それとも、裁判所で待ち合わせしようか?

男のなんでもない朝

 目を覚ました。目覚めの悪い朝だった。胃もたれしているかのように気持ちが重い。
無理やり開けようとする瞼が何かに引っ張られているかのように重くて、このまま何も行動せずににのんびりとしていたい。窓の先にいるまぬけにあくびを連発する猫に成り代わりたい。無理なことはよくわかっているので本気ではないけれど。
重たいからだを半分だけ起こす。
確認した時間を見るに、それほど急ぐ必要もないしのんびりとすることにしようか。
猫の欠伸につられて一発大きいのをかますとその後にため息が出た。

 日常を生きていくのってめんどうだな。
そうは思ってもこの日常が劇的に変わるようなこと、例えば、突然会社がつぶれるとか、火事で家が無くなるとか、地震とか津波とか、そういうたぐいの劇的な変化が起こったら、こんな退屈な日常も大切な時間だったと思うのだろうけど。
ボーっとそんなことを考えていたら、折り曲げていた足がしびれてきたみたいで足に電気が走っているような、そんな独特の不快感。窓の猫はいつの間にかあくびをやめて丸くなって日向ぼっこしていた。
痺れた足を直しながら、自分の毎日についてもう一度振り返ることにする。時間はまだ余裕があることを僕の腹時計が教えてくれているから。

 振り返れば振り返るほど僕の毎日は平凡で、何の変哲もない。朝起きて、朝ご飯食べて、会社でこき使われて、上司のストレスのはけ口にされて、帰ってきて夕飯食べて、色々身支度して寝る。お昼はおなかすかないので食べない。食べたら午後の仕事で吐きそうになるから。上司の絡み方がうざったいので飲み会にも行かない。だから、上司からあまり好かれない。僕はゆとりの悪い例らしい。裏で言われているのをこの前聞いた。僕も嫌いな人だったから別に傷つきもしない。おじさんなんて威張りたい盛りだし、めんどくさいし。この前、僕の同期の女の子とべたべたしながらホテル街に消えていったし。そのことがばれて長年連れ添った奥さんから離婚しようと言われているらしい。上司は嫌だとごねているらしいが。休みの日は地下アイドルの痛いファンをしてるみたいで、ネットで叩かれてるし。そのことがばれて浮気相手である同期の女の子からも捨てられたらしい。
まぁ、全部どうでもいいのだけれど。僕の日常は平凡だし。

 そっと足を床につけると、シャラシャラとしたさてんが乱雑に脱ぎ捨てられている。片付けくらい自分でしてくれないだろうか。思わずついた深いため息が静かな部屋に吸い込まれていった。
ひらひらと揺れる紫の透けた生地。生暖かい温度と前よりも柔らかくなった感触。甲高い声に覚めていく心。
あぁ、嫌なことを思い出した。
生地を踏みつけると、重い体を起こす。どこに片づけたらいいのだろう。それとも洗濯に出した方がいいのだろうか。
めんどくさい。乱雑に手に取ると、ハンガーにでもかけようとすぐそばにある空っぽの小さなクローゼットに近づく。
ハンガー、ハンガー。ハンガー、ハンガー。
あのクローゼット使っていないけど、ハンガーはかかっているのかな。ふと立ち止まった時、急に視界が変わった。

「おはよう」

柔らかい笑顔と優しい声。なんだか急に虚しくなってきた。
そう思ったら、重くのしかかる物が軽くなったようだった。僕の上に乗っていたものがすべて解放された。

「重かったな」
「え?」

一瞬驚いたような顔をしたけど、何かを感じたのか少し照れたように顔を赤らめる。

「そっか…最近ちょっと太ったのかな…」

上に乗ったの久々だったしね…。そう言って恥ずかしそうにはにかむ。可愛らしい仕草は色白で童顔の彼女によく似合っていると思う。たぶん。僕はそんな風にもう思うことはできないけれど。

「違うよ」
「え?じゃあ、何が重かったの?」
「君だよ」
「…何を言ってるの?」

不思議そうに首をかしげる彼女を見て、まだわからないのか、と少しあきれた。彼女は僕が思っているよりも自分中心に世界が回っていると勘違いしているようだった。

「僕の人生にとって、君はこの世で一番重い物体なんだよ」

持っていた生地を彼女に手渡すと、伸びをした。これで解放される。

「ねぇ、どういう事」

顔面蒼白の彼女は力強く僕の服の腕を引っ張る。そんな力が出るなら一人で旅行の荷物くらい持てる気がするし、ショッピングだって一人で行ける気がする。あぁ、お金を払ってくれる人が必要だから一人では行けないか。人のお財布大好きだもんね、君は。

「わからないのかい?」
「私は承諾しないわよ」

そんなに睨み付けなくてもいいんじゃないかな。

「じゃあ、僕も地下アイドルのファンにでもなろうかな」

緩んだ腕を振り切ると、リビングへと向かった。

「早いところ市役所までデートしないかい?」

僕のカバンから出てきた緑の紙を見て、彼女は悔しそうに唇を噛みしめた。

それとも、裁判所で待ち合わせしようか?

それとも、裁判所で待ち合わせしようか?

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-25

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