎える。床に体育座りになって、一列に並んだ彼女らを見つめる。誰もが華やいだ表情をたたえていて、誇らしく思った。素敵な先輩たちを持てたこと。
「では、毎年恒例、卒業生全員から、下級生たちへお言葉をお願いします」
 演劇部ではこの朝の集まりを毎年やっているらしい。自分が話す側に立つ日なんて想像すら叶わない。
 並んだ順番にそれぞれの思い出、思い入れのある役や作品、後悔、感謝、そして後輩たちへの金言を述べていく。在校生はときに笑い声を上げ、ときに切なくなり、ときに温かい気持ちになった。――入学したばかりの頃を思い出した。この雰囲気に引き込まれたのだ。自然と溶け込める、この空気感が愛おしかった。
 八人が終え、残すは二人だけになった。かさねさんと、前部長のいのりさん。まず、かさねさんが一歩前に出て、みなの視線をその一身に集めた。
「どうもー。みんな久しぶりだね。いよいよ卒業するわけですが、あたしが演劇部に入ったきっかけは、いのりでした。どこの部活にも入る気になれなくて、でも学校の方針でどこかに所属しないといけない、どうしようかなって迷っているときに誘われました。いのりとはなんだか馬が合って、あんまり褒めたくないけど尊敬してる部分も多いです」
 いのりさんはその隣で嬉しそうな顔をしていた。もっと言って、と欲しがる子どもみたいな表情。
「だからまさか、最終学年でいのりと腹心の友同士の役を演じられるなんて思いもしませんでした。『赤毛のアン』が一番思い出に残ってます」
 そこでかさねさんは一つ息を吸う。今にも泣きそうに見えるのは気のせいだろうか。
「どういうきっかけでこの部に入ったかはそれぞれだと思うけど、ぜひみんな、納得がいくまで続けるといいと思います。こんなあたしでも大きなものを得られたから、きっとみんななら、もっと大きなものを得られるはずです。――あとは、恋かな。学生のうちにしかできない恋もあるよ。いい恋してね!」
 言い逃げをするように、かさねさんは深々と頭を下げて、列に戻った。あたしたちは笑顔になりながら、そんな先輩に拍手を送った。
 学生のうちにしかできない恋、か。あたしにはまだよく分からないけれど、かさねさんのこととか瑞希さんのこととか、そういう現場に出くわす星の下に生まれてしまったらしいから、考えてしまうかも。どんな人と、どんな風になるのか。
 トリのいのりさんがゆっくりと前に出る。最後まで微笑みを絶やさない人だ。そこだけ鮮やかな花が咲く。
「みなさん、どうもお世話になりました。演劇部では毎年、三年生がこうやって話せる時間が与えられていて、ついに自分の番が来たんだなって思うと感慨深いです。――あたしは三年間、この時間があることの意味を考えてきました。本来、役者は舞台以外ではあまり演技のことを語らないし、語らないべきだと思っています。どんな表現をしようか考えないで照明を当てられる人はいないと思うけど、それを、舞台を離れた場所で言葉にするのは、どうあってもまっすぐ伝わりません。あるいは美化されてしまうかもしれません。あるいは評価を下げてしまうかもしれません。やっぱり、すべては舞台で観てもらって、肌で感じてもらうべきことだから。……それなのに、あたしたちはどうしてずっと部活動を振り返ってきたのか、思い入れのある作品について語るのか」
 いつもと同じで、柔らかな、ゆっくりとしたテンポの話し方なのに、そこにいるいのりさんがまるで別人に思えた。ただ黙って聞いているしかなかった。一心に、彼女の唇の動きを追う。
 彼女は深呼吸した。
「それはきっと、あたしたちが高校生だからです。高い意識を持って部活に励んでいるのは確かだろうけど、あたしたちは高校生です。舞台上で作品は完結されても、思い出を振り返らなければ、そしてそれを言葉にしなければ、高校生活という物語は終幕を迎えられません。だからずっと、この場が設けられてきた――それが、今のところの結論です」
 高校生活という、物語。あたしはここでいったいなにを残せるのかしら。
「この日は絶対にこの話をしようと決めていました。最後くらい、部長らしい姿を見せておきたいしね。
 二年生はあと一年、一年生はあと二年あります。これからどんな物語を紡ぐのか、自分に期待していいと思います。
 最後まで聞いてくれてありがとう」
 いのりさんが頭を下げても、誰もが圧倒されて、手を叩くのを忘れていた。最初にパン、と一つ打ち鳴らしたのはかさねさんだった。それを皮切りに、たくさんの手を叩く音が大きな渦となって、一番の拍手喝采に変わった。
 いのりさんはようやく顔を上げて――その表情は涙まじりの微笑みで、心を突かれるくらい美しかった。

          ●

 しんと静まり返った校舎。静謐さの中で小さく吐息を漏らすと、それがもう白くないことに心づく。いつの間に傍まで来ていたの、春。
 校門が開く時間より少し後に学校に来た。このタイミングで登校している人はまばら、だからこんなに静かで落ち着ける。わたしは特に用事があったわけではなかったけれど、なにかに急かされるみたいにして家を早く出ていた。誰かに会えるかもしれない。たくさんの誰か、が思い浮かんだ。
 やがて文芸部の部室の前で足が止まる。そこではたと、先に職員室に寄るべきだったと気づいた。先生に頼んで、鍵をもらわなければ。失敗したと思いつつも、ドアノブに手を伸ばす。そうすると拒絶の反応はなく、簡単に回ってくれた。
 それだけで分かった。浮かんでいた誰か、が一つの像に定まる。わたしはこのために早く出向いたのだろう、そんな予感を抱いた。
「やあ」
 いとも容易くファースト・コンタクトの日にタイムスリップできる。だって、あまりにも同じだったから。窓の傍でなにかを読んでいる葵さん、違うのは、今日の天気が晴天というくらいだ。
 早いんだね、と葵さんは呟く。はい、とわたしは理由を説明しない。葵さんも尋ねてはこない。相変わらず校舎は大人しくしていた。
 あの日と違うことがもう一つある。葵さんが読んでいるのは、『海のプレリュード』の脚本だった。たくさん読み込まれて、皺くちゃになっている。汗と涙が染み込んでいる、なんて言葉よりもずっと青春臭い。
「それ、どうして」
「うん。わたしの最後の舞台のホンだからね。今日の朝はこれが読みたくて」
 嬉しかったけど、素直に喜ぶわけにはいかなかった。その脚本には、当然歌の歌詞も載っている。瑞希さんの想いを基にした言葉たちが。
 できた瞬間はピュアな心を言葉で表わせた気でいたけど、今では呪いの言葉にすら感じられてしまう。『赤毛のアン』の中の言葉を借りるなら、わたしの「想像の翼」はあまりにもちゃっちぃものだった。その先に待っているものをどう捉えていたのだろう、自分が恨めしかった。
 秋の舞台が終わってから、瑞希さんは演劇部に来なくなったそうだ。新部長の入江千穂さんをはじめ、部員がこぞって声をかけたけれど、瑞希さんの足は二度と演劇部に向かなかった。なんだか近づけない雰囲気があった。
 どうしたらいいのか分からない。わたしのせいかもしれない、としたら、なんとかしたい。なのに、どうすべきか知れないのだ。
「瑞希さん、演劇部に来ないんです」
 葵さんは脚本から顔を上げなかった。横顔から考えていることは判然としない。
「わたし、瑞希さんに来年度も舞台に立ってほしいんです。だけど、どうしたらいいのか……」
「まるで演劇部の人間みたいな話し方をするね」葵さんがこちらをまっすぐに見た。深みのある瞳、夢みたいな光。魅せられそうになる。「小百合、来年度はあなたも舞台に上がったら? 小百合の演技、やっぱり観てみたいし」
「そんなの、お断りです。わたしに演技なんて無理だって、何度も言ってるじゃないですか」
「ふうん。じゃあ、脚本は書いてくれるよね?」
 それもお断りするつもりでいた。だけど、正面切ってそう訊かれると、言下に嫌ですと答えるのはためらわれた。ただ黙して、俯く。
「あれ、迷ってるの?」
「話をはぐらかさないでください」
 大丈夫、と言って、葵さんは立ち上がる。一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。綺麗な肌、頬のあたりが少し赤らんでいた。
「大丈夫、たぶん。瑞希のことはわたしがなんとかするから」
 ほんとうだろうか。かえって火に油を注ぎかねない。
 彼女は深呼吸した。演技を始めるときみたいに。
「わたし、実は感づいてた。瑞希の好意に。自惚れじゃないって確信できるくらいに、あの子の想いは分かりやすかった」
 だんだんと廊下を渡る足音と、誰彼の話し声が耳に届く。学校が一日の活動をスタートさせようと試みている。
「でも、気づかない振りをした。わたしにはいのりが一番だったから」
 いのりさん。翡翠ヶ丘のアン・シャーリー。
「はぐらかし続けて、だからこうなってしまったのはその代償で、すべて責任はわたしにある」
 葵さんはもう一度「大丈夫」を口にした。
「必ずなんとかするから」
 その代わり、上手くいったらまた脚本書いてね、とわたしの肩に軽く触れてから、足早に部室を立ち去ってしまう。わたしは急いでその背中に向かって、結果次第で検討します、と返しておいた。
 ほんとうに、上手くいくのなら。

 学校の玄関口から校門に至るまで、赤煉瓦の道が続いている。左右は低木が列をなしていて、陽の位置によって道に影を差す。卒業式を恙なく終えた卒業生たちは、講堂の出口からこの道を一人ずつ歩いて校門まで行き、学校を後にする。後輩らは低木の一歩前でずらっと居並び、そんな先輩たちを見送る。毎年お馴染みの光景だそうだ。
 卒業生たちはみな一輪の薔薇を手にしている。その表情は華やいでいたり、哀愁を帯びていたり、楽しげであったりした。学校の中を歩く、最後のとき。
 続々と目の前をいろんな表情が通過していく。貴子さんだ、とミナちゃんが叫んだことで、もうすぐこちらへ貴子さんが来るのが分かった。貴子さんはどちらかというと硬い表情を浮かべていたけれど、わたしたちを認めるとにこやかに微笑んだ。薔薇を持った手を掲げる。
「貴子さん、ご卒業おめでとうございます」
 二人で声を揃えて告げる。ありがとう、といつにないくらい優しい声音で貴子さんは応えた。
「二人と出会ったのはつい最近のような気がするけど、もうこんなに時間経っちゃってたんだね。次の舞台、楽しみにしてるよ」
 わたしとミナちゃんの両方に目配せをしたから、貴子さんまでまたわたしが劇に参加するものだと決めつけている。そんなの、ぜんぜん分からないのに。
「葵さんは?」
 記憶が正しければ、葵さんと貴子さんは同じクラスだったはずだ。近くにいるだろうと思ったのだが。
「うん、それが、ファンに掴まっちゃって、足止め食ってる。しばらく来ないかも」
 苦笑いするしかなかった。相変わらずの後輩人気だ。まあ、女子校であの容姿では、人気が出ない方がおかしい。
「葵さんは最後まで葵さんやね」
「さすがというか、なんというか……」
 そんな風に言葉を交わしていると、遠くからだんだんと渦中の人の姿が近づいてきた。余裕を持って周囲の様子を眺め、ときに笑みを湛えて、悠然と歩みを重ねていた。まるで彼女だけ赤煉瓦の上ではなく、レッドカーペットの上を歩いているみたい。――でも、こんな感じに校内を賑わせてくれる存在も、明日からいなくなってしまうのか。寂しい、よりも、実感が湧いてきそうにない。
 不意に、わたしたちの元まであと数歩というところで、葵さんは「瑞希!」と短く叫んだ。戸惑って彼女の視線の先を探ると、木立の影、生徒たちの列から外れた場所に誰あろう、瑞希さんがひっそりと佇んでいた。その表情には覇気がなかったが、ちゃんと来ていたことに安堵した。
 葵さんはわたしとミナちゃんの横から赤煉瓦の道を抜け、まるで相手に逃げられてしまうのを警戒しているみたいに、俊敏に彼女の方へ向かった。しかし、瑞希さんは逃げようとしなかった。
 わたしたちはその成り行きを見守る。葵さんと瑞希さんが真正面から見つめ合って話す言葉を拾いながら。
 なんとかする、と葵さんは言っていた。葵さんはずっとなんとかしてきた人だ。後輩の脚本が気に入れば舞台化したし、オリジナル曲の作曲まで手がけた。なんとかなるのだろう、そう思い始めていた。
「瑞希、久しぶりだね」
「…………」
 じっと黙って、それでも葵さんから視線を逸らさない。まだ好きなのかな。だけど、誰かを好きになるってきっとどうしようもないものだ。意識の外へ追いやるのは骨が折れるだろう。
「部活、出なよ」
「…………」
「演技、好きなんでしょう。次も主演でしょう? 小百合がまた素敵な脚本を書いてくれるから」
 ちらっと、瑞希さんがこちらを見やった。急に話題に出され、わたしは仕方なく頷く。真剣な表情と笑顔の中間くらいの顔をして。自分に都合がいいように解釈しているのかもしれないけれど、確かに、瑞希さんの背中を押したのはわたしだった、でも、あのとき、彼女は誰かに背中を押してもらいたがっていたのではないかな。だって、瑞希さんのわたしを捉える瞳に、責めるような色は見当たらないもの。
「葵さん」瑞希さんがようやく声を発した。「付き合っている人がいなかったら、あるいは、その人がいのりさんじゃなかったら、わたしの申し出、受けてくれましたか?」
 心臓が凍る心地がした。そうやって訊けてしまうなんて。
「恋愛にもしもの話は野暮だと思うけど」葵さんはすらすらと答える。訊かれることを分かっていたみたいに。「わたしと瑞希は付き合えなかった。現在あるのはその結果だけ。――だけど、こんなこと言ったら嫌だろうけれど、瑞希に好きだって言ってもらえて嬉しかった。それはほんと。だって、瑞希はかけがえのない、かわいい後輩の一人だからね」
 ここだけ時間が止まっているようだった。わたしたちだけ見えない膜で覆われている。早朝の部室と同じ、喧騒から隔てられた、静謐さを湛えた空間。その空気感に、だが、隣で貴子さんが焦れているのが伝わる。早くしないと、二人だけ取り残されてしまう。
「葵さん」恋慕の色をした瞳が決意のそれに変わった。「次の舞台も絶対に観にきてください」
 あなたのこと、振り向かせてみせますから。
 葵さんは艶然と微笑む。見えない膜が間もなく弾けるときを迎える。
「楽しみにしてるよ」
 片手を上げて、葵さんは瑞希さんの傍から離れる。赤煉瓦の道に戻って、颯爽と歩き出す。貴子さんはなにか言いたげだったが、結局諦めたように首を左右に振っただけで、そんな彼女に続いた。
 背中が小さくなっていく。角を曲がって、ついには見えなくなる。それまでずっと、瑞希さんは想い人の背中を瞬きすら惜しむようにして見つめていた。
 そしてわたしは、美しく輝く乙女の横顔を捉えていた。やっぱり、また脚本書こうかな、そんな気持ちを抱きつつ。

          ◯

 分かりやすいくらい新入生の顔をしていた。
 校門の前で立ち止まって、校舎を目が回るのではないかと危惧するほどにぐるりと見回し、一歩、校内へ足を踏み入れてからもあたりを興味深げに観察するその目は、純粋な光を宿していた。もしかしたらもうあたしたちが失ってしまった、きらきら。
「かわいい」
 芽瑠が口の前に手を当てて、思わず、といった感じで笑っていた。同調するようにミナちゃんも「かわいい」と呟いた。たぶん二人の「かわいい」はちょっと込められた意味合いが違うだろうなと思いながら、芽瑠寄りの「かわいい」を発した。
「でも、誰かに似てる気がする」
 ミナちゃんがそう言っても、首を傾げるしかなかった。言った当人も、誰と似ていると感じたのか分かりかねているようだ。
 あたしたちは新入生向けに部活勧誘のビラを配っていた。環境に配慮した再生紙。学校はすでに新たな女生徒たちを迎え入れ、次第にそれらを溶け込ませ始めていた。誰が演劇部に入ってくれるだろう。一番人気を維持してきた部活とはいえ、上級生の勧誘活動如何でまったく人数は変わってくるはずだ、と部長の紅美子さんは口にしていた。
 誰からともなく、かわいらしいお嬢さんに近づいていく。最初に話しかけたのはあたしだった。
「こんにちは」
 夢から醒めたみたいな表情で、こちらを向く。無垢で、抱きしめたくなる。
「こ、こんにちは!」
 びっくりしながらも、ちゃんと挨拶をしようとする心がけか、大きな声で、深々と礼をした。ややオーバーなきらいはあるけれど。
「新入生、だよね?」
「はい!」
「元気いっぱいね」
「ありがとうございます!」
 明るい子だ。自分が入学したばかりの頃はどうだったっけ。演劇部に入ることしか頭になくて、そうしたらミナちゃんと出会えて。やがてそこに芽瑠が加わった。あたしたちは先輩にどう映っていたのかしら。
 いつでも思い起こせる、差し招く手。誘ってくれたのは、誰よりも温かい手を持っていたいのりさんだった。そんな存在になれますように。
「入る部活は決めた?」
 元気そうだし、体育会系かなと予想していたが、お腹から声が出せているから演劇部もアリだと思うけど、と勝手に頭の中で会話を組み立てていたら、「はい!」と即答された。
「そうなの。どこの部活?」
「演劇部に入りたくて」
 申し遅れました、あたし、刈谷藍葉といいます、と付け加えて名乗った。丁寧な口ぶりのときのまじめな眼差しを目の当たりにして、あたしもようやく彼女が誰かに似ているという考えが浮かんだ。
 紅美子さんの周囲に目を配る瞳、指示を出すのにせわしない口、笑うときにちらりと覗く白い歯。
 ミナちゃんの観察眼の鋭さに敬服。

 分かりやすいくらい気まずげな姉の顔をしていた。
 演劇部の活動場所を探していたという藍葉を空き教室まで連れていってあげると、ストレッチをしていた紅美子さんはあたしらの連れを目にして、口をあんぐり開けた。だが、次の瞬間には取り澄ました表情を張りつけて、素知らぬ風をした。
 藍葉はパッと傍を離れたかと思うと、そっぽを向いてしまった姉に駆け寄って、「お姉ちゃん!」と呼びかけた。その声がやはり大きかったことから、ほかの部員にもその二人の関係が分かってしまった。確かに、よく似ている。
「学校ではお姉ちゃん、と呼ばないで」
 紅美子さんは常日頃から、自分は調整役の部長だから、もしかしたら厳しい姿勢で部をまとめることができないかもしれない、と漏らしていた。そこはほかの三年生と協力しながら、自分なりのやり方で最善を尽くしていく、という言葉を言い添えながら。そして、新入生を迎えるまでの数か月間、紅美子さんらしさで部はちゃんとまとまっていた。そもそも、厳しくしないと怠けるような人は、この部に存在しない。
 だから、妹に対して低い声で告げる紅美子さんを見て、なろうとすれば鬼教官にだってなれるのではないかな、と認識を新たにした。
「え、じゃあ、なんて呼べば……」
 まじめな紅美子さんと、天然な性格をしている藍葉とではいいコントラストだ。
 紅美子さんはストレッチを完全にやめて、立ち上がる。「ほかの後輩はみんな、紅美子さん、と呼んでるの。あなたもそうして」
「うん、分かった」
「分かりました」
「分かりました!」
 誰からともなくクスクス笑いが生まれる。紅美子さんには申し訳ないけれど、二人の応酬はとても微笑ましい。
 その笑いをかき消すように咳払いをしてから、紅美子さんは「藍葉、本気で演劇部に入るつもりなの?」と尋ねた。ようやっと声が普段のトーンに落ち着く。
「そのつもり……です。翡翠ヶ丘に入れたら、絶対に演劇部にしようって決めてましたから」
 その声音からも、彼女の思いに偽りがないことが窺える。紅美子さんも真っ向から拒絶するつもりはないらしく、しょうがないな、と肩を竦めてから、「一年生のうちは裏方の仕事を率先してやるのよ。常にまわりに気を配って、上級生を敬うように」
 藍葉は敬礼でもしかねない勢いで返答をする。その威勢のよさに少しだけ安心した。なんとなくだけど、彼女となら上手くやっていける予感が芽生えた。

「へえ、妹さんが入部したのね。それはお姉さんがやりづらいかもね」
 ハーブティーの澄んだ香りが鼻をかすめる。深く吸い込んで、その心地よさを確かめる。目の前に座る小百合はコーヒーにちびちびと口をつけているだけだ。彼女は猫舌だから。
 駅前にある昔ながらの喫茶店に二人で向かい合っている。店内は広々としているから基本的に席は空いているし、そのわりに仕切りで細かく区切られているため、ゆっくり話し込める。翡翠ヶ丘や旭山の生徒のご用達だ。
「そうなの。なにぶん、紅美子さんは部長だからねー」
「紅美子さんって、ギルバート・ブライスを演じてた方よね。妹さんはよく似てる?」
「うーん、まあ、顔は似てる。でも、妹ちゃんは少年みたいな髪型してるし、むだに元気がいいから、すぐに姉妹とは分からなかった」
 むだに元気がいい、小百合はそこを繰り返して小さく笑った。
「ほかには、気になる一年生いた?」
 あたしは顎に手を当てて考える。演劇部に入りたい、という子はおしなべてしっかりしていて、やる気が漲っている。それは大変けっこうなことで、だからこそ、そうじゃない子はすごく目立つ。
「なんか、演劇部らしからぬ、というか、内気な子が入ってきてね。いつもぼそぼそと喋るし、目を合わせてくれないし」
「へえ、それは珍しい」
 小百合もすっかり演劇部がどういうものか把握している。
「悪い子じゃないんだけどねー。ただ声が小さいのはこれからなんとかしないと」
 忍田智恵子、といった。おしだ、という馴染の薄い苗字もさることながら、智恵子、という名は某詩人の詩を連想させる。
「どうして演劇に興味を持ったんだろう?」
「さー。観劇が好きで、好きが高じたのかな。自分でもやってみよう、って」
 とはいえ、あたしもその口だから、ほんとうは偉そうなことは言えない。
「旭山の方は? ……って言っても、小百合は演劇部に顔を出してないか」
「うん、とりあえず最初は。文芸部の新歓のお手伝いをしないといけないし」
 だけど、と続ける。「だけど、演劇部にも足しげく通わないとね」
「どうして?」
「だって、もしまた脚本を書かせてもらうのであれば、一年生とまったく面識がないのはまずいから」
 あたしは嬉しかった。小百合が演劇部に前向きに関わろうとしている事実。あたしがけしかけたわけでもないのに、不思議な縁だ。
 嬉しさが表情に滲み出ていたのだろう、小百合が「なあに? その笑いをこらえてるような顔は」と尋ねてくる。なんでもない、と首を振って答える。言ったら、小百合が脚本を書くのを嫌がってしまうかもしれない。きっと書くだろうけれど。
 早く秋の舞台が来たらいいのに。また舞台に立って、旭山の演技を観て、最高に刺激的な一日を送りたい。
 ハーブティーを一口啜った。喉の渇きが癒されて、小百合にさらに報告を重ねる口にとっての一助となる。別の学校で生活していると、話したいことは自然と増えていく。

          ●

 夢を見た。今朝方のことだ。どのあたりでこれは夢だと気づけたのか、途中からわたしは夢を見ているのをしっかり意識していた。
 その映像は押し入れの奥からアルバムを引っ張り出してきたように、過去の記憶の一場面を照らしていた。通っていた中学校の教室で、クラスメイトとなんでもないことを話す、かつてあった日常。わたしと花音は隣り合って、そうしないと呼吸が上手くできなくなるみたいに、傍らの親友にしばしば視線を送る。わたしの方から見るだけで終わるときもあれば、花音がわたしを見てくれるときもあった。目が合う、という作業は、まずこちらから見ようと試みなければ実現しない。わたしはいつでも花音を捉えていた。
 夢には色がない。でも、場所ははっきりとそれと分かる。声がかすかにするような気がする。気がするだけで、会話の内容は曖昧。ただ、楽しいと感じている。
 自分の席から立ち上がる動作をしようとした瞬間、夢は唐突に彼方へ去ってしまう。ベッドの上で上半身だけ起こし、カーテンの隙間から射し込む光によって、朝が来たことを知った。学校へ行く支度をしなければ。
 カーテンを開けると、光は部屋全体に広がる。一気に時間を押し進めたような感覚。すると、ベッドの下から呻き声が聞こえた。忘れていた。今日は花音が家に泊まっていたのだ。いきなり光を当てられて、彼女も目を醒ました。「もう、朝……?」
 喫茶店でお茶した日、次のお休みの日にお泊りしようと誘った。中学の頃は頻繁にお泊りをしていた。花音は快諾し、日曜日に我が家へ顔を出した。夜が更けるまでお喋りに興じ、いつ眠りに就いたのか判然としないくらいだった。
 今朝は一緒に登校する。「もう起きなきゃ」
「うん」
 目をこすって、花音は眼鏡をかけてからすっくと立ち上がる。お互いに寝起きはいい方だ。
「どんな夢を見てた?」
 準備を整え、身だしなみをチェックし、一緒の朝ごはんを食べた。心なしかいつもよりおいしく感じられたのは愛おしいことだった。いってきます、をお母さんに告げ、わたしの家から学校へ向かう。駅までの坂道を上っている中途で、訊いてみた。どんな夢を見てた?
「憶えてないや」
 束の間の逡巡があってから、花音は首を横に振った。小百合は、と訊き返される。
「中学の教室で、みんなと話してる夢だった」
「そうなの」花音は目を輝かせた。「わたしもいた?」
 もちろん、と答えて、頬が熱くなった。もちろん、だなんてよく言えたものだ。
 そっと花音の様子を窺うと、壊れものを優しく包み込むような笑顔でこちらを見つめていた。よかった、安心する。わたしはまだ一線を踏み越えていない。踏み越えられない。
 わたしと花音は見た目がまったく異なるし、好きなものが共通しているというのはあるけれど、性格は動と静という感じだ。髪をいつも伸ばしていて、特にアレンジを加えないわたし。切り揃えられたショート・ボブ、丸眼鏡がとても似合う花音。静かに言葉と向き合うことが好きで文芸部に入ったわたしと、演じることに魅入られ演劇部に入った花音。だけど、いつも思う。わたしたちは根底にあるものは同じ。もしかしたら、同じだと思いたいだけなのかもしれない。願望交じりだったとしても、わたしたちは親友になれた。それだけはほんとう。
 電車に乗り、身を寄せ合いながら揺られ、たどり着く。温泉街を抜け、川沿いの道を進んで、それぞれの学校に別れる。お互いの居場所へ行くために。手を振り合ったあと、背中を向けてから、わたしはもう一度振り返った。花音は緩慢な足取りで遠ざかっていく。その背中がたまらなく愛らしくて、それが小さくなっていくのがもどかしかった。駆け寄って、腕を掴んで、抱きしめたかった。唇を重ねてみたかった――。
 突然の衝動だった。わたしの中にこんな感情があるなんて知らなかった。だけど、抑えつけなければならない。内側に閉じ込めなければならない。吐き出したら、すべてを簡単に壊せるから。
 しかし、それには骨が折れた。抑えつけると胸が窮屈になった。得体の知れない感情を持て余している。教室でミナちゃんに会い、いつもの関西弁を聞いていたら、次第に胸は安らいできた。
 放課後になってから、今学期初めて演劇部の活動場所に出向くと、そこには――驚くべきことに――中学生時代の花音がいた。

 講堂がほかの部活で使用されているため、今日は広めの空き教室を一つ借りて活動していた。クラス授業が行われる教室二つ分はあり、さらに机や椅子が端に寄せられているのでかなり広々として見えた。
 演劇部の新人さんは今年も多かったようで、知らない顔がいくつもある。せっかく馴染めたと思っていた場所だったのに、すっかり雰囲気や、匂いまで違っている。小心者の脚本家は、縋れる存在を見つけて駆け寄った。
「ミナちゃん」
 ミナちゃんはさっきから入ってきたわたしに気づいていた。笑顔で迎えてくれる。「どないしたん、びっくりした顔して」
「いや、今年も新入生が多いなって思って」
 ミナちゃんは唇を薄く開いて笑う。「人見知り発動中ってこと? 去年もこの時期に顔出したやん、葵さんに連れられて」
 言われて、それがちょうど一年前の話だったと思い起こす。ミナちゃんとともに文芸部の部室に行ったら葵さんがいて、彼女の案内でなぜか演劇部の活動場所へ移ったのだ。あのときもたくさんの知らない人たちに委縮した。それにしても、経過した時間は確かに一年なのだろうけれど、体感的にはもっと昔のことのような気がする。それくらい、思いがけないいろいろに見舞われたからかしら。
 やっぱり、演劇部に来る生徒たちはどこか自信ありげで、頭の上から吊るされているみたいに姿勢がいい。本来なら彼女たちとわたしは生息している範囲が異なるはずなのに、どうして同居しているのだろうか。不思議な心地。
 新入生はみな部長の入江千穂さんの指示を神妙に聞いて、発声や柔軟などに取り組んでいる。葵さんと貴子さんに指名されて部長に就任した千穂さんは、お姉さんというよりもしかすると年若いお母さんといった方が合っているかもしれない。肉付きがよくて色っぽさがある。なにより、常に柔和な印象を崩さず、安定感抜群。葵さんがふらふらとしがちなカリスマで、まじめだけどちょっと堅実すぎるきらいのある貴子さんといいバランス関係だったが、千穂さんはどちらかというと貴子さん寄り。二年生のもう一人、瑞希さんが葵さん路線を受け継いだ感じはあるから、今年のシーソーも変に傾かなさそう。
 千穂さんは陰で「聖母」と呼ばれている。誰が言い始めたか知らないが、人前で声を荒げたことのない彼女はそう呼ばれている。わたしも落ち着いている千穂さんしか見憶えがないから、その愛称は頷ける。それにしても、陰で囁かれている名が「聖母」とは恐れ入る。
 二、三言葉を交わして、ミナちゃんも部員たちの元へ行ってしまう。一人でぽつんと隅に寄り、周囲の様子を観察した。女子校の部活動は当然女子しかいないため、なんとなくいい匂いがする。みんなはどのシャンプーを使っているのだろう。
 だんだん、新入生の顔ぶれに目をやることができた。動きが機敏だし、かわいい子ばかり。翡翠ヶ丘の方のミナちゃんが喜びそうな絵だ――むろん、翡翠ヶ丘の演劇部にもかわいい子が多いけれど――と思っていると、一人の少女に目が留まった。
 胸の内でいろんな感情が一度に湧いてきて、すべてぶつかり、かえってなにも残らないみたいにして。その少女を目にした瞬間、あらゆる思考はストップし、周囲の声も遠くなった。わたしだけさっきいた場所から隔てられ、今朝見ていた夢へ引き戻された感覚。
 あまりにもそっくりだった。眼鏡をかけていて、髪型は三つ編み。高校に入ってショート・ボブにした花音の中学生の頃に瓜二つの少女が、そこにはいた。顔立ちや、笑い方なんかもよく似ている。周りと談笑している様子などからは、彼女から積極的に話しかけないあたり、花音と比べて控えめな性格だと分かる。
 それからずっと目が離せなくなった。一挙手一投足を捉え、脳裏に焼き付けんばかりだった。一度その存在に気づいてしまうと、もうどうしようもなく意識せざるを得なかった。
 窓の向こうに聳える山が茜色に染まる段になって、今日の活動は終わりとなる。せっかく顔出しに赴いたにもかかわらず、わたしは新入生たちに挨拶すら果たせず、のこのこと家路についた。――ただ一人を除いて。
 沼田鈴花。それが、花音似の少女の名前だった。

          ◯

 古びたこの校舎で囁かれるいくつかの噂。明らかに作り話だろうと一笑にふせるものもあれば、これはほんとうのことではないかと色めき立ってしまう類のもある。結局は、根も葉もないと切って捨てるも、火のないところに煙は立たぬと信じるのもそれぞれの自由。
 特に囁かれていなかったが、あたしが気にしていたことがあった。それは、いのりさんがお付き合いをしている相手の誰何で、すでに解決を見た。もしかしたら、学校の傍で密会を繰り返したかさねさんのことも噂されていたのかもしれない。
 なんにせよ、女生徒たちは色恋沙汰が好きなようで。わたしだって、周りの人が誰に好意を寄せているのか、あるいは、誰かから好かれているのか、みたいな関係性について気にならなくはない。気にならなくはないけど、積極的にその答えを求めようとしない。
 一つの噂を最近聞いた。学校の奥まった位置にある、普段は使われていない非常階段で、密会を繰り返す生徒と先生がいるらしい。話していた当人たちは、禁断の恋、だなんてはしゃぎ気味だったけれど、その設定がかえって作りものめいている。第一、わざわざ校内で危険を冒さなくても。
「ん? どうした、深川。おれの顔になんかついてるか?」
 今日の部活には珍しく顧問の相川先生が顔を出していた。幽霊部員より幽霊顧問の方が困りものだけど、それでも来たら自然と溶け込めるのは先生のキャラクターだろうな。
 女子だけのこの学校で、生徒と釣り合うくらい若い男性の先生といったら、相川先生が真っ先に浮かぶ。誰かと密会をしている様子なんて不似合もいいところだが、先生を見たら噂を思い出してしまい、つい見つめていたようだ。「なんでもありません。先生が部活に顔を出すなんて珍しいから、明日雪が降らなければいいけど、って心配してたんです」
 少し離れた場所にいた紅美子さんが声に出して笑う。「まあ。花音も言うようになったね」
 自分でも悪びれることなく口にしたのに驚いたけど、先生は許してくれた。「いいんだ、ほんとうのことだからね」
 先生は生徒から好かれている。理不尽に怒らないし、筋道立てて話してくれる。そういう大人ってきっと貴重だ。
 先生に噂について尋ねたら、どんな反応を見せるだろうか。噂になっている男の人、きっと先生のことですよ、って告げてみたら、どうだろう。それでも先生は笑って許してくれるだろうか。いいんだ、ほんとうのことだからね。
 ハッと気づいて、考えごとを頭の中から締め出した。さっきから、あたしはなにに囚われているのかしら。
 新しい学年になって、後輩ができて、一か月が経過した。緊張して身構えているうちに、あっという間に数多の出会いは過ぎ去り、今は定着の期間に移行している。数人、ほかの部活に改めた人もいたけれど、それは毎年のこと。現在のメンバーでしばらくは固まるだろう。
 そうなると、そろそろ秋の舞台の話が出てくる。今年はどの作品にしようか。はたまた、配役は――。
 去年、旭山がオリジナル脚本で挑んだ経緯があるので、こちらもそれを検討しようか、という話も挙がった。ただ、また小百合が書くらしいことをあたしが伝えると、差別化を図る意味でも、うちらは過去の名作を大事に表現する道を選ぼう、と紅美子さんが持論を述べた。みな、その方針に賛成だった。
 作品を絞る作業は、部長の紅美子さんと、もう一人三年生の中心人物、堀愛さんが担当する。去年は全体で話し合いの場を設けたが決まらず、結果、この二人といのりさん、かさねさんの四人だけに任せる形になった。船頭が多くても船は山に上るだけ、間違いのない方法かは分からないが、早く決まることは確か。
 と思っていたら、先日、あたしとミナちゃん、それに芽瑠は紅美子さんに呼ばれた。
 ――三人にも、作品の選考を手伝ってほしい。
 紅美子さんはさらに、やっぱり、来年のことも踏まえて、後輩が話し合いに噛むべきだと思うの、と付け足した。三人とも、なにも言葉を発せなかった。ただ黙っているしかなかった。どうして、あたしたち三人なんですか? 問いは、泡のように浮かんでは消える。
 ――あなたたちが一年生で舞台に立てたのは、偶然じゃないと思うよ。
 言われた言葉の真意を、あれからずっと考えている。紅美子さんは、いったいなにを……。
 分からなくても、断る理由は皆無だった。神妙に頷いて、後日の話し合う機会までに思案してくることとなった。
 ミナちゃんも、芽瑠も、どうするのかな。そして、あたしは。あたしがやりたいものを挙げてしまってもよいのだろうか。それとも、紅美子さんや愛さんが主演になると仮定して、見合うものを探すのが正しいのか。
 悩ましい。だけど、悩めるってきっといいことだ。あたしはそう捉える。
 答えをそこに求めるみたいに、窓の向こうを見やった。木々が風に揺れている。その音は明瞭な声に変わりはしない。――今頃、湖は茜色に美しく染まっているはずだ。
 小百合。あなたは今、なにを考えている?

 道端に咲く花に気づける心があってよかった。いつも感じる。さりげない存在に光を当てられる、紅美子さんみたいだ――。
 紅美子さんは裏方の仕事に興味を持っていて、将来的にも劇団のそういう仕事に関われたら、とずっと公言していた。そんな彼女の姿勢が評価されたからこそ、いのりさんが部長に指名したのだろう。
 秋の舞台では、毎年、部長になった人が主演を務める。特に誰も違和感を覚えることなく、伝統の一つとして受け継がれてきた。旭山はそのへんは流動的で、去年だって、葵さんはメインキャストだったものの、主演は瑞希さんだった。だが、翡翠ヶ丘の伝統はあまりに歴史が長い。
 ところが、紅美子さんは、自分が主演じゃない方がいいと、話し合いの冒頭で告げた。青天の霹靂。前提から覆された。
 ――あたしも最後はちゃんと舞台に立つつもりだけど、でも、あたしが主演では華がないと思うの。
 そんなことない、と即座に返すのは、かえって嘘くさい気がした。
 ――それを愛にも伝えたら……。
 そこで、愛さんが続きを話す。
 ――あたし自身も、主演向きじゃないから、って伝えた。どうせなら、あなたたち三人がメインになるストーリーを選んだらいいんじゃないかって、そういう結論に達した。
 二人とも簡単に喋っているけれど、きっと、たくさん考えて、それらを言葉にしてきたのではないか。高校生活でたった一度のチャンスを誰かに振れるほど、演劇部の人間は無欲じゃないから。主演っていうものは、すべての人が等しく望む光。
 ――いいんですか、それで……。
 ミナちゃんがか細い声を絞り出した。お二人とも、後悔しませんか?
 すると、二人は目を見交わせてから微笑み、揃って首を横に振った。
 ――いいえ。むしろ、この話が実現しなかったときの方が後悔する。
 ――あたしたちは見たいのよ、三人が輝いてるところ。
 鼻をすする音がして、横を向いたら芽瑠が泣いていた。その赤くなった瞳に映る少女――つまりあたしも、涙をこぼしていた。そして、ミナちゃんも。三人とも嬉しくて、嬉しくて、どうしたらいいのか分からなかった。身に余る、その言葉よりもずっと身に余る。
 紅美子さんと愛さんは作品も決めてきていた。はじめから、話し合いという場は、このアイデアを伝えるために設けられていたのだ。
 今年の秋の舞台、翡翠ヶ丘高校が披露する作品は、津島佑子『火の山―山猿記』。難しいし、原作はとても長い。どの部分を切り取るのか、そして落としどころをどう見定めるのか、検討する余地は多くある。
 だが、話の中心となる三姉妹――笛子、杏子、桜子という名前なのだが――を演じる生徒は決まっている。
「なんだか、とんでもないことになっちゃったね」
 隣を歩く芽瑠が夢見心地で呟く。同感だった。「どうしたらいいんだろう、って感じ」
「だけど、さ」
「うん」
 がんばらないとね。うん。中途半端なことは絶対にできない。紅美子さんが、愛さんが与えてくれたこの機会、期待以上の内容で応えなければ、自分を許せないだろう。
 不安は強い。だけど、あたしは演劇が好きだ。舞台に立ちたい。自分ではない誰かを表現する快感をもう知ってしまったから、それから逃れられない。――小百合に伝えたい。この不安を。この至福を。
「大丈夫、桜子?」
 黙りがちになっているあたしの顔を、芽瑠が覗き込んでくる。心配してくれているらしい。芽瑠だって、プレッシャーを感じているはずなのに。――芽瑠の瞳、綺麗だな。
「うん、杏姉ちゃん。ちょっとだけ、不安はあるけど」
 三姉妹のうち、あたしが三女の桜子。芽瑠が次女の杏子。長女の笛子を演じるミナちゃんは、今日は三浦のミナちゃんとお泊りすることになっている。一度、ミナちゃん同士でお泊りしてみたかったそうで、その約束を今日していたのだ。
 演劇部に入って仲よくなった三人で三姉妹を演じられる――それがなによりも嬉しい。
 突然、芽瑠が両手をあたしの頬に当て、笑いかけたかと思うと、瞬きしている隙にぐっと近寄せてきた。芽瑠の息遣いが、あたしの唇にかかる。そして互いの唇は、重なってしまう。
 あたりは暗くて、静かで、川のせせらぎが聞こえるばかりだった。そんな風に気にしながら、でも、もしかしたらと考える。もし、こんなところを誰かに見られていたら……どうすればいいの。
 軽く触れただけで、芽瑠は唇を離す。今までに感じたこのない感触を残して。芽瑠はまた笑みを作った。
 元気、出た?
 声が出なかった。感情が定まらなかった。ちゃんと立っていられるのが不思議だった。ふわふわとした心地のまま、だけど芽瑠から目を離せず、ただ頬が熱くなる。なにを言えばいいの。笑えばいいの、泣けばいいの。分からない。
「どうしたの、花音」
 仲のいい女の子同士、キスをするなんてふつうでしょう?
 川の水音に耳を澄まして、木々の葉の囁き声に答えを求めるようにして。
 あたし、たった一人を除いて、ミナちゃんやほかの同級生のことは、ちゃん付けかニックネームで呼んでいるのだけれど、芽瑠だけは最初から「芽瑠」だった。
 たった一人、小百合を除いて。

          ●

   五月○日

 今日から日記をつけてみることにしました。きっかけは、ミナちゃんと話しているとき。ミナちゃんは中学二年生の頃から毎日欠かさず日記をつけているそうです。日記をつけると、後からその日のことを振り返れますし、自分の考えをまとめるのに最適だそうです。やってみたら、と勧められたので、とりあえず一度やってみることにしました。どれくらい続くかは分かりませんが、せめて、三日坊主で終わらなければいいです。
 日記を買うのはちょっとだけ難儀しました。文房具も置いている駅前の本屋で探してみたのですが、この時期は置いていないとの話。仕方なく電車で隣町まで行って、そこのデパートで購入しました。種類が豊富で、絵柄がかわいらしいものもあり惹かれましたけど、自分らしいシンプルなものを選びました。けっこう気に入っています。形から入るのは大事です。
 演劇部の活動に足しげく通っています。文芸部よりもよく行くので、葵さんみたいに幽霊部員扱いされないか不安です。わたしはちゃんと両立してみせます。
 部長の「聖母」こと千穂さんが全部員の前で、劇の脚本は文芸部の二年生、中田小百合さんに今年もお願いします、と話してくれました。事前に打ち合わせもなにもなかったため、その場で恐縮しきりでしたが、これで正式に脚本担当と相成りました。がんばります。
 千穂さんは、去年の「海のプレリュード」は好評だったからと言ってくれました。ですが、それはひとえに葵さんと瑞希さんの演技と歌のおかげに違いありません。わたしの拙い作品を、あんなに素敵なものにしてくれたのですから。
 去年はあれよあれよという間に当日まで流されていきました。しかし、今年はちゃんと責任を感じる時間があります。その期待に応えたいです。ただ、それだけ。
 沼田鈴花。一年生。彼女を意識しない日はありません。
 初めて話してみて、その印象が花音と重ならないことに安心している自分がいました。よかった、彼女は花音ではない、と。当たり前なのに。
 鈴花は普段は大人しく、自己主張もしない子です。少し、演劇部にいるのが不思議になるくらい。でも、スイッチが入るというか、活動中はしっかり声も出て、動きも機敏です。加えて、物怖じしないタイプらしく、緊張で硬くなる瞬間は見受けられません。
 彼女を上手く、劇の中で使いたい。密かに思案しています。
 それにしても、見た目はほんとうによく似ています。笑っている顔も、まじめに考えている顔も。
 翡翠ヶ丘は今年、どの作品を披露するのでしょう。そろそろ決まるはずです。花音は、どんな役どころになるのでしょうか。気になります。
 今日の帰り、ミナちゃんと帰ろうとしたら、塚原のミナちゃんと約束があるからと、行ってしまいました。仕方なく一人で帰っていると、川の向こうに花音を見つけました。その隣には、遠くてもツインテールで分かる、芽瑠ちゃんです。向こうもミナちゃんを奪われたのだと知れました。
 手を振ったら気づいてもらえるかな、と手を上げかけましたけど、陽が暮れてきたので見えにくいでしょう。それよりは先に駅に向かって、二人を待っていようと心に決めました。夜空の星を探しながら、さっきよりも早歩きで帰りました。
 芽瑠ちゃんは花音とどんな話をしていたのでしょうか。花音と一緒に帰れる彼女が妬ましいです。

   六月☓日

 日記、まだ続けています。わたしは普段、頭の中であれこれと考えがちで、過去をふと振り返って記憶を整理する、みたいな作業をしているせいか、改めて日記に書いてしまうとほんとの気持ちじゃないように映ります。感情的なものでしょうが、脳内でできごとを言葉に置換することと、実際に外に表そうとするのではまるで手応えが異なります。
 そうは言いつつ、まだ続けるつもりです。
 脚本が形になりました。前々から言われていた上に、去年の経験があるため、大まかなストーリーが固まればスムーズでした。部長の千穂さんに見せるときは緊張しました。白紙に戻されたら立ち直れないかもしれない、と思うほどに。
 ですが、千穂さんは目尻にくしゃっと皺が寄るいつもの笑い方で、うん、すごくいい、と言ってくれました。小躍りしたいくらい嬉しかったです。
 今年描いた物語は、「箱に願いを」という題のこれまた学園ものです。メインとなる少年と少女は、それぞれ千穂さんと瑞希さんが演じます。どんな反応があるか、不安でもあり、楽しみでもあります。
 演劇部ではすでにその脚本で稽古が始まっています。わたしも連日立ち会っていますけど、これといってなにも言えません。言わなくても、みなさんがよりよくしてくれるだろうことは知れているので、ただ見守るだけです。舞台は生き物。美しく羽ばたく日を望みます。
 そういえば、翡翠ヶ丘は今年、津島佑子の『火の山―山猿記』をやるそうです。未読の作品だったので図書館で借りてみたら、その長さに驚きました。伝統校のお嬢様たちはいい作品を知っているのですね。花音は、自分の役についてまだ教えてくれません。当日のお楽しみらしいです。いじらしい。
 最近、鈴花と話す機会が増えてきました。
 鈴花は都心から時間をかけて学校に通っていて、旭山を進学先に選んだのは、自然が豊かな学校に行きたかったことと、やはり、演劇がやりたかったからだそうで。旭山、あるいは翡翠ヶ丘に来る女生徒はだいたい二つのパターンに分かれます。自らの意思でほかの場所からここを求めてくるパターン。もう一つは、家族の意思に押されて。母親が通っていた、とか、娘をお嬢様学校に行かせたくて、とか。演劇部志望の女生徒は前者のケースが多いでしょう。
 鈴花はわたしが脚本を書くようになった経緯に興味を持ちました。去年の舞台も観にきていたそうで、「海のプレリュード」のことも葵さんのことも知っていたので、簡単にその経緯を話しました。鈴花は相槌少なく最後まで聞き、わたし、あの作品すごく好きです、とまっすぐに伝えてくれました。その瞳の目映かったこと……。
「箱に願いを」において、鈴花は役を勝ち取りました。わたしが彼女をイメージした役を一つ紛らせていたので、公私混同と言われてしまえばそれまでですけど、オーディションで射止めたのは彼女の実力です。その奇跡に胸が震えました。
 花音。あなたに好きと伝えたら、ちゃんとした意味で受け止めてくれるかしら。
 もし、鈴花だったら――節操のない自分に戸惑います。
 今日は早く眠ります。

          ◯

 じりじりとした暑さがまた顔を出した。抗っても、待ち望んでも、季節は人の気も知らないで自由気ままに移りゆく。
 暑くなってくると、いよいよ舞台に向けて本格的に動き出すのだな、という気持ちにさせられる。あたしたちの季節だ。日本史の年号や数式を覚えるのに四苦八苦しているときや、体育で汗を流しているときよりも、ずっと学校生活を送っている心地がする。生きている心地がする。
 今日もこれから部活。渡された台本はすでにボロボロになり始めていた。それが練習を積んできた証拠にはならないかもしれないけれど、少なくとも身近に思える。あたしの傍にいてくれたその月日。
 自分の台詞のところにはマーカーペンで色を付けているのだが、今年の台詞量は去年の比ではない。あたしが演じる桜子は明るくて、好奇心旺盛で、情が深くて、夢に悩む。紅美子さんは三姉妹の割り振りにはかなり自信があるようで、きっとそれぞれものにできるだろうと言っていた。
 演技は楽しい。演技は好きだ。難しくて、答えは湖の底で、だからこそおもしろい。学生の分際ですべてを分かった風な口は利けないけど、この感情にずっと動かされたい。
 空き教室に着いた。中に入るとまだ数人しかおらず、早かったみたいだ。――芽瑠がいなくて安心してしまう。会いたくないわけじゃないのに。
 芽瑠はあれからもふつうだった。努めてふつうであろうとしている向きもなく、今まで通りで拍子抜けした。あたしもふつうに接した。脳内に漂いそうになる靄を振り払って。
「花音」
 愛さんが窓際に立っていた。陽の光を受けて、顔に半分影ができている。彼女の元へ歩み寄った。
「夏休み、合宿をしようと思うんだけど、どう思う?」
 合宿? とクエスチョン・マークつきで繰り返そうとしたら、愛さんの隣にいたミナちゃんが両手をバタバタさせて、「いいと思わない? 合宿だよ、合宿!」と早くも気乗りした様子を見せた。よほどその提案に魅力を感じたらしい。
「いいですね。楽しそうです。――でも、どこでやるんですか」
「うーん、誰かが別荘とか持ってたら別だけど、稽古もしなきゃだから学校でやろうかな、って考えてる」
 この学校のことだから、別荘持ちの家の娘はそれなりにいるだろうが、確かに大人数で稽古できる場所があるかどうかは難しい。さらに、合宿という形で、大っぴらになってしまうのを望まないかもしれない。
「いいんじゃないですか、学校。食事とか、寝泊りをともにして、絆を深めましょうよ」
「ええ。それに、せっかくだからお楽しみ企画があってもいいわよね。……肝試しとか」
 えっ、とミナちゃんと声が揃った。このあたりは夜になると暗くなる。特に湖の方や山に分け入ると、街灯もまばらになる。
「まあ、それはこれから考えるけど」
 話している間に、続々とみんなが集まってきた。最後に紅美子さんが姿を現して、今日のスケジュールを大まかに告げる。そうなったら一気に集中モードに入った。全員の意識が一つの作品に向かう。
 合宿については、部活の終わりに紅美子さんが全体に伝え、みな、歓迎を露わにした。
 どんな感じになるのだろう。今から楽しみだ。
 最終下刻のチャイムが鳴る。演劇部はギリギリまで活動している日が多いため、いつもこの音色に追い立てられる。今日も慌ただしく帰り支度を始めた。真っ先に学生鞄を背負って、ぱたぱたと走り出したのは一年生だった。
「お先に失礼します!」
 元気のいい藍葉に合わせて、ほかの一年生たちもさよならを告げ、校門へ小走りで向かう。スカートの裾を翻さないように、というのがお嬢様としての嗜みかもしれないけれど、理想と現実はちょっとだけ違うのだ。それに、学校の敷地内だし、と誰にするでもなく言い訳をこしらえる。
 あっという間に姿を消した一年生のいたあたりを、芽瑠がじっと見つめていた。どうしたの、と問いかけようとして、なぜか声が出なかった。
「どうしたの」
 同じように思ったのか、ミナちゃんが代わりに問う。芽瑠は、「なんか、若いなって思って」とぽつり。
「え、一年の差しかないよ」
「まあ、そうなんだけどね」
「学生の一年って大きいよねー」
 やっと声が出せた。笑い合えた。それがふつう。
「まだ老け込むには早いわよ」
 じゃあ、あたしたちもお先に、と手をひらひらと振って、紅美子さんと愛さんが教室を出る。――愛さんはきっと、一年生の頃から大人っぽかったのだろうな。
 帰ろうか、と促そうとして、教室の隅にまだ人が残っているのに気づく。一人でひっそりと帰り支度をしていたのは忍田智恵子だった。今年の一年は特に元気がいいが、その中で彼女は、はっきり言って浮いている。大人しい子はよくいるけど、彼女はお愛想ができない、というか。溶け込めていないのだ。
 時間が解決すると楽観視したっていいのだけど、最近その心配に輪をかける事態が発生した。次の舞台に立つ一年生は、オーディションを経て二人だけ選ばれた。一人が藍葉だったのも驚いたが、もう一人は智恵子だった。
 紅美子さんの言葉を思い出す。舞台に立てるのは偶然じゃない。必然だとするなら、彼女が内側に有していたものはなに。
「帰らないの?」
 声をかけると、智恵子はおもむろに首を巡らした。帰ります、と短く答える。目を合わせてくれない。
「智恵子は、」なるべく優しい調子になるように心がけた。「どうして演劇を始めようと思ったの」
 智恵子はこちらを向かない。その横顔は凛とした佇まいで、彼女は誰も注目しないところで咲く花なのだと感じる。その花は舞台でも咲くかしら。
「付き合っている彼氏が――」
 変な声を上げそうになった。失礼だが、恋人がいるとは想像していなかった。
「演劇が好きで、入る部活に悩んでる話したら、勧められて」
 最終下校のチャイムは鳴ってますよー、と女性教師の大きな声がする。さすがに焦り、あたしたちは一生懸命に駆け出した。スカートは揺れる、揺れる、ひらひらと。
 息を切らし、ほかの女生徒たちの波に紛れ込むうちに、智恵子の姿は見失っていた。彼氏が、きっかけだったのか。それがいいとも悪いとも思わない。
 校門を出てからはみな、お淑やかな歩き方に変わる。ちゃっかり服装の乱れを直し、髪型を整える彼女たちを見ていると、その演技力は侮れないな、と。
 道を曲がり、舗装されていない地面を踏みしめていきながら、他愛もない話に興じる。今日のことも、明日のことも、ひょっとしたらこれまでのことも、すべてドラマじゃない何気ない日常。だけど、あたしたちの物語だ。ほかの誰かには紡げない。
 川沿いの道に入る手前、翡翠ヶ丘と旭山の生徒の流れが合流する。向こうも部活帰りなのだろう、高揚した雰囲気を漂わせている。――セーラー服は好きだけど、旭山みたいなブレザーもたまには着てみたいかも。
 手を振ってくる存在に気づいた。小百合と三浦のミナちゃんが一緒に下校している。近寄っていって、五人は一つの塊に変わる。
「おつかれさま。小百合ちゃんも演劇部に出てたの?」
「うん。最近は、文芸部より参加頻度高いかも」
「今年はどんな話なの?」
「内緒」
「えー、こっちのタイトルは知ってるんでしょ」
「ミナちゃん、この前ミナちゃんとお泊りしたんだって?」
「せやで。朝まで喋り尽くすって宣言されたのに、気づいたら寝とったんよ」
「ごめんー! 部活で意外と疲れてたみたいで……」
「ミナちゃんらしい」
 気の置けない友達ができた喜びは、日常の中でふと立ち止まらないと実感できない。当たり前はいつか当たり前じゃなくなるから。望むか望まないかに関わらずリリースしなければいけない日が訪れる――そう言ってしまうのは、少し悲しいけれど。
 意識したときには前列と後列に分かれ、あたしは小百合と並んでいた。
「夏休み、学校で合宿することになったんだ」
 小百合は目を大きくする。「え、そうなの。うちも、千穂さんの実家の宿にみんなで泊まらせてもらおう、みたいな話になってるんだよね」
「え、なにそれ」
「うん。千穂さん、温泉宿の娘だから、繁忙期過ぎた後なら可能性あるかも、って」
「いいなー」
「でも、学校で合宿もすごく惹かれる」
 会話は続き、あるときパタリと沈黙が下りる。すぐにまたどちらかが話し出すときもあれば、しばらく無言のままでいるときもある。沈黙の合間を周りの自然が発する音が埋めてくれる。
 あのね、と小百合は前を向いたまま呟く。睫毛を瞬かせている彼女の横顔を見て、やっぱり小百合はかわいいと思う。
「あのね、休みに入ったら、デートしない?」
 いつの日か、それがほんとうにいつになるのか分からないけど、そもそも実際にあるのか分からないけど、一緒に舞台に立てたらと望む。小百合の脚本で、あたしたち二人だけの芝居で。等身大の登場人物だけど、ストーリーの展開はあたしたちのイメージからしたら意外性のあるもので――夢想は止まらない。
 デート。心の中で繰り返す。「うん、いいよ」
 小百合はずっと前を見据えている。その表情は微笑んでいるようにも、泣き出しそうなようにも映る。横顔にはその人のほんとうの表情が映るというのを聞いた憶えがあるが、あまりはっきりしない。
 ありがとう。小百合はやっとこちらを向いてくれ、柔らかな微笑みを浮かべる。
 楽しみがまた一つ増えた。

 肺に吸い込んだ空気が声になる感覚をしっかりイメージする。遠くへ、そこにいる大切な誰かへ明瞭な言葉を届けられるように。さらにそれに感情を添えて。役者は発声であらゆる感情を明確に表現する。
 演劇部に入ってから、最初の基礎トレーニングで何度も言われたことを絶えず思い出している。意識しなければならないものはたくさん、加えて自分の色も出していかないといけない。本番で実力以上にできてしまうケースもなくはないが、基本的には稽古場でできていなかったことは本番でもやっぱりできない。だからあたしたちは繰り返し、繰り返し、繰り返す。
 はい、休憩にしましょう。紅美子さんが手を叩く。張りつめていた空気が柔らかくなる。見回すと、みな、すっかり汗だく。相変わらずこの時期の部活は暑くてしょうがない。きっと、この恨めしさも思い出の一つとして想起する。
 夏休みに入ってから一週間が過ぎた。連日、部活のために学校に通っているから、休みだ、という感じは薄いけれど、今日は違う。なぜなら今日だけは稽古を終えた後、そのまま学校にお泊りするからだ。待ち望んでいた合宿の日。

 人は表情の作り方をいつ学ぶのだろう。ト書きでさまざまな表情を求められ、それに応えようとする。ときどき、普段見たことのないその人の一面が垣間見えると、どきっとする。彼女たちはいったい、どこでそれを学んだの?
 だけど、その問いは自分に跳ね返ってくる。無意識のうちにできてしまうこともあり、きっと誰かを内心で浮かべたり、映像かなにかで見たものを実践してみたりしたのだろうけど、不思議に思う。人って、演技って、おもしろい。底知れない。
 芽瑠は安定感抜群というか、舞台上でも自分を見失わない。脚本に忠実だし、多彩な表情の持ち主。
 ミナちゃんは作品を深く愛するがゆえに、舞台では自分を消そうとする。その人であろうとする。それは両刃の剣だけれど、その切れ味は鋭い。
 脚本が頭に入ってくると、次は細部をアレンジする作業に入る。ある日突然、今までと違った演技をされると、それに合わせたリアクションが自然と出てくる。こうして応酬を繰り返すことで作品の方向性が定まっていく。明確な答えがないから、いつでもよくなっていると思えるし、いつでも不安に陥る。だから、やっぱり繰り返す。あたしたちはスポットライトの光の下で幾度となく繰り返すのだ。
 そんな中、演技に迷いが窺える部員が二人。出演者の大多数が上級生であるのにオーディションでチャンスを掴んだ一年生二人が、揃って精彩を欠いていた。
 智恵子は前から分かっていたが、発声ができていない。台本を読み込んできているから、それが観客の方へ届かないのはもどかしい。それに、彼女にはほかの人にはない表情がある。妙に艶めかしい演技が似合い、それは生かせそうなのだ。
 そして、それ以上に悩んでいるのは藍葉。紅美子さんの妹として元気よく入ってきた彼女だが、どうも最近は萎んだ風船のよう。台詞の間違いをやたらと気にし、立ち位置ばかりを意識して、演技に気持ちが乗らない。
「あたし、ほんとうに舞台に立っていいんでしょうか」
 休憩中、水飲み場の方へふらふらと歩いていった藍葉を追いかけ、後ろから声をかけたら、そんな弱音を吐かれた。ますますらしくない。
「台詞もしょっちゅう飛ぶし、立ち位置も覚えられないし……今からでも代わってもらった方が――」
「ほんとうに、それでいいの」
 声が出ていた。言いたいことがあったから。「せっかくオーディションで勝ち得たのに、みすみす役を譲って、絶対に後悔しない? 後悔しないならいいけど、藍葉は必ずすると思うよ」
「…………」
 俯いているいたいけな横顔。
「確かに、来年も再来年もある。でも、今年の舞台は一度しかない。――お姉さんと一緒に立てる舞台は、今年だけ」
 そんなの言われなくたって分かっていただろう。分かっていたからこそ、ふがいない自分に落ち込んでいたのだ。
「台詞を間違えたり、立ち位置を間違えたり、気にしすぎなくていいよ。あたしだって、ほかのみんなだって間違えることはある。オーバーにやり直す必要はない。あたしたちは演技で、話の流れを表現しているんだから、むしろ流れを大切にするべき」
 それと、「もう一つ。藍葉がオーディションで選ばれたのはたまたまでも偶然でもないよ」
 同じようなことを紅美子さんに言われたけれど。
「藍葉らしさって、台詞を完璧にこなすこととか、立ち位置をしっかり把握してることじゃないと思うよ」
 彼女の肩にそっと手を置いた。熱があった。「明るい笑顔で、よく透る声出して。それが藍葉じゃない?」
 俯いていた顔が上がり、揺れる瞳にあたしの顔が映った。ずいぶん優しい顔をしていて、ひょっとしてらしくないことをしているのは自分ではないかな、と考えた。
 だけど、伝えたかったのはほんとう。
 眩しい、俯いていた向日葵を上向かせるような光が校庭に降り注ぐ、午後。

 香ばしい匂いがあたりを包み始めた。もうすぐできあがり。なんの変哲もないカレーだけれど、自分たちで作ったと思えばよりおいしく感じられるはず。なにより、部活の疲れで空腹は極まっていた。
 日が暮れる頃、今日の部活が終わると夕食の支度にかかった。みんな疲れているに違いないのに、ろくすっぽ休まないで取り掛かれたのは不思議だった。一種の興奮状態にあったのかもしれない。今夜はよく眠れそう。
 合宿といえばカレーでしょう、と前々から言っていて、材料などは事前に揃えていた。使用許可をもらっていた調理室で、三年生以外の部員全員で調理開始。ちなみに、三年生は別の仕事をしている。生徒たちだけで大丈夫なのかと気にしていると、顧問の相川先生がひょっこり顔を出し、「火の取り扱いには気をつけろよ」というようなことを言い残し、すぐにいなくなってしまった。聞くと、今日は職員室に詰めて、仕事をしているらしい。来ていたのなら部活にも顔を出せばよかったのに。先生の考えはいつも分からない。
 料理は楽しかった。カレーなら簡単だし、協力すれば大人数分もあっという間に作れた。合間は話に花が咲いて、今日の演技がどうだったとか、誰々がこうだったとか、感想を述べ合うことに終始した。
 そして、完成。藍葉が「三年生、呼んできます」と言って駆け出し、しばらくして三年生と相川先生まで現れた。「いいのかな、ご相伴にあずかって」と頭をかいて、遠慮気味だったけど、促されるままに席に座った。そんな先生をはじめ、部員たちは配膳されたカレーを手にし、調理室に円を作る。全員分がいきわたったところで、紅美子さんの号令の下に「いただきます!」が室内に響く。当たり前だけれど、みんないい声。
 やっぱり、協力して作ったカレーは最高だった。自然と笑顔になれた。温かい食べものを食べると涙が出るくらい嬉しくなる。外はすっかり暗くなって、普段ならいられない時間帯に学校にいることも相まって、非日常の空気感を味わった。
 今日までのことを思い返した。作品が決まり、演じる役が決まり、シーンごとの演技を重ねてきた。だんだんと有森桜子が自分に近くなってきている。ここをこうしよう、ここをこうしたら、思い、言われ、メトロノームみたいに左右に揺れるのが中心で止まりそうになる。でも、まだ止まらない。
 稽古しているあの体育館に、今年はたくさんのお客さんが詰めかける。去年、旭山開催だったから、次はあたしたちの番だ。あの舞台で、どんな風に観てもらえるだろう。悲しいラストを用意したから、できれば泣いてほしい。小百合にも泣いてほしい。小百合の涙が見たい。
 一人で考えを巡らせていたのはほんの束の間だったらしい、周りに怪訝に思われないうちに、紅美子さんがパッと立ち上がった。めいめいで話に興じていたのが、すっと視線を一か所に集める。それを受けて、紅美子さんが話し出した。
「はい、すいません。カレー、おいしかったですね。後輩のみなさん、ありがとうございました。――作ってた間に、今夜のお楽しみ、肝試しのコースを確認し、さらに一緒に行くペアを三年生で決めました」
 わっと歓声が上がる。怖い、と口々に言っているけど、本気で怖がってはいないだろう。むしろ楽しみの方が大きいはず。真夏に肝試しといえば、いかにも青春の一ページを飾りそうな。
「じゃあ、早速だけど発表しちゃいますね。一組目――……」

 暗闇の向こう、風でざわついた林の中になにかいそうな気がする。そういえば、ちょうど一年前くらいに、茂みで口づけを交わしているかさねさんを見てしまった。あれから、もう一年経ったのか。かさねさんもいのりさんもこの場にはいないし、それにすっかり慣れている自分がいる。忘れないでいることは容易いけれど、それよりも順応しなければならない新しいことの方が多い。
 一年後の今、演劇部は初めての試みとして合宿を敢行し、部には智恵子や藍葉といった個性的な新人が入った。紅美子さんと愛さんがすっかり部を切り盛りしていて、あたしとミナちゃんと芽瑠は主演を任されている。すべては地続きだから気づかないが、こんなにもたくさんの変化に恵まれている。いつだって今しかない。
 知らなかったことをいくつか知った。かさねさんたちを遠い世界の人たちみたいに感じていたのに、口づけの甘美な味わいを――。
 視線の先、芽瑠が自分の髪を手で梳きながら、隣の智恵子ににこやかに話しかけている。二人は肝試しのペアだ。並んでみると、いかにも女の子らしい芽瑠と、ちょっと影のある智恵子は意外な組み合わせだけど、もしかしたら通じ合う部分があるのかもしれない。そんな風に映る。
 一方、ミナちゃんは相川先生とペア。演劇部の人数が奇数だったため組み込まれたのだが、ミナちゃんが「女子と一緒がよかった……」と思わず呟いてしまったことで、調理室は爆笑に包まれた。それを受けて恐縮する先生と、慌てて弁解するミナちゃん、という絵がたまらなくおもしろかった。
 紅美子さんは苦り切った顔で「藍葉」と実の妹の名前を最後に告げていた。三年生がくじ引きで決めたのだけど、よりによってこんな偶然があるとは。嬉しげな藍葉と、つれない紅美子さん、というコントラスト。
 あたしは愛さんと。素直に嬉しい。まあ、部員だったら誰でも大歓迎。コースは歩いたことのないところではないから、二人きりでゆっくり言葉を交わせるいい機会だ。
 順番に校門からコースへと旅立っていく。学校の裏手に回って茂みの中を少し進み、山が右手に見えたら左手の遊歩道へ折れる。しばらく辿ってゆくとそこだけぽっかり穴が開いたように湖があって、視界の向こう先まで広がっている。湖の傍まで行って証拠のための写真を撮ってきたら、来た道を引き返す。それだけのコースだけれど、学校外で下手に騒ぐわけにもいかないから、なんとか肝試しの体裁を整えた感じだろう。
 あたしたちは最後から二番目。待っている間、部員たちは校庭で輪になって誰かが話す怪談に耳を傾けている。平和だ、と思う。怖いものを意識できるのはきっと底抜けに平和だからだ。
 ミナちゃんが実体験だと前置きした怪談でみなを爆笑させているときになって、直前のペアが帰ってきた。二人とも笑顔だし、この先にはなにもいないのだろう。安心しながら愛さんと歩き出す。
 このあたりの夜は暗くて、ちょっとだけ涼しげですらある。豊かな自然に囲まれて生活している実感を改めて抱く。
「静かね」
 愛さんが吐く息に紛らせるみたいにして呟いた。
「落ち着きますね、このあたりは。好きです、この雰囲気」
「……そういえば、花音はどうして翡翠ヶ丘を選んだの?」
「演劇がやりたくて。――ほんとうは、旭山が第一志望だったんですけど、受からなくて。でも、翡翠ヶ丘も同じくらい行きたかったので、決まったときは嬉しかったです」
「そういう子、多いよね。やっぱり演劇か。――あ、あなたの仲よしの、向こうの脚本書いた子もそうだったの?」
「小百合は、演劇ありきじゃなかったです。でも、結果的に関わることになったみたいで……二人で同じ高校に通いたかったですけど、こうして隣近所に分かれたのももしかしたらよかったかも、なんて最近では思ってます」
 ふうん、と興味深そうに愛さんが頷く。愛さんは? と訊いてみた。「愛さんはどうして翡翠ヶ丘に」
「あたし、中学までシンガポールに住んでて」
 覚えず、大きな声を出してしまった。「え、愛さんって帰国子女?」
「あれ、初耳だった? 父親の仕事の関係で小学校に上がる前からそこに住んでて、ずっと日本人学校に通ってた。それで、高校を選ぼうってなったときに、母親に勧められたの。母親の親友がここの出身で、母親としては憧れがあったみたい」
 間抜けに感心する声しか出てこなかった。
 東南アジアの国、シンガポール。マーライオンの像が頭に浮かんだ。水を盛大に吐き出しているやつ。それと、あとなにがあるかな。思い浮かばない。
「シンガポールって、どんな国でした?」
「住みやすいよ。日本人も少なくないし。多国籍国家だから外国人にも寛容。ただ、一年中夏だから、桜の花とか紅葉とか、それから雪とかが恋しくなるかも」
「なのに、愛さんは割烹着が似合うんですね」
 そう言うと、愛さんは腰を少し屈めて笑い声を上げた。「まあ、両親は日本人だからね」
 気づいたら湖はもう目の前だった。暗闇の中で確かに存在を主張している。どこかへ通じていそうな穴のように見える。ずっと見ていると、いつか吸い込まれる。そうなる前に写真を撮った。ちゃんと歩いた証拠写真。
 引き返す。今度は山の方へ、やがて愛しき学校の光の下へ。
「花音は、好きな人いる?」
 むせた。愛さんを横目で見やると、わずかに目を細めてこちらを見つめていた。思いのほかまじめな質問のようだ。
「いない――と思います」
「思います?」
「いないです。分からないんです、そういうの」
「ふうん。そうなんだ。女子校にいると異性と関わる機会も限られるしね」
「……愛さんは」
「ん?」
「愛さんは、好きな人いるんですか」
 かさねさんの話を思い出した。いのりさんに付き合っている人がいること、葵さんに想いを伝えて涙していた瑞希さん、などのことも。誰もが当たり前のようにいろいろな経験をしているのだ。
「好きな人というより、付き合ってる人がいる」
「…………」
「花音には、ペアになれたよしみで教えてあげようか。それが誰か」
「じゃあ、あたしの知ってる人なんですか」
「うん、あなたもよく知ってる人」
 まさか。まさか愛さんも、いのりさんと葵さんみたいに――。
「誰ですか」
「知りたいんだ」
「ここまできたら」
「誰にも言わないでね。いけない恋だとそしられてしまうから」
 その言い方で、違う方向に頭が働いた。あたしもよく知っているのは、同じ学校にいるからか。「ひょっとして、先生ですか」恐る恐る尋ねると、彼女は頷く。重ねて「相川先生?」と小声で尋ねると、再び頷く。それはほんとにいけない恋だ。
「……いつからですか」
「あら、あまり驚かないのね」
「心の中が動揺しすぎて、どんなリアクションをすればいいのか思考が追いつかないんです」
「あなた、おもしろい」
「それで、いつからなんですか」
「あたしが入学して半年くらいかな。秋の舞台の後に言い寄って。――あ、でも先生が演劇部にめったに顔を出さないのはあたしのせいじゃないのよ。元からだから」
「先生の、どこに惹かれたんですか」
 数学科の若い、誠実そうな先生だと思っていた。これから見方が変わりそう。知らない方がよかったのかもしれない。
「知的なのに控えめなところ」
 木々の隙間から学校が見えるようになる。ゴールまでもうすぐだ。これが終わったら、二人のお付き合いについて話す機会はなくなるだろうか。それがいいのか悪いのかも分からないうちに、みんなが待っている校庭が近づいてくる。
 ミナちゃんや芽瑠の顔を見て心が落ち着いた。いろんな感情が内側で渦巻いてしょうがない。

          ●

 たくさんのものを失って、それでも一つの輝きを見出していく物語だった。読み応えは十分すぎるほど、涙が滲む瞬間もあった。津島佑子の『火の山―山猿記』。
 うんと一つ伸びをし、教室の外を見つめた。蝉の鳴き声が盛んに聞こえてきているが、室内は冷房のおかげで涼しいくらい。これから部活の時間だけれど、外で活動する運動系の部活はつらいだろう。文芸部、あるいは演劇部でよかったかも。
 立ち上がって講堂へと向かう。残り数ページだったから読み終わってから演劇部に顔を出すつもりだった。話を書いたわたしは最初からいなくても問題ない。ただ、脚本はまだ手探り。一応まとまった内容にして渡しているけど、ちゃんとした書き方はまだ勉強中なので、稽古に立ち会いながら修正を加える。そうして本番までによりよい形に仕上げていくのだ。今年は作詞を任されていないため、この作業に集中できる。
 廊下の角を曲がったところで、階段の踊り場にいる鈴花が目に入った。「鈴花」気づくのとほぼ同時に、呼んでいた。
 くるりと鈴花が振り返る。眼鏡をかけ、三つ編みのお下げにしている彼女はいつでもわたしをあの頃に引き戻してくれる。ぺこりと頭を下げた、その澄んだ瞳。
「今日は遅いのね」
「日直だったので」
 並んで二人で歩き出す。もっと急ぎたいところだが、校内は静かに歩くよううるさく言われている。淑女のたしなみ、みたいなものかしら。
「今年は」鈴花がぽつりと言葉を落とす。「ミュージカルにしなかったんですね」
 きょとんとしてしまう。「去年もミュージカルのつもりじゃなかったけど」
「そうなんですか。二回も歌うシーンがあって、それが印象的だったので」
「去年の、観にきてくれたんだよね。どうだった?」
「……よかったです、すごく。わたしも主人公の少女に近い性格だから、親近感を覚えました」
「――歌が好きなの、鈴花は?」
 鈴花はゆっくりと頷く。「好き、かもしれないです。わたし、ミュージカルが好きで。『サウンド・オブ・ミュージック』とか」
「そうなの」
 すると、突然鈴花は控えめな声で歌い始めた。控えめだが、揺らぎのないまっすぐな歌声だった。

  薔薇の花びらの雫 子猫のひげ

  銅製の光るケトル 暖かいウールのミトン

  紐で結ばれた茶色い紙の包み

  それが私のお気に入り

 歌い止めて、聴いたことありませんか、と言うように首を傾げる。その愛らしい表情に、無垢な瞳に、心がかき乱された。
 周囲にほかの人がいるかどうかは気に懸けなかった。結果的にはいなかったらしいと後で分かったけれど、その衝動に従ってしまったのが正しかったかは未だに知れない。――さっと鈴花の体を引き寄せ、強く、あるいは優しく抱きしめた。自分に上背があってよかった。包み込める。
 鈴花のいい匂いがした。甘く、花が咲いている。舞台じゃなくてもあなたは風に揺れる美しい花。
「鈴花。今度、二人でお出かけしない?」
 彼女の耳元に囁く。祈りながら、願いながら、その首が縦に振られることを。
 最近、日記はすっかり放置していた。あまりにも自分の感情を素直に書き連ねてしまいそうになるから。――感情がもっとほしい、だけど、それが自分から遠く離れ肥大したものだと、戸惑う。
 いつまでも彼女の返答を待つ。

 旭山と翡翠ヶ丘の門から溢れる生徒たちは一筋の流れとなり、やがてそれぞれは合流する。セーラー服とブレザーの色、空から見下ろしたら模様のようになる。互いに意識し合い、でもやっぱり自分たちの学校を愛している少女たち。
 部活が終わった高揚感を抱えたままミナちゃんと並んで歩いていると、見慣れた顔を見つけた。塚原のミナちゃん、芽瑠ちゃん、それに花音。気づいてもらいたくて手を振った。
 五人が一つの塊に変わる。
「おつかれさま。小百合ちゃんも演劇部に出てたの?」
 訊かれ、頷く。
「うん。最近は、文芸部より参加頻度高いかも」
 今年はどんな話なの、内緒、こっちのタイトルは知ってるんでしょ――……会話は淀みなく流れていく。
 なんだかんだ、わたしはこのメンバーの影響を多大に受けている。演劇に自然に関われているのは花音がいたからだし、みんなと出会えたからだろう。高校三年間プレッシャーを感じつつも打ち込めるなにかを見出せたことはきっとかけがえない。
 道の狭さや周りの人の流れに合わせて五人の塊は柔軟に変化する。気づいたらわたしは小百合と並んでいた。
「夏休み、学校で合宿することになったんだ」
 花音が嬉しそうに告げた。学校でお泊りできるなんて、想像しただけでも心浮き立つ。
「え、そうなの。うちも、千穂さんの実家の宿にみんなで泊まらせてもらおう、みたいな話になってるんだよね」
 聖母・千穂さんは温泉街の中で昔から営まれている宿の一人娘で、そこでの手伝いが演劇とともに彼女のライフワークとなっていた。将来的には後を継げれば、と考えているらしい。それは羨ましいな、とも思う。
 旭山生にしろ、翡翠ヶ丘生にしろ、ここで大切な時期を送った少女たちは大人になると離れる。でも、温泉街に残れば、同じ学校で同じように生活する少女たちを見守っていられる。それは羨ましいし、憧れる。
 今日の部活終わり、千穂さんが夏休みの予定を話すついでに先ほどの提案をした。反対する人はもちろんいなかった。みな、毎日温泉街を抜けて登下校しているけれど、ゆっくりその湯を堪能する機会には恵まれないからだ。
 鈴花。鈴花の顔が脳裏をよぎる。さっきからずっと鈴花の声が耳について離れない。あのときの表情が、スカートの裾を握っていた小さな手が、あらゆる些細な一々が……わたしの目に焼き付いている。
 今度、二人でお出かけしない?
 ほとんど無意識のうちに訊いていた。わたしの好きな人はずっと花音だった。これからもきっとそうなのだ。それは揺るがないはずのものだった。だというのに、どうしてその想いを言葉にして、胸の中で確かめなければならないのだろう。己の心が信じられなくなってしまったというの。
 ――小百合さん、放してください。
 傷つかなかった。下手なお愛想を言われるよりマシだった。気持ち悪がられる方が遥かに怖かった。その後に続いた彼女の言葉は、わたしの想いの一端をしっかりと受け止めてくれたのが分かるそれだったから。
 ――小百合さんは、突然です。急すぎます。
 そうして、わたしの腕から逃れてしまう。あんなに体の近いところにあった鈴花が、一歩、また一歩と遠くなる。それでもよかった。彼女の内側でわたしの存在が少しでも大きくなるなら――そんな風に、ほんとうは思えなかったけど。
「うん、いいよ」
 うん、いいよ、以外だったらなんでもよかった。突き放してほしかった。訝しげに顔をしかめてほしかった。そうじゃなかったら今すぐわたしを抱きしめてほしかった。暴れる情念を悟られないのに苦労した。こんなに誰かを好きになるなんて。こんなに誰かを求めるなんて――。
 好きだったから、苦しかった。笑顔を作ろうとしないと涙とともにすべてを洗いざらい吐き出して、ぶつけてもおかしくなかった。だから、
「ありがとう」
 と微笑んだ。

 レースのカーテンを通して射し込む光で目が醒めた。上手く眠りに就けず、ちゃんとした時間に起きられないのではと案じていたけど、意外にもすんなり眠れた。次第に覚醒してゆく意識の中で、今日がなんの日だったか思い出す。思い出すとそれはむくむくと膨らんで、考えのほとんどすべてを占めてしまう。
 デートの日。大切な誰かと会って、二人だけの時間を過ごせる日。きっと、そう。
 前夜から明日はなにを着ていこうか迷っていた。あれでもない、これでもないとクローゼットを引っかきまわして、決定を下せずにいた。それから、会ったらどんな話をしよう、とか、手をつなぐタイミングや、唇を合わすタイミングを夢想して――そんなところまで、どうしたっていくわけはないのに。
 身支度を整えて、家を出ることにした。いつもより空気が澄んでいるように感じられるのは、感情の作用がなせる業だろうか。明るい気持ちは明るい空の色を目に映す。待ち合わせ場所へ歩き出した。
 夏休みはお互いに演劇部が忙しかったが、お盆の時期に設けられた数日の休みを利用してわたしたちは会えた。多くの人らが祖父母や親戚の家に出かけている頃、自分のためだけに時間を費やすなんて。
 隣町の駅に着いた。旭山や翡翠ヶ丘の女生徒たちは大概ここで遊んだり、買い物をしたりする。さらに都心へ足を伸ばすこともあるそうだけど、それは稀な話だ。――改札を抜け、駅前のロータリーの方へゆっくりと歩み寄っていくと、幾人かの待ち人のうちに目的の人を見つけ出した。どちらから声をかけるよりも早く目が合い、彼女は眼鏡の奥の瞳を柔らかく細めた。その表情を目の当たりにして、心から安心している自分がいることに気づいた。だって、少なからず不安は胸にあったから。唐突な誘い方をしてきっと軽蔑されただろうとどこかで思っていたから。やがて誘いに応じる答えをもらえたけれど、不安がまったく拭えたわけじゃなかった。
 鈴花。
 夢の中で何度も舌の上で転がした名前を実際に口にする。鈴花、もう一度呼んでみた。呼びたいから。
 小百合さん。鈴花もわたしを呼んでくれる。わたしはわたしの名前を特別どうと感じたことはないけど、今このときは、小百合に生まれてきてよかったという思いを抱けた。もっと呼んで、わたしを。
 風が吹いて、葉が囁いて、空が青くて――あらゆるものが完璧だった。

 会場に一歩足を踏み入れる。客席は少し暗く、ステージだけが光で照らされている。舞台上にはすでにセットが置かれていて、それぞれがどんな風に使われるのだろうと気になる。公演開始前の独特な空気。
 チケット片手に自分たちの席を探した。アルファベットと数字の組み合わせ、順番に巡りながらやがてたどり着く。「あった、ここだね」
「うん」
 横並びの席に揃って腰掛ける。下手側だが舞台からほど近く、ここなら演者の表情がよく見えそうだと望めた。鞄の中からスマートフォンを取り出す。会場のスタッフから言われるより先に電源を切っておこうとして――ところが、メールを受信していることに気づいた。鈴花から。『昨日はありがとうございました。楽しかったです。』
 返事をすぐに思いつく気がしなくてやはり電源を切って、仕舞った。昨日は夢みたいな一日だった。今日はもう一つの夢を見ていて、双方の夢が介在するのが不思議でしょうがない。
「もうすぐ始まるね。楽しみ」
 ――もうすぐですね。楽しみです。
 隣で嬉しげにしている花音の言葉と、昨日の鈴花の言葉が重なる。別の会場ではあるが、昨日も今日も舞台鑑賞に来ている。共通の趣味といったら演劇だし――だけど、どこか意図的にそうしている自分がいる気がして後ろめたさを覚える。意図的に、同じ状況を味わおうとしている自分がいる気がして。
 鈴花と一緒にいられたのは至福のひとときだった。さんざん悩んだ服装を褒めてもらえた。舞台の感想を交わし合えた。その後、おいしいものを食べに行って、たくさんそれぞれのことを話して……もう、それだけで十分だった。満足してしまった。唇を合わせてみるどころか、手も握れなかった。清々しい表情で別れてしまった。だって、わたしは、鈴花を失いたくなかったから。
「小百合?」
 黙り込んでいるわたしを案じたのか、花音がこちらをじっと覗き込んでいる。その瞳が、いいなっていつも思う。もっと舞台で輝いたらいいのに。いつか、わたしの脚本で彼女が演じてくれたらいいのに。
 安心させるために首を振って、「ごめん、ちょっと思い出したことがあって」と何気ない口調で囁いた。
 まもなく幕が上がる。物語の世界が今日も手招きしている。
 開演を告げる音に耳を傾けながら、隣の花音を強く意識した。失いたくないのは花音も同じ。心まで抱きしめていたいけれどそれによって壊れてしまうのなら、我慢する。

          ◯

 衣装や大道具、小道具など、彼女は最終チェックに余念がなかった。部長になる前からそうだった。部長になってからも、やっぱり紅美子さんは裏方の仕事を疎かにしない。
「紅美子さん、なにか手伝いますか」
 教室の中へ向かって声をかけると、彼女は首だけこちらに向けた。「ううん、大丈夫。なんとなく全部見ておかないと帰れない気がして」
 その答えを受けて、あたしは紅美子さんの隣に腰を下ろした。たくさんある衣装の中から自分のものを見つけ出し、そっと触れてみる。明日はこれを着て、みんなの前で舞台に立つ。この日が来るまで長かったような、あっという間に感じたような。
「愛と、一年生のときからよく話してた。こんな役を演じたいとか、こんな作品を披露したい、とか。たくさん。演劇部は不思議なもので学年が上がるにつれて人数が少しずつ減っちゃうんだけど、その分、残ったメンバーはなんていうかもう最強だね」
 紅美子さんの笑顔。いつもより寂しげに見えるのは気のせいだろうか。
 主演、やりたかったんじゃないですか。その質問は喉まで出かかって、でも必死で押し留めた。訊いてはいけない。ずっと前に戒められたことだから。訊く代わりに、あたしにできる最高の演技で期待に応えるのだ。
「花音、変わったね」
「あたし……変わりました?」
 うん、と紅美子さんは請け合う。「出会った頃はどこか控えめで、それだから周りとすぐ馴染めたのかもしれないけど、最近は前のめりになってきたね」
 前のめり、と呟いてみる。
「舞台に対して貪欲になってきたというか。才能を秘めてた芽瑠や、演劇への愛情が人一倍の三七よりも、成長の速度だったら花音、あなたが一番だと思う」
 そんな風に言ってもらえるなんて。嬉しかったけど、同時に寂しくもあった。明日で紅美子さんと愛さんは演劇部から離れてしまう。当たり前のことなのに、無情な仕打ちだと誰かを恨みたくなる。ずっと続けばいい時間ばかりなのだ、今のあたしたちには。
「あたし、演劇部に入ってよかったです」
 いつまでも満足のいく演技はできそうにない。試行錯誤を繰り返し、暗中をもがいて、たまに垣間見える光が欲しくて手を伸ばす。あの快感を覚えてしまったら、もう二度とそれのない世界へ戻れない。
「紅美子さんたちに出会えてよかったです」
 この学校の女生徒たちが幾度も通過してきた秋の晴れ舞台。だけど、これまでとかこれからとかにいちいち思いを馳せてはいられない。あたしたちには今しかない。こうなりたい、こうありたいもののすべては目の前に見えている光だけだ。
「明日はいのりさんとかさねさんも観に来るそうよ。最高の舞台にしましょうね」
「はい」
 廊下を走る足音が聞こえる。外はすっかり暗くなっていて、学校に残っているのは演劇部の部員だけ。ミナちゃんと芽瑠があたしを迎えに来たのかしら。足音が近づいてきて、花音、と呼ぶ声がする。
 桜子。舞台上でそう呼ばれるまであと半日。
 立ち上がって仲間たちの手を取った。

 決めていたよりも早くに目が醒めてしまって、だけどもう一度眠りに就く気にもなれず、仕方なく出かける準備をすることにした。興奮している自分がいる。緊張している自分が、確かに存在している。積み重ねてきたものを人前で披露できるのは楽しみ反面、なにか一つでも失敗したら今までの日々を取り返せない、そんな思いにさえなる。割り切るしかないのだけど。
 一発勝負の怖さ。果てしない平行棒を震える足で進んでゆくみたいな。
 鏡台の前で自分と向かい合った。髪が少し伸びてきたかもしれない。また切りに行かなきゃ。肌の状態はまあ良好。笑顔を作る。舞台でも笑えますように。
 出かけよう。早く行ってもこの期に及んでそれほどすることはないけど、誰かいるはずだ。あたしみたいに内から湧き上がる興奮を持て余している人が。
 着替えて家を出、最寄り駅へゆっくり向かった。いつもなら小百合の姿がないか探してみるのだけれど、彼女どころかほとんど人気がなかった。休日の早朝はこんなものだ。電車に揺られ、台本に目を通しながらやがて温泉街が近づいてくる。見慣れた光景。いつもよりも大人しく見える。さまざまな感情を内に抱えているあたしにかける言葉がないような。素知らぬ風で通り過ぎていく。なるべくいつもみたいに歩を進めたい。変な緊張感に囚われる前に。
 川が見え始める頃、去年と心持ちがまるで異なるのに嫌でも気づく。去年は嬉しさばかりだったかもしれない。憧れていた舞台に立てる喜び、与えられた役をただ愛していた。しかし、今年は責任感が伴う。紅美子さんから申し渡された主演、その三人の内の一人。ミナちゃんと、芽瑠とともに。期待されている。未来まで一緒に託されてしまった。
 紅美子さんと愛さんに後悔してもらいたくない。同期や後輩たちに未来を見せたい。
 趣のある校舎が目に飛び込んできた。木々の狭間で普段の顔で待っている。一度立ち止まって目を瞑り、深く息を吸った。瞳の中で弾けていた光の筋がパラパラと溶ける。ステージに上がるのは怖いけど、立ちたくないなんて露ほども思わない。
「花音!」
 大声で呼ばれて目を開いた。生徒たちの憩いの場となっているベンチの前で、ミナちゃんと芽瑠が手を振っている。あたしよりも先に来ているとは。振り返して、走り寄っていった。
「おはよう」
 おはよう、がこだまする。三人で視線を見交わして、笑顔で頷き合った。なにかを確かめるように。抱いているものを共有するように。
「いよいよだね」
「あたし、よく眠れなかった」
「ミナちゃんは本番に強いから大丈夫だよ」
「やるしかないね」
「うん、がんばろう」
 この三人だったら前を向ける。翡翠ヶ丘の演劇部で偶然に出会ったあたしたちだけど、きっとこの出会いは見えない糸で手繰り寄せられた出来事だったから。
 始まる、ここからまた。

          ●

 鏡にはわたしの顔が映っている。長い黒髪と色白の肌。花音みたいなかわいらしい、まさに女の子という感じの造作に憧れるけれど、これがわたし。誰かが心の持ち様はいくらでも変えられるけど、顔を別のそれと取り換えることはできない、的な話をしていた。その話はたぶん人を好きになる判断基準は見た目と中身どちらに傾くか、みたいな内容につながるのだろう。よく分からないが。
 葵さんに脚本を書いてみないかと勧められたとき、同時に舞台へも手を差し招かれた。スタイルがよくて、見映えするからと。木偶の坊のわたしに人前で演じる勇気はなかった。それは深く関わっている今でも同じ。むしろ、ますます遠く感じるようになった。瑞希さんやミナちゃん、鈴花たちが演じているとき、ほんとうに別人みたく映るのだ。
 今年も秋の舞台がやって来た。どうなることか。わたしの考えたストーリーがどう受け取ってもらえるか。――そろそろ立ち合いに行こう。
 わたしは家を出ることにした。いつもと同じ道を辿るが、今日は旭山ではなく翡翠ヶ丘の校舎へ赴く。
 登校するまでの道々、思考は途切れがちになった。放心状態とまではいかないけど、舞台本番を目前に控えてもう改めて意識する必要はなかった。昨日までで携わる段階からは離れてしまった。あとは転がる先を見届けるだけ。今さらあれこれと気になっても困るので、気にしすぎないよう努める。
 翡翠ヶ丘へ着いた。リハーサルなどで何度か足を運んだだけだが、来るたびに木の香りがする、と思う。旭山みたいな作られた自然との調和も好きだけど、翡翠ヶ丘のようにほんとに自然と溶け込んでいるのもまたよいな。
 すでに両校の演劇部関係者たちで校内はてんてこ舞い。いろんな人が行き交っている。――ふと、その人波の中に見知った顔を見つけた。足を速めて声をかけた。
「ミナちゃん」
 いつもは笑んでくれるミナちゃん――だけどこのときは深刻そうな面持ちで振り向いた。
「……なにかあったの?」
 覚えず尋ねていた。ミナちゃんは誰かに言いたくてたまらなかったらしく、「瑞希さんの姿が見えへんの」と早口で答えた。
 わたしに手伝えることはもうないから、みんなより少し遅い時間に学校へ来ていた。部員たちは先に来て衣装の確認や事前の打ち合わせなどをしているはずである。それなのに、瑞希さんがいない。遅刻――寝坊? 瑞希さんに限ってそんなことあるかしら。
 ちょっとだけ嫌な予感がしたけれど、気づかない振りをした。
「まだ家かな? 遅刻とか……」
 ミナちゃんは無言で首を振った。大きな瞳に水滴が浮かび上がっている。彼女も同じ予感を覚えているのかもしれない。「瑞希さんがするわけないよ」
「もしかしたら、学校に来てるかも。ちょっと探してみよう」
 ミナちゃんの掌にはスマートフォンが握られている。きっともう何度も連絡を試みたのだろう。心当たりの場所はないけど、立ち止まっていたって変わらない。
 校内をぐるりと巡っていると、プールサイドに出た。水が張ってあって、それにたくさんの落ち葉が敷き詰められている。まるで絨毯みたいだ。その傍で鈴花の姿を認めた。
 視線を注いでいるとこちらへ歩み寄ってきた。
「お二人とも、なにかあったんですか」
 落ち着かなげな二人からなにかしら感じ取ったのか、鈴花はそんなことを尋ねてくる。
「ひょっとして、まだ瑞希さん見つかってないんですか」
「せや――ほんまに、なにしとるんやろ」
「さっき、翡翠ヶ丘の友達に会って、去年の、『海のプレリュード』の主役二人が校門にいたって教えてくれたんですけど……」
 わたしはミナちゃんと顔を合わせた。「それって、瑞希さんと――葵さんじゃ」
「はい、わたしもそう思って」鈴花も去年の秋の舞台に足を運んでいる。「急いで校門に行ってみたんですけど、もういなくて」
「ほな、やっぱり学校には来とるんや」
 嫌な予感が半ば当たってしまったことを、その話は告げていた。だけど、卒業式の日、瑞希さんは誓っていた。次の舞台に立つと、約束したのに。
 そのとき、体育館裏の方から歌声が聴こえてきた。はじめは鳥がさえずるように、やがて耳を澄ましているとその歌詞すらはっきりと聞き取れるほどに。――「海のプレリュード」で、瑞希さんが葵さんと歌った歌。今歌っているのは、だけど瑞希さん一人。
 三人で声のする方へ導かれた。そこでなんとも言えない表情を浮かべている瑞希さんは、胡乱な眼差しをこちらへやると、やがて小さく笑った。「見つかっちゃった」
 さっきまで早く見つけなきゃと息巻いていたミナちゃんは、本人を前にして黙ってしまった。代わりにわたしが訊く。「瑞希さん、こんなところでなにしてるんですか……? 探したんですよ」
「ごめんね」
 瑞希さんの声は力ない。俯いて地面を捉えている。
「葵さんと、なにかあったんですか」
 埒が明かない気がして、単刀直入に尋ねてみた。そこでようやく、瑞希さんはさっとこちらをちゃんと見た。――女性の無表情は強いな、と不意に思った。その瞬間の彼女はいつにも増して綺麗だった。
「なにもなかった」
 ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出す。内側に散らかった感情を一つずつトレースするみたいな。
「久しぶりに会ったけど、普通に話せた自分に自分で驚いた。――だけど、別れてしばらくしてから、やっぱり好きだなって。その想いを思い出したら、途端に、隣にいたいのりさんが妬ましくなってきて……なんだか、とても舞台に上がる気にはなれなかった」
「でも、約束したやないですか」
 ミナちゃんが口を尖らす。穏やかな彼女らしからぬ語調だった。一方、鈴花はさっきから少し居心地悪そう。
「次もまた舞台に立つて。葵さんの前で演技するて。言うたやないですか」
「――ほんとに、ごめんなさい。もう大丈夫だから。少し一人になってたら、気持ちが定まってきた。わたしは舞台に立たないと。葵さんに見せつけないと」
 瑞希さんは頭を下げた。「心配かけてごめんなさい。鈴花もごめんね。わたし、今からみんなの元に戻る。謝らなきゃ」
 彼女がいなければわたしの物語が始まらない。脚本という形になってもそれで完成ではない。誰かがそれを演じて、誰かに観てもらって初めて物語になるのだ。去年も今年も、わたしは瑞希さんが欠かせない話を書いた。
 手を差し出す。「瑞希さん、戻りましょう」
 中学までの自分は人と深く関われなかった。少しだけ花音みたいになれているのかな。

 始まりを告げる長く、低い音。場内が一気に暗くなるとともに、あたりは水を打ったような静けさに包まれる。翡翠ヶ丘は体育館にパイプ椅子をざっと並べて客席にしている。たまに椅子の軋む音がするけど、あまり気にならない。
 いよいよ秋の舞台が開幕。今年もここまで来てしまったわけだ。去年とは発表順が逆で旭山が先手。作品名は「箱に願いを」。自分の大切なものと引き換えに願いを叶えてくれる箱を手に入れた登場人物たちが、やがてその箱で自分の大切なものを確かめてみる、そんな内容。去年よりも少し明るく、ファンタジックに仕上げた。それと、笑いどころも用意したつもり。
 主演は前々から決めていたとおり瑞希さん。箱を最初に手にした少年を演じる。瑞希さんに男役を充てる、というのは構想の段階から頭にあった。瑞希さんと幼馴染で恋仲未満の関係の少女を演じるのはミナちゃん。ミステリアスでいつも煙に巻く存在、だけど心では瑞希さんの役のことを……みたいな。
 話は二人を中心に進行するが、あと二人重要なキャストがいて、一人が鈴花だ。主人公に片想いをしているけど、前述の二人の間柄をいつも目の当たりにして気持ちを秘している少女。健気な感じが彼女にぴったりだ。
 それから、女性らしさに悩み、同性の鈴花に恋しているけれど、相手に想う人がいるらしいことを感じ取り、これまた気持ちを秘している少女――演じるのは千穂さん。難しい役かもしれないが、部長の千穂さんならきっと上手くやってくれるだろうと信じている。
 ――瑞希! みんなに心配かけるようなことしないで!
 瑞希さんを連れ戻すと千穂さんが最初に発した言葉がこれだった。「聖母」と称され、声を荒げたことのない彼女の剣幕に、誰もが息を飲んだ。たぶん、一番雷に打たれたのは瑞希さんだ。小さい子どもみたいにしゅんとしていた。
 ――あなたは主演なんだから。
 普段怒らない人を怒らせると怖いな、と学んだ。千穂さんの今日の舞台に懸ける意気込みは人並みならぬものがあった。だからその怒りは演技じゃなくて本気だと分かる。
 おかげでみんなスイッチが入ったのではないかな。特に余計な考えに囚われていた人は、なんて。
 舞台は順調に進行してゆく。自分の書いた作品が実際に披露されるのを目の当たりにする感覚は、ちょっとほかでは味わえない特別だろう。去年で懲りたつもりが、欲が芽生えだしているのも否めない。この世界に掴まったらそう簡単に放してくれないだろうな。
 葵さんは、どう評価してくれるかな。花音は……。

          ◯

 発端は藍葉の台詞間違いだった。だからって彼女がすべて悪いとは言い切れない。
 藍葉が稽古のときは一度も間違えなかった台詞を間違えてしまった。本来とは真逆のニュアンスになってしまい、それは舞台にいる誰もが気づいた。だけど、その後で不自然な間ができ、頭が真っ白になった藍葉は言い直すタイミングを失った。
 最初にフォローを入れたのはあたしだった。なんとか立て直したい、その一心で。だけど、後から振り返れば、その選択が正しかったのか微妙だ。藍葉の台詞をそのまま受け入れ、辻褄が合うように返した。そこで舞台は一つの綻びを必死に繕っていく作業に入った。そのワンシーンをつぎはぎすればいいのだから、そう長丁場の作業でもない。ただ、何度も練習してきた台詞、やりとりを少し異ならせるのはとても難しい。
 結果的に、傷口はかえって広がった。ぎこちない空気が確実に舞台上に伝播し、どう収拾をつけたらいいのか誰にも分からなくなっていた。
 やがて照明係が機転を利かせて暗転させ、あたしたちは全員袖にはけた。つながりがややおかしくなるが、最重要のシーンではなかったため、ここからはまた台本通り演じることにした。見せ場は残っている。
 しかし、藍葉は目に見えて落胆していた。あたしはかえって余計な手出しをしたような気がして、どう声をかけたらいいか分からなかった。それでもまたステージに出なければ。
「藍葉、アドリブ入れるなんてやるじゃん」
 紅美子さんの声だった。薄暗い中でも、紅美子さんが微笑みかけているのが分かる。――紅美子さんが藍葉に優しい言葉をかける瞬間を初めて見た。
「お姉ちゃん……」
 今にも泣きだしそうに声を詰まらせる藍葉を紅美子さんがぎゅっと抱きしめる。「紅美子さん、でしょ。大丈夫、藍葉はなにも悪いことなんかしてない。舞台は生き物。舞台にはいつだってアクセントが必要。ここからもっといい演技を見せつけてやろう」
 これがこの姉妹の本来の姿なのかもしれない。姉の腕の中で藍葉は二度、三度と頷いた。
「はい!」
 いつもの藍葉が帰ってきた。でも、声が大きすぎる。
「ちょっと、外に聞こえちゃうわよ」
「わ、ごめんなさい」
 声を殺してみんな笑った。災い転じて福となす、むしろ雰囲気はよくなっていた。
 さ、行こう。紅美子さんが促してあたしたちは再び光の下へ歩き出す。いいものを見てもらいたい。見てもらいたいから演劇を志したのだ。
 紅美子さんがいなかったら――あたしが部長だったら、こうまで状況を好転できなかったろう。心からそれを実感している。
 舞台は生き物。稽古を幾度も重ねても本番ではまた違った顔が現れる。きっとこのときにしか味わえないと開き直るしかないじゃないか。
 光を浴びる。また自分ではない何者かを演じる。

 ……――鳥の鳴き交わす声。なにを話しているのだろう。今年の舞台の出来映えを評価しているのかもしれない。
 窓から夕陽が差して廊下をオレンジ色に染め上げている。いつもと同じ場所にいるのに、すべてが終わった後の校舎は悲しく見える。寂しい。また一つ、終わってしまった。
 なんとかなったとは思う。練習してきた成果を出せた。最後に大きな拍手をもらえた。達成感はちゃんと存在した。だからこそこんなに物悲しくなるのかな。あたしたちはずっと時間がない。あまりにも急ぎ足で通り過ぎるから。
 舞台を下りてから、紅美子さんが耳元で囁いた。「大事な話があるの」約束の時間と場所を付け加えて。もうそれだけでなんのことか見当がついた。心臓が跳ねた。さっきから思考はとりとめがなくて忙しい。
「花音」
 音符付きの軽やかな調子で呼ばれ、顔を上げた。懐かしい姿、ちょっとだけ大人っぽく華やいでいる。「いのりさん」
「おつかれさま」
 ふんわりとした笑顔、癒される。隣には葵さんがいた。まだお付き合いしているらしい。
「おつかれさま、花音ちゃん。主演だったんだね。とても輝いてたよ」
 こんな台詞をさらっと口にできてしまう。
「ありがとうございます」
「――それじゃ、あたしは小百合を探してこようかな。感想を伝えてあげなくちゃ」
 そう言って、葵さんはさっと歩き出す。歩いていく後ろ姿を見て、少し髪が伸びていることに気づいた。
「いのりさん、観に来てくださってありがとうございます」
「卒業して一年だからね、知ってる顔も多いし。来年も観に来るよ」
「はい、ぜひ」
 実際のところ、どうでした? 訊きたかったけれど、今は本音を引き出せないだろう、そんな気がした。
「さっき」代わりに別の話題を持ち出した。「紅美子さんに、大事な話があるって呼ばれました」
 いのりさんは瞳を一瞬見開いてから、やがて得心がいったように頷いた。「そう。がんばってね」
 はい、がんばります、そう答えながら、やはりこれはそういうことなのだと腑に落ちた。
 いのりさんと別れてから、また葵さんに出くわした。今度は小百合と一緒だった。向かい合ってなにやら話している。――背の高い二人がああして向き合っていると、不思議と絵になる。
「花音」
 先にあたしに気づいたのは小百合だった。二人の方へ近寄る。
「また会ったね」
「はい。小百合を見つけたんですね」
「今感想を話してたところ。そうだ、花音ちゃんはどう思った? 今年の旭山の舞台」
 おもしろかった。悔しいほどに。でも、その感情をどう伝えたらいいのか苦慮した。
「なんか、意外でした。小百合がこんな話をかけるんだ、って。それに、瑞希さんだけじゃなくて、ほかの役の人たちもいい部分が引き出されてて……そういえば、あたしに似てる子がいたような」
「ああ、それはあたしも思った。三つ編みだったけど、彼女は一年生?」
 小百合はなぜか言いにくそうにした。「……はい、一年生で、沼田鈴花っていいます。花音も昔は三つ編みだったんですよ」
 もう一つ意外だった。あんなにあたしにそっくりな少女がいるのに、どうして小百合はあたしに話さなかったのだろう。すぐに言ってきそうなものなのに。
 二人とも別れて歩き続けた。工夫された演出を見せつけられたり、自分の演技が上手くいかなかったり、さまざまな感情に振れたりすること、それが演劇で、それが魅力的なのかもしれない。紅美子さんに会いに歩き続ける。彼女の話を聞いて、今度はどんな感情が胸に舞い込んでくるかしら。そこからなにか大きく変わるかしら。
 いつも部活をしている空き教室にたどり着く。扉の前に立って、深呼吸した。緊張している。手が汗ばんでいる。予感している、新たな物語を。
 教室の中に入ると窓際で紅美子さんと愛さんが向かい合っていた。二人でにこやかに言葉を交わしている様子。あたしの入室に気づいて、話し止めた。「ようこそ」傍へ行く。
「なんで呼ばれたか、なんとなく見当がついてる?」
 首を縦に振る。「はい、なんとなく」
「それなら話が早い。――花音、あなたに次の部長をお願いしたいと思ってるの」
 伝統ある翡翠ヶ丘の演劇部部長は、こうしてまた引き継がれようとしている。他人事みたいに、告げられている真剣な面持ちのあたしを俯瞰して見ているもう一人の自分がそのときいた。

          ●

「おめでとう」
 笑顔を浮かべられているとは思いながら、内心戸惑っていた。その事実にではなく、それだけわたしたちの時間が経過していることに。高校生活はとっくに折り返し始めている。いつの間にそんなに駆け抜けていったの。だけど、確かに印象的な出来事は手に取るように思い出せるけれど、一方で少しずつ日常のワンシーンが淡くぼやけて霞みだしている。つまり、それだけ毎日を積み重ねた。いろんなことがあった。
「やっぱり、花音だと思ってたんだよね」
 芽瑠ちゃんがそう言う。「もしくはミナちゃんかもな、って」
「わたしは花音しかいないと思ってた。わたしは落ち着きがないし」
 と、ミナちゃん。
「わたし、部長向いてる自信ないんだよね……やったことないし。芽瑠、ミナちゃん、助けてね」
 もちろん、と二人とも請け合う。わたしは花音なら大丈夫だってこと、知っている。花音はどこにいても大丈夫な人だから。
 秋の舞台の翌日は祝日で、その次の日、さすがに興奮は薄れ、またなんでもない一日に戻った。部活はどちらの演劇部も休みで、せっかくだからいつもの五人で駅前の喫茶店に来た。
「そして、ミナちゃんもがんばってね」
 今度は三浦のミナちゃんに水が向けられる。花音と同じく、舞台の直後に千穂さんから告げられ、承諾した。ミナちゃんはにっこり微笑む。「がんばる」その表情にはそれほど不安は窺えなかった。こちらの部長もきっと問題ないはず。
「にしても、花音とミナちゃんがそれぞれの演劇部の部長かー。こんなに嬉しいことはないね。来年の舞台が今から楽しみ」
 塚原のミナちゃんが興奮気味に語る。二人とも主演を張るのかしら。今年は例外があったから、必ずしもそうとはいかないかもしれない。
「花音ちゃんが部長になって、藍葉がすごく喜んでたね。あの子すっかり花音ちゃんに懐いてるから」
「あと、智恵子もね。智恵子、花音の話は素直に聞くよね」
「え、そうかな。智恵子はわたしも、たまに考えてることが分かんない」
「そういえば、旭山に花音に似てる子いなかった?」
「せやねん! 鈴花な」
「ミナちゃんも小百合も教えてくれなかったから、びっくりしたよ」
「あの子も期待の後輩やで」
「でも、ほんとうに寂しいなー。もう上の代が一人もいなくなっちゃうなんて」
 みんなの話を聞いていると、「小百合は」花音がまっすぐにこちらを見つめた。「来年も脚本、書くんでしょ」
 書くの? ではなく、書くんでしょ、だった。もう二年も続けてしまったら、そう信じられて当然だろう。「うん」
 書くつもりはあった。ただ――
「あの、たとえば、なんだけど」わたしがこう切り出すと、四人の視線が一気に集まった。気後れしたけれど、どうしても話しておきたかった。「わたしが翡翠ヶ丘の舞台の脚本を手掛けることができないかな……?」
 水を打つような沈黙が束の間下りた。突然の申し出に、言葉を失くしている。
「翡翠ヶ丘の……?」
 最初に反応を示したのは花音。
「どうして?」
「――わたし、高校で演劇に関わると思ってなかった。それじゃなくても、花音と同じ高校に行きたいって思ってたから……せっかくまた手掛けられるチャンスをもらえるなら、花音が出る作品を書いてみたい」
 正直な気持ちだった。いつか打ち明けたくて、伝えるシーンや言葉を幾度空想したことだろう。
「それに、今は花音だけじゃなくて、翡翠ヶ丘にはミナちゃんと芽瑠ちゃんがいるし。どうかな……?」
 すぐに答えがもらえるとは考えていなかった。秋の舞台は年に一回、わたしたちには残り一回きりしかない。即座に結論を出せるわけがないのだ。
「旭山は?」
 芽瑠ちゃんが呟いた。表情は平素と変わらなかったが、声がわずかに上ずっていた。彼女にとっても予想外の話だったのが見て取れる。
「旭山の方はどうするの? そっちも小百合ちゃんが作るの?」
 舞台の上で役に応じた髪型をしている芽瑠ちゃんは、本来の彼女だ、という感じがする。普段のツインテールにしているお馴染みの彼女は、まるで爪を隠す鷹みたい。
「それは……」ちらりと三浦のミナちゃんを見やると、ミナちゃんは真剣な眼差しをわたしに注いでいた。答えを待っている。どんな言葉が紡がれるかを。「できるなら、両方やりたい。だけど、一つに取り掛かるだけで目一杯になってるのが現実。……だから、もし翡翠ヶ丘に携わるなら、旭山は諦めるしかない、かな」
 長い間を置いて、ミナちゃんは口を開いた。
「本気で翡翠ヶ丘の方でホンをやるんなら、仕方ないと思う。大変な作業やし、それに小百合ちゃんはわたしたちの大切な仲間であるのは間違いないけど、厳密には演劇部所属やないし」
 確かに、演劇部に入部届けを出した憶えはない。
「まあ、後半は冗談半分やけど、小百合ちゃんの気持ちを尊重する」
 ありがたかった。どこまで本音か知れないけれど。
「わたし、考えてたの」さらに言葉を重ねた。「葵さんに引っ張り込まれる形で脚本やることになって、すごくいい経験をさせてもらったんだけど、三年間やっちゃうと同級生のミナちゃんは、わたしのしかできないなっていうこともあって」
「別に、そんなんぜんぜんええのに」
「でも、いろいろ考えちゃう。翡翠ヶ丘みたいに名作とかで、有名な登場人物を演じるミナちゃんも観てみたい」
 それに、決め手はやっぱり花音なのだ。花音のために書きたい。
「おもしろそう!」
 塚原のミナちゃんが急に立ち上がって叫んだ。周囲の視線を受けて、すぐに座ったが。
「いいんじゃない、今までと逆になるなんて。舞台はあらゆる可能性をためさなきゃ」
「わたしも、いいと思う」
 芽瑠ちゃんも同調してくれた。
 後は部長二人の決定を待つだけ。だけど、今の二人には部員たちの顔が脳裏にちらついている。簡単に応諾はできないはずだ。
「ちょっと、考えさせて」
「わたしも」
 今日は思いを伝えられただけでよしとしなければ。

 待ち遠しかった秋が終わると、そこからはあっという間だった。
 新部長の花音とミナちゃんがそれぞれに奮闘し始め、だんだんと自分のペースを掴んでいく。部が彼女らの色に染まるのも時間の問題だった。
 冬場は基礎的なことから、普段できない実験的なことまでするので、かなり鍛えられる。わたしも興味本位で一度参加してみたら、見事についていけなかった。演劇部は文化系の部活に振り分けられるのだろうが、やっていることは体育会系だ。
 わたしは足が遠のいていた文芸部にちゃんと通った。幽霊部員のわたしに部長の話が来るわけはなかったけど、こちらでも先輩がいなくなってしまったので、もう甘えられないな、とは思う。
 そろそろ卒業後の進路について考えろ、と言われる。大学、専門学校、就職……未来を選択しなければならない。今のところは大学に行きたい気持ちしかないけれど、たまに安直なのかな、とほかの選択肢に思いを馳せてみる。だけど、分からなかった。もっともらしさってなんだろう。
 大晦日。今年も一年が終わる。迎えるときになって、一年分のなにかを積み重ねてきたかどうか不安に駆られる。それなのに新しい年がやって来る、と聞くとワクワクするのはなぜ。希望を見出せるような気がするから?
 家族と年越しそばを食べながら年末番組をぼんやりと見、夜更けに家を出た。みんなと初詣に出向くためだ。温泉街のすぐ西方、「街の歴史館」という建物と隣り合う位置に神社がある。そこに今年のお願いをしに行く。
 いつもの駅で待ち合わせし、普段ならそこから学校へ向かうところを、歩き慣れていない道を行く。初詣で賑わっているかと思いきや、意外と穴場なのかそこへ流れてゆく人の姿はあまりいなかった。わたしと花音は今まで初詣に行ってみようなんて話になったことがない。今回言い出したのはミナちゃんだ、塚原の。
 そのミナちゃんは振り袖姿で現れた。コートを着てマフラーを巻いてきたわたしと花音は目を剥いた。そうしたら、後から来た三浦のミナちゃんと芽瑠ちゃんも振り袖だったから続けて目を剥いた。とても華やかで羨ましかった。
 暗くて寒い道も、仲間たちとだとなんてことはない、ことはないけれど、でも「寒い、寒い」言っているうちに、それがそんなに気にならなくなってくるものだ。神社までは住宅が続いていて静まり返っていた。
 やがて「街の歴史館」が見えてくる。――この街の歴史って、よく分からない。伝統校の翡翠ヶ丘はどのくらいこの土地で時代の変化を見守ってきたのだろう。
「この街の歴史って、どんなの?」
 同じことを考えていたのか、花音が誰にともなく投げかける。
「北条に滅ぼされたんだっけ」
「武田に滅ぼされたんじゃなかった?」
 どうやら滅ぼされたことだけは確からしい。
 そして神社にも着く。小さな境内で、全貌が容易に見て取れた。背後には小高い丘が存在感を示していて、厳かな雰囲気を醸し出している。神様は夜の空気を吸って冷気をその肺に集めている。人がまばらなその神社で、五人並んで新年の挨拶をした。二礼、二拍手、一礼。
 目を瞑りながら、一つだけ祈った。わたしの書いた脚本で、花音が演じてくれますように。それだけしか望むことはない。だから目を開けて左右を確認したとき、ほかの四人はまだ目を瞑っていた。みんなはなにをお願いしているのだろう。
 花音の横顔を見つめた。上気した赤い頬、引き結ばれた唇、憂いを帯びたような睫毛――いつか、あの横顔をわたしだけのものにしたい。いつの日になるか知れないけれど、胸から溢れそうになる想いを伝えたい。傍で見つめているだけじゃ満足できない。好きは独りよがりだ。
 目を瞑っていた花音が不意に口を開いた。「わたしも、小百合の脚本で演じてみたい」
 思わず神様のいる方を振り向いてしまった。もうお願いを聞いてくれたのかしら。
 花音はもう澄んだ瞳を一心にこちらへ向けている。彼女が喋り始めたことで、ほかのみんなも目を開けた。
「小百合、お願いできるかな」
 もちろん、と即答しそうになって、その前に三浦のミナちゃんと目を見交わした。ミナちゃんは「ほな、それで」と笑顔で頷く。話は決まった。
「うん、任せて」
 さっきまで気づかなかったけど、夜空には爪痕みたいな三日月が浮かんでいた。風が吹いて洗い立ての髪をさらう。

          ◯

 季節がまた巡った。高校一年間を色分けすると、夏から秋にかけては極めて色濃いため、冬春は手応えのないうちにどこかへ行こうとしてしまう。待って、そう、その袖に掴まりかかるときがあるとすれば、見過ごせない大事なイベントがあるとき。たとえば、今日とか。
 いつも以上に身だしなみに気を遣う。鏡の前で念入りに髪型や服装を確認し、でもまだゴーサインが出ない。送り出す側でこれでは、来年はもっと時間がかかるのではないかな――そう思い当たって、ふと心づく。そうか、来年の今頃、あたしは高校を卒業しているのか。そんなのちっとも思い浮かばなかった。まだずっと未来の話だと捉えていた。
 そう、今日は卒業式。演劇部員はほかの生徒より早めに登校して、恒例の最後の言葉を聞きに行く。先輩方がなにを語るのか、そして来年あたしは……と、来年のことを今考えても仕方ない。目の前のすべてを目に焼き付けてこよう。
 やっと心を含めた準備が整った。短く息を吐いてから、時計を見て慌てた。急がないと遅れてしまう。せっかく髪型をちゃんとしても走ったら乱れるから意味なかった――そんな後悔が脳裏を掠めつつも、とにもかくにも家を出た。
 まっすぐ立って駅のホームで電車を待つ。等間隔に置かれた枕木の向こうに目を凝らし、その気配を意識する。あたしを目的地まで連れてゆく箱。やがて来た。
 学校が近づいてくると、ちらほらと学生服姿の女生徒たちが現れる。旭山だけじゃなく翡翠ヶ丘の人たちもみな緊張感のある表情をしていて、そうだ、彼女たちも今日が卒業式だと思い出した。千穂さんや――瑞希さん。だんご頭の可憐な瑞希さんの顔が思い浮かぶ。葵さんに想いを伝える場面に出くわしたのは遥か昔のような心地。葵さんはとうにその影を消し、今また瑞希さんも遠くなろうとしている。
 校舎を歩いていると、部員ばかりなことに気づく。挨拶をされ、部長扱いされるのも慣れてきたなという実感が湧いてくる。そのまま一緒に空き教室へ。去年ならここで体育座りをして待っていればよかったけれど、今年はあたしが先輩方を迎えに行かなければならない。ミナちゃんと芽瑠だけを伴って、三年生の教室を目指した。
 三人揃って言葉数が少なかった。寂しさがじわじわと、真綿に水が染み込むように胸を侵していく。受験で三学期はほとんど会う機会すらなかったから、そのせいかもしれない。すでに彼女たちを対岸に見ている。
 紅美子さんと愛さんは希望の大学への進学を決めている。二人とも大学でも演劇に関わるつもりでいるらしい。それぞれの大学で、どんな物語の糸を紡ぐのか。
 教室の扉をノックした。――初めて演劇部の活動に参加しようとしたとき、その扉の先にはいのりさんがいた。笑顔で手招きしてくれた。あの瞬間はずっと忘れないだろう。
 紅美子さんがいた。彼女もまた笑顔。少し潤んだ瞳と色づいた唇、なんだかいつにも増して美しくて息を飲んだ。奥には愛さんや、ほかの三年生も待ちかねていた。「どうぞ、こちらへ」自然とそんな言葉が出てきた自分に感心する。あたしの熱い部分と落ち着いた部分が別個の人格みたいに喋る。
「花音、部長がんばってるみたいね」
 藍葉がいつも教えてくれるよ、と紅美子さんは小声で漏らす。校舎はしんとしているからそれでもちゃんと耳に届く。はい、前を向いたまま頷いた。
「でも、肩に力入れすぎないで、あなたはあなたらしくやってね」
 その声はどこまでも優しい。と、愛さんが笑いを押し殺している気配がする。「それ、いのりさんに言われた言葉そのままじゃない」
「いいのよ。素敵なメッセージはまた伝えてあげなくちゃ」
「それじゃあ」二人を振り返って、後ろ歩きしながら答える。「あたしもそれを伝えます」

「今日は朝早くから集まってくれてどうもありがとう、と言うか、おつかれさま。いろいろとお世話になりました。堀愛です。
 あたしが演劇部に入ったきっかけは、運命の糸に導かれたからです。最初は雰囲気がよさそうだと選んだ翡翠ヶ丘で、なんの部活に入るのか決めていなくて……それで、演劇部が盛んだって聞くから、見学に行ってみたらすごく魅了されました。ここでなら三年間楽しめるんじゃないかって期待が持てました。そして、その期待は現実のものとなりました。
 入ってからさまざまな人との出会いがありました。特に紅美子のことは尊敬してます。いろんなことに気がつくし、大人っぽいって言われるあたしよりも、ずっと大人だなっていつも感じてました。
 それから、顧問の相川先生。先生は顧問といっても名ばかりで、部活に顔を出す回数はわずかだったけれど、あたしにはその小さなきっかけで十分でした。――あたしは先生を愛してます。一人の男性として」
 心が叫び出しそうだった。脇の下を汗が伝い、あたしはどうしたらいいのか分からなくて、中途半端な姿勢で愛さんを見つめた。しかし、愛さんに目で制される。大丈夫だから、と宥めるみたいに。すでに大丈夫ではない。
「あたしは相川先生と付き合ってます。先生と生徒だからずっと黙ってたけど、今日であたしは卒業だから、これからは公然とお付き合いできます。将来的には結婚するつもりです」
 教室内がざわめく。それはそうだ、こんなこと明かされたら誰もが動揺する。ちらりと紅美子さんの表情を確かめると、彼女もまた同じように動揺の色が見える。どうやら知らなかったらしい。ひょっとしたら、この場で知っていたのはあたしだけでは。
 ほんとに、最後にとんでもない爆弾を放ってくれる。
「……あー、やっと言えた。すっきりした。秘密の恋は、それはそれでそそられたかもしれないけど、やっぱり隠してるのはつらい。この日を待ってました。あたしは大学に進むけど、先生はこの学校に残るから、みんなよろしくね」
 以上、と無理に話を終わらせて愛さんは下がってしまう。室内はざわめきが続いている。この空気をどうしてくれるのかしら。
 最後は紅美子さんを残すのみだった。だけど、紅美子さんは困った顔で立ち尽くしている。
「――はあ、まったく。ぜんぜん知らなかった。まさか、としか言えないけど……でも、確かに二人はお似合いかもね。まあ、勝手に幸せになって下さい」
 教室内に笑いが起こる。愛さんは悪びれた風もなく艶然と微笑んでいる。
「じゃあ最後に、あたし、刈谷紅美子から。あたしはこの学校を選ぶ段階から、演劇部に入るって決めてました。この中には旭山に行けなくてこっちに来た、って子もけっこういるだろうけど、あたしはここ一択でした。
 中学生の頃からお芝居を観るのが好きで、自分も舞台に上がりたい、というより、その現場に関わりたいって心から思ってました。だから一年生のうちから照明とか音響とか、小道具、大道具、衣装なんかに積極的に関われて、とても満足できました。
 一方、演じる難しさも知れました。あたしはもちろん初心者だったし、自信はずっとなかったけど、でもやりがいはありました。演じる側に立つことで見えた世界もあったし。
 あたしはみんなにとってどんな部長でした? あとでゆっくり聞かせてください。――ほんとうに、三年生一同お世話になり、最後には度肝を抜いてしまいました。みんな、ありがとう。藍葉!」
 急に呼ばれた藍葉は、反射的に立ち上がる。「はい!」
「いい子でいるのよ」
「子ども扱いしないでよ!」
 また笑いが起きた。紅美子さんの話が終わり、演劇部恒例の名もなき集まりはお開きとなってしまう。愉快なのに、そのことを思い合わせると、途端に寂しさが去来して、涙まじりの笑いになった。
 出会った瞬間に、別れまでの道筋が敷かれる。その瞬間はいつもきらきらしている。

          ●

 今年の冬は暖かいそうで、例年より早く桜が鮮やかに咲き誇っていた。こんなに見事に色を付けてしまっては、それが散り、緑色の衣を纏うのもそう遠くないだろう。綺麗だな、と目を細める。毎春この花を目に留めているはずなのに、その度に新しい感動が胸に舞い込むのはどうして。出会いと別れの季節に重なるからかな。
 校内が桜色に染まる午後、卒業式が無事に終わり、後輩たちは煉瓦道の左右で卒業生が来るのを待っている。一人ずつ、ゆっくりと講堂から出て歩いてくる。涙に暮れている者もいた。晴れやかな表情をしている者も、後輩に抱きついている者も、ピンと背筋を伸ばしている者もいた。みな、その人にしかなかった高校生活を反芻している。
 二つ目のクラスの先頭で、千穂さんが歩を進めてきた。「入江」だから出席番号は早い。わたしとミナちゃんが並んでいるのに気づいて、近づいてきた。
「ご卒業おめでとうございます」
 頭を下げる。上手いこと声が揃った。顔を上げると、千穂さんは満面の笑みだった。ほんとうに聖母だ。「ありがとう」
「千穂さん、泣かなかったですね」
「うん。まあ、式は式だし。秋の舞台の終わった後の方が寂しかった」
 部長として一年、部を動かしてきた千穂さん。瑞希さんという大きな存在がいる中で、彼女はそれでも部の中心だった。誰にも等しく慕われる先輩だった。
「また、温泉入りに行きますね」
 千穂さんは大学へ進学せず、実家の温泉宿で本格的に働き始める。未来の女将としての修業がスタートするのだ。
「七瀬、部長がんばって」
 ミナちゃんが首を縦に振る。「はい、がんばります」
 ミナちゃんの部長ぶりはだいぶ板についてきた。ここまでは気心の知れた仲間たちとやってこられたけれど、来月には新入部員がどっさり入ってくる。不安は小さくないだろう。わたしももう最高学年になるのだし、できる限り支えてあげよう――とは望むけど、どうかな。どうしても翡翠ヶ丘の脚本にかかりきりになってしまって、旭山にはほとんど顔を出せない気がする。少しでも相談に乗れればいい。
 千穂さんが去ってからしばらく経ち、「柳井」だから後方にいた瑞希さんがやっと見えた。ちょうど一年前、部活から遠ざかっていた瑞希さんが、葵さんの言葉もあって再び舞台に立つと誓った。そして、その誓いは果たされた。主演としてその魅力を存分に発揮し、彼女は心残りのない横顔でステージを下りた。
「ご卒業おめでとうございます」
 瑞希さんの美しいその面立ちを、心行くまで眺めていたいと思った。化粧が施され、髪も下ろしていた。前髪の下で揺れる両の瞳に吸い込まれそうな心地を覚える。
「ありがとう。二人とも、もう最上級生か。ついこの間出会ったばかりのような気がするのに」
 それはわたしも同じだった。葵さんに連れられ演劇部に行き、瑞希さんと近づけたのは山へ登ったときだ。彼女の想いに強く心打たれた。
「瑞希さん、葵さんによろしくお伝えください」
 瑞希さんは想い人を追いかけ、同じ大学への進学を決めた。また困ったことにならなければいいが、と思わないではない。だけど、純粋にまた一緒に演技がしたいみたいだから、その願いは叶えてほしい。
「ええ。来年の秋の舞台は一緒に観に来るよ。……もちろん、いのりさんとかも含めて」
 そうだ、となにかを思い出したような顔をして、瑞希さんはわたしに耳打ちする。「小百合は想いを伝えないの? 大切な人に」
 心臓を掴まれた。返す言葉もなく、ただ目を見つめるだけ。彼女は悪戯っぽい笑みを残して、片手を上げた。その去り方は葵さんと重なった。
「なにを言われたん?」
 ミナちゃんが隣で怪訝そうな顔をしている。うん、内緒の話、とお茶を濁しておいた。ミナちゃんはふうん、と呟いて、それ以上追及してこなかった。
 瑞希さんは感づいていたのだ。

 桜の花びらが散った。新しい芽が吹いた。強い風がいくらか温かみを増してゆく。温泉街は夢や理想を追い求めて去っていった人たちを優しい眼差しで見送り、初心な気持ちで訪れる人たちを寛容な心で受け入れる。
 学校は賑やかだった。新入生がやや興奮気味なのもあるけれど、一方で上級生たちも彼女らをいろんな思いを込めて見ている。特に、部活勧誘的な意味で。
「新入生、来てくれるやろか……」
 ミナちゃんはため息まじりに呟く。新学期が始まって数日、今日から新入生の部活見学が解禁される。すでに校内での勧誘活動を励行し、後は待つばかり。演劇部はずっと一番人気の部だから、そのプレッシャーはほかの部長とは比較できない。でも、思う。ミナちゃんはストイックなのか、自分を過小評価してしまうきらいがある。わたしには分かる。彼女なら大丈夫だってこと、葵さんや千穂さんと遜色ない器だってこと。
「鈴花も、もう後輩ができるんだね」
 傍にいた鈴花にそう声をかけると、彼女は不安げに眉を寄せ、「ほんとですね」と漏らした。こちらもいい先輩になれそうだけど。
「ついこの前、鈴花たちが入部してきた気がすんねんけど、さらにその下がもう来るんやな」
 ミナちゃんは講堂の窓からまっすぐ降り注ぐ陽の光に手を伸ばす。ちらちらと影が揺れた。
 今年は翡翠ヶ丘に出向く機会が多くなるだろうが、少なくとも初日はミナちゃんと一緒にいたかった。わたしがいても大きな支えにはならないのは知っているけれど、でもこんなに誰かのために動きたいって思えるようになったのは、この数年間の変化だ。わたしは変わった。花音に近づいているかな。
「ミナさんが部長なら、たくさん来ますよ、きっと。わたしも、ミナさんみたいな先輩がいてくれて安心できましたから」
 先輩たちはミナちゃんのことを七瀬、と本名で呼んでいたが(葵さんは例外)、後輩たちはわたしらを真似してミナさん、と呼んでいる。部長になってもミナさん。いじらしい鈴花を、現部長は頭を撫でることで応えた。「ありがとう」
 そして、鈴花の予言通り、しばらくしてから大勢の新入生が講堂になだれ込んできて、わたしたちは対応に追われた。あんなに不安げにしていたミナちゃんも鈴花も、彼女らが来るとスイッチが入って、機敏に動いていた。急な状況の変化に半ば動揺したわたしなんかとは、演じてきたキャリアが違うのだとつくづく思い知らされたのだった。

          ◯

 差し出された入部届けを両手で受け取りながら、ハーフなのかな、と頭の片隅で考えた。髪も瞳も明るい茶色で、なにより目が醒めるくらいの美少女だった。彼女のわずかな表情の変化を、つい目で捉えようとしてしまう。だけど、どうやら生粋の日本人だと、入部届けを確認して知れる。そこには「村上柊子」と名が記されていた。
「よろしくお願いします」
 頭を下げることなくそう言い、妙に落ち着き払った態度であたしからすっと離れた。そんな彼女に、どんな言葉も返せなかった。すっかり魅入られていた。
 高校生活三年目の船が出航し、帆に風を受けるようにして、演劇部は順調にスタートを切った。新入部員は例年通り来てくれ、活動も滞りなくこなせている。あたしも少しずつ不安が薄れてきた。
 そんな折、柊子は現れた。部活見学には一度も顔を見せず、正式に入部が決まる時期になってから不意に。どこか自信と余裕のありそうな挙措から、お芝居の経験者なのだろうと予想した。
「あの子、劇団に入ってたんだってね」
 ある日のお昼休み、教室で昼食をともにしていると、ミナちゃんがふと漏らした。
「あの子、って?」
「ほら、村上柊子。最後に入部した子」
「ああ、すごくかわいかったわね。へえ、じゃあバリバリの経験者なんだ」
「うん、そりゃ『劇団さるすべり』だからね、厳しい指導を受けてきたはず」
 ミナちゃんが挙げた劇団名は、舞台だけでなく映画やドラマなんかでもよく目にする、日本有数の劇団だった。
 あんなに心惹かれる美少女だというのに、ミナちゃんは珍しく浮かれた様子がまったくない。むしろ、その口ぶりは複雑そうだった。
 どうしてそんな大きな劇団にいたというのに、そこから抜けてしまったのか。そして、どうして高校の演劇部なぞに入ろうと思ったのか。気にはなるけれど、ストレートに訊けることではないだろう。それと、もちろん特別扱いするつもりはないが、それでも実力を遺憾なく発揮されれば必ず台頭してくる。そうなったとき、あたしはどうしたら――。

 ここのところ、小百合は放課後、ずっと翡翠ヶ丘に来て部員たちを見つめている。基礎トレやエチュードなどに汗を流す一人ひとりをじっと観察し、その個性を焼き付けようとしている。すでに脚本のひな型はできあがっているらしいけど、新入生たちを見て大きく変える可能性もあるという。
 あたしは部長として指示を出しながら、一方で自分の演技を探してもいる。これまでの時間はかけがえのない財産だけれど、それに安住していてはあっという間に取り残されてしまう。なにもしないで舞台に立つだなんて、厚かましい真似はできまい。その感情はいのりさんやかさねさん、紅美子さん、愛さんたちを見てきて自然に抱いた。
 ミナちゃんと芽瑠はしばしばフォローをしてくれる。ミナちゃんは出会った頃に比べればだいぶ成長したというより、落ち着きを得た。それでも持ち前の明るさは失っていないから、後輩が自然と寄りつく。芽瑠もまた後輩の憧れの的。
 藍葉は先輩になってからもいい意味で相変わらずで、その飾らない性格が親しみやすさを抱かせていた。彼女は紅美子さんというお手本を近くでずっと目の当たりにしてきたため、無理に偉ぶる必要はないと感覚的に理解しているのだ。片や、智恵子は――みんなと溶け込むのは、もう少し時間がかかりそうかな。
 活動を重ねるたびに、柊子がその存在感をじわじわと増していた。背は高くないのに、どこから出るのかというほど大きなよく透る声を出す。表情が豊かだし、勘がいい。それに、これは彼女だけの魅力が為せる業だろうが、常に目が離せなくなる。その一挙手一投足が気になる。
「あの子、すごいね」
 部活帰りの道すがら、小百合がそう言った。あの子、ミナちゃんもそんな風にして彼女を語っていた。「柊子のこと?」
「そういう名前なんだ。なんか、落ち着いてるというか、自分をよく分かってるというか……特に、笑顔が魅力的」
 柊子は普段めったに笑わないけれど、演技となると花が咲いたような笑顔を振りまく。その天真爛漫さは彼女が本来持ち合わせているものなのか、それともそうと疑わせず装っているものなのか。
「秋の舞台に立たせようと思うんだ」
 あたしの呟きを、小百合は聞こえない振りをした。

          ●

 お昼時、校庭のベンチでミナちゃんとお弁当を食べていると、演劇部の一年生二人が現れた。
「あの、中田小百合さん、ですよね」
 ほかにはいないくらい髪を短くしているその少女は、挑みかかってくるようだった。男子みたいなその短髪、葵さん以来かもしれない。
「ええ、そうだけど……」
 呆気に取られている一方で、その顔には見憶えがあった。だから演劇部の人だと知れた。とはいえ、最近は翡翠ヶ丘にしか参加していないため、名前までは分からない。
「わたし、桐島希望っていいます。演劇部の一年です。――今年、脚本書かれないんですか」
 一年生にそんなことを訊かれるなんて思わず、目を見張る。
「どうして?」
「だって――」彼女は顔を俯けてから、また意志の強い目を向けてきた。「先輩は、成瀬葵さんが認めた人だから」
 きょとん、としてしまった。どういう繋がりだろう。この子は、葵さんの知り合いなのかしら。
「ほら、困惑させてるだけじゃない」
 ずっと成り行きを静観していた隣の少女が肩を竦めた。「はじめまして、わたし、米田和子です。希望と同じ演劇部の一年です。説明すると、希望は一昨年の秋の舞台を観て、葵さんのファンになったんです。それで、そのときの脚本を書いた方がまだ在学してるって聞いて、どうしてもまた書いてほしくなって、お願いに来たんです」
 希望とは対照的に、彼女はローテンションで流れるように語った。――そうか、それでショートカットなのか。
 再び希望が口を開く。「わたし、葵さんの演技に魅せられただけじゃなくて、お話もすごく素敵だなって感じたんです」
 本人を前にして、正直でよろしい。
「どんなところが?」
「えっと……ありふれた孤独じゃない、というか。安易に光と影を表現しないところとか」
 さりげなく尋ねたつもりが、鋭い刃で返された。どうやら相当な集中力で舞台を鑑賞していたらしい。ありふれた孤独じゃない、か。寂しい人、って言われたみたいなものだ。もちろん彼女にそんな意図はないだろうけれど。
 ミナちゃんが口元に手を当てて、肩を震わせていた。「なにを言い出すんかと思て見てたら、本気でお願いに来たみたいやね」
「ミナさん、小百合さんに書いてもらえないんですか」
 当然、部員同士の彼女らは顔馴染みだ。やっぱり、ミナさん、と呼ばれているのね。
「残念やけど、今年は無理。小百合は翡翠ヶ丘の親友のために、最後の舞台は向こうに脚本を提供するつもりでおるから」
「え、そうなんですか……」
 希望は肩を落とす。不憫になった。
「ごめんなさい、個人的な都合で勝手に決めて。――さっきみたいに言ってもらえて、嬉しい。わたしは高校から書き始めた身だから、安定していいのが書けるとは限らない。いろんな可能性を試してみるのが一番だと思うよ」
 納得したように窺えなかったが、もう反論は諦めたよう。「ほら、行くよ。お邪魔しました」その腕を和子が強引に引っ張って、二人は去っていった。要望に応えられなかったのは悪いけど、二人の姿はとても微笑ましく映った。
「素直な子」
「希望?」呟きをミナちゃんが拾う。「入部してすぐから、葵さんの名前を何度も上げとった」
「もう一人の子は?」
「和子? 和子は、希望の中学からの仲よしで――小百合と花音と一緒やね。それで、希望が演劇部に入りたいっていうのに、付いてきた感じ。保護者っぽいところはあんねんけど、逆に自分を出さへんのがちょっと気になるかも」
 なるほど、部長はよく観察している。
 そろそろお昼休みが終わる。一つ伸びをしてから、わたしの舞台、観てくれてる人いたんだな、とこぼすと、お客さんいっぱいおったやん、と返ってきた。
 孤独。わたしは花音に出会うまでずっと孤独だった。でもそれはありふれた孤独に過ぎなかった。

 横顔を見つめ、わたしの胸は少しずつ落ち着かなくなる。
 演劇部の部室で、台本の最初のページに目を落としている花音の表情は、どちらかというと無色透明。瞬きの少ない静かな瞳。引き結ばれた唇――なんだか色っぽかった。
 台本の最初のページには、今回の劇の配役が列記されている。何度読んでも書かれていることは変わらないのに、花音はいつまでもそこだけを捉えていた。そして、そんな彼女にわたしはじっと眼差しを向けている。
 背中の方から部員たちの声が聞こえ、わたしは仕方なく部室へ入る。
「花音、おつかれさま」
 今気づいた風を装って近寄り、そっと肩に手を置く。
 花音が振り向いて、すぐ近くで目が合ったときには、彼女は柔らかい笑みを浮かべていた。さっきまでの表情を遠くへやるように、台本を閉じて机の上に放った。
「おつかれさま。小百合、脚本、すごくいいね」
 そんな笑い方してほしくなかった。

          ◯

 どうしようもなく突き動かされることって、誰にでもあると思う。人の心はなんとも不思議で、いたってシンプル。
 あたしは演劇に魅せられ、その世界に憧れてしまった。生半可な道ではないことは入ってすぐに分かったけれど、辞めようと考えたことは露ほどもない。自分が向いているのかどうか、心傾けるように好きになってしまったら、そんなことに思いを馳せる瞬間はなかった。それに、あたしは恵まれてもいた。
 だけど、今のあたしにはすべてを前向きに捉えることはできない。思考が停止している。気づいたら、台本を手に持って、配役のある一点だけを見つめていた。主役の欄に記載された「村上柊子」の名前。
 寂しさはないはずなのだ。誰かに強いられた状況ではなく、自ら選択した未来だったのだから。それでも、なんとなくぼんやりとしてしまい、静かに忍び寄るのは喪失感。掌の上の砂が、開いていく指の間から徐々に零れ落ちる感覚。
 離れたところから部員たちの声が聞こえ、あたしは我に返った。そして、横目でドアの傍らに立つ小百合を認める。――あの様子からして、ずっとこちらの様子を窺っていたな。
 最後となる今年の秋の舞台で、主役をやりたかったのはほんとう。小百合には悪いことをしてしまったのかもしれない。彼女の願いを無下にしたようなものだ。痛いほどその思いを感じ取っていたのに、あたしは裏切った。だけど、心に正直に問うと後悔はなかった。これが最善の策だと信じていた。その感情は嘘じゃないはず……。
 脚本が完成し、今年はこれで舞台に臨むと部員に告げた。上級生は事情を把握しているから問題ないだろうが、新入生からしたらあらかじめ決められているのだし、もしかしたら異論が出るかもとは覚悟していた。それでも小百合があたしたちのために書いてくれたのだもの、言葉を尽くして納得してもらうつもりだった。
 結果、異論は出なかった。あたしはわがままを一つ聞いてもらったから、こちらからも譲歩するべきだろうか、という考えが湧いた。
 ――主演は、柊子がいいんじゃないかって思ってます。
 誰もが驚きの表情を浮かべる。事前になにも打ち明けていなかったミナちゃんと芽瑠も、言葉を失くしている。そんな中で、柊子だけが表情を変化させなかった。
 深刻な話と受け取られないように、みんなに笑いかけた。みんなには暗い顔を見せたくなかった。同情されてはいけない。劇の本番はこれからなのだから、明るい気持ちで臨みたい。あたしの願いはただ一つ、素敵な劇を作り上げたかった。柊子に主演を託すのはそのための布石だ。
 ――やります。
 柊子が短く、はっきりと答えた。光を宿したその瞳を見つめ返した。彼女はありがとうございます、なんて口にしなかった。やります、それだけ。
 部員たちは複雑な感情を内に抱きながら、突然の運びを受け入れようと努めていた。ミナちゃんと芽瑠もそのときは黙っていてくれた。
 小百合の顔は見られなかった。あたしを許してくれないだろう。不意に扉の開け閉めされた音がしたかと思うと、小百合が姿を消していた。それから数日、小百合はあたしと口を利かなかった。明らかに避けられ、翡翠ヶ丘に来なくなった。
 今日、やっと来てくれたけれど、柊子の話を賛成した風ではないらしかった。そのことには触れず、稽古中もただ黙って目を光らせていた。ほんとの気持ちを見せない小百合は怖かった。不平不満を言われた方がずっとよかった。
 部室にみんなより先に戻って、一人になったとき、台本を手に取った。ページを捲り、仮決めの配役を捉えた。主演以外も三年生中心の話し合いと、その後のオーディションで固めた。村上柊子、その名前が誰よりも前に書かれている。こうしたのは自分なのに、なぜ、あたしはこんな気持ちになるの……? 胸が狭い。吐き出せない言葉が暴れている。
 小百合、ごめんね、自分勝手なことして。あなたの想いに応えてあげなくて。小百合、ごめんなさい――あたしを許して。
「花音、おつかれさま」
 肩にじんわりと温かい掌の熱を感じる。その手にすがって、彼女の胸に頭を押しつけて、さめざめと泣きたかった。でも、我慢しなければ。
「おつかれさま。小百合、脚本、すごくいいね」
 自分の台本を机に放る。読み込みすぎたみたいにしわができていた。できたばかりのそれを、絶えず握っていたからだ。
 小百合に笑いかける。演劇を始めてどれほどになるのだっけ。親友の気持ちを沈ませないくらいには、演技力が身についているといいな。

 休日、お昼過ぎにお買い物に行こうと隣町へ向かった。一駅隣にいろんなお店が揃っているから、なにかあるとすぐここへ出向く。
 街をぶらぶらと歩き、本屋に立ち寄ったとき、知っている顔を見かけた。文庫本を手にして目を落としているその横顔――名前が出てこない。だけど、知っているのは確か。
 ふとした拍子にその彼女が顔をこちらへやった。まともに目が合ってしまい、それでやっと誰だか思い出した。旭山の演劇部、二年生、沼田鈴花。あたしによく似ている子。近くで目の当たりにするとますますそう感じた。
 しばらく不自然な形で見つめ合い、どちらからともなく声を発した。
「沼田鈴花さん、よね?」
「花音さん、ですよね。小百合さんのお友達の」
 互いに舞台上の姿を観ているし、秋の舞台の期間中にはすれ違ったこともあったろう。よく知っているようでいて、言葉を交わしたのはこのときが初めてだった。
「鈴花さんのこと、小百合からたまに聞くよ。優秀な後輩だって」
 嘘だった。小百合は彼女の話をあまりしない。近づくための口実だった。どうして近づきたいと望んだのか、自分でも分からない。
「鈴花、でいいですよ」鈴花の素の表情は頼りなげで、控えめだった。芽瑠とはまた違った憑依型、とでも言おうか。「花音さんのこと、小百合さんからよく伺います。お二人は中学からのご友人なんですよね」
 しっかりした子なのだな、と思った。すごくまじめそう。翡翠ヶ丘で同い年といったら藍葉と智恵子だから、比べると余計に落ち着いている。
 あの、もし時間あったらお茶でもしない? あたし、前からお話してみたいなって思ってたの。
 無意識のうちにそんな誘いの言葉がすらすらと口をついて出、微笑みかけていた。
 鈴花は考える素振りを微塵も窺わせず、あっさり頷いた。はい、喜んで。

          ●

 きっかけは、ありがちな。
 そう捉えたいだけかもしれない。わたしだけが一方的にその瞬間を鮮明に憶えているのを厭わしく感じて、運命という形容を与える前に「ありがち」という単語を持ち出したのだ、きっと。だけど、少なくとも偶然ではないと思いたい。
 幼い頃から読書が好きだった。活字中毒というほどではないけれど、時間を持て余すとすぐに本に手を伸ばした。どっぷりその世界観に酔いしれる、わけでもなく、ただ精神の平衡を保つための道具に過ぎなかった。同時に、自分でも書いてみたい気もしたけど、望むだけでなかなか実行に移せなかった。
 教室でいつものように読書に耽っているとき、明るい声で話しかけられた。
 ――それ、おもしろいよね。わたしも最近読んだ。
 屈託のないその調子と、見上げた位置にあった太陽みたいに眩しい笑顔、なにもかもが深く刻まれて、心の部屋を埋め尽くした。
 眼鏡をかけていて、髪を三つ編みにしている花音は一見大人しそうだが、内面はとても素直だった。つまり、わたしとは正反対だった。彼女は自分の世界を愛し、愛していることを誰にでも打ち明けることができた。
 本をきっかけにして話が弾み、少しずつ互いの興趣を掘り起こしてゆく――やがて、彼女の中の一つの輝きに手が届く。それが「演劇」だった。花音は中学生のうちから舞台鑑賞が趣味で、その話をするときの花音の瞳は純真できらきらしていた。
 わたしがお芝居に興味を持ったのは、本音を言えば、それそのものに惹かれたからじゃない。花音の表情に、口ぶりに魅入られたからだ。愛しい少女をあそこまで形無しにするものとはいったいなんなのか。
 ある日、舞台に誘われる。中学生のお小遣いでもなんとか行ける寂れた劇場で、まったく知らない人たちの演じるチェーホフ原作「桜の園」を観た。そして、わたしはそれそのものに初めて惹きつけられた。花音がいいと言ったから、ではなく、自分の内側から発した偽りのない感想で――その舞台に感動し、涙を流した。
 隣で涙を流している花音と目を合わせ、彼女は照れ笑いを浮かべながら「わたし、舞台に弱いんだ」と呟いた。それは、観る側として――。
 やっぱり、運命はあるのではないだろうか。わたしが花音に話しかけられた日読んでいたのは、まさに『桜の園』だった。タイトルがいいな、と思って手に取り、読み始めたら戯曲だったからやめようかと考えたけれど、放り出さなくてほんとうによかった。
 いつ花音を好きになったのだっけ。だんだんと膨らんだ感情に、いつ、と問うてもはっきりしない。

 あ、と間抜けな声が出た。動きが止まり、やがて笑い出す。
「小百合ちゃんだ」
 ツインテールの芽瑠ちゃんが柔らかい表情を見せる。その笑みでいつもの空気が流れた。それまでの薄氷を踏むようだったのが嘘みたいに。
「芽瑠ちゃん」
 休みの日、隣町の映画館にふらっと出向いたら、その入場口で偶然出くわした。特に観たいと強く思うものがあったわけではないけれど、家で落ち着いている気にはなれなかった。ちらりと、花音を誘うおうかと考えたけど、結局しなかった。花音は今日、なにをして過ごしているだろう。
 お互いにすでにチケットを購入していて、見せ合うと、なんと同じ映画だった。「盲目的な恋」というタイトルで、わたしの好きな女優が主演だった。自然と一緒に観る流れになる。
 別々に買っていたから席は離れているのだが、館内がどうやら空いているらしいと分かり、わたしたちは隣同士の席に座ることにした。誰かが来たらどけばいいのだ、と。
 芽瑠ちゃんはかわいい。付き合っている人がいてもおかしくないのに、そんな匂いすら嗅ぎ取れない。たまになにを考えているのか分からない瞬間もあるけれど、同時にひどく素直だと感じる瞬間もある。花音は芽瑠ちゃんの演技の実力を高く評価する一方で、もっと熱く傾けられることを見つけたらそちらへ行ってしまうだろうな、と寂しそうに語っていた。
 翡翠ヶ丘に通うようになって、芽瑠ちゃんの部活中の様子を間近にする機会を得た。ほんとに普段からミナちゃんを含めた三人は行動をともにしていて、つくづく羨ましかった。わたしは花音のために物語を創作したい、その望みの片隅で、芽瑠ちゃんにどんな役を与えたらおもしろいだろう、と巡らし、少しずつ脚本に取り入れた。
「旭山は、『リボンの騎士』をやるんだってね。小さい頃に読んでたから、とても楽しみ」
 わたしが翡翠ヶ丘サイドにいるからか、三浦のミナちゃんはなかなかどの作品を披露するか教えてくれなかったけれど、鈴花をつついたらそっと教えてくれた。手塚治虫の名作の一つ『リボンの騎士』。主演はきっとミナちゃんかな、彼女がサファイアを演じるのを想像しただけで胸が弾む。鈴花はヘケートをやるの、と訊いたら、まだ内緒です、とかわいい顔をして返された。ひょっとしたら、フランツ王子かな。
 しばらくして映画が始まった。相変わらず席は埋まらなかった。というのも、公開から数か月経っているためだ。今頃になって足を運んだわたしたちは奇特。
 映画を一心に見つめている振りをして、わたしはずっと花音を思っていた。花音はどうしてあんなことを言ったのだろう。柊子に主演を任すだなんて、どうして――。
 わたしはどうすればいいのか知れなかった。怒ればよかったのか、悲しめばよかったのか、寛容な態度を示せばよかったのか。花音に主演を張ってほしかった、というより、花音以外が主演を務める想定をまるでしていなかった。当然だ、誰が代われると言うの。
 花音のその発言から後も一応わたしは翡翠ヶ丘に通い続け、花音ともふつうに接せているはずだが、でも互いの心は遠かった。同じ内容の話をしても、以前とは感触がまったく違った。そんな状態なのに、柊子に主演をさせないで、とはどうしても口にできなかった。
 盲目的な、恋。もっともらしさが見えない。
 頬を一筋の涙が伝った。――花音、あなたが好き。夢にあなたしか出てこないくらい。

          ◯

 こうして向かい合っていると、余計に自分を見ているようだと感じる。鈴花は他人とは思えなかった。
 近くにあった喫茶店に入り、窓際の席に案内された。暖かくなってきた季節ではあったけれど、ゆっくり話し合うときのおともはホット。二人の注文した飲み物がテーブルの上に揃うと、よい香りが漂った。
 傍からしたら、あたしたちは姉妹に映るのではないだろうか。休日を謳歌している仲睦まじい姉妹。姉はコーヒーカップを傾け、舌を湿らせてから質問をした。
「鈴花、本読む?」
 鈴花は瞬きの少ない瞳のまま、答えた。
「はい、読みます」
「どういうの読む?」
「なんでも読みますね。小説も演劇についての本も子ども向けの本も――」
「子ども向けって、たとえば?」
「『魔女の宅急便』シリーズが大好きです。それから、モンゴメリ、バーネットとか……」
 共感する部分が多くて、こちらからもタイトルを挙げた。一気に雰囲気が和らぐ。もう一口、温かい液体を流し込む。思い出す光景が一つあった。小百合と出会ったばかりの頃、こんな風にして本の話をしていた。小百合はあたしよりもずっとたくさんの作品に触れていて、でもあたしは彼女と話せればなんでもよかった。彼女と友達になりたいってときめきを抱いて近づいたから。
 最近の小百合の心が見えない。あたしがしたことに対してもっと言いたいことがあるはずなのに、彼女は言葉数少な。だけど、はっきり言ってもらいたいのかというと、複雑な気持ちになる。悪感情をむき出しにした小百合を目の当たりにしてしまったら、もしかしたらいとも簡単に意を翻すかもしれない。それを見越されているのかも。
 小百合の心を確かめたくて、ほんとうのところを明らかにしたくて、あたしは鈴花を誘ったのだろうか。鈴花と話したらなにか分かる気がしたから。
「鈴花はどうして演劇が好きになったの?」
 こちらから質問してばかりだな、と思い、それを詫びると、鈴花は明るい表情で首を横に振る。「いえ、そんなこと。――あたし、小さい頃、家族に連れられて観たミュージカルに魅せられて、それから舞台にも足を運ぶようになったんです」
「そうなんだ。……二年前の、旭山の舞台は観た?」
「観ました。歌がとても素敵で、あれがあったから、あたしは旭山に決めました」
 あたしと小百合は同じ高校に行きたかった。だけど、その願いは叶わず、それぞれの学校で居場所を見つけた。鈴花は小百合の後輩であってあたしの後輩ではないみたいに、あらゆる関係性に線を引ける。心はずっと傍にあると思った。仲よくなって以来、こんなに遠く感じるのは初めてだった。
「花音さんは?」
「え」
「どうして好きになったんですか? 演劇」
 どうしてだろう。どうしてあたしは、小百合と友達になりたいって望んだのだろう。背中にかかる綺麗な黒髪が、聡い眼差しが、雪を溶かしこんだような肌が、ずっと瞳で捉えた光だった。話しかけて、少しずつ打ち解けて、笑ってくれたとき、どきりとした。あたしたち、友達になれたかもしれない、と――。
「……花音、さん?」
 愛らしい妹が心配の色を浮かべた顔をしてこちらをそっと覗き込んでいた。慌てて頬に手をやり、勝手に流れてきた涙を手の甲でさっと拭った。
 コーヒーカップの中の液体はすっかり冷めていた。

 気温が上昇してくるとともに、劇は次第に仕上がってゆく。主演を柊子に据えた舞台は日に日にしっくりきているはず。あたしにはよく分からない。部長がそんなことを言ってはいけないと思うけど。
 それでも、ミナちゃんも芽瑠も、藍葉も智恵子も、出演者みんなが精力的に取り組んでいる姿を見て、少なくともあたしの選択が失敗だったというわけではないと知れた。今までにない種類の演技を見せる柊子に感化され、それぞれの形で応えようとしているのだ。
 一人だけいい方向に進めていない演者が紛れているとすれば、誰よりも一心に汗を流していなければならないあたしだ。あたしの演技には迷いがあった。自分でもずっとそれに気づいている。今さら主演を代わりたいなんて夢にも思わないけれど、気持ちは不安定だった。感情が伴わないといいものは見せられない。しかも、そういうときに限って小百合と目が合ってしまう。小百合は一瞬奇妙な対象を捉えるみたいな顔を、ほんの一瞬だけ浮かべてから、すぐに笑顔を向けてくる。それがかえって苦しかった。おかげで笑顔を返せない。
 舞台を作っていく過程で、小百合がこんなに傍にいたことはなかった。去年までの姿を見せたかった。ほんとうのあたしはこんなものではないのに。分かっているなら、気持ちを切り替えればいいのだ。それなのに、どうにもならない感情を抱えて持て余している。
 あたしはいい舞台を求めていただけ。
 さすがに痺れを切らしたのか、ついにミナちゃんと芽瑠に怒られた。ミナちゃんは少し言いにくそうにしていたけど、芽瑠の口調は厳しかった。降りかかるすべての言葉が胸に突き刺さり、しばらく抜けなかった。目を醒まして、そう言われた。
 迷いがあっても、時間は無情に経過してゆく。本番までの日数は減っていって、それが余計に心に焦りをもたらす。
 たくさん、たくさん考えた。浴槽で顎まで湯船に浸かりながら、眠る前に暗闇を見つめながら、駅のホームで輝く月に目を細めながら、あたしはどうすればいいのか考えた。答えは明瞭だったはずだ。過去には戻れない。選択をやり直す機会は二度と与えられない。あたしにできるのは、選んだ道をぶれることなく歩むこと。
 笑っていた小百合が、突然両の掌で顔を覆って泣き出した。嗚咽を漏らす彼女の姿が痛々しくてもう見ていられなかった。あたしのせいだ、あたしのせいだ――。こっちまで泣きそうに顔が歪んだけれど、そんな資格はないと歯を食いしばった。
 夢だと気づいたときには、ベッドの上で汗をびっしょりかいていた。

          ●

 この間みたいに、部室のドアの前で足を止めた。中からトーンの低い声が二つ聞こえる。一方は花音、もう一方は――柊子。
 気づかれないように、室内を覗き見る。見慣れた花音の後頭部と、横を向いている柊子のすっとした鼻梁。
 柊子は二つ下の後輩だけど、小さい頃から劇団に所属していたため、演技経験はずっと豊富。なにかと話題の種になっていたので、私はどんな子なのだろうかと気にしていた。でも、初対面の感想は、思っていたより小柄、ということだった。顔立ちも幼げ。
 拍子抜け、とは違うけれど、話してみても、まったく威圧感はない。むしろ、大人しい性格。ほんとうに、彼女がすごい存在なのか、と誰もが感じていたはずだ。
「深川先輩、わたしを主演にしたこと、後悔してるんじゃないですか?」
 前後の文脈は分からないが、柊子がそんなことを言った。
 花音が曖昧に笑う気配がした。
「どうして、そんなことを言うの」
「最近、稽古に気持ちが入ってない気がしたので。……ほかの人の前でいい部長ぶりを見せようとしたのを、悔いてるんじゃないですか?」
 頭の上から水をぶっかけられた。思ったことをはっきり言うにしてもあんまりだ。わたしは柊子の横顔を凝視する。その表情には邪気のかけらもない。新入生なのに彼女が主演となれたのは紛れもなく花音のおかげだ。花音はいい人ぶろうとして器用に振る舞える性格ではない。
 柊子の声の調子が、表情が、どこまでも末恐ろしい。悪気がないみたいなのがかえって始末が悪い。
「そうだね」花音の、今度はちゃんと笑う気配。「わたしはちゃんと覚悟できていなかったのかもしれない」
 胸をめった刺しにされた心地がした。花音、どうしてそんなにしおらしく振る舞うの。柊子にあんなに無遠慮な発言をされたというのに。
 飛び出していって、柊子を叱りつけたってよかった。花音を優しく抱きしめたってよかった。以前のわたしたちの関係ならきっとそうしたに違いない。だけど、動けなかった。花音の望んでいることが分からない。花音の胸の内の焦燥を感じ取れない。花音が求めていることを、わたしは言えるだろうか、できるだろうか、分からない。
 花音の表情の色はどれ。わたしたちは向かい合わせの鏡みたいに、それぞれの心を映し合っていたのだ。今の鏡はところどころ薄汚れてしまって、その存在すらぼやけている。
 指先に痛みを覚える。いつの間にかスカートの端をぎゅっと握りしめていた。

 花音と出会ったのは中学生になってから。朝休みの教室で、陽の光を受けて窓際で佇む彼女に見惚れた。肩先にかかる黒髪、笑顔のよく似合う眩しさ。
 自然と友達になれ、一緒に帰ったり、舞台を観に行ったり、なんでもない話をしたりした。花音のことは、今では誰よりも知っている自信がある。彼女の舞台に懸ける熱い思いも、だからよく知っている。
 今回の脚本を執筆するとき、花音みたいな少女を主役として描いてはいないけれど、彼女以外がその役を引き受ける未来は少しも考えなかった。信じていたから、わたしの全力に応えてくれる人は花音だけだと。ひょっとしたら、それがいけなかった可能性もある。明け透けな思いにたじろいだのかもしれない。そうだとしたら、とても耐えられないけど。
 揺れ動く胸中に、冷ややかな感情が流れ込んでくるのを意識する。村上柊子。彼女のなにがすごいのか分からない。特別美しいとも思わない。花音の方がずっと素敵なのに。
 心の声に蓋をして、ただ思い描いた。舞台上で深川花音という花が鮮やかに咲く未来を。

          ◯

 芝居の面白さには果てがない。一生かけても味わい尽くせない。
 とある役者の言葉。それが念頭にあって、日々実感している。演技には明快な答えがない。歩めども、その世界は果てしなく広がっている。
 柊子を初めて見たとき、ほんとに彼女がすごい演じ手なのだろうかと正直疑った。きっと、あたしだけではない。小百合だって同じだったと思う。だけど、そんな評価は、彼女が舞台に上がった瞬間に一変する。
 花が咲いた。鮮やかに、艶やかに、華やかに。舞台に立つと人が変わったようになる、という人はよくいるけど、彼女はそれが際立っていた。
 演技の上手さは数値化できないし、精通している人でも評価の仕方に難儀する。なのに、どうしてあたしたちは演技が上手い、下手、と感じるのだろうか。そこには好みや偏見を越えた、目に見えない引力が存在する。
 中学生のとき、小さな劇場で観た「桜の園」。あの日の感動を、あたしは二度と忘れられないだろう。名状しがたい感情の動きに誘われ、あんな風になりたいと強く願った。だから演劇部の活動が盛んなこの街へ来た。
 今日は、朝から雨の吹き荒れる日だった。
 なんとなく気持ちが落ち着かなくて、そわそわしていた。ぼんやりと、窓の向こうの暗い空を眺める。
 本番まで一か月ちょっと。学校は来週から夏休みに入る。柊子を中心に、劇の完成度は上がりつつあった。仕上がりがほんとうに楽しみ。
 遠くから誰かの駆ける音を耳にしたかと思うと、慌てた様子で芽瑠が入ってきた。髪を振り乱している彼女の姿を目にすることなんてめったにない。一見して、なにかあったらしいと察しが付く。あたしは席を立った。あたしを捉えると、「花音」と頬を上気させて近づいてくる。
 なにがあったのかしら。なぜだか、嫌な予感しかしない。
「柊子が――」
 大怪我をしたって。
 どれだけ演技の練習を重ねてきても、このときにどんな感情を表せばいいのか知れない。

 傘を差しながら、小百合と並んで下校した。依然としてぐずついた空模様で辟易する。足下の水たまりを思い切り蹴り飛ばしたい欲求に駆られたけれど、反動で転ぶのを恐れてやめた。それに、柊子のことが頭にあった。
 柊子は登校中、川の傍を歩いているときに斜面で足を滑らせ、だいぶ下まで行ったところで岩場に足首を打ちつけ、骨折したのだという。その絵が上手く思い浮かばなくて、聞かされても現実味がなかった。全治一か月弱。秋の舞台のときには間に合うが、それまでの稽古に参加できない。これまでの積み重ねがあるけど、果たして本番に万全の状態で臨めるだろうか。
 どうして柊子が、そんな怪我を。歩道を外れて足場の悪い斜面にいたそうなのだけど、なぜこんな雨の日にそんなところに――とりあえず、明日お見舞いに行ってみることにした。いろいろ話して決めなければならない。
 主演不在で一か月近く、どう乗り切るのか。ミナちゃんと芽瑠は、代役を立てるのも一つの案じゃないか、と唱えた。そして、それならあたしがふさわしいと。
 正直、今はなにも考えられない。掌に重たい砂を与えられたようだった。こぼさないように指に力を込めればいいのだろうか。それとも――。
「これでよかったんだよ」
 隣で小百合が微笑んでいるみたいに見え、目を疑った。動揺を悟られないようにそっと横目で窺うと、瞳に光はなかったが、確かに笑っている顔に見えた。
 きっと、主演がもともとあたしで、怪我をしたのがあたしだったら、代役を立てようなんて誰も言わなかった。自惚れとかじゃなく、それだけの経緯がある。小百合が翡翠ヶ丘のために脚本を書くと言ってくれたこと、あたしが実力を認められ抜擢された一年生ではないこと――みんなはあたしを待ってくれるだろう。
 それだけ柊子には未来があるとも言える。でも、先のことなど分からない。実際に分からなかったから。
「あたし、あの子には同情できない」
 そんな言葉聞きたくなかった。小百合からそんな言葉……あたしの知っている小百合じゃない。腋の下を嫌な汗が伝った。終日の雨で気温が下がっているからではない。隣で並んで歩く親友が、見たことのない妖しい笑みを浮かべていた。
 あなたは、誰。ひょっとして、あなたが――。
 しとしととした、静かな雨に変わってきた。二人は斜め上を見つめながら歩いていたけれど、違う景色を見ていた。

 静寂に包まれた朝の街。あたり一面に打ち付ける無数の雨粒。風が木々を揺らし、川が不穏な音をさせて流れている。ぼんやりとした不安。いつもと同じ場所なのに、どうしてこんなに不安になるの。
 人の横顔を見たときに、はたと不安を覚える瞬間がある。横顔は嘘をつけない。普段あんなににこやかに話している誰かも、すっと厳しい表情を浮かべていることもある。
 地面に落ちていたビニール袋が舞っている。風に乗って、どこかへ消えてゆく。その役目を果たせず儚く漂っていく姿は、哀れだ。激しい雨の気配はなくならない。
 暗くてじめじめした、人の寄りつきそうにない木陰でじっと息を潜めている少女が一人。雨粒が川面に打ちつける様子を静かに見つめている。川の水はすっかり汚れていた。空の色を映せない細長い鏡。
 この街は川とともにある。川に沿って家並みができ、ずっと上っていくと山があり、その麓には二つの学校がある。あたしたちはその学校に通っている。たくさんの出会いと思い出を与えてくれた、その学校に。
 傘を手にしてまったく身動きしない少女の目は何色の感情も映さない。ただ一心に、なにかを待っている。考えていることがまるで読めない。少女の横顔は、怖い。
 かすかに、その双眸に光が灯る。待ち望んでいたものが現れたのだろうか。また別の少女を捉えて、妖艶な笑みを作る。小さく声を漏らしたけれど、なんと口にしたのか判然としない。やがて彼女は虚ろな眼差しに戻り、待ち人が歩いてくるのを注視している。一歩、一歩と、足の運びとともに訪れる瞬間を予期している。
 道にいくつもの水たまりができていた。
 あたしは人がよすぎるのかな。弱い部分を見せない、と言われたことがある。見せないようにしているつもりはない。ただ、甘えてもしょうがないと思うだけ。あたしにそう言った人は、こう付け加えた。だけど、そんなところが好きだよ、って。
 誰もいない、陽の光の差し込まない廊下をとぼとぼと歩く。暗い感情で胸いっぱい覆われそうになって、それを払い除けるために台本の台詞を心の内で唱えた。
 背中の方から悲鳴が聞こえた。その声に心臓を射抜かれて、反射的に振り返った。さっと目の前を黒い塊が過ぎ、続けて鮮血がほとばしった。いつの間にかあたりは雨で煙っている。あたしは全身びしょ濡れ。見た光景が信じられなくて、頭を抱えて叫んだ。
 柊子の美しい顔が、苦痛に歪んでいる。それでも彼女は助けて、とか、許して、とか言わない。どんなに苦しくてもその気高さを失わない。
 そんな柊子を坂の上から冷ややかに見下ろしている少女の影。傘を捨てて、彼女もまたずぶ濡れになっている。長い黒髪が張りつき、瞳は泣き腫らしたみたいに真っ赤。白い、あたしの好きな顔に幾筋もの水滴が流れる。あたしの好きな、小百合――涙が混じっていたらいいのに、と思う。心を痛めていたらいいのに。自分の悪感情に左右されたのではなく、大切な人のために偽善を振りかざしてしまった結果ならよかった、そう思う。
 小百合があたしと目を合わせ、唇を半ば開く。伝えようとしている言葉はなに。聞きたくなくて両耳に掌を当てるけれど、どうしたって聞こえてしまうだろうことは分かっていた。小百合の言葉はあたしに届く。いついかなるときも。
 あたしの感情は壊れていた。色をなくした小百合の横顔に怯えているだけ。見たくない、聞きたくない、あなたは誰なの――?
 花音。小百合の唇がそう動いた。その動きだけで、続けて紡がれた台詞もすべてトレースできる。
 花音、あなたと同じ景色を見ていたかった。あたしは、あなたという花を舞台で咲かせたかった。それだけなのに。
 ……――涙で頬を濡らしながら暗闇の中で目を醒ます。近頃嫌な夢ばかりでつらい。吐き気がした。

          ●

 花音は、昔からかわいい。小さな顔に目や鼻や口が綺麗に収まっていて、髪を毎日丁寧に編んできていた。身体の線は細いけど、頬はふっくらとしている感じで、笑うとあどけない印象が残った。
 花音はクラスで決して目立つ方ではなかった。それでも、明るさに吸い寄せられるみたいに、いつも誰かがその傍にいて言葉を交わしていた。落ち着く存在。わたしもその笑顔をいいな、とずっと思っていた。
 そして気づいたら、花音の隣に一番寄り添っているのはわたしになっていた。
 ――わたし、旭山に行きたいんだ。
 そっと打ち明けてくれた赤い唇。その唇に自分のそれを重ねたら、と想像するだけでドキドキした。
 花音が旭山に行くのなら、わたしも。だけど、皮肉にも行けたのはわたしだけだった。花音はどこの大学に進むのだろう。今ではそんなことも確かめ合えていない。
 教室の窓際、一緒の机で、わたしたちはいろんな話をしながらお弁当を食べた。その机が別の机とくっついて、ほかのグループと一緒のときもあったけれど、絶対にわたしと花音は離れなかった。どちらから執着したのでもなく、自然に。
 ――自分が本気で打ち込みたいことを見つける。
 ある日、花音はそんな思いを伝えてくれた。念頭には演劇があったのだろう。花音は言ったことをもう忘れてしまったかな。今、彼女は本気で打ち込みたいと心から思えるようなものを見つけている。
 学校帰りには花音の家に頻繁に寄った。わたしたちの家は比較的近所で、その偶然を神様に感謝した。花音の家はどこにでもありそうな一軒家、猫の額みたいな庭がついていた。
 学校でも言葉を交わし、帰り道もその続きを話し、家に着いたらまたその続きを話す。わたしたちは毎日、毎日、いったいどんなことについて話していたのだっけ。あの頃は時間が膨大にあるような気がしていたけど、今思えばあの時間はとても貴重なものだった。失われてしまった、大切なもの。
 リビングにはいくつかの写真立てが置かれている。花音が幼いときから、つい最近までの家族写真。それを見ているだけで、家族の繋がりの深さが窺える。花音はきっと愛されて育ったのだろう。
 それらを見ているときに抱くのは微笑ましさだけではなかった。わたしはちょっと愕然とする。小さい頃から、花音はカメラに向かって衒いのない笑顔を浮かべていた。笑い方なんて誰からも教われない。わたしはこんな風に笑えなかった気がする。
 二階には花音の部屋。花音には兄弟がいないから一人部屋。そういえば、お互いに一人っ子だ。部屋は整然と片づけられていて、らしい、と感じる。
「柊子、そんなに気落ちしてなくてよかった」
 夕暮れの道を歩いていた。放課後、部活は藍葉に任せ、花音とミナちゃん、それに芽瑠は柊子が入院している病院に向かった。わたしも同行させてもらった。花音はなにも言わなかったが、いい顔をしなかった。気づかない振りをした。
 柊子がどんな様子か確かめたかった。意気消沈していてほしかった、は言い過ぎになるけど、多少でも鼻柱が折られていたらいいかも、くらいには考えていた。実際、大人しくなっていたが、花音が言うようにそんなに気落ちしていなかった。怪我を負ったことを詫びた上で、自分の役をどうするかは委ねると付け加えた。
 花音は腕組みをして押し黙っていた。やがて柊子の手をそっと握り、あなたを待つことに決めたの、と呟いた。わたしは驚いた。わたしのいない間にそんな話し合いがなされたのだろうか。しかし、ミナちゃんと芽瑠の表情を窺うと、二人も驚いているらしかった。では、花音の独断なのだ。
 場の雰囲気を敏感に感じ取ったのか、「それは部の総意ですか」と柊子は返した。花音は即答した。そうよ、と。
 ――分かりました、早く治します。
 柊子はそれだけ言って、窓の方に目を向けてしまった。やはり感謝の言葉はなかった。どうしてこんなにかわいくないのだろう。
 前を歩く花音の背中を見つめながら考えた。わたしは花音の眩しさに強く憧れ、好きだと思った。今もきっとそう。だけどもしかしたら、胸の内にそれと同居する別の感情があるのではないか、と感づいている。正体は分からない。真綿に染み込むようにして、ぶら下がって重くなる。嫉妬、とは少し違う。
 花音に向ける感情が歪みつつある。

 流行りの歌を歌いながら、わたしたちは手を繋いで下校した。人通りの少ない学校からの帰り道には、二人の少女の華やいだ歌声だけが響く。
 道をもう一本向こうに行けば商店街の賑わい。活気のある声で溢れている。でも、こちらは二人だけ。
 その日も花音の家に寄った。彼女の両親は共働きだから、基本的に陽のある時間は家にいない。リビングを抜けて、花音の部屋へと向かった。先に行ってて、とキッチンの方に足を向けた花音が言う。飲み物とお菓子、持っていくから。
 先に部屋に入って、真っ白なベッドに疲れた体を沈める。毎日、彼女が寝起きしているベッド。枕に鼻先を埋めると、かすかに甘い香りがした。
 背後でドアの開く気配がした。花音が来たのだろう。ベッドに寝そべっているのを怒られるかもしれない。そう思っていたら、急にわたしの上に覆いかぶさってきた。彼女の手がわたしの手を握り、スカートから伸びる互いの足が触れる。背中に当たる胸の感触が柔らかい。首をめぐらして、花音の表情を確かめようとしたら、「動かないで」と耳元で囁かれた。そのままにしてて。
 どうしてこういう状況になったのかさっぱり掴めないけれど、全身で温もりを受け止めているのは分かるし、わたしの鼓動があっという間に速くなっていることにも気づく。今、心の距離も体の距離も、誰よりも花音の近くにいるのはわたし。
 しばらくして背中から体が離れていき、わたしの足元で彼女はしゃがみ込んだ。上半身だけ起こして、ようやく花音の方に向き直る。
 ――どうしたの? 突然……。
 戸惑うわたしの迷いを打ち消すように、花音はわたしの頬に優しく両手を添えた。そして、顔を近づけてくる。整った顔立ちが、吸い込まれそうになる瞳が、目の前にある。
 ――わたし、小百合のことが一番好きだよ。
 鼻先がかすめそうな距離で花音はそんなことを口にした。彼女の息が口元に届いて、わたしはぞくぞくと震える。快感に酔いしれる。
 しかし、花音はパッと手を放すと、ベッドから立ち上がって、ドアの脇まで下がってしまう。
 ――ごめんね。急に変なこと言ったりして。
 どんな瞬間よりも近くに感じられる奇跡だったのに、この機を逃したらまたただの友達に戻ってしまうかもしれない。わたしは遠ざかる背中に追いすがるように、待って、と大きな声を発した。
 ――わたしも、わたしも……、
 わたしも花音が一番好き。
 強く憧れていた。自分の内側に宿る眩しい光に彼女の存在が彩りを添え、ぐるぐると渦巻いていた。姿のはっきりしないなにかが、すべて花音に向けられていた。誰かに強い感情を向けることは、それだけ誰かを強く意識しているということだ。わたしの頭の中は花音のことでいっぱいだった。
 ――ありがとう。
 そう呟いて、いつものようにかわいらしく微笑む。
 好き、と伝え合っても劇的な変化はもたらされなかった。二人の関係に新しい名前はつかなかった。いつまでも親友のまま。
 そうして、深い理解へと至る。わたしたちの「好き」はどうやら違う。それはこんなにも距離があるものなのだと心づいてしまう。わたしは花音とキスしたいし、柔らかな乳房に触れたいし、恥ずかしいところに手を伸ばしたい。いつも抱きしめて、その温もりを全力で自分だけのものにしていたい。
 この胸をこんなに惑わせる、あなたはほんとに罪深くて、愛おしい人だ。

          ◯

 一度、腹を割ってちゃんと話し合わなければ、と感じていた。二人の間は川によって隔てられている。対岸の彼女を眺めて知ったようになるのは間違っている。川の流れはこのままゆけば分かれて、末に至っても会えない。
 部活に小百合が来なくなっていた。夏休みに入り、本番までの日数はあっという間に減っていく。確かに脚本担当の彼女に来てもらって特に任せる仕事はないけれど、これが最後の舞台なのだ。一緒に作り上げた、という実感が欲しい。三浦のミナちゃんに訊いても、旭山に行っているわけではないみたいだから、すっかり演劇から離れているのだ。それもまた悲しい。
 部活終わり、まだ太陽が高い場所から照りつける頃合い、あたしは一人で小百合の家へ向かった。中学生のときはしょっちゅう行き来があった。こんなに緊張感を抱いて訪れるのは初めてだった。自然に、笑えますように。
 柊子は認められたい子なのだ。柊子を鼻持ちならない子、と断じている人はたくさんいるだろうが、彼女はもがき苦しんでいるのだ。具体的になにか打ち明けられたのではないけど、なんとなくそれを感じる。だから、きっと「あなたを待つ」と伝えれば、柊子は絶対に本番に間に合わせるだろうことが確信できた。
 小さい頃から親の意向で大きな劇団に所属し、演技を楽しいと思う暇もなくあらゆる成果を求められた。そして次第に人の目を気にしすぎ縮こまってゆく彼女は、周囲の大人から見放される。自分から足を踏み入れた世界じゃないからこそ、そこで認められたいと余計に望むのかもしれない。劇団を抜け、高校に進学し、それでも演劇部に執着したのはそういう経緯からだ。
 柊子はもがき苦しんでいる。自らが光照らされる瞬間を夢見ている。そのとき、きっと彼女は縛り付けられていたすべてから解放される。殻を破って力強く羽ばたく。それを見届けたかった。荒療治だったかもしれないけれど、主演を託したのはその感情に動かされたためだった。
 その結果、あたしは小百合を傷つけたかもしれない。小百合なら分かってくれる、と勝手に信頼を寄せるのは甘えだ。誰よりも信頼できるのなら、誰よりも言葉を尽くさなきゃ。
 でも、今も迷っている。自分の中ではなんとなく整理がついているつもり。言葉にする自信がないだけ。小百合の顔を見たら、あたしはまた甘えてしまうだろう。
 小百合、ごめんね。
 家に着いた。胸に手を当てて深呼吸し、呼び鈴を鳴らした。数秒の後、出てきたのは小百合のお母さんだった。小百合によく似た優しそうな人。尋ねると、小百合は不在だという。もうそろそろ帰ってくるかもしれないから、部屋に上がって待ってて、と言ってもらえた。ためらう心はあったけれど、お言葉に甘えることにした。
 二階の小百合の部屋に足を踏み入れる。久しぶりだ。相変わらず部屋は整頓されている。あたしも小百合も綺麗好きだが、あたしと違って彼女はものをあまり持たない。ほんとに大切なものしか残さない少女。
 ベッドに座ってぼんやりしていた。親友とはいえ、人の部屋で勝手な真似はできない。小百合がいつも眠っている、匂いが染みついているベッド。掌で触れ、撫でてみる。あなたはいつもどんな夢を見ているの。あたしはどのくらい出てくるの。
 ふと、いろんな本が並んでいる本棚に、一つだけ明らかに毛色の異なる背表紙を捉えた。日記、らしい。小百合が日記を書いていたなんて初耳だ。そういえば、三浦のミナちゃんは昔からずっと日記をつけていると話していた気がする。花音ちゃんも書いてみたら、と勧められた。
 気が咎めたけど、無意識のうちに手が伸びていた。そっとその日記を掴んで、ゆっくりと開いてみる。最初のページを見つめたところで一度顔を上げ、ドアの向こうを窺った。しんと静まり返っている。小百合が帰ってくる気配はまだなさそう。改めて、その先を読んでみた。
 日記は長く続かなかったらしい。ほんの何回か記しただけで途切れている。だけど、その中に書かれている内容は目を見張るものがあった。あたしは呼吸が止まるような心地でじっと捉えた。


   五月○日

 今日から日記をつけてみることにしました。きっかけは、ミナちゃんと話しているとき。ミナちゃんは中学二年生の頃から毎日欠かさず日記をつけているそうです。日記をつけると、後からその日のことを振り返れますし、自分の考えをまとめるのに最適だそうです。やってみたら、と勧められたので、とりあえず一度やってみることにしました。どれくらい続くかは分かりませんが、せめて、三日坊主で終わらなければいいです。


 やはり、ミナちゃんの勧めがあって始めたのだ。だけど、この埃をかぶった状態から察するに、ほぼ三日坊主で終わってしまったみたい。書かれたのは二年生の春先。


 沼田鈴花。一年生。彼女を意識しない日はありません。
 初めて話してみて、その印象が花音と重ならないことに安心している自分がいました。よかった、彼女は花音ではない、と。当たり前なのに。
 鈴花は普段は大人しく、自己主張もしない子です。少し、演劇部にいるのが不思議になるくらい。でも、スイッチが入るというか、活動中はしっかり声も出て、動きも機敏です。加えて、物怖じしないタイプらしく、緊張で硬くなる瞬間は見受けられません。
 彼女を上手く、劇の中で使いたい。密かに思案しています。
 それにしても、見た目はほんとうによく似ています。笑っている顔も、まじめに考えている顔も。


 鈴花のことを書いている。出会って間もないのに、小百合は鈴花を強く意識していたらしい。でも、あたしの印象と重ならないことに安心している、とはどういう意味かしら。


 今日の帰り、ミナちゃんと帰ろうとしたら、塚原のミナちゃんと約束があるからと、行ってしまいました。仕方なく一人で帰っていると、川の向こうに花音を見つけました。その隣には、遠くてもツインテールで分かる、芽瑠ちゃんです。向こうもミナちゃんを奪われたのだと知れました。
 手を振ったら気づいてもらえるかな、と手を上げかけましたけど、陽が暮れてきたので見えにくいでしょう。それよりは先に駅に向かって、二人を待っていようと心に決めました。夜空の星を探しながら、さっきよりも早歩きで帰りました。
 芽瑠ちゃんは花音とどんな話をしていたのでしょうか。花音と一緒に帰れる彼女が妬ましいです。


 そういえば、そんな日もあった。小百合は、芽瑠のことをずっと「芽瑠ちゃん」と呼んでいる。深い理由など存在しないだろうけど。
 妬ましい、なんてずいぶん強い言葉。
 日記は六月まで飛ぶ。


 最近、鈴花と話す機会が増えてきました。
 鈴花は都心から時間をかけて学校に通っていて、旭山を進学先に選んだのは、自然が豊かな学校に行きたかったことと、やはり、演劇がやりたかったからだそうで。旭山、あるいは翡翠ヶ丘に来る女生徒はだいたい二つのパターンに分かれます。自らの意思でほかの場所からここを求めてくるパターン。もう一つは、家族の意思に押されて。母親が通っていた、とか、娘をお嬢様学校に行かせたくて、とか。演劇部志望の女生徒は前者のケースが多いでしょう。
 鈴花はわたしが脚本を書くようになった経緯に興味を持ちました。去年の舞台も観にきていたそうで、「海のプレリュード」のことも葵さんのことも知っていたので、簡単にその経緯を話しました。鈴花は相槌少なく最後まで聞き、わたし、あの作品すごく好きです、とまっすぐに伝えてくれました。その瞳の目映かったこと……。
「箱に願いを」において、鈴花は役を勝ち取りました。わたしが彼女をイメージした役を一つ紛らせていたので、公私混同と言われてしまえばそれまでですけど、オーディションで射止めたのは彼女の実力です。その奇跡に胸が震えました。
 花音。あなたに好きと伝えたら、ちゃんとした意味で受け止めてくれるかしら。
 もし、鈴花だったら――節操のない自分に戸惑います。
 今日は早く眠ります。


 また鈴花について書いている。――いや、いやいや、それよりも。ちゃんとした意味、ってどういう意味だろうか。ちゃんとした意味、ちゃんとした意味……。
 好きって、そういう好きかな。ここまで読んだ内容と、普段の彼女自身の言動を合わせて思い巡らしてみても、その「好き」がどこまでいってしまうものなのかはっきりしない。そもそも、こんな風に考えること自体行き過ぎた解釈なのか。
 だけど、気になる。ちゃんとした意味。
 小百合は素直で、まじめで、実はほんとうのお嬢様たちよりもお嬢様だ。彼女の描く作品からも表れるように、人の感情とまっすぐに向き合うから、きっと小百合は嘘をつけない。大切な存在に対してならなおさら。
 小百合と出会って、いろんな話をした。先に「好き」って伝えたのはあたしだ。よく憶えている。あのとき、小百合も「好き」って告げてくれた。嬉しかったし、あたしたちの心はずっと近いところにあると知れた。
 では、今は――今はどうなの。あたしは、それを本人に確かめられるのか。日記を閉じて、元にあった場所に仕舞う。ドアをじっと見つめて耳を澄ますけれど、相変わらず物音がしない。小百合と向き合いたかったのは偽りのない思いだけど、やっぱり今は怖いかもしれない。
 大人になって、この三年間を振り返ったときに、どんな光景がまっさきに思い浮かぶだろう。あたしはやっぱり演劇に汗を流した日々と、小百合も関わってくれたことだと思う。あたしは舞台に弱い。小百合の描いた作品を観て、涙を溢れさせてしまったのだもの。
 大事なものを失うのかもしれないのなら、嫌だ。あたしは立ち上がった。帰ってくる前に、逃げるようにして家を後にした。蝉のかしましい鳴き声が責めるように背中から追いかけてくる。

          ●

 ついに最後の秋の舞台、当日を迎えた。天気はあいにくの曇り空でどんよりとしていた。今にも雨が降り出しそう。わたしは疲れ切った人みたいに重い足取りで、とぼとぼと歩いた。一応、折り畳み傘を鞄の中に忍ばせている。
 電車に乗った。車内は空いている。いつもならずっと立っているのだが、このときは迷わず座った。柔らかい感触に腰を落ち着ける。窓の向こうに目を凝らすと、建ち並ぶ温泉宿の方から湯煙が上がっているのが見える。こんな中半端な時間帯に温泉を満喫している人なんているのかしら。
 好きってなんだろう。唐突に思った。恋ってなんだろう。特定の誰かを好きになってしまうのはどうしてなのだろう。花音を好きになったのはなぜ。花音だけを、好きになったのは――なぜ。同性だからとか、異性だからとか関係なく、わたしは花音だけに恋した。初めて喋った日から彼女以上に強く意識した人はいなかった。片想いしてずいぶん長い。この先もこの感情に囚われたままなのだろうか。それとも、まったく別の誰かをあっさり愛してしまうこともあるかな。
 ぼんやりしていたら電車が駅に着いた。駅名が告げられてわたしはのろのろと立ち上がる。空が相変わらずすっきりしない。もしかしたら、もう二度と晴れ間を望めないかもしれない。そんなの悲しい。
 通りを歩いた。みんな、緊張しているだろう。でも、楽しみでもあるだろう。一年に一度しかない大事な機会、いいところを見せようと全力を尽くすだろう。これまで、いろんな人の全力を目に映してきた。葵さんや、いのりさん、瑞希さん、二人のミナちゃん、芽瑠ちゃん、鈴花、藍葉――そして、花音。普段から接していて、みんなのことを知っているつもりになっていたけれど、本番の舞台に上がった姿を見ると、知った気になるのは早すぎると痛感する。まだまだ底知れないものを内側に残している。それを引き出す舞台って、やっぱりすごい。偉大だ。
 演劇と出会えてよかった。葵さんに脚本を頼まれてよかった。たくさん友達ができてよかった。花音と同じ世界の住人になれて、ほんとうによかった。
 小雨が、ぽつりぽつり。傘を差した。先日、用事があって外出していて、家に戻ったら慌てた様子の花音が飛び出してきた。すごく驚いたけれど、ほんとに急いでいるみたいだったから呼び止められなかった。母親に訊くと、さっきまでわたしの部屋で待っていたのだけど、帰ってしまったそうで。部屋に行っても、特になにかを手にした痕跡もなかった。花音が座っていたかもしれないベッドに腰を下ろし、一つ息をついた。花音、なにか話したいことがあったの?
 傘を傾けて建物を見上げた。思い出の場所を、静かな心で捉える。ここからすべてが始まった。出会いも、その後の運命も引き寄せた、あらゆる出発点。
 わたしたちを打ちのめした場所。初めて一緒に観劇した劇場にやって来た。記憶していた情景とそれほど変化はなかった。
 花音、ごめんなさい。今年の秋の舞台は観ないの。みんなの演技を観たいけれど、どうしてもふつうでいられる自信がなかった。だいいち、このところ演劇部に顔を出していなかった。どこかでぷつんと糸が切れてしまって、そうなると今までのように当たり前の顔をして参加できなかった。日に日に、居場所が遠く離れていった。
 柊子は怪我から回復して間に合わせた。翡翠ヶ丘は予定通りの配役で挑む。旭山は「リボンの騎士」。サファイアは、鈴花。ミナちゃんはフランツ王子。
 傘を畳んだ。劇場へ足を踏み入れた。わたしは、仲間たちのぜんぜんいない場所で、今日を送る。たくさん笑って、さめざめと泣いて、すべて舞台のせいにしたかった。あの日から数年経って、わたしの隣の席には知らない人が座る。
 開演が待ち遠しかった。

 季節は流れた。思い煩うよりも早く、目標から逆算できるくらいにはゆっくりと。少しずつ凍えるような寒さになって、言葉を交わすわたしたちの吐く息は白い。空は青く澄んでいて、雨が降るときは雪に変わるのではと期待した。
 高校三年生の目標。次の場所へたどり着くための最後の戦い。大学や専門学校へ進学するにしても、就職するにしても、誰かのお嫁さんになるにしても、わたしたちは決断しなければならない。進む道を選べるのは自分だけ。
 わたしは大学受験をする。旭山の生徒の大多数がそうだ。就職する人は稀。ミナちゃんも大学受験組だが、どうやら関西の大学へ戻るつもりらしく、今から別れが惜しい。
 翡翠ヶ丘はどうなのだろう。受験勉強にかこつけて花音にぜんぜん会っていない。花音に会わないと、ミナちゃんや芽瑠ちゃんにも会わなくなるものだ。当たり前のように五人一緒によくいたのに、ひょっとしたらわたしたちのせいで揃わなくなったのではないかな。そうだとしても、どうすることもできない。あの頃に帰りたいけど、思うだけ。遠い日々、きらきら輝いている。
 おかげで受験勉強は捗った。志望大学が近づいてくる。このまま手中にできたら、そう願う。勉強に明け暮れ、そして年も明けた。新年早々、雪が懸念された寒い日にセンター試験があり、そこから怒涛の勢いでいくつかの大学の試験を受けた。ほんとうに、自分がその波に乗れているのが不思議なほどにすごい勢いで、すべては駆け抜けてゆく。
 また、季節は流れる。もっと思い煩っていたい、目標を掲げていたい。
 それでも、卒業する瞬間は等しく訪れる。

          ◯

 マフラーの感触が心地よくて、その温もりだけがなによりの救いだと思う。今年の冬は殊に寒い。雪が何度か降った。桜の開花も遅れるのではないだろうか。もしかしたら卒業式のときにはまだ蕾かもしれない。
 時間がけっこうある。センター試験を受け、大学受験を経て、進学先が決まった。前々から志望していた大学に見事合格し、今は毎日ぼんやりしている。誰かに会っておきたいような気もするけれど、ほかの人の受験事情を詳しく訊けない。
 だから、少しでも演技を観ておくことにした。お金を払って舞台鑑賞に赴くのもそうだし、映像を観たり、高校の部活にちょっと顔を出したりした。あたしがバトンを託した藍葉は相変わらず落ち着きなくやっていたが、部の雰囲気は明るくて、彼女の人間性だからこそ為せるのだろう、と感じた。柊子も積極的に活動に参加している。藍葉くらいあっけらかんとしていると、柊子に対して変に気を遣い過ぎないのだろう。いい空気感の中に据わっている。
 正直、心残りがある。三年生になってからのあたしは、心ここにあらず、という状態がしばしばあった。その度に芽瑠にたしなめられたり、ミナちゃんにフォローしてもらえたりしたけれど、部長としての役割を果たせていないのが自分でも分かって、ほんとうに申し訳なかった。いのりさんや紅美子さんが作っていた部の柔らかい雰囲気を、あたしは継承できなかった。
 仮定の話を持ち出すのは卑怯だけど、もし、柊子みたいな子がうちの部に入らなければ、あたしはもうちょっと上手くやれたかもしれない。あるいは、もし――小百合が脚本をやると言い出さなければ。きっとどちらか一つが現実になっていればそんなに囚われなかったろう。しかし、二つとも訪れたのだ。
 小百合は言うまでもないけど、演技者としての柊子は、あたしの中でかなり大きな存在だった。強く意識した。結果的に、バランスを保てなくなった。
 その後悔に背中を押されるようにして、後輩たちの様子を見に行っているのかもしれない。フラットな気持ちでみんなと向き合うために。
 小百合はどうしているだろう。すっかりご無沙汰になってしまった。そのうちにどこかで出くわしそうなものだが、どうかな。会いたい、でもあたしから誘うわけにはなんとなくいかない。
 小百合の顔を思い浮かべると胸が苦しくなる。ともすれば涙が溢れそうになる。同じ大学だったらいいけど。お互いにどこへ行きたいのか確かめる機会もなかった。今度こそ、ちゃんと二人で舞台を作り上げられたら素敵だけど。そんなの無理だよね。
 天気予報によると来週には真冬の寒さは暇乞いをするらしい。ようやっと春の出番だ。そして季節が春に片足を突っ込む頃、卒業式がある。今年も翡翠ヶ丘と旭山は同日に式を挙行する。桜、咲くといいな。
 最後の秋の舞台の日、あたしは緊張していなかった。予感があったから。小百合は絶対に来ない。だから、あたしをがんじがらめに縛りつけるものはなにもなかった。その代わり、練習以上の成果を残せなかった。これで高校の演劇生活は終わってしまうのかと、妙にあっけなく感じた。
 ずっと、考えている。日記にあった言葉――「ちゃんとした意味」
 空を見上げ、真昼の月を見つける。運がいいのかどうかは心の在り方次第。そこに希望を見出すことも、反対の感情を抱くことも、どちらも思うままだ。遠ざかる運命の袖、いつ、放してしまったのかしら……。

 曲がり角の先になにが待っているのか分からない。迷い道へ通じていて、どこへも行けないのかもしれない。それでもあたしは歩いてきた。この日までずっと、あたしたちは歩いてきた。
「あたしたちが話す番が来たんだね」ミナちゃんがしみじみと呟く。「ほんとに、あっという間の三年間だったな」
 あっという間、という部分に特に力を込めている。それだけ中身の濃い時間だった証拠だろう、そう返すと、ミナちゃんは笑顔で頷いた。「楽しかったね」
 三年生の教室で後輩たちが呼びに来るのを待っている。卒業式の日の朝、翡翠ヶ丘高校演劇部のお約束。いつかは話す機会が訪れると想像しつつも、やはりまだ実感がなかった。卒業したくないわけじゃないけど、胸を張ってみんなの前で話すことがあるかな、という不安は否めない。
「あたし、演劇部に入って正解だったな」
 芽瑠が手鏡を覗きながら言った。今日はツインテールをやめ、下ろしている。大人っぽさが増した。「あたしね、入りたい部活がほんとうになかったの。でも、花音とミナちゃんが頬を赤くして話してる様子を見たら、すごく興味を持った」
「芽瑠は、ひょっとしたらすぐ辞めてしまうんじゃないかな、って思ってた」
 初めて正直なことを口にした。「それに、演劇以外でもそつなくこなせそうだし」
「あたし、物事に入れ込めないというか、執着できない性格なの。だけど、演劇は違った。こんなに真剣に取り組んだもの、ほかにはないもの」
 その言葉を聞けるだけで嬉しかった。
「花音、元部長だからトリだね」ミナちゃんが悪戯っぽく笑っている。
「もう、プレッシャーかけないでよ」
 いのりさんと紅美子さんの姿は目に焼き付いている。あんな風に後輩たちの瞳に映ればいいけれど――たぶん、祈るだけではだめだ。あたしの言葉で語ろう。肩の力を抜いて、素直な心のままに。
 それから、五人の進む先はお喋りのミナちゃんによって明らかになった。翡翠ヶ丘の三人は別々の大学になってしまったが、みな、都内だった。芽瑠はなんと小百合と同じ大学の同じ学部だった。信じられない心地がしたけど、あたしは知っていた振りをした。――そこで、あたしと小百合が別れるのだと知った。三浦のミナちゃんは京都の大学に進む。
 教室の扉をノックする音がした。ならわしで、前部長のあたしが開けに行く。――だというのに、扉はそれより先に勢いよく開いた。
「三年生のみなさん、お迎えに上がりました!」
 せっかちな藍葉だ。教室の中はたちまち笑いに包まれた。愛おしい子。抱きしめてやりたい。
 藍葉が先導する形で廊下をぞろぞろと歩いた。仄かに甘い香りがして窓の向こうへ目をやる。梅の匂いが鼻を満たす。桜もほんのりと咲いていた。控えめな姿にときめく。
 やがて馴染み深い空き教室へとたどり着いた。
 なにも変わらない。大きな窓から見える景色も、ここでかけがえのない瞬間を更新している少女たちも、いのりさんから差し招かれたときから、少しも変わっていない。部長として心残りがあったのは偽りのない思いだけど、大切なものは失っていないと分かる。これからもここに宿る光だ。
 みんなが笑顔で迎えてくれた。かわいい後輩たち。その中には藍葉や智恵子、そして柊子がいる。柊子は普段の表情がだいぶ柔らかくなった気がする。
 卒業生が一人ずつ思い出を語ってゆく。過去に二度、座って話を聞いたのに、初めて立ったまま聞かなければならない。加えて、あたし自身も語らなければならない。深呼吸した。今、話したいことはなに。胸に問いかけ、その答えを余さず届けようと決めた。
「みなさん、お世話になりました。岡本芽瑠です」
 もう、二人前の芽瑠が話し始めている。彼女はどんな風に最後の言葉を述べるのだろう。
「あたしは、そんなにいい先輩じゃなかったかもしれないな、と、最近振り返って感じます。なんだかんだ、自分のことに手一杯で、やりやすい環境を作るとか、積極的に声をかけてあげるとか、もっとできた気がします。それは素直に申し訳なかったと思ってるし、そう感じるのは、あたしがいい先輩に恵まれて、演技に楽しく向き合えたからです。
 もともと、入る部活が決まらなくて、軽い気持ちで花音とミナちゃんに付いていった人間だから、モチベーションは高くなくて、こんなにお芝居が楽しいなんて知りませんでした。今はほんとうに、舞台が、そしてここにいるみなさんが大好きです。あたしを熱くさせてくれて――ありがとう」
 そうして、頭を下げた。拍手が湧き起こる。あたしも手を叩きながら、やばいな、と誰にも聞こえないように呟いていた。すでに目が潤みつつある。しゃくり上げて話せなかったら洒落にならない。
 それでは、ミナさん、お願いします。藍葉の指名に、ミナちゃんが一歩前に出る。
「おはようございます。みなさん、大変お世話になりました、塚原三七です。あー、こうやって話す日が来るなんてなー、なんか不思議な感じ。しかも藍葉が進行してるのももっと不思議……それは冗談だけど。
 はい、そうですね、あたしは入学前から演劇部に入りたいって心に決めてて、偶然同じクラスだった花音とともに入部しました。あたしは舞台が好きで、でも自分には自信がないから、演じる側の人間になることには激しい抵抗があって――だけど、今考えれば、これ以外に全力で打ち込めるものってまず間違いなくないし、あたしはこれしかなかったっていう道をちゃんと選んだ気がします。それだけじゃなく、いい役ももらえて、かわいい子にもたくさん会えて、ほんとに最高でした。
 大学でも演劇サークルとかに入りたいと思いつつ、でもいつか諦めるしかないのも分かってて――そのとき、翡翠ヶ丘で過ごした日々を思い返して、ちゃんとがんばった頃があったって思えたら、その先の道にどんなことが待ってても、きっとやっていけると思います。
 うん、上手く話をまとめられないけど、言いたいのはだいたいそんな感じです。ありがとうございました!」
 深々と礼をするミナちゃん。拍手を送るみんな。それらの光景がぼやけて見えた。慌てて指先を持って行って涙を拭う。伝えなきゃ、抱える感情の全部を。
 藍葉に促され、一歩前に出た。柊子と目が合った。一瞬、微笑んだように見えたけれど、すぐにまた無表情に戻った。あなたと出会えてよかった。あなたと一緒に舞台に立てて、よかった。
「みなさん、お世話になりました。深川花音です。藍葉の前の部長を務めさせてもらいました。やり残したことや後悔は確かにあるけど、今日みたいに晴れやかな日は言いません。いい思い出だけ話させてください。
 あたしは中学生の頃、初めて舞台を目の当たりにして、衝撃を受けました」
 あの小さな劇場はどうなっているのだろう。潰れていなければいいが。
「役者さんたちが輝いてて、自分もああなりたいって本気で思いました。そのために翡翠ヶ丘に入りました。毎年、周囲の状況は違ったけど、あたしは三年間秋の舞台でステージに立てて、主演も任されました。素敵な夢を見させてもらいました。今日醒めてしまうのが惜しいくらいです。
 もちろん、選ばれる、選ばれないの世界なので、悔しい思いをしてる子もいると思うし、華やかな側面だけじゃないのはよく知ってます。それでも、どうして演じたいと思ったのか忘れないで、自分だけの居場所で全力を尽くすことができれば、きっとその輝きを誰かが見つけてくれます――なんて、ちょっと偉そうなこと、言ってみました」
 言葉を紡いでいると、だんだん視界がクリアになってきた。気持ちが晴れ晴れとしてくる。だって、あたしを見つめるどの顔も、曇りのない笑みをたたえているから。
「あたしを見つけてくれてありがとう。みんな、元気でね」
 頭を下げたら最後だ。拍手の音に包まれながら終わりをひしと感じ、切なくなった。お辞儀をしたときに下がった髪を耳にかけた。特別な理由などないけれど、髪を伸ばしていた。
 ほんとに、特別な理由などないけれど……。

          ●

 高校卒業の日、教室での最後のホームルーム。担任の先生が熱っぽく話していて、周りではそれを聞いて涙を流している人もいた。
 だけどわたしは、先生の話なんかこれっぽっちも聞いていなかった。絶えず花音のことを考えていた。今日はどんな髪型にしているかな。短いからアレンジが難しいけど、晴れの日だから。今日で見納めになるだろう周囲の人間の学生服姿をぼんやりと目に映す。ずっとこの清らかな衣装に守られていた。放たれても同じ一人の少女なのに。
 遠くない内に別れがやってくる。認めたくないけれど、それは抗えない事実だ。わたしも花音もこの街を離れ、別の大学に通う。花音の進学先はミナちゃんから聞いた。わたしは偶然にも受験会場で芽瑠ちゃんに鉢合わせし、その後確かめたら揃って合格していた。知っている人がいるのは嬉しい限りだが、その偶然の相手が花音だったら、と思うのは贅沢だろうか。相変わらず執着する気持ちは消えない。
 会っていない。ほんとうに考えられないくらい、気が遠くなるほどにわたしたちは顔を合わせていない。ためらう心が足枷となっていつまでも動けず、この日まで来てしまった。
 半開きの窓から風に運ばれて、蝶が迷い込んできた。瞬く刹那に視界の片隅で優雅に舞って、やがて窓の枠にそっととまる。
 蝶になりたい。唐突にそう思った。蝶になって、花音の傍に行きたい。それが私と気づかれないように、彼女の肩にとまっていたい。甘い香りに包まれて。そうしたら気まずさを感じなくて済むし、どんな言葉をかけるか悩まないでいい。
 ホームルームが終わって、わたしたちは講堂へと移動する。秋の舞台の思い出が詰まった空間で、これでもかというほどに最後を思い知らされる。別れを意識させる歌を歌わされる。受け入れたくなかった。自分がこんなに子どもじみて、わがままな性質の持ち主だったとは思わなかった。
 ずっと続けばよかったのに、と思い浮かべてしまう過去が存在することくらい、ほろ苦いものはない。
 ぞろぞろと整列するみんなに付いてゆく。ミナちゃんとふつうに話せてはいたけど、心ここにあらず、という状態だった。
 そして、卒業式はあっという間に終わった。感傷に浸って涙を流す暇もなく、あらゆる過程は滞りなかった。扉が開け放たれ、一人ずつその光の差す方へ吸い込まれていく。そこから赤煉瓦の道が伸びて、校門まで続いている。わたしは知っている、この伝統を。道沿いに並んで学校を去ってゆく人たちを見送ってきたから。――そうか、今度はわたしが見送られるのか。今さらながら実感が押し寄せてきた。
 講堂の中央、レッドカーペッドが敷かれた通路をゆっくり歩く。正面だけを見据えて歩きながら、頭の中で葵さんのピアノを流した。一年生の頃の秋の舞台で、葵さんが奏でていた旋律。こちらの方がずっと涙を誘う。そっと胸元に手を当てた。
 悲しい。
 やがて光に包まれた。春の心地よい風が吹き抜ける。首元に感じる風の具合からして違う気がした。左右に花のようにかわいらしく居並ぶ女生徒たちの間を、さっきよりもさらにゆっくりとした足取りで進んだ。知らない人の方が圧倒的に多いけれど、誰もが今日の門出を祝福してくれているみたいに見えた。
 名前を呼ばれ、首を巡らした。鈴花が泣き笑いの表情をたたえていて、胸を突かれた。そんな可憐な眼差しで見つめないでほしい――まるで悪いことをしてしまった心地でつらくなる。
「鈴花……」
「ご卒業おめでとうございます」
 軽く頭を下げる鈴花。それから、しばらく無言で見つめ合った。周りの世界から切り離され、二人だけが透明な膜で覆われた。かわいい鈴花――どうしてあなたは、そんなに花音に似ているの。
「小百合さん」か細い声。「来年の舞台、必ず観に来てください」
 ミナちゃんから部長を引き継いだ鈴花は、きっといい部長だろう。残念ながらその奮闘ぶりを目の当たりにできたことはない。
 鈴花はちょっと怒っていたのかもしれない。鈴花だけじゃないだろうけど、秋の舞台の日に異なる場所にいたわたしは、怒られても仕方ない。ごめんね、鈴花。
「観に来ます」
 必ず。やっと彼女の顔が曇りのない微笑みに変わった。
「いろいろありがとう」
「いえ、こちらこそ。――お元気で」
「鈴花もね」
 もっと話したいことがあったような――それでも、背を向けて歩き出した。往生際の悪いものを振り切るために。
 途中、見憶えのある二人とすれ違った。葵さんに憧れてショートカットにしている希望と、彼女の保護者みたいに寄り添っている和子――目が合って、「ご卒業おめでとうございます」と言われ、「ありがとう」と手を振って返した。よそよそしい、それだけのやり取りに過ぎない。
 それでも、その一瞬でわたしには分かった。あの二人はたぶん惹かれ合っている。
 校門を抜けた。爽やかな空、優しく頬を掠めていく風、ほんのり咲いている桜、そんなすべてが完璧だった。

 やっぱり、最後の日は花音と帰りたかった。お別れなのだと知っているのだから。たくさんの日常を積み重ねてきた帰り道を、手をつないで歩きたい。いつもよりもゆっくり、過去まで踏みしめるようにして。
 でも、もう一緒には帰れない。予感がした。わたしの予感はしばしば的中する。それだけに、胸が切り裂かれる思いだった。痛い。死んでしまいたい。
 ミナちゃんと川沿いの道をたどって、とにかく話した。頭を空っぽにして、卒業の余韻に浸っている振りをしなければ、嫌なものがもくもくと心を占めそうになった。そんなのは嫌だった。友達と踏みしめる最後の下校を邪魔されたくはない。
 気づいたら駅に着いていた。このまま帰るのは惜しい。喫茶店に寄るか、神社の方まで足を伸ばそうかと一瞬のうちに考えたけれど、さっきまでの話の途中でミナちゃんは引っ越しの準備があるからまっすぐ帰ると言っていたことを思い出した。誰よりも容易に会えなくなるのはミナちゃんだろう。遠くへ行ってしまったら寂しさの雪は嫌でも積もる。しんしんと。
「ほな、今日はここで」
 改札口を抜けたところで、ミナちゃんはあっさり去ろうとする。まだ会う機会はあるけど、わたしよりも大人なのだなと改めて感じた。
 教室で出会い、最初に仲よくなった人。一緒に文芸部に行ってくれて、そこで葵さんに会い、演劇部に連れていかれた。わたしの高校生活は、今思えばそうなるようにできていた。あらかじめ用意されていた台本通り、わたしたちの青春は彩られた。
「ミナちゃん、またね」
 大好き、と続けそうになって、飲み込んだ。永遠の別れじゃあるまいし。笑顔で、いつもみたいに。
「小百合ちゃんは、このままでええの」
 不意に、彼女はそんな台詞を口にした。目を大きくして真剣な眼差しで見つめ返す。その台詞は台本にあっただろうか、アドリブではないかな。
「花音ちゃんのこと」
 鼓動が早くなるのを意識する。心が、淡い感情を叫んでいる。ほんとうのほんとうを伝えようとしている。それが痛いほど分かるのだ。
「きっと後悔するで」
 最後にもう一度微笑んでから、ミナちゃんは歩き出す。遠ざかってゆく背中をじぃっと捉えて、しばらく動けなかった。そして、折よくミナちゃんが乗る電車がやって来て、彼女を連れ去る。手を振ることもできず、相変わらず立ち竦んでいる。わたしが乗る電車はまだ来ない。
 のろのろとやっと歩き出した。頭がぼんやりして、卒業式なんて遠い過去に思えた。ホームを歩きながら、ふと、視界の端に見知った顔が映ったような気がして、ゆっくりとそちらを見やった。
「……小百合」
 前にもこんなシーンがあった。高校生になってから初めて顔を合わせた日。二人とも同じニックネームの友達ができたのをおかしがった日。
 花音の声がわたしを呼んだ。わたしのたった一つの名前を。小百合。
 花音。
 瞳を見交わしてから、彼女の目に映るわたしの顔が驚きの表情に変わった。――花音の髪が、ずいぶん伸びた。以前のわたしほどではないけど、肩にかかるくらいにまで伸びているのを見るのは久しぶりだ。
「小百合、髪、切ったの?」
 その言葉は、二人の間を隔てた経緯や空白の時間をゼロにした。ホームをそよと吹き過ぎる春風。首元に感じる風の具合からして違う気がした。わたしは卒業式を目前に控えて、髪をばっさり切った。花音みたいにしたくて。似合わないと分かっていたけど。
「花音」何度も呼んできて、これから何度も呼びたい、その名前。「そっちは、長くなったね。三つ編みにできそう」
 花音は照れ臭そうに手で髪を梳いてから、「もう三つ編みはしないよ」と笑った。
「小百合とお揃いにしたかったのに」
 頬が熱くなった。「ほんとに? わたしも、花音と一緒にしたかったの」
 花音の眼鏡の奥の目が細められ、カシューナッツみたいな形になる。「ふふっ。お互い、同じこと考えてたのかも」
 変かな、と首を傾げて尋ねてくる。愛おしい眩しさが、抱きしめたいいじらしさが目の前にある。
「似合ってる、すごく。――惚れ直した」
 伝わってしまえ、わたしの想い。
 恵まれた自然に囲まれ、荘厳な山に見守られながら、わたしたちはかけがえのない日々を送った。たくさんの瞬間を、経験を、共有してきた。それももうすぐ終わりを迎える。物語は新たなページへ。
 花音が瞳を潤ませた。次の言葉を聞いて、さらにハッとさせられた。
「小百合――わたしも、小百合が好きだよ」
 ちゃんとした意味で。俯かず、ぐっと心を寄せてくるような眼差しで、そう言い足した。
 もう、なにもいらない。
 一歩、こちらへ近づいてくる。近い、と意識する間もなく、彼女の唇がわたしの唇に触れる。雪が融けるみたいにそっと。離れてから、花音は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 それまでだった。

舞台に、花は咲き乱れ

舞台に、花は咲き乱れ

同じ街にある二つの女子校、翡翠ヶ丘高校と旭山高校はどちらも演劇が盛んだった。親友ながらそれぞれの高校へ別れてしまった小百合と花音の、静かに激しい物語。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-09-30

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