*星空文庫

魔王様の仰せのままに(前)

糸公 作

  1. プロローグ
  2. 流れ着いた日々
  3. 合戦
  4. 謁見
  5. 魔王様との日常
  6. 出立
  7. 死闘

プロローグ

 扉をくぐると天井から降り注ぐ光の雨霰に目が眩んだ。
 やがて視界に氾濫する白色が和らいでいくと、礼拝堂の中心にその異様は現れる。そこへと伸びる絨毯の赤色を目で追う内に自然とたどり着いてしまう。
 彼が歩き出したその先にあるのは玉座だった。
 本来ならば然るべき地位の人間がその威力を誇るために座するのだろう比類なき権力の象徴である。
 肘掛けは木目に艶が生まれるまで磨き抜かれ、座面と背もたれには柔らかな皮革を張られていた。装飾はないのに厳かで、大人でも優に二人は座れるほど大きい。 
 そんな偉容がどうしてか今は、たった一人の少女に占拠されていた。
 その華奢に過ぎる肢体はだぶついた赤いマントと丈の合わない紫色のローブ、それから晴れた空の雲よりも眩い白無垢の長髪に隠されている。
 そんな中で一対、鮮烈に赤く燃える瞳が彼を見つめていた。
「あなたは……?」
 『魔王』。
 脳裏に過ぎったその称号は、しかし目の前の膝を揃えて腰掛ける少女とはあまりにも相容れない。
 そのひたむきな上目遣いに覗かれると、くすんでいたものが晴れていく心地がした。目の奥で何かが疼き、巡り出す。
「俺は……」
 透明な瞳を満たす赤に見入っていると、胸の底に重たいものが据えられた。
 微かな違和感を覚えてもう一度、彼女の真紅の瞳孔を覗き込むけれども、結論は変わらない。
 その本能に、刻まれた使命に、ただ身を任せる。
「俺は、あなたを――」
 守る。
 そのために、ここまで来ました。
 彼自身でさえ突拍子もなく感じてしまう、そんな台詞と決意。けれど彼の想いは揺らがず、そして少女はそれに答えることなく。
「…………?」
 と、ただぼんやり黙したまま無垢な眼差しに彼を映していた。

流れ着いた日々

 まず鼓膜をかき鳴らしたのは、押し寄せては跳ねる波の音だった。そこに混じる砂が擦れ合って、頭の芯をくすぐる。
「……っぅ」
 うつ伏せだった彼はゆっくりと寝返りを打って、目を開いた。瞼越しにも感じられる日の光の眩しさに網膜を焼かれて思わず腕を翳す。
 息を吸えば容赦なく鼻腔を駆け上ってくる独特の臭気が脳髄すら侵し尽くすようだった。どこかで朽ち果てた魚たちの死骸から溢れ出した腐臭だ。
 つまりは大変に磯臭い。
 寝たまま左右を見渡すと案の定、そこは日の光を集めて注いだような砂浜だった。
 こんな景色がまだ残っていたのかと見惚れること数秒、その意識は水が染みた布切れよりも鈍重な自分の体に引き戻される。
 草臥れきった上体を何とか持ち上げたら、着崩れた紺の礼服が腰元まで海に浸っていた。そこでふと気になって自らの袖に鼻を寄せる。
 一息も吸い込み切らない間に彼は後悔させられた。
「くっ……せぇっ!!」
 いがらっぽい声を吐き散らしながら、顔をしかめて腕を遠ざける。
 腐臭の大半は着衣に染み着いていのだ。おまけにその所々が裂けていて、如何に長らく波に揺られていたのかを思い知らされる。
 そんな有り様だから期待はせずに礼服中を探ってみた。けれども、というよりはやはり、身分を証明する物品は出てこなくて、重たい溜め息が口から零れた。
無論、そうしてもいられずに彼は体の調子を確かめてみる。
「あ。あー、あぁ」
 手始めに声を出してみたら、最初だけは声未満の雑音が漏れ出たものの次第に喉が発声のやり方を思い出してくる。
 それに満足して今度は慎重に膝をつき、そこから砂浜に靴底を静めて体を持ち上げていった。三半規管が死んでいやしないかと案じていたが、杞憂に終わる。立ち上がりその場で跳ねてみても彼の感覚は異常を訴えなかった。袖口から塩辛い滴と小さな蟹が飛び出すのみである。
 身体は概ね正常、エネルギー不足の主張が甚だしい腹を除けば異常なし。
 だったら食料を探しに行けば良いだけにも思えるのだが、一つだけ立ちはだかる問題の大きさが彼の足を縫いつけていた。
辺りを見回してまず呟く。
「……どこだ、ここは」
 彼の頭には世界中の地理が叩き込まれているはずなのだが、思い当たる場所がない。気を失っている間に天変地異でも起きたのかとあり得ない可能性を疑ってしまう。
 だが今はそれさえも些細な問題でしかなかった。
「誰なんだ俺は……?」
 何一つ、思い出せない。汚泥のように頭の底に溜まった記憶を漁ろうするのに何も拾い出せず、虚しく時間と体力ばかりが費やされていく。
「参ったな……」
 途方に暮れるしかなかった。辺りに人の気配もなく、どちらへと歩き出せば良いのかも分からない。
 かと言ってここでじっともしているわけにもいかずに周囲を見回した。
 海には青い沖が茫洋と続き、海岸には砂浜が果てることなく波打ち際に寄り添っている。そしてそこから広がる陸地には背の高い草が群れるばかりで防砂林すら整備されていない。
「別天地って感じだな……」
 記憶の中に欠片だけが残る、荒れ果て退廃した風景とかけ離れ過ぎている。
その孤独に耐え切れず落胆も通り越して呆然としていた、彼の意識に稲光が走った。
 草藪を揺らす潮風の音に、異質な響きが紛れ込んでいる。
 ――てっ!
 耳を澄ませば、それは確かに人の声だった。そこに鬼気迫ったものを感じ取ると彼の体は決断するより早く駆け出している。
 踏み出すたび足に纏わりつく細かな砂も、逆風も大した障害にはならなかった。彼はそれらを蹴り散らし、浜辺との境界にある草むらの途切れ目を飛び越えて藪に突っ込む。腕で顔だけを庇いながら駆け抜けていくと程なくして森林との境目にある小道に出た。
「なっ、な、何でこの時期に!?」
 叫ぶ声は彼に向けられたものではなく、また彼が発したものでもない。
 声がした方角に目を向ければ、初老と思しき軽装の男がこちらに背を向けて尻餅をついていた。しかし彼はそれよりも、その頭越しに見えてしまった黒い影に目が引きつけられる。
「熊……じゃないな」
 人を遙かに越すその巨躯は黒い体毛に覆われていた。
「あれは爪、なのか?」
 太い腕に一本ずつ備わったその爪は、しかし外見の上だとぎらぎらと黒光りする刃にしか見えない。
 それを証明するように道の右手には首の切断面を晒した馬が木にもたれ掛かっていて、その向かいには主を失った馬車が藪に突っ込んでいた。
 化け物のずんぐりとした胴は細く強靱な足に支えられ、三本の爪を地べたに突き立てて男に迫る。
「こ、ここで死ぬのか、私は……」
 後ろ向きに這いずっていた男の腕が止まった。諦めたせいか震えも収まり、目を閉じて迫る死の息遣いを受け入れてしまう。
 ここを好機と見た化け物は、人が駆けても二、三秒はかかる距離を一跳びで詰めて男に肉薄した。その大鎌が如き爪が振り上げられたとき、しかし背後からも小柄な人影が飛び込んでくる。
 男を挟んで等距離になるまで、彼は魔物に接近し終えていた。
 突如迫り来る少年の姿に注意が逸れ、化け物の動きは僅かに鈍る。
 その黒い目が、深く身を落とし腰を沈めた態勢の少年を映し出した。
 彼は駆けてきた勢いそのままに右足で地面を踏みしめ、そこから土がたわむまで力を込めて地面を蹴り飛ばして半歩前に出した左足を軸にしながら腰を捻る。
 最後に力を爆発させる刹那、目と口しかない化け物の顔を彼は睨みつつ裂帛の雄叫びを上げて全力を放出した。
「――っうぉおおおオオオッ!!」
 軸足で地べたを蹴って体ごと撃ち出し、男の頭上を一直線に越えた。反応し切れていない化け物の腹へと、脇の下に構えていた右の拳を撃ち込む。
 ――が、まだ終わりではない。
 彼はそこから拳を捻ってめり込ませ、堅牢な鎧となっている体毛と皮膚を破った。腕の先が生々しい血と肉の感触に被われるにも構わず、拳を突き入れてその中を抉る。
「……っはぁ」
 腹の奥にある堅いものを粉砕した彼は、威力を出し終えたその一瞬、中空で静止した。
 それから腕を引き抜きつつ着地すると、軽い足音と共に指の先から血飛沫が尾を引く。それを追うように怪物の腹からも血が爆ぜ、だらだらと流れ出した。
 その様を、化け物は変わらぬ表情のまま見下ろす。それから一歩、二歩と後退したところで口から血の泡ぶくを吹き出し、足がもつれて背後に倒れていった。
 鈍い重たい音を立てて地に伏せたそいつが、動かないことを確かめてから彼は背後に振り返る。そこでは唖然とした男の顔が彼を見上げていた。


「いやぁ、しかし素手で魔物を倒せる御仁がいるとはね」
 庇の下の影に入った男は、すっかり弛んだ表情で言う。それに遅れて、馬車を建物の物陰に横付けしてから男の隣に並んだ彼は、手を払いながら訊ねた。
「魔物?」
「何言ってるんだい? さっき君が倒したあいつだよ。あれは魔物だ」
 頭髪に白色の混じる男は薄目を開けて彼の顔をまじまじと眺める。魔物なる生物を知らないことがそれだけで男には不可解に思えたからだった。
 その心中を察しながら、彼は質問の仕方を考える。
「そうですか……ここではそう呼ばれているんですか」
 そうやって、さも自分は別の呼び方をしていたように装って。
 少なくとも彼に残された知識の限りでは、あのような生物は存在しない。部位ごとに分ければ幾らかは心当たりもあったが、生存に合理的な形質をしているとは思えない。
「まるで人を殺すためだけに生まれたような生物ですよね」
 彼の呟きに男は何度も深く頷く。
「そうだ。その通りだよ。あれは災害も同然だ。定期的に数が増えては人を食らっていくのだからね」
 うなだれて男は苦々しく呟く。その暗い面持ちからは気持ちの良くない記憶が透けて見えた。
「私も今度ばかりは駄目かと思ったよ。この時期は数が少ないからと油断していたんだ」
 油断していた、と男は言うがその目にはどことなく自棄的な色合いが見て取れる。そこで死ぬ運命なら死ねば良かった、とでも言い出しそうな危うさが覗いていた。
「あまり偉そうなことは言えませんけど、進んで死ぬのはどうかと思いますよ。少なくとも俺が見かけたら、また必ず助けますから」
 そうすることしか彼にはできないから。
 彼の根本には人を助けるようにと仕向けてくる何かが根付いていた。
 彼の慰めに男は笑みに含ませた苦々しさを一度だけ深め、それから払拭する。再び男が顔を上げたときには、その目に幾らか明るい活気が戻っていた。
「そうだね。せっかく救われた命だ。君のおかげで積み荷も捨てずに済んだことだし」
 肩を揺らして笑いかけながら、男は彼を労う。
「すまないね、大変だったろうに」
「いえ、お互い様ですよ」
 ここまで荷馬車を運んできたのはおよそ人間とは思えない膂力を持った彼だった。首を跳ねられた馬に変わって、ここまで引っ張ってきたのである。
「それに俺の方も積み荷から食料を頂けましたし」
「いやいや。それくらいでは恩返しにもならんよ。ふむ、しかし、それにしても君は腕っ節が強いね」
「そう……なんですかね」
 道中で度々された話なのだが、先ほどの魔物を武器も持たずに狩るなど人の為せる所業ではない。人の身で荷馬車を運ぶことも然りである。
「君のような者が通りがかったのも、『神』の思し召しか」
 男は両手を重ねて胸の前に掲げて、小さく祈りの文言を捧げる。紡がれた言葉が形になって光を散らし、天へと昇っていった。
「さて」
 祈祷を終えた男は目を開き彼に提案する。その手が指し示した先にあるのは、彼が馬車を停めた傍らにある建物の入り口だった。
「今日は……いいや、今日だけと言わず気が済むまで、私に君の宿代を支払わせもらいたい」
 にこやかに言うが決して軽くない負担であることは想像に難くなかった。
「いや、さすがにそこまでは申し訳ありませんし」
「なら君には行く当てがあるのかい? 今は無一文なんだろう?」
「……それは、確かに」
 その通りなのだが。
 それでも彼が辛抱強く言い訳を考えようとすると、そんな彼よりも先に男が口を開いた。
「心配しないで良い。ここの宿主とは顔馴染みなんだ。多少はまけてくれるさ」
 こうまで言われて拒絶できるような動機は思いつかなかった。あまり露骨に厚意を押しのけるのも失礼に感じられて、肩の力を抜く。
「すみません。しばらくの間、世話になります」


「これから、どうしようか……」
 フソウから借りているなめし皮で装丁された書物を閉じて傍らに置いた。それから窓の方へと足を向けて腕を枕に体を横たえる。
 その部屋は土間を上がると三畳ほどの居間になっていて、部屋の奥には丸く縁取られた採光窓があった。そこに取り付けられた木の格子が網目状の影を投げかける室内はやや薄暗いものの、気分を落ち着かせるには都合が良い。
 昨日になってそんな寝床を得た彼は、ここまで後回しにしてきた頭の整理と状況の理解に勤めていた。
 何を隠そう、未だに現在地さえ突き止められずにいるのだから。
「神様、か」
 今し方まで読んでいた書物、フソウは聖書と呼んでいたそれを一瞥して彼は呟く。
 この世界は遠い昔に一度滅んだ。
 それでも生き残った数少ない人々に、手を差し伸べたのが『神』と称される存在である。人々はその助力を得て祈りと感謝を捧げながらこれまでを生きてきた。今の文明があるのはひとえにこの慈悲があってのものなのだ――。
 斯様に概略できる歴史が聖書には記されていた。その信憑性については何とも言えない。
 参考にはならなかった、というのが彼の本音である。
「仕事を探す手がかりにならないかって期待したんだけどな」
 何はともあれ、今の彼には稼ぐ当てが必要だった。そしてそれが叶うのなら資金を貯めて、自分の正体を探す旅に出たい。
 未だに彼は自分がどこで生まれ、何をして暮らしてきたのかも思い出せない。
 それが溜まらなく不安で、焦燥が胸の底をちろちろと焦がした。
 何かするべきことがあったはずなのに。自分はそのために生み出されたはずだというのに。何も思い出せなくて、こんなところで無為に時間を過ごしている。
 そんな不安が繰り返し胸を駆り立てて焼き焦がし――
「――おい!! 今、いるのか?」
 怒鳴り声が彼の思考を打ち消した。知らぬ間に頭を抱えていた彼は、我に返って身を起こす。部屋の戸が叩かれ、誰かが返事を求めていた。
「いるんなら返事をしてくれ!」
「あぁ、はい! いますっ! いますよ!!」
 大きな相手の声に掻き消されないようにと彼も声を張り上げて返答する。すると扉の向こうから、男の嗄れた長い息の音が聞こえてきた。
「良かったよ。あんたが助けた行商から話を聞いたんだ。何でもあんた、素手で魔物を討ち取ったんだって?」
 全て事実で、彼は相手を警戒すべきかと逡巡したが、意味のないことに思えてやめる。
「そうですよ。鎌のような爪を振るう化け物をしとめました」
 すると今度は大音声の笑い声が返ってきた。
「そうかいそうかい。てことは、腕っ節には自信があるんだな?」
 そこで薄々彼もこの会話の意味を感づいて「えぇ」となるべく大きく声を掛ける。
「なら良かった。あんたに頼みたいことがあるんだ。今、時間大丈夫か?」
 彼が予想した通りに仕事の依頼だった。思わぬ幸運に喜ぶ気持ちと、自身を俯瞰する冷静さが入り交じる。
「えぇと、念のためにあなたがどこの誰で、どなたから俺の話を聞いたのか、教えて頂いてもよろしいでしょうか?」
 身元の提示はともかく、彼が警戒心を剥き出しにした質問しても、男の声の調子は落ちなかった。それどころか尚更楽しそうにしてこう言う。
「俺はこの村の自警団の団長を勤めていてな、一颯という。あんたの話は行商人の爺さんに聞いたんだ。あの爺さんには何度か世話になっていてな、確かな情報だろうと思ったのさ」
 つまりは彼が助けた商人の信頼がこうして仕事を引き寄せたのだった。日溜まりに浸かったように少しだけ温かい気持ちが湧いて頬を弛ませながら、彼は告げる。
「分かりました。不躾なことを訊ねて申し訳ありません。それではどうぞ、中にお入りください」
 そう声を掛けるよりも早く戸が横に開かれ、大柄な図体の男が片手を振り上げ踏み込んできた。
「よう。……あぁ? 思ってたよりちいせぇな」
 確かに、男と比べたら彼の肩幅は半分程度しかない。背丈など近くから見上げれば首が痛くなるほどで、比較するのも馬鹿らしい。
 しかしそれは、彼が小さいと言うよりは。
「あなたが大きすぎるだけなのでは? 大柄な方は珍しいでしょうに」
 彼が居住まいを正しながら言うと、日に焼けた男の浅黒い頬がなぜか楽しそうににたりと歪んだ。
「魔物の、それもでけぇ奴を素手で倒したなんて聞いたら、誰だって馬鹿にでかい野郎を想像するんだよ」
 そう語る男の顔は傷だらけで、羽織から露出する腕や首もとにも大きな切り傷の痕が残っていた。
「なるほど。例えばあなたのような方ですね?」
「あんたが倒したってのよりは、ちょっと格が落ちるがな」
 それでも得意げな顔をする男にとってはそれが余程の誇りであり、勲章なのだと彼は悟らされた。
 もしかしたらこの男はそうした勲章を持つ他の人間に興味があったのかもしれない。話を聞く限りでは珍しいことのようだし、などと考えていたら、男はいつの間にか下駄を脱ぎ散らかして隣に腰を下ろしていた。
「せっかく人が来たんだから考え事なんかしてねぇで、二人で話そうぜ」
 そのまま遠慮もへったくれもなくどさりと座り込んで、彼の首に腕を回してくる。
「さすがに馴れ馴れしすぎませんかね?」
 彼がどんな表情をして良いのか分からずにいても、男はお構いなしである。
「ホントにほっせぇな……これであの魔物を倒したってのか。あんた、何か『魔術』でも使えるのかい?」
「『魔術』ですか?」
 またしても飛び出る聞き慣れない単語に、彼は素直に教えを請う。男は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにまた表情を取り繕い語り出した。
「神様に願って奇跡を起こす『魔術』体系の総称だ。流派にもよるが、火を熾したり筋力を強化したりすることもできる」
「あなたも使えるんですか?」
 彼が訊ねると男は苦笑しながら首を横に振る。
「いや、特定の血統の人間にしか使えねぇんだ。あいつらが言うには神聖な血っつぅのが必要らしい」
 肩を竦めて言う男の口調はどこか馬鹿にした響きがした。少なくとも、特定の血族にしか使えないという話を男は信じていないのだ。
「まぁ俺みたいな凡俗でも、これくらいはできるんだがな」
 言いながら男は人差し指を胸の前に掲げた。それから目を瞑って祈祷の文句を囁くと同時に、指の先に空気が破裂するようにして小さな炎が灯る。
「今のは……」
 彼は瞬きすることもなく観察していたが、仕掛けの類は見当たらなかった。どうやら知識にない事象らしいとひとまずは事実を受け入れる。
 男は指の先の火を吹き消して自嘲じみた笑みを浮かべた。
「こんなもん、実際の戦いでは何の役にもたたねぇよ。大人しく体を鍛えた方が建設的だ」
 それから彼の腕や肩に目を向けた。顎の髭を撫でながら言う。
「その点、魔物を丸腰で倒せるんならこれ以上ない戦力なんだが……」
 男は彼の実力を計りかねているらしい。本当にこれで倒せたのか、という疑問が顕著に顔に顕れていた。
「何も見せずに俺が信じろとは言いませんよ。だから適当な戦場に――」
「なんだこれ」
「聞けよ」
 思わず彼が漏らした文句も男は気に留めない。興味深そうな顔をして彼の後ろ髪を摘み上げ、うなじにある何かを注視していた。
「文字が彫ってあんだけどよ、何て読むのか分かんねぇ」
「『紅之鬼若』」
 我知らず口走っていたその単語に彼自身が自分の舌と頭を疑った。
「どういう意味だ?」
「俺の……個人名?」
 自分のことなのに満足に応えられず、彼は苛立つ。
 無意識の内に口にしていたが、その名は曖昧になっている記憶から転がり出たその一欠片だった。
「つまりは名前ってことで良いのか?」
 無骨な眉を顰めた男の、大変に単純な解釈は的を射ている。反論する気力も湧かなかった彼は「そのようです」とだけ伝えた。
「なるほど。しかしそのままじゃあ、あんまりにも呼びづれぇな。適当にオニワカとでも略して良いか?」
 さすがに非礼過ぎやしないだろうかと沸き立った怒りを深く息を吐くことで彼は鎮めた。
「勝手にしてください」
 どうせ抗議しても受け入れられない気がして、早々に結論を投げる。
「そうかい。だったら俺のことは、イブキと呼んでくれ。それからくすぐったいから、その敬語は止してくれ」
 それからまた大口を開けてイブキは笑い出す。その姿を見ていると悩んでいるのも馬鹿馬鹿しくて、オニワカは吐き出す溜め息ごと迷いを金繰り捨てた。
 それから大まかな会話の流れを男に委ねることにして、話題を切り替える。
「分かったよ、イブキ。それで俺に頼みたいことってのは?」
 イブキは待ってましたと言わんばかりに目を輝かせる。オニワカから腕を離すとその背中を軽く叩いて話を切り出した。
「その話なんだがな、俺はオニワカに、一時的にこの村の自警団に加わってもらいたいんだよ」
 ほぼ予想していた通りの話で、これにはオニワカも驚かない。問題はむしろその事情とやらである。
「わざわざ外部から人を雇うのか? 大勢が魔物にやられたとか?」
 口に出してしまってから明け透け過ぎる物言いだったろうかとオニワカは自身を恥じる。しかしイブキはさほど気にした気色も見せずに声を出して笑った。
「馬鹿言え。そうそうウチのモンがやられるかよ。今回オニワカを雇いたいのは、それだけでかい仕事が待ってるからだ」
「この先に大きな戦いでもあるのか?」
 訊ねたらイブキは無言で頷く。
「まだ確定したわけじゃねぇがな。まぁちょっと、話だけでも聞いてくれよ……」
 イブキの口から語られたのは、それなりに衝撃的で、関係のない人間には聞かせられない事実だった。


 夕暮れ時、世界が色褪せたように赤く染まる頃、オニワカは宿屋の食堂を訪れていた。ここは宿屋に泊まるものならば誰でも利用できる場所で、望めば朝昼晩と食事が提供される。
 細長く、彼の部屋を二つ並べたほどの空間にカウンター席とテーブルが備え付けられていた。テーブル席の一番奥で窓から差し込む斜陽に照らされた壁や食卓の木の模様を眺めていたら、どんぶりの乗った盆が右斜め前に置かれた。
「それで、仕事を頼まれたんだって?」
「えぇ、まぁ」
「まぁ、君の実力なら傭兵としては文句なしだろう」
 行商の男は言いながら、オニワカの隣に腰掛けた。それから「ふぅ」と一息ついて、出し汁の匂いの中に箸を突き入れる。
「あなたが宣伝してくれたおかげですよ」
 オニワカの能力が容易に信用されたのはこの行商の信頼があってのものである、とオニワカ自身も自覚している。だから素直に礼を言ったのだが、男はくすぐったそうに小さく笑い声を上げた。
「私は君の……えぇと、オニワカくんの戦いっ振りを言いふらしていただけなんだがね。それが君のためになったのなら幸いだ」
 自然な仕草でおどけたように見せかけて、男は謙遜する。和やかに微笑む男の顔は夕焼けを浴びて陰影を増し、いつもより重ねてきた年月の重さを感じさせた。
 そこでオニワカはあることを思い出す。
「そう言えば、今更ですけど名前を伺ってもよろしいですか?」
「もちろんだよ」
 男は懐から紙切れと万年筆を取り出し、素早く文字を書き連ねた。彼はそこに記された字の読みを確かめるため、口に出す。
「コウヤ……フソウ……?」
 読み方に自身を持てずにいたのだが、男は朗らかな顔で頷いた。
「あぁ。そうだよ」
「浮き草と書いてフソウと読むんですね」
 あまり見かけない読みであり、名前だった。字面だけを見ると不安定で、どこかに流されてしまいそうである。
「由来はあるですか?」
 オニワカの質問にもフソウは穏やかな顔つきで「あぁ」と答えた。
「浮き草はね、水に流されながらも汚れを浄化しながら驚くほどの勢いで繁殖していく植物なんだ。そして私の一族は代々旅をしている。浮き草のようにね。その中での繁栄を願って私はこの名を与えられたのだよ」
 語るフソウの目は昔懐かしむようで、深い郷愁を漂わせている。その名を与えてくれた両親と別れて、フソウはどれほどの月日を過ごしてきたのか。
 オニワカには想像するしかないが、フソウは遠い過去にある両親と共に旅をしていた日々を思い出しているのだった。
「なるほど」
 オニワカが納得というよりはむしろ感慨を得ている間もフソウはしばらく酒に酔ったように過去に微睡んでいた。オニワカが窓の外に目をやってフソウの気が済むのを待つ
 それからさして間も経たぬ内にオニワカの肩が叩かれた。「どうかしましたか?」とオニワカが訊ね掛けしたら、フソウは答える。
「何、大したことじゃないんだがね。君の名前の由来はやはり、伝説に記された武者なのかい?」
 さも知っている前提のように話を振られたものの、オニワカの記憶に思い当たるところはない。
「武者?」
 訊ね返したらフソウは僅かに呆けた顔をして、それから痛恨の表情を浮かべた。
「あぁ、そうか。しまったな、またやってしまった。私のような旅人は物語の語り部もやっているんだがね、その中の一つにとある一族の隆盛と没落を描いたものがあるんだよ」
「その中に鬼若という武者が?」
「そうだよ。正確にはその武者の幼名が鬼若なのだがね。希代の戦の天才に仕えた武人で、大変武勇に優れ、忠義に厚い男なんだ」
 武勇に優れ、か。
 オニワカは自分の手の平を見下ろし、思う。
 その手に宿った規格外の力は、恐らくそんな名前がつけられるような目的に由来するものだ。或いはこの力があるから、その名を与えられたのか。
 いずれにせよ、彼には仕える相手というものに心当たりがない。
「この宿に来るまでに話したと思いますけど、俺には記憶がないんですよね」
「そうだったね。……うん? それじゃあ名前の由来も?」
「はい……どうにも、そうみたいです。何も記憶に引っかかるものがない。忘れていることの一部みたいです」
 落ち込んでいたわけではないものの、自然とそこからオニワカの口数は減った。忘れた、とはいったが、どうしても思い出さねばならない気がしたのだ。
 彼のその様を見て、フソウはしばらくどんぶりから麺を啜っていた。その音だけがしばらく静寂を支配し、やがてオニワカが溜め息をつく。
「駄目ですね、すみません。やっぱり思い出せそうにない」
 オニワカが言うと、フソウは軽い調子で喉を鳴らした。
「まぁ、そんなこともあるだろうさ。それより、今度の仕事について聞かせてもらいたいのだが」
 急な話題の転換だったが、気詰まりを正すには良い機会でもある。オニワカはイブキから語られた一つ一つを思い浮かべていった。
 それからゆっくりと話を整理して語り始める。
「近頃、魔物の集団での大移動が観測されたそうなんです。俺が駆り出されたのは、そいつらの掃討作戦らしくて」
「なるほどね。『魔王』の軍勢も大きく動き出したわけだ」
 さり気なくフソウの口から飛び出た初耳の単語をオニワカは聞き逃さない。
「『魔王』ですか?」
 再三の彼の質問に、フソウは今更呆れるでも驚くでもなく応じる。
「そうだよ。『魔王』。それは我々の『神』と争い、唯一その存在を揺るがしうるものだ。魔物たちを統べているとも言われている。人類の敵だよ」
「人類の敵……」
 語っていたフソウの口調も、使われたその単語も随分と物騒でオニワカの注意のほとんどはそちらに向かっていた。普段のフソウとはかけ離れた強い敵意と憎しみが感じられて、オニワカは戸惑いを隠せない。
「その敵ってのは……具体的に何をしたんですか?」
「何、だって? 魔物を統べているんだよ? 他にどんな理由がいる?」
「そう……だったんですか」
 魔物が誰か操られていた、というのは確かに納得の行く話だった。
 オニワカが考えるに、魔物は人造の生物である。
 彼が目にしたあの姿は獲物の首を刈り取る大鎌ばかりが発達していて、なのに肉食獣にあるべき牙がその口になかった。おまけに人を好んで襲うなど自殺行為であり、餌が足りていれば人間など遠巻きにするのがあるべき獣の姿である。
 まるで生存に適していないその有様は、殺人がために生み出されたようにさえ思えてしまった。
 故にフソウの話を信じるなら、魔物は『魔王』が開発したものだと考えるのが妥当なのである。
 これが全て真実だとしたら『魔王』は確かに恐ろしい存在だ、と言わざるを得なかった。
 けれども。
「これまで、魔物に制圧された地域は存在するんですか?」
 唐突な追加の質問にフソウは面食らった顔をした。けれどもすぐに、これまでよりも幾分が和らいだ表情で彼は答えてくれる。
「いいや。魔物はよく栄えた町や村しか襲わないんだ。だから犠牲が大きくなることはあっても防衛に失敗したことはない」
「なるほど。ありがとうございます」
 などと口では礼を言いながらも、オニワカの疑念は深まっていくばかりだった。
 どこかの町を占領するでも、辺り一帯を支配するでもなく。
 そこまでのことをして、一体どれだけ『魔王』に利益があるというのか。
 今までの話を考慮したら、まるで人類をいたぶることそのものを『魔王』が志しているように聞こえてしまった。だがそんなことをしても、まるで得たものが労力に見合わないのだ。
 だとしたら、別の思惑がある? 或いは。
「俺は――」
 『魔王』が本当は、と続けそうになって。
 はっ、となりそこで、オニワカは口を閉ざす。その続きを語ればどんな目で見られるのか、少なくともフソウとの関係に亀裂が走ってしまうかは明白である。
「どうかしたのかい?」
 フソウが不思議そうに問うてくるが、オニワカは誤魔化しの笑みを口元に浮かべて首を横に振った。
「いいえ、大したことではありません」
 そこで言葉を切ろうとしていたオニワカだが、これではまだ追求されるかもしれないと思い至る。嘘もつきたくなかった彼は堪えかねていた疑問の一つをぶつようと決心した。
「ただ少し気になっていることがありまして」
 オニワカが言うとフソウは人の良さそう笑みを浮かべて、オニワカが目論んだ通りこう言った。
「なんだね? 私に答えられることなら何でも答えよう」 フソウの人柄の良さが今だけはオニワカを苦しめる。強烈な罪悪感に胸を締め付けられながらも、彼は必死に笑顔を取り繕った。
 そうした内心の動揺を気取られないように気を配りつつオニワカは訊ねる。
「どうして皆は、『魔王』が魔物の長だと思ってるんですか?」
 この質問にフソウは少し困った顔をした。そのことにオニワカが緊張したのも束の間、やがてフソウは言葉を選びながら事情を説明してくれる。
「まそのことが伝説に記されているからだよ。『神』と敵対する『魔王』がその手駒として魔物を作り出したんだ」
 フソウの説明は簡潔で分かりやすかったが、それが全てではないらしい。しばらくしてから、やがて申し訳程度に彼はこう付け加えた。
「もう一つ理由がある。魔物たちは長い道のりを辿った後に必ず『魔王』の城へは集まるんだ」
「……なるほど」
 部外者のオニワカには、こちらの方により強い説得力を感じた。彼の考えと合致していたし、そうでなくとも神様からお告げなどよりは論理的に思える。
 しかしこの一帯では伝説により人々の価値観が作られ、誰もそれを疑おうとはしないのだ。
 だから、この疑問は自分一人の胸に納めておこうと思いつつ席を立ったら、オニワカは肩を叩かれた。
 彼が振り返ると、崩れかけの笑みを浮かべたフソウがオニワカを見上げている。
「君は明日、魔物たちの群れと戦ってくるんだよね?」
「えぇ。確かに、そうですけど」
 するとフソウは、そうか、と言わんばかりに頷きオニワカの目をじっと見てきた。
「良いかい? 君は一人でどこまでも戦えてしまえるだろう。けれどね、時には誰かに頼っても良いんだよ」
 そんな唐突な忠言にオニワカが怪訝な顔をすると、フソウは苦笑をしながらもこう付け加えた。
「君なら私に言われるまでもないことだろうが、生死を懸けた戦いは甘くない。例え一度無傷で済んだとしても、繰り返せば必ず傷ついていくことになる」
 語るフソウの目は伏せられている。
「そんなとき、君に助けられた誰かはきっと君のことを助けたいと思ってるんだ」
 ちょうど、今の私のようにね。
 そう笑って茶化すフソウにオニワカは胸の中が一杯になって礼の言葉さえ満足に返せなかった。

合戦

 疎らな梢の合間から微かな木漏れ日が降り注いでくる。足元の落ち葉の奥は苔に被われていた。踏みしめる度に足を包むその歩き辛さに辟易しつつオニワカは行く手にある太い木の根を踏み越える。
「さすがだな、オニワカ。初めての森の進軍だってのにまるで疲れた様子がねぇ」
 そうは言いながらもイブキだって汗一つかかずに大量の武器が仕舞われた頭陀袋三つを背負い森を踏破してきている。オニワカも幾らかの生活物資を運んできてはいたが、その場限りの戦力に重要な資材が任されるはずもなく。
 結果としてオニワカの運ぶ荷物など、イブキのそれと比べれば微々たるものだった。
「イブキには適わないよ」
 オニワカがそう伝えるとイブキは浅黒い鼻の下を指で擦り、面映ゆそうに「へへっ」と笑う。
「俺はここの頭領だからな。これくらいのことができねぇと勤まらねぇんだよ」
 言われてみてオニワカは背後の隊列に振り返った。イブキほどではないものの、武具を初めとした各種の物資を全員が背負い、運んでいる。イブキがより多くの荷物を背負っているのは彼らに威厳を示し、なおかつ噴出する不満を事前に防ぐための策なのだった。
「だけど、どうして山道なんか?」
「あぁ。他にも幾つかの自警団が参加するんだが、俺たちは奇襲をかけて群れの土手っ腹を叩く任を追っていてな」
 羽織の袖から巻物を取り出し、イブキはそれを軽く放り投げてくる。オニワカも気負わぬ様子で巻物を受け取った。
 広げるとその中身はこの近辺全域を網羅した地図だった。
「俺たちがいるのはその図の南東……森が広がっている辺りだ。その北に広い平原があるだろう? そこを通る魔物の群れを脇から攻撃する」
 オニワカの預かり知らぬところで着々と準備は進んでいたらしいと知る。いつの間にか組み立てられていたその作戦に、オニワカは黙って頷いた。
「ま、初めは混成の集団が真正面から挑んで足止めをするのを待つだけなんだがな」
 つまりは森の途切れ目近くまで来たららそこで待機することになる、ということらしい。オニワカはこれにも黙して首肯し、前に向き直った。
 黙々と進んでいく、その課程でオニワカはずっと抱えていた疑問を思い出す。
 朽ちかけの枝を踏み砕き、落ち葉を鳴らしながらイブキの様子を伺った。やがて沈黙に耐えかねたイブキの方から口を開く。
「何か話したいことでもあんのかい?」
 オニワカはそのことに若干目を見開きつつも、すぐに思い切った。
「イブキは『魔王』のことをどう思ってるんだ?」
 最初からオニワカも、明るい返事が為されるとは考えていない。それでも返ってきた返事は期待していたものからかけ離れていた。
「――殺してやりてぇよ、今すぐにでも」
 イブキはほとんど感情にさざ波を立てることなく呟いたが、その目には決然としたものが映り込んでいる。そう思わせるにたる事情が、イブキにもあるのだとオニワカは悟った。
「やっぱり、魔物を操っているからなのか?」
 ちらとオニワカに目をやって、それからイブキは答える。
「俺はずっと魔物と戦ってきた。平和に暮らしてきてた奴が殺されるのを何度も見た。仲間にだって死者は何人も出ている。許せるわけがねぇんだよ」
「そうか……」
 イブキの態度は迷いなくて、今更オニワカが意見しても関係を険悪にする以上の効果は見込めそうにない。恐らくは他の誰に聞いても結果は変わらまい、と結論づけて彼は独り決心した。
 『魔王』に会おう。
 手掛かりも少ない現状では、それ以外にその実態を探る『魔術』はないように思われた。どうにかして対面して、『魔王』の正体を見極めたい。
 だがその前に、違った切り口からも探りを入れるべきことも承知していた。
「イブキは『魔王』と会ったことはあるのか?」
 オニワカのこの話題への食いつきぶりに意外そうな顔をしながらも、イブキはすぐに答えを用意する。
「ねぇよ。何でも数十年前には奴らの血族が城の外に出てきていたらしいがな。だがまぁ、その全員が当時の人間に討伐されてるよ」
「『魔王』の血族? 『魔王』は一人で暮らしてるんじゃないのか?」
「いいや、奴らは町を築き、集団で暮らしている。その住人は纏めて魔族だって呼ばれている。その中にただ一人だけ『魔王』がいる」
 それは小さな情報だったが、彼にとっては大きな意味を持っていた。
 化け物を統べているとは言いながらも『魔王』がずっと人間に近く、確かに存在したことの証明になるから。
 となれば、最後に訊ねるべきはこれだろうか。
「イブキは『魔王』の居城の在処を知ってないか?」
 この質問には、ただ淡々と答えるばかりだったイブキも顔をしかめた。訝しげな顔でオニワカに一瞥をくれる。
「おいおい、どうしたんだよオニワカ。んなこと聞いて、もしかして奴らの城に乗り込むつもりか?」
 正しくその通りだったから、オニワカは頷くしかない。そんな彼の様子を目にし、イブキは額に手を当ててから深々と息をついた。そして指の隙間から天を仰いだのち、オニワカに向き直る。
「本気なんだな?」
 それは質問と言うよりも確認に近い。
「当たり前だ」
 オニワカが宣言するともう一度だけ溜め息をつき、それからイブキは顔を上げた。
「止めておけ。お前は知らねぇだろうが、城の周りの防備は馬鹿みたいに分厚い。魔物たちが塊になってやがる」
「でも……!」
 詰め寄ろうとしたオニワカの肩をイブキが押さえ込んだ。その表情は驚いたことに、諦めと疲弊に彩られている。
「死に急ぐなよ。どんな事情があるかは分かんねぇが、あそこに行って戻ってきた奴はいねぇ。今は好機を待て」
 そうオニワカに言い聞かせるイブキはいつもより老けているようで、言葉には言い知れぬ重みが纏わりついていた。その硬い面差しの裏に蔭りを見つけて、オニワカは言葉を失う。
「誰だってそりゃあ、『魔王』を殺せば魔物が消えるとは考えるさ。だけどな、だからと言って何もかも思った通りには行かねぇんだよ」
 『魔王』討伐に行ったことがあるのか?
 思い浮かんだその問いは口の中に溶けて、表に出ることはなかった。だって、分かり切っていたから。
「……そう、だよな」
 オニワカはイブキの目を見ていられなくなって俯き、それだけを呟いた。するとイブキもまた無言でオニワカから手を離し、黙々と自分の旅路に戻っていく。
 オニワカはその大きいのに小さな背中を無言で追いかけた。


 合戦は唐突に始まった。
 どこからか勝ち鬨の声が上がり、森の暗がりから砂煙の沸き立つ中へと武装した男たちが飛び込んでいく。
「始まったか……」
 仲間たちの勇姿を横目に見ながら、オニワカも覚悟を決めた。
「よし!」
 そう踏ん切って飛び出そうとしたところ、後ろから肩を掴まれる。
「待てよオニワカ。てめぇ、本当に何も武器を持たねぇつもりか?」
 そう深刻そうな顔で訊ねたきたイブキが槍の一本を差し出してくる。オニワカは迷い、試しにそれに手を伸ばすが触れる瞬間に全身の皮膚が凍り付いた。
「……っ」
 直後、意識を保つのも難しい目眩がオニワカを襲い、彼は頭が抱えながら膝をつく。胃がぎゅっと引き絞られて中身を吐き出しそうになり、慌てて口を押さえる。
 辛うじて嘔吐だけは堪えた口内に強烈な酸味が広がった。
「……本当に、無理なんだな」
 頭上からオニワカに掛けられるイブキの声は、呆れ以上に心配と、それから疑念が入り交じっている。そのことを申し訳なく思いながらも、オニワカはしばらく吐き気を堪えてその場にうずくまることしかできなかった。
 やがて汗が途絶えて、全身の汗も乾いていく。それだけの時間をかけてようやくオニワカの意識は明瞭としてきた。
「……っ、ふぅ……」
 快復とまではいかなかったが、十分に戦えるだけの気力は戻ってきている。
 オニワカは全身に異常がないか確かめつつ、ゆっくりと立ち上がった。気だるさが抜けた体を何度か動かしてから、再び戦場に向き直る。
「悪いけど、俺に武器は使えない。何でか分からないけど、触れようとするだけでこの様だ」
「それはそうかもしれねぇが……」
 目の前で武器に対する拒否反応を見せられては強くも出られず、かと言って丸腰でも行かせるのも気が引ける。イブキはどうにかして留め置こうかと考えたが、当のオニワカにそんなつもりはなかった。
「それじゃあ、行ってくる」
 イブキより一回りも二周りも小さな少年は、決して動きやすいとは呼び難い礼服姿で戦場に躍り出る。
 逆光の下、短い草花を踏み散らしたオニワカは瞬時にして掻き消えた。それと時を同じくして近くにいた大鎌を振りかざす化け物の頭が吹き飛ぶ。
 その一撃だけでもイブキの予想を越えていたが、そんなのはオニワカにとって手慣らしでしかなかった。
 瞬く間に魔物たちの腕に備わった鎌や大鋏、鎧を纏った上半身、或いはうねる大蛇の首と言った部位がまき散らされていく。その様は圧巻も通り越して惨たらしくさえあり、普段のオニワカを知っているイブキはその規格外の暴力に怖気すら抱かされた。
 しかし今度は、そんな印象を一変させる活躍をオニワカは見せる。
 小太刀を二本携え、比較的軽装で戦いに挑む一人の青年がいた。まだ年若い彼はしかし油断して武器の一本を弾かれる。その頭上から振り下ろされた魔物の斧が残る一本を打ち砕き彼の首を刎ね飛ばそうとした。
 イブキを遅れて身を乗り出しても間に合わない、それは必殺の間合いだった。だというのに、黒き矢が如く現れた少年の拳が、横から斧を打ち割る。ひび割れ飛び散る金属の欠片の中で彼は素早く体勢を整え、脇の下から撃ち出された打撃が魔物の纏っていた板金鎧ごと胴体を貫通した。
「さっさと逃げろっ!」
 腕を引き抜いた魔物の傷口から噴き出る返り血に身を染めつつ、オニワカは鬼気迫る表情で叫ぶ。若い兵はそれにがくがくと頷き後ずさっていった。
 オニワカによる兵の救出はそれだけに留まらない。彼は最大限自分の目が行き届く範囲で、人の命を最優先としつつ、魔物を狩っていった。
 その様をイブキは呆然と眺めていた。そうしていることしかできなかった。
 オニワカの姿が視界から外れてようやくイブキは我に返り、自らの戦いへと身を投じる。


 一本の槍が鎧を纏った魔物の兜と鎧の隙間を貫いた。魔物は崩れ落ち、その重量に槍とその使い手も体勢を崩す。そこを狙って、二足で立つ猫のような魔物が異様に長い爪を振りかざしながら鎧の魔物を飛び越えてきた。
 槍を握る男は隙を突かれて口元を――笑みの形に歪ませる。
 別の男の槍が中空にいる魔物を地べたに打ち落とした。その小さく丸い猫型の頭は地に伏せるの同時に斧で叩き割られる。
 そんな彼らの後方には遅れ馳せながら参戦した白い修道服姿の一団が固まっていた。彼らは小脇に獣皮で装丁された書物を抱えながら、祈りの文句を天に捧げる。
 一人が祈りを終えると、前線で戦っている自警団の面々に赤い光が降り注いだ。直後、彼らから上がる勝ち鬨の声は高まり、威勢を増して魔物の群れを切り崩していく。
 また一人が祈りを終えると、雲の切れ間に稲光が走った。その輝きは光度を増し絡み合ってより鋭く強靱な剣となって地に振り下ろされる。稲妻とその直下にいた何匹かを焼き払い、そこから伝播してさらに数多くの魔物を薙ぎ倒した。
 祈りの文句は次々と言い切られて稲妻だけでなく、地獄からこみ上げたような業火や局所的な凍土を作り出す冷気までもが魔物たちを襲った。僧たちの『魔術』は圧倒的な戦力で魔物の数を目減りさせ、生き延びた残党も『魔術』の加護を受けた戦士たちにより駆逐されていく。
 紡ぎ上げられた連携と作戦、そして圧倒的な『魔術』の力により、草原を蠢く黒い絨毯に変えていた魔物たちは押し込まれていった。じりじりと退く彼らの中へ、しかしなおも深く潜り込んでいく影がある。
「こいつらを追っていけば……」
 邁進するオニワカの頭上に、しかし暗い影が注ぐ。見上げると禍々しい爪と羽根を備えた黒い猿がオニワカに狙いを定めていた。
 そいつは空高く舞い上がって身を翻し、逆光を遮る影となって突撃してくる。
 オニワカは頭上から振り下ろされるそいつの爪を、低く屈んでやり過ごした。
 攻撃に失敗した猿は空振りした腕の勢いのまま、空へ逃げ去ろうとする。
 オニワカは振り返ってその姿を視界の中心に捉えつつ曲げた膝のばねを使って、跳躍。上空で腰を捻りながら拳を撃ち込み、背後から猿の頭部を打ち砕く。
 血と脳漿を纏って弾け飛ぶ骨と脳の欠片を眺めながら音も立てずに着地した。それとは対照的に、頭を失った猿の肉体がぐしゃりと生々しい音を飛び散らせて地面に這い蹲る。
 しかしそんな傍から次の集団が襲い来ってきた。オニワカは敵の数が多いことを利用し、魔物が同士討ちを恐れて狙えない空間を縫いながら着実に一体ずつ片づける。
 そうした攻防の中で隙を見つけては魔物の群れに食らいついていった。
 この時点でオニワカの屠った魔物の数は百を下らない。
彼の全身は浴びた返り血でぬるぬると気色の悪い感触に包まれていた。目視でも十分に確認できてしまうその事実に、魔物たちも攻め倦ねる。
 後退する魔物たちと、距離を開かせないオニワカ。
 あるとき唐突に生まれた、その沈黙を伴う硬直はやはり崩れ去るときも同様に前触れない。
 ごてごてと生物としてはほとんど纏まりのない外見をした魔物たちが、あるとき急に身を翻した。そのまま人間たちの追撃も気に留めず、全速力で来た道を引き返し始める。
「!? 待て!」
 オニワカに逃すつもりはなかった。
 彼は群れ全体が急退転するや、人の足よりも早く駆け出した魔物たちの追跡に移る。


 魔物の群れは森に入って霧の中を進み、日が暮れてもその足を止めることはなかった。彼らは迷うことなくある一点を睨みながら進み続け、ただの一匹もその流れからはぐれない。
「どこに向かってるんだ……?」
 森に入った時点で姿を隠しながらの追走に切り替えていたオニワカは、群れの背後からその行く末を見つめていた。
 魔物たちはさすがに人外というべきかほとんど速度を落とすことなく、それを追っているオニワカも何時間走ってきたか分からない。森の中とは言いつつもその植生は霧が立ちこめるまでに一回、霧に包まれてからも既に一回、その様相は大きく変わっていた。
 そして今、二度目の変化を迎えようとしている。
 徐々に地を這うように木の背は低くなりつつあった。頬に感じる風も強まり、凍てついて肌を強ばらせる。
「もう少しか?」
 そう願いから呟いたら、魔物の群れが大きく左右に散開した。誘い込まれたのかと周囲を警戒するオニワカだが、魔物たちは濃霧へと散り散りへ飲み込まれている。
 気配は感じなかった。オニワカは神経を張りつめさせながらも、彼をなぶる風の中に踏み入っていく。
 視界はその先で突然に白んだ。
 霧が途切れて容赦のない日差しが目に焼き付き、オニワカから視力を一時的に奪う。思わず手で目を覆いつつ、じんわりと光が眼球に滲んでいくのを待った。
 そうしていると次第に空が青く澄み渡り始める。薄ぼんやりと滲んでいた地上の風景もゆっくりと輪郭を取り戻しながら彩られていった。
 やがて現れたのは、石を積み上げて作られた小さな町だった。数棟の民家が建つそこには整備された道と白い花の群れる花壇、そしてそれらの先に小さな橋が見て取れる。その奥には町全体とは不釣り合いに大きな建造物の影が聳えていた。
 美しい町ではある。
 けれどもオニワカとそこに違和感を覚えずにはいられなかった。何かと思って視線を巡らせたら、すぐにその正体に思い至る。
 この町には人の姿も活気もないのだ。
 道や建築物を為す石材の灰色の表面もそのほとんどが緑色の苔に覆われていた。声や熱気のようなものまで何ら人の気配が感じられない。
「廃墟、ってことか……」
 人知れず漏らしたその呟きは、見放された虚空に消えていった。
 オニワカはひとまずの疑問を解決すると、注意深く辺りを見回して人殺しの獣たちが纏う殺気を探ろうとする。しかし町は物静かに佇むのみで、彼がどれだけ神経を研ぎ澄ましても、あの野獣たちの息遣いは感じ取れない。
 魔物たちは霧の白い闇までしか立ち入れないのだった。
 オニワカはそのことに疑念を抱きつつも腹をくくる。
 魔物たちの姿がないのが、もっと優れた番人がいるからなのかもしれないし、これ以上の危険が待ちかまえてないとも限らない。
 それでも、今更引き返す選択などあり得なかった。
 草の緑が散る土の上から、町の道を形作る石の上に乗り移る。踏みしめたそこは苔の柔らかさ越しに石の硬い感触が靴底を押し返してきた。
 そうして入ったそこでは。
「風が……」
 その冷たさが痛いほどだったそれが、吹き止んでいる。そのせいなのか世界を満たす空気の質も変わり、心なしか辺りを満たしていた重苦しさが拭い去られていった。
 その変化にオニワカが立ち尽くしていると、やがて肩や衣服に纏わりついていた冷気や何かが力を失っていく。考えもなく歩いていくだけでもそうしたものが払い落とされ、体が幾分か軽やかになった。
 理由は分からないものの、この町の空気はオニワカの心を和やかにしてくれる。初めて訪れたこの場所に彼は懐かしみさえ感じていた。
 その感覚に新しい疑問を募らせながらも彼は歩を進めていく。
 道の石畳は苔生してこそいたが、がたついた部分などは皆無で均等な石が寸分の狂いもなく並べられていた。道の途中にある花壇は明らかに人の手が整備された痕跡がある。
 だから管理者がいそうなものなのだが、民家と思しき建築物を幾ら探しても人は見当たらなかった。
 仕方なく歩を進め出したオニワカは町の最奥にあるそこを見据える。
「神殿であってんのかな」
 アーチ状の橋を渡った先にある一回り大きな建物は、そう思わせるだけの独特な雰囲気を放っていた。
 その滑らかな表面は町を形作る石と趣を異にする純白の建材が使われている。その四辺を円柱に支えられていて、同じ様式の建物は町にない。間近で観察すればその表面には夥しいほどに複雑な紋様が描かれており、否が応でも呪術的なものを連想させられた。
 細い峠の頂上にある神殿より後ろに建物はなく、ここがこの町の最果てだった。
「入……ろうか」
 魔物たちが集う場所。そこに隠されていた町の奥。
 条件は整っている。
 ほぼ間違いないだろう。
 それでも、否、それだからこそオニワカは階段を登る。不思議と硬くは感じない白い八段を越えて、分厚く見上げるほどに高い扉の前に立つ。その白く艶やかな表面に彼の指が触れると、微かに波紋が広がっていった。
 受け入れられたと感じて、オニワカは扉に両手で触れる。そしてそこに体重を掛けて、一歩ずつ押し開きながら進んでいった。
 すると難なく扉は開かれ、『魔王』の城の中へと彼は導かれていき――

謁見

 初めは、ただ無愛想なだけだと思っていた。けれども繰り返し話しかけている内にオニワカは悟る。
「あなたはもしかして言葉が話せないのですか?」
「…………?」
 少女は小首を傾げ、その赤い双眸でオニワカの表情を伺ってきた。そうするより他に、自分を伝える手段も、相手から伝えられる手段も持ち合わせていないのだ。
「そうですか」
 困ったことではあったが、それでも接触を望むならオニワカの方がそれに適応していくしかない。
 奇妙なことに彼は、目の前の玉座でうずくまる少女から離れようというつもりにはなれなかった。
 まずは彼女の傍にいること。
 それが彼の果たすべき第一歩であるように思えた。
「しかし、だとしたらこれまでどうやって生活を……」
 覗き込んでくる少女の視線を振り払いオニワカは『魔王』の城、と呼ばれているはずの神殿内部を見回す。
 室内の内装自体は外壁と同じく純白だった。そこに天井から淡い緑や青、それに茜や橙といった斜陽を思わせる色が降り注いで、神殿らしい雰囲気を引き立てている。
 オニワカが入ってきた扉は独りでに閉まっており、その両脇には水路が通じていた。壁沿いに続くそこには、清水が玉座の後方から流れ出て、扉の近くの排水孔へと流れ込んでいる。ゆったりとしたその流れからは幾らかの花が顔を出していて、屋内ながら彩りを作り出していた。
 そんな中で、生活を営める設備は皆無と言っても良い。
 オニワカは戸惑い、どうやってここに住んでいたのだろうと考えて込んでいたら袖を引かれた。
「はい?」
 振り返ると視界の隅で、玉座に座ったままの少女がオニワカの袖を引っ張っている。その目を何かを訴えかけるようで、彼は疑問に思うよりもよりも早く従っていた。
「何でしょうか」
 オニワカが恭しく頭を垂れると少女は首を傾げたが、それから彼の意図を受け取ったようで頷き立ち上がる。
 並んで立つと、彼女の背丈は彼の胸ほどまでしかない。その割に七色に照り映える白い髪は長くて、腰の辺りまで延びていた。それよりも長いマントやローブの裾は彼女背丈を越し、足下で固まりになっている。
 それでも少女は気にせずに裾を引きずって、オニワカの袖を引っ張りながら歩き出す。
 彼はと言えば、病的なまでに色白の少女に負担を掛からぬように連れられるまま付き従った。
 少女は玉座を回り込み、その後ろの壁の前で立ち止まった。それとほぼ同時にオニワカも隣に並んで、彼女の横顔を眺める。
 少女はオニワカの視線を気にした素振りも見せず、白磁よりも滑らかで濁りない壁に手の平を合わせた。ちょうどオニワカが扉に触れたのと同様に波紋が広がっていく。
 それが行き渡ると、壁の一部が大人の背ほど四角く凹んでいき、その奥に隠されていた暗闇を曝け出した。
 その光景にも少女は見慣れていて、目を丸くするオニワカとは対照的に無表情を貫く。
 臆しもせずに消えた壁の向こうへと行き、オニワカもそれに続いていった。虹色の光が注ぐ玉座の間とは打って変わって、一歩踏み入った途端に光が途絶える。
 しかし少女に引かれる感触だけを頼りに暗中を歩き進めていくと道の先に明かりが現れた。
 やはり四角く切り取られたその向こうに溢れる光は自然に目に馴染み、新しい部屋の全景を浮き上がらせる。
 仄かな夕焼け色に照らし出されたそこは、縦長の空間の大半が棺のような装置に占められていた。
 金属とも違うやや柔らかな材質のそれは乳白色をしていて、今はその上半分になる右開きの蓋が開かれている。その中には白い気体が立ちこめていて、外見から内部の様子を伺い知ることはできなかった。
 オニワカが訝しみながら観察していると、彼の傍らにいた少女はその装置の蓋がついていない側面に回り込んだ。そしてそこから装置内部に両手をつき、這うようにして中へと転がり込む。はみ出したマントとローブの裾を引きずり込んでから、見ていろとばかりにオニワカの方を向いてきた。少女の赤い瞳は白く色づいた空気の中にいても目立つ。
 オニワカが頷くことを返事の変わりとすると、少女も頷き返してから目を瞑り、頭を横たえた。すると装置の蓋が独りで閉じていき、密封される寸前に紛れ込んだ余計な空気ごと白く吹き出す。
 そして部屋のどこからか金属類の擦れる重低音が響き、眠っていた装置が欠伸をするように震えた。やがて室内は静まり返って、事情の飲み込めないオニワカだけがただ一人取り残される。
 声を掛けようかと迷ったオニワカだが、ふと蓋に描かれている紋様らしきものが目に付いた。黒い曲線と直線が数本交差して、ひとかたまり図形を描いている。
 最初は黒い固まりに程度としか認識していなかったそれは、そういうものとして見つめ直せば確かな意味を示した。
 近寄って、そこにある文字を指でなぞり読み上げる。
「『希』」
 たった一文字、描かれているのは希望を表したその一文字だった。そこに誰かが託した願いが強く染み着いているようで、目を離せない。
 もう廃墟と化す寸前の町に残った、唯一の『希』。
 こうなった経緯がまるで予想できずにいたが、大まかな経緯だけは予想がついてしまう。
 疫病か、はたまた天災か、大きな脅威にこの町は晒されたのだ。そして、滅びを待つだけとなった住人らはこの装置にただ一人の『希』を秘めた。
 恐らくはいつか復興するときを夢見て。
 となると、この装置は少女を長らく守り続けてきたものだろうかと一歩踏み込んだ推測を試みていたら、気の抜けていく音がした。
 それと気づいてオニワカが退くと、装置の蓋が開かれていく。やがて、そこから現れた『魔王』――と呼ばれている少女――の顔をオニワカは思わずじっと見つめてしまう。
 彼女は一体何者なのだろう?
 そう湧き上がった疑問をさらに深める。
 そのどこに『希』たる素質が隠されているのだろう?
 オニワカの視線に気づいた少女は、寝ぼけたような面差しで彼を見つめ返した。だが、やがてそうしていることにも飽きた彼女は装置から這いずり出てくる。
 そしてオニワカの許にやってくるとまだ考え事をしている彼の肩を叩いた。何事かとオニワカが視線をくれると、少女は両手を目一杯に開きながら飛び跳ねて、何かを伝えようとしてする
 だが。
「……あの、つまりはどういう意味なのでしょうか?」
 オニワカの困惑を雰囲気で読み取ったのか、少女は焦れったそうにして二度、地団駄を踏んだ。しかしすぐに気を取り直すと、オニワカの後ろに回ると背中を押し始める。
「え? いや、だからあの!?」
 少女とて言葉が理解できずともオニワカの狼狽が伝わらないはずはなかったが、今は意にも止めなかった。体当たりするように彼の体を押して装置の方へと追いやっていく。
 なぜだか少女に逆らえないオニワカは押されるままにその方向へと歩いていき、やがて装置の傍らに立たされた。
「えぇと……ここに入れと?」
 オニワカが言いながら装置の中身を指さすと、少女は力強く頷く。
「えぇっと……どうしようかな……」
 オニワカがさらなる困惑の袋小路に迷い込んでいても、少女はお構いなしである。数歩下がると助走をつけてオニワカの背中に飛びつき、その勢いで彼ごと装置の内部へ飛び込んだ。
「うっ、ぎゃあ!?」
 入ろうかどうかと体を傾けていたオニワカはそれに逆らうこともできずに倒れ込み、強かに脛を装置の縁に打ち付けてしまう。これには一騎当千のオニワカも涙ぐみ、苦痛に呻きながら装置の中で身悶えした。
「こ、これがっ、『魔王』の……力です、か……!?」
 激痛に苛まれながらで、溜まらず少女に向けて恨めしげな視線を向けてしまう。一方、未だ彼の背中に手をついていた少女はと言えば。
「……? ……!?」
 その視線に自らの凶行を自覚して素早く飛び退いた。初めはオニワカなんと接するべきだろうかと悩んでいたが、やがて居たたまれなさそうに目を背ける。
「い、今更知らないふりしても遅いですよ! はっきりと今、こっらを見てましたよね!?」
 オニワカの訴えに殊更苦々しそうな顔をしながら、彼女は一歩立ち退いた。その姿に一言だけでも文句をぶつけてやろうと考えた彼の、視界はしかし、塞がれていく。
「え!? あ、これ、蓋が閉まって……!?」
 上から覆われて、徐々に見えなくなっていく少女の姿をオニワカは目で追いかけていた。しかし蓋が閉じ切ったところで視界が暗転する。
 しばし分厚い暗闇が視界を覆っていたものの、中央から光る粒が散って、次第にその密度を増していった。やがて氾濫すると色づいて像を結び、一つの光景をオニワカの瞼の裏へ焼き付けてくる。
 そして現れるのは、桶に漬けた衣類を洗濯板に擦り付ける、黒い長髪の美しい女性の姿だった。
 二十代半ば程度と思しき彼女は、少女が着るローブを簡素にしたような洋服の上に前掛けをつけている。艶やかな黒髪は纏めて背中に下げられ、どことなく浮き世離れした雰囲気はあるものの物静かそうで落ち着いた佇まいをしている。
 彼女は町にある民家の一部屋で、洗剤をつけて板で擦る課程の一つ一つを丁寧にこなしていった。女性は一言も声を発してはいなが、その手順がオニワカの頭にも流れ込んでくる。
 そうなってようやくオニワカは、これが言葉を介さずに生活のための知恵を授ける映像なのだと悟った。
 これが誰に向けたものなのか、をも考慮に入れれば疑うべくもなくなる。
 そんな彼の予想を、それからも流れる幾つもの映像が裏付けた。そのどれもが、無言で家事の手取りを見せてくる女性の姿に終始している。
 そうして動画の存在意義は分かったオニワカだが、それでも彼は映像に見入ったままだった。意識を背けようとさえ思えず、閉じ込めた心の内側から扉を叩く音がする。それが自身の鼓動と重なり合ってどうしようもなく引き込まれる。
 強烈な既視感が、オニワカに改めて女性を注視させた。
 目尻は垂れていて、一見すると柔和そうな瞳の奥に頑固なまでに強靱な意志が見え隠れしている。その長髪はあらゆる光を吸い込んでしまいそうな漆黒で、真白い肌とは正反対の色合いをしていた。華奢な腕は意外と明るい彼女の性格のために勢いよく振り回され、その感情を精一杯に表現している。
 外見から読み取れる以上の情報が溢れ出す。
 必ずどこかでこの女性を目にしたはずだと、記憶を探っていたら答えは存外手短なところにあった。
 ちょうど『魔王』と称されているあの少女に似ているのだ。
 女性の黒い髪と瞳に対して、『魔王』は白い髪と赤い瞳だから気づき辛かった。しかしじっと観察していれば、その容貌は同一人物かと見紛うほど似通っている。オニワカから見て現在は十三かそこらの年頃の『魔王』がちょうど歳を経れば映像の女性のように成長していくことは想像に難くなかった。
 母親なのだろうか。
 まず思いついたその可能性を否定できる材料はない。そもそも情報量が少な過ぎたこともある。
 あと少しの観察を続けようとして、しかしオニワカの見る映像は精彩を失い始めた。色褪せて光は散らばり、そこかしこから黒く塗りつぶされていく。


「……っ!?」
 目を開くと、血の色の透けた赤い瞳がオニワカを見つめていた。
 その持ち主たる少女は、愕然として目を見開くオニワカに首を傾げながらも体を起こす。そのまま装置から退いた彼女の顔を、彼はまじまじと見つめていた。
「やっぱり、似てるよな……」
 オニワカの呟きに少女が一層不可解そうにし出すので、彼は手を振って何でもないと誤魔化す。それでも少女はオニワカの内心を探ろうと目を覗き込んでくるものだから、彼は目を合わせないようにしながら上体を起こした。
 体が軽い、驚くほど。
「あれ?」
 腕を持ち上げて、感じた重みが錯覚でないことを確かめる。しかし何度上げ下げしても、これまでよりもずっと小さな力で体は反応してくれた。抜け落ちたのは疲れだけに留まらず、辺りの空気が急に澄んだような気がして息を吸い込んでみる。鼻孔を満たすそこには洗っても落ちなかった磯臭さも衣服に染み込んでいた返り血の名残だって欠片も感じられない。おまけに戦いが始まってから一食も口にしていないオニワカだったが、今は活力すら漲っていた。
そうさせた原因といえば当然ながら彼の座す装置しかなくて、オニワカはなんだか納得させられてしまった。
今までどこから食料を調達してきたのかも謎だった少女だが、この装置に眠っていれば肉体は健全な形で保たれる。生きていく上で他に必要となる物資は存在しないのだ。
「便利なもんだな……」
 オニワカがしみじみ呟いていると、少女に服の肩口を引っ張られた。そちらへと顔を向けながら、通じないとは分かっていても彼は訊ねてしまう。
「どうかしましたか?」
 言葉では理解されずとも、少女はオニワカの目つきからその問いの意味を察した。しかし結局はできるのは、彼の服を引っ張ることのみである。
「……そうですか」
 オニワカの方も少女の考えを汲み、彼女に牽引されるまま装置から出て立ち上がった。改めて自身の体の軽さに驚きつつ、彼は少女に頷き掛けてこう伝える。
「では、行きましょうか」
 少女はしばらくオニワカの目を見上げていたが、やがて身を翻して彼の袖を引き始めた。オニワカは少女の後に続いて部屋の出口をくぐり、玉座の間も通り過ぎてそびえ立つ扉の前まで歩いていく。
 磨き抜かれた純白のそれは頑丈かつ重厚で、とても少女の細腕では開閉できそうになかった。だからオニワカが進み出て開こうとしたのだが、その前に少女の手の平が扉に触れる。
 例のごとく波紋を起点として軋みを上げ、鈍重な扉は自ら動き出す。来たときとは反対に外側へと開かれていった。
 そうして向こうに広がるのは、夕日が弾けて降り注いだように赤い世界だった。ここに訪れたのは白い朝日の眩しい早朝だったから、オニワカが体感していた以上の時が過ぎている。
 彼が西日に目を細めていると、少女は一人駆け出していってしまった。それを追いかけようとしたオニワカは、だけど半端に手を伸ばした状態のまま足を止めてしまう。
「楽しそうだな」
 走る彼女の足取りは一歩が大きく跳ねているようで、頬も明るく紅色に色づいている。階段の上からその笑みを眺めていたら、オニワカは水を差すのが気がかりに思えてきた。
 だから彼は結局、耳だけは澄ましておきながらも、それ以上警戒せずにのんびりと歩いていく。
 そのついでに、夕闇の陰りが深まっていく町並みを眺めた。
 町の入り口から神殿までを一直線に繋ぐ大路の左右に民家が点在している。よく見ればその向こうに畑が見えたが、それほどの規模ではなかった。町の自給自足に使うのか、或いはその用途にしても面積が足りないかもしれない。
 そんなことを思いつつ、丁寧に町の地理を把握して頭に入れておく。山の峰にあるこの町は周りが崖になっていて攻め辛くはあるものの、追い込まれれば逃げ場もない。
 少なくとも戦闘だとか武力による争いに備えるよりは、誰にも在処を知られまいとする意図が見え隠れしている。
 それがオニワカの見立てだった。
「まぁ、あの神殿の方は何とも言えないけど……」
 あの神殿だけは世界が終わりを迎えても変わりなく聳えていそうだった。
 なんて考えている内に、町の半ばよりやや入り口よりにある花壇が見えてくる。民家に挟まれたそこは等間隔に花々が整列しさせられていて。
「こんなところにいたのか」
 どこからか持ってきたのか、如雨露を両手で持ち、肩から鞄を下げた『魔王』がオニワカのことを待っていた。裾が擦れるほどに長いローブやマントを纏い園芸に勤しむ姿はちぐはぐで、何かが噛み合っていない。
 彼女はオニワカが来るを目にすると見ていろとばかりにこちらに頷き掛けてきた。それから花壇の方を向くと如雨露を抱え直して、家の敷地の半分もないそこへと均等になるように水を撒き始める。
 小柄な少女ではやはりそれなり重労働となってしまうのか、その額を一筋の汗が伝い、やがてそれを幾多もの滴が追った。やがてその量が増えて夕焼け色に染め上げられた長髪が頬に付いてしまう。
「あの、無理をしなくても言ってくれれば俺が変わりますよ」
見かねたオニワカが手を出そうとして近づこうとしたら、触れるより先に肩越しに睨まれてしまった。
「邪魔はするな、と?」
 その質問に当然ながら少女は言葉を返せず、ただ首肯だけをして足元に如雨露を置きマントを脱ぎ捨てた。フリルとリボンに飾られるローブに包まれる肢体は華奢で、やはり手を貸そうかとオニワカは思案する。
 だけど、彼はそこで立ち止まった。
 少女は艶めく長髪を払い、動きやすくなった体の軽さを確かめてから再び如雨露を手に取る。そうしてまた熱心に花壇へ視線と水とを注ぐ姿は自分の行いを苦労だとは感じておらずオニワカを安易に立ち入らせない。
無垢な色の髪を舞わせて、汗を拭う度に頬を土で汚していく様が何だか尊かった。
 オニワカがそうして硬直している間に、少女は水やりを終えて土の様子を確かめながら液体肥料も注していく。雑草は根っこも残さずに抜き取って、その日の世話は完了となった。
 一連の作業を終えた少女が振り返って、ようやくオニワカは我に返る。目を細めて怪訝そうにする彼女に彼は苦々しく笑いかけた。
 そんなオニワカの不審極まりない挙動を少女は一通り眺めていたが、しばらくして肩に下げていた鞄の蓋を開いた。そこから一冊のスケッチブックを取り出してその始めの頁を開き、彼へと向けてくる。
 そこに描かれているのは、花壇だった。それしか描かれていなかった。例えば、今目の前にある花壇で咲き誇っているような花々はどこにも見当たらない。
 その殺風景さにオニワカがもの寂しさを感じていると、少女が次の頁を開く。しかしそこに描かれた花壇の様子も変わりなく――と、結論づけようとしていた彼は目を見張った。花壇の土の色に注視すれば小さな点ほどの緑が混じっている。オニワカが一歩、また一歩と近づき観察すると、そこには細やかな花の芽が子細も逃さず描写されていた。
 次の頁にもその次の頁にも描かれているのはここにある花壇だった。土の中に芽吹く緑は少しずつ数を増し、やがてそれぞれが花開いていく。次第にそれらが花弁を落として実になり、それさえ崩れ去ると埋められていた次なる種が萌えて花壇はまた新しい緑に恵まれた。
 少女は打ち捨てられ、廃れていった花壇をここまで再生させてきたのだ。そしてその経過を絵にして、オニワカに見せている。
 これは自分が為したことなのだと主張してきている。
 今の彼女にできることはそれほど多くない。けれども滅びに瀕したこの町で、少女はこんな一文字を託されたのだ。
 すなわち、『希』と。
 ここまで来てようやっとオニワカにも、少女の存在意義が見えてきた気がした。恐らくは、映像の中にしかいない彼女の両親より託された願いを、教えられた気がした。
「……そう、だったんですか」
 オニワカを見上げてくる少女の瞳が秘めた力を知る。まだあどけなさが残る容貌をしていながらもその細い双肩には消えた人々の想いが背負われていた。
 滅びゆくこの町を救え。途絶えようとしている血族を繋げ、と。
「分かりました」
 通じないと知りながらもオニワカは言葉を繰り、既に果たしていた宣言を今一度改める。
「俺が力になりますから」
 胸に手を当て、力強く少女に視線を返しながらそう告げた。それから彼女の傍まで歩み寄り、頭を垂れて白い少女の手を取る。
「どうか俺を側に置いてください」
これにはさすがに少女も赤い瞳を丸くして戸惑ったものの、その内に了解してくれたようだった。彼の大きくてかさついた手の甲を自身の手の平で挟んで重ね、胸元に書き抱くようにしてからにこやかに相好を崩す。
認めてくれたのだと、そのとき確かに実感させられた。
 そんな二人だけの契約の儀式が終わると、オニワカもすぐに少女の作業を手伝いに加わった。尤も、残る作業といえば道具の片づけ程度しかなかったのだが。
 

 片づけを終え、夕闇に呑まれつつある町を二人は連れ立って歩いていた。
「ところで、普段は何をしてるのですか?」
 そう声に出してしまってから、しまったとオニワカは口を噤む。
 前を歩いていた少女が赤い目を細めて、怪訝そうに彼へと振り返った。ただ当然ながらそれに返事が続くわけもなく、オニワカは密かに決心させられる。
 この少女に言葉を覚えさせよう。
 何をするにつけても言葉が通じないのは痛手としか言いようがない。仮にこの町の復興を目指すにしても、現にこうしてオニワカと意思の不通が生じているのだ。将来どこかで支障をきたすのは目に見えていた。
 今になってオニワカは、あの棺桶のような装置にあんな映像を仕組んで教育を施そうとしていた所以を理解させられる。映像の中で実演してみせれば、言葉を介さずとも必要な知恵を与えられる。少女の弱点を補えるのだ。
 しかし、そもそも最初に言葉を教えれば良い気もしてしまう。後々の苦労を思えば不合理なのは明らかだ。
結局分からないことばかりだと落胆もしたが、今はそれで納得しようと思った。
 少女が言葉を覚えていないこの状況に変わりはないのだから。
 そんなオニワカに彼女は、どうかしたのか、とでも言いたげな視線を向けてきた。彼はかぶりを振りながら「なんでもありませんよ」と意識して声に出す。
「それより、早く戻りましょう」
 通じないと知った上で話しかけるのは、少しでも少女の言語能力に利することを狙ってのもの。意味の分からない彼女は首を傾げるばかりだったが、返事は曖昧に頷き返すのみに止めた。その代わりにオニワカは少女へと手を伸ばす。その身に纏う紫色のローブの白いフリルがあしらわれた袖に埋もれている、小さく白く、そして繊細な少女の手を取る。
そんな突然の暴挙に彼女が目を白黒させるのにも構わず、その手を引いて彼は神殿の許まで駆け出した。
 オニワカが振り返って少女の夕日よりも赤い双眸を覗き込むと、そこに不安の色が見え隠れする。オニワカはしばらく彼女に見上げられて自身の立場に思い至った。
 彼女が進んで自らのことを明かしてくれたから忘れていたけれども、少女がオニワカと出会ったのはまだこの日の内の出来事なのだ。突然現れて、わけの分からないことを喚くオニワカに彼女は恐怖だってしているはずだ。
 オニワカが段々と歩を緩めて最後に立ち止まると、それに遅れて止まった少女の足音が響いた。少女は居たたまれなさそうに、山に沈んだ夕日の名残に照り映えた長髪の毛先を弄んでいる。オニワカは彼女を見つめて考え込んで、それから結論を出した。
 せめて対等の位置に立たねばならない。
 だからそのために、オニワカも少女がしてくれたように自分のことを教えていく必要があった。とは言っても、彼が伝えられることなど最初から限られているのだが。
 その手始めにオニワカはまず少女の腕を掴んだ。
「……?」
 声も言葉もなくとも、顔を上げた少女はあからさまに疑問を投げかけてくる。
 その端正な表情にできる限りの彩りを与えようとオニワカは彼女を引き寄せた。分厚い衣類に守られただけの痩躯は何度かつんのめりながらあっさりと彼の懐まで引き込まれる。その僅かに慌てた顔が冷ややかに色を失って敵意さえ混じる視線を向けてくるようになっても、オニワカは止まらなかった。
 素早く屈んで彼女の両足を抱え込み、そのまま片腕で持ち上げてしまう。
「……っ!?」
 少女の方はと言えば、突然上昇した視点と足と尻を支える硬い腕や肩の感触に思考も視界もひたすら揺さぶられるばかりだった。我が身に起きた事態を掴めずに周囲を見やる。
 その結果彼女はバランスを崩し、両肩が背後から引き寄せてくる重力に掴まれた。少女は咄嗟に腕を振り回し掴めるものを探して、重力に抗おうとする。
 しかしながらそんなのは悪足掻きにもならず、彼女は頭から後ろに転倒し――損なって器用に重心をずらしたオニワカに支えられた。
 頭を打ちつけるところまでを想像していた少女はぎゅっと目を瞑って衝撃に備えるのだが、想定していたものが片鱗も訪れない。仕方なく、恐る恐る瞼を開いて、それと同時に目に入ったオニワカの笑みに容赦なく平手をお見舞いした。
「――ってぇ……! そんなに怒ることないじゃないですか……」
 オニワカは目と鼻頭を押さえて痛がったふりをして見せる。
 しかしながら、これしきことで動じるはずのないオニワカの反応を演技だと見抜いた少女の視線がんはより一層温度を失っていった。
 さすがに居心地が悪くなって少々反省するオニワカだが、本番はここからなのだ。
「ちゃんと掴まっていてくださいよ」
 例の如く通じない前提での忠告をしてから嫌がる彼女の手を取ってしっかりと握る。こんな補助がなくとも決して彼女を落とさない自信はあるのだが、少女が少しでも安心感を抱けるようにとの配慮だった。
そもそもこんなことをしなければ良い、とは考えない。
 準備を終えたオニワカは周囲を見回して近くの民家を観察した。どれも老朽はしていないから、最寄りにある平たい屋根の民家を適当に見繕って数歩下がる。
 突然再開したオニワカの奇行に、少女は落ち着きなく彼の顔と、それから正面にある二階建ての民家を見やった。何をするつもりだと、そんな思いを込めて何度もオニワカに視線をやるのだが、彼は頬に白い長髪が触れてくすぐったそうにするだけだ。
 そして次に瞬きをしたとき、大きく体が揺さぶれるのと同時に少女の表情が凍り付いていった。上下する視界、そのずっと下で高鳴る足音、それらに加えて迫り来る民家の壁。
 オニワカが走り出していた。
「――っ!!」
 声にならない甲高い悲鳴が響き渡る。
 彼女は既にオニワカの手を筋が白く浮き上がるほど握りしめていた。だが一際揺れが強まった瞬間にそれでも耐えられなくなり、彼の頭へとしがみつく。先刻の作業のせいか汗臭い、短い髪はちくちくと頬を突くのだが気にしていられない。
 オニワカは目と鼻を塞がれて、ローブの袖の隙間からくぐもった鼻息を漏らした。視界も満足に確保できていないのに、彼の足取りは緩まない。怯まない。
 軽く屈んだ姿勢から両足で踏み切り、飛び上がるとまるで推進器でも取り付けられているように軽々と上昇していく。
 目まぐるしく巡り、下方へ流れていく景色はまともな感性の少女が見られたものではない。彼女は目を瞑ってオニワカにしがみつき、必死にその時間をやり過ごした。
 軽い衝撃の後、さらに始まる揺れ、それに続く強烈に響き渡る足音と吹き抜けていく風の冷たさが意識を掠めていく。
 それを何度か繰り返し、最後に建物を打ち崩しそうなほどの靴が石を蹴る音が轟いた。二人は異次元の慣性に晒されてこのときばかりはオニワカも少女の腰と足を抱きしめた。
 時間を計れば、ものの一分にも満たないほど。
 だけど少女からすれば無限にも感じられる悪夢が過ぎ去り、ほとんど無音のままに揺れが収まる。頬に感じていた風も穏やかに緩んで、終わったのだと彼女は実感した。
 それから少女は怖々と瞼を押し開く。
「……! ……っ」
 遮るものの何一つない、ただ広い世界。儚げな夕暮れが夜闇に溶けて、徐々に塗り替えられていく宵の空。
 仄明るい空の裾にはくっきりと黒い稜線が刻まれ、山からはやや不気味な薄暗い森が広がっている。その中に切り開かれた村からは焚かれた炎の暖かい光が溢れていた。
 山の峰の、さらにその上に立つそこにいれば冷たく澄んだ空気のずっと彼方までを見通せる。
 狭く小さな町に閉じこめられていた少女はその広さに、世界の果てしなさにただ翻弄されているしかなかった。
「案の定ですけど、ここに登るのは初めてですか」
 言いながらオニワカは足下の、文字通り自分たちが今踏み締めている神殿を爪先で小突く。
 そこは左右に緩やかな傾斜が続いていく屋根の頂点だった。他の建物を足がかりにオニワカはここまで跳んできたのだ。
 山の頂にあるその町の最も高い神殿に登れば、遮るものなど何もない。自分にならそこまで連れて行く力があるのだと示したくて、オニワカは少女を連れてきたのだった。
「これが俺たちの住む世界です」
 彼の呟きに少女はちらりと目線を落とすが、またすぐに全天に広がる遠景に意識を引きつけられてく。
 と思ったら、気になるものがあったのかオニワカを二度見した。彼女は彼を見下ろしながら何か思案している様子だったが、やがてオニワカに指の一本を伸ばしてくる。
 その指がオニワカの項に触れて、彼は思わず首を竦めた。その結果彼が体を揺らすのに怯えつつも、少女はまだオニワカの首の後ろ、そこに刻印された文字をなぞってくる。
「ちょっと、あの、やめてください」
 それだけでは伝わらないから、オニワカが非難の目つきで少女の顔を見上げたら、彼女は少々申し訳なさそうにしながらも、やはり首もとの文字が気になる様子で彼に目線を投げかけてきた。
 これは何だ?
 と言葉にもならなくても、赤い瞳から彼女の意思が伝わってくる。だからオニワカは、ほとんど頭を抱き抱えられたままという窮屈な姿勢のまま自分のことを指さした。
 そして口にする。
「『紅之鬼若』」
 と、言うと少女は思慮深そうな目をしてオニワカを眺めていた。それから片腕でオニワカの頭を強く抱き抱えつつ彼を指さして首を傾げる。
 オニワカはそれに何度も頷きながら言う。
「はい。『紅之鬼若』。それが俺の名前です。他からはオニワカと呼ばれています」
 そんなことを言葉で説明しようとしても、通じない少女は困惑を深めるばかりだった。その困り顔を目にしたオニワカは少し考えてから改めてこう言い直す。
「オニワカ」
 自分のことだと指で示し、もう一度繰り返す。
「オニワカです」
 彼が二度そう伝えたら、少女は黙して彼のことを見つめた。それから軽く頷き、咳払いするように唸る。
 その喉の調整が終わると、少女はさび付いた声帯に息を吹き込み必死に噛み分けて言葉を紡ぎ出した。
「おに……わか……?」
 オニワカが初めて耳にする少女の声は、雪が溶けて崩れていくように繊細で澄み切っていた。どこまでも意識に染み込んできて、彼は溜まらず大きく首を振り動かしてしまう。
「はいっ! その通りです!」
「……っ? !?」
 尤も彼女の方は、オニワカの体が揺れ動くせいで答えるどころではなかったのだが。
 全力で少女に頭へとしがみつかれ、さすがに異変を感じたオニワカは動きを止める。それでも彼女はなかなか彼の頭を離そうとはしなかった。
 額に触れる赤紫のリボンがついたローブの胸元から動悸が伝わらなくなってくる。分厚い布地とフリルの向こうに規則正しい鼓動しか聞き取れなくなったら少女は顔を上げた。絹糸のように白く滑らかな髪が幾筋かオニワカの鼻をくすぐる。
「おにわか」
 先刻よりもずっと饒舌に名を呼ばれても、さすかがに今度は取り乱さなかった。オニワカは息の熱を感じるほど近くにある、大人びた表情をしたあどけない容貌の目を見返して答える。
「はい。オニワカです」
 彼女は距離の近さに赤く大きな瞳を丸くした。しかしそれから気を取り直すと自分のことを指す。
「ん」
 その意味を珍しく見抜けないオニワカに、少女は不満そうに眉根に皺を寄せながらも自分に向けていた指先を彼に向けた。それからもう一度彼に呼びかける。
「おにわか」
 そこまでを言うと、今度は指先を自分に戻した。そして強調するように自分のことを指し示し直す。
「ん!」
 そこまでされれば、鈍い方ではないオニワカだから言いたいことは理解できた。
 つまりは少女も。
「名前が欲しいのですね?」
 訊かれても彼女は答えられず、ただオニワカの目を見つめ返してくる。そこに若干の不機嫌と、それから期待を目にした気がしてオニワカは思わず飛び跳ねそうになった。
 彼女がオニワカに自らの命名を委ねようとしてくれているのだから。
 やや恐れ多くはあったが、どの道少女につける名前と言えば一つしか思いつかない。
 だからオニワカは彼女の両親の思いを汲んで。
「希」
 希望の一文字を少女に手渡す。
「ノゾミ、というのは?」
「のぞみ……?」
 提案されたその名を、少女は目を伏せて口の中で反芻する。響きを何度も噛みしめ、顔を上げたら目が合った。
そんな彼女の表情を目にしたオニワカも思わず口元を綻ばせて、『魔王』と呼ばれた少女、ノゾミの笑顔に笑い返す。
「ノゾミ。……ん!」
 頷きながらのその微笑は、年頃に見合った恥じらいと柔らかさを内包していた。

魔王様との日常

 神殿にあるあの棺のような装置は一つだけではなかった。ノゾミに案内されて通った玉座の裏の通路は空間が捻じくれていて、彼女に意思が別々の部屋へと繋げる。
 同じ方向へと同じだけ歩いても行き場所が変わるその仕組みにオニワカは首を捻ってばかりいたが、ともかくそうしてたどり着いた部屋にも例の装置は置かれていた。『希』とは刻印されていないものの柩にしか見えないその形状は見間違えようがない。そこで寝ろと指示されているのだと気づいて、彼は装置の中で一晩を過ごした。
 目覚めてみると装置の蓋は既に開いている。頭上では何の飾りもない真っ白な天井に備えつけられた天窓が淡い光を湛えていた。
体を起こしながらその調子を確かめる。やはり体中の疲労感は抜け落ちていて、空腹感も眠気も尽く漂白されていた。ただあまり眠った、といった感覚はなくて単純な睡眠ではないのかもしれないとオニワカは考える。
未だに謎の多い装置で、まだオニワカもその機能を把握し仕切れていなかった。こんなものが備わっているこの神殿自体にも正直疑問を抱かざるを得ないのだが、今は押し込めて置こうと心に決める。昨日、ノゾミとした約束を果たしに行かねばならなかった。
 装置から出て部屋の片隅に揃えていた靴を履く。それから簡単に襟元を直し、オニワカはその部屋を後にした。
 そして玉座の間で彼を待ちかまえていたのは、目玉が裏返りかねない衝撃だった。
 朝の柔らかい日差しを縒り合わせたような長髪を垂らしてノゾミがお辞儀してくる。
「おはよう、おにわか」
「……は?」
 お辞儀まではまだ分かる。昨日、装置の中で閲覧した映像には、礼儀の教育に関するものもあった。むしろできない方が問題と言って良い。
 だけど、一つだけどうしても納得行かない。
「あの、ノゾミ……?」
「どうかしたか、おにわか? ねむったのなら、たいちょうはばんぜんなはずだが」
 などと赤い眼差しで彼を窺いながら、片言とはいえ気遣ってくれる少女は昨日まで言葉を話せなかった。それどころかその存在さえ知らない、はずだったのだが。
 なぜ話せる?
「もしかして、おかしいのはわたしのほうなのか?」
「いえいえ、そんなことは……むしろ、完璧過ぎるというか……」
 そんなオニワカの呟きに対しても、ノゾミは不思議そうにして目を細めるだけだった。そこで彼もようやく信じ難いという思いは飲み下して、理解が及んでくる。
「ノゾミ。その言葉はどのようにして覚えたのでしょうか?」
「なにをいっている? おにわかがおしえてくれたのだろう?」
「あぁ、やっぱり……」
 昨晩、オニワカはノゾミに基礎的な文法や語彙を教授した。なるべく早い内に言語を習得させたかったからだ。いくつか覚えのない単語も聞こえたが、どこかで自分が口にしていたのだと考えれば得心できる。
 彼女が教えられた翌日に使いこなしてしまっているという点を除けば、だが。
 さらに言うのなら、当然の如く使われてしまっている文法など数ヶ月がかりで会得させるつもりでいた。会話の中で自主的に習得してしまうなど全く想像の埒外なのだ。
「えっと……」
「どうした? もしかしてわたしがつかっていることばにまちがいがあるのか?」
 むしろ、間違いが無さ過ぎるからこそ、オニワカは戸惑っているのだが。
「ノゾミの話している単語にも、話し方にも間違いはありませんよ」
 素直にこう評価するしかない。
「そうか。ならよかった」
 強いて言うのなら、オニワカを参考にしたせいなのか若干の男言葉になってはいたが、気になるほどではない。それどころか、どことなく泰然とした雰囲気のあるノゾミには似つかわしくさえあった。
 彼女は得意そうな笑顔で、口元に笑みを浮かべながら言う。
「それなら、これからすぐにまちのせいびをはじめたい。おにわかもてつだってくれるか?」
「もちろんです、セ――」
 誰かの、名前を呼びかけようとしていた。
「せ……?」
 ノゾミに首を傾げられてオニワカは我に返る。
何と呼ぶつもりだったのだろうか? 思い出せないけれども大切なことに思えて、オニワカは記憶を探ろうと躍起になる、がすぐに中断した。
 目の前の少女以外に一体誰がいるというのか、しっかりしろと自分に言い聞かせて彼は言葉を続ける。
「ノゾミ、俺に任せてください」
 そう言われはしたものの、ノゾミもオニワカの態度が気掛かりですぐに返事はできなかった。あからさま過ぎた沈黙にどんな意味があったのかと彼をつぶさに観察してくる。
 その瞳の静かに燃える炎の色に己の髄までをなめ上げられた気がして、オニワカは目を背けた。そうすることしかできなかった。
「早く、始めましょうよ」
 答えられない申し訳なさを押し殺して言う。
「……そうだな」
 不満そうにしながらもノゾミは視線を打ち切ってくれて、オニワカは胸を撫で下ろした。もう彼女もそんな彼には目もくれずローブとマントの裾を引きずっていき、玉座に腰掛ける。分厚い布にくるまれただけの華奢な体は、体型に合わないそこに座ると殊更に小ささが際立った。ノゾミの実年齢は未だに知れないが、彼女を置き去りにした両親の心境はオニワカに推し量れないものだった。
 それを責めるのではなく、ただ疑問に思いながら、オニワカは玉座の隣に立つ。
「すぐおわる。すこしまっていてくれ」
「承知しました」
 オニワカが言うとノゾミは頷き、見えない何かに手を翳す。そしてか細い指を丸め、握りしめた。
 それが起動の合図だった。
 ノゾミの眼前、そのやや上方に幾つかの光が瞬いて集束し、現れた結晶が削り出されて薄く広い板を形づくる。向こう側の壁を見通せるほどに透き通ったそれには光が灯され、像を結びある光景を描き出した。
 まだオニワカには見慣れていなくて、映し出された光景がどこなのかすぐには直感できなかった。けれどもじっと見つめている内にそこがどこか思い至る。
 一人で辿り着き、それからノゾミと二人で巡った景色。
 見間違えたとは思わない。
「これって……もしかして、町の全景……ですか?」
 彼の質問に、ノゾミは顔を上げて声も表情もないまま頷く。その赤い瞳に心の内を見透かされたような心地がして、オニワカはそれ以上の質問をする気になれなかった。
「これをつかって、まちにいへんがないかをたしかめる」
 ノゾミは町を上空から見下ろす結晶の中の映像を普段の眠たげな目つきからは考えられない真剣な眼差しで注視する。彼女にとっては大切な願いのための資源であり、損なわれいるのならばすぐにでも改修する必要があったから。
 だから、その視線の先にオニワカも目をやりつつ訊ねる。
「どこか、おかしなところはありますか?」
 ノゾミは首を横に振った。
「まだ、みつからない。けれども、もうすこしさがしてみる」
 それっきりノゾミは黙り込んで結晶の中を巡っていく映像に再び意識を引きずり込まれていった。オニワカもそれに口出しする気になれず黙って映像を閲覧していく彼女の姿を眺める。
 町の全貌を確認し、それから民家の屋内の様子とオニワカには概要も分からない幾つかの数値を確認した。一連の作業が終わると、少女は結晶を消して玉座から立ち上がる。
その細い足でしっかりと床を踏み、それからオニワカへと一瞥をくれた。
「これでおわりだ。おおきなもんだいはなかったから、いつもどおりにまちのなかをせいびしていく」
「え、あ、はい」
 うまく状況を呑み込めていないオニワカをしり目に、ノゾミは神殿の出口へと向かっていった。その白い髪が描く軌跡をオニワカも追いかけていく。
 外に出てみると、日はオニワカが想像していたよりもずっと高い位置にあった。一日の内で最も明るい陽光が二人に降り注ぎ、弾んで散らばる。
 目まぐるしいほどの光を浴びて、先に歩き出したノゾミは長髪も肌も自ら煌めくようだった。オニワカがしばらく動き出せずにいると、彼女は踵を返して来た道を戻り間近から、怪訝そうに真紅の双眸で覗き込んでくる。
「やっぱり、ちょうしがわるいのか?」
「い、いえ、そんなわけでは……」
 オニワカは奇妙な気恥ずかしさを紛らわそうと頭を掻き、それからノゾミを急かそうと彼女の背を押した。彼女は納得が行かない様子で彼の顔を見つめようとしたが、転びそうになるので前に向き直り歩みを再開する。
「これから、いえのなかをそうじしていく」
「というと、この町にある民家のことですか?」
 そう訊ねたオニワカは、民家などという単語をノゾミに教えていなかったことを思い出す。しくじったかと、彼は自分の発言を反省していたが、彼女は会話の流れから語義を予測してしまっていた。
「そのとおりだ。いつか、ひとがかえってきたときのために、いえをきれいにしていないといけない」
 オニワカの方を見上げて言うノゾミは何でもないことのように頷いていたが、オニワカは口ごもる。
 彼はこの町の中に、どれだけの民家が存在していたのかを思い出していた。一階建てのものなどなく低くても二階、場所によっては四つの階層が連なっているものだってある。
「今まではそれを一人で?」
 オニワカの質問に、ノゾミは僅か答え倦ねてから返事をした。
「いちにちで、すべてをおえていたわけではない。すべきことはほかにもあるからな」
 そんなノゾミの謙遜とも違う言い様に、ようやくオニワカは目の前の人物を一人の少女として捉え直す。一晩での言語の習得や神殿で見せた町の映像、それから『魔王』という称号のこともあってどこか人間離れした印象を受けていたが、彼女だって人並みの弱さも持つ人間なのだ。
「すると、俺が来たからには全ての家を一日で掃除するのですか?」
 これにもノゾミは首を横に振って答える。
「いや、はやくおわらせて、あいたじかんはべつのことにつかいたい」
「別のこと?」
「そのときになったらはなす」
 いつになく要領を得ない質問にオニワカが聞き返しても、ノゾミはむず痒そうにするだけだった。彼の方を見ようともしない。そんな様を目にしたオニワカはただ事情を察したふうを装ってそれらしい素振りだけを見せた。
「そういうことでしたら、しかたありませんね。のんびりそのときを待ちましょう」
 すると今度はノゾミの方から、その赤い目に恨めしげな光を宿して彼を睨みつけてくる。オニワカが事態の全体像を呑み込めずに目をくれてもノゾミは不機嫌そうにしてそっぽを向くだけだった。
「あの、何かお気に召さないことがあるのでしたら……」
「いらない」
 気まずさから出た気遣いもぴしゃりと遮られて、オニワカはそれ以上の言及ができなくなる。そのまま一人歩を早めたノゾミのあとを追いかけていくことしかできなかった。


「ここで最後ですかね……っと」
 掃除のために部屋の隅に寄せていた机と椅子の一揃いをオニワカは元あった位地に戻していた。
 広くはない部屋である。
 そこは町の途切れ目の手前に建つ民家の三階だった。最上階に当たるその部屋は書斎として使われていたのか、左右の壁には本棚が立ち、その奥に文机が置かれている。
 机の正面に備え付けられた窓から陽光が流れ込み、舞い上がった埃を輝かせていた。
「あぁ。いつもはつくえをうごかしたりできないから、たすかった」
 額を拭うオニワカの後ろでノゾミが、縁に雑巾を掛けたバケツと箒を持ち上げながら言う。
 その白い髪に付着していた埃をオニワカが摘むと、彼女はくすぐったそうにしながらも礼を述べた。
「ありがとう」
「お役に立てたのなら何よりです」
 言いながらオニワカは足下のちりとりを塵が落ちないように持ち上げつつ、室内を見回す。
「ここから人がいなくなってから、どれくらいになるのですか?」
 この書斎には本棚があっても本がない。机の引き出しを覗いても人が住んでいた痕跡を見つけることは叶わなかった。
 それはここへ至るまでに訪れた他の建築物にしても同様である。
「もう長らく誰も住んでいないようですが」
 オニワカの言葉に、ノゾミは苦々しく表情を歪める。
「わたしがであるくようになったころには、もうだれもいなかった」
 つまりノゾミは映像の中でしか人他人を見たことがない。この町の隆盛を目にしたこともないのだった。
 だから理想を思い描くこともできないはずなのに邁進している。それは果たしてどんな心地なのだろうかと訊ね掛けたオニワカは、けれどもノゾミが俯いてしまうと言葉を続けられなくなった。彼女の姿がどうしてか痛ましくて目線を追うのも気が引けて、オニワカは独り階段の方へと歩き出す。
その後ろに小さな足音が続くのを聞いて、彼は僅かに足取りを早めた。
 この町の家屋は階段も表の通りと同じ石材から形成されている。その踏み心地が単なる石、と呼ぶには反動が少なくて本当は石を模しただけのまるで別の物質なのではないかと密かに疑いながら階段を下っていた。
 急というほどでもない段差を下り切り、二階の居間を経由してさらに下層にある客間へと向かう。一階まで来ると上がり框に腰掛けて靴を履き、屋外に出た。
 傾きかけた日を見上げながら、オニワカは深く息を吸う。色づき始めた太陽に染め上げられている空気は、肺に染み渡って感覚を研ぎ澄まさせた。
 そして、感づく。
 町の境界の向こう側、吹き荒れる風の付近に先刻まではなかった臭いを。気配を。
 ごみが散るのにも構わずちりとりを放り投げて、オニワカは猛烈な勢いで最初の一歩を踏み出していた。そこから一息に急加速して呼びかけてくるノゾミの声も追い風も置き去りに通りを疾駆する。
 ほとんど宙を飛ぶようにして走り抜けた彼は、すぐに石畳の途切れ目に至り、異変を目にした。
 町と森を遮る濃霧、その境目から鎧を纏った人の手がはみ出している。一瞬、そう錯覚したオニワカは近づいていき、腕が濃霧から突き出されているのではないと気づく。
 状況はより酷かった。
 千切れた腕の肘から先が、無惨に投げ出されているのだ。もう一歩、歩み寄った彼は腕の断面を目にして顔をしかめる。
 そこに露わになった赤い血と肉があったから、ではない。鎧の中に残る腕の皮膚が黒かったからだ。それが人間ではない、という可能性に思い至ったオニワカは籠手の形状もよく観察する。
 見覚えがあった。草原で行われた掃討作戦の最中、彼はその鎧に包まれた身を何とも打ち砕いた。
「魔物……? でも、なぜこんなことに……」
 もしや人間側の大軍が攻めてきたのではないかと、オニワカは霧の向こうに目を凝らす。しかし大きな戦いがあったのなら、音なり熱気なりで気づくはずで、だけど人の息遣いは感じられなかった。
 そもそも、オニワカが見るにこれは魔物が町に侵入しようとしてその身が爆ぜたようだった。人にできる仕業ではない。
「だけど、だったらどうなって――」
 一人で考え込もうとしたオニワカの背中を、小さくはない衝撃がはね飛ばした。
「おおっと!?」
 吹き抜けていく重たい疾風の勢いを頬に感じながら振り向くと、不機嫌そうな赤い視線が彼を貫く。
「いきなりはしりだすな」
 その口調はオニワカへの責める態度を隠そうともしない。平坦なことが多かったノゾミには珍しいはっきりと感情の起伏を感じさせる口振りで、オニワカの反発する心など忽ち萎えてしまった。
「すみません」
 彼が素直に謝るとノゾミは振りかざした怒りの向ける先を見失って、もどかしそうにしながら口を開閉する。つんのめっていた感情をどうにか引き戻しながらも居心地悪そうにして目を伏せ右往左往させていた。
 ノゾミはまだ落ちていたものの正体に気づいていない。
 だからオニワカは触れようか触れまいか躊躇っていたのだが、遠ざけてもいずれ接することになる気がして、思い切って打ち明けた。
「えぇと、魔物の腕が落ちていまして」
 彼が手で足下にあるその腕を示すと、それにつられてノゾミも視線を落とす。そしてそこにある魔物の残骸を目撃して目を細めた。
「なんだ、まものとは? にんげんとはちがうのか?」
 ノゾミはごく自然に訝しげにしていて、演技をしている様子ではない。ただ初めて目にしたものを不思議がっているだけらしくて、オニワカは尚更に眉根の皺を深くする。
「魔物を知らないのですか?」
 あなたが操っているのでしょう?
 とまではさすがに訊けない。けれども、踏み込まずにだっていられなかった。だって、魔物は『魔王』が操っている、というのがこの世界を築く大前提なのだから。
 しかしノゾミには関係なかった。
「しらない」
 そんな世界の事情は、ずっとこの町と神殿に閉じこもり続けていた少女とは無関係に動いてきたのだから。
 とはいえ、ノゾミも全く無知のまま生かされてきたわけではない。
「……もしかして、こいつは、こいつらが、まちのそとにはびこっているばけものなのか?」
「はい、その通りです」
 それを聞いた瞬間にノゾミの瞳に浮かんだ色を、オニワカは何とも説明できない。ただ燃え上がったものは怒りで、それから満ちていったものが憎しみだということだけは察し得た。目の色が瞬くようなその変化に、言葉を失う。
「こいつらだ。こいつらがこのまちをすいたいさせた。そしていまも、はってんをはばんでいる」
 ノゾミの発言は、少なくともこの少女が魔物を敵対視しているのだと、そう思い知らされるには十分なものだった。しかし当然疑問は残る。
「魔物がノゾミの敵……」
 本当にそうなのだとしたら、村人の言い分はどうなる? 本当に正しいのはどちらだ?
 明確に対立した両者の発言を省みる。オニワカは『魔王』が魔物を操るという説に疑問を感じていたが、事実無根だとまでは断定していない。だからよく吟味しようかとも考えたのだが、そうしている内に昨日誓った決意を思い出す。
 ノゾミを信じようと、彼は決めたのだから。
「では、近隣の魔物を排除すればよろしいのですね?」
 けれどもオニワカが従おうとしている少女は、彼の方を見て激しく首を横に振った。その表情は鬼気迫っていて、ノゾミは心臓の動悸を堪え切れずにひたすら慌てる。
「だめだっ、やめろ!」
 叫ぶ彼女の声はどんな耳鳴りよりも甲高く響いて、オニワカの心をざわめかせた。訴えてくる少女の瞳に光るものを見つけて、声も掛けあぐねる。
「おにわかはしらないだろうけど、こいつらがみんなを、ここにいたひとをころしたんだ。まちをでたしゅんかんにみんなみんなころされたんだ!」
 掠れた言葉は痛切に響き、喉を締めつけられた心地がする。
「このまちにいれば、おそわれないから。だからここからでていくな! でて、いかないでくれ……っ」
 懇願の言葉はオニワカの足下に落ちて彼の足にしがみついた。ノゾミは古傷が開いたように青白い顔で歯を食いしばり、とても離れる気になんてさせてくれない。
「分かりましたよ。魔物をこちらから狩りに行くことはしません」
 そう言った途端にノゾミの表情が和んでオニワカの気も軽くなった。このまま誤魔化しきってしまおうと、おどおどしたノゾミの頭をくしゃりと髪が崩れるまで撫で回す。突然のことに赤面しながらも目を細める彼女は容姿以上に幼く映った。
「それに、そもそも俺はここまで魔物を狩りながら進んできたのですから、滅多なことじゃやられませんよ」
「ほんとうか? おにわかは、いなくなったりしないんだな?」
 見上げてくる彼女の目が疑い深そうにオニワカのことを睨んでくるので、思わず苦笑してしまう。
「本当ですって。まだ出逢って日が浅いことは承知していますが、信頼してくださいよ、俺のこと」
 オニワカがそう伝えてもまだノゾミは納得していない様子だった。不貞腐れたふうに目を細めながら指摘してくる。
「おにわかはまちからでていかない、とはいってない。なにかあったら、そとにでるつもりなんだな?」
「……う。それはですね」
 意図してぼかしていたことを見抜かれて、オニワカは口ごもる。ノゾミが恐れていることも、常に心のどこかでは検討していた。
「そうなんだな?」
 ノゾミに詰め寄られて服を掴まれ、オニワカは逃げ出せなくなる。それでも最後の抵抗で空を見上げ視線を逸らそうとしたが、無駄な悪足掻きだった。
「まぁ、その、そうなりますね」
 原則としてオニワカは人に嘘がつけない。相手がノゾミなら尚更である。
「ごめんなさい」
 他にどうすることもできなく頭を垂れるオニワカに、ノゾミは喚き立てるようなことはしなかった。彼の服から手を離すと、慎重に赤い瞳でオニワカの内側を覗き込んでくる。
「だったら……」
 口を開いたノゾミの、水の波紋のように染み渡っていく声にオニワカは顔を上げた。
「だったら、いくなとはいわないから。でていっても、かならずかえってきてほしい」
「それは……」
 魔物程度に遅れを取るつもりなどない。それでも絶対はないのが戦場だった。万が一、という可能性も片隅にはあって即答はし兼ねたのだが、ノゾミと目が合い息を呑む。
「おねがいだ……」
 否定など許してくれそうにない切実さと今にも脆く崩れ去ってしまいそうな危うさで見つめられていた。その不安定な瞳に縋られて、オニワカは決意を固め直す。
「分かりました。何があっても、必ず生還してまいります」
 だから、もうそんな目をしないでください。
 オニワカが伝えたらノゾミは少し驚いたような顔をしてから真顔に戻り、口元を緩ませると一度だけ深く頷く。
その反応に満足してオニワカは彼女の手を取り、片づけていた民家の方へと引き返した。
「さて、それでは後片づけに戻りましょう。そうしたら今日の作業はもう終わりです」
 彼に引かれるノゾミは前のめりにつまずきそうになりながらオニワカに追い縋る。しかし、そこから歩を急いで彼の半歩先まで進み出ると彼の顔を赤い眼で訴えてきた。
「まだ、おわってない。さいごにはなのせわをしないと」


 始めに取りかかったのは町中にある花壇だった。通りに面する一つの他にも、探せば日当たりの良い場所や悪い場所で、花が甘い匂いを漂わせていたり青葉が日に向けて大きく広げられていたりした。
 意外なほど多いその数に驚きつつそれぞれを巡っていって、最後に昨日も世話をしていた表通りの花壇を訪れる。切り出された石の枠に囲まれる小規模な土の池は今日もたくさんの花を抱えて町を見守っていた。
「ここに咲いている花は、どんな花なのですか?」
 オニワカは身を屈めたノゾミの傍らに立って訊ねる。彼女はしばらく顔を上げようとしなかったが、ずっと黙っているわけでもなかった。
「ひとつだけ、しっていることがある」
 薄く白い花弁状の萼片が複雑に広がりつつ何枚も重なる中心に鮮やかな赤が燃えている。その軸には濃紫の雄しべが茂り、それに囲まれてひっそりと赤い毛玉が顔を覗かせていた。その花を指で撫でながら、ノゾミは呟く。
「このはなにはどくがある。みをまもるためにそなえたどくだ」
 不意にノゾミが呟いたその発言を耳にした途端、オニワカはほとんど無意識にノゾミへ手を伸ばそうとしていた。そんな花には触れさせられないと過保護であることも自覚した上で、それでも看過できなかった。
 けれど。
「へいきだ」
 とオニワカのお節介を拒絶するようにノゾミは言った。その声に手を払われて、オニワカは僅かに硬直しながらもすぐに手を引く。
「だけど、毒があるのですよね?」
 花に触れたノゾミの指先を逐一観察しながら、オニワカは確認する。その問い詰めているのと変わらぬ勢いにも、だけどノゾミは動じなかった。
「このはなは、くきのなかをしろいえきたいがとおっている。そこにどくがふくまれているんだ。だからはなをたおらなければ、どくはでてこない」
 冷静なノゾミに宥められて、オニワカも自身の知識を紐解く。自然界に存在する毒に詳しくはないが、確かに彼女の言う通りの情報が脳内に保存されていた。
「まぁ、それでしたら……」
 納得し掛けたオニワカは、けれどあることに思い至る。
「どこでそのような知識を? 映像での教育にはそんな内容まであるのですか?」
 そうして口調にも表れるくらい高まり出したオニワカの憂慮を、ノゾミは拭わない。
「いいや。よわったはなをとりのぞくために、このはなをおったんだ。そうしたらどくにふれて、てがはれた」
 そのときのことを思い出したノゾミが、今はもうしみだって残っていない白い手の甲を見下ろす。
「はじめて、いたいおもいをした。すこしだけ、ないた」
 そう言って回顧するノゾミの唇は微かな笑みを浮かべている。かつての自分の無知を微笑ましく思い、それを堪え切れなかったからだ。
「たいしたけがじゃない。ねむればすぐになおったし、まなぶためには、やすいだいしょうだった」
 そうは言われても傷の一つだって彼女につけたくないオニワカは気が気ではない。
「そんな! だって手を怪我したのでしょう? 痛かったのですよね!?」
 もはや詰め寄らずにはおけなくなった彼に、ノゾミは半ばまで振り返って横顔を見せた。はにかむその表情で「いいんだ」と語る。
「みているだけではまなべないものだった。これがいたみなのだとしることができた」
 それからノゾミは既にそこにない傷を愛おしむように手の甲をもう片方の手で包む。
「これもきっと、おくりものだ。はなのたねもそだてるどうぐもあって、そのつかいかたもおそわっていた」
 そのことは、町の家屋を整備している最中にオニワカも教えられていた。通りの花壇に程近い民家の裏に小屋があって園芸用具はその中に纏められているのを目にしている。
「それなのにどくのことをしらされなかったのは、いきものがそういうものなのだと、おかあさんたちがおしえるためだったのだとおもう」
 目を瞑り、傷ついた自らの手の内にノゾミが感じようとしているものは姿なき親の面影だった。
「みんなひっしでいきてるんだな。だから、あのどくはあんなにいたかったんだ」
 伏せられた瞼の奥に立ち入れないものを感じて、オニワカは口を噤む。
ノゾミは自分にも両親がいて、だけど見知らぬ場所に消えてしまっていることを知っていた。それだけでなく、映像でノゾミに微笑みかけるのが彼女の母親だと誰に教わったわけでもなく直感していた。
 それでも、やはりその存在を実感できる場面にノゾミは恵まれてきていないのだ。
「わたしも、もうすこし、いきるかくごをきめないとな」
 その言葉の意味は中々オニワカの胸中に染み込んでこなかったけど、この少女の人柄については教えられた気がした。ノゾミはただ守られているだけの可憐な少女ではないのだ。
 度々忘れてしまうその事実を思い知らされながら、それでもオニワカは思ってしまう。
 こんな少女に傷ついて欲しくない。この世の悪だとか欲望だとかに、そういったものから遠ざかって汚されずにいてもらいたいと。
 無謀な上に傲慢だと自覚はしていたからこそ、殊更に力強く。
「俺があなたを守りますから、そんなに急ぐ必要はありません」
 できるだけ、無垢でいてくれるように。


 ところが、オニワカはそんな望みは願ってから二日足らずで翻すことに相成った。
「やっぱり、働くと腹一杯食事を取りたくなりますよね」
 仕事を終えて神殿に帰ってきたオニワカは玉座に腰掛けたノゾミに話題を降る。彼よりも草臥れていた彼女は足を投げ出して脱力していたが、オニワカの言葉に力なく顔を上げた。
「しょくじ?」
「え? ……あぁ、そういえば教えてない単語でしたね」
 付け加えるなら、オニワカがノゾミの前で使ったことのない単語でもある。この神殿では装置に眠れば空腹を癒せてしまうため、食事はまるで役に立たない行為なのだった。
 しかし、それではあまりに物寂しいと感じてしまうのが人の性である。
「ええと、食事というのはですね、ものを噛んで飲み込み、栄養を接種することでして……」
 十分ほどをかけてオニワカが説明すると、ノゾミはふんふんと頷いていた。幾らか曖昧になってしまったが、そこはノゾミの頭脳を信じて話を進める。
「そして、外の世界では一仕事を終えたあとに集まって食事をすることがあり、それを宴会だとかうたげと呼ぶのです」
 一通りの解説を聞いたノゾミは何でもないことのように告げた。
「えんかい……というのはわからないが、おにわかのいうしょくじとやらについては、やりかたをまなんでいるぞ」
「そ、それは本当ですか?」
 ここで生活するにあたって、食事は娯楽以上の必要性を感じられない行為だったからオニワカは驚く。けれどもノゾミはもちろんだと言わんばかりに何度も頷いた。
「あたりまえだ。おかあさんたちはひととおりのぎょうぎさほうについて、えいぞうにのこしていってくれた」
 その割には無鉄砲だったり強引過ぎたりする言動が目立ちやしないだろうか、とはオニワカは口にしない。
「そうですか。では明日、俺が獣の一匹でも仕留めて気ましょう」
「まちからでるつもりなのか?」
 いやによく鋭く勘を働かせたノゾミが涙目になってオニワカを睨めつけてくる。オニワカの残りの半日はノゾミを納得させて宥めることに終始した。
 次の朝、前日よりも早く目覚めた二人の作業時間は前倒しとなり、オニワカはそうして開けた空き時間を利用して狩りに出た。漂う魔物の気配に反してなぜか襲われることもなく、一抱えもある大きな野鳥を一羽持ち帰る。
 神殿に持ち帰ったら、ノゾミは玉座に腰掛けて透明な結晶の板に町の様子を映していた。しかしオニワカが肩に担ぐ、濃紺の体躯から青い羽と縞模様の長い尾を生やした鳥を目にした途端、表情を一変させる。
「おにわか。なんだそれは!」
 ノゾミはすぐさま結晶を消し去り、玉座から立ち上がる。そして例の如くマントとローブの裾を引きずりながらオニワカがいる戸口まで駆け寄ってきた。
「なんだそれは!!」
 聞こえなかったのか、とでも言いたげにノゾミが問いを繰り返す。オニワカは頭を掻き、想定外のノゾミの好奇心に苦笑しながら答えた。
「山にいた鳥です。甲高い声で鳴く奴で、比較的苦労せずに見つけ出すことができました」
 そんな彼からの教えを話半分に聞き流して、ノゾミの注意は鳥にのみ引き付けられていく。
「あたまがないぞ? どうしてだ?」
「えぇっと、それはですね、捕まえるときに足で蹴り飛ばしてしまいまして」
 その際に首から血の吹き上がる、中々に凄惨な光景を思い出してオニワカの笑みは一層苦々しいものになった。しかし、そんなことはお構いなしにノゾミは「そうかそうか」と言ってすぐにまた他の部位の観察に入る。
「あの、熱心になっているところ申し訳ないのですが……」
 仕留めた獲物を無駄にするのも忍びない。オニワカはマントと純白の髪を舞わせてついてくる少女を取り巻きに、日の暮れかけた町に出た。


 青紫色の薄闇に沈んだ町は冷たい夜の気配が漂う。
 オニワカは近くの家の竈に火を灯し、戸口から漏れ出るその明かりに照らされつつ屋外で羽を毟っていた。
 景気よくオニワカが散らす夜と同じ色の羽毛をノゾミは目で追い、舞い降りてきた一つをすくい上げる。彼女の手よりも幅のあるそれは獣脂の臭いに包まれていて、ノゾミは鼻を近づけては顔をしかめた。屋内から漏れてくる炎の色より鮮烈な赤い瞳を細めて、彼女は懸命に羽を矯めつ眇めつする。
「かるいんだな、このたいもう。だけどがんじょうだ。こんなものがなければ、そらはとべないのか」
 空を飛ぶことに憧れでもあるのか、口惜しそうにノゾミはそう漏らす。オニワカはそんなノゾミを励ましたい一心で、気づいたらこんなことを言ってしまっていた。
「大丈夫ですよ。そんなものがなくても、人は空を飛べますから。そういう乗り物を作れば良いのです」
「のりもの?」
 訊ねられて、オニワカは「えぇ」と答える。
「風の力を使い、金属の羽で飛ぶ……」
 自分で話している内に、その記憶の出所が分からなくなてしまった。それと同時に、語る口振りも尻すぼみになる。
「おにわか。ほんとうにそんなものがそんざいするのか?」
 弱るオニワカに、不安をぶつけてくるノゾミ。その上目遣いはまるで助けを求めているようで、見つめられながらではとても否定なんてできない。
 けれども、そんな目つきとは関係なしに、なぜかオニワカははっきりとこう断言できた。
「はい。必ず実在しますし、作れば空を飛べるようになります」
 そうして勢いを増したオニワカに、ノゾミはむしろ目を丸くしてしまう。
「そ、そうなのか……。おにわかはそんなものを……」
 ただ、受け取ったものはあって、ノゾミは目を伏せて熟慮し出した。本当にそんなものが存在するのか、ではなく、どうすればそれが作れるのか、を考えるために。
「……その、かぜのちからというのがわからない。おにわかはなにかしらないのか?」
 訊ね掛けてくるノゾミの目に、オニワカはなんとか応えたくなって知識を底から総浚いする。しかし内容が専門的なこともあってオニワカに返せるものはなかった。
「すみません。俺にはない知識のようです」
 するとノゾミは、それも仕方ない、といったふうに頷いて咳払いした。
「だったら、おにわか! はやく、このとりのかいたいをすすめよう!」
「……そうですね」
 物静かそうに見えて意外と溌剌としたところのあるノゾミである。彼女のころころと変わる表情に振り回されるこの状況に何か懐かしさを駆り立てられながらも、オニワカは手早く羽を毟っていった。
「では、さっさと片づけましょうか」
 その言葉に隣でぶんぶん首を縦に振るノゾミに見守られつつ、オニワカは両の羽と足を綺麗に引きちぎる。そこでふと思い立ってノゾミの方を見やった。
「あの、俺は手で千切ってますけど、ノゾミが捌くときには包丁で切り落としてくださいね」
 易々と手で解体できてしまうのは、規格外に強いオニワカの怪力ありきの話である。しかし、そんな忠言もそっちのけでノゾミはオニワカから預かっていた羽と足にまじまじと見入っていた。
「ここが……こうで……。あぁ、そうか。このほねがここをささえてるのか」
「……いえ、お気に召したのなら、それで良いのですけどね!?」
 どの道、この調子なら頼まれずとも勝手に学び取るだろうと信じて、オニワカは解体作業に戻ることにした。
「ここからは包丁が欲しいので、屋内に入りますよ」
 言いながらオニワカが、竈から溢れる火の輝きで淡く照らし出された室内に入っていくとノゾミも無言でついてきた。
 その家は、内装の種類に富む町の民家の中でも特に生活臭を感じさせる部類に入る。薄い暗闇で隠された壁や床には煤や焦げといった汚れが目立ち、二階や三階に上がっても寝室を兼ねた居間しかない。その割に土間に備わった竈や流しは大型のものが整えられていて、生活に不可欠な設備は文句なしに充実している。
 元々はどんな人間が住んでいたのだろうかと考えながら、オニワカは流しの傍らに木製のまな板を置いた。それから、どこからかノゾミの持ち出してきた包丁に手を伸ばす、途中で躊躇う。
「どうした?」
「いえ。大したことではないのですが」
 首を傾げてくるノゾミと出逢う前、イブキから槍を借りようとしたときのことを思い出していた。刃物を持てばまた発作を起こすのではないかと、危惧がオニワカの脳裏を掠める。
 だから彼は言い聞かせた。
 包丁は人を殺すための武器ではない。これを持つことが殺人には繋がらないのだと。
 そんな思考が一巡りして、オニワカはノゾミから包丁を受け取った。
「……よし」
 体にも意識にも異変を感じなかったために、思わずオニワカはそう呟く。その様にノゾミはより困惑を深めていたのだが、彼はただにこやかに笑いかけるのみだった。
「それでは切っていきますよ」
「おぉ! ついにか!!」
 オニワカの宣言に、ノゾミはあっさりとそれまでの云々など放り出して彼の手元に見入る。さほど手際の良い自信がなかったオニワカは若干気恥ずかしく思いながらも鳥の首もとに薄く包丁を突き立てた。そこから腹へと赤い線を走らせる。
 丸裸になった鳥のピンク色の肌に切り口は開かれ、オニワカはそこに指を入れると手で押し広げていった。そうして血が充溢してくる様までをノゾミは丹念に眺めている。
「……あの、怖くはないのですか? 気持ち悪くは?」
 手を止めたオニワカが隣に立つノゾミに目を向けると、彼女も視線を返してくる。その頬を温かな火の色に染めながら、ノゾミは首を横に振った。その拍子に、紫色のローブと違って暗中だと映える白い髪が大きく振れる。
「とても、きょうみぶかい」
「そうでしょうね」
 そんなつもりがなくとも深く頷いてしまうオニワカである。先ほどからノゾミの好奇心を目の当たりにし続けていれば疑う気にもなれなかった。
「なら、試しにご自分でもやって見ますか?」
 さすがにこれには辟易するかとも考えていたが、予想は完全に外れてしまうのだった。
「いいのか!?」
 目の中に星でも瞬いていそうな表情でノゾミは迫ってくる。服にしがみつかれてオニワカは大いに戸惑ったが、冷静に対処するようにと自分に言い聞かせた。
 思考を巡らせて、喉元に食いつかんばかりの勢いのノゾミの肩を掴む。
「……まずはですね、俺から離れてください。刃物を持ってるんですから、何かあったら怪我しますよ」
「おにわかがもっていても、か?」
 顔を寄せたままの少女に言われて、確かに自分がそんな失態を犯すことはないだろうと気づいてしまう。例え今事故があっても確実にどちらとも無傷のまま切り抜けられる自信はあったが、そこでオニワカはふと考え直した。
 これからノゾミはオニワカとだけ関わっていくわけではない。できる限り多くの人間と付き合い、その中で彼女なりにやり繰りしていかなければならない。
 そのためには、相手がオニワカだという前提は不都合極まりなかった。
「俺だって完璧じゃありませんよ。誰にも万が一ということはあるのですから」
 彼の、そんな曖昧に真実をぼかして都合良く変換した事実を、しかしノゾミは疑おうともしなかった。
「そうか。ではしかたがないな」
 驚くほど素直に、オニワカの発言を丸ごと飲み込んで彼を信じる。その心情をむず痒く思いながらも、オニワカは自身の道を貫いた。
「はい。だから、俺から離れてください」
 そうして彼に言われるまでもなくノゾミはオニワカから一歩距離を取り、そこでオニワカも初めて肩の力を抜く。
「それでは、始めましょうか。まずは鳥の腹を開いてください」
 指示を出しながらオニワカが横にずれると、ノゾミがその空白に入り込んで鳥の腹に両手の指を突き立てる。その感触を不気味に感じながらも、指で腹の傷口を広げてその中身を露わにしていった。
「これでいいのか?」
 ぬらりと光る臓器から目を離し、ノゾミはオニワカに見上げてくる。特に問題は見受けられなかったから、オニワカは彼女の瞳を見返してから確かにこう告げた。
「えぇ。それで大丈夫です」
 オニワカの、たったそれだけ言葉にもノゾミは嬉しそうに微笑む。そのことをやはりまたこそばゆく感じながらオニワカは助言を続けた。
「では、腹の中に中身の詰まった袋のような臓器があると思うのでそれを……」
「これか?」
 彼の説明を待つまでもなく、ノゾミが言いたかった臓物を鷲掴みにするのでオニワカは無言で頷く。
「ではそれを、傷つけないようにしながら切り取ってください」
「わかった」
 言われて僅か尻込みするノゾミに彼は大丈夫だと再び首肯して見せる。
 するとノゾミは惚けたような顔になってから口元を引き締め、真剣な目つきに戻ると鳥の腹を見据える。慣れない刃物を震わせながら、見つけた袋状の臓器の端に切っ先を入れた。そこから額を汗で湿らせつつ切り口を奥へ奥へと広げていく。
「その調子です頑張ってください」
 傷をつけるほどに滲み出してくる血の色に顔を青くしながら、それでもノゾミは刃を止めなかった。オニワカに言われた通り臓器をえぐり出し、両手で持ち上げて本体の傍らに据え置く。
「わ、あ……」
 手の残る粘膜の感触、そして血の滑り気。ノゾミは臓器を離した手を、その赤い目に映して彼女の丸い肩は微かに震えていた。
 そろそろ、頃合いだろう。
 限界を感じたオニワカはノゾミの肩に手を添える。すると彼女は小さく跳ねて、それから傍らの彼の顔を覗いてきた。
「おにわか。まだ、おわってない」
 そう呟くノゾミの目は危うい均衡を保っていて強がっているのが見え透え、オニワカはもう良いのだと笑いながら口を開く。
「良いのですよ。完璧な人なんていないんですから。最初はできなくても、繰り返してだましだましできるようになれば良いのです」
 オニワカが言うと辛いところで堪えていたノゾミの瞳は揺らぎ、不安そうにしてから訊ねてきた。
「でも、わたしは、わたしは……っ!」
 そんな憂いの表れに、オニワカはただ首を横に振ることでのみ意志を示す。そんな少年の気遣いにノゾミは逆らえず、抱えていたものを抑え切れなくなって脇に退いた。
「それでは残りは俺が捌くので」
 言うが早いか、オニワカは手早く残りの内蔵も取り除き、かつて鳥だったものを食われるのを待つだけの肉塊に変えていく。それを端から眺めるノゾミの目にこれまでほどの威勢はやはり残っていなかったが、それでも決して目を離そうとはしなかった。
「おにわか。つぎはなにをするんだ?」
 肉と皮の食べられるものと、幾らかの骨ばかりがまな板の上に置かれている。こちらの下準備はこれで終わりだ。
「そこ……部屋の隅に、麻袋が入っていると思うのですけど分かりますか」
 彼が部屋の暗がりの集う角を指さすと、火の揺らめきが映り込んでいたノゾミの目はそちらに向く。目当てのものを見つけるとすぐに駆け寄って、拾い上げた。
「これか?」
 肩越しに振り返ってくるノゾミへとオニワカは深く首を縦に下ろす。
「はい。その袋の中に山菜が入っていると思いますので、それを灰汁抜きでしましょう」
 言いながら向かいにある竈に乗せられた鉄鍋の前まで歩いていく。その隣にすぐさまノゾミが並び、麻袋の口を両手で広げてぐつぐつに煮立った鍋の中に見入る。
「このなかにいれるんだよな?」
「えぇ。もう全部洗ってありますから、全部入れちゃってください」
 そう指示を出してオニワカが横に退くと、ノゾミは何だか張り切った様子で鍋の正面に立ち、背伸びをして鍋に袋を傾けた。その踵が上がれば上がるほどに袋の中身は零れ出し滴が跳ねて鍋の底に沈んでいく。大したことをしているわけでもないのにオニワカまで汗が滲んできた。
「おにわか。てだすけはいらないからな」
「……はい。分かってますよ」
 ノゾミがそれなりに強情なのは熟知している。しかし彼女はそれだけの、『魔王』だなんて呼称がまるで似合わない少女なのだ。だから放っては置けなくて過保護になるオニワカなのだが、今だけは老婆心を抑えて見守ろうと心に決めた。
「……っと。これでぜんぶだ」
 軽く袋を揺さぶって残りの中身も振り落とす。そして困難、などあろうはずもない作業が終わり、ノゾミはオニワカに手渡されて鍋に蓋をした。
「これでしばらくしたら、山菜から灰汁が出てくるはずですから、そうしたらお湯を捨てますよ」
 彼に言われて、ノゾミは思わず息をつき額を拭う。それから白い髪を揺らしてオニワカを一瞥すると口元が綻んだ。そのまま相好を崩れていって、気恥ずかしそうにしながらも誇らしげな笑い声を漏らす。
「えへっ」
 その微笑が、その表情を作った達成感が、落ち込んだノゾミを心配していたオニワカの心までも温めた。
 それからはオニワカが鍋の中のものざるに流し込んで改めて水を張り、鳥の骨から出汁を取る。そこから余分な油や灰汁も除くと塩を使って簡単に味を付け、山菜も全て鍋に入れてしまうと蓋をした。しばらくすると具材が煮えて流れ出した鳥の肉汁と山菜の芳しい匂いが腹に貯まってくる。生まれてからこの方、ほとんど食事という行為をしてこなかったノゾミでさえも食欲をそそられて、ふらふらと鍋の中に飛び込んでしまいそうだった。
「……おにわか。まだなのか?」
 辛うじて涎を垂らすことだけは堪えてノゾミが言う。オニワカに向けた質問なのだが、彼女の目は鍋から離れようとしなかった。
「そろそろですね。運びましょうか」
 鍋の両側にある木の取っ手を掴んで運び、靴を脱いて座敷に上がる。二つ並んだ長机の端に陣取って鍋を置き、二人で向かい合ってそれを囲んだ。
「おにわか、はやく! はやく!! すごくおなかがそわそわしてるんだ」
 ノゾミはもう食欲を隠そうともしないでオニワカにねだってくる。彼の方もそろそろ飢えが限界に近づいていたために急ぎ鍋の蓋を開け放った。白い湯気が見る見る湧き出して立ち上り、顔を覆う。そこに漂う剥き出しの鶏がらの香りが二人の鼻孔を刺激した。
 そして現れた中身はまだぐつぐつと煮えて、柔らかくなった山菜を鳥の油と出汁を染めている。塩だけの味付けがそれを殺すこともなく引き立てていた。
「結構、うまくできたと思いますよ」
 オニワカはそんな自己評価を下しながら、小皿に幾らかの山菜と肉をよそっていく。
 そうして自分の目の前に置かれた取り分を見つめるノゾミはやや難しそうな顔をしていて、オニワカは思わず見直してしまった。見間違いかとも思ったが、その表情はやはり曇っている。
 どうかしましたか、と彼が訊ね掛けるよりも早くノゾミが口を開いた。
「わたしは、こいつらのいのちをくらおうとしているのだな」
「えぇ、それはそうですけど」
 何を今更、口走りそうになったオニワカは口を噤む。
「わたしはいままで、ほかのいのちをくらわずともいきてこれた。これからもそうしていけた」
 言われて初めて、ノゾミが食って食われて連鎖から遠ざけられていたことを思い出す。そこから自分が殺さないと生きていけない世界に引きずり込んだのはオニワカだ。
「申し訳ありません」
 気がつくと堪らなくなり謝っていた。綺麗なままでいてもらいたいなんて願いながら、この有り様だ。オニワカが来なければノゾミは彼の望む通りに無垢なままでいただろうに。
見ていられなくなって目を背けようとしたら、鍋から溢れる湯気の向こうに視線を感じる。
「いいや。おにわかをせめているわけじゃない。だってあたりまえのことなんだろう?」
 そういうノゾミの眼差しは炎の色の影が過ぎっていても分かるほどに優しげで、気怠げだった。どの道、こうなっていたとでも言いたげに。
「わたしはこれまで、ちゃんといきてこなかったんだ。おにわかといるうちに、それがわかってきた。だからこれから、とりもどしていく」
 その宣言を最後にノゾミは小皿を持ち上げる。止める間もなかった。彼女は逆手に持った箸で肉と山菜を煮汁ごと掻き込む。何度も咀嚼してものの噛み潰し方を覚えて、目尻に小さく光るものを滲ませながらも飲み下した。ノゾミの細い首もとがごくりと喉を鳴して震え、ゆっくりと肉片を受け入れていく。
「……やっぱりまだ、なれないな」
 それでもやり切った顔で笑い掛けてくる少女に、オニワカはただ頷くしかなかった。
「そんなかおしないでくれ、おにわか。なんだか、みたされていくかんじがする……まんぞく、してるんだ。これがしょくじか」
 感慨深げに呟いてまたノゾミは食事を再開する。好き嫌いの分かれる鳥の皮も癖の強い山菜も心の底から美味だと言わんばかりに笑みを浮かべて食した。汁も飲んで、これまで一度も食べものの香りなんて嗅いだことのない小さな鼻から息を漏らす。
「良いのですか? 良かったのですか本当に? 気が進まないのなら無理をせずとも……」
 けれどノゾミはの暗闇の中で煌めく白の長髪ごと首を横に振った。それからいつか出会った頃よりずっと深い色を宿すようになった赤い双眸でオニワカを見据える。
「おにわか。これがせいぶつのいとなみなのだろう? いきるための、こういなのだろう? だったら、それをしてこなかったいままでのわたしは、ほんとうのいみでいきてこなかったんだ」
 そして僅かに汗ばんだ表情で無理にでも笑顔を作って言う。
「だから、うけいれる。きたなさも、きれいさもぜんぶせおって、それでもわたしはいきていく。きれいなだけの、いきてないにんぎょうにはなりたくない!」
 訴えられて、その言葉のどこかが強く響いた。見つめてくるノゾミの痛切な眼差しに射抜かれたらオニワカはもう抵抗できない。その瞳の赤に、ひたすら圧倒されていく。
「これはわたしのわがままかもしれない。けれども、ほんねなんだ。だから、すこしで――」
「――いえ、ノゾミの願いは決して我が儘などではありません。ちゃんと生きていたいって、そんな当たり前のことに抵抗を抱いていた俺こそ、独善的過ぎました」
 オニワカの独白に目を丸くしたノゾミだが、すぐにかぶりを否定し出す。
「いや、それはわたしが、じぶんのきもちをしっかりと、つたえられなかったせいで……」
 だが今更何を言われたところでオニワカは筋金入りの頑固者だった。
「関係ありません。言われずとも読み取るべきでした。できなかった俺の責任です。だから、好きな獣を何でも一つおっしゃってください。今から狩ってきます」
「え? え……? さきにめのまえのなべをたべないか?」
 目を白黒させながもオニワカを窺うノゾミを置き去りにして、彼は一人町を飛び出す。


 日々は滞りなく過ぎ、不器用なりにオニワカは新しい生活を築いていった。やがてノゾミも滑舌になり、オニワカの知る限りの語彙を使いこなすようになる。
 そんな中での何気ない一日に、事件は起きた。
 その日も町の整備を終え、オニワカは借り受けていた神殿の小部屋に戻っていた。そこで彼が壁に寄りかかり腰を下ろしたとき、声が掛けられる。
「オニワカ。入るぞ?」
 つられてオニワカが出所を見やると、扉のない戸口の闇の向こうからノゾミが頭を覗かせていた。彼女はおどおどとしながら室内を見回しながら入室してくる。
「どうかしましたか?」
 壁際にいるオニワカと目が合うと彼女は、なぜだが緊張した面もちになって、それを抑え込むように怪訝な表情を作り訊ねてくる。
「そんなところで何をしているんだ?」
 とは、装置の中で眠るわけでもなくその脇に座っているだけのオニワカに向けた質問だった。しかしながら答えるに足る動機のないオニワカは肩を竦めて笑う。
「なに、大したことじゃありません。偶にこうして、普通に眠りたいときもあるのですよ。それよりノゾミはどうしてこちらに?」
 再び降りかかってくる彼の質疑に、ノゾミは居心地悪そうにして白い髪の毛先を指で弄んだ。そちらに目線を下ろしたままオニワカの方を見ずに彼女は呟く。
「こっちも大したことではない。けれども、ついて来て欲しいところがあるんだ」
 それだけを言うとオニワカの返事も待とうとせずに彼女は踵を返そうとする。
「え……っと、はい? 構いませんけど、一体どちらへ?」
 その背中をオニワカが慌てて追いかけ出すのも折り込み済みで、ノゾミは振り返ろうともせずに先を急ぎ出してしまった。
 やがて通路が途切れて玉座の間に出てくるとオニワカが追いつく。
「どうしたのですか、いきなり? そんなに慌てなければならないような用事が?」
 至極当然の疑問としてオニワカはそう訊ねるのだが、ノゾミはまだ目を背けようとする。しかし、二人して足踏みしている内に観念して、じっと思い詰めた瞳で彼を見上げてきた。
「この日の、今になってようやく決心がついた」
 それまでの表情を拭い去って、口元を苦々しげに歪める。
「オニワカ。わたしはこの町を蘇らせたい。お母さんたちが暮らしていた頃のように」
 そこで一端言葉を切り、もう一度通路の中へ踏み込んでいく。歩きながらノゾミは次の言葉を練った。
「けれどもわたしは、町から出られないんだ。そして魔物を退けられるほどの力もわたしにはない」
「それは、そうかもしれませんね」
 オニワカの返事にノゾミは頷き、それから言葉を続ける。
「だけど、それでもわたしはこの無人の町を復活させたい。そのためには人がいるから――」
 だから、と思い切って言い切って、通路の終わりに開かれた光をくぐる。
 その先にあった部屋で振り返り、オニワカに告げた。変わらず小さな部屋に備えられた天蓋つきのベッドを指で示して願う。
「わたしと、子を成してほしい」
 このとき白んだ視界の中で立ち眩みを起こしたオニワカのことを誰が責められよう。
 よろけた彼は一歩、二歩と下がって戸口間際の壁に背を預けた。しかしそれでも、髪と同じくらいに白かった頬に朱の差したノゾミが寂しそうな顔で覗いてきて息が落ち着かない。
「すまない。けれども、他に方法が思いつかなくて」
 そこに色香を感じないわけではなかった。だけどそれ以上にオニワカの心を埋め尽くしていくものがある。
 疼くのは、彼が生まれる前から心の底に埋め込まれていた命令。その性根を縛るもの。
「……ダメ、ですよ」
 溢れる忌避感を暴力的にならないようにと押し殺す。けれど、それでも抑えきれないどころか、一度堰を切ってしまうともう止まらなくなった。
「ダメに決まってるじゃないですか!? だって俺はっ、俺は……!!」
 俺は――?
 その先が続かない。肝心な、最も捨て置けない理由があるのに思い出せない。
 言いたいことが、言わなければならないことがあったはずなのに。
 そう思って、どうにかそれを伝えたくて顔を上げたら、初めて見る少女の表情と目が合う。
 自分の身に起きたことが信じられないとでも言うように、否、信じたくなくて呆然とオニワカを見つめている。
 そんなノゾミの、瞳に広がる赤い海の奥底に陰が浸食していった。何度も揺らぎ、繰り返し溢れそうになる。やがて、いつの間にか色を失っていた頬を光るものが伝っていった。顎に流れて、手の甲に落ち、ノゾミはそれを不思議そうに見下ろす。
「あれ……?」
 遠くで鳴る風の音にもかき消されてしまいそうな囁き声だった。直後、彼女の体は電流が走り抜けたように震え上がり跳ねて、それが納まるのも待たずにオニワカの脇を走り抜けていく。
 出所の知れない気持ちと戦っていたオニワカは、それを引き留めようとすることも叶わなかった。ただ遅すぎた手を延ばした姿勢のまま、じっと少女の行く末を見つめていることしかできなかった。


 オニワカの許から逃げ出してしまったノゾミは玉座で一つだけ指示を飛ばすと、そのまま神殿を飛び出した。
 明かりのない山の夜は体が溶け出してしまいそうなほど深く濃密な闇に満たされるのだが、この町は違う。踏み出す先は月より優しい色合いの光を帯びて夜を遠ざけていた。ノゾミの指示によって町を構成する石材そのものが明かりを灯したからだ。
 オニワカも感づいている節はあったが、この町を作る石には特殊な細工が無数に施されている。望めば冬の冷気を癒すことも、夏の熱気を宥めることだってできた。ノゾミの手入れがなくとも風化しなければ色褪せもしない。
 実のところ、そうした事実に気づいたのはオニワカと暮らし始めてからだった。彼から教わった言葉が自然に彼女の中でそんな思考を成していた。
 けれども親の代までは伝わっていたのかもしれない知識をノゾミは何一つ伝えられていない。共に暮らしていた記憶さえ彼女にはない。
 今回のこともそのせいだろうかと思い悩みながら、町の外れにある花壇まで駆けていく。
 そこはオニワカにさえ教えていない、崖の縁にある花壇だった。石の道が途切れて整備されていない地面にはノゾミの腰よりも高く雑草が茂り、鋭く天を突いている。
 その只中に彼女自身が草を刈り土を耕して切り開いた花園があった。埋めたのも町の中でノゾミが見つけた、雑草と呼んで差し支えない野辺の花々である。
 遺された種の花ほど華々しくはなかった。それでも見劣りすることもない、とノゾミは思っている。
細く緩やかに曲がった茎の先に淡い白や黄や紫の花をこしらえて、両腕で抱えられるだけしかない方形の空間を彩っている。どれも小振りでどことなく恥ずかしげ、町にある花壇のような鮮烈さはないが、その控えめな佇まいがノゾミは気に入っている。
 そんな花の彩りを後目に眺めながら、ノゾミは崖から足を投げ出して座り込む。唯一大きさの合う革靴の爪先が風の流れに振れた。
 この外部から隔てる暴風を作り出したのも当然両親やその仲間たちなのだろうとノゾミは推測している。これがあるおかげで、外の天候がどれだけ崩れようともこの町には雨も雪も降り注がない。一歩外に踏み出せば徘徊している魔物たちを寄せ付けず、住人が消えた町の形を保つ、偉大なこの町の守りである。
 消失したのなら、ノゾミに命はなかった。
 だって彼女には修復が行えないから。
 そのやり方を教えてくれる人間がいなかった。そのための言葉だって教えてくれる者はいなかった。それでも苦に思わずにいられたのは、ずっと独りでいたせいだ。
 孤独という言葉の意味さえ知らずに生きてきた。その感覚を覚えたのはオニワカが訪れてから。彼がいて癒えるものがあって、反対に、いなければ損なわれるものもあって。
それが、そういう名で呼ばれる感情なのだと初めて知った
 オニワカがもたらしたものはあまりにも大きい。
彼の見せる表情や態度も、それを受けた自身の感情もどれだって興味深かった。オニワカの中には装置に収録された映像からでは学び取れない不思議が一杯に詰まっていた。
 そして今だって、ノゾミは触れたことのない感情に弄ばれている。これまではほとんど何をしても二つ返事で了承していたオニワカが見せた、あの態度。
 明確な、拒絶。
 どうしてこんなことになったのだろうと、ノゾミは理由を探っていた。探さないと、怖くてじっとなんてしていられなかった。彼女はオニワカを、唯一傍にいてくれるあの少年を失いたくなかった。そんなことにだってようやく気づかされたばかりだ。
 オニワカはノゾミに、言い尽くせないほどのたくさんを運んできてくれた。オニワカがいなければ世界の広ささえ知らない身の上だったのに。
 そこでノゾミは、そうだ、と思い至る。
 オニワカが与えてくれたものは計り知れないけど。
 だったら、自分が彼に何を返してやれないか、と。
 今までは一方的に与えられるだけだった。もらったものに、礼一つ返せずに。
 そんな自分がオニワカから離れたくないのなら、精一杯彼の期待に応えなくてはならない。否、応えたい。
 まだ足りない自身の語彙をもどかしく思いながらも頭中の言葉を掻き集める。オニワカとの記憶を並べて必死に探す。
 彼の望みはどこにある?


 星空の下の夜は存外冷え込んで、オニワカが吐く息も微かに白く色づいている。
 町中を探し回ってそれでもノゾミを見つけられずに彼は町から外れた草むらを掻き分けながら進んでいた。町から届く淡い白光のおかげで風に揺れる草の深緑まで視認できる。これで見つからなかったら今度はどこを探すべきなのかと頭を悩ませながらも周囲には気を配り続けていた。
 そんな最中にふと、もし探し出せたとして、それで何を話したら良いのかと頭の片隅で誰かが呟く。今、こちらから出向いてもノゾミを傷つけるだけじゃないのか? と。
 寝室らしき部屋へと連れられていったあのとき、我が身に起きた心情の変化をオニワカ自身も理解できずにいた。今までなら、誰かから何かを頼まれれば、それが人の殺傷でもない限り彼は必ず応えていた。自惚れなどではなく、そうせざるを得ないのが彼の性根だ。
 人の期待に応えたい。人の役に立ちたい。普段はそう思えていて、なのにノゾミからあの頼みをされた瞬間にそれが反転した。体を内側から引き割こうとするようにオニワカを人に従わせていたものが反発を始めた。
 ただただ気持ち悪かった。心に別の何かが巣くっていて、それがオニワカの頭と体と心とを乗っ取ろうとしていた。あれは何なのだと、かつてない不快感を思い出して、気がつく。
 以前にも、あれほどではないけれども耐え難い苦しみを味わってきた。
 例えばノゾミに鳥を捌かせたとき。
彼は顔面蒼白の彼女を見て反対されても包丁を取り上げた。そうしなければ不安定な心境にあったノゾミが怪我をするか、そうでなくとも心に傷を残すと思った。
 ノゾミが傷ついてしまうと、そう考えたのだ。
 だったら、今回のことにだって納得が行く。自分がノゾミと交わっても、彼女は決して幸せになれない。ひたすらに彼女を傷つけてしまうだけだ。
 だから今回もノゾミを守るためにはこうするしかなかったのだ。
 そうやって結論づけて、知らず止めていた足でオニワカは再び歩き出そうする。けれどもその耳に草を踏み分けてくる音が聞こえて彼とそちらへと振り向いた。
「オニワカ」
 そこに立っていた、夜に溶け込むローブを纏い星光よりも眩い長髪を撫でつける少女とオニワカは視線を交わし合う。その真紅の輝きに見入られて、彼はただ頷いた。
「教えてほしい。オニワカの願いは何だ? お前は何を欲している?」
 ノゾミの真剣そのものといった表情と向き合い、オニワカは思わず破顔してしまった。だってちょうど今、その問いの答えを認識したところなのだから。
「あなたが無事でいることですよ。ノゾミ」
 そんな、ひたすらにノゾミを慮ったような台詞に彼女の表情が淡く崩れていく。
「気なんか遣わないで良い。わたしはオニワカの、心からの願いが聴きたいんだっ!」
 憤り、それでいて泣き出しそうでもあるノゾミの面差しを見つめて、だけどやはりオニワカは笑みを崩さず、ただ頷く。
「はい。だから、あなたが傷つかず、できるだけ幸せでいてくれることが俺の望みです」
 変わらない、それどころかより踏み込んだ答えを返されて、ノゾミは震える瞼を見開いていた。唖然として表情からも色を失ったまま、閉じ切らない唇の奥に言葉未満の声を反芻させる。
「……わ……たしは、……どうして……?」

 ――『終わり』はその翌日から始まった。

出立

 一晩を装置の中で過ごし、目覚めたノゾミは開いていく蓋の隙間から流れ込む無機的な白い光に目を細めた。億劫に思いながら腕で目を覆い、無言でうずくまる。
 けれどもそうしていることにも限界を感じ、口の中でぼそぼそと呟いた。
「外を見せて」
 訴えかけた相手はオニワカでもなければ、他の人間でもない。応えた神殿が寝転がったままのノゾミの頭上に音もなく小さな結晶の塊を具現化させた。そこから四角い窓が削り出されて外の景色を映し出す。
まだ日は姿を見せていないようだった。朝日を遮る遠い山が光に縁取られて、黒く佇んでいる。町はその陰に被われていたけれど、青い夜の気配は薄らぎつつあった。
 普段はまず目を覚めすことのない時間帯である。寝付きが良過ぎたのか、悪かったのか、と考えようとしてノゾミはすぐに思考を振り払った。
 後者以外はあり得ない。
 結局、あれからオニワカとは口を利けていなかった。オニワカが会話を拒否したわけじゃない。それどころか繰り返し話しかけてくる彼に、ノゾミの方こそ喉がつっかえて何一つ言葉を返せなかったのだ
 そのことを反省しようとする自分がいる反面で、ノゾミは思い返してしまう。
 オニワカは昨晩自分の願いがノゾミの無事だと言い切った。しかも恐ろしいことに、そう宣言したオニワカの目には迷いがない。
 本気なのだ。
 ほんの一握りの疑問も抱かずに、それが自身の存在理由だからと言い張ってノゾミに尽くそうとしている。見返りなど何一つ望まずに。
「わたしは……」
 どうしたら良い?
 昨晩、オニワカと出くわす前にした決意に則るのならば、最初から答えは一つだ。彼の願いを叶えられるように、彼が望むように応えるしかない。例え掲げられたそれが、まるで彼のためにはならない内容だったとしても。
 だけど。
「本当に、それで良いのか……?」
 そのままでは、与えられるだけだったこれまでと何も変わらない。不安定で一方通行で、何に裏付けられているのかも分からない関係が続いていくのだ。
 もちろん、オニワカの言動を省みるに彼がノゾミの許を離れていく姿は想像し難い。きっと本当にオニワカはノゾミへと尽くし果たす。
 けれども、違うのだ。
 ノゾミが抱えているのはそんな不安じゃない。
「こんなこと、続けようとしたら……っ」
 遠からずオニワカは自分を見失ってしまう。
 思い悩みつつ装置から這い出し、オニワカを見習って部屋の隅に揃えていた靴を履いた。軽く床を蹴って足に馴染ませ、自室を出る。
 暗い通路を抜けた先の玉座の間で、日々の習慣として玉座に腰を下ろした。手の動きで町の全体図を表示させて変わったことがないかを確かめる。
そこで町の精細な様子を眺めて、初めてノゾミは気づかされた。
 町の外縁、暴風の圏内に沿って黒い固まりの塀が築かれている。最初は本当にそうとしか見えなかったのだ。だが、拡大していく内に黒だと思っていたものは赤黒いのであり、塀だと思っていたのは積み上がった残骸なのだと知る。
 数も種類も計り知れぬ、無数の魔物たちの。
 近くで見れば肉塊から骨や角など肉体の一部の他、斧や兜らしい武具まで突き出ている。
 さながら地獄絵図だった。
「っ! オニワカ!!」
 思わず飛び出していたその呼びかけに、存外間近から、より性格にはノゾミの顔のすぐ隣から返事が来る。
「これは……どういうことでしょうね」
「!?」
 肌が纏う熱さえ伝わってしまいそうな距離から低い声を響かされて危うくノゾミは飛び上がりそうになった。
「い、いるなら声をかけてくれ!!」
 上擦った声でノゾミが言うと、オニワカは不思議そうな顔をしたがすぐに申し訳なさそうな表情をして打ち消す。
「すみません、声を掛けるのも躊躇われるほどに集中していたようだったので」
「それは……集中していた、わけじゃなくて」
 ただ絶句していただけだった。
他に気が回らなくなるほどに凄惨であり、想定外の事態だった。これまでには一度もなかったことで、だからノゾミは説明もできずに入るのにオニワカは平然としている。彼は温もりのない目で、重たく聳える神殿の扉を、その先にいる魔物たちを見据えていた。
「ノゾミ。俺は外で様子を見てきますから、あなたはここでじっとしていください」
 そんな、オニワカばかりを危険に晒してしまう方策に、ノゾミは反発を覚える。覚えたけれども咄嗟に反駁しようとして、口を噤んだ。
「どうかしましたか? 心配事があるのなら、今の内に聞いておきたいのですが」
 本心から慮ってくるオニワカに苛立ち、理不尽な憤りをぶつけたくなるのを堪えてノゾミは無言で首を横に振る。
「そうですか」
 それで納得したようには見えなかったが、オニワカは改めて「外に出ないでくださいね」とだけ言い残して外に飛び出していってしまう。その驚くべき俊足に迷ったままでいるノゾミの言葉は追いつくことさえ叶わない
「……オニワカ。死なないで……!」
 命だって惜しんでくれそうにない彼の危うさが今はどうしようもなくノゾミを蝕んだ。

 神殿を出るとオニワカはさらなる力を込めて、より強く地を蹴飛ばしていった。町の中心を貫く通りを抜けて、町は外れた草地にまでたどり着く。
 走ることをやめてその勢いのままオニワカは二、三歩進んだ。
そして沸き上がった吐き気を堪える。
 死屍累々と、そう表現する他ない剥き出しの肉や脂肪、何かの臓物や折れた骨、それに黒い皮膚と血で汚れた毛皮がうず高く積もり町を囲んでいた。強烈な腐臭が熱気のように顔を煽って鼻から入り込み、脳を犯し尽くしてくる。撒き散らされた血のせいで植物の緑などどこにも残っていない。
「魔物……だよな……?」
 できれば顔を背けたい光景ではあるが、とても見過ごしておけない異常だった。オニワカは周囲を警戒しつつ血のこびり付いた草むらを踏みしめて、積もる肉塊ににじり寄る。
 血管の張りついた肉片と血塗れた毛皮の隙間に見覚えのある大鎌が刺さっていた。オニワカはそれを手に取って引き抜く。剣呑な光沢は金属に似て、如何にも無機的に見えたがこれも生物だったものの一部だ。手に持って断面を眺めると死んだ組織が崩れていった。
 記憶にある、フソウが初めて出会った際に襲われていた魔物の姿を思い出す。あの黒い巨体が両腕に備えていた爪と、たった今オニワカの引き抜いたそれに違いはない。
 間違いなく魔物が押し寄せて、その残骸だけがここに積み上げられているのだった。
 どういった経緯でこんな状況が引き起こされたのかまではオニワカに分かるはずもない。しかし一つだけ断言できてしまうことがあった。
 ここに今ある死骸以上に、数多くの魔物が町を囲んでいる。
 具体的な数までは検討がつかないものの、いつだかの平原の戦いにさえ匹敵してしないとも限らなかった。もしその数に入り込まれたら、と考えると目の前から光が失われていく。
「俺はノゾミを、あの子を守り抜けるのか……?」
 魔物が『魔王』と友好的でないことはノゾミの口から語られている。聖書や人々の話とは矛盾するものの、無防備な彼女があんなにも怯える様子を目にして、それでも疑う気にはなれない。なれなかったけど、今だけはそれが嘘であってくれたのなら、と思わずにはいられなかった。
 全滅させられるのかと問われたら、オニワカは迷いなく頷ける。魔物の動きなんて全て読めたし、それを処理していくのは退屈だけの単純作業だ。機械的にこなせばいずれ終わる。
けれども誰かを守りながら戦うとなれば事情が違った。独りのときとは比べ物にならないほど気を回して彼女を庇って、それでもいつかは破綻してしまう。
 最悪、ノゾミにまで魔物の手が及ぶかもしれない。
「――くそッ!!」
 悪態をつきながらも頭を振った。余計な思考を追い払って気を落ち着かせる。
 立ちはだかるものが何であれ、できることから対処していくしかない。ひとまずは少しでも正確な魔物の数を把握するのが先決だった。
積もる死体の塀を飛び越えて、オニワカは霧が立ちこめた暴風の向こうを睨む。
 敵の数を考慮すれば奇襲や強襲はもちろん、数に任せた圧殺も考えられる。そうなったときの心積もりだけはしておいて、吹き荒れる風の中に一歩ずつ身を沈めていった。
 風に煽られて髪は揉みくちゃに荒らされ、目を開けているのも辛くなるほど顔がなぶられる。腕で庇いながら瞼を細く開きつつ、オニワカは前進していった。
 その最中に爪先が何かを蹴る。重たく硬いその感触を疑問に思いながらも踏み出した瞬間に暴風圏を抜けた。
 オニワカはそこで町の中など無臭にも等しく感じられる血腥さに鼻を押さえる。
 深い霧が狭めた視界をひたすらに赤が浸食していた。それも黒ずみ濁った血の色が、森に続く僅かな平野を染め上げている。足下に目線をくれたら、その色を吐き散らした魔物の死骸が無数に散乱していた。臭気か濃過ぎて血の池にでも沈んでいるような錯覚に陥る。
 けれども、それ以上にオニワカを狼狽えさせてしまう要因が別にあった。
 町と山林を隔てる風の壁、そこを出たときから肌に突き刺さってくる感覚。
 幾千万の、混じりけのない殺気と息遣い。
 町の外のあらゆる方角から差し向けられる重圧に、オニワカでさえも気を抜けば心を病んでしまいそうで、どうすることもできずに立ち尽くしていた。
 感知できる限りでも、いつぞやの大群などとは比べものにならない。無鉄砲に突撃していくだけで一つの町や村を押し潰せてしまえるだけの魔物が、この一カ所には集っている。
「……っ」
 そんなつもりなどなくとも、息を押し殺してしまう。一瞬でも背中を見せることは躊躇われて、オニワカは動くものがないか慎重に神経を張りつめながら後退する他なかった。彼の背中はまたすぐさま風の激流に飲み込まれて、程なく町のある内側に戻ってくる。
 魔物の気配を風がもみ消して遮断するようになると、初めてオニワカは自身が息を切らしていたことに気づいた。
「……これは、まずいな」
 オニワカの想定など軽々と飛び越えて事態は悪化している。
 辺りの気配を綿密に探るとオニワカは急ぎ踵を返した。目にしたものをどうやって報告しようかと迷いながら神殿まで駆け戻る。
「オニワカ!」
 帰ってくるとノゾミが、扉を開いた途端に玉座から跳ね上がった。彼女の表情はその瞬間だけ華やいで、直後不安に乗っ取られる。
 オニワカがかつてないほどに焦り、恐怖に歪んだ顔をしていたから。
「どうしたんだ? 何があった!?」
 ノゾミがマントとローブの裾に足を取られながらも形振り構わずオニワカに駆け寄ってくる。彼の焦燥が移ったように目で眺め手で触れ、怪我はないかと探っていく。
 しかし彼の着る礼服さえ解れはあっても傷はない。当然ながらその中身も同様である。
 ただオニワカは自分を気遣うノゾミに戸惑っていたのだが、こんなことをしている場合ではないと我に返った。死人もかくやの青白い顔で首を横に振って無事を知らせる。
「無理なんかしなくて良いんだぞ!?」
 ノゾミのそんな訴えには承伏しかねたが、妙に胸が安らいでオニワカは常の冷静さを取り戻せた。気遣われる名残惜しさを振り払い、彼の足に怪我があるのではないかとしゃがみ込んでいたノゾミの手を取り立ち上がらせる。
「申し訳ありません。しかし、今はそれどころではないのです」
 これまでにはなく至近距離から真正面に視線をぶつけられてノゾミは気が動転し、こくこくと頷くことしかできない。
「この町にどんな防衛のための機構があるのかは知りませんが、今はきっとそのおかげで魔物が押さえ込まれています。けれど、それもいつまで持つのか分かりません」
 あの死体の山を築き上げたのだから、この町の防衛能力が信頼できるものだとはオニワカも思う。だけど今回に限っては敵の規模が大き過ぎた。
「現在、町を取り囲んでいる魔物は、俺の力だけでは対処し切れない……というより、あなたを守り切れません」
 しかし、だからといってどうしろというのか?
 考え倦ねていたオニワカの脳裏にいつかのフソウの言葉が思い起こされる。
『時には誰かに頼っても良いんだよ』と。
 そう彼は教えてくれた。忠言を従うべきときが今より他にあるとは思えない。
心の中で練った案を繰り返し吟味して、それでもこれしかないと踏んだオニワカは心を決めた。オニワカが「ですので」と口火を切ると、ノゾミが怯えた顔で赤い眼差しを彼に向けていることに気づく。彼女の青ざめた唇が震えた声を紡いだ。
「オニワカ一人なら……いいや、何でもない」
 中程でノゾミは俯いてしまって、彼女の言葉は途切れる。その続きが気になりはしたが、どうにも明かしてくれそうな雰囲気ではなかったから追求はしなかった。
 代わりに自分の提案を続ける。
「そこで、俺は一端町を出ようかと考えています」
 そう言ったら真白いノゾミの髪が揺れたのと同時にきつく睨まれて、憤りと恐れの入り交じった瞳がオニワカを責めてくる。
「今自分で、魔物が凄い数いるって言ったのに! それなのに町を出るのか!?」
 唾さえ飛ばしそうな勢いで畳みかけられて気圧されそうになったが、気を取り直すとオニワカは詰め寄ってくるノゾミの肩を掴んで押し戻す。
「その通りではありますが、心配はいりませんよ。俺が一人で群れを突っ切るのであれば幾ら数を増やしたところで変わりはないですから」
 そんなふうに安心させるつもりで、オニワカは発した言葉だった。けれどもそれを聞いたノゾミは萎れていく。
「……やっぱり」
 そう呟く表情が落ち込んだと呼ぶには生易しく、自ら命を立つとでも言い出しそうでオニワカは混乱する。
「あ、あの、ノゾミ……? 今俺って何かまずいこと、言ってしまいましたか?」
「そういうことじゃなくて……」
「いえ、俺なんかに気を遣わなくて良いですから! だから、気を害するようなことを言ったのなら構わずに指摘してください」
 その訴えはオニワカの本心で、そのことを察せてしまったノゾミは泣き出しそうな目を見開いたけれども、俯いてしまった。
「何でもない。……ばか」
 彼女の口から初めて放たれた罵倒に、オニワカの方も愕然としてたじろぐが、焦燥が彼を現実に引き戻す。どんな事情であれ、今はとにかく時間が惜しい。
「では、特に問題がないようでしたら俺は町を出て山を下りますから。そこで近くの町に魔物が集中していることを教えて、自警団の協力を煽ごうと思います」
 突飛な話ではあるがイブキなら必ず信じてくれると思えた。そうでなくともオニワカが命を救ったものなら、或いは。
「彼らに弓で支援していただければ、かなりの数の魔物がしとめられるはずです」
 そうなれば、後はオニワカが残党を潰していける。掃討は難しくとも群れを散らせれば、町の守りを突破される心配もなくなるだろう。
「いかがでしょうか?」
 オニワカがこの町の主にお伺いを立てると彼女はやはり何か言いたそうにして、それでも諸々を飲み込む。全て喉の奥に追いやるとノゾミは頷き、「分かった」と了承してくれた。


 準備らしい準備など何もなかった。神殿のある町を訪れたときと同じように、オニワカは丸腰に近い格好で風の壁が鼻先に感じられる位置に立つ。吹き荒れる風の向こう、立ちこめた霧のそのまた先を睨みつけて胸一杯に息を溜め込み、ゆっくりと吐き出した。
 ノゾミには強がって、数が増えても変わりない、などと確言してしまったが、油断はできない。オニワカがこれまでに出会わなかった新種が待ち伏せていることだってあり得たし、そもそもどこまで魔物たちの勢力が広がっているのかだって定かではない。
 最悪、ふもとの町が壊滅していることだってあり得るのだ。
「気合い、いれないとな」
 そうあれかしと装って自分に言い聞かせる。それから走り出そうとしたオニワカは寸前で思い留まった。
「――って! 待って、オニワカ!」
 駆けてくる足音があったから。
そちらへ振り返ると霞んで見える神殿の方角からノゾミが通りを走ってきている。彼女はオニワカの近くまで来るとへたれ込みそうになるのを堪えて立ち止まり、お腹を抱えるようにしながら荒い息をついた。
 オニワカが驚いて何ごとかと声をかけようか戸惑っていたら、白日に照り映える長髪が翻り澄んだ赤い瞳が彼を見据える。そこに詰まっている感情が複雑に軋んで彼女を突き動かし、その細い腕が何かを差し出した。
「オニワカ! これをっ、持っていって!!」
 華奢な指に掴まれているのは、小さな巾着袋に包まれた四角い箱。そこから微かに、香ばしく甘辛い匂いが漂っている。
「オニワカに鳥を食べさせてもらってから、自分で料理を勉強してたっ。これはその、勉強の最中にできたもの!」
 息切れしながらもどうにかそれだけは言い切ってノゾミは改め、その弁当を差し出してくる。
 受け取れない理由なんてどこにもなかった、というより気がついたらオニワカの方から手を伸ばしていた。
「あ……ありがとうございますっ!」
 なぜかオニワカの方まで声を上擦らせて受け取ったそれを、両手に抱えて鼻先にくっつける。まだ僅かに暖かくて、鼻の奥に香り喉元をくすぐるのは焼けた醤油の匂いだった。
「なんだか……その、うまく言えませんけど、凄く力が湧いてきました」
 胸躍る心地に振り回されながら、オニワカは躍起になってその心境を言い表す。それがどこまでノゾミに伝わったのか、彼に推し量ることはできないけれども、彼女は目が合うと気恥ずかしそうに視線を下げた。そして顔を上げて、はにかみながらも微笑んでくる。
「気に入ってくれたなら、良かった」
 その無邪気な少女の一面に危うく彼は使命を忘れかけたが寸で踏み止まった。息を落ち着け、何のためにここにいたのかを自分に言い聞かせる。
 経過した時間は一呼吸分ほど。
 それでもなんとか自分に立ち返れたオニワカは表情を引き締めてこう伝える。
「はい。それでは、行って参ります」
「……うん。そうだな」
 本音を押し殺したくて俯くノゾミ。
 止めたって聞かないことは承知していた。だからその代わりにせめて、とオニワカの節くれ立った手を取り、それと比べればずっと小さな自身の両手で包み込む。
 見上げ、オニワカに聞こえなかったなんて言わせないように一言ずつはっきり伝えた。
「オニワカ。必ず、戻ってこい。絶対、だからな!」
 などと間近から言われてオニワカに抗えるはずもなく、彼は失笑しながらも頷く。
「もちろんですよ。俺なら必ず戻って来れますから、心配せずに待っていてください」
 自信に満ち、なおかつ冷静なままでいるオニワカを見てノゾミもできることはここまでなのだと悟った。自ら手を離して一歩引き下がる。
「またな。いつまでだって待っているからな」
「えぇ。できるだけ早く帰ってきます」
 腰に巾着を括りつけながら自分に言い聞かせる。
 これはひとときの別れでしかない。
 だから名残惜しむのも十分に感じてオニワカは踵を返し、風の中へと踏み出していった。
 吹き飛ばされないようにと片手で巾着を握り、もう片方の腕で目を庇いながら風の奔流を抜けていく。

死闘

 林を突っ切り大草原を抜けて記憶にある自身の足跡を辿り続けてきた。今はイブキと話しながら歩いていたあの森の中をオニワカは全速力で駆け抜けている。
 足元は木の根と茸が行き交い、そこに苔がまとわりついてさすがに走り辛くはあった。頭上で幾重にも重なる枝と葉が日の光を遮って肌寒く、空気はどことなく湿っている。
 一度行く先を見失えば二度と出てくることは叶わそうな森だったが、オニワカは立ち止まらない。自分の直感を疑ってはいなかったし、迷っても一昼夜かけて走り続ければオニワカに行き来できない距離などなかった。
「あと、少しだ……」
 その確かな記憶の通りに駆け抜けていった彼はやがて、枝葉と幹の彼方に溢れる白い光を見つける。初めは瞬きの度に見失ってしまいそうだったその煌めきは、一歩地を蹴る毎に輝きを強めた。暗さに慣れた目には眩しいほど、強くその明るさを主張し始める。
 全て最初から予想したとおりだったから、オニワカは驚きも喜びもしない。立ちふさがる木の幹を避け、一息で残りの距離を走破した。
 肩で負ってしまった僅かな枝の葉を散らしつつ、オニワカはいつかフソウと出会った小道に飛び出す。土塊を撒き散らしながら立ち止まったそこは、森に切り開かれた人気のない街道だった。以前よりも雑草が増している。季節が巡ってこの一帯も夏を迎え、緑が葉を広げ、水と日光を取り合いながら勢力を広げていたのだ。
標高が高く寒冷なままだった町にいると気づけない時の流れである。
 まるで独り時間に取り残されたようで、抱いた寂しさが奇妙に胸を引っ掻いた。もちろんそんなことは後回しにするべきで、オニワカは村へ向けて一気に街道を上っていく。
 そうして彼が守衛に挟まれて村の門をくぐったのは、日もそろそろ赤らみ始める頃合いだった。
 決して数は多くない民家や馬小屋、それから旅人向けの商店などが魔物の侵入を阻む高い柵に囲まれている。気になったのはその柵の所々に穴が空いていたことだった。急ごしらえの補繕でどうにかへし折られた隙間を埋めているけれども効果は怪しい。家屋の幾つかも打ち崩され、村を歩く人々にも重たい陰が付きまとっていた。
「まさか、襲撃にあった……?」
 心に生まれた憂慮を噛み潰して、オニワカは村にいるはずのイブキの姿を探し求める。
 向かいにはオニワカが使わなかった門があった。分厚い金属板から鍛え上げられたそれは大鎌の魔物さえ届きそうにない背丈を誇っていて、その隅に夜間用の小さな扉が備わっている。
今はそこも彼の背後に聳える門も日暮れに備えてゆっくりと閉じられつつあった。
 オニワカが寝泊まりした宿も記憶通りに営業を続けている。横長の平屋の脇に幾つもの荷車や馬車がひとかたまりになっていて、人の往来は途絶えていないらしい。
 しかし、その中には。
「フソウの馬車は……もうないのか」
 かつてオニワカが運んだものは見つからない。内心肩を落としつつも彼は気を持ち直して捜索を再開した。あの人の良さそうな行商人と再会するために、ここを訪れたわけではないのだから。
 しばらくその場で周囲を眺めていたが、それらしき人影は見つからなかった。やむを得ずに門の守衛たちの許へと話を聞きに行く。
「あの、すみません」
「うん?」
 簡略な鎧を纏う二人の守衛の片割れが眉を顰めて応じてくれた。
「どうかしたのか?」
 鱗を継ぎ接ぎした兜の奥から飛んでくる目つきは鋭い。だがノゾミのことで頭が一杯のオニワカが気にするはずもなく、単刀直入に質問をぶつけにいった。
「この村の自警団の団長はどこにいらっしゃいますか? できるなら俺をそこまで案内して頂きたい」
 臆するどころかずいと迫ってくるオニワカの気迫に守衛は圧倒される。溜まらずたじろぎ後ずさりしたものの、その矜持にかけて自分の任を忘れることはなかった。
「何のためだ? お前は確か門を潜るときに平原の戦いに参加したと言っていたが、目当てはその報酬か?」
 無論、そんな目的があったわけではないオニワカだが、その理由は通じるし具合が良い。迷わず「そうです」と彼が伝えると守衛は隣にいた相棒と何言か耳打ちして相談を交わすと、オニワカに向き直り彼を見据えた。
「分かった。本当かどうかはイブキさんなら見分けられるからな。案内を連れてくるまで、そこで待っていろ」


 それから西日の勢いがさらに弱まるほどの時間を経て、どこか頼りなげな青年が連れられてきた。背丈はオニワカと同程度で、麻と綿で編まれた普段着姿の細身を見ていると本当に自警団員なのかと疑いたくなる。
 けれども、オニワカは彼が戦う姿を戦場で目撃していた。
「こんばんは。あなたは平原の戦いで、斧を振るう魔物に殺されかけていた……」
 そしてオニワカが窮地から救い出した、あの若い兵だった。戦場に入ると最初に助けた人物だから、オニワカもその顔を覚えている。
 だから、自惚れていたわけではないが、多少は感謝の言葉も来るものだとオニワカは考えていたのだった。
 彼の予想したものを含む眼差しが、ほんの瞬きの間しか保たれないとも思わずに。
「何してるんですか、逃げてっ! 早くここから逃げてください!!」
 もう成人していてもおかしくなさそうなのに垢抜けない青年の面差しが引きつっている。
 一体何に?
 と思考を張り巡らしても、思いつくものは何もなかった。だからオニワカは素直に問い質そうとして慌てることもなく質問していく。
「どうして? 何か起きたんですか?」
 けれども青年はそんなオニワカの態度さえも苛立たしげにして、或いはもどかしそうにして詰め寄ってきた。
「良いからっ! あなたがオニワカさん何ですよね!? 僕を助けてくれた方で間違いないんですよね!?」
 その異常とも言える剣幕にさしものオニワカも気圧される。そこにただならぬものを感じて、ひとまずは退散しようと決断した。そのついでに事情が聞きたくて、青年を引き連れていこうとしたオニワカだが、足音に気づく。
オニワカの決断が遅過ぎたのか、はたまた青年が騒ぎ過ぎたのか。
 いずれにせよ、既に手遅れであることに変わりはない。
「よう、オニワカ」
 と聞き覚えのある、男の低い声がオニワカの背中を叩いた。反射的に、望んでいた再会だと思ってオニワカは振り返る。
「イブキ! 久々――」
 突き出された銀色の切っ先からオニワカは咄嗟の反応で首を傾げて免れた。そのまま短刀が振り下ろされるよりも早く体を逸らしながら斜め後方に飛びずさり、さらに跳ねていって距離を取る。
 事態の把握を後にして動いていたオニワカは、その身に起きたことを理解しても納得がついてこなくて、こう訊ねるしかない。
「どうしたんだよ、イブキ? 何で? 一体どういうことだ?」
 泣き出しそうな顔のオニワカと相対したイブキは、追いかけようともせずに腰から抜いた短刀を低く構える。オニワカを遙かに越す巨体の頂上から見下ろしてくる頭は、冷徹な殺意と憤怒を目に宿している。
「くたばっちまったもんかと思ってたよ、オニワカ。まさか本当に生きてるとはな。お告げの通りってわけだ」
 などと語るイブキの表情にははっきりとした憎しみが滲んでていて、ただ目を合わせるだけでも辛い。何もかもが理解の外で、狼狽していることしかオニワカには許されなかった。
「教えてくれよ、どういうことなんだイブキ……? お告げだと? それがどうかしたのか?」
 構えを崩さぬまま、イブキは答える。
「お告げってのはな、神様から下されるものなんだ。ある日突然頭に語りかけてきて、嵐が迫っていることや魔物の襲撃を教えてくれる。しかも外れたことがねぇんだよ」
 だから、今回もそれに従ってオニワカに攻撃を加えているのだと、イブキの目をそう言っていた。
「待ってくれよ!? 俺がどう言われていたのかは知らないけど、狙われることなんてしてない! 一体、どんな理由があって……!?」
 そんな訴えをされても、イブキは心底腹立たしそうにして吐き捨てるのみだ。
「魔物の襲撃が増えたんだ! オニワカ、てめぇが『魔王』の手先だからだろう!? お前のせいで、『魔王』が力を取り戻しつつあるって、そうお告げにはあったんだ!!」
「そんな……」
 あまりにも一方的な言い分で、反論の余地なんて幾らでもあるように思えた、けれども。
 もしかしたら?
 そんな迷いがオニワカの喉をひきつらせる。
 神殿のある町の周辺にはオニワカでさえ尻込みするほどの魔物が集まっていた。あの群れが集結したのは、オニワカが神殿を訪れてからのことである。
 おまけに彼はノゾミと生活を供にしていて。
 『魔王』と呼ばれているはずの少女と過ごして、どうして手下でないと言い切れる?
「どうだ、見ろ!? やっぱり、てめぇのせいで、村は! 村はっ、こんなことに……!!」
 口答えも、できたはずだった。けれどもイブキの怒る目が本物で、村には襲撃の傷跡が残っていて、立ち尽くして非難の言葉を浴びても抗えない。
 そうしている間にイブキは鋭い声で指示を飛ばし、呼びかけられた男たちがオニワカを囲ってきた。続々と自分に向けられていく槍と剣の包囲網の中心で、だが彼は動き出せない。
 思い出してしまうのは時折フソウの見せた悲しげな顔や、イブキが剥き出しにした『魔王』への憎しみだった。それを引き起こしたの全て、魔物と呼ばれる化け物たちの所業である。
 それを自分が悪化させているかもしれない、だなんて考えたくもない可能性だが、否定材料がなかった。打ち消すには何もかもを知らな過ぎて、そこに頭を引きずられてしまう。
「オニワカ。お前に最後の恩情をくれてやる。俺たちは神様から、できることなら捕らえろ、それができなければ殺せと仰せつかっている。だから生きたきゃ黙って捕まれ」
 そうすべきなのかもしれない、と心の中で誰かが囁く。投げかけられた言葉はきっと助けた誰かからの恩返しで,彼らの心情を鑑みれば悪くない処遇に思える。
 イブキらも、できる限りの譲歩はしてくれているのだ。
 ――それでも。
「ごめん、イブキ。俺は捕まれないよ。それに殺されもしない」
「あ?」
 俄に周囲がざわめいて殺気立ち、各々手持ちの武器を構え直す。
「本当にごめん、イブキ。でもな」
 分からないことばかりの世界でも、オニワカには一つだけ確信できることがあった。
「俺にはあんたたちよりも大切なものがあるんだよ」
 胸の奥底に刻み込まれている。他にどれだけを犠牲にしてでもあの少女を守り抜くようにと。オニワカの意思ではどうにもならないところで、そう宿命づけられている。
 そして何より、そんなこと以上に、オニワカ自身がノゾミのことを見捨てたくない。
「だから、退け」
 怯えるでもなく、威嚇するでもなく、黒い礼服を着た決して大柄ではない少年がその場を圧倒する。そこにいた誰よりも彼の意志は強大で、絶対的だった。
「そ、そうかよ……だがな、こっちだって加減はできねぇぞ!? かかれッ!!」
 ――という指令が飛ばされるや否や、オニワカをぐるりと囲み、槍の穂先が迫ってきた。全方位から逃げ場を潰して、殺しに来ているのだ。たった一カ所、直上を除けば。
 だがオニワカは微塵の驕りも挟まずに、この程度で捕まるとは考えていなかった。
そして、そのことをイブキにも見抜かれていると、そう確信している。
 だから無理矢理にでも、取るべき手段は一つしかないと決心したときには自ら迫る槍に突進していた。持ち前の速度を生かし、囲い切られる寸前に槍の一本に手を添えて軌道を逸らし僅かな血路をこじ開ける。その隙間へと、押し寄せる刃が服を掠めていくのにも構わず踏み込んで槍を伸ばす腕の下の死角に潜り込んだ。突進の勢いは殺さずに足の一本を軸にして裏拳を振り回し、鎧では隠し切れない無防備な脇腹に叩き込む。
 打撃の衝撃は皮膚を越えて骨と内蔵に伝播し、鈍く重く相手の全身を麻痺させていった。
「――っ!?」
 殴りつけられた兵は不意に重みを増した体に身悶えしながら、隣にいた兵士を巻き込んで横様に吹っ飛ばされた。
 魔物のときと違い肉体を粉砕してはいないし殺してもいないが、四肢を投げ出した相手は地べたにうずくまって動かない。痛み以上の疲労感に似た気怠さが今はその男を襲っていた。
 容易に包囲を突破されてしまった兵たちの間ではさすがに分かりやすく動揺が広がったが、味方は殺されてはいない。そう気づくとすぐに士気を取り戻して槍兵の背後に構えていた男らの長剣が一斉に振り下ろされ――る前に、接近を終えていたオニワカの拳が乱舞して全員の顎を撃ち抜いてしまった。
 倒れ行く彼らの合間を抜けると、ようやく目の前が開ける。案の定、弓を持ったイブキが一人で歯噛みしていた。
「もう良いだろうイブキ? これ以上はやっても無駄だ」
 二重に囲っていたにも関わらずあっさりとイブキは自分までの道を切り開かれていた。平原の戦い時点からのことではあるが、イブキだって勝ち目の薄さに自覚はあったのだ。
 それでもこうして包囲を抜けられた以上、もう人海戦術は通じない。
 そこまでを見切った上でイブキはこう決断せざるを得なかった。
「……退け、お前ら。まともな人間が、適う相手じゃねぇ」
 含みのある言い方は、しかし全く諦めているふうではない。オニワカのことを人間ではないと強調する一方で、それ以外ならば比類する力があるとでも暗に語っているようだった。
「まだ、何か手があるのか?」
 立ち退いていく兵たちを警戒しつつ脱出路を探していたオニワカが目を向ける。その先にはオニワカと同じく取り残されたイブキが、やつれた顔で空を見上げていた。漂う雲さえ血の色に染め上げる、一度目にすれば忘れられない夕空だった。
「……結局、頼んなきゃなんねぇのか」
 黄昏の空を仰ぐイブキの出で立ちも燃えつき掛けた太陽の色に塗り上げられている。その最後の輝きの色が彼の全身を激しく全身を燃やしていた。
 イブキがそれまで密かに祈りの言葉を唱えていたこと、そしてたった今それを読み上げ終えたことに気づいたときにはもう遅い。イブキは口の中で思わずこぼした愚痴を噛み殺し、天空に拳を突きつけた。
「さぁ、力を貸してくれ」
 その一言が引き金だった。
 イブキが目を閉じると、彼に降りかかる夕明かりの垂れ幕が輝きを増す。より密に、なお眩しくイブキを光の血流に取り込んで、その周囲にまで赤が振りまかれる。
 網膜に植え付けられる鮮烈すぎる色に苦しみながらもオニワカはその光景から目を離せずにいた。逃げなければ、という以上に働いてしまっている思いがあったから。
 助けなければ。
 あの光は、良くない。
 赤熱したように輝く光を皮膚が焼けただれそうなほど間近から見つめているのに、寒気がせり上がってきた。背や腕に容赦なく爪を突き立てて、悪寒が這い上がってくる。
 だから、その煌めきを食い止めようと思っていた矢先だった。火の粉のような残滓を散らして、光が収束し一気に途絶える。
 逃げることもできず、かといって事態を飲み込めないまま攻撃にも移れずにオニワカは立ち尽くしていた。何の反応も取れないまま凝視していた、と思っていたら。
「――っ――!?」
 夕空を仰いでいる。
 直後背中から地面に叩きつけられて自重と加速度が体を潰し、土の臭いとそこに混じるごつごつとした石の固さがオニワカを迎えた。衝撃に呼気さえも絞り出されて、オニワカは胸を押さえながら咳き込む。
 荒ぶった呼吸を意識して鼻から入れ、口から吐き出すように制御しつつ前を睨んだ。
「何を、した?」
 訊ねても、刃が中程で砕けた剣を握るイブキは不敵に笑うだけだ。オニワカは苦々しく思いながらも自分の胸元を見やった。右の脇から左の肩口にかけて、纏っている礼服がずたぼろに破れてシャツにも鋭い切り口が走り、裂傷の走った素肌を晒している。
 最も深く切り込まれた脇の傷は皮膚を通り越し肉にさえ達していた。
 その傷口をまじまじと観察して、ようやくイブキの表情にも笑み以外のものが浮かぶ。
「どうにも、マジで人間じゃなかったらしいな。今の一撃も威力は逸らしたみてぇだし。さすがは『魔王』の手下ってところか」
 言い捨てるイブキの目は憎しみに濁りながらもオニワカの皮膚に隠されていたその奥を見つめていた。
 溢れ出す赤い血に無機質な黒い筋繊維がしとどに濡れている。
 おまけに傷ついた傍から治癒が始まり、露出していた筋肉の表面を毛細血管が行き交って脂肪が包み込み、その上へとさらに伸長してきた皮膚が覆い隠してしまった。肌さえも傷跡だって残さずに復元され、オニワカの体は元の有様を取り戻す。
 しかし、その様に誰よりも呆然として、立ち上がれずにいたのはオニワカだった。
「どうなっている……?」
 そんな彼の隙は余りにも大き過ぎて、反応が遅れる。波打つような風の動きを頬に感じて顔を上げると、肉薄したイブキの槍がオニワカをめがけて撃ち出されるところだった。
「――ッァアアアア!!」
 裂帛がそのまま勢いとなった一閃はもはやいなせない。
 オニワカは無理を承知で横様に体を投げ出し、直撃だけは免れる。けれども胴を庇った腕は衣服ごと肌を切り裂かれてその下の僅かな脂肪も抉り取られた。
 穿たれた傷の奥にはやはり黒い繊維が寄り集まっている。そこへまた赤い血液が流れ込み、恐るべき速度で修復されるところまでまるで先刻の再現だった。
 転げ回るように後ずさり、退避しながらもオニワカの注意はそこから離れない。
「俺は人じゃないのか……?」
 こんな機能がついているなんて知らなかった。自分の体がまるで見知らぬものになったようでよそよそしく、歯の付け根の震えが止まらない。
そんなオニワカの姿をイブキは冷酷な目で見下ろしていた。
「そんな有り様でもこっちの攻撃は防いでくんのかよ。やっぱ、てめぇ相手に手加減はできそうにねぇや。神様の力ってのも案外頼りねぇものなんだな」
 イブキが愚痴をこぼすと、それに反発するようにまた光が降り注いでくる。今度は濁りきってどす黒い、腐った血の色の奔流だった。
 一呼吸分ほどイブキを覆い、前回と同じく僅かな片鱗を残して瞬時に消え去る。
 そこから現れたイブキは全身の筋肉が膨張して、元からの巨躯も膨れ上がった。鎧から露出した肌には血管が浮き上がり、血走った目に映る眼光は荒れ狂っている。
「……オニワカ。こっちも長くは持ちそうにねぇんだ。だから手早くお前のことも片づけさせてもらう」
 と言い終えるよりも、オニワカの体が吹っ飛ばされる方が早かった。町を囲う柵に背中をぶつけて打撃の威力との間に体を擦り潰されそうになり、声を上げることも叶わない。ずり落ちて地べたに尻をつき、背後の柵にもたれかかった。町の中心部から吹き飛ばされてきたオニワカを受け止めたというのにびくともしていない。これも神様の加護とやら働いているからだろうか、と霞む意識で考えていた。
 まるで自分を追い込む罠のようだなんて思って、まさしくその通りなのだと気づく。否が応でも軋む全身に耐えて立ち上がるしかなかった。
 目の前の敵を倒すしかないのだとイブキの姿を見据える。
 巻き上がっていた砂煙を風が拭うと、腕を突き出した格好の男が一人立っていた。その拳があったはずの場所を目にして、オニワカは愕然とする。
「……っ、イブキ。少し、待て。今のまま暴れ回ったら、お前も死ぬぞ!」
 今のイブキの一撃は『まともな人間』が腕に受けたなら肩ごと消し飛ばされるだけの威力が籠められていた。そうではないオニワカもイブキの拳を受け止めた腕が垂れ下がったままでいて、動けてしまえるのが奇跡的なくらいだ。単純な衝撃には相当の耐性を持つ構造ならしい、というのが自身の体に下した評価である。
 けれども、『まともな人間』のイブキは事情が違った。その腕は自らの打撃の反動を受け止め切れずに肘から先が赤く濡れた肉塊に成り下がっている。
 その様を自ら目撃した上で、しかしイブキは不敵に笑うのだ。
「神様だって、俺の体をただ頑丈で力強くしたわけじゃねぇんだよ」
 その言葉を証明するように膨れ上がった肉と脂肪の先端から指の骨が突き出てきた。そこに神経が絡み付き、それを肉が追従して最後には皮膚が覆っていく。
「それじゃあ、さっさと終わりにしようか」
 なんて聞こえるよりもやはり、吹き付けるイブキの纏った風を頬に感じる方が早かった。眼前に出現した巨体を睨みながらオニワカは直感だけで半身に構えて受け流すことに徹する、のと同時に大岩も割り砕かんばかりの衝撃に見舞われた。彼の背中は再び背後の柵に叩きつけられて、いなし切れない威力が震えとなり四肢の先や脳にまで駆け上がってくる。直に脳を揺さぶられ意識は弾け飛ぶ寸前にあったが力づくで繋ぎ止めた。
これは全力の一撃じゃない。だからオニワカの腹を蹴飛ばしたイブキの足は無事で、すぐにでも次がやってくる。
「こんの……っ!」
 全身ごと横様に身を投げ出した。オニワカの頭があった空間をイブキの拳が蹂躙しながらオニワカの頬を掠める。互いの皮膚は削ぎ落とされてどちらのものとも分からない血が舞った。
 受け身を取る余裕もなく地に伏したオニワカは側頭部を強かに打ち付けてしまい、見える世界の色が氾濫する。混濁する視界と意識の中で必死になって飛び上がって後退し、イブキから距離を取った。
 今にも崩れ落ちそうになる膝にどうにか力を込めて、オニワカは前を見据える。
 そこではイブキが拳を振るった腕の再生を待っていた。その眼前には人の頭ほどの風穴を空けられた柵が捻じくれている。
「すげーな、神様ってのは。お前みたいな化け物相手でも一方的に追いつめれるんだから」
 イブキは無事な方の手で投げ渡された剣を受け取りながらオニワカに一瞥をくれてきた。
「これなら、お前みたいな奴らを全員殺せる。この村の敵は、『魔王』の城に集まってる魔物だって、全部片づけられる……」
 そこでイブキの姿勢が崩れ、膝をついて咽せ始める。それから苦しそうに息を整えていたがその目からは光が失われていない。
「それから、そいつらを操ってるって言う『魔王』も殺し――」
「――もし、『魔王』が年端も行かない、何の力もない少女だとしてもか?」
 この世の全てを恨むように低く重たい呻りがイブキの発言を遮った。
「神様とやらが『魔王』だと言えば、抵抗もできない女の子だとしてもお前は殺すのか?」
 短い言葉に『魔王』も魔物も霞む威圧的な暴力が籠められていて、低く響き渡り村中を静まり返らせる。しかし、そんな中でもイブキだけは最後まで抗おうとした。
「当たり前だ! どんな奴だろうが、知ったことじゃねぇ。そいつが魔物を操ってんだ! だったら、死んでいった奴らのためにもそうする義務が俺にはある!!」
 そう吐き出させたのは、他でもないイブキの意地だった。数多くの仲間を失いながら、それでも戦い続けた自警団団長たるものの矜持だった。
 だからどうやっても口を止めることができなかったイブキは、言い切って初めて自身の宣言の意味を知る。
「……対象……害……がいち……排……に……」
 赤く仄かに、オニワカの肢体が光を放ち始めていた。
 日が山陰に没し闇に沈んでいく世界の中で、一際煌めく血の輝きだけが密度を増しながら燃えたぎる。赤い、などと表現するだけでは足りないほどに鮮烈で、目にその存在を焼き付ける色の名は『紅』。
 炎より澄み切りながらも血より色濃い、紅蓮の色。
 礼服に覆われていない手からも顔からも、また衣類の切れ目に覗く素肌からさえ『紅』が溢れ出し、肌色を切り裂いて浸食する。
 やがてその灼熱はオニワカの瞳孔にさえ宿り、彼の意思を食い潰していった。
「お前、本当にオニワカ、なのか?」
 そう紅の瞳に問いかけるが、炎熱が支配する目は個人としてのイブキなどもはや映さない。今のオニワカにとって、イブキはノゾミに殺意を向けた害悪でしかないのだから。
「おい、返事――!?」
 イブキの台詞は喉の奥からせり上がる最中に断ち切られた。その手にあったはずの剣の切っ先が自身の胸板から生えていて、彼はゆっくりと我が身に起きた事態を理解していく。イブキが、背後に立つ真紅の仄明かりに包まれた化け物の姿を肩越しに窺おうとした。
「オ……」
 そうイブキが何かを発しようとした途端に周囲の建物か半ばまで余波で吹き飛んだ。人々は薙ぎ払われてオニワカの踏む地面から砂煙が波状に舞い上がり広がっていく。
 その中心にいたイブキ自身もただ戸惑っていることしかできなかった。だが、やがて振動が伝わり切った彼の体は仰け反り、その全身に張り巡らされた血管が腫れ上がる。
 直後、彼の目が色を失ったのと同時に、目や鼻や口や耳から粉微塵になった肉と血飛沫が吹き出した。
 周囲を我が身の内容物で染めながらイブキの腕は垂れ下がり、オニワカに小突かれて前のめりに倒れ込んでいく。
既に息絶えていたイブキの肉体はぐしゃりと力なく四肢を投げ出して血溜まりに沈み込んだ。誰もがその様を、人であることを捨てた自警団長が鬼に殺された様を、息を呑み眺めている。
 鉄臭くて生ぬるい風が沈黙を埋め、赤熱していたオニワカは次第に鎮まっていった。彼は紅の鬼から徐々に人の肌を持った存在へと立ち返る。
 しばらくして落ち着き、その頭でオニワカは目の前の光景を自分の目で確かめた。
 彼が放った剣を受けて全身の穴から赤黒い液体を吹き出す、かつての知人だったものの成れの果てを。
「――っ、あぁ、あぁあああああああああああああああ
ッ!?」
 血に塗れた自身の手の平、それから微かに記憶に残るイブキの肉の感触。砕け散っていく骨と臓物の音。
 それら全てに怯えて、人に戻ったオニワカは絶叫しながら駆け出した。歪んだ柵の穴を抜けて町を飛び出し、誰もいない場所を目指す。
 それを止められるものも、追いかける勇気のあるものもそこにはいなかった。


 一つの夜を越えて空の彼方に仄かな青が満ち溢れ出す。山の上空に高らかな鳥の叫びが響き渡る頃、オニワカは神殿のある町の通りで膝をつきうなだれていた。
 まだ薄暗い町並みは濃紺の闇に沈没していて、膝と手に触れる足下の石は氷みたいに冷たい。それでもオニワカの内から滲み出す熱病めいた疲労感を打ち消すには遠く及ばなかった。
 心も体も草臥れ果てていたが、それもそのはずだと、町に辿り着くまでの道中を思い出す。
 何もかもを理解できないまま村を脱したオニワカは真っ直ぐに山野を駆け抜け、町のある山を登った。その中腹に至った頃、枝葉の隙間から頂点を通り過ぎた太陽が覗いていたことを覚えている。
ともかく早く帰りたかったオニワカは無心に斜面を駆け上っていて、何の気もなしに比較的固そうな地面を踏み締めた。
 その瞬間のことだった。
 足下の山肌が割れた。土が盛り上がってそこから裂け目が走り、広がったそこへと雪崩れ込んでいく土の流れから刃が二本飛び出す。
 その出現より早く樹木の上に退避していたオニワカはじっとその正体を見極めていた。
 土中から出現した土と同色のそれは鋸状になった刃同士を素早く噛み合わせて獲物を求めたが、甲高い音だけを鳴り響かせる。耳をつんざくそれに顔をしかめながらもなおオニワカが観察を続けていると、刃の根本に片側ずつ一対の目を見つけた。
 オニワカの拳ほどもあるその眼球はほとんど退化し消えかけている、と知れたのはそいつの頭の全体像を見て取れたからである。
 オニワカの背丈ほどもある刃だ、と思っていたのそいつの備える大顎だった。その根本の間には牙のない口がぬめり気を帯びて光を放ち、堅い甲殻に覆われた頭だけを突き出して獲物を待ちわびている。
 その一匹を相手にするために地面に下りるのは躊躇われた。他に何匹が待ち構えているか分からないのだ。
 だからオニワカは木から木へと跳ねて渡り歩き出したのだが、魔物たちには見越されている判断だった。
 飛び移った木の幹に爪先が触れた途端、異様な軟らかさ怖気が走った。それと思っていた表面が蠢き、幾つもの甲羅が重ね合わさった虫のような魔物の背だったと知る。
 その体が縮んで堅く丸まり。
爆発した。
 その衝撃にオニワカは宙に吹き飛ばされて脳震盪まで起こし、危うく意識を刈り取られかける。しかし飛び散った甲羅の破片に衣服と肌を切り裂かれ、走った痛みがオニワカをぼやけた覚醒させた。
 身動きの取れない空中で身を捻り地面と衝突する部位だけは調節する。頭を庇うようにして構えた腕から柔らかい土に飛び込むや否やその反発を利用して上体を撥ね上げつつ飛び退る。それと時を同じくしてオニワカの落下した地面から大顎が突き出され、もうそこにはいない少年を挟もうとしていた。
彼はそれに構わず全速力を以てして土を蹴り飛ばし始める。
 魔物たちがオニワカを頂上に寄せ付けまいとしているのは明らかだった。
 募る危機感に応じて、またオニワカの体が仄かに赤く発光を始める。それに合わせて彼の足も腕も腰も首さえ限界まで駆動してそれらを制御する思考回路も加速を始め、発生した排熱が浮き上がった全身の血管で冷却される。
木も地も時には現れた魔物でさえ足場としてオニワカは駆け上がり出す。その踏みしめた地点は爆砕されてすり鉢状に穿たれ、そんな彼の軌道を予想して地面を突き破ってくる魔物の顎さえ無惨に打ち砕かれてしいく。
 霧が晴れていたのは幸いだった。山中でも速度を落とさないで済む。魔物らだって動きやすくなるはずだが、発揮される全力の違いを踏まえればオニワカの方が利点は多かった。
 山頂に近づいていくに連れて木や藪の陰から魔物が飛び出してくる頻度が増す。イブキと同じように血管が腫れ上がり運動性が増したそれらを、しかしオニワカは微塵の容赦も情けもなく血肉の沼に鎮めていった。
 鬼と化した彼は合理的に論理的に最適な手段で敵を葬り去っていく。
 やがて目にした魔物を一匹残らず狩り尽くしたオニワカは、山林の途切れ目近くに辿り着いた。藪の中に身を潜めて、町がある平野の方角を見据える。
 魔物と戦っている間に日は暮れて、頼りになるのは月と星から注ぐ微かな明かりだけだった。しかしながらオニワカの優秀な目は僅かな光を掻き集めて暗闇の彼方まで見通す。
 霧に覆われていないそこは荒野と呼んでも差し支えない様相だった。
 土塊の湿った素肌を晒して雑草にさえ恵まれない。町を包む暴風が湿気の大半を追いやってしまうために中々霧が晴れず、日の光の恩恵に預かれないことが原因だった。
 だが、そうして見えている平野は一部分でしかない。
 眼前の光景にオニワカの自信や達成感は見る見る失われていった。
 この荒野へと登り詰めるまでオニワカは衣服の色をも返り血に染め切るほど魔物を屠っている。少なからずこの一帯の魔物の勢力は削げたはずだと、そう自負していたの。
 けれども、違った。
 大地を覆い尽くすほどの魔物の群れ。
 それが密集して濛々と砂煙を立てながら前進していた。その目指す先にはノゾミの住まう町があり、異形の生物の波は先頭からそこへと追いやられていく。
 そして一歩でも踏み入れた途端に彼らの体は爆ぜた。
 魔物たちの行く手を遮る暴風はその破片にさえも侵入を許さずに平野へと撒き散らしていく。
隔たる風の壁はこうして魔物たちを押し留めていたのだった。町に築かれていた死体の山はそれでも押し返し切れなかった魔物の残骸である。
 この町の作り手はこうして押し寄せる魔物たちを追い払い、容赦なく殺す防備を整えたのだ。町に住まう人々にとって魔物は敵でしかなかったから。
 だから、魔物はノゾミにも害する存在だから。
 オニワカの覚悟は決まる。
 収まりかけていた肌の色がまた一層明るく輝き始める。彼の血液の色が研ぎ澄まされて全身を覆い、目にも流れ込んで瞳孔を満たす。
 自らの熱により陽炎が揺らめく中、『紅之鬼若』の本性たる姿を顕にした彼は草むらを飛び出し、溢れる魔物の塊に突貫していった。


 そうやって心を無にして戦い続ければ、或いは忘れられるとでも思っていたのかもしれない。肉を打ち砕き続ければ、手に残るイブキの肉の感触だって拭えるんじゃないか、と。
 そう考えて自身を鼓舞して、町の外に無数の死骸の山を築いた。
 だけど、どれだけ戦っても、何体を殴り殺しても知人を殺した記憶も感触も固化していくばかりで忘れられない。
 誰一人殺したくなんてなかった。どんな人間も目の前で死なせたくなんてなかったのだ。
 だから怖くて、人を殺すために生み出された武器は持てなかった。例え魔物を殺すためにだとしても、槍も剣も元来は殺人の道具でしかないから。
 なのにオニワカは剣を握ってしまった。
 それどころか人に向けて振るってしまった。
 誰かを死なせないために、必死になって戦ったことだってある。
 魔物に襲われていたフソウを助けたいと思った気持ちは偽物じゃなかった。大平原でイブキの自警団に加わったときだって持てる力の全てを使って駆けずり回り、倒されそうになっている団員たちを助けて回った。彼らや、それ以外にも数多くの人々を傷つけるという魔物たちを片っ端から殺して回ったのだ。
 なのに、オニワカはとうとう目の前で人を死なせてしまった。
 自分に職を与え、時には案じてくれもした男を。
 他でもない、自分の手で。
「何でだよ……っ」
 問いかけたって誰も答えない。この場にはその答えを知らないオニワカ自身しかいないのだから。
 それでも、問わずにはいられない。
「何でなんだよ……!!」
 こんなはずじゃなかった。誰一人だって死なせるつもりはなかったのだ。
 けれども事実、殺してしまった。
 ノゾミを殺すつもりでいると、イブキにそう伝えられた瞬間にあらゆる感情が抜け落ちていった。訳の分からない映像が幾つも駆け巡り殺すことしか考えられなくなった。
 それからはどこか冷めた目で、よく見知った男を殺すのに最適の移動速度と角度を算出し、その通り動いていく自分を無情に客観視していた。イブキの脇を通り抜けながら剣を奪い、背後から串刺しにするのを止めようとさえ思えなかった。
 あんなものが、こんなものが、人間であるはずがない。
「何なんだよ俺は……!?」
 手の甲が濡れる。最初は一粒。やがてぼろぼろと何滴も。
 自分が親しくなった相手を自分で殺して。
 それなのにこんなものまで溢れてくる自らの卑しさが、ただただ憎らしい。人を殺すしかないのなら、せめてずっと鬼でいられたら良いのに、後になったら嘆くこの偽善が恨めしくて仕方がない。
 なぜこんな心身が与えられたのか?
 誰がこんな出来損ないの心と身体を寄越したのか?
 どうしようもなく自分とその作り手が憎らしくて、だけど気づいてしまう。
「――っ! オニワカっ!!」
 遠くから呼びかけてくる声に。
 町の果て、純白の扉が開かれて、それよりも無垢な心と長髪を持った少女が駆けて寄ってくる。
 その姿が、無事なままでいるのが目に入った途端に、気づいてしまったのだ。
 イブキを捨て置けば、いつか必ず彼女に牙を向いていた。イブキだけじゃない、ノゾミに向けられる幾千もの憎しみを薙ぎ払えるのは自分しかいないのだ。
 そして、そうまでしてでもオニワカは彼女を失いたくないのだと。
「……ノゾミ。ただいま、帰りました!」
「うん! おかえりっ、オニワカ!」
 彼女は叫びながら必死に腕を振り、白い髪を舞わせながら走ってくる。その足が以外にも速くて、オニワカは慌てて目を拭い涙の余韻を掻き消した。
 彼はノゾミに笑顔でいてほしくて、そのためには泣いている姿なんて見せたくない。
 ノゾミが無事でいてくれるなら、自分は鬼にでも人にでもなろう、と。そう決心してオニワカは大切な少女を出迎えに行った。

『魔王様の仰せのままに(前)』

後編はこちら↓
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『魔王様の仰せのままに(前)』 糸公 作

大切だったはずの何かを失った主人公。彼が流れ着いたのは正体不明の『神』が支配する世界だった。 そこで『神』に仇なすという少女に出会った主人公は得体の知れない使命感に突き動かされて彼女を守り抜く。 後編はこちら→ slib.net/64147

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2016-09-10
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