リ・スタート!

長いモラトリアムの感覚が、私自身どんなに社会に出た後も、自分の中に根付いていると感じています。
もしかしたらモラトリアム脱却の結論が出た後も、様々な角度から、その自分に根付いた長いモラトリアムを再び感じて、元に戻ってしまうかもしれない、と言う怖さがあります。
しかし、答えは必ず出ます。自分なりの等身大の答えと言うものがあるのです。
求め続ければ、きっと答えに到達すると、少なくても私は信じています。
簡素な結論に至る、小さなモラトリアム脱却の物語です。

はじまり

 昭三は今朝5時に起床した。積極的に喜んで起きたわけではない。不本意にも早朝の4時台に目が覚めてしまったのだ。カーッと目が覚めてから、「これはもう二度寝出来ない」と悟った昭三は、えい、とばかりに布団から起き上がった。スマートフォンの時刻を見ると、5時5分だった。
 それから、昭三は出勤時間の8時半までに、少し時間があるから、何かをしようと考えていた。昭三の趣味は専ら本を読むことだったから、読書をするのもよかった。しかし、その日の目覚めは、スッキリと気持ちの良いものではなく、冴えわたる瞬間湯沸かし器のように頭に血が上った感じだったから、落ち着いて読書など出来る感じではなかった。
 ――とりあえずは、朝ごはんを食べよう。
 昭三は、冷蔵庫から生卵と納豆、豆腐を取り出して、予約した炊飯ジャーからごはんを自分の茶碗によそった。
 ――しかし、今朝目が覚めたのは何だったのだろうか? 
 昭三は思い当たるものがあるか、自分の心に正直になるように努めた。
 ――緊張だったのだろうか。
 うっすらと思い当たる節はある。今日から新しい仕事が始まるのだ。しかし、その仕事は職場の先輩が一緒に付いてくれるから、全部自分一人で責任を負ったり、例えばゴリゴリの大きなプロジェクトと言うわけではない。
 第一、昭三が今就いているホームヘルパーの仕事に、ゴリゴリの大きなプロジェクトのようなものは、ほぼ無いと言ってもいいだろう。現場、現場の仕事だからだ。
 その現場の仕事で、今日昭三は新しく通院介助のケアに入る。通院介助のケアは、昭三にとって初めてだ。
 ――まあ、多少緊張しなくもないか。
 基本楽観的な昭三は、今朝の異質な目覚め方を、もう気にしていない。それよりも、食べている卵かけご飯が美味しくて仕方なかった。
 ――やっぱり、美味いなこりゃ。
 出勤時間まで2時間半、何をするのか昭三は自分でもあてが無かった。


 けれど結局、その日の朝の2時間半を昭三は至って有意義に過ごせた。何だかんだ言って読書をしたのだ。
 読んでいる本は小説で、著者は大江健三郎だ。彼の小説が昭三は大好きだ。難解で悪文と評されることが多い小説家だが、昭三は彼の小説に救われたと感じている。かつて、大江健三郎の小説は、昭三の心の闇に微かな灯火をともしてくれた。
 それはちょうど、昭三が15年前に就職活動で大きな失敗をして、実家の親の元ので引き籠っていた頃だ。何もかもが嫌だった。寝ることと食べることだけしか出来なかった。でも、反対に言うなら、寝ることと食べることが出来たので、死なずに済んだ。自死しなかったのも良かったと言える。
 そのような中で、偶然に見つけた本を何気なしに読み始めた。ぐいぐいと引き込めれるように読むうちに、「これは果たして偶然に見つけた本なのだろうか? 私にとったら必然のように感じる」と思った。
 その本の題名は大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』だ。詩人ブレイクの引用がまるで、自分のことを言い当てているかのようで、昭三のハートはドキドキとした。死と再生のストーリーがしっくりきたし、魂を射止められたようだった。確かに眼がさめる感覚をおぼえた。
 『新しい人よ眼ざめよ』で一気に大江健三郎に惚れ込んだ昭三は、それから次々と彼の小説を読み漁った。『個人的な体験』『同時代ゲーム』『懐かしい年への手紙』『ピンチランナー調書』『宙返り』『燃え上がる緑の木』『「雨の木」を聴く女たち』『日常生活の冒険』。昭三が読了した大江健三郎の小説は少なくはない。
 昭三は、いつしか引き籠り生活から脱出していた。大江健三郎の本と共に、社会生活に繋がり始めたと言ってもいいだろう。
 最近は、死ななければ人生は何とかなる、と昭三は考えられるようなった。なんせ引き籠りだったのが15年前の話だから、これまで生きてきただけでも自分を大いに褒めたいと昭三自身は思っている。現在の昭三は、39歳だ。

石原うみ

 「ガタン、ガタン…」通院介助のケアに初めて入ってリアルに分かったことが昭三にある。道中の悪路だ。おおよそ一時間車椅子を押すのだが、その車椅子のガタガタと立てる音が、非常に大きくて安全性が心もとない。昭三は、その悪路に辟易した。
 しょっぱなのケアだったから、昭三はただ同行するだけだった。けれど、自分が寄り添いながら、ガタガタと鳴る利用者の車椅子を見聞きしてると、「本当にこの車椅子が一時間もつのだろうか?」と疑念が湧く。
 それと、大きく感じるのは、市の行政に対する不満だ。この不満は現場でじかに障がい者に接し介助して、確たる実感から湧き上がった。
 ――一生懸命に病院のリハビリに通うとしている一人の人間に対して、この悪路をそのままにしているなんて、何て無責任なのだろう。
 昭三は普通に率直に思い感じた。
 大きな疑惑と不満を感じて、その日のケアの同行は終了した。昭三は病院までの道順を憶えながら、車椅子を押している先輩に、ただついていくことしか出来なかった。


 「石原さん、この道どうにか出来ないですかね?」
 昭三は、ガタガタと唸る車椅子を押しながら、通院介助の利用者の石原うみにさりげなく尋ねた。最初のケアの同行の段階はもうとっくに終わっていた。今は一人で石原うみの通院介助に入っている。
 問題は、やはり当然病院までの悪路だ。この通院のケアに入る度、昭三は怒りをおぼえる。
 石原うみは実際に以前、市の役所に出向き、職員に直談判したらしい。結果、車が走るのに見通しが悪く、車椅子にとって非常に危ない曲がり角に、一本のミラーが立った、と石原うみは言う。
 たったそれだけだ。それだけのことしかしてくれなかった。問題は解決していないのだ。やはり障がい者を馬鹿にしているとしか思えない。
 昭三は15年前、24歳の時に自宅に引き籠って、例えるなら自分の死とは何ぞや、と考え込んだ。その期間に自分を含めた社会的弱者を味方に感じるまなざしを身につけたと言う自覚がある。
 障がい者に対する行政の対応の悪さに憤りを感じるのは、昭三のその自覚と性格の核からとなっているのだろう。
 障がい者に対して自分が出来ることはやらせてもらおう、と昭三は謙虚に考えている。
 昭三がヘルパーの職を選んだのも、その思考の結果の一つだ。
 ――迷惑が無いように、ヘルパーとして出来ることをしよう。昭三は考えていた。
 
 「でも、この道路直してくれると思う? 片道一時間あるんだよ」石原うみは、まるで冗談を言うように、ボソッと昭三の質問に答える。
 「まあ、この一時間の道を全部を工事しなくても、特に危ない個所を少しでも直してくれたら、それだけでも助かるんじゃないですか?」昭三は、昭三らしく自分の意見を述べた。まっとうな考えかどうかは、昭三も分かっていない。
 石原うみは、沈黙した。それ以上は何も言葉を口に出さなかった。
 昭三は、「何かまずいことを言ってしまった」と思って、それからは何もしゃべらずに、車椅子を押すことに専念した。
 あいかわらず、車椅子は全体からガタガタと唸っている。石原うみの心身に負担がかかっていないか、車椅子は壊れないか、昭三は常に心配していた。


 それから、しばらく石原うみの通院介助のケアに入って昭三が考えたこととは、残念だが実はどんな熱い思いをもっていても、自分が石原うみと全く同じ立場になれないと言う現実だ。
 昭三は身体障がい者ではない。実家に引き籠っていた時期にメンタルが荒廃したが、半身麻痺で車椅子生活を余儀なくされると言う体験は、皆無なのだ。
 だから、例え社会的弱者の味方だと自分で思っていても、親身になれるだけで、身体障がい者当事者の本当の無念や、諦めざるを得ない膨大な事象などは、残念だが想像の域を超えない。それは動かしがたい事実だ。
 障がい者の相当で想像を絶する諦観性を、昭三は自分では全く同じに思いやることは出来ないし、出来ると思っていたら、それは大きな傲慢さに繋がる。
 昭三は、自分の無力感に絶望した。キレイごとでは済ますことが出来ない、重い想いの真実が、障がい者の心の深淵には存在するのだ。それは絶望とだけは、簡単に言い表せない。
 昭三は、その気持ちに思いを馳せた。思えば思うほど、自分の無力さは際立つようだった。


 「じゃじゃじゃーん。ここで問題です。」石原うみは唐突にしゃべり始めた。至って明るく、本当に冗談ばかり言っているから、うじうじ悩んでいる昭三の気持ちも徐々に明るくなってくる。
 ――どっちが介助に入っているか、立場がひっくり返っているではないか。
 昭三は、介助者の自分が実際に利用者に励まされている、と思った。
 ――ここは一つ、お互いに成長させてもらう関係性でもいいのではないか。もちろん、ヘルパーとしてやるべきことは責任を持ってやる。でも、精神面や関係性の部分では、利用者に少し甘えてもいいのではないか。
 いつしか昭三は、自分の考え方が変化しつつあるのを実感していた。
 「で、何ですか? 問題って?」
 「いやー、実はなーんも考えていないんだ。面白いかと思って、思い付きで言っただけ」
 石原うみと昭三は、きっと両者の気の遣い方が、シンクロしているのだろう。波長が合致して息が合う。気を遣っているのに、気を遣っていないような感覚に、昭三はよくなる。
 「石原さん、何かのなぞなぞかと思いましたよ」昭三は笑いながら言った。
 「まあ、何か悪い問題があるのとは違うから、思い付きでも言ってもらった方が全然いいですよ」昭三は続けた。
 「でもさあ、川藁さんて、真面目でピュアだから、変なことを言ったら良くないよね」石原うみは、既にもう昭三の分析を鋭くしているようで、何気なく自然に昭三に語りかける。
 「私の言うことは、半分以上の八割位冗談だから、真に受けないでね」石原うみは、その言葉さえも冗談のようなニュアンスで言う。
 「確かに私、ちょっと真面目過ぎるところがあるから…」と昭三は真面目に答える。自身その点の自己分析は出来ていると思っている。実は自分の真面目さに悩んだ時期もあり、15年前は、特に強かった。今では、これは性格だから多分直らないと諦めている。
 
 「じゃあ、この辺でいいよー」リハビリの病院に着いたから、石原うみは車椅子を自分で動かし、リハビリ室へ向かって行った。 昭三は、「それでは、ありがとうございました。またよろしくお願いします」と挨拶をしてその場を離れた。これで、その日の石原うみの通院介助のケアは終わった。結局、昭三は清々しい気持ちになっていた。

過去の挫折

 「川藁昭三さん、どうぞ」
 かしこまり、それでいて上からの目線が含まれる、余裕たっぷりの凛とした声が、廊下の中に響く。
 「はい、川藁昭三です。よろしくお願いします」昭三は、出来るだけ第一印象が良くなるよう、一生懸命に答えた。そのまま、昭三は廊下に面している面接室に入った。
 部屋の中には、男女一人ずつ面接官が二人、長テーブルの前に座っていた。さっき昭三の名前を呼んだ女性の案内人は、もう別の部屋に移っているようだ。
 ――頑張るぞ。昭三は意気込んでいた。
 昭三にとっては、就職活動での最初の面接だ。意気込まないわけがない。
 ――このやる気を、どうにかアピールして、出来れば一気に内定をもらってみせる。昭三の未熟な野心は燃え上がっていた。瞬間的に燃え過ぎていたと言ってもいいかもしれない。

 「では、学生時代で一番一生懸命取り組んだ事とは何ですか?」男性の面接官は冷静に、目の前にいる昭三を見て質問した。
 昭三は「さて、何だろう?」と思慮しながら、再び「はい」と速やかに応答した。
 「私は、日本各所を歩いて回ることを、学生時代に一番一生懸命やりました」一瞬で考え付いた、これだ、と言う思い出を語り始めた。
 「ほう、例えばどんなところを歩いたのですか?」面接官は少々の関心をみせた。
 「はい、北海道の釧路から網走まで、八日間かけて一人で歩きました。それが一番だと思います」
 「それは凄いですね。では、何故その北海道を歩こうと考えたのですか?」
 「はい、それは釧路の国道で、網走まで150㎞、と言う標識を見て、これだ、と思ったのがきっかけです」
 昭三は「これは決まった」と思った。けれど、2人の面接官はキョトンとしている。網走まで150㎞、と見て何故、歩きたいと決意したのか、殆ど意味が解らず、合理的ではないと感じている雰囲気を、面接官は醸し出していた。
 昭三は、言葉を失った。これ以上の説明が出来ない。自分の語彙力の無さを痛感した。

 「では、ありがとうございます」その後、いくつかの問答を繰り返してから、女性の面接官が最後の言葉で面接を締めた。昭三は、明るく爽やかに挨拶をしながら、心の中でぐったりしていた。
 ――何なんだ、この脱力感は。
 そして、手応えの無い初めての面接に、自分の無力感を非常に強烈に感じていた。
 北海道の話をした後も、話せど話せど、いわば糠に釘の状態だった。この2人の面接官の価値観が、自分と違い過ぎる、と昭三は感じた。
 ――ああ、何だよな。こんなんばっかりだったらやってられないよ。
 最初の面接で、たった一度上手くいかなかっただけで、昭三の心は折れていた。
 けれど、その挫折感は、昭三本人の主観からみて、案外大きいもので、その後の就職活動に一切手がつかなくなった。いや、正確に言うと、今度は上手くやってやると、更に意気込んだのだ。
 それで、何をしたかと言うと、就職活動で一番最初に必要だと言う自己分析の方法が書いてある本を、近所の本屋で見付けて、集中的に読み耽ったのだ。
 それは、まるで出口のない迷宮に迷い込んだようだった。やればやるほど行動力が落ちていき、行動できないと更に自己分析をすると言う、負のスパイラルに陥った。就職活動は早くも雲行きがあやしくなった。
 そうして出来上がったのが、メンタルの荒廃著しい、一人の留年引き籠り大学生だ。
 昭三は、一人暮らしをしていた、大学の近くの町から撤退し、両親の住む実家に戻り、本格的に休養を始めた。
 結局、新卒での就職活動は、北海道の話をした面接一回だけに留まると言う、いわば惨敗に終わった。時代はまさに超就職氷河期と言われていた。厳しい時代だった
 それから、長いモラトリアムが始まる。これが、昭三の人生の最初で一番の大きな挫折だった。昭三自身、将来のことが不安で、心がめちゃくちゃになりそうだった。当時は先行きの見通しが全く無い、真っ暗闇の中で昭三は苦悶した。

石原うみの問い

 その日の石原うみの通院介助のケアは、いつもと違っていた。いつも、ぺちゃくちゃとお話をするうみが、何となく無口なのだ。
 昭三は、「まあ、人間は心身のコンディションがあるから、無理やり話を促すより、一緒に寄り添っていよう」と思い考えていた。
 相変わらずガタガタと、悪路で車椅子が鳴る。
 「この車椅子のメンテナンスは、きっと病院のリハビリの先生たちがやっているはず」と昭三は勝手に推論していた。
 「でも、常時のメンテナンスの必要性を、今度改めて報告書で伝えなければいけないかな」昭三は静かに前を向いて、何かを考えているうみの様子を気にしながら、車椅子を押して考え続けた。
 「川藁さん、ちょっと止めてくれる」石原うみは唐突に言い出した。「ん? 何だろう?」昭三は何も想像出来ないで、言われた通りに車椅子を押すのを止めた。ちょうど横断歩道で青信号が点滅しているところだったから、止まるのにタイミングが良かったし、通行も邪魔にならなそうだった。
 「突然こんな形で言うのも何なんだけど、川藁さんって何だか心に闇を抱えているよね。話をしていると、それがよく分かるんだ。で、さあ、いつも私の話を聞いてくれているばかりだから、今度はもっと川藁さんが自分の話をしてよ。私でよかったら聞くからさぁ」石原うみの本当に唐突な意見だった。
 ――自分の心の闇か。まあ無くもないけど、それが分かるなんて、石原さんは中々鋭いなぁ。
 瞬時に昭三は考えた。
 ――はて、自分の話とは、何から話せばいいのだろう。
 昭三にとっては、雲をつかむような話だった。
 「石原さん、分かりました。私も自分の話をしますね。でも、正直私は何から話をしていいか分かりません。知りたいことがあったら、何でもいいのでおっしゃって下さい」
 「じゃあ、質問!」石原うみは言う。
 「川藁さんは、ヘルパーをやる前は何をしていたの?  ずっと続けてきたわけではないのでしょう?」
 「簡単なバイトですよ」昭三は、少し困ったように答えた。決して胸を張れるようなことをしてきたわけではないからだ。
 「何のバイトですか?」うみの追及は続いた。
 「まあ、色々ですね。正直私はヘルパーを始めるまで、転々と職を変えていたから…」
 「そうなんだ。ごめんね。生きていれば色々あるよねー。私なんか今は無職なんだから」基本明るい性格の石原うみは、昭三がコンプレックスを感じている、過去の職歴に対して、サッパリして大きく気にしたり非難したりすることをしなかった。
 むしろ、昭三の過去に対して更に興味を抱いた様子でいる。
 石原うみが無職なのは、身体的な障害があるのだから仕方ないことだ。
 「確か、川藁さんって大卒でしょ? だったら、こんなところでヘルパーやっているのは、やっぱりおかしいよ」
 昭三は、石原うみの言うことが分からなくもなかった。自分でも学生時代に、将来自分がホームヘルパーをやるとは、思い付きもしなかった。流れ流れて、ここに行き着いたと言う感覚だ。
 もちろん、ヘルパーの資格は自分の意志で取得した。しかし、資格取得当初を振り返ってみると、選択肢が殆ど無かったと言える。当時の昭三は、とにかく取れそうな資格を取って、どんな職でも早く就きたかった。正直自分のモラトリアムを早く終わらせたいと思っていた。そして、確かに長かったモラトリアムは終焉を迎えていた。現在、ホームヘルパーになってから、既に8年半の年月が経っている。
 「そうですね。私も時々、自分は学歴を考えると畑違いな職に就いていると感じますよ。でも、今のところはこれで大丈夫なんです。自分で納得しています」昭三は、正直に石原うみに対応した。
 「そうとは、思えないけど…」石原うみは呟いた。その呟きは鋭かった。
 「じゃあ聞くけど、川藁さんは他に何かやりたいことないの? あるとみているわよ。ヘルパーとは言わせないから」
 昭三は軽く沈黙した。

 昭三は、24歳で家に引き籠もり、その時の心的経験を前向きに生かすのと、自分のモラトリアムを終わらすために、ホームヘルパーになった。それは動かざる事実である。しかし、石原うみの質問に大きく動揺している。
 ――そうだ、ヘルパー以外のことで自分が本当にやりたいことを考えてもいいんだ。昭三は、何だか自分が呪縛から逃れて、許された気がした。石原うみの一言で、大袈裟に言うと、また更に目が覚め、思考の深いところへ誘われた気がした。

深夜の思考

 時刻は深夜の一時を少し回っている。
 寝付けないでいる昭三は、何もすることがないので、再び大江健三郎の小説を読んでいた。
 しかし、その夜は読書に集中出来ない。本を閉じて目をつぶる。
 考える先は、やはり石原うみの問いだ。昭三は、しばらく静かに考え事をしていた。
 昭三は、長いモラトリアムの果てにホームヘルパーになり、社会に出て働いている。8年間半働いた。そこから考えひねり出した昭三自身の答えは、「今だからこそ、これから自分の本当の人生が始まる」と言うものだ。
 その答えには、自分が心からやりたいことを伴っている。
 ――真のモラトリアムからの脱出は、今この時なのかもしれない。
 昭三は寝床に就いてからずっと考えている。石原うみの言葉から導かれるように、新しい自分の考えを創造しようしていた。
 ――キーワードは、自分が心からやりたいこと、だ。
 昭三は考えていた。

 その夜の昭三の寝付きは非常に悪く、思考の連続はしつこく続き、何気なく見たスマートフォンの時刻は深夜の2時前になっていた。
 昭三は非常にもやもやしている。考えが深刻にならないように気を遣いながら、ひたすら熟考していた。
 ーー自分が心からやりたいことかぁ。深夜の昭三は考える。
 ーー第一、一回しかない自分の人生で、自分のやりたいことをしていなんて、それ自体が、最も不幸ではないか。 
 昭三の思考の行き着いた先は、結局これだった。
 ――しかし、お金を稼がなければ生活が成り立たないからな。自分のやりたいことでお金を稼げるのがベストなんだろうけど、そんな都合の良い仕事があるとは、到底思えない。
 昭三は、更に考えた。
 実は昭三の本当にやりたいこととは、文章を書くことや、何かの分野で起業して会社を経営することだ。絞ればこの二点になる。三つ目くらいに、今就いている職業のヘルパーが位置するのかもしれない。望んで就いたからヘルパーの仕事が嫌いなわけではない。
 文章で生活するのは、かなり難しいことくらい、昭三本人はきちんと認識している。会社の経営だって資金調達の問題などがある。何の分野で起業するかも決めなくてはならない。
 文章と起業を現実的に考えると、もしかしたらただの夢物語と言えるかもしれない。この2つを除いたら、残っているのは現実社会で8年半就業しているホームヘルパーの仕事しかない。ホームヘルパーの現場の仕事が、昭三は大好きだ。
 ――そうだ、私は現実的にヘルパーの仕事くらいしか、今はもううまく出来ることはないのかもしれない。そうだ、もっと現実的に考えよう。やっぱり、今の仕事の延長線上で自分は何が出来るか考えてみようではないか。やりたいこと、と、出来ること、とは違うから。
 昭三の思考は徐々にまとまりをつけてきた。
 ――まあ、こんな深夜に考え事をしていても、いいアイディアが思い付くとは思えない。また、石原さんに話をして相談しよう。
 昭三は、部屋の電気を消した。真っ暗で本当に何の音もしない静かな夜だった。 

冗談

 「石原さん、昨日の夜は殆ど眠れなかったですよ」
 ガタガタと鳴る車椅子を押しながら、昭三は目の前に座っている石原うみに、背後から気さくに話を始めた。
 「自分のやりたいことを考えていたんですけど、結局はこれと言う結論は出なかったですよ。このままいいんですかね?」頼りなく昭三は石原うみに問いかける。
 石原うみはしばらく黙ったままで、揺れる車椅子から前を見据えている。
 「まあ、いいんじゃない。自分の答えは、川藁さん自身が知っているはずだから、この間私あんな熱の入ったこと言ったけど、気にしないで」半分突き放すように石原うみは話をした。
 「私だったら、仕事なんかしないで世界旅行に出発するけどなー」

 石原うみのそのセリフから、意識的か無意識的か判然としない、彼女の伝えたい意図が、昭三にうっすらと分かった。同時に間接的には、ニュアンスで言わんとしていることをとても強く感じ取ることが出来た。
 要は、小さなことをいつまでもくよくよ考えないで、もっとものを大きな視点で捉えるのはどうだろう、と言う内容かもしれない。
 昭三が15年前のあの自分なりの大きな挫折を経験していなかったら、きっと彼女のセリフはただの冗談にしか聞こえなかっただろう。
 けれど、石原うみと話をしていると、確かに悩み事が小さくみえるように感じることが出来る。
 しゃべっているだけで楽しくなって、うじうじしていられない、と言う気持ちになる。
 ――そうなのだ。大体のことは、所詮小さなことなのだ。固執して悩むことなどない。もっと大きな、例えば宇宙のように大きなことを考えたいものだ。
 昭三は思った。
 ――そう考えると、自分のやりたいことをやらないで死ぬのは最も不幸なこと、と言う考え方も、実はそれほど大きなことなのかもしれない。
 ――やりたいことより出来ることで、自分には何が出来るか考えた方が、よりベターだ。
 昭三は再考した。物事を深く考えることが昭三の一つの性向である。

出発

 昭三の考えは、石原うみの冗談をいい機会に、基本へと戻った。
 ――自分の挫折と言う経験をふまえた社会的弱者に対する思いを生かす。そのためにやっぱりホームヘルパーの現場の仕事を続ける。プラスして、将来の大きな目標を作ろう。
 昭三の鼻息は荒かった。
 将来の大きな目標とは、結論的に言うと、個人の訪問介護事業所を設立すると言うものだ。
 ――これからは、今の会社で現場の仕事をもっと沢山入れてもらおう。
 昭三は決意した。
 そして、昭三は目の前のことに集中する決心をした。目の前のことが散漫になっていたら、その先にある目標に届くことは出来ない、と悟った。
 そうだ、現在の昭三のやりたいことは、今就いているホームヘルパーの現場を仕事をやっていくことだ。
 その上で、将来の個人訪問介護事業所設立のために、資金を貯めることが出来たらいい。
 これが、昭三の出した、長い間苦しんで到達した答えだ。
 現実感のあるリアルな答えだと昭三自身も感じている。
 それともう一つやりたかった文章を書くと言うことは、空いている時間にいつでも出来ると昭三は思った。
 ――書きたい時に書きたい事を思いっ切り書こう。それで、充分過ぎる位充分ではないか。
 昭三は決心は強かった。

 それから、昭三はもうすっかり清々しい気持ちになって、明日からの現実の仕事も、思いやりをもって、効率良く、元気に爽やかにやっていこうと言う気概で胸がいっぱいになった。
 相談や話し相手になってくれた利用者の石原うみに対して、感謝の気持ちいっぱいで、感謝してもし尽くせない、と昭三は感じていた。
 ――ありがたい、みんなが私の味方だ。
 昭三は更に大きく感謝していた。そして、心の中でキラキラした希望に満ちた大きな声をあげていた。
 「よし、とにかく目の前のことを死に物狂いでやってやるぞ!」

リ・スタート!

きっと答えは身近なところにあるのだ、と言うのが、最も伝えたかった趣旨です。
昭三がこの後、何も迷わずに順風満帆に夢に向かって突き進んでいくか、どうなるでしょう。
きっと多少の路線変更もありうるでしょう。
しかし、その都度何回も答えを出せばいいのだと私は思います。
現実社会は非常に流動的だから、しなやかにたくましく、誰も体験出来ない貴重な挫折を生かした、彼なりの人生を送ってもらいたいと思います。
最後まで読んで下さった方、本当にありがとうございました。
また、新しい小説を書きたいと思います。

リ・スタート!

簡単に言うと、主人公川藁昭三の、長いモラトリアムからの脱却を描いた物語です。 どのような過程を経て、どのような結論に至ったか。 至ってシンプルな、しかし時々で応用をきかせて導ける、現実的な終焉を迎えます。 挫折体験のある主人公は繰り返し思考し、相談し、悩みました。 色々と問題が起こるでしょうが、明るい未来に向かって、主人公川藁昭三は心理的な再出発をします。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. はじまり
  2. 石原うみ
  3. 過去の挫折
  4. 石原うみの問い
  5. 深夜の思考
  6. 冗談
  7. 出発