記憶

 それは、ほんの気まぐれだったのだろうと思います。ですが、その気まぐれが、まだ膨らみきっていない私の胸に仕舞ってあった思い出を引っ張り出すきっかけとなったことは、確かです。

     *     *

 足音がします。続けて、戸の開く音。誰のものでしょうか。むろん、確認せずとも分かります。母に決まっています。
 ――おはよう。
 寝床から見上げる私の顔を、慈しむようにじっと見つめます。これは、かつての記憶。確かに存在したはずの過去。たまに、断片的に思い出すことがあります。幼かったから憶えているわけないことも、ふとした瞬間に、揺らめく陽炎のように現れるのです。
 だから決して、この映像は雨に煙る窓の外に浮かび上がる幻影などではありません。
 ――ほら、うまく焼けたわよ。
 甘い匂いがします。心地よいまでに。

 リズミカルな雨音が、屋根に当たって音楽を奏でている夜でした。私は聞き惚れそうになってしまいます。ぼんやりと、無数の線が流れる外を眺めていました。
「絵馬、戸締まりは済んだのかしら」
 不意の声に驚いて見やると、少し不機嫌そうな奥様が立っていました。意志の強そうな唇を、きゅっと引き結び。
「申し訳ありません、まだ途中でした」
「風景に見惚れているなんて、とんだ怠慢ね。――それに、こんな天気の悪い夜景、心が浮き立つものかしら」
 無論、お天気がよくて、心にすっと風が吹き込んでくるような晴れは好きです。ですが、雨の日も嫌いではありません。打ちつける雨音に支配され、世界がすっぽりと幕に覆われたような感覚が心地よいからです。
 早歩きで赤い絨毯が敷きつめられた廊下を渡り、まだ済ませていなかった窓の戸締まりを再開します。鍵には手が届きますが、その窓は私よりも背が高く、鳥が誤って頭をぶつけてしまうくらい、一点の曇りもありません。
 この街で、一番大きなお屋敷。私は、ここで使用人をしています。名を、絵馬といいます。以後、お見知りおきを。
 両親を物心がつく前に亡くしてしまい、ほんとうに幼かった私を、ここの内海家のご主人様が拾ってくださったそうです。以来、ここで育てられ、十代半ばとなった今では、使用人として働いております。せめてもの、ご恩返しをと。
 両親がいないことで、ふと一人で心を落ち着けたときなどに寂しさが去来することはありません。その面影はきわめておぼろげなものですし、このお屋敷に来てからというもの、孤独を感じる瞬間は少なかったですから。ただ、こう思います。家族はきっといいものなのでしょう。
 最後の窓を施錠してから、ふう、と安堵の息を漏らしたとき、誰かに肩を叩かれました。また奥様かと思って振り向くと、そこにいたのはさくらお嬢様でした。
「お嬢様……」
 驚きました。とうにお休みになられていると思っていましたから。
 歳は私とそう違いませんが、お嬢様はとてもお美しく、相手を惹きつけるような笑みをお持ちです。私などとは、比べるのもおこがましいほどに。
「さっき、お義母様に叱られたでしょう」
 そう言って、私の目を覗き込みます。透き通るような茶色の瞳に、戸惑いの色を浮かべた私の表情が映っていました。
「気にすることないわよ。私のせいで、少し機嫌が悪いみたいだから」
 それから、肩を落とすような仕草を見せます。
「絵馬、聞いてくれるかしら。お義母様が、牛島さんとのお付き合いを知ってしまったの」
 それは、以前より聞かされていたことでした。お嬢様には、牛島様という将来を約束し合った方がいて、しかし、その関係をご主人様と奥様には黙っていたのです。どうも、お二人には身分の差があって、特に奥様が反対なさるからだそうです。
 ついに、発覚してしまったのでしょうか。
「思っていた通りね。お義母様は、いい顔をしなかったわ。――それに、ずっと隠していたものだから」
 沈んだ表情のお嬢様に、どんな言葉をかけるのが正解なのか、私には分かりませんでした。
「もう遅い時間だからって、お父様が執り成してくれて、何とか解放されたのだけど。これでは、この先どうなったものか判じえないわね」
「お嬢様……」
 淋しげなそのお姿は、可哀想ではありました。お嬢様の想いも、たびたび聞かされていたものですから、尚更です。
 ですが、憚りながら申し上げますと、奥様のお気持ちも分からなくはありませんでした。「お義母様」と言うように、奥様とお嬢様は血の繋がった母と娘ではないのです。お嬢様も早くに実のお母様を亡くされていて、今の奥様は、ご主人様の再婚相手でした。お二人はすぐに馴染み、複雑な関係は生じませんでしたが、奥様は少し神経質なところがあったようです。自分が後妻としてこの家に入ったことで、娘が世間様に顔向けできないような子に育ってしまったらどうしよう。きっと、私が後ろ指を差されるのだろう、と、そんな風に。そのため、必要以上に厳しく当たることもあったでしょう。
 お嬢様は立派に成長し、これからますます素敵な女性になるはずです。それは、ひとえに奥様のおかげでもあります。今回のことがきっかけで、お二人の仲が険悪にならなければよいのですが。
「ごめんなさい、夜更けに引き止めたりして。お休みなさい」
 背中を向けるお嬢様に、お休みなさいませと小声で返します。
 外は相変わらずの雨模様で、今はそれが少し恨めしく感じました。

 明くる日、遠くまで見晴るかせそうな快晴。
 いつも通り朝早くに目が醒めて、私は厨房へ向かいました。朝食の支度を手伝うためです。暗がりに差し込む早朝の柔らかな日差しのアーチ、くぐり抜ける私に追随する足音の群れ。平素と同じ一日の始まり。しかし、この日は嗅覚に飛び込んでくるものが違う気がしました。
 厨房に近づくにつれ、何とも甘い、いい匂いがするのです。癒しを覚えました。挨拶をしながらその扉を開けました。
「おはようございます」
「おはよう」
 内海家に住み込みで働いている料理人の鍋島さんの手元に、その甘い匂いの正体がありました。それは、アップルパイでした。
「どうされたんですか、朝から――」
 アップルパイをお作りになって、と私は尋ねました。
 無口な鍋島さんは仏頂面を崩さないまま、
「朝食後に召し上がっていただこうと思って」
 ぼそぼそと言いました。無愛想ではありますけれど、その料理の腕は確かです。
「それに――」
 鍋島さんが何かを言いかけました。私がじっと視線を注ぐと、「いや、」と苦笑を見せて、首を振りました。
「いや、黙っていて欲しいのだが……。昨夜、奥様とお嬢様が口論なさっている様子を立ち聞きしてしまったから、甘いものでも食べて、気持ちをほぐしてくだされば、と考えてな」
 そんな気配りを働かすことができるところこそ、彼が長く勤めている所以です。
 私は静かに頷きました。きっと、その意図は奏功するでしょう。
「とてもいい匂いがしますね。おいしそうです」
「たくさん作ったから、絵馬も食べるといい」
「本当ですか。ありがとうございます」
 厨房を後にしようとしたとき、ふと、奇妙な感覚に囚われました。この匂いは私をどこかに連れて行ってくれそうな気がする――。

 朝食の刻限になって、お嬢様を除く皆様が揃いました。昨日のことがあってか、部屋から出てこようとしないのです。呼びに行こうとしましたが、「ほっときなさい」と奥様に止められてしまい、仕方なく後でお盆に載せて運ぶことにしました。
 食後の紅茶と一緒に、今朝はアップルパイが出されました。
 食卓に配膳して厨房に戻り、鍋島さんに勧められて、私はそのアップルパイをいただくことにしました。
 はあ、おいしい。口の中にまで芳醇な香りが広がります。
「おい、どうした……」
 声の方を見ると、鍋島さんが不思議な表情をしていました。心配しているような、うろたえているような。いつもの無表情はどこへ行ったのでしょう。
「絵馬、どうして――泣いているんだ」
 私は指摘されるまで、自分が大粒の涙を流していることに気がつきませんでした。

 部屋のドアをノックします。遅れて、「どなた」という声が返ってきました。
「絵馬です」
「……どうぞ」
 ゆっくりとドアノブを回すと、お嬢様は部屋の中央で立っていました。目を瞠りました。お嬢様は出掛ける支度をしていたのです。
「どこかへお出掛けになるのですか」
 問い質してみても、応答はありませんでした。ドアの前でお盆を両手にずっと立ち尽くしたまま、辛抱強く待ちます。
「まさか、ここから出て行かれるのですか」
「ここにいたままでは、状況は好転してくれないわ」
「だめです」
 自分の大声に自分が驚かされました。こんな声を出したのは未だかつてなかったことです。しかし、萎縮している場合ではありませんでした。伝えなければ。
「家出などなさったら、きっと奥様はお悲しみになります」

 ――ほら、いい匂いでしょう。召し上がれ。
 アップルパイを食べたとき、記憶の彼方に忘却されていた情景が思い起こされたのです。まだ幼かった頃、今は亡き母が私のために作ってくれた思い出の味。
 ――おかあさま、とってもおいしいです。
 舌の回らない喋り方のくせに、一丁前のことを言っていました。傍らで、母がにっこりと微笑みます。
 ――異国ではね、母親が子どものためにアップルパイを作るのよ。たんとお食べ。
 ――はい。
 どうして忘れていたのでしょう。でも、思い出せてよかった。

 お嬢様も家族を失う苦しみを知っているはずです。離ればなれになるなんて、心が痛くなるほどに悲しいことです。
「ご自分の想いを正直に打ち明けて向き合えば、きっと、いえ、絶対に分かり合えると思います。だから――逃げるような真似はしないでください」
 頷いてくれるように祈りながら、じっとその横顔を見つめます。お盆からは冷めても途切れることなく、甘い匂いが鼻腔をくすぐりました。

「お義母様」
 お話があります、とお嬢様は告げました。背中に控えているだけでも、その表情が真剣そのものなのだろうということが伝わってきます。
 食事をすでに終えられていた奥様は、ゆっくりと首を傾けます。――アップルパイの載っていた皿も、綺麗に平らげられていました。
「何かしら?」
 二人の様子を捉えながらも、どこか落ち着いているご主人様とご子息の久成様。ひとまず静観、というところでしょうか。
「ずっと黙っていて申し訳ありませんでした。改めて、ご報告いたします。私は、牛島さんという方とお付き合いをしています」
「それは、」奥様は短く息を吐きました。「いずれ夫婦となることを前提としているものなのかしら」
 お嬢様は返事の代わりにゆっくりと首肯しました。
 しばし、沈黙が流れます。相変わらず、口出しをする気配のないご主人様と久成様。普段から物静かで、必要なこと以外は喋らないご主人様なら分かりますが、奥様やお嬢様に「お調子者」と評される久成様が神妙になさっているのは、何とも不思議でした。それだけ、ことの重要さを物語っているのかもしれません。
「あなたはまだ若い。将来を約束する相手を決めるには、まだ早いわ。これからもっといい人が見つかるかもしれないのに、焦る必要はない」
「焦ってなどいません」お嬢様は少し声を高めます。「それに、私はもう十八です。将来を見据えていてもおかしくないはずです」
「だとしても、もっとよく考えて、慎重に吟味しなければならないわ。――あんな、身分の低い男なんて」
 昨夜であれば、お嬢様はこの一言に反発されて、お屋敷から出て行こうとなさったでしょう。ですが、ぐっと堪える間を置いて、平素の声の調子でこう返しました。
「お義母様が私のためを思って、内海家のためを思ってそう言ってくださるのはよく分かります。それに、嬉しいことです。私をどこに嫁に出しても恥ずかしくないように、厳しく躾けてくださいました。内海家がより興るために、私を家格の高い家へと嫁がせようとするのも、賢明なご判断です。
 ですが、私にはそれらを踏まえていても、どうしても一緒になりたい、ならずにはおれない方がいるのです。たとえ身分は低くとも、彼は立派な男性ですし、私は強く惹かれました。
 どうか、私のどうしようもないわがままを聞いてくださいませんか。この通りです」
 ここまで淀みなく一気に話すと、お嬢様は深々と頭を下げました。
「お義母様」
 それまで黙っていた久成様が、ぽつりと口を挟みました。
「内海家を保ち、さらにはより興していこうとするご覚悟は、ここにいる誰もが理解しています。後妻が家格を貶めたと、後ろ指を差す者は一人もありません。
 妹が身分の低い某と夫婦になるのであれば、私がもっとよき縁を拾ってまいります」
「――――」
 椅子の軋む音がしました。一番奥の席で腕組みをしていたご主人様が、大儀そうに立ち上がったのです。
「まったく、我が子らは面白いことを申すものだ」
 場にそぐわない笑いを漏らしてから、その視線が向かった先は奥様でした。
「言いたいことは分かるし、気持ちも充分に汲み取れる。しかし、娘があそこまで強く言い切るのだ。その意志を尊重してやろうではないか。
 それに、私は牛島という青年を知っているが、彼はなかなか見どころのある男だ。現在は身分の高くないことは間違いない、それでも、娘と二人で興していけるかもしれぬ。その可能性は請け合う」
 驚いたことに、ご主人様まで賛同の意を表明したのです。お嬢様の喜びはひとしおです。その証拠に、涙がひとしずく、頬を滑り降りたのですから。
「さくら」
 奥様がお嬢様の名を呟きました。お嬢様は下げていた頭を上げます。
「あなた、アップルパイは召し上がったかしら」
 一瞬、きょとんとしてから、「いいえ」と首を振りました。
「とてもおいしいわよ。――絵馬」
「はい」
 唐突に呼ばれ、わずかに声が上ずります。
「私ももう一ついただきたいわ。持ってきてくれるかしら」
 そうして、晴れやかな表情を浮かべたのです。
「かしこまりました」
 よかった、そう思いました。
 厨房に入り、鍋島さんにお代わりを告げると、待ち構えていたように鷹揚に頷きました。

 中庭で花に水をやっていると、声をかけられました。
「絵馬」
 お嬢様です。
「ありがとう。あなたのおかげよ」
「とんでもございません」
 そんな言葉をかけられてしまい、私は恐縮いたしました。
「いいの。ありがとう」
 そうして、背中を向けられます。面と向かって誰かに感謝されるのは、生まれて初めてです。俄かには信じられないと感じました。
 でも、心の内は見渡せば広がる、どこまでも青く透き通る空みたいでした。

 ――私には血の繋がった父と母はもういません。
 しかし、ここでもたらされた大切な繋がりは、それに引けを取らないくらいかけがえのないものです。失ってから気づくのでは遅いのです。
 そう、恐れ多くも考えました。

記憶

記憶

使用人の絵馬は、ふとしたきっかけで幼い頃のことを想起する。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-09-11

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