【オーバーホールに魅せられて】

楪 花梨

 ピアノの修理工房で修行していた頃、師匠に口煩く……いや、厳しく言われていたことがある。結果的には、その言葉が私の人生を変えてしまったと言えるだろう。

「オーバーホールに限らず、どんな修理でも、可能な限り記録を取らないとダメだ。バラす前、バラしてる経過、どんな些細なことも見逃すなよ……」
 つまり、修復作業においては、「何が」「どこに」「どのように」あったのかを見失うと、現状回復は不可能なのだ。
 どんな物でも、一つ一つの構成部品には意味や理由があり、役割や目的がある。木材一つを取ってみても、その種類や質、木目の向き、含水率等、全てを把握する必要があるのだ。すると、必然的に「何故?」という疑問が湧いてくる。
 師匠の言葉の真意は、きっとここにあるのだ。そう、疑問は探求に繋がる。つまり、あらゆる記録を取ることにより本質が見えてくる、その本質を理解することが大切だ……それこそ、師匠が言いたかったことだろう。
 ところが、この記録を取るという行為が、やってみると思った以上に困難な作業だったのだ。出来る限りのことはしたつもりでも、修復中に「ここは何ミリだった?」「このネジはどこについていた?」「ここのレザーはどっちが順目だ?」……等、答えられない質問に合うことが頻繁にあった。
 答えられない……つまり、記録が不十分だったという判断。そして、いつも怒られたものだ。

 そこで、オーバーホールの練習のつもりで、あらゆる物をバラバラに解体し、詳細な記録を取り、組み立て直してみようと思い立った。まずは、ピアノ以外の楽器で試してみることにし、愛用しているバイオリンをバラバラにしてみた。
 ピアノに比べると、弦楽器の部品数は圧倒的に少ないので、記録を取るのは非常に楽に感じた。ところが、その記録を参照しながら再び組み立て直してみると、元の楽器から程遠い、何とも不快な音色になってしまった。
 きちんと記録を取り、参照しながら元通りに戻したつもりなのに……
 愛器の無惨な結末を残念に思う以上に、元通りにならなかったことが悔しくて、何度も組み立て直してみたのだが、どうやっても思うような音は出してくれないのだ。

 そこで、独自にバイオリン製作のノウハウを学び、それぞれのパーツの素材について、その意味や役割を勉強した。使用する膠やニスも追求し、10mmと10.0mmの違いを知った。また、木目と振動伝播の関係も学び、胴内の共鳴効果と空気振動の関連性を知った。
 そして、寸法だけに捕らわれず、木材の質感による感覚を優先し、良い響きをイメージしながら組み立ててみると、全く同じではないにしろ、ようやく私の愛器は自分の声を取り戻したのだ。
 そう、記録を取るということは、単に物理的な数値や現象を把握することではないのだ。数値化しようのない、感覚やイメージを伴ってこそ記録の意味があり、むしろそちらの方がずっと大切なのだ。

 そのことに気付いてからというものの、オーバーホールに生き甲斐を見い出してしまった私は、ありとあらゆる物に手を付け始めた。家具や子供の玩具に始まり、それらが上手くいくと、どんどんとオーバーホールの欲望はエスカレートし、より複雑でより大きな物を求めるようになった。
 いつしか仕事も辞め、一日中何かを解体し、記録を取り、組み立て直すという作業に明け暮れるようになった。家中の家電は、全て二回ローテーションしたし、車もやってみた。
 挙げ句の果てには、家もオーバーホールしてみたいという衝動に駆られ、解体に取り掛かろうとしたのだが、それまでは呆れつつも我慢していた妻が、ついに子供を連れて実家に帰ると言い出した。

 いや、それだけはちょっと待ってくれ、今出て行かれたら困る……
 仕事を投げ出し、一日中無意味な作業に明け暮れる私は、いつしか貯金も使い果たし、妻の収入に依存していたのだ。妻は呆れ果ててはいたものの、それでも生活の為に懸命に働き、いつか私が職に戻ることを信じ、黙認してくれていたのだ。
 しかし、住むところまで解体されるとなると……妻の激しい抵抗に、さすがに私も過ちに気付き、反省した。絶対に家には手を出さないと約束し、そろそろ仕事も始める意思があることを伝え、深く謝罪した。
 そういうことで、どうにか妻を引き止めることは出来たのだが、家のオーバーホールは断念せざるを得ないだろう。いや、もうこんな馬鹿げた作業に没頭している場合ではない。働かなければ……ようやく目が覚めた気分だ。
 しかし、その前に、最後の目標だけはどうしても達成しておきたい……これを最後にする決意を固め、どうしてもやり遂げたかったオーバーホールの計画を練った。

 その日の夜、静かな寝息を立てる妻と子供の寝顔を覗き込み、さてどちらから始めようかと、つい笑みを溢してしまった。

【オーバーホールに魅せられて】

【オーバーホールに魅せられて】

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted