花たちが咲うとき 二

花たちが咲(わら)うとき

第二話 ~桜花探訪翁~

 瞳のように輝く丸い月
暗い、木々の陰
木の葉たちの悲鳴
それらに紛れるように聞こえる荒い呼吸の音
温い液体が這う、左手
銀の鋏
足元に、水溜り
こんな綺麗に、月が視える夜にも関わらず
大きな、大きな、水溜り
そこに沈む
黒髪の

「助けてあげようか?」
背後で
金の瞳が
鮮やかに歪んだ


※※※


 ほんの少し前まで、見上げれば青空のキャンバスを彩っていた桃色の花たちも、今は大半が足元のアスファルトを絨毯のごとく覆っている
時折、強い風が教室の窓ガラスをガタガタと揺らした
その反動、というわけではないだろうが、金色に中央がこげ茶色の頭が大きく揺れ、そのまま机に頭突きをした
静かだった教室に鈍い音が小さく響く
「……では、前回のプリントを返します。名前を呼ばれたら取りに来て下さい」
その鈍い音に気づいたのか、気づいてないのか。教卓に立つ教師は一旦間をおいてから名前を呼び始めた
途端に、椅子を引く音や、衣擦れの音で教室に雑音が満ちる
(あおい)、大丈夫?」
「……痛い」
のっそりと頭を上げた葵は額をさすりながらも、未だ瞼が半分しか開いていない
「あー、寝た寝た。やっぱ春は眠いよなぁ」
そう言って、周りの目も気にせず伸びをした葵の隣で、白い頭が揺れた
「まったく、授業中だぞ?」
そう言いながら困った風に笑う今年度の主席は、春の陽気に負けず授業を聞いていたようだ
「えっと……、つきした、かおり《香》さん」
先生がプリントに目を落としながら呼んだ名前に、白髪頭の主席の肩が揺れる
「ほら、呼んでるぜ。『か・お・り』ちゃん」
急に意地悪を思いついた子供のような、憎たらしい。しかしどこか憎めない笑顔で、葵は隣に座る主席の肩をつつく
「もう……」
少し気だるげ席を立って教卓に向かっていく友人の背中をニヤニヤと見送る葵は、すっかり目が覚めたようだ
目の前に立った白髪頭の生徒に、その教師は少し驚いたように身を引く
そんな教師に香は極力控えめな声で告げた
「すみません、それ。『香』と書いて『きょう』って読みます」


※※※


「あー、傑作だったなぁ。先生のあの顔!」
教室を出てからというもの、葵はよっぽど面白かったのか、その話をずっと引きずっている
この話題はもう三回目だというのに、まだ飽きないらしい
「まぁ、オレは『(きょう)』って名乗ってもらったあとに、漢字知ったからアレだけど。逆だったら絶対読めねーな、オレも」
「はいはい、そう思うならこの話はもう終わりな? 俺だって気まずいんだぞ、あれ」
月下(つきした) (きょう)は、白い頭をガシガシと掻いた後に困ったように「うーん」と唸った
「やっぱり、送り仮名を書いておいたほうが良いな」
「うわ、めんど」
「大勢の前で名前を訂正するのって、結構恥ずかしいんだぞ? 俺もだけど、先生にも恥をかかせちゃうし。それを考えたら面倒ではないさ」
そう言って笑う(きょう)の顔は「もう慣れた」といわんばかりの表情だった
その顔を横目に歩いていた葵は、感嘆を含んだような、呆れたような「そっか」をこぼす
そして、キャンパス内の道路脇に並んだベンチでうとうとしている生徒を目にして、ポツリとつぶやいた
「それにしても、なんかさぁ。寝てるやつ多いよなぁ」
「……葵が言うのか、それを」
「いや、まぁ。そうなんだけど! そうなんだけどさぁ!」
今度は葵が頭を掻く番だった
「春のせいにするには皆寝すぎっていうか……、この前もさ、あの青木が授業中にウトウトしてんの! びっくりじゃね?」
「それは、確かに珍しいけど……」
「よっしゃ、これでオレの眠気も春のせい以外の強制的な何かのせいに……」
「こら」
そう言って笑いながら食堂に向かう二人は、若干周囲の目を引きながらも歩みを進めた


※※※


  書庫の主がごとく、彼女は一昨日と変わらぬ様子でそこに居た
変わったのは読んでいる本と、服装、それと頭に刺さった簪くらいだ
「昨日、来なかったから心配していた」
「……寝てた」
彼女の言葉に(まぐさ)は正直につぶやいた
あの後、どうやって部屋まで帰ってきたか、(まぐさ)にはハッキリと思い出せない
今まで見ていた悪夢、いや、もはや悪夢とは呼べぬあの夢は、もう見なかった
ただし、正真正銘の悪夢と引き換えだったが――
目を覚ましたら、丸一日過ぎていた。という具合だ
「授業初日から休むとは、生意気な一回生だと思われただろうね。教師には」
そう言って、「ご愁傷様です」という表情をした彼女は、手元の分厚い本を閉じて(まぐさ)に向き直った
「で? どうしたの?」
「……あの夢は、もう見なかった」
彼女は感心したように息をこぼした
「それはなにより、というべきなんだろうね。いろいろ調べてきたのになぁ。『夢戻し』の歌とか、後は……、鋏を枕に下に置くのも良いらしいよ」
(まぐさ)はあの日、茨が言いかけた言葉を思い出した
あの男の面倒なところ、全てが嘘でないところ
「ん? 何? 黙っちゃって?」
黙った(まぐさ)を怪訝そうに見つめた彼女の瞳が、(まぐさ)を現実に引き戻させた
「いや、これは返す」
そう言って(まぐさ)が机に置いたのは、彼女に借りた南天を模したキーホルダーだ
「そっか。もう悪夢は見ないんだもんね」
「……いや」
「ん?」
「今までとは違う悪夢は見た」
そう言って視線を逸らせた(まぐさ)に、彼女は不思議そうに首をかしげる
彼女が疑問を口にする前に、(まぐさ)が言葉を挟んだ
「だが、いい。……理由は自分が一番よく分かってる」
「……」
彼女は(まぐさ)を見定めるように一瞥した後、机上のキーホルダーに目を落とし一瞬迷ったように手を彷徨わせたが、最終的には彼女はそれを掴んだ
「結局、君の以前の悪夢はどうやって解決したの?」
「……、はさみ」 
(まぐさ)は迷った挙句そう答えることにした
「なんだ、その方法知ってたのか。ふむぅ、なるほど……」
彼女はメモ帳を取り出し、何やら書き込んだ挙句、シャーペンのノック部分で顎をとんとんと叩きながら何やら思案している様子だった
その姿は絵に描いたように様になっている
「……世話になった」
そんな彼女を横目に(まぐさ)は階段のほうへ歩き始める
「あ、ねぇ」
「?」
そう言って(まぐさ)を呼び止めた彼女は、(まぐさ)が止まったのを確認すると足元から頭のてっぺんまでサッと目を通して一拍置くと、彼女自身自分の言葉を確認しながら話すようにゆっくりと言葉を口にした
「一昨日会ったばかりの人に言うのもアレなんだけど、……なんか、雰囲気変わった……かな?」
「……気のせいだ」
「……そう」
改めて彼女に背を向けて歩き出した(まぐさ)が、階段の中腹に差し掛かったとき、頭上で彼女の声がした
「君が二度と、ここに来ないことを祈るよ」
その言葉に一体いくつの意味がこめられていたのか、(まぐさ)には分からなかった
同時にその祈りが、(まぐさ)に意味を成すとも思えなかった


※※※


「あ。あいつ」
 図書館を出たところで聞こえた、その独り言にしては大きめの声に、思わず目をやってしまったことが(まぐさ)の失敗だったのだろう
図書館になんてまるで縁のなさそうな頭が、二つ
声を上げた葵は(まぐさ)と目が合うと、しまったといわんばかりの表情で口を両手で覆ったが、背後から(きょう)が顔を出して「どうした?」と聞くものだから、しぶしぶ答えていた
(まぐさ)はその隙に立ち去ろうと試みたが、少し遅かったようだ
「ま、待って!」
そう言って、(きょう)(まぐさ)に駆け寄って来るものだから、追いかけっこを始めるわけにも行かず、(まぐさ)はその場に立ち尽くすしか選択肢は無かった
互いの距離はそれほど遠く無かったにもかかわらず、香は息を弾ませながら(まぐさ)の前に立つ
「あ、あの、さ。お、覚えてる?」
恐る恐る、といった風に尋ねる香は捨てられた犬のような表情に期待を含ませて(まぐさ)を見上げる
(まぐさ)はどうにも言葉に詰まった
「……月下」
「!」
(きょう)は一瞬固まったが、頬を緩ませる
「ひ、久しぶり。君影。入学式の時はさ、その、なんと言うか大分雰囲気が変わってて……。お前も全然反応してくれないから、人違いかなって思ったけど……」
反応できなかったのも仕方が無い
その時の(まぐさ)には記憶がすっぽり抜け落ちてしまっていたのだから
(きょう)、知り合いだったの?」
小走りで追いついた葵は、眉間にしわを寄せながら、野放しの虎を見るような恐怖を表情に浮かべている
「うん、中学の……」
「用が無いなら行くぞ」
(まぐさ)がさっさと二人に背を向けると、(きょう)に腕を掴まれた
(まぐさ)が咄嗟に腕を振り払ったことで、(きょう)は若干バランスを崩したが困ったように(まぐさ)に笑いかける
「昼、一緒にどうだ? 葵のこともさ、紹介したいし、な?」
言葉を振られた葵は「え?」と口を開け、嫌そうな表情を隠そうと努力しながら首を縦に振った
「……いや、もう帰るから」
(まぐさ)は嘘をついた
正確には半分だけ
「……そっ、か」
(きょう)はあからさまに肩を落としたが、これ以上追求することは無かった
なんともいえない沈黙を、風だけが知らぬそぶりで通り過ぎていく
葵には、二人の作り出すよそよそしい様な近しい様なその空気が、時間の経過のみが生み出しているようには思えなかった
「……じゃ」
先に声を出したのは(まぐさ)だった
別れの言葉らしき単語を告げて、背を向ける
「うん。また……」
(まぐさ)が背を向けても、(きょう)はその背中に視線を送り続けていた
葵には、(きょう)が何か言いたそう見えた
「行こっか」
そう言ってやっとのことで葵を振り返った(きょう)は、笑っていた



 学食のラーメンをすすりながら葵は未だに眉間にしわを寄せていた
「つか、あいつ一回生だろ? フツーに授業あるだろ、帰るとかぜってぇ嘘だし」
「そうかな?」
「そうだし」
(きょう)は弁当箱の卵焼きを口の中に放り込むと、おいしそうに口を動かしていた
「オレあいつになんかしたっけ? いや、入学式にガンつけたけど……。そんなにオレと飯食うのは嫌ですか、そーですか! オレだって嫌でしたよーだ!」
(きょう)は笑ってはいたが、どこか寂しそうに「そんなことはないよ」とだけつぶやいて、彩り鮮やかな弁当箱に視線を落とす
「顔と口は悪いけど、根はいいやつだから。本当に用事でもあったんだと思う」
「……そうかぁ? (きょう)、人良すぎ」
(きょう)は先ほどと全く同じ言葉を、全く違う言葉のようにつぶやいた
「そんなことないよ」
「……あー。思ったんだけどさ、あいつ、君影っていうの?」
「え? うん」
「アレと一緒じゃね? ほら、有名な『君影グループ』」
『君影グループ』とは、君影銀行、君影不動産、君影自動車。等々、事実上経済を支配している超巨大企業群のひとつ
CMなどでよく聞く名前だ。知らない人は居ないだろう
「……うん。あいつは『君影財閥』社長の息子だから」
「へー……。へ?」
葵はすすりかけていたラーメンの麺を口から落とした
バシャンと汁がはねて、器に麺が沈む
「嘘ぉ……」
「ほんと」
(きょう)は少しおかしそうに笑って、箸を持ったままの手で人差し指を立てて口元に持っていった
「でも、内緒な?」
「え?」
「あいつ、名前のことは偶然同じだって言い張ってるから」
「……なんで?」
「昔から、目立つのが嫌いだったからな……。多分そのせいじゃないかな?」
葵には全く理解できなかった
不服そうな顔で、沈んでしまった麺をもう一度すくい上げる
「そんなヤツがどうしてこんな田舎の大学に?」
「うん。その辺のこと聞きたかったんだけど、逃げられちゃったしなぁ」
「……あのさ、友達、なの?」
葵はずっと気になっていたものの、なんとなく聞いてはいけないような気がしていた質問を、ひと言ひと言確かめながら言葉にした
(きょう)は箸でつまんだウインナーに目を落として、一呼吸置いた後に口にポイと放り込む
「友達だよ?」
そう可笑しそうに笑った(きょう)の笑顔に、葵は返す言葉が思いつかず、空っぽの口にラーメンを押し込んだ


※※※


 ギュイッ、と音を立ててバイクにブレーキをかけた(まぐさ)は三階ほどしかない薄汚いビルを確認し、駐車場の隅にバイクを止めた
古そうなチラシが貼り付けられたガラスドアを開けると、ぎしぎしと軋む
「こんにちは」
カウンターからかかる声を無視し、(まぐさ)は奥の廊下を進む
待合室らしき並んだ椅子の背もたれから子供が顔を出して、不安そうに(まぐさ)を上目遣いで見つめている
(まぐさ)は扉のプレートの番号を確認しながら、目的の数字の扉を開いた
「やあ、来たね」
そこには一昨日あったばかりの顔があった
ベッドに腰掛け、気だるげにしているが患者ではない
むしろこの男は診る側だ、自称だが
向かいのベッドの上をぴょんぴょん跳ねる少女は、行動のハツラツさに反して無表情で、スカートが空気を含んで持ち上げられるのを気にもせず跳ね続けている
茱萸(しゅゆ)。埃が舞うでしょ? やめなさい」
そう(うばら)が声をかければ、茱萸(しゅゆ)はベッドから降りて茨の隣にちょこんと座った
「ごめんねぇ。授業あったでしょう?」
「入金が遅れた分の手伝いはする。さっさと用件を言え」
「そう? じゃあ、こちらの御仁のお手伝いをしてあげてくれない?」
そう言って骨と血管の浮き出た手で指したところは、カーテンの陰になっていてよく見えない
(まぐさ)は少し前に出て、恐る恐るカーテンの奥に目をやる
そこには(まぐさ)の腰ほどの高さしかない白い毛むくじゃらの何かが、その身長の倍近くある木の杖を持ってそこに居た
腰の曲がった老人のようにも見える
「急に善人の真似事か?」
(まぐさ)(うばら)にそう尋ねると、(うばら)は気だるげに頭を横に振った
「ちょっと断れない依頼人でね」
「そうか……」
いったいどこの物好きか知らないが、この仙人のような老人を助けて欲しいと(うばら)に金を積んだやつがいるらしい
「で? このじじぃの何を手伝えばいい?」
「じじぃとは何事か!」
その声はしわがれてはいたが迫力のある大きな声だった
(まぐさ)は驚いて老人のほうへ目を向ける
その老人は長い杖をぶんぶん振り回し、小刻みに震えていた。地団駄でも踏んでいるのかもしれないが、髭なのか頭髪なのか長い白い毛がぼさぼさと広がり、地面までついているその姿では、何をしているのかまでは分からない
「じじぃなどではない! 儂にはなぁ、儂には……、……名前、何じゃったかの……?」
「ボクに聞かないでくれる?」
(うばら)は口元に相変わらずの歪んだ笑みを浮かべていたが、下がった眉をいつも以上に下げた
見た目より元気な老人のようだ
未だに名前を思い出そうと唸っている老人をひとまず置いておき、(うばら)(まぐさ)に視線をやる
「この人の体を探してくれる?」
「体……」
嫌な予想が的中していたことに(まぐさ)はため息をつきたくなった
少しでもこの老人をただの老人と思った自分を殴りたい
(うばら)が少しだけ顎を上げて、カクンと首を傾けた
「君、まだ区別が付けられないの?」
「うるせぇ。どこにあんだよ、そいつの体」
「分かってたら探してなんて言わないよ」
「……そうかよ」
「櫻じゃ!!」
急に老人が叫んだ
「ひらひらと桃色舞う、雨、あめめめ、あの、あのお、かたかたかたに、いい、ああああ!」
「お、おい……」
急に壊れたレコードのように意味の成さない言葉を吐き始めた老人に、(まぐさ)はうろたえたが、(うばら)はどこ吹く風という様にタバコに火をつけて一服し始めた
「ほっといて良いよ。じき収まると思うし。なんかさぁ、生前の記憶があいまいみたいで、無理に思い出そうとするとこうなるみたい。桜が咲いてた辺りで死んだのは覚えてるらしいし、その辺中心に探してみてよ」
「桜が咲いてるところなんて、一体いくつあると思って……」
「止める?」
(うばら)はニタァと口の端を持ち上げた
「せっかく一番楽そうな仕事を持ってきてあげたのになぁ」
そう言って顎を上げて(まぐさ)を見下すように嘲笑う
刃物のような光りを金色の瞳に宿して、まっすぐ(まぐさ)の目を見返してくる
目を逸らせない
これを断れば、これ以上面倒なことになるのが(まぐさ)には目に見えて分かった
「……わかった」
「ちぇ」
そう言って(うばら)はベッドから腰を上げた
途端に、その場に電柱でも生えたのではないかと勘違いしそうなほどの圧迫感と存在感を嫌でも感じた
(まぐさ)も決して身長が低いほうではないにもかかわらず、その男は猫背の体勢のまま(まぐさ)を当然のように見下ろす
「ヒントをあげる」
そう、声が落ちてくる
「この魂は、体から抜けてゆうに世紀をひとつは超えてる」
そう言うと(まぐさ)の横を大股で、いや、本人にとっては普通の歩幅で通り過ぎると部屋を出て行った
茱萸(しゅゆ)も重そうなジュラルミンケースを二つ軽々と持ち上げ、(うばら)に続く
ちら、と(まぐさ)を見た右の瞳は相変わらず大きく、光がない
ばたんと閉まる扉の音を背中で聞きながら、(まぐさ)は残された老人と二人の空間に、重い重いため息をついた
「ため息などつくでないわ! 運気が逃げるぞ!」



 部屋を出て、(うばら)は小さくため息をついた
「ため息などつくでないわ! 運気が逃げるぞ!」
部屋の中からそんな声が聞こえて、思わず肩があがる
「びっくりしたぁ……」
閉まったばかりの扉に一言つぶやき、カウンターのほうへ歩いていく
「お大事に……」
そう言って頭を下げる女性を背に、(うばら)はゆったり手を振った
「君達も、早く成仏なさいねぇ」
そう言ってチラシや埃で薄曇ったガラスドアを開ける
「はい……」
背後で寂しそうな女声と、キャッキャッと騒ぎ駆け回る子供の足音を聞きながら、「売家」と書かれたチラシの張られたガラスドアはゆっくり閉まった


※※※


「おい! 儂の体を探してくれるのではないのか!?」
「うっせぇ、こちとら昨日から授業休んじまってんだよ。四限にはギリ間に合いそうだから、てめぇの体探しはその後だ」
「授業? 寺子屋か」
教科書でしか聞いたことの無い言葉に、(まぐさ)は今日何度目か知らないため息を吐いた
学校の駐車場に荒々しくバイクを止めるが、後ろの老人は振り落とされる気配も無い
当然といえば当然だが
ちょうど三限終わりのチャイムがなって、艸はホッと息をつくが教室のある建物までそこそこ距離があるので、早歩きで目的地まで急ぐ
「ほお、大きな建物ばかりじゃ」
ここからは人目も多い。(まぐさ)はこの老人のことを極力忘れるようにした
「櫻もあるの……」
背後でそう囁くような声が聞こえ、少しだけ振り返ってみると老人は学内の桜の根元を杖でほじくっていた
放っておいても人に害は無いだろう。そう思い正面に向き直ろうとした途中、男子生徒の集団の中に少し前会ったばかりの金髪男の姿があった
(まぐさ)は咄嗟にもう一人の存在を探してしまったが、今は一緒に居ないらしい。そのことにほっとしながらも、その片割れとバッチリ目が合ってしまったことに舌打ちしながら逃げるようにその場を後にした



「どした? 葵」
「顔怖ぇーぞ?」
三限が同じだった友人達の声に、葵は止まった時間が動き出すような不思議な感覚に見舞われた
「別に」
咄嗟に何か答えなければと思って出した言葉は、逆効果だったようだ
「え? 何? 怒ってんの?」
「誰? あいつ」
「ロンゲとか無いわー」
葵が睨んでいた相手の背中を、友人達も無遠慮に覗き込み口々に感想のような悪口のような言葉を吐いていく
「何でもないって」
葵も決して好意的な視線を送っていたわけではないが、何も知らない奴等にどうこう言われるのも気に食わなくて、何とか話を逸らそうとしたところで聞きなれた声に名前を呼ばれ振り向く
葵も始めは驚いたその見てくれだが、今は似合っていると思い始めている
「ごめん、先生との話が長引いちゃって」
「いいって、いいって。四限行こうぜ」
「おー、行こ行こ」
(きょう)の到着で友人達の興味が艸から逸れた事に葵は内心ほっとして、教室へ急いだ
後は、友人達がさっきのことを蒸し返さないことを祈るばかりだ
なんとなく、今あったことを香に話してしまったら、昼間のような空気になるような気がして嫌だった
堅苦しいのとも、重苦しいとのも違う。かといって居心地がいいわけでもないあの空気は、葵にとって、そして何より(きょう)にとっても良いものには思えなかった
「うわっ!?」
「うぶっ!?」
急に上がった(きょう)の短い悲鳴に、振り返った葵が見たのは白い頭が自分の腹めがけて突っ込んできた瞬間だった
みぞおちに食らった(きょう)の頭突きよりも、おもいっきり尻餅をついたダメージの方が大きくて、声にならない悲鳴を上げる
どっと、周囲に笑いと二人を案じる声が混ざる
笑いのほうが確実に多かったのが解せない
「ご、ごめん、葵。大丈夫か?」
「だ、だいじょぶ……」
「でたー。(きょう)のおっちょこちょい」
「今日はもう出ないと思ってたわー」
ゲラゲラと笑いがおこる中、葵は(きょう)が膝をついて足元に手をやっていたのに気づく
「どした? 足挫いたか?」
「あ、いや。穴が……」
葵がいち早く(きょう)の足元を確認すると、確かに街路樹の根元付近に、大きくは無いが少し深めの穴が掘られていた
(きょう)はこれに足を突っ込んでバランスを崩したらしい
「誰だよこんなとこに穴掘ったヤツ。アブねーな」
「埋めとけ埋めとけ」
「いや、もう授業始まるって」
周りが口々に何か言っている間に、(きょう)はさっさと足元の穴に掘り返された土を戻して立ち上がる
「ごめんごめん。行こう?」
「おう」
(きょう)がそう声をかければ、バラバラに行動していた皆があっという間に揃えた様に動き出す
葵もズボンの土を両手ではたきながら立ち上がった
「本当にごめん……」
(きょう)が自分の手の平の土を控えめに掃いながら俯く
「もう慣れたっつの。気にすんな」
そう言って葵が笑うと、(きょう)は少し気まずそうにしながらも嬉しそうに笑い返した
そんな(きょう)の様子を見て、葵は自分の腹を見下ろし、ひとこと――
「でも、男のドジっ子属性は嬉しくねーな」
「悪かったな」


※※※


 授業が終わって早々、(まぐさ)がバイクを飛ばして着いた場所は老人にとっては未知の場所だったようだ
部屋に入った時からしきりに映像を流し続ける大きめのテレビ画面と、天井にぶら下がる銀のボールに目を奪われている
「ここがお主の部屋か? なんというか、狭いの」
「んなわけねぇだろ。カラオケボックスだ」
「からおけ?」
これ以上この場の説明を諦めた(まぐさ)は、あまり柔らかいとはいえないL字ソファに腰掛けた
(まぐさ)本人もカラオケなどほぼ初めてに近いのだが、今日は歌うために来たのではない
ここなら防音設備もしっかりしているし、利用時間が来るまで邪魔が入ることも無い。何より、自分の部屋によく分からないものを入れるのも抵抗があった
念のためこの部屋を一時間は取っておいたが、とっとと本題に入るべく、(まぐさ)は未だ落ち着きの無い老人に声をかけた
「で? お前の体、桜以外にもっと明確なアテはないのか?」
「……うむ」
「そもそも、一世紀近く探して見つからねぇならもう諦めろよ」
「いや、体を探し出したのは最近なのだ」
「?」
老人は部屋を見回し悩んだ挙句、(まぐさ)と同じようにソファに乗っかり正座をした
杖を膝の上に乗せ、両手でしっかりと握っている
そして、聞き取りやすいはっきりとした声で告げた
「儂は、もうすぐ消える」
このとき(まぐさ)にはいくつかの疑問が浮上したが、咄嗟に口をついたのはそっけない言葉だった
「そうか」
「軽いの、お主」
老人の少し拍子抜けした声色に、(まぐさ)はただただ首をかしげるだけである
「そもそもあんたみたいな奴は、自分の意思で消えるか、成仏するか、退治されるかしないと消えないものだと思っていた」
「そうなのか?」
「僕の勝手な感覚では、な」
(まぐさ)の言葉に白い髭を左右に揺らして首をかしげている老人の様子から、老人にもよく分からないのだろう
「消えるっていうのは分かるものなのか?」
「まあ、見れば分かるじゃろ?」
「はぁ……」
今すぐにでも死にそうな爺さんだということは。という言葉は(まぐさ)の心の中にとどめておく事にした
そもそも死んだ人間だ
「それで、どうして体を探すことになるんだ?」
「ふむ、あのひょろっこい男いわく、何者かが儂の体から魂魄を吸い取っているらしい」
ひょろっこい男、というのは恐らく(うばら)のことだろう
いつごろ(うばら)と知り合ったかは知らないが、一世紀も前に(うばら)が生きているはずも無いので本当に最近になって体を探し始めたらしい
「魂魄……。じゃあ今僕の目の前に居るお前は何なんだ?」
「うぐぐ、難しいことを聞くな。儂とてよく分からんのだ。……まぁ、あれだ。生気。は違うな。もう死んでおるし……。うむ、体力が吸い取られているというのが近いか……。とにかく体が思うように動かんくなってきているのだ」
「……年のせいじゃねぇか?」
「儂はそんなじじぃではないわ!」
どこをどう見ても仙人とも見まごう程の爺さんだが、本人にとってはそんなに年を取っているつもりは無いのだろう。言葉遣いはともかく、勢いは確かに若い
まだまだ現役。と喚く頑固親父に近い
ここまで聞いて、(まぐさ)には根本的な疑問が浮かんだ
「とりあえず体探しは手伝うが、見つけたらどうするんだ?」
「ん? 見つけたら今まで通りに――」
「そうじゃねぇ。体を見つけるだけでお前は元に戻るのか? 何者かがお前の体力を奪っているのだとしたら、そいつと一戦交える可能性もあるんじゃないのか?」
「……」
黙りこくってしまった老人に、(まぐさ)は老人がそこまで考えがいたっていなかったことを知る
見つけたら終わりだと思っていたのだろう
実際、(まぐさ)もそれで済めばいいと思っているが、あの(うばら)が押し付けてきたことだ。何かしらあると思っておいたほうがいい
(まぐさ)はそっとベルト通しに差し込んであるペーパーナイフ、いや『夜宵(やよい)』に触れた
獏鬼(ばくき)』の件でこの短刀のこともすっかり失念していたが、この短刀は(まぐさ)にとって唯一の対抗手段だ
生まれのせいもあって護身術程度のことは叩き込まれているが、あくまで身を守るすべでしかない
一戦交える。など簡単に口にしたが――
咄嗟に昨日の悪夢が脳裏を掠めた
そして、一昨日の(うばら)の言葉
―― 「それにしても、記憶を失っていても本能というものは失われないみたいだね。記憶を失ってからも君は『夜宵』と、そのペンダントだけは手放さなかったんだから……」――
コートの上からペンダントを握り締めるように指に力を入れた
その様子が、老人には胸を苦しそうに押さえているように見えたらしい。シミだらけの皮に骨の浮き出た手を(まぐさ)のほうへ伸ばす
「おい、大丈夫か」
「触るなっ!」
老人の手は亀のように引っ込んだ
沈黙に似合わず部屋はカラフルなライトが回っている
こんなところで一人でしゃべって、怒鳴って、他人から見たら気が狂ったようにしか見えないだろう。しかしそんな事をいちいち憂いるほど、(まぐさ)も幼くは無かった
「わりぃ。(うばら)になんて言われたか知らんが、僕はただの人間なんだ。お前みたいな奴らに本当は関わりたくもねぇ。嫌いなんだ、面倒なことは。昔から……」
老人は石のごとく黙っていた
しかし、急にその沈黙を破ったのも老人だった
「儂は、生きていたときの記憶がほとんど無い。憶えとるのは毎日のように剣を握っていたこと、天涯孤独だったことくらいじゃ」
「……」
「だが、死んで。つまり霊体になってから、……恋をした」
「……」
(まぐさ)は何の話だ、とツッコミを入れたかったが、老人に視線を上げた時に初めてその老人の目を見た
今まで頭髪だか髭だかで顔どころかほぼ全身が隠れていたのだが、このタイミングで老人の真剣な目を見てしまったものだから、今度は(まぐさ)が黙ってしまった
「儂も興味の無いことには一切精進せぬような性格での、要するに面倒くさがりだったのじゃ。生前もきっと剣の腕を磨くことばかりに打ち込んで恋などしなかったのであろう。
しかし、儂が霊体になって目覚めた時、目の前にあった屋敷に何となく入っていった儂が見たのはこの世のものとは思えぬほど美しい女性であった。既に死んでおる儂が言うのもなんだが、深窓の姫君、というのはまさに彼女のことを言うのであろう。墨が波打つように艶やかな髪とは反対に雪のように白い肌、そしてどこか憂いたような瞳が、いつか儂を見てくれぬものかと、傍で心躍らせておった。
霊体であることを良い事に、様々なものをとってきて彼女の部屋に差し入れた。花、木の実、河原のきれいな石。彼女の周りの人間は気味悪がって儂を退治する者を呼ぼうとしたが、彼女はそれを制して好きにさせてくれた。きっと滅多に部屋から出られない彼女は儂の持ってくるものが気に入ってくれているのだと、儂はなお色々なものを集めた
だがな、ある春の日、桜の枝を届けたときに、彼女は今までと違う反応をした
寂しそうに笑って、桜の枝に向かって言ったのだ
「いつもありがとうございます。しかし、桜の枝を折るのはこれっきりにしてください。桜は病気にかかりやすい木ですから、こんなことをしたら枯れてしまいます。それに、あの人を思い出してしまって……」
そう言って、悲しそうに笑ったのだ
その直ぐ後だったかの、彼女がいつもの部屋から居なくなり、屋敷の者が彼女が亡くなったと話しておったのは
儂は悲しくもあったが、心のどこかで儂と同じ存在となって対面できるのではないか、と喜んでおった。まぁ、そううまく行かんかったが……」
「……まさかとは思うが、体探しの前はその女の霊を探してたんじゃねぇだろうな?」
「……」
昔の恋愛の形は知らないが、長い惚気、いやストーカとも取れるような日々を長々と語ってこの老人は何が言いたいのか、(まぐさ)にはさっぱり分からなかった
老人のあの真剣な目は(まぐさ)の気のせいか、単なる勘違いか、と思い始めたとき、老人はひとつ咳払いをして姿勢を正した
「要するに、だ。儂同様にお主が面倒なことだといいながらもこうして手を貸してくれるのは、その面倒すらも意に成さぬほど何か強い意志があるのだろう? それがあの男とどう関係しているか知らんが、案ずるな。お主の身を危険にさらしたりせぬ」
(まぐさ)はもう一度その感覚を確かめるように、ペンダントを握り締めた
「……そんな綺麗なもんじゃねぇよ、僕のは」
泥水を吐き出すようなその苦々しい声に、老人はひとつゆっくり息を吐いて(まぐさ)を見つめた
「そうか?」
「そうだよ……」
「儂には、そうは思えん」
「……知らねぇだろ」
「知らん。が、何となく感じるのだ。この姿になって時々思うのだ、体とはまさに殻なのではないかと。他人の気持ちや感情から己を守るため、自分の感情や思いを相手から守るための殻
だからかの、生きている時は他人の気持ちなどこれっぽちも分からんかったし、相手にもこれっぽっちも伝わってくれなんだ、……と思う。だがな、こうなってから何となく、分かる気がするのだ。己の感情や思いがむき出しになった変わりに相手の感情や思いもなんとなく触れられるような、……うまく、言えぬが……」
(まぐさ)は俯いて黙っていたが、やがて握り締めていた手をゆっくり解いた
コートについてしまったシワを軽く伸ばしてやる
「勝手に言ってろ」
席を立った(まぐさ)に老人は慌てたように椅子から降りた
「どこへ行く?」
「帰る」
「ま、待て。儂の体は――」
「今日はもう遅いから明日だ」
その言葉に老人は少しほっとしたようだった
しかし、直ぐにはて、と首をかしげて
「ところで、儂は明日までどこで寝泊りすればよいのだ?」
「知るか。その辺で寝てろ。どうせ視えないんだからよ」
「何おぅ!?」
「部屋についてきたら祓うからな」
「お、お主。そんな事が出来たのか!? どこがただの人間じゃ!!」
(まぐさ)にだけ聞こえる示談の声は、結局部屋の前に着くまで止まなかった


※※※


 ベランダにつながるガラス戸には無数の水滴が張り付き、しきりに涙のように流れ落ちて、震えている
空は灰色に黒がにじむような雲で一面覆われで、時折稲妻が走っているのが見える
「まさか、このようなことになるとは……」
老人はベランダの隅で曇天の空を見上げている
(まぐさ)はそんな老人の言葉に付け足すようにつぶやいた
「この天気じゃ、体を探しにいくどころか、桜が散っちまうな……」
リビングのテレビ画面は、昨日のカラオケボックスの数倍の広さで天気予報を映している
台風が来ているらしい
最近色々あって天気など気にしている場合ではなかった(まぐさ)には、寝耳に水の話だ
先ほど学校から授業が休講になるメールも届いたので、こうしてソファに腰を沈めコーヒーサーバーから注いだばかりの湯気立つ温かいコーヒーを飲んでいる
外とはうって変わって優雅なものだ
結局老人は(まぐさ)の部屋のベランダに居る。昨日、あのまま部屋まで着いて来てしまった老人に、セキュリティや防犯システムが効くわけもなく、ドアの前かベランダで手をうってもらうことにしたのだ
老人はベランダを選んだ
霊体に雨など関係ないが、窓を叩く雨の音に目を覚ました(まぐさ)がいつもどおりリビングに来て、ベランダに雨に打たれながら座っている老人の姿に、思わず驚いてしまったことは言うまでも無い
「儂だけでも探してくる。お主は危険ゆえここにおられよ」
「当たり前だ」
「……もう少し、気の利いた言葉をかけてくれても良いとは思わんか?」
「知るか」
「まぁ良いわ。御免」
そう言って八階のベランダから飛び降りた老人を見送り、テレビに目を戻す
ふと、静寂が(まぐさ)に耳についた
外の雨は飽きずにガラスを叩いているし、時折地震のような轟音も空を走っている。テレビからは絶えず天気予報のアナウンサーが危険勧告を促している。にもかかわらず、急に一人になった寂しさのようなものが迫る
(まぐさ)は急に情けなくなってため息を吐いた
もともと、一人だったというのに
そういえば、居る部屋は違っても誰かと同じ屋根の下で過ごしたのは何年ぶりだったろうか、と(まぐさ)は思った
実家に居る時は、そんな事を考える余裕もなく早く家を出て行きたい一心だった
同じ屋根の下の団欒、というのを知ったのは……
そこまで考えて、(まぐさ)はふと意識を浮上させた
空になったマグカップに新たにコーヒーを注ごうとソファから腰を上げる
何となくベランダに目をやるが、当然老人の姿は無い
「桜、か」
毎年気づけば散っているような花に、今年はやけに縁があるな。と思いながら、寝室にあるノートパソコンを取ってきて、「百年前 桜」というなんともアバウトなキーワードで調べ始めた



 老人が帰ってきたのは夕方になってからだった
一日中厚い灰色の雲に覆われた空では、時間感覚もはっきりしなくて気がつけば一日を終えようとしていた
老人の様子から収穫は無かったらしい
(まぐさ)もそうだったが
「駄目じゃ……。この辺りは櫻の木が多すぎる」
「まぁ、今じゃ桜の木は学校やら河原やらに当然のごとく植えられるものだからな」
「そうか。なんというか儂にはもっと遠いものに思っておった……」
この老人の生きていた時代ではまだそこまで出回っていなかったのかもしれない
それならば逆に探しやすそうなものだが、いくらなんでも一世紀の時間の経過は大きすぎた
いくら今の情報網がすごくても、一世紀前の桜の分布図なんてあるわけもないし、あったら驚きだ
そもそも、この地域を中心に探しているがこの地域にその桜の木があるかすらも怪しい
いい加減お手上げ状態になってきた艸が、軽く伸びをした時、ふと老人が何かぶつぶつとつぶやいているのに気がついた
雨音にかき消されてしまってうまく聞き取れないが、その様子は以前茨(うばら)と会ったあの時のことを(まぐさ)に思い返させた
老人が生きていた時のことを思い出そうとして、壊れた機械のようになった瞬間
―― そういえば……
「雨……」
老人は桜の花と思われる言葉の後、雨と言っていた
その後の言葉は言葉として聞き取れるようなものではなかったが、確かに「雨」という言葉は聞こえたのだ
「桜」と「雨」
それでも場所を特定するには足りない
そこで(まぐさ)は「おかしい」と思った
これだけ特定できないことをあの(うばら)が無責任に(まぐさ)に押し付けるだろうか?
(うばら)は今回の件に関して「断れない依頼人」と言った。つまり成功させなければならないはずだ
そして、(まぐさ)は学生である。そのことは(うばら)も理解している
現に、(うばら)(まぐさ)を呼び出したとき(まぐさ)の授業の有無を気にかけるような言葉をかけた
つまり、(まぐさ)は学校がある分、簡単にはこの地域から遠くには足を運べないことを(うばら)は知っている
(まぐさ)が学校を省みず人助け、いや霊助けをするような人間ではないことも
つまり、この老人の体がこの地域付近にあることを知っていて(まぐさ)にこの依頼を押し付けたのだとしたら……
(まぐさ)は再びノートパソコンを開き、今度はこの地域の過去の地形を調べた
地域を限定できれば百年前くらいの地図もギリギリ調べられた。この辺りは昔もそこそこ栄えていたようで、民家の集まりも広い。山のあったところは今も山のままのところが多いようだ
しかし桜の分布まではさすがに分からない
仕方なく、この地域で有名な桜で調べてみることにした
しかし、(まぐさ)の記憶が正しければ桜の寿命は人と同じくらいかそれ以上だったはず
百年程度では逆に足りないという、今までと正反対な悩みが出てきてしまった
有名な桜はいくつか寺や施設の所有物として紹介されていた
後はごく最近の記事に遅咲きの桜がピックアップされていた
この地域の森林公園にある桜のひとつが他より遅咲きで、鮮やかな桃色の花を満開にさせているということだ
記事が書かれたのは一昨日。艸が悪夢で丸一日寝つぶしてしまった日だ
昨日の時点で学校の桜はほとんど散りかけていたことを思えば、確かに遅咲きなのだろう
写真も載っている。最大までズームして撮ったためか若干荒い写真だが、木々の隙間から顔を出すように鮮やかなピンクが見える
本当にここ最近のことを何も知らないという事実に、(まぐさ)は短いため息をついた
「きゃあああぁぁあ!」
「!?」
急に女の金切り声が聞こえて、慌てて顔を上げると目の前の大画面に雪崩が迫ってきていた
依然と悲鳴を上げ続ける女が、背後から迫る雪崩に飲み込まれていくのを最後に一旦ブラックアウトして、番組のタイトルがでかでかと映し出される
どうやら刑事ドラマのワンシーンのようだ
たかがCMに驚いてしまった自分を情けなく思いながら、(まぐさ)は再びノートパソコンに視線を戻そうとした
「い、今の……」
その声があまりにも近くから聞こえたものだから、また慌てて顔を上げる羽目になった
ベランダに居たはずの老人が、テレビの前に居る
「おい! 部屋には入るなと――」
不覚にも二重に驚かされてしまった(まぐさ)は八つ当たりのように老人に怒鳴りつけようとしたが、老人の様子がおかしい事に気づいて言葉が詰まる
老人は今もテレビ画面を見上げていたが、その瞳はテレビを見てはいなかった
「そ、うじゃ、わ、わし、は……雨、あめの日、に山へ……」
「山!?」
老人から新たに出てきた言葉に、(まぐさ)は思わず反復する
「あ、あのか、かた、ににに、ああああ、く、くずれれれるるるるっ!」
「おいっ!?」
それは、以前みた混乱とは比べ物にならないものだった
地震のような揺れを確かに足裏に感じ、ソファの横に積んであった本が崩れる。キッチンに下げられた鍋やらフライパンやらが壁を叩き、調味料が転がっていく
天井に叫ぶ老人の白い体毛が一部赤い筋をつくっていて、(まぐさ)は以外にも冷静に幽霊でも血を流すのか、などと考えていたが、それは単なる現実逃避だったのだろう
激しい揺れに艸はソファから立ち上がれないまま、頭痛のような痛みと耳鳴り、平衡感覚の歪みに耐えた
短かったのか、長かったのか
テレビは何事も無かったように番組を映している
重い頭を何とか持ち上げ、(まぐさ)は部屋を見渡した
足元に本が散乱している
ノートパソコンは無事だろうか
キッチンなど見るも無残
(まぐさ)は物が少ない部屋だったことにつくづく感謝していた
そして、老人はいた
ベランダに立ち尽くし、ゆっくり(まぐさ)を振り返る
(まぐさ)は反射的に身構えた
しかし、老人は血に染まった髭を少し上に持ち上げた
笑った
(まぐさ)にはそう視えた
「思い、出した」


※※※


 雨が頬を打つ、風が行く手を拒む
張り付く髪をはらい、バタバタと騒がしいレインコートを押さえる
咄嗟に持ってきたライト付きの充電器で前方を照らしてもあっという間に闇に飲まれる
「くそっ」
(まぐさ)は走っていた
腰丈ほどもある雑草をかき分け、木々の合間の縫っていく
「おい! 爺さん!」
口の中で雨がはじく
顔を叩いているのが雨なのか木の葉なのかも分からない
目も開けていられないような雨風だったが、目を開けていなければ見失ってしまいそうだった
真っ赤な椿にも似た花びらが風に散らされている
この暗闇でもその花びらだけは発光しているように赤赤く、(まぐさ)はその花びらだけを頼りに走っていた
そして、(まぐさ)は確かに視た
桜、真っ赤に色づき提灯のような淡い光りを帯びた桜の木
そして――
「爺さんっ!!」
その声は届いただろうか
ぐしゃりと嫌な音が足元から這い上がり、ふっと飛び上がった
違う
落ちている
それは雷よりも豪快に地響きを鳴らし
雨よりも豪快に全身を土が叩く
不気味に、美しい赤
その桜の根を死に物狂いで掴んだ――


―― 永くありたかったのではない、永く愛されたかった ――


※※※


「桜ってのは、可哀想なもんだと思うんですよ」
(まぐさ)は暗黒色の木の天井を見上げながら聞き覚えのある声を聞いた
「一時愛されて、春が過ぎれば見向きもされない」
視界に映る黒が、天井なのか瞼の裏なのか
「いっそ他の樹木と同じくただそこにあるものなら良かったのにねぇ」
……それでも、言っていた
「儂は、そうは思わん」
永くありたいのではなく
「儂の魂魄を吸ってでも、あの桜は」
―― 永く愛されたかったのだ 


※※※


さすがに見慣れてきた天井が、そこにはあった
(まぐさ)はいつものように気だるい体を起こす
自分の部屋、自分のベッド
なぜか、そのいつもどおりが違和感だった
ふと見た手のひらに赤い色を見つけて思わずぎょっとする
しかし、よくよく見るとそれは花びらだった
椿のような赤色をしたその花びらは、しかし桜の形に似ていた
―― そうだ
(まぐさ)は慌てて寝室から出たが、不意にリビングから人の声が聞こえて足を止める
慎重にドアを少しだけ開けて部屋の様子を覗くと、テレビがついていた
そのニュース画面にあの森林公園が映っていて思わず身を乗り出す
「ふあぁ」
大きなあくびにハッとして(まぐさ)はテレビから少し下に視線を落とすと、砂色のぼさぼさな頭がソファからゆっくり顔を出した
「う、(うばら)……!?」
「あ、起きた? 目ぇ覚めて良かったねぇ」
そう言って(うばら)はクマに覆われた瞳を歪ませて笑った



 ニュースは森林公園で土砂崩れがあったということを告げていた
その崩れた岩肌と、土の山、そしてそれに埋もれて折れた大きな木片が(まぐさ)の視界に入ってくる
今になってよくよく考えてみれば分かったことだ
あの遅咲きの桜の写真が限界までズームされて撮られていたこと
近寄って撮らなかったんじゃない。近寄れなかったんだ
崖のはるか上に咲いた桜だったから
「あそこから落ちて擦過傷で済んだんだから、君ってほんと運がいいよねぇ」
「誰のせいだ」
「君の不注意でしょ? 何で追いかけたりしたの?」
そう、あの後、記憶が戻ったといって消えた老人を追って(まぐさ)はあの森林公園までバイクを飛ばし、森の中を駆け回った
あの時は、なぜかそこしかないと思ったのだ
そして崖から滑り落ちた
今、こうして痛みも無い状態でいられるのは恐らく――
「お前が治療したのか?」
「後で治療費請求するからねぇ」
「どうして?」
「どうしてって……、さすがに君が怪我をすることまでは依頼人も思ってなかったみたいでね。頼まれたんだよ、治療してくれって」
「だろうな。お前は頼まれねぇと仕事しねぇ奴だ」
(まぐさ)はやはり、と思いながらも何かが引っかかったが、今はそこまで考えるほど心に余裕が無かった
「……爺さんは?」
「さぁ? 成仏したんじゃない?」
「そうか……」
「……珍しいね。感情移入しているのかい?」
「いや……」
感情移入とは違う気がした
ソファを(うばら)に占領された(まぐさ)は、キッチンで転がった調味料の瓶を拾って片付ける
そうやってこの感情に当てはまりそうな言葉を探すが、これといって思いつかなかった
「さてと……」
どっこいしょ、と気だるげにソファからから立ち上がった(うばら)はボリボリと頭をかく
後でソファはカバーをはずしてクリーニング行きだ
(まぐさ)ちゃんも無事目覚めたことだし、ボク忙しいからもう行くね」
「別に治療し終わってたんなら、とっとと行けばよかったろうが」
「あのねぇ、今日目覚めなかったら君、危なかったんだけど?」
ひくりと眉間にしわを寄せた(まぐさ)に、(うばら)は嫌みったらしい笑顔を向けた
「君に死なれちゃったら、ボクの一番の金ヅルがパァだからね」
そう言って歯を見せて笑うと、さっさとドアのほうへ歩いていった
その背中は相変わらず頼りなく、ひょろ長い
「一応、礼は言っておく」
「いらなぁい。お金よろしくぅ」
そして、扉は閉まった
つきっぱなしのテレビを横目に、ベランダに出る
あの日と違って空はすっかり青に様変わりしている
風はまだ強いが、少し前まで見渡せば町にちらほら見えていた桃色が跡形も無い
やはりあの台風ですべて散ってしまったのだろう
桜の花が散ることに、こんな気持ちになるのは何年ぶりだろう
(まぐさ)はただ、眼下の町を眺めていた


※※※


 さわさわと温かい風が木々をなでていく
(うばら)は目をこすりながら足場の悪い山道を登っていく
背の高い雑草に埋もれながらも隣を歩く茱萸(しゅゆ)は、時折足をとられながら歩く(うばら)を時折見上げながら後ろを歩いていた
伸び放題の雑草たちはしずくを散らしながら揺れ、歩みを進めるたびに土の匂いがむんと鼻に満ちる
しばらく草木を掻き分けて進むと開けた石段の続く道に出て、茨はため息をひとつついてから一歩一歩石段を上り始めた
石段の先には、さらに開けた土地があり門をくぐると黒木でしっかりとしたつくりの寺がある
雨に打たれた後の瓦はつやつやと海の波のように輝いていた
(うばら)が昨日見た時はもっと荒廃していたような気もして、過去の記憶を掘り返しながら建物に目を一巡させる
「お疲れ様です」
木のつっかけを履き捨て、寺内に続く階段に茨が足をかけたとき、その鈴の音のような声は降ってきた
(うばら)は少し肩をすくめて「どーも」とだけ返す
「それで、どうでした?」
「どうって、(まぐさ)ちゃんのことですか?」
「それはいいです。あなたは仕事をしくじりませんから」
はあ、とため息のような返事のような声をこぼす(うばら)に、その人は続きを促す
一呼吸置いてから、(うばら)は天井を仰いでつぶやいた
「やっぱり、でしたね」
「……そうですか」
何か考え込むようにその人は沈黙をとって、やがて口を開いた
「よろしくお願いします」
「……はい」
茱萸(しゅゆ)はようやく靴を脱ぎ終わったのか、駆け足で(うばら)に駆け寄る
その少女の頭を、その人の白い手が優しくなでた
(うばら)のこと、よろしくお願いしますね」
その言葉に茱萸(しゅゆ)は小さく顎を引く
それを確認すると、その人はすっと口に孤を描いた
そして、思い出したというように口を開く
「ああ、それと、もし必要ならうちの子も使ってくれていいですよ」
「うちの子って……」
「ええ、ネズ(杜松)!」
その人がピンと空気を張るような声を出せば、呼ばれた青年は雑巾がけを止めて、駆け寄ってきた
灰色の固そうな髪を、後頭部の高い位置でひとつに結ったガタイの良い青年は、はきはきと元気な声を張った
「儂に用ですかの、旦那!」

花たちが咲うとき 二

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花たちが咲うとき 二

桜散る 翁は思う、彼女と死を・・・・・・

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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