いつだってはじめては

 全体の構造を把握するのが大変なほどの広さを有する学校の内部、私は一人で歩いている。何か目的があるような足取りだけど、さっきから同じところをぐるぐると回っている気がする。エスカレーターで上の階まで行ったかと思うと、また下の階へ。
 大きな窓から差し込む光が柔らかい。ほんのりと、校内を照らし出している。綺麗な情景だなとうっとりしていると、ふいに自分の右手に確かな感触を覚える。誰かと手を絡ませている。恋人同士のような繋ぎ方をして。腕の先を目の端で捉えようとすると、どうしてか顔がよく見えない。でも、体つきから、掌の厚さから、男の人だということだけは分かる。
 私たちは逃げた。途方もない何かから。校内を、周囲の目も憚らずに走って逃げた。腋にじっとりと嫌な汗をかいていた。今この瞬間、私は悲劇のヒロイン。
 視界が開けた。広い場所に出る。あちこちに談笑する若者がいた。やっぱり、ここは広くて大きな私の通う学校だ。空が見える。さっきからの柔らかい光は嘘ではなかったのだ。
 男の腕に促されるようにして、あるいは自らの意思で、私たちは建物と建物の間の細い道に滑り込む。それでも、まだ追っ手をまけていない。よく見ると、建物の壁面にはいくつもの穴が穿たれ、人が入れるようになっている。私は咄嗟に潜り込んだ。その瞬間、それぞれの意思が反したのだろうか、繋がれていた手が離れる。彼だけは、そのまま走って奥の湖へ向かう。
 私は急いでそこにあった毛布を拾い、全身を覆った。息を殺して私を不安にする恐怖が通過するのを待つ。
 声がした。「こっちだ!」気づかれてしまっただろうか。続けて、「ここだな」という話し声がすぐ近くでする。一巻の終わりだと思ったと同時に、細長い棒状のもので突かれる――。

 そこで目を覚ました。少しぼんやりしてしまってから、ここが私の家で、ちゃんとベッドの上だと理解する。
「夢か……」
 リアリティがあって、細部まで記憶していられる不思議な夢だった。手の感触も思い出せる。あれは、誰だったのだろう。
 しばらく夢見心地だった。少しずつ精神が現実世界に帰ってくる。
 汗が気持ち悪くて起き上がった。携帯を手に取って、着信履歴を確認する。そのほとんどを占めている名前は「東海林(しょうじ)栞」。
『入学式、中止になっちゃったんだね。』
 彼女の言葉のとおりだった。それでも、私たちの大学生活は始まる。
 数週間前に、東北地方を中心とした未曽有の大震災が発生した。ここ東京でも被害があり、また、余震の恐れがあるため、大学の入学式が自粛されることになってしまった。大学の入学式は人生で一度きりしかないのに、仕方のないこととはいえ、やるせない。
 授業の開始も一か月近く遅らすため、春休みが引き伸ばされた。緊張していた心はすっかり萎えてしまう。春から大学生だ、と息巻いていた私の心は、初夏から大学生だ、に変わる。
 栞はどうするのだろう。急に与えられたたくさんの時間。でも、きっと読みたい本が抱えきれないほどあるから、あっという間に潰せてしまうのだろうな。
 私はどうしよう。私も読書が好きだから、それだけで日々を送ったって悪いとは感じない。むしろ、至福のひととき。とはいえ。
「アルバイトでもしてみようかな……」

 栞とは長い付き合いになる。中学生の頃に出会ったから、幼馴染というほどのものではない。親友、と呼ぶには十分だろう。
 栞は引っ込み思案な性格だった。自分から誰かに話しかけられなくて、いつも教室の隅で俯いていた。
 私もそんなに社交的な人間ではないけれど、それなりに友達はいて、ちゃんと学生生活を満喫できていた。だから、栞がどうしてあんなに怯えたようにしているのか理解できなかった。特に注意を払うこともなく、たまに腰まで伸びた黒髪を目にし、その存在を思い出す程度だった。
 私たちの関係が変わったきっかけは本だった。ジャンルは違ったけど、互いに本を読むことを心底愛していた。でも、振り返ってみれば、好きなジャンルが違ったからこそ、私たちはそれぞれの価値観に惹かれたのかもしれない。すぐに共感するのではなく、共有していく過程が私たちを友達にしていく時間だった。
 ――本、好きなの?
 学校の図書室で、今までに見たことのない明るい表情をして本棚と向かい合っている姿を見かけ、つい声をかけてしまった。栞はびっくりしたように振り向いて、目を見開いた。その目は、私が腕に抱えたたくさんの単行本を認めると、和らいだ。そんな風に、笑えるのね。
 ――うん。
 話してみれば、栞は暗い子ではなかった。おしゃべりなわけじゃないけど、純粋で、優しい心の持ち主だった。本が好きな子なんてほかにもいる。その中でも栞といつも一緒にいる関係になれたのは、彼女の内面に強い憧れを覚えていたからだろう。眩しいくらい、いい子。親友になれたのは自然な成り行きだったのだ。
 それまで仲よくしていた人たちとは、少し距離ができてしまった。栞との距離が急激に縮まったために。それでよかったのかどうかなんて、考えもしない。それくらい、見えない誰かに導かれた運命に思えたから。
 そこに、少ししてから桜が加わった。

          *

 これから、入学式。さっきから緊張でどうにかなってしまいそうだった。まだ見慣れない中学校の教室、その片隅で、わたしはただひたすら俯いているしかなかった。周囲の会話の内容がまったく頭に入ってこない。ただ、騒がしく響くだけ。
 昔からこうだった。大人しくて、臆病で、人見知り。話しかけなきゃ何も始まらない、そう分かってはいても、嫌な反応が返ってきたらと少しでも想像すると、私は動けなくなる。
 いてもいなくてもいい存在。
 幼いながらにそんな悲しい形容を自らに与えていた。現実をなかなか直視できない子どもは、想像の部屋に閉じこもってしまう。誰かから手を差し伸べられるまで。
 講堂へ移動になっても、わたしは誰かと目を合わすことすらせずに、廊下に出た。出席番号順に整列するとき、男子の一人とぶつかりそうになって、慌ててよけた。ぶつからなくてよかったと、安堵する。整列が済んでから、「これから講堂まで移動するので、静かにするように」と担任の先生に言われ、周囲の高揚は一気に落ち着く。ようやく騒がしくなくなったと、再び安堵する。
 終始、こんな調子だった。
 本が読みたい。今、わたしは本の世界に浸りたくてしょうがない。わたしの好きな、わたしを決して裏切らない世界。逃げ込める何かがあるのはまだいいことだ。それまで堪えよう。そう、胸のうちで唱えていた。

 入学式が終わると、お昼前には下校になった。きっと、みんなは新しい友達ができて浮かれているのだろうな。せめて、小学校からの友達がいてくれたらよかったのに。タイミングの悪いことに、我が家はわたしの小学校卒業と同時に引っ越してしまったため、気の置けない仲間は一人もいない。
 ぐるぐる、ぐるぐる考える。大きくしすぎた不安と、一方的な希望。そういえば今日、先生から名前を呼ばれて返事をした以外に口を開く機会がなかった。そう気づいたときには帰りの準備が完了して、わたしは幽霊みたいな足取りで教室から抜け出す。安心で、硬直していた気持ちが和らぐのが情けない。だけども、こういう性格なのだから仕方ない。
 誰にともなくする言い訳。
 校門を出ると、閑静な住宅街をとぼとぼと歩いていく。早く帰って本の続きが読みたい。一方で、あんまり早く帰ってしまうと、友達ができていないことを心配されるかもしれない。まだ初日だと笑い飛ばすことはできる。でも、気遣わしげに訊かれたら、わたしはダメな子なのではないか、と暗い闇がたちこめる。笑っても晴れない闇。折り合いのつけられない思い。
 にゃあ、と鳴き声がした。声のした方に首をめぐらすと、塀の上に白と茶の混じった猫がいた。わたしと目が合うと、「まったく、楽しくないことばかり考えているな」と嘲るように欠伸を一つした。ほんのりピンクの舌が覗く。
 わたしは立ち止まって、話しかけた。
「そうは言っても、猫さん。人間社会はとても難しいところなのよ」
 すると、答えるように、にゃあ、と鳴く。たぶん、「難しいというけど、あなた以外は上手くやっているじゃないか」とか言っているのだろう。むむむ、正論だ。
 猫は人の話している言葉が分かるのだ。最近読んだ『吾輩は猫である』という小説でそれを知った。そのくせ猫たちは、にゃあ、としか言わないけれど。
「これから、きっと友達はできるわ。学校はまだ始まってすぐなのだから」
 また、鳴く。察するに、「自分から話しかけなきゃ、友達ってもんはできないと思うけど」といったところだろうか。その通りだ。それくらい、分かっているつもり。どうしたらいいかは明白。あとは、一歩踏み出すこと。
 これ以上やりとりを交わしても負けるばかりだから、「さようなら」と別れを告げた。また、帰り道を辿りだす。背中に「ごきげんよう、さようなら」という鳴き声が届く。何とも優雅な猫だ。裕福な家庭で飼われているのかな。
 明日は分からないけれど、これから何度も会えるだろう。そんな気がした。

 憂鬱な日々が続いた。学校へ行っても、身を潜めるようにして大人しく授業を受けるだけ。給食のとき、掃除のときなど、必要に迫られて言葉を交わす機会はぽつぽつと訪れたものの、未だに友達と呼べるような存在はいない。休み時間はすべて本を読むことに充てた。
 塞ぎ込んだ心を癒してくれたのは通学路の桜だった。学校から家までの中途には、美しい桜並木がある。時間を忘れて、ぼんやりと見惚れてしまうこともしばしば。そうそう、猫にも会って、よく話を聞いてもらっている。
 放課後。クラスのみんなは部活動に励んでいる時間、わたしは図書室に足を向ける。図書室はオアシスだ。棚に並べられた本たちを見ると、やっとまともに呼吸ができたような心地になる。だから結局、それなりに毎日に満足してしまって、帰る頃には登校するときの重い足取りを忘れる。
 こんな日常が繰り返されているうちに中学校生活が終わってしまうのだろうか。ふと立ち止まる瞬間に、思う。はたから見たら読書だけして帰る、起伏のない日常に映るのかもしれない。読んでいる内容は日々変化しているのだから、その世界に浸っているわたしは起伏がないなんて感じていないけれど。
「本、好きなの?」
 誰かに話しかけられることが久しぶりで、わたしはほんとうにびっくりした。反射的に声の主を確認すると、女の子が立っていた。目が大きくて、肌が白い。どこか大人っぽい雰囲気があって、とてもかわいい子だった。
 視線を少し下げると、彼女は数冊の本を抱えていた。そして、質問されていたことを思い出す。彼女も本が好きなのかな。
「うん」
 ちゃんと答えられた。自然と笑顔になれていた。図書室だったからか、本のことについて尋ねられたからか。
「どんな本を読むの?」
「わたしは、ファンタジーとか歴史ものとか」
 一呼吸おいてから、同じ質問をした。「あなたは?」
「わたしは、最近はミステリーが好きかな。いろいろ読むよ」
「ミステリー。『そして誰もいなくなった』は読んだ?」
 彼女は頷く。
「読んだよ。最後はびっくりさせられた」
「わたしも。それと、ちょっと怖かったかも」
 互いに笑みを交わす。今まで恐れていた自分を不思議に思うくらい、何ら弊害もなく会話できている。猫に報告してあげなければ。
「確か、同じクラスだったよね。わたしは田島京(みやこ)」
 そうだったのか。周りを見ていなかったから、あんまりクラスの人の顔を憶えていなかった。
「わたしは、東海林栞」
 よろしくね、とどちらからともなく言い添える。
 図書室での出会い。これが、京とはじめて話した日のことだった。
 そして、桜がもう散ってしまった頃になって、わたしは桜とも友達になった。

          *

 起きてからしばらくは読書をしていた。スタンダールの『赤と黒』。引き込まれるままに読み進めていたら、すっかりお昼時になっていた。少し、出かけようかしら。だが、その前に調べておきたいことがある。
 自分のノートパソコンを開いて、インターネットで検索を始めた。いくつか、思いつく書店名を打ち込んでいく。
 アルバイトをするなら絶対に書店がいいと思っていた。働いた経験はないものの、本と関わるものだったら向上心を持って取り組めるだろうと踏んでいる。薄給だとか、意外と体力を使うとかいう噂も耳にするけれど、ほかのバイト先でつらい思いをするよりもずっとマシ。
 調べた結果、アルバイトの募集をしているところはたくさんあった。ちょうど新年度に入って、入れ替わりの時期でもあるからだろう。あとは、場所や条件を比べて決めるだけ。勤務時間が午前中から昼過ぎまでだと、学業との両立が図れない。あんまり家や大学から遠い場所では苦労する。給料は大差ないから(確かに飲食店などと比較すると劣る)、それほど気にしなかった。
 検討した結果、大学から二駅のところにある大型書店に応募してみることに決めた。何度か足を運んだこともあるし、一日の勤務時間がそんなに長くない。はじめてのバイトとしてはこれ以上なさそうだ。まあ、まだ働かせてもらえると分かったわけではないけれど。

 鏡に映る自分の姿を見つめる。肩にかかるくらいの黒髪、結ばないで下(おろ)していることが多い。中学生のときからずっとこの髪型だ。せっかく大学生になるのだから、明るい色に染めたり、巻いてみたりしたいと考えなくはない。でも、そのくらい誰だって考えるだろうから、ほかの人とかぶってしまうのは嫌だな、と思うと決断を鈍らせる。詰まるところ、慣れ親しんだこの見た目が一番。
 栞は出会った頃からずっと、腰まで伸びた長い髪を三つ編みにしていた。雨の日も風の日も、毎日。小さいうちは母親に編んでもらっていたそうだが、すぐに自分でやるようになったという。ほかの人と絶対にかぶらないその髪型は、大人しい彼女の存在感を主張していた。大学生になってもやめてほしくないし、彼女らしさを表す一端だと私は思っている。
 栞はたびたび私のことをかわいいと褒めてくれる。大人っぽいね、と言ってくれる。歯の浮いたようなお世辞は厭わしいものなのに、栞に限っては嫌な感じがしない。むしろ、素直に嬉しい。
 私は図書室で話したときから、彼女の透明感に驚いていた。肌が綺麗だとか、シミが一つもないだとか、そんな誰かに当てはめられる形容に留まるものではない。それは内側から輝きを発しているような。瞳がきらきらとしていて、じっと見つめられると気後れする。彼女を知れば知るほどに、その純粋さに羨ましさを覚えた。
 私たちを結びつける感情は強い。それは相手を好意的に捉えるものと、それから、羨望と。いろんな側面を有することで引力は確かになっていく。
 とはいえ、普段はこんな七面倒なことを考えて接してはいない。気が合うからずっと一緒にいるだけだ。それが友達というもの。
 さてと、洗面所から自分の部屋へ戻ろうとした刹那、ズボンのポケットに入れた携帯が震えた。着信、知らない番号だ。もしもし、とそっと出てみると、硬い男の人の声がした。
 履歴書を持参して店舗の方に来てほしい、ということだった。アルバイトの面接をするから。

 大学生になるに際してスーツを購入した。学生時代の制服と異なり、上下黒のそれは大人の象徴だった。早く着る機会が訪れないかと楽しみにしていた。本来、真っ先にその機会となり得たのは入学式だった。当然、すべての学生がスーツを着用して集結する。ところがその機会は潰えた。
 アルバイトの面接で着ていこうか迷った。特に服装の指定はされなかったが、なるべくフォーマルな格好を心掛けた方が印象も違うだろう。だけど……。
 なんとなく、栞に聞いてみることにした。携帯を取り出し、メールを送る。
『アルバイトの面接があるんだけど、スーツで行ったら変かな。私服でいいのだろうか。』
 送信が完了してから、少し待ってみたものの、掌の中の携帯はうんともすんとも言わない。栞はマメにメールをチェックする人ではないため、はじめから即座に返信があることを期待していなかった。
 ベッドに放り投げて、気長に待とうと自らを頷かせる。

 震災の日、私は図書館にいた。まだ大学受験が終わっていなくて、参考書で勉強に励んでいたのだ。それが起こったのは夕方頃。最初の揺れから、いつもの地震とは様子が違うと感覚的に理解できた。だが、咄嗟のことだから机の下に入ることもできず、周囲の状況をじっと見守った。
 そうしたら、今度は横揺れがきて、しばらく続いた。ぎしぎしと机の脚が軋み、あちこちから本の落ちる音がした。頭上にある蛍光灯が落ちてこないか不安に感じ、そこでようやく机の下に潜った。周りの人たちも同じようにしていた。子どもは、恐怖からか泣き声を発していた。
 落ち着くと、みな机の下から這い出てくる。窓ガラスにヒビが入ることもなく、蛍光灯も落下していない。ただ、本棚からたくさんの本や雑誌が地面にこぼれていた。図書館のスタッフが緊張した面持ちでやって来、怪我人がいないか確認を取っている。
 かなり大きな地震だったらしい。私は家族や友達が無事かどうか心配になった。まず、家族に電話をかけようとして――つと、躊躇する。やっぱり、と思い直して栞の番号を選択する。誰よりも栞の安否が気がかりだった。
 だが、同時に大勢の人が電話やメールを試みたためか、電波が通じない。携帯がその役割を発揮できなくなっていた。家族にもかけてみたけれど、こちらも無理だった。「あけましておめでとう」を伝えたいときに回線が混雑する元日みたいだ、そんな考えがよぎったけど、現況はまるでめでたくない。
 結局、安否を確認できたのは夜になってからだった。あちこちで動揺する人々の声が聞こえる中、図書館から自宅までがんばって歩いた。帰り着いて、家族全員の無事を知る。そして、すっかり使いものにならなくなっていた携帯を久しぶりに見やると、栞からメールが届いていた。
『地震、かなり大きかったね。私は無事でした。京は大丈夫ですか?』

『アルバイトの面接のときは私服でいいと思うよ。まあ、スーツがダメっていうことはないと思うけど。京、バイト始めるんだ。実は、私も応募して、近々面接があるんだ。お互い、考えることは一緒みたいね。』
 数時間経ってから返信があった。栞はたとえ日を跨いだとしても、「遅れてごめん」とは言わない。私も急かすことは決してない。気にしなくてもいい、些末なことだという了解があるから。
 私服で行くものなのか。スーツデビューは持ち越しになりそうだ。でも、待ち焦がれる分だけ出番が到来したときの喜びは大きくなるはず。
 数週間前の震災のことを思い出していた。揺れの強さに恐怖したし、身近な人がみななんともなくて安心した。しかし、ニュースで映し出された東北地方の惨状は、私の心を深く抉った。津波が、信じられない速さと力で何もかもを奪い去っていく。震源だった東北では、東京以上に揺れと津波の被害がもたらされた。
 こんなことがあるのか。それが正直な感想だった。とても現実に起こっている出来事だとは思えなかった。それくらい、その光景は絶望的に映った。でも、残念ながらそれは現実。
 気持ちは塞いだけど、東京では日に日にかつての様相を取り戻していった。学校の日程に変更を来たしたわけだが、アルバイトを始めてみようかなと思えるくらいには、平和な日常が戻りつつある。
 それにしても、栞までアルバイトを始めるなんて意外だ。ずっと傍にいるからこそ、彼女が僅かずつでも積極的な性格になっているのが分かる。
 どこで働くのだろうか。私と同じように、本に関わる仕事を選ぶのかな。またメールで尋ねてみてもよかったけど、そのうち詳しく聞けるだろうと考えてやめた。

          *

 わたしは京に人生をもらった。周りの人と同じ方向へ踏み出すための息を吹き込んでもらったのだ。
 そして、そこに彩りを添えたのはきっと桜だった。
 桜は明るくて、元気な子。クラスの中心にいて、くるくると表情を変え、あたり一面に笑顔を振りまいていた。かつては、わたしたちとは少し距離が感じられた。
 京と二人で学校生活を送るようになって、春が終わりを迎えて。小学校までとは違う新しい勉強、人間関係。でもその隙間を埋めていたのは本を読むことだった。元から読んでみたいものはたくさんあった。それに加え、京と出会ったことで、薦められて興味を抱く機会ができた。あっという間に世界が広がっていく。一人でも十分楽しいつもりだったけれど、読書は共有することでよりきらめきを増す。
 放課後、部活に入っていないわたしと京は図書室に通った。毎日、というわけではないけど、そこで一日の残りの時間を過ごすことが自然に思えていたのだ。
 その日も二人で図書室へ行って、思い思いの本を静かに読み進めていた。
 日が傾いてきた頃、そっと忍び込んできた珍客があった。いつもは透き通る声を響かせているのに、いつにない静謐さをたたえた桜だった。
 わたしたちに気づくと、てくてくと歩み寄ってくる。先に気配を感じ取ったのは京だった。顔を上げて、桜と目を合わす。その視線の動きにつられて、わたしも本から目を離した。
「同じクラスの田島さんと――」
「東海林、です」
 京と違って、わたしは名前を覚えてもらえていないことがしばしばあった。ただでさえ苗字は読みにくいし。
「東海林さん。二人とも、いつも放課後はここにいるの?」
 こくりと頷き返す。
「部活動もせず?」
「そうね。文芸部でもあったらよかったのだけど」
 京がすらすらと答える。ちょっと声が硬い気がした。
「ふうん」桜は安心を与えるように笑みを浮かべる。「読書が好きなんて、素敵なことね」
「あなたは、部活に入っているんじゃないの?」
 訊いてみると、うん、と首肯する。
「吹奏楽部に入っているの。音楽が昔から好きだったから」
「音楽――それも、素敵なことね」
 素直な感想だった。桜は微笑むことで応えた。
「あなたたち、とっても仲がよさそうで。遠くから眺めて、憧れを抱いていたの」
 わたしからしたら、クラスの真ん中で愛らしい表情を見せている桜の方が羨ましかった。憧れを抱いている、なんて意外な言葉だ。
「わたしも仲間に入れてくれないかしら。あなたたちと友達になりたい」
 わたしだったら絶対に言えない台詞。友達になりたい、そんな風にあのとき言えたらどんなに楽だったか。
「あ、わたしのこと認識してる? 安岐(やすき)桜っていうの」
 大丈夫、よく知っている。
 思えば、京とはじめて話したのも図書室だったが、桜ともそうだった。このときは戸惑いも大きかったけれど、温かい気持ちで迎えられる環境ではあったのだろう。

 桜はその日、やる気が欠如している吹奏楽部の部員らに業を煮やし、感情を爆発させていた。小学校高学年からトランペットを吹いていた彼女は、中学校で音楽に本気で打ち込みたいと願っていたのだ。しかし、理想とかけ離れた現実を突きつけられる。吹奏楽部では、先輩たちはまじめに練習をせず、おしゃべりに興じるばかり。同級生たちもそれに追従するだけで、音楽は片手間になっていた。顧問も名ばかり。
 いつもにこにことしている桜が突然声を大きくしたことに、周囲はびくりと反応した。強い眼差しに驚く。だが、桜は、これは手応えがないと直感した。なんだかんだと言い繕って、今までのぬるい日常を失わせないようにするはずだと。
 自分が内側から空気を変えることができるかもしれない、そんな目論見は一気にしぼむ。音楽なんて、ほかの場所でもできる。何も部活にこだわらなくていいのだ。そう考えた桜は、吹奏楽部から離れる決意をする。
 すべては後になってから聞いたこと。
 彼女は中学校生活をリセットしたかったのだろうか。改めて自分の周りを見つめ直すきっかけになったのだろうか。深い理由はもはや分からないけど、桜が新たな居場所として手を伸ばした先には――わたしと、京が。
 当初は戸惑いながらも、不器用な二人は少しずつ彼女を受け入れていく。そして、すぐに三人でいることが自然になっていく。わたしと京の二人でも、互いの持っているものがそれぞれの持っていない部分を補っていたけれど、桜はまた異なったよさを有していた。バランスがよかった、と振り返ればいいのかな。
 三人は友達になった。仲よしになった。
 桜の花びらはとうに散っていて、来年まで巡り会えないと思っていた矢先、桜と近しい関係に変わった。

          *

 かなり時間に余裕をもって、都内でも有数の繁華街へと向かう。鞄の中に白いシャツとペン、メモ帳などを忍ばせて。初出勤だから絶対に遅れるわけにはいかない。
 希望していた大型書店でアルバイトとして働かせてもらえることになった。私服で臨んだ面接は予想に反して和やかで、人のよさそうなおじさん二人と雑談をした感じだった。翌日、電話で来週からうちで働いてくれないかと伝えられた。これで、晴れて書店員。
 しかし、今度の緊張は面接の比ではない。何しろバイトをしたことがないから、店側に立ってお客さんと接するなんて想像つかない。慣れるまではほんとうに大変そうだ。
 いきなり売り場に立たされるのだろうか。なんにしても、自分からやりたいと応募したのだから、できる範囲で挑むしかない。
 さっきから読んでいる本の内容が頭に入ってこない。考えごとでいっぱい。でも、自分からやりたいと応募したのだから、できる範囲で――それは、さっきも言い聞かせた。大丈夫かな、こんなで。
 私は大人っぽい見た目と昔から言われてきた。顔立ちがまあまあ整っていることも手伝って、何ごとにも物怖じしなさそうな印象を持たれがちだ。
 だけど、内面はけっこう臆病。あれこれ考えすぎてしまうきらいがある。そして、すごく気を遣う。小学生の頃は「優しい」と言ってもらえた。でもそれは、大人になったら「消極的」に変わる。自覚している分、見透かされないように努めているが。
 桜とまともに話したのは、図書室がはじめてだった。今でも憶えている。栞といつもどおり読書しているときに、唐突に彼女は近づいてきた。
 中学生になってすぐは、同じ小学校出身の友達を中心に仲よくやっていた。それで、桜とも顔なじみでは一応あった。明るい性格、とひとことで言ってしまえば簡単だけれど、それぞれが密かに抱えている新しい環境への不安を、少しも感じさせないきらめきが見えた。
 だから、急に歩み寄ってこられた瞬間、かすかな抵抗を覚えてしまった。どうして、あなたが私たちの仲に入ってこようとしているの? 言葉にこそしなかったけど、声の調子と表情に、もしかしたら表れていたかもしれない。そして、きっと桜はそれに気づいていた。
 私は見た目で損をしていると思ったことはない。ただ、与える印象がどんなものか気にしておいて損はない、とは思っている。桜にはそんな必要がなかった。だから私たち三人はすんなり同じパッケージに収まることができた。
 電車が目的地に到着した。同時に数多の人たちが吐き出される。眠らない街。お店も忙しそうだと、今さらながらに思い至った。

 建物の複数階を有しているその書店の、最上階が更衣室のあるところ。関係者以外立ち入り禁止。面接のときもこのフロアに足を運んだけど、そこへすんなり入れてしまうことがなんだか不思議だ。
 ロックを解除するために暗証番号を打ち込んで、更衣室に踏み込む。胸を軽く押さえるようにして。
 室内はかなり手狭だった。必要最小限のスペースを用意しましたよ、と言いたげな。何人かが着替えをしている。
「おはようございます」
 もう夕方だというのに、おはよう、と言われて新鮮に感じた。たぶん、働く現場では当たり前のことなのだろう。真似をして、「おはようございます」と返す。
 着替えていたのは同じ年頃の人たちだった。きっと、これから売り場に出る「遅番」。時間帯を考慮すれば、遅番は学生が中心なのではないかな。
 服装の規定はいくつか設けられていた。上は白い襟付きシャツ。下は長めのパンツ。ジーンズでもいい。スカートはダメ(確か、社員さんは許されている)。動きやすい靴。その上から、支給されているエプロンを装着する。エプロンをつけると、まさに書店員という感じがする。
 まだ実感が湧かなくてふわふわしていたけれど、ようやく芽生えてくる。これから働くのだ。
 少し早いが売り場に向かうことにした。雰囲気を感じ取っておこう。
 バイトはエレベーターの使用が許可されていなくて、階段で下まで行かなければならない。学習参考書、洋書、医学書、ビジネス書――さまざまなフロアを通過していく。お客さんとすれ違うたびに、ぎこちなく「いらっしゃいませ」と声をかける。内心、何か尋ねられたらどうしよう、と怯えていた。頭の中で「あの、すみません」や「ちょっと訊いてもいいですか?」の幻聴が渦を巻く。
 単行本や文庫、新書の置かれた馴染みのフロア――も通過する。
 面接の最後の方で、希望する売り場があるかと問われたから、即答で文芸書売り場を挙げていた。スタートの段階で少しでも知識のあるところになれば、気持ちが楽になるに違いない。ちょっと期待していた。
 しかし、書店側にもいろいろな都合があるようで、なかなかバイトの希望どおりにはいかないらしい。私が配属されたのは雑誌売り場だった。
 普段、雑誌はあまり読まない。女性誌は立ち読みがほとんどだし、たまに文芸誌を買うくらい。ほぼ、一から覚えていかないとならない状態だ。それに、表通りに面した入口のある階なので、きっと忙しさは覚悟した方がいいだろう。
 始まる前から憂いていてもしょうがない。幸い、お客さんに何も訊かれずに済み、従業員だけが入ることを許されているバックヤードにそろりと滑り込む。また「おはようございます」が降ってきて、私も「おはようございます」を口にする。さっきよりも、はっきりと。
 中では何人かが一列になって並んでいた。更衣室を狭いと感じたけど、バックヤードもまた狭い。そのため、邪魔にならないように、みな、端に寄っている。足下にはいろんな雑誌が積まれている。
 一列になって待っている風なのは、おそらく同じ遅番。連絡事項などを伝えられる「夕礼」の時間まで待機している。
 奥には、椅子に腰掛け、パソコンと向かい合っている若い女性がいる。ほかの人が立っている中で一人だけ座っていられるのは、あの人がきっと社員さんだからだろう。長い髪を後ろで束ねている。横顔が綺麗だった。
「新人さん?」
 社員さんがこちらに気づいて、声をかけてきた。
「はい。新人の田島京です。よろしくお願い致します」
 ぺこりと頭を下げる。顔を上げると、社員さんからまっすぐな眼差しが注がれていた。あまり表情を和らげない。
「よろしくお願いします。私はこの売り場の社員、小早川です」
 それと、と私の後方に目をやる。並んでいた遅番の一人を示して、「彼があなたの指導係です。基本的にマン・ツー・マンでついてもらいます。高橋さん」
「はい」
 背の高い男の人が、少し前に出る。こう言ってしまってはなんだけど、ちょっと見た目が怖いかもしれない。いかつい。
「高橋です。よろしくね」
 怒ったら怖そうだな、と勝手に考えていたけれど、話す調子は人当たりがよさそう。
「よかったね、高橋さん。担当がかわいい女の子で」
「いやー、ほんとですよ」
 小早川さんの言葉に、高橋さんは照れる様子もなく返す。そのやりとりで、はじめて小早川さんの和らいだ表情を目の当たりにできた。かなり印象が変わる。
 バックヤードの扉が開く。また誰か入ってきた。これまた背の高い男の人で、髪を短く刈っている。何かスポーツをやっていそうだ。体格がいい。
「おはようございます」
 勢いよく入ってきたが、周囲の視線を感じて立ち止まる。胸元の名札を盗み見ると、「研修中」の文字が。私と同じだ。
「あなたが壇さん? 新人の」
「はい、そうです。よろしくお願いします」
 聞き取りやすい声で答える。
「壇、って珍しい苗字ですね」
「よく言われます。たぶん、全国でもそんなにいないと思います」
「でしょうね。――そうだ、和宮さん」
 小早川さんに呼ばれて、バイトの一人が進み出る。またしてもこう言ってしまってはなんだけど、体型がやや横に大きめの女性。でも、顔立ちは整っている。
「和宮です。壇さんの指導係を任されていますので、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 和宮さんの目を正面から捉えて、壇さんは気持ちのいい挨拶を返す。これは、同期として気後れする部分があるかもしれない。
「ちょうど入れ替わりの時期で新人が三人加わって、――もう一人は明日から出勤ですけど――分からないことも多いと思います。ベテランのみなさんでフォローしてあげてください。幸い、今日はいつもに比べたら売り場は落ち着いているので」
 それでは、夕礼を始めます。小早川さんは手元の連絡ノートに目を落とす。

 とりあえずは、とカウンターへ向かった。それまでレジに入っていた早番の人と交代する。早番は世代的にけっこう上の人たちが中心だけれど、若い人も幾人かいた。
 いきなりレジで客をさばけるわけはないため、指導係の後ろに立って、毎回の流れを見させてもらうことになった。背の高い高橋さんの背中側につく。
 いらっしゃいませ。お預かり致します。バーコードを読み取る音。二点で二千円、頂戴致します。では、五千円お預かり致します。少々お待ちくださいませ。三千円のお返しでございます。お待たせ致しました。ありがとうございました。またどうぞお越しくださいませ。
 新人の指導を任されるくらいだから、それなりに長く勤めているのだろう。すらすらと、淀みなく言葉が口をついて出る。商品を袋に入れる動作もスムーズ。
 それから何回か見ていたが、支払いには現金以外にもクレジットカード、図書カード、電子マネーなど複数のケースがあって、それらに瞬時に対応できなければならないようだ。機械の使い方も覚える必要がある。
「どう、そろそろレジに入ってみる?」
 高橋さんに軽い調子で言われ、躊躇ったのは束の間。はい、と答える自分がいた。
 一連の動作はなんとなく把握した。いつまでも見学に甘んじているわけには――というのも、隣の壇さんは、すでにレジに入って悪戦苦闘している。習うより、慣れよう。
 今日は落ち着いている日だと言っていた気がするけれど、雑誌を買いに来る人はけっこう多いように思う。たまに列ができて、大丈夫かと不安になる。これくらいで狼狽えていてはダメだということか。慣れる、かな。
 周囲を見渡す。ジャンルごとに棚が分かれている。最も場所を取っているのは女性誌。男性誌も同じくらい。ほか、実用やスポーツ、カルチャー、ホビー、ビジネス、ファイルマガジン、NHKテキストなどと掲げられている。そこになんというタイトルの雑誌が置いてあるかは、細かくて分からない。
 つい先ほどの夕礼を思い返す。連絡事項をいくつか伝えられたけど、正直ちんぷんかんぷんだった。メモ帳を用意していたのに、何を書いたらいいか分からない。いちいち訊いて確かめるわけにもいかない。
 肩をとんとん、と叩かれる。雑誌を持ったお客さんが正面近くまで来ていたことを、高橋さんに教えてられる。慌てて「いらっしゃいませ」を発する。はじめてのお客さんだ。
 雑誌を預かって、バーコードを読み取る。値段を伝えて、相手が財布からお金を出す間に商品を袋にしまう。
 お金を預かろうとしたら、図書カードを差し出された。五百円分のカード。少し足りない。
「ヘイヨウってできますか?」
 咄嗟のことで理解が追いつかない。ヘイヨウ――ようやく、「併用」に変換される。ほかの支払いと合わせてできるのか、ということか。
 なんとなく不安に感じて、高橋さんに目線をやった。意を察した高橋さんは、私ではなくお客さんに直接答えた。
「併用できますよ。先に図書カードからお引きしてよろしいですか?」
 はい、お願いします、と返ってきて、高橋さんは預かった図書カードを専用の機会に通して、レジにその額を打ち込む。差額を現金で預かって、会計が完了した。そこまでで、また元の位置に戻る。代わって私が前に一歩出、商品を渡した。
「ありがとうございました」
 深々とお辞儀をする。はじめての接客、終了。
「高橋さん、すみません。ありがとうございます」
「いや、」彼はぱたぱたと手を振る。「あれくらいでお礼なんかすることないよ」
 見た目は強面(こわもて)だけれど、とても優しい人だ。
 でも、次の言葉は本音だったのかもしれない。
「分からないのに適当にやられる方が、一番面倒くさいから」

 書店で働くイメージって、もっとのんびりしたものだと思っていた。場所柄かもしれないが、ここは百貨店みたいな慌しさだ。買いにくる客、特定のものを探している客、どこにあるかと訊かれても検索の仕方はまだ習っていないため、メモに控えて、ベテランに託す。
 だけど、楽しいと感じることができる理由を挙げるなら、どんな雑誌が売れていくのか分かる、という点。こんな人がこんな内容のものを買っていくのか。新鮮な発見。もちろん、雑誌の表紙を確認する余裕がないときも多々。お客さんの前で表紙をじっと見つめるわけにもしかない。
 終わりが見えてきた。あと少しで閉店。果てしないような気がしていたけれど、終わりを迎えるとなると確かな時間の経過を意識する。
「この雑誌って、次はいつ発売だっけ?」
 白髪交じりのおじいさんに、突然そう言われた。まあ、接客はいつだって突然だけど。
 雑誌を直接持ってきてくれたからそれを拝借し、高橋さんのもとへ持っていった。高橋さんは表紙に目を留めただけで「来週の金曜日」と即答した。
 それを伝えにいくと、おじいさんは満足したように頷きながら笑んで、パタパタと遠ざかる。ビーチサンダルを履いていた。
「あのおじいさん、いつも店に来るんだよ。何も買わないくせに」
 高橋さんが隣で眉を顰めている。そうなんですか、と相槌を打つと、それに若い女の子に適当なことを訊いて、帰ってくんだ、とさらに教えてくれる。
「今度からはそっけなくあしらっちゃっていいよ。優しくするとつけ上がるから」
 お客さんに冷たくはできないから冗談だろうけれど、しかし、そう言いたくなるほどのこれまでがあったのだろうな。
 いろんな人が書店を訪れる。ほんとに、いろんな人が。

          *

 雨の日は寂しい。一人で部屋に籠ってしまうと、余計にそう。世界の喧騒から隔絶されて、得も言われぬ孤独の中に放り出される。世界で起こっていることがこちらへ何も及ぼさない。こちらで起こったことを、外の誰かに知ってもらえない。
 この感情は本を読んでいても紛らせない。だから、雨の日は学校があって、みんなで授業を受けている方がまし。
 暑くなってきたかな、と考えていたら、また気温が落ち着いてきた。梅雨入り。ここのところ雨ばかりで、世界は三割増しで静か。登下校でいつもお目にかかる猫さんは大丈夫かしら。
 雨って悲しいのかもしれない。小説の中でも、雨は胸を塞ぐ瞬間に降る気がする。あの水滴は、誰かの内側に留めきれなかった涙が溢れてきたものなのかな。
 ベッドに寄りかかって、伸びをする。くっ、と変な声が出る。普段、ちゃんと編んでいる長い髪は無造作に広がっている。
 携帯が震えた。わたしたちを繋ぐ一筋の糸。世界からわたしへのアプローチ。いつもは見るのを後回しにしてしまうのを、このときはすぐに手に取る。外の世界がわたしの掌の上に。
『栞、雨が弱くなってきたし、お散歩しよう。京も一緒だよ。』
 桜からだった。なんとも風情のあることだ。でも、心が華やぐ。雨の寂しさも、少しは気にならなくなる。
 立ち上がって、クロゼットからワンピースを一つ引っ張り出す。髪を結ってお出かけしよう。

 さっきまでの雨があっという間に晴れたのは、桜が太陽だから。彼女の行く先々には、常に光が満ちている。
 学校で三人は集合し、桜が先導する形でてくてくと歩いた。そういえば、猫さんは見かけなかった。誰かに飼われているようだから、風邪を引いてはいないだろう。そうだといいけど。
「どこへ行くの」
 京が尋ねると、「考えてなかった」とのんきな返事が。
「でも、なんとなく分かったの。二人とも、持て余しているのではないかな、って」
「何を?」
「時間を」
 桜の直感は鋭かったことになる。京が家でどんな過ごし方をしていたのか知らないが、簡単に家からやって来たことを踏まえると、わたしと同じようにしていたと推測できる。
「雨、こんなあっさり止むとはね」
 京が両手をかざして、言う。彼女だけ水色の傘を持ってきていた。中学生が使うにしては大人びているけど、彼女によく似合う。
「わたしは、桜が雨雲を追い払ったんだと思うよ」
「ああ、そうかもね」
 京も同調してくれた。
「何よ、それ。そんなすごいことできるわけないでしょ」
「それにしても、お散歩なんて。素敵な発想」
「ほんとに」
「わたし、歩くのがけっこう好きなの。考えがまとまるときもあるし――まあ、じっとしていられないだけかな」
 一行は川沿いに辿り着く。流れは速さを増していたけれど、氾濫する危険性はなさそう。遠くから眺める。
 なんとなく、黙ってしまった。都会の川だから、そんなに心を奪われることはない。だけど、ずっと歩いてきて、気の迷いを鎮めるには十分だった。ぼんやりと見つめて、わたしたちは景色の中に溶け込む。
 沈黙を破ったのは桜の歌声だった。

  すみれの花咲くころ はじめて君を知りぬ

  君を想い日ごと夜ごと 悩みしあの日のころ

 桜は歌が上手かった。透き通っていて、まっすぐで。
「すみれの花咲くころ、」桜がわたしと京の目を覗き込むようにする。「はじめて君たちを知りぬ」
 続きはなかった。くるりと背中を向けて、ハミングするだけ。
 想ってくれているのだろうか。わたしのこと。京のこと。そんな風に考えたのはほんの一瞬。
 世界には、わざわざ確認しなくてもいいことがたくさんある。

          *

 前日が初出勤でへとへとだったけど、今日もバイトに行かなければならない。
 それでも心なしか、昨日よりは気が重くなかった。まだ慣れたとは到底言えなくても、どんな感じでやっていくのか知れたのは大きい。それに、今日はどんな雑誌が売れるのかと思うとワクワクする。
 昨日と同様、バックヤードで待っている。今日の社員さんは小早川さんではなく、男性の内田さん、という人だった。眼鏡をかけていて、西洋人みたいな澄んだ瞳をしている。バイトには敬語を使わず、どこかくだけた印象。
「どう、昨日でだいぶ慣れた?」
 高橋さんが声をかけてくれた。指導係はなるべくその新人とシフトがかぶっている人がなるようで、彼は今日もまた出勤日。
「そう、ですね。でも、まだまだです」
「そっか。まあ、ほんとに、やっていくうちに慣れるとしか言えないんだけどねー。でも、田島さんは物覚えがいいし、すぐに一人前になると思うよ」
「いやいや、そんなことは……」
 刹那、バックヤードの扉の開く音。昨日はこのときに壇さんが現れた。だけど、彼は休みのはず。では、もう一人の新人さんかな。
 長い、三つ編みが揺れる。緊張からか顔を俯けていたが、私と目が合うとその表情に驚きがよぎる。
 すぐに話せるだろうと思って、確認していかなった。でもまさか、栞のバイト先もここだったなんて、予想すらしなかった。

 小早川さんの言っていたとおり、昨日の忙しさはそれほどでもなかったと実感する。お客さんが次から次へと湧いてくる。一人ずつ対応していくけど、自分自身、まだリズムを掴めていないな、というのは正直なところ。それでも、少しずつ自然な笑顔を見せられるようになったのではないかな。
 栞には壇さんと同様、太めの和宮さんが指導に当たっている。和宮さんは遅番の中で一番の古株で、新人二人を同時に任されるくらい頼りにされている。
 書店は正社員の数を限っているから、売り場を回していくにはバイトに依存せざるを得ない。覚えることがたくさんあることを踏まえると、できるだけ長く続けてほしい、というのが店側の本音。その中から、和宮さんのようにバイトを統率できる人材が現れれば儲けもの。
 社員の内田さんは和宮さんのことを「ボス」と呼んでいた。それはふざけ半分みたいなところがあるのだけど、彼女を認めている証左だろう。
「東海林さん、髪長いね。昔からずっと切ってないとか?」
 売り場が少し落ち着きつつあった。和宮さんが栞に話しかけている。
「中学生くらいからこの長さですけど、小まめに切るようにはしているんです。そうすると、毛先がまっすぐ伸びてくれるんですよ」
 栞の三つ編みは目立つ。彼女のあどけない顔だと似合うし、かわいらしいからいい。でも、いつかやめる日が来るのだろうか――やっぱり、私は栞に、いつまでも髪型を変えてほしくないと強く望んでいる。
 今日は一人でレジに入っている。もう大丈夫だろうと判断されたのは嬉しいものか、かえって不安か。高橋さんは別のレジに入っている。この書店には和宮さんの少し後に入ったそうだが、彼の特徴はその仕事の速さ。会計をテキパキとこなし、売り場に掛かってくる電話にもすばやく出る。和宮さんがどっしり構えた印象がある一方で、高橋さんは戦でいうなら先鋒。
 そんな彼の視線をときどき感じる。変な意味ではなく、何か対応しきれない事態が起きたらすぐに駆けつけるぞ、という目配り。安心させてあげたいな、そう思う。できないことはまだまだ多い。

 ようやく栞と落ち着いて話せたのは、帰る段になってからだった。
 バイト先では仕事が終わると、最上階の更衣室で着替え、基本的には同じ売り場の人たちと一緒に帰る。早さに差があるから男女は別だけど、稀にエレベーターを待つ間に合流することもあるそうだ。
 今日は和宮さん、私、栞の三人だけで、和宮さんとは電車が違ったのでやがて二人に。久しぶりに会ったわけだけれど、こうしてバイト上がりに並んで帰っているのはなんとも不思議。栞に、改めて問いかける。
「栞、バイト始めるって言ってたよね。でも、まさか同じだとは思わなかった」
「私は、なんとなくそうじゃないかな、って予感してたよ」
 そんなことを、にっこりと微笑みながら答える。
「嘘だ。あんなに驚いた顔してたのに」
 バックヤードに入ってくるときの表情を思い出す。黒い瞳を瞬かせていた。
「それは、予感していたからこそ。ほんとになるなんて、という」
「ふうん」
 電車が来たので乗り込む。嫌になるほど混雑はしていないが、座る席はなさそう。疲れは否めないけど、立っていることにする。
 ゆっくりと、外の風景が流れる。夜の街から、夜の街へ。光から、光へ。
「でも、応募する書店は同じにしても、売り場が被るなんてね。栞も面接のとき、希望訊かれた?」
「うん、訊かれた」どこにしたのかは、確認しなくても分かる。「たぶん、ちょうど雑誌売り場が人手不足だったんだろうね。タイミングの問題だよ」
「そうだろうね。雑誌、読まないからなー」
「私こそ、きっと京よりも読まないと思うよ。――でも、こんな雑誌が売れるんだ、っていう発見があるのは楽しくない?」
 頷き返す。
「そう。知らなかったからこそ、興味が膨らんでいく。買っていく人と、売れていく雑誌の組み合わせが意外なときも多々あって」
 とはいえ、まだ苦労している面ばかりで、楽しいなんて働いている最中は考えられない。それでも、がんばっていこうと思えるのは確かだ。その感覚は共有できている。
「桜も――」聞き取れないくらい小さな声で、栞はぽつりと漏らす。「桜も、同じバイト先にしたかな? 接客、得意そうだね」
 直接は見られなかったから、電車のガラス窓に映る姿を見て、表情を確かめた。俯いているから絶対とは言えないけど、危惧するほどの特別な感情は窺えない。
 私は何も答えずに、ただそっと栞の手を握った。
 揺られながら私たちの住む街に近づいていく。

          *

 体育祭の期間は憂鬱だった。理由は明白、わたしは運動神経が悪いから。見ている分には楽しめても、いざ自分に出番が回ってくると、ぎくしゃくとした動きになってしまい、ほんとに嫌になってしまう。
 開催される週末まで、体育の授業や放課後はすべてその準備に充てられる。競技の練習、応援のダンス、そしてとにかくたくさん走った。ここのところ暑い日々が続いていて、びっしょり汗をかいた。いつか青春の一ページとして思い返せる日が来るのだろうか。
 京と桜はとびきり運動が得意、というわけではないが、無難になんでもこなせていた。二人にアドバイスをもらうこともしばしば。特にダンスに関しては桜に頼った。音楽の好きな桜はリズム感がよく、振り付けを覚えるのが速かった。関係ないように見えて、こうして繋がっているのだと知る。
 体育祭まで幾日もない。大勢の人が楽しみにしている中、わたしだけは早く過ぎ去ってくれないかと、それを台風みたいに捉えていた。

「はあ、今日も疲れた。猫さん、代わってくれない?」
 友達ができ、学校に行くことが嬉しくなってからは、挨拶程度の言葉を交わすだけだった。しかし近頃また、ついつい愚痴をこぼしてしまう。
 猫さんは面倒くさそうに目を細めて、だけれど、髭だけはぴんと立てていた。ちゃんと話は聞いてくれていたよう。「自分のやるべきことは、自分で果たしなさいよ」と殊勝なことを口にする。わたしは力なく頷く。
「せめて、得意じゃなくてもいいから、京と桜くらい、普通にこなせたらな……」
「そんなに悩まなくても、人それぞれ全力を尽くす姿勢が大事なのだから、可能な範囲で努力する――にゃん」
 背中側から返事がして、慌てて振り返った。そこに、悪戯っぽい笑みを浮かべた京と桜が立っていた。
「栞、猫と話せるの?」
 見られてしまった。でも、二人でまだよかった。
「京、夏目漱石は読む?」
 これに答えたのは桜だった。
「ああ、『吾輩は猫である』か。あの猫、いい性格してるよね」
 京も同調する。
「なるほど、それで猫が人間の言葉を理解する、って知ったのね」
 図書室の目立つところに置いてあるから、さすが、多くの人に読まれているらしかった。当時の言葉がちりばめられていて苦労するかもしれないのに、やはり、発想が中学生相手にも響くのだろう。
「かわいい。きみはなんて名前なの?」
 桜が手を伸ばすと、猫さんはパッとその場から離れた。あっという間に、見えないところに隠れてしまう。「あ、行っちゃった」
「いつもこのあたりにいるから、いつでも会えるよ」
 たぶん、住まう家はこの近くにあって、日中は気の向くままにお出かけしている。その予定の一つには、「いつも愚痴ばかり言っている女の子の相手をする」というのも入っているのかもしれない。寛大な猫さんだから。
「名前は、まだないんじゃない」
 京が、さっきの桜の問いかけを拾う。
「なるほど、そうだね」
 小さく、笑い合う。疲れが少し和らぐくらい、温かい気持ちに包まれる。
 空の向こうは夕焼け。太陽とお別れするよりも早く、歩いて帰ろう。

          *

 どうしてこんなに想われるのか分からない。どうしてこんなに想えないのか分からない。誰かに強い感情を向けることと誰かから強い感情を向けられることが分からない。
 運命なんてない。出会った瞬間から圧倒的に惹かれる存在はなかなかいない。私が今まで関係を持ってきた人だって、何もかも打ち捨てて捧げられるほどの想いには駆られなかった。
 後から振り返ればより冷静になれる。それでも、この考えは確かなもの。
 つまり、それだけ待ち焦がれていたのかもしれないし、やがて訪れる出会いは本物の運命だった。そういうこと。

「おつかれさまー」
 大学のキャンパス内にある学生会館、その中の一室。サークル活動を終え、私たちはめいめいの帰り道へ。多くのサークルがこの学生会館の部屋を使って活動をしている。
 ようやく大学生活が始まってくれ、人の多さに辟易しながらも、これまでと違った学習のスタイルに馴染もうとしている。勉強面だけではなく、サークルにも入った。創作活動を不定期に行う文芸サークル。栞も文芸サークルを選んだのだけど、さすがにこのときは鉢合わせることはなかった。栞は評論系のサークルに入った。
 サークル活動というのは不思議だ。体育会系でも文化系でも、それぞれの趣味、または大学の研究の延長線上。本気度はきっと人による。たぶん、そこに求めるのは分かりやすい実益ではなくて、心安らぐ居場所。それだけで十分だろう。
「お、田島さん、帰る? 同じ方面だよね」
 平然さを装って、津村純平が身を寄せてくる。サークルの同期で、軽音楽サークルと掛け持ちしているそうだ。積極的な性格で、自分の容姿に自信を持って生きているきらいが窺える。
「うん。帰るよ」
 すげなくあしらうわけにはいかない。というよりも、まだ彼を遠ざけたいと思うほどにやりとりを交わしていない。
 並んで歩き出しながら、津村はいろんなことを話しかけてくる。話題に事欠かない人だ。適当に相槌を打っているだけで、ぽんぽんと会話が進んでいく。
 最初の飲み会のときからそうだった。サークルの新入生歓迎会で顔を合わせたときから、津村は私に積極的に絡んできた。狙われているのは火を見るよりも明らか。
 自惚れてしまえたらどんなにいいだろう。私だって人間だから、もてれば嬉しくなる。だけど、考えてしまう。どうして彼がこんなに私に近づいてくるのか分からない。私のどこをよいと感じたのか、逆にどんな失策を犯したら幻滅し、離れていってしまうのか。
 想われるのは真意が推し量れないから苦手だ。苦手、というのは少し違うかな。上手く言い表せられないけれど、なんとなく嫌。だから、ほんとうは誰かを想っているくらいがちょうどいい。
 自分本位だろうか、これは。
 駅が見えてくる頃、津村が私の手を握ろうとしてきたので、さりげなく拒んだ。ちらりと表情を確かめると、そんなに気落ちした風ではなかったから、時期尚早だったかな、くらいにしか思っていないみたい。
 肌を触れ合わす関係になるつもりは、現時点ではない。でも、彼とは長い付き合いでありたい。つかず離れずの距離を保っていけたらと、ほんとうに思念している。まだ出会ったばかりだから、この先の展開はなんとも言えないのだけど。

 最近、栞が少しずつ雑誌に詳しくなっている気がする。
 バイトで揃って出勤の日。レジに入っていたら、お客さんにこの雑誌があるかと、聞き覚えのない名前を言われた。
「最新号でよろしいですか?」
 特にする必要のない質問をして、記憶の部屋を探し回るための間を設ける。近くのパソコンに移動して、在庫状況を確認する。
「京、」急いでいる傍で、栞の声がする。小声で、私にしか聞こえないように。「私、その雑誌の場所分かるよ。取ってきてあげる」
 言うが早いか、すっとカウンターから出て、一方の棚へ向かった。私は彼女に任せる気になっていながら、引き続きパソコンで確認を進める。やっと在庫がある、それもかなりの数残っていると確かめられたとき、また栞の声がした。
「お待たせ致しました。こちらでよろしいでしょうか?」
 直接、お客さんに渡したようだ。対応が早く済んで安心する。
 戻ってきた栞に口だけで「ありがとう」と告げると、彼女は愛らしい笑顔を返してくる。穢れのない白い頬を目にすると、胸がきゅっと締めつけられるような心地がする。
 ありがとう、ありがとう。ありがとう?

          *

 あくまでなんとなく、に過ぎないのだけど、少し京の様子が常ならぬ気がする。何か悩んでいることがあるのだろうか。話しているときはいたって普通に接していられるけど、ときたま、どこか内側に閉じこもってしまうような顔をする。そんなときは、どう声をかけたらいいか分からなくなる。
 友達になってから数か月。もう数か月、でもまだ数か月。知らない側面はきっとたくさん存在する。人間だからそれくらい当たり前。なんとかしてあげなければ、という焦燥感と、踏み込みすぎてはいけない、という配慮の狭間で揺れる。
 学校は七月。ついこの前、中間試験があったような記憶があるのに、今度は期末試験が迫ってきていた。授業中、先生の口ぶりもテストを意識したものになりつつある。放課後、教室に残って勉強する人や、職員室まで質問に行く生徒が増え始める。
 わたしは図書室にいた。本を読みたいな、そう思いつつも、教科書とノートを広げている。たまに京、桜と言葉を交わしながら、問題を解いていく。
「栞、今読んでいるのは何?」
「最近はあさのあつこさんの小説。野球部の話なの」
「ああ、なんか話題になっていた気がする。おもしろい?」
「うん。青春の瑞々しさ、というか」
 それまで顔を伏せていた桜がパッと顔を上げる。
「運動苦手なのにスポーツの話読んで楽しめるの?」
 京が笑った。
「桜、ずいぶんはっきりと訊くね」
「楽しめるよ。わたしもできるつもりになって読んでる」
「ふうん。小説なら、自分を誰かに重ねるのも自由なのね」
「京は? 読んでいるもの、教えて」
「わたしは、角田光代さん」
「へえ。読んだことないなー。どんな感触?」
 京は腕組みして考え出した。
「うーん、すごく読み込んじゃうの。読んでいると、どこか遠くへ行きたくなるような。逆に、閉じこもっていたいような気分にもさせられる」
「それって、両極端じゃない」
 とは、桜。
「うん。でも、ほんとうにそういう感じなの。わたしの内面としっくりくる」
 どこか遠くへ行きたくなる。閉じこもっていたくなる。感想というよりも本人の実感みたく聞こえて、不安に思った。わたしは思ったけど、敢えて口にはしなかった。

 朝休み。だんだんと生徒たちが登校してきて音が増えてきたが、まだ学校自体が眠っているような、そんな時刻。
 わたしは早めに行って、テスト勉強か読書をするつもりだった。教室に入ると桜がすでにいて、二人で図書室へ向かおう、となる。
 並んで、廊下をゆっくりとした足取りで歩いていく。ときどきすれ違う誰かが桜に声をかけ、彼女はそれににこやかに応える。今でも、桜と友達になれたことは不思議だった。深く気にすることはなくなったけれど。
「栞、その長い髪だと、夏は暑いんじゃない?」
 わたしは今日も三つ編みにしてきている。歩くたびに、背中の方で軽く跳ねる。
「ぜんぜん気にならないよ。わたし、暑いのも寒いのも平気だから」
 そう答えると、桜は納得したように頷く。
「栞のへばっている姿ってあまり見ないものね。飄々と、文句を言わずに暮らしていそう」
 図書室に辿り着いた。ドアに手をかけたところで、ピタリと動くのをやめる。左手の方から、重い足取りで近づいてくる気配がする。――京だ。
 桜も気づいたのか、その方へ視線を向ける。京がこちらへ達するまで、待っていることにする。
 ようやく傍まで来たかと思うと、彼女はわたしたちの制服の裾を掴んだ。その手に力が入っている。
「栞、桜」
 目が据わっていた。わたしは金縛りにあったように、動けない。
「今日は学校をサボらない?」
 有無を言わせぬ切迫感があった。わたしも桜も、何も返せない。
「どこか遠くへ行きたい。海の見えるところが望ましいかもしれない。――二人と一緒がいい」
 最初に首肯したのはわたしだった。
「うん。行こう」
 京が本気でそう言うのなら、わたしはその希望に沿ってあげるべきだ。迷いはなかった。
 続けて桜も、
「分かった、じゃあわたしも行くよ」
 とことさら明るい口調で返す。
「決まりだね」
 教室に取って返し、そっと荷物を手に取って学校を抜け出す。言い訳を何も用意していなかったけど、幸い誰にも咎められることはなく、簡単に脱出を果たせた。
 朝休みの時間のうちに、わたしたちは大冒険を開始した。折り目正しく、まじめに生活しているわたしたちの、はじめての悪さ。でも、その瞬間に罪悪感はまるでなくて、ただ、一種の高揚感があるだけだった。京と、桜が一緒だったからかもしれない。
 最寄り駅から電車に乗って、一路、海を目指して旅に出る。

 湘南新宿ラインに乗り換え、鎌倉へ向かっていた。制服姿のままだけど、修学旅行の自由行動をしていると思われればいい。いつにないほど、投げやりな気分になっていた。
 今頃、わたしたちの欠席を担任の先生が確認している。仲のいいことを把握していたら、訝って、親元に連絡をしているかもしれない。でも、どうなろうと構わない。ここにいる誰一人として、そんな些末なことを気にする発言をしない。街並みのよさとか、電車の空き具合とか、ご飯はどうするかとか、そんなことだけを話した。
 京の表情には明るさが戻っていた。わたしははじめ、上手く言葉をかけられなかったのだけれど、桜がいつもと同じ口調を心がけているのを見て、真似することにした。核心には触れずに、ほぐれていくのを待つような。
 手元の携帯で検索してみると、鎌倉には鎌倉文学館があると分かる。そこからそう遠くないところに吉屋信子記念館もある。――吉屋信子か。名前は知っているが、著作を読んだことはない。足を運んでみたい気持ちはある。ただ、京がそれを望むかは分からない。彼女は海が見たいと言っていた。それは気まぐれではきっとない。だからまずは、海へ。
 やがて、電車が由比ヶ浜駅に滑り込み、わたしたちは降り立つ。

 駅から少しで海が見えてきた。潮の匂い。背後は緑に色づく山が聳える。
 桜が両手を広げる。
「おー、海だ。駅から近いね」
 わたしはこくりと頷く。
「気持ちのいい青」
 今日は雲一つないくらい晴れ渡っていた。やや暑すぎるかもしれないけど、ときどき吹く風が和らげてくれる。
 京がぽつりと呟いた。
「ほんとうに、遠くまで来てしまったね」
 その横顔は大人びていて、思わずじっと見つめる。さらにまた言葉を漏らそうとするかのように半ば開かれた唇に、言い様のない緊張感を覚える。胸の高鳴り。
 桜が京の背中をぽんと叩いた。
「京が来たいって言ったんじゃん」
 さ、もっと近くまで行こう。桜はスキップするように浜辺を横切っていく。わたしと京は目を合わせて笑みを作り、彼女を追って小走りになる。照り返しが眩しかったけれど、早くあの青に触れたい。
 桜はもう海水に足をつけて、冷たい、と叫んでいた。わたしたちが遅れて来たのに気づくと、水を思い切りかけてきた。悲鳴を上げる。
「ちょっと、桜」
 でも、気持ちよかった。だからわたしも海に入って、桜に水をかけてあげた。
 すべてがスローモーションで見えるような、透明な時間だった。笑顔が、陽のきらめきがはじける。

 スカートを濡らさないように気をつけて遊んだ。しばらくしてから、「わたし、飲み物買ってくるよ」と、桜が海から出る。途中で見かけた自動販売機まで買いに行くのだろう。
 それを見送ってから、わたしと京も海から出、砂浜にしゃがみ込んだ。
「楽しいね」
 その細められた目を、白い歯を目の当たりにすると、わざわざ学校をサボって正解だったと思う。
 自然な笑顔で返す。
「楽しい」
 思い返してみると、わたしはあんまり海と親交を深める機会がなかった。家族で幼い頃に何度か遊びにきた憶えはあっても、それはけっこう前のこと。
 海。こうして匂いを嗅いで、遠くに目をやっているだけで、頭の中を空っぽにしてしまえるような心地がする。家と学校の往復だけでは感じられない気持ちの昂り。隣には中学生になってから距離をぐっと縮めた京と、それに桜。
 あまりに心がとろけて、うとうとと目をしばたたいていた。その間隙を縫って、京の声が耳に届く。
「栞、わがままを聞いてくれてありがとう」
 わたしはゆっくりと首を振り動かす。
「お礼なんていいよ。こうして、一緒にはしゃいでいるんだし」
 京はそれきり俯いてしまった。横顔に視線を注いで、また何か言うだろうかと見守った。正面に視線を戻そうとした瞬間、彼女が微かに口を開いた。
「――え?」
 分からなくて聞き返す。
 京もこちらに顔を向けた。近いところで眼差しが交錯する。ああ、京の瞳ってほんとうに綺麗。
「わたし、クラスの男子に好きって言われた」
 そよそよと吹く風に、わたしの長い髪はよくなびく。日差しで目が険しくなっていないか気がかりだ。
「こんなこと、栞に話したくはないんだけど……。でも、自分でもどうしたらいいか分からなくて、抱えきれなくて、持て余してる」
 わたしは優しく促す。
「大丈夫。京が言いたいのなら、わたしはなんでも聞くよ」
 京の目は、さっきからすぐ目の前にある。その色はさまざまな感情を表していた。その目に映るわたしの表情は、少し必死すぎる気がした。
「クラスの男子に好きって言われた」彼女はもう一度繰り返す。「付き合ってほしいって。でも、あんまり話したこのない人だったし、嬉しいけど、ごめんなさい、って断ったの。これからどうなるか分からないけど、現時点ではこう答えるしかなかった」
 そうしたら、と言葉を継ぐ。
「そうしたら、急に腕を取られて。それで無理やり――」
 京は膝に顔を埋めてしまう。
「怖くなって、無我夢中でその手を振り払って、逃げたの。どこに行ったらいいか迷って、自然と足が図書室に向いてた。もう、教室に戻りたくなかった。それで、二人を誘ってしまった……」
 桜、遅いなと思う。日はまだ高い、ちらりと目をやる。関係ないことを考えていないと、涙が零れそうだった。わたしが泣いてもしょうがない。泣きたいのは京だ。
 わたしなんかが彼女の心中をちゃんと理解できるわけがない。そんな経験もないのだから。だけど、どうしても胸が詰まった。読書をしているときよりも強い感情移入。
「わたしはいつも思う。誰かを好きになる、その境界線が見えない。好きになってもらえるって、認めてもらえたようでありがたいような気もする。だけど、圧倒的に戸惑う」
 感情を吐き出している。わたしは、その手をそっと握ってあげる。それしか、できなかった。
「どうして想ってくれているのか分からない。どうして優しくされるのか分からない。いつも思う」
 うん、と一つ頷いて、上半身をちょっと持ち上げる。腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。
「うん」
「こんな風に考えるのって変なのかな」
「ううん」
 京が顔を上げると、さっきよりももっと近い位置にお互いの顔が認められた。鼻が掠めそうなほどに。
「わたしは、京がちゃんと考えているんだな、って。そう思うよ」
 大丈夫。大丈夫だから。
 安心させるように。あるいは、ただ近くに唇があったから。わたしは彼女の唇に自分のそれを重ねた。
 感情がおかしくなったのか、ついに涙が頬を伝う。
 意識がどこかへ飛んでいっても不思議でないくらい、その感触は柔らかかった。
 自分でもどうしてそんなことをしたのか分からない。どんな衝動に駆られたのか、明確な理由は思い起こせない。
 それぞれ、恍惚とした余韻に浸っていた。日はまだ高い。

          *

 大学生にだってテストはある。一年生のうちは必修科目が多いため、よりテストに比重が置かれる。
 私は図書館でカリカリと勉強を進めていた。昔は本を読みたい誘惑によく負けていたけど、やらなければいけないことをやっておくに越したことはない、そう考えられるようになった。
 ふとした瞬間に思い出す記憶がある。学校をサボって海に行って、先生や親にこっぴどく叱られた日のこと。海の匂いと、青空の下に響く笑い声と――。
 回想しながら、自分の素足がざらざらとした感触を捉える。なんだろう。ぼうっとしたまま、両足でそれを確かめるように挟む。
「あ、あの……」
 前方からの声に目が覚める。向かい側の席に誰がいるかなんて意識していなかった。慌てて顔を上げると、知らない男子の顔がそこに。
「なんで……?」
 困惑しきっている。私はそれで、ようやく両足で相手の足に触れていることに思い当たった。即座に放し、羞恥心から声を上げそうになる。
「ちょっと、図書館では静かにしないと」
 彼の忠告に、口に手を当ててこくこくと頷く。
「ごめんなさい。ちょっと、ぼうっとしてて」
 囁き声で謝る。彼はいや、と手を振る。
「いや、そんな。とてもびっくりしたけど」
「ほんとにごめんなさい」
 改めて見てみると、目の前の彼は優しげな笑みを浮かべていた。爽やかなショートカット。縁のない眼鏡の奥の瞳は、透明に瞬く。
 本を読んでいるようだ。この時期にテスト勉強をしていないということは、上級生なのだろうか。さりげなくタイトルを確認する。カポーティの『ティファニーで朝食を』。
 やがて、どちらからともなく目線を落とす。それぞれの時間に埋没していくが、少なくとも私は、実体を持ってしまった正面に座る彼を意識せずにはいられなかった。

 勉強はそれほど捗らなかったが、それでも、やっていないよりはきっとマシだろう。両手を上げて、小さく伸びをする。
 机の上に放置されたままだった携帯が震えて、メールが来たことを教えてくれる。手に取って確かめると、栞から。
『お昼ごはん、一緒に食べない?』
 勉強が一段落ついて、まるで図ったようなタイミング――。まさか。
 私はそっと周囲を見渡す。斜め後ろの席に、にこやかに微笑んだ栞が座っていた。彼女に頷き返すことで、メールのお誘いに応える。持ち物を鞄にしまい直して、席を立った。
 私が近づいていくと、栞も立ち上がり、行こう、と呟く。言いながら、私の向こう側に目をやる。
「知り合いじゃないの?」
 さっきまでいた席の正面に座る、件(くだん)の彼を指している。私は首を振る。
「ううん、違うの」
「でも、さっき話してなかった?」
「ちょっと、足が当たっちゃって。謝っていただけ」
 栞は、なんだそうか、と漏らし、それ以上興味を示さない。改めて歩き出し、図書館と併設されたカフェテリアに向かう。

 昼休みに入る少し前の時間帯だったので空いていた。外を眺めることのできるカウンター席に並んで腰掛ける。外は日差しがとっても暑そうだったけど、建物の中は冷房がよく利いていた。
「京、テスト勉強をしていたの?」
 栞はミートソースのスパゲティを選んでいた。フォークで器用に巻いて、口に運ぶ。
「うん。もうすぐだしね。栞は?」
「私も。特に語学はやっておかないとな、って思って」
 この大学では、一年生は語学が必修科目になっている。英語と、いくつかの選択肢からもう一つ選ぶ。私はドイツ語、栞は中国語を学んでいる。
 お互いに文法やら発音やら、大変な点を話す。加えて授業の様子だとか、クラスの雰囲気とかも思い出すままに話していく。最近あった、雑多なこと。
「ところで、サークルはどんな感じ?」
 栞が話題を変える。もう食べ終わりそうだった。
「うーん、行ったり行かなかったり。そもそも、活動が定期的に行われているわけじゃないから。栞の方は?」
 私が主に小説を書く創作系の文芸サークルに入った一方、栞は課題図書を決めて意見を言い合う評論系のそれに入っている。
「私の方は毎週あるから、今のところは全部参加してる」
「へえ、まじめにやってるんだね」
「でも今は、さすがにテスト休みってことになっているけど」
 ますますまじめだ。ちゃんと学業との両立を考慮している。うちのサークルの人はテスト前でも創作に打ち込んで、熱い議論を闘わせている。そういう人は毎年進級が危ぶまれているけれど、能力が高いのだろう、なんだかんだと危機を乗り越える。
 同じサークルの同級生、津村純平の顔が浮かんだ。会えば普通に会話するし、苦手意識があるわけではないのだが。しかし、ときおり彼との距離に違和感を覚える。下の名前にちゃんづけで呼ばれると、いつの間にそんなに仲良くなったのかと錯覚する。
 ただ、幸か不幸か彼は軽音楽サークルにも所属しているため、活動にやって来る頻度は私よりも低い。会ったときだけ上手く相手していればいいのだ。
 栞は私の知らないところでどんな人間関係を築いているのだろう。高校までは狭い箱の中に閉じ込められているようなもので、互いの交友範囲をほぼ把握していた。だけど、大学生はそれぞれに時間とお金を費やす場を選ぶ自由がある。世界を広げるもよし、自分だけの居場所を見つけ、そこに安住するもよし。
 まだあどけないその眼差しを密かに見つめる。栞もいつかは――なんて、子離れのできない母親みたいな感情を抱く。
 栞が腕時計に目をやる。
「あ、そろそろ行かないと」
「そうだ、私も」
 互いに講義の時間が迫っていた。お盆を片づけて、急ぎ足で人の間を抜ける。
「じゃあ、またね」
「うん、また」
 カフェテリアを出たところで別れた。じりじりとした夏の暑さに辟易しながら、教室を目指して歩き出す。

 すでに広い教室のほとんどの席が埋まっていて、私は内心「しまった」と舌打ちする。いつもは早めに来て、席を確保していたのに。仕方なく、適当なところで立ち止まって、
「あの、隣空いてますか」
 と尋ねる。往々にして長机の端と端が埋まっていくから、間に入れてもらうには声をかけなければならない。
「あれ、さっきの」
 声に反応して見やると、そこにいたのは図書館で足を交錯させてしまった彼だった。
 私は顔を覆いたくなる。どうして、よりによってあなたが。
「どうぞ、空いてますよ」
「……ありがとうございます」
 今さらほかの場所へ移るのも変なので、隣に座らせてもらうことにする。授業が始まってしまえば、気にならなくなるだろう。
 ちらりと視線を注ぐと、さっきも見た『ティファニーで朝食を』の文庫本がぽつり。それ以外の筆記用具だとかノートだとかはなかった。もうすぐ先生が来てしまうと思うのだけど。
「これ、読んだことあります?」
 見られていることに気づいたのか、ひょいと文庫本を掲げて、私に話しかけてくる。なんというか、人の懐に入ってくるのが上手い、そんな印象。
「――ないです」
「そっか。まあ、絶対に読むべきとは言わないけど、読んでおいて損はないと思うよ」
 ほぼ初対面の相手にさらりと薦めてくる。私は曖昧に、はあ、と頷くしかなかった。
「あなたはどんな作家が好きなの?」
 口調もいつの間にか砕けている。でもそれが、津村純平みたいに嫌な感じではないのが不思議だった。何が違うのだろうか。
「最近の? それとも昔の作家さん?」
「じゃあ、まずは古い作家から」
 私は顎に軽く拳(こぶし)を当てる。
「円地文子とか、有島武郎かな」
「『或る女』は読んだ?」
「読みました。それよりも、『小さき者へ』の方がなぜか好きだけど」
 そういえば栞は、『一房の葡萄』がいい話だと褒めていた。
「なるほどね。最近の人で挙げるとするなら?」
 私はすっかり彼のペースに乗せられていた。考えて、答えようとする。だが、間の悪いことに教授が姿を現す。教室が一気に静かになって、仕方なく口を噤む。
 前方から今日使うプリントが回されてくる。自分たちの分だけ受け取り、後ろに渡す。黙ったままプリントを眺めていると、すっと白紙が視界に滑り込んでくる。
 隣の彼が、先ほど配られたばかりのプリントを裏にして、こちらに近寄らせていた。よく見ると、言葉が書かれている。「最近の作家は?」
 途切れてしまったやりとりの続きをここに書け、ということだろう。私はそっと返事をしたためる。
『綿矢りさ、山本文緒。』
 すかさず彼が名前の下に、
『好きそう。』
 と続ける。『それはどうも。』
『海外の小説はどう?』
『スタンダール、トーマス・マンは好きかしら。海外には疎くて。』
『「赤と黒」「パルムの僧院」がとてもいいね。』
『後者は未読。今度読んでみます。』
 一応、私は教授の話をノートに書き写しながらだから、少し待たせる。だが彼は、すぐに答えてくれる。相変わらず机の上には文庫本のみ。ときたま頷いているから、話をまったく聞いていないわけではなさそうだけど。
 その後も、秘密めいた作業は繰り返された。私からも彼に質問をしてみた。彼は海外小説を愛好しているようで、私が読んだことのない作品が多数あった。
 それぞれに訊くことは本のことばかり。ようやく最後になって、『何年生ですか?』とパーソナルな問いを書き込む。
『一年生。』
 目を見張った。年上だと決めつけていたからだ。
『なんだ、同い年。』
『これからは敬語じゃなくていいよ。』
 終業のチャイムが鳴る。ガタガタと、周りの人たちが席を立つ。
「そういや、名前を訊いてなかった」立ち上がりかけた彼はそう言う。「名波雄太っていいます」
「田島京。京都の京で、みやこ」
「じゃあ、またご縁があったら」
 軽やかに手を振って、早歩きで去ってしまう。余韻も何もあったものではない。
 学生たちに紛れて消えゆく後ろ姿を見つめながら、なんとも不思議な時間だったと感じる。彼――名波雄太と、また会える日は訪れるのか。
 喧噪の中、彼の整った字を思い返す。最後に片手を上げた際の、柔らかい表情も。

          *

 朝、下駄箱の中に手紙が入っていた。古風なことをするものだと心ときめかせたのも束の間、差出人の名前を見て当惑する。隣のクラスの男子からだった。当たり前の話だけど、こういう手紙は異性から送られるものだ。でも、わたしはそれが実体を持ってしまった瞬間から、どうにも厭わしく感じた。避けたい、と思った。
 誰かに恋をする、というものが分からない。友情をやっと知ったばかりなのに、愛情とはいったいどんな形をしているのだろうか、と思う。そもそも、男子と話す機会がめったにないから、特別な感情を寄せようがない。
 手紙には、放課後、体育館に一人で来てほしい、と書いてある。今日は一学期最終日だから、体育館で部活動は行われない。
 手紙をきちんと折りたたんで、学生鞄に忍ばせる。
 好き、というのなら分かるかもしれない。わたしは京と桜が好きだ。

 興味がないのとは少し異なる気がする。男子と上手く話せないのは、結局は彼らを変に意識しているから。苦手にしているだけ。そして、ただただ、わたしの立ち位置が恋愛から遠いだけ。
 京と桜に、先生に用事があるから、先に帰っていて、と嘘をついて教室に残った。手紙の差出人に会うのは不安だったけれど、せっかく書いてくれたのにと思いやると、無視はできなかった。
 頃合を見計らって体育館へ向かう。
 中学生になってからいろいろなことがあった。桜色に染まる登下校の道、しとしとと降る雨の音、夏のうだるような暑さ、海の匂い。それらのシーンを鮮明に思い浮かべることができる。わたし自身は多少なりとも変われたのかな。
 相手を待たせてしまっただろうか。首だけで体育館を覗き込むと、誰の姿もなかった。まだ来ていないのだろうか。――それとも、あの手紙は何かの冗談? その可能性の方が高いように思う。
 とにかく館内に足を踏み入れ、ゆっくりと歩き回ってみる。上履きと床の擦(す)れる音がきゅっきゅっと響く。
 奥に、跳び箱やマット、平均台などが仕舞われている倉庫がある。体育の先生が口を酸っぱくして、必ず扉は閉めるように、と言っているのに、このときは開いていた。閉めようと近づく。
 扉に手をかけた刹那、中からすっと別の手が伸びてきて、わたしの腕を掴んだ。心臓が止まるのではないかと思った。何者かの手によって、わたしは中へ引きずり込まれる。
 かろうじて外から光が差していたけど、中は暗かった。灯りは点くはず。怖いから点けて。
 わたしはマットに押し倒されて、ようやく相手の顔を見上げる。薄暗くてはっきりしないけど、見覚えがなくはない。――手紙を出したのはおそらく目の前の彼。
 状況はまったく理解できない。内側を占めているものは恐怖だけ。すぐ近くで荒く息を吐く彼が、どうしようもなく怖かった。
 彼は何も言葉を発さない。ここに来るまでは、好きって言ってもらえるのかとちょっと想像していたけれど、どうやら純粋な想いではないらしい。純粋ゆえにこうするしかなかったのかもしれないが。
 スカートの裾は乱れている。彼の両手が太ももに伸びてきて、触れようとする。抵抗しようにも、力で敵うわけがなかった。必死にもがいていると、肩を押さえつけられる。そして、顔をじっと覗き込まれる。
 わたしはその目を見つめ返した。考え直してほしいと、切に訴えるために。こんなことをしても、誰も幸せになんかなれない。やめて。
 しかし訴えも虚しく、彼はわたしの唇に自分のそれを重ねようとして荒い息が口内に侵入してきそうになってわたしの全身は恐怖から震えそして――。
 京の顔が浮かんだ。海へ行った日に、あったこと。
 すべては一瞬だった。どこにそんな力が眠っていたのだと自分でも驚くくらい、彼の頬を思い切り叩く。彼は頬に手を当てた後、ポカンと口をだらしなく開けて、呆然としていた。運動会で使う紅白の玉をいくつか手繰り寄せ、そんな彼に投げつける。それが効果的だったというよりも、反抗しないと踏んでいた相手の予想外の行動に驚いたようだった。
 パッと立ち上がり、彼の横をすり抜ける。無我夢中で走って逃げた。リレーのとき以上の速さだったかもしれない。後ろから追ってくる気配はなかった。それでも、スピードを緩めるつもりはなかった。
 学校を出てからも走った。周りの目を気にすることなく、お下げ髪を揺らしてとにかく駆けた。ずっと走り続け、いつも猫に会うあたりまで来た。残念ながら猫の姿は見当たらなかったけれど、わたしはそこでしゃがみ込む。
 呼吸を整えながら、自分の膝を強く抱きしめる。なかなか鼓動は落ち着いてくれない。それでも、じっとりとした汗が冷えて、少しずつ冷静さを取り戻す。
 怖かった。ほんとうに怖かった。でも、なんとかわたしの中の京を守った。海へ行った日に、より近しい関係になれたわたしたちの証を汚される寸前でなんとか食い止めた。
 膝に顔を埋(うず)めるようにして、わたしははじめて嗚咽した。

          *

 バックヤードの扉の向こうに知らない顔があった。健康的に焼けている。「おはようございます」笑むと、明るい印象を与えられる。
「おはようございます」
 もうすっかりこの挨拶に慣れた。
「新人の吉屋(よしや)綾子です。よろしくお願いします」
 春に私と栞、それから檀さんが売り場に加わったことで、どうやら抜けた分は補えたらしい。しかし、来月、バイトの一人が短期留学する関係で辞めるため、その前に新しい人を募集していた。ずっと私たちが下端に甘んじていたわけだから、はじめて後輩ができることになる。
「田島京です」
 頭を下げ返す。
 今回の指導担当は高橋さんのようだ。私からはとうに離れ、一人で抱えきれない問題が生じたときにだけアドバイスを仰ぐようにしている。いつか、私も誰かを指導する日が来るのだろうか。長く続ければ気にしなくてもその日は来るか。まだ数か月しか経ていないけれど、果たして私は――それに栞はどのくらいここで働くことになるのか。
 ちょっと吉屋さんと言葉を交わしてみると、同い年だと分かった。年上の後輩じゃなくて安心する。専門学校生で、日に焼けているのはソフトボール部に所属しているからだという。太ももががっちりしてしまうのが悩みだそうだ。女の子なら気にかかるのは当然かもしれない。でも、ソフトボールが好きなのだろう。話しぶりから窺える。
 元気さがあっていい。本はあんまり読まないみたいだけど、知識は自ずと身についていく。
 これから、よろしくお願いします。

 外が静かになった気がすると思ったら、穏やかな音楽が店内に流れる。降雨を知らせるメロディ。今日はそんなに忙しい日にはならなさそうだ。
 予想どおり、客はまばらになる。おかげで吉屋さんに基本的なことを丁寧に教えられるため、幸運の雨と言えるかも。
「あの、すいません」
 カウンターの向こうから若い男性に声をかけられる。商品を持っていないようだからお問い合わせかな。
「あれ、田島さん?」
 言葉の調子が変わったので彼の顔を確かめてみると、そこにいたのは名波雄太だった。図書室でのこと、授業中のやりとりを思い返す。
「ここでバイトしてるの?」
 大学からそう遠くないから知り合いが来ても不思議ではないが、カウンター越しに誰かと話すのはこれがはじめて。急に、自分がエプロン姿だということを強く意識する。
「うん。春先から」
「へえ。おれも本屋でバイトしてるんだけど、こんなに大きいところではないな」
 彼もそうなのか。なんだか、私の周りは本屋バイトの人が多いような。
「何か探しているの?」
「うん、この雑誌なんだけど――」携帯で表紙を見せてくれる。「調べたらここがバックナンバーの取り扱い店舗ってあったんだけど、見当たらなくて。ほかの階?」
 携帯の画面を覗き込んでから、彼の方に向き直る。「うん。これは――」言葉が途切れる。さっきよりもずっと互いの顔が近くなっていた。茶色く透き通った瞳。女の子みたいに綺麗な肌。一方で、引き結ばれた口元には男らしさを感じる。
 ゆっくりと距離を元に戻してから、「上の階に、専門書と一緒に並んでる」と答えを続ける。
「なるほど、ありがとう」
 じゃあ、バイトがんばって。彼はまた片手を上げて去っていく。軽い足取りだ。なんというか、気ままな性格を窺わせる。
 帰りがけにまた寄ってくれるかと思ったけど、雨が止んでから忙しくなってしまい、気にする余裕がなくなった。

 バイトを終え、帰る段になって、檀さんに話しかけられた。同い年の彼とは、少しずつ親しくなっている。
「今度、飲みにいかない?」
 大学生はどうしてこんなにお酒を飲みたがるのだろうか。かく言う私も、大学生になってからその魔力を実感しつつあるけれど。
「二人で?」
 笑顔を添えて尋ねる。
「二人だったら嬉しいけど、なんだったら東海林さんも誘って。どうかな?」
「考えておく」
 二人にしろ、そこに栞が加わるにしろ、お酒を飲みながら話をするのはいいことだ。純粋にそう思える。いつもは胸の内側にくすぶっている言葉がするすると出てくる。
 そういえば栞と飲んだことがない――見るからにお酒に弱そう。どうだろう。

          *

 あれから数日、家でじっとしていた。もう吹っ切れてはいたから、ただ大人しくしていただけ。家族から心配されない程度に引きこもる。
 一方で連絡は絶っていた。メールも電話も応えないまま、誰かとの繋がりを遮断している。誰かと言ったって、京と桜の二人しかわたしにはいないけど。心配しているかな。まだ数日だから、そんなに気に病むことはないか。
 そんなことを考えてからまた数日、未だに家から出られないでいた。頭の中では吹っ切れたつもりになっていても、どうしてか動き出せない。無意識のうちに何かを恐れる気持ちが湧き上がってきて、わたしの心を見えない檻に閉じ込める。
 読書ばかりしていた。いつもどおりと言えばそうだけど、その熱中ぶりは常のそれを上回っていた。ファンタジー小説を続けて選んでいたのは、現実世界を遠ざけたいという欲求が少なからず存在していたことを意味する。
 ふとしたときに、あの日のことを思い出す。体育館でのことではなく、三人で海に行ったあの日。学校を無断で休んだのははじめてだった。京と桜も、ほんとに楽しそうに笑っていた。そして――。
 桜の笑顔が見たい。京の声が聞きたい。それにはこうしているばかりではダメなのに。

 ベッドの上で寝そべっていたら、お母さんがドアの向こうから呼びかけてきた。お友達が来てるわよ。
 京と桜だと思った。部屋に呼んでもらい、その間に好き勝手に散らばっている長い髪を櫛でさっと整える。出かけないから、ここのところ編んでいない。
 慎重にドアを押して現れたのは桜――一人だった。
「久しぶり。元気そうだね」
 屈託のないその笑み。安心できるし、自然とこちらも笑顔になれる。
「元気に見える?」
「うん。顔色はよさそう。連絡がぜんぜん取れないから、重い病気にでも罹ったのではないかと心配していたのよ」
 病気ではない。そう否定すると、安堵したように息を吐く。わたしはベッドにそのまま居座って、桜には椅子を勧めた。
「様子を見にきてくれたの?」
「うん。ほんとはもっと早く来たかったんだけど」
「ありがとう。嬉しいよ」
「あと、」少し、言いよどむ。「京を誘おうかどうしようか迷った」
 二人の間で何かやりとりが交わされたのだろうか。でも、桜の話しぶりから察するに、特段そういったことはなさそう。それぞれで思いやるだけ。
「結局、なんでもない可能性もあるから、一人で来ることにした。栞が大変な目に遭っていたら、次は京も誘って足を運ぶつもりだった」
 桜の判断は正しい。
「ごめんね」
 唇からこぼれた声は掠れていた。
「ううん、そんなのはいいの」
 間を置いてから、何かあった? と優しく訊いてくる。彼女はほんとにかけがえのない存在。
 わたしはしばし逡巡した。話すべきか、黙っているべきか。もはや一人で抱えていられる問題ではない。だけど、友達と共有を図るような事柄ではもっとない。
「言いたくなかったら、いいからね」
 でも、桜なら――。京がいないのなら。
「桜、わたしね――」
 わたしは一学期最後の日にあったことを洗いざらい伝えた。まっすぐ伝えられているかは分からなかったけど、でも、頷く桜の表情から、ちゃんと理解してくれていると感じる。
 話が終わると、桜は俯いて黙り込む。そして、手を伸ばしてわたしの頬を拭った。いつの間にか、つらつらと涙が流れていた。
「そんなことがあったんだね」
 頬から手を放し、ぽん、と頭に手を置く。慰めるように撫でる。わたしは桜にもっと近寄って抱きついた。彼女の胸にぐしゃぐしゃの顔を埋(うず)める。
「それが誰だったか憶えてる?」
 首を横に振る。
「――たぶん、ほんの出来心だろうから、また嫌な目に遭わされることはないと思うけど。でも、そう簡単に受け入れられる問題じゃないよね。しばらくは、出かけるにも、学校でも、わたしたちが傍にいる」
 ありがとう、言葉にならない代わりに、首を縦に振る。
「京には、まだこのことを話してない?」
「うん」
「京にも知っておいてもらった方がいいかな」
 わたしは慌てて否定した。
「それはダメ。京には伝えないで」
 誰かに聞いてもらわないではいられなかった。でも、そんなに何人にも知ってほしいことじゃなかった。たまたま、桜が先に来てくれたからそれで十分。
 それに、京も男子に言い寄られて悩んでいた。過敏に反応してしまうかもしれない。
「分かった。栞がそう言うなら」
 また何かあったら、相談してね。桜はまた微笑む。わたしの胸中に春が舞い込むような、その明るさ。
 明くる日から、わたしは以前の生活を少しずつ取り戻していった。

          *

 檀さん、栞との飲み会は実現することになりそうだった。私と檀さんのシフトがかぶっている日に決め、仕事終わりの時間に栞に来てもらうことにした。どうなるかは未知数だけど、終電までの時間を考えると長時間ではないし、無難に乗り切れるだろう。
 ところが、檀さんとその話をしていたら、耳聡い高橋さんが聞きつけた。
「何、二人で飲みに行くの?」
 イメージでしかないが、高橋さんはかなりお酒が好きそう。
「いえ、栞も入れて三人です」
「へー。羨ましいな、檀。おれも行っていい?」
 いいですよ、と簡単に答えそうになって、ちらりと隣を見る。檀さんは露骨に顔をしかめていた。が、それはわざと作った表情だったようで、「いいっすよ」と快諾した。断れなかっただけかもしれないけれど。
「なんか、楽しそうなこと話してる?」
 同じく今日が出勤日の和宮さんも興味を示した。高橋さんが経緯を説明すると、和宮さんも参加することになった。当初の予定よりだいぶ大所帯になったけど、でも、こうして個人的に飲みに行くのはいい機会だ。同じ職場で働く者同士。
 閉店後、明日発売の雑誌を棚に並べ、終えると退社となった。今日は雑誌が少なくて助かった。
 月刊誌の発売日によってその日の閉店後の作業にかかる時間が変わる。NHKの語学テキスト、女性誌、男性誌の発売が集中している日は特に多い。それから月の前半よりも、後半の方が多い印象。
 週刊誌との組み合わせ次第だけど、あとは日曜日に雑誌の発売がないことも重要。基本的に月刊誌の発売日が日曜日に来ると、前日に前倒しになる。祝日も同様。休みの日の前にとんでもない量の雑誌を並べなければならないケースもある、というわけだ。
 最近やっといろいろと覚えてきた。はじめはそれほど楽しみにしていた売り場ではなかったのに、だんだん雑誌のおもしろさに気づかされていく。
 売り場から上の階に行き、更衣室で着替える。
 もちろん、面倒くさいお客さんもいるから楽しいだけじゃない。それでも、仕事は裏切らないな、なんて思う。

 エレベーターの前で待ち合わせし、また下の階に戻る。正面入口はすでに閉まっているため、裏の扉から外へ出る。そのすぐ傍らで栞――ともう一人、新人の吉屋さんが待っていた。
 聞くと、前からごはんに行きたいと話していて、せっかくだから今日の飲み会に誘ったらいいのではと栞が考え、連絡して呼び出したのだという。もともと、三人だけの集まりにはならなかったわけか。
「でも、そっちもなんだか増えているね」
 合計六人になってしまった。でも、この方が気兼ねしないで満喫できるかもしれない。
「まあ、とにかく行きましょう」
 檀さんが先導する形でぞろぞろと動き出す。
 世間は夏休み。平日とはいえ混んでいる可能性が高いから、この人数ではすぐに入れないかと不安に感じていたけど、運よく空いている店を見つけられた。
 店内に足を踏み入れると居酒屋独特の喧騒に迎えられる。めいめいが好き勝手に議論を闘わせている。お酒は好きになったけど、この雰囲気はやや厭わしい。
 三人ずつ向かい合わせの席に案内され、私は栞と吉屋さんに挟まれる位置に座る。向かい側では、檀さんが高橋さんと和宮さんに挟まれている。
「最初はとりあえずビールでいいかな?」
 端の席の高橋さんがメニューを取って、周囲に見せるようにする。栞以外がそれに同調する。
「栞は? お酒、もしかしてダメだった?」
「ビールは、ちょっと。梅酒だったら大丈夫」
 やはり、お酒には弱そう。思えば、見慣れた三つ編みお下げは、ここだとなんだかそぐわない。
「じゃあ、梅酒一つだね。すいませーん!」
 高橋さんが手を上げ、飲み物だけ先に注文する。バイトのときと同様に、ここでも仕事が早い。
 その後はほぼバイトの愚痴を好き勝手にこぼし、それ以外は大学での様子を話した。ビーチサンダルのおじいさんが未だによく店に来ていること、最近では吉屋さんにターゲットを変えていること。プレゼント包装が下手すぎるとクレームをつけてきたお客さん。ほかのフロアで万引き犯が捕まった話。
 和宮さんは大学に行くのはゼミだけで、もう卒業を待つばかりになっているそう。高橋さんは人間関係を面倒くさがって、友達がとても少ないらしい。檀さんははっきりそうとは言わないけど、かなり充実した学生生活を送っているという。
 仕事中だとできない話がたくさんできた。接客のときとはまた種類の異なる笑顔を浮かべている。普段の憂さを晴らすように。
 吉屋さんもだんだん遠慮がなくなってきて、口が滑らかになってきた。やっぱり新人だから、猫を被るではないけれど、なるべく当たり障りのない態度を心がけていたのかもしれない。
 ふと、さっきから栞が大人しいと思った。もちろん、こういう場で騒ぐタイプではないが、相槌一つ打たないなんて――そうして隣を見やると、完全に酔いつぶれていた。おかわりをしていないから、梅酒一杯で。

 足元がおぼつかない栞の肩を檀さんに支えてもらい、駅の改札口までようやっと連れてきた。
「檀さん、すみません。迷惑をかけちゃって」
「いいって、いいって」なんでもない風に手を振り、「それより、ここから大丈夫?」と心配を重ねる。
「うん。電車に乗っちゃえば座れるし、最寄りが同じだから、最悪家まで送るつもり」
「気をつけてね」
 和宮さんが気遣いを見せる。彼女と吉屋さんは路線が違うため、ここで別れなければならない。
「まあ、顔色は悪くないし、気持ちよく眠っている分、マシじゃないかな」
 高橋さんはきっと、もっと凄惨な酔っぱらいを目の当たりにしてきたのだろう。あるいは、彼自身か。
「じゃあ、おれたちは夜の街に消えるから」
 檀さんと高橋さんが肩を組んで、また駅の外へ向かおうとする。元気なものだ。呆れたような視線を受け、スタスタと歩いてゆく。
「おつかれさま。また、バイトで」
「おつかれさまです」
 和宮さんと吉屋さんもそれぞれの電車の改札へと去ろうとする。
「おつかれさまでした。楽しかったです」
 吉屋さんに、わざわざ来てくれてありがとう、と声をかけると、いえ、体育会系なので、突発的な飲み会は慣れっこです、と明るく返された。そうか、専門学校でソフトボール部に所属しているのだっけ。頼もしい限り。
 二人と別れ、改めて肩に凭れる栞に目をやる。相変わらずぐったりしていて、揺すっても起きそうにない。
 仕方ないか。そう呟いて、彼女を引きずったまま改札をくぐる。
 二人三脚の要領で歩くのは苦労したけど、電車に乗ってしまえば楽だった。幸い、空席があったから、並んで腰掛ける。栞は、すぐに自分の頭をこちらの肩に預けてきた。仕方ないか、ともう一度呟いて、そのまま動かないでいてあげる。
 目の前の風景がゆっくりと流れていく。ほろ酔いでいい気分だが、自分の視点がちゃんと定まっていることに安心する。栞の息遣いを感じながら、ぼんやりと外を眺める。
 こんな風に、肩を寄せ合って、電車に揺られた日があった。学校を抜け出して、由比ヶ浜まで遠出したあの日。私と栞と、それから桜で。行きは不慣れな路線だったこともあり、絶えず三人でお喋りをしていたけど、帰りははしゃぎすぎて疲れたのか、揃ってまどろんでいた。
 あの日の空と海は綺麗だった。駅に降り立ってすぐは、木々が萌える山しか目に映らなかったけれど、細い道の先に見晴らしのいい海が広がっていた。両手を伸ばして、潮の匂いを吸い込む。
 ――おー、海だ。駅から近いね。
 桜の声がする。懐かしい。
 ――ほんとうに、遠くまで来てしまったね。
 記憶の部屋をノックすると、一瞬でかつての情景が目に浮かんでくる。
 ――大丈夫。京が言いたいのなら、わたしはなんでも聞くよ。
 これは、栞の声。風に吹かれる、彼女の長い髪。
 ――わたしは、京がちゃんと考えているんだな、って。そう思うよ。
 あのときの栞の言葉がどんなに優しいものだったか、私はこれからも忘れないだろう。そして、その後で覚えた甘い感触も。指先で軽く唇に触れる。
 呻き声がしたかと思うと、栞が身動(みじろ)ぎしていた。もうすぐ最寄り駅。そろそろ目を覚ますかしら。
 何かブツブツと呟いている。よく聞こえなくて耳を近くにやる。
「……ごめんね、京。黙っていて、ごめんね……」

          *

 結果的に、桜に相談しただけで、京には体育館での出来事を話さなかった。それがよかったのかどうかわたしには分からない。時間が経過するにつれ、伝えるつもりもなくなっていく。
 明るい気持ちで過ごせるようになってきてはいたけど、それはまだ夏休み期間だから。会う相手も家族や親戚以外は京と桜に限られていたため、すっかり忘れていられた。
 しかし、夏休みが明けたら。学校が再開してしまうと、嫌でもあの日の誰かを意識しなければならなくなる。加えて、それが誰なのかをわたしの方が把握していないことが何より問題で、何より怖い。
 恐ろしい。
 だけど、桜がいつでも一緒にいると言ってくれた。京も傍にいる。よっぽど気を抜かなければ、本来、校内は安全な場所なのだ。また予期せぬ事態が舞い込んだら、そのときは大人の人に相談しよう。それしかない。
 夏休み後半は二人と夏祭りに行ったり、宿題をこなしたりしているうちに過ぎていった。
 そして、二学期を迎える。

 二学期の最初のイベントは文化祭。クラス単位で出し物を考案し、協力して、催し物をする。クラスの雰囲気はどこも浮き立っていて、自分たちで何かを作ることにやりがいを見出しているようだった。
 話し合いの末に、わたしたちのクラスは劇を演じることに決まった。
「どんなストーリーがいいですか?」
 その過程で、学級委員が問いかける。ミステリー、冒険物語なども挙がったけれど、一番人気は恋愛ものだった。
 そうなると、特定の作品を参考にして話を作るか、もしくはオリジナル脚本をこしらえるか。ドラマや映画のパロディの方が楽だし、イメージを共有しやすいが、オリジナルなら独自性が生まれる。オリジナルを推す声が多かった。
 では、誰がストーリーを作るのか。この議題に移ると、途端にみんなの口が重くなった。話を考えるのは簡単ではない。それに、恥ずかしさもあるのだろうか。
 そんな空気の中、すっくと立ち上がる人が――京だった。
「わたしが脚本やるよ」
 異論はなさそうだった。彼女を認めるように、教室内に拍手が響く。京は軽く頭を下げて、座った。
 わたしは驚きとともに京をじっと見つめてしまった。すると、彼女もわたしを捉えていた。悪戯っぽい笑みを浮かべている。まるで、何か企んでいるような。

 一緒に帰るときになって、その笑みの真意を知る。
「栞、脚本書くの、手伝ってくれない?」
 人通りの少ない住宅街を緩やかな足取りで歩いている。京の声を聞いて、そういうことかと何か腑に落ちる思いがする。
「手伝う?」
「うん。前から、自分でも話を書いてみたいな、と考えていて。今回がいい機会じゃないかと思ったんだけど、でも、一人だと不安だから。せっかくなら、栞と共同で作りたい」
 日頃からたくさんの本を読んできて、自分も物語を紡いでみたい、そんな欲求が湧いてくるのは自然なこと――だとは感じるけど、わたしはそこまででもない。
 ただ、京と一緒に作り上げる、という点に惹かれた。それは楽しいかもしれない。いや、絶対に楽しい。
「分かった。わたしも、協力する」
「ありがとう」
 桜が唇を尖らせる。
「ちょっと、わたしは蚊帳の外なわけ? わたしも手伝うよ」
 すると、京はふりふりと首を横に振る。
「ううん。桜は、ぜひヒロインをやってほしいな、って」
 桜が目を見張る。
「ヒロイン?」
「そう。脚本が固まってから配役を決定していくけど、ヒロインは桜をイメージして書き上げるつもりだから。もし嫌じゃなかったら」
 隣で桜が息を飲む。
 わたしは文化祭に対して曖昧な感情しか抱いていなかったけど、京はこんなに具体的に想定していたのだ。
「ヒロイン――それは責任重大だな」
 でも、と言葉を継ぐ。
「でも、京にそう言われたらやるしかないかな。がんばって、ヒロインやるよ」
「桜、ありがとう」
 京がほんとに嬉しそうに微笑む。その笑顔を目にし、今さらながら文化祭に心がときめいてくる。
 翌日から京との共同作業がスタートした。場所はやはり図書室。二人でどんな内容にするか意見を出し合い、大筋を固めていく。それを家に持ち帰った京が、台詞や細かい動きを書き起こす。次の日に確認のためわたしに見せ、言い回しなどに対して指摘する。
 桜もしばしば手伝ってくれた。横でふんふんと頷いて、たまに意見する。考えた台詞を実際に言ってもらって、イメージを膨らませる。
 そして、後日行われたクラスの話し合いで、桜がヒロインを演じることになった。
 おかげで、ますます脚本作りに熱が入る。
 その数週間はほんとに瞬く間に過ぎ、ほんとに充実していた。物語を紡ぎ出すのは並大抵のことではなくて、完成までの道のりは遅々とした歩みだった。それでも、京とそれぞれの感性を合致させる作業は胸を弾ませた。放課後、図書室へ向かう足取りはいつだって軽やかだった。
 そうして、試行錯誤の果てに、わたしたちのオリジナル脚本が完成した。

          *

 もう一度あの頃に戻れたらな、と望むことはあまりないのだけど、中学一年の文化祭は例外かもしれない。私のクラスは劇を演じ、そのストーリーを私と栞とで書き上げた。あの時間はかけがえのないものだった。互いの感覚を曝け出し合っているような。
 今はサークルで小説を書いているが、少しつらい。どうしてか分からないけど、自分と向き合う作業がひどく私を摩耗させる。だからといって、まったく自己から離れた作品は筆が進まない。
 経験からか、あの頃と感覚は変わってきているのだと思わせられる。
 キャンパス内の広いスペース、テーブルや椅子がたくさん並べられた一角に腰掛け、ノートパソコンと向き合って執筆している。もうすぐ大学の学祭があって、所属しているサークルでは、サークル員の短編を収録した小冊子を販売する。そこに間に合わせるように書いているのだが、さっきから唸ってばかり。作品を掲載するのは任意だから、下手をすると筆を置いてしまいそうになる。
 恋愛はしていなくても描ける。でも、しておくに越したことはないのだろうか。いいように作用した記憶がないから、どちらとも言えない。
「どうしたの、眉間に皺を寄せて」
 気安げに話しかけられて顔を上げると、名波がいた。了解を得てから、向かいの席に座る。
 たまに偶然出くわして、二、三言葉を交わすことがあるけれど、いつも彼の登場は唐突だった。神出鬼没というか、気ままな足取りが目に浮かぶ。
「ちょっと、小説を書いていて」
「ほう、自分でも書くんだ。趣味で?」
「ううん、サークルで。学祭で作品集を出すから、そのために」
「そっか、文芸サークルに入っているんだね」
 彼はすごいな、と呟く。すごいって、何が? そう聞き返すと、
「いや、おれは自分で書いてみよう、と思うことがないから。単純に尊敬する」
 そう、笑みを交えて答える。
 私はどうして自分でも書いてみたくなったのだろう。いろんな作品を読んでいく中で、私の方が魅力的な世界観を創出できる、という考えよりは、こういう物語があってもいいのっではないかな、という動機――言葉にしてみれば、そのようなもの。
「難しい顔をしていたのは、煮詰まっていたからかな」
 彼の指摘は正しかったので、頷く。
「うん、どうにも書き進まなくて。こんな展開にしよう、ってぼんやりと思い描いているんだけど、表現の一々が気になっちゃって」
「ジャンルは?」
「え?」
 思わず、問い返してしまった。彼は再度、丁寧に問いかけてくる。どんなジャンルの作品なの?
 考えるまでもなかった。だけど、答えようとして気づく。現在書こうとしているものにジャンルという額縁を嵌め込むと、あるいは、大まかな流れの説明を試みると、それはまるで別のものに変じてしまう。私たちは言葉でしか説明できないのに、そうすることは自由に膨らむ可能性のあった形を定める。
「――恋愛」
 仕方なく、語尾にクエスチョンマークをつけるようにして応じる。
 すると、彼は目を輝かせた。
「それは読んでみたいな。すごく興味を惹かれる」
 意図せず、彼の瞳をじっと見つめてしまった。読んでみたいな、彼の声。頭の中で繰り返され、遠ざかる残響。
「学祭で売るから、それを買ってくれれば、いくらでも」
 長いようにも短いようにも感じた時間見つめ合ってから、ようやく目線を逸らす。
「分かった。楽しみにしてるよ」
 じゃあ、がんばって。励ましを最後に残して、彼は席を立つ。現れるのも突然だけど、別れもふっと訪れる。誰とだってそうであるはずなのに、彼の場合はそれを強く意識する。
 まただ。また、小さくなる彼の後ろ姿を目で追ってしまう。
 とくん。
 読んでみたいな、彼の声。一個人に向けて作品を書いてみようとしたことは、未だかつてない。

          *

「あなたはこの雨の中、傘も差さずにどうしてぼくの元を訪れるのか」
 男の言葉に、女は投げやりな口調で返す。
「どうして? お分かりにならないの? これだけ水に濡れた姿を晒すことが、どんな言葉よりも説得力のあるものだと思いますけれど」
 講堂の舞台にて、劇の練習にいそしむ。もう本番はすぐそこまで迫っている。当初は気恥ずかしさの見えた演じ手たちも、中途半端な演技をしてしまう方が遥かに恥だと気づき、今ではまじめに取り組んでいる。
 わたしと京とで完成させたストーリーは、明治の日本を念頭に置き、煮え切らない態度の若き男と、彼の下宿先の一人娘の恋を描いたもの。活発で、芯の強い娘の像は桜と見事に重なっている。
 当日、見にきてくれた人たちにどんな感想を抱かせることができるのか、胸が弾む。
 最前列の座席に腰掛け、舞台上に視線を注いでいる。隣には京。時折、こうしたらいいのではないか、と意見できるのは、脚本を書いた者に与えられた権利。とはいえ、京はたまに口を挟む程度で、基本的には静観している。演劇に精通しているわけではないから、口喧しくしてもしょうがない、という考えがあるのかな。
 わたしはもっと大人しくしている。京にポツリと漏らし、代わりに彼女が言ってくれたことはあったけれど、とても意見する立場にないと承知している。
 何が正しいのか一口には言えないけど、でも、舞台上のみんなはわたしの思い描いていた以上の輝きを放っている。だから感じるままに任せるのもまた手。
「桜、かっこいいね」
 京がわたしにだけ聞こえるように呟く。顔を少し近づけ、そうだね、と返答する。
「それに、かわいい」
「うん。でも、わたしはやっぱりかっこいいな、って感じる。臆していなくて、表情が豊かで」
 桜はヒロインを快諾してから、脚本を読み込み、それぞれの場面での演じ方を絶えず巡らしていた。京の期待に応えるために。立候補した責任を果たすために。ヒロインの意志の強さは、内面から溢れる美しさは、桜そのもの。
「京は、いつから桜をヒロインにした劇を作りたいと考えていたの?」
「ずっと考えていたわけじゃないよ。たまたま、文化祭の話し合いで劇をやることに決まって、その瞬間に、思い出したの」
 雨の日に、川沿いで。透き通るような歌声を響かせていた桜。
「思い出してから、作品の想像がどんどん膨らんでいった。それで、これはもうやるしかないな、って」
「わたし、驚いたんだ。京があんな風に積極的に買って出るなんて」
 もちろん、教室の隅で小さくなっていたわたしに比べるまでもなく、彼女はクラスで存在感を放っていた。それでも、話し合いで自己主張する機会は稀だった。
「だよね。だけど、わたしがやることに必然性を感じたから、あそこで手を上げることに迷いはなかった」
 そう言う京の横顔は、ほんとうに綺麗だった。一つのことに没頭している女の子の表情は、何ものにも代えがたい美しさを有する。
「文化祭当日で、満開の桜が咲くといいね」
 わたしが思わずそう漏らすと、傍らの京がクスクスと笑っている。急に顔が熱くなるのを意識した。
「じゃあ、今は五分咲きくらいかな」
「――もう」
 再び、舞台上に視線を注ぐ。桜が身ぶり手ぶりを交えて、感情を表現する。
「わたくしがあなたを想い、慕っているのを、はっきり伝えなければ気づいてくださらないの?」
 わたくしは、と一度声を落とし、それからキッと顔を上げる。まっすぐな眼差し。
「わたくしは、あなたが好きなのです。心から」
 とくん、と心臓の高鳴る気配。
 ああ、好きって、いい言葉だな。

          *

 落ち着かない。さっきからベッドの上に横たわって、とりとめのない考えに忙しい。
 家に帰ってからも原稿の執筆をしている。薄ぼんやりとあった話の構想は、名波に楽しみにされてしまったことで白紙に戻った。どんな展開にしたらいいのか分からない。
 はあ、とため息を漏らして、白い天井を見上げる。ずっと見上げていてもそこにアイデアが浮かんでいるわけではない。こんなに書けなくなるなんて。
 体を横たえて、ベッドの脇の本棚を捉える。順番にタイトルと著者名を眺め、たまに呟いていく。それぞれにどんな内容だったか、特に印象的な場面を思い出し、さらに読んでいた時期のことを思い出す。読書は私の生活に寄り添ってきたものだ。忙しかったときに読んだのと、時間を持て余しているときに読んだのでは手応えが違う。だからきっと、どんな作品も読み返してみると大なり小なりその姿を変える。
 それを踏まえると、私自身が書く話についても言えるのではないかな。人間は何かを受容していく一方で忘却する生き物だから、そのときにしか表現できない感覚がある。中学で栞とともに作った脚本は、どんなに稚拙なストーリーでも、あの瞬間にしか存在しなかった個性が宿っていた。同じテーマで、同じ起承転結で再び書いてみても、もう二度と同じ作品にはならない。
 私は名波を思い浮かべると、どうしてこんなに胸がもやもやとするのだろう。動悸、とも異なるこの感情。
 彼の唇を脳裏に浮かべ、目を瞑り、自分の唇を意識してみる。とくん、と感じる。見えない何かが流れるような刹那。自分の乳房に手を当て、股の間に手を伸ばす。じんわりと濡れていく。
 そのときにしか、ないもの。そのときそれぞれの、私。
 どんな展開にするか悩むよりも、今抱えている感情をただ書き連ねてみようかな。内側に居座るそれらを言葉にすることが、きっと、今の私には必要なはず。

 来月いっぱいで和宮さんがバイトを辞める、と聞いたのはそれから幾日か過ぎた頃だった。本人から直接、ではなく、カウンターに入っているときに吉屋さんに教えてもらった。
「ほんとうに?」
 彼女はかなり長くここで勤めている。遅番の大黒柱だし、いなくなってしまうのは痛手だろう。
 その日、和宮さんは休みだった。ちらりと、カウンターを離れて書棚の整理をしている高橋さんに目をやる。これからは高橋さんが柱か。
「らしいですよ。内田さんが言ってたので」
 内田さんは頭が切れて頼りになる社員さんだけれど、こういうことを容易に漏らしてしまう傾向がある。和宮さん本人は自分の口から伝えたかったのではないかな。それとも、何かしら察したのか。
「じゃあ、ほんとうなんでしょうね」
 バイトを始めてから半年、ようやく慣れてきたとはいえ、まだまだ余裕はない。だけど、これからを見据えると気づく。高橋さんだってずっと続けられはしない、いつかは辞める。そうなると、私や栞、檀さんが徐々に売り場の中心を担っていく。そんな日を迎えられるほどの覚悟は毛頭ない。
 甘えられるうちに覚悟しとかないと。はじめて働かせてもらっているところだから、できるだけ長く続けるつもりだし。
 その後、忙しい時間帯に入った。レジ打ち、お問い合わせの対応、電話と、こなしている間に閉店時間になった。吉屋さんとぜんぜん話せないまま、明日発売の雑誌を並べ、売り場を後にする。

 女子は二人だけだったから、更衣室で着替え、一緒に帰ることにした。また和宮さんの話をするのかと思っていたら、彼女から予想外のことを尋ねられた。
「田島さん、付き合っている人とかいるんですか?」
 彼氏。恋人。私は束の間考える――までもなかった。いない。
「いないよ」
 首を横に振ると、「え、意外ですね」と驚かれる。その反応はありがたいけれど。
「田島さん、もてそうなのに」
「そんなことないよ」
「でも、大学で言い寄られてる田島さんの姿が目に浮かびますよ」
 一瞬、同じサークルの津村純平を思い出したけど、「ぜんぜん、そんな状況になったことないよ」と否定する。
 そういえば、彼は掛け持ちしている軽音楽サークルの方が忙しいらしく、文化祭に向けた作品は諦めるという。どんなものを書くのか興味はないけど。
「吉屋さんこそ、いい話はないの? それとも、もう恋人がいたりして」
 吉屋さんは大げさなくらい首を横に振る。
「いないです! ソフトボールばかりの日々なんで、もうボールが恋人みたいなもんです」
 否定の仕方がかわいくて、思わず笑ってしまった。こういう、衒いのないかわいさは男心を掴むと思うけどな。
 駅が近づくにつれ、人通りも増してきた。雑踏を縫って進む。
「――もてそうですよね」
 何か言われたようだったが、周りの声にかき消されて聞き取れなかった。
「今、なんて?」
「いえ、なんとなく思ったんですけど――東海林さん、すごくもてそうな気がするな、って」
 腰まで達する三つ編みのお下げ髪に、幼げな瞳。栞、か――浮いた話は一切聞かないけど。
「どうして?」
「なんというか、私の勝手な妄想も交じってるかもしれないんですけど、東海林さんみたいに、自分のかわいさを自覚してないタイプって、けっこう男子に人気がありそうな気がして」
 本人には言わないでください、と間に挟む。
 自分のかわいさを自覚してない、というのは、そのとおりだろう。栞はたぶん、自分の魅力に気づいていない。でも、それがかえって異性の心を惹く場合もある。
「だって、東海林さん、かわいいじゃないですか。よく見なくても。髪は長くて綺麗だし、背が小さくて、控えめだし」
「私もそう思う」
 昔から感じていた。図書室で出会って、いつも一緒にいるようになってから、ずっと。
「栞の純粋でまっすぐなところが、私は好きだな」
 すると、隣で吉屋さんが言葉を失っている。誤解を与えないように、「友達としてね」と付け加える。
 栞はかけがえのない親友だ。これからもそうであってほしい。
 改札の前で別々になる。おつかれさま、と言おうとして、そういえば、と彼女が何か思い出した顔をする。
「小早川さん、ご結婚するそうですよ。近いうちに」
 これも内田さんに聞いたんですけどね、と破顔する。まったく、あの人ときたら。
 売り場ではいつも厳しい小早川さんを思い浮かべる。彼女でも、好きな人の前では表情を和らげるのだろう。勝手な妄想に過ぎないけれど。
「じゃあ、来月は和宮さんの送別会と、小早川さんのお祝いをしないとね」
「そうですね!」
 改めて、おつかれさま、と別れる。
 少し歩いて、プラットホームまで向かう。夜でも大勢の人が利用するこの駅は、どうにも騒がしい。楽しげな笑い声と、厭わしいお酒の匂いがそこここからする。
 ふと、反対側のホームを捉える。仲睦まじげな若い男女が、親密度を確かめるように身を寄せ合っていた。――知っている顔ぶれかもしれない。一瞬、そんな風に感じた。でも、音とともに滑り込んできた電車によって遮られ、確認する機会を失う。
 気のせいだろう。そんなことに執着しても仕方がないと、鞄の中から文庫本を取り出す。
 月の綺麗な夜だった。

 文化祭まで数週間あまり。締め切りに少し遅れて、新作が完成した。
 若い女子学生が、同い年の男子に恋をする話。ただひたすらに心の動きを追っていて、たいして山場はなく、尺も短い。それでも、今の私が書ける、世界に一つだけの作品。
 女子学生が想いを寄せる男子は、名波をイメージして描いた。

          *

 初冬の昼下がり、華胥の夢をむさぼっていた。意識がまだはっきりしないまま、辺りに目を凝らす。いつもの自分の部屋。寂しいくらいに整頓されている。
 読みかけの歴史小説を手に取ろうとして、その近くにあった台本が目につく。文化祭の劇で用いられた、あの台本。わたしたちがはじめて形として残した、作品。
 本番は大盛況だった。桜の演技が評判を呼び、一時は入場制限をかけなければならないほどの賑わいに。嬉しい悲鳴を上げているうちに、文化祭は気づいたら終わっていた。
 ――桜、栞。
 京の感極まった声が甦る。
 ――協力してくれて、ほんとうにありがとう。
 消えそうな声と潤んだ瞳。彼女は、この劇を作り上げたいと心から望んでいたのだな。
 ――楽しかったよ。
 ことさら明るく、桜が答える。
 ――わたしも。
 そして、三人でぎゅっと抱き合った。
 それから、また数週間が経過。季節は冬に片足を突っ込み、防寒具を身に着け登校する人たちもちらほら。その頃になると、わたしたちの学校では次の行事が待ち構えていた。とはいえ、文化祭に比べたらとても地味なそれだけれど。
 台本にうっとりと視線を注いでから、改めて脇に置かれた本に手を伸ばす。今読んでいるのは、古代中国の歴史小説。難しい言葉もあるけど、スケールの大きさにとにかく圧倒されている。
 外は寒風が吹きすさんでいた。

「春すぎて 夏来にけらし 白妙の」
 札に手を被せる。周りからも、床を叩く音がする。この歌を覚えている人は多いみたい。
「衣ほすてふ 天の香具山」
 校内の和室で百人一首の練習に励んでいた。この学校では、毎年クラス対抗の百人一首大会が行われる。昔の文化を知ってほしい、そんな意図も見え隠れ。
 体育祭や文化祭に比べると、みんながみんな、やる気を持って臨むわけではない。わたしはけっこう好きだけどな。
 先生が読み上げ、それに反応して札に手を伸ばす。いくつかのグループに自由に分かれ、真剣さと気ままさを併せた雰囲気がそこにあった。
 わたしは京、桜と一緒に札を囲んでいる。安定のメンバーだ。周囲からすると、真剣にというか、静寂としている。わたしと京がかなりいい勝負で、桜は基本的に大人しく座っているだけ。たまに知っている歌が読まれると、勢いよく飛び出す。その瞬間に限り、静寂が破られる。
 一通り読み上げられ、休憩に入る。
 桜が足を伸ばして、ふう、と息を吐く。
「二人とも強いね。覚えてる歌が多い」
「覚えるの、楽しくない? それぞれの歌に、いろんな意味が込められていて」
 わたしが力説すると、桜は納得したように頷く。
「栞は好きそう、そういうの」
「好きな歌を見つけると、より覚えるのが楽しくなると思うよ」
 京も同調する。
「京はどの歌が好きなの?」
 うーん、と京は足下の札を眺める。そして、そこから一枚を選び出した。
「わたしは、これかな」
 小野小町の「花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに」。世にも有名なもの。色褪せた花の色と、自らの美しさの衰えを重ね合わせた歌。
「まだ若いのに、共感できるの?」
「共感するわけじゃないけど。でも、こういう感覚って現代の女性にも通じるな、と思って」
 なるほど。噛み締めていると、栞は? と訊かれる。わたしは――
「わたしは、これが好き」
 同じように、札を見つけて示す。清少納言の「夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
「ふうん、意外」
 京は目を丸くする。
「そう?」
「だって、けっこう強気じゃない? 栞のイメージとはちょっと違うかも」
「まあ、確かに。でも、この歌って中国の故事と照応していて、そういう知識が即座に出てくる清少納言に憧れる。だから、好き」
「そっか」
 桜は、と尋ねようとしてぎょっとする。さっきから静かにしていると思ったら、顔を俯けて、唇を引き結んでいた。まるで、涙を堪えているかのように。
 京もそれに気づいたようだ。わたしと視線を交わしてから、「桜、どうしたの?」と優しく話しかける。
 しかし、何も答えが返ってこない。その代わりか、桜は一枚の札を抜き取って、わたしたちの前に差し出した。それは、阿倍仲麻呂の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」。唐に行った作者の、故郷への思いが詰まっている。
「すごく、楽しいなって思って」
 ようやく、桜が話し出した。
「こうして、三人でいられる時間が素敵だなって、ほんとにそう思って」
 今のわたしが選ぶなら、この歌かな、と桜は続ける。なぜかしら、「今」に力がこもっていたような気がする。
「こんなタイミングで言うのもおかしな話なんだけど、でも、どうせいつか伝えなきゃいけないから」
 彼女は何を明かそうとしているのか。わたしたちだけが見えない膜に覆われたように、周囲との時間の流れに差が生じる。
「わたし、転校することになった。それも、海外に」
 練習を再開しますよ、先生の声が聞こえる。みんなが動き出す気配がする。札を並べ直し、合間には関係のない話をして。
 桜の言葉の意味をすぐには理解できなくて、わたしは少しも動けなかった。京も同じように戸惑っているのか、押し黙っている。
 この先もずっと変わらないと信じていた。そんなはずないのに。そうだとしても、こんなにも突然に訪れる別れは、予想していなかった。
 ようやく、桜が何を言ったのか理解し始める。その頃になると、いつも太陽みたいに微笑んでいた桜が、声を押し殺して泣いていた。じんわりと、わたしの頬は熱くなっている。
 いつまでも、肩を震わせるわたしたちを覆う膜は消えそうにない。

          *

 いつだって、気づいたら誰かを好きになっている。愛おしく想っている。どうして、どこで、どのようにして、そんな問いは意味を成さない。
 私はずっと人に愛される瞬間に疑問を抱いていた。私のどこを愛するに足ると判断してくれたのか、では何を誤ったら愛してくれなくなるのか、ほんとうに分からない。好意を寄せてもらえるのは嬉しいはずなのに、同時にその得体の知れなさに戸惑う。
 だけど、逆は違う。私から愛すときは、その確信に心当たりがある。虚飾もなく、揺るぎもない愛情が胸のうちに宿って、その火は容易に吹き消されない。だから、誰かを愛するときにはじめて、わたしを愛してほしいという望みが湧く。得体が知れたらそれに越したことはないけれど、ただ報われたいとまず感じる。
 いつだってはじめては、こうして訪れる。
 文化祭の数日前に冊子が完成した。サークル員と歓声を上げながら手に取り、眺めた。何よりも自分の作品を。
 掲載される形になると、なんだか、ほんとに自分が書いたのか不思議に思う。もう二度と同じようには書けない、私の中の私。繰り返される、感情を表現する言葉たち。
 シチュエーションや会話のやりとりなど、私と名波の関係性をそのまま表している。余人はいざ知らず、彼は読んだらすぐに気づくだろう。ここで描かれているのは自分と、田島京の話だ、と。読んでみたいなと言われた瞬間から、洗いざらいぶちまける覚悟がきっとできていた。その先に決定的な出来事が待っているとしても。
 冊子を閉じ、その表紙を撫でる。無機質な感触が肌を滑って、私は恍惚と息を吐く。


 最寄り駅を出たときから周囲の喧騒が届いてきた。ざわざわと、弾んだ声。大学に行くまでの歩道がたくさんの人で埋め尽くされている。ずっと向こうまで、見えるのは人の頭、頭。
 大学の規模が大きいことも相まって、文化祭に来場する一般客はとても多い。手垢のついていない学生たちの個性、文化を感じ取ろうと。あるいは、偶然の出会いを求めて。なんの意図もなく、楽しそうなものに惹かれて。とにかく、キャンパスは普段の表情を一変させ、とても自分のホームグラウンドとは思えない。
 この日に合わせて製作した冊子を販売するため、ブースを設けて売り込まなければならない。売り子はサークル員でシフトを組んで、数人体制で乗り切る。私は日頃の活動にあまり参加していなかったこともあって、ブースにいる時間はわずか。わずかだろうと、自分の作品が載っているものがどんな人たちに購入されていくのか、この目で確かめたい。
 そして、その時間帯に名波が来てくれたら。そう望む一方、でもどんな顔をすればいいのか分からないから、やはり来てほしくないとも。
 栞も所属しているサークルが出す評論集を販売している。空き時間になったら遊びにいくつもりだ。そういえば、彼女も文章を書いているのか。長いものを読む機会に恵まれないから、どんな感じなのか気になる。
 あれこれ考えを巡らせて、落ち着かない周囲の雰囲気を遠ざけようとする。

 平素は講義などに使われる教室の一角をブースとしてあてがわれる。広い教室内にほかの文芸サークルとともに入って、お客さんが来るのを待ち構える。ちなみに栞のところは別の教室。
 待ち構えるとはいえ、しばらくは手持ち無沙汰な状態が続いた。バイトの忙しさに慣れたからなおさらだ。そうそう、飛ぶように売れるわけがない。たまに思い出したようにして捌くだけ。それでも、誰かに手に取ってもらえるのは嬉しいこと。
 もうすぐ交代の時間という段になって、栞がひょっこりと顔を出した。私を見つけて、花が咲いたような笑みを浮かべる。
「京、来たよ」
「栞、ありがとう」
 机の上に積まれた冊子をそっと持ち上げる。
「この中に京の小説が?」
「うん、まあ、一応」
 一応も何もないのだけれど、目を輝かして訊かれ、ちょっと気恥ずかしくなる。
「すごいなー。京が話を書くなんて久しぶりだよね」
 中学の文化祭を思い出す、と栞は続けた。考えることは同じだ。
 パラパラとめくって、真ん中あたりで手が止まる。さっそく私の作品を読んでいるのだろう。目の前で読まれるなんて照れ臭くてしょうがない。
 しかし、微笑んでいた栞の表情が硬くなった気がした。目を見開いて、唇を引き結んでいる。真剣に読み進めているというよりも、何かを怪訝に感じているような――。
「栞――?」
 声をかけると、さっきまでの硬さをどこかへやるように白い歯を見せる。
「あとで、ゆっくり読ませてもらうね。一冊ください」
「――うん、ありがとう」
 お金の受け渡しを終えると、またね、と呟いて、栞はいなくなってしまう。なんとなくよそよそしい気がした――杞憂ならいいけれど。
 結局、私がブースにいる間に名波は姿を現さなかった。

 雲行きが怪しくなっていた。もしかしたら一雨降るかもしれない。せっかくの文化祭に文字通り水を差す。
 晴れているうちにと、ブースから解放されてすぐに栞たちのいる教室を目指す。黙々と人の波を泳いでいく。みんな、ほんとに幸せそうだ。楽しむべきときに楽しむ術を知っている、その表情。
 中学と大学では文化祭の色が当然異なる。中学校ではクラス単位で取り組むことをほぼ強制されるけど、大学では基本的に自由。サークルや部に所属していない人たちは参加せず、むしろ連休を利用して小旅行を企てる。
 そんな風に方向性が一致しているとは言えないのに、お祭りとして盛り上がるのは、大多数が楽しみたい、充実した時間を送りたい、という共通の願いを抱いているため。大学生活をよいものにするのは、それぞれの匙加減次第。
 桜を主演に据え、劇をやったあの頃。完成に向かっていくあの過程が何よりも至福で、だけど、今の私は少し孤独。栞と同じサークルにすればよかったのかな、と一抹の後悔。
 その数か月後、桜は転校することになってしまったから、彼女に主演をお願いして正解だった。三人で忘れられない思い出を作れて、心からよかったと思える。
 目的地が近づいてきて、私の足は止まった。廊下の端で名波を見かけた。誰かと話している。少し離れたところから様子を見ることにした。彼の眼差しは愛おしむように細められている。
 誰かと話している――ほんとうは嫌でもそれが誰か分かっていた。信じたくなかっただけ。だって、あんなに目立つ三つ編みは栞以外にありえない。
 名波と栞が見つめ合って、ずっと話し込んでいる。彼らは知り合いだったのか。唇のその動きを頭の中でトレースしても、具体的に会話の内容を思い描くことはできない。だが、具体的でなくたって、彼らがとても親密な関係だということは感じ取れる。名波があんなに眩しい笑みを見せている。栞が――女の顔をしている。
 私は栞のすべてを知っていると思っていた。出会ってから、些細なことまで共有し、共有できるくらいいつでも傍にいた。純粋で、まっすぐに生きていて、誰よりもかわいい栞。腰まで伸びた黒髪を、毎日丁寧に編んでくる栞。控えめで、でも本のことになると少し饒舌になる栞。
 知っていると思い込んでいただけだったのだろうか。話している相手が名波でなければ、この状況は喜べたのかもしれない。教室の隅で俯いていた栞が、恋を覚えたのだと。そう、名波でなければ。
 彼がさりげない動作で栞を抱き寄せる。甘えるように、見上げる栞の横顔。綺麗だな、と思ってしまった。
 ――ごめんね、京。黙っていて、ごめんね。
 肩に凭れかかる刹那、彼女の髪が私の二の腕に触れた。かすかにこぼした言葉とともに、そのくすぐったい感触と匂いを想起する。
 早く、雨が降ればいいのに。見たくないものを目の当たりにしたときにそう願ってしまうのはありきたりだろうか。
 曇り空をねめつけても天候は変わらない。

          *

 厳しい寒さを越えたとはいえ、まだまだマフラーが手放せない。お気に入りのそれを首に巻いて外に出る。吐く息はもう白くない。
 いい思い出の方が多かった一年がもうすぐ終わり、わたしは二年生になる。そのときには、桜は遠い場所で新しい生活をスタートさせている。ふわふわとしていて、現実味がない。
 転校する、と聞いて。東南アジアのある国に行く、と聞いて。具体的な話を耳にすればするほど、むしろ現実から離れてしまう感覚。桜とはほんとうにお別れなのだろうか。
 道に沿って並ぶ桜の木を見上げる。アスファルトの照り返しを受ける木々たちの指先はまだ蕾。もう少し暖かくなったら咲くはず。
 歩いていくうちに小さい公園が見えてくる。キイ、キイ、とブランコの揺れる音がした。足元を見つめて暗い横顔をしているのは、京。――その表情を目の当たりにして確信が舞い降りる。やはり、桜はいなくなってしまうのだ。
「京、早いね」
 声をかけると、こちらを向いた。表情を柔らかくする。髪がいつもより乱れていた。
「栞こそ」
 三人で、今日はお別れをすることにしていた。公園で待ち合わせ、好きなだけいろんなところに遊びにいくつもりだ。だけど、こんな雰囲気で大丈夫だろうか。
 まだまだ子どもなのかもしれない。一番寂しいのは桜に決まっているのに、笑顔で送り出してやる心の強さがない。
「成績、どうだった?」
 なんでもいいからと、関係のないことを尋ねる。
「あんまりよくなかった」
「そっか。わたしもそんなに」
「…………」
「最近、何かおもしろいの読んだ? わたしは『鼓笛のかなた』っていうのを読んでる」
「…………」
 京はまた俯いてしまう。キイ、キイ。ブランコの立てる音だけが響く。
 冷たい風が身に沁みる。きっと、このまま春は訪れない。桜の咲く季節は迎えられない。
「栞」
 聞き取れないくらい小さな声で、でも、ちゃんとそれを拾う。
「うん」
「桜がいなくなるのに、寂しくないの?」
 改めて言葉にされると、それは胸が張り裂けそうになる事実だった。それでも、涙をぐっと我慢する。だって、そうしないとすでに泣いている京を慰められないから。
「寂しいに決まってるよ。寂しくて、もう嫌になってしまう」
 だけど、とそっと京を抱き締める。ちょっとだけ、夏の海の日のことを思い出した。
「だけど、二度と会えないわけじゃない。いつかまた、絶対に再会できるから。それまでの、少し長いお別れ」
 京が、わたしの肩で泣いている。見た目は大人びているけど、内面は悩みすぎてしまうところもあって、こうして誰かのために涙を流せる。誰よりも、女の子。
「そうだよ」
 背中側から透き通るような声がして、首だけそちらを振り向く。桜が普段と変わらない笑みを浮かべて、わたしたちをじっと見つめていた。
「桜……」
「もう、遊びにいく前にそんなに泣いちゃって。どんなテンションで過ごせばいいのよ」
 そう苦笑する桜の顔にも、光るものが混じっている。「また会えるって。約束する。同じ地球上にいるんだし。飛行機だったらすぐだよ」
 だから泣かないで、京。笑ってよ、栞。
 大丈夫。わたしは頷く。どんなにつらい冬でも、やがては春にバトンタッチするように。蕾から淡いピンク色の花が咲くように。
 静かな公園で、わたしたちは再会を誓った。

 約束、したのに。
 泣かずに、笑顔で指切りをしたのに。
 それから二年半が経過した頃、桜の行った国で大変なことが起こった。連日、ニュースや新聞で「市民が暴徒化」「軍事クーデター」などの字が躍る。でも、どんな事実も記憶していない。何よりもただ、桜が案じられた。
 一度、嫌な夢を見た。
 全体の構造を把握するのが大変なほどの広さを有する学校の内部、わたしは一人で歩いている。何か目的があるような足取りだけど、さっきから同じところをぐるぐると回っている気がする。エスカレーターで上の階まで行ったかと思うと、また下の階へ。
 大きな窓から差し込む光が柔らかい。ほんのりと、校内を照らし出している。綺麗な情景だなとうっとりしていると、ふいに自分の右手に確かな感触を覚える。誰かと手を絡ませている。恋人同士のような繋ぎ方をして。腕の先を目の端で捉えようとすると、どうしてか顔がよく見えない。でも、体つきから、掌の厚さから、男の人だということだけは分かる。
 わたしたちは逃げた。途方もない何かから。校内を、周囲の目も憚らずに走って逃げた。腋にじっとりと嫌な汗をかいていた。今この瞬間、わたしは悲劇のヒロイン。
 視界が開けた。広い場所に出る。あちこちに談笑する若者がいた。やっぱり、ここは広くて大きなわたしの通う学校だ。空が見える。さっきからの柔らかい光は嘘ではなかったのだ。
 男の腕に促されるようにして、あるいは自らの意思で、わたしたちは建物と建物の間の細い道に滑り込む。それでも、まだ追っ手をまけていない。よく見ると、建物の壁面にはいくつもの穴が穿たれ、人が入れるようになっている。わたしは咄嗟に潜り込んだ。その瞬間、それぞれの意思が反したのだろうか、繋がれていた手が離れる。彼だけは、そのまま走って奥の湖へ向かう。
 わたしは急いでそこにあった毛布をかぶり、全身を覆った。息を殺してわたしを不安にする恐怖が通過するのを待つ。
 声がした。「こっちだ!」気づかれてしまっただろうか。続けて、「ここだな」という話し声がすぐ近くでする。一巻の終わりだと思ったと同時に、細長い棒状のもので突かれ――禍々しい黒い銃口を向けられる。
 不運にも混乱に巻き込まれ、桜はわたしたちとの約束を守らなかった。

          *

 二階から目薬差すような恋だった。
 潮風にやられて瞳が乾燥している。しぱしぱと、瞬く。季節外れの海岸線沿いは、それはそれで味があった。
 文化祭の次の日は振替休日だったから、朝早くから出かけた。電車を乗り継いで、あの由比ヶ浜に。何かあったら海を見たくなるのは衝動みたいなものだ。家でじっとしているだけだと悪い感情ばかりが湧いてきそうで。
 確かめていないことがいくつかある。栞と名波はほんとうに恋人同士なのか。何かの見間違いではないのか。それと、名波は私の小説を読んだのか。読んだのだとしたら、どんな感想を抱いたのか。
 青い海面をずっと見つめている。そこに答えはないけど、ただ眺めているだけで、心のもやもやは払い除けられる。ある程度。打ち寄せる波のリズムに合わせるように、桜が好きだった歌を口ずさんだ。異国の地で命を落とした彼女が、いつも口ずさんでいた歌。
 あんなに仲がよかった私たち三人は、桜がいなくなり、そして今、栞と関係を絶ってしまうかもしれない。気持ちの整理がついていないから、はっきりとした意思はないけれど、現時点では栞に会いたいと思わない。どんな顔をすればいいか分からないし、どんな顔をされても嫌だ。
 でも、バイト先では会わざるを得ないのか。私から急に辞めたっていいけど、和宮さんがいなくなることを考えると、迷惑をかけるだろう。とりあえずは、と携帯を鞄から出す。この先どうするかは不明だけど、今日のバイトは休もう。当日の朝の連絡では、小早川さんだったら小言を言うだろうな。そう心配しつつコール音を聞いていると、出たのは内田さんだった。体調不良とだけ簡単に伝えると、あっさりと許してくれた。
 話し終えてから、波の音が向こうに聞こえなかったかと今さら不安を覚えた。

 陽が沈んでから家に帰り着くと、母親に、栞ちゃん来てたわよ、と教えられた。夕方頃に来て、ついさっき帰ったという。そうか、もう来たのか。家にいなくてよかった。
 自分の部屋に入って、疲れた体をベッドに横たえようとすると、机の上に一枚のルーズリーフを見つけた。真ん中で折れ、見える面には几帳面な字で「京へ」と記されていた。
 気づかなかったことにして、眠ってしまおうか。目に留めてしまった自分が恨めしい。逡巡した挙句、闇雲な想像に苦しめられるよりも、事実を把握した方が寝つきもいいだろう、と思い至り、それを手にした。じっくり読ませてもらってから、すべてを忘れるくらいたっぷり眠ってやろう。
 中を開くと、これまた整った筆致で綴られていた。でも、予想していたよりも短い内容だった。
『はじめて友情を覚えたとき、はじめて愛情を覚えたとき、私のそばには必ず京がいてくれた。ほんとうにありがとう。ほんとうに、ごめんなさい。』
 元通り折りたたんで、机の上に置き直した。小さく息を吐き出してから、つけたままの腕時計で時間を確認する。
 次いで携帯を取り出し、メールを打ち込む。妙に落ち着いた気分で、それらの行為を完了させた。
『栞、今から会おう。公園で待ってる。』
 眠りにつくにはまだ早い。外は寒いし、今日ばかりは栞がすぐにメールに気づいてくれるといいのだけど。

 月は少し雲に隠れていた。公園内を柔らかく照らすのは街灯の光だけ。静かな住宅街の中で、公園はよりいっそう鳴りを潜めている。
 ブランコに乗って、ゆっくりと漕いでみる。キイ、キイ、と軋む音が唯一響く。キイ、キイ。それに耳を傾けながら、栞に会ったら開口一番何を伝えようか考えた。怒った方がいいのか、笑って安心させた方がいいのか。感情を窺わせないようにした方がいいのか――。
 考えたって仕方がない。彼女を前にして素直に湧いてきた感情に従えばいい。
「京」
 顔を上げると、栞がぎこちない笑みを見せて、立っていた。不安そうに私の顔を覗き込んでくる。
「桜と別れた日――」やっぱり、許そうと決めた。「この公園だったね。そのときも私、ブランコに乗ってた」
 少し、栞の表情が和らぐ。ここに来るまでの足取りを重くしていたものを、取り払えただろうか。
「そうだったね。楽しい思い出を作るつもりだったのに、京が最初から泣いてしまって」
「しょうがないでしょ。ほんとうに、桜と離ればなれになるのは寂しかったんだから」
「それは私も一緒だったよ。でも、桜のために我慢したの。一番寂しくて泣きたいのは、桜だと思ったから」
「うん。そうだよね。ちょっと、後悔してる」
 実際に、それから桜と再会する機会は潰えたわけだし。口にはせず、胸のうちだけで唱える。
 私は座ったまま。栞はすぐ傍に佇んだまま。その位置関係を崩さず、冷たい風に吹かれた。ぼんやりと三人の思い出を脳裏に浮かべながら、少しずつ文化祭の日のことを意識し始めた。どう、訊いたら。
「ごめんね」
 栞がぽつりと謝った。ほんとうに申し訳なさそうに、顔を俯けている。繰り返す、「ごめんね」
「なんで謝るの」
「だって――」
 好きだったんでしょ、それだけ呟く。
 そう、私はきっと名波が好きだった。
「いつから?」
 栞は押し黙った。言葉を選んでいるようだった。
「……順を追って話すと、私と彼が知り合ったのは、図書館でのことがあってからすぐ」
「図書館、でのこと?」
「ほら、京が足ぶつけちゃったとき」
 言われて、ようやく思い出した。振り返れば、あれが彼と関わりを持つ契機となった。
「あの翌日の授業で、彼に会って、話しかけられたの」
 それでは、私とほとんど同じではないか。二人とも彼の気ままさに惹かれてしまった、ということなのかもしれない。いとも、あっさりと。
「それ以来、いろいろ話をするようになって。本の話とか。――あと、」
 わずかに言いよどむ。
「あと?」
「京のことも話してた。昔からの友達だって伝えたから。最近、仲良くなったって。いつか、三人で会えたらいいねって」
 私の知らないところで、そんなにも物語が進んでいた。同じ時間を共有してきた私たちだったけれど、でも、見えているものはちょっとずつ違っていたのかもしれない。
「私、誰かを好きになったことってなかったの。というか、男の人は苦手だった。だから、かな。だから、彼と自然と話せていることが不思議で。二人でいることが、なんだか居心地いいなと、そう思えて」
 栞はやっぱり変わらない。出会った頃から、ずっと素直で愛おしいままだ。
「それで、京のブースに行って、京の小説を読んだときに気づくことがあったの。読んですぐ、作中の『私』は京で、『彼』は名波くんのことだと分かった。それから、これが誰かを好きになるということなんだって、分かったような気がして」
 さっきから、栞の顔をちゃんと見られなかった。声の調子からして、悲しげに睫毛を瞬かせているだろう。察せても、笑顔を投げかけることはできなかった。
「それで、あの日に、伝えたの」
「――私の想いに気づいていたのに?」
 しばらくぶりに言葉を返すと、かすかに躊躇う気配がした。
「それは、否定しない。京を出し抜くことになるだろうって自覚してた」
 でも、と続ける。「でも、私ははじめてだったから。その感情を覚えてしまったら、どうにかせずにはいられなかった」
 すっと栞に視線を向けると、顔を歪めていた。桜を案じて涙を堪えた、あの栞が。
「そっか」
 ふう、と短く息を吐いて、間を嫌うように伸びをする。元の姿勢に戻してから、改めて栞をじっと捉えた。
「私の小説、彼には見せたの?」
 名波は、私がブースにいるときに買いに来なかった。おそらく、自分では買わなかったのではないかな。
「ううん。見せない方がいい?」
「それは、栞に任せるよ」
「――分かった」
 私たちはいつだって不器用だ。そして、いつだってまっすぐに何かを見つめている。今ここで栞にかけるべき言葉は一つしかない。
「許してあげる、栞のこと」
 隣ではっと息を飲んでいるのが感じ取れた。
「その代わり、条件がある」
「条件……?」
 怯えるような瞳と、半ば開いたままの唇。大人になりつつあるのに、相変わらずどこか稚(いとけな)さが残っている。
 私は桜がすごいと思っていた。中学生の頃、図書室で、私と栞の傍まで来て、彼女はこう言った。あなたたちと友達になりたい、と。思っても、それをはっきり口にするのは勇気のいることだ。少なくとも、私と栞は。戸惑い、二人の領域に踏み込まれるのを恐れた。だけど、たぶん桜は自信があってはっきり言えたわけではなかった。それくらい、確かな思いが胸に宿っていたのだ。
「私とずっと友達でいてね」
 そうしたら、許してあげる。そうして、そっと手を握ってあげた。すぐに、握り返される感触。寒い分だけ、その温もりを心地よく感じる。
 詰まるところ、私はどうしようもないほどに栞が好き。ほんとうに、ただそれだけ。
 今宵は雲が、月を隠している。

          *

 鏡を前にして髪を編んでいる時間は、どんなときよりも心を空っぽにできる。毎朝のこの習慣が生活にリズムをもたらし、一日が始まる実感がやってくる。腰まで伸びた髪を丁寧に、丁寧に編んでいく。
 鏡の中の少女が無表情にこちらを見つめている。小さく、はにかんでみる。同じように向かい合わせの彼女も笑う。
 桜を失った喪失感に包まれたまま、高校生活は瞬く間に過ぎ去ってしまった。行事とか、進路とか、読んだ本のこととか。それなりの起伏はあったはずなのに、自分の中に残ったものは数えるほどしかない。
 その矢先、先月、未曽有の大震災があった。それでようやく、自分がかつての自分をちゃんと取り戻した感覚になった。胸中を恐怖が占め、揺られている最中、わたしは失いたくないと強く思った。もう、身近な誰かを突然失いたくない。誰よりも案じられたのは京の安否だった。
 無事でよかった。
 いつもどおり編めて、ほっとする。鏡の前から離れて、出かける準備をする。
 街は次第に落ち着いてきていた。震災直後のざわめきは遠のきつつある。だけど、せっかくの大学の入学式は中止になってしまった。賢明な処置、と言えばそうなのかもしれないけれど、一度しか経験できない入学式を取り上げられるのは、とても残念。
『入学式、中止になっちゃったんだね。』
 ついさっき京に送ったメールは、だから素直な感想。
 授業開始も遅れたために、ぽっかりとできた時間。わたしはやっぱり本を読むことにした。読みたいものは山ほどあるのだし。それと、アルバイトを始めてみようかな、という気持ちも少しある。
 今日は地元の図書館へ行く。京は地震のとき、その図書館にいたらしい。古い建物だったから、なんともなくてほんとによかった。
 京。今頃どうしているだろう。大学が始業するまでの期間、どんな風に過ごすのかな。きっと、本は読むのだろうけれど。
 家を出て、住宅街を抜けていく。空をちらりと見上げると、雲の動きが速いような気がした。もしかしたら、この後天候が悪くなるのかも。まあ、そのときは、そのときで。
 図書館は以前通っていた中学校に近い。当時、目を瞑っても道を間違えないくらい歩いた通学路を辿ることになる。あの頃の気持ちを取り戻してみる――それをするには、あまりにもいろいろなことがあり過ぎた。思い出を一つひとつなぞるだけ。
 途中、道沿いの塀の上に一匹の猫がいた。既視感。なんだか見覚えのある模様、しかし、見慣れた印象より一回り小さい。
 そうして、気づいた。もしや、中学生のときにたびたびお世話になったあの猫の、子どもなのではないだろうか。友達ができないときも、体育祭でクラスの足を引っ張っていたときも、わたしの話を聞いて諭してくれた、あの猫の。
「あなたも、迷える女の子がいたら、優しく導いてあげてね」
 話しかけると、その大役に目を見張るように、耳をピンと立てた。かわいい。またね、と手を振って別れる。
 これまで、それなりに心を痛めることを経験した。その分、嬉しいこともそれなりにあった。これからどんな未来が行く末に待っているか分からないけど、大丈夫。
 京がいてくれれば、きっと大丈夫。
 風が強くなってきていた。向こうには中学校が見える。校庭に植えられた桜が風に吹かれ、花びらを舞わせていた。

いつだってはじめては

いつだってはじめては

とある少女の「はじめて」を描いた作品です。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2016-09-10

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