廻晴

 意識とは呼べないほどに小さい、泡のような自我が、緩やかに浮上している。泡は、自らが浮上しているという事しか理解出来ない。
 ここは、深海だろうか。周囲には光も、温度も、時間さえもないように思えた。それでも不思議と寂しくはない。寂しいと感じる事すら、泡には出来ないのだろうか。
 宛の無い暗闇の中を、泡は漂う。少しの不安と、懐かしい哀しさと、形の無い無数の未来が、泡の中に圧縮されていた。
 しばらくして、永遠に続いてほしいような虚ろな世界の中で、何の前触れも無く、何かに貫かれるようにして泡は破裂した。スローモーションで泡から飛び出したものたちが、徐々に意識を獲得していく。次第に鮮明になるそれらが捉えたのは、光だった。
「――!」
 覚醒した意識は、さっきまでの心地良い体験が夢であった事を一瞬で理解する。ベッドの上には、目覚めたばかりでまだ重たい体。感覚は不鮮明だが、血と、肉と、骨と、臓器が詰まっている。そう感じられる。あれほど無防備で鮮明だった魂が、今ではその気配も存在も感じられないほど閉じられている事に気付いて、虚無感だけが残る。
 カーテンの隙間から、焼けるような日差しが目元へ差し込んでいた。
 ああ、今日もか。と思う。
 カーテンを開けると、雲ひとつ無い青空が目の前に広がった。目が回るほどの快晴だ。快く晴れると書いて快晴と読むはずなのに、こうも快くない快晴は今日以外に無い。
 私はいつものように部屋を出て、顔を洗い、歯を磨き、朝ごはんを食べながら、聞き飽きたニュースを聞く。世界の事を何も知らないアナウンサーが、世界の事を何も知らない人たちに、意味の無いニュースを繰り返す。
 馬鹿馬鹿しい、と思う事がもう馬鹿馬鹿しいくらいだ。
 私だけが、世界の正体を知っている。私だけが、特別だ。私だけが、ここにいる。それなのに。
 無数の意味の無いエネルギーが、私の知らない所で消費されている。どうせまた明日になれば元通りになっていると言うのに、そのサイクルが終わる事は無い。あまりにも虚しいその営みの数々に、私の心は冷めていく。
 今日は、十七歳の私が経験する九十八回目の九月一日だ。

 行ってきますとも言わずに、私は家を出た。覆いかぶさる、敵うはずのない運命を物語るような青空を、仰いで歩く。今日は真面目に学校に行くか、それともゲームセンターにでも行くか……。思い切って犯罪でもしてみるか。無免許運転とか……楽しいかもしれない。
 私が九月一日から抜け出せなくなったのは、本当に突然だった。いくら繰り返しても、何故か九月一日が終わらない。最初はスマホが壊れたのかと思った。けれど、新聞を見ても、日めくりカレンダーを見ても、家族や道往く人やクラスメイトの一挙手一投足を見ても、同じ日を繰り返している事は明らかだった。気味が悪くて仕方無かった。なんとかこのループを抜ける方法は無いかと探しもしたけれど、何か大きな力が私の事を嘲笑っているような気がして、探すのを止めた。同じ日を繰り返そうと、繰り返すまいと、私が私である事に変わりは無い。
 それからは、毎日こんな風に、なんとか日々をやり過ごしている。
 昨日は親の貯金を勝手に使って、ひたすら好きなものを買い漁った。服とか、アクセサリとか、そういうもの。それから好きなものを好きなだけ食べて、最後に好きなだけ遊んだ。
 結局、私の罪も、買ったものも、気持ちも、何も残らなかった。誰の手も、私の手すらも届かない所に罪悪感が芽吹いただけだった。この芽が摘まれる事は、もう無いだろう。
 だから朝ごはんなんて、作ってくれなくて良かった。ただ大声で、叱って欲しかった。
 ……今日は、知らない所へ行こう。そうすれば新しいものが見られる。そうだ、東京に行こう。スカイツリーに上って、展望台から写真を撮ろう。お昼には豪華なレストランでとびきり高いランチを食べて、その後は足が動かなくなるまで歩き回ろう。名所という名所を見て回って、疲れたらホテルに泊まって、そのまま眠ってしまおう。明日になれば、元通りだ――。
「馬鹿馬鹿しい」
 
 九十九回目の九月一日。
 昨日はあのまま家に帰って、親には学校を早退したと嘘を吐いて眠り続けた。
 中学の頃、何かに侵されるようにして探し続けていた、自分の在り処や、生きる意味、この小さな体の中に詰まっている、茫漠たる未来について、割り切れるようになったのは、多分そんなに遅くなかったと思う。最初から見えていた可能性のひとつが、そのまま私の中の回答と一致したからだ。答えは単純。
「生まれた意味なんて無い。分かっているから、高望みはしないから、私だけにこんな苦しみを背負わせるのはやめて」
 聞き飽きたその声も、相変わらず最低に晴れ渡っている空も、何もかもどうでも良かった。何でもいいから、早く死にたい。そう思うばかりだった。
 普段は親に怒鳴られるのが嫌だからという理由で、とりあえず学校に行くポーズをとるため制服に着替えるところだけれど、今日は私服に着替えた。なんとなく、そんな気分だった。
「あんた、今日学校じゃないの?」
 案の定、家を出ようとするとそう言われたが、
「今日だけは、サボらせてくれない?」
 しおらしくそう言い返して、無理やり家を飛び出した。
 煙草でも吸ってみようか。と思った。
 でも、未成年じゃ買えないかな。
「……あぁ」
 そうか、買えなくても貰えばいいのか。
 幼馴染の顔が浮かぶ。大学生だし、煙草くらい持っているだろう。吸ってみたいと言っても絶対吸わせてくれないだろうから、あいつがトイレに行った時にでも盗ればいいか。大学生はまだ夏休みだろうし、家で寝てるんだろうな。
 スマホを取り出し、電話を掛ける。
 ルルルルルルル、ルルルルルルルル、ルルルルルルル……。
 やっぱり、思った通りだった。
 電話を切って、空を仰ぐ。今日も今日とて、目が回るほどの快晴。私は欠伸をひとつして、けだるい体を引き摺るように歩き始めた。
 電車に乗って、三十分。あいつの家はそれほど遠くはない。あいつが一人暮らしを始める前は、実家が近所同士だった事もあって、度々遊んでいたものだ。けれど高校を卒業して大学に進学すると同時に、あいつは少しだけ遠い所へ引っ越してしまい、それ以来は以前のように頻繁に会う事は無くなってしまった。うんと遠い所まで引っ越す訳でもなく、近所へ引っ越す訳でもない中途半端なところが、実にあいつらしいと思う。
 電車を降りてぼうっと歩いていると、いつの間にか目的のアパートに着いていた。ここに来るのは確か、一年ぶりくらいだったと思う。アパートの外装は前回来た時と何も変わっていなくて、少しだけ安心する。こんな時間に呼び鈴を押してもあいつが寝ていて出てこない事は明白だったけれど、とりあえず押してみる。
 …………。
 音沙汰なし。自然とため息が漏れた。
 落とした視線の先に、ドアに取り付けられたポストがあった。ポストの中からは、一つの封筒がはみ出している。
 私の中で、何かが冷めていく。その封筒をポストから抜き取って見てみると、どこかの出版社からのものである事が分かった。
 ああ、こいつも同じだ。いつまでもいつまでも、叶う事のない夢を追い続けている。私には夢なんて無いし、もうこのループから出る事が出来るとも思っていないから、無謀な夢を追い続ける人の気持ちが分からない。そんな気持ちが人間にある事すら不思議だ。
 ……あいつが描く漫画は、面白いと私は思う。けれど、読者を選ぶような内容なのだ。そんな内容で描き続けていても、デビューなんて出来るはずがないのに、あいつは内容を変えようとはしない。私にはよく分からない理屈を、いつだったか熱弁された事があったけれど、私にはその熱弁が、あいつ自身に対するもののように見えた。自分で自分を痛めつけているように見えた。
 私たちは、痛みとか苦しみとかが無いと、生きている事や歩いている方向が分からない生き物なのだろうか。痛くないと、自分の行動が正しいものだと認識出来ないのだろうか。
 細胞と細胞とが結び合って連なりあっている、その間に、自分が在る気がする。自分が居なくなってしまえば、たちまち身体は霧散して、最初からそこに存在しなかったものになり、誰からも忘れられる。
 大人になるに従って硬く圧縮される心身に、自分を詰め込み忘れた人。そういう人が、大勢居るのではないだろうか。あいつも同じで、自身を傷つける事で、痛みの中に自分を探していたのではないか。
 それは、とても哀しい事だと思う。
 けれど、私は。
 私は、一度失くした自分は、もうどこを探しても見つからない事を知っている。
 きっと、あいつも……。
 私は手にしていた封筒を一瞥した。

 数時間後になって再び呼び鈴を鳴らすと、ギイ、と嫌な音を立ててドアが開いた。眠たそうな顔で、幼馴染が言う。
「おお、久しぶり。あれ? お前、今日学校じゃないの」
「サボった」
「俺の知ってる幼馴染は学校をサボったりはしないはずなんだけど」
「いいんだよ始業式だし、上がるよ」
 八畳ほどの、ワンルーム。カーテンは閉じられており、明かりは点いていない。薄暗くて、少し湿度がある。作業用デスクの上には点けっぱなしのパソコンがあり、そこから伸びているペンタブがあり、その横にはマグカップが置いてある。
 マグカップを見て、思い付く。
「なんか飲み物ちょうだい」
「うん、何が良い? 麦茶、コーヒー、牛乳、オレンジジュース」
「オレンジ」
「了解」
 ジュースが出てくるのを待つのに、とりあえず床に座って、転がっていたゲーム機のコントローラーを拾う。テレビを点け、周囲を見回すと、食卓として使っているのであろうガラステーブルの上に煙草があるのを見つけた。
「ゲームしていい?」
「いいよー、ほいオレンジ」
 ゴトリと、ガラステーブルの上に、オレンジジュースが入ったグラスが置かれた。煙草を盗りに来た奴がオレンジジュースをご馳走になっているなんて、何とも皮肉な状況である。幼馴染はそのままデスクの前に座り、作業を始めた。
 幼馴染が席を外すまで、ひたすらゲームをやり続けた。聞いた事もない名前のゲームだ。マイナーで硬派なゲームらしく、こんなゲームをあまりしない私にとっては操作が難しくて、すぐに飽きてしまった。
 沈黙の中に、ペンタブが擦れる音。電車がレールを叩く音。マウスのクリック音……。
 私、何してるんだろ。
「お前さあ」
 幼馴染がぶっきらぼうに話しかけてきた。
「ん?」
「何しに来たの?」
 私はしばらく考えた。考えても、もちろん答えは決まりきっていた。私はただ、煙草を吸ってみたかったからここに来た。それだけだ。
「いや、別に。暇つぶしかな」
「学校サボって暇つぶしって、そりゃお前どういう事だよ」
「なんでもいいでしょ別に。てか、他になんか面白いゲーム無いの?」
「はあ……、マリカーならあるけど」
「あ、いいじゃん。対戦しようよ」
「んー、まあいいけど」
 こうして誰かとゲームをするのって、久しぶりだな。そもそもゲームをする事自体久しぶりだっけ。
 まだ普通に日々を送っていた頃、私は日々をどう過ごしていただろう。思い出そうとしても、あまり思い出せなかった。円環の中で、擦り切れるように記憶も薄れていくのだろうか。なんて、考えても仕方の無い事を考えてしまう。
 それから私たちは、飽きるまでマリカーをし続けた。昔はよくやったはずなのに、私ばかりが負けてしまった。何度か周回遅れになったりもした。なんでこいつこんなに強いんだよ、こんなのじゃ、いくらやっても勝てっこない。段々嫌になってきた。
「あーもー嫌、やめやめ」
「お前弱いなあ」
「久しぶりなんだから仕方無いじゃん、ちょっとは手加減しろ」
 私は幼馴染の腕を小突く。
「はは、ごめんごめん」
 やけに申し訳なさそうな顔でそう言う幼馴染だった。
 いつの間にか部屋が一層暗くなっていた。ゲームに夢中で気が付かなかったみたいだ。
 ……共依存、という言葉が頭に浮かんだ。このままこいつと、どこまでも堕ちていけたら、何かが変わるような気がした。
「私、実は同じ日を繰り返してるんだ」
 無意識に口をついて出た言葉が、思った以上に切実な響きを持っていた事に驚いた。
「何回繰り返しても、今日が終わらない。どうせ信じて貰えないだろうけど」
 なんでこんな事言ってるんだろう、私。
 一瞬の予感と、擦り切れた心が零した言葉であろう事はすぐに分かった。苛立つような、恥ずかしいような、そんな気持ちだった。
「……そんな台詞、確か俺が昔描いた漫画にあったな」
「……そうだっけ」
「うん、俺ループもの何作か描いたからな。ループものを描くループに陥ってる時期があった」
「何回回ってるんだよ」
「何回でも回ってるよ、今だって回ってる」
 そう言って幼馴染はデスクへ目を向けた。ここではないどこか遠くを見ているような後ろ姿だった。
 私の後ろ姿も、きっとこんな風なのだろう。
 幼馴染が私を振り返った。
「いつもは逆の立場なのに、変な感じだな」
「……たまにはあんたが私を励ませ」
「……さっきの話、本当なわけないと思うし、お前が直面している事が何なのかも分からないけど、学校サボってまで相談したくなるような事なんだろ。回りくどい言い方しなくていいよ」
 そう言いながら、幼馴染はガラステーブルから煙草を一本取って、ライターで火を点けた。
 そう言えば私、煙草を盗りに来たんだった。すっかり忘れていた。
 薄暗い部屋の中で燻る火の中に、私が居る気がした。
 どう言ったって、こいつには分かりっこない。そう言いたげな、死んだ目をして、私を睨んでいた。
「……」
 煙草の煙が音もなく部屋を満たしていく。目に異物が入ったような感じがして、目をしばたいた。
 そのまま私が黙っていると、徐に幼馴染が口を開いた。
「……俺だってさ、同じ日を繰り返してるよ。代り映えの無い毎日さ。学校行って、バイトして、漫画描いて、飯食って寝て。その繰り返しだよ。何にも発展してないって、心の奥底では分かってる。漫画家になりたいなんて言いながら、アシスタントになって勉強しようともせず、惰性で進学して、漫画とは何にも関係無い事を勉強しながら、漫画とは何にも関係無いバイトをしてるんだ。その時間を全部漫画のために割いていれば、もう少し良いものが描けるって事は分かってんだよ。……でもやらないんだ。辞めようと思えば大学だって、バイトだって、辞められるんだ。……でもしない。こうやって中途半端に生きている方が楽だから。言い訳出来るから。俺の漫画が評価されないのは俺が中途半端に生きているからなんだって。まだまだ俺には成長の芽があるんだって。夢を追っているポーズをしているだけなんだよ、俺は。俺にとって漫画を描くって事はその程度の事なんだ。全く、呆れるよな。本気で漫画家目指してる奴が俺を見たらなんて思うだろうな。ツバでも吐いてくんないかな、ほんとに」
 幼馴染は灰色の息を、深く、深くから吐き出し、「馬鹿馬鹿しい」と言った。
「でもさ、こんな俺だけど、俺はお前が好きだよ。俺の描く漫画に対して真剣に向き合ってくれるのなんて、お前くらいなんだよ。……親にだって、見放されてるんだぜ、俺。中途半端に漫画描いて将来のための勉強が疎かになるくらいなら、漫画描くのなんてやめちまえってさ。だから俺は、お前が好きだよ。……元気出せよ。疲れたら俺がいくらでもゲームの相手してやるからさ。飯も奢るし」
 煙の中で、少しだけ、
「あー、いつもの調子でまた愚痴ってしまった……いやほんと、俺のエゴにまみれた愚痴を聞いてくれる奴なんてお前だけなんだ、本当に、感謝してるんだって。こんな愚痴を人に聞かせてる時点でクソ野郎なんだよ俺なんて。そしてこんなクソ野郎の愚痴を黙って聞いてる時点でお前は良い奴なんだ。な、こんな奴が身近に居るんだから、お前は好きなだけ俺を貶めていればいいんだよ。お前がお前を貶める必要ないだろ」
 少しだけ、息がしやすくなった気がした。
 このままこいつと、どこまでも堕ちていけたら。
 予感が、私を繋ぐ。
 隙間を埋めていく。
 ピタリと、固定される。
「ねぇ」
「ん?」
「私の裸、見たいと思う?」
「は? ……は!?」
「私の裸、見たいと思う?」
 顔が熱くなっていくのが分かる。幼馴染の顔は既に真っ赤である。
 言葉が、意志を持って私を離れているような気がする。反響する。
「いや、質問の意味が分かんねーよ。え、何、何の嫌がらせなのこれは」
「セックスしよう」
 声に出す事で、頭のネジが弾け飛んだ。私の中を巡る血液が、温度を上げる。少しずつ思考が薄れていって、頭が痛くなる。視界がぼやけて、涙が滲んでいる事に気付く。ああ、私まだ泣けたんだ。なんて、そんなどうでもいい感想だけが鮮明。
 目の前に慌てふためく幼馴染の顔がある。なんだか、昔から見ている顔のはずなのに今は知らない人みたいだ。こいつから見た私は、どんな顔をしているのだろう。きっとひどい顔をしているに違いない。
 ……このままキスでもしてしまえば、もう戻れないのだろうか。
 ……快晴は、終わる? いや、終わらないだろう。
 見えないラインが、その距離の中にある気がした。
「明日になれば、元通りだよ」
 無意識に口から漏れたその言葉で、最後の糸が切れた。私はその距離を縮め始める。一秒、二秒、三秒、四秒――。時間が進んでいく様子が、手に取るようにして分かった。
 たまらなく、死にたくなった。
 灰と涙が、零れ落ちた。

 生まれてこなければ、こんな気持ちにならなくて済んだのに。
 きっと私がいつも見る夢は、私が生まれる以前の、記憶の夢。お母さんのお腹の中で、何も知らずにただ浮かんでいるだけの夢。生まれて来なければ良かったという想いが、澱となった記憶を呼び起こして、夢を見せているのだろう。いくら願ったって夢を見たって、回帰する事は出来ないと言うのに。
 いつまでも子供のままの私たちは、いつまでもひとりぼっちのかくれんぼを続ける。
 夢に、性に、薬に、金に、欲望に、自分を見つけた気がしても、いつの間にかそれは消えている。
 暮れる夕日が伸ばす影は、一つだけ。
 そしてまた、快晴の空がやってくる。
 何もない空。
 どこまでも続く、薄っぺらな空。
 今日は、十七歳の私が経験する百回目の九月一日だ。
 永遠に、このままだ。
 
 幼馴染が起きている時間は、もう知っている。今日は無駄に待たされる必要も無い。電車に揺られ、今日も家へ向かった。
「おお、久しぶり。あれ? お前、今日学校じゃないの」
「サボった」
「俺の知ってる幼馴染は学校をサボったりはしないはずなんだけど」
「いいんだよ始業式だし、上がるよ」
 昨日と全く同じやり取りだ。昨日はあんなに慌てふためいてたのに、そんな事こいつは少しも覚えてないんだから、笑えてくる。
「あっ、そうそう、あんたの初体験はちゃんと守られたから、安心していいよ」
「は? 何の話だよ」
「なんでもないよ」
 本当に、何もない命だ。
 私はふと、デスクの上の画面に目をやる。薄暗い部屋の中でぼんやりと明滅するそれが、何故だか無性に気になって、一歩、二歩、三歩と、吸い寄せられるようにして画面に近付いた。
「ああ、それ、今描いてる漫画。完成したらまた読んでくれよ」
 そう言った幼馴染の声が、どこか遠くの世界から聞こえているような気がした。
 私は、世界の正体を見た。
『廻晴』
 ぼんやりと光る画面には、ただそれだけが表示されていた。

廻晴

縛り:快晴

廻晴

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-16

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