夜明け頃に

 握り合う手のひらが、少しだけ汗ばんでいる。尾の長い寒さがくすぶっていたけれど、ようやく春が重い腰を上げたらしい。柔らかな日差しが目映い。
 風が強い。寝癖のついている奏多の髪が、風に揺れている。何に興味を持ったのか、親指を口に入れながら、足元をじっと見つめている。そんな奏多を、急かすことなく誘導していく。
 初めての子だった。それはもう、かわいくてしょうがない。どんな仕草も愛らしい。見ていて、飽きることがない。夫と二人で、ベビーベッドの中をいつまでも覗き合っていた。
 今年で、三才になる。とっくに歩けるようになったし、色んな言葉を話すようになった。私や夫の話す言葉を聞いて、意味が分かるものも分からないものも口にして、いつも笑わせてくれる。
 公園の近くまで来た。井上さんたちは、もう来ているかしら。
 はたして、井上さんたちが談笑する声が聞こえてきた。姿は見えない。掃除用具でも入っているのか、公園内の白塗りの倉庫が私と彼女らを隔てている。見えたら挨拶しよう――そう思って、足を止めた。私の名前が出てきたからだ。
「土屋さん、付き合い悪くない?」
 そう言ったのは、井上さんだ。この公園に子どもを連れて来るママ友の中で、最年長。舌もよく回る人で、グループの中心になっている。
「そうそう、この間、カーヴィーダンス教室にあの子も誘ってあげたのに、ろくに話も聞かないで断られたわ」
「ええ、ひどいわね」
「それに、話しててもにこにこしてるだけで、ろくすっぽ話に入ってこないものね」
「なんか、バカにされてるみたい」
 その後も、他の人たちの同調する声が、絶えず流れる湯のように続いていく。甲高い声と、間延びした語尾が頭の中で反響する。
 そんなに言うほどだったろうか。そんなにむげに誘いをはねのけたつもりはない。話に上手く入れないのは、そういう性格なのだ。それに、歳の差も少しばかりある。
忙しく思考が巡った。聞かなかったことにして、彼女らの輪に入ろうか。それとも、無理に付き合いを良くする必要もないのだ、彼女らを無視して、公園の端っこに行こうか。あるいは、今日は出直そうか。奏多は不満を口にするかもしれないが、何かお菓子でも買ってあげれば機嫌を直すだろう。
 だが現実には、私の足はいずれの方針も選べなくて、動かない、動けない。
 母親が変なことを手の感触越しに感じ取ったのか、奏多は私をじっと見つめてくる。感じ取るも何も、公園を目前にして立ちすくんで、違和感を覚えないわけがないか。
 どうしよう、奏多を遊ばせてあげたい。小さい頃に、外でどれだけ遊ばせたかが、成長において大切なことだと、育児本に書かれていた。小さな積み重ねが、大きな差となって現れるのだと謳っていた。盲信しているわけじゃないけど、後になって後悔したくない。
 一日くらいいいじゃないか、今日は帰ろう。――それじゃあ、明日からはどうする。家の近所に、公園はここしかない。――なぜか、近くの中学校が思い浮かんだけど、使えないだろう。
 意気地のない自問自答を繰り返す。私は昔から意気地がなかった。甘えん坊だった。
 人付き合いを面倒に思ってしまう性質だった。そのくせ、良好な人間関係を望んだ。学生の頃からの情けない性癖が、この歳になっても抜けない。
 もう、誰かが助けてくれる時代は終わったというのに。私は一児の母じゃないか。こんなに弱くていいのか。
 それでも、まだ足が動かない。信じられないほど、立ちすくんでいる。
 奏多は、相変わらず黙って私を見上げている。その瞳は、慰めるようにも、咎めるようにも見えた。
 ――不意に、誰かの気配を感じた。誰かが、傍まで来ている。そして、私の中の何かいらないものを壊してくれた。
「大丈夫? 孤独に酔ってない?」

*     *

 胸が窮屈だった。にやけてしまうような、甘い意味では一切なく。
 教室内にはいくつかのグループが形成されていて、私はどれにも属すことなく、風景の中から切り取られたように取り残されている。
 今からでも、どこかのグループに混ざろうとすればできるのかもしれない。でも、話しかけにいって、何で? って顔をされるのが嫌だった。怖かった。そんなの、考えすぎだって分かっている。分かっていても、自分の殻を守ろうとするいらない矜持が邪魔をする。何かと理由をつけて自分を納得させ、変わらない状況に妥協してしまう。
 周りの楽しそうな声は、遮ろうとしてもよく聞こえた。内容が頭に入ってこない代わりに、音量が大きめに響いた。「寂しさは鳴る」って、こういうことなのかな。
 どうして私なのだろう。上手く溶け込めない可哀相な子が、どうして私だったのだろう。他にも、いくらでもこのクラスには人がいるじゃないか。
 こんな私を、心の底から同情する。
 だけど私は、こんな私が嫌いだ。

「大丈夫? 孤独に酔ってない?」
 彼女に会ったのは、やはり一人で何かに怯えるように生きているときだった。行儀よく座って机と見つめ合っていたら、いきなり話しかけられた。
「え?」私は顔を上げた。「酔う?」
 意味が分からなくて、聞き返した。
 正面に立っていたその人は、余裕を漂わせる笑みを浮かべていた。その笑みは涼やかで、とても美しかった。背がそんなに高くなくて、切り揃えられたショートカットはあどけないはずなのに、落ち着き払った彼女には、付け入る隙みたいなものが見当たらなかった。
 確か、学級委員の人だ。名前は――なんだったっけ。
「金山さん、よね? 下の名前は?」
 少し間を置いて、節子、と答えた。
 あなたは? と問わぬうちから、彼女は教えてくれた。吸い込まれそうになる瞳が印象的だった。
「私は、川島世明。世の中の世に、明るい、で世明」
 変わった名前でしょ、と言って、自嘲気味な微笑みを添えた。

 世明は学級委員だったが、表立ってあれこれと口を出したりはしていなかった。クラスのプラス要素を増長させていこうとするよりも、マイナス要素を消すことに陰ながら尽力しているようだった。
 そして、一人でいることが多かった。私は気付かなかった。――気付かなかったのは、その姿から寂しさの類いがまるで感じられなかったからだ。
 世明は強かった。どんな人生を送ってきたのか不思議に感じるほどに、本当に同い年か疑いたくなるほどに――見た目は、間違いなく同い年だけど――精神的に周りの人を上回っていた。背もたれに身を委ねない、そんな強さを持っていた。
 私は、彼女に憧れていたのだと思う。気付けば、世明と一緒にいることが多くなっていた。

 図書室、次いで理科室の横を通過していく。背中越しに喧騒が届く。受験勉強に追われている三年生たちの笑い声。気兼ねする先輩という存在がいない彼らは、受験のせいで限られている最後の一年を謳歌するように楽しげだ。
 廊下の奥にある音楽室の扉を開ける。
「こんにちは」
 先輩方を認めて、挨拶をする。挨拶が返ってくる。早い方だったようで、まだ数人しか来ていなかった。――ただ、世明はいた。窓越しの風景に向かって、フルートの音色を奏でていた。
 部活に入るつもりはなかった。得意なことはないし、人付き合いも苦手だったから、帰宅部で三年間終わるものだと、自分で考えていた。
 吹奏楽部に入ったのは、世明に誘われたからだった。彼女自身は小学校からやっていたそうだが、ウチの吹奏楽部は中学から始める人がほとんどだから、今からでも大丈夫だと教えてくれた。音楽はわりかし好きだったし、それに、世明がいるのなら、と私にしてはすんなりと入部を決めた。
 窓と向き合っている世明は、私に気付いていないらしい。一心に吹いている。――フルートに唇をあてている彼女の姿は、とても美しかった。まさしく、絵に描いたように。
 すると吹きやめて、私の方を振り返った。小さく笑っている。気付いていたようだ。そういえば、大きめの窓に私の全身がうっすらと映っている。
「ムーンライト・セレナーデ、いい曲よね。……ゆったりしていて、癒される」
 うっとりしたように、呟く。『ムーンライト・セレナーデ』は、今年のコンクールの課題曲だ。私はまだ通して吹けないけど、世明はほぼ完璧にこなせる。
 私はケースからマウスピースを取り出した。中に入っている楽器は、ホルン。ホルンになった理由は、特に希望のなかった私に、人数が不足していたその楽器が回ってきたからだ。
 世明の隣に立って、マウスピースをブーブー鳴らす。金管楽器を吹くのにはコツがいる。まず、この手のひらよりも小さい吹き口をマスターしなければならない。
「世を明るくして欲しい」
 正面を向いたまま、世明がぽつりと漏らした。え? と、その真意をただすために聞き返す。
「私の名前の由来。親が、そう望んだのよ。世の中を明るくするような人になって欲しい、って」
 直接、聞いたことはないんだけどね、と寂しそうに最後を結ぶ。――彼女の両親は、すでにこの世の人ではない。
「……だから、私に話しかけたの? あの日」
 世明は首を振って、笑った。
「別に、親の願いに忠実であろうと思ったから、ってわけじゃないのよ。あの日、話しかけたのは――」いったん、言葉を切る。「いじめられてもいないのに、打ちのめされたような顔をしてたから、醒ましてあげただけ」
「酔いから?」
「そう、酔いから」
 マウスピースの音が、話の合間を埋める。ブーブー、と。情けない音が普通だ。情けなくていい、楽器と一つになれば、きれいな音が出るから。
「世を明るくするなんて、そんな大それたこと私にはできないけどね」でも、と彼女は続けて言う。
「でも、誰かの夜を明けさせることはできるかもしれない」
 この言葉の意味が分かったのは、大人になってからだった。

*     *

 駅へと続く横断歩道を埋め尽くすように、学ランとセーラー服姿の少年少女たちが歩いてくる。この時間にいるということは、午前中で授業が終わりだったのだろう。彼らは本当に元気だ。甲高い笑い声を上げ、軽やかな足取りで、ベビーカーを押す私の横を通り過ぎていく。
 ベビーカーの中には、生まれて半年になる我が子がいる。不思議そうに、溢れかえる同じ格好の人たちに目を向けている。そのぱっちりとした目には、どんな風にこの光景が映っているのだろうか。
 学ランもそうだけど、セーラー服を着た中学生や高校生を見かけると、胸に二つの思いがやってくる。若き日々を惜しむ気持ちと、あの頃の懐かしさに浸る気持ち、の二つ。どちらにしても、嫌なことを想起することはない。私の学校生活は、世明のおかげでそれなりに充実したものになった。理想的とは、言わないまでも。
 桜が舞っている。春の風物詩は何度も目にしてきたはずなのに、見る度に新鮮な感動を呼び起こさせる。しずか、さくらがきれいだね、とベビーカーの中の娘に話しかける。静香は、答えるように頬にえくぼを浮かばせた。

 エレベーターで三階まで上がって、廊下の一番奥にある部屋へと向かった。ふと、中学校の音楽室と同じ位置だと気付いた。ささやかな偶然に、嬉しさを覚えた。なんだか、背中の方から先輩たちのはしゃぐ声が聞こえてきそうだ。
 ドアを開けて出てきた世明は、いらっしゃい、と短く歓迎を表わした。――あの頃と比べても、髪が少し伸びただけで、相変わらず美人だ。形の整った唇が、どうぞ入って、と動く。
 リビングのソファに座って、膝の上に静香を乗せた。何ヶ月だっけ、と世明がお茶を淹れながら尋ねてくる。
「もうすぐ六ヶ月。そろそろ歩けるようになるかな」
「まだ早いでしょ」
 そうね、と私は笑う。
「名前、静香だっけ?」
 世明は静香と目を合わせて、軽く笑いかけた。びっくりしたように、静香はくっと私の方を振り向く。かわいい。
「そう、静香。静かに香る」
「珍しい名前にしなかったのね」
「思いつかなかっただけよ。世明みたいな名前」
「節子が決めたの?」
「そうよ。女の子だったら私で、男の子だったら旦那につけてもらう、って約束にしてたの」
「旦那、ねえ」呆れたように漏らす。「まさか、節子がこんなに早く子持ちになるなんて思わなかった」
「まさかなんて、失礼ね」
 ごめんごめん、と世明は楽しむように笑う。
 でも、彼女の言うとおり、自分でもこんなに早く結婚できると思わなかったし、子どももずっと先だと考えていた。何がどうなるか分からないものだ。
「世明」
 ふと降りた短い沈黙の合間に、何度も呼んできたその名を投げた。
 声に応じて、なあに? という表情で私を見る。
「昨日ね、昔の私みたいな人に会ったの。世明に出会う直前の私に」
 秘密めいた春の空気と融け合う、白と緑のガードレール。その横に立ち尽くす女――自分に降りかかるものの実体を正確に捉えられない女。
 へえ、と世明は感心したように呟く。「酔ってた?」
「そう、酔ってた」さすが世明だ、話が早い。「だから、醒ましてあげた」
 ――大丈夫? 孤独に酔ってない?
 世明に言われた台詞をそのままそっくり、与えてあげた。
「ふうん、あの節子がねぇ」
 お母さんみたいな顔をしている。彼女の前では、誰もが子どものようになってしまうことだろう。
「世明」彼女を真っ直ぐに見つめる。「ありがとう」
 何を今さら、と言うかと思った。お礼を言われるようなことなんてしてないわよ、と言うかと思った。だが現実には、何も言わずに微笑んだだけだった。
「ところで、」話の向きを変えた。「世明はいい人いないの?」
 昔から男っ気が窺えなかった。話題にもめったにのぼらなかった。せっかく美人なのに、宝の持ち腐れだ、と思っていた。
 世明は、真面目に高校、大学と進学していき、教員免許を取って中学校の教師になった。教師に向いている気がしていたから、私はやっぱりな、という感想を抱いたことを覚えている。
 いつかは、母校の小野第三中学校で教鞭を執りたいと思っているらしい。
「いい人、ねえ」
 肯定も否定もしないで、その単語を噛みしめただけだった。
 だが、よくその横顔を眺めると、頬に淡い色が浮かんでいるのに気付いた。恋をしている女の横顔だ。
 世明もこんな表情をするんだ。これは、そう遠くないかもしれない――。

 ラジオを聴きながら、台所で食器を洗う。私はテレビよりも、ラジオを好む。視覚的に入ってくるものよりも、聴覚的に体に入ってくる向きのある方を好んでいる。
 ボリュームは、なるべく小さめに。寝かしつけたばかりの静香を、起こしてしまわないように。
「――思い出のエピソードを紹介します。
『この曲を聴くと、吹奏楽部だった中学生のときのことを思い出します。当時は小さないさかいもありましたが、とても団結力のあるメンバーでした。コンクールでは惜しくも金賞を逃したんですが、それ以上に大切なものを手に入れたと思っています。
私は今月、結婚することになりました。相手は、同じ吹奏楽部で、喜びや悔しさを共有したメンバーのうちの一人です。また、彼女は部長を務めていました。季節はずれな曲ではありますが、私と彼女を結び付けてくれた大切な曲だと思っているので、リクエストしました』
 それでは聴いていただきましょう。ラジオネーム、シュウスケさんからのリクエストで、たなばた」
 私は驚きで、ラジオを振り仰いで固まっていた。緩やかに流れてくる『たなばた』のメロディーが、まさか、という思いを確信に変えていく。
 この曲に、ラジオネームのシュウスケ――森川修介だ、きっと。――それに、部長ということは、倉橋友香だろう。二人とも、吹奏楽部で一緒だった同級生だ。
 そうか、森川君と友香が――それは本当によかった。何だか今日は、幸せに恵まれている気がする。

 曲を最後まで聴き終えてから、あと少しの洗い物を残して、ベランダに出た。そういう気分だった。春の夜はまだ涼しいから、カーディガンを羽織った。冷たい風が頬を撫でていく。
 目の前に広がるのは、まぎれもない夜。人工の光を寄せ付けない黒で埋め尽くされている。
 ――でも、
 世明の言葉がふと浮かぶ。
 ――誰かの夜を明けさせることはできるかもしれない。
 あれから、何度もその言葉の意味を考えてきた。背もたれに身を預けない少女が言った、その一言の意味を。
 何かから逃れるのには、夜がいいかもしれない。夜を、居心地がいいと思うときがあるかもしれない。
 でも、いつまでもそこに居続けるわけにはいかない。いつかは、明けさせなければならない。
 自分の手でも、誰かの手でも。

夜明け頃に

夜明け頃に

吹奏楽をやっていた頃のことをベースに書いてみました。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-09-17

Copyrighted
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