花たちが咲うとき 一

花たちが咲(わら)うとき

第一話 ~ 春宵の夢 ~

(まぐさ)
名前を呼ばれて振り返る
黒い髪に黒い瞳の少年はこれまた真っ黒の学ランを着こなしていた
そして思う
―― またか
少年はパッチワークのブックカバーがかかった文庫本を(まぐさ)に差し出して、春のような朗らかさで微笑む
そして(まぐさ)の左手は何の迷いも無くそれを受け取るのだ
ブックカバー自体はとてもうまく刺繍されているのに、組み合わせる柄のセンスがイマイチなそれは、手作りなのだろうとなぜか確信していた
―― 誰なんだ
その言葉がどうやっても艸の口からは音となって出てこない
全く見覚えの無い少年は、(まぐさ)が本を受け取ったことに満足そうに目を細めてから「またな」とだけつぶやいて、すぐに背を向けた
本を受け取った時は意思など関係なく動いた身体が、今度は全く動かない
遠ざかっていく少年の背中を見送る
もう何度目か分からない
それでも、すがるようにその背中を見送り続けることしか出来ない
誰かも知らない
その少年に
すがる



 けたたましいアラームに視界が一気に晴れた
まだ慣れきっていない天井にため息を吐きかけた(まぐさ)は、うんざりとひとりごちた
「くそ、また駄目か……」
これでアロマも効果なし、そう結果付けた艸は昨日買ってきたばかりのアロマの匂いが充満する部屋の空気を入れ替えるべく、ベッド横の窓を開け放った
このアパートに引っ越してきてからというもの、頻繁にこの夢を見ている
今思えば、高校を出たころから時々は見ていた気がしなくもないが、こうも同じ夢を、こうもはっきり覚えていることは今までなかった
―― この部屋、何かあるのかもしれない
これから少なくとも四年間は暮らす部屋だ。慎重に選んだつもりだったのだが、うっかり訳ありを引き当ててしまったのか、と考えると(まぐさ)の気は沈んでいくばかりだ
悪夢、という程のものでもないのが幸いなところだろう
逆にそれが不気味でもあったが……
そもそも『(まぐさ)』という名前を家族以外の人間に呼ばれるほど、親しい他人がいた覚えが無いのだから所詮は夢だということだ
そのことに今更違和感を覚えたりも、しない
気がつくとペンダントトップの平らな感覚を指で確かめていた
長方形の板が下がっているだけのシンプルなもの。飾りっ気の無いところが(まぐさ)は気に入っている
貰ったものだ。……確か誕生日プレゼントか何かで
どうにもベッドから腰を上げる気になれない艸は、そのまま指先だけを機能させた考える人と化した状態になった
―― クラシック音楽、運動、就寝前の飲み物、とにかく試せるものは試してみた。次は……
不意にスマートフォンが震えた
目覚ましアラームではない
画面を確認して、艸はただでさえ重い気分が、さらに倍になったような気がした
「めんどくせぇ……」
今日は大学入学式がある日だった


※※※


「……続いて、新入生代表。月下 香」
―― 寝てた
夢のせいで寝不足、というのは変な話なのだろうか
ほんのわずかの間、(まぐさ)は座ったまま意識を失っていたらしい
浮上した意識とぼやけた視界にうんざりしながら正面を向く
そして今、このタイミングで目覚めたのは偶然でないと知った
本来なら痛いくらいの静寂があっていいはずの体育館は、ざわざわと木の葉が風に吹き付けられたような騒音に支配されていた
何だ? そう思ったのは一瞬で、(まぐさ)は直ぐに現状を理解した
その人間の真っ白な頭を見た瞬間に
新入生代表、つまりこの学校では入試トップの人間
そんな人間が、脱色しているのか染めているのか……。悪目立ちする頭で壇上に上がっていく
「静かにお願いし――」
司会の人がそう言いかけた時、代表者が壇上へ続く階段に軽く足を引っ掛けて、バランスを崩した
今まで静かに壇上の椅子に腰掛けていた先生達の数人が、少し驚いたように腰を浮かせた
代表者、香は直ぐに体勢を立て直し、壇上を登りきって先生達に頭を下げた
「新入生一同、礼」
少しマシになったざわめきの中、バラバラと新入生達は頭を下げる
(まぐさ)も適当に下げた頭を上げて、改めて壇上の人間を見た
うなじ辺りで切られた白髪は毛先が少し外側にハネていて、頭髪の色のせいもあってか、後ろから見ていると鈴蘭の花を思い出させた
「麗らかな春の訪れと共に迎えた今日の良き日に、私たちは――」
もう、ざわめきは消えていた
壇上から拡声された声だけが、春の日差しのような優しさをもって体育館中に降り注ぐ
(まぐさ)は挨拶の内容などまともに頭に入れてはいなかったが、その声だけはどこか心地よい気分で聞いていた



 体育館を出ると電気とは違う眩しさが目を射した
前方に広がる芝原が、日差しを吸い込み発行しているかのような眩しさでさざ波を作っている。歩道に等間隔に並べられた桜の木も、浮かれた春風に感化されたように騒ぎ立て、その桃色の花びらを惜しみなく散らせていた
そんな陽気な景色に対し、艸はもう帰りたい気持ちでいっぱいだった
堅苦しいスーツをさっさと脱いでしまいたいし、この後行われるオリエンテーションという響きが既に陰鬱とさせる
大学なんて義務教育より学生間の協調など必要ないのに、わざわざ新入生同士集まって自己紹介して、仲良くなるきっかけ作りをしなければならないのだ
面倒なことこの上ない
そして何より(まぐさ)は自己紹介というものが大嫌いだった
しかし、授業に関する資料など必要な物もこの機会に渡されるので、やはり行くべきか
そんな事を考えて突っ立っていた(まぐさ)の肩に、軽く小突かれたような衝撃があった
ワンテンポ遅れて、鼓膜を打つ大きな音が周囲に響き渡る
(まぐさ)は少しバランスを崩したのみで、大したことは無かった
しかし、ぶつかってきた相手側はそうはいかなかったようだ
入学式会場と書かれた立て看板と仲良く地面に倒れたその人物に、(まぐさ)は見覚えがあった
「香! 大丈夫か!?」
その声は(まぐさ)の背後から聞こえ、バタバタと(まぐさ)の横を通り越した
金に染まったぴょんぴょんハネた髪は、頭頂から黒く戻り始めていた
高校を卒業し浮かれて髪を染めたは良いが、大学入学式までに元に戻らなかった、もしくは戻す気すらなかった輩の一人だろう
一見やんちゃ盛りのヤンキーのようなその男は、白髪の代表者と並ぶとなおチャラい。(まぐさ)に言えたことではないが
「おい! 気をつけろよ!」
威勢よく(まぐさ)に食いかかった金髪は、(まぐさ)を確認して少したじろいだ
昔から目つきが悪いのは(まぐさ)も自覚している
染めずとも茶色寄りのうねった地毛をハーフアップにした髪形と、顎鬚。そして今日はスーツも来ている
ヤクザ者、と聞かされれば誰も疑わないであろう
一度身を引いた金髪だったが、負けじと肩を怒らせて見せた
「な、なんだよ! 謝るくらいしたって……」
「ごめん、葵。こっちからぶつかったんだ」
そう言って、看板を立て直しながら体を起こした香は、(まぐさ)に頭を下げた
「すみません。大丈夫でしたか?」
―― やっぱり白いな
真正面で向けられたつむじを見て、(まぐさ)が思ったことはそれだけだった
隣で少し居心地悪そうにしている金髪、葵と呼ばれていた男とは違い、頭頂に違う色が見えることも無く、老人のように真っ白だ
そして顔を上げた香の瞳と目が合ったとき、艸はなぜか後ずさりそうになった
先ほど目にした春の芝生のような鮮やかな緑が、(まぐさ)の両目に飛び込んできたのだ
「あの……?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
不思議そうに首をかしげた香の言葉に、ふと我に返って(まぐさ)は適当に言葉を選んだ
―― 早くどこかに行ってくれ
そう思ったのはなぜだろう。おそらくあまり目立つやつの近くに居たく無いからだろう、と(まぐさ)は自分で結論を出した。ただでさえも今の騒動で目立っているのに
しかし、なかなか去ろうとしない気配をいぶかしんで香を見下ろせば、その見開いた鮮やかな瞳と再びぶつかった
(まぐさ)を恐れているのか、それともこんな風体の男が素直に言葉を返したことに驚いているのだろうか、なんともいえない顔をしている
「香?」
香は肩を少し震わせ、横に突っ立ったままの葵に目をやった
「あ、ご、ごめん」
「行こうぜ?」
「うん……。すみませんでした、それじゃ……」
礼儀正しく頭を下げた香はなぜか(まぐさ)の方を気にしながら去っていった
「香ってさぁ、運動音痴って言ってたけど、おっちょこちょいって感じじゃね? 式のときもコケかけてたじゃん」
「う、それはもう忘れて……」
そんな会話が遠ざかっていった


※※※


 結局、(まぐさ)は帰らなかった
正しく言うならば帰れなかった
乗って来た艸のバイクに我が物顔で乗っかってどこうとしないやつが居たからだ
周りの賑わいに気をつけながら「どけ」と声をかけても、そいつは座席部分に乗っかり尻尾を優雅に左右に振るだけだった
今から帰る人ももちろん居る
駐輪場に自転車やバイクを取りに来た生徒らしき人たちが、物珍しそうにこちらを見てくるのが耐えられなくて、結局こちらに来てしまったのだ
「最近の子はオサレさんやね」
目の前の教師は、配られた封筒をペーパーナイフで開けていた(まぐさ)に声をかけた
教師からすれば、話題づくりの一環としてかけた言葉なのだろうが、(まぐさ)にとっては嫌味にしか聞こえない
(まぐさ)が何も言葉を返さないでいると、教師も先ほどの言葉を独り言として処理したようで、話を戻した
「中に授業の一覧と学生証が入っとるから無くさんようにな。今から春学期の時間割を作ってもらうけど、分からんことあったら先生かそこの名札下げとる先輩達に聞きぃ。出来た人から解散な」
ざわつき始めた教室では授業に関することのほかに、雑談を楽しんでいる生徒も多い
(まぐさ)の斜め前の二人は特に盛り上がっていて、耳障りなほどだった
「でさ、今日イヤな夢見ちゃって」
「ん~? どんなぁ?」
「まぁなんというか、はっきりしないんだけど、怖かったぁ」
「ふーん」
その会話が耳についたのは、(まぐさ)も他人事ではなかったからであろう
「夢といえば、ここの図書館には夢占いをしている生徒がいるらしいよ」
その女二人の前に立ったのは首から名札をかけた男子生徒、つまり先輩の一人だ
「え? そうなんですか?」
「噂程度だけどね。図書館にいて、少し変わった人。ありがちだけどさ」
「へぇ。先輩は会ったことはあるんですか?」
「俺は無いなぁ。友達から聞いたことだし。俺、夢なんて直ぐ忘れちゃうから」
どっと笑いが三人の間でおこった
―― 夢占い、か
(まぐさ)は心の中でその言葉をなぞった
占いに興味は無いが、少し前から変な夢を見てしまっている(まぐさ)には気になる話題ではあった
今日はこの後に用事もないし、どんな人物がそんな噂を生んだのかくらい見てみる価値はあるかもしれない
噂を生むとはそれだけで少し違うのだ。特にこういうタイプの噂を生む人間は。ただガセとリアルの区別もつけにくいが
このまま、あの夢を見続けることが嫌というほど辛いものではないが、気味が悪いのは確かだ
何かの参考になれば、そんな思いもある
―― 馬鹿馬鹿しい、バカバカしい、腹立たしい
―― 情けない
(まぐさ)は資料をまとめ腰を上げた
席を立った艸に教師は目ざとく声をかける
「出来たんか?」
「……はい」
「さよか。お疲れさん」
さっさとドアまで歩く
君影(きみかげ)
(まぐさ)は思わず足を止めた
「そのベルトに挿しとんのはきちんと鞄に仕舞いや。危ないかんな」
一瞬その教師が何を言っているのか分からなかったが、反射的にベルトに回した手に硬いものが触れた
さっき使っていたペーパーナイフが、ベルト通しに差し込んであった
なぜこんなところに、いや自分で差し込んだ以外にはない。いくら無意識にしても変な行動を取ったものだ
ペーパーナイフとはいえ先は尖っているし、危ないのは確かだ
教師に軽く頭を下げ、教室を出てからペーパーナイフを鞄に仕舞い直した


※※※


 先ほど受け取ったばかりの学生証を、図書館入り口のゲートにかざして中に入る
そこそこの広い図書室だが、本棚より机のとっているスペースのほうが広く感じた
大人数用の四角いテーブル、個人用のもの、授業に使うためのガラス張りのスペースもいくつか用意されている
本を置くことを優先する公的な図書館に比べ、勉強をするスペースとして優遇されているのだろう
当然といえば当然か
(まぐさ)はひととおり中を回ってみたが、今日が入学式のせいか生徒は誰一人いない
「当然か」と(まぐさ)は自分に言い聞かせて、図書室を出ようと方向を変えようとした
その時、それは目に入った
白い壁に同化する様にある、それ
通常のドアを二枚並べたくらいはある幅広の白い扉はドアノブが金庫のようなものになっており、勝手に入ってはいけないような雰囲気をかもし出している
「書庫に入りたいんですか?」
声に振り返るとエプロンをつけて名札を下げた女の人が立っていた
この図書館の司書のようだ
「……はい」
「じゃあ、カウンターで入室カードを書いていただけますか?」
どうやら(まぐさ)の勘は当たったようだ。勝手に入ろうとしなくて良かったと内心ほっとしながら、カウンターで紙に必要事項を書いていく
学生番号の欄に来て、(まぐさ)は自分の学生証を再び取り出して書き写していく
「君、一年生?」
「……はい」
「偉いのね。入学早々図書館に来るなんて」
「……」
(まぐさ)の行動から一年生だと察したのであろうが、いくら無人とはいえ図書館のような静かな場所であまり話しかけないで欲しい。というのが(まぐさ)の本音であった
(まぐさ)の書いた紙を一瞥し、「あら」と声を上げる
「あなたの名前 ――」
「もう、入っていいですか?」
「ああ、ごめんなさい。今開けますね。貴重品はお持ちください。後の荷物はこちらで預かります。これ、首から掛けておいてくださいね」
一気に言葉を投げつけられ、受け取ったカードには番号だけが書かれていた
ぎゅいっと音をたて、重々しく開いた扉は実際に重いのだろう。司書の女性は扉を開け切って、ふうと一息ついた
「はい、どうぞ。出た後はカウンターに寄ってくださいね」
「……ども」
書庫は今まで居た所とは全く別物だった
天井まで高さがある本棚は、ずらりと奥まで続いており、一番奥が壁なのか本棚なのか分からない。ずらりと並んだ本の背表紙をぼんやり眺めながら通路を進むと、背後でバタンと扉が閉まる音がした
今更ようやく閉まったらしい
途端に冷房のような機械音以外何も聞こえなくなった
図書館そのものより明らかに書庫のスペースのほうが広いことに若干うんざりしながら、(まぐさ)は静まり返る書庫に足音を響かせていく
そういえば今日はスーツなので革靴なのだ。道理で足音が響くわけだ、と一人納得しながら一階を一通り見て歩くと、二階へあがる階段に足を掛けた
成り行きでこんなところにまで入ってしまったが、その夢占いの生徒も当然ながら生徒なのだから、今日この瞬間もここにいるとは限らない
書庫も今日だからなのか、それともいつものことなのか、ここまで来ても誰一人として見かけない
(まぐさ)は諦めの気持ちを大半に、三階へたどり着いた
下の階と変わらずそこも静かであった

……そう、まるでそこに人がいるのが信じられないくらいに

数少ない机に座っている人は後姿から女性のようだ。まとめられた黒髪に何か刺さっている
確かに、変わった見た目の人だ
艸はそっとその女性に近づいて、背後からその彼女の手元を覗き込んだ
そこに広がっていたのは文字の羅列ではなく、筆で書かれたような絵だった
人間のようで人間とは思えないもの、全く人ではないもの、形すらあいまいで何が書かれているのか理解できないもの、様々だった
「ん?」
振り返った女性は切れ長の瞳で(まぐさ)を見据えた
黒髪を纏め上げていたのはシンプルな簪、濃い茶色の瞳は澄んでいて、その瞳から(まぐさ)自身が鏡のように映し出されそうな気がした
「? 会ったことある?」
「……ない」
女性の言葉に(まぐさ)はそう答えるしかなかった
そもそもどうやって彼女が噂の夢占いの生徒だと確かめようか、期待もせずに来た(まぐさ)にはそんな考えて当然な問いすらも用意していなかった
「……」
「……」
先ほどまで当然のようにあった沈黙が、急に質を変えて(まぐさ)を突っつき始める
「お前が、夢占いのヤツ、か?」
(まぐさ)は、もうそう聞くしか手段が思いつかなかった
「え? 知らんけど?」
「……邪魔した」
女性の答えに(まぐさ)はさっと回れ右をした。人違いをしてしまったなら相手に顔を覚えられる前に消えるのが一番だと(まぐさ)は考えている
「あ、でも……」
「?」
「前に来たやつに夢についていろいろ話したかな……」
女性は顎に手をやって考えるしぐさをする
「君も夢で困りごと?」
そう言って首をかしげた女性は、ニンマリ笑ってちょいちょいと(まぐさ)をこまねいた



 「ひとつ君の誤解を訂正させてもらうけど、私は妖怪文化学を専攻しているただの学生だよ」
「妖怪、文化学? そんなのこの学校には無かったと思うが」
「うん、自称だし」
「……」
改めて向き合ってみると、その女性はどこかの秘書でもやっていそうな涼やかな面持ちと雰囲気があり、凛としたその口元から『妖怪』という単語が出てくるのが酷く異様なものに感じられた
手帳を持たせてスーツを着せれば、なお完璧だろう
「だから、当然ながら私からの助言はオカルトよりになる。科学的な回答をお求めなら、看護か心理にでも行った方が良いと思うが、それでも聞くか?」
「……ああ」
「……」
ネットで調べられるようなことはあらかた試した(まぐさ)にとって、むしろ打開策はそういう方面にあるのではないかと、嫌々思ってはいた
そんな事をぼんやり考えていた(まぐさ)だったが、ふと彼女の目が(まぐさ)をじっと見つめているのに気づいた
「なんだ?」
「……いや、君は私を嗤わないんだな、と思っただけだよ」
咄嗟に言い返そうとした(まぐさ)の言葉を遮るように、彼女は言葉を続けた
「君の話によると同じような夢を毎日見るということだったが、夢に関して私が知っていることはかなり少ない。夢に関連する妖怪なら『獏』『夢の精霊』『枕返し』。夢自体としては『予知夢』『明晰夢』『白昼夢』『正夢』『夢遊病』『金縛り』」
(まぐさ)は十分詳しいだろうと思いながら、言葉の分別を始める
(まぐさ)にも聞き覚えのある言葉がいくつかあったが、知らない言葉もあった
「『夢の精霊』と『明晰夢』は全く聞き覚えがない。後はなんとなく知ってる」
「『夢の精霊』に関しちゃ妖怪の絵巻物に描かれた爺さんの絵しか資料が無いから、私もなんともいえない。『明晰夢』は自身で夢だと理解しながら見る夢だ」
「なら『明晰夢』は近いかもしれん。夢を見ている最中に夢だと自覚できる」
急に彼女の声から勢いが消えた
「ふーん。『明晰夢』はいくつか体験談が文献にある。自分が望んだとおりに夢をコントロールしたりも出来るらしい……、……」
そこまで言って彼女はぐっと黙った
「どうした?」
「いや、『明晰夢』だとしたら、今お前が見続けている夢自体が望んでいることの可能性もあるな」
「全く知らない学生が出てくる夢がか?」
「そもそもそこが怪しいんだよな」
「怪しい?」
「人間は、夢で人の顔を作らないとされている。つまり、夢に出てくる人間の顔は、必ずどこかで見た人間の顔であるということ」
「必ず、どこかで……」
(まぐさ)は過去の記憶をたどってみた。思い出せるだけ思い出そうとしてみても、やはりあの少年に会った記憶は無い。そもそもあの少年は顔も見た目も地味でどこにでもいそうなものだから、全くぴんと来ない
「まあ、ただ道ですれ違った人間も見たことのある人間に入るから、難しいか……」
「……」
「科学寄りに話をすれば、夢そのものは無意識を映像としてみている、という解釈。無意識の他に印象的な過去や願望などが含まれる。それを言うと『予知夢』は例外的だけど、君の夢の内容から考えて過去にそういうことがあったか、そうして欲しいと望んでいるかが当てはまるんじゃないかな?」
過去か願望。(まぐさ)はこの言葉に首をかしげるしかない
ここで彼女の声に若干の勢いが戻った
「民俗学寄りに話をさせてもらうと、夢は神仏、祖霊……、あとは黄泉の世界をつなぐ通路なとされている」
「通路?」
「例えばさ、夢で観音様がお告げをもたらしたとか、死んだおばあちゃんが夢に出てきて注意喚起をしてきたとか、そういう話を聞いたことくらいはあるじゃないか? 
……あまり聞いていいものか分からないけれど、最近身近で亡くなった方とか……」
「……、いや」
(まぐさ)は正直に首を横に振った。遠い祖先なら知るすべも無いが、少なくとも最近葬儀に出た覚えは無い。このスーツだって今日が入学式ということで新しく購入したものだ
それ以前にスーツを着たのは……、いつだったかまでは忘れてしまったが、家の用事で数回着たくらいだ。(まぐさ)はまだ二十年も生きていないのだから、葬儀なんて参列したらそうそう忘れたりしない。あまりにも幼い時のことは除くが
「なら『明晰夢』の可能性が高い。……そうなってくると私は専門外。『獏』と関係ありそうなら嬉しかったんだけどなぁ。」
そう言って頬杖をついた彼女は、またハズレかと言いたげな落胆した表情で天井を仰いだ
あの夢が過去としても願望としても、ましてや民俗学的にしても、何も思い当たらない(まぐさ)は、完全に考えが行き詰まった
何も考えることが無くなって、急に手持ち無沙汰になった艸の脳みそは、彼女の『獏』という言葉に思考を移した
「『獏』っつうのはアレだろ、悪夢を喰う……」
「まあ、正しい。悪夢を見た後に「この夢を獏にあげます」と唱えるとその悪夢を二度と見なくなるって言うやつ。いくつか種類はあるけど『見し夢を獏の餌食となせし夜に 明日も晴れし あけぼのの空』と三遍詠む。多少の違いがあったりもするけれど大体こんな感じ」
まるで歌でも歌うようにすらすら言葉をつむいだ彼女の得意げな顔に、(まぐさ)はただただ感心した。一般生活に必要かどうかは差し置いて
「なんなら、いくつか紹介しようか?」
そう言って首をかしげた彼女に、(まぐさ)は一瞬「何を」と問いたくなったが、直ぐに先ほど詠んだ言葉の羅列のことだと悟る
「……、それは……」
「? 何?」
「……いくつか、試した」
彼女のような人間の前で隠すことも無いだろう、それが(まぐさ)の苦渋の結論だった
案の定、彼女は一瞬目を見開き、パチパチと瞬きを繰り返した後に、まっすぐ(まぐさ)を見据えた
「どんなの?」
(まぐさ)自身、自分がそういったオカルト系の話が似合わないことを自負していたし、個人的に関わりたくないと思っている
そんな(まぐさ)を察してか否か、彼女は茶化すことも笑うこともせず、ただそれだけを聞いてきた
『君は私を嗤わないんだな』
彼女がつぶやいた言葉が、(まぐさ)の頭の中をぐるぐる回りながらも、内ポケットのスマートフォンを取り出した
「寝る前に念仏を三回唱える方法」
「まじないのひとつだね」
「『奥山の根なし葛が見せた夢は逆夢罪は滅べる』」
「『ウタヨミ』か。「キノクニ」で詠まれたものだね」
「まだ試してないが、『悪夢は草木につけ、吉夢は宝玉に成れ』
「『口遊(くちずさみ)』のひとつか」
(まぐさ)はそこで口を閉ざした。そのことが彼女はお気に召さなかったようで、数秒の沈黙を待ったのち、「終わり?」と意外そうにこぼした
(まぐさ)がうなずいたのを確認して、彼女は首を何回かひねりながら口を開いた
「最後の『口遊』を試さなかった理由は、日にち的な問題? 今日か明日やるつもりだったとか?」
「……いや」
(まぐさ)がこの言葉を試さなかったのは、自身の名前が「艸」だったからだ
「艸」は「草」の本字。この『口遊』は言葉の通り『悪夢は草木につけ』と唱える
それが(まぐさ)に、躊躇させた。同時に滑稽だな、と(まぐさ)はこの言葉を見つけた時に思ってしまった
いままさに、悪夢につかれている「艸」には――
彼女は最後の『口遊』の件をそれ以上追求しなかった
代わりに、こんな言葉を(まぐさ)に投げつけてきた
「『獏』のまじないが無いのはわざと? 偶然?」
「……」
夢と『獏』のつながりは有名で強靭だ。実際に(まぐさ)も『獏』に願う『夢流し』の歌のほうがより多く、容易に見つけていた
しかし、あえて除外した
(まぐさ)は未だ斜めに傾けた彼女の顔を一瞥した後に、すっと視線を本棚たちに移した
「僕は、嫌いなものの力は借りない」
「……」
彼女は黙っていた。言葉が足りない、もっと詳しく話せ。と顔がそう言っていた
その顔は今まで以上に迫力があった。切れ長の目が吊り上り、瞳が微動だにしない。形の良い唇はぴったり閉じられ、凛とした風貌は凛を通り越して絶対零度の痛みを伴った
彼女が学ぶ妖怪に対して(まぐさ)が嫌いだといったことに怒っている、ということではないようだ
そんな顔ではなかった。それだけは(まぐさ)にも分かった
ただ、なぜそんな言葉を発したのか、素直に答えなければならない。嘘をついても確実にばれる。そんな気がして、心が準備するより早く、本音が口から溢れて落ちた
「普段は嫌っているのに、自分が辛いときだけ頼るなんて、ずりぃだろ……」
(まぐさ)は彼女の顔を見られなかったが、彼女の表情には不満は無く、どこか驚いたものに似ていた
そして、彼女の唇がゆっくりと動く
「君は、……」
それっきり彼女の声が聞こえなくなって、いい加減沈黙に耐えられなくなった(まぐさ)は、ちらりと視線を彼女に戻した
彼女は唇をぐっと閉じ、目を伏せていた
化粧っ気の無い彼女の顔は少しうつむき、長い睫が数回瞬く。(まぐさ)は彼女が泣くのではないかと若干の不安を覚えたが、彼女は(まぐさ)の予想の反対へ行った
「そっか……」
そう言って微笑んだのだ
(まぐさ)は不本意にも戸惑ってしまった
彼女は(まぐさ)のあからさま理解できていない様子に少し困ったように、笑ったまま眉を下げたが、すっとさっきまでの凛とした表情に戻った。その表情には清々しささえあった
「ところで」と彼女は切り出した
「君は夢の中の少年から、本を受け取っているらしいが、その本を探してみるのはどうかな?」
彼女の一瞬垣間見えた表情に驚きはしたものの、(まぐさ)はその動揺を掃うように彼女の問いの答えを探した
「……、一応、探してはみた。だが、僕は最近アパートを引っ越したし、荷物は多くないほうだから見つからねぇってことは……」
「実家は?」
「実家……」
(まぐさ)はその単語に苦味でも感じているかのように、眉間のしわを深くした
「君いわく、その少年は学ランを着ているのだろう? だったら高校か中学か、その辺りのことも関係していると考えられるよ」
「……そうだな」
そのとき、下階からかすかに音が聞こえた
その音には聞き覚えがあった。ほんの少し前、ここに来た時に聞いた音だ
「誰か来たね。今の私では他に話せるような情報は無い、君もとりあえず帰ったらどうかな? 入学式の後じゃ君も疲れてるでしょ?」
「……まぁ」
「そうだ、これを貸してあげよう」
そう言って彼女は机の上においてあったポーチから、ストラップのようなものを取り出して(まぐさ)に差し出した
赤いビーズが数個ぶら下がっているシンプルなもの
「南天を模している。まあ有名でしょ?」
「『難転』か」
「悪夢にも良いらしいよ。布団の下に敷いて寝る、というのがメジャー」
(まぐさ)はありきたりだな、と思いながらもこの場で返すというのは気がとがめて、スーツのポケットに入れた
「次に来るまでにもっと調べておくよ。それを返すのは君の夢見が良くなってからでいい」
「……あぁ」
もう君に用はないよ、言うようにそっけなく手を振った彼女を(まぐさ)は一瞥し、階段の手すりに手を掛けて一歩段を降りた
しかし、直ぐに足を止めた
「そういえばお前、名前……」
彼女は本棚へ向かおうとしていた体を(まぐさ)の方へひねると、少し考えたそぶりをしてから白い歯を見せた
「『お前』で良いや」
「――」
「私も『君』って呼ぶし」
「……そうかよ」
「うん、じゃねー」
そう言ってさっさと本棚の奥に消えた彼女に、(まぐさ)はため息をひとつ吐いて階段を下りていった
その途中……
「君のさあ、一人称『僕』って似合わないと思うー」
「うるせえ」


※※※


 ほんの少しのつもりだったが、思った以上に長居してしまっていたらしい。もしかしたらまだあいつがバイクを占領しているのでは、と(まぐさ)は心配になったがそれは杞憂に終わった
さっさとアパートまでバイクを飛ばす
今日あったことの密度が濃かったせいだろうか、学校からアパートまでそこそこ距離があったはずだが、あっという間に着いたような気がした
純白といっても過言ではなかったはずのアパートは、夕焼けを吸ったように天に近くなるほどオレンジを濃くしている
エントランスの隅に設置されている機械に暗証番号を打ち込むと奥のガラス張りのドアが開いた
正面にあるエレベーターがちょうどチンと音を立てて到着を知らせたが、それを横目に階段をあがる
カツカツといつもより音を立てる靴音を耳障りに感じながらも、(まぐさ)はスマートフォンを取り出し、『実家』と映された画面を嫌々タップした
コール音を聞きながら、この番号に自分から電話をかけるのは何年ぶりだったろうか、と思い返してみるが(まぐさ)には明確な答えが出てこなかった
―― はい、君影でございます ――
出たのは女の声だったが、(まぐさ)には聞き覚えの無い声だった
(まぐさ)が家を出てから入った新入りか、(まぐさ)にそれほど近しくない人間だろう
(まぐさ)だ。親父……、いや兄貴は暇か?」
―― え、あ、(まぐさ)様!? しょ、少々お待ちください!――
対応慣れしてないあたり、やはり新入りのようだ。と(まぐさ)はため息をついた
―― 失礼ですが、(まぐさ)様でしょうか? ――
直ぐに違う声が聞こえた。この女の声に(まぐさ)は聞き覚えがあった
おそらく、兄につなぐ前に(まぐさ)が本当に(まぐさ)であるか、確認に古参の人間が出たのだろう
(まぐさ)は思い当たる人間の名を口にした
(うらら)か」
(まぐさ)がそう言うと、向こう側で息を呑む音が聞こえた
―― ! (まぐさ)様! お久しぶりでございます。(かや)様にお繋ぎしますので少々お待ちください――
興奮気味だった女の声から、保留中の淡々とした音楽の切り替わりが、やたら温度差を感じて、不思議な感じだった
しばらくピアノの伴奏が聞こえた後、急にそれは中断された
―― (まぐさ)。珍しいな、どうした?―― 
懐かしい声だ、(まぐさ)はそう思いながら用件だけを口にする
「あー、ちょっと、頼みあんだけど……」
―― 急ぎか? ――
「少し。……俺の部屋に、ブックカバーのかかった文庫本が無いか探して欲しいんだけど……」
―― ……お前はブックカバーなんてかけないタイプじゃなかったか?――
よくそんな事を覚えていたものだ、と(まぐさ)は兄の記憶力の良さに心の中で舌打ちした
詮索されたら面倒だ
「まあ、そうだけど……」
―― ……。――
その沈黙の間に兄が何を考えているかなど(まぐさ)には理解できない。昔から兄はこちらに何も悟らせない男だった
―― ひとつ条件がある ――
「……」
―― たまには帰って来い。社長、父さんも口には出さないが心配している ――
ここで「どうだか」と言い返せれば気も楽だっただろう
(まぐさ)は少し考えた後
「その条件を飲むくらいなら、自分で探しに帰ってる」
と返した
向こう側で空気が揺れる音がかすかに聞こえてきた
笑っている、そう思い至るのにそこまで時間はかからなかった
―― それもそうだな。分かった、時間のある時に探してみよう――
「……サンキュ」
―― 見られたくない本とか見てしまっても文句言うなよ?――
「心配しなくてもねぇよ、そんなもん」
―― 不健全なヤツめ。 ……父さんに、代わるか?――
「いや……」
即答したのは、別に(まぐさ)が父を嫌って出たものではなかった。ただ、話すことが無かったからというのが正しい。この件を兄に頼んだのも父より頼みやすかったからに他ならない
ただし、兄がそう感じるかは別だ
―― そうか…… ――
「……じゃ」
そう言って(まぐさ)は一方的に通話を切った
気が付けばそこはもう八階だった
一番角部屋のドアの前に着くと、ドア横のパネルに暗証番号を打ち込んでから人差し指を画面に押し付ける。ガチャリとドアから音がした
部屋に入るだけなのに面倒なことだと思いながらも、始めのころに比べればだいぶスムーズになったと(まぐさ)は思う
あの夢の原因がこの部屋である可能性も捨てきれない。リビングのソファに上着を脱ぎ捨てて、初めてこの部屋に来たときのようにすべての部屋を見て回る
ついでにもう一度本も探してみた
トイレ、風呂場、寝室、リビング、ベランダ、ざっと見回ったが物の少ない(まぐさ)の部屋は広々としたもの寂しさはあれど、異様なものなど何も無い
当然だ。ここが訳あり物件ではないかどうかは入居する前に徹底的に調べたのだ。やはりこの部屋自体に何かあるという可能性は低いだろう
例の本らしきものも見つからなかった。もともと本は買うより借りる派の(まぐさ)の部屋には本そのものが数少ない。それは実家も例外ではなく、兄の仕事がよほど忙しくない限り二、三日で返事が返ってくるだろう
ソファに腰掛けると一気に重力が倍になったような錯覚が起きた
尻の下に違和感を感じて手を回すと、硬いものに触れた
うっかりテレビのリモコンでも踏んだかと、気だるいながらもそいつを尻の下から引っ張り出してから、改めてソファに身体を預ける
―― 今日は疲れた
ただでさえ人ごみは疲れるのに、いろいろなことがありすぎた
ソファの正面にでかでかと広がるテレビ画面の黒に、ソファにぐったり沈んでいる自分がぼんやり映っている
頭の端でそのことを視認しながらも、その黒に飲まれるように視界が徐々に暗んでいった
意識までが沈んでいく中で、(まぐさ)はテレビに映る自分の背後に何かが立っているのを、
確かに視た


※※※


 「(まぐさ)
名前を呼ばれて振り返る
黒い髪に黒い瞳の少年はこれまた真っ黒の学ランを着こなしていた
そして思う
―― またか
少年はパッチワークのブックカバーがかかった文庫本を(まぐさ)に差し出して、春のような朗らかさで微笑む
ブックカバー自体はとてもうまく刺繍されているのに、組み合わせる柄のセンスがイマイチなそれは、手作りなのだろうとなぜか確信していた
そして(まぐさ)の左手が迷いも無くその本を受け取ろうと手を上げた時
「うっ」
目の前の少年が短いうめき声を上げ、真っ黒な瞳が見開かれた
少年の手元から本が滑り落ちるのを目で追っている途中、とんでもないものが(まぐさ)の目に映った
自分の差し出した左手
その左手に裁ちばさみのような大きなはさみが握られており、そのはさみの先が――


※※※


 「あああああっ!!」
(まぐさ)は自身の声で目を覚ますという初めての経験をした
気分が悪いのは、そのせいだけではないと知る
時間の奔流に脳みそが揺さぶられ続けているように平衡感覚がつかめない
いくつの絵がぱらぱらとすごいスピードで、しかし自分の感覚も研ぎ澄まされたように絵の全てが脳みそに刻印されていく
左手の感覚、赤、艸を映す真っ黒な瞳
それがあくまで夢だったなら、(まぐさ)はどれだけ良かったかと思う
吐きそうだった
「せっかく、喰って、やったのに」
慌てて頭を上げたせいで、逆に視界がぶれてはっきり見えない
(まぐさ)は吐きそう、で済んでいたが、目の前の生き物はあきらさまに吐いていた
吐いていたといっても異臭もせず、見た目も人間の吐瀉物とはかけ離れている
(まぐさ)にはそれがシャボン玉の群集のように見えた
ただしそれらは一般的なシャボン玉と違って、地面に向かって落ちていき破裂していく
それらが破裂するたびに(まぐさ)の脳みそに直接映像をねじ入れられるような不快感が迫る
はた、と(まぐさ)は自身の左手がすがるように何かをつかんでいたことに気づいた
銀の裁ちばさみ
先ほどソファの上で踏み潰したのはこれだったのか
しかも、このはさみは――
「また、喰ってやる」
そう言ってその生き物は長い何かを(まぐさ)に伸ばすものだから、(まぐさ)は慌てて左手でそれを掃った
左手の甲がじんと痛み、その痛みで意識が少しはっきりとした
てっきり追撃してくるだろうと思っていた(まぐさ)は、そいつが動きを完全に止めたのを不思議そうに眺めることしか出来ない
「もう、いいの?」
その生き物はそうつぶやいた
そして本来なら首をかしげる場面だったはずの(まぐさ)は、最後のシャボン玉が割れる音を聞いたと同時に行動を変えた
「ああ、もういい……。悪かった……」
つぶやきに近い(まぐさ)の言葉に、その生き物は少し不満そうに、しかしどこか嬉しそうに、今まで吐き出されていたシャボン玉のように、消えた



急に静かになった室内と反対に、(まぐさ)の心臓は未だにうめき続け、血液の流れる音も、自身の呼吸も悲鳴のように喚くのをやめない
十分な時間をかけてゆっくりすべての機能を通常運転に戻していく
おかげで考える時間もたっぷりあった
(まぐさ)は壁を使ってゆっくり寝室へ向かった
目の前のベッドに倒れこみたくなる衝動を何とか抑え、ベッドの横に膝をつく
ベッドの下の隙間に腕をおもむろに突っ込むと、肩がつっかえるまで手を入れて、ようやく目的のものを引っ張り出した
角が傷んできているダンボールが、そこにあった
半開きになったところから開いく、一番上には中身のないケースがあった
何のケースかは明らかだ。(まぐさ)は左手に持ったままだった裁ちばさみを、そのケースに仕舞いこんで、ダンボールの奥へ入れなおそうと中身を軽く漁った
その手が止まる
そして恐る恐るといった風に、(まぐさ)は垣間見えたそれを引っ張り出す
次に腕がダンボールから出てきたとき、その手にあったのは一冊の文庫本だった
パッチワークの刺繍のされた、どこか手作り間のある、ブックカバーのかかった文庫本
(まぐさ)はそれをもう一度ダンボールに仕舞うと、寝室を飛び出した
鞄に仕舞いっぱなしだったあのペーパーナイフを取り出してベルト通しに挿すと、財布から十円を一枚取り出し、部屋を出る
エレベーターを使うか一瞬迷ったが、ランプが一階に灯っているのを見て、階段を駆け下りた
まだ春先、アパートを出ると日暮れの風が冷たく髪を梳いた
ずらりと並んだ街灯と、町の光りに埋もれるように、そのガラスケースは過去の産物のようにそこにあった
ガラス戸を引いて中に入ると、人ひとり入っただけで息苦しくなりそうな空間に、ぽつんとある黄緑一色の機械
そいつから受話器をはずし、十円を押し込んだ
押すたびにガチガチと鳴くボタンを押せば、数回のコールの後に音が途切れた
次に聞こえてきた声に、(まぐさ)は懐かしさ以上につばを吐きかけてやりたい気分になった

―― やぁ、思い出したかい? (まぐさ)ちゃん?――


※※※


 「『獏鬼(ばくき)』、人の悪夢を喰し生きる『越神(おちがみ)』。『獏鬼』は悪夢以外にも過去を喰うとされている。そもそも夢自体が過去から形成されているため『獏鬼』の力が夢だけでなく過去にまで影響を及ぼしてしまうというのがボクの考えだけどねぇ」
男は枯れ枝のような細長い腕で頬杖をつき、濃いクマに縁取られた金色の瞳で(まぐさ)を見返すと、言葉を切った
ぼさぼさの髪は水気が無く、その褪せた色合いが砂漠を連想させる
無精ひげに、薄汚い身なり、ホームレスに思われても仕方のない男だ。そして、そのホームレスという言葉があながち間違いでないことを(まぐさ)は知っている
この時間の公園は人気が無く、街灯の列から少しはぐれているため薄暗かった
言われたとおりの場所に(まぐさ)が行くと、ベンチに腰を下ろした男は長い手足を持て余すように座っており、(まぐさ)を確認すると勝手にしゃべり出して、今に至る
(まぐさ)ちゃん? ボクのこと、ちゃんと思い出してる?」
「ああ……」
「じゃあ、ボクの名前は?」
正直面倒くさいと(まぐさ)は思ったが、この男の場合、(まぐさ)の記憶が完全に戻っていることを知りながら聞いてきているのだから、答えなければ今よりさらに面倒くさい状況になることは過去の出来事から理解している
蛇結(じゃけつ)(うばら)……」
「そうそ! じゃあ、この子は?」
そう言って(うばら)は隣に控える少女を指した
右耳の上でサイドテールにしている少女は見た目が七、八歳くらいで、フリルを盛大に使った服を着ている。その姿はまさにお人形だ
生気の無いところまでそっくりな
ちなみに(まぐさ)は三年前にもこの少女に会っているが、その時と比べて見た目に何一つ変化が見られない
茱萸(しゅゆ)……」
「せいかーい。良かったねぇ、思い出して」
(うばら)は対してそうも思っていなさそうな陰気な笑顔の正面で、両の手を気だるげに叩いた
(まぐさ)はそんな事よりも確かめたいことがあって来たので、とっとと本題に入る
「お前だな、あのはさみをソファに置いたのは。どうやって部屋に入りやがった」
「どうって、この世のものでないものに、この世界のセキュリティーとかいうものがまともに通じると思ってるの?」
「お前は人間だろう」
「正確には違うんだけど、幽霊とかではないし、まあそれでいいや……。しっかしあのエレベーターってヤツはイマイチ乗り心地が良くないよねぇ。上るときも降りるときもなんか内蔵が一瞬置いてかれるような感覚がさぁ」
(まぐさ)の質問に関して、(うばら)はまともに答えるつもりが無いらしい、ということだけは分かった
(まぐさ)ちゃんがあの子のことを忘れようがそんな事はどうでも良かったんだけど、あの子を経由して君が知った出来事まで忘れちゃったものだから、ボクたちのことまでキレイさっぱり忘れられちゃったときはどうしようかと思ったよ。おかげでここ数日食べるのにも苦労したんだからさぁ」
「……嘘付け。僕があいつを忘れたら、そもそもお前に金を払う理由すら忘れちまうだろうが。どうせ後々手を出すつもりで、今まで外野から見て楽しんでたんだろ? いつもフラフラしているお前が、電話してからこうも早く合流できたのがいい証拠だ」
「ありゃりゃ、バレてた」
ひん曲がった眉に対して、薄ら笑いを浮かべ吊り上った口端、憎たらしいその顔面を(まぐさ)はぶん殴ってやりたかったが、手を出せば(うばら)の隣に控えた少女が容赦なく(まぐさ)に襲い掛かるだろう
そしてそうなった場合、ベルト通しに挿したこいつを使っても、一般人の(まぐさ)が勝てる可能性はゼロだ
「しかし『獏鬼』に目をつけられるほど、君が三年前のあの事故のことを気にしていたとはねぇ……」
(うばら)は少し目を伏せてどこでもないどこかへ目をやった
あの日のことを思い出しているのだろうか
それともその顔も嘘だろうか
そう思うと、(まぐさ)もあの日のことを思い出してしまいそうになって、言葉を発することで頭の回路を切った
「それも嘘だ。てめぇは知ってて……、分かってたから、あのはさみを選んで置いたんだろ」
「それは、鋏を枕の下において寝ると――」
「それと」
「ん?」
「事故じゃねぇ」
(まぐさ)の声は春の夜風にかき消されそうだった
「僕が、殺したんだからな」


※※※


 (まぐさ)にとっては記憶を、悪夢となった過去を失って生きたこの数ヶ月の現実が、むしろ夢だったといえるだろう
君影(きみかげ)(まぐさ)という男が、普通の学生がごとく生きたはずの明るい未来の夢
ならば、全てを思いだし、過去の罪に苛まれながら生きていくこれからは、まさしく現実という名の悪夢なのかもしれない
いや、現実はどんな夢より残酷だ。という言葉があるくらいだ
これから(まぐさ)が生きていく未来は、これから見るどんな悪夢より残酷なのかもしれない

「おはよぅ、(まぐさ)ちゃん」

そして
「良い現実(ゆめ)を……――」

花たちが咲うとき 一

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花たちが咲うとき 一

少年は夢を視る それは悪夢か、それとも・・・・・・

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  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-10

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