赤のミスティンキル 第二部

第二部 主要登場人物

ミスティンキル……………“炎の司”。龍王イリリエンからは龍になりうる試練を受けるだろうと言われている。体の中に膨大な赤い魔力を有し、魔導について継承した。しかし、魔導行使にあたって当然知ってしかるべき摂理等、根幹になる知識については全く無知。

ウィムリーフ………………ミスティンキルの恋人。“風の司”。今回のデュンサアルの一連の冒険行は、冒険家のたまごを名乗る彼女にとって初の冒険行となった。魔導の解放に際して、ミスティンキル共々立ち会った。ウィムリーフには魔導が備わってないようにも見受けられるのだが……。

アザスタン…………………龍頭の衛士。金色の角を持つ蒼龍。“炎の(デ・イグ)”でイリリエンを守護する。

エリスメア…………………バイラル(ベルドニースびと)。ディトゥア神と人間との間に生まれたが、彼女は母親と同じく、人間としての人生を歩むことを決意した。フェル・アルム島のハシュオン卿のもとで魔法の勉強をしていたが、今は魔法学の勉強のためにアルトツァーン王国におり、魔法使いとして生計を立てている。

ハーン………………………宵闇の公子レオズス。エリスメアの父。人間の身体を得てすでに百五十年以上経っているが、未だに若々しい姿を保っている。タール弾きであり、戦士。若干の術も心得ている。滅多なことではレオズスとしての本領は発揮しない。

序章

(一)

 風をかき分け、空を疾駆する。
 ミスティンキルは、眼下に広がる平原が一面、新緑に色づいているのを見て取った。見上げると蒼天の空には純白の雲がいくつも浮かんでおり、それらは春のうららかな陽光を受けて輝いているかのようだ。

(世界ってのは、こんなに奇麗なもんだったのか)
 ミスティンキルは思った。普段見慣れているはずの色であるにもかかわらず、全く新鮮であるように感じ取れるのは、一時期アリューザ・ガルドの色が褪せたためなのだろう。
 普段あるべきものを失ったときの何とも言えぬ喪失感は消え失せた。色が甦ったことを実感出来た喜びといったら、なんと表現していいものだろうか。今のミスティンキルには、目に見える全てのものが網膜に鮮やかに映る。そしてこの山岳地帯の情景の壮大さは、深く胸に染みこむような感動を彼に与えた。

 ミスティンキルがウィムリーフ、アザスタンと共にデュンサアル山を後にしてからしばらく。最初のうちは物質界での翼の扱い方に四苦八苦していたミスティンキルも、ウィムリーフに教えてもらいながら、ぎこちないながらも何とか飛べるようになっていた。今は龍のアザスタンを中心に据えて横一列に並び、デュンサアルの町を目指して飛んでいるのだ。

 だが、何事もなくたどり着けるはずがないことは、先のウィムリーフの言葉からも明らかだ。現に、彼らの前方には幾人かの人影が見えるようになっているのだ。二人の“炎の司”と、幾人かの兵士達が。
 ミスティンキルとウィムリーフが聖地デュンサアル山に赴くに際して、ちょっとした騒ぎを起こしたのは事実だ。あの時、“炎の司”としての面子を完全につぶされた、見張り小屋の守人ジェオーレは、おそらく真っ先に、父であり“司の長”の一人であるマイゼークに事の次第をつぶさに告げたのだろう。

「おお、いるいる。やっぱりウィムの言うとおりだ。あのマイゼーク親子が、兵士を連れて待ちかまえてやがる」
 目の良いミスティンキルは、眼前に映る小さな人影が誰のものなのか、容易に見てとった。彼らもまた空中に浮いているが、こちらの様子にも気づいているためだろう、滞空したままでそれ以上さらに進んでくるつもりはないようだ。特にアザスタンの巨体は、一目見ただけで(ドゥール・サウベレーン)であると分かるだろう。
 いくら龍の末裔であるドゥローム族といえども、迫り来る龍に対して、刃を向けたまま突き進むなど愚の骨頂であることは分かっている。龍は彼らドゥロームにとって畏敬の念を払うべき存在なのだから。
 おそらく今の彼らは、予想だにしなかった龍の出現に対して、どのように対処すべきか考えつつ狼狽えているに違いない。

「万が一って事もあるから、風を整えておくわ」
 “風の司”であるウィムリーフが、空中に文字を描くように左から右へと細かに指を動かす。すると、風を切る音がぴたりと止んだ。もし相手が弓を射てきたとしても矢を逸らすようにと、彼女は風に働きかけたのだ。奇妙な静けさの中、三人はさらに飛んでいくのだった。
「……でも、このまま前に進んじゃって本当に大丈夫なんでしょうね? アザスタンも、ミストもまるで平気な顔をしているんだけど、なんでそんな平然としていられるの? あたしたち、デュンサアルの掟を破っちゃってるのよ?」
 ウィムリーフは心配げに龍の顔を見上げた。
【事はたやすく済む。ウィムリーフが心配することはなにもない】
 アザスタンは、ただそれだけ言った。

◆◆◆◆

 ミスティンキルとアザスタンの予想はたがわなかった。
 そして――デュンサアルのドゥローム達にとっては、龍の飛来など予想出来るはずもなかった。

 両者は、平原と岩山とを隔てている断崖にて対峙することになった。ちょうど真下には細長い吊り橋が架かっている。ミスティンキルとウィムリーフが“炎の(デ・イグ)”に向かったあの晩、守人をつとめていたジェオーレを出し抜いたちょうどその場所で、皮肉にも再会することになったのだ。
 マイゼークとその息子、そして兵士達は表面上は落ち着き払ったさまを見せている。だが、彼らの胸に秘めた本当の感情は、隠そうとしても隠しきれるものではない。お互いの顔が見て取れるほどの距離にまで近づいた今、対峙する相手の顔には狼狽している様子がはっきりと現れている。おそらく、生きた心地はしていないだろう。アザスタンの巨大な翼の羽音と、しゅうしゅうという炎まじりの息づかいは、彼らに恐怖しかもたらさない。

 口火を切って話しかけてきたのは、マイゼークだった。
〔龍様。ここより先はわたくしどもドゥロームが住まう地でございます。わたくしめは炎の“司の長”のひとり、マイゼーク・シェズウニグと申す者。隣におりますのがせがれのジェオーレでございます〕
 顔色をうかがうような慇懃(いんぎん)なさまで彼は挨拶をし、ジェオーレもぎこちなくではあるが深々と礼をした。
〔そしてこれに控えておりますのは、町の衛兵たちでございます。彼らは武器を携えてはおりますが、決してあなた様に危害をもたらすものではありません。……実は、あなた様の横におります若いドゥロームが、我らの掟を破ったのではないかという疑いがあります。ですので、その者と、後はそこの……アイバーフィンを我らの法の下において裁く必要がありますゆえ、どうかお引き渡し頂きたいと……〕
【ならぬな】
 背中に冷や汗をかきながら、それでも司の長としての体裁を何とか保ちつつ話すマイゼークだったが、蒼龍は彼に最後まで言葉を告げさせることなく、拒絶した。

 アザスタンの声を聞いた者の中には即座に失神した者もいた。龍の言葉は、それそのものが魔力を持つとも言われている。ドゥローム達の筆頭に立って交渉をしようとしていたマイゼークですら、ひっと小さな悲鳴を上げた。彼は額に脂汗をにじませ、なんとか次の言葉を紡ぎ出そうとしたが、出来なかった。
 あわれな司の長を見やりつつ、アザスタンは言った。
【デュンサアルの龍人よ。わしとて遡れば、かつてはドゥロームであり“司の長”の一人であった者だ。掟破りは、場合によっては厳罰に処されることも知っておるし、この者達がなにをしでかしたのかも承知している。そしてマイゼークよ、お前の立場と行動も理解出来る。だが、その(とが)を抱え込んだこの者達を、“炎の(デ・イグ)”は迎え入れたのだ。――わしは“炎の(デ・イグ)”にて、龍王様を警護する役をいただいておる、名をアザスタンという。我が名において、わしとこの者達をこのまま行かせてもらいたい】
 龍の言葉は誇りに満ちており、これを拒絶することは、一介の人間にはとうてい出来るものではなかった。ついにマイゼークは折れた。
〔し、しかしアザスタン様……。まことにもって恐縮ではございますが、ドゥール・サウベレーンは我らにとって神にも等しい敬意を払うべきお方であります。あなたのそのご立派なお姿をデュンサアルの町人たちが見れば、必ず驚きましょう。……その者達の犯した罪については不問といたしてもかまいません……ですが、もし差し支えないようでありましたら、アザスタン様はこのままお引き取り頂きたく……〕
【意外と聞けぬ男よな、お前は】
 アザスタンはそう言うと、天に向かって頭を向けると一声、大きく吼えた。

 轟くようなその音をまともに聞いてしまったドゥローム達は、再び恐怖に震えた。ついにはジェオーレすらも失神してしまい、父親マイゼークは彼を抱き留めた。
 もはや顔色(がんしょく)を無くしたマイゼークが再び、恐る恐る龍の様子を見ると、そこには巨体を誇る龍の姿はなく、五フィーレ弱ほどの身長を持つ龍頭の戦士がいた。
「この姿ではどうだ。――これでもまだ不服か? ならばドゥロームの姿に変化(へんげ)してもいいのだぞ」
〔お、お待ち下さい!〕
 慌てふためいた様子でマイゼークが取り繕うとする。
〔龍であるあなた様に、なにもそこまでして頂くことはございません! ……分かりました。マイゼーク・シェズウニグは、炎の“司の長”の名において、あなた様とそこなる二人をデュンサアルの町へお招き申し上げます」
「賢明な判断だ」
 アザスタンは言った。
〔ひとつお伺いしてよろしいでしょうか。なぜ、あなた様はそうまでして、そこなる者達をかばいなさるのでしょうか?〕

 アザスタンは口元を歪ませるように笑い、言った。
「この両名は“炎の(デ・イグ)”の中心部まで赴き、龍王様より直々の命を承り、さらには月の界へと向かった。かの地で彼らが成し遂げたことによって、色褪せていたアリューザ・ガルドの色はすべて元に戻ったのだ。今日、目にするこのような景色にな。……この行いは、デュンサアルの掟破りを償ってなお余りあるものであるどころか、むしろ賞賛されてしかるべきものではないか? ミスティンキル・グレスヴェンドとウィムリーフ・テルタージ。これなる両名は、大事を成し遂げた者達なのだ。それゆえに“司の長”マイゼークよ。――龍王イリリエンの御名をお借りして、誉れ高き両名の身の安全をすべからく確保するよう、そなたに命ずる!」

 してやったり。
 ミスティンキルは腕を組み、余裕の笑みを浮かべてマイゼークを見やった。その視線に気づいたマイゼークは、さも悔しそうな様子で彼を一瞥すると身を翻し、まだどうにか平静を保っている残りの兵士達に告げた。
〔予定していた事項は……取り消しだ! 我々はかの方々を、“集いの館”へ――司の長の集う館へとお連れ申し上げることになった。……以上!〕
 デュンサアルのドゥローム達はこうして、ミスティンキル達を先導するかたちで町へと戻っていくのだった。

◆◆◆◆

「え?! ……ちょっと待てよ?」
 突然思い出したかのように、ミスティンキルは声をあげた。彼はウィムリーフの側まで飛んでいくと、彼女に問いかけた。
「今までお前の姓を聞いたことがなかったから、アイバーフィンってのは自分たちの姓を人に名乗らないもんなのかと思ってたけど……ウィムリーフ・テルタージ、さっきそう言ってたよな? なあ、アザスタン」
 アザスタンは頷いた。そういえば月の界で魔導を解き放つに際しても、ウィムリーフ自身が名乗っていたではないか。テルタージという姓を。

 冒険家テルタージの名は、アリューザ・ガルドに広く知れ渡っている。彼らは夫婦であり、前人未踏の地域を探索する冒険家として名を馳せた。とくにアズニール暦千百年代の初頭に世に出た『天を彷徨う城キュルウェルセ』の冒険行は、名著として今も広く知られているものだ。文字の読めないミスティンキルも、故郷の島を時たま訪れてくる吟遊詩人の歌を通して、幼い頃から彼らの冒険行を何度か聞いた覚えがある。

 ウィムリーフは照れくさそうに鼻の頭をかきながらミスティンキルに言った。
「この冒険が終わったら、あんたに明かそう、とずっと思ってたんだけどね。そう。あたしの姓はテルタージ。ひょっとしたら隠す必要なんてないのかも知れないとも思ったけど、『冒険家テルタージの孫娘』っていう色眼鏡を付けられて見られるのだけはいやだったから、名乗らなかっただけ。気を悪くしないでね、ミスト」
「いや、別に怒ったりはしねえけど……びっくりした。じゃあ、ウィムが冒険家を目指しているってのは、やっぱり冒険家テルタージの影響なんだな。しかし……そうか。おれはずっと、テルタージはバイラルだとばかり思っていたけど、アイバーフィンだったとはなぁ。まだ健在なのか?」
「今はお婆さまのふるさとで静かに暮らしてるっていうふうに聞いてる。あと、本当のところを言っちゃうと、お爺さまのほうはアイバーフィンじゃないらしいの。セルアンディルだっけな? 今のアリューザ・ガルドにはいないとされてる種族の末裔らしいんだけど、詳しいところはあたしはあまり知らないのよ。……でも、あたしがこうして大きな魔力を持っているのは、多分お爺さまお婆さまの血の影響なんじゃないか、っていうふうには言われたことがある。とにかく、あたしが冒険家になりたいと思ったきっかけは、あたしも“冒険家テルタージ”のように名を馳せたい、と思ったから。それは違いないわ」
「おれたちがやり遂げた冒険行ってのも、テルタージの冒険に負けないくらいすごいもんだろう?」
「そう! とてつもないことをあたしたちは成し遂げちゃったのよ! 帰ったら早速今回の出来事を思い出せるだけ思い出して、書き留めなきゃね! もちろんミスト、あんたにも手伝ってもらうからね!」
 熱い意志を秘めた口調で言った後、ウィムリーフはミスティンキルに、にこりと微笑んだ。その屈託のない微笑みから、これからしばらくの間こき使われることを予見したミスティンキルは、重い溜息をつくほかなかった。


(二)

 アルトツァーン王国の王都、ガレン・デュイル。
 その王立図書館に通い詰めていたエリスメアは、ようやく最後の本を写し終え、おもむろに原本を閉じると、窓から外の景色を見やった。

 小高い丘の上に建築されたこの図書館からは、城下町の様子がよく分かる。町の中心を流れるヘイネデュオン河は空の色そのままに青く映え、ファルビン様式の赤い屋根の家並みは日の光を受けて鮮やかに彼女の青い瞳に飛び込んでくる。時はすでに昼近くになっているため、家々の煙突からは煙が立ち上っている。そんないつもと変わらない情景が今、ようやく人々の暮らしに戻ってきていた。
(ふう……。平和っていいものねえ)
 エリスメアは、三日前までの市中が混乱した様を思い起こし、あらためてそう思うのだった。

◆◆◆◆

 この都市、ガレン・デュイルは、遡ること二千年近く前に作られた、いにしえよりの都である。
 古くはイクリーク王国の王都であったこの城下町は、無事平穏のまま今日まで続いてきたわけではない。二千年という歴史の中では、血みどろの戦乱や黒々とした陰謀が渦巻いていた時代もあったが、それすら色褪せてしまうような大惨事が過去の歴史には刻まれているのだ。

 今より千五百年ほど昔。この世界には統一王国であるイクリーク王朝があった。当時まさに文化の爛熟期にあったイクリークであるが、腐敗が蔓延していた王朝そのものの没落の兆しは隠しきれるものではなかった。偶然にも、それと時を同じくして、世界のありとあらゆる事物の色が薄れていったのである。
 アリューザ・ガルドにおける色褪せは、今回が初めてではなかったのだ。
 当時の人々はこの超常の現象に恐れを抱くが、魔術の研究がまだ行われていなかったこの時代では原因も掴めず、なすすべがなかった。やがて厭世の空気が世界を覆い尽くし、終末の退廃した雰囲気に満ちていったのだった。

 時のイクリーク国王であったアントス家のタイディアは、魔術の異端書に没頭し、ついには不死の研究という禁断の領域にまで足を踏み入れてしまった。酸鼻きわまりない禍々しい儀式の果てに、魔族のごとき異形と化したタイディアは、“魔界(サビュラヘム)”の住人を喚び寄せてしまったのだ。そして神々の時代において暗黒の宙に封印されていた“黒き神”冥王ザビュールがついに呪縛から解き放たれ、人間の世界アリューザ・ガルドに降臨。さらにはかの神が本来住まうべき場所である“魔界(サビュラヘム)”に至り、アリューザ・ガルドとの次元の接点を解放してしまったのだ。
 人類史上において最大の惨禍である、“黒き災厄の時代”はここにはじまったのだ。

 事の発端を引き起こした国王タイディアを屠れば、ザビュールに一矢報いることが出来ると考えたイクリーク王朝の諸卿は、魔族と化した国王を暗殺したが、その報復たるやおぞましいものであった。麗しい王都ガレン・デュイルは、火山が直下で爆発したかのように一瞬にして吹き飛び、すぐさま襲来した魔の眷族によって地獄絵さながらの大殺戮が行われたのだ。流域のヘイネデュオン河は血のために真っ赤に染まり、見せしめのために杭で貫かれた死体は、廃墟と化したガレン・デュイルを取り囲むほどの数に至ったと伝えられている。

 それから三百年を経て、ディトゥア神の一人、“宵闇の公子”レオズスが聖剣ガザ・ルイアートを、アントス家の末裔であるイナッシュに渡した。彼ら二人は“魔界(サビュラヘム)”に乗り込み、ついにはザビュールを打ち破った。これは『イナッシュの勲』に語られるとおりである。

 ザビュールの暗黒の支配が終焉を迎えてから五百年経った後、イクリーク王朝の後継である東方イクリーク皇国によって現在の都市の基盤が形成され、今はアルトツァーン王国の王都となり大いに発展しているが、冥王による暗黒の時代の恐怖がどのようなものであったかというのは、人々に今なお語り伝えられるものである。

◆◆◆◆

 だからなのだ。ガレン・デュイルの住民達が、先頃の“色褪せ”について過敏なまでに反応し、恐れおののいたというのは。
 かの冥王が復活したのだ! と誰かが声高に叫ぶと、それはすぐさま町中に蔓延した。ガレン・デュイル中が恐慌状態に陥るのには一日とかからなかった。

 魔術をなりわいとする者達や、権威ある学者達の意見も二つに分かれた。アリューザ・ガルドの色が褪せたことがザビュール復活の遠因となると唱える一派と、それとは反対に、ザビュールとは全く関連性がないと唱える一派である。
 アリューザ・ガルドに現存するただ一人の魔導師ハシュオン卿に師事しているエリスメアは、今回の件は全くザビュールとは関係がないと考えた。師と同様に彼女も、色が失われた背景には魔導が絡んでおり、色褪せたというのはおそらくは“原初の色”のなにかしらが働かなくなったためだろう、と推測したのだ。そして結果として、今となってはそれが正しかったことが実証された。
 だが混乱のさなかにあった当時、いくら彼女が声高に、意見を異にする者達を相手に説得しても、「机上の論理に過ぎない」「確証がない」などと言われるだけだった。また、さらには町の人々を説得し、騒ぎを沈静化しようと必死になったが、恐るべき冥王からどのようにすれば身の安全を確保できるか、という考えのみにとらわれ怯えていた人々の心に届くはずもなかった。そうこうしているうちにエリスメア自身も、役人達やほかの魔術師達と同様、市中の秩序の回復に手一杯となってしまい、ここ二週間ばかりは魔導の勉強どころではなかった。もっとも、ガレン・デュイルの図書館で学ぼうと思っていたことの大半はすでに終えていたのではあったが。

 外の景色を見ていたエリスメアは、ふと真下を見下ろした。石畳をめぐらせた図書館の入り口には、こぢんまりとした噴水台がひとつおかれ、中央に座す婦人の彫像が抱え持つ大きな瓶からは水が流れ落ちている。そして、その噴水の傍らには、いかにも所在無さげに腰掛けている一人の金髪の青年の姿があった。“彼”はもうここに来ていたのだ。
(急がなきゃ……)
 そう思ったエリスメアは窓を閉め、『未踏の地ラミシス ~カストルウェンとレオウドゥールが行いし、魔導王国ラミシス遺跡の冒険行について――数多くの吟遊詩人の歌より~』と題された原本と、自分の写本を手に取ると、そそくさと読書室を後にした。

◆◆◆◆

 魔術師エリスメア・メウゼル - ティアーは、今年二十歳となったベルドニースびとである。彼女の母親は生粋のベルドニースびとであるが、父親は金髪碧眼こそ持ち合わせていたものの、同じ氏族ではなかった。いや、正確に言えば人間ではなかったのである。
 彼女の父親はディトゥア神族の一人。“宵闇の公子”の二つ名で世に知られる、闇を司る神レオズスなのだ。

 レオズスはかつて“魔導の暴走”の脅威を消し去ったが、その後にアリューザ・ガルドに恐怖を持って君臨したという過去を持つことから、未だに一部の人間達にはさも恐ろしい神であるかのように誤解されている節がある。しかし、その時のレオズスは太古の“混沌”の力に魅入られ、本来の自分を失っていたのだ。
 忘れてはならない。かつてイナッシュと共に“魔界(サビュラヘム)”に乗り込み、冥王と対峙したもう一人の英雄が誰であったかを。
 それに“闇”そのものも忌み嫌われることもあるが、闇無くして光もまた存在し得ないのも事実であるし、また闇の意味するものはけしておぞましいものばかりではない。夜の静寂、安らぎとなどといった事象をも闇は司っているのだ。

 エリスメアの父がレオズスその人であるということは、彼女の家族や、魔法の師匠であるハシュオン卿を除いては誰も知らないことである。彼女にしてみれば、“神の子供”という事実を知られたとしても別にかまわないと思っている。しかし人間達の中にはエリスメアを利用しようなどと考える輩がいないとも限らない。母と同じく人間としての生を選んだ彼女には、神としての力などないというのに。

 エリスメアは、アリューザ・ガルド北西部に位置する島、フェル・アルム島で生を受けた。彼女の母であるライニィ・メイゼルは、西方大陸(エヴェルク)のフィレイク王国からフェル・アルムに移り住んだ商家の娘だ。この一家はかねてよりハシュオン卿からの信頼を得ており、ライニィに娘が誕生した折りにはハシュオン卿直々に“エリスメア”という名前を授かったのだ。
 母ライニィはそれからも変わらずフェル・アルムにて商いを続けているが、父であるレオズスはあまり姿を現すことがない。彼は、失われた聖剣ガザ・ルイアートを見つけ出すという使命をその身に担い、常にアリューザ・ガルドやそれ以外の諸次元を彷徨しているため、なかなか家族と一緒に過ごす機会がないのだ。
 それでもこの一家は強い絆で結ばれている、というようにエリスメア自身は感じている。

 エリスメアに魔法の素質があると見抜いたのは、父レオズスだった。レオズスはエリスメアの家族と相談した後に友人のハシュオン卿に掛け合い、娘が学校を卒業した後には魔法を教えてやって欲しいと頼んだのだ。
 ハシュオン卿はバイラル族ではなく、森の民エシアルル族である。彼はすでに千年以上の長きに渡り生きてきたのだが、ついに老いの時期を迎え、近年では自らの後継者が欲しい、とレオズスにこぼしたこともあった。単なる一介の魔法使いではなく、魔導師としての知識を習得した人間にこそ自らのすべを継承させ、後世に魔導学を遺して欲しいというのが、アリューザ・ガルドに現存する唯一の魔導師ハシュオン卿の切なる願いだったのだ。
 それゆえにエリスメアの才能が魔法に突出していたという事は、ハシュオン卿にとっても大いなる朗報だった。彼はエリスメアを弟子とし、それから六年間かけて自らの手元で魔法について教えたのだった。彼が弟子に教え説いたのは魔法や魔導についての知識や発動法のみならず、魔法が世界においてどのような役割を果たすべきか、ひいては世界と魔法との力の相関関係をも含んだ非常に高度な内容であった。若い弟子は、時折師匠に反発しながらも、賢明に教えを吸収していき、十六歳になる頃には当代一の魔法使いとなっていたのだった。

 彼女はその後、師の元を離れて西方大陸(エヴェルク)へと渡り、魔法使いとして生計を立てて実社会に身を置きながら、魔法の修行に励む道を選んだ。フィレイク王国王都ファウベル・ノーエに二年間滞在した後、さらに海を渡り東方大陸(ユードフェンリル)のアルトツァーン王国王都ガレン・デュイルで生活をしていた。

 そろそろ師匠の元に戻り再び魔法についてさらに教えを請おう。彼女がそう思い始めた矢先のことだった。父レオズスから魔法を使った伝言が彼女の元に届いたのは。

◆◆◆◆

 ~ エリスメア、元気かい? なかなか会える機会が無くて申し訳なく思ってる。
 さて、いきなり唐突なお願いとなってしまい申し訳ないのだが、父と一緒に旅に出てはくれないだろうか? 向かう先はユードフェンリルの南部、ドゥローム達が住むデュンサアルという場所だ。
 今回の件については、君の師であるハシュオン殿からも許しを頂いているし、何よりエリスにとってもいい修行の機会になる、と思う。
 この手紙が届いてからきっかり五日後の昼に、エリスの元に行くつもりだ。詳細はその時に話したいと思う。

 天土すべての聖霊たちが、君に祝福をもたらすことを願って。
 愛する娘エリスメアへ 父レオズス、またの名をタール弾きのティアー・ハーンより~

◆◆◆◆

 図書館の扉の前に立ったエリスメアは、高鳴る鼓動を少しでも抑えようとするかのように、これから待ち受ける旅への決意のほどを新たにするかのように、大きく息を吸い込み、そしてはき出した。
 そうして堅牢な扉をぎいっと開け、外へと一歩踏み出す。
 薄暗がりの図書館から一転して、外の景色は明澄で、目に映る全ての事物が日の光を反射しているかのようだ。一瞬エリスメアは眩惑されたが、すぐに目が慣れた。埃くさい図書館の匂いとは違い、外の空気は実にすがすがしい。
 真正面に目を向けると、そこには噴水がある。そして、久しく会ってなかった父の姿があった。思うより早く、エリスメアは彼の元へと駆けだしていった。
「父さま!」
 その声に父レオズスは振り返り、駆けてくる娘に笑顔で手を振って応えた。

 こうして、彼ら父娘の旅は始まったのだった。

第一章 旅立ち

(一)

 夢。
 眠りに就いている時、人はしばしば夢を見ることがある。たとえばバイラルの商人だろうと、数百年を生きているエシアルルの民だろうと関わりなく、誰しも夢を見るものだ。
 けれども朝起きた時、夢の内容をどれくらい把握しているかについては人それぞれだ。情景や登場人物などが薄ぼんやりとしか思い出せない者もいれば、夢物語の内容や夢の中の人物が喋った言葉まで的確に把握している者もいるのだ。

 ミスティンキルとウィムリーフは、この点において大きな違いがあった。まだ二人がアルトツァーン王国内に滞在中だった時分に、今朝見たお互いの夢の中身について何度か話題にしたこともあった。たいていの場合、ミスティンキルはほんの半刻前に自分が見ていた夢ですらあまり覚えておらず、逆にウィムリーフはどういった場所に誰が登場してどんなことを喋ったか、という詳細まで明確に覚えていたものだった。
 どのような夢を見たかを忘れがちなミスティンキルが、ある程度夢の内容を覚えている時というのは、決まって彼が悪夢にうなされた翌日のことだった。九ヶ月前、彼は辛い思いと共に故郷をあとにしたわけであるが、それまでに蓄積された心の傷はそう簡単にふさがるものではない。たまに“夢”というかたちをとって、自分一人の胸の内に抱え込んだ憤まんが傷跡から膿のようににじみ出てくるのだった。
 夢にうなされるという経験を持たないウィムリーフは、苦しむミスティンキルの様子をただ見守ったり、夢を見たあとに彼をなだめるほか無かったものだ。

 それが、ここ最近になって変わってきた。
 原因のひとつは、月からデュンサアルに帰ってきてからというもの、二人に対する待遇がそれまでと大きく変わったことだろう。デュンサアルに到着したばかりの時、彼らは冷たくあしらわれたものだ。ミスティンキルは“ウォンゼ・パイエ《海蛇の落人》”と“司の長”から罵られたし、ウィムリーフに至っては身の安全のために髪を黒く染め上げ、自らがアイバーフィンであることを隠していたのだ。
 だが今や二人はちょっとした英雄待遇だ。世界の色を取り戻すために冒険をした、という事実によってデュンサアルやその付近の村人達は彼らを歓迎し心を開くようになり、一緒に旅を続けてきた吟遊詩人からは、二人を讃える唄を作らせてほしいとせがまれるようになった。“炎の司”となったミスティンキルは、“司の長”の筆頭であるエツェントゥーから一目を置かれる存在になったし、ウィムリーフも銀髪であることを気にせずに出歩けるようになった。デュンサアルの住民は、外に住まう者に対してもっと心を開くべきだ、という意見がもっともらしく聞かれるようになったのもつい最近のことだ。
 “聖地を守護する選ばれた者”という事はデュンサアルに住むドゥロームにとって大いなる誇りであったが、その誇りは知らず知らずのうちに驕慢と化し、いつしか古いしがらみから抜け出せなくなってしまっていた。
 ミスティンキル達二人の存在は新たな風となり、凝り固まったデュンサアルに大きな波紋を起こした。新しいデュンサアルが、これからようやく形成されていくのかもしれない、そんな期待を大いに抱かせる昨今であった。

 そしてミスティンキルもまた、過去のしがらみから解き放たれたのだ。
 魔導の封印を解き放って月の界から帰還してから早二週間が過ぎようとしているが、およそウィムリーフの知る限りではミスティンキルは夢にうなされたことがない。ドゥロームとして“炎の司”という確固とした立場を自分の力で築き上げたことと、色の異変を正したという大きな事柄をやってのけた達成感が、彼に本当の自信をつけさせたのだろう。
 それまで忌むべきもの以外の何ものでもなかった赤い瞳は、今や彼の魔力をあらわす象徴であり、ミスティンキル自身の誇りとなった。
 ミスティンキルにとっての悪夢は終わりを告げたのだ。
 ウィムリーフは――変わらず夢にうなされることなどはなかった。しかし、それまでとは何かが違って来つつあるのを彼女自身認識していた。

◆◆◆◆

(……あの夢の……続きか……)

 自分でも気が付かないうちにいつしか机に伏していたウィムリーフは、ふとした拍子に目を覚ました。窓から差し込む光はすでに弱まっており、日が暮れて間もないことをウィムリーフに教えるのだった。気だるげな面持ちのまま部屋の周囲を見渡すが、ミスティンキルの姿はない。先刻、彼女が本を読んでいる時分には部屋にいて、所在なさげに椅子に腰掛けていた彼だったが、ウィムリーフが寝てしまったためだろう。おそらくはこの宿から外に出て、今頃は近くの酒場で気の合ったドゥローム同士と酒を酌み交わしているに違いない。
 これが冒険記の編纂中であれば、ミスティンキルに手伝ってもらうために有無を言わさずに彼を酒場から連れ帰ったこともしばしばあったが、編纂が無事に終わった今となっては、彼の憂さ晴らしをわざわざ邪魔しに行く必要もない、とウィムリーフは思い、再び机に突っ伏した。
 目を閉じると、先ほどまで見ていた夢の様子が再現されるようだった。生来、夢の内容をよく覚えているウィムリーフだったが、とくにここ最近の夢は、奇妙とまで言える現実感を伴っているように彼女には思えた。夢の情景や出来事は荒唐無稽なものではなく、きちんとした現実性を持っていたし、一日前の夢の続きを見る、などといったこともしばしば起こっていた。

 夢の中の彼女はどこかの宮殿にいるようだった。純白の壁と黒々とした床、銀の装飾物によって形成された、美しくもどこか寒々しさを感じさせるこの宮殿内部の情景は、ウィムリーフがこれまで実際見た覚えなどまったく無い。少なくともフィレイク王国やアルトツァーン王国、さらに彼女の生まれ故郷のティレス王国のどの建築様式とも異なっている。しかし奇妙なことにウィムリーフの意識は、どういうわけかこの情景に対して懐かしさ、親しみすらをも感じるのだった。この宮殿は、どこにあるのだろうか? 聞くところによると、西方大陸(エヴェルク)のファグディワイス王国などは、彼女が知っている国とは赴きを異にしているらしいが、この夢の舞台はその辺りなのだろうか?
 昨晩は、部屋にいたところを誰かに呼ばれて外に出るところで夢が終わったが、今し方はまさにその続きを見ていたのだ。

 居室から廊下へと出たウィムリーフの意識は、迷路のように複雑で曲がりくねったその回廊を、迷うこともなく目的の場所に向けて歩き続けた。途中、廊下を横にそれて階段を上ると再び回廊が延びている。渡り廊下ともなっているこの回廊はひたすら真っ直ぐ続いており、外の景色が見渡せるようにと大きめの窓がいくつもくり抜いてあるのだった。
 時は夕刻。間もなくすれば回廊に連なる豪奢な燭台には赤々と炎がともることだろう。大きなガラスの一枚板をはめ込んだ窓からは中庭の様子が一望でき、あたかも氷でこしらえたかのような透明で見事な彫刻が、庭の中央と四隅と合わせて五体、堂々と構えているのが見える。あれら、見たものに畏怖すら感じさせるかのような大きな彫刻は、どこに住まう動物達を象ったものなのだろうか? 彼女は皆目見当がつかなかったが、少なくともアリューザ・ガルドの生物ではないことは分かった。
 はたと、再び誰かに呼ばれた気がして視線を廊下に戻したちょうどその時――ウィムリーフは夢から覚めたのだった。

 なぜ、このような夢を見るようになったのだろう?
 その原因は分からないが、分かっていることがひとつだけあった。それは、夢を見始めた時期というのは、彼女がラミシス遺跡を訪れたいと願うようになった頃――二日前と、奇妙なことにちょうど一致する、ということだ。あの夢の情景はもしかすると、ウィムリーフの願望が創り出した、在りし日のラミシスなのかもしれない。
 ウィムリーフは体を起こし、ぼさぼさとなった髪の毛を手櫛で整えると、寝入る前に読んでいた本に手を伸ばし、再び続きを読み始めるのだった。彼女がここ二日ばかり夢中になっている本。その表紙にはこう題名が書いてあった。
 『未踏の地ラミシス ~カストルウェンとレオウドゥールが行いし、魔導王国ラミシス遺跡の冒険行について――数多くの吟遊詩人の歌より~』

◆◆◆◆

 ラミシス遺跡はその昔、魔導王国ラミシスとしてアリューザ・ガルドに存在していた。
 この王国が実際にあったのは今から遡ること九百年ほど昔。統一王国アズニール王朝がこのアリューザ・ガルドを統べていた時代のこととなる。
 デュンサアルよりさらに南下し、スフフォイル海を越えた先にひとつの大きな島があった。この島はもともと人が住まう地ではなかったが、“漆黒の導師”を名乗る魔法使いスガルトを筆頭に魔法使いが集まりだし、やがてこの地は魔法研究のひとつの拠点となった。だが、この王国の目指す目的とは、およそ人間が踏み込んではならない領域だったのだ。それは肉体と魂を永遠にあらしめること、すなわち不死であった。魔法という大いなる力を究極まで肥大化させることによって、神々の領域にまで近づくことこそを究極の命題とおいていたのだ。
 しかし過去の歴史という名の教訓に基づけば、神の領域を目指すことは禁忌に他ならない。さらに昔、冥王ザビュールが封印を破って降臨を果たした原因もそこにあるのだから。事実、この魔導王国においては、口に出すのもはばかられるようなおぞましい儀式が幾度と無く繰り返されていたし、王国中枢の魔法使い達は、常軌を逸したあの忌まわしきザビュール崇拝者達とも親しい関係にあったとすら言われている。

 とうとうラミシス打倒の軍勢が動き出した。その筆頭は魔導師シング・ディール。彼はスガルトの血族であるが、漆黒の魔導師の狂気から逃れるために離縁していた。ディールはアズニール王朝の諸卿より助力を受け、軍勢を引き連れてラミシスに攻め入るのだった。しかし、大陸とラミシスを隔てるスフフォイル海を渡る際、強力な魔力障壁に阻まれて戦力は壊滅、ディールは敗走することになる。
 ディールを助けたのはドゥール・サウベレーンのヒュールリットだった。“朱色(あけいろ)のヒュールリット”とも呼ばれるこの龍はもともとドゥロームであったのだが、“炎の(デ・イグ)”に赴いて龍化の資格を得たために朱色の躯を持つ龍となったのだ。ヒュールリットは他の龍達を呼び起こし、彼ら龍達はディールらと共に行動を起こした。ディールとその軍勢は龍に乗り、ラミシスの魔法障壁を打破してついに魔導王国へと至った。
 戦いをくぐり抜けたディールはヒュールリットと共に、玉座の間に降り立った。魔法を極めた王スガルトも、龍と魔導師の力には敵わず、ディールの鍛えた闇の剣、漆黒の雄飛すなわち“レヒン・ティルル”によって葬り去られた。
 王を失ったラミシスは浮き足立ち、アズニール軍と龍達によってあっけなく滅び去った。以来この地は廃墟と化し、人を寄せ付けない孤島となった。
 これが魔導王国ラミシス興亡のあらましである。

 以来、遺跡となったラミシスには人が立ち入ることがなかったが、わずかばかりの例外があった。それが今なお吟遊詩人達の唄に詠まれている、カストルウェンとレオウドゥールによる冒険行である。
 この二人はその後、それぞれアルトツァーン王国とメケドルキュア王国の初代国王となったのだが、領土を持たない若い時分からの親友同士であり、共にアリューザ・ガルド各地を旅して巡ったという。彼らはこれらの冒険行を書物として遺すことはなかったが、後世に今なお語り伝えられているのは、ひとえに吟遊詩人達の紡ぐ唄の数々によるものである。
 そんな若き彼らの冒険行のひとつが、ラミシス遺跡巡りであった。吟遊詩人の語るところによると、カストルウェン達は、一匹の龍に乗ってラミシスの荒れ野に降り立ったとされる。さらにはかの王都オーヴ・ディンデを取り囲む四つの塔に入り込み、それらに巣くっていた(ゾアヴァンゲル)達を退治して財宝を持ち帰った、とある。だが、そんな彼らであっても王都にだけは入ることが出来なかったらしい。四つの塔の内側は常に濃い霧で覆われており、全くと言っていいほど視界が確保できないため、血気盛んで才気溢れる若者達とは言えども、王都の探索は断念せざるを得なかったと言われている。

 だったら、自分がその謎に包まれた王都、オーヴ・ディンデの有様を書き留めたい――。
 冒険家として自信をつけたウィムリーフがそう考えるのは至極当然との事とも言えた。
「あたしは……ここに行かなきゃならないのよ!」
 誰に言うでもなく、しかし強い意志を込めてウィムリーフはひとりごちた。

◆◆◆◆

 ウィムリーフは時の経つのを忘れて読書に没頭していた。冒険家としてラミシスの遺跡に行ってみたいという切なる願望はいや増すばかりだった。前人未踏とも言える地においそれと足を延ばすものではない、それは危険だと分かっていながらも、彼女の心はまだ見ぬ遺跡へとさらに傾いていく。
 本を読み終わった時にはすでに日はどっぷりと暮れ、机を灯すロウソクの光だけが部屋の明かりの全てとなっていた。

「でもあいつ……付いてきてくれるかなぁ……」
 ふとウィムリーフは無愛想な恋人のことを思った。これから行おうとしている冒険行は、全くの彼女の独断だ。ミスティンキル自身はすでに為すべきことは成し遂げて、さらに冒険記の編纂まで手伝ってもらったのだから、あえて彼を冒険に付き合わせる義理は無い、とも言える。
 だが同時に、彼だからこそ付いてきてほしいという全く相反する感情も芽生えていた。ミスティンキルは彼女以上の大きな魔力を持っているし、それを使いこなすことが出来る。彼が付いてきてくれれば、たとえ魔族があの島を占有していたとしても恐れることなど無いように思えた。何より――共に今までの苦労を分かち合った仲間であり、さらに自分の恋人だからこそ付いてきてほしかったのだ。

(よし! こうなったら……直接確かめてみるしかないわね!)
 酔っぱらっているかもしれないミスティンキルが、ウィムリーフの話を真面目に聞き入ってくれるか定かではないが、ともかく一刻も早くミスティンキルの答えを聞きたかった。彼女が一刻も早く新たな冒険行を開始するために。付いてこないと言われれば多少彼女の心は傷つくだろうが、それだからと言って彼との縁がすっぱりと切れるわけではないだろう。冒険から帰ってきたその日に何気なく再会の挨拶を交わせば、全ては元通りになるに違いない。
 ウィムリーフは決意すると、壁につり掛けてあるランプを手にとって灯をともした。そして本をしまい、机の明かりを消すと部屋の外へと出て行くのだった。


(二)

 ウィムリーフは、ランプの光で足下を確かめながら、急な坂道を息せき切って駆け上がっていった。空はすでに濃紺から黒へと色を変えつつある。もう間もなくすると周囲は真っ暗になってしまうだろう。走りながら何人かのドゥロームとすれ違ったが、彼らはランプを手にしてはいなかった。ドゥロームという種族は比較的夜目が利くのだろうか。
 アルトツァーンの商人達が寝泊まりする旅籠の平地からやや離れたところ、ドゥローム達の住んでいる山あいからもやや離れた場所に、酒場は軒を連ねている。普段は外で酒をたしなむという習慣のないデュンサアルのドゥローム達も、時にはバイラル達と混じって酒を酌み交わすこともある。そのために酒場は両者の住処の中間――岩山の麓あたりに集まっているのだ。とは言え、デュンサアルの慣習を知らない者にとっては不便きわまりない。他の地域であれば、宿屋が酒場を兼ねていたりするものだというのに。
 なぜわざわざ走る必要があるのか、なにが自分をこうまでせき立てているのか、もはやウィムリーフには分からなくなっていた。とにかくミスティンキルに、自分がラミシス遺跡へ旅立つことを伝えなければならない――その一心だけでウィムリーフは道を急ぐのだった。

◆◆◆◆

 酒場の建ち並ぶ界隈にたどり着いたウィムリーフは、この中から一軒の酒場に見当を付けた。たいていの場合この店か、そうでなければもう一軒隣の店かどちらかにミスティンキルが入り浸っているからだ。
 こぢんまりとした木扉を開けると、案の定ミスティンキルはいた。十人も入れば満席となってしまいそうなこの小さな酒場は、とくに装飾品はない質素な造りとなっており、壁に掛けられた二つのランプの光のみが部屋の中を薄暗く照らし出している。隣の店からは楽器の音色と共に浮かれた声が聞こえてきているが、この店には今のところミスティンキル以外の客の姿は見あたらない。
「……あ? ウィムじゃねえか。お先に飲ましてもらってるぜえ!」
 ウィムリーフがやってきたことに気づいたミスティンキルは、杯を片手に上げながらそう言った。顔がずいぶんと赤い。彼は杯に残っていた酒を飲み干して卓に置くと、大きく息をはいた。
「おあいにく様。飲みに来たわけじゃないわ」
 ウィムリーフは同じ机に自分の持ってきたランプを置く。癖の強い酒の匂いをかぎ取ったウィムリーフは、今のミスティンキルになにを言っても無駄だと知った。この地方の特産である火酒は、他のどの地方の酒よりも強いと言われる。火酒という名にふさわしく、それを飲めば龍の体内に宿る炎を得たかのように体が火照り熱くなる。寒さの厳しいデュンサアル地域の冬を乗り越えるためにと造り出された酒だ。
 そんな酒だというのに、ミスティンキルはすでに二杯ほど空けている。今の彼が酩酊しているのは火を見るより明らかだった。ウィムリーフは軽く溜息をついて、まずは店の主と挨拶を交わすと、酔っぱらいに話しかけた。

「今までたった一人で飲んでたっていうの? しようがないわねぇ」
「んん……。なんだよ。飲みに来たんじゃねえのか……。あ、じゃあなにか? まだ冒険誌の手伝いをしてほしいってのか? あと残ってんのは……紙にきちんと文章を書き上げることだけれど、それってウィムの役目だろう? おれはだめだ。文字なんかろくに書けやしないんだから! 今さら文字を覚えろって言われたってそうはいかねえ。それだけは勘弁してくれよなあ」
 ミスティンキルは両手を横に伸ばし、大げさに首を横に振った。ややろれつが回らなくなってきている彼は、いつになく饒舌だ。この調子では彼はたらふく酒をかっくらったあと、突っ伏して寝てしまうに違いない、とウィムリーフは思った。
「別にあんたを連れ戻す気で来たんじゃないって。……あのね。ちょっと別の話があったからここに来たってわけ」
 素っ気ない調子でウィムリーフは言葉を続けた。
「酔っぱらってるミストにあれこれたくさん言っても伝わらないだろうから簡単に話すけど……。あたし、また冒険をしてみるつもり。ここから南にずうっと行ったところに遺跡があるんだけど、そこに行きたくなってね」
「ラミシスの遺跡。……ってやつだろう?」
 酒場の主人から新しい杯を受け取ったミスティンキルは一口酒をあおり、半ば座った目でウィムリーフを見た。

「え? もうミストは知ってたの? ラミシス遺跡のこと」
「昔々の魔法王国、だっけか? そういう怪しげな所があるってのは、ここで飲んでる時に何度か聞いたことがあるからな」
「そう。なら話は早いわ!」
 ウィムリーフはぐっと身を乗り出した。
「なんだってそんなへんぴなところに行こうだなんて考えてるんだ?」
「それはなんと言ってもラミシス遺跡っていうのは、かつての魔法に大きく関わった場所だからよ。魔導を受け継いだ身だったら、その目で確かめたくはならない? それにわざわざ東方大陸(ユードフェンリル)の南の端まで来たんだから、この機会を逃したくない。そう、こんな機会は、望んだってなかなか来るもんじゃないわよ? あたしは今すぐにでも行きたい! って考えてる。……それでミストはどうするのかな、と思ってここまで訊きに来たわけよ」
「まだ、前の冒険誌のまとめだって完成してないってのに。なんでそんなに急ぐ必要があるんだ? もうしばらくはのんびりとしてかねえか?」
「……じゃあ、ミストは行く気にはなれないってわけね? ひょっとしたらこの前の冒険みたいに、予想も付かないとんでもないものが見られるかもしれないのよ?」
 ウィムリーフはミスティンキルの顔をのぞき込んだ。
 そして諦念。
 今までも、多少の憂さ晴らし程度に酒を飲むのであればウィムリーフも目をつぶってきていたが、今日の彼は飲み過ぎている。ミスティンキルの赤い瞳は酒のせいかやや濁ってすらも見える。本来は赤水晶(クィル・バラン)のように澄んだ色をしていたはずなのに。それまでの彼が確固として持ち続けていた、執念とも似た強い意志など今や微塵にも感じられない。
 “炎の司”になるというとりあえずの目的を果たした今の彼は、これからなにをすべきかを見失ってしまったのか――。このままデュンサアルに滞在したままでは、周囲にちやほやされるだけで堕落する一方だ。挙げ句の果てはただの飲んだくれになり果ててしまうに違いない。ウィムリーフは、そんなミスティンキルは見たくなかった。何が何でも事を為し遂げてやる、というどん欲なまでの強い意欲を持っていたからこそ、彼は彼自身であり続けたのだ。

「悪いけどな。おれはその遺跡とやらに用事はないし興味もない。それだったらまだここにいた方がずっといい。もし仮に行くにしてもだ。なにもそんなに焦ることはないと思うぜ? 準備だって色々あるだろうに。幸い時間だけはたっぷりとあるんだし、金についてもおれの持ってる赤水晶(クィル・バラン)を売っていけばいい。だからだ、ここはゆっくりと行かねえか? そうすればおれの気持ちも変わるかもしれないし」
 確かにミスティンキルの言いたいことも分かる。今のウィムリーフは明らかに急いでいるのだから。急ぐあまりに失敗を起こすよりは、ゆっくりと地道に事を構えた方がいいに決まっている。特にそれが前人未踏の地に赴くという、危険が伴う事態であれば、なおさらだ。
「そう……」
 ウィムリーフはしばし考える姿勢を見せた後、わかった、とだけミスティンキルに言って席を立った。
 それでもウィムリーフにとっては、まだ見ぬ地――ラミシスへの冒険行に馳せる想いのほうが勝ったのだ。

「ウィムリーフさん、この方を連れて帰るんじゃないのかね?」
 店主が声をかける。
「彼はまだまだ帰るつもりじゃないようだから、これで引き上げるわ。あたしから伝えたいことは伝えたし」
「なんだ。一緒に飲んでけばいいのに」
 主はやや残念そうに言った。アイバーフィンのウィムリーフに対しても、デュンサアルの住民達はようやく心を開いてくれた。そのことが嬉しくもあったが、ウィムリーフは木扉に手をかけた。
「そうねえ……申し訳ないけどミストに、飲むならあと一杯くらいにして宿に帰るようにと、うながしてくれません? あ、それからその時に伝言をお願いします。『ウィムリーフは遺跡に行きます』ってね!」
「……分かったよ。けれどお前さん、本当にひどく急いでるように見えるねえ。また何かがあったのかい? “司の長”様から指示があったとか」
「いえ、特に長様からはお話を頂いたわけじゃないんです」
「それならばなにも焦ることはないよ。おれもこの酔っぱらいの言うことはもっともだと思うね。ましてラミシスなんざ、ここの住人だって行ったことのないような魔境だ。いくらお前さんが旅に慣れているとは言ってもだ。念には念を入れるに越したことはないと思うがね?」
 そうだ。旅に出ることについても、ミスティンキルが旅籠に戻ってきてから改めて話せば済む話だというのに。なにが自分をこうまで急がせているのだろうか? 冒険に対する憧憬、の一言だけでは片づけられないようにウィムリーフは直感した。急げ急げとせかすこの感情がなぜ突如として生じたのか、もはや分からないが。ただ明らかなのはひとつ。この衝動を打ち消すことはもはや出来なくなっているということだ。
「ありがとう。でもいいんです。あたしはもう、行くって決めたんだから……」
 伝言のほうをお願い、とだけ言うとウィムリーフは店主に軽くお辞儀をし、酒場をあとにした。
「出来ればあんたには付いてきてほしかったな……。どうかしてるわね、あたし。本当、なんでこんなに急いでるんだろう? 多分ミストの言ってることのほうが筋が通ってるってのに……」
 外に出たウィムリーフは、再び宿へ帰る道を急ぐのだった。

◆◆◆◆

 ミスティンキルは愕然とした。それまで酒に酔いしれて真っ赤だった顔が思わず青ざめるほどに。
 あれから半刻が過ぎ、彼が酒場から宿へと帰ってみたら、部屋の雰囲気ががらりと変わっていた。部屋からはウィムリーフの荷物だけがそっくり無くなっているのだ。これには狼狽えるほか無い。なにせ今まで二人で旅をしてきてこんな事は一度たりとも無かったのだから。
「ちょっと待てよ! あいつ本気で遺跡に行くなんて考えてたのか?! しかもたったひとりで!」
 まさかウィムリーフの残した言葉が彼女の本意だったとは。てっきりミスティンキルが一緒でないと行動を起こさないとばかり思っていただけに予想外だった。自分が思ってた以上に、彼女の意志は強固だったのだ。
 ミスティンキルは落ち着こうと、とりあえず椅子に腰掛けた。しかし焦りは募る一方。
「ああもう! なにを急いでるってんだ、あいつは?!」
 もはやいても立ってもいられなくなり、彼は悪態を付きながら足早に部屋から出て行った。すっかり酔いが回り、足下がおぼつかなくなっているというのに、意識だけは冴え渡っていた。いや、そうせざるを得ない状況だった。
「まったく……。いつもとは逆の立場じゃねえかよ……」
 ミスティンキルは宿から外に出るやいなや――見えない翼を広げて夜空へと飛び上がっていくのだった。


(三)

 今夜は新月。月が白銀の光を発しないために、地上はいつにもまして暗闇に閉ざされているかのようだ。しかし夜空に浮かびながらもふだん月光に遮られてきた星々の光は、それぞれの世界が存在することを今宵こそはアリューザ・ガルド中に告げんかとするばかりに輝く。ミスティンキルはどんよりと重くなった両の眼をこすると、青白く光るエウゼンレームの星を見いだそうとした。天空にあって、常に真南にて明るく瞬く星だ。幼い時分からよく知っている星だけに、彼はすぐに探し当てることが出来た。おおよそあの星の方向に向かって今回の騒ぎの主、ウィムリーフが飛んでいるのだ。

 ミスティンキルはウィムリーフの力――青い魔力が正確にどの辺りにあるのか、探し当てようとした。
 すると自然と、ミスティンキルの口からことばが発せられる。誰かが自分の身体を借りて喋っているかのような奇妙きわまりない感覚。自分でも全く解さないし聞いたことすらもない言語が、流暢に紡がれていくというのは何とも形容のしがたいものだ。自分の口から漏れているこのことばがおそらく魔法を発動させるためのことばであり、魔力の在処を探知するための魔法が放たれようとしているのだ、ということだけは何となく分かった。
 ミスティンキルは魔導解放の折り、魔導師ユクツェルノイレから魔導のすべを継承したわけだが、だからといってミスティンキルが魔法に通じるようになったわけではなかった。いま行っているように、呪文を唱えることは出来るが、それがどのような意味を持つのかということは理解できなかったし、魔法についての知識など相変わらず皆無だった。

 ともあれ、魔力は解き放たれた。ミスティンキルの身体の中から若干力が失われたのを感じ取る。失われた力は外部に放出されて“原初の色”を伴った魔力として顕現し、呪文といわれることばによって意味をなす。
 そして発動。
 暗闇に包まれていたはずの地表が、ほんのり色を帯びて見えるようになる。木の葉の色も、岩肌の色も、どれも一様に同じ色をしているわけではなく、非常に多彩な色をあらわしている。あそこの木にとまっている紫の小さな色は、フクロウが秘める色だろうか? あらゆる事物の中には“原初の色”という魔力を秘めた力が内包されているのだが、魔法の力によってミスティンキルに見えるようになったのだ。
 すぐさまミスティンキルは、それら多くの色の中から青い魔力を察知した。澄み渡った空のように真っ青な色をした強い魔力が、南東の方角に向けて進んでいるのを知った。ミスティンキルは東に位置する星イゼルナーヴを確認すると、ウィムリーフを追うために自らに鞭を打ち、空を駆るのであった。

◆◆◆◆

 この追跡行は、自分との戦い以外の何ものでもなかった。少しでも気を抜くと、追い払ったはずの眠気がすぐに迫り来る。酔いが回った体はなかなか思い通りにならない上に、飛ぶという行動そのものが彼にとって不慣れなのだ。もし睡魔に負けて精神が混濁の中に埋まり込んでしまえば、間違いなく翼は羽ばたきをやめるだろう。そうなってしまえばたちまち真下の岩場に叩きつけられてしまう。ミスティンキルは死に対する恐怖をあえてあおることで、正気を必死に押しとどめようとした。

 ウィムリーフはかなりの速度で飛んでいる。それを上回る速度を出さねば彼女に追いつけないわけだが、ミスティンキルにとってはかなり無茶なことである。否、不可能であった。“風の司”であるウィムリーフに比べたら彼の飛ぶ力などたかがしれている。生まれながらにして翼を得ていた彼女だったら、この速度を保ちながらも二、三刻も飛んでいられるのかもしれないが、翼に慣れていないミスティンキルにとってはそれはとうてい無理なことだった。
 早くも彼の身体が悲鳴を上げようとしている。血は沸き立ったかのように凄まじい勢いで全身を巡り、その脈打つ音は風切る音よりも大きく聞こえてくる。このままでは彼女に追いつくどころか力尽きてしまうことは必至だった。
 どうすればいいのだろうか?

 そう思ったと同時に、意味不明の言葉が再び口をついて出た。今度発動させようとしている魔法は、風の力を借りるもののようだ。やがて風を切る音が――空を飛んでいるというのに――ぱたりと止み、周囲がしんと静かになる。次の刹那、ミスティンキルの身体を押し出すように、後方から風が吹き始めた。やがて追い風はごうごうとうなりを上げるまでに強くなり、ミスティンキルが羽ばたくまでもなく、突風が前へ前へと彼を推し進めていった。
 ミスティンキルは他のことに気をとられることが無くなり、ただウィムリーフがどこにいるのかを常に把握していればいいのだ。青い魔力の持ち主との距離が、見る見る間につまっていくのが分かる。ウィムリーフは彼女の出し切れる最大限の速さで飛んでいるようだったが、ミスティンキルの起こした風の速さたるや、それをはるかに上回るものだった。

 程なくして、ミスティンキルの目はウィムリーフの姿を捉えるようになった。後方から突風が吹いていることに彼女も気づいたのだろう。ウィムリーフはその場で滞空した。振り返ることはない。時を同じくして、それまで猛烈な勢いで吹きすさんでいた風がぴたりと止んだ。ミスティンキルは不意に風を失ったことで落下しかけたものの、自分の翼をはためかせることで押し留まった。
 未だウィムリーフは前方――ラミシス遺跡の方角を見据えたまま動こうとしない。
「ウィム!」
 声が届く範囲にまで近づくと、ミスティンキルは声をかけた。だがウィムリーフは振り向こうとしない。もうろうとする意識を必至で振り払いながらもミスティンキルは近づき、また声をあげた。
 ようやくウィムリーフは彼の方に首だけを向けた。月の光を受けたかのように、彼女の群青色をした瞳はぎらりと輝いている。美しくもあやしく光るその双眼は、獲物をにらむ豹のそれを想起させるかのよう。今の自分の瞳も、赤く輝いているのだろうか? ミスティンキルは青い瞳に魅せられながらそう思った。ウィムリーフは頭のみをこちらに向けたまま、なにも言おうともしない。
 しばし二人は、お互いの顔をじっと見ながら対峙していた。
 何とも言えない静けさに耐えられなくなったミスティンキルは、ようやく口を開いた。
「……なあウィム。一人で行こうだなんて無茶にもほどがあるぜ。一体どういう……」

 次の瞬間。
 急にミスティンキルの脈がどくり、と大きく音を立てる。と同時にミスティンキルの身体は崩れ落ち、意識は暗転していくのだった。
 ウィムリーフの声が遠くから聞こえてくるようだったが、なにを言っているのかもはや聞き取ることが出来ない。突如押し寄せた圧力に抗うことが出来ず、ミスティンキルは落下していくほか無かった。

◆◆◆◆

 目に映るものは灰色。
 いつしかミスティンキルは、灰色をした石の壁――民家の天井を自分がずっと見続けているのに気が付いた。
 背中に感じるのはやや固いベッドの感触。さっきまでは空を飛んでいたはずだというのに、これは一体どういうことなのだろうか? 突然の状況変化に驚いた彼は、がばりと跳ね起きた。
 頭の中はずきずきと痛み、体は自分のものではないかのようにうまく動かない。明らかに宿酔だった。
 ミスティンキルはこめかみを右手で押さえながら、顔をしかめて周囲を見渡した。窓からは昼の陽光が差し込んできている。
 ここは間違いなく、二人が滞在している宿の一室だった。ミスティンキルが目覚めたことを察知して、ウィムリーフとそれにアザスタンがベッドの傍らまでやって来た。アザスタンはいつもであれば龍の姿をとりデュンサアル山近辺に棲んでいたはずで、この村に来ることは久しく無かったというのに、どういうことだろうか。
「ミスト! 起きたのね!」
 いつもと変わらぬ様子でウィムリーフが声をかけてくる。そのどこか奇妙な差異。ミスティンキルは、あの追跡行が夢の中の出来事だったのかと一瞬いぶかしんだ。ウィムリーフは申し訳なさそうな表情を浮かべ、彼の顔をのぞき込んだ。

「その様子だと、なんで自分がここで寝ているのか分かっていないようね。ごめん。あたしのせいで……だいじょうぶ?」
「……大丈夫なわけがあるかよ」
 声を出すのもおっくうだと感じるほどに、ミスティンキルの体は参っていた。
「ウィムらしくもない。過ぎちまったことにあれこれは言わねえけど。もっとよく考えてから行動してくれよな……。どうかしてたぜ、あの時のお前さんは」
「そうね。昨晩は……あたしはどうかしてたんでしょうね……たぶん」
 ウィムリーフはひとりごちるように言った。
「それで、なんでおれはここにいるんだ? おれは、空にいたはずだ」
「昨日のこと、どこまで覚えてる? ミストがあたしに追いついたところまで? アザスタンが駆けつけてくれたことは覚えてる? そう、それは覚えてないのね」
「たまたま居合わせたわけではなく、お前達を追ってきたのだがな」
 龍戦士のなりをしたアザスタンが言った。しゅるる、と彼の鼻から煙が漏れる。人間で言うところの溜息をついているのだろうか。
「もしわしがお前達の気配に気が付かなかったらどうなっていたことやら。陸が連なっているうちはいい。だが海は違う。およそドゥロームやアイバーフィンの翼で渡りきることが出来るほど、海は小さいものではないのだぞ」
「うん。ごめんなさい」
 ウィムリーフは頭を垂れる。そして昨日の顛末についてミスティンキルに語ったのだった。

 あの時――ミスティンキルが翼の揚力を失って落ちそうになった時のこと。
 ウィムリーフいわく、どこか意識がぼうっとしていた、ということらしい。そしてはたと気が付いた時にはミスティンキルの身体は地面に向けて落下し始めていた。驚いたウィムリーフは急降下してなんとかミスティンキルの腕を掴み上げるが、ウィムリーフ自身も思いのほか疲労していたらしく、その場に滞空するのが精一杯だった。
 仕方がない、このまま下に降りて休息をとろうと思っていた矢先、龍の姿をとったアザスタンが現れて背中に乗るようにとうながした。ウィムリーフはミスティンキルの身体をアザスタンの背に乗せた。
「ありがとう。ミストを連れて帰ってくれるの?」
【ウィムリーフ。お前も来るのだ。ここからとって引き返せ】
「なぜ? あたしはこれから旅立たなきゃならないのよ?!」
【おのれを過信しているのに気づかない者には、知らずのうちに災厄が忍び寄る、というもの。今のウィムリーフはまさにそれだ】
「なにを言うの! あたしは自分をわきまえているつもりよ!」
【……今の自分の言葉が正しいかどうかすら、お前はまったく分かっていないようだ。ミスティンキルとともに戻り、少し頭を冷やせ。……三度目は言わぬぞ】
 アザスタンは、力を秘めた言葉をウィムリーフに浴びせた。龍の言葉とは、それそのものが魔力を持つのだ。ウィムリーフは渋々ではあるが龍の言葉に従わざるを得なかった。だが、龍の背中に乗りながらデュンサアルに引き返しているうちに、自分の行動がひどく軽率だったことがようやく分かりはじめた。一体なにをあれほどまでに急ぎ、いきり立つ必要があったというのだろうか? なにが自分をこうまで突き動かしていたのかもはや分からないが、ウィムリーフは龍に謝罪した。龍はそれ以上なにも言わず、彼らをデュンサアル村の入り口まで送り届けると、自らも龍戦士の姿に化身して村に入っていった。
 そして一晩が明けた。

「……とにかく、今はゆっくりお休みなさいな。あたしも軽はずみだった。きちんと前もって調べられるところを調べないとね」
「なんだよ。何だかんだ言って、結局お前はラミシス遺跡に行くつもりなんだな?」
 ミスティンキルの問いかけにウィムリーフは頷いた。
「昨日の夜も言ったけど、こんな機会はめったに来るもんじゃないもの! あたしは、ラミシス遺跡がどういったものなのか、また冒険誌を書きたい! きちんとしたかたちで世に伝えたいのよ」
「……頑固だな」
「おあいにくさま。あんたと同じにね」
 ウィムリーフは舌を突きだして軽口を叩いた。
「でもまだ前の冒険誌の編纂が終わってないだろう?」
「あれは、またここに帰ってきたら続けることにするわ。今は……遺跡への冒険のことしか頭にないもの」
「しかたねえ。おれもウィムに付いていくことにするか」
「ならばわしも付いていくぞ」
 最初からその言葉を言うつもりであったかのようにアザスタンが言うものだから、それを聞いたウィムリーフは驚いて目を丸くする。
「ミストも、それにアザスタンも? 嬉しいけど、どういうことなの?」
「昨日みたいに勝手に飛び出していくようなやつを放ってはおけねえだろうに。それに、一人で出かけるには危なっかしそうな場所だろう?」
 ミスティンキルはベッドにごろりと横になり、再び灰色の天井を見据えながら、ぶっきらぼうにそう言った。
「わしが動くのは、龍王様からのご命令ゆえ」
 アザスタンは言った。
「それに先ほども言った。人間の翼ではおよそ海を渡りきれるものではない。……だが龍は違う」
「……うん。ありがとう、二人とも」
 ウィムリーフは目を閉じて頭を下げるのだった。
「一週間。その間にラミシス遺跡の事について出来る限り調べ上げて……出発することにするわ。あたしたちは!」
 ウィムリーフの群青色した瞳は、きらきらと輝いているようだった。


(四)

 ミスティンキルが目覚めたこの日から、ウィムリーフはラミシス遺跡について調べ始めるつもりだった。しかし、今まで冒険誌の編纂を続けていた疲労が蓄積されていたのか、はたまた昨夜の飛行が思いのほかきついものだったのか、彼女は体調を崩してしまった。それにもめげずウィムリーフは行動しようとしたが、ミスティンキルに反対されて仕方なく日がな一日休むことになってしまった。
 一方のミスティンキルもこの日は動くことが出来なかった。彼の場合は宿酔だった。強い酒を何杯も飲み干したあげく慣れない翼をはためかせ空を飛び、さらには術を行使したのだから、こうなるのは当然のことだった。頭痛と嘔吐感に苛まれながら、ベッドに横になって唸るほか無かった。
 幸いにもこの旅籠のおかみはよく気が付く人だったため、彼らは煎じてもらった苦い薬湯を飲んで回復するのをただひたすら待つのだった。

 その甲斐あって彼らは共に気持ちよく翌日の朝を迎えることができた。心身共に快く感じることができ、差し込んでくる朝の日差しもまた心地のよいものとなった。
 二人は宿の食堂で女将に礼を言うと、軽い朝食をとりつつこの後どうするかを話し合った。
 ラミシス遺跡を冒険するという計画を思いついた当の本人――ウィムリーフは、食事を終えたらさっそく本をじっくりと読み返すことにした。
 この千年あまりの歴史において、かの島を訪れた者は二人しかいない。アルトツァーン王国のカストルウェンとメケドルキュア王国のレオウドゥールである。それぞれの王国の初代国王である彼らは、その若い時分にラミシスの島を冒険したと伝えられており、正式な文献こそ遺されていないものの、詩人達によって多くの唄が詠まれてきている。
 それらの唄をまとめた本、
『未踏の地ラミシス ~カストルウェンとレオウドゥールが行いし、魔導王国ラミシス遺跡の冒険行について――数多くの吟遊詩人の歌より~』
 と題された本をじっくりと読み、ためになりそうな箇所を写すことで、彼女なりのラミシス島のイメージを掴むつもりだった。

 朝食をとりおえて部屋に戻るやいなや彼女は本をひもとき、最初の頁から読み始めるのだった。
「今回はあたしが思いついた冒険だから、ミストが調べ上げる必要はないわ。旅を始めるまでの間、度が過ぎない程度であれば、デュンサアル周囲で遊んでいてかまわないから。もちろん、女遊びは厳禁だけどね!」
 彼女はそう言うと、本につきっきりとなった。その様子は、役人の試験に打ち込むバイラルの学生でも、これほど熱心に打ち込むことはないのではないかと思わせるほどだったので、ミスティンキルは言葉を返す機会もなくただ部屋の中で手持ちぶさたになってしまった。少しでも暇つぶしになればと思い、前の冒険行の大ざっぱな下書きを読んでみることにしたが、彼が判読できるだけの単語は数箇所程度しかなく、茶一杯を飲み干す時間で文章の最後まで行き着いてしまった。
 どうやら部屋に閉じこもって読めもしない文字と格闘するという行為は、自分にとって苦痛に感じるだけで暇つぶしにすらならない。かといって文字をあらためて勉強するだけの気力などは持ち合わせていない。何かできないものだろうか。
 色を取り戻すための冒険を終えて、冒険誌の下書きを書く際にはウィムリーフの手伝いを強いられたが、この時はあまり乗り気がしないものだった。何せウィムリーフときたら、休むことなく一日中この作業を行っているのだから、ミスティンキルも休む機会をしばしば失ってしまって愚痴をこぼしていた。しかし人間の感情とは不思議なものだ。今回のように、何もしなくていいと言われるとかえって何かをしたくなるものだ。この部屋に留まったところで本を読むことなどできやしないし、読書に没頭しているウィムリーフが遊びに付き合ってくれるなど考えられない。
 ならば。
 ミスティンキルは思い立ち、ウィムリーフに声をかけた。
「ウィム。おれはちょっと外に出てくる」
 ウィムリーフは顔をミスティンキルの方に向けて小さく頷くと、再び机に向かった。

 ミスティンキルが宿の外に出ると、ちょうど戸口でアザスタンと出くわした。今まで空を滑空していたのだろう、アザスタンの翼はまだ広がったままだった。
「あんた、また来たのか。ご苦労さま。残念だけどな、ウィムに用事があるってんなら今は無理だぜ。あいつ、熱中しだすと他のことなんか目に入らなくなるからな」
「ぬしらの調子が元に戻ったというのならば問題ないのだが。まあ、お前もこれから自重することだ。無鉄砲に行動すればああいう目に遭うと、身にしみて分かっただろう」
 たしなめられたミスティンキルは、うるさいな、と言わんばかりに顔をしかめた。
「とにかくだ、この数日はあいつに近づこうとしても無駄だぜ。話し相手にするには無愛想きわまりないだろうしな。……そうだ、あんたが暇だっていうんなら、おれと一緒に来ないか?」
「わしはお前達の行動を見守る身だ。暇、という言葉にはひっかかるものがあるが……お前は何をしようとしている?」
「“司の長”の所に行ってみる」
 ミスティンキルは答えた。
 宿場の通りを共に歩いていると、人々の視線を感じる。アザスタンはまたもや龍戦士の格好をしているため、界隈の人々は敬意のまなざしを彼に向けているのだ。中にはひざまづいて頭を地面につける者すらいる。こういった雰囲気にミスティンキルは慣れていない。注目されている対象は龍戦士アザスタンのほうで、自分に向けられているわけではないのだが、衆目の視線が自分達に集中するというのは苦手だった。そんな人々の視線から逃げるように、ミスティンキルは上空へ舞い上がるのだった。アザスタンも遅れて飛び上がる。
「一体なにをしようというのか?」
「昨日ウィムが言ったとおりだ。ラミシス遺跡に行くための手がかりがないか、訊きに行くんだ」

 ミスティンキルは、岩山の頂にある司の長の居住区を目指した。かつて“司の長”を訪れた時には一刻近くもかけて登ったものだが、翼を得た今となってはそのような苦労をしなくて済む。
「ミスティンキルよ、もう少しはやく飛べんものか? この遅さでは翼をはためかすのにかえって気を遣うのだぞ、わしは」
「あんたにとっては遅いかもしれねえけどな、こっちは頑張って飛んでるんだ。だいたいさっきから文句ばっかり、たらたら言いやがって、龍ってのはあまり喋らないもんじゃあねえのかよ?」
「龍のことばはそれが魔力を持っているからともかく、共通語にはそう大した力があるわけでもない。だからこうして思う存分にお前に対して存分に文句が言えるというものだ。そら、早くしないとおいていくぞ」
「ああもう! あんたってやつは、どうしてこうも気の障ることばっかりぬかしやがるんだ。むかつく!」

 彼らが口げんかをしているうちにも、岩山の頂にたどり着こうとしていた。
 人が住まうアリューザ・ガルドにあって、ラミシス遺跡から最も近い場所がデュンサアルだ。そうであれば、デュンサアルの長達が何かしら遺跡についての事柄を代々継承して知っていてもおかしくはないだろう。あのマイゼークの面を見るかもしれないということはミスティンキルにとって嫌なことではあったが、エツェントゥー老であればこころよく自分達を迎えてくれるに違いない。
(ウィムに知ったふうな顔をされてあれこれ教えられるってのも、なんとなく癪だからな。あいつが本から知識を吸い出そうっていうんなら、おれのほうで調べられるところを調べておいて、いざとなったらあいつにすごいと思わせてやろうじゃないか)
 当初はまったく気乗りのしない冒険行であったが、いざ調べ上げることになると、彼が元来持っている負けん気の強さが顔を出すのだった。
 地面に降り立ったミスティンキルは咳払いをして、“集いの館”の扉を叩いた。

◆◆◆◆

 しばらく経って扉から顔を出したのは、はじめてここに来た時と同じく、司の長の一人で彼らの中ではもっとも若いファンダークだった。
〔アザスタン様。それにミスティンキルどの。ようこそおいで下さった。今回はどのようなご用向きかな?〕
 最初会った時と同一人物かと訝りたくなるほど、彼の言動は慇懃(いんぎん)だった。ミスティンキルは、ラミシス遺跡のことが知りたいのだが長達が何か知っているかどうかと尋ねた。ファンダークは二人に中に入るよううながすと、二人を先導するかたちで廊下を歩いていった。
〔ラミシス遺跡というと、ここから海を越えて南東の島にあるといわれる昔の国のなごり、ですな? かの国は魔法学に――忌まわしい魔法ではあったわけですが――長じていたのですから、ミスティンキルどのが興味をいだくのも分かる話です。残念ながら私には遺跡の詳細は分かりかねますが……〕
 最初にここを訪れた時とはまったく異なる対応だった上に、ファンダークがあまりにも丁寧な言葉遣いをするものだから、思わずミスティンキルは吹き出しそうになってしまった。
〔ですが、長老ならばきっと何か知っているはず。エツェントゥー老は今、自分の居室におられるはずですので、そこまでご案内しましょう〕

 三人は、会議室の扉の前まで着いた。するとファンダークは突き当たりを右へと曲がり、会議室に沿うようにして左に曲がりくねっている廊下を歩き始めた。程なくして彼らはひとつの扉の前に行き着いた。扉の上にある表札にはなにやら文字が書いてあるようだった。
「……エツェントゥー。そう書かれているな」
 アザスタンは言った。お前も文字を習得したらどうだ、とうながすような感情が込められているように感じられたので、ミスティンキルは憮然としてそっぽを向いた。文字などいまさら習わずとも十分に生活できるし、ウィムリーフのように本の虫になろうなどとは思いもしない。だいいち魔法にしても文字など知らずとも習得しており、すでに自分の力になっているではないか。
 そんな彼の感情など知らぬまま、ファンダークは扉を軽く二回叩いた。
〔エツェントゥー老。アザスタン様とミスティンキルどのがお見えになっています。部屋にお通ししてもよろしいでしょうか?〕
〔入っていただきなさい〕
 扉ごしにくぐもった声が聞こえてきた。ファンダークは古めかしい木の扉をぎいっと開けて、二人に中に入るように言った。二人が部屋の中に入ると扉は閉められ、ファンダークは立ち去っていった。

 エツェントゥー老は椅子から立ち上がり、両手を広げて二人を歓迎した。とくに龍であるアザスタンに対しては深々と頭を垂れて挨拶をした。
〔ようこそいらっしゃった〕
 そう言って老人は顔中にしわをつくった。
〔色が戻ってから早二週間、ようやくわしら長の仕事も落ち着いてきましてな。今日などは暇をもてあましていたところです。アザスタン様がわざわざお見えになったということは、また何かご相談ごとでもおありなのでしょうか?〕
〔わしではない。用事があるのはこっちのミスティンキルの方だ〕
 アザスタンはここに来た目的を言うようにミスティンキルにうながした。
〔しばらくです、エツェントゥー老。用事っていうのはですね、あなたがラミシスの遺跡について何か知っていることがないかどうか、訊きに来たってわけなんです〕
 ミスティンキルが簡潔にそう言うと、老人はミスティンキルの本意をはかるかのように目を細めた。
〔ほう。どうしてまたあんな場所なんかに? 確かにわしはまったく知らないと言うわけではないがな。それでもいいというのなら、わしの知りうる範囲で話そう〕
 “司の長”は穏やかな口調でそう言って、二人に席につくように勧めた。

〔お二方とも、こんなちっぽけな部屋で申し訳ないが、とりあえずくつろいでくだされ。……なにか喉を潤すものがあったほうがいいかな? それとも酒がよろしいかな?〕
〔酒はとうぶん見たくないです〕
 ミスティンキルはすぐさま言葉を返した。
〔ほっほう、その顔は酒に失敗した、と言ってるようじゃな。まあいい。ならば冷えた茶でも差し上げよう〕
 エツェントゥーは、二人が入ってきた扉とは別の扉を開けてその中に入っていった。がらがらという滑車の回る音と水音が聞こえてくる。どうやら井戸に吊していたなにかを引き上げようとしているようだ。しばらくして彼は水滴に覆われたガラス瓶を一瓶手にして戻ってきた。
〔地下水で冷やした飲み物ほどうまいものはない。それが酒であればなお上等じゃがな〕
 グラスに茶を注ぎながらエツェントゥーは言った。雪解け水のように冷たい飲み物というのは、平野に広がるバイラルの王国ではおよそ口にすることなど出来ない。冬の間か、さもなくばデュンサアルのような高地でなければ味わえない冷たさを、ミスティンキルは喉で堪能した。
 長老はアザスタンにも飲み物を振る舞おうとしたが、彼は断った。
〔飲食という概念は龍にはないのだ〕
 アザスタンは言った。
〔失礼。そうでしたな。高位の龍ともなれば食物を摂らずとも、空気の流れや大地から直接、活力を得ることができるという事を失念しておりました。さて、と〕
 長老は話題を転じた。
〔なにから話せばいいかな。いや、その前になぜラミシス遺跡のことを知りたいと思ったのか、聞かせてはくれぬか、ミスティンキル〕
 しばしミスティンキルは言葉に詰まった。この老人は自分に少なからぬ期待を寄せているようであり、他人に随行して行動をする、と正直にいうように言ってしまっていいものだろうか。それよりは、あたかも自分が主導権を握っているように話を作ってしまったほうが、長老の受けがいいように思えた。
〔ええと、そうですね。ご存じのとおり、おれは“炎の司”となったわけですが、そのう、炎を操るという能力は、術、いわゆる魔法に通じるところがあるんじゃあないかと思ったわけなんです。それにおれは魔法についても習得したわけですし、魔法の発祥の地であるラミシス遺跡に行ってみたい、と思い立ったわけなんです〕
〔正しく言えば魔法の発祥の地というわけではないがな〕
 とすかさず返したのはアザスタン。
〔……とにかく、ラミシスが魔法と深い関係にあったのは間違いがない。だからおれは行こうと思ったんです。ラミシスに〕
 暗示というのだろうか。こうして言葉に出して言うと、まるで本当に自分がラミシスに行きたがっているかのような感覚にすらとらわれた。確かに思い返してみれば今度の冒険では、未踏の地に乗り込んだはじめての人間として名を残すことが出来るかもしれないのだ。多少の困難が待ち受けているかもしれないが、それも帰ってきてみれば冒険譚の一部として唄に詠われることになるだろう。そう思うと自然とミスティンキルの気持ちは高揚していくのだった。だが。
〔行こうと思いついたのは、もとを正せばウィムリーフだろうに〕
〔……〕
 ミスティンキルのもくろみは早くも打ち砕かれた。彼はばつが悪そうな顔をしたまま龍戦士を睨みつける。

 長老はそんな彼らの間に入り、仲裁するようにゆっくりとした口調で問いかけた。
〔正直に話してみなされ〕
〔ラミシスに行こうと言い出したのはおれじゃない。連れのウィムリーフです〕
 ミスティンキルはそういって、今までの経緯を言葉足らずな説明ながらも長に打ち明けた。
〔……でまあ、あいつが本をもとにして調べるってんのなら、おれはおれなりにラミシスを知る手がかりを掴もうと思って、あなたの所に来たってわけです〕
〔なるほどな。じゃがわしも人から伝え聞いた知識をそなたに告げるに過ぎない。なにせ、かの遺跡に行った人間といえば、あの二人の国王を置いて他にいないのだからな〕
〔じゃあ、ここらへんのドゥロームでラミシスに行こうとしたやつはいないんですか?〕
〔おることはおる。特にそなたのように血気盛んな若者が、な。じゃがこの大陸とかの島を隔てる海を乗り越えることができるほど、ドゥロームの翼は長くは持ちこたえられぬ。そうそう。過去唯一もっとも島に近づいた者がおったのだが、その者とてついに願い叶わず辿り着くことはできなかった〕
〔力尽きて死んじまったのですか?〕
〔そうではない。彼は今でもデュンサアルにおるわ。若き頃のマイゼークなのだがな。彼を呼ぶか……いや、ぬしの顔はやめてくれと言っておるようじゃな。ではわしが話そう。なにがマイゼークの行く手を阻んだかというと――龍じゃ〕
 ミスティンキルは目を見開いた。
〔龍が、島の周囲に棲んでいるんですか?! ……アザスタン、それっていうのは誰だか分かるか?〕
〔わしとて久方ぶりにアリューザ・ガルドにやってきたのだ。それぞれの龍の住まいなど分かるわけもない〕
〔その龍がマイゼークに名乗った名は、ヒュールリット。そう、朱色(あけいろ)のヒュールリットじゃ〕
 エツェントゥーが返答した。

 朱色のヒュールリット。
 その名前は広く知れ渡っている。龍王の名を知らずとも、この龍の名は聞いたことがある者もいることだろう。かつて魔導師シング・ディールに協力をし、さらには眠れる龍達を覚醒させ、ディールらアズニールの軍勢と共にラミシス王国に乗り込んで“漆黒の導師”スガルトを討ち果たした龍だ。
〔龍が相手でも大丈夫だろう? あんたが何か言えば済むことだ〕
 ミスティンキルはアザスタンに言った。
〔龍は他の者の言うことなど耳も貸さぬ場合が多い。龍王様の命令ならばともかく、たとえばわしがそのヒュールリットとやらに立ち去るように命じても無駄だろう。確かに、わしがいたほうが交渉がはかどることは間違いがないが、確かなことはなにも言えぬ〕
 アザスタンは言葉を返した。
〔どうやらヒュールリットは、人間がおいそれと遺跡に立ち入らぬようにと、雲を住まいにして見張っておるようじゃ。龍を相手にするかもしれぬというのに、それでもミスティンキルよ、お主らは行こうと思うか?〕
〔はい〕
 ミスティンキルは決意した。
〔行きます。ラミシスに〕


(五)

 それからの一週間はそれこそ文字通り、あっという間に通り過ぎていった。

 ウィムリーフは宿の一室でラミシス遺跡に関する文献を読みふけり、かたやミスティンキルとアザスタンはエツェントゥー老から、この長老が知りうるかぎりの知識を聞き出していた。
 天高くそびえる守りの要衝、“壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼ。
 城を守護するように建造された四つの魔導塔。
 そして――魔導王国の王にして“漆黒の導師”たるスガルトや彼の弟子達が住み、邪悪な魔導の研究に没頭していた魔の王城、オーヴ・ディンデ。

 特に彼が関心を引かれたのは、王城オーヴ・ディンデである。今より九百年前、魔導師シング・ディールを筆頭にしたアズニールの軍勢が龍達と共に王城を陥落させて以来、誰もそこに足を踏み入れたことがないのだ。時を経て、ラミシスの島を冒険したカストルウェンとレオウドゥールも、その王城に立ち入ることはついに叶わなかったという。強力な結界か何かが行く手を阻んだというのだ。
 しかし、大いなる魔力を秘め、魔導を行使するすべを手に入れたミスティンキル達ならば、その結界を突破して王城に入ることが出来るのではないだろうか。
 いや、出来るに決まっている。なぜなら二人はついこの間、“炎の(デ・イグ)”で、そして月の界で、想像を絶する冒険のはてに、魔導の解放というとてつもないことを成し遂げたばかりなのだ。あれは、赤と青というまったき色――膨大な魔力を秘めていた自分達だからこそ出来たことなのだ。
 超自然の現象と対峙した彼らだから、人間が作り出した結界ごときが破れないはずもない。二人の力を持ってすれば、結界の先にあるオーヴ・ディンデ城に立ち入るのは容易なことだと考えた。

(面白いな! その遺跡――オーヴ・ディンデの城とやらにはまだまだたくさんの魔導についてのなにかが隠されているに違いない。どうやら行ってみる価値は大いにありそうだ!)
 ラミシスの島に着いたら、真っ先に王城を目指そうとミスティンキルは考えた。そこには果たしてどのようなものが待ちかまえているのだろうか? 魔境とすら言われる島の様相を聞き出すにつれ、ミスティンキルの好奇心はいやがおうにも増していくのだった。
 しかし、ウィムリーフの前であからさまにその気持ちを表すのは控えようと思った。感情の高ぶりは、増長、過信に繋がることを知っているから。それに、自分の得た知識を知ったかぶりに披露するのは面白くない。それよりはここ一番、いざというときに披露して、ウィムリーフの感嘆を受けたいと考えていたのだ。

〔ミスティンキルよ。お前が手にした力というのは、“司の長”たるこのわしを凌ぐほどにまで強大なものじゃ。だからこそ自重するのだ。おのれを見失ってはいかん。これは、忘れるでないぞ〕
 四日目の夕方に、エツェントゥーはそうミスティンキルに釘を刺した。

 そして、旅支度の期限である七日目の朝。
 旅装束に身を包み、荷物を背に抱えたミスティンキルとウィムリーフは、待ち合わせ場所であるデュンサアル山への登山口にて、一週間ぶりに対面した。二人とも、ラミシス遺跡の持つ何か得体の知れない魅力、もしくは魔力に取り憑かれていたために、お互いをかまうことを忘れがちだった。それまでは寝食を共に過ごしてきたというのに、この一週間は部屋も別々にして、自分のしたいことだけに没頭してきたのだ。
 だけれども。
 そんなことは今まで共に旅をしてきた二人にとって、ほんの些細なことでしかない。その程度で関係がぎくしゃくするような間柄ではないのだ。
「さあミスト、いよいよ行くわよ!」
「おう」
 と、お互いに相づちを打ちさえすれば、二人の間の雰囲気は一瞬にして元通りに戻るのだ。そして今までどおりの空気が包む。がっちりと、絆が結びつけられる。

 ややあって、空から巨大な蒼龍がゆっくりと舞い降りてくる。
 二人は大地を蹴り上げるとおのが持つ翼を広げ、龍めがけて跳躍する。そして、アザスタンの背に飛び乗った時――。

 ――ミスティンキルの、そしてウィムリーフの新しい物語が紡がれ始める――。

挿話一 フェベンディスにて

(一)

 ミスティンキルとアザスタンがエツェントゥー老から、ラミシスの王国についての様々な事件や伝承などを聞き、一方でウィムリーフが部屋に閉じこもり独力で調べ上げているちょうどその頃。
 レオズス――ハーンとエリスメアはアルトツァーン王国西の港町、フェベンディスへと到着していた。

 フェベンディスは、東方大陸(ユードフェンリル)最大の港町だ。西方大陸(エヴェルク)行きの商船、旅客船はすべて、この港から出港するのだ。十一月の終わり頃、流氷がエヴェルク大陸の沖に押し寄せてくる時節まで、行き交う船が絶えることはない。ユードフェンリル大陸では見かけることの少ない民族達が数多く訪れ、街は繁栄し大いに賑わう。さながらアリューザ・ガルドにおける人種のるつぼである。
 またユードフェンリル大陸内においても、ここは海洋貿易の最重要拠点だ。北方ナルデボン地方や南方オルジェス地方との間に毎日のように船が往来している。
 ただし冬の間は北方貿易の海路は閉ざされる。巨大な流氷群がナルデボン地方の岸辺にまで押し寄せるためだ。一方、流氷とは無関係の南部に向けての航路は、開かれているように見えても実のところ往来は極めて困難だ。穏やかだったグエンゼタルナ海の様相は一変し、潮流の速い荒れた海になってしまうためだ。そのために、南部への貿易は春まで待たなければならない。春になっても、しばらくの間は陸路を使った貿易しか行われない。

 ハーン父娘が目指すは、ミスティンキル達が滞在しているオルジェス地方デュンサアル。しかも出来るだけ早く到着しなければならない。
――「魔導の力は諸刃の剣。しかるべき者が扱うべきだ。運命に弄ばれるような意志の弱い者に魔導を任せておく訳にはいかない――“魔導の暴走”の再来だけは避けねばならないからな」
 ハーンの長きに渡る友人であり、エリスメアにとっては魔導の師にあたる白髪の老エシアルル、ハシュオンはこのように言った。魔導のなんたるかを知らない者が、それとは知らないままにまかり間違って恐るべき魔導を発動させてしまったら――!
 “魔導の暴走”。
 ハシュオンとハーンの記憶の奥にしまわれているあの惨劇とそれに続く悲劇を、もう二度と再び起こすわけにはいかないのだ。

 急ぐがゆえに、ハーン達は陸路ではなく海路でもってデュンサアルに行くことに決めた。王都ガレン・デュイルからデュンサアルまで、歩いていけば一ヶ月以上はゆうにかかってしまう。だが船を使えばほんの四日間ほどで港に着き、そこから歩くこと一週間でデュンサアルまで到着できるのだ。春半ばのこの時期に船が出ていれば、の話だが。
 エリスメアが“転移”の魔導を行使でき、かつデュンサアルのイメージを脳内に描写できるのであれば、ほんの刹那のうちにデュンサアルに到着できよう。しかし、あいにくとエリスメアほどの術者であってもかの魔導は扱いかねた。転移のすべは、魔導の極みのひとつ。それを我がものとして扱えるほどの魔法使いは、今のアリューザ・ガルドではただひとり、ハシュオンをおいて他にいないだろう。

「やあ、海が見えるよ。きらきらと奇麗だなぁ……よく晴れている。西方大陸(エヴェルク)行きの船は出ているようだけど、はてさて、南方行きの船なんか今の時期出ているのやら。まだ海は荒れているだろうしねぇ」
 アルトツァーンの王都ガレン・デュイルから歩くこと一週間。ここ港町フェベンディスに到着して、小高い丘の上から町の中心部に向かって降りていくさなか、ハーンはまるで他人事のようなのんきな口調でそう言った。
「そう言ってる割には余裕があるように見えるんだけど、父さま」
 エリスメアがそう言うと、ハーンは自分の人差し指を彼女の唇にそっとあてた。
「おっとエリス。街の中では父さま、じゃないだろう? 昨日言ったじゃないか」
「……そのぅ、……“兄さま”」
 エリスメアはやや照れた口調で言った。

 彼ら父娘は本当の親子であるのだが、唯一大きく違っている点がある。それは種族の違い。エリスメアが人間――バイラル族であるのに対して、ハーンは闇を司るディトゥア神――“宵闇の公子”レオズスということだ。ディトゥアの血を引くエリスメアも神として生きる道があったが、彼女は思うところあって母と同じく人間としての限られた生を全うする道を選んだ。
 ともあれ、他の人間からすれば、今の彼らは見た目のうえでは親子というより兄妹と思われるだろう。

「でもそのうち年が経てば、父さまのほうがわたしのことを姉さま、って呼ぶことになるのかしら?」
「うむ……きついこと言うねぇ」
 ハーンにとって今の言葉はやや堪えたようだ。ぽつりと漏らしたエリスメアは、とくだん悪気があってそう言ったわけではないのだが。
「と、とにかくだよ。確かに今の季節、デュンサアル行きの商船を見つけるのは難しいだろうね。まだ海が荒れているだろうから。でも大丈夫。街道で一緒になった商人が教えてくれたじゃないか、ディリスコンツ商会ってところを。……まあほら、どのみち悩んだって仕方ないさ。それに、こういう時の僕ってけっこう運がいいんだよ? だからさ、安心しなさい、“妹”よ。船は出させてみせる!」
 そう言ってハーンはぽんぽん、とエリスメアの肩を叩いた。
「根拠のない自信は昔と変わらずね、……兄さま」
「それがティアー・ハーンだからね!」
 ハーンはにこやかに笑った。

 ディリスコンツ商会は、古めかしい石造りの建物が並んでいる商業地の一角にあった。入り口の左右にアルトツァーン騎士の彫像が彫り込まれているその門構えは、この商会がある程度由緒正しいものであることをあらわしている。この家の紋章が彫られた両開きの木扉をぎいっと開けると、薄暗い玄関の奥から給仕の女がやって来て、エリスメア達を出迎えた。ハーンがデュンサアルに行きたいので主人と話をしたい旨を伝えると、女はやや怪訝そうな顔を浮かべたが、すぐに表情を戻し、主を呼びに奥の部屋へと入っていった。

◆◆◆◆

 商会の主にして商客船“凪の聖女”の船主、そして船長でもあるディリスコンツ男爵は、突然やって来た珍妙な客の無理な願いを一蹴した。
海蛇(ウォンツァ)の牙にかけて、ああ、なんて客だ! 無茶もいいところですよ、客人! 優れた水夫が束になったってそんなことは無理だ……」
 おもむろに男爵は――男爵とは似つかわしくない、髭もじゃで中背の男だが――くわえていたパイプを一吹きして煙をくゆらせる。
「まだ三週間は早いですよ、お客さん。グエンゼタルナ海の潮の流れは速くて読めないし、春の強い東風が船を思わぬ方向にめぐらせる……。暗礁に乗り上げたり、海蛇の巣にでも迷い込んだりしちまったら、それこそ一巻の終わりだ! ……ここは諦めて、陸路を歩んだほうが賢明だと思いますがね。悪いことは言わないからお戻りなさい」
 ディリスコンツは大げさに肩をすくめて拒絶の姿勢を露わにしたが、ハーン達は引かなかった。
「だけれども……僕たちは一刻も早くデュンサアルまで行かなければならない。海路を使った方が早いのは明らかなのです。……陸路では遅すぎる。それに、旅先であなたの船の誉れを聞いてここにやってきたんです。『ディリスコンツ商会に頼むのが一番確実だ』ってね。もちろん僕にだって、今の時期の海が行く手を阻むくらいのことは分かってます。……では、どうすれば船を南東の方角に向けられるか、手段がまったくないわけじゃあないんでしょう? あと何が足りませんか? 言って下さい。僕たちに出来ることであれば……」
「“海の司”が必要だ」
 男爵は即答した。
 “海の司”とは風や潮を操る魔法使いの呼び名である。風を起こしたり、天気を変えたりするすべを持つ“海の司”がいれば、航海の無事は約束されたようなものだ。だが男爵の言う“海の司”とは、並の魔法使いでつとまるようなものではないようだ。
「……けれども“海の司”がいたからといって、あの荒れるグエンゼタルナ海に挑むというのは自殺行為に等しいってもんです。あの海をなめてかかって命を落とした奴を、私は何人も知っています。
「追い風を呼び込む腕前を持つ“海の司”ならばまだ数は多かろうが、潮の流れそのものを支配できる魔法使いなんて……。あんたがたも知ってのとおり、そんなたいそうな魔法を使える人間など、今の時代ほんの一握りですよ。千年前だったらそれこそ多くの魔導師達がいたでしょうけどね。仮にそんな大魔法使いがこの港町にいたとしても、一回の航海に雇い入れるだけで足が出てしまいます。私の家は五代前から爵位を頂いているが、その前に商人ですからね。儲けにならないような話はとうてい受け入れられない」

 それを聞いたエリスメアが、つと前に出て右手を軽く挙げた。
「私がその役目を担います。私にとって、潮流や風向きを変えることなどいとも容易いこと。もし私の力を疑うならばよろしい。小舟を一隻貸して頂けませんか? 舵をとらずともこの港の中を自在に操ってご覧にいれましょう」
 ハーンもエリスメアにならうかのように一歩前に出ると、彼の頭を飾っていた金色の飾り物をはずした。
「それじゃあ僕も。……船を動かすには何人もの水夫が必要でしょう? これを閣下に差し上げます。これは混じりっけなしのカラファー金で創られた頭飾り。あと、中央部の大きな宝石は青水晶(リフィ・バルデ)。そんなものだから、出すとこに出せば、かなりの値段が付くと思いますよ? そう……僕だったら少なくとも二万ガルディはつけたいところですねぇ」
「二万ガルディだって?!」
 金色に輝く宝飾を受け取った男爵は驚き声を上げて思わずたじろいだ。二万ガルディといえば、一年間は無事に暮らしていけるだけの金額だ。もちろん、商船を動かすには十分な額と言える。
「なんだってこんなたいそうなものを、あんたのような若い方が……」
 ディリスコンツはハーンを物色するかのように頭から足下に至るまでじいっと見るのだった。
「それにあんたが腰に下げているその黒い剣……大した代物のようだ。おまえさん、なみの人間じゃあないね? 一体何者……?」
 ハーンはそれには答えずにただ微笑するだけだった。
「ああ、いちおう言っときますけどね。別に僕らがお尋ね者とか、なにかご禁制のものを船で運ぼうとしてるとか、そういうわけじゃないですからね? 僕ら二人を運んで頂くだけ。僕たちの望みはそれだけですから」
 男爵は頷くしかなかった。どうやら話はまとまりそうだ。ハーンはにやっと口を歪ませると、取引をまとめようとした。
「さて、と。資金はご提供した。有能な“海の司”はいる。……ここはひとつ、船を出していただけませんか? あなたも商品を積み込めば、今の時期だったら相当な高値で売りさばくことが出来ると思いますよ? どうでしょう」
 ディリスコンツは唸り、目を閉じて腕を組むとしばしの間考え込んだ。
 そして彼の口がゆっくりと開いた。
「……二日間、時間をいただきたい。協会に申請を出して承認を受けなければならないし、人手だって集めなきゃならない。それに積んでいく荷物もだ。色々と準備が必要なのですよ」
「じゃあ、出していただけるんですね! 船を!」
 ハーンとエリスメアはお互いの顔を見合わせ、ほころばせた。
「まったく、こんなふうに無理を押し切りとおしたお客ははじめてだよ」
 ディリスコンツは苦笑いをした。
「だけど気に入った。あんたはたいした取引上手だ! 二日後の朝二刻目に、南の桟橋まで来て下さい。我が家の紋章を船首に描いた白い船が、“凪の聖女”号ですよ」
 男爵は右の手をすっと伸ばしてきた。ハーンは両手でディリスコンツのごつごつした手を包み込むようにして、握手を交わした。話し合いはついにまとまったのだ。

◆◆◆◆

「ねえ父さま……兄さま。交渉があまりにお上手なんで驚いちゃったわ」
 商会をあとにして、宿を探す道すがらにエリスメアが口を開いた。
「そりゃあまあ僕がいくらディトゥアだと言っても、人の世で暮らしていくには話術が巧みなほうがいいに決まってるからねぇ。生業(なりわい)としてタール弾きをやったり傭兵をやったり……そんな長年の経験の積み重ね、ってやつかな」
「でも……頭飾り、あげてしまわれたけど、果たしてよかったのかしら? あんな高価なものを」
 ハーンは笑って、軽い口調で答えた。
「ああ、あれね! ……種を明かしちゃうとね、実のところはそんなにすごく高価なものじゃないんだ。僕が買った時は千ガルディくらいだったかな、まあそこそこ値は張るけど、宝飾品としてはまあ妥当な金額で、目玉が飛び出るような金額ほどじゃないだろう?」
「え……。じゃああの主人が宝石鑑定に出して値段がばれちゃったら……」
「その辺は大丈夫だよ。あれは今やただの飾り物じゃなくなってるのさ。ほら、今の時代だと、魔法が付与されたものなんてそうそう出回るものでもないだろう? けれどもあれには闇の守護の力を込めた“法”をかけているからね。レオズス直々に魔力を込めた貴重な一品だよ!」
 ハーンは言葉を続けた。
「……しかしさ。僕のほうこそ驚いたよ。まさかエリスがそこまで魔法を使いこなせるようになってる、なんてね。僕は人間の魔法についてそんなに詳しく知ってるわけじゃないけど、潮の流れを操るなんていったら、かなり高度な魔法なんじゃないのかい? よく知ってたね」
「ああ、それね! ……実はこれからこの街の図書館に行って、魔法についての本を借りようと思うの。風はともかくとしても、海をなだめるにはどうしたらいいか、実はまだ知らないのよ。ちょっとした賭けだったわね。あの場で『見せてみろ』と言われなくてよかったわ。でもよかった。二日もあれば魔法書を読み解くには十分な時間だもの!」
 それを聞いたハーンは呆気にとられたが、次に堰を切ったように笑い出した。
「あはは……。うん、エリス。お前もたいした取引上手だよ。さすがはこの“宵闇の公子”の娘! 見事だよ」

 こうして、彼らハーン父娘は無事に出航するための確約を取り付けることに成功した。しかし彼らは、ミスティンキル達が次の行動を起こそうとしていることをまったく知らない。ハーン達の船旅が順調に終わったとしても、その頃にはあの二人はデュンサアルから飛び去ってしまっているのだ。
 ハーン達とミスティンキル達。彼らが出会うのは、果たしていつになるのだろうか――。

第二章 アザスタン空を往く

(一)

 びゅうびゅうと風が唸っている。真っ白な雲をかききり、探検者達は空の高みへ――分厚い雲の彼方にある、穏やかな青空を目指してぐんぐんと登っていくのだった。
 ミスティンキルがほうっと白い息を吐くも、それは瞬く間に雲の白色と同化してしまう。彼は蒼龍の体躯を両手で掴みながら、おそるおそる首を斜め後ろに向け、背後の景色を見やった。雲と雲の隙間からほんの一時、デュンサアルの情景がかいま見えた。

 先刻、二人がアザスタンの背に飛び乗ったとき、巨大な蒼龍はこう言った。
【さあ、飛び上がるぞ。荷物も飛ばされぬように十分用心しておけよ。ここ最近、デュンサアル周辺の天気は、飛ぶには不向きだ】
 アザスタンの忠告に二人はいったん了承した――が、用心すべきは荷物のみあらず、龍の背にまたがる彼ら二人をも含んでいたのだ。そして蒼龍はこともあろうか、頭を真上に向けて翼をはためかせたのだ!
 龍の背に乗る二人は、それはそれは肝を冷やした。仰天して青ざめたミスティンキルとウィムリーフは、ただ必死で龍の鱗にしがみつくほかなかった。まるで、ごつごつとした大樹の頂上を目指すために、しがみついて登っているようなさまで。
 当のアザスタンはそういった二人の慌てぶりすら想定していたかのように、しゅるると煙を吐いて小さく唸ってみせた。龍という生き物は基本的に無口である。龍の言葉そのものに魔力が宿っているということもあるが、そもそも必要以上の言葉を発しないというのが、彼らなりの美徳として存在しているのだろう。
 だがミスティンキルは、なにもかも分かり切っているような龍の態度が気に障り、腹立ち紛れにアザスタンを殴りつけた。しかし龍の鱗は異常に固く、両の拳を痛めるだけだった。それでも彼の悔しさが収まるわけがなく、かえって激高した彼は右足で何度か龍の背を足蹴にしたのだった。

◆◆◆◆

 穏やかな天上を目指し、急上昇する。真下にあるのは山々。
 恐ろしくてたまらない今の状況を、それでもすんでのところで抑えることができるようになったミスティンキルは前方を――空の上方を見やる。が、まだまだ雲は厚く重なっているようで、目指す青空はまったく見えてこない。ただ、灰色。

 ミスティンキルはウィムリーフを見た。彼女は、龍の大きく無骨な背びれを挟んでミスティンキルの真横に座している。冷たい風と視界を邪魔する雲は彼女にも等しく襲いかかってきているはずなのに、ウィムリーフはどうやってしのいでいるのだろうか?
(……やるなウィム。すっかり忘れてたぜ)
 ウィムリーフのさまを見て、ミスティンキルはしてやられたとばかり舌打ちをした。彼女は前面にガラスのような薄い幕を大きく張り巡らせ、風が直接身体に当たらないように逸らせていたのだ。冷たい水分を含んだ白い霧が大波を象って彼女に襲いかかるが、ウィムリーフは微動だにせず前を見据えている。案の定、霧は彼女をよけるようにして後方へと吹き飛んでいくのだった。

 ならば自分も、とミスティンキルは神経を集中させた。彼の脳裏には今し方ウィムリーフが張り巡らせているものと同じような幕のイメージが浮かんでいる。風を逸らす透明な幕。できれば寒さをもしのぎたい――。
 そうしてミスティンキルの意識は、自身の身体の最深部へと深く落ちていく。膨大な魔力と、魔導の知識が眠るという、ミスティンキル本人ですら把握しきれていない大きな力の源へと。
 ほどなくして、彼の意識は適切な手段をつかみ取った。瞬時、彼の瞳が赤く輝く。そしてミスティンキルの口元から一言、未知の言葉がついて出てきた。ミスティンキルの身体が内部からほのかに暖かくなり、また同時に前方から襲い来る風が止んだ。
 明らかに魔法だ。それは彼の望みを寸分違わず叶えたのだった。

 魔法が発動したことに安堵した彼は、ほうっと息をつく。
 ようやく心に余裕が生まれたミスティンキルは、真横を向いてウィムリーフに話しかけた。が、彼らの間には相も変わらず風が吹きすさんでおり、とてもではないが会話などできる状況ではなかった。おたがいに大声を張り上げてみるものの、ごうごうという風の音に遮られて全く聞こえない。そんな幾たびかのやりとりの後、風を巻き込む音がぴたりと止んで、ウィムリーフの声が鮮明に聞こえてきた。二人の空間を繋ぐようにして、ウィムリーフが音の通路を作ったのだ。
「……。もしもし? 今度は聞こえるかしら。ミスト、大丈夫? さすがにこの急上昇はきついものがあるわね」
 その言葉を聞いてミスティンキルはすかさず悪態をついた。
「大丈夫もくそもあるかってんだ。このくそ龍ときたら危ねえじゃねえか、こんな急角度で真上に飛び上がりやがって! もっとまともに飛べよ!」
 ウィムリーフはそんなミスティンキルをなだめた。ウィムリーフはこの状況に臆することなく平然としているのだ。それは彼女が空と風をよく知るアイバーフィン《翼の民》だからこそなのだろう。
「どうにも天候が不順のようでね。今朝方からデュンサアル山を中心としたイグィニデ山系に嫌な雲がたまってきているのよ。すぐにも変わる山の天気だから一概にどうとは言い切れないけれど、ひょっとしたら横殴りの雨が打ち付けるかもしれない。そうしたら空の旅なんてできたものじゃないわ。……だけど雲の上に出てしまったらそんな悪天候とは関係なくなるでしょう? だからアザスタンはこうも急いでいるんじゃないかな」
「んん……理屈じゃ分かるんだが、気分としては最悪だぜ! こんな……木登りじゃあないってのに木にしがみつかなきゃならねえなんてこと、今まで味わったことがないからな。釣りに出てたとき、大しけの海になすがままにされたことはあったけれど、それと今とはまたわけが違う。……お前はどうなんだよ? 大丈夫なのか?」
「そうねえ……あたしはもともと翼を持ってるから、急上昇したり急降下したりと、ひとりで自分で飛ぶことに慣れているけれど……さすがに二人も乗せて急に上がっていくのにはびっくりしたわね。アイバーフィンの揚力じゃとても無理よ」
 それを聞いたミスティンキルはただうなずいた。
「酔ったの? ミスト」
「そういう気持ち悪さとはまた違う。なんて言うか……言うのが難しい。自分の力で何とかなるもんなら何とかしたい」
「翼を使ってみたら? あたしも今広げてるのよ。風の乱れた流れを緩和できるし、もしうっかりこの手を離してしまって空に投げ出されそうになったときでもすぐ対応できるわ」
 言われるままに、ミスティンキルは羽を伸ばした。物質界で見えない翼ではあるが、強く風が当たっているのが分かる。彼は試行錯誤しながら羽の位置を動かし、ようやく安心を得た。アザスタンが急に旋回したとしても、些細なことでは振り落とされないような体勢を取ったのだ。
 しかし今度は、前方から吹き付けてくる風が徐々に大きくなってきているのにミスティンキルは気付いた。手前に張り巡らせた幕が薄くなってきている。先に魔導を会得したとはいえ、知識や感覚としては全く身に備わっていない彼にとって、どうやら話すことに神経を向けると、他のこと――魔法を維持させることがおろそかになってしまうようだ。ミスティンキルは「悪い」とウィムリーフに合図をすると体勢を元に戻し、魔力を抽出して幕を強化するのだった。

 そう四苦八苦しているうちに。
【……もう出るぞ】
 龍の言葉が聞こえた。
 ばっという音の次に静寂がおとずれ、目もくらむような光に包まれる。
 そして五感がまったく瞬時に切り替わった。寒さは和らぎ、風切り音は止み、視界はまばゆい青になり、太陽が注ぐ。
 ついに彼ら三人は分厚く折り重なっていた雲の層を突破し、澄明な上空へと飛び出したのだ。


(二)

 雲の上へ飛び出したアザスタンは急上昇をやめ、巨大な翼を水平にのばして滞空する姿勢を取った。
「わあ、下が真っ白! そうか、“雲の海”っていうのはこういうことを言うんだ! ああ、でもあっちの低くたれ込めているのは嫌な色……あれが雨雲ね」
 ウィムリーフは子供のように喜びはしゃいでいる。そしてすくりと立ち、満足げに周囲を歩き回ると、気持ちよさそうに大きく背伸びをした。
「アザスタン、海に出るまではまっすぐ南に飛んでちょうだい。ただし飛ぶ速さは今までの半分くらいに抑えてね。――海に出るより先に夕方が来てしまうかもしれないけれど、急ぐ旅でもないし」
【了解した】
 雲海の上、風に乗るかたちで蒼龍は静かに滑空していく。気候は冷涼ながらも、先ほど雲の中を突っ切っていたときに比べれば風もなく穏やかだ。頭上を遮るものはなにもなく、ただ紺碧。
 ウィムリーフは荷物のひもを解き、まっさらな冒険日誌を取り出した。彼女はあぐらをかいて座り込むと、今まさに自分の目に映っている雲海の様相を描き出すべく、ペンを走らせた。

 龍の姿勢がようやく水平になったのを知ったミスティンキルは、アザスタンの背にべたりとうつぶせになり、そのまま四肢を大きく伸ばした。精根が尽き果てているのが分かる。なにもできない。彼は翼をしまうと大きく一呼吸した。
 長いこと恐怖にも似た緊張を感じていたためだろう。全身の筋肉がすっかりこわばってしまっている。いつの間にか首の筋をちがえてしまったようで、思いもよらぬ痛みのために彼はうめき声を上げた。
「……あんまり力みすぎたからよ。湿布でもしたほうがいいかしらね?」
 ウィムリーフは写生をやめ、ミスティンキルを見た。じろりと、ミスティンキルは恨めしそうにウィムリーフのほうを見る。
「ウィムよう。お前さんはなんでそうも平気でいられるのかね?」
 ミスティンキルは力なくウィムリーフに言った。
「ミストと違って、あたしは力任せにしがみついてたりしなかったもの。アザスタンの飛び方には最初びっくりしたけど、風の助けと翼の使いようで、勝手が分かったらあとはそれほど苦でもなかったわ」
「さすが“風の司”ってやつか。おれはしがみつくのが精一杯で、翼を使うとか魔法を使うとか、そっちまで頭が働かなかったからなあ。……っ……。なんでこんなひでえ目に遭わなきゃならねえんだ……」
「魔法を使って癒すとか、そういうことはできないの?」
「そんな魔法もあるに違いないけどな。自分の中から魔法を探るのってのはけっこう疲れるんだぜ。心身ともにな。……今はとてもそんな気になれねえ」
 元気な口調のウィムリーフが恨めしい。この疲労の半分でも分けてやりたいとすらミスティンキルは思った。
「……ともかく助けてくれ。痛くてたまらねえ。さするなりなんなり、してくれねえか?」
「ミストがそうまで痛がるなんてよっぽどのことねえ」
 言いつつウィムリーフは日誌をいったんしまうと、龍の背びれをひらりと乗り越えてミスティンキルの横でかがみ、彼の肩や背をさすった。そのたびにミスティンキルは小さくうめく。
「わあ、この凝りかたは酷いわね! ずいぶんと痛いでしょう?」
「正直言って動きたくねえな。……なあ、ウィムのほうは魔法は使えるのか?」
「え?」
 ウィムリーフは一瞬きょとんとした。
「今まで考えたこともなかったな。そういえば月で魔導師の……ユクツェルノイレさんが言ってたっけ。『魔導は君達二人に託したい』って。あの時、あたしも一緒になって魔導を復活させたんだから、ミストだけが魔法を使えてあたしが使えないっていうのも変よね。うん! やってみる。どうすればいいのかな?」
「おれの場合は『こうしたい!』と心の中で願った。そうすると心の奥底からふっとわき出るように魔法が出てきたんだ。呪文だって同じだ。おれ自身、難しいことはしてねえし、考えてもない」
 昔から口べたで、人にものを教えることが苦手だというのはミスティンキル本人も分かっている。自分の感覚がうまく伝えられないもどかしさを苦々しく感じながらもミスティンキルは答えた。
「……ふうん。……なんていうかな、魔法って聞くと普通はもっといろいろと手間のかかるもののように思えるんだけど、魔法を使う本人にとってみれば意外にそうでもないのかしら。あたしたちアイバーフィンが風を操ってみせるのと同じような感覚だと考えていいのかな……とにかくやってみるわ」

 ウィムリーフは目を閉じ、両の手のひらをミスティンキルの背中に当てた。意識を集中させているのだろう、彼女の両腕が力んでいるのが分かる。
 しかしいくら経ってもその腕から魔力が放たれることはなかった。
「……どう?」
 自信なさそうにウィムリーフが尋ねる。
「悪いけれども……」
 ミスティンキルはかぶりを振った。はあ、とため息を漏らしてウィムリーフは両腕から力を抜いた。彼女の落胆ぶりが伝わってくる。
「『癒しの力よ来い!』とか『出ろ!』とか色々願ってはみたんだけれど……駄目ね。ミストだったら例えばどういうふうに願う?」
「やっぱりお前と同じだよ。『やる気出ろ!』みたいにな。……とにかく俺からはそういうふうにしか答えられない。理屈じゃなくて感覚で魔法を使っているんだろうな。だからウィムのやり方と俺のとでなにがどう違ってるのか、俺には分からない」

 彼女はやや憮然としながらも何回か魔法を試してみたが、結果に変わりはなかった。
「あたしは……駄目なのかしらね」
 しまいにウィムリーフは自嘲気味に笑みを浮かべて空を見上げるのだった。
「ウィム」
 ミスティンキルの言葉にも彼女は目をつぶって小さくかぶりを振るばかり。ミスティンキルは雰囲気を察し、なにも声をかけないことにした。しばし沈黙。彼女は今、どんなことを心の中で思っているのだろう? ウィムリーフには魔導は継承されなかったというのだろうか?

◆◆◆◆

 しばらくしてウィムリーフはすくりと立ち上がった。
「うん。……仕方ない。まだ痛むでしょう? 湿布をしてあげるわ」
 きわめて普段どおり、軽やかな足取りで龍の背びれをまたぎ、ウィムリーフは薬を取り出した。
「不公平よね。なんであたしにはなにも――」
 ミスティンキルの元に戻る最中、ウィムリーフはぽつりと漏らすのだった。納得しかねている様子がありありと伝わってくるが、彼女はそれ以上負の感情を露わにすることはなかった。
 ウィムリーフは包帯をちぎって薬を塗り込む。そしてミスティンキルの身体を撫で、特に筋がこわばっているところに包帯を当てていった。
 それがひとしきり終わると彼女は元いた場所に戻り、再び写生をはじめるのだった。ミスティンキルが感謝の言葉をかけたが、彼女からの返事はなかった。

 やがて太陽が雲海の上まで顔を出すようになり、暖かな光を放ち出す。節々を痛めているミスティンキルにとっても心地よい光だ。ウィムリーフは感嘆の声を上げた。今までとはまた違った情景へと変わったのだろう。
「あのう……あたしのこと、気を悪くしてたらごめんね?」
 ウィムリーフはおずおずとミスティンキルに声をかけてきた。先ほどのことをずっと気にやんでいたのかもしれない。魔法が使えなかったことではなく、それに対する彼女自身の態度について。
「おれは気にしてねえよ」
 うつぶせになったままのミスティンキルは目を閉じたまま答えた。
「うん。ありがとう」とウィムリーフ。
「……空ってやっぱりいいわね。気分が癒される。ミストも見てみたら? 雲に光が当たって、輝いて見えるわよ」
「ああ。けれども……眠くなってきた」
「それじゃあ眠ってしまいなさいな。心配しないで、突風が来てもあたしの力でそらせてみせる。次に起きる頃には調子も良くなってるに違いないわ」
 ウィムリーフはそう言うとミスティンキルのところにやって来て、彼の頬に口づけをした。そんなウィムリーフを愛おしいと思う。ミスティンキルは上半身をむくりと起こし、やや強引にウィムリーフの唇を奪った。ややあって。赤い瞳の彼は唇を離し、にやりと笑って彼女の青い瞳を見る。不意打ちを受けた彼女は、かあっと顔を赤らめた。
「……お休み、ウィム」
「あ、うん。お、お休み……」
 それだけ言葉を交わすと、ウィムリーフはまた元いた位置へと戻っていった。
 髪を撫でる心地のいい風と、さんさんと降り注ぐ暖かな春の陽光は、ミスティンキルを眠りの縁へと誘っていくのだった。

◆◆◆◆

 次にミスティンキルが目覚めたとき、風はぱたりとやんでいた。ウィムリーフが手当したかいがあって、筋肉の痛みはすっかり引いている。あれだけ緊張して張りつめていた心身は、今や全く普段どおりになっている。ミスティンキルはぐっと四肢を大きく伸ばしたあと、ふと、様子がまるで変わっているのに気付いた。ミスティンキルは龍の背からがばりと起きあがって周囲を見渡した。
 自分達を中心として、丸天井を象った大きな空間がぽっかりあいており、その周囲を乳白色の厚い雲が覆っているのが分かる。そこから外側の様子は見えない。寝ぼけまなこをこすりよく見てみると、これは雲に見えるようでいて実は雲ではない。
 龍の背びれの向こう側ではウィムリーフが仰向けになって気持ちよさそうにすうすうと眠っていた。
「で、ここはなんなんだ?」
 身体を動かして筋を伸ばしたあと、ミスティンキルは呟いた。この奇妙な空間はどこかで目にしたことがあるような気もした。
【わしが作った巣だ。お前達二人とも眠ってしまったから、今晩はここで過ごすことにするぞ】
 ぐぐっと、アザスタンが長い首を向けてミスティンキルに語りかけた。
(ドゥール・サウベレーン)の巣か?!」
 “炎の(デ・イグ)”では、赤水晶(クィル・バラン)のように煌めく球体が浮かんでいたのを思い出した。
「……にしては赤くねえんだな」
【赤さは“炎の(デ・イグ)”の中にあってこそのもの。ここアリューザ・ガルドでは、見てのとおりの色合いとなるのだ】
「降りられるのか?」
【むろん。お前達にとってはそのほうが居心地が良かろう】

 言われて、ミスティンキルは龍の背から降りてみることにした。二人分の荷物を抱え込み、アザスタンの大きな脚を伝って地面に降り立った。この床面はまるで羊毛の絨毯のようにふかふかして暖かい。
 彼は荷物をどかりと下ろすと、ウィムリーフのもとへ向かった。だが彼女は深く眠っているようで、いくらミスティンキルが揺り動かし呼びかけてもぴくりとも応えなかった。仕方なくミスティンキルは彼女を抱き上げて龍から降り、やや歩くと、綿毛のような床に横たえた。このあたりは寝床にするにはもってこいのようだ。
「アザスタン。今どのあたりなのか、あんた分かるか?」
 ミスティンキルはアザスタンの側に寄ると、彼に訊いた。
【デュンサアルから真南、ちょうど海に出たばかりのところだ。この先どうしようかとウィムリーフに訊こうとしたのだが、寝てしまっていた。まあ夜も近かったことだし、この空に巣を張ることにしたのだ。あとどうするのかはウィムリーフが起きたときに訊け】
「ああ、そうさせてもらう。……今日一日、ありがとうな」
 ふんと、アザスタンは鼻を鳴らせて答えた。

 ミスティンキルはウィムリーフのところまで行き、床に腰を落ち着けた。ぬくぬくとした心地よさが伝わってくる。再びまぶたが重くなってくるのを感じたミスティンキルは、もう一度眠ってしまうことに決めた。結局食事をとっていないのだが不思議と空腹感はないし、これ以上起きていてもなにもやることはない。
 彼はウィムリーフにぴったりとくっつくと彼女の頭を自分の左腕に乗せ――ゆっくりと目を閉じるのだった。


(三)

 深く心地よい眠りの底からミスティンキルはゆっくりと浮上していった。“目覚めた”と彼の意識が認識すると同時に、彼は左腕に異物感を覚えた。だがそれは優しく暖かい感じがする。彼の横に寄り添うもの、それは――。
 ああ、そうか。ミスティンキルは首を左に向けてゆっくりとまぶたを開けていった。
 ミスティンキルの左腕を枕にして、すうすうと寝息を立てているウィムリーフ。成人したてで彼よりほんのわずか年上とはいえ、間近に見る彼女の寝顔はとても可愛らしい。
 ミスティンキルは神妙な顔をした。自ら進んで腕枕をするなどいかにもきざで、まったく自分らしくもない。旅の準備の一週間、ほんの一週間ウィムリーフに会わなかったからといって、こんなにも彼女のぬくもりが恋しくなるものなのだろうか。
 ミスティンキルは首を元に戻し、龍の巣の乳白色をした天井を見つめる。小さく息を吐いた。
(口づけたり、こんなことしたり……おれはウィムが欲しいってのか?)
 彼の心は否定しなかった。だが二人で愛を交わすにしても、この冒険行が終わってからだ。彼は律した。これからしばらくは常に身の回りに注意を払うことを怠ってはならない、と。自分達がこれから向かう遺跡は魅力的ではあるが、長いこと人を遠ざけてきた孤島なのだから。
 それでもミスティンキルは恋人のぬくもりを少しでも長く感じていたいと思い、彼女を起こさずにいようと決めた。

 やがてウィムリーフが小さく唸り、目を開けた。
「ミスト? あ……おはよう……」
 彼女はミスティンキルの顔を見た。やや頬を赤らめる。ミスティンキルの腕を枕にして寝ているという状態は、彼女にしても照れくさいのだろう。
「……やぁねえ。いつの間にか寝ちゃってたのね」
 ウィムリーフはくすりと笑った。そして周囲の様子を見やる。(ドゥール・サウベレーン)の巣の中というのは、彼女にとって初めての情景だ。ゆっくりと上半身を起こした。
「ここは……アザスタンの巣?」
「そうだ」
 彼女の身体の柔らかさ、暖かさを直に感じ取れなくなったことを惜しみながら、ミスティンキルは答えた。
「そう、“炎の(デ・イグ)”で見たような龍の巣の中に、あたし達はいるってわけね!」
 ウィムリーフは足場を慎重に確かめながら立ち上がって大きく伸びをした。そして羊毛のように柔らかそうな壁まで歩いていくと、そおっと手のひらで触れてみた。
「あ、やっぱり。龍王様の御殿の外壁と同じだわ。まるでお菓子の生地みたいにふわふわしてる」
 ミスティンキルも彼女の横に立って壁に触ってみた。
「いや、やっぱりクリームだろう、どっちかってえと」
「クリームたっぷりのお菓子が食べたくなるわね! アルトツァーンにいた頃が懐かしくなるわ。春になってからまったく口にしてないもんね」
「そういや、お前さんは甘党だったな」
「甘いものは別腹、ってね!」
 白い壁に手を当てながら、ウィムリーフは笑って見せた。

【起きたな】
 龍の声。この空間の中央に居座る主はぬうっと首を伸ばした。
「おはようアザスタン。あなたは寝てたの? ……いえ、そもそもの質問だけれど、龍は眠るものなの?」
【眠る。アリュゼル神族にしても眠って英気を養うのだ。我らとて同じこと】
 アザスタンは答えた。
【さて。お前が寝てしまったからどこへ飛ぼうか見当がつかなくなり、こうして巣を作って中にいるわけだが……ウィムリーフよ。これからどうする? 今わしらは、デュンサアルから真南に飛び、海に出たところにおる】
「ああ、ごめんなさい二人とも。アザスタンの巣から出たら、島がどの方角にあるのか調べるわ。もう朝なのかしら?」
「腹時計からしたら、おそらくはな」
 とミスティンキル。ウィムリーフはくすりと笑った。
「そうね。じゃあまずあたし達人間は朝食にするわ。それから出発ね」
「ところでウィム。飯はいいとしてだ。アザスタンに乗ってて、もよおしたくなったときはどうするんだ」
「……その話題か」
「大事なことだぜ?」
 やれやれと、ウィムリーフは腰に手を当てた。
「いい? あたし達には翼がある。そして真下は海。つまりは――鳥がどうするのかを考えてみなさい」
 ミスティンキルは頷いた。
「空の上からばらまけってんだな」
「――――!! あたしの前でそういうこと言うのか、あんたって人は!」
 ウィムリーフは唇をかみしめ、ミスティンキルをにらみつけるのだった。

◆◆◆◆

 小箱のような四角形をした食料は保存性と携帯性を兼ね備え、加えて満腹感をも満たされるものだった。“味”という観点からは決して賞賛されるものではなかったが。これから毎日毎食、これを食べ続けなければならないのだ。もっとも島に着けば自然の食材にありつける可能性はあるのだが。
「せめて、新鮮な魚でも食いたいぜ。この真下にはたくさんいるだろうに……アザスタンが海すれすれを飛ぶんなら、網を作るんだがなあ。そうすりゃたんまり獲れるぜ」
「良い案だし、本音のところあたしも賛成だけれど残念。却下ね。あたしは早く島に着きたいの。それにあたし達が持ってる武器のたぐいは、魚をさばくために持ってきたんじゃない」
「漁師の料理が味わえる絶好の機会だってのになあ。ああ、生魚なんて一年以上食ってねえよ……」
「なま? 焼いたりせず、生で食べるの?!」
 食事の途中、水筒から水を飲んでいたウィムリーフは、怪訝そうな表情を浮かべた。
「あれ、冒険家さんは知らねえのか? 海の男の料理っていやあ、とれたての魚を――こうさばいてな。その肉を粥飯にのっけて塩をかけるってのが定番だ」
「聞いたこともないわよ。ラディキアあたりではミストの言うとおりなのかもしれないけど、生まれて五十五年、そんなもの食べたこと無いわ」
「おれはこの五十年間、いっつも食ってたけどな。あれはうまい。冒険が終わったらお前にも食わせてやるよ」
「うーん……」
 ウィムリーフの表情は今ひとつ浮かない。
「だが冒険家テルタージの娘よ。冒険してるときには草だの蛇だのを食わなきゃならねえ時ってのもあるんじゃねえか?」
「あああ!!」
 あわれ、ウィムリーフは頭を抱え込んだ。

◆◆◆◆

 食事を済ませ、旅支度も万端。ミスティンキルとウィムリーフは蒼龍の背中に乗り、背びれを挟んで左右に座した。
「いいわよ、アザスタン。お願い」
 ウィムリーフの声を合図にして、アザスタンは両の翼を広げた。羽ばたきがはじまるとともにふわりと浮遊する。それから龍は首を高く真上に突き出し、大きく息を吸い込んだ。巣としていた乳白色の球体が、天井からみるみるうちに消え失せていく。綺麗な空が見えてくる。やがて龍の巣はアザスタンの体内にすべて取りこまれた。
 太陽は東の空から昇ったばかり。上にも下にも、空には雲ひとつ無い。前方、見渡すかぎり広がるスフフォイル海が煌めいて見える。上空の空気はまだ寒々しいが、じつに爽やかな春の朝だ。

【さてどうする】
 滞空した姿勢でアザスタンが問いかけてきた。
「ちょっと待ってて」
 言うなりウィムリーフは浮き上がり龍の体躯からやや離れると、周囲をゆっくり飛んで廻った。しばらくして彼女はアザスタンの正面に立った。
「まっすぐあちらへ」
 ウィムリーフは行くべき方向へと右手を指し示した。この時期の太陽の位置から察するに、西南西といったところか。
「かつてカストルウェンとレオウドゥールがラミシスへ入った経路と同じ道をたどることにするわ。彼らもあたし達と同じく、龍に乗ってラミシスに入ったとされてる。同じ道を行けば、上陸を前にして休憩が取れる小島があるし、そこからだったら島の岬に建っている“壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼが見えるかもしれない。――お願いアザスタン、昨日の速さのまま飛んでちょうだい。今日中に島までたどり着けるかもしれないけど、まあ余裕をもって明日の朝に上陸、と行きたいわね!」
【了解した】
 ウィムリーフは満足そうにうなずくと、アザスタンの背びれを挟んでミスティンキルの右隣に再び座した。
 龍は徐々に飛ぶ速度を速めていく。心地よい風が背の上の二人の髪をなびかせた。

「なあウィム、朱色(あけいろ)のヒュールリットを知ってるか?」
 龍の背びれにつかまりながら、ミスティンキルはウィムリーフに訊いた。
「うん、龍の名ね。もちろん知ってるわ。魔導王国ラミシスの王であるスガルト。その彼を倒すべく魔導師シング・ディールに協力したのが朱色の龍ヒュールリット。ヒュールリットと他の龍達の協力がなければ、ディール達の軍勢はラミシスを滅ぼすどころか、島に入ることすらままならなかった、と言うわね」
「……なら、そいつがおれ達の行く手を阻むとしたら?」
 それを聞いてウィムリーフは真剣な表情をしてミスティンキルのほうを見た。
「あり得るの? そんなことが。だって王国はずっと昔――そう、九百年前に滅んだのよ? 今は遺跡しかない。悪く言えば廃墟しか残ってないのに。呪縛を嫌い孤高を好むという龍が、いまだ居座っているなんて――」
「ところが違う。おれはエツェントゥー老から直に聞いたんだ。その昔、デュンサアルからたった一人でラミシス遺跡を目指したってえ、無鉄砲で馬鹿なドゥロームがいたんだと。そいつは島に近づくところまで行ったけど、そこから逃げ帰った。……ヒュールリットだよ。やつは島の近辺に巣を作って、人間が遺跡に入らないように見張ってるらしい」
「――遺跡には今も何かがあるのかしら? カストルウェン達も王都にだけは入れなかったと書いてあったし……あら? でもあたしの読んだ本だと、ヒュールリットについては一言も触れられてなかったわよ?」
「それはおれも分からねえ。詩人が詠った詩にしたって、いろいろと継ぎ足したり引いたりしてる部分があるんじゃねえのか? 鵜呑みにはできない。けれどエツェントゥー老の話は真実味がある。おそらくこの先、おれ達は朱色のヒュールリットを相手にしなきゃならねえんだよ」
「龍を相手にして、まともに戦えるというの?」
「……そうじゃねえ。話し合って解決するほかねえだろう」
 ウィムリーフはしばし黙りこくった。

「……あたしが交渉するわ」
 ウィムリーフは切り出した。
「だな。それがいい。アザスタンだってついている。それにおれ達は龍王イリリエンにだって会ってるんだ。きっとうまくいく」
 ミスティンキルの言葉を聞いてウィムリーフは小さくうなずいた。そして背負った荷物を外して手前に持ってくると、その中から本を取り出し――冒険を開始するに先立って、ラミシス関連の記述を彼女自身がまとめ上げたものだ――最初の頁から読み始めた。行動を起こすに際して準備は怠るべからずと学んだ彼女ならば、たとえ龍を――話す言葉にすら魔力が込められているという龍を相手にしても、対等に話し合えるに違いない。そして何より――
「せっかく東方大陸(ユードフェンリル)の南の端まで来たんだ。こんな機会は二度と来ないかもしれない……あたしは絶対、遺跡の奥にある王城にたどり着いてみせるわ!」
 ウィムリーフの強い信念。今回の冒険行において力の源は、彼女にこそあるのだ。

◆◆◆◆

 果てしなく続く青い空のもと、蒼龍はただまっすぐに飛び続けた。ミスティンキルが見るのは空の青と海の青。そして眼下に浮かぶ雲の白だった。本とにらめっこを続けていたウィムリーフは時折、気分転換のために龍の背中から舞い上がり、自在に空を舞うのだった。
 やがて陽が西に傾き、橙色に染まり始める。折しも前方、やや左側に小島が見えてきた。ウィムリーフが言っていた休憩場所だ。出発に際してウィムリーフの示した方向は正しかったのだ。彼女は満足げに笑みを浮かべた。
「ほっとしたわ。『方向を間違えていたらどうしよう』なんて、けっこう心配してたのよ?」
 ウィムリーフは言った。
 目指すべきラミシスの島はまだ姿を現していないが、間違いなくこの先にある。
「今日はここまでにしましょう。お願いアザスタン、左下に見えてきた小島の平地に降りて」
【応】
 アザスタンはゆっくりと降下し始めた。


(四)

 ヨウコソ――
 宵ウ来ソ――

 ウィムリーフはその言葉を確かに聞いた。誰のものか分からないその声はしかし、不思議と彼女を心の底から安心させるものだった。
(ここはどこ?)
 どこかの室内。もしくは回廊。辺りは一様に薄暗く、間隔を置いて灯っているランプによって足場が照らし出されていた。
 そしていつの間にか彼女は、長く長く続いている狭い螺旋階段を下りているのだった。
(これは夢だ)
 ウィムリーフの意識は確信した。いつか見ていた、夢の続きを見ている。
 ふと前に焦点を合わせる。四段ほど前、ウィムリーフを誘うかのように人の影のようなものが階段を下りている。あれはいったい何なのだろうか? だがウィムリーフの足は近づくことができない。また、止まったり遠ざかったりすることもできない。一定の距離を隔てたまま、ただ階段を下りていく。

 やがて鉄の扉が彼女達の前に現れた。真っ平らな扉には取っ手らしきものは何一つ無く、鉄板の鈍色(にびいろ)が冷たさと重厚さを醸し出している。影はその前で止まった。ウィムリーフはやはり、影から数歩置いたところで動けなくなる。
 影が扉に手を触れると、鈍色の表面に変化が起きた。手を中心に細く青白い線が何本も放射状に延びていき、すぐに複雑な紋様を象った。この紋章が一瞬輝きを増すと、扉はそれに応えるように重々しい音を立ててゆっくりと開いていった。

 再び彼らは螺旋階段を下りていく。距離を置いて。もうずいぶんと降りてきた。この階段はぐるぐると廻りながらどこまで続いているのだろうか。どこに向かっているのだろうか。彼女はそんな疑問を持ったが、それとは関係なしに足は一歩一歩前へと進んでいく。何かに引き寄せられるように。あるいは前を行く影に。
 やがて第二の扉が行く手を阻んだ。影は先ほどと同様、その表面に手を触れた。今度は違う形の紋様が形づくられる。そして扉は音を立てて開いていく。
 その先にあるのはただ闇だった。影はしかし、躊躇することなくその闇の中へと消えていく。ウィムリーフもそれに続いた。

 背後で扉が閉まると、周囲はねっとりした闇に支配される。影は光の珠を魔法で作り出し、手のひらから離した。光球はゆっくりと上に向かっていく。それと同時に周囲の情景も明らかになっていく。
 ウィムリーフはしばし見とれた。ここは大きな空洞だ。周囲の壁はそれまでのような人工的なものではなく鍾乳石で出来ている。気の遠くなるような長い年月を経て、この天然の鍾乳洞はつくられたのだろう。

 影は――空洞のとある場所で立ち尽くしていた。ウィムリーフはそちらのほうまで歩いていく。影はゆっくりと腰を落とした。ウィムリーフはそろそろと、影の斜め後ろにまで近寄る。
 影の前の床は明らかに人の手が加えられており、そこには石造りの立方体をした箱がひとつあった。小動物の一匹くらい中に入れそうな、その箱の表面には文字がびっしりと埋め尽くすように刻まれていた。それらの意味するところはウィムリーフには分からない。
 影は、これを自分に見せたかったのだろうか?
 そう思うと同時に、影がぬうっと手を伸ばしウィムリーフの手首を掴んだ。
 刹那。
 魔力が――青い魔力が、爆ぜたかのように勢いよく放出されていく。ほとばしり立ち上る青の力。それは尽きることなく自分の内面からわき上がってくる力。
 当のウィムリーフは立ち尽くし、影に掴まれた手首を見つめながらも、たしかに快さを感じていた。愉快なまでに。
 影がゆっくりと振り向こうとしている。

 そして暗転――

◆◆◆◆

 夢から覚めたウィムリーフは目を開けた。まだ朝は早く、太陽も顔を出していない。篝火の小さな炎が暖かい。その向こう側ではミスティンキルが大口を開けて寝入っていた。
 ウィムリーフ達は小島で一晩を過ごすことにしたのだった。ここは海岸近く。寄せては返す波の音が心地よく聞こえる。
 昨晩はミスティンキルが釣り上げた魚を中心に、昼食の時とは比べものにならないほど豪勢な料理が味わえた。島に住む野生の動物を警戒するために篝火の火はつけたまま、彼らは眠りについたのだった。

 徐々に、空が明るくなってきた。しかし、それにしても先ほどから――いや、目覚めたときから目の前がうっすら青いように思える。薄い布で覆われているような青い色。これはなんなのだろうか。
「――!!」
 察したウィムリーフは、がばりと飛び起きた。この青い色には見覚えがある。自分の魔力だ! それが今、彼女の全身を包み込み漂っている。
(引っ込め!)
 彼女がそう念じると同時に、青い魔力は彼女の体内へと戻っていった。
(なんで……?)
 落ち着きを取り戻した彼女は疑問に感じた。彼女が魔力を開放したのはずいぶんと前のことになる。月の世界、魔導師ユクツェルノイレの封印核を打ち破る際、赤い魔力を持つミスティンキル同様に彼女も魔力をすべて解き放ったものだ。
 それが今朝、知らずの間に放出されていたなんて――ウィムリーフは訝しんだ。彼女は、今し方まで自身が見ていた夢の内容は覚えていない――。

「わしらがこれから行こうとしている魔導王国に、何かしら関係があるのかもしれぬな」
 振り返るとそこには龍戦士の姿に身を変えたアザスタンが立っていた。
「見ていたの? あたしの魔力が放たれていたのを」
 アザスタンは頷いた。
「無意識にやっちゃうだなんて、こんなこと初めてだわ。一体あたしになにが起こったっていうの? ミストにはなにも起きていないというのに」
「分からぬ」
 アザスタンは答えた。
「月の世界で魔導の封印を解いた時のように……あたし達は、なにかを起こすことになるというのかしら――?」
 真剣な表情でウィムリーフは再び訊いた。
「わしには分からぬことだ。わしは龍王様より言いつかって、このアリューザ・ガルドにおる。『私の目の代わりとなって、あの者達の紡ぐ物語の行く末を見届けるのだ』――龍王様はこうおっしゃった」
 アザスタンは言った。むろん“あの者達”とはミスティンキルとウィムリーフのことだ。
「わしから言えることはひとつ。今はただ進め、ウィムリーフ。運命を切り開く役割は、お前達人間にしかできぬことなのだ。我ら龍も、神々すらも、ただ傍観するか、助力となるしかできない」
 それを聞いてウィムリーフは頷いた。
「わかった。あたし達を見守って下さいましな、アザスタン」
「無論。それが今わしがここにいる意味。龍王様から下された課題なのだ」
 アザスタンは言った。
 その時ふと、ウィムリーフの脳裏を何かがよぎった。忘れかけていた記憶がよみがえってくる、そんな感覚をおぼえた。だがけっきょくなにも思い出せなかった。
「夢……? 寝ているとき、あたしはなにか夢を見ていたような気がする。――回廊、暗闇……階段――そんな情景だったはず。でも内容までは覚えてないな……」
 ウィムリーフはぽつりとつぶやいた。

 当人すら知らぬところで、“変化”は確実に起ころうとしていた。

◆◆◆◆

「うう……ん」
 半刻ほど経った頃、ようやくミスティンキルが目覚めた。
「おはようミスト。もう朝よ」
 ウィムリーフはミスティンキルの側に駆け寄って彼の顔を眺めた。
「ぽかーんって、大口開けて寝てた」
 ウィムリーフはけたけたと笑った。
「……見てたのか」
 ミスティンキルは口もとを腕でぬぐい、やや恨めしそうにウィムリーフの顔を見上げた。
「なんか夢でも見ていたの?」
「ん? ……覚えてねえな。ぐっすり寝入ってた気もする」
「起きて。食事にするわ」
 言われて、ミスティンキルはむくりと起きあがると周囲の様子を確かめた。
「雲が多いな」
 ミスティンキルの言うとおり、昨日はあれほど雲ひとつ無い青空が広がっていたというのに、今日は雲が多い。ただ雨雲らしきものは見あたらないし、雨独特の空気の匂いは感じられない。少なくとも雨が降ることだけはなさそうだ。
 このまま遺跡の島へと上陸できそうだ。そうミスティンキルが思っていた矢先――。

「龍の気配だ。こっちに来るぞ」
 アザスタンが唐突に言った。
「ヒュールリット?!」
 ミスティンキルとウィムリーフは表情をこわばらせる。だが龍の姿はどこにも見あたらない。アザスタンは同じ龍だからこそ感じ取れたのだろう。ミスティンキルは精神を集中して周囲の様子を感じ取ろうともしたが、アザスタンのようには分からない。
「どこから来るの?」
 とウィムリーフ。それに対してアザスタンは指を示した。入り江の方向、空高くに。一同はその方角を見つめるが、目をこらしてもまだ何も見えない。ただ白い雲が漂っているのみ。
 しばらく緊迫した空気が彼らを包み込む。誰もしゃべらない。
「――来た!」
 沈黙を破ったのはミスティンキル。魔法を用いて気配を感じ取ろうとしていたのだ。
「雲を突っ切って真っ逆さまに降りてきている。……もうすぐ見えるぞ!」
「あっ! あれ!」
 ウィムリーフが指さす空に、ぽつんと小さな影が見えた。それはぐんぐんと、とてつもない速さで近づいてくるではないか。
 大きな翼。龍の威容ある姿。その身にまとうのは朝日と見まごうばかりの鮮やかな(あけ)
「間違いねえな。ありゃあ朱色(あけいろ)のヒュールリットだ!」
 ミスティンキルは拳を握るのだった。

第三章 朱色のヒュールリット

(一)

 ウィムリーフは気分が高揚してくるのを実感していた。きっと前を見据える。

 彼方より飛来するは龍。その名を朱色(あけいろ)のヒュールリット。
 九百年以上の昔、眠れる龍達を覚醒させて魔導師ディールの軍勢を助け、海上の魔法障壁を突き破って邪悪な魔導師の軍勢を次々と打ち破り、ついには魔導王国の王すなわちスガルトをディールと共に討ち果たした、伝承に詠われる存在。

 おのが右に立つは龍。その名を守護者アザスタン。
 千五百年もの古、冥王降臨の暗黒時代においては、龍王イリリエンおよび龍達と共に“魔界(サビュラヘム)”に乗り込み、墜ちた同胞である黒龍(イズディル・シェイン)らや多くの魔族を葬り、また龍王をよく助け、のちに龍王の守護者となった伝説の存在。

 この両者が今、運命を背負った自分達のもとに集まろうとしているのだ!
 自分は冒険家の道を選んで、本当によかった。
 だが同時に、ウィムリーフは気分を抑え、努めて冷静になろうとしていた。ヒュールリットは味方ではない。少なくとも今は。ことの次第によっては、もしかすると敵に回るかもしれない存在なのだ。
 また話し合う間もなく、戦いに突入したらどうなるのか? 自分とミスティンキルがいかに強大な力を得たからといって、果たして龍に太刀打ちできるかどうか分からない。龍の有する魔力は人間とは比べものにならないほど膨大だ。
 アザスタンはどうか? ウィムリーフは横を見た。
 折しもアザスタンは咆哮を放って周囲の空気をおおいに震わせる。空気は球状に歪み、内部のアザスタンが見えなくなった。やがて空気の歪みは消え失せて、空間の向こう、アザスタンは本来の巨大な蒼龍の姿へと戻っていた。
(やっぱりアザスタンは、あたし達の味方だわ)
 口もとをにこりと笑わせ、ウィムリーフはかの龍への親しみをいっそう強く感じるのだった。
 そして――。

「さあ、来たぜ!」
 ミスティンキルの言葉どおり、ヒュールリットは空気をつんざくような凄まじい速度でこちらに辿り着かんとしている! “風の司”である自分すらとうてい及ぶものではないその速さ。龍が本気で空を駆るとこんなにも速いというのか。二言三言、ミスティンキルと言葉を交わすうちにもこの小島に到来してしまうだろう。

 そう考えているうちにも、あの巨大な顔の輪郭が明瞭に分かるまで接近してきた。龍王イリリエンやアザスタンとはまた異なる、しかし龍ならではの尊厳をもった朱の顔。後方に長く突き出た二本の角はともに白く、龍の巨躯が持つ美しい朱を際だたせている。
 と、ヒュールリットがこちらに向けて口を大きく開けた。その口内の奥の奥、ちろりと赤い火の玉が見えた。
(――炎!!)
 互いの距離が二ラクほどにまで接近した今、あの龍は灼熱の炎をほとばしらせようとしている! ウィムリーフがそう感じるが早いか、彼女は無意識に左の腕を前方に突き出して手のひらを広げた。
「壁よ!」
 彼女は魔力の放出に伴って一瞬の脱力を感じた。先に得た魔導でも、もともと内包する風の力でもいい。なんとしても龍の炎をくい止めなければ! 現に今、緋色の業火は放たれたのだ!
 刹那、自分達とヒュールリットとの真ん中に、炎の疾走をくい止めるべく盾が発動されたのを知った。ちらと、その薄く透明な膜の中心部から赤く鋭い点が放射状にさっと広がり、各々は稲光のような線を描いて盾の端で消える。
 赤。
 この盾はミスティンキルが発動させたものなのだろうか? 自分のものではないのだろうか?
 考える間もなくヒュールリットの炎は障壁に突き当たり、やがて消えた。

◆◆◆◆

 今や、四者に緊迫感はなくなった。
 ややあって、落ち着きを取り戻した空気の中、ヒュールリットはゆっくりと身体を進ませ、魔法の障壁を突き破った。
【事なきを得たか】
 ウィムリーフの横上方からアザスタンが声を出した。
【ともあれウィムリーフ、あれは威嚇のための炎よ。あの勢いでも、我らの寸前で炎は消えていたろう。ミスティンキルが何もせずともな】
 アザスタンの言葉にウィムリーフは一瞬、ちらと嫉妬を覚えるのだった。やはり自分には魔導は継承されていないというのか――?

 ヒュールリットはさらに進み磯辺の上空までやって来ると、両の翼をぴんと横に張ってゆっくりと降り、大きく翼をはためかせて三者の前方、四分の一ラクほどの距離にて滞空した。
【よもやデューウ《はらから》がいるとは。思いもかけないことだ】
 ヒュールリットは言葉を発した。
【警告はした。デューウよ。そして人の子よ。なぜこのような地にまでやって来た? この先に何があるか、知っておるのか?】
「朱色のヒュールリット! 我ら二人は月にて、失われし魔導を受け継いだ者。褪せつつあった世界の“色”を元に戻した者。そして“炎の(デ・イグ)”においては龍王様のご尊顔を拝し奉った者。――ここより南にラミシスの島があるのは承知。邪悪とはいえ魔導の発祥となったラミシス遺跡へ赴きたいという願望ゆえ、ここまで来ました!」
 凛と。ウィムリーフは声を張り上げた。


(二)

 ウィムリーフは朱色の(ドゥール・サウベレーン)をじっと見つめた。自らの決意のほどを伝えようと、意志も固く。
 対してヒュールリットも彼女を凝視した。龍の瞳は琥珀色。
 両者は互いの瞳の奥を見つめたまま対峙した。だが――
【引き返せ】
 それはヒュールリットの、ほんの僅かな小声に過ぎなかったが、ウィムリーフは瞬時に身動きが一切とれなくなった。動け動けと、どんなに必死に念じても、意志に反して四肢はぴくりとも動こうとしない。突如、ウィムリーフは龍の言葉に抗えなくなったのだ。

――龍の言葉を聞いてはならない――

 古くから伝わる戒めのとおり、偉大なる龍はその言葉に魔力を宿している。ヒュールリットもまたしかり。ヒュールリットの言葉は容赦なく、ウィムリーフの心にまで作用する。ついに彼女は冒険行を否定し始めた。ミスティンキルのかける声が、どんどん遠のいていくのを感じる――
 ――そして、魔法の言葉が彼女の奥底に囁いてくる。魅惑をはらんで――

 ――ラミシスの地を歩いたとしても、かの破れさびし遺跡――否、廃墟からは何一つ見いだせないだろう。記録に綴る? 何を綴るというのだ。そんなもの、たった紙切れ一枚で終わってしまう。残るのは疲労、辛さ、そして夢破れたことに対する大きな落胆。……ラミシスに行く価値などあろうか? すでに自分は栄えあることを成し遂げた。“炎の(デ・イグ)”と月での出来事。あれに優る冒険などありはしない。
 ――それよりも暖かさを求めたほうが、ずっといい。春の日射し、毛布のぬくもり、ミスティンキルの肌。ここから先に進めば、そのような暖かさを感じることはできないのだ――
 まどろむように、ウィムリーフはまぶたを閉じようとしていた。甘い誘惑をすべて受け入れようとせんがごとく。

――宵ウ来ソ――

(――!!)
 別の“声”をウィムリーフは確かに聞いた。誰のものか分からないその“声”は、しかし彼女を支配していた龍の魔力を引き裂いた。魔力に絡め取られそうになっていたウィムリーフは我に返り、青い瞳に再び強い意志を宿して、ヒュールリットを鋭く見返すのだった。
【娘――】
「あたしは! ここで帰るわけにはいかない!」
 龍の言葉を遮って、ウィムリーフは大きく声を発した。凛としたその声は空気をも響かせる。
 そしてウィムリーフは地面を勢いよく蹴り、空中に舞い上がる。彼女はヒュールリットの頭部と同じ高さにまで登ると、そこで滞空して龍と対峙した。自分は龍と比して体こそ小さいが、立場は龍と対等であるということを、ヒュールリットに知らしめるかのように。
「ヒュールリットよ!」
 ウィムリーフは声を張り上げて言った。
「あたし達の冒険行に危険がつきまとうのは承知した上で! そして、ラミシスの地で得るものがないかもしれないと覚悟した上で! それでもなお、あたし達はあの場所に行きたいのです! これは――あたしの使命! 誰であろうと止めることはできないのです。朱色のヒュールリット!」
 おのが言葉には魔力が無くとも、信念で龍の心を揺り動してみせる。ヒュールリットに負けてたまるものか! ウィムリーフは真摯なさまを朱色の龍に、そしてミスティンキル達に知らしめたのだ。

【デューウ《はらから》よ。わしはアザスタン。龍王様を守護する者】
 ウィムリーフの思いはアザスタンの心を動かしたのだろう。龍戦士のアザスタンは地面に腰を下ろしたまま、ヒュールリットに呼びかけた。
【……龍王様はこう言われた。【いよいよ運命は廻りだし“物語”が始まる――アザスタン、私の目の代わりとなって、あの者達の紡ぐ物語の行く末を見届けるのだ】と。ここは我らも、人間を阻むべきではないと考える】
【龍王様がそうまでおっしゃるのか……】
 ヒュールリットは言った。
【娘。名前を聞こうか】
「ウィムリーフ・テルタージ。“風の司”であるアイバーフィンです」
 ウィムリーフは誇らしげに言った。
【ではアイバーフィンの娘ウィムリーフよ。先にお前は、失われし魔導を受け継いだと言った。褪せつつあった世界の“色”を元に戻したともな。ではあらためて、お前が為したという事柄を聞いておこうか】
「やったのは“お前”じゃなくて“お前達”……だがな」
 地上で成り行きを見ているミスティンキルは、ヒュールリットの言葉にこそっと口を挟んだ。

「……話は長くなりますが、よろしいですか?」とウィムリーフ。
【かまわぬ】
 ウィムリーフは変わらず、真正面から朱色の龍を見据える。巨躯を持つ偉大なる龍。その存在感に負けまいと、ウィムリーフは朗々と語り始めた。“炎の(デ・イグ)”に至るまでの出来事、龍王イリリエンと相対した事、月の界での出来事を事細かに。
 その間ヒュールリットは、目の前にいるアイバーフィンの言う事の真偽を見極めるかのように、瞬きすることなくじっと彼女を見つめ続けた。それは人間であるウィムリーフにとって、どれほどの圧力だった事か。しかし彼女は――かの冒険を成し遂げて強くなった彼女達は――怯むことなく、ついに語り終えた。
「――あたし達が為した事は、これが全てです」
【……】
 ヒュールリットは目を細め、なにやら思考している様子だったが、やがて目を見開いた。
【大したものだ、ウィムリーフ。ではあらためて訊こう。お前はこの先にあるラミシスに何を求める?】
「今の世では誰も知らない、遺跡の姿を確かめに」
 ウィムリーフは言った。
「最後の目的地は、島の東側にあるというかつての王城、オーヴ・ディンデです。ヒュールリットよ。あなたとあなたの友人――魔導師シング・ディールが漆黒の導師を打ち倒して以来、あの場所には誰も足を踏み入れる事がなかった。いや、できなかった。けれどもあたし達はオーヴ・ディンデへ入り、あの場所がどうなっているのか確かめ、文字にそれを記すのです」
 龍の問いかけに対し、ウィムリーフは毅然として答えた。はたからは、精神の疲労をみじんも感じさせない。
【宝物目当てではないというのだな】
「あの地で、あたし達が目にするものの全てが宝なのです。そしてあたし達の冒険を書にまとめて後世に伝える。それがあたしの成し遂げたい事です」
 ヒュールリットはふたたび、思索を巡らせるかのようにしばし目を閉じた。
【――龍王様がこの者達をお認めになったのか……。それにお前の言葉にも嘘偽りはない――】
 ヒュールリットは目を開けた。
【ウィムリーフにミスティンキル。お前達がここから先に行くべきなのか、行かぬほうがよいのか、運命のなんたるかを知らぬ私ではあずかり知らぬ事だ。…… 物語は人により紡がれゆかなければならない。――いいだろう。このヒュールリットは邪魔立てせぬ。さあ、かの島まで私の後に続くがいい。そして物語を綴ってみせるのだ】
 ウィムリーフはそれを聞いて満面の笑みを浮かべた。ヒュールリットは道案内をしてくれるというのだ。
「ありがとうございます! 朱色のヒュールリット!」
 朱色の龍は鼻から白い煙を吹き出すと、くるりと巨躯を反転させてゆっくり空高く舞い上がっていく。
「勝った……!」
 冒険家テルタージの孫娘は、大きな充実感に包まれるのだった。龍との静かな戦いに、たった一人で打ち克ったのだから。

「行くぞ、アザスタン!」
 ことの成り行きを見届けたミスティンキルはアザスタンに向かって言う。と、彼の言葉に呼応するようにアザスタンは大きく吠え、その身を蒼龍へと変化させるのだった。
「待って、アザスタン!」
 空にいたウィムリーフはそれを見て、つと、と地面へと降り立った。
「ミスト! まずは早くここを片付けないと! 旅支度を調えるわ! 急いで!」
「急げって、お前……。ヒュールリットはとっとと先に行っちまってるぞ? アザスタンに乗ってさっさと行こうぜ!」
「ばかね。旅の装備無しでこの先どうしようってのよ。ラミシスの島に着いたら、これだけが命をつなぐんだから」
 人差し指でミスティンキルの額を軽く小突くと、ウィムリーフはウィンクをしてみせた。
「さあ、いよいよラミシスの島目指して、出発するわ!」


(三)

 ミスティンキル達がヒュールリットに追いつく頃、太陽が東の水平線から顔を見せた。みるみるうちに世界が色づいていく。空と海が紅く染まる。ウィムリーフは光と色彩による眩さのあまり、腕で視界を遮った。
 が、それもすぐのこと。光に目が慣れたウィムリーフは周囲をぐるりと見渡した。雲は確かに多いが厚くはなく、いずれ細かく切れて失せるだろう。空気は爽やかで心地よい。雨に降られる心配はなさそうだ。

 蒼龍の背びれに寄りかかり、ウィムリーフは達成感という名の心地よい疲労感に浸っていた。高揚した気持ちを内包して。
 彼女とは背びれを挟んで座しているミスティンキルが水筒をよこした。ウィムリーフはそれを手にとって軽く口に含み、彼に返した。
「ヒュールリットに挨拶しに行ってくるわ。訊きたいことがあるし……ミストも来る?」
 彼女の誘いにミスティンキルは答えなかった。
「……いい。行ってこいよ」
 それだけ彼は呟くと、アザスタンの背びれにしがみついた。
「ふうん……飛ぶのが怖い? “炎の司”」
 わざと意地悪な表情をしてウィムリーフは言った。ミスティンキルにとっては図星だったようだ。舌打ちをしてウィムリーフの視線から目を背ける。
「悪いかよ、“風の司”」
「悪くはないけどね。飛ぶのには慣れておいたほうがいいわよ。せっかくもらった翼なんだし」
「……いいから。構ってねえで行ってこいよ」
 ぶっきらぼうにミスティンキルは言葉を返した。
「つれないわねえ。……じゃあ荷物が落ちないように見ていてね。お願い」
 ほほえみ、ミスティンキルに言い残すと、ウィムリーフは見えない翼を広げ、ふわりと空へ舞い上がった。アザスタンに軽く手を振って挨拶する。それからまっすぐ、前方のヒュールリットまで飛び、彼の頭と並ぶようにして滑空する。
「お待たせ、ヒュールリット」
 彼女の挨拶に、ヒュールリットは前方を見たまま、小さくうなずいた。
「ねえ、ヒュールリット、あなたにふたつほど訊きたい事があるんですけど」
 ウィムリーフの問いにヒュールリットは琥珀の瞳を向けた。問いかけに応じてくれるようだと分かったウィムリーフは言葉を続けた。
「じゃあ、まずひとつめ。ラミシスに行ったという人間を知っていますか? カストルウェンとレオウドゥールという、のちに二国の国王となった二人のバイラルを。……二百年ほど昔。彼らは龍に乗ってラミシスの地に降り立ち、オーヴ・ディンデの王城を囲む四つの塔に入り込み、それらに巣くっていた(ゾアヴァンゲル)達を退治して財宝を持ち帰った……と、本や歌にはありますが」
【お前は彼らのようになりたいのか? 財宝目当ての人間か? 先ほどの言葉は嘘か?】
 ヒュールリットの言葉はウィムリーフの頭に直接響いてくる。“炎の(デ・イグ)”でアザスタンが使ったように、(ドゥール・サウベレーン)は人の意識下に直接言葉を送ることができるのだ。
「それは違います! ヒュールリット! 私たちは純粋に、秘境をこの目で見てみたいのです!」
 ウィムリーフは慌てて強く否定した。
 ヒュールリットは鼻から煙を出した。どうやら笑ったようだ。
【ならば答えよう、“風の司”。――その二者が龍に乗っていた事。愚図なゾアヴァンゲルどもから宝を得た事。それらが事実かは知らぬ】
「うそ?!」
 ウィムリーフは驚いたが、すぐにこれが失言であると察し、手で自分の口をふさいだ。
「……てっきり、あなたがカストルウェン達を導いたのかと思いました。魔導師シング・ディールの時のように」

 朱色(あけいろ)の龍は語りはじめた。
【当時――そう、私は深く眠っておった。ゆえに彼ら二者と直接会ったことはない……だが私と二者は関わり合いがある。私が眠りから覚めたのは、まさに二者によること。ラミシスの島に起因することだった。カストルウェンらはラミシスから帰還した後、あの島での体験談をファルダインに語ったのだ】
「世界樹に住む、エシアルルの王にしてディトゥア神族のファルダイン、ですね」
【うむ】
 ヒュールリットは言葉を続ける。
(くだん)の二者は、たしかにラミシスの地を踏破していた。だが、あの忌まわしいオーヴ・ディンデまでは行かなかった。いや、辿り着けなかった。結界によってな。
【結界――そう、問題はここからだ。『王城の周囲に結界が張られていて、城を見ることさえできなかった』とカストルウェンらはファルダインに語った。だが魔導王国ラミシスはお前も知るとおり、我が友ディールの時代に確かに討ち滅ぼし、以来まったく沈黙していたはず。なのになぜ結界が――魔法の産物が――存在しているのか。
【のちになってエシアルル王は不安を覚え、我らが龍王イリリエン様に申し立てた。『私を龍と共に結界の場所まで行かせてほしい』とな。その龍は、すぐに決められた。……かつてのラミシスを知り得る龍。すなわちこの私だ。……こうして私は龍王様の命により目覚めた。
【私とエシアルル王は世界樹からまっすぐラミシスへと向かった。魔導王国滅亡から七百年の時を経て、ラミシスの地はもとあった自然の姿へとほとんど還っていた。だが王国中枢部にそびえる建造物は堅牢で、当時と依然変わる様子もなく暗澹(あんたん)たる姿を留めていた。そして王城であるオーヴ・ディンデへと向かおうとした矢先――弾かれたのだ】
「結界……ですか」
【しかり。しかもそれは、かつて我らの軍勢によるラミシス突入を阻むために、(よこしま)な魔導師どもが作った障壁とは比べものにならないほど強力なものだった。私をもってすら打ち破ることはできなかった。おそらくファルダインが全力を投じたのならば、どうにかなったかもしれない……されど神族が、得体の知れないものに対して超常の力を行使することは禁じられている。世界の秩序を乱すどころか崩壊を招く恐れすらあるからな(かつてそれは起こったのだしな)。
【我らは結界を破れぬまま、ラミシスを後にした。これこそ敗走に他ならぬ――私はあの時の屈辱を忘れはしない。だが、こうも願った。(いつの日か、いと強きものにより結界が破られる日が来るように)と。ラミシスに遺された唯一の謎。魔導師どもが身を削って編み出した結界の向こうには何があるのか。いつか解かれなければならないのだ。――人間によって】
 ヒュールリットは琥珀の瞳をウィムリーフに向けた。
【以来二百年、私はこの空に留まり続けた。警告を発し、人間の渡航を阻むために。そう……阻み続けたのだ。だが今まさに、私の願いは成就されようとしているのだろう――お前達、力を持つ二者によってな】
 ウィムリーフは龍の目を見つめた。もうヒュールリットの言葉に囚われることはない。彼は自分達を認めてくれたのだから。一瞬、龍が笑ったようにウィムリーフには見えた。
【ウィムリーフよ。力を持つ人の子よ。私とラミシスの、数百年に及ぶ因縁に終止符を打ってほしい。これは私自身の願いだ。そして、おのが持つ力を正しき方向に使うように、とも】
 ウィムリーフは片手を胸に当てて深く頭を垂れた。
「間違いなく、ご期待に添えるようがんばります」
【して、もう一つの問いとはなんだ】
「ああ! もう分かってしまいました。『どうしてラミシスを守るようになったのか』……これが二つ目の質問でしたから」
 ウィムリーフは笑みを浮かべた。

◆◆◆◆

「……聞いてたぜ」
 ウィムリーフが戻るやいなや、ミスティンキルが言った。
「え……なんで? よく聞こえてたわね」
「ヒュールリットの言葉がな、おれの頭の中にもろに伝わってくるんだ」
 ミスティンキルは指で自分の頭を突いた。
「なら、だいたいのことは分かったってわけね」
 ミスティンキルは頷いた。
「龍のくせにおしゃべりだな、あいつは」
「……きっと、誰かに話を聞いて欲しかったのよ。龍が孤独を好むといっても、そういう気分だってあるんじゃないかしら?」
「龍に乗って旅立ったおれ達は、行く手を阻んだ龍を説き伏せて、さらに龍の願いを聞いた……か。これだけでも吟遊詩人の詠う(いさおし)になっちまうな!」
「まだまだよ。そこから先の展開で悲劇になるのは、歌によくあることでしょう? 万事、めでたしめでたしで終わらなくちゃ駄目なのよ」
「違いねえ」
 そして二人は笑った。
「ミスト!」
 ウィムリーフは右の掌を掲げ、ミスティンキルのほうに突き出した。ミスティンキルは意図を汲み、右手を挙げる。そして――
 ぱん!
 乾いたいい音で互いの掌が叩かれる。
 意気が揚がった冒険家のたまご達は、また笑いあうのだった。

◆◆◆◆

 昼頃。二人が簡素な食事をとっている時にアザスタンが声をかけてきた。
【見えてきたぞ。あの島ではないのか?】
「ラミシスのこと? ついに見えたの?!」
 ウィムリーフは前方を見たが、あいにくと龍の躯に景色が隠れてしまっている。そこで彼女は飛び立った。
「うん、間違いないわ! ほら、あれよ! ミスト、あれがラミシスの島よ!」
 ミスティンキルの真上、ウィムリーフは興奮した様子で彼に声をかけた。
 ミスティンキルにしてみれば、飛び上がれと催促されているように感じられた。さっきのように、またしてもからかわれるのは(しゃく)だ。
(行くか!)
 彼は荷物が動かないようにと蒼龍の背びれにくくりつけた。目を閉じて大きくひと呼吸をする。やおら見えない翼を広げ、空へ舞い上がった。強風をもろに受けて失速するものの、すぐに彼は風に乗ることができた。それから前へと進み、ウィムリーフと並んで飛ぶ。
「ほら、できた。できるじゃないの、“炎の司”」
 ウィムリーフが自分の事のように喜びはしゃぐものだから、朴訥(ぼくとつ)なミスティンキルは照れを隠すようにと、ただ顔を背けるのだった。

 一面に広がる大海原。眼下には大小さまざまな形をした岩場がある。そこで翼を休めているのは鳥――いや、小型の龍達だ。どうやらこの領域は龍の生息地となっているようだった。彼らは首をあげて、上空を舞うミスティンキル達にちらりと目をくれたが、特に関心を持たない様子だった。
 そして前方には、いよいよ陸地が見えてきている。小さいが間違いなくラミシスの島だ。あの島の南東部にこそ、結界に守られた城――未だ見ぬ謎めいたオーヴ・ディンデがあるのだ。

「この辺りが“ヒュールリットの攻防戦場”と呼ばれている戦場だわ」
 ウィムリーフが周囲をぐるりと眺めて言った。そしてまっすぐ先を指さす。島の突端に、ひとつの巨大な建造物がそびえ立っているのが見える。あれこそが“壁の塔”すなわちギュルノーヴ・ギゼの塔だ。

 魔導王国ラミシスの名が歴史書に登場するのは八百年以上の昔のこと、魔法都市ヘイルワッドを核として、魔法についての研究がますます盛んになっていく時代のことである。
 ラミシス王国の行っている研究や生贄を用いた儀式の、きわめて邪なることを知った当時のアズニール王朝は、魔導師シング・ディールを筆頭とした軍隊を進軍させたのだ。彼らはここスフフォイル海を軍船で渡りきろうとしたが、魔導王国の脅威をその身をもって思い知ることになった。
 “壁の塔”には忌まわしい魔導師達が集結していた。彼らはおのが魔力を増幅して、目に見えない結界をこの辺り一帯に放射したのだ。その結界は鋼の壁のように頑強なだけではなく、触れる者に酸鼻きわまる死をもたらす、強力かつおぞましい呪詛をも内包していたのだ。当時、魔法を知る者はそう多くはない。兵卒もまたしかり。ゆえに、アズニール王朝の軍勢は結界に阻まれて大敗を喫した。
 アズニール王朝軍は次の策として、眠れる龍達の加勢を得ることとした。ディールは長き時を経て覚醒していた朱色のヒュールリットに交渉を持ちかけ、朱色の龍は人間の申し立てに賛同した。ヒュールリットは眠れる龍達を起こすと、人間達をその背に乗せて空からラミシスを目指した。かの魔法の結界は、龍達にとってさしたる効果をもたらすものではなかった。それほどまでに龍の持つ魔力は強大なのだ。龍達は一斉に頭から結界にぶつかり、針で玉を割るように障壁を打ち崩した。
 それから龍達と戦士達、“壁の塔”からなおも幾多の強大な魔法を放つ魔導師達との戦いが繰り広げられた。三日三晩、昼夜を分かたず続いた攻防の末、アズニール軍は“壁の塔”周囲を制圧した。龍が放つ魔力と劫火によって魔導師達は敗れ、とうとうギュルノーヴ・ギゼは陥落した。
 これが歴史に名高い“ヒュールリットの攻防戦”のあらましだ。

 難攻不落の守りの要衝である“壁の塔”を落とし、勢いづいた軍勢は一気に王都へと進軍した。ラミシス軍は圧倒的戦力の前にろくな抵抗もできなかった。
 数日を経ずして王城オーヴ・ディンデは炎のもとに落ちたのだった。
 朱色の龍ヒュールリットと、“漆黒の雄飛”――闇の剣レヒン・ティルルの使い手、魔導師シング・ディールは玉座に降り立ち、魔導王国ラミシスの王、“漆黒の導師”スガルトを葬った。

 かくして魔導王国は滅亡し、以来この地は廃墟と化した――はずなのだが、なにかの力が働いているというのだろうか。ひとつだけ、謎が遺された。
 それを解くべき者こそ、ミスティンキルとウィムリーフに他ならないのだ。

◆◆◆◆

 滑空をやめた二人は再び蒼龍の背に乗った。
 陸地が近づいてくるにつれ、そびえ立つ“壁の塔”の全容も鮮明に見て取れるようになる。巨大な石板を想起させるこの建造物が“壁”と称されているのも理解できる。高さは四フィーレにもなるだろうか、これに比肩するものは周囲には無い。それどころか、現在のアリューザ・ガルドの諸都市においても、これほどの高さを誇る建造物などまずあり得ない。
 塔は白一色に包まれている。海風に晒され続けた現代では薄汚れて見えるが、ラミシスが在りし時代には、きっと白磁のごとき輝きを見せていただろう。海側から見るかぎり、壁面には一切の窓がない。その代わりに壁画が描かれていた。中央部は巨大な真円を象っており、その中には複雑な様式の呪紋が幾重にもわたって描かれている。“魔法陣”と呼ぶ者もいるだろう。円の外周には判読不能な古代文字がびっしりと羅列してあった。さらにその外側にはさまざまな動物や人間が抽象的に描かれている。これら壁画の意味するところはなんなのだろうか。

 塔の偉容を目の当たりにしたミスティンキルはしばし言葉を失っていたが、ようやく口を開いた。
「……なんてえでかさだ!」
 それから訝しげな表情で塔をじっと見据える。
 彼の横でウィムリーフは真剣な面持ちをしたまま、紙に筆を走らせていた。覚え書きのみならず、簡素ながらも写生画まで描いている。これを元にしてのちに冒険誌を編纂しようというのだ。
「カストルウェン達の冒険行にもあったけれど……本当、考えられない大きさね。世界樹くらいかしら、あんなに大きなものっていうと。……ギュルノーヴ・ギゼ。人が造った建物でも、間違いなく最大に違いないわ。建造時、魔法の力でも使ったのかしらね? よく分からないけど」
 ウィムリーフは写生する手を休めることなく言った。
「壁の紋様――昔の魔法使い達は、“呪紋”という陣形を地面や空中に描くことで魔法の威力を増幅させたっていうけど、あれはまさしく呪紋ね! “ヒュールリットの攻防戦”では、空間を遮断する魔法をここで練り上げ、塔の呪紋で魔法力を強化して放射したんじゃないかしら」
「今でも、そんなからくりが動いてたりしねえよな? おっかねえ……」
「心配なさんな。魔法使いがいない以上、あの塔はただの遺跡……。――?!」

 ウィムリーフは怪訝そうな表情を浮かべた。なにやら海面からうっすらと、霧が立ち上ってきているのを知ったのだ。そうこうしていくうちにこの高みにまで霧がかかるようになり、風景が徐々に見えなくなってくる。
 やがて周囲一面は濃霧に覆われ、二十ラク先すら見通せなくなってしまった。先を行くヒュールリットの姿は視界から完全に消えてしまっている。が、二匹の龍は意に介することなくまっすぐ“壁の塔”を目指して飛び続ける。
「これは自然の霧なのか? アザスタン」
 とミスティンキル。
【そうとも言い切れぬな。微弱だが魔法が介在されているのを感じる】
 アザスタンは言葉を返した。
 それを聞いて、ウィムリーフはヒュールリットの元へと飛んだ。
「この霧……島へ向かうあたし達を邪魔するような意図があるんじゃないですか?」
【こんな現象は初めてだ。奇っ怪な。この時期のスフフォイル海に霧が発生するなど――】
 ヒュールリットの言葉を遮るように、目の前になにかが下から飛び上がってきた。熱を伴ったなにかが。
(炎?!)
 ウィムリーフが構えるやいなや、二つ目が勢いよく飛び上がってくる。球状のそれは、真っ赤な火の玉だった。
 そして――ウィムリーフ達の真下から、翼をはためかせる音が幾重にも重なって聞こえてきた――!!

第四章 竜との戦い

(一)

「風よ!」
 ウィムリーフは右腕で正面の霧を切り裂くように、素早く横になぎ払う。刹那、周囲の大気はすぐさま呼応する。ウィムリーフを中心に大風がびゅうと巻き起こり、あたりの濃霧はたちまちのうちに吹き飛ばされていった。“風の司”の力だ。これで周囲の視界はしばらく確保できそうだ。
 そしてウィムリーフは、真下から迫るものの正体を知った。小柄ではあるが十以上の数はあろうか――
(ドゥール・サウベレーン)ですって?!」
 ウィムリーフは絶望的な叫び声を上げた。龍達が相手ではとても勝ち目などない、と瞬時に悟ったからだ。
【否。(ゾアヴァンゲル)どもだ】
 あのような粗野な獣と一緒にするな、とヒュールリットは言った。

 (ドゥール・サウベレーン)
 龍達こそは、孤高の種族。炎を司るもの。太古、アリューザ・ガルドの創世時代において、“炎の(デ・イグ)”からこの世界に姿を現した、神秘の種族だ。その力は地上において比類無く、ディトゥア神族にも匹敵するとまで言われる。それは知性や魔力においても言えることである。

 (ゾアヴァンゲル)
 竜達はアリューザ・ガルドに生息する獣達の中で最も強い種族である。が、あくまで獣でしかない。姿形こそ龍に似てはいるが、知性は動物と変わらず、当然言葉を話すこともできない。炎をはき出せるという事においてのみ、龍に似ている(威力は龍と比べたら話にもならない程度だが)。
 まれに人間の住む領域に姿を現して害をなす事もある。彼らを狩る屈強の戦士達は“竜殺し”と賞賛されるのだ。

◆◆◆◆

 最強の獣ではあるが――確かに下方のゾアヴァンゲル達からは知性の欠片すら感じられない。両眼はどう猛そうにぎらぎらと光り、まさしく獲物を前にした獣の瞳そのものだ。
 彼らはこちらを伺い、ぎゃあぎゃあとやかましく啼きながら二度三度と火の玉をはき出して威嚇してくる。しばらくしてこちらに動きがないと分かると、竜達は一列の隊を作り、大きく螺旋を描きながらぐるぐると上昇してきた。ミスティンキル達を囲い込んで身動きをとれなくさせてから狩ろうという魂胆だろう。
【こともあろうに獣め、誇り高き我らドゥール・サウベレーンに火を向けるとはな。報いを知れ!】
 言うなり朱色の龍はウィムリーフを置いて、高く昇っていった。
【我が炎には注意せよ。そしてお前達、“竜殺し”の名前が欲しくば戦え!】
 ヒュールリットの声がウィムリーフの頭に響いてくる。
「言ってくれるわね……。でもこれはどうあがいても、戦わざるを得ない状況のようね。龍達が相手でなかっただけ良かったと考えるべきか……」
 そうひとりごちて、ウィムリーフは冷静であろうと努めるものの、心は恐怖に囚われているのを知る。冷や汗が幾筋も背中を伝う。
 ウィムリーフもミスティンキルも、冒険家どころか旅人としての経験は浅い。旅立つまでは一人の単なる市井の人間でしかなかった。生まれてこの方、あのような猛獣を相手に戦ったことなど無いのだ。

「やるしかないか!」
 ウィムリーフは自身を無理矢理奮い立たせると、強大な風の力をいつでも行使できるように精神を高めていった。目を閉じると、“風の(ラル)”で風の王エンクィと対峙したときのことを思い出す。そうして、竜を切り刻んでいく風の力のイメージが自分の奥からわき上がってくる。精神を研ぎ澄ませたウィムリーフは目をかっと開け、風の力を衣のようにまとったのを知る。それは今までないほど強力なものだ。
(うん、やれる!! 硬い(うろこ)に覆われた躯を斬るのは無理でも、翼をもぎ取るくらいなら――あたしならやれる!!)
 気分がやや軽くなったウィムリーフは蒼龍アザスタンのところまで戻り、龍の背に座しているミスティンキルに呼びかけた。待っていたと言わんばかりにミスティンキルは彼女のところまで飛んできた。そして恐怖におびえた形相で彼女の両肩をつかんだ。このような表情、普段は決して見ることができないだろう。
「竜だぜ、ウィム。――なあ、あんなの相手に勝てるのかよ?! 見たところ十匹くらいいそうだ。こちとらたいした武器ものを持ってるわけじゃねえ。……このまま逃げ切っちまえないのか?!」
「ミストお願い、慌てないで。奴らの思うつぼよ」
 自身の焦りを押さえつつウィムリーフは答えた。
「いい? 魔導の継承者。かつて栄えた魔導の中には、屈強な敵を討ち滅ぼす攻撃魔法があったと聞くわ。今のあなたの中にも、その魔導はきっと受け継がれているはず。それを思い出して! あたしたちは武器じゃなくて、魔法でこの場をしのぐのよ!」
(あたしは思い出すことができなかったけどね。なぜだろう)
 ウィムリーフは自身の心にかすかな影が落ちるのを感じた。表には決して出さないが。
「まったく、あんたらしくないじゃない。そりゃあ、あたしだって怖いわよ。でも今は――自分を信じて最善を為すほか無いじゃない! ミスティンキル! あんたに宿っている赤い魔力を信じなさい!!」
 このように、ウィムリーフが叱咤した時――

 上方から下方へと、滝水のような轟音を伴って熱波が走った! 危険を感じ、とっさにミスティンキルは魔法の防壁を発動させていた。
 ヒュールリットが炎を放ったのだ。その威力たるや、さきに竜どもが放った火の玉とは全く比べものにならない。“炎の(デ・イグ)”からもたらされた炎は鮮やかな紅に彩られ、太い帯状となって竜どもに容赦なく叩きつけられる。たちまちのうちに三匹の竜が劫火に焼かれ、眼下の海へと墜ちていった。
 獣の王たる竜を一撃で倒す。これこそが龍の力だ。ミスティンキル達は言葉も出ない。“炎の(デ・イグ)”で初めて龍――アザスタンとイリリエン――に出会って以来、ミスティンキル達が龍の力を目の当たりにしたのはこれが初めてだった。聞きしにまさる(ドゥール・サウベレーン)の強大さを、まざまざと思い知ったのだ。二人はあらためて畏敬の念を覚えた。(ゾアヴァンゲル)に対する恐怖は、今や失せていた。
「こいつは……勝てる、な……」
 ミスティンキルはひとりごちた。
 知らずのうちに、ミスティンキルはウィムリーフにしがみついていた。それともウィムリーフがミスティンキルにしがみついたと言うべきか。
「そうよ! あたし達には龍が二匹もついてくれている。それとあたし達の魔力があれば怖いものなしだわ!」

 ヒュールリットの一撃により、数匹の竜が恐れをなして逃げていった。そのまま行ってくれればいいが、霧に隠れて再び攻撃してくることも考えられる。
 だが間髪入れず、今度はアザスタンが炎を放った。その灼熱の帯はまっすぐ伸び、逃亡する竜どもを直撃した。悲鳴を上げる間もなく竜達は絶命し、墜落していく。

 残った竜は四匹となった。彼らは怒りの声を上げ、ミスティンキル達を囲みこんだ。狙いを龍達ではなくこちらに定めたようだ。
 二人は心を決めた。
「今度はおれ達の出番だな。行くぞウィム!」
「ええ。“竜殺し”の称号を勝ち取るわよ!」
 二人は目を合わせ、即座に離れる。そしてお互い背を向けて、空を舞った。


(二)

 ミスティンキルとウィムリーフ。二者による戦いが幕を開けた。
 ドゥローム《龍人》とアイバーフィン《翼の民》による天空の戦いだ。

 思い切って先手を打ったのはウィムリーフ。翼を広げた彼女は蝶のごとく空を華麗に舞いながら、襲い来る(ゾアヴァンゲル)達が放つ炎をいともたやすく避けてみせる。
 そしてすかさず反撃。
 “風の司”ウィムリーフは周囲の空気を集め、自分の望むままに変貌させた。手まりのような空気の固まりをひとつ形成させると、今まさに攻撃をしようかという竜めがけて投げつけた。目標の竜は歯牙にもかけないそぶりだったが、頭部にそれがふれた瞬間、空気の固まりは忽然と本性を現した。
 ばちん! と大きな音を立てて、それまで圧縮していた空気が爆ぜる。刃のごとく強靱で鋭利な風が幾筋も勢いよく放出され、それらは気を裂く音をひょうひょうと唸らせながら竜を強襲した。
 突拍子もないこの攻撃から離れようと竜はあわてて動くものの、猛威をふるう風の刃は狙いを定めた竜の動きに追随し、容赦なく竜の翼をずたずたに切り裂いていく。やがて竜の片翼がちぎれ飛び、竜は大きく姿勢を崩した。
 竜は大いに激高して野太い唸り声を上げ、やぶれかぶれに炎を放とうとするが、それとてウィムリーフは予期していた。彼女は竜を囲むようにして旋風を幾柱にも渡って巻き起こしたのだ。竜の放った火の玉はことごとく跳ね返され、あろうことか竜自身に襲いかかるのだった。自分の放った炎に身を焼かれ、風の刃に両の翼をもがれ、ついに竜は悲鳴を上げながら海へと墜ちていった。
 こうしてウィムリーフは“竜殺し”の称号を手に入れた。

「さあ、どうしたの! おまえ達の相手はあたしよ!」
 ウィムリーフは腕を組み、大胆不敵に言い放った。
 同時に彼女は猛烈な疾風を巻き起こし、残りの竜達めがけて見舞ってやった。ごうごうとうなりを上げる、荒ぶる風によって竜達は身動きがとれず、ただおのが身を守るのが精一杯だった。そうしてウィムリーフは竜達の間合いを少し開けた。
 ウィムリーフは小さく息をついた。そしてミスティンキルに目配せするのだった。

◆◆◆◆

「あたしはやったよ!」
 ミスティンキルから見たウィムリーフの表情は明らかにそう語っていた。本当は全身で喜びと興奮をはち切れんばかりに表現したいのだろうが、まだ戦いは半ば。優勢とはいっても気を引き締めなければならない。歴戦の強者が命を賭して戦ってきた竜と対峙しているのだから。竜も竜で、大勢がやられたというのに退こうとしない。最強の獣としての意地がそうさせているのだろうか。

 ウィムリーフの見事な戦いぶりをみていたミスティンキルも決意し、動いた。今度は自分の番だ。心臓がばくばくと音を立てているのが分かる。
 まずは竜の注意をウィムリーフからそらさなければ。いかな彼女とて三匹の竜相手に戦うのは無理だ。現に、今し方の攻撃で彼女はずいぶんと消耗している。それはミスティンキルの位置からもうかがえる。
 そのせいだろうか、先ほど追い払っていたはずの濃霧が、また立ちこめはじめているのだ。このままではほどなくして一帯は魔法によると思われる霧に覆われるだろう。急がなければ。

(しかし……どうするかね)
 竜の目標をミスティンキルのほうに向けるにしても、彼はウィムリーフのように華麗に空を跳躍するすべを知らない。やはり力業――おのが身につけた魔導を竜達に叩き込むことが一番だろう。内に秘める強大な彼の魔力は、竜すら打ち倒せる力がある。それは彼自身感じていることだ。まったき“赤”をもってあらわされる自らの色。
 では、赤とはなにか?
(――あの時、おれはこう答えた)
 ミスティンキルは思い出した。龍王イリリエンと対峙したあの時、かの龍王が問うたことを。
(それは――燃えさかる炎だ!)
 そう結論づけると同時に、彼の身体は赤い光に覆われた。当然、竜の視線はウィムリーフから逸れ、こちらのほうに集まった。竜達はその身を翻し、威嚇の声を上げながらミスティンキルに向かってきた。

「炎よ!」
 言うと、ミスティンキルが真上へ振りかざした右の手のひらには、勢いよく燃えさかる炎の玉がひとつ出現した。あまりの熱さに彼は顔をしかめるが、間髪入れず、それを竜にめがけて投げつけた。
 竜達も、今度はそれに当たるまいと避ける――が、火の玉は意志を持つかのように竜を追撃し、そして当たった。
「さあ燃やせ!!」
 ミスティンキルが念じると火の玉は(あるじ)の命令に呼応するように猛威をふるいだした。すぐさま竜の躯全体に火勢は広がっていく。“鋼より強固”とうたわれる竜の鱗が溶けはじめる。炎はそれをも巻き込んであちらこちらで爆発を起こす。何という火力だろうか。もはや竜にはなすすべがない。轟々と燃えさかる火焔のなか、声をかぎりに哭き叫びながら竜の躯はぼろぼろと崩れ落ちていった。

 残った二匹の竜はしかし、怖じけることなくミスティンキルに熾烈な攻撃を仕掛けてきた。ミスティンキルは紙一重で攻撃をかわしながら逃げる。やがて一匹は上方から、もう一匹は下方からミスティンキルに迫る。獲物を目前にして、二匹の竜はそれぞれ火の玉を打ちはなつが、それらはミスティンキルが本能的に展開した炎の盾によってあっけなく消し去られた。ミスティンキルのほうが一枚も二枚も上手だった。
 そして竜達は知らず知らず、ミスティンキルの意図する配置にはまった。
「これで終わり――だ!!」
 ミスティンキルは両腕をかざす。と、彼の前方を守っていた炎の盾が形を変える。先ほどよりもさらに大きな火の玉が二つ、竜の前で具現化した。急に出現したそれを見て竜は攻撃を躊躇し、その場に押しとどまった。
(なんとなく分かってきたぜ! 火よりも“こっち”のほうが強いだろう!)
 要領を得たミスティンキルは火の玉に命じる。と、それまで火の玉だったものは炎を象るのをやめた。転じて、真紅にきらめく珠となったのだ。これはミスティンキルの内包する魔力そのものである。
 混じり気のない純粋な“原初の色”。それを顕現させたものこそがもっとも強大な力を持ち得る。ミスティンキルは頭で理解せずとも本能をもって悟ったのだ。己が制御できる一番大きな“力”とはなんであるかを。
 その産物がこの赤い珠なのだ。

【ここまで使うというのか、人間が……】
 ミスティンキル達には見えないところで、蒼龍アザスタンはその目を細めるのだった。

 ミスティンキルの一念により、赤い珠は竜めがけて矢のように素早く発射された。竜達が身を守るよりも早くそれらは竜の胸部に到達し――いともたやすく竜の躯を貫通した!
 この恐るべき一撃で竜達は瞬時に絶命し、眼下の海へと墜ちていった。
 戦いは終わった。
 霧が濃くなり、ミスティンキル達の視界はついに閉ざされた。

◆◆◆◆

「やったわね! ミスト!」
 真っ白な濃霧の向こうから、ウィムリーフの賞賛の声だけが聞こえる。
 ミスティンキルは、ほうと一息ついた。魔導を行使してから今まで、息をするのを忘れていたのだ。気づくと、身体を覆っていた赤い光も消え失せていた。
「“竜殺し”――ってか。おれ達もたいした英雄になったな! ウィムよう。この霧を打ち払って、今度こそ島に上陸するぜ!」
「分かったわ。今、消し去るからね」
 ウィムリーフは風を起こし、辺り一面の霧を打ちはらった。
 すると――

「ウィム――!!」
 今まで気づかなかったのだが、あろうことか新たに二匹の竜が、彼女の眼前にまで迫ってきていた! ウィムリーフは驚きのあまり身体が固まってしまい、何も対応できない。
 二匹の竜はさきの竜達よりも年長で、彼らがことごとく敗れ去ったのを知って復讐のためにやってきたのだ。霧に隠れて老獪にも音を立てず、気取られないようにしながら。
 反撃する時間がない!
 (ドゥール・サウベレーン)の業火ではウィムリーフまで巻き込まれるし、ミスティンキル自身はようやく攻撃の態勢を整えようとしているが、とても間に合わない――。
 竜は腕を伸ばし、鋭利な爪で必殺の一撃を与えようとしている。
 ウィムリーフは目を閉じ、体をすくめた。
 ミスティンキルも覚悟を決めたそのとき、それは起きた。

 カッと、ウィムリーフの身体がまばゆく光り輝いた。次の瞬間には大きな青い氷柱のようなものが二本、彼女の身体から出現して二匹の竜の巨躯を貫いた。竜の躯は青い光に覆い尽くされ――そして跡形もなく霧散した。

◆◆◆◆

 ミスティンキルは我に返った。大きな力を持つ四者によって竜はすべて打ち倒され、戦いは終わった。それにしてもウィムリーフの顕現させた力は明らかにミスティンキルの魔力を上回っていた。やはりウィムリーフも自分と同じく、月の世界で魔導のすべを取り込んだのだろう。彼は結論づけた。

「終わったの……ね?」
 おずおずとウィムリーフがたずねる。自身が最後の二匹の竜を討ち滅ぼしたことに釈然としない様子がうかがえた。
「ああ」
 ミスティンキルは彼女のところまで飛んでいき、手をさしのべた。
「行こうぜ。陸地がすぐそこにある」
 新たな竜討伐の伝説が書き加えられ、今度こそ戦いは締めくくられた。

挿話二 ウォレにて

 ミスティンキル達が(ゾアヴァンゲル)と戦い、ついに打ち倒した頃、その彼らを追っているハーンとエリスメア父娘を乗せた船、“凪の聖女”号はデュンサアルに近い港町ウォレで錨を降ろした。ここからエマク丘陵へと登り、一週間ほどでドゥロームの聖地デュンサアルへとたどり着く。

 この時期にグエンゼタルナ海を航海するなど天候の面からとうてい不可能なのだが、風の魔法を駆使するエリスメアのおかげで海は鎮まり風は良い方向になびいた。本来陸路で一月かかるところを船で四日と、大幅に旅の行程を短縮できた。
 “風の司”とはかくあらんとばかりに大いに活躍したエリスメアだが、昼夜分かたず天候を操っていた負担はとても大きいものだった。船が港に着くやいなや、彼女の集中力はぷつりと切れ、倒れてしまったのだ。

◆◆◆◆

「ごめんね、父さま。……ああ、いえ、兄さま」
 宿屋の一室、今しがた医師の診療を終えたエリスメアはベッドに伏したまま、申し訳なさそうにハーンに言った。
「そんな、お前が謝る必要なんて無いよ。この旅、無理を強いてしまってるのは僕のほうだから」
 ベッドの横のいすに腰掛けたハーンは優しく笑うと娘の手をぎゅっと握った。先ほどに比べればずいぶんと回復しているのが分かる。顔色もだいぶ良くなってきていた。薬に頼らずとも、栄養のある食事をとって十分休めばさらに快方に向かうだろう。
「今日はもう、ゆっくりお休み。明日の昼にどうしようか考えよう。大事なのは自分を責めないこと! エリスが責任感の強い性格に育ってくれて、それは父としても嬉しいんだけれど、自分を追い詰めちゃだめだ。分かった?」
「ん……分かりました」
 エリスメアは笑みを浮かべた。父が自分の心配をしてくれているのが嬉しいのだ。

 部屋の入り口の木扉が叩かれ、きいと小さな音を立てて開かれる。“凪の聖女”号船主のディリスコンツ男爵の顔がのぞいた。
「……ああ、失礼。妹さんの具合はどうだろうか?」
「あ、船長」
 エリスメアが起き上がろうとしているところを男爵は制止した。
「大丈夫なのかね?」と言って、男爵は部屋に入った。
「お医者様を呼んでいただいてありがとうございます」
 エリスメアは上半身を起こし、船長に頭を下げた。
「――お医者様の話だと、栄養をとってゆっくり休めば問題ないと。過労……ですね」
「おお、そうか。彼は腕の立つ医者だから信用していい。――君が船で倒れて気絶したときはどうしようかと思ったのだが、これで一安心だな。うちの荒くれども――水夫連中もやきもきしていて――ようやくほっとするだろう。伝えてやらんとな」
 ディリスコンツ男爵はそう言って破顔した。
「デュンサアルに行くんだろう? 話はつけておいた。ここの宿の主人に言えば案内してくれる――そう、ラバを二頭と旅の備えを準備したんだ。これは貸しではなく、我々の単なるお節介だと思ってくれると嬉しい。好きなときに主人に言うといいよ」
「船長!」
 エリスメアの顔にぱあっと赤みが差した。
「いいんですか、船長? なにからなにまで……」と、ハーン。
「いやいや、これくらいのことはさせてほしい。我々も貴重な体験をした。“海の司”ならともかく“風の司”の仕事ぶりをこの目で間近に見たのは初めてだし、航海日誌を書いていて楽しいと思ったのは久方ぶりだよ。今日はこれで失礼するが、まだ三週間はここに滞在するつもりだ(海はまだ荒れているからね)。なにかあったら我々が力になるよ。では私は波止場に戻る。エリスメア、道中本当にありがとう。船員を代表してこのボアール・ロイド・ディリスコンツが深く御礼申し上げる」
 そう言って深く頭を下げたあと、ディリスコンツ男爵は部屋から出て行った。

「さて、僕も下に降りるよ。安心して、夜までゆっくりお休み」
「うん……じゃあ眠ります。お休みなさい、父さま……いえ、兄さま」
 ハーンは笑みを浮かべ、そして部屋をあとにした。
 ひとり残されたエリスメアは天井を見つめる。ふかふかと柔らかく暖かい毛布にくるまるなど、久しくなかったことのように思えた。四日ばかりの航海中、時間はとても長く感じられたものだった。常に神経をぴんと張り詰めたまま魔法を駆使した彼女は、安らぎの到来をまだかまだかと待ち望んでいたのだ。
 今、ようやくその時が来た。航海という名の、エリスメアにとってはじめての冒険、挑戦は終わったのだ。
 次第次第にまぶたが重くなっていき――いつしか彼女は幸せな夢の世界へと旅立っていくのだった。

◆◆◆◆

 翌日の昼、水夫達と食事を共にした後、ティアー父娘はウォレをあとにした。一晩の休養を経て、エリスメアの気力体力はすっかり回復した。“凪の聖女”号の船員達とは手を振り合ってさわやかに別れることができた。
 父娘は商人達に同行することにした。大陸中部――ガルディス地方からもたらされた望外の商品を荷馬車にたくさん載せて、ウォレの港町からデュンサアルに向かうドゥロームの商人達。知らない土地をたった二人で歩くのはとても心細いものだが、地理に詳しい者達が一緒だとこれほど心強いものはない。また商人達にとっても戦士ハーンは頼りがいのある存在だと言えた。

 ゆるやかな丘陵地を登っていく道中、ハーンがデュンサアルの様子を尋ねたところ、商人達は最近起こった出来事を口々に答えるのだった。どうやら人に聞かせたくてしようがないらしい。
 彼らは語った。ひとりのドゥロームの若者がデュンサアルの古めかしい戒律に風穴を開けたことや、そのドゥロームがアイバーフィンの娘と共に“炎の(デ・イグ)”に赴き、“司”の称号を得たこと。アザスタンという(ドゥール・サウベレーン)がやってきたことなど。
「久方ぶりにドゥロームによる(いさおし)ができあがるんだよ。“ミスティンキルの勲”がね! デュンサアルの私の知り合いに詩を書く者がいるんだけれども、彼を中心にして曲と詩を練ってるところと聞いている」
 商人のひとりが言った。
「む、それは興味深いねえ!」
 と、ハーンが即座に話に乗る。戦士である彼は、一方で音楽家でもあるからだ。
「ぜひともあって話をしたいな。さらにできれば、歌を織る作業にも携わりたいものだけど……」
 そう語らいながらエマク丘陵の道を南にとる彼ら。だがハーン達はまだ知らない。ミスティンキル達がデュンサアルをすでに離れ、あろうことかラミシスへと冒険の足を伸ばしていることを。この旅の終着地がデュンサアルでなくなるとは、ディトゥア神のレオズスといえども予期せぬことだった――

第五章 魔境の島

(一)

 ――ここに、魔導王国ラミシスの興亡について、あらためて著述する――

 今から遡ること千年ほど昔。世は統一国家アズニール王朝の時代。
 古代史研究家ノスクウェン・ルビスは、西方大陸(エヴェルク)のアル・フェイロス遺跡での探索中に一冊の本を見いだす。これこそが、古代アル・フェイロス時代に記述された魔法書だった。
 ルビスは親友の術使いクェルターグ・ラミシスと共に魔法書の判読に没頭していき、失われた魔法の体系を復活させた。ここに魔法学が誕生し、大規模な研究が進められることになった。
 術の素養を持つ者達がルビスらのもとを訪れるようになり、やがてルビスの住むヘイルワッドの町は、魔法研究の中枢として大いに発展していくことになるのだ。

 魔法体系は、クェルターグの孫ジェネーアの代には完成の域に達し、さらなる魔法研究が深耕されていくが、ジェネーアはその過程で錯乱状態に陥り、自ら発動した魔術によっていずこかに行方をくらました。
 ジェネーア・ラミシスは失踪後、魔法の禁断の領域である不死を追求しはじめた。
 ラミシスのもとに集った魔法使いのうち、最も才覚を現した者こそがスガルトであった。不死の研究の過程において、ジェネーアは自らの体を滅ぼし、魂をスガルトに宿らせたという。

 スガルトは“漆黒の導師”を名乗り、東方大陸(ユードフェンリル)南部の島に、ラミシス王国を興した。この魔導王国の目的は不死性を求めること。魔法という大いなる力を究極まで肥大化させることによって神々の領域に近づくことをその目的としていたのだ。

 ついにラミシス打倒の勢力が決起した。その筆頭は魔導師シング・ディール。彼はスガルトの血族であるが、漆黒の魔導師の狂気から逃れるために離縁していた。ディールはアズニール諸卿より助力を受け、軍勢を引き連れてラミシスに攻め入る。
 しかし、大陸と島とを隔てるスフフォイル海を渡る際、強力な魔力障壁に阻まれて戦力は壊滅、ディールは敗走することになる。

 ディールを助けたのは(ドゥール・サウベレーン)のヒュールリットだった。朱色(あけいろ)のヒュールリットは、“黒き災厄の時代”以来、未だ目を覚まさない龍達を呼び起こした。
 龍達はディールと共に行動を起こした。ディールとその軍勢は龍に乗り、“壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼによる魔法障壁を打破してついに魔導王国へと至った。
 戦いをくぐり抜けたディールはヒュールリットと共に、王城オーヴ・ディンデの玉座の間に降り立った。魔法を極めた王スガルトといえども、龍とディールの力には敵わず、ディールの鍛えた剣、漆黒の雄飛“レヒン・ティルル”によって葬り去られた。
 王を失ったラミシスは浮き足立ち、アズニール軍と龍達によってあっけなく滅び去った。

 ――以来この島を訪れる者は絶え、邪気は消え失せ、島は自然に還って静けさを取り戻すのだった――

◆◆◆◆

 そして――
 今なお、ラミシスの島の全容は(よう)として知れない。人が住まない、人の立ち入りを拒絶する領域であるために、調査を行う必要がないことも理由のひとつだ。ただ、過去この地を訪れた者が記した文献や、冒険者――カストルウェンとレオウドゥール――の(いさおし)、ラミシス王国の人間が描いた地図によって、ある程度判明している部分もある。
 例えば大きさは、島と言うより陸地と言ったほうが近いと思われる。端から端まで踏破するのにかかる日数は、仮にすべて平地だとしても徒歩で一週間は要するとされている。ゆえに、アリューザ・ガルド北西にあるフェル・アルム島よりさらに大きな面積を持つというのが憶測だ。
 島の南東――王城がある中枢部と、中央部――枯れ野と呼ばれる平民の居住地域は平野だが、島はそのほとんどが森林で覆われている。ラミシス建国に際しては農耕地の確保のために大規模な開拓が行われたであろう。が、自然の力には勝てず、ラミシスは国家として大きくなることはできなかった。

 島の全域にわたって、海に面している周囲の陸地はすべて断崖絶壁となっており、ユードフェンリル大陸からの渡航者の往来を拒絶する。波の浸食によるものか、分厚い氷河が削り落としたものか――形成の経緯は定かではないが、ともかくこの岸壁は、三フィーレから高いところで四フィーレもの高さを誇る。
 当時、ラミシスの王国から逃げ出す者は、壁の塔からの監視の目を盗みながら、垂直の断崖に挑戦しなければならなかったのだ。飛行の術を行使できるような高位の魔法使いを除いては。落ちたとしたら下は岩場。助かるはずがない。ただし例外はある。大陸とのわずかな交易のために小さな港がもうけられ、その区域からのみ長く狭い坂を伝って島内に入り込むことが出来るようになっていた。

 ラミシスの島は外界とは隔絶された空間なのだ。


(二)

 “壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼ。
 白い塔は、島の北西の突端――険しく切り立った岸壁から天を貫くようにまっすぐそびえ立っており、高さは四フィーレにも及ぶ。人工建造物としては他に類を見ない大きさである。唯一、匹敵するものは西方大陸(エヴェルク)にある世界樹くらいのものだろう。ただしあれは自然の創りだした奇跡だ。

 この塔は魔導王国ラミシスの非常に重要な防衛拠点であった。他国に攻め入るためではなく、防衛を目的として建造された。
 魔導師が編み上げた魔法を塔の構造が増幅させ、スフフォイル海に向けて強力な魔法障壁を展開させることができた。この壁は忌まわしい呪詛を持っており、アズニール軍をたやすく壊滅に追い込むほどの絶対的威力を持っていた。ラミシスの防衛体制は鉄壁だったのだ。
 しかし魔導師ディール率いるアズニール王朝軍は、次には(ドゥール・サウベレーン)達と共に攻め入り、龍の膨大な魔力をもって魔法障壁に対抗し、激しいせめぎ合いの果てについに障壁を突破したのだ。魔導師達は次なる障壁をすぐさま作りあげたものの、急造の魔法障壁では大いなる龍の力に勝てなかった。そしてこの地で龍と魔導師による戦いが繰り広げられる。三日三晩にわたる攻防の果てにアズニール王朝軍は“壁の塔”の攻略に成功、塔は陥落したのだった。

◆◆◆◆

 時は現在。
 襲いかかってきた(ゾアヴァンゲル)達を討ち果たしたミスティンキルとウィムリーフは、再び蒼龍アザスタンの背に乗って空を飛び、陸地を目指した。ただし霧がまとわりついてくるため、おおよその方角しか分からない。そこで地に詳しいヒュールリットは先行し、道案内役を務めるのだった。
 ミスティンキルもウィムリーフも今や精魂使い果たし、龍の背びれに寄りかかって茫然としていた。初めての戦闘行動。しかも竜との戦いである。
「あんな化け物をよく倒せたもんだな、おれ達は……」
 誰に呼びかけるでもなく、ミスティンキルは独りごちた。
 二人は各々の水筒から水を口に含み、またため息。その間の抜けた顔では“竜殺し”の勇者の名が泣くというものだが、それでも二人はぼうっとしたままだ。なんにせよ生きていてよかった。それが二人の共通した認識であろう。
 やがてウィムリーフが口を開いた。
「あの竜達は、塔に巣くっていたのかしらね? そして彼らの縄張りの中へとあたし達が進入したものだから攻撃を仕掛けてきた――。」
「さてな。ともかく、あんな連中と真っ向から戦うのはもうこれきりにしてほしいよな。これからはもっと平穏に、遺跡の探索をしたいもんだぜ」
「本当ね、ミスト」
 言ってウィムリーフは微笑む。
「でも、備えは万全にしておかないとね。これからはいろんなかたちで、様々な困難が待ち受けているに違いない。あたし達は特別に身体を鍛え抜いてるわけでも、剣技を習得しているわけでもない。けどその分、身体の中に力を持っている。純然たる赤と青という魔力をね。大きなその力を魔法に変えて、危険をくぐり抜けていきましょう。大丈夫、あたし達ならきっとできる!」
 二人はまた口に水を含んだ。
「そういやさ――最後の龍を倒したときのウィム、凄かったな。竜を二匹、一瞬のうちに消しさっちまうだなんて。あれこそ必殺の攻撃魔法だ。――月での魔導復活の時、ウィムにもちゃんと魔導は継承されてたんだな」
 ミスティンキルは戦いのことを思い出す。ウィムリーフが発した二本の青い氷柱が一瞬で竜達を貫いて、青白い光とともに消滅させたことを。当の本人たるウィムリーフの顔を見るが、彼女の表情は今ひとつ冴えない。
「ごめん。覚えてないのよ。あの時――いきなり襲ってきた竜を目の前に見てしまって、あまりの突然な事に動けなくなるし頭は混乱するし――真っ白。とにかく怖くて目を閉じたのは覚えてる。死にたくないって思ってね。……それで次に意識が戻ったときには眼前で竜が消え失せるところだったのよ」
 ウィムリーフは懸命に当時の様子を思い出そうとしているが、その間の記憶だけはぽっかりと抜け落ち、空白のままなのだ。しかし実際に、攻撃の魔法はウィムリーフによって発動された。
「今までだって、何度あたしが願っても魔法は発動されなかったのに、今回は発動した。……本当にあたしの力だっていうの? 分からない……」
「ふうん。あれはウィムの本能がそうさせたのかもしれないぜ? ここ一番って時にはウィムも強力な魔法が使えるかもしれない。お前さんは頭がいいから、おれ以上に力を引き出せると思うよ。……まあでもこれから先、そんな大それた魔法を使わずにすむに越したことはないんだがな。危険な目なんかあいたくねえし」
 気にすんな、そう言ってミスティンキルはウィムリーフをいたわった。一方のウィムリーフはまだ合点がいかない様子で晴れない笑みを浮かべた。
 やがて霧がぱあっと晴れ、太陽が顔を見せた。

◆◆◆◆

 冒険家一行はいよいよ島の上空に入り、“壁の塔”にさらに近づいた。
 天へ突き抜けるようにまっすぐ伸びる、板のような造形の建造物はまさに壁そのものである。
 ミスティンキルら二人はそびえ立つ塔の存在感に圧倒されていた。遠くからでも表面に描かれた壁画が見事だと分かっていたが、こうして近くで見ると精緻を極めていることがよく分かる。石を彫って創られた見事な芸術品だ。しかも単なる作品ではない。人や獣、龍を象った図像は、それ自体に意味を含ませていることが伺える。塔の形状や色、中央の魔法陣――これらの図像を総括することによって、魔法的な力が生み出されるのだろうか。かつての魔法障壁や、今しがたの微弱な魔力を含んだ霧のように。

「魔法的になにか意味があるんでしょうね。図画にしても建築の様式にしても。中央の魔法陣もほんとう、見事なこと。……これは描かなきゃならないわ! 意味なんか、今は分からなくてもいい。図書館かどこかで文献をあたってみれば、なんかしらの答えは出るはず」
 戦いで疲れていることも忘れて、ウィムリーフは自分の荷袋をがさごそとあさり、画材用具を探し出した。彼女の、この冒険にかける情熱は相当なものである。
「見つかった! まあなんにしても、すべては着地してからね――アザスタン。聞こえるかしら?」
 ウィムリーフの呼び声にアザスタンが【応】と答える。
「夕方も近いだろうし、今日はそろそろ終わりにしましょう。塔のそばに降りて、寝床を設営しないと。……ミストもそれでいい?」
 ミスティンキルは黙ったまま、こくりと頷いた。彼の腹時計はそろそろ夕方近いことを告げている。
「あたし達が疲れたざまじゃあ、島に跋扈(ばっこ)する悪鬼や怨霊相手にやられちゃうわ。とにかく英気を養わないとね!」
【ならば約束どおり、私の案内はここまでだ。私は自らの領域へ戻る】
 ヒュールリットが告げる。
「ヒュールリット、あなたは来ないの?」
【ああ。ラミシスの王を打ち倒したという過去の因縁があるゆえに、私はその因縁に縛られて動けなくなる恐れがある。つまり呪いだ】
 朱色の龍は答えた。
「なら、仕方ねえな。もともとおれ達だけで行こうとしていたんだから、あんたを煩わせるわけにもいかねえだろう。ここでおさらばだな」
 と、ミスティンキルは淡々と言った。
【――だが、ふむ。貴君らを捨て置くのは私の義に反する。竜殺しの勇者達よ、魔境を巡る冒険家達よ、もし貴君らに危険が迫り、助けを求めるのならばいつでも参じよう。赤水晶(クィル・バラン)を天にかざし真円を描き、貴君らの名を明かしたあとにこう唱えるがいい。

“ケルスタ・アーンエデュヴイガック・ノマ・ヘウルリェット(召致に応じよ、汝が名はヒュールリット)”

――と。さすれば私は駆けつけ、助けになろう】

 それからアザスタンは巨大な塔をくるくると旋回したのち、塔の入り口近くを選んで着地した。周辺には高い木はそびえ立っていない。塔が日光を遮ってしまっているためだろう。
 背中に乗っていたミスティンキルとウィムリーフはおのおのの荷物を背負って飛び降りた。
「さあ、ようやく到着ね!」
 ウィムリーフは晴れ晴れとした表情でそう言い、大きく気持ちよさそうに伸びをした。ミスティンキルもひさびさの土の感触に思わず顔をほころばせた。
【――では私は戻る。この地はまさに魔境。何があるか分からぬから気を許すなよ。ミスティンキルにウィムリーフ。貴君らに誉れあれ。そしてデューウ《はらから》よ、龍王様よりの使命を無事果たしてくれよ】
 朱色(あけいろ)のヒュールリットはそう言い残して北方の空へと飛び去った。来るとき同様、猛烈な速さで。みるみるうちに彼の姿は空の彼方へ見えなくなっていく。
「ありがとう、偉大な龍、朱色のヒュールリット!」
 ミスティンキルとウィムリーフは手を振ってヒュールリットと別れた。


(三)

 かくして――蒼龍アザスタンの背に乗り、朱色(あけいろ)のヒュールリットを説得し、(ゾアヴァンゲル)どもを討ち果たしたミスティンキルとウィムリーフは、とうとう目的地であるラミシスの島へと降り立った。(ドゥール・サウベレーン)を味方につけた彼らは、デュンサアルから旅立ってわずか二日あまりでやってのけたのだ。

 上陸した彼らが、否、ウィムリーフがまず行ったことは、島の命名であった。今まで名前がなかったこの島の正式名称を、フィレイク王国の由緒正しい地史学会に申請しようというのだ。市井に伝播するには長い時間がかかるだろう。しかしウィムリーフはずいぶんと前から――ひょっとするとこの旅に出ると決意した頃からかもしれない――このことを考えていたようだ。
 彼女はまず、島にある大きな二つの死火山を古のハフト語で名付けた。南西の山を“ロス・ヨグ”、南東の山を“ロス・オム”とした。そして島の名前は“二つの角”を意味する“メリュウラ島”とした。
「どうかしら?」
 目を輝かせているウィムリーフに対し、ミスティンキルは苦笑しながら頷いた。
「ウィムがそうしたいんならそれでいいんじゃねえか。この島は今からメリュウラ島だ」

 古い文献や唄によると、ミスティンキル達が今いる“壁の塔”から南東へ、つまりロス・オムの山の方角を目指して進んでいけば、魔導王国ラミシスの中枢たるオーヴ・ディンデ城がある地へとたどり着けるとのことだ。そこに行くまでの道のりは決して容易なものではない。魔導王国が存在したのは遙か昔のこと。今や島の環境はほぼ自然に還っているからだ。
 かつてこの島を踏破したカストルウェンとレオウドゥールの冒険を語った(いさおし)によると、森をくぐり抜け湿原を歩き、居住地たる枯れ野を通り越し平原を闊歩して、ようやくオーヴ・ディンデに至るという。ただし彼らは強力な結界に阻まれて、ついに城にはたどり着けなかった。魔導王国崩壊後、オーヴ・ディンデに入城できた者は誰一人としていないのだ。
 そして今。ウィムリーフは空を飛行して――アザスタンの背に乗って――オーヴ・ディンデへ向かうことを決めた。森や湿原といった自然に阻まれることなく、しかも短時間で到着できるからだ。なんとしてもオーヴ・ディンデへ入城すること。それが今回の冒険行においてウィムリーフが達成するべき第一目標なのだ。魔導をも復活せしめた自分たちの魔法力があれば、オーヴ・ディンデを囲む結界についても、あるいは何とかなるかもしれない。それにほかの場所については、オーヴ・ディンデの調査が終わった後に余裕をもって回っていけばよい。食糧が尽きない範囲で。
 いよいよ明日から、メリュウラ島での探索行が始まる。

◆◆◆◆

 夕方。野営地の設営を終えた彼らは、思い思いの行動をとっていた。
 ミスティンキルは新鮮な魚を夕食にするべく、木の枝で急造した簡易な竿を手にすると、断崖から飛び立って眼下の岸辺に降り立った。四フィーレもの高さを恐れることなく飛び降りることができたのは、ただひとえにひさびさの釣りを楽しみたかったからだ。
 潮のにおいがなんともいえず心地よい。そういえば釣りをするなんて故郷を離れてからとんとしていなかったな、とミスティンキルは思い出した。故郷のラディキア群島沖で、彼ら漁師は日がな一日舟に乗って釣り竿を垂らしていたものだ。凪いでいる沖合でゆったり過ぎていく時間を楽しむこともあったし、無理を押してしけた海に乗り出してひどく後悔したこともある。
(網を張ったり、海に潜ったりなんてこともやってたな)
 このスフフォイル海の遙か西方には、暖かなラディキアの海が広がっている。漁師仲間達は元気でやっているだろうか。今となっては懐かしい日々を、ミスティンキルは素直に回顧できる。嫌なことも多々あったし、それが元で故郷から離れてしまっているわけだが、今更憤慨するには至らない。自分を追い出した者達に復讐してやるという感情も、まったく湧かなくなっていた。
 確固とした力を手に入れたために。そして、得難い相棒を得たために。

 ミスティンキルは針と餌、そして重りを糸につけると海へ向かって投げ入れた。それから岩肌に座り込み、遙か崖の上、“壁の塔”を仰ぎ見る。ウィムリーフがそこで滞空していた。
 ウィムリーフは画材を手にして、“壁の塔”を入念に描写している。魔法学の衰退した現在にあって、これほどまでに大きな魔法図象など他の地方では決して目にすることなどあり得ない――この世界に存在する四つの魔導塔あとを除けば。
 ウィムリーフは一刻ほどかけて丁寧に海側の壁画を写し終わると、今度は裏に回ってまた描き始めた。遙か下方から見上げると、彼女の姿など豆粒ほどにしか見えないが、それでも楽しくて仕方ないさまがはっきりと伝わってくるのだ。ミスティンキルは笑みを浮かべた。

 さて、そんな彼女の熱心な様子を見ているうちに、ミスティンキルも夕食には十分な魚を釣り上げることができたので、心残りながらも釣りを切り上げることにした。魚を入れた網を担ぎ上げると、岸壁の上、野営地を目指して飛び上がっていく。

 夜を迎えると空気が肌寒く感じられるようになった。ここの気候はデュンサアル周辺ともまた違う。人里などないせいだろうか。
 ミスティンキル達は野生の動物達や悪戯好きな鬼どもを寄せ付けさせないために野営地に篝火(かがりび)を起こした。さらにウィムリーフが風による結界を張る。
 そうして得た食事の時は何とも言えず楽しいものだった。久々にアザスタンも龍戦士の姿をとり、三人で魚料理を楽しんだ。

◆◆◆◆

 夜も更けた頃、ミスティンキルは悪夢に苛まれていた。それは忘れ去っていたはずの、かつて頻繁に見ていた夢だった。

 悪夢は白い闇を映す。そしてそのどことも知れない虚ろな靄のかかった空間に浮かび上がってくるのは、やはり昔と同じくミスティンキルの家族達だ。彼らは一様に悲しさと恐れを併せ持った表情でミスティンキルを見据える。彼らの眼差しから目を背けたいと願うが、体はこわばり全く動けない。かつてこの悪夢を見続けていたときと同じく。
 ――二度とうちには戻ってくるな。忌まわしい、赤目のミスティンキル!
 家族の慈悲のない総意が悪意に満ちたひとつの大きな声となって、ミスティンキルの心を打ち砕いた――

(なんで……あんなひでえ夢をまた見ちまうなんて……!)
 ミスティンキルは呪縛から目覚めた。毛布の中で、彼は涙をぽろぽろと流しているのに気付く。
(くそ!)
 彼は上半身を起こして涙をぬぐう。この行き場のない悲しみと怒りをどこに向ければいいのか。手近にある毛布を殴りつけることしかできなかった。多少気が晴れたところで周囲を見ると、ウィムリーフの姿がない。しばらく待ってみたが帰ってくる様子がないので、心配になったミスティンキルはテントから外に出てみることにした。

 断崖の上。果たしてウィムリーフはそこに佇んでいた。彼女を覆い包むのは、彼女自身の魔力である青い光。ウィムリーフは青くほのかに輝きながら、天上の月を身じろぎせずに見つめていた。月は円に近づきつつあり、放たれた月光は海に照らされて妖しくうごめく。聞こえるのは海風の響きと波の打つ音のみ。
 その光景が、触れてはならないもののように美しかったので、ミスティンキルは声をかけるのをためらった。
「――起きたのね」
 ウィムリーフは頭をミスティンキルの方に向け、そう言った。心なしか、彼女の声色はいつもより冷たく感じる。魔力に覆われているせいだろうか。
 ウィムリーフは静かに言葉を続けた。
「あたしも目が覚めちゃったんだ。……なんとも……いやな夢を見てね。目が覚めたら覚めたで見てのとおり、魔力が身体を包み込んで解けないし……。なんとなく外に出て月を見たくなった。こうして月を見てるとさ、ああ、あれからひと月が経ったのかあ、って思いにふけちゃって。――あたし達が月から帰ってきてからひと月なのよ。ほんとう、いろんなことがあったなあって……これからも――」
 言って、彼女は自分の身体を軽く両腕で抱きしめるような仕草を見せた。月光のもと、青い光に包まれた彼女は本当に美しい。そしてどこか悲しげなふうにも見える。
 ミスティンキルはテントに戻るよう言おうと思ったが、やめた。ウィムリーフの背中から両肩に手を置くと、共に月を眺めていることにした。青い光はミスティンキルをも包み込む。それはどこか異質な感じさえしたので、ミスティンキルは内心不安を覚えた。
「せっかくここまで辿り着いたっていうのになんでだろう。どうにも穏やかでいられないのよ」
「不安なのはおれも同じだ。おれもいやな夢を見ちまっていたからな。不安なのは、でっけえことをやろうとしてるからだろう。でもおれ達はあの月で、でっけえことをやってきた。だから今度も大丈夫だ」
 それから彼らは一言も語らず、ただ月を見ていた。月が雲に隠れるまでの間、ずっと。ここは二人だけの空間だった――誰にも、野生生物や魔物にも邪魔されない――。今のこの時間こそが彼らにとって貴重な時間だということを、知らず知らず感じ取っていたのかもしれない。

 月が隠れると彼らは無言のままテントに戻った。だがウィムリーフを覆う青い力はそのまま。彼女がどう願っても元に戻らないので、仕方なくウィムリーフは、お休み、と言うと寝てしまうことにした。一方のミスティンキルも毛布をかぶった。そしてすぐに眠りに落ちていった。夢は見なかった。

◆◆◆◆

 翌朝、毛布にしがみついているミスティンキルをウィムリーフはたたき起こした。そこにいたのはいつものウィムリーフであった。身体を覆っていた青い力も消え失せている。本当に、今までどおりの彼女。
「さあ、おはようミスト! 食事をとったら出発するわよ!」
 ウィムリーフは朗らかに言い放った。


(四)

 今日の朝食は昨晩の残り物だが、それでも彼らにとって新鮮な食材は大したごちそうだった。これからの冒険行では食事に関して期待など持てない。ここが全貌知れぬ魔境の島ゆえに。ほかのことを差し置いてもまず自分の命を守る事こそが一番大事なのだ。

 朝からウィムリーフは機嫌が良い。今も鼻歌を歌いながらにこにこと自分の荷支度をしている。
「さあて、一気に王城へ――オーヴ・ディンデへ進むわよ!」
 ウィムリーフは真っ先に旅支度を整えると高らかに宣言した。彼女は南西のロス・オム山を――王城の方角を指さす。
 それを合図にアザスタンは龍戦士から巨大な蒼龍へと変化(へんげ)し、ミスティンキルとウィムリーフはその背に乗る。準備万端。アザスタンは大地を蹴り、大きな翼をはためかせた。
 いよいよメリュウラ島での冒険のはじまりだ。

「……霧が出てきたな」
 ミスティンキルは、龍の背越しに眼下の草原を見下ろして言った。早朝も草原には朝靄が立ちこめていたが、今はもっと濃い霧へと変化している。
「この島は一年を通じて濃い霧に覆われているって文献にあったからね。……アザスタン、もっと上空まで昇っていって! 霧が視界を遮らない高さまで!」
【応】
 アザスタンは言葉を返すと頭を天空に向け、ぐんと急上昇を始めた。そびえ立つ“壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼの頂上をも、あっという間に追い越してしまう。
 蒼龍の急上昇に対してウィムリーフは余裕の(てい)だが、ミスティンキルは肝を冷やし、龍の背びれにがっしりとしがみつく。
(この野郎。こういう心臓に悪い動きは無しにしようって言ったじゃねえかよ!)
 彼が龍に悪態をつこうとしたとき、それを察知していたかのようにアザスタンは上昇をやめ、再び緩やかな滑空飛行に移った。ミスティンキルは大きく息をついた。

 前方にはうっそうと茂る森林地帯が広がっている。この森林もまた濃霧に包まれており、なんとも言えぬ神秘的な静謐(せいひつ)さを醸し出している。地面を歩く人間にとっては迷いの森以外の何物でも無いが、こうして上空を飛んでしまえば何のことはない。三者は遙か前方に見えるロス・オム山を目印に一直線に飛ぶ。龍の飛行は安定しており、行く手を阻む雨雲などもない。昼下がりには森を脱けることができるだろう。それでも半日も費やすというのだから、森林地帯の広大さが推して知れよう。
「でっけえ森だなあ!」
 ミスティンキルが感嘆する。
「確かにね。魔導王国が在った日にはちゃんと径がつくられていたんでしょうけど、もう大昔の事ね! もうすっかり自然に還ってる。……知ってるかしら。“世界樹”があるウォリビアの大森林は、この森よりずっと広いのよ。あたしもそこに行ったことないけどね」
 ウィムリーフは感慨深そうに言った。
「エシアルルと、その王が住む森、か」
「世界樹には絶対に行ってみたいわ! ファルダイン様にもきちんと謁見するの」
 ウィムリーフは目を輝かせて言った。

 今より二百年ほど前、カストルウェン王子とレオウドゥール王子はこの島の探索を終えたあと、世界樹に赴いてエシアルル王ファルダインに謁見し、島の様子をつぶさに語った。二者の体験談から不安を感じたファルダインは朱色(あけいろ)の龍、ヒュールリットに騎乗してオーヴ・ディンデへ向かおうとした。しかしオーヴ・ディンデ城は結界に阻まれており、力ある二者をもってしてもどうすることもできなかった。魔導王国が滅びたのちも、形容し難い謎と脅威が存在し続けている――心せよ。それは先だって、ヒュールリットがミスティンキル達に明かしたとおりである。
 ヒュールリットはミスティンキル達を希望だと考えている。そして彼は願っている。ミスティンキル達の冒険をもってして、数百年に及ぶ自らとラミシスとの因縁に終止符を打ってほしい、と。

「……そう。オーヴ・ディンデの謎を解き明かしたら――ファルダイン様とヒュールリットにきちんと報告しなきゃ。挫けてなんていられないわ」
 ウィムリーフは前方を真っ直ぐに、きっと見据えた。彼女の真摯な眼差しからは、成し遂げようとする強い意志を感じる。
「……いい調子ね。湿原を抜けるあたりまで今日は進もうかしら。あ、あとこの森の名前どうしよう?」
 彼女は手帳を手にしてしばらく楽しげに思案に暮れたあと、
「“シュバウディン森林”。(いにしえ)のハフト語で“黒と白”って意味。この黒い森と白い霧の対比をそのまま表してみたの。ね、どう思う?」
「いい響きだな。いいさ、ここは今からシュバ……」
「シュバウディン森林」
「そう、それにしよう。ああ。それでいい」
 ミスティンキルは純朴に笑ってみせた。

 だが、そんな二人の高揚した気分は突然水を差されることになるのだ。
 順調にシュバウディン森林の上を飛び続け、霧の向こうにそろそろ森の終わりが見えてきた頃――

◆◆◆◆

【……呪いだ】
 不意にアザスタンが唸った。
【気付かんか? わしは飛行するものに対する呪縛に食らいつかれた。これは強すぎる。龍のわしをもってしても破れんぞ】
「アザスタン?!」
 突然の悪い知らせに二人はぎょっとした。
【……きついな。だが森だけは我が誇りにかけて越えてみせる。そのあとは……】
 龍は小さく啼くと速度を落とし、苦しそうに鼻からしゅうしゅうと煙を出した。翼をはためかせるのを止め、広げたままの滑空飛行を続ける。徐々に、ではあるが速度も高度も下がっていく。
「おい、だいじょうぶなのかよ?!」
 ミスティンキルはおたおたと慌てた。
【ふん。……戦慄すべき“魔界(サビュラヘム)”に乗り込んだときのことを思えば、この程度大したものではないわ】
 アザスタンは負けん気を叩くが、気力体力の衰えはミスティンキルにも見て取れるほど酷いものだ。このままではアザスタンは呪い殺されてしまうのではないか。
 しかし――そもそもどれほどの呪いなのだろうか。ミスティンキルはふと思った。魔導を継承した自分ならばもしかしたら解呪ができるかもしれない。
(どれ、どんなものなのか、やってみるか)
 ミスティンキルは安易な気持ちで翼を解放しようとした。

「――!!」
 途端、耳をつんざく轟音と共に、ミスティンキルの視野が暗黒に染まった。
「ぐ……が……!」
 痛い! 今まで感じたことのない奇妙な激痛が、翼から心の臓にまで即座に到達する。翼はちぎれ、身体はばらばらに、心臓は破裂する――錯覚にすぎないのだろうが、ミスティンキルは自分が千々に砕けていくさまを感じとった。たまらず身をよじるが全くの無意味だった。
「――!!」
 呼吸ができない! 体力気力が根こそぎ無くなっていく! 自分ではどうしようもできない! “炎の(デ・イグ)”ですら、自分自身をしっかりと保っていたというのに!
 たまらずミスティンキルは翼をしまった。
 すると暗黒の世界はまったく元の様相に戻った。ミスティンキルは胸を押さえ、荒々しく息を吐きながら膝をついた。
「ミスト!」
 ウィムリーフが彼を抱きかかえた。
「……いや、もう大丈夫だ、ウィム。翼を出そうとするな。呪いに取り込まれるぞ……」
 ぜいぜいと荒く息を吐き出しながらミスティンキルは忠告した。
「……おあいにくさまだけど、試してみたあとよ。ぞっとしないわね」
 ウィムリーフは苦虫をかみつぶしたような面持ちで言うと、身を抱きしめてぶるぶると震えた。彼女もミスティンキル同様、呪いとやらに挑んでみたのだ。結果二人は、解呪などとうてい及びもしないことを思い知らされた。古来より呪いを解ける魔法使いというのは経験を極めた者に限られているという。魔導を継承したはずの二人をもってしても、対象たる呪いのなんたるかを知らなければ解く事、打ち克つ事はできない。今の二人では呪いの本質に辿り着く前に呪い殺されてしまう。
「魔導王国に残った呪い? ……ヒュールリットはこんな事一言も言わなかった。この呪いはいつから発動し始めたのかしらね?」
 怪訝そうな表情を浮かべるウィムリーフは次に、龍に呼びかけた。
「アザスタン! もういいわ! 無理しないで早く降りてちょうだい! あなたの事が心配なの!」
【……】
 蒼龍は無言のまま降りる体勢を取る。大いなる力を持つ龍にとっては屈辱に違いない。呪いを打ち破れずに屈するというのだから。それでもアザスタンは冷静さを保ったまま着地する場所を見極め、ちょうどよい広さの空き地に降り立った。

「アザスタン……」
 荷物を背負ったウィムリーフは龍の背から飛び降りると、申し訳そうな面持ちで蒼龍を見上げた。
【構うな。どのみち降りるほか無かったのだ】
 龍は言うと、龍戦士の姿を象った。
「ごめんなさい。でも徒歩だけで島を行く計画も立てていたし、食料だってちゃんと見越しているわ。……なるべく抑える必要はあるけれど。じゃあ、いいかしら。行くわよ。……こっちへ」
 周囲はうっそうとした針葉樹に囲まれているが、ロス・オム山の方角を記憶していたウィムリーフは道無き道を迷わず進み始めた。ミスティンキル、アザスタンが後に続く。周囲には相も変わらず霧によって覆い尽くされ、三人の視界を遮る。
 ミスティンキルはふと思い立ち、簡単な術を行使した。赤く小さな光球が三人の前方に現れると、半フィーレほど前方に飛んでいく。
「こんな迷いの森じゃあ、真っ直ぐ進んでるつもりが堂々巡りになっちまうことだってある。あれは正確にまっすぐな位置を指し示す珠だ」とミスティンキル。
「ありがと。ちょっとした獣よけにもなりそうね」
 ウィムリーフは彼に微笑み返した。
「もうすぐ、森の出口に行き着くはず。そうしたらひと息入れましょう」
 言って彼女は前を向き、ひたすら歩いた。

 木々をかき分けて悪戦苦闘しながら進むこと二刻ほど。ようやく彼ら三人は森から抜け出ることに成功した。濃い霧が視野を阻むのは変わらないが、おそらくこの先に湿原地帯が広がっているはずだ。
「ふう……」
 ミスティンキルは汗をぬぐうと、どかと地面に座り込んだ。残り二人もそれにならう。言葉にこそ出さないが、疲労困憊していた。
「疲れた? 無理もないか」
 ウィムリーフは、自身も大きなため息をついて、漠然と前方を見渡した。
 この白い霧の遙か向こう、湿原を踏破し平原を歩き通したその先に、魔導王国の中心部が――目指すオーヴ・ディンデ城がある。
 だが。
 飛行という手段が失われた今、その道のりは間違いなく険しく危険なものになりそうだ。ウィムリーフは顔をしかめた。

第六章 オーヴ・ディンデを目指して

(一)

 時は夕暮れとなった。シュバウディン森林からそう離れていない、頑丈で平坦な土地を選び、彼らはテントを張ることにした。ここから先には湿原地帯が広がっているという。ぬかるんだ土地ではテントの設営がままならないだろうと予想し、三人は安全をとってここで一晩明かすことを決めた。
 ロス・オム山を指し示していた小さな赤い球。魔法の産物たるそれをミスティンキルが納める前に、これから三人が進むべき方角に向けて木の枝を地面に突き刺し、つかの間の標識とした。明日また、魔法を発動して歩を進める。

「さあて、一体全体この呪いとやらはなんなんだ?」
 テントを設営して中に入り、真っ先に口を開いたのはミスティンキルだった。
「呪い……まったくやっかいだわ」
 まいったとばかりにウィムリーフは眉をひそめた。
「原因としてあたしが考えるのは……そうねえ。戦死したラミシス王国の魔術師達の怨霊とか怨念とか。あと、あたし達が(ゾアヴァンゲル)を倒した事が呪詛発動の引き金になってるとか。ぱっと考えられるのはそこら辺ね。でも分からないことだらけ。カストルウェン達がこの島に来た時とファルダイン様がいらした時。なんで呪いは過去、彼らに降りかからなかったのか、今あたし達が呪われたのはなぜなのか。そもそもこれは失われた魔導王国の呪いなのか、違うのか」
 “怨霊”と自分で言って思いだしたのか、あとで念のため悪霊祓いのまじないをかけておいたほうがいいかな、ともウィムリーフは言った。
「なんだ、ウィムも分かんないのか」
 ウィムリーフは鋭い目つきでミスティンキルを見た。
「分からないですって?! ええ、そうよ。こんな呪いを受けるなんてどの文献にも書いてなかったもの。ミストだってこんな事誰からも聞いていないでしょう?」
 声を荒げて彼に毒づくと、やれやれと息をついてウィムリーフは敷物に座り込んだ。今朝の出立の時とは打って変わって彼女は機嫌を損ねている。残り二人は顔を見合わせて、どかりと座り込む。
「あーあ。もっと順調にいくと踏んでたんだけどなあ。あたしも甘かったか」
 頭の後ろで手を組みウィムリーフは自嘲した。そして姿勢を正すと二人の顔をじっと見据え、真摯な面持ちで語った。
「うん。怒鳴ったりしてごめん。……いつ、どういう目的で呪いは仕掛けられたのか。これさえ分かれば呪いは無効化できると思う。あたし達の力を持ってすればね。そしたらまたアザスタンの背に乗っていけるんだけれど……あまりにも楽観的観測に過ぎるわね。むしろ分からない状況が続き、呪いはずっと解けないまま、と考えたほうが現実的ね」
 言うとそっと目を閉じ、ウィムリーフは自身を納得させるかのようにうんうんと頷いた。そして目を開け、
「やっぱり……歩いて行くしかないか!」
 ウィムリーフは結論づけた。それ以外方法がないのだ。まさかここまで来て怖じ気づいて引き返すわけにもいかない。絶対にオーヴ・ディンデへ乗り込むのだ!

 ウィムリーフは表へ出て、細い木の枝を折って持ってきた。そして敷き布を丸めて地面を露出させ、簡単な絵を描き始めた。
「ここがあたし達のいる森の外れね」
 彼女はメリュウラ島の地図を描き、左上部、森林地帯を抜けた自分達の位置をくるくると円で示した。
「……で、ずっと先、オーヴ・ディンデが――ここ」
 ウィムリーフは右下部に城を示す文様を描いた。やや離れ、城を守護するかのように四つの方角に建てられている塔も四つ描く。
 北東のシュテル・ギゼ。南東のゴヴラッド・ギゼ。南西のロルン・ギゼ。そして北西のヌヴェン・ギゼである。
「前にも言ったけれど、城に辿り着くにはここから先の湿原地帯と――平原を越えていかなきゃならない。直線距離にしておそらく六十メグフィーレ。歩きづめでも一週間かかるとみるべきね」
 ウィムリーフは湿原地帯を強行突破する事を告げた。ぬかるんだ土質は徒歩で進むにはやっかいであるし、野営に適した平坦で硬い土地はそうそう見つからないだろう。だから明日は、太陽が昇ってから暮れるまで歩き通す。その間に野営に向いた土地があれば迷わずそこでキャンプを張る。ウィムリーフの考えにミスティンキルとアザスタンは同意した。
 次に彼女は、一番重要な事として飲み水を挙げた。汚れた水や生水を飲めば体調を崩してしまうかもしれない。水をくむ場所は清流、しかも動物達が水飲み場としている地点に限る事。汲んだ水は必ず沸騰させたあとに使用する事。飲用時は配分を考え、唇をしめらす程度にする事。
 ウィムリーフは慎重に事を運ぼうとしている。それは臆病風に吹かれたわけではない。冷静で賢明な判断だと言えるだろう。こんな得体の知れぬ魔境の地においては。

「靴も見ておかなきゃね!」
 ウィムリーフは言った。
「じめじめした湿地帯を歩いて行けば、靴の底からどんどん水分が入り込んでくる。足下が水浸しにならないようにしっかりと手入れしたほうがいいわよ、ミストもね」
 靴が壊れたらこれからの冒険行に大いに支障をきたす。ウィムリーフは自分の靴を片方ずつ手にとって、穴が空いてないか、靴全体に不具合があるか、事細かに検査した。少しでも不安を感じる箇所には手入れを施した。
 一方、ミスティンキルは鼻をひくつかせた。
「さっきから気になってたんだがよ。この空気の匂い、しめった感じ……ことによるとこれから雨が降るかもしれないな」
「なんてこと」
 ウィムリーフは天を仰いだ。
「もし豪雨になるというのなら湿原越えは見合わせるべきね。危険だもの。小雨程度だったら……そうね。状況に合わせて柔軟に対応しましょう」
 それきり、三人は口をつぐんだ。

◆◆◆◆

 夜となり、彼らは獣よけのたき火を起こした。そして湯を沸かして飲み水を確保する。
 またウィムリーフは先に言ったとおり、野営地の周囲に悪霊祓いのまじないを結んだ。九百余年を経ているとはいえ、かつての戦いで死んでいったラミシス王国の魔術師達や民達の怨念が、月の向こう――“幽想の(サダノス)”に赴くことなく、この地に残留しているとも考えられたからだ。
 この頃になるとさすがにウィムリーフも機嫌を直しており、塩辛い以外に味気のない携帯食を口にしながら、この島で最初にとった美味しい食事について懐かしんでいた。
 やることのなくなったミスティンキルはテントに入ってごろりと横になったが、ウィムリーフはたき火のもとで冒険日誌を書き綴るのだった。やがて日誌を書き終えると深夜までの外の見張りをすすんで買って出た。

 未明、ミスティンキルは見張り交替のため目を覚ました。今はアザスタンが役を務めている。と、彼のすぐ横で眠っているウィムリーフが全身から青い光を放っているのを知った。その光はテントの中をほのかに青白く照らしていた。当の本人は眠りについたままだが、どうやら夢でうなされているようだった。ミスティンキルは慰めるように何度か彼女の頭をなでたあと起き上がり、テントの外へと出て行った。


(二)

 それから数刻が経った。ミスティンキルは見張りの番に就きながら、東の空が赤みを帯びてくるのを見ていた。空気は薄ら寒く、やや湿り気を帯びている。彼の読みどおり、雨が降るのかもしれない。上空は一面、厚い雲に覆われている。
 そろそろ起床の頃合いだ。ミスティンキルはテントに入るとウィムリーフとアザスタンを起こした。深夜にウィムリーフが放っていた青い光は収束されている。本人はそのことにまったく気がついていない様子で、ミスティンキルとアザスタンにおはようと軽やかに声をかけた。
 そして彼ら三人は揃って簡素な食事をとり、手際よくテントを畳むと足早に野営地をあとにした。

◆◆◆◆

 太陽は昇ったようだ。ようだ、というのは太陽が雲に隠れて見えないからに他ならない。どんよりした鈍色(にびいろ)の空のもと、一行は前方に浮かべた赤い光の球を目印にしてやや早足で歩く。進む方角はゆるやかに登っている。南東――ロス・オム山がわずかでも見えれば珠に頼ることなくオーヴ・ディンデの方角へと歩を進められる。だが今や周囲はもやに包まれており、遠景まで見通すことは不可能だ。
 歩くにつれ、徐々にではあるが地面がぬかるんできているのを彼らは知る。これは雨のためではない。湿原地帯に入り込みつつあるためだ。ウィムリーフが合図を出すと、彼女を先頭に、ミスティンキル、アザスタンの順で一列縦隊を組んだ。西方大陸(エヴェルク)の北、山岳地方で産まれたウィムリーフは、その高原域にある湿原地帯を何度か訪れたことがあり、湿原についてそれなりの知識を持ち合わせていた。
 この湿原を強行突破すると先に彼女は告げたが、それは容易なものではなく危険が伴うと知った上でのことである。地面は滑りやすい上、底無し沼と知らずに足を踏み入れてしまうことすらあるから、常に足元には注意を払っておく必要がある。また熊のように危険な動物と出くわしてしまうこともあるのだ。それでもオーヴ・ディンデに辿り着くためにはここを越えていかなければならない。

 土壌が湿原の泥炭へと明らかに変わった頃、ついに分厚い雨雲からしとしとと雨が降り始めた。激しく降る気配はないものの、当分のあいだ雨模様となるだろう。ミスティンキルはそう推測した。彼は雨よけの術を使って雨を遮断する。三人の頭上には薄く透明な膜が一枚作り上げられた。
 次に彼らは寒さを防ぐことにした。ミスティンキルとウィムリーフがそれぞれたいまつを取り出し、魔力による炎をミスティンキルが灯した。これでいくらかは暖がとれるし、獣よけにもなる。またミスティンキルが制止しないかぎり火は燃え続ける。
 昨日受けたあの強力な呪いは空を飛ぶものに対して降りかかるようだが――事実、今朝の出立から今まで鳥の一羽も見かけたことがない――人が唱えるごく微弱な魔法についてはどうやら干渉してこないようだ。
 さて一方でアザスタンはというと、龍たる彼は体内に炎を宿しているためにそのようなことをする必要が無かった。
 こうして万全とも思えるほど守りを固めたとはいえ、雨の細かな水滴が彼らの服にまといつく。また、ぬかるんだ地面と雨に濡れた草が靴を濡らしていく。ミスティンキルとウィムリーフ、二人の体温は時間が経つにつれ奪われていくのだった。彼らは次第に口数が少なくなり、やがて押し黙って歩を進めるようになった。
 もし周囲が晴れ渡っていたならば、湿原ならではの花々など風光明媚な自然の美しさに心奪われたりもしただろう。しかし今の彼らにはそれに心を向けるまでの余裕はなかった。鹿の群れなどを見かけることがあったが、お互いに無関心だった。

 果たして朝も明けぬうちから何メグフィーレ歩き続けただろうか。やがて彼らはハンノキが茂る小高い丘に辿り着いた。足元の感触が変わったことで、ようやく一行は安堵した。堅い地面がこんなにありがたいものだとは――。丘を登ってみると、眼下は相変わらず霧に包まれているが、前方にアシの群生地がかいま見れる。
「……このまま進むと沼に突き当たるわね。いったん方角は外れちゃうけど、ぐるりと回り道をしていきましょう。……でも丘を降りる前に、ここで休みを取りましょうか!」

 三人は草むらの雨露を払い、布を敷いてその上に座した。濡れそぼった服に付いた水分を拭き取ると、いくぶん寒さが和らぐ。そして靴を脱いでしまうと足先が空気に触れてとても心地よい。
「なあ、この湿原には名前を付けなくていいのか?」
 携帯食をほおばりながらミスティンキルがウィムリーフにふと訊いてみた。他愛ない会話を交わすことで一行の沈んだ気分を晴らそうとしたのだ。
「“霧と雨の湿原”!」
 間髪入れずにウィムリーフが答えた。もしかするとずいぶん前に彼女の中では命名済みだったのかもしれない。それを聞いてミスティンキルは吹き出した。
「……なんだよ、そんな分かりやすい名前でいいのか? 昔の言葉でどうこう……ってほうがかっこうがつくんじゃねえか?」
 ミスティンキルはおどけてみせた。
「そんなことないわよ。たまにはこんな名前もありでしょ?」
 ウィムリーフは久しぶりに笑顔を浮かべた。彼女にも心の余裕が生まれたのだ。
「ほら、“世界樹”だって“黒き大地”だって、あたし達が使うアズニール語じゃないの。それにこの先にある平野は“枯れ野”って名前が付いてるみたいだし、なにも古い言葉ばかりに縛られる必要は無いわ。だから――決まり! “霧と雨の湿原”!」
「はは、まったくしようがねえな。その名前、しっかり日誌に書いとけよ!」
 ミスティンキルも笑ってみせた。一行の雰囲気は一転して和らいだ。

 そして彼らはまた進む。
 昼過ぎになるとようやく雨が止み、霧もかき消えた。ロス・オム山がうっすら見えるようになったところで進行方向をやや修正した。道しるべを務めてきた魔法の球はここでお役御免となった。
 あらためて、ロス・オム山を目指してまっすぐ歩いて行くと、途中で小川を三本ほどまたいで進む必要に迫られた。迂回することはできない。こればかりは仕方なく、それぞれの川の浅瀬を選んで渡りきった。それでも膝上の高さまで水に浸かってしまい、上衣を濡らしてしまった。
 この午後は短時間の休憩を二回挟み、ひたすら歩き続けるのだった。湿原を早く抜け出すために。

◆◆◆◆

 日が暮れようとする頃、ついに一行は湿原地帯を踏破した。疲労困憊し、意識がやや朦朧(もうろう)としていたが、達成感もまたあった。三人はお互いの顔を見合わせ、喜びを分かち合うのだった。
「あのような水浸しの場所を歩くなど、もう御免被るぞ」
 龍にとって湿原はよほど相容れない地域だったのだろう。珍しくアザスタンまでもが音をあげた。
 すぐに野営地を決定すると木を集めてたき火を起こし、夜のとばりが降りる前にテントを設営した。泥にまみれぐしょぐしょになってしまった衣服は洗って乾かす。アザスタンはともかく、ミスティンキルとウィムリーフの二人は裸でいるわけにもいかず、それぞれ大きめの布を一枚身体にひっかけた。

 夕食後、たき火に当たりながらウィムリーフが日誌を書いていると、テントからミスティンキルが出てきて彼女の後ろから抱きついた。
「ちょっと! なにおふざけしてるのよ!」
 そう怒られるも、ミスティンキルは手を引っ込めるどころかますますウィムリーフに密着してきた。薄い布を隔ててお互いの肌がぴったりと重なる。それがとても心地よいものであるのは確かだ。
「……こうしたほうがもっとあったまるじゃねえか?」
 ちょっと甘えたような、しかし落ち着いた声で、ミスティンキルはウィムリーフの耳元で囁く。
「こら……!」
 やや当惑しつつウィムリーフはミスティンキルを見上げる。灯火を受けながら群青の瞳と赤い瞳が交差する。ミスティンキルの瞳は吸い込まれそうなほど実直だと彼女は感じた。そしてミスティンキルが明らかにウィムリーフを求めているのを知った。
 ウィムリーフは彼から目をそらし、神妙な面持ちで
「ばかね。アザスタンがいるのよ?」
 と、とりあえずやんわり否定の言葉を口に出した。
 ミスティンキルは自分の頬と彼女の頬を合わせ、
「気にすんな。『おれ達が見張りの番に就く』って言っておいた」
 そう言うとやや強引にウィムリーフの唇を奪った。
 厳しく困難な道のりのさなかだが、ひとときの情欲に身を任せるのもいいかもしれない。ウィムリーフは拒むのを止め、彼の思いを受け入れるのだった。

◆◆◆◆

 夜も更けてしばらく。
 愛を交わした恋人達はやがて手を取り合ってテントに入った。そしてアザスタンに見張りの交替を願うとそれぞれの寝具にくるまった。
「そういえば……」
 目を閉じようとして、ミスティンキルはふと今日未明のことを思い起こした。あの時、ウィムリーフの身体を青い光が覆っていたことを。それを聞いてウィムリーフは唸った。
「うーん……。なにかあまり良くない……不思議な夢を見ていた気もするわ……。でもなんだったのか思い出せない……」
 思慮深げにウィムリーフが言ったまさにその時、青い光がぼうっと彼女の内側から出てきて全身を包んだ。ウィムリーフ自身の魔力による光だ。
「なに?! なんなの?!」
 ウィムリーフは寝具から抜け出ると、青く光る自身の身体を見回して慌てふためく。この事象が発生するのはメリュウラ島にやってきて連日、もう三回目だ。
「ウィム! 大丈夫か?」
 がばりと、ミスティンキルは上半身を起こす。
「うん……平気。あたしの魔力が放出されているだけで、それ以外は何ともないわ」
 やや不安そうにウィムリーフは言葉を返した。
「収まれ、収まれって願っても引っ込まないのよ。どうしよう……。なんでこんなこと、あたしにばかり起きるの……?」
「ウィム……」
 狼狽するウィムリーフを見かねてミスティンキルは手招きする。ウィムリーフは頷くと、ミスティンキルの寝具にそろりと潜り込んだ。青い魔力は熱を帯びているわけではなく、ミスティンキルに影響を及ぼすものではない。それよりむしろ彼女の持つ柔らかさと暖かさ、匂いにミスティンキルの意識が集中した。
「大丈夫だ、ウィム。深く考えるな。そのうち引っ込むから怖がらなくていい」
 ミスティンキルはウィムリーフの背中を撫でた。ウィムリーフは切なそうな視線をミスティンキルに送った。
「お願い。あたしが眠りについても抱きしめていて。そうすれば悪い夢なんか見ないと思うの」
「……ああ……」
 恋人達は目を閉じた。
 二人が寝息を立て始めるまで、そう時間はかからなかった。


(三)

 明くる日。身体を揺り動かされているのに気付いてミスティンキルは目を覚ました。視野に龍戦士アザスタンの姿が映り込む。
 ――と、ミスティンキルの胸元で銀髪の頭部がわずかに動き、毛布からウィムリーフが顔をのぞかせた。彼女はミスティンキルの顔を見上げて、一瞬怪訝そうな表情を浮かべる。が、すぐに納得がいったのか、決まりが悪そうにいそいそとミスティンキルの寝具から抜け出ていった。
「お、おはよう」
 そう言ってウィムリーフはそそくさと自分の髪を手櫛(てぐし)で整える。照れているのか、やや顔を赤らめているあたりが愛らしい。
「おはよう……すまねえアザスタン。すっかり朝になっちまったようだな」
 疲労のため深く寝入っていたようだ。ミスティンキルは長時間アザスタンを見張りに立たせていたことを詫びた。
「気にするな。一日や二日眠らない程度で龍はくたばらぬよ。……まあ時に我らは、長い眠りを必要とすることもあるがな」
 アザスタンはそう言うと笑ったようだった。龍頭ゆえに表情は読み取れないが、今までのつきあいからミスティンキル達には分かった。
 ミスティンキルは起き上がると大きく伸びをした。荷を背負って一日中湿原を歩き通し、普段使わない筋肉を使ったのだろう、身体の節々が痛む。
「……だりぃ……アザスタンみたいにピンピンとはしてられねえな」
 ミスティンキルは座り込んで大きくあくびをした。
「歩いていればそのうち身体の調子も良くなるわよ。たぶん」
 そう言うものの、ウィムリーフも今ひとつ元気がなさそうだ。起き抜けというせいもあるだろうが、語気に覇気が無い。ウィムリーフは咳払いをした。
「……まああれだけ頑張った甲斐あって湿原を抜け出たわけだし、まずは一安心していいわ。ここから先は平原が続くから、山を目印にまっすぐ進めばいいだけ。少しばかり遅れても支障は無いはずよ。今日は早めに休むことにしましょう。正直なところ、あたしも疲れが抜けてないわ。でも進まないと! ほら、出ましょう、ミスト!」
 ウィムリーフは自分を含めた皆に発破をかけ、テントから出て行った。追ってミスティンキルとアザスタンも外に出る。

 昨日とは打って変わり、今朝はメリュウラ島の全域で晴れ渡っている。見渡すと、南東のロス・オム山も南西のロス・ヨグ山もくっきり鮮やかに見える。また気候は暑くもなし寒くもなく、ちょうどいい。ミスティンキルは大きく深呼吸した。
「うん。気持ちいいな!」
 気持ちを切り替えるようにそう言って、ミスティンキルは乾かしていた衣服へと着替えた。ウィムリーフもテントの裏で着替え終えたようだ。手足を動かして身体をほぐしている。
「飯を食おうぜ! ああ……美味い干し肉が食いてえなあ。たまらなく肉が食いたい」
 ミスティンキルがため息をつきながらそう言うと、ウィムリーフはにこりと笑って返した。
「あたしは蜂蜜をかけたパンが食べたいわね! それに牛乳も。……残念だけど今それは叶わないから、冒険が終わったあとの楽しみとしましょう」
 そして彼らは質素な携帯食を食べ終えると、今日の旅路の支度に取りかかるのだった。

 一行は“枯れ野”を闊歩する。この日は前日の疲れを取るために、二刻ごとにしっかりと休憩をとって体調を整えた。晴れやかで涼しいため、歩いていても前向きな気分のままでいられる。
 途中、土着の悪鬼の一隊に弓矢で攻撃されたが、“竜殺し”の一行は軽くひねるようにこれらを撃退した。以降、一行の行く手を阻む者はまったく現れなくなった。
 三人は夕方前には野営地を決め、ゆっくりとくつろいだ。そして夕食が済んだ頃、またしてもウィムリーフの身体は青い光に包まれた。だんだんと、光が現れる時間が早まっているのはなぜなのだろうか。オーヴ・ディンデに近づくにつれて。
 未明となり、見張りの交替でミスティンキルがウィムリーフを起こしたとき、彼女から青い光は消え失せていた。

◆◆◆◆

 こうしてまた次の朝を迎えた。メリュウラ島に着いて早五日目となった。

 一行が歩いていくと、やがて木や石で造られた建造物の名残のようなものが散見されるようになった。このあたりの平原はかつて、ラミシス王国の一般市民が居住区域としていた地域なのだ。だが九百年以上時を隔てているために今やすっかり風化している。
 住居跡がある程度集まって存在していることから、かつては町や村といった集団で人々が生活していたことが見て取れる。そして農耕や牧畜が行われていたであろう痕跡もかすかに残っていた。ウィムリーフは時々歩を止め、こうした周囲の風景を日誌に描写していた。
「肉体と魂の不死を追求した魔導王国――か。生け贄を使った悪魔的な儀式が連日のように行われていた――。この遺跡からはとてもそうは感じないわね。ここの人々は普通に生活していたとしか……」
「だけどそういった悪行が知れ渡って、アズニール王朝が軍を差し向けて滅ぼしたんだろ?」
「実際、歴史上そうなのよね。もっと奥へ――魔導塔から先の中枢域に行けば違った印象を受けるのかしら?」
「魔導の興った地だからな。もっと魔法的ななんかがあってしかるべきな気がするぜ。実際おれ達は呪いを受けたんだから」
「……そうね。目的地に着いたからって浮かれないで、気を引き締めていかないとね」
 うんうんと、ウィムリーフは自身を納得させるように頷いた。

 さらに進んでいくと、黒くてごつごつした巨大な岩塊が平原のところどころに見受けられるようになった。これは遙かな昔、火山だったロス・ヨグ山とロス・オム山から噴出した火成岩が集まってかたまったものだ。またミスティンキル達が通った湿原地帯にしても、その形成に際しては火山の堆積物が大きく関わっている。ウィムリーフは火成岩の小さな欠片を拾って熱心に眺めたあと、自分の荷物の中にしまい込んだ。彼女の住んでいた西方大陸(エヴェルク)北方域には火山がないため、とても珍しかったのだ。
 遺跡と岩塊が混在する奇妙な景色だ。やがて霧が立ちこめてくると、白いもやに包まれた風景は、まるでこの世のものとは思えないまでの不可思議さを醸し出すようになった。太陽は頭上にあり、光輪を作って幻想的に地上を照らす。
「なんていうか不気味な感じだな」
 とミスティンキル。もやで山が見えなくなったので、彼は魔法の球を発現させた。
「怖くなったの?」
 ウィムリーフがにやりと笑ってみせた。
「ばか言え。そんなわけあるか」
 ミスティンキルはぶっきらぼうに返答する。
「ふふ。でもまあ、まさにこれこそ魔境、遺跡って雰囲気よね」
「なんだろうな。いつか見たような気もするんだよな。そうだなあ……ピンと来たのは死後の世界ってイメージかな……」
「そうね。でも“幽想の(サダノス)”のことは誰も知らない……死後の世界というのはこの世界最大の謎のひとつね」
 アリューザ・ガルドに生きるものは死後、月を通って“幽想の(サダノス)”へ至る。これは誰しも知っていることだ。しかし“幽想の(サダノス)”がどういう世界で、そこでは自分達がどのように存在しているのか、具体的に知るものは一人としていないのだ。それがアリューザ・ガルドを創造したアリュゼル神族であっても。
「ミストの言うことも分かる気がする。あたしも死後の世界って印象を感じるわね。それとも“幽想の(サダノス)”に至る道……? うまく言い表せないけど……心象風景として、あたし達の心の奥底に存在する景色なのかしら」
 ウィムリーフは首をかしげて言った。
 とその時、ミスティンキルが鼻をひくつかせた。
「このにおい……ウィム、分かるか?」
「ええと……?」
 とっさの問いかけにウィムリーフは戸惑った。
「どうやらどこかで温泉が湧き出てるみたいなんだ。そんなにおいがする。ウィム、久々に湯浴みができるかもしれないぜ?」
「本当?!」
 ウィムリーフの顔が一転、ぱあっと明るくなった。
 島にある二つの山は死火山となったとはいえ、大地の躍動を今なお伝えている。それが温泉だ。
「野営する付近にもあるといいんだけどな、温泉。……なんなら一緒に入るか?」
「あはは、それはだめ。ちゃんと見張りの役をこなしてなさい」
 一笑に付すと、ウィムリーフは断った。
「ほおう。湯浴みを見張る役でもいいってことだな?」
「ばか言ってなさい。そんなことあるわけないでしょう」
 ウィムリーフはミスティンキルの右頬をつねった。
 奇妙な白い闇の中にあって、三人は足取り軽く歩いて行くのだった。

 夕方には霧は晴れた。一行は湯がこんこんと湧き出る泉を見つけ、そこを野営地とした。そして悲しいかな、ミスティンキルは己が欲望を果たすことができず、見張りの勤めをきっちり果たしたのだった。ウィムリーフが湯浴みしている最中に青い光が発現したようだが、その時の様子をミスティンキルが見ることは叶わなかった。

 それから夕食をとり寝るまでの間、彼女の身体は青く光り続けた。「気にしていない」と気丈にウィムリーフは振る舞うが、なぜ魔力が顕現しているのか、なぜ制御できないのかまったく分からないため、内心はかなり困惑していただろう。実際にミスティンキルは見たのだ。星空のもと宙のとある一点をじっと見つめ、ひとりで物思いに耽っているような彼女の姿を。

◆◆◆◆

 翌日の昼下がり。一行が歩を進めるにしたがい遺跡の数は減っていき、そろそろ居住域の終わりが近いことを知らせた。それまで道を形成していた石畳跡も姿を消していく。やがて彼らは何もない荒野を、ただひたすら歩くようになった。

 太陽が西に傾く頃、三人は大きな川に突き当たった。ぐるりと周囲を見渡すが、橋の形跡はまったく無い。川の流れはやや急で、川の深さも定かではない。けっきょく、ここを歩いて渡るのは危険だと判断した。ではどうするのか? 三人はしばらく思案に暮れたが、とりあえず川をさかのぼっていくことに決めた。
 その判断は正しかったようだ。川沿いをしばらく歩いて行くと、ちらほらと石畳の形跡を見受けるようになった。
「あたしの勘が正しければ、このまま上流に向かえば湖に行き着くはず。そしてそこに塔が立っていると思うの」
 湖畔に立つ塔。
 かつてのカストルウェン王子達の記録によると、その塔こそ魔導王国中枢の四つの塔のひとつ、ヌヴェン・ギゼ。ラミシス中枢域の北西域に立つとされ、他の三つの塔と同様に魔導の研究に使われていたほか、中枢域を守護する役割も担っていたとされる。
 いよいよオーヴ・ディンデが近くなってきた。そのことは一行の士気を高めた。

 しかし日はもう没しようとしている。はやる気持ちを抑え込んで三人は野営地を決め、テントを張った。
 そしてウィムリーフが発する青い光は早くも設営時に現れたのだ。
「またこんなこと。じゃあ明日には昼過ぎにあたしは青くなっちゃうというの? あたしはどうかなっちゃうの……?」
 膝を抱えてウィムリーフは座る。そして目を閉じ、顔を伏せると彼女はひとりふさぎ込んだ。
「……ウィム……」
 ミスティンキルはそれ以上何も言えなくなってしまった。
 長い時間を経て、彼女は考えるのを止めたのかゆっくりと目を開く。そしてぼうっとした表情で立ち上がり日誌を取って帰ってくると、何か――今日の出来事だろうか?――を黙々と記し始めた。
 だが、なにかがいつもと違う。気軽にウィムリーフに話しかける、そんな雰囲気ではないのだ。かといって他者を拒絶しているというわけでもない。異質な感じ。時折ウィムリーフは記述を止め、ぼうっとした眼差しで天上の月を見上げる。月は真円を描いていた。
「ふふっ……」
 彼女は目を細めてほくそ笑む。その様子を見てミスティンキルは言いようのない畏れを感じたのだ。ふと、彼は同じような経験があったことを思い出した。二週間ほど前のこと。ウィムリーフが一人でデュンサアルを後にしようとしたあの夜。互いに滞空したまま、無言で対峙したあの時を。
(そういや、あの時は新月だったっけな……。月でおれは魔導の力を得た。あの時、ウィムはなにか違ったものを得たのか?)
 ミスティンキルは訝しんだ。と唐突に、ウィムリーフはついと歩き出し、テントの中へと入ってしまった。

 その後、三人は奇妙な雰囲気に包まれたまま各々食事を取り、夜を迎えた。
 そして夜半には、彼女を覆った光は収まった。

◆◆◆◆

 島に到着してとうとう一週間が過ぎた。
 三人は旅支度を整え、川をさかのぼっていく。昨夜の奇妙な違和感はどこへやら。一行を包む雰囲気はまったくいつもと変わらないものとなっている。
「川の名前は決めてあるのか?」とミスティンキル。昨夜のことはウィムリーフにはあえて訊いていない。
「この先にあるのがヌヴェン・ギゼの塔だというのが間違いなければね。決めてあるわ」
 ウィムリーフは今までどおり、得意げに言った。
「湖の名前と川の名前は一緒のもの。ヌヴィエンにするわ」
「今度は塔の名前からとったのか」
「そうよ。塔と関連性のある場所だから、同じ系列の名前にした方がいいと思ったのよ」

 そうこうしているうちに道は森へと入り込んでいく。ここまで来ると川幅もずいぶんと狭くなってきている。一行は石畳が導く先、薄暗い森の中へと足を踏み入れていった。
「森、か。シヴァウムの森林みたく、だだっ広かったらどうする?」
「“シュバウディン森林”ね」
 ウィムリーフは訂正した。
「……この森はあんなに広い大森林だとは思わないわ。ヌヴィエン川の流れ方から察すると、半刻もこの川をさかのぼっていけば開けた場所に出るはず」

 ウィムリーフの予想は違わなかった。
 ヌヴィエン川は大きな滝に行き着き、滝の側面の急な傾斜地を一行はよじ登っていく。そうして苦しみ抜いて登り切ったところに――
「……着いた」
 森の終わりがあった。一行はヌヴィエン川のはじまり、ヌヴィエン湖へ辿り着いたのだ。そして彼らの目は、湖の左手側の岸をなぞっていく。
 そこには乳白色をした石造りの塔がひとつあった。高さは半フィーレほどだろうか。“壁の塔”ギュルノーヴ・ギゼには遠く及ばないが、湖畔のどんな木々よりも高くそびえている。
「ヌヴェン・ギゼの塔よ。とうとうここまで来たわ!」
 ウィムリーフは目を輝かせた。
「塔に到着したらお昼休みにしましょう。そして塔を探索してみるの。冒険家としてね!」
 そう言ってウィムリーフはミスティンキルに目くばせをした。

第七章 召喚 デュンサアルより

(一)

 ミスティンキル達がメリュウラ島にてヌヴィエン川をさかのぼり始めた日の朝方、ハーンとエリスメア父娘はドゥローム(龍人)達の聖地、デュンサアルに着いた。港町ウォレから商人達と共に旅を続けて六日目のことだ。
 デュンサアルまでの道中では、地元のドゥローム達からミスティンキルとウィムリーフの話を聞くことができた。旧来の思考に縛られていた“司の長”達をあっと言わせ、ドゥロームの聖地デュンサアルに新風を巻き起こした彼ら。若き“炎の司”と“風の司”。ハーン達が出会ったドゥロームのほとんどがミスティンキル達を賞賛していた。彼らもまた、ものの見方を変えたのだ。
 ハーンとエリスメアは、渦中の人物に会うのがますます楽しみになってきた。そうしてここ、デュンサアルが旅の終点、となるはずだったのだが――

『ミスティンキルとウィムリーフか。あの二人はもうここにはいないぜ。……もう一週間ほど前になるかな。この大陸から海を挟んで南東にある島へ行ったよ。ラミシスの遺跡に――それも龍様と一緒に、ときた!』

 デュンサアルで得たこの情報は、ハーン父娘をひどく落胆させた。ミスティンキル達と話をつけ、彼らをフェル・アルム島へ――魔導師ハシュオン卿のもとへと送り届ける。そうしてハシュオンのもとで魔法についてしっかりと知ってもらう。そのはずだったのに――。彼らはがっくり肩を落としてデュンサアルの旅籠に入っていった。
 朝食後、父娘は宿泊する部屋へと通された。旅人向けにあつらえられた、居心地が良さそうな広い部屋だ。ハーンは荷物を床に、楽器――小さなマンドリンを机上に置くと、ベッドにごろんと寝転がった。手足を伸ばして天井の一点を見る。
「かくして魔導を継承した者達は、魔導勃興の地に赴いた、か……」
 眉をひそめ、ハーンは言った。
「そういう行動を取る可能性もあるって、私達は確かに予想していたけれど……」
 エリスメアはもう一方のベッドに腰掛ける。こちらも浮かない表情だ。
「ふむ。ここまで行動が早いとは、正直言って予想外だったね。月から帰還してわずか三週間ほどで、彼らが次の冒険に出発するとは、ね」

 冒険家というものはひとつの冒険を終えたあと、すぐに次の冒険に出かけたりしないものだ。資金の工面もあるが、それ以上に最優先すべきは自分の命なのだから、準備にあたっては慎重にもなる。ハーンは友人達の姿を思い描いた。冒険家テルタージ夫妻のことを。そして、その孫娘ウィムリーフのことを。
「ウィムリーフ……冒険家を目指す功名から先を急いでしまったのか……?」
 ハーンはぽつりと呟いた。
「『自信は時として過信となり、身を滅ぼす』――ルードからは教わらなかったのか?」

「父さま、これからどうしましょう?」とエリスメア。
「うーん。……正直言うと旅の疲れもあるし、ここでゆっくりとしていたい。ミスティンキル達が帰ってくるのを待っていたい。しかし、だ――」
 しかし――ミスティンキル達は冒険を成し遂げて何事もなく帰ってこれるのだろうか?
 今となって、二人の胸中は落胆よりもっと強い感情に支配された。それは不安であり危機感である。勘が働いたのだ。言葉で表しきれるものではないが、魔導を知る者があの地に至った時、とてつもなく大きな“なにか”が動き出してしまうと、二人とも直感したのだ。ただ、根拠はない。
 ミスティンキル達が旅立って早八日。しかも龍に乗っていったという。空を滑空する彼らに追いつくことは不可能なのではないか。それに彼らはあの地で、すでに何かを為してしまったのではないか。だがハーンもエリスメアも、何もしないうちから諦めることなどできない性分だった。ハーンはがばりと起き上がった。
「彼らに追いつこう! 魔導王国があったあの島へ。……“なにか”が起こりそうな、いやな予感がする。二人の目的地はおそらく中枢部、オーヴ・ディンデだろう。なるたけ急ぐからには、こちらも空を往く必要がある。だから今回にかぎり――神獣を召喚しようと思う」
「ええ。……って、ええ?! 父さま?! まさか神獣ってあの……」
 父の提案の、あまりにも想像を絶する事柄にエリスメアは唖然とするほか無かった。
「そう。エリスが考えてるとおり、『あの』神獣のことだよ。あれならば龍よりもずっと速く空を駆けることができる」
「……本気なの?!」
「もちろん本気さ。ああ! こんなことになるんだったら、ガレン・デュイルでエリスと合流した時、すぐにでも喚び出すべきだったなあ! それだったら彼らがデュンサアルにいる時分に間に合ったのに……」
 ハーンは頭をぼりぼりと掻きながら悔やんだ。

 神獣。
 ディトゥア神族の長たるイシールキアが、アリュゼル神族の長たる“天帝”ヴァルドデューンから授かった、純白の体毛で覆われた四匹の一角獣だ。
 その名を、東方の守護イゼルナーヴ、西方の守護ファーベルノゥ、南方の守護エウゼンレーム、北方の守護ビスウェルタウザル。アリューザ・ガルド四方の守護者である。
 誇り高い彼らがアリューザ・ガルドに顕現することはほとんど無く、普段は夜空に煌めく星に身を変えて天上遙か高くに在る。そこからアリューザ・ガルドを守護しているのだ。極めて高い神性を持つ存在を地上に召喚することは、神々でなければ為し得ない。
 『もっと早く喚び出すべきだった』とハーンは悔やむが、単なる移動のためだけに利用するなど、主であるイシールキアはもとより神獣自身が拒絶するだろう。結果的に、今の時点だからこそ神獣を召喚するべき事態となったのだ。

◆◆◆◆

 ハーン父娘は旅籠でのんびり休養したい気持ちを無理矢理押し切り、まさに後ろ髪を引かれる思いでデュンサアルをあとにした。
 それから南へ歩くこと一刻ほど。彼らは人気の無い丘陵地に辿り着いた。ここなら大がかりな魔法を行使しようが何をしようが、人目に付くことはない。

「……これから僕はディトゥア神のレオズスとして、イシールキアに会ってくる。これまでのいきさつを説明してさ、『アリューザ・ガルドに危機が生ずるかもしれない。ことは急を要するので神獣を貸してほしい』ってお願いするよ。……たぶん一刻もしないで帰ってこれるだろうから待っててくれるかな。うん。心配はしないでいいよ。彼もまた、僕の大切な友人だ」
 “宵闇の公子”レオズスは過去において“混沌”に魅入られ、同族のみならず世界を敵に回したことがある。八百年ほど昔のことだ。それからレオズスは人に倒されたのちにイシールキアらディトゥア神族によって裁かれ、また紆余曲折を経て今のティアー・ハーンとなっている。
 神族の長と会見することについてエリスメアは心配しているようだったが、当の本人はけろりとしており、過去のことなどまるで気にかけていないようであった。
 ともあれレオズスは荷物――剣も楽器も――を下ろして身軽になると、左手を前にかざした。ひと息、念を込める。ハーンの全身が一瞬、闇一色に染まる。そして彼の目の前にぽっかりと黒い穴が穿たれた。イシールキアがいる次元へ通じる通路が作られたのだ。神同士のやりとりなど、一介の人間が及ぶところではない。人間であるエリスメアは、父が帰るのをここで待つしかなかった。
「あ、あの父さま……。お気を付けて」
「任せておいて! すぐ戻ってくるから待っていて!」
 レオズスはにこやかに片手を振ると、空間の縁にまたがるようにして穴の中へ入っていった。レオズスがいなくなるやいなや、穴の周囲には細かな電光が幾筋も走り、そののち黒い穴は消えてなくなった。


(二)

 父が去り、エリスメアはひとり、丘陵地に立つ。
 青空の下、初夏の日差しが草原を美しい緑に彩る。鳥の声が聞こえる以外に音はなく、のどかな風景が広がっている。また丘陵地を囲むように、デュンサアルの山をはじめとしたイグィニデ山系が青々と連なっている。
 魔導王国ラミシスのあった島に行く。可能性としては考えていたが、まさか本当のことになろうとは。実感がわかない一方、不安と焦燥感は今も強く抱いている。。
 しかし今の彼女の胸に去来する思いはそれだけではなかった。神獣に騎乗するということ。それはエリスメアにとって、たいそう心躍るものとなった。神獣に乗った人間など、彼女の知るかぎりでは存在しないのだ。夜、東の空に輝くイゼルナーヴの星か、もしくは南天に煌めくエウゼンレームの星か。あの星の光が神獣となり、この地にやって来るというのだ。自分がこの世界の物語を綴る、その一端を担おうとしているとは! これもまた予想外であった。

(父さまが帰ってくるまで、しておくことは無いかしら?)
 出立するにあたって最低限必要な装備――食料等――は確保できている。用意は周到だ。さらに弦楽器(タール)弾きであるハーンはちゃっかりと、小型のマンドリンまで持ってきている。
「あとはこの写本……」
 エリスメアは自分の荷物の中から一冊の本を取り出した。ハーンと共に旅立つ前、アルトツァーン王立図書館の文献を書き写しておいたのだ。

『未踏の地ラミシス ~カストルウェンとレオウドゥールが行いし、魔導王国ラミシス遺跡の冒険行について――数多くの吟遊詩人の歌より~』

 エリスメアは腰を下ろすと本を開き、読みふけっていった。
(そうね。冒険に憧れて、自分にもこんな体験ができるかもしれないとなれば、それはわくわくするでしょうね。神獣に乗ろうとしている私の胸が今、こんなにも高まっているように……)
 書を読みつつエリスメアは、まだ見ぬ二人の――今は島を冒険しているであろうミスティンキル達の心境を自らに重ねていくのだった。
 そして時は過ぎていき――

◆◆◆◆

 ――バズン!
 不意に何かが大きく弾ける音がした。それまで読書に没頭していたエリスメアはびっくりして面を上げた。
 数フィーレ先、空間の一部に黒い穴が開き、細かな電光がしゅうしゅうと白い煙を上げてその周囲を覆っている。父が帰ってきたのだ。
「お帰りなさい!」
 エリスメアは漆黒の穴に向かって声をかけた。
「ただいま、エリス」
 闇の中からひょっこりとハーンが姿を現した。ほどなく、次元をつなぐ穴はすうっと空間に溶け込むように消滅した。
「なんとか話を付けたよ。一匹貸してくれるってさ。これから喚ぼう!」
 こともなげにハーンは言った。本当にイシールキアは自らの神獣を貸すことにやすやすと応じたのだろうか。それはハーンしか知らないことだ。ハーンはエリスメアの前に立った。
「……で、喚ぶんだけどさ、エリスにも力を貸してほしいんだ。魔力を――“色”をいくつか抽出してくれないか。小石程度の大きさでいい。数色を丸めて空中に浮かべてほしい。それと僕の魔力とを一体化させてレオズスの“印”を作る。それから喚び出しを始めるって算段さ」
「分かりました。では魔導で定石どおりの七色の魔力を出すわね。後は父さまに任せます」
「うん。頼んだよ」

 エリスメアは目を閉じ、大きく一呼吸し――
《ウォン!》
 魔導のはじまりのことばを発した。
 同時に彼女は目を開き、踊るように腕を動かす。――と、地面から、木々から、大気中から、魔力を帯びた“原初の色”が次々と顔をのぞかせる。エリスメアは指を細かく動かし、“原初の色”から魔力の糸を紡ぎ、裁ち切る。エリスメアはそれらを自分のもとまで引っ張り出すと、頭上に滞空させた。その色は白、黄、緑、紅、紫、黒、蒼。“原初の色”の一部たる七つの色だ。
 エリスメアは人差し指をくいと曲げる。すると七本の糸は次々に丸まり、それぞれ単色だが鮮やかな色彩を持つ球となった。
「お見事」
 ハーンの賞賛に対してエリスメアは笑みを浮かべ、小さく頷いた。

「じゃあこれからは僕の番だね。……むん!」
 気合い一声、ハーンは胸元で両手を組み合わせ、自分の中に宿る漆黒の魔力をわずかばかり引き出した。これも頭上のものと同じく小さな球となっている。彼は漆黒の球を手のひらに置くと目を閉じて軽く念じる。と、漆黒の球は七色の球を呼び寄せて次々に吸い込んでいった。
 次にハーンは、人間には発音不可能な神代の言語を発した。その言霊を受けて黒い球はパンと弾け、重層構造を持つ星形の紋章へと姿を変えた。これがレオズスの“印”だ。
 そうして彼は南天、エウゼンレームの星がある位置を向き、黒い紋章を右手で高く掲げた。
「エウゼンレーム! 汝が主、イシールキアの許しを受け、“宵闇の”レオズスが命ずる! 南方の守護者エウゼンレームよ、我が元に来たれ!」
 エリスメアにも通じるように、朗々としたことばをハーンは放った。瞬刻、薄い硝子の板が割れるような音を立ててレオズスの紋章は粉々に砕けた。それは一陣の風に舞い散って周囲の空気に溶け込む。と同時に、ハーン達の周囲は薄墨を水に溶かしたごとくに暗くなり、ぶうんと低く唸り始めた。やがてそれはどうん、どうんと打ち鳴らされるのが体感できるまでの重い音となって大気を震わせた。この領域は今や、召喚の儀式にふさわしい超常の様相を呈している。
 見上げれば、空にきらりと、青白く光るエウゼンレームの星が現れた。夜にならないと顔を見せないはずのその星は、地上の振動に呼応し、力強く脈打つように瞬きはじめた。
 ドン!
 唐突に、大気の振動がぴたりと止む。空間の色は元に戻り、静寂が周囲を支配する。すると南天の星は太陽のごとくさらに眩く輝き――光の軌跡をあとに残しながら天空を動き始めた。
 神獣エウゼンレームがレオズスの召喚に応じたのだ。

「来るよ! エリス!」
「ええ!」
 エウゼンレームが向きを変え、地上に向けて降下し始めた。
 自分達はとてつもないものを喚び出したのだ――! しかしハーンとエリスメアは怖じ気づかずに覚悟を決め、この光を注視した。尋常ならざるものが、途方もない速さでもってこちらに向かってきている。その勢い、まさに神速。
 二人がエウゼンレームの姿を空にかすかに捉えた次の瞬間――突如、轟音が巻き起こって大地が大きく揺さぶられた。ハーン達はとてもではないが立っていられず、その場にぺたりと座り込んだ。
 やがて地震が収まる。神獣が地面に衝突したのだと二人は知る。そして震源となったもの――光輝に覆われたものの姿を見る。
「……これが神獣……エウゼンレームか……」
 二人は神獣が降臨したという事実を認識した。ハーンにしてもはじめて間近で神獣を見たのだった。

 強烈な光が止む。もうもうと土煙が立ちこめるその中心地点に、果たして神獣は威風堂々と立ちそびえていた。
 馬ほどの躯体。純白の豊かな毛並み。豹のようにしなやかで力強い四肢を備えた、翼のない一角獣、エウゼンレーム。顔立ちは馬ではなく、鼻面のない龍のようにも見える。神々しい気配を発するこの存在は首を動かし、喚び主の所在を確認した。エウゼンレームとハーンの視線が交錯する。青い瞳を持つ神獣は、特徴的な細長い目をさらに細めた。

「エウゼンレーム。よく召致に応じてくれたね」
 ハーンは穏やかな口調で語りかける。そして両腕を大きく左右に開き、歓迎する意志を示した。エウゼンレームはすうっと頭を垂れ、恭順する姿勢を取った。ハーンはエウゼンレームの元まで行くと、気高い獣の角を二度三度なで上げた。
「……よし。僕が君を喚び出したレオズス。で、こちらの娘が僕の子、エリスメアだ」
 心の奥底まで見透かすような厳格な眼差しで、神獣はエリスメアを見据える。エリスメアは目を背けず、ぺこりと神獣にお辞儀をした。彼女の動作が堅いのは緊張しているからだろう。
「君にはこれから僕達二人を乗せて、南東の――魔導王国があった島へと飛んでいってほしい。いいね?」
 それを聞いてエウゼンレームは静かに四肢を落とした。自分の背中に乗れ、というのだ。ハーンとエリスメアは頷くと、神獣に騎乗した。
「……エリス、しっかりと彼の身体に掴まっていて。たぶん、想像できないほどとんでもない速さでかっ飛んでいくだろうからね!」
「はい!」
 エリスメアは顔をこわばらせたまま応えると、ぎゅっと神獣の背中にしがみついた。ハーンもエウゼンレームの首に手を回して身体を固定する。
「よし、行こう! エウゼンレーム!」
 ハーンはぽんぽんと、と神獣の首を叩いた。

 エウゼンレームはすっくと立ち上がり、猛然と丘を駆け上り始めた。この時点ですでに馬の速さを凌駕している。そして丘の頂に至るとエウゼンレームの四肢は力強く大地を蹴り上げ――天空向けて飛び上がったのだ。
 上空目指して、神獣はぐんぐんと速度を上げつつ走っている。集中していないと意識が後方に置いていかれそうな、とんでもない加速だ。このままではすぐにハーンの手にも負えなくなるだろう。
「エウゼンレーム! 人が乗ってるからね、あまり速くしないでいいよ。そうだな、ええと、ハヤブサ程度――あ、いや、それよりもっと遅くていい。そんな程度の速さを上限としてくれないか?」
 慌ててハーンはエウゼンレームに命じた。
 エウゼンレームは大気を蹴飛ばしながら、それでもなお勢いを緩めない。前方からの凄まじい風圧が、騎乗している二人に襲いかかる。が、それはすぐにエリスメアの風よけの術で防がれた。神獣も強烈な加速を止めている。奇妙な静寂に包まれ、エウゼンレームは空を駆るのだった。

 目指すは南東のオーヴ・ディンデ。とうの昔に滅びた魔導王国の中枢部。その、まだ見ぬ地へと二人は思いを馳せる。何事もなければ半日程度で辿り着くのではないか。ハーンもエリスメアもそう思っていた。

第八章 魔導塔 ヌヴェン・ギゼ

(一)

 さて、物語は再びミスティンキルら三者の冒険行に戻る。ミスティンキル達がメリュウラ島に上陸して七日が過ぎ、彼らはとうとう島の東部域に至った。
 この日、彼らはヌヴィエン川をさかのぼって森の中へと入っていき、大きな滝の側壁をよじ登った。大滝は、ウィムリーフによって“黒壁の瀑布”と名付けられた。よじ登った傾斜地が壁のように急で、降りかかる滝のしぶきによって岩が黒く濡れていたから、とウィムリーフはしたり顔で説明する。それを聞き、分かった分かったと苦笑するミスティンキルであった。
 各人とも相当苦労して登っただけあり、涼やかな川岸にいても身体の内側から汗がにじみ出てくる。アザスタンでさえ疲れの色が見える。手足を使って登坂するなど、およそ(ドゥール・サウベレーン)らしくない慣れない行動だろう。彼らは汗が引くまでの間、岩場に座り込んでしばしの間休むことにした。

 ごうごうと勢いよく音を立てて水が滝口から落下していく。視点を川の上流へと転じると、ほどなくヌヴィエン川のはじまりの地、美しく静謐(せいひつ)なヌヴィエン湖に至る。湖面は鏡のように、ほとりにある木々の緑と空の蒼とを映している。
 そして――白き魔導塔ヌヴェン・ギゼがそびえていた。石造りの塔の高さはおよそ半フィーレ。地上部の幅は半フィーレ弱だろうか。その外壁は四つの平面によって形成されているようだ。

 今度は南東方向へと目を向ける。その盆地はかつてのラミシス中枢域。そして中央部にはオーヴ・ディンデ城があったのだ。朱色(あけいろ)の龍、ヒュールリットが言うように、オーヴ・ディンデは今なお結界に閉ざされているのだろうか? この位置からは湖畔の木々が邪魔になって盆地の様子がまったく眺望できない。が、あのヌヴェン・ギゼの屋上からなら望むことができるだろう。

 盆地の向こう側には、今やロス・オム山の雄大な姿がいよいよ迫って見えた。ごつごつとした山肌や沢の様子までくっきりと見てとれる。山が火を噴くのを止めてすでに久しいが、中枢域の盆地が形成されたのは太古の火山活動によるものだ。
 この高地は盆地をぐるりと囲んでおり、ヌヴェン・ギゼのほかにも三つの塔がある。ここから東に位置するシュテル・ギゼ、南に位置するゴヴラット・ギゼ、そして盆地を挟んだ真向かい、南東の高地にあるロルン・ギゼである。ラミシスが在りし頃にはそれぞれの塔において魔導の研究が行われていたほか、中枢域を守護する役割も果たしていたとされる。これらの塔も、今いる位置からではまったく見えない。

◆◆◆◆

 ひとときの休憩を終えてとりあえずの活力を取り戻した一行は、湖のほとりに沿って残る石畳を道なりに歩む。次第にヌヴェン・ギゼへと近づいていく。塔はかつて王国が在ったときのままに、崩れることなくそそり立っているようだ。
 平滑な外壁の隅部には、上から下まで細い植物模様が二本絡まり合う彫刻が施されている。壁の中央上方と、左右の隅部上方には各々一カ所ずつ計三カ所、内部へ通じる小さな四角い穴が開けられている。穴はどれも、鳥が入れる程度の大きさしかない。弓矢を射るための狭間窓にしては使い勝手が悪すぎる。何か別の意図があって設けられたのだろう。もっとも、塔の所有者が不在となって久しい現在では鳥の巣となってしまっている。
 壁面には巨大かつ精緻な魔法図象が彫り込まれている。それは大きく幾何学的なモザイク模様が重なり合うようにして連続的に描かれていて、模様の中には判読できない古代文字が羅列してあった。

「みごとな壁画ねえ! これは絵に描いておかなきゃ」
 ミスティンキルとウィムリーフは横に並んで歩く。塔というラミシスの遺跡を目の前にしてウィムリーフは俄然やる気を出している。
「あたしにはあの壁画が何を表しているのか分からない。せめて文字が読めたらいいんだけど――。あーあ。博識な魔法使いがここにいればなあ。いろいろ教えてくれるでしょうに」
 ウィムリーフは残念そうに肩をすくめてみせた。
「おれが物知りな魔法使いじゃなくて悪かったな」
 ミスティンキルはウィムリーフを軽く小突いた。頭を押さえ、なによ、とウィムリーフが怒ったふりをする。
「まあとにかく。おれ達には大きな魔力がある。強く念じればいろいろな魔法だって産み出せる。でも、魔法の知識ってやつはからっきしだ。その辺の胡散臭いまじない師などと変わりゃしねえ。……なあ、アザスタン。龍のあんたならあの壁画のこと、なんか分かるんじゃねえのか? 伊達に長く生きてねえだろ?」
 ミスティンキルは首を後ろに向け、アザスタンに訊いてみた。
「愚かしいことを訊くな、新参の“炎の司”。龍が知るのは炎の(ことわり)。バイラルが研究していた魔法のことなど微塵も知らぬよ」
「なんだ、駄目か。しかたねえな」
 ミスティンキルは悪びれることなく、ただ肩をすくめた。
「しかしなあ。そんなにすごい魔法使いなんて今の世界にいるのやら――ん?!」
 まったく唐突に、ミスティンキルは奇妙な感覚に陥った。魔法に関して、自分が“何か”を失念している気がしたのだ。とても大事だったはずの“何か”を。だが頭をひねって思い出そうとしても、記憶に模糊(もこ)としたもやがかかったよう。けっきょく彼は諦めて、疑問を頭の片隅に追いやることにした。

 湖から塔に至る地面には、石造りの水路が一本まっすぐに形成されている。その傾き加減からすると、塔からの水を湖に流すつくりとなっているようだ。もっとも時を経た今となっては水路として機能しておらず、その形跡のみが残されているに過ぎない。
「さ、行ってみましょう。塔に着いたらいったん休憩するわ」
 意気揚々としたウィムリーフに促されて、一行は水路を辿って塔の下へと向かうのだった。

◆◆◆◆

 そうして彼らは塔の真下に辿り着いた。
「やれやれ。ようやくひと息つけるぜ!」
 ミスティンキルは荷物をどすんと下ろし、気持ちよさそうに大きく背伸びをした。それから靴を脱ぎ捨てると草原に仰向けになった。
「お疲れさまでした。はい、これ」
 ウィムリーフは荷物の中から携帯食を取り出してミスティンキルとアザスタンに渡した。風光明媚な湖の情景を見やりながら、一行は食事をとることにした。
「寝ながら食べないでよね」
 ウィムリーフはミスティンキルに釘を刺す。それを聞いてよっこいせと、ミスティンキルは起き上がった。

「……どこかに入り口があるはず。さっきも言ったけど、登ってみましょうよ。中枢部の景色を塔の上から見てみたいわ。結界のことも気になるしね」
 食事の最中、ウィムリーフが念を押すように塔の探索を提案した。
 ミスティンキルはカストルウェン王子達の(いさおし)を思い起こした。かつてカストルウェンとレオウドゥールは、この塔を含む四つの塔に巣くう(ゾアヴァンゲル)を退治したとされている。それならばカストルウェン達が用いた入り口や、竜達が入り込むだけの穴がどこかにあるはずだ。
「オーヴ・ディンデって、ここから遠くないんだろう? 先に進まなくていいのか?」
 ミスティンキルは尋ねた。
「今日はここで野営しようと思うのよ。ちょっとばかり早いけれどね。しっかり休んで、明日は早起きして出発して――いよいよ目的地に乗り込むのよ!」
 握った拳に気合いがみなぎる。ウィムリーフはたいそう嬉しそうだ。
「ありがとう。二人のおかげで、冒険はとうとう山場を迎えるわ……。そりゃあさ、最初の予定どおり空を飛んで行ければ御の字だったけれどね」
「違えねえな」
 ミスティンキルは笑う。おかげでずいぶんと苦難の道を歩んだものだ。
「まあそこは、冒険らしい冒険ができたと思って前向きになりましょう」
 そう。達成感もまたあった。今回の冒険行で得た経験は間違いなく、これから先の冒険に活かされるに違いない。オーヴ・ディンデに入れるかどうかに関わらず。
 ミスティンキルは大空を見つめる。見渡すかぎりの蒼が続く空。そして雄大な山、木々の緑と乳白色の塔があるこの風景に、一行の心は洗われる思いだった。


(二)

 それから半刻ほどの間、横になって仮眠を取ったのち、三人はいよいよ行動を開始した。ヌヴェン・ギゼの探索だ。

 正面の壁は継ぎ目が巧妙に隠されており、入り口らしきものは見当たらなかった。屋内と唯一繋がっているのは湖に至る水路だが、人が入り込める大きさではない。一行は塔の周りをぐるりと廻ってみることにした。
 最初の角を曲がると、離れたところに石造りの廃墟を発見した。窓から中の様子を覗いてみると、屋内はぼろぼろに朽ち果てているが、幾人かが居住できるつくりになっているのが分かった。塔と関わりを持つ人間達がここで生活していた証だ。
 道を戻り、また塔の入り口を探す。次の角を曲がって建物の背面部に出ると、壁面が大きく崩れているのを発見した。
「見て。あそこから入れそうね」
 ミスティンキルも頷いた。

 近づくにつれ、壁の崩落がかなり大きいことが分かった。巨大な生物の出入りも容易いだろう。
「竜の巣。ここがそうだったのね」
「するってえと、(いさおし)にあるカストルウェン達の竜退治。あの話は本当だってことか。……にしても、ここで竜とやりあったのかよ。魔法無しでよくやるぜ」
 一週間ほど前に竜と空中戦を演じたミスティンキル達は、あの獣の躯の大きさと頑強さがどれほどのものか身をもって知っている。ここにいた竜は巣を作るに際して、この堅牢な塔の壁に体当たりして突き崩したのだろう。
(今、また竜が巣くっていたら……)
 ミスティンキルの脳裏に一瞬不安が頭をよぎるが、すぐに思い直した。たとえ竜がいたとしても、今の自分達の敵ではない。すでに“竜殺し”の名を勝ち得た身なのだから。むしろ――
「塔の(ぬし)っていうのがもしいたとして、それが竜だったりしたら――塔の探索は諦めてオーヴ・ディンデへ向かうわ。力は温存しておきたいもの。力を使うとしたら、それはここじゃない」
 ウィムリーフが小声で言った。ミスティンキルも彼女と同じことを考えていた。
「そうだな、賛成だ」
「先ほどから内部の気配を探ってはみたが、竜の気配はわしには感じられんぞ」
 アザスタンの助言をウィムリーフは傾聴し、頷く。そして目を閉じて耳をそばだてた。彼女は“翼の民”アイバーフィン。風を操るがゆえに耳ざといのだ。そして彼女の聴力は、竜のような巨大な生き物の息づかいを感知しなかった。
 まだ油断はならない。ウィムリーフはそうっと頭を突き出して中の様子をうかがう。窓らしい窓はない上に、(当然ではあるが)明かりは灯っていない。そのため内部は暗く虚ろな空間が広がっている。静寂のみがそこにはあり、竜が生息しているという気配は微塵も感じられない。竜達はずっと前から――もしかするとカストルウェン達が討伐してからこのかた、この地域にはいないのかもしれない。
 ウィムリーフは振り返った。
「大丈夫。入るわ」
 ミスティンキルとアザスタンは同意する。三人はがれきを上り、塔内部へと入っていくのだった。

◆◆◆◆

 入り口付近からはわずかに光が差し込んでいることもあって、石造りの床のところどころに雑草が茂っているのが見える。先頭のウィムリーフが飛び降りて軽やかに着地する。ばさばさ、かさかさと、暗がりの中でかすかな気配が動き回ったかと思うと、またしんと静まりかえった。
 三人は顔を見合わせる。獣特有の匂いが漂っているので、塔の内部はなにかしらの小動物のすみかとなっているのだろう。この程度なら問題ないと判断して、ミスティンキルとアザスタンが塔の内部に侵入する。大柄な彼らは音を立てて着地した。かさかさという気配こそするものの、その主は姿を現そうとはしない。
「……明かりを付けましょう。ミスト、魔法の明かりをお願いできる? たいまつ程度の明るさでいいわ」
 ウィムリーフが小声で言った。
「……いいのか? でっかい化け物が壁にベターっと張り付いてたりしてな」
「ちょっと、嫌なこと言わないでよ!」
「あと、天井にこうもりがずらーっと――」
「やめなさい!」
 ミスティンキルの軽口にウィムリーフは顔をしかめた。ミスティンキルはへへっと笑って人差し指を掲げると、指先に炎を灯した。魔力によるその火の玉を頭上あたりまで上昇させる。すると、おぼろげながら内部の様子が見てとれるようになった。

 一行はぐるりと周囲を眺める。塔外部は意匠を凝らしたつくりとなっていたが、その内部は打って変わって簡素なつくりとなっている。四方の平滑な壁面がそのまま頂上へと伸びている。階層の区別はなく、また壁の仕切りもいっさいなかった。言うなれば空っぽの構造だ。
 ただし、外へ流れる水路付近を見ると、硝子の欠片のようなものが大量に散らばっている。塔の上部から下部にかけて、かつては何かしらの構造物があったという痕跡だろう。竜が巣穴で暴れた際に構造物を壊してしまったのかもしれない。残念なことに今のこの状態は、塔本来の姿ではないのだ。
 ミスティンキルは炎をゆっくりと上方へ昇らせてみる。こうもりか、はたまた鳥類か、時折翼を持つ生物が映し出される。彼らに敵意はないようだ。
「ミスト、あれ!」
 不意にウィムリーフはミスティンキルの袖をつかみ、上方を指さした。何かがきらりと光ったのだ。ミスティンキルは炎を明るくして、さらに真上へと昇らせる。そうして塔の天井あたりまで至ると――
 “それ”が天井の四隅から伸びた鎖で宙づりになっているのを見た。青みがかったその立方体。“それ”はまるで――

「“封印核”?!」
 信じられない、とばかりにウィムリーフは両手で口をふさいだ。その立方体はわずかながら魔力を内包しており、なにより月の世界で目の当たりにした“封印核”を想起させるものだったのだから。天井に吊されている立方体――“魔導核”は、この魔導塔の構造において、(かなめ)となるものだと推測できた。
「……でも、月のやつとは違うか……?」
 ミスティンキルは訝しんだ。月の“封印核”はこの世ならざる物質で構成されていたし、もっと大型だった。なにより“封印核”にはシャボン玉を象った膨大な魔力が凝縮されていた上、“彼”がいた。“大魔導師ユクツェルノイレ”が――

 刹那、ミスティンキルは鮮明に思いだした。月の世界で魔導を解放する際、かの大魔導師が語ったことを。
「そうだ! ユクツェルノイレ!」
 思わず彼は大声を上げた。

◆◆◆◆

――「アリューザ・ガルドでウェインディルを見いだせ。彼らの住まいはあえて私からは言わない。……魔導に関しては彼だけが大いなる導き手となるだろう……」――

 ユクツェルノイレの言葉は、ミスティンキルとウィムリーフ、魔導を復活させた二人にとって運命的であり、極めて重要な忠告だった。編纂していたさきの冒険記にも彼の言葉を記そうと、もともと二人して決めていたはず。なのだが――
 なぜ自分達は、ユクツェルノイレのこの言葉だけをすっかり忘れてしまっていたのだろうか?
 なぜウィムリーフは冒険記の総仕上げを後回しにしてまで、半ば強引に今回の冒険を始めたのだろうか?
 自分達は冒険よりもまず真っ先に、ウェインディルという人物を探さなければならなかったのではないか?
「……なあウィム、ちょっと」
 問いただそうと、ミスティンキルは真剣な面持ちでウィムリーフを見据えた。対して、ウィムリーフは上方を見つめ、だんまりを決め込んでいる。ミスティンキルとは視線を合わそうとしない。まるで青い“魔力核”に魅入られてるかのようだ。
 ミスティンキルは構わず言葉を続けた。
「おれ、思い出したんだがな。ユクツェルノイレの言葉だ。ほら、月の世界にいた大魔導師の。あの人が言ってたこと、覚えてるだろう? ウェインディルを見つけなきゃならなかったんじゃないのか。おれ達は」
 変わらず、ウィムリーフは無反応。ミスティンキルは顔をしかめる。
「……もうこんなところまで来ちまったからな、今さらどうこうしてもしかたねえがよ。……なあ、ウィムよう、ウェインディルを探そうぜ。この島の冒険が終わったら」
 いくら語りかけてもウィムリーフは微動だにしない。
「なんでおれ、今まで忘れてたんだろう? でもウィム。お前は覚――」
「ウェインディル……」
 彼女はぽつりと呟いた。
「……ウェインディル……?」
 同じ言葉をか細く繰り返す。
(ウィム? どうしちまったんだ?)
 怪訝に思いつつミスティンキルは言葉を続けた。
「おい、なあ。聞いてんのか? いい加減こっち向けよ。お前だって覚えているだろう? おれ達が月の世界で――」
 その時ようやく、ウィムリーフがミスティンキルのほうへ向き直った。

 瞬時にミスティンキルは総毛立った。ウィムリーフの気配にただならない異質さと畏れを覚えたのだ。それは昨日の夕方感じたものと同質だ。自身を包み込んだ青い光を嫌ってふさぎ込んだあとのウィムリーフの様子と。
「覚えている……? 忘れていた……? ユクツェルノイレ……」
 不明瞭な返事。ウィムリーフの目つきはうつろだ。彼女の瞳はミスティンキルではなく、何か別のものを見ているように思える。
「いいえ、――ここに来なければならなかった――」
 ウィムリーフは再度、天井を見つめる。まったく会話がかみ合わない。奇行に走ることによって彼女は自分をはぐらかそうとしているのか?
(あり得ねえよ。だってウィムリーフだぜ)
 ミスティンキルは否定した。聡明なウィムリーフはそんなことなどしない。大事にあたってはウィムリーフはいつだって真摯な態度でミスティンキルに接してきた。いつの頃からか彼自身定かではないが、ミスティンキルは彼女に対し全幅の信頼を置くようになっている。
(あり得ねえんだが……今のウィムは一体どうなっちまってんだ? 気が触れちまったのか?)
 困惑しつつもミスティンキルは再び上を見た。するとどうしたことか、“魔力核”がほのかに青く明滅しはじめたのだ!


(三)

「おお……?!」
 ミスティンキルは驚きの声を上げた。さらに時を同じくして――ウィムリーフの全身がまたしても青い光に包まれていく!
「……!」
 ミスティンキルは言葉を失う。取り乱したりしないよう、必死に自分を抑える。
(なんだ?! これ以上、一体なにが起きようとしてるんだ?!)
 ウィムリーフの発する淡い光によって、周囲が青く照らし出される。彼女はまるで自身の異変に気付いていないかのごとく表情を変えず、天井の“魔力核”を見つめている。微動だにしない。ただ、口元だけがかすかに動いている。何かを囁くかのように。
 ミスティンキルはアザスタンを一瞥した。押し黙ったままの彼だが、いつもの平静さにはやや欠けている節がある。
「お、おい、ウィム!」
 ともかく彼女を正気に戻そう。強硬手段だ。ミスティンキルはウィムリーフの両肩をがっしりとつかんだ。細いがしっかりした肩を。
【己を戻せ! ウィムリーフ!】
 その時、アザスタンが龍の言葉を強く発した。龍の発する言葉――その魔力たるや、人のそれとは比べものにならないほどに強い。ウィムリーフの身体が微動し――今度こそ彼女の瞳に意識が戻った。

「あ……れ? どうしたんだろう? あ……あたしまた光ってる……!」
 ウィムリーフは自分の身体を見やって戸惑いの声を上げた。
「大丈夫なのか?! ウィム」
 ミスティンキルは肩を抱いたまま問いかける。赤い瞳と群青の瞳――その視線が重なり合う。ややあって、ウィムリーフはこくりと頷いた。
「大丈夫よ……」
 そう言った彼女は間違いなく、ミスティンキルの知っているウィムリーフだった。そして彼女はそっと、ミスティンキルの手に自分の手を重ねてきた。その柔らかく暖かい感触。ミスティンキルはとりあえず安堵した。
「今さら……思い出したわ。馬鹿だ……」
 うつむき加減に、ウィムリーフが自嘲する。
「思い出した?」
 ミスティンキルが訊く。
「ユクツェルノイレが言った言葉よ……。本当、今さらよね。なんてあたしは馬鹿なんだろう……!」
 俯いたままウィムリーフは声を震わせる。入り交じった負の感情をなんとか押し殺そうとしているのがミスティンキルには分かった。
「ウェインディルを探すって強く決めてたのよね。あたし達二人で。だからあたしは絶対に忘れるはずなかった。……けれど……なんでだろう……? なんで忘れちゃってたんだろう……? もう、わけが分からない!」
 ウィムリーフの感情が堰を切ってあふれ出た。こうなっては彼女自身でもどうしようもなく、ただ嗚咽を繰り返す。
「それにまた……ほら。魔力がこうして出てきちゃってるし。ねえミスト。あたし、どうにかなっちゃってるのかな? 毎日毎日、あたしの身体が青く光るなんて……それがだんだん早くなってるなんて……!」
 ウィムリーフは顔を上げてミスティンキルを見た。涙で顔がぐしゃぐしゃになりながらもウィムリーフは苦笑いを浮かべる。彼女のこんな弱く痛々しい姿を見るのは、ミスティンキルにとってはじめてだ。彼自身も動揺を隠せない。それでも彼は震える手を伸ばし、ひどく苛まれている恋人をぎゅっと抱きしめた。
「馬鹿。そんなわけあるか。この島にラミシスの魔法が残ってるから、それに反応してるだけだ。島から出れば元に戻る」
 彼の言葉は当てずっぽうのでまかせでしかない。だがそれでも、ミスティンキルはウィムリーフを安心させたかったのだ。
「ミスト、ありがとう。ごめんね……」
 ウィムリーフは指でそっと涙を拭った。ミスティンキルは彼女の頭を二度、三度と優しく撫でる。彼女の暖かさ、柔らかさを感じていると、自分の動揺はすうっと消えていった。

 しばらく経って、ウィムリーフはミスティンキルの腕の中から離れた。ウィムリーフは涙を拭い、呼吸を整える。凛とした表情。それはいつもの、賢く落ち着き払ったウィムリーフだ。
「ウィム……」
 ミスティンキルは笑みを浮かべ、恥ずかしそうにミスティンキルとアザスタンを見た。
「取り乱してごめん。とにかく今は、この冒険に集中しましょう。メリュウラ島からデュンサアルへ帰ったら、二つの冒険記をまとめて完成させるわ。……そうしたらあたし達、新しい旅をはじめましょうよ。ウェインディルを探す旅を」
 ウィムリーフは気丈に言ってみせた。
「さ、行きましょう。そこの壁づたいに階段があるわ。あれを上っていけば屋上に出られそうよ」
 見るとウィムリーフの言うとおり、四方の壁の一つに階段が設けられ、つづら折りになって天井まで伸びている。彼らはそちらに向かった。

◆◆◆◆

 ウィムリーフを先頭に三人は一列縦隊になり、壁面に設けられた狭い階段を慎重に上っていった。強固にしつらえてあるように見受けられるものの、塔が建造されてから八百年もの年月を経ている。階段が朽ちていないか、足元を一歩一歩確かめながら上を目指す。
 そうして天井まであとひと息、青く明滅する“魔力核”に並ぶ高さまでようやく上がってきた。
 塔の壁面には外へ繋がる小さな穴が三カ所だけ開けられており、鳥が巣を作っていた。先ほど外を見渡して塔を確認したときと同様だ。三人は鳥達を刺激しないように階段を上っていく。
 一方、天井から鎖で吊られている奇っ怪な立方体は、硝子かなにかでできているようだ。核の内部にはなにかしらの魔力が存在している。詳細は分からないが、それがよくないものであるとミスティンキルは直感した。

「――夢を見ていたのよ。ずっと」
 先頭を行くウィムリーフが独り言のように語り出した。
「デュンサアルの宿で、あたし達がやってのけた冒険を書き綴ってるときにね、もう次の冒険のことを考えちゃうのよ。せっかく東方大陸(ユードフェンリル)の南端まで来たんだから、ラミシスの遺跡に行ってみたい。そう思うようになってから、なんていうのかな……奇妙な夢を見はじめたのよ」
 こつ、こつ、と階段を上りながらウィムリーフは言葉を続ける。
「……あれは夕暮れ時。どこか知らない宮殿の中にあたしひとりがいるの。そしてたったひとりで歩いて行くのよ。どこの宮殿なんだろう。大陸にはないような様式で、とても綺麗だったわ。しばらく歩いていると誰かに呼ばれた気がして――ふと気付くと、いつからかあたしは長い螺旋階段を降り続けているの。で、あたしの少し前には人の影のようなものが歩いているの。あたしは影の後を追うように階段を降りていくのよ。それからあたしは――」
 そこでウィムリーフは言い淀んだ。
「――。そんな夢を何度も何度も続けて見てるうちに、夢の場所はオーヴ・ディンデ城で、オーヴ・ディンデがあたしを呼んでるんじゃないかって。……夢の中の出来事だからうまく言えないけれど、運命的なものを直感したわ」
 ウィムリーフは立ち止まり、振り返った。彼女を覆う青と“魔力核”が放つ青。二つの色合いはいかな偶然によるものか、酷似していた。瞬く周期すらも同調しているように見える。
「そう、ここに来なければならなかった」
 先ほどと同じ言葉を――しかし毅然と――ウィムリーフは言ったのだ。
「ウィム?」
 ミスティンキルには彼女が何を言わんとしているのか分からない。彼は返す言葉が見つからずに戸惑った。そんなさまが可笑しいのか、ウィムリーフは妖しげにくすりと笑った。
「さあ、行きましょう」
 そう言って彼女は階段を再び上っていく。訝りながら後の二人もついて行く。

 こうして階段を上り詰め、ウィムリーフはとうとう天井部に至った。目の前には石造りの厚そうな扉がある。これを開ければ塔の頂上に出られる。
「よっ……やっと!」
 気合い一声、ウィムリーフは重厚な扉を真下から押し上げた。外から差し込むまばゆいばかりの光が、彼らの目を眩ませた。
「重そうな扉だな。手を貸すぜ」
 彼らを覆っているぎくしゃくした雰囲気を吹き飛ばそうと、ミスティンキルは声をかけた。
「平気!」
 ウィムリーフは即答し、歯を食いしばって腕に力を加える。どすんと重い音を立てて扉が開放された。
「ふうっ……出るわよ!」
 ウィムリーフに続き、ミスティンキルも光の中へ――ヌヴェン・ギゼの屋上へと躍り出ていくのだった。

◆◆◆◆

 そうして三人は屋上に立つ。地上から半フィーレの高みにいて、周囲の全てを見渡すことができるのだ。淀んだ空気と陰鬱な闇が支配する中から出てきたので、高地の空気がとても心地よい。

 彼らがまず確認したかったのは、オーヴ・ディンデの現況だ。カストルウェンとレオウドゥール両王子が、そしてエシアルル王ファルダインと朱色のヒュールリットすらも、オーヴ・ディンデに辿り着けなかった。強力な結界は、いまだに存在しているというのだろうか?
 三人は円状に広がる盆地を遠望した。空気が澄んでいるために盆地の全容が眺望できる。戦火を逃れたラミシス王国時代の建造物がそこかしこに残っているのが分かる。あの地域こそがかつてのラミシス王国の中枢部。そして中央には王城たるオーヴ・ディンデがあったのだ。が――
「やっぱり……」
「見えねえ……か……」
 ウィムリーフもミスティンキルも言葉を失う。
「結界……」
 アザスタンが忌々しそうに言った。
 盆地の中央部――オーヴ・ディンデ周辺の領域が不自然にぼやけて見通せない。半球状を象ったそれこそが結界だ。オーヴ・ディンデは今なお、結界の向こう側にあるのだ。三人が受けた呪いといい、先ほどの青い“魔力核”といい、この島にはいまだに何かしらの魔法が残存している――あるいは発動されたのか――?

「ウィム……。見てのとおりだが、それでもお前は行くっていうのか?」
「行くわ! もちろんよ! 何言ってんのよ!」
 こともあろうかウィムリーフは激昂し、ミスティンキルに噛みついてきたのだ。
「結界なんて解いてみせる! あたしはあそこに行くためにこの冒険を始めたのよ! 万策尽きるまでやってみせる! このままおめおめと帰るなんてわけにはいかないのよ!」
 彼女は、らしくもなく吠え、ミスティンキルを睨んだ。面を食らったミスティンキルは、もはやだんまりを決め込むしかない。さらにウィムリーフは、鋭い眼差しで結界を凝視した。彼女の醸し出す執念たるや尋常ではなく、アザスタンまで圧倒されてしまっている。

 しばらくの間、ウィムリーフは結界を睨み付けていたが、やがて目を閉じると大きく一呼吸した。冷静さを取り戻したのだろう。彼女の顔つきが穏やかなものになる。
「……降りましょう。これで探索は終わり。あとはゆっくり休みましょう」
 ウィムリーフは二人に、まるで憑き物が落ちたような晴れやかな様子で言う。そうしてくるりときびすを返し、階段をこつこつと降りていくのだった。

 腑に落ちないのは屋上に残されたミスティンキルとアザスタンだ。ウィムリーフはどうしてしまったのか。
「なんなんだよ。あいつは。気が触れちまったのか? 本気で心配になってくるぞ。アザスタンはどう思う?」
 ミスティンキルは口をとがらせた。
「……先ほどのウィムリーフだが、自我をほぼ喪失していたぞ」
 アザスタンは言う。
「自我を喪失?」
 と、ミスティンキルは聞き返す。
「ウィムリーフが青に包まれた前後のことだ。“魔力核”を見上げて認識したときとも言うが……あの娘はおかしかった。今までに無い、異様な気配を感じた」
「ああ……」
 ミスティンキルは頷いた。彼女が記憶を失ったというだけならまだいい。虚ろになったり激昂したりと、こうも様子を豹変させるとは、ミスティンキルの知っているウィムリーフらしからぬことだ。彼女に何が起きているのか。
「そりゃあその、疲れてたんだろう。こんなきつい冒険をしてきたんだ。おれだってフラフラだからな」
 ミスティンキルは言い繕う。それがでたらめで、自分を安易に安心させたいがための言葉だと分かりつつ。
「否。そのような表層的な要因ではないだろう。体力も精神も、あの娘は強靱だ。おぬしも知っておろうに」
 龍はすぐさま看破した。
「じゃあ……」
「なあミスティンキルよ。あれは――今し方わしらが見ていたウィムリーフは、本当にウィムリーフだったのか……? 彼女自身が分かったうえでの言動なのか?」
 ミスティンキルの言葉を遮り、アザスタンは真摯に問うた。しばし、ミスティンキルは押し黙った。取り繕っていても仕方がない。龍のアザスタンは嘘などすぐに見抜いてしまう。ならばとミスティンキルは、自分なりの推論を吐露した。
「……誰かがウィムリーフを操っていたとでもいうのか?」
「あるいは。それもあり得る」
 アザスタンの言葉にミスティンキルはぐさりと心をえぐられた。
「……なんのためにだよ?」
 ぶっきらぼうなミスティンキルの問いに対して、アザスタンは目を細めた。ややあって彼は答えた。
「……魔導王国の、復活」

 それを聞いてミスティンキルは目を見開いた。
「はあ?! よりによって……馬鹿馬鹿しい! そんなこと――」
「可能性としては捨て置けぬぞ。この地に来てこうも魔法が発動しているのはなぜか? 偶然か?」
 ミスティンキルは二の句が継げなくなった。どくどくと、鼓動が早まっているのが分かる。動揺しているのだ。
「どう思う?」
 龍は容赦なく、ミスティンキルの返答を求める。
「……魔導を継承したおれ達がこの島に来たことで、今まで眠っていたラミシスの魔法を起こしちまったのかもしれない……ウィムにばかり変なことが降りかかるのは分からねえけどな」
「ラミシスの中枢域、そしてオーヴ・ディンデ。かの地になにがしかの答えがあるのだろう。進むほかはない。罠かもしれないと知りつつもな」
「……ウィムのやつがなんかの鍵になっていると?」
「今までの状況を踏まえると、そう考えるべきだろう。ともあれオーヴ・ディンデまでの道のり、わしらはより注意せねばならない。魔法の発動にも、ウィムリーフの異変にも」
 アザスタンはそう言うと階段を降りていった。
「それでもだ。……おれは、あいつを、信じてる」
 ミスティンキルはひとりごちた。彼女の身に何か起ころうとしているのならば、自分が助けないとならない。その意志を固めた。


(四)

 いろいろなことが起こった塔から降りて、三人は水路のある正面へと戻った。ヌヴェン・ギゼに辿り着いて最初に休憩を取った場所だ。その安らいだ雰囲気は先ほどと寸分も変わらない。すっかり変わってしまったのは三人のほうだ。
 ミスティンキルは草原にごろりと仰向けに寝転がった。これ以上動きたくないと言わんばかりだ。肉体的にというよりも、精神的にかなり堪えた。アザスタンも木陰で座り込んでいる。一方――
「お疲れさま。あたしはこれから壁の模様を描くけど、ミスト達はもう休んでもらってかまわないわ」
 ウィムリーフは柔らかな口調で言った。先ほどの変容など無かったとすら錯覚するまでに。
「これからって、お前」
 ミスティンキルは気怠そうに上半身を起こした。
「うん?」
 ウィムリーフは画材を手に取ると、ミスティンキルに聞き返す。
「おれのことはいい。お前こそ休まなきゃいけねえよ……あー、そんな身体なわけだし」
 ウィムリーフの身体は今なお青い光に包まれている。
「こんな身体? そうね。光ってるけど……あたし自身、とくにどうといった異常はないみたいだし、気に病んでもないから安心して」
 ウィムリーフは笑ってみせようとしたが、一転、表情を曇らせた。
「本当……さっきはミストにもアザスタンにもいろいろ迷惑かけちゃったわね。あたし、どうにかしてた。冷静じゃなかったわ。ごめんなさい」
 ウィムリーフは二人に対してそれぞれ頭を深く下げた。
「いや、いいって。顔あげろって」
 ミスティンキルは優しく言う。異変のことはさておき、なるべく普段どおり彼女と接しようと意識する。
「正直に言っちまうと、やっぱりお前のこと心配なんだよ、おれは。いくらなんでも頑張りすぎじゃねえのか。疲れてんならそうだって、はっきり言ってくれ! あんまり根詰めるなよ!」
 ウィムリーフはゆっくりと顔を上げ、ミスティンキルに微笑んでみせた。
「へえ? 優しいんだ、ミスト。……気遣ってくれてありがとう。まあ、そりゃあ疲れてるわよ。でも描くのは楽しいから平気。あとはしっかり食べて、夜ぐっすり寝れば回復するわ」
 二人のやりとりはいつもの雰囲気に戻っているようにみえる。
「――この魔導塔のこと、もっと記録しておきたいのよ。これは冒険家としての使命ね。絵を描ききったら今日はもう動かないから、安心して」
「そうだな――」

(おい)
 承知しかねたアザスタンがミスティンキルに念を飛ばしてきた。
(おぬし、それで納得できるのか。言葉面だけで)
(それなりには……)
(言い淀むとはおぬしらしくない。納得できないのならば問いただせ。先ほどのわしの言葉が引っかかっているのだろう?)
 アザスタンの念には圧力がこもっている。
(ああもう、分かった!)
 ミスティンキルは念を打ち払うと、あらためてウィムリーフに語りかけた。
「ウィム。そのう……」
 ウィムリーフを傷つけないようにとミスティンキルは言葉を選びながら、どうにかしゃべろうとする。今の二人を取り巻く、心地よい雰囲気を壊したくない思いもある。
「なんていうかな、ええと、そうだ。さっきウィム、夢を見てたって言ってたじゃねえか」
「……? うん」
「お前、魔法をかけられてるとか、ないか? 夢を見ていて暗示にかかるとか、そういう話を聞いたことあるぜ」
 ウィムリーフは信じられないとばかりに、びっくりした表情を浮かべた。
「ええい。……おれも物を上手く言えないからな。たとえばだ。ラミシスの亡霊やなにかに操られてるふしはないか? それがお前をオーヴ・ディンデに誘い込もうとしているとか……」
 それを聞いてウィムリーフは吹き出した。
「あたしはあたし。きちっと自分を保ってるわ。操られてなんかない。大丈夫よ。――でもごめんね。そこまで気にかけてくれて」
 ウィムリーフはかがみ込み、目線の高さをミスティンキルと同じくすると、神妙に頭を下げた。
「ああ、わかったわかった! いやな、お前が自分のことをちゃんと分かってるっていうなら問題ねえんだ」
 ミスティンキルは咳払いをした。
「よし……分かったよ。じゃあおれはちょっと休むから、野営の支度をする前に起こしてくれねえか? それまで絵を描いてていいぜ。それに、飯食ったらちゃんと休めよ。今夜の見張り、ウィムの分はおれがやっておくから」
「そうするわ、ありがとう。それじゃあ、お日様が隠れる前に起こしてあげる」
「おう、頼んだぜ。んじゃあ失礼して、お休み」
「――待て、ウィムリーフ」
 そこにしびれを切らしたアザスタンが割って入った。

 アザスタンはやおら立ち上がる。ウィムリーフは察したかのようにすぐさまアザスタンのいる場所まで歩き、彼と真っ正面から対峙した。龍頭の戦士は黙したまま、ウィムリーフの群青色の瞳を見ている。
「おい、アザスタン」
 ミスティンキルは起き上がり、やや語気を荒げてアザスタンを睨む。アザスタンは今ここで何をしようというのか。
「大丈夫」
 ウィムリーフはアザスタンを見たまま、左手を差し出してミスティンキルを制止する。
「……ことを荒立てんなよな、アザスタン」
 舌打ちをして、渋々ミスティンキルは了解した。
 しばらくの間、アザスタンとウィムリーフは向かい合う。双方とも身動き一つとろうとしない。

【龍の瞳を真正面から捉えるとは、さすがだな、ウィムリーフ】
 アザスタンが龍の言葉で語りかける。そしてちらと、ミスティンキルを一瞥した。それから視線をウィムリーフに戻す。
 群青の瞳と白い瞳――鋭く視線が交差する。しばらく、周囲を沈黙が支配する。
【……ふむ。まあいい。絵を描くというのなら好きにするがいい】
 やや時を経てアザスタンが言った。彼はどすんと座り込むと再びだんまりを決めた。何事もなかったかのように。
 ウィムリーフはほうっと大きく息をつくと、ミスティンキルのそばまで戻ってきた。

「ウィム、何をされた?」
「アザスタンはあたしのことを試したわ。『お前は何者か』とか『ラミシスを復活させようとしてはおるまいな』とかね」
 ウィムリーフは苦笑する。
「野郎――!」
 ミスティンキルは憤慨し、アザスタンを睨み付けた。当のアザスタンはうつむいて目を閉ざしたまま、なんの反応も示さない。
「なんてこと言いやがる!」
「待って! そりゃあね、そんなこと訊いてくるなんて今まであり得なかったけど、アザスタンが不審がる気持ちも分かる。ミストだって変だと思ったでしょう?」
 ミスティンキルは押し黙り、目を伏せた。
「アザスタンには『あたしのことを信じてほしい』って、必死に心の中で訴えた。――龍の瞳を見ながら向き合うのは怖かったけど、アザスタンは分かってくれたわ。あたしはあたしだってことをね!」
 ウィムリーフは目くばせをした。それだけで、ミスティンキルのすさんだ心が癒されていく。
「ほら、疲れてるんでしょう? 休んでしまいなさいな。時間が来たら起こしてあげるから」
 ウィムリーフの言うとおり、ミスティンキルは身体を横たえた。ウィムリーフは横にしゃがみ込むと、ミスティンキルの頭を優しく撫でる。
 ミスティンキルは、自身のいきり立った気持ちが安らいでいくのを感じていた。ウィムリーフの存在は彼にとって何物にも代えがたい大切なものだと、こうしているとあらためて思い知る。
「ウィム。お前も無茶はするな。おれ達にできることがあるなら言ってくれ」
「あたしはただ絵を描くだけよ」
 彼女は笑おうとして、一転、表情を曇らせた。
「そうね。あたしがまたぼうっとして……おかしなことをやらかしたら、あんたが抑えてね。……ごめん。さっきから『大丈夫』なんて言ってるけど、やっぱりそのうち半分は不安だわ」
「不安か。……だろうな。おれがお前の立場だとしてもそう思う」
 ウィムリーフは黙って聞き入る。
「そして、お前が妙なことをしようとしたら全力で止める。任せろ」
 ミスティンキルはそう言って手を上に伸ばし、ウィムリーフの頭を撫でた。
「力強いお言葉、ありがとう。お願いね。……ふふっ、人の立場になって考えるなんて、ずいぶん人ができてきたじゃない、ミストも」
 ウィムリーフは目を細めた。魔導を継承し、さらに“炎の司”の地位を得て、ミスティンキルは成長した。だが一番彼に影響を与えたのは――
「そりゃあ、誰かさんのおかげだろうよ」
 ミスティンキルの手はウィムリーフの手を捉え、両者の指が絡み合う。
「ね、あたしに安心をちょうだい、ミスト」
「ああ……」
 そう言うと二人はしばし見つめ合い、軽く口づけを交わした。

 太陽は西へと傾きつつある。草の匂いと涼やかな風を感じながら、ミスティンキルはウィムリーフの顔をぼんやりと見つめる。しかしほどなくして、まぶたが重くなってくる。
「……眠くなってきた。ちょっと寝るわ」
 ここでは静かな時間がゆっくりと流れていくようだ。ヌヴェン・ギゼについて、そしてウィムリーフについて気がかりな点はある。しかし今はさておこう。眠りに就いてしまおう。ミスティンキルは安らぎに包まれながら、睡魔に身をゆだねていくのだった。
「はい、お休み。またね」
 ウィムリーフは立ち上がると、それきり黙り込んだ。


(五)

 ――目覚めは突然だった。

 ミスティンキルは身体を激しく揺り動かされながら起こされた。彼を起こしたのはしかし、ウィムリーフではない。アザスタンだ。
 時は移り、今や夕暮れ時のようだが、日が山裾に隠れるには少しばかり時間が早い。
「アザスタン……? どうした?」
 なかば気分を害しつつ、ミスティンキルは訊いた。
「起きろ。いよいよ由々しき事態になるやもしれぬ」
 アザスタンの様子を見るに、なにやら尋常な様子ではない。彼がこのように動揺するさまなど見たことがない。なにか嫌な予感がする。ミスティンキルは些末な感情をぬぐい去り、アザスタンの顔を見上げた。
「聞け。ウィムリーフが飛んでいった。オーヴ・ディンデに向けてまっしぐらだ」
「飛んでいっただと?!」
 眠気など一瞬で吹き飛んだ。がばりとミスティンキルは飛び起きた。

第九章 事態急変す

(一)

 ウィムリーフが飛び去った。
 ミスティンキルにとってアザスタンの言葉は衝撃的で、まったく信じがたいものだった。ここ、魔境の島の冒険行を強く望んだのはウィムリーフだ。そして冒険においては冷静沈着に判断を行い、二人をここまで導いてきた。その彼女が単身先走るなど――あまりに身勝手で軽はずみとしか言いようがない。なにより、理不尽だ。
 その一方で、青い光を帯びたウィムリーフの姿が脳裏に浮かんで離れない。果たしてウィムリーフはいつから、ウィムリーフのものではない気配を醸すようになったのだろうか?
「飛んでったって、いや、まさかな」
 はは、とミスティンキルはしらけた笑いを浮かべて虚勢を張る。
「だってよ。おれを起こすって、あいつはさっき言ってたぞ。……ほら。あいつの荷物はここにあるんだぜ?」
 ウィムリーフが背負っていた荷物袋をぽんと叩く。荷物を置いたまま出発するなどあり得ない。これは彼にとっての安心材料だ。
 その時ふと、ミスティンキルは異様な“なにか”をかいま見た気がして、そちらを見やり――唖然とした。

 なんと、魔導塔がまたしても変貌を遂げていたのだ。
 今度は塔内部ではなく、外部の異変だ。ヌヴェン・ギゼの平滑な外壁に描かれている魔法図象が一面、(ほの)かに発光している。その色は青。塔内部に吊されている謎めいた“魔力核”の青と、なによりもウィムリーフが内包する魔力の青とも同色だ。

「塔にいるのか? あいつは」
 きっとそうに違いない。ミスティンキルは安易に決めてかかろうとした。
 ――否。
 ウィムリーフは、この塔の仕掛けを作動させてしまったのだろう。塔が本来果たすべき役割を調査して冒険誌に記すために。
 ――それもまた、否。
「しかたねえ。見てくるか」
 ミスティンキルは相反する思考を巡らせたまま、塔の入り口を目指して駆け出そうとした。
 だが。
「ミスティンキルよ。ウィムリーフは青い光をまとって飛んでいった。もうここにはおらん。そしてあの娘が飛び去ったその時から、塔の図象はあのようになった」
 酷な事実を受け入れろ、とアザスタンは宣告する。
 ミスティンキルは立ちすくみ、ぎり、と歯をきしませた。
 ――ああ、分かっているんだ。それでも――

 それでもなお、一縷(いちる)の可能性を信じながら、ミスティンキルは“探知の術”を発動させた。しかし反応はなかった。ヌヴェン・ギゼの塔はおろか、この周囲一帯に彼女の気配はないことを、とうとうミスティンキルは認識してしまった。
 否。先程からとっくに分かっていたことだ。なぜなら、蒼き(ドゥール・サウベレーン)の言葉に嘘はないのだから。
 ミスティンキルの希望は断たれた。ウィムリーフは本当にいなくなってしまったのだ。自分達を置いて。
「どうしてだ。ウィム……」
 しばし、彼の思考は完全に停止する。

 それから――
「なあ。あいつ……帰ってくるだろうか?」
 ミスティンキルは呆けたように呟く。彼の問いかけに龍は応じない。ミスティンキル自身、これは愚問だと思っている。
 喪失感が漆黒の口を開き、ミスティンキルを底知れぬ深淵へと突き落としていく。心に穴が空くとはこういうことなのだと、彼は存分に思い知ったのだった。

 故郷を出てからミスティンキルはただ孤独だった。見知らぬ他人を恐れ、心を閉ざしていた。
 いまだ記憶の片隅に残っているその事実を、まざまざと思い出してしまう。

◆◆◆◆

 赤い瞳を持ったミスティンキル。力を持つがゆえに彼は妬みや畏怖、差別を受け続け、ついには故郷を追い出される羽目になった。
 ミスティンキルは憤り、失望し、ついには復讐を決意した。
 龍人(ドゥローム)の聖地、デュンサアルで試練を受けて“炎の司”となり、故郷の連中を見かえしてやる。――暗澹(あんたん)たる野心を秘め、彼は東方大陸(ユードフェンリル)南部を目指し、単身旅をする。
 だがいかな運命の計らいか、その状況は思いもかけず変転する。

 昨年の冬、彼は西方大陸(エヴェルク)から船に乗り、カイスマック島に降り立った。西方大陸(エヴェルク)東方大陸(ユードフェンリル)、二大陸間をつなぐ交通と貿易の要衝である。
 ミスティンキルとウィムリーフは図らずも、ここで出会った。そして同じ船に乗り込み――二人は意気投合した。共にデュンサアルを目指す旅をしようと。
 ここに二人の旅が始まった。

 東方大陸(ユードフェンリル)。二人は船を下り、港町フェベンディスから大陸南方へと繋がる街道を旅した。だがすでに時機を逸していた。大陸中部、ザルノエムの荒野では冬の嵐が猛威を振るっており、陸路でデュンサアルへ向かうことは叶わなかった。そうかといって海路も使えない。流氷が通年より早く南下してきたためだ。やむを得ず二人は、アルトツァーン王国の宿場町、ナダステルにて逗留することとなる。季節が変わるまでの間。

 それから彼女と過ごした日々は、何ものにも代えがたいものとなった。
 アルトツァーン王国中を旅して回った。北方、メケドルキュア王国にも足を延ばした。互いの趣味を語り合った。ウィムリーフがミスティンキルに学問を教えようとし、これは失敗した。人生の境遇や悩み、不安について打ち明け合った。酒を酌み交わした。嫌なことも言ったし喧嘩もした。いつしか一つの部屋で生活を共にするようになり、愛が育まれた。互いの存在が、かけがえのないものへと高まり、自分の隣にいることが当たり前となった。

 そして春。
 荒野を越えて南方のエマク丘陵へ。ついに聖地デュンサアルへと至り――彼の念願は叶った。“炎の司”となった彼はついに、過去という悪夢から解き放たれた。恨み辛みなども、もう無い。
 ウィムリーフは、ありのままの彼を受け入れてくれた。明朗快活な彼女と一緒だから、ミスティンキルは新しい人生を歩むことを決心した。その第一歩こそが、この冒険行だ。二人の長い旅のはじまり。そうなるはずだった。

 だが今、彼にとっての新たな日常、心のよりどころは、思いもかけないかたちで唐突に失われた。


(二)

「あいつはひとりで行っちまった。……そういうことだな」
 事実を事実として、ミスティンキルは受け入れざるを得なかった。ちらりと、塔の屋上を一瞥する。
 対するアザスタンは言い淀み、少し思案した後に口を開いた。
「ひとつ、ぬしに謝罪せねばならない。すまぬ。わしが至らなかった。ウィムリーフを制止できなかった。わしは彼女の魔力に屈したのだ」
 アザスタンは首を垂れ、懺悔(ざんげ)した。
「なんだって?」
 ミスティンキルは思わず聞き返した。アザスタンが再び、信じがたい言葉を口にしたからだ。

「制止できなかった、だと?」
 ミスティンキルはぽつりと呟く。間を置いて彼は言葉の意味を理解した。頭に血がかあっと上ってくる感覚を覚えた。アザスタンに殴りかかりたい暴力的衝動に駆られるが、すんでのところで感情を抑え込んだ。握った拳をわなわなと震わせる。
「なあアザスタン、おれの気持ちが分かるか? 今、おれは自分の気持ちを殺している。いつまで抑えきれるか分からねえ。……あんたの言ったとおりだ。あんただったらウィムを止められただろうに! なんでできなかったんだ!」
 ミスティンキルは烈火のごとく怒り、吠えた。
「……こうしてぶちまけたところで、今のくそったれな有様がどうにかなるわけじゃねえが、それくらいは言わせろ」
 低い声に憤怒の情念をはらませて言葉を吐いた。
「……おぬしはウィムリーフの連れ合いだ。その権利はある」
 アザスタンは首を垂れたまま、静かに同意した。
「だろう。だけど……くそっ! ウィムがいなくなるなんて、こんなことになるなら、おれだってのうのうと眠らなかったのに! なんなんだ! なんでこうなっちまってるんだよ! おかしいだろう!」
 ミスティンキルの怒りは、今度は自分自身に向けられた。悪口雑言を並べて自身を罵る。ウィムリーフのことを誰よりも理解していたつもりだったのに、その実まったく分かっていなかったことに憤っていた。

「ウィムリーフを止められなかったのには理由がある。我ら龍というものは元来、おのが誇りのために安い言い訳などするものではないと考えておる。だが今は違う。誇りなどよりも大事なものがある。わしに弁明をさせてくれ」
 ミスティンキルの怒りが鎮まったのを見計らい、アザスタンは言った。
 ミスティンキルは苦い表情のまま無言で頷き、アザスタンに続きを促した。
「わしらが先ほど塔から降りてここに戻ってきたあと、……わしは今し方まで意識を失っていたのだ」
「……はあ?」
 ミスティンキルは自分の耳を疑った。
「おかしなことを言いやがるな。それともおれの耳が変なのか? あんたはさっきここで、ウィムと真っ向からやり合ってたじゃねえか。おれはしっかりと見ていた。それを知らない、だと?」
「失礼。そうだな。ウィムリーフと対峙したあの時まで、わしは己を保っておった。そしてウィムリーフの思惑を聞き出すのは難しいことではないと思っておった。わしは己に(おご)っておったのだ。
「だが、彼女の心に問いかけたまさにその時、あの娘は尋常ならざる大量の魔力を一気に放出させ、わしに差し向けてきたのだ――! まったき青を宿した魔力が波濤(はとう)のように押し寄せてくる。おぬしには見えなんだか?」
 ミスティンキルは首を横に振った。
「そんなもの、かけらも感じなかったが?」
「ふむ。わし以外には認識できぬように、限定的に魔力を展開したというのか。それでいてあの威力……。ウィムリーフもまた、魔法使いとしてかなりの手練(てだ)れだったということか」
「あいつが魔法使いだって? “風の司”じゃなくてか?」
 ミスティンキルは訝しむ。
「さよう。あの娘の、魔法使いとしての才覚だ」
 アザスタンは言葉を続ける。
「ともあれ、事態はわしにとってまったく予期せぬものとなった。怒濤(どとう)の魔力に対して抗う時間などないまま、わしは魔力に飲まれ――なすすべなく前後不覚に陥った。次にわしが気付いたとき、すでにウィムリーフは塔の上にひとり立っていた。地べたにおるおぬしとわしを一瞥すると、躊躇(ためら)うことなく空中に舞い、飛び去った。――これがわしの認知する一連の顛末(てんまつ)だ」
「待てよ。あんたはウィムとやりあった後もちゃんと意識があったんだぞ? それも覚えてねえのか?」
「その記憶は無い。ぬしにはわしがまったく事も無げに見えたのか? ならばそれはわしの無意識がなしたもの――いや、それともわしはウィムリーフに操られていたのか……? とにかく分からんのだ。まったくもって」
 アザスタンは釈然としない様子だ。長い時を生きてきた聡き龍ですら知り得ぬことが世界には存在すると、まさかここで思い知らされることになるとは。

「ウィムは言ってた。あんたと向かい合っていたときに『自分を信じてほしい』と訴えたと」
「否。彼女はわしになにも語らなかった。あの熾烈な魔力攻撃を『信じてほしい』と解釈するのは不可能だ。まったく解せぬ。あの娘の本性が掴めぬ」
 アザスタンは降参だとばかりに首を振った。
「……もし覚えているなら教えてくれ。あいつはどんな顔をしていた? おれはウィムの背中しか見ていなかった」
 アザスタンは鼻から煙を吐いた。人がパイプをくわえ、煙をくゆらすように。
「普段のあの娘のままに。だが魔力でわしを圧倒したあの時、ふと笑みを浮かべたように記憶している。……ああ。あれはウィムリーフらしからぬ、冷徹なものだったな……」
「ウィム……」
 ミスティンキルの表情が陰る。ぎり、と。再び歯をきしませた。
「今までおれはずっと手玉にとられてたってのか? ここでこういうことが起きると知って、おれ達を連れてきたのか?」
 それに対して龍頭の戦士は無言を貫いた。ことごとく、彼らにとっては理解の範疇(はんちゅう)を超えていたのだ。

◆◆◆◆

「――追いかけよう。あいつを」
 ミスティンキルは毅然と顔を上げて意を決した。

『お前が妙なことをしようとしたら全力で止める。任せろ』
 先ほどウィムリーフに誓ったばかりだ。そのときの彼女は、ミスティンキルのよく知るウィムリーフだったと確信している。
 彼女がなぜ自分達を置き去りにしたのかは分からない。しかし必ず追いかけてつかまえて、全てを明白にする。そして今度は三人でオーヴ・ディンデへ堂々と向かうのだ。別れてなどやるものか。
「アザスタン、おれは飛ぶぞ!」
 ミスティンキルは威勢よく言い放つ。アザスタンが制止するが、ミスティンキルは聞く耳を持たない。向こう見ずでも構わないとミスティンキルは思っていた。己を鼓舞していないと負の感情に落とされてしまうと恐れていたのだ。
(塔の上まで飛び上がる! あの屋上がいいか。見晴らしがいいところから“探知の術”を使って、あいつがどこにいるか突き止める!)

 彼は目を閉じて頭を上に向ける。それから意識を研ぎ澄まし、“飛ぶ”というイメージを脳内に思い浮かべる。意識は空の方角を向き、心身が軽くなったような感覚をつかみ取った。
 こうして準備は整い、覚悟も決めた。物質界では目視できない、ドゥロームの黒い翼を慎重に広げる。

 だが刹那、あの忌まわしい呪いが覚醒し、ミスティンキルに襲いかかった!
 きぃんと、耳をつんざく轟音が彼の脳内を蹂躙(じゅうりん)する。ミスティンキルが目をかっと見開くと、今度は視野全体が暗黒に染まっていくのが分かる。翼の生えている背中のあたりから激痛が走り、明確な殺意をはらんで心臓に到達せんとする。さらに、『死ね』と。『滅べ』と。彼の意志すらも邪悪ななにかによって浸食されていく――
「があっ……!」
 ミスティンキルはよろめき、自分の身体を抱きしめるようにして痛みに耐えようとした。しかし呪詛は絶対的な効力を発揮しており、人の身ごときで抗えるものではない。強大な魔力を内包するミスティンキルをしても、である。
 彼は呪いを(おそ)れた。“飛ぶ”という意志を否定すると、激痛はすうっと治まった。
 戒めから解放され、彼はがくりと膝を落とした。身体が重い。両手を地面についてぜいぜいと息を吐き、ただ目の前の地面を見つめる。鼻先からぽたりぽたりと汗が落ちる。

 この島で自分達に降りかかった呪いはまったく弱まっていない。ミスティンキルはあらためて、翼を広げて飛ぶなど不可能だと思い知った。
「どうしたってんだ、おれは。おれの翼は! あいつは飛んだってんだろう?!」
 ミスティンキルは悔しさのあまり、拳を握りしめて地面に叩きつけた。二度、三度と。惨めな自分を叱りつけるように。

 沈黙が周囲を包む。太陽は西方のロス・ヨグ山の向こうに隠れ、時は夕暮れから夜の刻になろうとしていた。

 助けがほしい、と。ミスティンキルは切に願った。同時に、自分がなにか重要なことを失念しているとも感じた。だがそれがなんなのか、すぐには思い出せそうになかった。

 怒り、失望、喪失感、悲しみ――幾多もの感情が複雑に織り混ざり、ミスティンキルを(さいな)む。つう、と。ミスティンキルの瞳がうるみ、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出た。嗚咽をぐっと堪えながら立ち上がり、よろめきながら歩く。その先にウィムリーフの荷物袋がある。ミスティンキルはがばりと袋に覆い被さり、顔を伏せた。
「なんでもいい。お前に会いたい。おれがなにもできないままだなんて……」
 打ちひしがれた彼は、純粋な思いのたけを口にした。
「どうか助けてくれ……」


(三)

 その呟きを、ミスティンキルの切なる願いを、アザスタンは聞き逃さなかった。
「ならばぬしの願いに応えよう。ミスティンキル。わしが飛ぼう」
 アザスタンの決意。その言語は龍のものではなかったが、とても力強いものだった。
「あんたが?! 呪いは平気なのか?」
 ミスティンキルの心は大きく揺り動かされた。涙などこぼれるに任せ、彼は真摯な瞳でアザスタンを見る。希望を見出そうとするかのように。
「龍の威厳にかけて、なによりおぬし達のために、わしはわしの為すべき事を為す。……呪いについてはいまだよく分からぬ。だが、わしは龍よ。人間と同じ秤で比べるものではないぞ。まかせるがいい。かつて“魔界(サビュラヘム)”に突入し、冥王ザビュールとも相対したこのわしに」
「アザスタン……」
 ミスティンキルは再び希望を見出した。赤い瞳が生気を取り戻す。

「いいな。ウィムリーフを見つけ、合流するぞ」
 龍頭の戦士アザスタンはそう言うと天を仰いで口を大きく開き、猛獣のごとく吠えた。アザスタンの身体はみるみるうちに変化し、巨大な蒼龍となった。
【さあ、乗れ】
 アザスタンは巨躯を落とし、ミスティンキルに騎乗を促した。ミスティンキルは龍の脚からよじ登る。うろこで覆われた頑強な背中を歩き、巨大な背びれをがっしり掴んで座り込んだ。
「無茶するなよ! この塔の上まで飛んでくれ。おれはそこからウィムの居場所を探る!」
【応】
 アザスタンは振り返って応える。それから誇らしげに巨大な翼をはためかせ、呪いなどなにするものぞとばかりに、ふわりと宙に浮かび上がった。

◆◆◆◆

 龍は上昇する。一瞬にして木立の中から塔の頂へ。アザスタンが塔の屋上に着地すると、ミスティンキルも龍の背から降り立った。
「アザスタン、身体は平気か?」
【支障はない】
 蒼龍は返答した。

 いつしか月が現れていた。ほぼ真円を象った白銀の月は、天球高く位置をとっている。月はそこから地上に向けて仄かな光を注ぐ。
 ミスティンキルは盆地の方向、オーヴ・ディンデへと視線を向けた。だが夜の(とばり)が降りつつある今、ラミシスの中枢域を目視でうかがい知ることは困難極まる。それにあの領域は奇妙にも、月明かりすら遮断しているかのようにすら感じる。ミスティンキルは“探知の術”を発動させた。

「……いた」
 ミスティンキルはすぐさま発見した。名状し難い闇の領域で青く光る一点――ウィムリーフの魔力を。
【ウィムリーフを見つけたのか】
 と、アザスタンが訊いてくる。
「ああ……だがあれは……」
 言葉を返すミスティンキルだが、ウィムリーフの姿そのものを捉えているわけではない。術の効力によって闇の中から青い魔力を認識したに過ぎないのだ。ウィムリーフの顔が見たいと、ミスティンキルの気持ちがせかされる。
 そして――ウィムリーフのすぐ近くにオーヴ・ディンデを封じる結界があることも、ミスティンキルは探知した。半球状の結界は今、周囲の闇よりさらに(くら)い、漆黒をまとっている。あれを長く直視し続ければ気が触れてしまうと、ミスティンキルの本能が訴えかけてくる。
「信じられるか? あいつ、もうオーヴ・ディンデに着いちまった!」
【ほう……】
 龍は琥珀の瞳を細め、オーヴ・ディンデの方角に向ける。大したものだとでも言いたげに。

 もともとの予定ではヌヴェン・ギゼからオーヴ・ディンデに至るまで、徒歩で半日はかかると三人は考えていた。仮に“風の(アイバーフィン)”の翼を用いても一刻はゆうにかかるだろう。それなのに彼女はすでにあの地に降り立っている――果たして青のウィムリーフは、龍の翼を得たとでもいうのだろうか。

『結界なんて解いてみせる!』
 激昂したウィムリーフが言い放った言葉だ。“今のウィムリーフ”ならば、結界を解いてしまうかもしれない、とミスティンキルは直感した。
「例の結界はそのままだ。解かれたわけじゃねえ。そのままでいてくれ、ウィム……」
 ミスティンキルは祈るように言った。
【我らは行くか? わしが飛べばオーヴ・ディンデまで辿り着くのにそう時間はかからん】
 ミスティンキルの心を読んだかのようにアザスタンが言う。
「ちょっと待った。もう少し様子を見させてくれ」
 “探知の術”を発動している今なら分かる。あの結界が外部から魔力を集めているのだということが。

 結界を起点として、ごく細い線が空高く延び、四方へ分散している。それらは各々曲線を描いて空を渡り、うちひとつはここ、ヌヴェン・ギゼの小窓に行き着いている。その先を辿れば塔の“魔力核”に行き着くだろう。
 微量の魔力が塔から結界に向けて流れ出ているのが探知できた。結界を起点とするほかの三つの線もそれぞれ三つの魔導塔に繋がっているに違いない。すなわち――ここより東のシュテル・ギゼ。南東のゴヴラッド・ギゼ。南のロルン・ギゼ。
 ヌヴェン・ギゼを含めた四つの塔から流れ出た魔力は、中心部たる結界の地で混じり合ってひとつになる。それによって魔法が発動し、崩壊した王城を常に外部から遮断しているのだ。

 魔導王国ラミシスはとうの昔に滅び去った。主を失ない、自然の姿へとほぼ還ったこの島において、得体の知れない魔法や呪いがなおも発動しているのは、過去から綿々と続いているこの魔力構造によるものだろう。“魔力核”の魔力の源がなにに起因するものなのか、それになぜ今までこの構造が朽ち果てたり破壊されずに残ってきたのか、謎は深まるばかりだ。

◆◆◆◆

 ミスティンキルは視線を元に戻した。それから何の気なしに、ぐるりと屋上の様子を探る。すると中央部、分厚い扉付近に何かがあるのに気付いた。塔内部へと繋がっている扉付近に。
 訝しがりながらもミスティンキルは近寄っていく。彼の予感は当たった。それはウィムリーフの持ち物だったのだ。一冊の本と画材。ミスティンキルはそれらを拾い上げた。

 ウィムリーフは――地上で塔の壁画を模写したのち、再び屋上まで上ってきた。そうして彼女はなにを思ったのか、ここで本を放棄して身ひとつとなり、翼を広げて飛び去った。
 ミスティンキルはこみ上げてくる感情を抑える。
(お前は、こんな大事なものまで捨て置いたのか。オーヴ・ディンデに着いたら必要なものだろう? いろんなことを書き留めたいと思うだろう? 違うか? まったく、お前らしくない……)
 ミスティンキルは文字が読めない。しかしこれは熱意あふれるウィムリーフが書き連ねた作品だ。単なる文字や記号の羅列などではない。頁をめくるにつれ、ウィムリーフが一生懸命にペンを走らせる情景が浮かび上がり、堪えたはずの涙がこぼれそうになる。だが今は感傷に浸るときではない。為すべきことを為すときだ。ミスティンキルは本をかかげ、アザスタンに呼びかけた。
「ウィムの忘れ物だ! おれは、あいつにこれを渡さなくっちゃならねえ。さあ、今度こそ行くぞ、アザスタン。オーヴ・ディンデへ!」
 ミスティンキルが言い終わるやいなや、それは起きた。


(四)

 ガドンッ!

 それは直下から強く突き上げられる振動だった。唐突な出来事に、ミスティンキルはよろめいて姿勢を崩した。大岩同士が激突したかのような爆発音が(ごう)と響き渡る。
「……っ! 今度はなんなんだ?!」
 ミスティンキルは用心深く周囲を確認する。一見したところ状況は依然変わっていないようだが、床の振動は止まらない。
「地震?!」
【いや、自然の現象ではない。魔法によるものだ。こちらに来れば分かる】
 そう言われてミスティンキルは元いた場所まで戻り、アザスタンが見たものを確認した。眼下――
【ぬしにも見えているだろう? この塔から魔力が放出されている。いわば魔力の川だ。奇妙なことだ。高みから水が流れ落ちるかのごとく、魔力が空を渡ってオーヴ・ディンデの方向へ向かっている】
「ああ。分かる」
 流出量はもはや先程までの比ではない。“探知の術”に頼らずとも目視できる。まるで洪水だ。流量はみるみるうちに増え――ついに流出口である小窓が耐えきれなくなり、壁が大きく崩壊した。そこからさらに大量の魔力が噴出し、怒濤のように――しかし音はなく――空中を流れていく。

 ミスティンキルは青い濁流を呆然と見つめながら、これはとんでもないことが起きたな、と思った。だが奇妙なことに、こんな事象に対してなんの感情もわかない。危機感すらない。まったくもって現実味が希薄なのだ。
(塔の中はどうなっているのか。動物が住んでいたが大丈夫か)
 むしろミスティンキルにとっては、そのほうが気掛かりだった。だが気持ちを切り替える。
 魔力の流れ着く先――すなわちあの結界において、なんらかの魔法が発動されるだろうということは何となく分かる。そのための魔導塔なのだから。だがなにが起きるのか、さっぱり見当が付かない。想像できないゆえに恐怖を感じないのだ。
 彼が恐怖を覚えるとしたらそれは、魔法が発動されたその時のことだ。恐るべき結果を認識したとき、はじめて慄然とするのだろう。

「なあ。これはウィムの仕業だと思うか? あんたはさっきウィムのことを、手練れの魔法使いだと言っただろう」
【分からぬな。可能性はあるが明言できない。ここまで大規模な魔法事象を起こすには、果たしてどれほどの力量が必要とされるのか――それともただの一人で発動できるものなのか――わしには分かりかねる。魔法使いではないゆえに】
「……そうなのか。おれも分からねえ。魔法の知識のひとつすら、ものにできていない。それなのに『魔導を継承した』などよく言えるもんだ、おれは」
 ミスティンキルは自嘲して腕を組む。青い激流の、その先端を目で追いながら。

【ウィムリーフ同様、ぬしは大きな魔力を備えておる。ぬしらは月の界にて大事を為し遂げた身。二人の力の強大さは、我が王も認めている。忌憚(きたん)なく言うと、ぬしらの魔力はともに、世界に影響を及ぼすほどに大きいのだ。
【人間はしかし、魔力だけでは魔法を行使できないのだろう。魔法を発動させるにあたっては詠唱なり儀式なり、媒介とするものや助力がなければならない――委細は分からぬが。
【だがおぬしは例外だ。『そうあれ』と望めばそのとおりに魔法を行使できる。間違いなく、人の身としては過ぎた才能だ。天賦の才能を持つ魔法使いは、歴史上何人もいたことだろう。ぬしはそういった魔法使いと肩を並べる可能性は持っている。だが決定的に及ばない点が二つある。分かるか? 考えてみろ】
「ひとつはさっき言った。魔法の知識がねえってことだろう。もうひとつは……」
 なにか言い出そうとしてミスティンキルは考えあぐね、黙ってしまった。
【経験だ。知識と経験がおぬしには決定的に欠けておる。ぬしは月で魔導を継承したと言った。それは認めるが、本当の魔法使いになったとまでは果たして言えぬだろう。本来ぬしはまだまだ学ぶべき立場なのだろうよ】
「……『ウェインディルを探せ』っていうのはそういうことなんだな……」
 ミスティンキルは、ほぞをかむほかない。悔やんでももう遅すぎる。この現状を、これから起こりうる現象を、どうにか打破せねば先はない。ウィムリーフに会うこと。まずはそれだ。結界の領域において、どのような魔法が発動されようとも――

 床の揺れが収まった。ミスティンキルが身を乗り出して下方を見ると、魔力の放出が止んだことが分かった。その流出口は大きな(ほら)と化している。周囲の外壁は魔力の大量放出により損傷し、構造がかなり(もろ)くなっているようだ。石のかけらがぽろぽろと落下していく。その数は次第に多くなっている。
「なあ、おい。ここにいるとまずいんじゃねえか? この塔、崩れ落ちるかもしれねえぞ!」
 アザスタンも肯定した。
【魔導の塔が、いよいよもってその役割を終えたことを意味するかもしれん。どうする。わしはいつでも羽ばたけるぞ】
 その時――
「――!」
 ミスティンキルは、はっとなった。遠方の闇の中、三つの方向で閃光が続けざまに走るのを確認したからだ。

◆◆◆◆

 ――ドン!
 ――ドン!
 ――ドン!
 光から遅れることしばらく、立て続けに爆発音が風と共にここまで伝わってきた。
 発生源はどこかとミスティンキルが探ってみれば、果たして彼が思ったとおり、それは三つの魔導塔だった。ここ、ヌヴェン・ギゼの魔法図象が青く発光しているのと同様に、遠方に位置する兄弟の塔はそれぞれ赤、緑、黄に彩られている。
 それからミスティンキルは、鮮やかに煌めくものが三つの塔からほとばしるのを見た。あれらもまた、色を帯びた魔力そのものだろう。空を伝い、四つの塔が結ぶ中心点――結界の地――を目指して猛烈な勢いで押し寄せていく。四本の濁流がぶつかり合うまでそう時間はかからない。魔力同士が衝突したとき、なにが起こるのだろうか。そして、ウィムリーフはどうするのだろうか。

【超常の様相を呈してきたか。覚悟せよ、赤のミスティンキルよ。事と次第によっては、アリューザ・ガルド世界に影響する事態が勃発するかもしれぬぞ。わしらは真っ先にその事態と向き合わねばならなくなる】
 “世界の色褪せ”のときと同じように、またしても自分は世界そのものと関わってしまうというのか。それが“運命”というものなのだろうか。
「どのみち、行くしかねえだろう!」
 ミスティンキルは発破をかけた。ヌヴェン・ギゼの崩壊が始まった。ほどなくしてこの屋上は瓦解するだろう。ミスティンキルは龍の背中に座した。
「さあ、飛んでくれアザスタン! さっきおれは『無茶をするな』と言った。けれど今度は違う。無茶をしてくれ!」
【応】
 アザスタンは翼を広げて空中に舞い上がった。

 時ここにおいて、龍はとうとう本領を発揮した。隼もかくやとばかりの凄まじい速度をもって、風を切り裂くように飛ぶ。真下には青い魔力の流れ。それよりも速く龍は空駆ける。四つの魔力が衝突する前に、あの地へ到着できるかもしれない。
 背後で、ヌヴェン・ギゼが崩落していく音が聞こえた。だが彼らは振り返ることなく、黙したまま前を見て進むのだった。

赤のミスティンキル 第二部

赤のミスティンキル 第二部

ミスティンキル、ウィムリーフの行いによって、アリューザ・ガルドは本来の色を取り戻した。 また、それと同時に魔法の頂点としての存在、魔導も復活することになる。 魔導を得たであろう二人は、この後どのような物語を紡ぎゆくのだろうか。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-06-25

Copyrighted
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  1. 第二部 主要登場人物
  2. 序章
  3. 第一章 旅立ち
  4. 挿話一 フェベンディスにて
  5. 第二章 アザスタン空を往く
  6. 第三章 朱色のヒュールリット
  7. 第四章 竜との戦い
  8. 挿話二 ウォレにて
  9. 第五章 魔境の島
  10. 第六章 オーヴ・ディンデを目指して
  11. 第七章 召喚 デュンサアルより
  12. 第八章 魔導塔 ヌヴェン・ギゼ
  13. 第九章 事態急変す