水平線に浮かぶ記憶

想い出の丘に再び降り立った男は、何を想う……?

 夏の終わりを告げる、潮風混じりの湿った風が吹くと、僕の隣に従順な姿で座っているポチの毛が揺れた。眼前には、一面の海。
 ポチはただひたすらに、大海原を見つめていた。先ほどの風も、気にしてはいない。けして優しいとは言えない海からの向かい風は、風力発電の用の風車を力強く回している。
 その風を切り裂く音は、離れたところに居る僕のところまで届いていた。千畳敷という丘の上から眺める海は、僕の視界すべてを真っ青に染め上げる。

「まるで、海と一緒になっちゃったみたい」
 今から五年前のあの日、あの時、この場所で、君はそう言った。その言葉にたしか、僕はこう返したんだ。
「僕には、空を飛んでるように見えるよ」
「じゃああなたは、水平線の彼方まで飛んでいっちゃうのかな」
 そう言う君の表情は、不安そうで。
「君は海だ」
「えっ……?」
 君の丸くて愛らしい目が、きょとんとする。
「すべてを包み込んでくれるような、海みたいな存在さ」
「どの港に行っても、海はあるだろう?」
「だから、僕がどこに飛んで行っても心配ない」
 ちょっと、苦しかったかな。
「そうかなぁ、そういうものかなぁ」
 ほら、不安がってる。君はボブカットにした髪を、左右に揺らしながら首をかしげて、ほんとかなぁと考え込む仕草をした。
 すかさず僕は、君の丸っこい小さな頭に手を伸ばす。そして、ちょっぴり乱暴に頭を撫でた。
「くすぐったいよう」
 嫌がるようなことを言いつつも、君の表情はほころんでいる。
 そうだ、これでいい。不安なんてものは、そりゃちょっとはあったけど、君と僕の関係はこのままずっと続いていくはずなんだ。
 さっきまで強く撫でていた手を緩める。すると、君の頭が寄りかかってきた。
「ねぇ。昨日、わたしが拾ってきた子犬なんだけど……」

 昨日の夜、君はずぶ濡れになって帰ってきて、その腕にはなぜか子犬が抱かれていた。どうやらその子犬は風邪をひいていたようで、今は獣医さんのところに預けている。
 犬か。今のアパートはペット禁止だから、実質飼うのは難しい。でも……。
「そうだなぁ、名前は何にしようか」
「えっ、飼っていいの?」
 君の表情が、ぱっと明るくなる。まるで、デイジーみたいだな。素直にそう思った。
「ああ。ちょうど、引っ越そうと思ってたから」
「ほんとう? ありがとう」
 今の家は、大学生の頃から借りているアパート。なじみはあったが、二人で暮らすには少々手狭だった。
「いい機会だから」
「うんっ。いい機会いい機会」
 君は歌うように、同じセリフをリフレインした。そうするうちに、「いい機会の歌」なるものを編み出したようで、君はしばらく歌いながらゆらゆらと揺れていた。

「名前は、ポチがいいな」
「いくらなんでも、ありきたり過ぎだよ」
「ありきたりなくらいが、ちょうどいいよ」
 そう返された。
「でもね、ほんとうの理由は違うの」
 君は悲しみを抱き込むように、膝を抱える。
「ポチは、前に飼ってた子の名前。でももう、わたしが高校生の時に、居なくなっちゃった……」
 膝を抱える君の腕が、ふわりとしたスカートに食い込んだ。
「そっか。でも、居なくなったって?」
 君の表情が、一段暗くなる。しまった、と思った。
「その日のポチ、すごく体調が悪そうだったの」
「ほんとうは、前の日からそんな感じで。でも、お父さんとお母さんは大丈夫だよって言って、取り合ってくれなくて」
「それで、ずっと、ポチ、小屋の中から出てこなかった」
「わたし、不安で。学校行かずにポチの面倒、見ようかと思ったんだけど、お母さんが行きなさいって」
「ずっと不安だったから、あの日。だから、ぜんぜん授業のこと頭に入ってなかったな」
 君は顔を上げて、どこを見るでもなく言葉を続けた。
「それで、帰ったら、ポチが居なくなってた」
「ひもが途中で、ぶつんって切れてて、小屋もからっぽで……」
「家は誰も居なかったから、どうして居なくなっちゃったのかも、わからないの」
「わたしは、何日も探したんだけど、結局見つからなかった」
「そう……」
 苦しそうに唇を噛む君に、他にかける言葉が見つけられなかった。
「もう、ずいぶん前のことだったから。忘れたつもりだったの」
「でも、昨日の子犬……。あの子、ポチにそっくりだった」
「わたしのところにポチが帰ってきてくれたって、ほんとうにそう思ったの」
「だから、あの子はポチ。きっと、あの子の生まれ変わりだと思うから」
「そうだね。それなら、なおさら大切に育てないと」
 だから、あんなにも必死だったのか。僕はようやく、どうして君が雨に濡れてまであの子犬を拾ってきたのか、納得がいった。
「今度は、いっぱい、いっぱい、愛情を注いであげるんだ」
 目じりにたまった涙をぬぐいながら、君はそう言った。
「よーし、そう思ったら元気が出てきた!」
 そう言うと君は立ち上がり、おしりについた草を掃うためにパン、と手ではたいた。その瞳には、先ほどまでの悲しみはない。
 君はすでに、子犬の世話の道具やらの算段をしているようで、何というか、燃えていた。ちょっぴり興奮した様子で、何かをつぶやいている。
「あれもいるし、これも……。ああっ! ひもは丈夫な方がいいよね」
 すっかり舞い上がった君をしり目に、いつの間に真っ赤に染まった水平線を、僕は眺めていた。強めの向かい風が頬を撫で、遥か後方へ飛んで行ったのがわかった。
 遠くからは、相変わらず風車が風を切る音がする。眼前に広がる空は次第に赤みを増し、すべてを包み込んで許してくれているように見えた。もちろん君の、ポチに対する罪でさえ。

「太陽が海に沈む時って、ジュッていう音がするんだって」
 風に吹かれる髪をおさえながら、君はそう言った。僕は、同じ目線になるために、立ち上がる。すると君の眼線は僕の肩ぐらいの位置になった。
「それって、どっかで聞いたことがあるな」
 映画だったか、マンガだったか。はっきりとは覚えていないけど。
「今はそんなことないって、科学で証明されちゃってるけど、昔の人はきっと、そう思ったはずだよ」
 願いを込めるように、君は言う。沈みゆく太陽は、日中の姿よりも眩しかった。
 そんな時、僕はあることを思い出した。
「ねぇ、知ってる?」
「ん? 知らないよ」
 ……まだ何も言ってない。けど、僕は無視して、続きを話し始めた。
「太陽が沈んで行って、姿が見えなくなる。というか、完全に水平線に隠れる瞬間、きらって、光るんだって」
 僕がそう言うと君は、少しだけ悲しげな表情をして。
「それってまるで、命みたいだね」
 と、ささやいた。

 その言葉に、はっとした。君の色白の肌が夕日を映し出し、淡く輝いていた。
 君が夕日と同じように、最後の命を燃やそうとしているかのように見えたからなのかもしれない。根拠なんてなかった。
 太陽は、名残惜しむようにその姿を水平線上に半分以上残して、佇んでいた。下半分は、太陽光が反射して、海全体が太陽になったみたいに燃え盛っている。
 それはまるで、六千°Cもある太陽表面の熱が伝わって、海が燃えているかのよう。しかしその炎も、いずれかは夜の冷気に負けて消えてしまう。
「確かにそうかもしれない。でも、太陽はまた昇ってくるよ」
 安直な台詞だと思った。
「そうだね。だからわたしは、好きなんだ、太陽が。それは、明日が必ずやってくるって意味だから」
 そう希望を語る君は、どことなく憂いをたたえているように見えた。
 僕と君の未来に、希望はあるのだろうか。僕はようやく仕事が忙しくなってきて、じっくりと君とこうして話す時間も減った。
 それで君は、多分満足していない。だからさっき君は、僕がどこかに飛んで行ってしまうことを、心配したのかもしれなかった。
 大丈夫、僕はここに居る。どこにも行かないよ。

「あ、船」
 君が空中を指差した。僕はその先に、目を向ける。夕日に染まる水平線の上に、遠くて形はわからないが、船が一隻滑っていた。
「あんなに小さいのに、よく見つけたね」
 すごいすごいと言いながら、君の頭を撫でた。
「わたし、目は良い方だから」
「そうだね。そのかわり、成績は良くなかったみたいだけど」
「う、うるさいなぁ。それとは関係ありません」
 君の柔らかそうな頬が膨れる。怒った顔も、かわいいな。
 しばらくそうやってからかっていると、君は急に真面目な表情になって。
「ねぇ。今は、無理かもしれないけど……」
「わたしたちが、おばあちゃんとかおじいちゃんになって、時間とお金があったら。船で、いろいろな国を回りたいね」
 君の眼は、真剣だった。そして、君は遥か未来を見ようとしていた。それは、精一杯の君の願いだった。
「今は、僕たちはずっと一緒に居られないけど、でも」
「その時が来たら、飽きるほど一緒に居よう。ずっと、ずっと」
 普段はこんなこと、恥ずかしくて言えっこない。君が、いつになく真剣だったから。
 僕がそう言うと、君はぱぁーっと笑顔になり、一言。
「……うんっ!」
 と言って、力強くうなずいた。

「ちょっと、歩かない?」
 うれしそうに、君は僕の手を取って言った。
「ちょうど、肌寒くなってきたし、そうしようか」
 僕は賛同して、君と夕焼け色の丘を歩き始めた。遠くには、子供が数人走り回っていて、それを見守る夫婦の姿がある。家族連れだろう。
 もう帰るのか、母親らしき人が子供に声をかけて、駐車場の方へ連れ立って歩き出した。途中で、子供の一人がこちらに気づき、手を振った。
 隣の君が、おもむろに手を挙げる。
「さよーならー!」
 僕もつられて、その子供に手を振った。家族連れの姿は、だんだんと小さくなり、見えなくなった。
「もう、子供は帰っちゃう時間なんだねぇ」
「ちぎれそうなくらい、手を振ってたな」
「だって、もう会えないんだって思ったら、自然と」
「すごいな」
「すごくないよ」
「そんなことないって」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
「そこまで言うなら、わたしはすごいということで」
「初めから認めとけばいいのに」
「謙遜というやつですよ」
 君は下から僕の顔を覗き込むような体勢になって、ふふっと笑った。

 そろそろかな……。
 僕がポケットの中に手を入れると、小さな箱のようなものが手に触れた。それは先月僕が注文していた、指輪。
「ねぇ」
 再び水平線を見つめていた君に声をかけると、どうしたの、と言ってこちらを振り返った。短めの髪が、ふわりと揺れる。
 僕は、恐る恐るポケットからその箱を取り出す。
 察しのいい君は、箱の中身がわかったようで、大きく目を見開いて僕を見つめた。
「これを君に」
「うそ……」
 君は、手を口元に当てて、信じられないといった表情で、僕の手のひらの上にあるものを見ている。
 君はしばらく考え込んで、口を開いた。
「――ごめんなさい。まだそれ、もらえない」

 一瞬、視界の端でオレンジ色をした光が走ったように見えた。はじめ、それがなんだか僕にはわからなかった。
 涙でかすむ目をこすると、ようやく事態を理解できた。
 水平線を明々と燃やしていた太陽が、その姿を海の向こう側に隠してしまっていた。
「あの光は……」
 あれはきっと、太陽が放った今日最後の煌めき。あの日、あの時、君の悲しみという感情を、覆い隠そうとするような横顔を飾った、閃光。
 今にも泣きだしそうに、僕の持つ箱を見ていた君。
 その後しゃがみこんで、ごめんなさい、としか言わなかった君の震える背中は、すごく小さくて、儚げだった。
 そうだ。あの時もこんな風に、太陽は一瞬だけ輝いて見せたんだ。僕は、二度もその光を見逃してしまったようだ。
 あの時は君が。今はポチが、光を見た。

 僕は、どうも希望というやつから嫌われてるらしいな。
 多分僕は、夢を見ていた。あの時の夢。他の言い方をするなら、記憶。
 過去と現在が水平線の上に重なって、僕は君が居た時間と、今を同時に生きていたような気がした。
 思えば、あの時のことが強烈過ぎて、この五年間の記憶があいまいだった。
「どうして、また僕はここに居るんだろうな」
 気づいたら、ここに居た。全く意識してなかったのに。
 あの後すぐ、君は倒れてしまった。原因不明らしかった。その後君は……。
 ――どうなったんだっけ?
 大事なことなのに、思い出せない。なんでなんだろう。もう少しで出てきそうなのに。何かが妨害しているかのような、変な感触だった。
 思い出そうとするたび、頭がキリキリ痛む。

「……ポチー」
 それは、遠くから聞こえてきた。か細い声だった。偶然、風に乗って届いたのかもしれない。
「ポチー」
 今度は、もう少しはっきりと聞こえた。女性のようだ。どうやら、犬を捜しているらしい。
 ポチという名前は珍しくない。というか、ありふれている。そもそも、僕の隣のポチを捜す人間なんか居ないはずだ。
 そうやってたかをくくっていたら、ポチの耳がピンと反応した。そして尻尾を左右に振りながら振り返ったかと思うと、激しく吠えはじめた。
「おかしいな」
 普段はめったに吠えなくて、おとなしい奴だと思っていたのに。それよりも、そんなに吠えたら……。
「あ、ポチ!」
 案の定、勘違いされたようだった。声の主が駆け寄ってくる足音がする。
 だいぶ走り回ったのだろう、息遣いは荒い。
 足音もかなり近づいてきた時、ポチは待ってましたとばかりに駆けだした。思わず僕は振り返る。
「おい、それは飼い主じゃ……」
 目を疑った。
 そこには、深めにかぶった大きな麦わら帽子を、右手で抑えながら駆け寄ってくる、白いワンピース姿の女性の姿があった。
 ポチはその女性めがけ、一直線に走って行く。お互いの距離が数メートルになったところで、ポチは飛び上がり、その女性に覆いかぶさった。
 それと同時に飛んでいく、麦わら帽子。すると、隠されていた顔が明らかになった。
「うそだ……」
 ショートボブだった髪は腰にかかるまでに伸びて、あの頃の記憶よりも痩せてしまった君の姿が、そこにあった。
「ポチってば、くすぐったいよう」
 あのデイジーのような笑顔は、間違いなく君のものだった。でも、なんで……。
「でも、変だなぁ。どうしてポチはこんなとこに居たんだろ?」
 そう君が言うと、忠犬は顔を上げて、僕の居る方を向いた。
「えっ……?」
 君は、訳が分からないというような表情で、こちらを見た。その眼は焦点があっておらず、どこを見ていいのか戸惑っているようだった。
 ――君は、僕のことが見えていない。
「あそこは……」
 君は何かを悟ったような顔つきになり、それからゆっくりと顔を弛緩させた。
「そっか」
 そう言うと君は立ち上がり、麦わら帽子を拾って、僕の居る丘へと続く坂を上り始めた。
 足取りは軽く、その横をポチがぴったりと付き添っている。その歩みからは、五年前に倒れた君の弱弱しさなど、微塵も感じられなかった。

「ふう。懐かしいなぁ」
 坂を上り終えた君は、僕の隣に居た。海からやってくる突風が、君の髪をなびかせる。
 風が目にしみたのか、心なしか君の瞳は潤んでいた。
「ここに来たのは、五年ぶり、か」
 誰に言うわけでもなく、君はつぶやく。
「ここは、変わらないなぁ」
 そうだね。
「もう一度、あなたと来たかった」
 僕は、ここに居るよ。
 気づけば、僕はもう声も出せなくなっていた。ひょっとしたら、はじめから声なんて出せなかったのかも知れなかった。
 そして、すべて思い出した。
 そうか。僕はもう……。
「わたしが目を覚ました日に、交通事故なんて、ひどいよう」

 ごめん。本当に。
 君に触れようにも、僕の手は君の体をすり抜けるばかり。
 もう君は、隠すことなく泣きじゃくっていた。その震える肩を抱きしめることさえも、叶わない。
 あぁ、なんて残酷なんだ。最後くらい、奇跡を起こしてくれたっていいじゃないか。
「なんでわたし、生きてるんだろ」
「わ、わたしが助かっちゃったから、あなたが」
 違う! そんなことはない。あれは本当に、偶然だったんだ。
「これも、あなたから貰いそこなっちゃたなぁ。あの時、はめてもらえばよかった」
「わたしが、絶対に病気が治るって信じてれば、笑顔でもらえたのにね」
 君がワンピースのポケットから取り出したそれは、あの時僕が渡そうとした指輪だった。その光沢はあの時のままで、君がかざすと何度か瞬いた。
 僕の思いを込めた、指輪。あの時と今とを繋ぐ、唯一の形あるものだった。
 その時、じっとしていたポチが指輪の光に誘われたのか、指輪を持つ君に飛びかかる。その拍子に、指輪は君の指を離れた。
 あっ……!
 僕は思わず、手を伸ばす。何にも触れられないとわかっていた。けれど、無我夢中で土を蹴り、指輪に飛びついた。
 これを無くしてしまったら、君との想い出が全部、無くなってしまいそうだったから。

 ……恐る恐る、僕は手のひらを見た。そこにはしっかりと、輝く銀のリングが、誇らしげに納まっていた。次いで、君の顔を見る。
 その表情には、驚きと悲しみとうれしさと、とにかくたくさんの感情が入り混じっていた。君は何度か口をぱくぱくさせた後、ようやく声を上げた。
「どうして」
「はは、どうしてだろうね」
 僕は何となく気恥ずかしくなって、ぽりぽりと頭をかいた。
 この指輪のおかげかどうかは、わからない。けれども、君は僕の姿が見えている。
「おひさしぶりです」
「おひさしぶり、です」
 その後の言葉が、お互いに続かない。どうしよう。君はいまだに動揺した表情で、僕の顔をまじまじと見つめている。
「そんなに見つめられたら、照れるなぁ」
 軽口を叩いてみた。
「退院、出来たんだね。よかった。体はもう、大丈夫なのかい?」
「うん」
「ポチも、大きくなったよね。飛びつかれたら、重くて倒れちゃうよ」
「そうね」
「それに、そのワンピース。よく似合ってる。君にぴったりだ」
「ありがとう」
「それから……」
 気づけば僕は、思いついたことを一気にまくし立てていた。
「この指輪、まだ持っててくれたんだ」
 手のひらに乗った指輪を見つめながら、そう言った。簡素だが、銀色に輝く指輪。僕は思案した後、あることを思いついた。
「ねぇ」
「あのね」
 二人の言葉が重なる。
「君からどうぞ」
「あなたから、お願い」
「わかった」
 僕は、心を落ち着かせるために、大きく一度息を吸い込んだ。さぁ、二度目のチャレンジだ。

「この指輪を、君の指にはめてもいいかい?」
 沈んだ太陽が残した明かりが、君の色白の肌を朱色に染めている。君は逡巡し、心を決めたのか、僕をまっすぐに見つめた。
「はい……」
 そう言って差し出された左手に、そっと触れる。その手は白く柔らかで、少し、震えていた。
 指輪を持った右手の指を、君の左手の薬指に近づける。ゆっくりと、ゆっくりと。
 時間が、何千倍にも引き伸ばされたように、永く感じられた。君の息遣い、僕の鼓動、それらもすべて大きく聞こえる。
 指輪が、薬指の第一関節を過ぎ、第二関節を過ぎ、根元に到達した。その瞬間、僕の体が軽くなった。まるで縁日で売られている風船のように、どこへでも飛んで行けそうな、そんな気分。
「ありがとう」
 浮遊しかける意識に、君の声が飛び込んできた。まだだ。もうちょっとだけ……。
「ほんとうにうれしい」
 その言葉を合図に、涙が君の頬を伝った。
「ねぇ、もう行っちゃうの?」
「そうだね。僕はもう、全部やり終えたみたいだから」
「そっか……」
「じゃあ、元気でね」
「ねぇ、最後に一つだけ」
「なに?」
「さっきわたしが言おうとしてたこと、言わせて」
「うん」
「お別れのキス、して。そしたらわたし、絶対にあなたのこと忘れない」
「わかった」

 僕は目をつぶった君の顔に近づき、その潤んだ唇に、そっと口づけをした。
 その味を確かめる間もないまま、僕の体は空高く飛翔していた。耳の近くでは、力強く羽ばたく音が聞こえる。
 ふと地上を振り返ると、白い服を着た人が、一生懸命手を振っていた。
 何かを叫んでるみたいだったけれど、僕の耳には何を言ってるのか、よく分からない。
 
 さ、う……。
 
 ……ならー!
 
 さようならー!
 
 そうか、あの人はお別れを言ってるのか。それなら、返事をしないと。僕は、これから遠くへ旅立つのだから。
 僕は身体の角度を変え、ぐるんと一周して見せた。言葉を使えない、僕なりのあいさつのつもりだった。
 その直後、上昇気流が前方から巻き起こり、仲間たちが一斉に高度を上げ始めた。僕も風に乗って、高度を上げる。
 さようなら、僕の愛しい人。

 君の振る左手の先が、かすかに煌めいた。

水平線に浮かぶ記憶

水平線に浮かぶ記憶

稚拙ながらも、それもまた自分への戒めにするために、こちらに掲載させていただきました。 どこまでも余ったるい、不思議な男女のお話です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-26

Copyrighted
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