真実の鍵

 
 
 
 
 
 
 
 
プロローグ
 
 いつ土砂降りがきてもおかしくない空模様だった。雨雲が重く垂れ込めている。昨日からずっとこの調子だ。午前中からこんな空を見せられては、気分も晴れようがない。鬱屈としてくる。
 五月にしては冷たい風を、身を引き締めて凌ぎながら塚地は家の中に入っていく。十時も近いのに、冬日の明け方のように暗い室内だった。それでも居間に踏み込んだ途端、凄惨な様相はまざまざと目に映った。礫を撒いたように飛び散った血の飛沫。サイドボードのガラスに伝い流れた赤黒い線の先には血溜まりができあがっていて、熱せられたガラス球のようにぷっくりと膨らんでいる。
 死体は、居間からキッチンテーブルへとつづくその途中にあった。六十年配の女性だ。倹素を美徳にしていそうな、ほっそりと痩せた風貌。着ているものも、縫い目や角がうっすらと擦れていて、何年も使い古しているのが分かる。いや、そんなことはどうでもいい。ものの見事に後頭部が割れていた。
 髪の毛の根っこには、血糊のからんだ薄桃色の塊がこびりついている。脳髄の一部だろう。硬い鈍器のようなもので何度も殴られたらしい。眼鏡の蔓が折れ曲がり、顔の一部まで変形する程だから、息絶えた後も繰り返し殴打され続けたのではないか。
 近寄ると、まだ生々しい血の臭いが鼻をかすめて、思わずむせ返った。
「まったく、ひどいもんだろう?」
 野太い声が背後から掛かった。刑事課長だ。現場には一番乗りというぐらいに早く到着したようだ。
 塚地は唾を飲み込んでから振り返り、言った。
「ですね。こんな酷い状況なんて、ここ最近では一番というぐらいじゃないでしょうか?」
「うん、まあそれぐらいだな。下手をすると……我らの取り扱い案件中、最悪のケース入りするかもしれん。それより、中身だ。どう見る?」
 床に横たわるものを顎で示しつつ、言う。
 塚地は死体に目を戻した。
 青白い顔。
 無残な創傷による歪みを別として、その顔貌に、恐怖や無念さといった、不意の襲撃に遭ったことを示す表情は刻まれていない。倒れたまま静かに息を引き取ったかのように穏やかな顔だった。だからといって、現場の惨たらしさを和らいでくれるものでもない。そこにあるのは、厳然たる死体、生々しい傷口も露わな撲殺体なのだった。
 塚地は目を上げ、周囲を見回した。そして状況を認識する。室内はかなり荒らされていた。血痕は、荒らした後から振り撒いたように飛び散っている。カーテンの布には擦ったような赤い痕があった。これは血を拭い取ったものだろうか。まるで幼児がクレヨンをつかんで落書きしたかのような、ひどいあり様だった。
「怨恨なんですか……これは?」
 と、塚地は刑事課長に言った。
「一目見れば、そう判断するだろうよ。だが、凶器が見つかっていないんだ。なんかブロンズ製の置物でも使ったと思うんだが、今のところどこにもそういうものが見当たらない」
「持ち去ったってことでしょうか? だとしましたら、同居の者に確認する流れになりますが……」
「すでに聴いているよ。無くなったものに該当はないらしい。この家にそういうものはなかったようだ」
「では……?」
 刑事課長は、こくりとうなずく。
「どっちの線に傾くのか、今のところ、何ともいえないってことだ」
 塚地は改めて周囲を見回した。
「見る限り、荒らされている箇所は限定されています。これはつまり、犯行の手際は良かったということですよ。となりますと、通常の線でいって、計画性があったという導きが出てきます」
 流しの犯行か、直近の人間による殺人かの判断は重要なことだった。処罰の重さがまるで異なる。それだけにこの線が定まらない時間が長引くのは、担当する者にとって堪らない苦痛なのだった。
「まだだ」
 と、刑事課長は厳めしい口調で言う。
「判断材料が足りなさすぎる。判定を急ぐ必要はないだろう。だいたい、計画性がある流しの犯行だったという線もあり得ないわけではないだろうしな」
 刑事課長の口から、さらなる追加情報が伝えられる。現在、死後三時間が経過した状態で犯行は早朝の七時前後に行われたとのこと。学生向けアパートを経営している夫が第一発見者だった。昨夜は事務所に寝泊まりして一旦帰宅したところ、異変に気付いたという。
 これまでに有力な目撃情報はない。それどころか、被害者の行動すら、詳しく把握している人間はいなかった。
 長丁場になりそうだ――
 塚地は血に染まった被害者の顔を見て、そのことを確信した。
 黄色っぽく日焼けした、ぺらぺらのレースが掛かった窓辺。低い日差しは淡い影を投げかけながら、今日一日の静かなはじまりを淡々と告げていた。
 
 
 
 
第一章
 
「かすみ姉さん、もらってきた薬、ここに置いておくから」
 俺は食器棚に押し込まれていた藤編みのカゴの一つを引っ張り出し、かかりつけの病院で処方してもらった薬をしまいながら言う。
「ありがとう」
 顔だけ俺の方に向けて、かすみ姉さんは言う。肩の線はぴくりともしない。
 表情も動かない。能面と向き合ってるような感じがした。今の姉さんの顔は、なめらかで美しいけれど血の通っていない、まるで作り物のように見える。その奥にあるはずの心は、ひどく苦しんでいるに違いないのに。
 重度の鬱症状が、被り物のように心を覆いつくしている。かすみ姉さんを苦しめているのは、途轍もなく厄介なものだ。
 なんとかしたくてもどうしようもない。そっとしておいてやるしか、しようがなかった。今のところ、抗鬱剤でなんとか現状を維持できてはいるが、この先どうなるのか分かったものではなかった。
 これというのも、かすみ姉さんの旦那――貴志さんがいなくなったせいだ。もう五年にもなる。
 突然の失踪。
 原因は、不明。
 なんらかの事件に巻き込まれた可能性があるはずなのに、警察は「我らに任せておけばいい」と言わんばかりに、当事者である姉さんを蚊帳の外に置いたまま、何の音沙汰もなし。時間だけが虚しく過ぎ去ってしまった。かすみ姉さんが心痛に耐えきれず、こうして生き人形のようになってしまったのは無理もなかった。
「いま、薬呑む?」
 ふと、姉さんに問い掛けてみる。無言で首を振るだけだった。そう、と俺はいつものように引き取った。
「俺、これから仕事あっからさ。明日の昼頃までこれないから。かすみ姉さん、大丈夫? 一人で過ごせる?」
「心配しないで」
 消え入りそうな、か細い声で言う。
 もともと病的なくらい肌が白くて、人よりも影が薄いところがあったから、いつかこのまま消えてしまうんじゃないかって不安が尽きない。こんな危うげな様子を、俺は何年も見続けている。どうしようもない現実は、受け容れるしかない。
 俺は姉さんの顔をしっかり見る。
 血の繋がった自分の姉ながら、均整のとれた顔立ちをしていて、まるで無駄というやつが見当たらない。本当にため息をつきたくなるぐらいに綺麗だ。ゆるやかに波打つ髪は、哀愁を誘うような独特の雰囲気をまとっている。もう三十代も半ばに迫るというのに、そんな年齢などまるで感じさせないあたり、姉さんは本当にこの世の人とは思えない。
「とりあえず何かあったら、すぐ電話。いいね? 具合が悪くなっても、……死にたくなるようなことがあっても俺んところに掛けてくれれば飛んでいくからさ」
 俺はつい電話のジェスチャーをまじえながら伝えていた。かすみ姉さんはうっすらと微笑んで、うなずく。
 姉さんの頭上から、操り糸が垂れていてもおかしくはないってぐらいに、物静かだ。布団の上にちょこんと並んだ手が、指の動かないマリオネットの手そのものに見えるから、余計にそんな幻想を重ねてしまう。
 でも、姉さんは人形なんかじゃない。
 しっかり生きている。
 呼吸しているのだ。
 でも、心は閉ざしまま……。
 固く縮こまった心がいつほぐれるのか、それが問題なんだ。
 どちらにせよ、今日はその日ではないのは間違いない。というより、まだまだ、ずっと先の事の話でしかないんだろう。
 姉さんの家を出た。静かすぎる退散。
 直前に見せてくれた、小さく手を振る姿が目に焼き付いて離れない。細い手首に巻かれた包帯の白さもまた、俺の瞼の裏に残って消えなかった。リストカットの傷痕を隠した、痛ましい布の色が。
 
 廃材の上に腰掛け、もらったばかりの給与明細を眺めながらため息をついていると、ぬっと近づいてくる影があった。
「なんだ、そんな辛気くせえ顔しやがって」
 五つ上の半田先輩だった。青色ペンキの染みたニッカボッカに紺色のワークシャツ。タオルを巻いた首の下にのぞくアンダーシャツは、鮮やかな水色だ。トレードマークと言えるぐらいに、いつも同じツートンカラー。これは様々な職歴を積み重ねてきた履歴書そのものだ。あれこれ職を移り変わっていると汎用性のあるスタイルが定着するのだ。そんな先輩は、俺の先生だった。
「なんだぁ、額が少なくって落ち込んでいたのか? どれどれ」
 俺から強引に明細をひったくると、横隣にどっかり座って一瞥する。ぷっと遠慮のない笑いが、乾ききった唇から噴き出した。
「なんだよ、これ。まったくひどいな」
 俺は半田先輩の手から明細を取り返す。
 でも、もう中身は見られてしまったんだから、後の祭りだ。暗い気分がつづく俺の肩に、半田先輩の腕が回ってきた。そして、身を寄せつつ俺に唆すように言う。
「なあ、足りないんだろ。だったら、やることは分かってるだろ?遠慮せずに、どんどんいけよ。なあ?」
 どんどんいけ。
 それは暗に匂わせた一言だ。
 悪の道。
 いつも俺を捲き込んでは、翻弄する半田先輩。今に始まったことじゃない。空き巣のテクニックをまず教えてくれたのは、もう三年も前だ。あの時だって、今日と同じように足りない給与にため息をついていると、半田先輩が寄ってきて、「ちょっと手伝えよ」と言われた。お互い作業服のまま、何も聞かずについていくと、夜も更けた頃、明かりの点いていない一軒のアパートに行き着いた。忘れもしない、その三階西側の一室の、ドアの前に俺と先輩は立った。
「ここ、誰の家っすか?」
 俺はまだ半田先輩が何をやらかすつもりか分からなかった。しっ、と俺の口を制してから、先輩はにたりと笑った。
「誰でもいいんだよ。お前は黙ってみていろ。給料が増える裏技だ」
 まさか、とは思った。だけど、いまから引っ込みがつかない気もした。だいたい、半田先輩は物言いをしたってまともに取り合ってくれるような人じゃないのだ。
「これをな、ちょっと差し込んでは、叩いてやるだけで良いんだ」
 大きさこそ同じだったが、それは普通の鍵とは形が異なっていた。凹凸の波がやや足りていないような気がする。なにか万能ツールといったようなものなのだろう。怪しげな鍵が三種類、リングに付けてある。その内の一つを選んで、ドアの鍵穴に差し込む。しっかりはまった。だけど、鍵山が異なっているだけに、このままでは回転してくれないはずだった。
 次に取り出したのが、軽量ハンマーだ。何の躊躇いもなく半田先輩は鍵穴から突き出たキーヘッドをがつがつ、と音を立てて叩き始めた。四回目。鍵が五分の一程度だけ傾いた。半田先輩は指で摘むなり勢いよくひねった。すると鍵が回った。かちり、と音がした。
「ほうらな、開いただろう?」
 のちに知ったことだが、これはバンピングという手法だった。特殊な鍵山がついたバンプキーを使ってどんな鍵でも簡単に開けてしまえる、空き巣の侵入手口の一つ。なんでも半田先輩はパンプキーを自前で作っていて、将来的にはこれをブラックマーケットに横流しして儲けるつもりでいるんだそうだ。
 足音を殺して部屋に押し入った。半田先輩は窓に目をやり、厚手のカーテンが引かれてるのを確かめると、曲げた指の関節で壁のスイッチを弾いた。明かりがつく。
 ざっと見たところ、一人暮らしの女性の部屋のようだ。ちょっと年齢を感じさせる香水と化粧水のにおいがただよっている。カーペットとベッドは紫色に統一されている。お水業界で働く人かなと思ったが、それも違うようだ。クローゼットに並ぶ衣装には、微妙に堅気の気配が維持されていたりする。
「現金を探せ。あと、金目のものがあったらそれも持っていく。それこそがお前の報酬だ」
 指紋対策の白手袋を渡され、そう言われた。
 だけど、俺は空き巣なんてやったことがなかったからどうしていいか分からなかった。だから、しばらく半田先輩の動きを目で追っていた。引き出しという引き出しを下から上へと引っ張り出しては、収納されている物をさらっていく。手慣れたものだ。一棹のサイドボードがたちまち検め尽くされた。俺はまだ茫然としていた。ふと、目が合う。
「おいっ、お前何してんだよ。ぶっ飛ばすぞ、こら」
 先輩の目は血走っていた。普段、仕事でもそんな顔を見せることはしない。温厚で、何でも笑い飛ばすような勢いで物事に取り掛かる人だった。今ここで晒されているのが先輩の本性で、今だけは生のままに振る舞っているのだと、俺は知った。
「……やるんすか?」
「当たり前だ。まさかお前、いまからドロップアウトするとか言うんじゃねえだろうな?」
 俺に向き直って正面から目を据え、半田先輩は言う。凄みがあった。下手なことを言おうものなら、殺されるかもしれない。そんな危機を感じて俺は息を呑んだ。
「……言いませんよ」
 先輩の目尻が、すこし緩んだ。
「なら、さっさとやれ」
 顎での指示。
 俺は仕方なしに、先輩の真似事をしてタンスをさらった。奥に隠されていたジェエリーボックスを見つけた。だけど、十八金のネックレスは少し煌めきが弱くなっていて、そう値打ちがあるようには思えなかった。あとは、親からでも譲り受けたのだろう、古めかしいデザインのサファイヤの指輪、インド洋産のオパールなんかが正札を付けたまま袋詰めにされたのが入っていた。
 こんなもの持っていったところでなんの足しにもなるとは思えなかった。
 蓋を閉じようとした俺の手が、いきなりぐっと掴まれた。剛毛の生えた、ごつい手の甲――はっとした。射すくめるような目がすぐ間近にあった。
「何をしているんだ?」
「…………」
 答えようがない。俺は自分がなにをやったのか、またやろうとしたのか、よく分かっていなかった。
「いいか? こういうのも全部、持っていくんだよ」
 ジュエリーボックスの中に入っていた貴金属類をごっそり鷲掴みし、ワークジャケットのポケットの中に押し込む。ちゃらちゃらと音を立てて中に収まっていく。光るチェーンの動きが蛇そっくりだった。俺は黙ってその様を見ていた。
「わるいがな、この取り分はおれのもんだ。……でも、まだ時間がある。あと五分だ。その間にやれるだけやるんだな」
 半田先輩は踵を返すなり、さっき取り掛かっていたクローゼットにもう一度身体を突っ込んだ。ハンガーに掛かった衣装を一つずつ押しやりながら、金目の物を探っている。動きが速い。追い込みに入ったようだ。
 眺めている内に、なぜか俺の中で火が点いた。
 ふいに沸き起こった衝動に任せて、ナイトボードや食器タンスに取り掛かった。五分しかない。無我夢中だった。気がついた時、俺のポケットはごつごつした中身でふくれあがり、重たくなっていた。贈答品と思われるシャネルの香水瓶に、ケース付きのパシャクロスの腕時計。ダンヒルのジッポ、ジバンシーのキーリング……。どれもほとんど使った跡がない、新品同様だ。でも、俺には、そんなことはどうでも良かった。先輩の言った通りに目を走らせ、手を動かすだけだった。
「おい、タイムアップだ。出るぞ」
 半田先輩の指示。俺は手を止め、うなずいた。
 そして先輩の誘導の下、回り道をしてその場を立ち去った。
 直後に寄ったのは、比較的客入りの多い、盛況なファミレスだった。近くに中堅の百貨店と立体駐車場があって、そこから流れてくる客が多いようだ。
「今日は、そこそこの収穫だったな」
 満面の笑みをたたえて半田先輩は言う。口角にわざと残している無精髭が、あたりのきた釣り糸のようにぴくんぴくんと動いている。
 実際、どれほどの収穫があったのかなんて分からない。俺は自分の仕事だけに没頭していた。でもだいたい想像はつく。あの部屋には、現金だけでも相当な額があったようだ。少なくとも五十万はあったのではないか。アパートの見てくれには、あまり似つかわしくない。たぶん、あらかじめ探りを入れた上での、今日の決行だったのではないか。いきなり押し入ったにしては、上手く行きすぎだった。
「……それ、どうするんです?」
 と、俺が問うと、先輩は訝しげな目を向けた。
「どうするって、使うに決まってるだろうが。金や物ってのはな、人間様が使うためにあるんだよ、分かってるだろ?」
 当たり前のことを聞くなと、俺を突っぱねる。言われてみれば、たしかにおかしなことを聞いたものだ。俺はまだ自分がやったことを本当の意味で分かっていないんだろう。ポケットに詰めるだけ詰めた盗品。それらは今、半田先輩の車の中に置き去りにされたままだ。
 俺が自ら分捕った戦利品。
 現金はともかく、品物はどう扱ったら良いんだろうなんて考えていると、コーン入りポテトサラダがついたハンバーグセットが来た。学生アルバイトっぽい店員が立ち去った直後、俺の目の前に重ねた紙幣が叩き付けられた。十数枚の、一万円札。まだ油のはぜる鉄のプレートから、たちのぼる湯気でお札が曇って見える。
「なんです、これ?」
 半田先輩は快活な笑みをたたえる。仕事場で見せるのと同じ、陽気な顔。
「お前にやるよ。……本当は、やる義理なんてねえんだけどよ、こういう道だって自分でやっていかなきゃどうにもならんっていう厳しさを理解してもらうためにも甘やかしてはいかんだろうが、でも、それにしてもお前はかわいい後輩だ。だから、やるよ」
 やる、と言われても、俺はその札を見つめたまま、手を伸ばせなかった。それから気がついて、あたりに目をやる。このテーブルは、さいわい、他の客は店員からは見えにくい死角のような位置にあるらしかった。
「ほらほら、ちゃんと受け取らないとダメだろ」
 先輩が現金をまとめ、俺の手に握らせてくる。ほとんど強引にポケットにねじ込まれた。
 もう一度先輩と見つめ合う。 
 テーブルの向こうの顔は、愉悦に満ちていた。
 何考えているのかまるで分からなかった。だから、俺には不安しかなかった。
「……なんだよ、そんな顔してよ。言いたいことがあるなら言え」
 先輩の声に、俺はうつむいた。
 四方山話の声がかしましく聞こえる。近くの席の家族連れだ。なにかの記念日なのか、ちょっとした祝福ムードで溢れかえっている。
「……まだ、足りないって言うのか? 仕方がないやつだなあ、お前は。なんなら――」
 ぶつくさ言いながら財布を開きかけた先輩を、俺はあわてて押しとどめ、首を振った。
「そうじゃないですから。金は要りません。頂いた分だけで、充分です」
「……なんだ、違ったのかよ」
 先輩は財布をポケットに引っ込めた。新しいタバコを抜き出すなり咥え、火を点けた。胸郭を上下させて旨そうに吸う。
「とりあえず、お前の取り分だな」
 と、半田先輩は改まって俺に言う。
「やっぱり、あれを売るんですね?」
「そうなる。とはいっても、ネットオークションで売るとかそんな馬鹿なことを考えたらダメだぞ。足がつく」
「でしたら、どうするんですか?」
 肘を付き、タバコを口から離す。勢いよく紫煙を吐き出した後に、鋭い目を覗かせた。
「専門の業者がいるんだよ」
「専門の……」
 丹念な説明を受けた。俺には聞いたこともない話ばかりだった。
 通称『カバン屋』、もしくは『道具屋』と呼ばれている男がいる。そいつが故買業を請け負っていて、すべてを承知の上で引き取ってくれるのだそうだ。勿論、卸先はこれまた故買関連の業者で、バックに暴力団がつくことで組織的に守られていたりする。
 この業者が扱う品は、なにも故買品に限らない。詐欺に遭った被害者たちの名簿や、多重債務者を駆り集めて拵えた飛ばし用の携帯や口座など、組織的詐欺やその仲間の囲い込みに必要な道具はなんでも請け負っている。ある意味では、詐欺用の口座を用意するクチ屋と肩を並べる、オレオレ詐欺の重役とも言える。空き巣の道に片足を突っ込んでいる半田先輩でさえ、会見の約束をしてから数日待たされるというから、警戒ぶりも相当なものらしい。詳しい実態は、謎に包まれたままだ。
「今度、紹介するからよ。それまで持ち出したものは手を付けずに持っておけ」
「…………」
 正直、金のことは今どうでも良かった。俺はいったい何をしているんだろう、知らない場所に置き去りにされたような不安感が半端なくのし掛かってきていた。勿論、金がないのは事実だ。だけど、こんなことをしてまでして金を得ようなんて思ったことはなかった。今さら言い訳にはならないが、でもまだここまでは、行きがかりの流れでやっただけだ。
「お前……もしかして、後悔しているのか?」
 と、半田先輩は俺の心を見透かしたように言う。ぎくりとした。だけど、それでも表情には出すまいと気張った。
「いいえ」
 ほとんど間を置かず、そう答えた。
 半田先輩の顔が野卑な微苦笑が浮かぶ。
「それでいい。余計なことは考えなくっていいんだ。――と、お前、いま金が必要なんだろう? 姉さんのこと、忘れたらダメだろうが」
 はっとした。
 それから、人には言わない俺の事情を、いつの間にか押さえている半田先輩のことが不思議で堪らなくなった。
「……どうして、そのことを?」
 尋ねずにはいられない。
「おれが何も知らないと思ったのか? お前が考えている事なんざ、すぐに分かるよ。顔に出なくても態度には出るからな、お前というやつは。変に悩み事が多くなると、無言でいる時間が長くなるんだよ」
 言われてみると、独りで考え事をしている時が増えていたかもしれない。そんな俺の様子を、半田先輩はさっきから見ないふりをしながら見ていたのか。
「……姉さんのことは言わないでください」
「なして?」
「先輩には関係ないことです」
「関係なくねえだろ。お前に直接関わることだ。大事にしてんだろ、姉さんのこと。あのまま放っておくと、ミイラになっちまう。そうだろ?」
 結婚したばかりの旦那――深瀬貴志さんが失踪してから、その時、もう二年が過ぎようとしていた。原因不明の失踪。勤務先の警察署では最重要事案として今も捜査を続けているらしいが、どういうわけか、事件性はなしという見方で大勢が固まっているという。その根拠について尋ねようとすると、機密情報だからという理由であっさりはねつけられ、食い下がろうにもとりつく島がなかった。とはいえ、自力で捜査できるあてもない。結局、警察から新たな情報が入るのをただ待つほかなかった。
 理由もわからず姿を消した貴志さんは、職場で休職扱いにしてもらえるはずもなく、まもなく姉さんの家の収入は途絶えた。傷心を抱えた姉さんは外に出て働くこともできず、貯金を取り崩しながら、貴志さんの帰りを待たなければいけなくなった。
 姉さんはふさぎ込み、言葉少なになった。顔に表れるやつれも日ごとに顕著になっていく。一年もしないうちに姉さんはほとんど表情を失い、俺がやむなく連れていった精神科で、鬱病と診断された。それからは、いつも窓の外をぼんやりと見つめ、陽が昇り、また暮れてしまうのをただ待つような日々……。貴志さんがどうなってしまったのか知る由もないが、姉さんは何事か薄々と感じ取っているのかもしれなかった。それでも姉さんはけなげで純真な人だ。貴志さんが帰ってくるその日を信じて待ちつづけた。
 俺は、そんな姉さんを応援するべき立場にあった。一番身近にいるんだから、これは当然だろう。何より、生活費だけはどうにかしてやらなければいけなかった。
 だけど、甲斐性なしの俺がいきなり気持ち一筋になって働き出したところで、大した金を工面できるはずもなかった。残業を自ら買って出て、雑用役として扱き使われてなんとか得られた一万二万を姉さんの所に送ってあげたところで、わずかな足しにしかならない。
 このままだと、共倒れしてしまう……。
 追い詰められるあまり何度そう思ったことだろう。でも、姉さんのためだ。だから、俺はもっと身を粉にして働かなければいけなかった。姉さんのためなら、身体が壊れても全然構わないと思った。小学生の時に受けた恩を、俺は今も忘れていない。その頃は身体が小さく、毎年のようにインフルエンザにやられるぐらいにひ弱だったから、同学年の仲間たちにからかわれることが多かった。例外なくいじめの対象にされた。そして何かイベントがあるごとに扱き使われ、失敗しては嘲笑われ続けた。でも、姉さんは違った。いつも、辛い目に遭わされた俺の気持ちを酌んでくれ、わざわざ相手のところにまで抗議しに出ていったのだ。それも一度も見逃すことなしに、だ。
 向こうが手を出そうが動じなかった。華奢な外見からは想像もつかない、強烈な張り手で持って応酬した。でも、決して粗暴な人じゃない。「こんなことなんて本当はしたくなかったの」と、相手を諭しながら自らも泣いていた姉さんの姿を、俺はずっと忘れることはないだろう。社会常識とやらに拘って頭ごなしに俺をたしなめるばかりの、毛ほどの役にも立たない教師よりもずっと立派な人だった。
 それだけじゃない。
 俺の窮地を姉さんは幾度も助けてくれた。自分の身体の倍以上ある、野良犬に襲われたときだって姉さんは身体を張って助けてくれた。俺の代わりに、腕を噛まれて大量出血したときは、姉さんが本当に死ぬんだって思ってしまったぐらいだ。意識が遠のきながらも「大丈夫だったの?」と、俺の身ばかりを案じる姉さんは間違いなく俺にとってかけがえのない、唯一の人だった。
 中学生や高校生になっても、姉さんは俺を庇護し続けてくれた。俺が誤った行為に手を染めた時でも、真っ先に駆けつけ、諭し続けてくれたのは姉さんだった。この俺が、何度も踏みかけた危ない路をどうにか避けて、今日まで真っ当な人生を過ごしてこれたのは、姉さんがたっぷりと愛情を注いでくれたお陰だ。
「どうなんだよ、お前の姉さんを放っておいたら、ダメだろ? 今のお前には金が必要なんだよ」
 半田先輩は青色のレモンを絞った酎ハイをぐいっと煽った。
 金。
 それが第一に求められているのは事実だ。否定しようもない。それさえあれば俺は姉さんに対し、何よりの恩返しができる。
「……そうっすね」
 と、つい同意を口にした。そして、俺も先輩と同じオーダーの酎ハイを煽る。冷たい酸味が舌から喉を貫く。
「だったら、姉さんのためにも一生懸命働くんだな。ちゃんと、おれの言うことを聞いてよ」
 姉さんのため。
 そう、すべては姉さんのためなのだ。
 そう考えれば、俺には罪悪感なんてどうでもよくなる。俺は、姉さんのためにならどんなことだってやれるのだ。
「先輩」
 と、俺は呼びかける。
「ん?」
 目をぱちくりさせる半田先輩に対し、俺は気を溜める。
「恩に着ます」
 先輩の乾いた唇から笑いが漏れた。
「何を言い出すかと思ったら、そういうことかよ。まあ、おれに感謝してくれるのはいいことだな。めったにそういうことを口にしないお前からすれば、大進歩だ。その調子だよ。もっとおれを敬え。そうすれば、結果的にはお前の姉さんを助けてやることになるんだからよ」
 後日、俺は半田先輩に紹介された、西添という男と顔を合わせることになった。四十代の客が利用することが多い、少し古びたジャズバー。古いスピーカーから吐き出される重低音がそのまま密談を漏らさない防音壁になっていた。
「買い取り額はそんなに多くはないぞ」
 突き出された明細は、単なる紙切れだった。それも記号で書かれているからどれにどういう値段が付いたのかがまるで分からない。ともかく渡された白封筒に入っていた現金は七万と少しだけだった。
「不満か?」
 と、西添はサングラス越しに俺を見据えて言う。ひと昔の左翼のような風体だった。ボタンの多いよれよれのジャケットに、頬と顎を覆う濃い髭。でも、小ぶりのショルダーバッグの中にちらりと覗いた手帳はいかにも機能的な高級品、スマホは最新型だった。他に小型のデジタル機器のようなものも見えたが、こちらは何に使うものなのか俺にはよく分からなかった。
「いえ」
 と、濁し、俺は封筒をポケットにしまった。
「遠慮なく言っていいんだぞ。俺はお前の保護者のようなものなんだからな」                  
 本来なら、ここで価格交渉するのが正しいんだろう。姉さんのためにも買い取り額を釣り上げるのはありだ。だけど、初対面でいきなり強気に出たら、もう二度とこの男とは顔を合わせることができなくなるんじゃないかと俺は恐れた。
「……とくにありません」
 と、念押しで俺は言った。西添は少し間を置いて、コーヒーを軽く口に含んだ。
「もし、望みならノビ師以外にも仕事がある。やってみる意思はないか?」
 なるほど、と思った。額が小さかったのはそういうことだったのだ。俺に新たな仕事をさせようというつもりでいたのだ。
 俺は顔を上げた。はっきりと告げる。
「そういう気はないですね。今の仕事だけをやらせてもらいたいです」
「ノビ師だけを?」
 ストリングスのバックミュージック。メロディーを奏でるソリストのフレーズはその上に乗っかかるように音を重ねる。ボンベイ・サファイヤのカクテルは氷がすっかり溶けて丸い漂流物になっていた。
「はい。……これしか、できないんです。俺は自分のことを不器用だって分かっているから、これしかできないんです」
 その後も、吶々とながら俺は自分の考えを西添に伝えていった。ほとんど口が動くままに任せていた。自分でも途中、何を言っているんだろうという気にはなったが、なぜか止めることができなかった。知らないうちに西添に対し、緊張を感じていたのかもしれなかった。
 そうか、と西添は引き取った。帰り支度をはじめる。
「なら、その調子でやってもらうとしようか。一つ言っておくと、物事には相場というのがある。だから、いつも同じ値段で取引してもらえるだなんて思うな。元川くん、君はまだ全体の流れさえも掴めていないようだから、特に勉強する必要がある」
 西添は俺が問い返そうと口を開く前に、姿を消した。呆気ない退去。こんなものだろうと思う。最初からあんまり俺に興味なんかないのだ。
 さして気にせず俺も店をすぐに出た。行くところがあった。姉さんの所だ。やることといったら、決まっていた。
「姉さん、ここに金入れておくからさ、何かあったら使ってくれ」
 俺は居間に設えられたサイドボードの、一番分かりやすい引き出しに、現金の入った封筒を押し込んで言った。
「……そんなこと、しなくていいから」
 かすみ姉さんのか細い声。キッチンテーブルの椅子に腰掛けたまま、一足も動こうとはしない。今の姉さんにとって、そこが唯一のいるべき場所なのだ。貴志さんが帰ってくるはずの道を、傍の窓から覗けるからだ。姉さんは道に人影を見かけるたびに、じっと目を据える。
「そう強がって言うなよ。これは俺の気持ちだから。ほんのちょっとした気持ちだからさ」
 たかが七万円ぽっちだ。だけど、俺にしてはかなり頑張った。なにより、これまで姉さんに何もしてやれなかった分、少しでも埋め合わせができたことで、俺は充実感を憶えていた。
「そうそう、買い物があったら代わりにしてきてやるよ。家に何にもないんだろ? 冷蔵庫もほとんど空っぽだったし。買ってくるからさ、欲しいものあったら言ってよ」
 かすみ姉さんは無言で首を振る。
 それは予想していた。だから、俺はにこやかに応じた。
「姉さん、ダメだよ。貴志さんが帰ってくるまで健康でいてくれないとさ。だから精をつけなくちゃいけないだろ?」
 かすみ姉さんは、目を丸くして俺を見た。そして、緩やかな微笑み。めったに浮かばない表情らしい表情。
「そうね。……元気でいないと、ダメね」
 と、呟くように言って、思案する顔になった。献立のメニューでも頭に並べ始めたらしい。そうだ、料理をつくるのは姉さんの好きなことの一つだ。俺はお手伝いを買って出て、姉さんの口が唱えだしたあれこれの食材を一つ一つ書き留め、スーパーに駆け込んで調達した。店になかったものは、それっぽいものを代用品として購入したのだけど、それが後から違うって、姉さんに叱られる始末となった。
 でも、俺は嬉しかった。
 かすみ姉さんが俺を叱ってくれたのだ。この前叱ってくれたのは、もういつのことになるだろう。重い鬱病から回復できない中で、ちょっとだけでも元気を取り戻してくれたのだ。なんだかこの調子でいけば元通りに戻ってくれそうだなんてそんな希望を持ってしまう。
 その日の夕飯は二人きりで摂ることとなった。もちろん貴志さんの分も姉さんは忘れず、それは俺の隣の空席に用意されてあった。
 ともかく、姉さんの恩返しの初日としては上出来だった。金さえあれば、なんとかなる。姉さんを支えることができるし、一緒に過ごす時間を作れてしまえる。
 金を持ってくる。たったそれだけでこんなにも満たされるなら、そのためにどんなことをするにしても、ためらう理由はもうなかった。
 ――三年経った今でも俺の気持ちが変わっていないのは、金を得るたびにその見返りにありつけたからだろう。そして、決意したその時の初心と幸福感を未だに忘れられないでいるからだ。
 
 くたくたになった身体を引き摺るようにしながら俺は自宅アパートに帰った。
 疲労が濃すぎて何も考えられない。汚れたニッカボッカを部屋着に着替えることすら面倒だ。このままベッドに倒れて寝てしまいたい。だけど、こんな日は軽くカップ酒のいっぱいでも煽らなければ気持ちよく眠れないと知っていたので、俺は部屋に入るなり冷蔵庫を開けた。
 すると、あるばかりと思っていた酒の姿がなかった。昨日、全部呑みきってしまったらしい。舌打ちした。しょうがないから、グラスに満たした水道水を勢いよく煽った。変にカルキ臭い水だったが、喉の渇きは俺の舌を無感覚にしていた。テレビを点ける。
 ニュースをやっていた。そのモニターに映し出されたポートレート。見慣れた顔がそこにはあった。俺は目をしばたたき、ぎゅっとつむってこすり、また見開いて、そのまま釘付けになった。
 ニュースキャスターは俺の気など知るはずもなく、冷淡に記事を読み上げる。
『……頃、何者かの侵入により殺害されたものと見ており、警察は強盗殺人事件として捜査しています。被害者の日浦かつ代さんは地域で民生委員を務めており、福祉活動に意欲的に取り組んでいたということでした――』
 日浦かつ代。
 かすみ姉さんが暮らしている区域を管轄する民生委員だ。嘱託だが、定年まで福祉事務所に勤めていた経歴が買われただけのことはあって、生活保護に関する知識や事務手続きにやたらと詳しい。日浦は生活保護を受けている家庭を逐一訪問し、暮らし向きにあれこれと口を出していた。
 そんな日浦がかすみ姉さんの所を訪ねてきたのは、ある日突然だった。生活実態の調査という名目だったが、はっきりとは聞いていない。察するに、近所の誰かがご注進したのだろう。姉さんは働いていないし、それどころか精神科へ通院しているくらいだから、誰の目にも、生計を立てられる収入があるとは思えない。夫が失踪して何年も経つことは近所の誰でも知っているし、これまでどうやって暮らしてきたのか不審に思われたのかもしれなかった。
 そして、俺のことが浮かび上がったのだろう。
 夫が突然消えて、それから働きもせず、いったいどうやって暮らしているのか。毎日何をしているのか。足繁く出入りしているという若い男は、ほんとに弟か。興味をそそられて調べ始めたらしい。なんか探偵みたいのが職場でお前のことを聞いて回っているぞ、と社長から聞かされて以来、あの女を俺は目の敵にしてきたのだったが……。その日浦が殺されたという。
 どういうことなんだ。
 いや、ありそうなことか。
 民生委員だなんだと言ったって、要するに赤の他人の暮らしぶりを見咎めて、粗探しを始めるようなお節介野郎なのだ。正義という看板を掲げて人の私生活を暴き出し、自分の思い通りに操ろうとする、偽善者(エセヒユーマニスト)。誰に恨まれてもおかしくない。
 いや、ちょっと待て。ニュースではなんて言っていた。強盗殺人だ。そう伝えていた。殺された上に、金品を奪われた。ただの怨恨だろうか。それとも、別に恨みを持っているわけでもない強盗が、どういう理由か知らないがあの女の家に目を付け、奪うために押し入り、殺したのか。
 多くの人間から恨まれているに違いない人間が、その恨みとは無縁な形で殺されるなんて、逆に理不尽な気がする。
 俺自身は、日浦とは姉さんの所で一度だけ出くわし、言葉を交わしたことがある。その日は平日だったが、仕事は休みだった。だからいつものように姉さんと過ごそうと思ってスーパーでごっそり食材を買って行ったのだった。
 日浦は玄関先に立っていた。振り返るなり、俺に気付いて、あら、と愛想よく言った。
「もしかして、深瀬さんの弟さん?」
「え……ああ、はい」
 面倒くさいからあっち行ってくれ――俺の内心などよそに、日浦は馬鹿丁寧にお辞儀してから自己紹介をはじめた。あんまりにも腰が低いものだから、つい俺も釣られて何度か頭を下げてしまう。
「――ちょうど今、深瀬さんの事情を伺わせてもらってまして……、ご相談に乗っていたところだったんです」
 框の上に立っている姉さんはいつもどおり、少しぼんやりとした調子だ。相談に乗ってもらっているなんて、そんな様子には見えない。一方的な誘導で、根掘り葉掘り事情を聞かれていただけのことだろう。ご主人はいつ……どうしてまた……そうなの、それはまたご難儀な……今はどんな暮らしを。どなたかお身内、ご親族かご親戚の方はいらっしゃいますか、はあそれで具体的には今どれぐらいの援助を……。それは一番、姉さんの心を掻き乱す行為だ。俺は日浦を、排除の対象として認識した。
「それで、なんです?」
 俺はぞんざいに言った。
「いえ、ね。今のままの状態が続くのは良くないってことで、これから先のことね、もっと真剣に話し合った方がいいと思うのね」
「そこまで困った状況ではないと思うから」
「やっぱり、あなたが支援しているんですね」
「一緒に過ごしているだけだよ。支援ってほどじゃない」
「だったら、これから先、この人はどうするの?」
「それは、あんたには関係ないことだ」
「そういうわけにはいかないのよ」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「今のところ、あなたがちゃんとバックアップできているならそれでいいんだけれどね。どんな感じでやっているのかな?」
「それは、俺らの問題だ」
「そんなことを言わないで。ね? 大事なことを話しているのよ」
 こんなことの繰り返しが、三度つづいた。
 どうしても介入しないと気が済まないらしい。
 その取り澄ました表情の裏には、黒い顔が潜んでいる。俺にはそれがはっきりと見えていた。
 これ以上付き合いきれなかったから、俺は一方的に話を打ち切って、日浦を追い出し、ドアを閉めた。玄関に沈黙が降りた。外に気配がしなくなるまで、俺はドアを睨みつけながらやりきれない怒りを抑え込んでいた。
 振り返ると、目を伏せて哀しそうな顔をしている姉さんの顔がすぐ傍にあった。
「ごめん、姉さん……」
 なぜか謝りの言葉が出た。
 ううん、とかすみ姉さんは首を振る。
「気にしないで。いつものことだから」
 俺に興信所の調査が入ったのは、それから一ヶ月もしない頃だったと思う。
 事実を知ったときには、怒りで顔が熱くなったほどだ。裏のありそうなやつだとは思っていたものの、まさか私立探偵まで頼むだなんて、俺の想像を上回っていた。あの笑顔は偽善だったどころの話じゃない。どうかしてる、わざわざ自腹を切ってまで人の暮らしを暴き立てるなんて、汚らしい悪意そのものだ。
 ――あのババアいつか殺してやる。その時は、本気でそう思った。
 したり顔で正論をふりかざすあたりが気にくわない。自分の考えに間違いなどない、社会常識に則った真っ当なものだとあいつは信じ切っている。けったくそ悪いその信念で、弱い立場にあるものをこれでもかといたぶってきたに違いない。
 よくいる。自分が大儀を背負ったと思った途端、人がかわったようになるやつが。そんなやつに限って、自分の立場を履き違えたようなことを平然とやってのける。社会的にはこれが正しい、だから自分が正義だ、これは善意なのだと思い込んでしまったやつには、反論も何も効かない。聞く耳なんか持っていやしないのだ。そんなやつを前にすると、本当にやるせない激憤に駆られる。
 しかし、今さら怒りをたぎらせても無益なことだ。あの女、日浦はもう存在しない。俺の目の上の瘤は、ひとりでに転げ落ちてしまったことになる。
 ともかく、姉さんが心配だ。近辺じゃ、騒ぎになっているはずなんだから。
 俺は飛び出すように部屋を後にした。
 
 夜遅くの訪問なのに、かすみ姉さんは困った顔もせず、俺を出迎えてくれた。部屋の中は相変わらずだった。散らかってはいない。散らかすほど活発な暮らしをしていないせいもあるが、いつ貴志さんが帰ってきてもいいよう、少しずつ、片付け物をしているらしかった。そしてテーブルの上には、夕飯の支度。
「なんだか、外がさわがしいね」
 かすみ姉さんはそう言うと、カーテンをまくろうとした。俺ははっとしてその手元を押さえ、カーテンの合わせ目をぴったりと閉じた。
「どうしたの?」
 と、姉さんが問う。少しだけ不思議そうな表情が浮かんでいる。
「なんでもないさ。……とにかく外は見ないほうがいい。しばらくずっとだよ。うん、ここしばらくちょっとうるさい状況が続くみたいだからさ、そういうの目に入れない方がいいと思うんだ」
 かすみ姉さんは貴志さんが失踪したその日からテレビを見るのを止めている。だから、時事には疎く、界隈で何が起こっているのかも、ろくに知らない。姉さんにとって、窓から覗く通路以外、世界はないに等しい。止まった時間。そんな姉さんに、知った顔が強盗に遭って殺されたことなど知らせたくはなかった。今より余計に、心を乱されてほしくない。
 ところが、かすみ姉さんはふふ、と笑う。そして、俺がカーテンの裾を押さえているのにかまわず隙間を拡げ、そうっとその向こうを覗き込んだ。
「……分かっているよ。事件が起きたんでしょ」
 姉さんは独り言に似て聞こえた。
「知ってたの? 何があったか?」
 姉さんは動かず、じっと窓の外を見つめている。
「何も知らないはずがないじゃない。ここにもね、警察の人が事情聴取にきたよ。何か見てないかって」
「…………」
 ようやく俺に振り返ったその顔は、笑みを浮かべていた。
「もちろん、わたしは何も知らないから『見てない』って答えるしかなかったんだけれどね。でも、そういうやり取りをしたの。なんだかおかしいでしょ。昼のドラマのようなことがあったんだよ。こんなこともあるんだね」
 なんだか、すごく他人事のようだ。今朝見た夢でも報告するような具合。そうかと思った。鬱に罹っているから、それに強い薬を飲んでいるから、身の回りで起こっていることに現実感が伴わないんだ。
「姉さん、ちょっと悪いんだけど、薬飲んだの何時?」
「え、薬?」
 俺はうなずいて、姉さんからの返事を待つ。
「……二時間ぐらい前かな。間違ってね、三粒も呑んじゃったの」
「三粒? なんでまた、そんな間違いを……」
 わざとだ、と思った。希死念慮。それがまた姉さんの中で少しずつ高まってきているのだ。死にたい思いが高じる一方で、生き延びて貴志さんを迎えなければいけないという思いも強まり、そこで葛藤が生じて、ほんとうに危険なほどではない中途半端な余分な量の薬を飲む、そんな行動になったのだ。
 俺は薬を置いてある、食器棚に駆け寄った。無造作に錠剤が取り出されたピルケースがそのままになっている。五錠がない。姉さんが言ったよりも、ちょっと多い。
 吐かせようかと思った。だけど、時間が経ちすぎている。病院に連れていった方がいいだろう。
 かすみ姉さんはふらふらとした足取りで、こっちに近づいてくる。正面から向き合い、俺は言った。
「姉さん、これから出掛けるよ」
 どこに? とは訊かれなかった。行くところは分かっているはずだった。
 
 さいわい問題ないと診断され、すぐ帰ることができた。でも一応安静にして、容体を見ている必要がある。少なくとも朝までは、俺が付き添っていなければいけなかった。ベッドで横たわったままのかすみ姉さん。穏やかに眠っていながら、片手だけは俺としっかりと繋がったままだ。
 まんじりともせず寝顔を眺めていると、姉さんの瞼がふと開いた。 眠ってなどいなかったかのような鮮やかさで、俺を見つめて微笑む。
「ずっと、いてくれたの?」
「ずっとって、四時間ぐらいだよ」
「それじゃあ、ずっとだ。……眠いでしょう?」
「まったく」
 家を出る前まであんなに疲れていたはずなのに、今はそうでもなかった。かすみ姉さんのこととなると、俺の身体は活性化し、集中力を保てるようになっているらしかった。姉さんはまるで俺のアドレナリンだ。
「ねえ、日浦さんのこと、話さないとダメじゃない?」
 不意にそんなことを言った。俺は思わず顔を硬くした。
「そんなことは、どうでもいいから」
「よくない」
「あのババアは、かすみ姉さんを何度も不安に陥れたやつだ。そんなやつの話なんかしてどうする?」
「だったら、その人を殺したのがわたしだったとしたら? それでもどうでもいい?」
 呆気にとられた。俺はしばらく頭が真っ白になった。
 気を取り直して、訊いた。
「姉さん……それって、本気?」
「――なわけないでしょ。今、この話を取り下げることはあり得ないって、言っているの。それを分かってもらうために、言っただけのこと」
 安堵の息が鼻から抜ける。
「心臓に悪いようなことを言うなよ、姉さん」
 医者に連れて行ったばかりで、これだ。ついていけない。
「というより、警察さんが家まできているってことは、そういう可能性も少なからずあるって見られているってことだよね」
 そんなことを姉さんは言う。今の姉さんは、口数が多い。いつも薬の効き目が終わる頃合いには、比較的調子が良くなるのだった。
「聞き込みはたぶんこの一帯全部を回っていると思うから。それで行くと、みんなが疑わしいってことになるだろ、姉さん」
「そっか。だったら、そんなに気にすることでもないんだね」
 俺と繋がっていた手がそっと離れた。姉さんのか細い、小さな手。幼い頃に手を繋いだ時は、もっと大きく感じた。今は違う。俺の半分ぐらいの厚みしかなくって、肌は青白く、透き通るようだ。向こうが見えてきそうなぐらいに。その手が布団の縁をきゅっと掴むなり、ゆっくりとめくった。露わになった上体を起こす。俺は慌てた。
「姉さん、何をするつもりなんだ?」
「あなたへの御褒美を、ね。何か温かいもの煎れてあげる」
「いや、いいからそんなの」
「いくない」
 かすみ姉さんは口を尖らせるなり、ベッドから立ち上がり、俺を押しのけて台所へと向かう。ひらひらと舞うネグリジェのシルエットが、なんだか重さを失って浮遊しているかのようだ。俺の方はといえば、はらはらし通しだった。だけど、姉さんの好意を無にするわけにはいかなかった。姉さんはお湯を沸かすと、空のカップに注いだ。掛け湯をして食器を温めておくのは姉流のおもてなしだった。俺はしっかりお客さんらしい。粗挽きの豆をフィルターに入れたのをドリッパーに載せ、湯を満たす。ドリッパーの底にコーヒー液がゆっくりと溜まっていくのを確かめ、同じ作業を繰り返す。ゆっくりと過ぎゆくこの時間が、姉さんの好きなことの一つだった。
 笑顔が見える。鼻歌でも歌い出しそうな、愉しげな表情だった。やがて部屋に満ちる、ビターな香り。俺がつい鼻をひくつかせると、姉さんも後追いで真似をした。
「うーん、いい香り。ね?」
 俺はうなずいた。正直、コーヒーの匂いなんて俺は好きじゃなかった。だけど今、かすみ姉さんはこんなにも浮き立っている。だから、調子を合わせていたかった。
 五分も経って、ようやく入った一杯目が俺の前に差し出された。マットブラックの上澄みに、金色の泡がぽこぽこ浮いている。俺はそれをできるだけ潰さないように、そっと口に運んだ。その様が、ちょっと間抜けに見えたらしい。姉さんはころころと笑った。
「姉さん、飲むのに集中できないよ」
「ごめんね。でも、なんだかかわいい飲み方よ」
「そういうかわいいなんて言葉は合わない人だから、俺」
「そうでもないよ」
 まったりとした時間が流れていた。俺は一睡もしないまま、もう夜が明ける頃だったけれど、気分は最高だった。とても病院帰りのようには見えない。屈託なく談笑していると、玄関で呼び鈴が鳴った。俺と姉さんは顔を見合わせた。
「こんな早い時間に、誰?」
 と、俺が真っ先に口を開く。姉さんは不思議そうに首を傾けた。
「わからない。誰だろ……刑事さん、とか?」
「まさか」
 俺は無意識のうちに腰を浮かせ、逃げ出す構えになっていた。やましいことがあるからだろうか。姉さんの視線に気付いて、また腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
「俺が出てもいいよ。……いや、俺が出る」
「ううん、大丈夫。わたしが出る」
 インターホンに向かおうとしたので俺は腕を掴んで、制した。
「いいや、姉さん。こういうことは俺に任せて」
 インターホンのカメラを覗くと、よく知った顔が映っていた。姉の親友である平田眞由美さんだった。なんだかそわそわした様子だ。俺は玄関に向かい、ドア鍵を開けた。すると、戸を押し出す前に扉が引かれた。
「あ、大祐くん、お姉ちゃんは?」
「……部屋にいますけれど」
「ちょっと、話があるの。いい?」
 承諾の返事をするまでもなく、俺を押しのけて平田さんは家の中に入っていく。駆け込むような勢いだった。まあ親友なんだし、何かあった時はこんなふうなものなんだろうなとか考えながら、俺は歩いて引き返した。
 居間で互いの手を握り、無事を確認し合っている二人の姿があった。俺は入り口で足を止め、一段落つくのを待っていた。テーブルの上には俺の飲みさしのコーヒー。それだけが名残惜しかった。
「ごめんなさいね、急にこんなことになって」
 姉とひとしきりやり取りした後、はじめて俺の存在に気付いたかのように平田さんは言った。
 ソバージュの、少しあどけなさが残った、小柄な人。つんと尖った鼻に丸い目が絶妙に釣り合いが取れていて、どことなく日本人離れしているようにも見える。いつも柄違いの小花プリントシャツを纏っていて、それが彼女のトレードマークとなっている。
「いえ、気にしないでください。なんでしたら、俺……帰ります」
「ううん、そこまではしなくっても大丈夫」
「いや、あの……仕事があるんですよ、この後」
「あっ、そうだったんだ。だったら、わたしこのままいた方がいいみたい」
「というより、事件のことを心配してきてくださったんですね?」
 急に平田さんの顔が翳った。
「これだけのことがあったんだもの。来ないわけにはいかないじゃない。というより、わたしも仕事だったからずっと来れなかったの。電話してもなかなか出ないし……。どうなっているのかなって」
 電話が何度も鳴っているのは気付いていたが、 俺は着信音量を聞こえなくなるまで下げて、放っておいたのだった。少しでも姉さんの気に障ることはすべてシャットアウトしようと、俺はそればかり考えていた。
「すいません、俺が電話を鳴らなくしてて……」
「いいのよ。あなたは、よくしてくれているみたいだし……」
 言った後、平田さんはカーテンの掛かった窓辺に寄った。かすみ姉さんがいつも貴志さんの姿を求めて見張っている窓だ。カーテンの隙間に手を差し入れるなり、さっと掻き分け、その向こうを眺めた。朝焼けとともに消え入りそうな靄が掛かっていた。日本画の風景のような、薄墨色のぼんやりとした景色。でも、殺人事件の喧騒までは隠しきれていなかった。
「――それにしても、なんてこと。こんな事件が起きてしまうだなんて……」
 平田さんは呟き、はっとしたようにカーテンを閉じた。清冽な朝の光がカーテンの向こうに押し込められると、室内にダークグレーの色が戻った。一度朝日に晒された俺たちは今、奇妙に暗い空間の中にいた。
「ねえ、なんでこんなことが起こったんだろう?」
 と、平田さんが俺に向かって言う。
「さあ? よく分かりませんね」
 そう答えるより他はない。俺には関係ないことなのだ。いや、本当に関係がないのか。殺された相手は、よく知っているあの女ではないか。となると、近い内に俺にも警察が近づいてくるかもしれない。
「きっと誰かに恨まれていたんでしょうよ」
 俺の口を衝いて、そんな言葉が転げ出た。今もなおあの女を蔑む気持ちが、つい表れてしまった。
「うらまれていたって? これまた、見知った事のように言うのね」
 平田さんは瞬きもしないままに、返してくる。
「いえ、気にしないでください。俺の勝手な見方ですから」
「ううん、そんなわけにはいかないでしょ。その口ぶりからしてきっと嫌われ者の人なんだ。もしかして、大祐くんとの間にも何かあった? というより、民生委員をやっている人なんでしょうから、しつこく何か言われるようなことがあったりしたところでおかしくないんだけれど」
 突っ込まれたくないところに話が移ってしまった。俺はかすみ姉さんの顔色を伺った。すると案の定、姉さんは気重な顔をして、表情が薄れていた。せっかく持ち直しかけていたのに。内心で舌打ちした。だけど、相手はいつも姉さんを支えてくれている平田さんなのだから、文句も言えない。
「まあ、そうですね。あの人は何度もかすみ姉さんの前に顔を出しています……」
 俺は話すべきことは話した方がいいと判断して、平田さんに事情の一切を説明していった。やるせなさが募るばかりの打ち明け話だった。俺の中で、何かがどんどんすり減っていく。それも当然だ。この手の話をするのは、間接的にとはいえ、貴志さんがいなくなって姉さんの心に空いた穴をほじくり返すようなことなのだから。
「そう……」
 と、平田さんはどう返していいか分からないと言った顔つきでそっと呟いた。
「そういうことですよ。だから、うちとしても無関係ではないんです。今後もあれこれ事件の聴取に付き合わされるようなことになるんでしょうね。ま、その時は、全部俺が請け負いますけれど」
「あなたが?」
 と、平田さんは顔を上げて言う。
「ええ」
「あなたで大丈夫なの?」
「大丈夫だって、どういう意味です?」
「深い意味で受け取らないで。こういうのって進んで出ていったら、それだけ向こうに注目されることになっちゃうんだよ。いろいろ調べられちゃうってわけ。そうされても平気なら別に気にすることじゃないんだけれどさ……」
 背中に冷たいものが通っていく気分だった。
 確かに、素性調査の対象になる恐れがあった。もし、調査が入った場合、俺が三年ばかり前からやってきたことまで探り出されかねない。そうすると、俺は今後、姉さんの身を案じるどころか、躍起になって自分の身を守らねばならなくなる。
「そこ突かれると弱いすね……。いえ、べつにやましいことあるってわけじゃないです。でも、そんな立派な経歴を持っているわけでもないですから……、職場的に言って一人前という立場にもない……そういう実情を掴まれた途端、なんだかいろいろ足元見られそうで怖いんです」
「なあに、大ちゃん。なにか悪いことでもしたの?」
 かすみ姉さんが心配げに眉根を寄せて、俺に近寄る。姉さんにそれを尋ねられるのが、俺は一番動揺する。
「そんなわけないじゃないから……。ただ、事情聴取に胸を張って渡り合えるような経歴を持っていないってだけで……」
 少し口ごもりがちになった。
 姉さんの手が俺に向かって伸びた。
 叩かれるかと思って、びくんと反応する。でも姉さんの手は、俺の胸元にくっついていた綿ゴミをひょいとつまみ取っただけだった。
「そんなことないじゃない。大ちゃんは充分、立派な、一人前の大人だよ」
 姉の優しい一声。こんな声を、今聞かされるなんて。
 なぐさめられてしまった。まだ心の病から抜け出せてもいない姉さんに。本当は俺の方が守ってやらないといけないというのに。自分の不甲斐なさが情けない。俺はいつまでたっても、かすみ姉さんの小さな弟でしかないのか。
「大丈夫」
 と、姉さんは俺に向かって言う。小さい頃にそうしてくれたのと同じように、何も変わっていない。
「何かあったら、ちゃんとわたしが自分で対応するから。それぐらいの元気は、ちゃんとある。毎日料理できているんだから……。接客ぐらい普通にできるでしょ。お姉ちゃんのこと、もっと信用してくれたっていい」
 姉さんは、痛々しいぐらい気丈なことを言う。
「わたしも手助けするから!」
 と、平田さんが姉さんの肩を掴んで、割って入る。そこから先はまた、親友二人が友情を確かめ合うようなやり取りになった。カーテンの隙間から漏れる、白い朝の陽。さっきよりも眩しさが増していた。
 
 俺はなぜ配管工の仕事を選んだんだろうと、一週間に一度ぐらいは後悔に苛まれる。内容に不満があるわけではない。だけど、何年経っても顎で使われる身分から卒業できないのはなんだか違うと思ってしまうのだ。
 建設現場における設備機器の管理を担う職種だから、資格がいるものだと思われているけれど、実際はそんなものはない。配管技能士や、管工事施工管理技士なんていうステップアップはあるけれど、それは実務経験を積んだ者にしかチャンスがこない。いつ潰れるか分からないような弱小下請け会社に勤める俺にはまだまだ縁遠い話だ。この職に就く前、年四百万は稼げるなんて先輩に言われた。だけど、それはいいところに転がったばりばりのベテランの話であって、俺のような底辺層はその半分も稼ぐのがやっとといったところだ。
 一応、やりがいはある。日々の生活を営む上で、設備機器の確保は必要不可欠だ。ガススイッチを入れれば即座に火が点き、蛇口を捻れば勢いよく水が出る。それが当たり前。俺はその当たり前の暮らしを支えているんだと縁の下の力持ちの気分にはなれるのだった。つらくなったときには、施工先の顧客が壊れたインフラの復活に大喜びする様を想像したりして、一人悦に入る。でも、そんな高揚感はその時だけのことで、家に帰り着く頃には期限切れだ。
 建築業務と並行してやるときは特に、骨が折れる作業が多くなるから、何も考えられなくなるほどくたくたに疲れてしまうのだった。その日も、そうだった。俺は、何のために働いているのかさえもどうでもよくなるくらい、ぐったりと疲弊していた。
 それでも空腹感は容赦なく俺を苛む。飯をつくる気力なんてないから、出来合いの食い物を調達しなければいけなかった。
 行きつけのスーパーは賑わう時間を過ぎて、がらがらだった。値引き商品目当ての老人が何人か、鮮魚コーナーを漁っている。もう閉店間際で、四十過ぎぐらいの店員も大あくびをかましそうなぐらいに暇そうな様子だ。心ここにあらずといった感じのその目は、帰ったら今夜は何を飲もうとでも考えているのだろうか。
 俺は酒が陳列されているコーナーを物色した後、缶詰の棚に回った。その角の所にワゴンがあって、真空パックの羊羹が積み上げられていた。一本手に取る。みっしりと詰まった感触に食欲がそそられる。値段を見れば、一本五百円。定価は千円となっているから半額だが、それでも俺には贅沢品だ。思わず、周囲に目を走らせた。 ニッカボッカのポケットに押し込めば一本ぐらいは分からないはずだ。悪魔がささやいてきた。俺はすでに盗人の道に踏み込んでしまっている。それももう三年にもなるから、いまさら万引きの一つもやったところで大した上積みでもない。何を躊躇う必要がある。 度胸なんて空き巣狙いの半分も必要ないはずだ。
 俺はもう一度、あたりをうかがった。
 どういうわけか、頭の中では過去の記憶がぐるぐるとループしていた。
 最初に悪意に突き動かされたのは、いつだったっけ。
 そう、あれは小学生の時だった。ちょっとした実験のつもりだった。でも、俺はそれを実行することで、自分が救われることを知っていた。気持ちが満たされることを知っていた。だから、手を引っ込めることができなかった。案の定、快感を憶えた。精通と同じぐらいの烈しい快感だ。いや、それ以上なのかもしれない。心の底から沸き返る何かがあった。以来、俺はその快感の虜になってしまったのだった。
 それはすぐ封印しなければいけなくなったのだけど、でも一旦悪に染まった俺の心はもうどうしようもなかった。理性の上っ面をかなぐり捨ててもあの快感を求めたがるまでになってしまっていた。麻薬のようなものだ。一度憶えてしまったら身体が忘れられないのだ。以来、俺は心の奥底で葛藤し続けている。今また、その箍が外れようとしていた。悪い癖のようなものだ。
 誰も見ていない。店員は相変わらずレジのスペースから動こうとしない。こんなもんだろう。俺は、改めて羊羹を握り直した。手に提げたバスケットに入れる振りをして、ゆっくりとポケットに近づけていく。
 すると、いきなり近くに人影がさして、ぎょっとした。
 五十歳ぐらいの男だった。スーツの着こなしに、固い商売の雰囲気がある。
「どうしたんです、元川さん」
 その顔に憶えはない。
 それなのに、俺の名前を呼んだ声には親しみがこもっていた。灰色の髪は生え際が後退して、ちょっと独特のスタイルになっている。頬から顎にかけて斑点状のシミ。そう太ってはいなかったが、どことなく恰幅の良さを感じさせる、どっしりと重みのある体つきをしていた。たぶん、筋肉で引き締まっているんだろう。
「誰です?」
 男は頬を掻いた。
「こういうところでは身分を明かすことが躊躇われてしまうような、職業にあるものなんですけどね」
 妙に物慣れした感じの話しぶり。
 なんとなく俺にピンとくるものがあった。これは学生時代、補導されそうになったときのお巡りさんの口調と同じだ。
「もしや警察のお方……だったりしません?」
「分かります? そういう感じがにじみ出ています?」
「…………」
 何をしに来たんだろう。俺は、胸の鼓動が少しずつ早まるのを抑えるべく、息を整えようとした。いやそれよりも、ポケットに押し込めようとしていた羊羹だ。これをなんとか誤魔化さないといけない。さりげなく持ち直し、バスケットに入れた。
「お時間、いただけないでしょうか?」
 男は、その羊羹を眺めつつ言った。
 万引きしようとしていたことに気付いていたのかどうか、まったく読めない。
 それだけに、俺は拒むことができなかった。
 結局、その男を自分の部屋に招じ入れる羽目になった。なんでこうなるのか。盗みを働こうとしていた後ろめたさ、いや、ひょっとしたらそれを見透かされ、つまり俺の一番の弱味をこの男に握られたのかもしれないという、恐れのせいだったかもしれない。
「結構、質素な暮らしをしているんですね」
 と、無遠慮に部屋を見回しながらその刑事――塚地は言う。それも道理で、俺の部屋は実に簡素だった。稼ぎが少ない上に部屋にいる時間も少なかったから、ほとんど寝るためだけに特化した、必要最低限、機能一点張りの棲み家にできあがっていた。
「足元を見るようなことは言わんで下さいよ」
 塚地は失礼、と述べてから居住まいを正した。
「――君のお姉さんのことだけど、いいね? あの界隈で殺人事件があったんだ。ニュースで大々的にやっているから、知っているかもしれない。被害者は日浦かつ代さんというお方。この人は、かつて福祉事務所に勤めていてね、引退した現在は区の方から民生委員を嘱託されて、その役をしっかり務めていたんだ。今この人についてあれこれ調べているんだよ。君は何か知らないだろうか?」
 知らないと突っぱねればそれで会話は終了する。
 簡単なことだ。
 だけど、調べればそれは嘘だとすぐに分かるはずで、後先面倒なことになるに決まっていた。そうして泥沼にはまるのが俺のこれまでのパターンだ。だから、この場だけ安易に取り繕うような真似だけは、するべきじゃない。
「……知っていますよ、その人」
 と、俺は塚地に向かって言った。ほう、と彼は顔を上げた。
「やっぱりそうか」
「やっぱりって?」
「いや調べたらね、あの人のところからいろいろメモやら資料やら出てきてね。それによると、どうも彼女には、強く興味をそそる人物というのが、何人もいたみたいなんだ。そういうリストが作ってあったんだよ。で、君もそのリストに含まれていた一人なんだ」
 分かっていたことだ。
 だけど、今それを聞かされて何も感じないわけではなかった。腹の底でくすぶっていた怒りが、ちりちりと燃え立ち始める。リストだと。あの女の懐の紙切れに、俺が人には話さないことや知られたくないことのあれこれが事細やかに記されていたっていうのか。それこそ人の見る目が変わるようなことを……。考えるほどに、はらわたが煮えくり返る。そしてそのリストのせいで、俺は信用ならない人間、問題のある人物と見做されたってことか、つまり。
「実は、その人と会ったことがあります」
 吐き気に近い気分を押し隠して、俺は塚地に言った。
「会ったことがある?」
「はい」
「いつのこと?」
「二年ぐらい前のことになりますか。姉さんのところに遊びに行ったら、たまたまその人が姉さんの家の玄関前にいたんです」
「その時、日浦さんは仕事していたんだね? 民生委員として」
「それは、事情を聞いていないから分かりませんよ。その人がそこにいたということは、つまりそういうことなんでしょう」
「後から知ったってこと?」
「みたいなもんです」
 ふうむ、と塚地は顎を揉んだ。
「それで、その時、日浦さんと君は挨拶をした、と?」
「挨拶と言いますか、ちょっとやり取りするぐらいですが……」
「そのちょっとのやり取りが気になるところだけど」
 催促される。
 案の定だった。俺はそれを予期していたから、感情を抑えて、ただありのままを話した。
 あくまで表面的なやり取りの一部始終だ。その時、俺がどういう感情を抱いたかまでは明かさない。後日、俺の近辺に探偵が探ったなんて事も言わない。いや、それも警察が俺の職場に来て、社長や誰かに聴取すれば明るみに出てしまうのだろうが。だがそこまで調べられるのは、俺にもっと濃い疑惑が持たれてからのことのはずだ。俺は今、すでにそんな状況にあるんだろうか。
 もしそうなら、こんな悠長にしている場合ではないのだが、実際のところどうなのか、この塚地という年くった刑事にはまったく底意を表さない。
「うん? どうかしました?」
 と、俺を不思議そうに見返して言う。思わず目を逸らした。
「いえ、……なんでもありません」
 塚地は手帳を取り出すと、ぺらぺらとめくりだした。カバーの擦り切れ加減からすると、長年使い込んでいるらしい。折り込んだ頁がいくつもある。
「――ともかく、日浦さんと接触があったという事実は確認できました。となりますと、元川さんも複雑な心境でしょう? ちょっと顔を合わせたぐらいとはいえ、その人が殺人事件に巻き込まれるなんてことになれば、知らない顔ではいられません」
「そりゃそうですよ。というより、なんで事件なんて起こったんでしょう? ……恨まれていたとかそういうことなんですか?」
「なにか思い当たることでも?」
「いえ、言ってみただけです。ほら、民生委員なんてやっていればいろんなトラブルに首を突っ込むようなことが多かったりしませんか? その過程で、人に恨まれるようなことがあったとしてもおかしくないように思うんですが……違います?」
「それは、あなたの思い込みだと思いますよ。民生委員には強い権限なんてありませんからね。それに嘱託というのはボランティアみたいなものですから、いわば奉仕精神でやってるわけです。それがどうして人に恨まれるというのですか」
 そこまで言うと、顔を上げて視線を宙に浮かせた。
「でもまあ、私生活に関わることを調べられるとなると平静ではいられなくなってくる人がいますから、場合によってはトラブルに巻き込まれてしまうなんて場合もなくはないでしょうね。だから、全く否定はしませんが。とくに特殊な事情を抱えた人は、攻撃的になることもあるでしょうからね。実際どんなことが起こるかなんて、予想はつかないでしょう」
「その特殊な事情って……なんです?」
 俺は警戒心を強めながら尋ねた。
「たとえば、裏に人には言えないようなことを抱えている人たちのことですよ。私は警察官ですから、犯罪歴なんかが真っ先に頭に浮かびますが」
 犯罪歴。
 どきりとした。
 俺はまだ逮捕されたことはないが、いつ縄に掛けられてもおかしくないだけのことをしている。その言葉を聞いて、平静ではいられない。
 塚地も日浦のリストに入っていた俺について、何かしら後ろ暗いところがあると睨んでいるんだろうか。疑っているってことだけは間違いない。
 俺の危機感はかなり高まってきた。
「――あの人とは、正直、もう関わり合いを持ちたくないんですよね」
 と、俺はつい堪らず口に出してしまう。
「それまたどうして?」
「姉さんの状況ですよ。旦那さんがまだどうなっているのか分からないって言うのに、余計に心を掻き乱すような、今後どうするなんていう話を持ち出してきて……」
 言葉に怨嗟を臭わせてしまっていた。これでは自分から疑ってくれと言っているようなものだ。
 でも、塚地は意図してのことかどうか、受け流すような応じ方をした。
「日浦さんとしては放っておけなかったんだろうね。それより、彼女はどうやって深瀬さんのお宅の事情についていち早くキャッチして、行動に出たんだろう。私はそちらの方が気になっているね」
 あ――と、思った。
 確かに、何かはっきりした情報を掴まない限り、噂を聞いただけでいきなり訪問するような真似は、いくらなんでもやらないだろう。世帯ごとの収入状況を直接調べる権限なんて、あの女は持っていなかったのだ。
「そういえば、その問題がありました」
「一つ可能性を挙げるなら、深瀬さんが相談したって場合だね。それだったら簡単に説明できてしまうんだけど」
「それはないですね」
 俺はかぶりを振って言った。
「はっきりそう言えるのですか?」
 ええ、と彼の目を見て、うなずいた。
「かすみ姉さんはそんなことを相談できるような人じゃないです」
 調子のいいときは、俺の前では強がりばかりを見せる人だった。それは今も昔も変わっていない。弟の俺だから弱みをみせたくないとかそういうことではないはずだった。なるべく人には負担を掛けたくないと普段から思っている人だったから、どんなことでも自分のことは自分でやろうとこだわって突き進む人のはずだった。
 もし、本当に姉さんから相談していたというのだったら、その時はそれだけ追い詰められていたってことになるだろう。
 民生委員とはいえ、赤の他人に相談するほど、かすみ姉さんは切羽詰まっていたのだろうか。
 家計が逼迫していたのは確かだが、その一方で、ご飯を作るほど元気があるんだから……と自分で言うぐらいだから、何一つできないというわけじゃない。一応、部分的には、自分を保てているのだし、俺との意思疎通もできている。それは、確信を持って言えることだ。いや、それこそが真実だ。俺はいつも姉さんの傍にいる。だからこそ、姉さんの乏しい表情の奥にある本当の顔を、ありのままに受け止めているはずだ。
「――間違いないです。姉さんは、そういうことを相談するような人じゃないです」
 胸を張って言った。
 塚地は腕を組むなり、難しい顔を作った。
「だとしたら、誰かが報告を入れたってことになるな」
「と言うより、失踪した旦那さんは警察官ですよ。そっちの管轄になる管理情報なんだから、そちらから報告があったんじゃないですか?」
「そんなことはあり得ないね。いくら民生委員とは言ったって、一般人だ。警察の内部事情に関わりかねない情報なんて提供できると思う? そんなことをしたら、うちらはいくら首があったところで足りないよ」
「というか、貴志さんの失踪って、内部情報扱いだったんです?」
「そういう風には聞いていないけど、何も情報がない今は、そういうことに発展する可能性もないわけではない。だから、ある意味、管理情報なんだよ」
 情報がないというのは、では本当のことなのか。
 結局まだ何も分かってないと知って、俺は肩を落とした。ほんの少しでも新しい情報があれば、かすみ姉さんの心を癒せるかもしれないのに、期待しても無駄なようだ。
 それにしても五年経つのに何も手掛かりもないままだなんて、いったい貴志さんの身に何が起こったというのか。
「この話は、もう止しておこう」
 塚地は、少し慌てたように言う。
「どうしてです? 俺としては、まだまだ話をしたい所なんですけど……」
「今日ここに来た目的はそれじゃない。日浦さんのことについてだからだよ」
「でしたら、日浦さんの話をしますから、そちらの話ももう少し続けてもらうなんてことはできません?」
「無理だね」
 塚地はきっぱりと言った。
「でしたら、俺もこれ以上は話したくないです。ここらで、打ち止めにしませんか?」
 塚地は苦い顔で歯噛みしてから、うなずいた。
「仕方ないな。だったら今日の所は、これぐらいにしておこう。だけど、何かあったときにはまた付き合ってもらうよ。その時は、よろしくね」
 言い置いて、塚地は退散していった。
 
 
 
 
第二章
 
 警察官が失踪する事件は多くはないが、稀というほどでもない。過去にもいくつか、同様の失踪が何ケースかあった。たいていは自らの意志による失踪で、動機はだいたい、将来に不安を憶えた事による逃避と考えられた。しかし未解決のケースも含め、何者かによる拉致という可能性も完全には排除しきれなかったことから、そのほとんどが公開捜査になっている。
 深瀬貴志の場合は、その慣例に倣わない取り扱いとなっている。通例のケースとは様相が異なることが理由だった。制服、拳銃、実弾五発、手帳、警笛、手錠、特殊警棒といった支給品は何一つ持ち出されておらず、彼に与えられたロッカーに全てが残されたままでいる。
 深瀬貴志は私服姿のまま、どこかに消えたのだ。
 直通の携帯番号は失踪当日からずっと使われていない。
 塚地は、報告書ファイルに貼られてある深瀬貴志のポートレートを見つめる。スポーツ刈りの快活そうな青年だ。一見したところ、自ら事件に捲き込まれるような、危うい気配は感じられない。
 資料室のドアにノックがあった。
 応ずると、戸が開く。
「やっぱり、ここにいました」
 姿を見せたのは、菊池だった。塚地よりも一回り年下な上に警部と警部補という階級差もあったが、ものの考え方が似ているところがあり、なんとなくウマが合う同僚だった。現場で何度も行動を共にしている。
「何か、用でも?」
「深瀬のケースを調べているんですよね? 関係者から聞きました。でしたら、いろいろ話せます。こっちは上からの指示で、深瀬の近辺をあさっていたところだったんです」
 かれこれ一ヶ月も独自に調査を続けていたのだという。深瀬貴志の、羨んでしまうほど固い経歴、出自はもとより、この事件の経緯についてしっかり把握しているようだ。
「なんと、そうだったのか。それで?」
 彼はゆっくりと首肯し、横に目を流した。
「自殺の可能性があるかどうかという調査だったんですけど、その可能性をシロにする情報が出てきました」
「なんだって?」
「失踪直前に、所属先の署ですれちがった同僚とやり取りしています。その中で『おれにはやらなくちゃいけないことがある』と口にしていた事実があったそうです。この同僚は警察学校時代の同期の仲間です。その日だけは本庁勤務だったようで、あとから落ち合おうと口約束をしたっていうことでした」
「やらなくちゃいけないことがあるっていうのは?」
「朝の忙しい時間での対面だったらしいですからね。突っ込んだことは聞けなかったみたいです。でも、かなり大事であるのは表情からして分かったようです。今思えば思い詰めたような感じがあったのかもしれない、とも証言していますよ」
「それって、最新情報なの?」
「ええ。すでに報告には挙げていますが、そう受け取ってもらっていいですよ」
「意図的な失踪だった可能性が高いわけか。となると、見つかったその時には身柄拘束という扱いになるんだろうか?」
 菊池は静かに首肯する。
「それは、ご想像の通りですよ。拳銃こそは持ち出していないものの、基本過去のケースと同じ扱いになるはずです。職務的な禁忌を犯したんですからね」
 今後、深瀬貴志が姿を現したとしても、歓迎されることはないというわけだ。容疑者同然に取り囲まれ、取調室に押し込められて、これまでの経緯を洗いざらい調書に取られることになる。
 いや、失踪してからもう五年が過ぎているのだから、もう少しは慎重に扱われるかもしれない。過去の事案では、失踪していた期間はせいぜい一週間くらいなものだった。五年間もの行方知れずというのは、かなり特殊なケースなのだ。
「報告書には全部、目を通されたんですか?」
 と、菊池は塚児が開いていたファイルに目をやって問う。
「斜め読みだけれどね。一応把握しているつもりだよ」
「そのファイルには記載されない情報がありますので、お知らせしときます。通勤用のマイカーが放置されていた付近の監視カメラ映像から、移動する深瀬の姿が確認されています。地下鉄のある北側に向かったようで」
「地下鉄か……、なら地下街の監視カメラ映像から追跡できるのかもしれないね」
「それが、いまだに確認できていないんです。朝のラッシュにぶつかっていますからね。あえてその時間帯を選んで動いたのかも」
「計画的な失踪ってことか……」
 いったい深瀬貴志に何があって、職務を放棄してまで行方をくらましたのだろう。
 勤務態度に欠点はなく、病気や金銭、女性関係のトラブルもない堅実な警察官。しかも立派な家柄だ。それがある日突然、身を投げ出すようにして消えてしまった。
 突発的に見えて計画的。何者かに唆されたのか。深瀬貴志の身近に、不穏な人物が近づいていてはいなかったか。交友関係だけでなく、彼の出自、深瀬家にまつわる人間関係まで当たってみる必要があるのではないか。
 すでに対応班がやっているのかもしれないが、深瀬はそこにタッチできないから、ここから先は個人での捜査になる。
「何か引っ掛かっていることがありそうですね」
 と、菊池が塚地に向かって誘い掛けるように言う。
「失踪と、日浦の事件との関連性について考えていたんだ」
「なぜです? 全然、別物でしょう」
「そうとばかりも言い切れないんじゃないかな」
 たとえば、と塚地は指を立てて続ける。
「日浦女史は深瀬の細気味に接触していたんだ。あまりはっきりしない理由で、ひょっとしたら妻を夫をどこかにかくまってる、なんて情報をどこからか掴んで、押しかけて問い詰めようとした……その挙げ句の事件――こういう筋書きだって考えられないか」
「変わった見方ですね」
 からかうような口調だった。
「深瀬の奥さんが今、どのように暮らしているか御存知でしょうか? 旦那はまだ警察官として登録されたままで、長期休養扱いです。給与は出てないし、生活保護も受けていません。そんな耐久生活を何年も続けられるって言うんですか?」
「そうしなければいけないだけの理由があったなら、そうするんじゃないかな?」
「五年も姿を消して、自ら追い詰められるに値するだけの理由? 自分には到底理解できないことですね。普通じゃ、まず考えられません」
 普通に考えれば、菊池の答えは当たり前だ。けれど、深瀬の案件は通常のケースに当て嵌めると、実相が見えなくなってしまう例外的なパターンなのではないか。塚地にはそう思えてならなかった。
 
 深瀬貴志の妻である、かすみの交際関係を洗い直したところに浮上したのが、友人の一人である天堂章恵だ。エステサロンを経営していて、洒落た個人事務所を街道筋に構えている。
 塚地が店を訪ねると、タイトな制服でぴっちり身を包んだ従業員が応対した。社長は今お客があって、終わるまで十五分は掛かるとのこと。待つ間、隅の小テーブルに用意されたお茶を啜りながら店内を観察した。コーニスライトを採用した、小さいながらも高級感溢れる内装。フロント奥に掲げられた金属プレートの看板を見る限り、外観にだけはかなりのお金を掛けている。床の絨毯も豪華な物で、塚地が上で飛び跳ねても音がしそうにないくらい分厚かった。
 茶をゆっくり飲み干した頃、応接室のドアが開いた。背の高い、肉感的な女性だった。年の頃は四十ぐらいに見えるが、実際は五十を過ぎているのではないか。オレンジのアイシャドーが入った少し派手目な化粧が歳を暗示している。巻き毛にまとめているのは少しでも首回りをすっきりさせるためだろう。職業柄、見栄えを人一倍気を遣っているようだ。
「お待たせしました」
 天堂章恵は丁寧なお辞儀をして、塚地の正面にしとやかに腰掛ける。塚地はすかさず名刺を差し出した。両手で受け取った彼女は首を傾けて、それをじっと眺める。そのあいだに、塚地は来訪目的を大まかに説明した。深瀬かすみさんのことでお聞きしたい、と。
「――あの子が、疑われているってことなんです?」
 と、彼女は表情を見せずに問い掛ける。
「そういうことではありません。たくさんの情報を集めなければいけませんので、その流れでご協力願いたいだけのことですよ」
「そうですか。たしかに、あの子の近所で人殺しがあったのだから、そういうことになってしまうかもね。あんな怖いこと……一生の内に一度あるかないかってぐらいだよね」
 ひとまず納得してくれたようだ。
「それで、あの子のどんなことを?」
 と、彼女は名刺を手に持ったまま尋ねる。
 塚地は自分の体温の温もりを意識しながら、柔らかいソファの上で居住まいを正し、天堂に向き直った。
「まずは、被害者の日浦さんのことですね。あの女性は深瀬さんの家に出入りしていたという事が分かっているんですが、あなたは御存知でしたか?」
「出入りしていた? そんなことは知らないけど……。そうだったんです? と言いますより、その人って民生委員だかをやっているお方でしたよね? それがどうしてあの子のところになんか……」
「詳しい事情はまだ押さえていないんですが、生活支援の相談役として接触していたようです」
「生活支援? あの子、そこまで困っていたって言うの? そんなことはないでしょうに」
「警察官をやっている旦那さんが失踪しているのは御存知ですよね? でしたら、彼女に収入がないのもお分かりでしょう。かれこれ五年にもなるんです。さすがに、暮らしを立てるのは厳しいと思うんですが……」
「でも、こないだ電話でやり取りしたとき、あの子はいつも通りだったわね」
「こないだというのは、いつの話です?」
 彼女は頬にぺたりと手を押し当てた。爪の先まで小綺麗にしている。こういうところの客は細かいところにも目敏いのだろう。
「いつだったかしら。三ヶ月前ぐらいかしら? そのちょっと前にも連絡を取ったことがあったわね」
「何の話をされたんです?」
「お友達だから、ふつうに日常のやり取りよ。そうそう、わたし近々、タイの方に旅行に行くつもりでいて、その報告をしておいたの。あの子も誘ったんだけど、あっさりと断られちゃった。でも話しぶりは、いつもよりもちょっと明るく感じたぐらいよ。しっかり覚えてる。だから、そんな刑事さんの仰るほど、切羽詰まってたなんて思えないわね……」
 どうも、かすみは自分の生活の実情を、彼女には伝えていないらしい。見栄を張ってでもいるのだろうか。あの弟、大祐の前では、調子が悪くない時は姉らしい態度を取るという話だから、他人の前でも気丈に振る舞うということか。
「本当にその時、明るい調子だったんですね?」
「ええ、間違いなく……」
「でしたら、今の彼女の――……いえ、なんでもありません。この話はちょっと飛ばしましょう」
 うっかり、職務上の秘密を口にしてしまうところだった。
「――もしや、鬱病のことを言おうとしたんです?」
 と、彼女はすぐさま引き取って言った。
 勘の鋭い人だ。
 塚地は気後れを感じた。感服に近い念を、彼女に覚えたのだった。この天堂章恵という女性は、もしかしたら、深瀬かすみについて多くは知らないふうを装いながら、その実、深く気に掛けているのかもしれないと思った。
「……そこは、知っていたみたいですね?」
 腹を探るつもりで問いかけてみる。
 はい、と小さな声で答えた彼女の顔が、翳った。
「……それは、ずいぶんと前から知っていることです……、今日にはじまったことなんかではないんですよ」
「事情を知っているんでしたら、隠す必要はないですね。精神科のほうに通院していることも知っているということでいいですね?」
「はい……、どこの病院に掛かっているのかも分かっています。もしや、また調子悪くなってきたんです……?」
「そうですね。彼女は部屋に引きこもったまま、動けなくなっている時間が増えているということでした」
「それはいけないわ……。だったら、すぐにでも電話しようかしら?」
 少し青ざめた顔になって彼女は言う。
「それは、どうか後に。もう少し私にお付き合いください」
 天堂は顔に手を押し当て、深いため息をつくと、ゆっくりと背をもたせかけた。
「なんだか、ちょっと色々心の整理がつかない。今あの子に会っても、かえって迷惑になりそうだから、そうね、もう少し時間をおいた方がいいかもね」
 彼女は顔を上げると、日浦さんのことだったわね、と口調を変えて切り出した。
「残念だけど、わたしは何も知らない。一度も会ったことがないし、あの子から聞いたことだってなかった。話せることはないわ」
「……のようですね。深瀬さんの暮らし向きもご存じないんですから、ま、そうなりますか」
「そこ、突っ込まないで。わたしなりに、けっこうショックなんだから」
「本当に、深瀬さんはあなたに家庭内の事情を告げることはなかったんですね?」
 彼女はさらに深く椅子にもたれて、ため息をつく。
「思い返してみても、おかしいところはなかったと思う。あの子は、あの子のままだったわ」
「普段から弱みを見せたりしないお方ってことなんですね」
「……わたしは、そうでもないと思うの。けっこう落ち込みやすい子だから、悩みとか打ち明けるときは一気にぶちまける子だと思っているけれどね。でも、今の話はちょっとびっくりだった。そんなことになっていただなんて……」
 電話で明るく振る舞う、深瀬かすみ。塚地には、暗く沈んでいる彼女が、面を付け替えるように顔や態度を取り繕い、普段通りを装う姿が想像できる気がした。なけなしの気力が、そんなことをすればなおさらすり減っていくことだろうに。それでもそうせずにはいられないのが、彼女の性格の悲しいところだ。
「旦那さんの話もするようなことはなかったのでしょうか?」
「そこは、お互い触れないようにしていたから……」
「では、あなたが彼女と連絡を保っていたのは、励ますためでもあったんですね? そこのところに気を遣っていたって事は」
「それはある。だけど、基本そんなこと関係なしに、友達としてやり取りしていたつもりだけど。わたしたち、必要以上に気を遣うようなことはしないことにしているの。そうじゃないと、長くつづかないじゃない?」
 天堂章恵と深瀬かすみの付き合いは七年、けっこう長い。自己啓発本を出した作家のセミナーで隣同士になったのが縁の始まりだったという。お互い、それぞれの友人と一緒に行く予定だったが、ともにキャンセルを食らって仕方なしに一人で出席することになったのだった。会場入りしてからセミナーが始まるまで随分と時間があった。そのあいだに顔を合わせた二人は、どちらからともなく声を掛け、なんとなく会話が始まった。目当ての作家が著した同じ本を二人とも読んでいたことが話題となり、すぐに盛り上がって、止めどないおしゃべりになった。
 天堂章恵が感じたところでは、深瀬かすみは素直で、人当たりのいい女性だった。品性が感じられるところが尚のこといい。女性として洗練されたものを持ち合わせていた。商業的な美容法の力で外見を整えている自分とは、基本的に異なる何かを感じた。すぐに、友達になってほしいと思った。食事に誘うと、二つ返事で承諾してくれた。雰囲気が尻すぼみになることもなく、お互い盛り上がったまま、終電の時間を迎えた。とても楽しい時間だった。
 以来、定期的に会うようになった。多いときで週二、三回は顔を合わせた。会えないほど忙しいときだって、長電話のやり取りくらいはした。旦那である深瀬貴志が警察官であるという話を聞かされたのは、半年ほど後、天堂が経営する店にかすみを招いた時だった。 「とにかく、思いやりが強い子なのよ、あの子は。誰かが困っていると放っておけないし、一緒になって苦しむような子なの……」
 その言葉に、塚地は考え込んだ。ということは、深瀬かすみが重い鬱に陥ったのは、夫が負っているであろう、何らかの苦難を、そのまま自分も背負い込んだ結果ということにならないか。
「今回の事件が彼女に与えるだろう精神的な負担も、ご心配ですね?」
「まあ、そうね。その人との関係がどんな風だったのかは分からないけれど……、しばらくはかなりつらいんじゃないかな」
 事件直後、塚地が聞き込みのために訪ねた際のかすみは、それほど弱った感じには見えなかった。落ち着かない様子ではあったが、塚地の注意を引くほどではなかった。ショックが後になって効いてくるタイプの人間だったのだろうか。だとしたら、ちょうど今ぐらいが、一番きつい時期かもしれないことになってくるのだが。
「――それで、話は飛ぶんですが、彼女に弟さんがいることは御存知ですか?」
「ああ、はい。大祐くん。知っていますよ」
「会ったことがあるんですね?」
「何度か、ね」
「彼についてもお聞かせ願えません?」
「普通に、あの子の顔を見に出ていったら、家の方に大祐くんが来てたってだけのことですから。その時はちょっと寄っていくだけだったのですぐに帰りましたので、面と向かって話すようなことはしていませんね。でも、ちょくちょくあの子から大祐くんのことは聞いています」
「何を話していました?」
「大祐くんは関係ないでしょ? それも、話さなくちゃいけないことなの?」
 彼女は眉間に皺を寄せ、少し不愉快そうに言う。
「今回、出来したのは殺人です。言うまでもなく重大事件ですから、どんな些細な事でも疎かにはできないんです。結局事件とは無関係な話だったとしても、そうだとわかるのは、後になってのことですからね」
 天堂章恵は、まだ納得いかなさそうに口を尖らせてみせた。それから口を開き、あの子は……と、呟くように話し始めた。
「かすみさんにとって大切な弟さんよ。それだけは間違いなく言えること。なんでもお母さんを早くに亡くした家庭で育ったみたいだから、ある意味、かすみさんがお母さん代わりみたいなものなのよ。いつも一緒って感じね。わたしでさえ割って入ることができないぐらいに、仲がいいの」
 深瀬かすみの母親が心疾患で早世していることは調べ済みだった。かすみが中学生の時だ。以来、父親と三人暮らしだったが、その父も彼女が二十五歳の時に脳溢血で亡くなっていた。現在、彼女の親族は、遠く離れた土地で暮らしている祖母を別にすれば、弟の大祐だけなのだった。
「そこまで仲睦まじい姉と弟って、私はこれまでに見たことがありません。今時珍しいでしょうね」
「そうです? わたしは、別にそうは思わないけれど」
 天堂章恵はそこで背を起こした。いつものビジネスモードを取り戻したらしい。姿勢をただしただけで、印象が切り替わる。
「――ともかくあの姉弟は、親友のあなたが羨むぐらいの仲だった、と?」
 そうね、と彼女は肩をすくめて言う。
「これは旦那さんが失踪する前からだけれど、出張なんかで留守の日の夜はきまって大祐くんを家に呼んで、二人で食事していたみたい。それを聞いた時わたし、なんだかそれって不倫の図みたいで、知らない人が見たらちょっと気になるねなんて言ったら、あの子は笑って返して。そんなんじゃないからって冗談みたいに言ってから、放っておけない子なの、とか言ったわね。その時、なんだかとっても優しい顔になってた。本当に母親みたいな感じだったと思う。それで思ったの。ああ、この子から大祐くんを切り離すことはできないんだなって」
 傍から離すことができない、放っておけない人……。
 それは、弟の方でも同じだったのだろう。現に、大祐は姉のために、自分を犠牲にするかのような支援を続けている。そんな彼に日浦が目をつけたのは、大祐が姉に渡す金の出所に疑問を覚えたからだ。その点はすでに捜査関係者が注視するところとなっている。いくらか不自然な観のある、あの青年の収入状況。
 元川大祐は窃盗をはたらいている可能性がある――
 あの時もそうだ。
 大祐は、仕事帰りに立ち寄ったスーパーで羊羹を一つ取って、バスケットに入れようとしていた。その直前に塚地は声をかけたのだったが、あのまま何もしないでいたら、どうなっていたのか。彼はそれを、自分のポケットに突っ込んでいた――そのはずだ。塚地の目にはそう見えた。
「二人が離れるようなことがあったら、どうなるんでしょうね」
 と、塚地はなんとなく口にした。
 彼女はゆっくりと首を振った。
「それはあり得ないことですよ。あの子たちは、強く結ばれている恋人のようなそんな関係なんだから……。運命だ、なんてのは恋愛関係に云う言葉だけど、兄弟にだって当て嵌めていいと思う。って、急にそんなことを言い出したのはどうして?」
「ご心配なく。別に引き離してみようなんてしてるわけじゃないですから。ただ、あの姉弟は、今度の事件と無関係じゃないことだけは間違いないんです。被害者と接触があった以上、しばらくは我らに関心を持たれることになります。場合によっては、署までご同行願うこともあるかも」
「そんなこと……」
 彼女はまた、顔を緊張させていた。そんな扱いはかすみには相応しくないとでも訴えたいのだろう。
「――わたしがあの子に会いに行って、あれこれしても問題はないですよね?」
 と、天堂章恵は勢い込んで言った。
「あれこれというのは、支援するってことですか?」
「はい」
「それは、彼女が望まないことじゃないでしょうか?」
「あの子なら、きっとそう言うわね。だけど、そんなことを言っている場合じゃないでしょう? あの子ったら今まで、わたしにまで嘘をついて自分の窮状を隠してきたんだから、一度洗いざらい問い質して、その上で、あの子を助けてあげたいの」
 使命感を負ったような顔つきを見せていたところに、塚地は引っ掛かるものを感じた。
 塚地は誘い掛けるように、その点を問い質した。彼女は思いのほかあっけなく、自分の過去を語った。
 天堂章恵は幼少の頃、貧しい暮らしだったのだという。両親は働き詰めに働いているにも関わらず、食べ物にも事欠く毎日……。いつも、空腹を抱えて、その日その日を過ごしていた。友達が口にのぼせる憧れの食べ物、高価なケーキや豪勢な料理の話などにはついていけなかった。憧れるどころか知りもしなかったからだ。
 努力を重ねて今の地位を得たのは、そうした過去からの反動ということもあるようだ。その頃の自分の思いを忘れられないから、困った人を見ると助けずにはいられないのだという。
「実は、支援はもう、間に合っているんですよ」
 塚地がそう言うと、彼女はおや、という顔をした。
「もしや、大祐くんが手助けしているってことなのかしら?」
「ええ、その通りです」
 やっぱり、という顔になった。
「じゃないと、おかしいわよね。でも、その大祐くんだって限界があることでしょうに。金銭的なことなら、わたしに任せればいいのに。ちょっとぐらいの蓄えならあるつもりだから」
「以前に、深瀬さんを経済的に助けたことがあるんですか?」
 彼女は首を振った。
「ないわ」
「でしたら、断られる可能性が濃厚ですね。お金をも無理強いしたら、深瀬さんに絶交されかねませんよ。よしておいた方がいいと思います。それだけが支援ではないのですから……」
 塚地は努めて天堂の立場を考えていた。しっかり助言になったかどうかは、彼女の受け止め方次第だ。
 ともかく、深瀬かすみと天堂の間に金銭のやり取りはなかったようだ。それは確認できたと言っていい。
 
 一旦署に戻り、すぐに刑事部屋に入った。すると、菊池が資料を携えて塚地の元へとやって来た。
「これに目を通してください」
 と、綴じられた報告書のコピーを机の上にそっと置く。塚地は早速目を通した。元川大祐の交際関係に関する調査結果だった。素性の知れない者との接触があると記されている。やはり暗い影があったわけだ。しかし詳細はまだ不明で、なお調査中とあった。
「はっきりとは確認できていないのですが……、窃盗団に関わる人物である疑いが強いようです」
 元川大祐は窃盗団の構成員ではないが、彼に繋がる人間の中に、そういう組織に属する人間が混じっているということらしい。
「だったら、元川はもうクロの路線で固まってしまっているのか?」
「別件ですけれどね。ですが、問題になっている窃盗団――『白蛇』の周辺には強盗殺人をやらかした人間もいることから、油断はできないって状況です。しかも悪いことに、今度の殺しの手口と酷似しています」
 白蛇――財運の神様弁財天の化身とされる生き物だ。犯罪者集団が縁起担ぎとは、実に気色の悪いことこの上ない話だが、稼ぎたくとも思うようには稼げない、今の世相を反映しているとも言えた。
 ともかく、白蛇。この名前が出てしまったからには。
 元川大祐の件は、確実にそちらに転がっていく――、そうなると万引きや単なる窃盗犯には留まらなくなる可能性が高い。
「菊池くんはどう見ているんだ?」
 と、塚地は尋ねた。
「自分に関して言えば、クロの線で間違いないんじゃないかと」
「もう、確信しているってぐらいなのか?」
「そこまでじゃありませんよ。経験から言えることを述べたまでです。まだ中身を詰めたわけではありませんから、ひっくり返ることはあり得ます。ですが、真っ新なシロというわけにはいかないでしょうね……」
「なるほど、そうか……」
 元川大祐は、捜査線上に留まり続ける人物となる。余罪が多いと考えられるなら、もっと大きなものが出てくる時まで泳がせておくのが捜査の常だった。今回は、どこまで引っ張るのだろうか。
「何か、思うところがありそうですね」
 と、菊池が言う。
「思うところと言うか、元川に目をつけたのはこの私だよ。だから、譲る気なんてないんだ。本部が絡んできていいとこだけもっていくというのは、納得できないな。もし動けるとしたら、あとどれぐらいの猶予があるのか?」
 彼は小首を傾げた。
「よく分かりませんね。すでに殺人事件が起きているわけですし、被害者の日浦が、最も目を付けていた人物としてクローズアップされているわけですから、いますぐにでも専従班が組まれてもおかしくはないでしょうね」
「そういう動きがあるのか?」
 彼は首を振った。
「感知してません」
「掛け合いの一つ二つも掴んでいないとは思えないけれどね」
「暫定的な事も含めていいのでしたら、もう動きそうってことだけは言っておきます」
 それほど猶予はない。あと三日かそれぐらいだろう、と塚地は読んだ。
 
 日浦が残したノートのリストアップされていたのは、元川大祐だけではなかった。七世帯の家庭について記載されていた。そのうち、藤枝という六十過ぎの婦人に、前科があった。
 みすぼらしい区営住宅の一角で静かに暮らしているが、聞き込みで、時折男性を連れ込んでいるらしいという情報を塚地は掴んだ。
 被害者の話を切り出すと、藤枝は渋面になり、
「あんなババアのことなんか、思い出したくもないね」
 開口一番、ののしった。
 年の割に随分とバイタリティーに溢れた女性だった。豊満な肉体に妙な色気がただよっている。結婚と離婚を五回も繰り返している履歴も、さもありなんと思わせる、塚地の同世代の男性が引き込まれるだけの容色を持っていた。
「何か個人的にイヤなことでも言われたんですか?」
「そうね、うんざりとするほどたっぷりと言われてきたわ。そして、されてきた。とことんイヤミなやつなの、あいつは。特に、私の評判を下げることに掛けては天才的だったわ」
 さながら脱税調査に乗り込んできた国税庁職員だったという。藤枝のことを端から犯罪者と決めてかかる態度で、顔が潰されるくらいの話では済まなかった。
「――あのババアは近所に自分の名刺を配っていたのさ。なんでそんなことをしたかっていうと、本人は情報収集と理解のためということだったけれど、あれは違うね。当て付けさ。私を追いつめてやりたかったのさ。そんなことをされてご覧なさいよ。あっという間に、評判なんて地に落ちるよ。誰でも陰口をたたかずにはいられなくなるの。案の定、私はそういう対象になったのさ。本当に、疫病神みたいな女だったよ」
 聞きたいことがあるなら密会にしてほしい、おおっぴらに訪ねてこないでくれと何度も言ったが、日浦は聞き入れなかった。真っ昼間、自宅に日浦が姿を見せるたびに、藤枝の尊厳は踏みにじられた。 非難でもすれば、すぐさま持論をふりかざして、意地でも屈服させようとしてくる。こちらの立場が弱い上に、付け込みの勘所を日浦は熟知していた。
 日浦についての藤枝の悪態は尽きることなく続く。よっぽど溜まっていたらしい。
「どういう人だったにせよ、日浦さんはもう、亡くなられたのです。故人の品性を貶めるのは、もうそれぐらいにした方が」
 塚地がたまらずたしなめると、藤枝は面白くなさそうに頬をゆがめた。ふん、と鼻を鳴らす。
「これまでさんざ貶められた私の品性はどうしてくれるって言うのさ? 前科があるってことを晒された上に、生活指導だなんて学校に通ってるガキん子じゃあるまいし。こんなに情けないことはないね。それとも、あんたも自業自得だとか言うんじゃないだろうね」 藤枝が日浦に対してもこんな喧嘩腰で接したのなら、どのみち、まともな談話にはならなかったことだろう。そこを何とか話し通すのが民生委員としての腕の見せ所だが、日浦は少なくともそれができるだけのスキルは持っていたわけだ。
 それにしても、日浦は前科を持った藤枝が怖くなかったのだろうか。塚地が参照した報告書によれば、藤枝はかつて殺人未遂を起こしている。当時同居していた夫の焼酎の中に工業用アルコール――つまりメタノールを混ぜ込み、毒殺しようとした。メタノールは、体内で消化されるとホルムアルデヒドに変化し、強い毒性を示す。これを藤枝は十二ミリリットル、焼酎に混入した。元夫はすぐさま体調に異変をきたし、ただちに病院に運び込まれた。胃洗浄などの応急処置で一命を取り留めたが、両目を失明した。担当医師はすぐに毒物の摂取によるものと見抜き通報、警察官が藤枝に確認したところ彼女はそれを認めたため、逮捕に至った。
 元夫が毎日のように振るう暴力に耐えられなかったから、という理由だったが、その後の裁判では暴力の事実は認められていない。藤枝の身勝手な逆恨みによる犯行とされ、そのまま決着がついた。
 それから二十二年が経過しているが、藤枝の人相は当時とあんまり変わっていない。老いは隠せないが色気を保っていて、過去のポートレートと今の顔を見比べても、受ける印象は変わらなかった。時の経過を感じさせず若やいだままいる人というのはいるが、この藤枝という女性は、少し異なるタイプの年齢不詳だった。
「私は、日浦さんの肩を持つわけじゃない。単に中立です。あなたの口振りは、いささか気になりますよね。このまま、何事もなかったように見過ごすわけにはいきませんね」
 藤枝は何を思ったのか、ふうん、と唸るなり、柔らかな息をついた。
「お巡りさんは、あくまで公平ってわけ? だったら、悪くないね。私なんかは真っ先に偏見を持たれる人だから、あんたみたいな人は貴重だよ。本心で言っているならの話だけどね」
「本心ですよ」
 塚地は、真剣な眼差しで彼女を見た。
 見返してきた藤枝の目の中に、頼もしい、とでも言いたげな色が見えたのは、気のせいだろうか。
「だったら、きっとあんたとは気が合うよ。どう? 中に入って、お茶の一杯でも飲んでいかない?」
 メタノールによる殺人未遂がふと頭を過ぎった。意識せずにはいられないが、二十二年も前のことだ。
「一杯だけ御馳走になりましょう」
「はい、どうぞ」
 玄関ドアが大きく開かれた。塚地は中へと請じ入れられる。藤枝の棲み処は、割合こざっぱりとしていた。冊子類はちゃんと重ねて積んである。電話器は手製らしい小綺麗なカバーで包まれていた。縁の欠けた丸盆で緑茶が運ばれてきたのは、座ってからずいぶんと経ってからのことだった。
 その後の話は事情聴取から逸れ、どうでもいいような四方山話へと移ろった。藤枝の暮らし向きは、自己評価ではあるが、そんなに悪くはないという。日浦が面談を求めてきたのは、地元の保護司との繋がりからということだったが、たぶんこれは本当だろう。日浦が再任を重ねて長く民生委員を務められたのは、地元の篤志家に多くのコネクションを持っているからだ。
「――もう一度、日浦さんの話をしたら、ダメでしょうか?」
 と、塚地は持ち掛けた。足を崩して、斜めに座っていた彼女はのんびりとした様子を変えずに、そっと足を組み替えた。
「そのつもりで中まで入ったんでしょうに? ですから、いつだってどうぞという感じです。でも、あの人の話となると、私も落ち着かなくなってくるから、手短にお願いしたいわね」
 分かりました、と承諾してから塚地はあらたまって言った。
「知りたいのは、最後に顔を合わせたときのことですね。やっぱりと言いますか、あなたの心証そのままにずっと険悪な感じだったんでしょうかね。門前払いしようとしたとか?」
「まあ、そうね。あの人は何を言い出しても、癪に障るようなことばっかりだから、できれば喋って欲しくないんだけれど、その日もやっぱり例外ではなかったのよ。なんというか、こっちの事情でしかないことを突っ込んでくるのよ」
 またもやその時の怒りが再燃したらしい。彼女は火がついたように滔々と語り出した。
 腐れ縁にもある程度気持ちの整理がついた頃、日浦に中元でも贈って機嫌を取ってみようかと思いついた。デパートで当たり障りのない、でもちょっとは喜んでもらえそうな品を選んで届けてもらった。すると日浦はその包みを抱えて現れ、「あなたの生活がにじみ出ているわね」と、皮肉たっぷりに言って突き返し、その品の値段を指摘したのだった。わざわざ自分で調べたのだ。
 その時の屈辱を脳裏に再現したと見え、藤枝の眉間には深い縦皺が寄っていた。些末なことではあったが、塚地としては看過するわけにもいかない。記憶にとどめた。
「お気持ちは察しますよ。まあ、ここはそれぐらいで収めてもらって」
 塚地は彼女をなだめ、ひとまず話を中断させる。茶で喉を湿すように促し、落ちつかせてから、
「――今お聞きたいのは、その日、喧嘩別れのようなことにならなかったっていう、単に事実関係のことなんです」
 と、やんわりと切り出した。
「なあに、私があの人を手に掛けでもしたとでも?」
 藤枝は顎を引いて言う。怒りが燃え残っているようで、まだ顔は火照っていた。
「そういうわけではないですから」
「私がやってたら、さぞかし爽快だっただろうにね。……できれば、私のこの手でやってあげたかったよ」
「それは……冗談にしてもきついですよ。あなたを参考人扱いにしろとでも?」
「冗談のつもりで言ったわけじゃない。私は、本気で言ったのよ」
 塚地はため息をつき、目を閉じて深く息を吸い込んだ。気を取り直す。
「あなたがいかに、日浦さんを恨んでいるかはよく分かりました。その日浦さんが、何者かに殺されたんです。そのことを今、どう思っていますか? ここはひとつ、忌憚のないところを、伺ってみたいんですが」
 本音を聞き出さねばならない。塚地は率直に問うた。とはいえ、どういう本音が飛び出すのか分かったものではなかったから、内心はらはらしていたのだが。
「悔しいですよ」
 ぽつりと、彼女は言った。
「悔しい」
「ええ、そう。悔しいの。これが正直な感情ね。本当は、私こそがやってやるべきだったのよ。それを先を越されたんだから、こんなに悔しいことはない。……うん、この感情は本当よ。あの女がどっかの誰かに殺されて、せいせいするとかそういう気分よりもずっと、悔しい気持ちが大きいの」
 こともあろうに警察官に向かって、先に殺してやれなくて悔しいなんて訴える聴取相手ははじめてだ。こんなことは後にも先にも彼女ぐらいなものだろう。
「そんなことをこの私にぶちまけるなんて、どうかしてます」
 何とも言えない気持ちのままに言った。
「だったら、感情を抑えた丁寧な言い方をすれば良かったの? そんなことをしたら、私が言うことの何から何まで全部嘘になっちゃったかも」
「…………」
 何も言い返せないでいると、また彼女の口角が持ち上がった。
「ここは逆に考えてよ。気持ちをストレートに吐き出している分、手間がはぶけるって。いくらベテランの刑事さんだって、誰の心も全部お見通しってわけじゃないでしょ。その点私なんか、あけっぴろげでさっぱりしてて、刑事さんには付き合いやすいタイプだと思うけれどね」
 崩していた足を膝下に押し込んで正し、すっと背筋を伸ばして茶碗を口に運ぶ。なんだか堂に入った仕草だ。
「一口だけでも、飲んでくださいな」
 と、手付かずの湯飲みを塚地に示して言う。
 この期に及んで遠慮するとなると、あからさまな拒否になってしまう。
 いや、家の中に通されるところで、覚悟は決めたのだ。ここは腹をくくろう。塚地は湯飲みを掴み上げ、勢いよく呷った。自分でもすかっとするような飲みっぷりだった。
 渋みのある、インスタント特有の味だった。空になった底を確認したところで、テーブルに戻した。
「いい飲みっぷり」
 と、彼女は微笑んで言う。不快感も露わに激情を吐露していた先程までとは、これまた違う表情だ。猫の目のようにころころと変わる、本当に掴めない女性だった。
「約束してくださいよ」
 と、塚地は茶の渋みが残る口元を指で拭って切り出す。
「何をです?」
「自分がやってやるべきだったとか口にしないことをです。あなたの心中はお察ししますが、いくらなんでもそれはまずい」
「印象が悪くなった? ならそれも、そのまま受け止めなさいな」
 しれっと言う。気にもしていないという顔つき。どう思われても平気だというのは、何も今さら、という思いがあるからなんだろう。
「それで、どうなの? 私がやったんじゃないかっていう疑いは、あなたの中で増したの?」
 試すような口振りだった。
「それは分かりませんよ。少なくともあなたは、自分がやってやれなくって悔しい、つまり自分がやったのではないとおっしゃってるわけでしょう? そのお言葉は、確かに承りましたから。今日は単なる聞き取りですから、あなたを容疑者として探りに来たとかそういうわけではないんです。そこは勘違いなさらないよう……」
 彼女は上体をかしげて、窓の向こうを見やった。乾いた昼の世界がそこには拡がっていた。
「わかっているのよ、私が重要参考人だってことは。なにしろ前の旦那を殺しかけたんだもの。今度だってまた、とか思ってる人がどこかにいるはずよ」
「そんなことを口にしている人はいませんよ」
「口にはしなくても」
「本当ですから」
 塚地の言葉を軽く受け流して、藤枝は微かに笑んだ。
「本当かもしれない。でも、人のあいだには言葉にならなくたって交わされるものがたくさんあるのよ。目配せだけで、いいえ、ほんの顔色を見交わすだけで充分なの。私って、たぶんそういう、見えないやり取りの中に出てるのよ、きっと……」
 彼女が犯人である可能性は、ゼロではない。だから捜査線上にある。
 しかし日浦の殺害状況に照らせば、違和感が拭えない。
 鈍器による撲殺。その凶器は持ち去られている。おそらくは、流しの犯行と見せ掛けるために。酒に毒をたらし、しかもあっさり自供した藤枝には、どうもそぐわない。わざわざ殺しの趣向を変えてみたのか。
 犯罪心理学の観点からすると、それは考えにくい。殺人犯にとって凶器は〝強さ〟であり、〝自己顕示〟のシンボルそのものなのだ。だから、ころころアイテムを変えるようなことはしない。
 とくに毒物でもって人を殺める行為は、〝弱者の犯行〟と呼ばれるだけあって、特異な位置を占める。社会的立場や、環境などとの関連が強い。何より、凶行に伴う心的な苦痛を回避しやすいという特質がある。殺害を実行するにあたっての精神的な負担が小さいということだ。殺人を計画することと、実際に殺しをやりおおせることとの間には、大きな開きがあるのだ。加えて言うと、毒物には、多少の知恵と手間さえ掛ければ誰だって充分な実用品を用意できてしまえるという、困った利点もあった。
「自分を卑下するのはおよしなさいと言っておきます。何もいいことはありませんよ。やってないものはやってない、それでいいではありませんか。ほかのことなんて……」
 そんな見えもしない、人のあいだの空気みたいなものなんて、ちょっと風が吹けばどこかへ流れてしまう、その程度のものなんじゃないか。その思いは口にしなかった。
 少しでも疑念を持てば、可能性を完全に排除できるまでは、打ち消すわけにはいかない。自分は彼女を調べあげねばならない立場にある。今の言葉とは裏腹に、この先もまだ彼女の素行を洗っていくことになる。塚地には、自分自身に嘘をつけないらしい彼女の方が、まだ正しく生きているような気がしてならなかった。
 
 かすみの友人の中に、注目すべき人物がまた一人出てきた。駒沢結衣香という、保育士をしている女だ。通っていた短大時代の同じ学部の友人で、卒業後も今に至るまで、しばしば旧交を温めているようだ。塚地は彼女の家に赴いた。
 聞けば、事件後はまだ深瀬の元を訪ねていないという。連絡も取っていない。それは、かすみの力になるのは自分ではなく、弟の大祐の役目と分かっているからだと彼女は言った。
「本当に、仲の良い二人ですよね。いつかかすみが熱を出したとき、
看病に行ったんですけれど、でもわたし……ほとんど役に立てなかったの。行かなくても良かったみたい」
 なぜだか悪戯っぽく微笑んで言う彼女は、小動物を思わせる顔立ちだった。小心者の相が見えたが、口は快活で、立て板に水のごとく、よくしゃべる。
 看病するつもりで訪ねた時の、姉弟の様子。ベッドに寄り添う大祐。二人の手は、布団の中でしっかり繋がっていた。見つめ合う二人の顔にはやんわりとした微笑みがあった。恋人同士のような、甘い詩情がただよっていた。
「愛している」なんて、言葉にはしないものの、無言の会話が交わされているように見えた。見つめ合うばかりではなく、額を合わせる、肌をさするなど、スキンシップがやけに多い。それもただ触れ合うのではなく、熱っぽく視線を交わしながら、反応を見るように、ゆっくりと撫で付ける……。
 それはいくらか誇張した光景なのかもしれなかったが、それにしても姉弟関係を逸脱しかけているように思われた。どうも、尋常な結びつきではなさそうだ。
「だからね、今みたいにほんとに大変な時に、わたしが出向く必要なんてないの。大祐くんに任せているのがかすみにとって一番いいことなの。というより、わたしなんかが介入したらダメなの」
 組み合わせた指の上に小さな顎をのせて、結衣香は言う。
 夢見るような口ぶりで、やはり少し妄想が入っているような気がした。彼女にとって、そのイメージを忘れられないほど、かすみと大祐は特殊な位置づけをされているのに違いない。
 塚地はこほん、と咳払いしつつ、
「――深瀬さんのことなんですが」
 と、呼びかけた。
「ああ、はい」
 と、彼女は我に返る。
「最近の彼女についてはどうでしょう? 変わった様子はありませんでしたか? たとえば、愚痴のようなことを漏らしたりとか、滅多にしないようなことをやりはじめたとか」
 少し考える表情を浮かべてから、結衣香は首を振った。
「……かすみは、いつも通りだったと思いますけれど」
「何もなかった、と」
「あの子はいつだってマイペースだから、何かが変わるようなことがあったら、たぶんすぐ気付くと思うんですよね。ここ最近も、いつも通りだったと思うけれど……」
 学生時代ずっと一緒にいた仲で、今もちょくちょく会っている。ならば、変化があればすぐ気づきそうなものだ。かすみの親友だという平田眞由美や、かすみのことをいつも気にかけているらしい天堂章恵と同じくらい、あるいは、もっと早くに。
「特に目立った変化はなかったんですか。ただ、かすみさんは、性格的に弱みを見せないというか、強がってみせる傾向があるというんですが、あなたに対しても、そんな感じではなかったんでしょうか」
「いえ、わたしはそうだったとしてもすぐにわかる方ですけれど……」
「友達でしょうからね。でも、強がりする性格だっていうのは、違いないんでしょう?」
「そうですね……、かすみはお姉さんですから。そういう振る舞い方が身についてしまっているんでしょうね」
 視線が宙に泳ぎ、目がとろんとしてきた。また妄想が始まったらしい。
 うふん、と塚地は咳払いをした。
「ここまで話を伺って思ったんですが、今、深瀬さんの生活を支えているのはその弟さんだって聞いたら、あなたはすんなり納得なさいますか?」
 そうですね、と駒沢結衣香は一拍遅れて反応した。
「それぐらいの姉弟ですから、やっぱりそうなるか……とは思います。あの二人は翼なんですよ、一つの。どちらかが折れちゃったりすると飛べなくなっちゃうの」
「ですが、逆になっている感じはしませんか。普段はむしろ、かすみさんの方が弟さんを守ってばかりいたのでは?」
「はい、かすみは面倒見のいい子だからそういうそういう見方でいいと思います。だけど、立場が逆になることがあっても、それも自然だと思いますよ。一緒にいるのが当たり前のような姉弟なんだから、一緒にいられる理由ができて嬉しいぐらいに思っていたりするんじゃないかな。わたしは、そう思うんだけど」
「それぐらいなら、どうして同居しないのかなって思うんだけれどね?」
「それはあれですよ、お互い姉弟として意識しているからでしょうね。確かに、一緒に住んだほうが世話がしやすいとは思います。だけど、そうやってあんまり寄り掛かりすぎるとお互いがダメになっちゃうと思うの。夫婦だってそうでしょ? 好きっていう気持ちだけじゃ、互いの距離を埋めてくっついてるだけじゃ愛は続かないの。ちゃんとした分別が必要なの。あの二人はそのことがよく分かっているんだと思う」
 離婚の経験があるという彼女だからこその言葉なのだろう。愛情を維持できる距離感というものを心得ている。案外、彼女が一番、あの姉弟の間柄の核心を理解しているのかもしれないとも塚地は思った。
「その弟さんについてなんですが……、ちょっと情報がないんですよね。できたら、あなたから教えてもらえないかな。と言うか、どれくらいご存知ですか、あの弟さんの人となりとか、周りの人たちとかのことは」
 と、塚地は彼女の目を見つめながら、問い掛けた。
「けっこう、あれこれ知っているつもりですけれどね……。でも、今こうして改まって聞かれたりすると、なんかすごいこと答えなくちゃいけないような気がしますけれど……」
「いえいえ、そんなことはないですから。すぐ思いつくようなことでけっこうです」
「なんでもいいんです?」
「ええ。しいて言うと、思い出なんかどうでしょう」
「思い出、ですねえ……」
 彼女はしばらく思案に暮れた。そして、あっと小さく叫ぶなり、顔を輝かせた。
「バレンタインデーのお返し! 大祐くんね、かすみから家族チョコもらったお返しに、ファランデっていう、洋菓子屋さんのシュークリームを買ってあげたの。それをね、わたしもお裾分けしてもらったことがあったの」
 姉弟と彼女と三人で盛り上がった。愉しげなティータイムの風景が、塚地にも想像できた。
「家族チョコですか。そんな風習まであったとは、ちょっと私は知らなかったです。近頃は、みんなそうしてるんですか?」
「やる人は普通にやりますけれど。刑事さんは、そういうのはやらない人なんですね」
「もう年齢が年齢ですからね。どうしても照れが入ってしまうもんなんですよ」
「歳なんて関係ないと思いますよ。家族だったら、そういうイベントに乗っかかって色々やる方が、面白いんです。もちろん、家族に限らない話でもありますけれど」
 知らずうちに、諭されてしまったような気がする。彼女から見ると、自分は異文化の人間なのかもしれない。
「――と、話を戻しますが、そのシュークリームって、彼が自分で選んだものだったのかな?」
「うん、そう言ってましたね」
「それじゃ、そういう店に詳しいんだ」
「じゃないかな。ほら、配管工さんやっているらしいから、肉体労働でしょ。なんでもくたくたになるまで働かされているってことだから、そういうときには甘いものが欲しくなるでしょう?」
 机仕事ですら、根を詰めれば菓子にも手が出る。甘味への渇望感。警察官として、繁雑な書類作成と二十四時間体制で出動を要請される、肉体労働の両方をこなしてきた塚地には、それはよく分かった。 「糖質は、肉体のガソリンとか言いますよね。いざという時、摂取すればすぐエネルギーに変わるんです」
 塚地が応じると、
「刑事さんも、詳しそうな感じですね」
 彼女は微笑んで、また滔々としゃべり出した。勢いが付いたら止まらないらしい。
「そうです、そんなふうに手軽なエネルギー源だから、肉体労働の人は甘いものを堪らなく求めたりするんです。大祐くんもまさにその例にぴったり当てはまる人だって思うんです。もしかしたら洋菓子店の食べ歩き何かしてたりして……」
 あの晩、塚地が声をかけた時、元川はほぼ間違いなく、羊羹を万引きしようとしていた。その様を思い出してみる。よほど甘いものに飢えていたのか。
 いや、焦点はそこではない。その時の彼の手つきだ。いかにも不慣れなものだった。
 常習の窃盗というのは、半ば習慣的なものだ。犯行の際は堂々としたもので、顔に緊張感を表すようなことはしない。声をかけられて動揺すれば直ちに怪しまれる事も、よく知っている。
 彼の場合は、あまり表情豊かな人間ではないせいだろう、顔つきからは判然としなかったが、手つきまでは誤魔化しようがなかった。あれはどう見ても初犯の態だった。
「なんだか考え事をしている感じ……。なにか思い出すことでもあったんでしょうか?」
 彼女の凝視に気付いて、はっと我に返る。聞き取りの最中だった。
「そんな感じになってました?」
「はい。刑事さんも自分で気付いていないと思うんですけれど、瞼がちょっとひくひく痙攣しちゃっていましたよ」
「ちょっと、引っ掛かっていることがありましてね。そのことについて考えていたんです。と、まあ、元川くんはそんな甘いもの好きだったわけですか、ちょっと意外でしたね。もしかしたら、だからお姉さんの所に行っていつもお茶をしているってことなんでしょうか。例えばほら……お姉さんがお菓子作りの趣味があって――」
「それもあると思います!」
 また顔を輝かせて彼女は言った。ほとんど夢中といった具合に、胸元で手を合わせている。
「かすみは洋菓子を手作りするんです、得意なんですね。家に材料やら道具がたくさんあるんです。オーブンレンジなんて、ちょっと難しそうなケーキでも焼けるくらい、いいやつなんですよ。あの台所では作れないものなんてないってぐらいです」
「そんなに。それまた目新しい話ですね。でも、今の彼女にはそういうのは無理なんでしょうね」
 結衣香は急に勢いが削がれたようになった。
「ん、まあ……そうでしょうね。今はそんな気持ちになんて到底なれない……それは間違いないことだと思います。あっ、もしかしたらあの時食べたダフィンがもう一度食べたいななんてわたしがお願いしたら、その気持ちを取り戻してくれたりするのかな? それって効果がありそう。そう思いません?」
「……そのダフィンとやらがどんなものだか知りませんが、お菓子作りの気分を思い出してもらうというのは、よさそうですね。今の彼女には、自分がこれまでやって来た事への自信を取り戻してもらうことが大事だと思いますから」
「だったら、そうしてみます。ううん、わたしもダフィンを作って、あの子に食べてもらったほうがいいのかもしれない。すごく作り方にこだわりを持っているような子だから、わたしが作ったのを食べれば、あれこれ不満が出てくるだろうから……そこから、本来のかすみを取り返してくれるなんてことになってくれるのかもしれない」
「それも、いいでしょうが……あなたご自身はどうなのです? 自分の作るものにこだわりなんてなかったのです?」
「そこは、大丈夫です!」
 と、彼女は力を込めて答えた。また元気が出たらしい。その顔を見て、塚地は何となく心が洗われるような気分になる。
 裏表のない性格、か。こういう人だからこそ、純真すぎるところがあるらしいあの深瀬かすみと、長いこと友人でいられるのかもしれない。
「――というより、元気出してもらうっていう目的があるんですから、自分の作ったものにこだわりを持っている場合じゃないと思いますよ」
「まあ、そうですね。それにしても、元気になるために作るお菓子ですか……、うん、そういうのは温かくていいね」
 結衣香の顔は満面の笑みを湛えている。
 自分の顔も我知らずほころんでいたことを、塚地は意識した。
「そうですね。というより、そういう風に心を喜ばせるために料理ってあると思います! ……と、どうでもいいことなんですけど、刑事さんダフィン知らなかったんですね。けっこう流行っている食べ物なのに」
「流行り物だったんです? それはまったく知らなかったですね。というより、その手のことはまったく疎くて……。イメージだけで言うと、ワッフルの仲間かなとか思ったんだけれど、違うね?」
「何言っているんですか、全然かすりもしないです」
 憤然として言う。塚地はかなり見当違いなことを言ってしまったらしい。
 直後にまくし立てられる、説教にも似た彼女の説明。ロンドン発祥のスイーツで、ドーナツとマフィンをかけ合わせたお洒落な洋菓子のようだ。濃厚なバターを塗って焼いたドーナツの生地の上に粉砂糖とフレッシュジャムをふんだんに盛ることで甘みが調整されている。深瀬の場合は、その上にミルクコーティングをして、独自の形に仕上げたものを作るようだ。
「……なるほど、少し前にそういうのが流行ったんだ」
「ここまで懇切丁寧に説明してさしあげたんですからね、どうです、わたしが知ってるダフィンの美味しい店――……青山にあるんですけれど、寄っていただいて、奥さんにでもプレゼントしたらいかがでしょう?」
「うん、それはいい提案なんだけどね。でもちょっとまずいんだ。普段やらないような変わったことをするのはね。私は職業が職業だから、行動に不自然な印象を持たれるのは、立場的に、アウトでね」 なるほど、と彼女は腕を組んだ。
「やっぱり、普段からそういうことに気をつけているんですね。そこはさすが刑事さんって言ったところなのかな?」
「ともかく、そのダフィンを作ってあげるんですね」
「ええ、近い内に必ず」
「後から感触がどうだったのか、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「えっ、そんなことだけのためにもう一度来るんですか? わざわざ?」
 思わず苦笑いが出た。
「もちろん、それだけじゃありませんけどね。でも、私があなたをお訪ねすることに、いちいち理由をくっつけてもしかたがないんです。ちょいとした手土産みたいな話が役に立つなんてことが我らにはよくあるんですから」
 
 元川大祐と接触のある窃盗団の一人が、動くという情報が寄せられた。塚地は菊池が運転する公用車に乗り込み、尾行する。さいたまナンバーのシルバーのクーペ。それは今、最寄りの百貨店前を通り過ぎ、雑居ビルが集まる街区に向かっていた。
「あっちの方面、車を止めるところがあったっけ?」
 車二台を挟んだ先にいるクーペを目で追いながら塚地は言う。信号の動きを気に掛けながら尾行するのはいつだって神経戦だ。しかも今回は他の応援車が一台もない、単独での尾行だったから、なおのこと集中力が必要だった。
「大丈夫です。いざとなれば、この自分を置いていってくださってけっこうですから」
「じゃあ、その時は頼んだからな」
「でも、下手に突っ込んでいくようなことは止してくださいよ」
「そんなことはしない。状況はよく分かっているつもりだ」
 令状どころか、立件するだけの材料にも事欠く状況。分かっているのは、その対象人物の近くに関連の前科者がいることくらいだ。もしかしたら窃盗団『白蛇』のトカゲの尻尾みたいな輩なのかもしれない。窃盗業の界隈でも、アウトソーシングが進み、組織に所属することもままならないような半グレ集団が、少しずつ囲い込まれている。あの車の主もその程度の者だとしたら、仮に縄を掛けたところで、核心部分に迫るのは難しい。
 旧式のクラウンは追う。途中、一方通行の細道に入った。まだ昼時でもないのに通行人がやけに多い。横断歩道の多い箇所では一時停止を余儀なくさせられる。三度目に赤信号に引っ掛かった時、菊池から舌打ちが漏れた。
「このままだと厳しいですね」
「大丈夫だ。気を大きく構えて行こう。あと少し行ったら、自分の足で行こうと思う。あそこのコンビニは見えるな? あのちょっと先にあるバスレーンまで踏んばってくれ」
 塚地は百メートルほど先の街道沿いを指差して言った。
「分かりました。そこまでなんとかします」
 菊池が答えた途端、また信号に引っ掛かった。さいわい対象車も静止中だ。しかし、信号が変わるタイミングは、あっちが早かった。まもなく姿を消す。落ち着かない時間が続く。
 そして、発進。
 向こうの運転が荒くなってきている。目星をつけた目的地に到着した頃には、完全に相手の気配は消えてしまっていた。とはいえ、連中が出入りしている拠点はいくつか把握しているので、塚地はその内の一つに先回りするつもりでいた。黒っぽい雑居ビルに飛び込み、ロビーを抜けて外階段に出た。回数を数えながら上る。六階。ここには実態不明の法人がいくつか入っている。塚地は日よけ帽を被り、待機する。
 内ポケットで携帯が震える。
 菊池からだった。
「どうした?」
 声を潜めて応答する。
「すぐ近くに車を止めて待機しています」
「そうか、ありがとう。こっちは予定通りの位置につけた。だが、動きがなさそうだ。ちょっと時間がかかるかもしれない。その時まで気を張って、辛抱してくれないか」
「了解です」
 携帯を切った。あたりの気配を探り、全神経を集中させる。外階段から屋内へ通ずる鉄製の扉をわずかに開く。できるだけ光を入れないほど細く。足音と話し声が聞こえてきた。一方の呼び名は、西添。もう一人は、本間と呼ばれている。どちらも脂の乗った中年男の声だ。戸を閉じる音。それきり声は途絶えた。扉の隙間を拡げ、屋内を覗く。がらんとした通路。向こうにドアが一つ。
 プロ仕様のカメラ用三脚なんかが放り込まれた半開きのアタッシェケース、骨組みが剥き出しになったフラッシュ用パラボラが無造作に置かれている。どれも古くて埃にまみれ、使いものにならないようながらくただ。連中が入居する前から置いてあったものが、そのままになっているだけだろう。まともな事務所が入っているようには見えない。
 まもなくドアが開いた。
 男が出て来た。髭もじゃの顔に、角張ったサングラス。警戒心の強さを示す風体だが、ああいうスタイルには、むしろ注意力を散漫にし、逆に警戒心を損ないやすいという罠がある。
 あの男が、西添だ。
 報告書のポートレートで見たとおりの男だった。掘り下げればいくらでも前科が出てきそうな感じがあったが、でも彼は表面上、一般人扱いのままになっている。菊池がまだ裏情報を追っているとのことだったから、追加情報はこれから出てくることだろう。
 会話の一部が聞こえてきた。
「……調子でいけば、なんとか数は調達できる」
 これは西添の声だ。
「もっとオーナーを開拓していかないと困るんだがな。だが、いたずらに増やしたところで身内を売るやつが出てくるからそうもいかない。その点、あんたはけっこう人を見る目があるようだな。いまだに下手なやつを一人も選んでいない」
 ふふっ、と西添が低く笑った。
「そういうのは影響力を持った人物につながっているコネクションを引き出せばいいだけのことだ。仲間を出し抜くと〝かわいがり〟の仕打ちがあったりするからな。下っ端の人間はそういうことを恐れる」
 どうも、取引相手についての話をしているようだ。廊下で堂々とするあたり、この雑居ビルは普段から人がやってくることはないのだろう。だから顔を隠す必要もない。塚地はすぐに行動に移ったほうがいいと判断した。息を殺し、ひとまず彼らの目が逸れるその瞬間を待った。
 ところが一向に彼らは動いてくれない。廊下に留まったままやり取りを続けている。今後の予定について話している。塚地は焦った。
 その時、塚地の片膝が、だしぬけにがくっと折れた。無理な体勢での緊張に耐えていたのが、ここで限界が来た。張り付いていた壁から手が離れる。とっさにもう片足で、足場を蹴りつけるようにして踏んばった。なんとか均衡を保つ。
 しかし、コンクリートに溜まっていた砂埃が足の下で滑り、誤魔化しようのない音を立てた。さあっと背筋に冷たいものが走る。
 やらかした、なんてことだ。次に取るべき行動を、一瞬で判断せねばならない。
「誰だ、そこにいるのは?」
 案の定、声が掛かった。
 塚地は身を離し、階段を駆け下りた。顔は、見られなかったはずだ。
 離脱。我ながら存外素早い逃げ足だった。
 だが、失態のツケは払わされた。その夜のうちに、マークしてあったそのビルのテナントはもぬけの殻となってしまっていた。敵もまた、逃げ足は早かった。
 
「自分も同罪ですから」
 慰めにもならないことを菊池は言う。タバコを吸わない彼は、塚地がまた新たに咥えた一本が灰になるまで待っていた。
 塩辛い紫煙。こんなに後味が悪いタバコなんてここ数年吸ったことがなかった。それでも、肺が求めているから吸うしかない。
「気にしないでくれ。ヘマをやらかしたことは認めているんだ」
「係長にはなんて言われたんです?」
「このままで終わるな、意地を見せろってことだった」
「それではなんとか汚名返上するんですね」
「そんなことは言われるまでもないさ。焦点は、元川大祐だよ。元川をどこまで追い詰められるか、そこにすべてが掛かっている」
「今のところ、連中との接点があるというぐらいで、決定的なところまでは押さえられていませんが、張り込みを続ければいつかは尻尾を出すでしょう」
「それはそうだが、向こうは警戒を強めている。どこから情報が漏洩したのか、躍起になって探ってるだろう。元川にも警告が行くだろうな。お前こそが漏れ穴じゃないかと疑われて」
「すると、尾行も難しいってことですか」
「たぶんね」
 熱い灰が指先にまで迫ってきた。ねじり消すと、頼りない紫煙がひとすじ立ちのぼって、消えていった。もう一本取り出そうと思いかけて、止めた。吸い過ぎて口の中が脂臭くなっているのがいい加減分かった。
「なにか作戦が必要ですね」
 と、菊池が首を傾けて言う。
「作戦というか、案は一応ある」
「教えてください」
 彼は好奇心を目に満たして問う。
「簡単なことだよ。尾行する範囲を、元川の自宅アパートと深瀬かすみの家周辺に限定するんだ。あと、職場とな。何時に仕事を終え、帰宅するまでに外でどれぐらいの時間を過ごし、誰と付き合ったか。変わったことをやらかす時には、必ず仲間が周辺に見え隠れするだろうし、いつもよりも帰りも遅くなるだろう。必ず、変調が現れる」
「不穏な動きがあった時はどうするんです? 出ていくのでしょうか?」
 いや、と首を振った。
「様子見だ。辛抱強くやっていこう。一度ヘマをやらかしたんだ、恥の上塗りはできない。下手をすると外される」
「監視するだけになりますね」
 彼は肩をすくめて言った。
「そう、気を落とすな。掴んでいる尻尾の先はけっこうなものだ。ひたすら耐えて待てば、それに見合うだけの収穫が待っている」
「どうなるかは分かりませんが、ひとまず情報集めになりますか」
「今、どうなんだ? 出られるのか?」
 時計を見ると、午後の四時を過ぎたところだ。
「今やっている分は、後回しにしますよ。お供いたします」
 
 午後の六時半過ぎ、元川大祐は自宅アパートに帰ってきた。行きつけのスーパーの袋を提げている。夕飯は総菜コーナーで売られている弁当のようだ。
 くたびれた様子で鍵を開け、中に入っていった。窓に明かりが点る。すぐにカーテンがひかれたが、薄手の安いものらしく、シルエットが透けて見えていた。
「今日の所は動きがなさそうですね」
 と、菊池が首を巡らせながら言った。
「どうかな、連絡係が来るとすれば夜だろう」
「白蛇の奴ら、このアパートの周りも警戒してると思います?」
「そうは思わないな。彼らが警戒のアンテナを張るのはあくまで市街地での接触時だけのはずだ。元川は、組織外の人間だからな」
 その時、元川のアパートの門灯が点った。ドアがオレンジ色に照らされている。二人のボルテージが一気に高まった。
「誰か来るみたいですね? それともお出かけでしょうか?」
「それはない。さっき、スーパーに寄って来たんだから、また買い出しでもないだろう。腹ぺこで帰って、もう腹ごしらえも済んだ頃だ。明かりをつけただけでまだ出てこない。迎えが来るのかもしれんな」
 しばらく待った。
 程なくして、フロントとリアにパーツを増量したインプレッサが門前に止まった。フロントガラスはブルーのスモーク。運転席に座っているのは、ハンドタオルを頭に巻いた工務員風の男だ。浅黒い肌をした喧嘩っ早そうな男でステアリングに寄り掛かるように前のめりになっている。
「見覚えなんてある?」
 菊池に問う。
「ないですね。報告書には挙がっていない男ですよ」
「だったら、新情報だな」
 男はクラクションを鳴らした。元川の部屋の電気が消え、ドアが開いた。元川大祐は私服に着替えていた。アロハ柄のプリントシャツに柄がくすんだミリタリーのカーゴパンツ。首元にはチョーカーがぶら下がっている。インプレッサに乗り込んだ。男と親しげに言葉を交わし合っている。相手側の方が目上らしい。
 車は発進し、国道の方へと向かった。
「どうします? 追いかけます?」
 塚地は迷った。
 できるものならそうしたいが、インプレッサの男が窃盗団『白蛇』の一員であった場合、今、万一にも尾行を気取られたらおしまいだ。 「ここは見送ろう。一応、署の通信センターの方には報せておくとしようじゃないか。近くを警らしているやつが連携してくれるかもしれない。運が良ければ、捜査関係者の人間が引き継いでくれるはずだ」
「では、そうしましょう」
 無線を握った後、彼の動きが止まった。
「どうした?」
「……すいません。ナンバー記憶するのを忘れていました」
「なにやってんだ。基本がお留守になったか。練馬の〝と〟12ー4771だ」
「……すいません、後でしっかり自戒いたします」
 菊池は無線で応援要請の旨を告げた。本部は承諾、次は、陸運局に登録している車のナンバー情報の照会だ。こちらも如在なく関連情報が引き出された。
 半田俊之――
 それがインプレッサの持ち主の名前だ。そして、生年月日や住所からすると、地元の人間らしい。
「たぶん、高校の先輩か何かでしょう」
「もしや、悪い先輩ってやつかな? さっきの様子からすると、付き合いを拒みにくい相手って感じだったな。今の職を世話したのもあいつかな」
 一見すると犯罪に縁のなさそうな人間でも、素行の悪い人間と付き合うことで、隠れていた本性が剥き出される。そんな例を何度も見てきた。大抵は若者だ。家族関係が何らかの事情で破綻していたり、社会に対して疎外感を持っている人間に多かった。元川はそれに当てはまるだろうか。まだはっきりとは言えない。
「半田俊之……臭いますね」
「そう思う? ……筋者ではないようだから、一応、そこは安心していい。これがもしそうだったら、もうどうしようもなかったよ」
 筋者――つまり、ヤクザだ。安定的な収入源だったシノギが暴対法に削られ、稼ぎの減った彼らは組織犯罪に絡みつき、新たなポジションを得て糊口を凌ぐようになった。彼らは今、経済ヤクザとして社会の裏で暗躍している。ヤクザとしての基本的な組織形態は変わっていないので、一旦仲間に編入されると、抜け出すことができないようになっている。
 元川に関しては、その関連の報告はなかった。真っ当な道に引き戻してやれば、まだなんとかなる。
 無線が入った。
 追跡の手配ができたようだ。そして、追加情報がもたらされる。
「半田は、西添が拠点としているビルの一つに向かっている模様――」
 接点が見えた。
 半田が元川を唆し、きわめて危険な道に引き込んだ。その可能性が高い。
 
 
 
 
第三章
 
 半田先輩に連れていかれた先には、【カバン屋】――西添が待っていた。かれこれ十回ほどやり取りしている交渉相手なのに、一向に素性が分からない謎の男。今日はいつもより表情が硬く、なおさら近寄りがたい負のエネルギーを感じた。
「今の職場を辞める気はないか?」
 西添に、いきなりそう聞かれた。
 この韓国料理店は本場の味にこだわった店というだけあって、韓国人の客がやたらと多かった。周囲の話し声はほとんど韓国語だ。半田先輩はチヂミを摘みながら、余裕たっぷりに構えて俺を見ている。
「お前に聞いているんだよ」
「知っていますが……。いきなり言われて答えられるようなことでもないっすよね? それとも先輩はあらかじめこの話を知っていたんです?」
「まあな」
 と、言って、先輩はチヂミの咀嚼を必要以上に続ける。ニラがどっさり入っていて、くちゃくちゃという音がくどいくらいに響く。
「先輩も、辞める気でいるってことなんです?」
「それが、お前次第なんだ」
「と言いますと?」
「かなりいい加減だけれどよ。お前がどうするかで俺もそうしようかなって思ってんだ」
「それって……ないですよね」
「ないもクソもない。おれは、いつだってこんな感じだろうがよ? 自分のことを自分で判断できないんだ。というより、正直どっちでもいいんだよね」
 西添は身じろぎもせずに俺の返答を待っていた。薄色のサングラス越しに見えるその目には、何の意図も感じられない。
「……辞める気はないです。が、どうしてそんなことを聞くんです?他の仕事があるとかってことなんですね?」
「そういうことだ」
「それって……」
 犯罪であることは間違いない。たぶん、組織の一員として組み入れられるって事なんだろう。
 プロの犯罪者が集まる場所に自分が放り込まれる。なんだか、ぞっとした。
 だけど、飛び込んでしまえば、なんだこんなものだったのかというふうにすぐに順応してしまうんだろう。寒中水泳のようなものだ。凍るような冷水に身を浸せば即刻身体が氷漬けになるかというと、そうでもない。頭まで浸かった瞬間、寒さを通り越してしまう。その先にあるのは、奇妙な温かみ――。
 先輩は口に溜め込んでいたものを、音を立てて呑み込んだ。
「――どういうものかを、説明しなければいけないようだな。正直、詳しいことは話せない。大筋の内容だけを伝えることになる。いいな?」
 有無を言わせなかった。
 俺は首肯するしかない。黙って西添が紡ぎ出す言葉を耳に受け容れていく。
 窃盗団編入――
 最初は金を部屋から探し出すだけの簡単な役回りだということだった。五人編成で、普段は仕事帰りのサラリーマンを装い、あらかじめ目当てをつけた所を役割分担で攻略していく。
「身の安全だけは保証する。お前は、ただ与えられた役だけをこなせばいいんだ。上手く行けば月二百万は稼げる」
 西添は表情を変えずに淡々と言う。
 安全の保証は、標的の選定基準にあった。万一の際の逃げ道として使える複数の階段とエレベーターが備わっていること、そして防犯カメラが装備されていないこと。通行人から死角になる位置を確保できること、またはそういう構造となっていること。人通りの多い道がすぐ近くにあること。警察署や交番から遠いこと、警官の巡回コースから大きく逸れているといったことだ。加えて、五階以上のマンションは狙わないのが常道になっている。いざとなったら飛び降りても逃げられるようにしておく配慮だ。
「お前はなんの仕度もしなくていい。必要な物はすべてこちらで用意する。今の部屋を引き払って、すぐに連絡すればいい。それなりに住めるところを紹介してやる」
 あまりに条件がいい、と感じた。
 これはたぶん、安易に乗ってはいけないパターンだ。俺にだって現実の厳しさがどんなものかぐらいの想像はつく。だが無下に断って相手の機嫌を損ねるような真似は止したほうがいい。自分は今、一番下っ端にいるって事を忘れてはならない。
「紹介される場所は、どんな感じです?」
 一応、話に乗ってみる。
「部屋にこだわりがあるのか?」
「そういうわけでもないですけど……でも、だからといってどこでもいいというわけでもないです」
 半田先輩が低い笑いを吐き出し始めた。
「お前、贅沢言ってんじゃないぞ。新人というのは仕事してからが勝負だ。結果を出すまではどこに住まわされようが文句なんて言えないよ。会社だって同じだろ」
 それはそうだろうな。
 西添に顔を向けると、彼は小さく首肯した。
「こいつの言う通りだ。だが、ある程度は期待してもらってもいい。お前さんは貴重な逸材だからな。お前さんの判断が、この男の選択にも影響すると聞けば、なおのことだ」
「ちょっと待ってくださいよ……貴重な存在ってなんです? 誰かと間違ってないですか?」
「間違ってなどいない。お前のことだ」
 耳を疑うような言葉だった。俺は、半田先輩を見た。
 笑った顔がそこにはあった。肘を寄せ、俺の頬をぺちぺち叩きながら言う。
「貴重だろうがよ、中学んとき、技術だけはずっと〝優秀〟の成績をキープし続けたんだろう? それが自慢だったんだろ? なんでも大臣賞とかいうやつを取った履歴があるんだろ? そういうのは貴重だろうが。うん、お前は天才」
「いや、先輩……。ですから、なんでそんなこと知っているんですかって」
 俺は頬をかばいながら言う。
「なんでって、おれとお前の間柄だろうが。これまでにいろいろ過去を語ってきただろうが。こうして酒を飲みながらよう」
「いや、そんなことは口にしたことはないですよ」
 だいたい俺は過去の話なんて人にしない。そんなことをすれば、自分の薄っぺらい中身を再認識させられて、惨めな思いをするだけだ。
「おかしいなあ……いや、本当にお前は語ったんだよ、自分の口でな。ああ、そうだ。お前、酔っぱらっていたものな、だから覚えていないんだ、そうだそうだ、それだ」
 本当にそうなんだろうか。
 俺は疑った。
 いつだったか先輩が俺の部屋に来た、あの時。
 先輩は何かを探っていたりしたのではないか。カラーボックスの片隅に収められたままの、中学時代の文集。
 たしか、あの中には俺のメッセージがいくつか書かれている。とりたてて書きたいこともなかったから、得意な教科のことを綴ったのだった。よく覚えていないが、たしかそこには、大臣賞のシールが貼ってあったんじゃなかったか。
 オーダーした料理が届いたので、一区切りつけることになった。スンドゥブという韓国の豆腐鍋だ。エビにアサリ、そしてメインのおぼろ豆腐がこれでもかと詰め込まれた真っ赤な鍋。最後に添えられた赤髭葱と金色の生卵がぐつぐつ煮え立つ泡の中で踊っていて、食欲をそそる。俺の腹が獣のように鳴った。
「話の続きだ」
 先輩が小鉢に取り分けたところで、西添は再び切り出した。
「最初の内は、あちらこちら寝床を変えなくちゃいけないんだ。これは、お前自身の身を守るために必要なことだ。それは言わずとも分かるはずだ。一つ所に落ちつくのは、身の安全が確保されたその時だ。そこは、あらゆる監視の目から逃れた安全圏だ。しかも住所の登録なんて必要ない」
 他人名義のマンションなんかが提供されるらしい。たぶん、道具屋である西添の商品の一つなんだろう。取り扱っている故買品のバラエティからして、失業者を食い物にしているんじゃないかと俺は疑ったことがあったのだが、どうやら正しかったみたいだ。
「……他人に成り済まして生きていくってことです?」
「問題があるのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
 一度踏み込んだら引き返せない。そんなことはもう分かっているのに、気が引けていた。
 大丈夫だって、と半田先輩が酔ったような勢いで肩を掴んでくる。口回りにズンドゥブの赤い汁がこびりついている。
「お前にはおれがいる。だから、万一のことがあっても問題なくお前はちゃんと無事にやっていけるさ」
「…………」
 先輩の説得が続く。なんだか、仕事で失敗して慰められているような気分だった。途中、妙な違和感を憶えた。変に機嫌がいい。はっとする。半田先輩がこんな調子の時は、いつだって金が絡んでると相場が決まっていた。競馬で勝ったときだって、こんな感じでやたらと身体を触ってきたっけ。
 結論に至る。
 半田先輩はすでに西添に買収されてしまっている――。
 どうして俺までもが仲間に囲い込まれようとしているのだろう。俺には、買われていいだけの技術なんて持ち合わせがない。あえて言うなら、若いというだけが取り柄か。でも、将来性があるとかそういうわけでもない。しかも俺は、昔から引っ込み思案で人付き合いが苦手だった。
 かすみ姉さん……。
 こんな時でも頭をよぎるのは、やはり姉さんのことだった。心の病から抜け出せないまま、失踪した貴志さんの帰りを待っている。そのうえ刑事が身の回りを嗅ぎまわっている。半分は俺のせいだ。そんな姉さんに俺がしてやれること……。それは、身体を張って金を集め、届けてやることだった。姉さんのためならなんだってできる。かすみ姉さんは、他には何も持ってない、俺のすべてなのだ。 「前向きに考えさせてもらっていいですか?」
 西添に対し言った。
 自暴自棄ではなかった。自分に正直になって言ったつもりだった。かすみ姉さんのことをまず考え、俺はこの道を突き進むしかないと確信した。
「よく言ってくれた。お前は、話が分かるやつだなあ。まあ、飲め飲め、ほらほら!」
 半田先輩が頼んでいた度数が三割に近い、JINROが並々と注がれた。溢れ出すほどの勢いだった。慌ててグラスを握った。
「先輩、悪酔いは止してくださいよ」
「いやいや、酔ってないから。おれ、いま全然しらふ」
 先輩は急に真顔になり、また肩に腕を回してきた。アルコール臭い息がかかる。
「――たっぷり褒めてやりたいところだが、でもなんだか中途半端なセリフだからそれはできねえな。どうせなら、前向きに考えさせてくれとかじゃなくってよう、ズバリやらせてくださいって言うべきじゃない?」
 確約しろってことだ。
 俺は、息をついた。JINROを口に含む。凝縮されたアルコールの辛みが鼻を突き抜け、脳天まで貫いた気がした。リアルな世界の色が薄まったような気がする。
「……それじゃあ、言いますよ。――ズバリやらせてくださいッ」
 半田先輩の口から、上機嫌な笑いが響いた。
「そうこなくっちゃな。というより、お前おれに言ってどうするんだ。この人に向かって言えよ」
 西添を示して言う。彼は今、俺の気配を探るように見ていた。料理には手をつけていない。サングラスの下あたりが湯気で曇っていた。
「口にしたとおりです、お願いします……!」
 頭を下げて言った。
 西添の反応がなかったので、頭を持ち上げて顔をうかがった。西添は無表情のままだった。
 やがて、その口だけが動いた。
「この場の勢いで言ったんなら、後から後悔するぞ。誘いをかけたこっちとしては、話を進めるのが筋だろうが、すぐに投げ出されるようなことがあっても困るんでな」
「勢いだけじゃありませんよ。ただ……」
「何かあったのか?」
 西添が尋ねると、半田先輩も俺の顔を注視した。俺は息を呑んで言った。
「一つ所に留まってそこから抜け出せないなんて生活は真っ平です。ある程度の自由が欲しいんです」
 西添は俺を見据えたまま、凝然としている。
「自由と言ったのか?」
 やっと口を切ったかと思いきや、すごむような口調になっていた。
「……ええ、そう言いました」
「何なんだそれは。お前の言わんとするところが分からんな」
「……つまり、一人になれる自由ですよ。やりたいことがあれこれありまして」
「それは、時と場合によるな」
 慎重な口調で言った。
「もちろん、勝手な要請だってことは分かっています。ほんの少しの時間をもらえるだけでいいんです」
「ほんの少し?」
 西添が顎を引くと、反射の具合でサングラスが透けて、両目がくっきり見えた。思いの外、涼しげな目もとだった。髭を剃るか綺麗に刈り揃えたら、俳優と渡り合えるぐらい整った顔になりそうだ。
「ええ、ほんの少しだけです……」
 かすみ姉さんと過ごす時間。これだけは失いたくなかった。だいいち、俺は姉さんの面倒を見なければいけないのだ。
「何か考えがあるみたいだな。だとしたら、こちらにも審査期間ってやつが必要になってくる。正直なところ、無条件で応じてもらうはずだったんだ」
 そうだろうとは思った。組織を守るためにはそれが必要なんだろう。いちいち個人の意向を尊重していたら、きりがないには違いない。彼らが求めているのは、何の不具合もなく使いっ走りにできる人材なのだ。
「でしたら、審査してください」
「……一週間以上おくことになるが?」
「かまいません。というより、自分には丁度いい、猶予期間ですね。今日の話はいきなりだったわけですし……」
「おいおい――、こんなチャンス滅多にないってぐらいなんだぞ」
 半田先輩が割り込んで俺に言う。それを無視して、西添は立ち上がった。
「長居は無用だ。都合が良ければ、一週間後、会おう」
 彼は去っていった。結局、用意された料理は一度も手をつけなかった。
  
「急にこんな話に付き合わせて悪かったな」
 半田先輩が呼び止めたタクシーに十五分揺らされた後に行き着いたのは、岩盤浴の施設だった。飲酒後の心臓や血管に相応しくないコースではあったが、先輩も俺も酔いは醒めかかっていた。割り切れた気持ちで、温められた岩盤の上に寝そべった。利用客は五十代のサラリーマンが多い。
「いえ、別に」
 そう答えると、半田先輩はすぐさま言った。
「これというのもなあ、こうでもしないとお前は首を縦に振らないと思ったからだよ。お前というやつはことごとくチャンスを逃すようなやつだからな」
「チャンスって言いますけれど、本当にそうなんです?」
「ああ、こんなのは滅多にない。たいてい、向こうは横の繋がりなんて求めない相手だからな。用が済めばすぐに切られるというぐらいなんだよ。でも、今回はそうじゃない。おれらを認めてくれようとしているんだ」
「先輩、どんな世界でも切られる時は、あっさりだと思いますよ」
「そう言うな。今は、実力が買われているんだよ。バンピング。おれも長くやってきて、やっとこさ板についてきたからなあ」
 やけに感慨深げに言う。
「そういえば、それって先輩が独自に編み出したことだったんです? 誰かから教えてもらったとかそういうことじゃなかったんすか?」
「ばっか、バンピングの手法についてくわしく教えてくれるやつなんているわけないだろ。こういうのは、自分で調べていくしかないものなんだよ。アメリカで知れ渡っていた解錠技術なんだけれどよ、日本では最近まで全然知られていなかった。というのも、ピンタンブラー錠というシリンダーが使われていることが前提の解錠技術だから、これが採用されていない日本では通用しないからだよ」
「それでしたら、どうしてあの時、俺が見ている前でバンピングなんか出来てしまったんでしょう?」
「だからよ、ピンタンブラー錠を採用しているシリンダーを探し当てればいいんだよ。そういうのは外側から見ただけですぐに分かるからこっちから選んでいける。日本では採用されていないとは言ったが、それは主流ではないってだけのことで、全体の一割強ぐらいはピンタンブラー錠が使われているんだ」
「なるほど、その一割を狙ったんですね……」
 目の付け所がいいってやつなんだろう。少数派。いつだって抜け穴というのは意外なところにあったりするものだ。
「んでよ、バンプキーなんだが、聞いて驚くな。普通にアメリカではインターネットで販売されていて十種類以上の錠を揃えることが簡単にできてしまうんだ」
「先輩、インターネットで買ったんですか?」
 思わず半田先輩に食いついた。
「そうそう、あれこれやり取りしてなんとか譲ってもらったわ。あれだよ? ブラックマーケットから流してもらったとかそういうことじゃないからな。普通に商売として売ってもらったんだ。向こうもあっさりしていたな。だから、英語さえできればあとは金を払って送ってもらうだけだった」
 翻訳ツールを駆使しての、拙い交渉。 契約成立の要件などは特にないようだったから本当に手続きだけで済んだようだ。税関も問題なくスルーしてしまえる。いざとなれば、この俺だって手に入れられるんだろう。
「でも、海外製のピンタンブラー錠なんて仕入れたところで役に立ちそうにないですね。同じピンタンブラーシリンダーを採用している一割の家だって結局、日本仕様になっているわけでしょうし……」
「そうそう、そこそこ。仕入れた鍵を元に、自分で日本仕様のバンプキーを作っていかなくちゃいけないんだ」
 手振りをまじえて話す半田先輩の額には大量の汗が浮かんでいる。剥き出しの背中が熱で火照って真っ赤になっていた。
「それじゃあ、こないだ使用したのは先輩が作ったものだったんですね」
「そうだよ、あれはおれが独自に仕立て上げたものだ。三種類。今使えるのは、それだけだ」
 対応できるシリンダーの種類は仕入れたバンプキーの数だけある。それらがすべて日本でも使用できるようになって初めて全戸宅の一割強を攻略できるようになるんだろう。いまのところ三つしかできていないということは、まだまだ選択の幅に制限があるってことだ。
 さらに厄介なことに日本ではピッキング対策としてディンプルタイプのシリンダーに交換しているパターンが多い。このディンプルシリンダーはピンタンブラーとは形状が異なるだけにバンプキーは通用しない。だけど、ディンプルシリンダーは基本的にピンタンブラー錠の仲間に入るため、応用が利かないわけではない。本物のバンプキー技術者なら、シリンダーの構造を把握した上で、従来のバンプキーに少し手を入れるだけで作れてしまえる。半田先輩はその途上にいる人だった。
「なんなら、お前もバンプキーアーティストになるか?」
「俺がっすか? それって、本気で言っています?」
「本気だよ。というより、お前にやりたい気持ちがあるのかどうか、それをはっきり聞きたいな」
 考えた。
 ついさっき窃盗団の仲間に勧誘されたばっかりで、今度はバンプキーアーティストのお誘いときた。この二つは繋がっているわけだけれど、それにしてもこう立て続けにオファーが続くとは思いもしなかった。
「興味はありますね。でも、どうしていいのかさっぱり分からなくて……」
 半田先輩の腕が俺の肩に回った。酔いはすっかり醒めているはずなのに、まだ調子のいい気分を維持している。ただ吐息が渋柿臭いのは相変わらずだった。
「難しい事は考えなくていい。ちゃんと責任もって仕込んでやるからよ。というより、これには答えなんてないんだよ。おれも、鍵山のあれこれがどうこうとか構造が分かってバンプキーが作れているわけじゃない」
 シリンダーを販売している各メーカーの商品を調達した上で自前で拵えたバンプキーの試作でもって実際に使えるかどうかのテストを繰り返す。微調整を徹底的に繰り返す地味な作業だ。既製品のバンプキーを参考にしているとはいえ、ほとんど手探りに近いから削りすぎてしまった場合、そのことに気付くまで延々と誤った行為を繰り返すことになる。
「――ともかく、根気が必要な作業ですね」
「お前に根気はあるのか?」
「……あります」
 腹這いに寝そべった体勢のまま、しっかり目を見据えて言った。
 なおもかすみ姉さんのことを考えていた。これまで姉さんのために何かをしてやりたいと思ったところで報われない耐えるような日々だけが続いた。そういう空振りのような生活はもうごめんだ。俺の中にある根気やら情熱やらを、形にしてみたい。
「なら、大丈夫だ。やればいい」
 半田先輩はあっさり言った。
「いいんすか? 本当に、自分がやって大丈夫なんです……?」
 頭に半田先輩の手が向いたと思いきや、くしゃくしゃに掻き回された。
「資格なんてないから。お前がやる気があるってことが一番大事なんだよ。ただ、これは本当にきつい作業だぞ。バンプキーのいい見本なんて手元にないからな。かといって、あれこれ自由にやって偶然できあがりました、なんてわけにもいかないんだよ。予算ってのがあるからな」
「分かりました。手探りながらも、やるからにはちゃんと考えながらやっていこうと思います」
 真面目に言うと、半田先輩は笑顔を湛えた。
「その意気だ。さすがはおれが見込んだ男だよ」
 
 三日後の夜、半田先輩が自宅に押しかけてきた。手に抱えて持てるぐらいの小さな段ボールを持参している。その中にはドアノブが備わったシリンダーが三種類入っていた。いずれもアルミ製のもので、メッキのされていないシルバーだ。日本メーカーの刻印がなされている。
「それがお前の宿題だ」
 一つ手に取ってみる。
 ずしり、と重たかった。
 隙間が出来た段ボールの片隅には鍵山が作られていないサンプルキーが五枚ほど袋に詰めて収納されていた。
「先輩、道具はないんです?」
 段ボールの中にあるのは材料だけだった。
「何言っていやがる。そんなものあるわけないだろ。自前で用意するんだよ、そういうのは」
 師匠のようにとげとげしく言ったかと思いきや、どしんと身体をぶつけるようにその場に座った。豪快なあぐらの掻き方だ。説教でも垂れていくつもりでいるんだろうか。
「専用のノミか何かあっただろ、ここに。あるいはディスクグラインダーでも、ドリルでもいい。お前のやりやすい道具を用意すればいいんだ」
「それはここにはないですね。調達はできると思いますけれど」
 会社には使用していない旧型のものがいくつか倉庫に押し込められている。それらのうちのいくつかを拝借すればなんとかなるだろう。
「――ですが、そういうのを調達してきたところで、場所に困りますね。ここでは騒音の関係で使えないでしょうし……」
「何を言っている。ここしかないだろうが。バンプキーを作るためにどうして、会社が場所を提供しなくちゃいけないんだ。そんなことで易々と工場を貸したら、本物のバカだよ。おれらは手元にあるものだけでやるしかないんだよ」
 冗談混じりに言っているんだろうと思っていたら、その目が弾くように鋭くなっていることにようやく気付いた。それで伝えんとする事情を汲み取った。
「……先輩の言わんとすることが見えました。かまをかけていたんすね。たぶん専用の機器を使わずに、鏨か何かをつかって彫金しろとでもおっしゃっているんでしょう。あるいは金ヤスリのようなものを使って、少しずつ削っていく地道な作業をしろ、とでも」
「なんだ、もう答えを掴んだのかよ。つまらんやつだな。お前に喝を入れてやろうとしていたのによ」
 ぶつくさ言いながら、段ボールに手を突っ込む。取り出したのはシリンダーの一つだ。鍵穴の周囲に小さな傷がたくさんついている。はっとする。それは先輩の努力の跡のはずだった。そして、先輩はこのシリンダーのバンプキーを製作することにまだ成功していない。
「このうちの一つでもできてくれたら、それでいい」
 と、半田先輩はシリンダーをためつすがめつしながら言う。
「……一つぐらいなら、何とかして見せますよ」
 くわっと、怒気が顔に満ちた。
「ばかやろう! 口先だけでそんなことを言っても駄目なんだよ、これは。それぐらい難しい事なんだ。そういうのは、できてから言えっていってんだよ」
 当たり散らすような口ぶりだ。だけど、突き放すようなことまではしてこない。
 俺は先輩の横に寄り添ったまま、いじり続けるシリンダーの模様を見つめていた。そのうち、自然とながら説明が始まった。シリンダーの種類は『ロイヤル★ガーディアン』と呼ばれるものだ。エイ・エス・アイ社が販売している特有の規格。バンプキー作製のグレードは上級で、上手くできても二十数回を数えるほどのバンピング――ハンマーで叩く――になる。
「おれができたのは簡単なものだけさ。ピンタンブラー錠の六ピンタイプと、五ピンタイプ……あと、ゴール社のVー18ってやつだけだ。本当のバンプキーアーティストになりたいなら、そこにあるやつを攻略しなければいけない。それができて始めてホンモノさ。おれはつまるところ、ぺーぺーでしかないんだよ」
 急に尻すぼみになって言う。そんな自信のなさそうな先輩なんて見たくなかった。相当難しいんだろうか。先輩でさえ手が届かないぐらいに、レベルが高い課題なんだろうか。
 だとしたら、先輩はこの俺の技量にかなり期待しているって事にならないか。
 俺をちらと一目見るなり、ポケットに手を突っ込んだ。取り出したのはキーリングで繋がった、十三種類のバンプキーだった。持ち手の形状から鍵山の形状まですべて異なっている。中にはオレンジ色の特徴的なキーヘッドをしたものまで混じっていた。
 束ごと俺の目の前に投げ込まれる。金属でガラスを叩くような音がした。
「……先輩?」
「お前にやるよ。それがお前の先生だ」
「口ではレクチャーしてくれないんです?」
「ばっか、言って分かるようなことならとっくにマニュアル化してるわ。そういうのは手探りだって言っただろう。自分で感触を掴むしかないんだ。その掴んだ感触は論理的にはまとめられないすごく複雑なものだ。こういうのをスキルというのかもしれんがよ、まあ、そういうことだ。手先に身についたものがすべてなんだ」
 半田先輩は帰り支度をする。俺は、十三種類のバンプキーに目が奪われたまま、何もできない。
 おっと、と先輩は踵を返して言った。
「言い忘れていたことがあったわ。それは人前で見せたらいけないものだからよ。ここに誰かがやって来たらその箱ごと全部隠せ。用意した工具も金屑も全部隠せ。そういうことがすぐにできるよう、部屋を管理しろ」
「わかりました。ちゃんと始末できるよう、しておきます」
 自分の部屋を見回した。生活模様を追えるほどに雑然と入り乱れていた。部屋の隅に展開されている拡げられたままの週刊誌は、いつの号のものだろうか。自分でも憶えがない。窓辺には乾燥してぱさぱさになったシャツが掛かったままだ。さいわい台所は片付いていて、シンクがかろうじて見れるぐらいの状態が保たれている。それでも清潔とは程遠い光景だ。これらを一から十まで全部片付けるとしたら、どれぐらい掛かるんだろう。業者を入れたところで、三日はかかるのではないか。とてもじゃないが、バンプキーを制作できるだけの環境なんてどこにもなかった。
 でも、前向きに見れば、何かを隠れてやるにはもってこいの状況にあると言えば、そうなのかもしれなかった。自分がこれからやることを人に知られない、目的にかなった作業場を拵えれば、それでいいはずなのだ。
「で、ここ最近、誰かがこの部屋に来るようなことがあったのか?」
 半田先輩は目をきゅっと細くして問う。
「ないですね。というより、自分でさえ滅多にいないぐらいですよ」
 直後に、つい最近人を入れたことがあったことを思い出した。しかもその人は、刑事なのだった。
 顔色にまずいものが出ていたのだろうか。先輩は虚を突くように言った。
「――まさか、とは思うけれどよ。誰かにつけ回されているなんてことはないよな?」
「誰につけ回されるって言うんです?」
 押し返すように言った。自分でも大丈夫だと言い聞かせていた。刑事が寄ってきたのは、かすみ姉さんの繋がりだ。自分の素行に関連してのことじゃない。だから、変に意識する必要なんてない。
「……覚えがないなら、別にいいんだ」
 半田先輩は猜疑を顔に残したままに、立ち去っていった。
 俺はその背中を見送りながら、あの刑事のことを思い出していた。まさかとは思うが自分を見張っていて、ある日突然ガサ入れを掛けてくるようなことがあったりするんだろうか。
 柔和そうな顔をしているが、背後に牙を隠しているなんて事もあるだろう。羊羹を万引きしそうになったあのタイミングでの登場。いまだに引っ掛かっていた。俺は今もどこかから見張られているんだろうか。
 だとしたら、すぐにでもここから出て行かなければいけない。
 でも、直にそういう姿を確認するまでは動けなかった。いまや俺は、管理された中で生きている身なのだから。
 
 透き通った青色の乾いた夜だった。
 俺はドライブと称して深夜徘徊をつづけていた。不安で仕方がなかったのだ。車の一台も通らない山道をぐるぐる巡る。身体に遠心力が掛かるそのたびに、腰に巻きつけたバンプキーがちゃりちゃり音を立てる。
 また誰もいない交差点の信号に引っ掛かった。気持ちまでブルーになりそうな青色の風景に赤の光が突き刺さるようにまぶしい。なぜか、イライラが募って収まらない。くすぶる感情を抑えながら、キーの一つを眺めた。
 半田先輩のお手本と、アメリカから仕入れたというサンプル品たち。泥棒家業に手を染めている人間からすれば、こういうのは商売道具だ。これを他人に預けるのは、命を預けるにも等しい。先輩は俺のことを信用してくれているからそうしたのだ。
 思いは、汲まないといけない。
 西添から告げられた一週間の猶予。そのあいだに、一本ぐらいはなんとかしてやりたいところだ。
 でも、根気はあったところで実際、成し遂げられるかどうかは分からない。やったことがないことに挑戦するのはいつだって重圧が掛かるものだ。俺は今、その重圧に押しつぶされようとしていた。
 信号が青になった。青色の風景が正常に戻った。風のない静止画像のようなその中に向かって車を発進させる。
 かすみ姉さんのことを考えた。すぐにでも顔を見に行って、勇気づけてほしかった。だけど、ここはそうしないほうがいいんだろう。今は自分を追いこんで、どこまでできるのかを試さなければいけない。
 ハンドルを切る腕に力が籠もった。ちゃりちゃりと鍵の音がいつまでもうるさく響いていた。
 
 
 
 
第四章
 
 元川大祐の張り込みは続いていた。
 半田俊之――
 この男は相変わらず元川の自宅を出入りしている。そして、西添と頻繁に接触しているようだ。
「いつ不穏な動きがあってもおかしくはない状況ではあるんですが、表向き、普段と変わらない様子に見えるのが、かえって不自然なぐらいです」
 菊池の淡々とした報告。塚地は聞き流すふうにしていたが、やがて、ふむ、と引き取る。
「動いてくれれば、こちらもすぐに対応できる準備は整っている。問題は何をやらかすのかってことだな」
「あの二人が白蛇の構成員だとすれば、ですね。大仕事が迫っているのかと構えるところですが、でもそれは確認されていません。ちゃんと毎日職場にも出てますし」
「目標を定めて押し込む準備をしている、とは限らないわけか」
「はい。一つ気になるのは、元川が家に籠もる時間が増えたということでしょうか」
 おや、と思った。
 元川はインドア派の性格ではないと塚地は見ていた。あの殺風景な自室で手持ちぶさたにしているくらいなら、車でひとっ走りでもするだろう。それに彼の場合、そんな暇があれば深瀬かすみの家で過ごしているはずだ。なにしろ恋人同士と見紛うような姉弟なのだから。
「つまり、今まではやらなかった何かを、やっているってことなんだろうな?」
「それも、人目をはばかるような、ゆゆしきことですよ」
「それが何か、見当はつくか、君は」
 菊池は首をひねった。
「すいません……考えても、これといって、まったく――」
 息をついた。
 自宅の張り込みだけでは、そこまでか。
「もう少し踏み込みたいところだが、気取られたら元も子もないしな」
「午前三時、四時まで明かりが点いているんだそうです。それも天井の照明ではなくって、作業用のライトみたいな小さな明かりということでした」
「内職でもはじめたってわけか? 読書に勤しむタイプでもないだろうしな」
「なんらかの手仕事には違いないでしょうね。もっとも、勤め先では副業は禁止されています。毎日くたくたになって帰ってるだけに、夜明け近くまで作業しているとなると、なんだか曰くありげですね」
「資格試験でも受ける予定があるとか、そっちの線は?」
 菊池ははっきりと首を振った。
「職人の世界では、序列や、ものの順序というものにこだわりますからね。特に、あんな小さな会社だとなおさらそうです。元川は新米ではないでしょうが、それでも先輩社員をさしおいて、高い資格を取らせようとはしないでしょう」
「だったら、他に何が考えられる?」
 彼は肩をすくめた。
「難しいですね。個人の見解でよろしいんでしたら、なにか趣味ができたとか、そんな感じになりますが……」
「趣味。それも部屋の中でする趣味か。自主性の低いタイプだし、そぐわないな。あの半田から影響を受けて、何か目覚めでもしたのか」
「あの男はこのところ毎晩のように、元川の部屋に出入りしてますからね」
「だったら、半田の中身を見てみればいい。半田の趣味やなんか、押さえているのか」
「趣味と言いますか、冶金なんかをやっていた履歴があるようです」
「冶金? それって、仕事とは別の?」
「ええ、個人的な趣味としてやっているみたいですよ。半田の自宅回りには銅板や真鍮板、アルミ板を加工したレリーフのような作品がいくつか飾られています」
「そういうのも冶金と言えば、冶金か。それにしても意外だよ。そんなアーティスティックなやつだったとはな。出来の方は?」
「趣味としてはまあ、上出来という程度で。でも、けっこう量をこなしているようですから、そのうち立派なものをこさえるぐらいになるんじゃないでしょうか。なんでしたら、写真を撮ってきましょうか? それとも直接出向いてみます?」
「いや、そこまでじゃない。下手に足を運んで、危険を冒すのよしておこう」
「――では、このまま筋立てを突き詰めましょう。その冶金の趣味から何が見えてくるか、ですね」
 菊池は、気概を顔に満たして言う。塚地は味気もない事務椅子にもたれ、顎に手を当てた。
「いろいろ使えることはあるだろうな。窃盗団関連で言えば、小道具なんかを拵えることができるのかもしれない。例えば、サムターン回しの工具とか、ドアをこじ開ける用のバールとかそういったものだ」
「そういうのはアパートで制作するのは無理だと思いますが。専用の油圧プレス機が必要な工程がいくつかありますから」
「なら、もっと小さなものを考えればいい。例えば、鍵のようなもの――」
「なるほど、合鍵……空き巣が使用する小道具ですね。それがあることを失念していました。しかし、半田が窃盗を繰り返しているという事実は、まだ確認されていませんが……」
「実行役じゃなくって、道具製作専門という見方もできる」
「半田が西添と接触しているのはつまり、そういう職人として、組織に勧誘されているのではないか、と?」
「そう。あるいは、趣味を実益につなげようと、売り込んだのかもな。近頃頻繁に会っているということは、すでにある程度の信用を得て、お互いに信頼関係が生まれはじめているってわけだ。組織としては、人材確保にあたっては相当、慎重になるはずだが」
 闇業界では人の繋がりなんて基本、存在しない。足がつけば、即座に相互連絡を絶って、蜘蛛の子のよう散る。だが窃盗団という組織は、チームワークが何より重視されるだけに、ある程度、信頼感で繋がれた仲間で構成される場合が多い。
 一人捕まると連鎖的に手が回りかねない危険を冒してまでのことだ。そんな仕事仲間を得るのは、かえって難しい。金だけ目当ての人間をかき集めたのでは、たとえばピッキングのプロを金で雇ったりすると、分け前の相談で足元を見られたりして、紛争のもとになりやすい。紛争は身の危険を呼ぶのは言うまでもない。組織からすればなおさらで、破綻というぐらいのものだ。
「それでは半田は闇の社会に降りていく、最初の一歩という段階にいるんですね」
 菊池は硬い顔をして、言った。
「あるいは、もう堕ちてしまっているのかもな。ある程度のめり込んでないと、白蛇に勧誘されることなんてないのかもしれない」
「これは、元川にも言えることなんですよね?」
「もちろんそうだ」
「塚地さんは、こないだ彼に接触しましたよね。その時、彼にはそういう感触なんてありました?」
「それは、何とも言えないな」
「なんだか、濁しているように聞こえますが……」
 信じたくないからだ。そんな思いが自分の中にあったことを、塚地は今意識した。
「あの男には、守ってやらなければいけない人がいる。その人を置いて闇に消えるなんてことは、できないはずだろう」
「深瀬かすみ……ですか。確かに今、彼がいなくなったらまずいですよね」
「そう、まずい」
 午後になってから捜査本部に新たな一報が舞い込んだ。それは、半田と元川がともに行方をくらましたという情報だった。
 
 深瀬かすみは今日も窓辺を見つめたきり、ぼんやりとしていた。塚地に差し出されたコーヒーは、黒漆のように美しい艶を浮かべていたものの、苦くて飲み下せないほどの濃さだった。まるで粉を一年も漬け込んだみたいな味だ。ミルクを入れるのは好みではなかったが、ブラックではどうしようもないので仕方なく少し垂らしてみると、このミルクもまた曲者だった。大きめのミルクピッチャーの中身は、シロップも同然だった。練乳がたっぷり混ぜ込んである。彼女は極端な甘党なのか。遠回しに尋ねてみると、早世した母親がやたらと甘くして飲む習慣があったようで、同じやり方を彼女もそのままなぞっているらしかった。
「残り物のコーヒーだったんですけれど……、やっぱり沸かし直しはよろしくなかったみたいですね。いま、煎れ直します……」
 口をつけようにもつけられないでいるのを見て取ったか、塚地の飲みさしをさりげなく片付けながら、彼女は言った。塚地は押しとどめ、腰を下ろすように促した。
「我らのことはお構いなく、すぐにお暇するつもりですから」
 菊池はと見れば、カップに手を触れた形跡もない。塚地の様子を見て、警戒したらしかった。敏いやつだ。
「先にお客でもありましたか」
 沸かし直されたコーヒー。
 彼女は、しばらくきょとんとしてから、言った。
「……はい、友達が来ていました」
 おそらく、駒沢結衣香だ。すぐにでも訪ねようと言っていた。
「駒沢さん?」
「はい、結衣香を知ってらしたんですか?」
「ええと、そうだダフィン……そう、ミルクコーディングしたダフィンなんかをお持ちになったんじゃありませんか?」
「はい……どうしてお分かりになったの」
「あなたに作ってあげたいと、彼女が言っていたんですよ。なんでもあなたの得意なお菓子だそうで。あなたは、すごく作り方にこだわりがあるんだとか」
「はい、……仰るとおりです」
 なぜか目を伏せて言う。
「いかがでしたか、駒沢さんの作ったダフィンは」
 聞くと、かすみはぽつりと言った。
「食べてないんです」
 哀しそうな顔をした。塚地が言葉を継げないでいると、
「冷蔵庫に入ったままです。どうしても、食べる気になれなくって、そのまま入れてあるんです」
 大好物を前にして、手も出なかったというのは、よほどの気鬱なのだろう。駒沢結衣香の作戦は、そう上手くいってくれなかったようだ。
「あの、刑事さん、召し上がりませんか」
 と、彼女が言い出したので、思わず菊池と目を見合わせた。甘いものは好きでないのか、菊池は遠慮したい様子だ。
「それは悪いですから。せっかくお友達が……」
 塚地はやんわり断ろうとしたのだが、
「食べていただけると、ありがたいくらいなんですが。たぶん、今日も、明日も、食べる気になりそうにないので――」
 断るのも気の毒に思えた。顔には出さないが気乗りしなさそうな菊池と、一皿ずつ頂くことにした。
 まったりとした風味。口に含んだ感触がふんわりとしていて、そのへんで売っているようなケーキよりも、ずっとケーキらしい口当たりを楽しめた。それにしても甘かった。まんべんなく絡んだ白いミルクには、舌がとろけてしまうかと思うぐらいに、甘みが凝縮されていた。
「胃がもたれそうな甘みですねこれ……」
 深瀬かすみが席を外したあいだに、菊池はこっそりとささやき、煎れ直されたコーヒーをきゅっと啜った。ギブアップしかけていたような顔が生き返ったように晴れた。
「なるほど、このダフィンに合わせてのこのコーヒーだったんですね」
 塚地も改めてコーヒーに口をつけた。ビターな風味が強烈な甘さを相殺していき、上品な味わいへと昇華させていく。苦味と甘味の掛け合わせの見事さに唸らされる思いだった。
「ふむ、確かに、ダフィンあってのこのコーヒーですよ」
「どちらの産地のものなんです?」
 と、菊池が深瀬に問う。
「マンデリンです。インドネシアのスマトラ島で生産されているみたいですね。その中でもブルボン種百パーセントというやつで、これは厳選素材だったりするんです」
 つるつると、彼女の口から言葉が漏れ出た。
「ご自身でお選びになった? お詳しいんですね」
「いえ、頂き物なんです。ですから……」
「ああ、そういうことですか。なるほど」
 そう言って菊池はもう一度コーヒーを口に運んだ。甘みはもう口から洗い流されていたようで、苦いだけのコーヒーにまた顔をしかめた。
「珍しい品物なんでしょう? マンデリン・ブルボン種というやつは? そんなものを分けてくれる人がいるんですね」
 塚地は五徳の上に置かれたままのドリッパーを眺めつつ言った。
「付き合いのある人が、しょっちゅう海外旅行に出掛けているんです。その人から譲っていただいたのです」
「ああ、確か、天堂さんというお方じゃありませんか?」
 塚地が問うと、彼女の顔にふんわりとした笑顔が浮かんだ。
「その通りです。なんでも、よくご存じですね」
「先日お会いして、海外渡航が多いと伺ったので」
「やっぱり、天堂さんにも、お話を……」
「あなたには快くないことかもしれませんが……、あなたの潔白を証明するためにも、いろんな方とね。あの人は、あなたのことを心配していましたよ。最近、ここへも来られたとか?」
「はい、いらしています。すごく心配してくださっていて……、本当に申し訳ないぐらいに思ったほどです」
「まるで母親みたいに、あなたを気にかけていらっしゃいました」
「母親、そうかもしれませんね。なんだか、安心感があったりするんです。わたしの母と似ているわけじゃないですけれど、雰囲気だけは近いものを持っているように思えてならないんです。ですから、慕っていると言いますか……頼りにしているところがあるんです」
 彼女の視線が、宙を泳いだ。実母を失った日に思いを馳せたのか。 姉弟の母親が早世した時、二人はどれほど悲嘆に暮れただろう。深瀬かすみの表情には、痛ましいものがあった。
 一番傍にいて欲しい存在の消失。
 二人が姉弟の常ならぬ間柄になったのは、その傷が深かったことの反動なのだろうか。それでもなお、彼女の中には母親の存在が抜けた穴が残った。
 天堂はそれを埋めてくれたのだろう。あの女性には生活力がある分、余裕のある包容力が備わっているのかもしれない。
「彼女は、あなたに何を?」
「何でもしてあげるから、言いたいことは言ってちょうだいって。生活の面倒だって見てあげるからって、そこまで言ってくださいました」
「お受けになるつもりは?」
「分かりません。その時は、遠慮したい気持ちは申し上げました……、けれど――」
 急に不安の色を浮かべるや、顔を窓辺に向かって背けた。胸に手を押し当てている。
「大丈夫でしょうか?」
 塚地は、そっと声を掛けた。
 彼女はゆっくりと振り返ってきた。意外にも、気丈夫な顔に見えた。だが作り物だ、塚地は直感した。薄く脆い、一時的なマスク。少しの挙措だけで、薄氷のように割れる。
「……ごめんなさい。わたしとしても、こんな生活はもうイヤです。早く立ち直って、まっすぐに生きれるようになりたい。だけど、まだまだあの人のことを諦められないんですね……。だって、あの人がいる生活がまた戻ってくれるなら、わたしにとってそれが一番幸福なんですから。それが返ってくることを願わずにはいられないんです。少し幻想を見ているのは気付いています。だけど……やっぱり、駄目なんです」
 堰を切ったようにそれだけ話すと、がくりと椅子にもたれた。座面に向かってずるずる引きずり込まれていくように頭が低くなっていく。
 嗚咽が漏れたのは、その直後だった。箍が外れたように、号泣した。あまりの急激な変化に、塚地は、菊池とともに絶句した。
「あの人がいなくちゃ駄目なんです……わたしは、もう生きていけないようなものです。できたら、帰ってきて欲しい。すぐにこの家で落ちついて欲しい。わたしの前でいつものように笑いかけて欲しい……。どうして、こんなことになってしまったのかしら。誰が望んでこんな仕打ちを与えるというのかしら。耐えられない。わたしは、もう耐えられない……」
 悲しみの渦。
 彼女はその只中にある。
 それは塚地が漠然と思っていたよりも、ずっと大きな、深い渦なのだ。その中心に待ち受けるのは、底知れぬ絶望。彼女はその周りを、小さな木樽のように、翻弄されつつただよっている。今にも砕けそうな軋みを上げながら。塚地には彼女にかけてやる言葉が見つからなかった。
「奥さん、とりあえず落ちつきましょう」
 菊池が寄り添った。だが爪を立てて掴みかかるような剣幕で拒まれ、とりつく島もない。困惑した顔で塚地を見る。
「薬があるはずだ。飲んでもらった方がいいかもしれんな」
「そうしましょう」
 二人が薬を探して右往左往しかけたところで、チャイムが鳴る。応じるよりも早く、来客は勝手に上がり込んで居間に姿を見せた。買い物袋を腕に提げた、平田眞由美だった。深瀬の親友だ。
「また、イヤなことでも思い出しちゃったみたいね……」
 かすみの様子に動じることもなく対応する。なだめすかしながら肩を貸し、寝室へと導いた。菊池も横から支えて同行する。嗚咽が遠ざかり、やがて途切れ、静けさが戻った。
 居間に戻ってきたのは、菊池が先だった。
「彼女は?」
 問うと、首を振った。
「平田さんに任せています。たぶん、大丈夫ではないかと」
「そうか。なら、待とう」
 タバコを吸うわけにもいかない。辛抱の時間がつづいた。マンデリンの苦味がまだ口に残り、いくらか酸味にも変わりかけているだけに、無性にもどかしかった。
 平田が姿を見せた。ぱたり、と戸を閉じる。
「彼女は、大丈夫なんだろうか?」
 塚地が問い掛ける。
「問題ないと思います。ですが、これ以上のお付き合いは無理でしょうね。もう、帰っていただけませんか?」
 どうやら、彼女の心が乱れた原因はこちら側にあるとみなされたらしい。それは違うとも言い切れなかったが、このまま退散するわけにもいかなかった。
「……分かりました、そうしましょう。ですが、あなたとはちょっと話せるはずです。お付き合いいただけますね」
「わたしです? 何かあったんですか?」
 平田は、いかにも不本意そうな顔をする。
「あなたは、彼女の世話役を買ってらっしゃるんでしょう? だとしたら、深瀬さんからいろいろお聞きになっていることがあると思います。こちらは今、どんな情報でも、必要としているところなので」
「あの殺された、日浦さんとかいう民生委員のこと? ぜんっぜん関係ないから。話すことなんてない。そんなことより、いい加減かすみを自由にしてやってくれません?」
 それは聞けない頼みというものだった。深瀬かすみの弟――元川大祐、捜査陣が注視している人物の一人が、突然失踪したのだ。
 菊池と目を合わせた。
 微かに彼はうなずいた。
「できるだけ早く、自由にして差し上げたいのです。そのためにも、しばらくご辛抱願いたい」
 平田は不満そうに腕を組んだが、いくらか態度を和らげた。
「――まあ、いいです。じゃ、わたしのこともお聞きになりたいわけね。たぶん、一週間にどれぐらい来ているのかとか、そういうことをお尋ねなんでしょうね? でしたら、ここのところ、ほとんど毎日のように来ているわね」
「毎日ですか。寝泊まりもしたりもするんですか?」
「そうですね。二日前はずっとこちらにいました。ここから仕事に出たんです」
「そうした方がよさそうなくらい、彼女は心配な様子だったってことなのかな?」
「今日ほど荒れてはいなかったけれど、でも、何が起こるか分からない感じがあったからいた方がいいなって思ったの。ちょっとわたし、心配性な所があるからさ、気になったことがあると放っておけなくなるの」
 この言葉は信用してもよさそうに、塚地は思えた。彼女が今えらく無愛想なのは、かすみへの愛情の裏返しだろう。
「二人で、どんなふうにお過ごしですか」
「単にちょっとお話しするぐらいですよ」
「その中身については話せません?」
「日常の些細な事。職場であったこととか、身の回りであったこととか……そんなこと。あの子の気がまぎれるようなことなら何でもいいと思うの」
 天堂にもいささか強引なところがあったが、彼女もまた押しかけタイプなのかもしれなかった。親友か。深瀬かすみのようなタイプには、そういう親友もありだろう。
「――あなたがいる間、来客なんかありました?」
「けっこう、いろいろ人が訪ねてきましたけれど」
「さっきも人が来たでしょう?」
「さっき?」
 彼女は怪訝そうに、首を巡らせた。誰か人がいた痕跡でも探しているようだ。塚地が先程それとなく覗いてみたキッチンは、綺麗に片付いていた。それは平田の手によるものだったのだろう。
「誰が来たんでしょう?」
 と、彼女が問う。
「短大時代の同級生ですよ。冷蔵庫に彼女からの手土産品が入っています。さっき、ご馳走になりました」
 平田は冷蔵庫の扉を開け、三きれ分ほど切り取られたダフィンを目の当たりにする。
 塚地に向かって首を振った。
「こんなのは知りません」
「では、すれ違いになったってことなんですね」
「…………」
 平田は考え込んでいる。自分がどれくらいの時間不在にしていたか、思い起こしている様子だ。
「ダフィン……、平田さんはお好きですか?」
 彼女は思案から覚めたように塚地を見て、ええ、と如在なく言った。
「普通に食べますね」
「それでしたら、良かった。どうも深瀬さんは食べる気がしないというから、あなたが食べればいい。あの苦いコーヒーと一緒にね」
「これは、あの子が煎れたものね。こういうことだけは自分でやりたがるのね」
 ドリッパーを持ち上げて言う。蓋を取って鼻を近づけるなり、顔をしかめた。ドリッパーをひっくり返し、中身を捨てる。
「流してしまうんですか? もったいない」
「こんな苦いもの、身体に悪いでしょうに。置いておくとあの子が飲んでしまうから駄目です。捨てます」
 平田はドリッパーを洗う。細かいメッシュを通して流れ落ちる水が、茶色く濁っている。何度水を取り替え、濯いでもなかなか透明にならなかった。
「その豆を持ってきたのは、天堂さんって人です。御存知ですか?」
「はい。何度もこちらにいらしているのを見ています」
 蛇口から吐き出される水をきゅっと止めて、彼女は言う。
「その時、あなたは傍にいたのでしょうか」
「付き添っていましたけれど」
「天堂さんについて、どう思いました?」
 平田は口元を引き締めた。
「普通に、いい人だなって思いました。だけど、生活を支えたいというあの人の申し出は、受け容れることはできませんね。というより、かすみはそれを受け容れたら駄目でしょう」
「どうしてそう言うのでしょう?」
「あの人は、母親みたいな雰囲気の方です。だから、かえって彼女のトラウマを呼び覚ますんじゃないかって思って」
「トラウマ?」
「あの子のお母さんは若くして亡くなったんですけれど……」
「それは、知っています」
「その時、彼女は心の半分を喪ってしまったんです」
「まあ、中学生の頃だというから、まあ、それぐらいのこともあるでしょうね」
 軽く相槌を打つような具合に、塚地は言った。
「あの子から、その時の話を聞いたんです。あの子と一緒にいたとき急に倒れて、そのまま息を引き取ったんだそうです。突然の死の、一部始終を見てしまったってことです。それだけでもショックでしょうけど、お母さんは元川家にとってシンボル的な存在だったから、余計にあの子の心に深く刻まれたみたいです」
「なるほど、そういうことですか……」
 目の前で、いきなり母を失った、か。おそらく、深瀬かすみはその時為す術もなかったのだろう。その無力感、後悔が、心の深傷となった。
「確か、心疾患で亡くなったんでしたね」
 と、菊池が口を挟む。
「はい、そうです。もとから身体が弱いところがある人だったようですけれど、でも、そういう持病を持っているわけではなかったので、本当に突然死というやつだったそうです。あの子は、救急車の中でお母さんの手を握り続けていたそうですが、病院に着いたら、死亡が確認されただけだった、と」
「その時の、弟さんは?」
「それも、かすみは話してました。じっと耐えるように、足を踏んばっていたそうです。もちろん泣いたみたいですけれど、それはかすみが後から事情を説明した時のことで、それまではきっと、うまく状況を呑み込めずにいたんでしょうね」
 その日以来、姉弟は二人きりになった。子供二人でいきなり直面することになった現実は、きっと厳しかったことだろう。あの姉弟は、手を取り合って困難を耐え抜いてきたのだ。平田はそこまで語ると、長い吐息が尽きたかのように、言葉を切った。
「二人は強い絆で結ばれているようですね」
 と、塚地は言った。
 亡くなった母親に誓ったのだろう。この後何があろうと、自分たちは硬く手を握り合って、一歩も退かない、と。
 だがそれだけだろうか。塚地の心中に組み上がりつつある、この状況の全体像には、まだ埋め切れてない何かがあるように思えてならない。
「姉と弟にしては、濃すぎる繋がりとすら思えます。知らない人間が見たら、あの二人を恋人同士だと思うかもしれない」
 塚地のこの言葉に、平田は同感したように見えた。鼻で一息吸うと、彼女は言った。
「大祐くんの心の内は、わたしは知りません。でも、かすみが彼をどれほど思っているかは、よく分かります。あの子にとって大祐くんとは、自分以上に大切な人なんです」
「ええ。でも、一つ分からないことがあって」
「といいますと?」
「ほら、彼女は結婚していますから……。旦那さんだって大切な存在でしょう。少なくとも、同じくらいは思っているんじゃないですか?」
 なるほど、といった風に彼女はうなずいて応じた。
「それは、間違いありません。かすみにとって貴志さんは大切な人です。でも大祐くんは、また別なんです。どっちが、というような比べ方はできません。かすみは今、貴志さんを失って死にたいくらいに苦しんでいます。生きていられるのは、大祐くんがいるからでしょう。彼がいなかったら、かすみはとっくに崩れていたと思いますよ」
 自分の疑問の答えとは少しずれているが。塚地は思った。だけど、指摘するには、今はもっと差し迫った問題がある。
「それは、困りますね」
「困る? 何かあったんですか?」
 平田は感傷を顔から閉め出して、問う。
「元川大祐さんへの、精神的な異存がそんなに強いとすると、もし彼が……他所へといくようなことがあったら、ということです」
「それは、大丈夫だと思いますよ。大祐くんはいつも定期的に顔を出していますし、姉さんの傍には自分がいるべきだと、ちゃんと分かっていると思いますから」
 その彼が、消えてしまった。
 彼自身の意思による失踪かどうかはまだ分からないが、どんな理由があれ、ここを去ってはならないあの男が、姿を消した――。
 互いの背でもたれ合うようにして生きてきた姉弟は、今、闇の中の岐路に立っている。鼻の先も見えない中で、どちらかが下手に身じろぎすれば、二人ともに倒れてしまうだろう。身を起こすことができたとしてもその時には、どちらがどちらを向いているのかすら、もはや分からない。
 互いの身を再び探り当てられるかどうかも分からない。弟の方はともかくとしても、姉、深瀬かすみは、直ちに絶望するだろう。
 菊池を見やる。彼も切迫した顔をしていた。二人とも、見逃してはいなかった。かすみの手首に残る赤く細い傷痕を。
 もう猶予はない、塚地は思った。
 
「昨日は別に変わったところなんてなかったけれどなあ」
 元川大祐が務める工務店の上司は、いたって悠長な態度で聴取に応える。
「それでは、本当に唐突なんですね」
「だと思うよ。あれで、何か裏で企んでいるとか気付く人がいたら、すごいと思うね」
「たとえば、金銭的なトラブルですとか、そういう話は?」
「ないね。外食も多いみたいだったし、金に困ってる様子がないのが不思議なくらいだった」
「外食派だったんですね、元川さんは」
「まめに自炊なんてしそうな柄じゃないし、飯作ってくれる恋人とかもいないみたいだからよ」
「そう、もてないとかそういう感じでもないとは思うんですけれどね。もしかしたら、あなたのご存じないところで付き合いがあったとか、そういう可能性もあるかもしれませんね」
 ないない、と彼は手を振って言う。にやつきながら続けた。
「俺、そういうの結構敏感だから。女ができたら、すぐに分かる。これだけは絶対自信あるね」
 元川は仕事が終わったらいつも直帰していた。せいぜいスーパーに寄るくらいで、くる日もくる日も家と職場の往復。何が愉しくて生きてるんだろうと、少し心配になるくらいだったという。それは、張り込みでも分かっていたことだ。
「だからよ、今回のこれだって女を見つけて、そいつと一緒にドロンとかそういうことじゃないと思うんだよ」
「でも何か、理由があるはずですから。……他に考えられることがあったら教えていただきたいものですが」
 彼はうーんと唸った。
「そう言われてもなあ、おれに思い浮かぶことなんてないわ。というより、あいつとはそんなにコミュニケーション取れていたってわけでもないしなあ」
「懇意にしていた人物が、一人いたってことなんですが、その人については御存知ですか?」
「あいつの先輩とかいうやつのこと?」
「ええ、そうです」
 やっぱり知っていた。おおっぴらな付き合い方をしていたのなら、元川と半田には、二人で後ろ暗いことをはたらく裏の世界での関係とか、そういった意識はなかったということになる。
「そいつはうちと通じている会社の関係者だ。そういや、元川をウチに引き入れたのはその会社の口利きがあったからなんだったか。そうそう、あいつがウチを受けた際にやらせたペーパーは赤点で、面接もシャキッとしないときた。本来なら不採用だったけれど、付き合いのある会社のお願いとくれば、足蹴にするわけにもいかんだろ。まあ、そういうことなんだよ」
「では、会社にとって大切にしなければいけない人材なんじゃないですか、元川さんは」
「そんな扱いでもないさ。一応、その会社とのあいだに立っているやつだから使えるやつではあるんだ。今のところ、そういう役には立ったことはないんだけれどもね」
「一つ気になったんですけれど、採用にあたっての口利きの件、それって具体的にどなたが言い出したことなんでしょう? もしや、その先輩だったりしません?」
「それは、知らない。たぶん違うんじゃない? 社長同士の話だと思うからさ、下っ端は関係ないでしょ」
 半田がどういう人間なのかについては、ほとんど何も知らないようだ。彼が元川と同時に失踪したことも知らない。となると、半田が勤めている別の工務店の社長と、半田との繋がり――それが気になるところだ。
 元川の上司とのやり取りはそれで切り上げ、菊池が待つ、元川大祐の部屋へと向かった。むろん、一課の仕事の延長上にある捜査だが、形式上は三課の許可のもとでの立ち入りとなった。
 中は以前に入った時と変わらず、殺風景だった。バイクの雑誌を束ねたものがドアのストッパーにされている。これは前回にはなかったものだ。本棚の整理でもしたのか。
「たぶん、深夜に点っていた作業用ライトというのは、これでしょう」
 菊池が部屋の奥を示して言う。小型の折りたたみデスクの上に置かれた、真鍮フレームの古いデスクライト。会社の倉庫に転がっていた不要品を引っ張り出してきたという感じだった。
「けっこう明るいんですよ」
 菊池は言い、パチンと音を立ててスイッチを入れた。フィラメントがぎらりと輝き、燃えるような光線を放った。電気を食いそうだが、この熱い光には、なんだか懐かしい観がある。
 この強い明かりの下で、元川は何をしていたのか。
 デスクの周辺は、いつも掃除されているようにこざっぱりしていた。塚地は四つん這いになり、カーペットに顔を擦りつけんばかりにして、何事かの形跡を探った。
 そして見つけた。ちかりと光る、爪で摘むのがやっとの、小さな金屑。
「これは、彫金のようなことをやっていたんだな」
「半田と同じ趣味を、元川もやっていたってことになりますか」
「生活の足しにできるような、趣味をな。窃盗団向けのアイテムを作っていたんだ」
「合い鍵ってことですよね」
「というより……バンプキーというのは、知っているな?」
 菊池ははっとしたような表情を見せた。
「そういうのもありましたね。ですが、バンプキーというのは日本ではあまり馴染みのないものだったと思うのですが……」
「そう、日本製のシリンダーにはバンプキーは存在しない、通用しないとか言われていた。でも、それはずっと昔のことだ。いまではバンプキーは改良されて日本製のものにも応用が利くようになってきた。そういう開発者がいるってことだよ」
「元川はその開発者だったんです? あと、半田も?」
「もう少し調べてみないとそこははっきりしない。開発者だったとしたら、半田が先だ。元川は、やつの弟子になったってところかな?とりあえず、この金屑を分析してもらうとしようじゃないか」
 塚地はポケットに常備している小さなジップロックを取り出し、その中に金屑を収めた。
「二人がバンプキーの開発者だとしたら、厄介ですね」
 と、菊池は堅い口調になって言う。
「揃って行方をくらましたのは、作品ができあがったってことです?」
「できあがっているどころか、もう実用に供しているのかもしれない。今のご時世に、せっかく掴んだ堅気の仕事を放り捨てて住所不定になるなんてのは、この職でやっていけるという手応えを持ったその時だけだ」
 菊池の顔が引き攣った。
「でしたら、もう実務経験済みの疑いが出てきますか……空き巣の一件や二件は」
「日浦の事件から今日までの間に発生した空き巣案件。これを全部洗い直してみなければいけないな」
「その前に、盗犯担当の三課の協力をもっとよせないと駄目ですね。説明の方は、自分が請け負おうと思います。ちょうど、話を聞いてくれる同僚がそっちに詰めていますのですぐに対応できると思います」
「だったら、任せた」
「了解しました」
 菊池が出ていき、一人になったところでもう一度部屋の中を見回す。窓辺に掛けられた部屋着はそのままだ。衣装ダンスやクローゼットもかき回した跡がない。着の身着のままで逐電したというよりも、拉致同然に連れ去られたかというような具合だ。
 眺めているうちにやりきれない思いが込み上げてくる。深瀬かすみには、元川大祐の存在が不可欠だというのに、あの男はまるで、自ら泥沼にはまり込んでいくような真似をしている。
 しかも元川は、すでに危険な領域にまで踏み込んでしまっている恐れがある。最愛の弟が崖を踏み外したことを、いずれ姉も知らずには済まされないが、今はその時を、できるだけ遅れさせてやることぐらいしか、塚地にできることはなかった。
 
 金屑は成分検査機に掛けられ、暫定的な結果はすぐさま報告が上がった。マグネシウム、亜鉛、イリジウム、その他の混合金属といった配分だった。この結果は、塚地の予想とは異なっていた。
「これは、つまり真鍮ではなかったということなのか?」
 報告書を携えてきた鑑識担当へ、報告書に目を通しながら問い掛ける。
「真鍮ではないですね。それよりもずっと上物ですよ。最近開発された特殊合金の一種ですね。主成分はマグネシウムですから、一応、マグネシウム合金と呼んでいいんでしょうが」
 鑑識の話では、長周期積層秩序構造という新奇で精緻な原子配列を持ったもののようだ。純度の高い結晶にさせるためには、非結晶状態で凍結したものをゆっくり解凍し原子拡散させなければいけない。言うまでもなく、高輝度X線など科学的設備が整っていないと結晶化の有無が確認できないことから、これはどこかのちゃんとした研究施設から流れた代物だってことでいい。
「個人で作るのは無理なのか」
「精製方法さえ分かっていれば、作れないことはないんですけれどね。ただし、結晶化の有無をその場で確認できない限り、純度を高めるのはきわめて困難です」
「元川の自宅ではそういうものはまず作れないな」
「工務員なんですよね? 工場のある会社にいるなら、そこでこっそり作ったかもしれませんね」
 半田には冶金の趣味がある。マグネシウム合金を自前で製作したなら彼のその趣味が存分に活かされたはずだった。
「これから純度の検査に入りますけど、結果はもう、ある程度予想がつきます。純度はかなり低いでしょうね」
 と、彼は上向きながら言った。
「だから、個人の線を頭ごなしに否定しなかったということ?」
「念頭にはありました」
 塚地はふう、と息をついた。
「個人の手で製造されたなら、次は、どこから精製方法を仕入れたのかっていうことになるんだが」
「普通に考えると、その手の研究にたずさわっているという線が一番なんでしょうが」
「それはない。そのことははっきりしている」
「なら、どこかからデータを盗み出したか……いや、自分で調べたのかもしれませんね」
「自分で調べてわかる範囲なの?」
「できないことはないと思いますが。今じゃ、インターネットで最新の論文だって読めますから。難しいのは、むしろ材料集めの方だと思いますよ」
「この件では、材料集めの問題はクリアできているのかもしれないんだ」
「でしたら、こしらえるのに大きな障害はないでしょうね」
 あの半田という男には、それだけの情熱があっただろうか。白蛇と接触している事実から、強い意欲が疑われることは確かだ。やり遂げたかもしれない。
「――それで、マグネシウム合金を調達できたとして、それを使って何ができる?」
「鍵に使われる真鍮よりもずっと優れた強度を持った金属です。耐久性という意味ではもうこの上ないものだと思っていいですよ。ただ具体的な用途ときますと、ちょっとね……なにしろ新材料ですから」
「今、こっちが疑っているのはバンピングに使用する、バンプキーなんだ」
 ああ、そうか、と彼は手を打った。
「それでしたら、ピッタシです。バンプキーは精度のいいやつでも五回は叩かなければいけないものですから。精度が低ければ三十回以上……真鍮製ではとても強度が足りなくて、使い捨てになってしまいます。このマグネシウム合金を使えば、立派な耐久消費財になるでしょうね。素材としては最高ですよ」
 強度を見込んでこの材料を採用したのだとすれば、それはつまり、精度のそう高くないバンプキーしか作れない職人が、その欠点をカバーしようと考えたのではないか。半田の場合、趣味で作った飾り物の出来具合から推し量ると、天才職人というほどの腕前ではなさそうだ。それだけに、欠点を補おうとしたところでおかしくはない。 「わたしとしましても、マグネシウム合金で拵えたバンプキー、見てみたいですね」
 彼は好奇心を目に湛え、言った。
「それは、こっちも同じ気持ちだよ。どんな代物が作られたのか、すぐにでも現場を押さえてやりたいぐらいだ」
 
 半田の勤め先の工務店を訪ねたのは、午後四時を過ぎてからのことだ。社長はプレハブの事務所に詰めて、デザイナーと施工の打ち合わせをしているところだった。
「あいつは口の上手いやつでね。口車に乗せられてひどい目に遭ったことなんて一度や二度じゃ済まない」
 頭の禿げ上がった、小柄な男だった。愛嬌さえ感じる童顔はいま、苦虫でも噛みつぶしたように歪んでいた。
「いったい何をされたと言うんですか?」
「刑事さんの前だけに、あまり声を大にして言えないが……、もっぱらギャンブルだよ。競艇にはまっているらしくてね。ちょうどいい組み合わせがあるんだと調子のいいことを毎回のように口にするんだ。それで事務所の者たちからごっそり資金を調達して、大きな額を賭けるんだ」
「それって、乗らなければいいだけのことではないんじゃないですか?」
「それができたら苦労はしないよ。あいつは断らせない方法ってやつを押さえているんだよ。情に訴えて、調子に乗せるようなことを言う。その手の説得だったら、あいつの右に出る者はいないな」
「それで、勝率のほどはどうだったんでしょう? 酷い目にあったと言うからには、負けてばっかりだったってことなんでしょうか?」
「いや、たまには勝つよ。それもここぞというときに勝つやつなんだ」
「ああ、そういうことですか。だから、つい乗ってしまうんですね?」
「それもあるが、一番はあいつの説得だ」
 なんだかそこに言い訳をつけているような気がしてならない。ともかく、この社長が口車に易々と乗ってしまうぐらいに優柔不断であるって事だけは間違いない。
「その半田なんですが……、あなたとは深い繋がりがあったと思うんですよね」
 そう言うと、急に神妙な顔になった。
「なんでまた急にそんなことを……」
 やや狼狽気味に問い返す。
「事情からして中身については語れないんですがね……、彼の関与があっただろう案件を、いくつも私の所で確認しているんです」
 思わせぶりに塚地は告げた。
「中身を語れないなら、表に出していいことじゃないだろうに。わたしゃ、もったいぶった話は嫌いだよ」
「でしたら、明かします。元川大祐。この人物は知っていますね?彼を付き合いのあるホームメイカー先に斡旋していますね?」
「そうだったっけ?」
 彼は口先を尖らせながら、とぼけた顔を見せる。
「口利きがあったという事実はすでに押さえています」
 きっぱり告げると、ころりとばつの悪い顔を見せる。
「まあ、そういうこともあったな……」
「そうした口利きの背景に半田がいたんです。そのことは、間違いないですね?」
 畳み掛けると、社長はのそりと顔を上げた。引き攣ったように、片方の涙袋が震えている。
「そうだな……」
「なぜ、社長のあなたが一介の従業員の希望を飲み込んだのでしょう? それを教えていただけません? 自然に考えると、あなたと半田とは、雇用上の関係を越えた、特別な間柄にあると疑われてくるのですが」
「それはない」
 彼は強くかぶりを振った。
「では、あなたにとって半田は、本当に、ただの従業員なんですね」
「そうだよ、刑事さんが思っているようなそんな関係ではない」
「そう仰るのでしたら、その時、口利きの希望を満たしてやったわけを話してくださいよ」
「…………」
 彼は肩を落としたまま、視線を宙にさまよわせていた。どう答えたものか自問しているようだ。やがて、厚ぼったい唇が開いた。
「まあ、ちょっとしたトラブルがあってね。始末に手を焼いていたんだが……あいつに取り持ってもらったんだよ」
 弱みを握られていたってことだ。半田はそこに付け込んでいったのだ。
「そのトラブルの中身は語れないのですか?」
 社長は泣き笑いの表情になる。
「情けない話……、これなんだ」
 あまり器用ではなさそうな丸っこい手の、小指が立てられた。女性関係というサイン。塚地はなるほど、と内心で納得した。
「相当タチの悪い相手でも掴んでしまったみたいですね」
 社長はへへ、と照れ笑いする。
「まあ、ご想像の通りだ。通いつけのバーの若い子なんだ。前評判が悪いって聞かされていたんだけど、でもつい手を出しちまったんだ」
「それがどうして半田が絡んでくることになったんでしょう?」
「いや、それがいつしか情報が漏れてしまったみたいでな、こっちも分からんうちにあいつが間に入ってしまっていたんだ」
 もし、社長が手を出したバーの従業員が、半田に買収された工作員だったとしたらどうだろう。社長の弱みを一気に握れる状況が作れてしまわないか。
「その事件は……元川大祐のことでホームメイカーに口利きをする、ずっと前のことだったりしません?」
 社長はたじたじとなった。頬が紅潮している。
「なして、そんなことを……」
「事実なんですね?」
 ここぞとばかりに塚地は強行する。社長は一声唸るなり、瞠目した。ほどなく、懺悔の言葉が吐き出され始める。
「……どうも嘘が通じないお方のようだ。相手が悪かったよ。……ええ、刑事さんの仰るとおりです。トラブルは口利きよりもずっと前のことです。一年半ぐらい……」
 その間、弱みを握られた関係がずっと続いていたということだ。察するにトラブルはあっさり片付くような単純なものではなかったのだろう。半田はそこに粘着しつづけ、社長との関係における優位性をキープしていた。
 何にせよ、半田の素性がだんだん見えてきた。
「いわくありげな失踪なだけに、以後、半田のことを丹念に見ていくことになります。その際には、あなたの女性関係のトラブルについても調べることになりますね、避けられないと思ってください」
 塚地は容赦なく告げた。社長は眉を情けないハの字に下げ、しょぼんとしている。六十を過ぎているはずなのだが、その模様はまるで叱られた中学生といった風情だ。
「……わかりましたよ。ただ、できれば従業員の前では……そこは配慮してもらえませんかね」
 縋るような目。
 塚地は息をつく。
「まあ、そこは希望どおりにしましょう。ですから、ご心配なく」
 塚地の答えに社長は手を摺り合わせ、泣きつかんばかりの謝意を表した。
 
 菊池からの要請を受け、空き巣を取り締まる三課との連携の確認がなされた。関連書類の引き出しの許可が下り、捜査資料の閲覧も部分的に可能となった。早速、過去一週間以内に発生した空き巣案件でシリンダーが破壊されていたケースの資料を直接確認させてもらうこととなった。
「なるほど、たしかにバンピングされている」
 鍵の挿入口が押し拡げられた、犯行手口を示すシリンダー。鍵穴は可動式の内筒で保護されて奥が見えない仕様だった。
「これは、なんというタイプのシリンダーなんだろう?」
 塚地が立ち合いの三課員に問う。
「ピンタンブラー錠の六ピンタイプですね」
 内筒にキーを差し込み、外筒に装着されているスプリングで固定された鍵穴の各要所を埋めるピンタンブラーが一列に突き出たシリンダー。その構造はいたってシンプルだ。鍵が挿入されることでバネが押し込まれ、形通りに固定されることで鍵が挿入された内筒と外筒が一体化するのだ。
「で、バンプキーそのものは残されていなかったんだね?」
「ありませんね。使い捨ての物でしたら、そのまま差し挟まれた状態なんでしょうが、今回の場合は残っていませんでした」
「ピンタンブラー錠の六ピンタイプが狙われた案件は、他にも?」
「ええ、区内では向こう一ヶ月で三件ほど確認していますね。もっと広範囲に見ていけば、二十件を越えますが……」
「それらのうちバンプキーが残されていない例は何件?」
「全部です」
「全部?」
 思わず、声が高くなった。まさかとは思うが、半田がすべてやったのだろうか。いや、いくらなんでもそれはないだろう。空き巣犯は都内に数多くいるから彼らの動きも考慮しなければいけない。
 菊池は破壊された鍵穴をじっくり観察している。顔を上げた所で、塚地はすかさず言った。
「何か、気になった点でも見つかったのか?」
「いえ、とくにないですね。ただ、自分が思ったよりも鍵穴が綺麗だなと思いまして」
「それで綺麗だって言うのか?」
「ひどいのはもっと荒い感じだと思いますよ。ですよね?」
 三課員はうなずいた。
「たしかに、それはまだ状態が保たれている方だね。たいていは鍵穴の内筒が破壊されて穴が開きっぱなしになっているから」
「このバンプキーを作ったやつは、かなりの腕っこきってことか」
「それは分からない。本体がないからね」
「残された鍵穴だけで精度は分からないって言うんです?」
「鑑識から話は聞いているよ。これまでとは違うタイプのバンプキーが使用されているのは間違いないってね。加工精度が高いというよりむしろ、高いレベルの研究が積まれている印象があるってことだった」
 完全なバンプキーは、単に職人の技の錬磨から生まれる物ではない。差し込む先のシリンダーをも知り尽くし、窮め尽くす徹底的な研究の成果として現れる。そのような制作者が存在しているなら、近い将来、恐るべきバンプキーが出てくるのかもしれない。
 マスター・バンプキー――。
 そのようなものが出現する事態など考えたくもないが、あり得ることだ。そんなものが広く出回った日には、治安は一気に地に落ちることだろう。塚地は今から背筋が冷える思いがした。
 
 
 
 
第五章
 
「おい、すき家の特盛り牛、買ってきてやったぞ」
 半田先輩が陽気な顔で牛丼屋の袋を拡げながら言う。二人しかいないのに、たらふく食べられるように五人前も注文してくるあたり、少々金遣いが荒い。先日得た臨時収入の余韻が続いているんだろう。 白蛇の組織に迎えられ、その一役として活動するようになって一週間が過ぎた。いまだ実感を保てないのは、実行部隊としての召集がまだかからないせいだろう。
 そう、俺はまだ内職のような仕事だけをやらされていた。バンプキーの開発。自宅アパートでやって来たことを基本に、海外製のキーをモデルに日本製の最新シリンダーに対抗できる最高の逸品を仕上げなければいけなかった。
「なんだ、食欲がねえのか?」
 先輩が近くまで来て言った。割り箸とセットになった牛丼一式を、作業中の俺のデスクの上に置く。
「いえ、そういうわけでは……」
「だったら、さっさと食え」
 割り箸を手に取って割った。紅ショウガと唐辛子を振り掛けて最初の一口を掻き込む。いつもの甘ったるい味わいだ。ただ米が少し固い気がした。炊き加減を間違ったんだろうか。
 その模様を半田先輩がじっと見ていた。
「……なんすか?」
「いや、元気がねえなと思ってよ」
「そうです? 別に体調が悪いとかそういうことはないんですけどね……」
「なんかよう、暗い顔してんのよ。女に振られたみたいな感じだよ。もし、何かあるなら、すぐに言えよ」
 半田先輩は自分の分の牛丼を掻き込む。たちまち食べ終えたと思ったら次の丼に手を伸ばす。俺の食べる量より倍ぐらい多かった。 「もし、そう見えるなら……あれでしょうね」
「あん?」
 先輩の箸が止まる。
 早く言えよ、とせっかちに催促する。
「たいしたことじゃないんだけど、そのう……働いているかどうか実感が持てないせいじゃないかって」
「どういうことだよ。お前ちゃんとやってるだろうが。このバンプキー。今だって作っている所じゃなかったのか?」
「これを作るつもりで入ったわけじゃないんですよ。白蛇に所属してその一員としてやっていくつもりでいたんです。それをやって、はじめて一人前というやつだと思うんですよ」
「ばっかだなあ、お前。実行部隊なんて下っ端がやることだよ」
 半田先輩はおどけて言う。
「そうなんです?」
「お前、完全に思い込んでいるだろ。それ、まず頭から取っ払った方がいいわ。な、お前が今やっていることは、貴重なことなんだよ。誰にもできるようなことじゃないんだ。だから、実行部隊よりもずっと立場がいいんだよ。っても、まだ結果を出しているわけじゃないからそういう見返りは得られないんだけれどさ。ま、そのうち大量に入ってくるはずだから。とりあえず今は、これで我慢しとけ」
 半田先輩は皺が寄った折りたたみの財布を取り出すなり、札を一掴み引き抜き、俺の前に投げ出した。十万円。一枚折った紙幣に挟んで揃えているあたり、金の扱いに慣れた印象がある。
「これ、先輩の報酬金でしょうに?」
 と、俺は言った。
「そんなの関係ない。一緒に暮らしているんだからよ、いずれ使う金だよ。だから、受け取っとけ」
 言って、にんまり笑顔を湛える。なんだか、断ってはいけないような気がした。だから俺は十万円を握り、その手をぼんやり見つめた。
「というよりさ、さっき出掛けついでにパチ屋寄ってきたんだわ。ちょこっと勝ったんだよな。だから、金には余裕があるんだ」
 嘘だ。
 先輩はパチンコ屋に入ると十時間はぶっ続けでやるような熱中派だった。ちょっと寄るだけなんてあり得ない。
 もしや、俺に気を遣っているんだろうか。
 あの先輩が……とは、思う。
 だけど、それ以外には考えられないように思えた。ここは、何も言わないで受け取っておくのが一番のような気がした。
「それで、お前の仕事の方はどこまで来ているんだ?」
 半田先輩は改まって、問うてきた。取り掛かっていたバンプキーの試作を興味深そうに覗き込んでくる。
「おっ、マルティロックに挑戦していたのか? ここからは俺がいくらやってもダメだったやつだ」
 難易度が高いキーであるのは、間違いなかった。これは鍵山タイプではなく、インタラクティブピンと呼ばれるプラグのカバーを押し上げる突起に加え、ディンプルと呼ばれる特殊の窪みにシリンダーボディーに差し込まれたプラグピンを噛み合わせることできっちり固定させるタイプのものだ。窪みの調整が僅かでも失敗するとピンが溝にはまり込んで逆に引き抜けなくなってしまう。加工技術の観点から見ても、特殊の機械がなければなかなか精確に作ることができない。
「これが、成功したらお前……、大貢献だぞ」
 半田先輩は一人で盛り上げるように大げさに言う。
「そうだったら、嬉しいすけどね……ですが、それはダメです」
「なんだ、失敗だったのか?」
「はい。たぶん、溝を削り過ぎてしまったんじゃないかと」
「このサンプル器で試したらダメか?」
「やめておいた方がいいでしょうね。抜けなくなったら、代用のシリンダー用意するまで何もすることが無くなっちまいますから」
 先輩は首を振りながら、肩をそびやかした。
「何だか焦れったいな。これじゃ、失敗したかどうかも分からんままじゃないか」
 しばらく、俺たちは沈黙した。半田先輩はまだ食欲がおさまらないようで、膝元の牛丼を休み休み、掻き込んでいる。
 あっ、と思い立ったように漏らした。そして、口に詰め込んだものを勢いよく飲み込む。
「マルティロックだからよ、表に出て直接試してみればいいんだ。この手のタイプならすぐに見つかるだろ」
 何らかの事情があってシリンダーを交換しなければいけなくなったときに採用されるのがマルティロックだ。そして、それらは昨今、会社事務所のドアの統一様式としても認められつつあった。
「ですが、それって逸脱行為じゃないですか?」
「ばっか。白蛇の法規を守らなければいけないのは呼ばれたその時だけだ。普段は、そんなことは意識しなくていいんだよ」
 相変わらず世の流れに倣わない人だ。そういう感覚が、この人にはそもそも存在しないのかもしれない。
「それによ、おれたちはもっといいものを食わないと割が合わんだろ? なんのために職を捨てたんだよ」
 工務店の作業員としての堅気の仕事。それを捨てたことに後悔なんてない。だけど、世間の常道から大きく外れていくことへの躊躇いを、俺はまだ押しつぶすことができていなかった。
 この圧迫感。
 これを跳ね返せるのは、失った物を凌駕する見返りを得たときだけだろう。
「どうなんだ。自分の仕事の成果を試してみたくないか?」
 とくんとくんと、心臓が高鳴ってきた。
「本当に、大丈夫なんでしょうか」
「何かあったら、サポートしてやっから。ノウハウはもう身につけたつもりなんだよ」
「でも、ターゲット選定についてはまた別の問題ですよね?」
「それもなんとかなる」
 明らかに勢いだけで言っていた。俺には不安しかない。だけど、飛び込んでみたいという衝動がなぜかしら、沸々と湧いていた。部屋に居残って内職を何時間も続けてきたから、身体に鬱屈が溜まっているのかもしれない。
 それに……。
 俺にはかすみ姉さんのことが気に掛かっていた。バンプキー開発の報酬を待たず今すぐ稼げたら、明日にでも姉さんに還元してやれる。
「でしたら、いきましょう」
「おっ、お前がやる気になってくれるなんて嬉しいなあ。と、戦をする前に、腹ごしらえを済まそうじゃないか」
 五人前の牛丼を二人で平らげた。大量の油が腹の底で燃え盛るようだ。こういう時は、大食いで散財するのも悪くないかもと俺は思った。
 
 半田先輩が目をつけたのは、六階建ての雑居ビルだ。辺りの道はすっきりしていて幹線道路までのアクセスは良い。これは白蛇のターゲット選定条件の一つだった。入り組んだ道や住宅街の隅を狙った犯行は人目を避けるにはいいが、逃げ道が限られてくる。よほどの土地勘がなければ、警察が網を張った時点で退路を断たれる。地域の警察官はたいてい土着の人間だから、そもそもが不利なのだ。
「物音はしない、大丈夫だ。こっちにこい」
 三階フロアに立っている先輩が手招きをする。俺は足音を殺してそちらに進んだ。
 目当ての部屋の前に立つ。半田先輩が見張り役だ。
 マルティロックのプラグを見つめた。俺はポケットから試作のキーを取り出し、丁寧に削ったその鍵先を見つめた。ふうっと吹いて、表面の屑を吹き払った。そして、挿入。しかし、奥まで嵌ってくれない。途中でつかえているらしく、がちがちと金属のきしる音がする。最後のインタラクティブピンが余ったままだ。ここで無理に押し込むべきかどうか、俺は迷った。
「何やってんだ」
「先輩、はまりません!」
「ダメなのか?」
「たぶん」
「押していけよ。そいつを捨てていくつもりでよ」
「いえ、引き抜きます。一旦、引き返しましょう」
「なんだって?」
 先輩の色めき立った声に構わず、俺は思いきりキーを引き抜いた。嵌り込んでいたピンが一斉に離れ、勢い余って尻餅をつく。
「おい、立てよ」
 半田先輩が見下ろして言った。
「誰か来ているんです?」
「誰もいないけれどよ、ぺたっと座ってちゃまずいだろ」
 先輩はきょろきょろ首を巡らせながら言う。そして、あからさまなため息をついた。
「仕事はお預けだ。行くぞ!」
 俺たちは懸命に走った。街灯だけが照らす静まり返った道を駆け抜け、表通りに達する。車の往来があるだけで歩道は閑散としていた。通りの向こうにあるのはファミレスで、明るい窓の中には遅い夕飯を摂っている家族連れの姿が見えていた。
「やめやめ! 今日は、もう気分が台無しだ」
 先輩はポケットからタバコケースを掴み出し、一本引き抜いた。気分悪そうな顔のままに紫煙をくゆらせる。
「先輩……すいません」
 先を行く背中に向かって俺は言った。
 半田先輩はしばらく押し黙ったまま歩いていたが、
「別にいいんだよ、気にすんなよ」
 と、背を向けたまま唐突に言った。振り返ったその顔は、いつもの先輩だった。にっと、不器用な笑みを見せる。
「おれらにはまだチャンスはある。その時まで持ち越しだ。旨いものは後までお預けだからな」
 なんとなく、こういう人だからついて行けるんだろうって、俺は思った。これが先輩ではない別の誰かだったら、途中で見限っていたんじゃないかと思う。俺はもともと、一人でいる方が楽だ。誰かとつるむ必要なんてない。
 だから、白蛇の勧誘を受けた時、どうして俺と半田先輩が二人一緒なんだろうと思ったが、ここにきて、なんとなくわかってきた。俺と半田先輩は二人で一人の扱いなんだ。すくなくとも先輩は、たぶんそのつもりだ。西添が話を持ち掛けてきたあの日、俺の決断次第で自分も腹を決めると先輩は言った。うまいコンビネーションが作れているとはまだ思えないが、これからそうなっていくんだ。そのためにも、俺はもっと先輩を信用しなくちゃいけなかった。
「おい、どうしたんだ?」
 先輩が足を止めて俺を待っていた。
「いえ、なんでもないっす」
「なんだよ。まだ、気にしてんのか? だったら止めろよ。時間の無駄だ」
 先輩は苦笑交じりに言う。
「とにかく名誉は必ず挽回します。先輩のため……先輩のために、なんとかしてみせます!」
「頼んだぞ。おれはきっとお前はやってくれるって思っている」
 気取ったように言い、タバコケースを俺に突き出す。とんと底を叩くと一本頭を出した。俺はそれを指でつまみ上げた。
 先輩に火を借りてタバコを吹かす。辛い味だった。ちょうど風向きが変わり、自分の吐いた紫煙が目に被さって、涙が出そうなぐらい染みた。何か、わけの分からない衝動がこみ上げてきて、そのまま泣いてしまいたかった。だけど、そんなざまを見せたら先輩に軽蔑されそうな気がした。
 だから顔を伏せ、いつまでも先輩の後ろを追い続けた。
 
 ポケットの中には先輩から分けてもらった十万円が入ったままだ。ほとんど不労所得に近い収入だったから、なんだかすぐに泡となって消えてしまいそうだった。それをぎゅっと握りしめ、俺は公衆電話を探す。
 使い慣れていたスマホは部屋を出たその時に処分した。西添からの要請だった。そうしないと発信電波から俺の行動をトレースされ、居場所も突き止められかねないから当然だった。足跡を消すのと同じだ。
「あと少し辛抱すれば、お前専用のスマホをちゃんと用意してやる。そいつは、いくら使っても料金は請求されない優れものだよ」
 西添からはそう言われた。いつ渡されるのかは分からないが、それが多重債権者の名義で作られた飛ばし携帯だろうことは、俺にも察しがついた。
 たぶん、その端末を手にした時、俺は本当に白蛇の一員として認められるのだろう。
 その資格が得られるまでは、与えられた役を精一杯こなさなければいけない。
 公衆電話をやっと見つけた。
 俺は中に入って十円玉をありったけ投入した。だけど、プッシュボタンの上で、俺の指は止まった。
 姉さんの家の番号を忘れたわけではない。言いようもない抵抗感が、俺の指先をさまよわせていた。
 俺は今、姉さんと接触していいのか。
 家も職場も、姉さん以外の全てを捨てて、俺はすでに世間から消えた身だ。いや、世間から見れば、俺は姉さんすら捨てたも同然か。塚地というあの刑事は、俺が行方をくらませたことを姉さんにどう伝えただろう。あいつは事情をかなり知っていたから、姉さんの病状を慮って、まだ伝えていないかもしれない。そんな気がする。だけど、姉さんが気づくのは時間の問題だろう。
 かすみ姉さんはその時どうする。貴志さんに続いて、俺まで失踪して……。
 早いとこ、無事を知らせなければ。でも今の俺の境遇を、どう説明する。事情を話すわけにはいかない。だったら、他に伝えなくちゃいけないことなんてあったか。ない。虚しいぐらいに、まったくない。
 俺は指を引き、受話器を戻した。一旦、外に出る。梅雨入り前の乾いた風がそよいでいる。夏の初めの朝早く、墓参りではいつもこんな空気を吸っていたっけ。
 そんなどうでもいいことを思っていると、俺が電話を終えるのを待っていたらしいスーツ姿の男が入れ替わりにボックスに陣取り、いそいそと電話をかけ始めた。俺は公園へと続く道に立つ車止めに腰を掛けた。近くには移動販売のカレー屋が停まっていた。昼下がりには勤め人が寄ってくるのだろう。
 今はまだ、通りかかるのは子供連れの母親か、年寄りぐらいだ。皆くたびれたようなうつむき加減で、のそのそと歩く。道ばたにまとまって生えているカキツバタは、そろそろ花も開こうというのに、なんだか重たげな空気をまとっているようで、所在なげに見えた。
 公衆電話を使っていた男が出てきた。ガラスの扉がドアクローザーに引き戻され、きゅっと音を立てて閉じる。俺は我知らず腰を浮かせ、足の向くままにボックスに向かった。
 再びコインを入れていく。今度は、指は止まらなかった。
 呼び出し音が耳に響く。それは長くつづいた。
 普通ならとっくに切っているだろう回数まで待ったところで、相手が出た。
「かすみ姉さん?」
 他の誰であるはずもない。
「……大ちゃんなの?」
 いつもの優しい声。
 ほっとした。
「ああ、そうだよ」
 心地よい安堵感が満ちる。俺は、清涼感を味わいながらゆっくりと深呼吸する。いつまでもこうしていたかった。一方で、伝えたい気持ちが胸に溢れかえっていた。でも、それらは言葉にはならない。 衝動的に熱いものが込み上げてきて、思わずすん、と鼻を鳴らす。油断すると、涙が出そうだ。それも信じられないほど、大量に。
 でも、姉さんの前だ。
 かっこ悪いところは見せられない。
 俺は懸命に堪えた。
「いま、どこにいるの?」
 姉さんは聞く。か細いが、不安そうな声ではない。
「ちょっと、遠くにね。……ずっとそっちにいけなくって、ごめん。姉さん、怒っているよね?」
「……そんなことないよ。ちょっと淋しいだけ。でも、会いたい。大ちゃんがいるだけで一日が大分違うからさ」
 心が掻き乱されている様子はない。あの刑事は、やはりまだ俺の失踪を姉さんに知らせていなかった。
「そのうち、またいくから。必ずだよ。しばらくやらなくちゃいけない仕事があるんだ。だから、それが終わるまではちょっと我慢かな」
「大変だね」
「そうでもない。かすみ姉さんのことを思えば、俺はずっと楽なことをしているってぐらいだよ」
この先何が待っていようとも、かすみ姉さんのことを思うだけで俺は乗り切れる。俺の何もかもは姉さんのためにあることを忘れはしない。一度たりとも、俺の心がぶれることはないだろう。
「……無理をしちゃ、ダメだよ」
 かすみ姉さんは言う。いつも、俺の身を案じてくれる。
「無理なんてしていないさ」
「あと、わたしのことは大丈夫だから。大ちゃんは、自分のことだけを考えてやって」
「もちろん、ちゃんとするさ。それより姉さんこそ……今日の昼、ちゃんと食べた?」
「もちろん、食べたよ」
 耳元から、鼓膜に吹きかけるような、優しい一言。薄く微笑んでいるかすみ姉さんの顔が目に浮かぶ。俺の大好きな、あの微笑み。
 だけど、急に焦燥感が突き上げてきた。俺は急いで言った。
「しばらくそっちにいけないからさ。振り込みだけはしておこうと思って。十万円だよ、姉さん。少ないけれどさ、ちょっとの間ぐらいはいいものを食べようと思ったらできるでしょ? 自由に使っていいから、それで元気出してくれると嬉しい」
「……ありがとう。いつも、ごめんね」
「いいんだよ。俺は、姉さんがすべてだからさ。姉さんが元気出してくれないと、俺も元気になれないんだ。だから、自分のことだけ考えて」
 俺とかすみ姉さんは、一つ。
 忘れもしない、母さんが亡くなったその日からだ。二度と目覚めない、急速に体温を失っていく母さんの身体。目の当たりにした死の恐ろしい姿、得体の知れない黒い重圧に怯えきって震えていた俺を、姉さんは抱いてくれた。あの時の温かさ。姉さんだって、同じくらい哀しく、怖かったはずだ。
 俺はその時、消えかかっていたと思う。
 嵐の中の、弱々しい小さな火のように。姉さんが自分の中に包み込んでくれたから、俺は消えずにすんだ。だから今こうして生きている。あの日から、俺は姉さんの一部なのだ。
「……次はいつ会えるの?」
 姉さんの静かな問い。
「次?」
「うん、次。なんだか、しばらく会えなくなっちゃうような、そんな気がしてならないの」
 西添との約束が頭をよぎった。
 俺は、彼らに与えられた住まいから出て、自由勝手に行動していい立場にはないのだった。そういう契約をしたのだ。この電話だって本来は御法度のはずだ。
「大丈夫だよ。その気になればすぐに会えるからさ。今だけは、ちょっと辛抱と言うぐらいで……」
 努めて明るく言った。
 でも、姉さんは気づく。かすみ姉さんの、俺は一部なのだから。
「なにかあったら、すぐにわたしに連絡して」
 いじらしいことを言う。とてもつらい境遇にあるくせに。それが姉さんだ。
「分かった。どうしようもなくなる時があったら、必ず」
「うん、待ってるね。お姉ちゃん、その時は、何時間でも付き合ってあげるから」
 笑顔にならずにはいられない。
「そんな弱くはないよ、俺は」
「そう? でも、言い切れるってところまでじゃないでしょうに。だから、お姉ちゃん、待ってる」
 俺には帰る場所がある。
 かすみ姉さんはそう言ってくれているのだ。
 何もかも捨てたわけじゃない、俺は再確認した。姉さんだけは絶対に捨てていない。捨てようとしたところで、それは認めてくれないものなのだ。
「――と、かすみ姉さん。近々、大きな仕事があって……それが上手くいったらビッグボーナスがでてくれるはずだから……。でたらさ、一緒に旨いものを食いに行こうよ」
 不安になるくらい長い沈黙を挟んで、
「……ごめんね。外食したいって気にはなれないの」
 と、かすみ姉さんは言った。
 笑顔を湛えたまま首を振る姉さんの姿が頭に浮かんでいる。
「そう……だったら、止めよう。そうだ、姉さんの手料理がいいな。食いたいんだ。……それもダメかな?」
 今度はほんの一拍の間、いいよ、とかすみ姉さんは返してくれた。
「……いくらでも作ってあげる。大ちゃん、食べたいものなんてあったの?」
 そう聞かれて、急に考えてもぱっと浮かんでくれない。ここのところファストフードの持ち帰りばっかり食べていたから、それ以外なら何でも良いと思った。
「いつかに食べた、姉さんがタレから作った照り焼きチキンなんて食べてみたいかも。あの七面鳥の小さいサイズを丸ごと買って、オーブンで焼くやつ。憶えてる?」
「……もちろん。あんなので、良かったの?」
 くすくす笑いながら姉さんは言う。
「それが食べたいんだ」
「だったら……、次に会う日が決まったら連絡してちょうだい。ちゃんと用意しておくから」
「分かった。いや、材料は俺が買うからさ、用意は一旦俺がそっちに帰ってからにしてよ」
 その時、ボックスの向こうで、人影が動くのを見た。はっとして顔を上げると、何も無かった。
 姉さんの声が続いている。
「……一緒にやるってこと?」
 そう、と俺は気を取り直して、引き取る。
「できれば」
「じゃあ、大ちゃんが連絡くれるまで待ってる」
 心に清涼感が満ちたまま、やり取りは終わった。電話機の上に並べた十円玉を俺は一枚ずつ回収していく。空気の停滞したボックスを開け放ち、目一杯、新鮮な風を肺に満たす。その冷たさも心地よかった。飛び上がりたい気分だった。
 俺は姉さんために生きていく。ただそれだけでいい。
 
 その日、半田先輩は夜遅くに召集され、朝の四時前になってやっと帰ってきた。そのあいだ俺はマルチロックのバンプキーを製作する内職に明け暮れていた。ディンプルの作り方について、ようやくコツを掴むところまできていた。
「ふぃー、つかれたつかれた」
 シャワーを浴びた後、身体を拭きながら先輩は冷蔵庫から発泡酒を取り出す。ランニングシャツの下は筋肉で引き締まった身体だ。ジム通いしていると言っても通用する。これも仕事でできあがった肉体なんだろうか。
「お、……今日の成果は、どうだった?」
 半田先輩が発泡酒を片手に近づいてきた。そして俺の作業場を覗き込む。マルティロックのバンプキー。完成度は、まだ七割弱と半ばだ。
「ディンプル式って、やっぱり関連の道具がないと厳しいよなー」
 と、鍵の窪みを横から見据えて言う。俺に振り向くなり、そう思うだろ? と同意を請うてくる。
「いえ、そうでもないですよ。これまで手探りでやって来ましたからね。なんか、このまま自分の手で作ってやりたいって思いが固まってきてます」
「だってよ、マルティロックのディンプルって、特殊なんだろ?」
「ダブルディンプルのことすか」
「そうそう、それ」
 窪みが二つ並ぶことで切り目が〝W〟の形になるのがダブルディンプルだ。これは単体のディンプルと比して左右対称に作るのがはるかに難しい。ディンプル式よりも浅い様式なので掘り自体は軽い程度で済んでくれるが、二つ並んだ窪みが同じ深さでなければいけないのと同時に、窪みの中間に位置する谷の箇所がキー表面より低い位置に設定した上で、平行でなければいけない。
「なんか、お前ちゃんとやっているな」
 半田先輩は俺の仕事ぶりを確かめながら言った。
「そりゃ、それに掛かり切りでやっていましたからね。前回の失敗を踏まえて、今度こそはって思っているんですよ」
「俺にはこういうのは無理だ。やっぱり、技能っていうのは才能がものをいう世界だよな」
「そんなんじゃありませんよ。先輩にもできることだと思います」 そう言うと、ふふっ、と半田先輩は笑う。
「お前、いっちょ前に上から目線でものを言っているぞ」
「そんなんじゃありませんっす。本当のことを言っただけですから」
 分かっているって、と軽やかに突き返した後、鍵を見つめ直す。
「で、これについての自信はどうなんだ?」
 俺は首肯した。
「あと二日もらえれば何とかなります」
「そうか!」
 先輩は顔を輝かせるなり、ばしばし俺の背中を叩いてきた。
「やるぅ! さっすが!」
 口笛まで鳴らして褒めそやしてくる。
「いえ、まだ試してないですからね。そういうのは上手くできてから言ってくださいよ。と、これは先輩が普段から言っていることですからね?」
 じつはよう、と先輩は聞いていなかったように言う。情のこもった声だ。
 俺の前であぐらを掻くなり、言葉を継ぐ。
「上の方には、お前がマルティロックに挑んでいること伝えてあんだよ。あと進捗の方も」
「西添です?」
「そうそう、西添」
 ぐいっと、手に持っていた発泡酒を呷る。
「向こうからは、なんて?」
「その調子でやっていけってよ。それで、近い内にリストを作ってくれるって約束だった。攻略していく先の選定リストだよ」
「それじゃあ……」
 ああ、と半田先輩は陽気に応じる。
「できた途端、即行で活躍することになるぞ! お前に報酬が入るのは、その時だ!」
「……ずっと気になっていたんですけど、いくら入るんです?」
「聞いて驚くなよ」
 と、二人しかいないのに声を潜める。
「一千万は、入れてくれるそうだ」
「一千万……?」
 それきり、言葉を失った。そこまで重要なことをやっている認識なんて俺にはなかった。想像していた額と、桁が違う。
「それって、まるごと俺のところには入ってこないんですよね?」
「何言っている、まんまお前の収入だろうが。とはいっても、おれという同居人がいるから気持ちぐらいは分けてもらうことになるんだろうがな」
 ちゃっかり言った。もちろん俺だって、そうさせてもらわらずにはいられないから文句はない。
「分かりました。気持ち程度の配分を約束しますよ。ともかく、完成まで一息なので、なんとか今夜はぶっ続けでやります」
「そうそう、小道具の話だった。なんか職人が使用する工具なんてのを用意した方がいいと思うから、おれが買ってくるわ。さすがに機械は無理だからよ、そういう工具ぐらいは揃えておきたいだろ」
「何を買うんです?」
「玄翁だよ。それも、指で摘むのができない小さな釘が打てたりする、専門家仕様のやつ」
「なんだか、仕入れ先に当てがありそうな口ぶりですね」
「それがあるんだ。見つけたから、早速話をつけてこようと思ってな。三種類ぐらい調達してくるよ。中古でも別に問題ないだろ?」
「それは大丈夫ですけど……でも、そこから足がつく心配なんてないんです?」
「おれのコネクションがさ、そうクリーンなところじゃないのは、もう分かってるだろ。向こうも事情をちゃんと分かってるから、何があってもちゃんと誤魔化してくれる」
「……なら、大丈夫なんですね。お願いしていいですか?」
「ばっか、おれが用意してやるって言ってるのに、何でお前がお願いだなんて言うんだよ」
 作業しやすい工具が増えるのはありがたかった。ますますやる気が出るというものだ。
「……なんだか、楽しみになってきたな」
 と、半田先輩は試作のキーを元に戻して、言う。
「なんか、無邪気ですよね、先輩って」
「あん、どういうことだよ?」
「こんなのを楽しみとか言うあたり、ちょっと変わっていますって」
「なんだ、お前。ワクワクとかしないのか?」
「むしろその逆ですよ。勝負しに行くんですから、どうなるんだっていう不安の方が大きいっすね」
「そんなのは持つだけ無駄だ。結果を出すことだけを考えればいいんだ。そうそう、成功した後に待っているリッチな生活。それを思い浮かべればいい。おれらはバラ色に過ごせるんだぞ。こんなに嬉しいことはないだろ?」
「…………」
 やっぱり能天気な人だと思う。だけど、それは先輩の強みでもあると思った。この状況を楽しめるくらいの人間でなければ、窃盗団の一員としてやっていけないだろう。俺も慣れなければ。これは、かすみ姉さんを幸せにするために必要なことなのだ。
 先輩は発泡酒の残りを一気に飲み干した。長い息を吐き出す。
「なんか、こう……熱くなってきたな」
「飲み過ぎじゃないです?」
「ばっか、まだ二缶しか飲んでいねえよ。ハートだよ。ここに火がついたんだ」
「まさか、これから出るだなんて言わないでくださいよ。お願いですから、今日はじっとしていてください」
「仕事するなってか?」
「ヘマをやらかすと、後が大変ですよ。やるときは百パーセント完全体でやりましょうよ」
 先輩はふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らした。説教くさく聞こえたらしい。
「……お前のせいで、急に萎えちまったよ。これはあれだな。気持ち程度の分け前、倍額にしねえと気がすまねえな」
「なんでそうなるんですか。俺だって、いろいろ使い道があるんですよ」
「何に使うって?」
「いろいろとです」
「女?」
 声のトーンを上げて言う。ある意味間違っていない。だから、俺は首を縦にも横にも振らなかった。
「……なんだ、そうなのかよ。って、気をつけろよ。そういうのはお前じゃなくって、金が目当てだったりする場合があるからな」
「そんなんじゃないですから」
「なんだよ、おれの忠告聞かんのか?」
「って、先輩。過去にそっち方面で痛い目にあったことがあったんです?」
「詳しいことは聞くな。イヤなこと思い出しちまうだろ?」
 何かあったのだろうか。俺は勘繰った。財産を女にぶん取られたとか。まさかね。それにしてはちょっと様子が他人事か。だいたい、にやけ面が残ったままだ。
「お前に制されたばっかだけどよ、気分だけはいい。よっし、もう一本開けるか」
 先輩は立ち上がって言った。
「大丈夫なんです?」
「だから、まだ三本目だって」
 冷蔵庫から発泡酒を抜き出し、プルトップを引く。ぷし、と小気味よい音が響いた。飲み口に冷気が漂い出す様を見届けてから先輩は、勢いよく呷った。
 
 作業は遅れに遅れ、四日目が過ぎたところでようやくものになってきた。
「これが上から与ったリスト表だ」
 先輩はクリップボードを俺の前に投げ出し、斜に構えるように腰掛けた。すぐさま目を通した。かなりエリアが絞り込まれていて、行動経路まで目に浮かびそうなリスト表だった。下見屋からの情報が盛り込まれているのだろう。
「決行日は、もう決まっているんです?」
 俺は、先輩に問う。
「やろうと思ったら、いつでもできる状態だ。あとは、お前からのゴーサインだけだよ。どうするって?」
 俺が決めるのか。
 出来に自信を持っていいのか。前回失敗したのを修正したからといって成功率がそれほど上がるわけではない。バンプキーは一ミリでも削りミスをすれば使いものにならなくなってしまうような、デリケートなものなのだ。
 だが、決めなければならない。
「……やりましょう」
 俺は、考えた末に言った。どん、と背中を叩かれた。
「そうこなくちゃな。それでこそ、お前だ。それでこそ、おれの後輩だよ。で、今すぐに出るんだな?」
 首を振った。
「いや、今日は見送りましょう。明日にしてください」
「なんでだよ。思い立ったが吉日じゃねえのか?」
「心の準備が欲しいんです」
「また、それかよ。そんなものいるかって話だ。何度も言うぞ、お前にはこのおれがいる。そうだろ? だから、何も心配なんていらねえんだよ」
 先輩得意の笑みが浮かぶ。ためらう人間をその気にさせる、笑み。さすがに俺はもう気がついていた。この顔にうかうかと乗せられては、失敗のもとだ。ここは慎重にいかないと。
「いえ、俺のことを考えてくださいよ。先輩は何度も呼び出されているからあれですが、俺はここ数日ずっと内職ばかりしていたんです。勘が冴えないというか、ちょっと万全じゃない状態です」
 んー、と下唇を突き出して考えた。
「……なら、明日の昼間。十一時頃だ。それぐらいにやろう。いいな?」
 空き巣に定められた時間などはない。手筈さえうまく整えれば、家人が在宅中の時間帯だろうと関係なく、事をすましてしまう。
「はい、その時間で」
 途端に半田先輩の顔から緊張感が抜けてふにゃっと柔らかくなる。
「今日は、プチ宴会だな?」
「それは、付き合えません」
「なんでよ」
「ですから、万全で臨みたいんですよ。それに、キーの具合を最後まで微調整したいところですし……」
「まだやるって言うのか。もうできているんだろ? だったら、そのままでいいんだよ。バンプキーなんだから、キーウェイをくぐり抜けることができたらもう関門は突破したようなものだ」
 多くのシリンダーの中でマルティロックはもっとも鍵穴に差し込みにくい形状をしていると言われている。たしかにキーウェイをくぐり奥まで達することができたら、それだけで大筋で成功したようなものだ。けれど、シリンダーもインタラクティブピンの種類を増やすなど改良が続けられ、日々進化している。元々鍵が作られたのは、防犯が理由なのだから当然だ。油断した途端、落とし穴に嵌ってしまうのが目に見えている。
「俺は最後まで気を抜きませんよ」
「まったく頭が硬いやつだ。もうちょっと軽く考えたっていいだろうに」
「それは、先輩のことです。俺は俺で、自分の考えでやっていきます」
「ともかく、今日は早く寝るか」
 まだ昼の一時過ぎだ。決行まではだいぶ間がある。
 俺と先輩は、一言も口を利かずに、思い思いに過ごした。夕飯になって先輩がテレビゲームをやり始めたので俺はイヤホンで音楽を耳に流した。結局、消灯したのはいつもとほとんど変わらない深夜の二時過ぎだった。
 
 勝負の日。
 俺と先輩は、いくらかくたびれた感じのビジネススーツに身を包み、適度に年季の入った営業鞄を提げて住宅街を歩いていた。服であれ持ち物であれ、まっさらな新品は厳禁だった。間に合わせで用意したと言わんばかりの雰囲気をわずかでも漂わせれば人目をひくし、印象にも残りやすいからだ。靴はもちろん、履き慣れた物を使用するのが鉄則だ。
 昼の十一時二十分過ぎに、ターゲット宅前に到着した。共同住宅の三階。それとなく外回りを確認する。エアコンの室外機は回っていなかった。洗濯物を干す家人の姿もない。
「電気メーターは……、冷蔵庫だけだな」
 半田先輩の最終確認。少しでも疑わしいときは、戸に耳を当てて聴音をするのだったが、今回は省略するようだ。
 俺に向かって、軽くうなずく。
「……行きます」
「頼んだぞ。落ちついてやれ」
 先輩は言い、そのまま見張り役につく。営業マン仕様のスーツ姿だから傍目には客をキャッチできずに所在なさげなセールスマンとしか見えない。
 ポケットからマルティロックのバンプキーを取り出した。ここ数日、自分の精神力のすべてを注ぎ込んで完成させた思いのこもった一品。キーヘッドを顎に当て、念を送った。そして、鍵穴に差し込んだ。
 するすると入り込んでいく。インタラクティブピンまであっさりと届いた。第一関門は突破。だけど、少し不安な感触だった。緩すぎるような気がしたのだ。もし、ディンプルにピンがしっかり噛んでくれなかったら空回りして、最悪、抜けなくなってしまう。
 どうなるか?
 息が乱れた。
「おい、ゆっくりでいいからな」
 半田先輩のささやき。落ち着け、俺も自分に言う。
 キーヘッドを握ったまま呼吸を整える。そして、回りにくい状態にあるのをひねって確かめる。手にした営業鞄を開けた。
「……先輩、人は大丈夫です?」
「ああ、問題ない」
 俺は鞄から木槌を取り出した。鍵穴に差し込んだバンプキーを叩き付ける。がし、がし、と金属を打つ音。シリンダーが少し下方にずれ込んでいくのが分かった。
 六回、七回……。
 バンプキーは回ってくれない。八回目を叩いたところで、小休止する。
「いいから、続けろ」
 先輩の興奮した声。
「他の部屋の動きは、大丈夫です?」
「いいから、続きを!」
 信じろ、と先輩は言っている。周囲の状況を頭から追い出し、このまま打ち込むしかなかった。十五回、断続的に叩いた。まだバンプキーは回ってくれない。木槌を振っているだけなのに一キロも全力疾走したぐらいの疲労を覚えた。背中の汗がすごい。
 とうとう二十回を越えた。まだ回らない。三十回まで突っ走るしかない。俺は躍起になり、一打一打に籠める力を強めていく。がし、がし。シリンダーを固定しているネジすら破壊してしまいそうだ。
「まだか? まだなのか?」
 先輩が急かすように言う。
「まだです!」
「続けろ!」
「はい!」
 三十回を越えた。
 まだ、バンプキーはビクともしないままだ。俺は五十回ラインを見据える。そこまでいったら、失敗ラインだ。だけど、それはアーティストとして設定する目安にすぎない。結果的に鍵が回ってくれれば、それでいい。
 四十三回目にして、その兆候が見えた。
 ようやく、バンプキーが傾き始めてくれたのだ。
 俺は歓喜した。
「先輩、鍵が傾いてきています!」
 先輩はにっと微笑む。
「よし、一気に行け!」
「分かりました!」
 腕に力を込め、さらに木槌を振るった。三回、四回……。とうとう、バンプキーが半回転した。カチャリ、とデッドロックが引っ込む音。
 俺はノブに触れた。動く。そして、押し出すことができた。
「先輩……!」
「よしきた、まかせろ!」
 半田先輩は顔を引き締め、開いたドアを抜ける。空き巣としての仕事はここからが勝負だ。侵入三分、物色五分と言われる。スピードが命だった。
 小学校低学年の子供がいるという家庭だった。部屋のあちこちに、子供中心の生活を伺わせるアイテムが展開されている。空き巣狙いにとっては、これは好都合だった。子供の気配が強い場所ほど、大人は貴重品や現金の隠し場所を選ばない。その法則は、どの家庭にも高い確率で当てはまった。今回も例外ではなかった。ベッド回りと夫人の鏡台付近を担当していた俺は、狙い通りの物をすぐに探し当てた。
 半田先輩は押し入れと居間を交互に巡っている。
「そっちは?」
 半田先輩が手を止めて問う。
「出てきました」
「どれぐらい掴んだんだ?」
「現金三十万円と、あとは細かいものをこれだけ」
 営業鞄に押し込んだのは、ブランドものばかりのプリントスカーフだった。他にネクタイピンやハットピン、カフリンクス、オーストリッチのベルトに、クロコダイルの携帯ストラップなんかもあった。例によって贈答品の類だろう。
「まだ足りんな」
 と、半田先輩は渋い顔をして一度首を振った。
「もう時間はありませんよ」
 ストップウォッチ機能を稼働させておいた時計を見るとすでに七分が過ぎていた。猶予は残り一分だけだ。本来ならもう脱出の準備に取り掛かっていなければいけない。
「おれがやる。だから、お前は戸口の方で見張っていろ」
「分かりました。すぐに出られるよう、外を監視してます」
 俺は三和土に向かった。ドアスコープを通して、表の道路を確認する。いまのところ誰もいない。背後から響いてくる家探しの音以外、物音も人声もない。半田先輩は引き出しをひっくり返す荒技に出たようだ。これは目当ての物が見つからなかった時の最終手段だ。焦っているわけではなく、先輩は今、時間を意識しているのだった。
 少ししてから、俺はスコープ越しに小型の黒いセダンが近づいてくるのを見た。そばの駐車場に停まる。
 下りてきたのは、ランドセルを背負った子供とその母親らしき二人だった。直感的に、家人だと判断した。
「先輩、駐車場に家人の車が停まりました。いま二人、こっちに向かってきています!」
「なんだって?」
 俺は居間に引き返した。すると、半田先輩はまだ物色を続けていた。居間はすでに足の踏み場もなくなっている。
「何やっているんです、先輩。早くしないとまずいですよ」
 急かしても手を止めない。今度は壁に掛けてある絵に取り付いた。子供でも気に入りそうな、柔らかいタッチの抽象画だ。額を裏返し、裏蓋を固定するコックを外すと、下から紙幣が出て来た。非常用の現金か、それともヘソクリだろう。
「これだこれ。やっとこさ、見つかった」
 半田先輩はにんまりとして言う。
「ですから、時間がないんですって」
「大丈夫だ。ベランダに出て行く戸の鍵は開けてある。お前、先に出ろ」
「俺がっすか?」
「おれが先に出てどうする。ここの現場はおれがリーダーだろうが」
 戸を開け、ベランダに出た。手すりを乗り越え、外側に立つ。真下には土の柔らかそうな畑があった。だけど、ここは三階だ。うまく着地し損なったら骨折しかねない。俺は、慎重に飛び降りる体勢を取った。
 息を殺す中で、がちゃがちゃと鍵をひねる音がかすかに聞こえてきた。家人がとうとう玄関ドアを開けようとしている。
「行け。すぐに行け」
 背中から先輩が言う。
 俺は宙に飛び出した。一瞬、体重が消失する感覚があって、畑のど真ん中にずん、と落ちる。思ったよりも柔らかかった。よく耕された菜園用土が、クッションのように俺を受け止めてくれた。
「そこ、どけ。おれも行くから」
 半田先輩が上から言う。屋内から悲鳴が聞こえた。あの母親が、荒らされた部屋を目にしたのに違いない。
「半田先輩、はやく!」
「大丈夫だ。慌てなくっていい」
 落ちついた対応だった。手すりをまたいだ後、きちんと向き直り、足を揃える動作まで見せた。姿勢も崩さず飛び降り、膝で衝撃を吸収する。まるで模範演技だった。足に響いた様子もない。
「お前、足跡を消せ」
「えっ」
 先輩の指示に耳を疑う。
「畑に残ったやつ、残しておいたらまずいだろ。消すんだ」
「逃げるのが優先じゃないんです?」
「こっちに逃げたのがわかってしまう。頼んだぞ」
 半田先輩は鞄を抱え、走り出す。残された俺は、しかし突っ立っている暇はない。役目を言い付けられたのだ。足先で、それから両手を使って土の窪みを均す。大雑把だが、それ以上はやっていられない。
 作業中、俺のジャケットのポケットにするりと重たいものが滑り込んできた。
 うわっと仰け反って、振り返ると、出ていったはずの先輩がそこにいた。
「先輩、どうしたんです?」
「ちょっと、渡し忘れたものを思い出してな。それ、見てみいよ」
 顎で、俺の上着を示して言う。俺は作業を中断し、ものが押し込められたポケットをまさぐった。すると、スマートホンだった。
 白蛇の構成員としての証――。
「これ……」
 俺は言葉を失ったまま、茫然とする。
「そう、褒美だよ。お前は、これでどこに逃げ込んでも大丈夫だ。そういう許しが出たんだ」
 にっと微笑んで言う。
「でも、なんでこんな時に……」
「こういう状況だからこそ、渡すんだよ。一番に仕事をした褒美。やる気がうんと出るだろう? さっ、早く逃げるぞ」
 俺はスマホ画面を眺める。誰かが使っていたものを渡されたかのように、アプリが大量に入っていた。その一つに、GPSがあり、それはアクティブになっていた。ステータスバーに位置情報を示すアイコンが上がっている。
 見取れている場合ではなかった。
 俺は、足跡を処分しなければいけない。すぐさま作業に取り掛かるも、侵入先とは別の、二階のベランダから見下ろしている顔があった。途中で投げ出さずにはいられなかった。
 颯爽と踵を返し、先輩の後を追う。
「……ちょっと、待ってくださいよ」
 通りのずっと向こうに、先輩の姿があった。三十メートルは離れている。一分近くの差でスタートしたから、この差は当然だ。
 またも悲鳴のような声が背後から聞こえる。母親が周囲に助けを求めているのかもしれない。俺は、あらかじめ設定されていた逃走経路をひたすらたどるしかない。幹線道路だ。そこまで行ければ、後は人混みにまぎれて知らぬ顔をすればいい。それで、もう誰も追ってはこれない。
 ところが曲がり角を折れたところに、先輩の背中があった。追突寸前で、俺も足を止める。
「半田先輩、どうしたんです?」
「やばい、向こうからパトカー来てやがる」
「えっ、本当ですか?」
 ここで首を出して覗いてはいけない。それが命取りになってしまう恐れがある。
 それにしても、手が回るのが早い。ついさっき、家人が悲鳴を上げたばっかりではないか。もしかしたら、玄関の鍵に手間取っていたとき、木槌の音を聞きつけた誰かが不審に思って通報したっていうのか。通信センターを介して警ら隊が緊急対応したのなら、追っているのは先行部隊ということになるのだが。
「どうすればいいんです?」
 俺は焦った。
「こっちだ。こっちに来い!」
 反対の道に進む。少し上り勾配があって、走る道としてはハードなコースだ。幹線道路まで迂回するつもりらしい。妥当な判断だ。俺は、迷いなく先輩の後についていった。長い一本道。俺は徐々に体力が奪われていくのに耐えながら、なんとかペースを維持して走り続ける。
「おい、気を抜くな。最後までが勝負だぞ!」
 先輩が足を停めて肩越しに言う。俺は抗議したい気分だった。必要以上に長居して危険を呼んだのは先輩だ。だけど逆らえない。だいいち、今そんな暇も余裕もない。
 ゆるい峠を越した先にも、直線コースが待っていた。今度は下り坂になっている。体重を押し上げる必要はないが、腰に衝撃がかかり、次第に蓄積する。股の下で汗が流れ落ちていた。スーツ姿なのが原因だ。動きづらい上に通気性が良くない。裸になってやりたいぐらいだった。
 直線を終え、角を曲がると人気のない殺風景な街並みに入った。潰れた工務店なんかが軒を並べている。所々に空き地が見える。幹線道路が近くにあるはずだが、すっかり方向音痴になっていて、どこにあるのかまるでわからない。ともかく、先輩が向こうで待っている。
「ラストスパート!」
 陸上部のかけ声のように言う。思わず俺は乗って、足に力を込めた。
 目指す通りの手前、標識のない、小さな交差点に差し掛かったその時だった。
 横手から猛烈な勢いで黒い塊が迫った。はっとした。避けるひまもなかった。直角方向に、抗いようのない衝撃が、全身を襲った。
 周囲が回転する。何度も。
 赤い粒が糸をひいて、いくつも散っていた。ばかにゆっくりと、それは見えた。なんだこれ? そう思った矢先、身体が激しくひっぱたかれ、衝撃が身体に吸収される。視界が真っ暗になる。
 何が起こったんだ。
 黒い塊。
 それは、見慣れたものだ。車。
 俺は車にはねられたのか。はじき飛ばされ、宙を舞って、路面に叩き付けられたというのか。だとしたら、なんて運が悪いんだ。俺はあと少しで任務を終え、帰れるはずだった。報告を済ませた後には大量の報酬が待っていて、それでかすみ姉さんを喜ばすはずだった……。なぜ、こんなことになってしまうのか。まったく俺というやつはとことんツキに恵まれていない。
 いやそれより、俺はいまどうなっているのだ。少なくとも意識があるから、生きているって事だけは間違いない。手当を受けることになるんだろうか。それまで俺の体力は続くだろうか。いや、ここは気力だ。気力でなんとか持ち堪えるしかない。
 金だけは姉さんに届けるんだ……。
 それにしても俺にぶつかったやつは誰なんだ。一目見てやらないと気が済まない。こんなことをしておいてただで済むと思うなよ。 俺は重たい瞼を力を込めて持ち上げる。狭まった視野の中で、黒い車が停まっているのが見える。車を降りたやつらが俺を見下ろしている。四人。誰もがネクタイを締めない、ラフなスーツ姿だ。
 助けるつもりがないのか、全員が立ち尽くしている。その中で、一人だけ身を乗り出している男がいた。
 こいつは、誰なんだ?
 少しずつピントが合ってくる。
 その顔に見覚えがあることに、俺は気付く。
 サングラスに髭。全共闘時代の左翼の生き残りを彷彿させるような風体。こいつは俺のよく知っているやつだ。西添。なぜ、ここに。いや、なぜ、こいつが俺を……。
 お前は――
 声が出ない。出てくれない。喉を絞ろうとすると、血の味が口にひろがる。腹の辺りが強烈な痛みを訴えはじめている。のたうちまわってやりたいぐらいだ。でも身体は、動かない。
「ご苦労だったな」
 顎髭の動きと共に、口角が持ち上がる。気味の悪い笑み。そう思っていたら、もっと気色の悪いことを口にした。
「……お前は、もうまもなく死ぬ。私にはそのことがわかる。死にゆくやつの目は、死を見ているからな」
 何を言っているのか。
 俺はいま、こんなにも意識がはっきりしている。死ぬわけないじゃないか。身体が弱ってきたところで、気力で持ち堪えてやる――。
 言い返してやりたいところで、やはり口は動かない。
 長い手が伸び、俺の懐をまさぐる。取り出されたものが、きらりと光る。それは一本のキー。完成が確認できたばかりの、マルティロックのバンプキー。まだまだ改良の余地はあるが、とりあえず使えるものができた。俺の成果だ。それなのに、やつはそれを俺から取り上げ、まるで自分のもののように手の中に握る。
 そして、携帯を取り上げた。手の中で踊らせるように跳ね上げている。
「苦しいか? 息の根を止めてやってもいい。だが、そうすると、あんまりにもかわいそうだからな。それに、こんな風に、派手にお前を手に掛けてまでリスクを冒したことの元が取れない」
 屈むと、俺を間近から、見下ろした。前髪をぐっと鷲掴みし、
「喘げ。たっぷりと喘ぐんだ、あいつらの前に、無様なお前を見せつけてやるんだ!」
 背後にいる、三人の男たち。彼らは一様に青ざめた顔をしている。若いやつらばかりだった。きっと、まだ成り上がりなのだろう。俺は今、そいつらのスケープゴートにされている。なんの? 俺には皆目わからない。
 だけど、思い当たる節がないわけではない。姉さんとのやり取り。あの時だ。誰かがどこかで見ていたとしたら……。
 ふと、男の一人がタブレットを手にしていることに気づく。モニターはカーナビ画面としてよく見かける、地図帳だった。現在地が
表示されている。その様を認めて、半田先輩から渡されたスマホのGPSがアクティブになっていたことが思い過ぎる。
 これらの一式は、俺を事故に見せ掛けるために使用したとしたら……。
 繋がる。計略に陥れてくる流れができてしまう。
 怒りが、身体を貫くような激痛と一つになって、俺の喉を振り絞らせた。
「……はめやがったっていうのか」
 自分でも不明瞭な声だった。かすれて、しわがれた……、それでもしっかりとした俺の声――。
 やつはサングラスの中で目を細め、聞いてなかったように言った。
「鍵は、有効活用させてもらうからな」
「この野郎ぉ……、全部……、そう、……全部、仕組んだことだったっていうのかっ…………!」
「――恨んでくれるなよ。私が首謀者ではないのだから。お前を売ったのは、あいつだ。見えるか」
 あいつ。
 一時停止の標識が掲げられた小さな通りの向こうに立っているのは、半田先輩一人だけだ。顎を引き、俺を睨み据えるように見つめている。
 置かれた状況が嘘であると、醒めてくれる最後の希望だった。
 どうしても、全部が全部そうだったなんて、信じたくなかった。先輩は俺の道標、そして目標だ。そのはずだ。その先輩が俺を裏切るなんてあり得ない。
「嘘だ。お前は……デタラメを口にして……いる。お前が、自主的にやったんだよ……そうじゃないと、おかしい。こ……んなことを俺にできるの……は、お前だけ……だ」
「デタラメじゃない。私が言ったことはすべて真実だ。お前が半田がどういう男なのか知らないだけさ。あいつは、目的を果たすためならどんなことだってする。我らの信頼を取り付けるために女を買い、自分の勤め先の社長を陥れる工作までやった。そうしろと指示はしたが、計画立案はあの男に委ねていたわけだから、つまるところ、そういう素質があったってことなんだよ」
 苦しい息の下で、俺は長たらしい説明を聞かされる。
 白蛇に認められるためにはいくつかの過程を経なければいけない。途中段階での考査には、容赦がない。先輩は与えられた課題をこれまで難なくパスして、仲間候補として勧誘されるまでになった。
「目的を果たす能力に加え、人を使いこなすだけの器量の大きさ。そういうのが我らが求めている逸材だ。お前が身につけた専門のスキルなんかは、付加価値に過ぎないんだよ」
 だったら、俺は今まで何をしてきたと言うんだ。先輩を信じて、家も職も捨てて、一心不乱にバンプキーを作り上げた俺は、ただの道具、工作機械と同じか。こいつの話を信じるなら、そういうことだ。
「……ウソだ。デタラメ……だ。俺は信じない……」
「それはお前の勝手だ。好きに妄想でも何でもしていればいい」
 寒い。腹の中は燃えるようなのに手足が冷たい。
 息が苦しい。
 硬いアスファルトに身体が吸い付いたまま離れない。溢れ出た血が、隙間を埋めている。血ごと、全身が鉄板で焼かれるような気分だった。身体が言うことを聞いてくれないから、俺は灼熱ともいえる、地面にひたすら耐え抜くしかなかった。
「いいから、そいつを返せ……」
 手を伸ばそうとした。
 西添が握っている、俺が丹精を込めて製作したバンプキー。それは未来への切符のはずだった。かすみ姉さんが希望を取り戻せる未来。俺が自分の腕で掴み取れたはずの、富への鍵。俺のものだ。他人の手の中にあるなんて許せない。取り返さなくてはいけない。
「返せよ……」
「話は終わりだ。本来なら、私はここにいてはならないことになっているからな」
 踵を返し、西添は車に乗り込んだ。仲間が追う。吹き掛けるように排気を飛ばして、その向こうへと消えていく。
 俺の希望がどんどん遠ざかる。
 俺は諦められなかった。気力を振り絞って這い進んだ。這い進んでいるつもりだった。けれど、進んでも、進んでも一向に距離が埋まらない。埋まってくれない。それどころか、引き離されていく。
 とうとう、車は見えなくなった。
 代わりに人の影が差した。
「悪いな」
 上から小さな声がした。
 半田先輩だった。
 半目になって、俺を哀れむように見ている。
 何が悪いって言うんだ。俺は問い質したかったが、また喉が塞がっていた。血の塊が詰まっているような気がした。
「せっかくいいものを持っているっていうのによう。ルールは守らないと、ダメだよな。西添は、お前に怒っていたよ。カンカンに。おれがやめろといっても聞かないんだ。自分からめったに動かない慎重な人なのに、今回だけは相当頭にきたらしい。虫の居所が悪いときに、良くないことが重なったみたいだな」
 西添のやり取りを聞いていたような流れだ。やっぱり半田先輩は俺を売ったってことなのか。あの男が言っていたことは、全部本当だったのか。
 パトカーが来ない。俺は唐突に気づいた。サイレンの音すらしないあたり、これだって嘘だったってことになるのではないか――。
「あーあ、お前とずっと一緒にやっていきたかったなあ」
 もう一度顔を上げ、先輩の顔を見つめる。
 薄く笑む顔。
 いつも通りの顔。
 俺は今死にかけているのに、いつもと変わらない笑みで、いつもと同じ調子で能天気なことを口にし、先輩は観察するように見下ろしている。
 偽善の笑み。
 これまで俺にかけてくれた熱い言葉はいったい何だったんだ。あんたにとって俺はかわいい後輩で、バンプキーの弟子で、将来のパートナーじゃなかったのか。全部演技だっただなんて思えない。
 演技。
 迷っていた俺をその気にさせた先輩の顔。
 誰でも乗せてしまうような、あのずるい笑顔。
 目の前が薄ぼんやりとして、やがて暗くなった。
「こうなった以上、仕方がない。じゃあな。もう行くわ。誰かその辺のやつに救急車を呼んでもらうから……、なんとか生き延びろよ」
 いくな。
 俺を、置いていくな……。
 走り去っていく足音が頭に響く。遠ざかる後ろ姿は、もう見えない。
 見えない目の、まぶたが重くなる。そのまま闇に浸った。
 かすみ姉さん……。
 闇の中で、笑った姉さんのことを思い浮かべる。母が亡くなったあの日、俺は姉さんにすがった。その日と今日の俺はなんだか似ている。
 あの時、俺は姉さんにすべてを告白したのだった。洗いざらい全部……。
 その日まで、世話焼きでお節介な姉さんに抱いていた俺の憎しみが、まるごと愛に変わった瞬間だった。そう、愛と憎しみは表裏一体のものなのだ。憎んだ分だけ、何処かで強く恋い焦がれ、深く愛すれば、裏返しにまた激しく憎む。
 それが鮮やかに反転した瞬間は爽快で、人の気持ちというのはこんなにも単純なものかと俺は知った。今もしっかりと憶えている。忘れるはずがなかった。
 懐かしさが沸々と湧いてくる。
 俺はずっと悪を引き摺り続けてきた。悪を為す快感を捨てきれなかった。
 でもこの懐かしさは、あの爽快さは、そんなものの遙か上を行く。
 そうか、と思い至る。
 俺は今までずっと、これを求めていたのだ。
 これを得るために何をすればいいのか、俺は分からずにいただけなのだ。答えはすぐ傍にあったのに。
 だからこそ、離れられなかった。でも血の繋がりが俺を踏みとどまらせた。俺は欲望のままに、求めることができなかった。踏み込んではいけないと心に言い聞かせていた。
 その裏返しとして俺は悪に惹かれていたのだ。すべては代償を求めた結果だったのだ。
 でも、もうそんなことはしなくていい。俺は望みのものを手にしたのだ。
 これさえあれば……
 あとは、何もいらない。
 姉さんが与えてくれた優しい安堵感。
 いつまでも、ずっと……
 いっしょだよ。
 
 
 
 
第六章
 
 塚地の元に、新たな報告書が舞い込んだ。マグネシウム合金の結晶純度の検査結果がようやく出たようだ。
 比率は三割程度で、鑑識の班員の予想通り、純度は低いことが明らかとなった。
「これはやっぱり個人で精製した結果なんだろうな」
 塚地は菊池に向かって言った。
「普通に工場でやったんでしょうね。あちこち聞いて回ったところ、住宅内ではさすがに無理のようですよ。マグネシウムは、消防法でも可燃性個体として危険物乙種第2類に指定されているぐらいですから、所有するにもストックしておくにも壁があるんです」
「指定数量はどれぐらいだって?」
「百キロですけれど……」
「だったら、何も工場に限定する理由なんてないじゃないか。十キロもあればなんとかなることなんだよ、今回のこれは。鍵の見本を作るだけでいいんだからな。場所よりも仕入れ先が問題なんだ」
「今のところ、マグネシウムを持ち出されたなんていう報告は上がってきていないようです」
「なら、自前で用意したんだろうな」
「すると、組織的に取り掛かっているとなってくるじゃないですか。もし、彼らの息が掛かった工場があるというのなら、大量生産をしている可能性が高くなってきますね」
 バンプキーの汎用化。
 空き巣の常備品、標準装備となるような、そんなことがあってはならない。そうなる前に、なんとしてでも阻止しなければいけない。〝どこかに拠点がある〟という菊池の見解に、塚地の危機感はいよいよいよ募った。
「ニュースです! 元川が事故に遭ったとのこと――」
 車にはねられたという。
「なんだって? それで、容態は?」
 彼は首を振った。
「救急搬送されましたが、意識不明とのことです」
 
 事故現場に菊池と二人で駆けつけた。
 すでに処理が進んでいたが、血痕はまだ残されていた。地形に沿った、一車線の狭い小道だった。すぐ近くには廃線になった線路があり、その先には藪がひろがっている。住宅地から一歩外れた場所からも言えたが、道の両側は空きテナントの戸建てを囲う塀が続いており、車もほとんど通らないことから、目撃者はあまり期待できそうになかった。
「どうも、お疲れ様です」
 担当の警察官が二人を認めて敬礼した。おつかれさん、と塚地は応えつつ、現場に立ち、話を聞く。
「ひき逃げなんだって?」
「はい、はねた車が逃走中ですので、現時点では、はっきりと断定できない状況ではありますが」
 ブレーキ痕。それが、現場よりもずっと後についているということだった。つまり、元川大祐に衝突した時、車は減速しなかった。
 血痕の飛び散り具合や遺留物の状況から、事故の経緯が浮かんで見えてくる。
「かなりの猛スピードだったようだな」
「それは間違いありません。ウィンカーの破片と思しきものが、二十メートル先まで飛んでいました」
 こんな狭い路地を走っていたなら、ドライバーは体感スピードを実際より速く感じたはずだ。いくら人気がないとはいえ、交差点という条件も考慮すれば、ブレーキは踏むのが当たり前だ。それをしなかった。
「故意かもしれんな」
「その可能性は、考慮されていますが……、状況からして、飛び出したのは元川の方のようです」
 元川大祐は近隣のアパートにて空き巣をはたらいていた。逃げる姿が目撃されている。今、そちらの捜査と合わせて元川の行動が洗い直されている。
「よっぽど、焦っていたのかな?」
 血痕の残された場所に屈んで、菊池と共に眺める。
「それよりも、半田ですね。空き巣の捜査班からは二人組だったという知らせを受けています。たぶんもう一人は、同時に失踪した半田でしょう」
 菊池がアスファルトの上に散らばった礫を払いながら言う。
「もし、半田が居合わせていたなら、かわいい後輩を見捨てたってことになるな。それって、あんまりじゃないか?」
「元川がここに倒れて動けなくなるってことは、警察に投降するも同然です。元川に付き合って自分まで逮捕されるつもりはなかったってだけでしょう」
「プロ根性でも出たっていうのか」
「彼らがすでに白蛇の管理下にあったなら、そういう掟に従ったとも考えられますけれどね」
「白蛇というのは、そこまで冷淡な組織だったか?」
「過去のケースを見た限り、どうもそのようですね。ああいう組織はむしろ仲間を助けようとするパターンが多いんですけれども」
「今回の場合は、いろいろ絡んでてちょっと複雑そうだしな。いずれにしたって、こんな結末なんて元川自身、思ってもみなかっただろうよ」
「これは、不慮の事故だと思いますか?」
 菊池の問いに塚地はふーむ、と唸った。
「曖昧な答えになって悪いけれどね、やっぱり現段階では断言まではできないんだろうな」
「もし、これが事件でしたら、また状況が変わってきますね」
 彼は顔を引き締めて言った。
「まあ、そうだな。仲間の抹殺までやってのけるとなると、きわめてタチが悪い連中ってことになるわけだしな」
「抹殺……、なんでそこまでしなければいけなかったんでしょう。盗みこそがやつらの生業じゃなかったのです? 本分から逸れているように思えてなりませんね。非情過ぎます。その線は考えにくいですよ」
「そこまでやるだけの理由があったとしたら……、集団の利、これしかないな」
「組織防衛ってことですか……」
 塚地は、少し離れた位置で立っていた警察官に首を向ける。
「元川の所持品は確認されているだろうか?」
「詳しくは確認していません。救急搬送でしたので」
「とりあえず、君が知っている分でいいから」
 それでしたら、と彼は即座に答えた。
「……少し大きめのビジネスバッグを一点、確認しています」
「ほかには?」
 彼は首を振った。
「それだけだったようですが……、他に何かあったのでしょうか?」
「大事なアイテムを持っていたはずなんだ。バンプキー、空き巣が使う小道具だ。小さなものだから、鞄じゃなくて、ポケットに入っていたと思うんだが――」
 あっ、と警官は声を上げた。
「ポケット……、上着の、左のポケットです。そこに血痕がありました。血のついた手で触れたというような跡が――」
 それは、重症を負った元川が何度も確認するように触れた痕ではないかと、塚地は考えた。つまり、一番大事なものがそこに入っていた。
「搬送先にいる者と連絡を取ってみます?」
 と、菊池が携帯を掴みだして言う。
「頼む。至急、確認してもらってくれ」
 現場に居残っていた警察官に、元川の搬送に駆けつけた担当者の直通番号を聞き、菊池は携帯を耳に当てた。
 塚地はその間、まだ痕跡が生々しい路面を凝視しながら思案する。
「塚地さん、確認取れました!」
 菊池が声を上げた。
「どうだって?」
「服のポケットは空でした。鞄の中には盗品と思しきものがぎっしり詰まっていて、その他、小道具なんかも一緒に入っていたようです。……が、鍵はなかったとのこと」
 鞄はきっちり閉じられていて、後から探ったような形跡はないという。大事なバンプキーだ、いざとなったら放り捨てていくこともあり得る鞄の中ではなく、やはりポケットに入れたはずだ。だが、そこにもなかった。
 つまり、現場から消えたってことになる。
 もう一度警察官を呼ぶ。
「現場は隈なく調べたんだろう? 鍵は見つからなかったのか?」
「目にしていませんが……。鑑識が入っていますから、見過ごすなんてことはあり得ませんよ」
「なら、第三者が持ち出したってことになるな」
 塚地は、独りごちるように言った。
「半田ですか?」
 菊池が声を上げる。
「あるいは、故意にやったと疑われる、元川をはねた車の主もあり得るだろうな。ブレーキ痕から血痕までどれぐらいなのか、計測済みだね?」
 警察官に尋ねた。
「ざっと十五メートル強、あったと思います」
「そんなにあったか」
 警察官が指し示したタイヤの痕までの距離を目測していると、うずうずしていた菊池が割って入った。
「――そいつは白蛇の一味だったんですよね? 半田と頻繁に会っていた西添でしょうか? その男が元川を抹殺し、バンプキーを持ち去ったのでしょうか?」
「西添ってやつは、上昇志向の強い男だったか?」
「白蛇の中では大人しく振る舞っている印象があります。ですが、学生時代は過激な活動家だったようです。仲間と口論したあげく傷害事件を起こし、それで逮捕されています。その後に海外渡航して、消息不明になっていました。半田との接触から、国内にいると数年ぶりに確認されたようです」
「海外って、どこを巡っていたんだ?」
「コロンビアということでしたから、麻薬か覚醒剤のシンジケートにでも関わっていたのではないでしょうか? 活動資金を得るための渡航だったという見方が有力ですから」
「なんだか、大事になってきたな。それぐらいだったら、空き巣集団の中ででくすぶっているなんてことは考えにくい。バンプキーを取引道具にして、マーケットの一部でも押さえようとしたのかもしれんな。どの世界もそうだが、何をやろうにも、金がなければどうしようもないんだ」
「では、西添は野望がために、バンプキーを握ったってことでいいんですね?」
「一つの見方だ、結論は出せない。それに、今追うべきは半田俊之――ただ一人、その男だけだ」
 西添はまだまだ手が届かない遠いところにいる。その前章として半田を落とさなければいけない。組織への追跡は、そこから始まるのだ。
 菊池の携帯が鳴り、その顔つきが強張る。
「塚地さん、大変なことになりました」
 と、彼は携帯を耳から離し、言う。額が青くなっていた。
「何があったって?」
「元川です」
 どきりとした。
「元川がどうした?」
「さっき、息を引き取ったそうです」
 
 深瀬かすみ宅を訪ねたのは、病院に二時間ほど滞在した後だった。菊池も同道する。上司から接触担当を言い渡されたことで、塚地は今、しばしの時間を与えられていた。
「なんだか暗いお顔……また、何かあったんですね?」
 キッチンテーブルをはさんで向かい合い、彼女は言う。哀しそうに眉根を下げたままだ。彼女の時間はいまだ止まったまま。包む気配は、ぴたりと静止した湖面のように寂としていた。
「それがですね……」
 塚地は言いかけ、思わず咳払いで言葉を切ってしまう。
 どう告げたものか。
 ただ事実を伝えるだけで済まない状況になってしまった。釈明すら必要に思えるが、そうなると苦しいだけの展開になりそうでますます躊躇われる。いや自分のことはどうでもいい。それよりも、彼女が示すだろう反応こそが懸念された。
「……とりあえず、どうぞ」
 深瀬かすみはテーブルのコーヒーを示し、二人に勧める。本人の分はない。体調が優れないようだ。
「失礼ながら、そうさせてもらいます」
 菊池が応じた。喉が渇いていたらしい。
 カップを持ち上げ、一口すするなり顔をしかめた。
「どうしたんだ?」
「強烈に苦いです、これ」
 塚地も口をつけてみた。
 確かに、菊池の言うとおりだった。前回もきつかったが、今回はさらに上をいく、まともに飲めないほどのものだった。遅れて、噎せる。塚地はハンカチを取り出して口に当てた。
「大丈夫ですか?」
 彼女が心配そうに立ち上がって言う。
「大丈夫です、気にしないでください。――にしても、いつもにまして苦いですね。こんなのを毎日のように飲んでいるんですか?」
 伝えなければいけないことが胸につっかえていたが、そのことを一旦頭から離さなければいけないほど、コーヒーは苦かった。もはやコーヒーではないというぐらいのものだ。
「はい、飲み物といいましたらそればかりですけど……」
「いやはや……私には、これは毎日なんて無理ですよ。あなたの鬱はこれが原因だったりしません?」
 と、塚地は口元を押さえながら、ついそんなことを言った。
 苦味に耐えきれず、反射的に出てしまった一言だ。だけど、口にした瞬間、何かしらの閃きが塚地を突き抜けていた。
「……そこまでおっしゃるなんて。それって、失礼じゃないですか?」
 さすがに気分を害した様子で、彼女は言う。
「まったく失礼ながら、でもこれはそれぐらいのものなんですよ。きついんです。あなたに伝えずにはいられないほどに。ご自身で気付かないのでしょうか?」
 まだ舌に残る苦味が、少しずつ唾液に収集されて、収まっていく。同時に、塚地の中で浮かんでいたものが形になり始めていた。
 彼女は顎を引いて、まだコーヒーが残っているドリッパーを見つめた。自分用に使っているらしいデミタスカップを引き寄せると少量を注ぎ、そっと口をつけた。その顔色はまったく変わらない。
「普通ですけれども……」
「とても、普通じゃありません」
 菊池がいさめるように手を振りながら、言った。
「そうです? だったら、味覚までどうかしてしまったのかしら、わたし……」
「掛かり付けの先生からはそういうことについての指摘を受けていませんか?」
 彼女はのろのろと頭を振った。
「そういうのはありません。何も言っていませんから、指摘されるまでもないってところです」
「あなたは、これが正常な味だと思っているんですね?」
「はい。そんなことを言われたのは今日が初めてです」
「……あなたがこれまで、来客に出したコーヒー。いつも、ほとんど口がつけられてなかったってことはありませんか?」
 彼女はそう言われて考え込んだが、やがて首を振った。
「……それは、分かりません」
「分からないということはないでしょうに――」
 やや苛立った声を出した菊池を制し、塚地は一旦会話を切った。目を伏せたままでいる彼女をしばらく見守り、それから、
「奥さん」
 と、そっと呼びかけた。
 彼女は僅かに身じろいだきり、顔を上げない。塚地は続けた。
「カフェイン中毒というのがあるのを御存知ですか?」
「カフェイン……中毒? そんなのがあるんですか?」
 彼女は、少し不安げに問い返す。
「ええ、あんまり馴染みのないものかもしれないんですが。カフェインというのは興奮作用が強いですから、一日の摂取量に制限があるんですよ。と言っても普通に嗜むぶんには、よほどコーヒー好きの人でさえ、そう簡単に危険量、あるいは致死量に達するようなものでもないんですけれどね」
 塚地は自分が口をつけたコーヒーを手に取り、上澄みをじっと見つめる。まだ煎れたてのフレッシュな色合いを維持している。
「このマンデリン・ブルボンも、たっぷりカフェインを含んでいるでしょう。それでもこれ自体に問題があるってわけではないんですよ」
 塚地はコーヒーカップをそっと置く。
「毎日のように、かつ短時間で何杯も立て続けに飲むようなことをしていると、中毒になるんです。それにあなたの場合、……もしやこのマンデリンの他に、眠気覚ましの薬とかそういうものを服用してはいませんか?」
 彼女は突然立ち上がった。引き攣ったような顔をしている。
「そんなこと……」
 それきり口を閉ざしてしまった。
「どうも、あるみたいですね」
 と、菊池がいくらか茫然とした口調で言った。無理もない。塚地自身もさっきまで思っても見なかった方へと、事態は動こうとしていた。
 彼女の唇は細かく震え始めた。指先にまで伝播したところで、恐慌をきたしそうな気配が強まった。が、そうなるまでは阻止しなければいけない。
「菊池くん、薬を確認してくれるか」
 低い声で促すと、菊池はうなずいて立ち上がった。
「よろしいですか?」
 彼女に承諾を求めた。
 深瀬かすみは目を逸らしたまま動かなかったが、
「そこにあるのが全部です……」
 背面にあった食器棚を指で示して言った。菊池がすいと寄って棚を開ける。
「これですね」
 そして塚地に差し出したのは、まぎれもないカフェインを多量に含有すると表記された錠剤だった。隠す様子もなく、それは目立つ位置に収められていた。
「ちょっと調べてみたいので、一つ提供していただきますよ」
 彼女が小さくうなずくのを確かめて、開封した。そして一粒の錠剤を摘み上げる。見かけはビタミン剤とさして変わらない。指先に力を込め、押しつぶそうとする。だが思いのほか硬い。
「何をしているんです、塚地さん?」
 菊池が怪訝そうに眉を寄せながら、問う。
「これをつぶすことができないかなと思ってね」
「つぶすってどういうことです?」
「粉にするってことだよ」
「え……」
 彼は動きを止めたまま、目をぱちくりとさせている。
「粉々にすれば、このマンデリンの中に混ぜ込んでも分からないだろうな。なにしろ味が濃いし、それにドリッパーで濾すから、粗い粒がコーヒーに残るようなこともない」
「……そんなことがされていたっていうんです?」
「この物凄い味。しかも、こんな薬が手の届くところにおいてあるとなると、確信してもいいと思うね。奥さん……、このコーヒーには、この眠気覚ましの薬がたっぷり入っていますね?」
「…………」
 彼女は立ち尽くしたまま何も答えない。塚地は思いついて、
「コーヒー豆を挽く、ミルはある?」
 と、菊池に尋ねる。彼は合点した様子で、同じ棚にあったコーヒーミルを持ち上げ、テーブルの上に移した。
 塚地は、豆を挽いた粉が溜まる小さな引き出しを引き抜いた。そこに残された細かい粉を指につけ、凝視する。
「若干だけど、コーヒーではないものが混じっているように思える。菊池くん、君にも確認してもらいたい」
「はい、今すぐ」
 塚地と同じ要領で、粉を検分する。彼の目が確信を持ったように、光った。
「間違いないですね。錠剤の破片と思われるものが混入しています」
 二人揃って、彼女を見た。深瀬かすみは怯えたように目を逸らし、うつむいた。
「奥さん、どういうことなんでしょう?」
 怯えた色がさらに顕著になった。立っているのが辛くなったのか、ゆっくりと膝を折り、そのままぺたんと椅子に腰掛けた。息をついたその顔は、まるで別人のように見えた。危うさに満ちていて、顔の裏側にある感情までもが透けて見えるようだった。
「話しても、信じてもらえないかもしれません。それは……わたしが自分用に用意したものなんです」
「自分で自分を壊してしまおうと思っていたってことなんですね?」
 彼女の緩やかなうなずき。相変わらず静けさが満ちている。この部屋には、大小様々な時計がいくつもあったが、停まっているわけでもないのに、時を刻む音がしない。よく見ると、秒針がないものばかりが置かれていた。
「自殺を、図っていたということなんです?」
 菊池が塚地に向かって、問う。
「そういうことだよ。だけど、積極的な自殺行為とは違うかもしれない」
 塚地は彼女が口を開くまで待った。
 伏せた目は、懺悔する者のように潤んでいる。薄く開いた口唇の中に、ちろりと桃色の舌が覗いた。やがて、窺うように塚地の目を見た。
「そうなのかもしれません。成り行きに任せるみたいなやり方で……死んでも構わない気持ちがあったかも」
「その、自分用に使っていたものをどうして客にも出したりするんですか? それって、なんだかおかしいと思いますよ」
 菊池は内心に怒りを秘めた様子で問い質す。その疑問に直接は触れず、塚地は言った。
「さっきは初めて聞いたような振りをしたが、奥さんはたぶん、カフェイン中毒のことを知っていると思うんだ。その致死量の目安もね」
 かすみは目を背けて小さくうなずいた。
「……仰るとおりです。カフェイン中毒という名の症状があるとは知りませんでした。ただ、そういう風に死ぬことがあるんだってことだけを知っているぐらいで……。それで、ずっと試みていたんです。でも、簡単には効かないみたいで」
「さっきも言い掛けましたが、あなたの心の病をもたらしたのも、それではないかと思うんですが」
 彼女の目が一瞬、丸くなった。
 塚地はその目を真っ直ぐ見据えた。
「はっきりと、お答えいただきたい。こういったことを、どれくらい続けていらっしゃいますか? 具体的に言って、何年くらい?」
 毅然と問うた。
「何年……? そんなに長く続けていたって言うんです? それも自分で分からなくなってしまうぐらいに?」
 困惑気味の菊池の声だけが部屋に響く。少し語気が荒い。彼女は耐えかねたように顔をそむけた後、口を開いた。
「……何年つづいたことなんでしょう? よく分かりません」
「私が想像するに、あなたが中学生の頃から……そう、あなたの母親が亡くなった時からではありませんか?」
 頭を垂れたまま動かない。塚地は重ねて言う。
「ここから先は、ご自身の口から話していただけると思ったんですけれどね。あなたの心に土足で入り込んでいくようなことはしたくない。でも、お聞きしなくてはならない。事実をはっきりとさせなければいけないんです。……あなたは――いえ、あなたの弟さん、元川大祐は、母親を殺したのではありませんか?」
「塚地さん、まさか……」
 菊池は真っ青になり、声を震わせた。
「そんなことって……」
 それきり、彼は言葉を失った。
 塚地は構わない。深瀬の様子だけを注視していた。
 彼女はその視線に怯えたように、首をすくめ、小さくなったままでいる。けれど、その口はひとりでのように動いた。
「ちがいます」
「――庇いたい気持ちは分かる」
 覆い被せるように言った。彼女は声を詰まらせ、訴えるように首を振る。
「私はもう、確信しているんです。これ以上嘘をついても、誰のためにもならない。逃げないで欲しい」
「…………」
 彼女の口がまた閉ざされた。
 伏せた目に、どんどん悲哀が募っていく。やがて光るものが膨らんでは、ふるふると身震いをはじめた。
「もう、隠しようがないんですね」
 塚地の胸をも詰まらせるような、切ない顔になって言った。
 ここで容赦することはできなかった。この職を奉じ、そして一課の任を得た初心の念を呼び起こし、塚地はあくまで刑事として彼女に臨む。
「隠していてはいけないんです。この先は」
 そう、直に知ることになる、もうこの世にいない弟のためにも、彼女はすべてを告白しなければいけない。
 深瀬かすみはうつむいた。
 気を溜めている様子だった。しばらくすると、決然と顔を上げ、口を開いた。
「――どうして、大祐だと思うんですか。わたしではなく」
「あなたと元川の固い結びつきには、並々ならぬものを感じていました。平田さんから、いくらかご事情を伺ったが、早くに親を亡くして、姉弟で支え合って生きてきたとしても、あなたがた二人の絆は尋常ではないと思った。まるで恋人同士か、それ以上のものとさえ思えた。これは正直な感想です」
 塚地はすっと息を吸い込む。
「でも、だんだんとわかってきたのです。あなた方の関係は対等ではなかった。非対称だった。あなたは弟さんに頼り切っていたように見えて、実はあなたが元川を支えてきた。というより、元川の全てを受け容れ、包むように護ってきた。それが、あなたの役割だったのです。たとえどんなことであれ、彼の行いを、あなたが庇う。この関係が逆になることは決してない。――だから、ですよ」
 息を溜め、今度は彼女に対しゆっくりと語りかけた。
「だが、元川の動機がわからない。教えてください。どうして彼は実の母親を手に掛けたのか。あなたは罪を犯した彼をまるごと受け容れた。だから、理由も知っているはずだ」
 元川大祐はその時、まだ小学生だったのだ。いったいなぜ、幼い子が自分の母親を殺さなければならなかったのか。そして、どうしてそんなことができたのか。
 わたしの母は……と、彼女の震える声が響き渡る。
「精神が不安定な人でした。荒れていた日なんかはまともに過ごせなくなってしまうぐらいに、生活を掻き乱すようなことがしばしばあったのです」
「虐待があったっていうことなんです?」
 菊池が問い質す。彼女は目を伏せたまま首を振った。
「それは違います。普段の母は大人しいぐらいでした。だけど、抗鬱剤の薬がきれると、人格が変わったんです。手当たり次第掴んだものを投げつけたり、叩き壊したり、怒鳴ったり……たがが外れたように、振る舞うのです。わたしたちは、母が不機嫌な日は一日中、耐え抜かなければいけませんでした。そういう日常を余儀なくされたのです」
 幼い子は母親を無条件に信じるものだ。母親にたとえ邪険にされようと、悪いのは自分ではないかと考えたりする。そしてなんとか母親に気に入られようと躍起になる。
 かすみのいじらしい試みは、しかしことごとく失敗してきた。
 そのたび、逆に母との確執を深めてきた。
 それでもなお、憎むことはできなかった。荒れ狂う母にしがみつき、自分の言葉で収めようとした。いつもの母親を取り戻し、またあの優しい心で包んでくれることを願いながら。その温かさを手に入れるためなら、どんなことだってできた。時には猜疑的にはなったものの、でもそれに囚われた途端、自分が不明になるから、できるだけ何も考えずにやっていこうと言い聞かせていた。
「だから殺した? 弟が姉のために母親を? あなたは止めなかったのか」
 菊池の口調は、明らかな険を含んでいた。まあ待て、と塚地は目で制した。
 かすみはぼんやりとした様子で話を続ける。まるで、心ここにあらずといった様相でいる。
「知らなかったんです……。母が亡くなったあとで、話を聞きました。様子がおかしかったから、その晩二人きりになった時、誘い掛けてみたんです。なにかあるなら、全部打ち明けて、と訴えたんです。そうしたらあの子、自分が殺したと口にしました……、呆気ない具合に」
 友達からよく聞くような、普通の家庭が良かった。そういう毎日を過ごしたかった……。どうして自分だけ耐えるような日々を過ごしているんだろう。母の機嫌に振り回されるような、そんな悩みなんて抱えている仲間なんていない。自分だけが特別なのだ。不幸なのだ。だから、こんな生活なんて捨ててしまいたい。たくさんだ……もういやだ。耐えられない――そんなふうに、大祐はいきおいよくぶちまけた。
 その日が訪れるまで、姉弟の関係は今のようではなかった。大祐はむしろ、かすみと反目していた。その事実があったから、母に接近するかすみについても、大祐は胡散臭い感情を抱いていた。そして、関係が偽善で成り立っていることを見抜いた。
 一方で、大祐なりに、母親との付き合いをなんとか成り立てていた。かすみと同じように母の愛を勝ち取ろうと躍起になった。しかし努力は実らず、無力を思い知らされるばかりだった。そして、姉の例からしても、もう無駄なのだと悟った。母は、何をしても自分らの思う通りにはならない。
 これ以上は無理だ。
 そう結論を出したとき、全てが切って落とすように崩れた。母への想いが裏返った。
 決行しなければ――。
 これは、偽善をつづけている姉も救い出すことにもつながる。囚われた妄信から解き放ってやるのだ。自分が抜け出した、この光に満ちた世界に導いてやるように。
 こんな結論が出たのは、誰のせいでもない。
 そう、母自身のせいなのだ。
 すべての努力を不意にする、恐ろしく無神経な母のせいなのだ。幸福はすべてこの人が破壊してしまっている――。
「あの子はわたしより聡明で、いち早く絶望したんです」
 かすみの吐息が苦しそうになっている。胸を押さえ、また続ける。
「それが逆だったら……と、いつも思います。そう、もっとわたしが聡明だったら、たぶんわたしこそが母を殺していたんだと思います」
 母が毎日飲む濃いコーヒーに、母の薬を大量に混ぜた。大祐はまだ幼かったから、服用している薬に危険性があるかどうかなんてわからない。だけど、大量に飲めばなにかが起こるだろうことは、知っていた。
 結果、思い描いていたとおりに、母は倒れ、死んだ。
 あっさり過ぎて、自分がやったことの現実感が伴わないほどだった。
 その吐露の後、大祐は大泣きに暮れた。誰にも打ち明けられない不安が爆発した瞬間だった。かすみは彼を包むように抱きしめ、何度もなだめすかした。
「そのことを聞いたとき……、わたしは不思議と満ち足りた感情になっていたんです。どうして、ってその時はよく分からなかったんですけれど……でも、今ならちゃんとはっきり言えます。同じ気持ちを持っていたからなんです。ああ、この子はやっぱりわたしと血が繋がる弟なんだな、ってその時、頭じゃなくて心で理解したんです。それまでは、あの子の考えている事なんて何も分からなかった。わたしのことを軽蔑しているに違いないとは思っていたけれど……でも、根っこで同じ感情を持っていただなんて――」
 彼女は、その時から、大祐のことが愛しくて堪らなくなってしまった。自分を見ているような気分になったからというのがきっかけだった。たったその一つの糸口から、見る目が変わってしまった。
 その時、離れていた姉弟の心が一つにつながった。
 互いの愛と憎しみ、また母親に抱いていた愛憎が、強く引き合って結びつき、離れられないぐらいになった。
 ただでさえ、強固な結束ができあがったのに、かすみにはまだ姉としての顔があった。これまで弟に対して、姉らしいことをしてやれていない不甲斐ない自分……。すべてを返上するためにも、自分が母親の代理にならなくてはいけなかった。
 どこまでも、この子の保護者になる――
 泣き疲れて、胸の中で眠る大祐の姿を見て、かすみは胸に誓った。
「でも、あなたは望んだとおり、心穏やかではいられなかった」
 塚地が言うと、彼女は、「はい」と素直に応えて、遠くを見つめた。目の焦点は追い切れない程、ずっと遠くに向いていた。
 しばらく経って、薄く口を開く。
「わたしに少しずつ、得体の知れないもやもやとしたものが垂れ込めてきて……どんどん自分が分からなくなりました。なにかどす黒い灰色の霧の中に閉じ込められているようで……いつも、一寸先は闇といった状況でした。母を失った代わりに、わたしはあの子を手に入れたけれど、でもわたしの不安はずっと続いていたんです。氷の張った湖の中に落ちてしまった気分です。上がろうにも、氷が張っていて出て行けないんです。落ちた穴はどこにも見つからない……」
 息を吸い込んで、彼女は言い直した。
「誰にも打ち明けることなんてできない。少し経ってから、精神科の先生に診てもらうようになりましたけれど、その時だってやっぱり本音は言えませんでした。わたしはあの日以来、ずっと独りなんです」
 母が死に、その消失を埋め合わせするように、弟を包んだ。けれど、母の消失が変わらないのは言うまでもなく、彼女は結局、独りであり続けたのだ。
「それで、カフェインを……大量摂取をはじめたんだ。お母さんと同じように」
「マンデリン・ブルボン……」
 菊池がぽつりと言う。
「それって、母親の死を自分に再現しようとしたということなんですね?」
 彼女は呼吸もしていないかのように静かな様子でうつむいていたが、
「ご推察の通りです」
 堪えるように、答えた。その言葉の勢いを維持しつつ、
「ただ、意識してのことじゃありません。なんとなく気付いたらそんな選択をしていたんです。もう願望ってぐらいになっているんでしょうね」
「……ですが、マンデリンのコーヒー豆を用意したのは、あなたではないでしょう?」
 菊池の言葉に、かすみの方がびくりとした。
「天堂章恵さん、でしたよね」
 彼女は答えない。
「あなたが、お願いして用意してもらったのですか」
 菊池は、なにか勘付いたらしい。
「ちょっと待って下さいよ」
 と、塚地が割って入る。
「天堂さんは海外旅行でそれを買ってきた。あなたの頼みを聞いて、わざわざ。彼女はエステサロンを経営しているだけに、かなり忙しい身だ。そこまでしてくれたのは、なぜでしょうか」
 塚地は畳み掛けた。彼女は視線をかわすように下を向いた。口元がやめてくれと訴えているように見えた。
 やがて彼女は顔を上げないまま、おもむろに首を振った。塚地が少し身を乗り出すと、その痩せた肩が呼応するかのように、わずかに後ずさった。
「天堂さんは、知ってるんですね。あなた方ご姉弟の秘密を。彼女はあなたにとって、第二の母親のような人だ。これまで誰に伺っても、あなたは他人に弱さを見せない、健気な頑張り屋さんという話でした。皆がそう言った。でもあなたは、彼女には心を許したのです。天堂さんにだけは。お母さんとは似ても似つかない、にもかかわらず雰囲気は同じだとあなたはおっしゃった。彼女はつまり、あなたの今の母親なんだ」
 深瀬かすみの全身は硬直していた。塚地は返答を待たなかった。
「あなたは天堂さんに秘密を打ち明けた。つまり彼女はあなたのおかれた状況を、誰よりも詳しく知った。マンデリンを、わざわざ海外旅行してまで用意したのは、あなたがそれをなんのために飲んでいるのかわかったからです。彼女は、あなたの心の底に自殺願望が強くあることを知っていた。そうなんでしょう?」
「塚地さん、それって、自殺幇助ってことになってくるじゃないですか?」
 色をなして、菊池が急かすように言った。
「いや、自殺させようとしたわけじゃないさ。そんなつもりはなくて、あくまで、それはかすみさんに必要なものだと判断したんだろう。打ち明けられた事情をすべて受け入れた上でのことだ」
 カフェインで母を殺した。自分と精神を同一にする弟が、無邪気な気持ちに殺意を忍び込ませて。罪悪感が、かすみの身体にカフェインを求めさせている。天堂章恵はそれを理解した。
 塚地は菊池から、彼女に顔を戻す。
「どうなんでしょう? 天堂さんはあなたの最大の理解者だった。彼女は、相手が困っていると知れば手助けせずにはいられない。自分でそう言っていた」
「……正しいです」
 と、彼女は小さく呟いた。
 少しずつ決意を固めるように、顔を持ち上げていく。
「あの人はわたしの、心の支えそのものです。マンデリンも、わけを知った上で、用意してくれたのです。天堂さんの名誉のために言います。あれは決して、わたしをほんとうに自殺させるためにくださったものではないんです」
「しかし、それでもってあなたが自殺を……間接的な自殺を望んでいると知りながら、そんな危険な真似をするなんて」
 菊池は困惑している。まだ多くのことが受け容れられずにいるようだ。
「天堂さんは、ご自分が止めても、わたしはいずれそうすることを分かっていましたから。だから手を貸してくれたんです、放っておけずに」
「だんだん、見えてきましたよ」
 と、塚地が人差し指を立てて言った。
「同じマンデリンでも、カフェインの含有量が少なくて、味わいが同じくらい濃いものを、天堂さんが手に入れて、それをあなたに与えていたのだとしたら? たくさん飲んでもあなたの身体に害が及ばないように」
「プラセボ効果ってやつです?」
 菊池が首を捻りながら尋ねる。
「まあ、みたいなものだ」
「でしたら、天堂さんがしようとしていたのは、現状維持ですか。でも結局、深瀬さんは自分でコーヒーにカフェイン錠を混入させています。天堂さんのせっかくの思慮は察知され、骨抜きにされてしまった」
 腕組みを解いて、菊池は彼女に相対する。
「……はい。すぐに思い当たりました。あの人の考えそうなことですから」
「そうですか……」
 菊池は呆れ顔になった。かすみもまた、天堂をよく理解していたということか。
 塚地はカフェイン入り錠剤の瓶を取り上げ、ラベルの成分表に目を凝らす。服用上の注意として三粒までと書かれてある。きっと深瀬はこれを大きく上回る数を豆と一緒に挽いたのだろう。鬱病のような症状をきたす程だ。最低でも五粒といったところか。
「結局、あなたは死に向かっていたんだ。死にたい……あるいは消えたいという気持ちを持ち続けることで、引き摺ってきた罪悪感を断ち切ろうとした。そういうことなんだと思う」
 塚地は瓶をそっと机に戻し、言った。
「それって、天堂さんが気付かないってことはないんじゃないでしょうか?」
 菊池はまだ納得がいかない表情をしている。
「たしかに、つい最近ここを訪ねたのだから、その時気付いたっておかしくはないとは思うけれどね」
 彼女の方を見て、答えを求めた。すると首を振って、否定した。
「気付かれる前に、あの人にお帰り願いました」
「天堂さんがいることが逆に辛くなったんです?」
「ええ……、だって、仰るとおり母親のような人ですから……。顔を見ただけで胸が詰まって仕方がなくなってしまうんです」
「そこまであの人に心を寄せているなら、彼女の方でもそれを感じ取ったはずだ。天堂さんだって、帰りづらかっただろうに」
「ええ、ですから言い争いみたいになりました。だけど、しまいには納得して帰ってくださいました」
「本当にそうなんでしょうか? あなたの自殺願望に加え、失踪した旦那さんのことを含めた苦境について、すべてあの人は知っている。そんなあなたを、放置していくに等しい真似をするでしょうか」
「どういう、意味なんでしょうか」
「彼女にも彼女の事情がある。それも、秘密の――」
「え――」
 彼女の呆けた顔。
 直後に緩んだ気を一気に立ち直らせた。
「あの人に、秘密なんて……」
「日浦かつ代さんのことですよ。天堂さんが、殺したんです」
 
 室内に満ちた沈黙はさらに霧が濃くなるように深まっていた。
「天堂さんが……日浦かつ代の殺害犯? どういうことですか、塚地さん」
 菊池の問いに、深瀬かすみを見据えたまま塚地は答える。
「今話している内に、導き出された解答だ。自然な流れさ」
「……つまり、母親がわりとして、深瀬さんを守るために? 流れからいうと、そうなりますが……」 
「そういうことだよ。ただし、深瀬さんのためだけじゃない。天堂自身の、日浦かつ代に対する感情もあっただろう。今は裕福な彼女だが、子供の頃、家庭は貧しかったという。聴取後に気に掛かって調べてみたんだが、案の定というか、生活保護というワードが出てきたね。詳しい事情はともかく、みじめな幼少期を過ごしていただろう事は想像に難くない。僻み、妬み、そして恨み……。小さい頃から蓄えた鬱屈が、日浦に重なってしまっても不思議じゃない。撲殺――あれは酷いものだった。相当の怨恨がにじみ出ていた」
 静かな部屋の中で、塚地は息を吸い込んだ。ひゅっと音がした。
「ただでさえそうなのに、日浦女史は深瀬さんの家の事情についてあれこれ調べ回っていたんだ。元川大祐のことを、探偵を雇ってまで調査した。忌むべきことだが、それだけの理由はあった。日浦女史は深瀬さん姉弟の秘密を、おそらく知っていたんだ。母親の死にまつわる疑惑……、日浦がそのことを臭わせてみた時、天堂さんはもう動かずにはいられなくなった」
「しかし、深瀬さんの母親は、当時の死亡診断書には、心臓疾患による急死と明記されていましたよ。変死扱いはされていません。それを今になって調べ直したところで、新たな事実を見つけるのは難しいと思うのですが……」
「有力な内部情報の、リークを受けたんだと思う」
「リークって誰も気づかなかった犯行なんですよ?」
「でも、事情を知った者がいたんだ」
「天堂章恵よりも前に? いったい誰が?」
「一人忘れていないか。真相を知っていても不思議はないほど、身近にいた男を」
「身近に、いた男……?」
 眉根を寄せ、目を天井から壁へと巡らせているうち、菊池の顔が強張った。あっと、声を漏らす。
「まさか、深瀬貴志……。失踪している、深瀬貴志ですか?」
「そうさ、彼だ。愛する夫の他にはいないだろう」
「すると、彼はまだ……深瀬はまだ生きているってことでいいんです?」
 菊池はかすみの顔をちらと見た。彼女は表情を失っている。色白の肌が、さらに青ざめていた。塚地も注意を払いながら、答えた。
「おそらく。彼はまだどこかで生きている。本当の意味で失踪したんだよ。家族を捨てて」
 深瀬の顔は、平静にすら見える。しかし、やはりそれは薄い仮面でしかなかった。悲哀がその裏面にしっかりあって、少しずつ表になり始めていた。
「深瀬貴志は、自分の意思で家を出たってこと……なんですか?」
 菊池は顔を仰向けたり、目を宙に巡らせたりと神経質な動きを繰り返している。
「まあ、そういうことだよ」
「その理由は、なんです?」
「さっき言った、内部情報そのものさ」
 菊池はごくり、と唾を飲み込む音を立てた。
「つまり……姉弟の秘密――」
 独りごちるように言った。
「義理の弟になった元川大祐が、過去に自分の母親を殺していたことを知ったんだ……」
 一語一語区切るように言ったかと思いきや、塚地を見て、
「その事実に、耐えきれなくなったんですね?」
 と、答えを求めた。
 小さく首肯した。
「警察官としての務めを考えれば、その行動はおかしいとでも君は言いたいんだろう。逆だよ。その職務が、彼を苦しめたんだと思う。自分の身内に殺人歴があった。露見すれば、今の自分の職と家庭を、おそらく棒に振ることになる。しかし警察官としては、このまま沈黙を守るわけにいかない。すべての責任と重圧が、秘密を知らされた彼一人にのしかかった」
「それで、自棄でも起こしたってことなんです?」
「いや、あえて据え置きにしたんだ。ことを明るみに出すか、黙ったまま職を辞するか、はたまた出口のない葛藤を続けるか……どの途も選ばずに、そのまま停めることにしたんだ。自分がそこから離脱することで」
「そんな……たとえ公表したところで、元川はまだ十歳かそこらだったんだし、誰も気づかなかったのだし、時間も経ちすぎていることから、今さら立件なんてできっこない。いくら親族だからって、彼が警察官の職に留まる途はあったはずだし、奥さんを失うことだってなかったと思いますよ。だいいち彼に告白したのは――」
 まくしたてた菊池はそこで言葉を切って、向かいの席に目をやる。
 深瀬かすみは人形のように見えた。
 語気を緩め、尋ねてみる。
「告白したのは奥さん、かすみさんだったんでしょう? あるいは弟さんか」
 彼女は無言だった。瞬きすらしない。菊池はため息を吐いた。
「ともかく、だからって失踪するなんて――」
「君は、深瀬貴志の身上を知っているだろう?」
 塚地は静かに言った。
「それは、聴取を読みましたから……」
「彼の出身は、どんな家庭だった」
「立派な家柄でした。ええと、たしか祖父が警察官で、あと……身内に検察官もいた」
「だろう。深瀬貴志はサラブレッドさ。高いプライドで成り立っているんだ。退くに退けない性格をしている。決して泥を塗るわけにはいかない係累。かすみさんのような境遇の女性と一緒になるのは、いろいろ障害もあっただっただろう。家族に反対されるようなこともあったかもしれない。それを押し切って結婚したなら、二進も三進もいかないくらい思い詰めるまでになったはずだ」
 菊池は、はあっと息を吐き出してから、天井を仰いだ。
「でしたら、なんで告白なんかしたんだ……」
 ついそんな言葉を漏らし、はっとしてかすみに目を戻す。
 じっと動かない瞳が黒色の艶やかさを増していた。
 塚地はとりなすように言った。
「自分から告げたと決めつけるのは、尚早だ。むしろ、かすみさんはそんなつもりなんて無かったと思う。元川にしたって、姉の幸せな生活を危うくするようなことなど、望んで口にするはずもない」
 弟と義兄の仲だって悪いはずがない。塚地は今に至っては、確信を持って言えた。姉弟二人は、一つなのだから。
 だが、と塚地は息を吐いてから、言葉を紡ぐ。
「母親が亡くなり、弟の罪をかかえ込んで以来、かすみさんはずっと気に病んでいた。心の底に潜む自殺願望だよ。それが旦那も気づいた。そして、独自に過去を調べるようなことでもしたのかもしれない。あるいは察しが良く、自らの筋立てで気づいたとか。どちらにしても、これは成り行き上、仕方がなかったことだ」
「彼は今、どこで何をしているのでしょう?」
 菊池は間を置いてから言った。
「もう五年も経過しているんだ。知る由もない。どこか遠くで、まったくの別人として生きているんじゃないか」
 かすみの心を忘れずに、塚地は配慮しながら答える。
 ――深瀬貴志があなたの元を去ったのは、自分自身を救うためではあったろう。だが、最後まで沈黙を守ったのは、あなた方姉弟のためでもあったはずだ。心に描いたことを目に籠め、彼女をひたすら見つめる。
「奥さんは、ではご存じだったわけですね。彼が消えた理由を――」
 菊池はかすみに確かめようとした。彼女は黙ってうつむき、涙をぽろぽろと零した。
「話を戻しましょう。姉弟の秘密を日浦かつ代に告げたのが、ほんとうに深瀬貴志だったとして、彼はいったいなぜ、そんなことをしたんです。沈黙を守ったまま失踪までしたのに。考えてみれば、彼が日浦殺しの遠因を作ったようなものじゃないですか」
 菊池は憤然と言った。怒りが言葉に滲んでいて、どんどん感情が大きくなっていく様が見て取れた。
「あの問題のある女性に、家族の重大な秘密を全部、漏らしたんです。いや、そう決めつけるのは早い。失踪中の身につけ込まれて、脅迫でもされたとか――」
「日浦女史に、そこまでの悪意はないよ。彼女のような人は、逸脱するような行為だけはしないと思う。深瀬貴志には思惑があったんじゃないかな?」
「どういう思惑です?」
「姉弟が、というよりかすみさんがかかえ込んでいる罪を、外から照らし出す思惑さ。そこで、あの強引な日浦女史を利用しようと思ったんだ」
「ですから、……何のために、そんなことを――」
「やり直すために」
 はっと、息を呑む音がした。かすみだった。顔を上げ、まだ濡れた目を見開いている。
 塚地はすまなそうな顔になって言った。
「あるいは、だよ。これは推測に過ぎない。本当のところは、彼本人に聞くしかない。居所もわからないし、手掛かりもないが。でもどこかで、彼は見ていると思う。だから――」
 言い掛けた言葉を飲み込み、別の言葉を継ぐ。
「彼のことは急がなくていい。今は先にやるべきことがある」
 菊池くん、と呼びかける。
「悪いが、先に行ってくれるか?」
 菊池はうなずいて席を立った。
 天堂章恵を洗い直さなければいけない。事件当日の夜の行動。深瀬かすみから日浦かつ代の話を聞かされて、天堂は激高し、殺意を持って日浦を手に掛けた。塚地には確信があったが、ここまではまだ推理の域を出ない。しかしこのことを、かすみの前であからさまに口にするのは憚られた。天堂は、母親同然の女性なのだ。
「塚地さんは?」
 菊池は振り返って尋ねる。
「私は、もう一つ、用がある」
 そうでしたね、というように再びうなずいて、菊池は辞去した。
 
 たった一人抜けただけで、随分と空気が変わるものだなと塚地は思った。
「あなたに、お伝えしなければなりません」
 意を決して、かすみの顔を見る。
「あなたにとって、とてもつらい、悲しいお知らせです」
 彼女は怯んだような風もなく、見返している。
「――察しが、おつきなのですか?」
 つい、塚地は尋ねてしまった。
「……あの子のことですね」
「はい。最初にお話しすべきところ、回りくどいことになってしまいました。まことに申し訳ありません」
 塚地は息を吸った。
「元川大祐さんは、先ほど、亡くなられました」
 彼女の目が強く見開かれる。
「そんなこと……、どうして」
 喘ぐような口調だった。
 塚地は、確認されている事実のみを語った。大祐が二週間前に半田という男と共に失踪し、窃盗をはたらいたこと、逃げ途中で車にはねられたこと、搬送されてまもなく、意識不明のままに息を引き取ったこと。
 本来ならば、唯一の親族である深瀬かすみに真っ先に連絡されるべきだったが、自分の一存で、彼女の病状を考慮し、このような形を取ったのだと、塚地は告げた。
 依然、懸念が頭にあったが、かすみは取り乱さなかった。
 二人の警察官にすべてを知られ、語られたことで、多少なりとも毒気が抜けたのかもしれない。思えば彼女は、警察官の妻なのだった。根っこのところに強さがあったところでおかしくはない。救われた気分だった。
 静かに彼女はつぶやいた。
「あの子が泥棒を……」
 目をつむると、顔をうつむけた。
「様子がおかしいとは思っていました……。急に来なくなったし、あの時の電話だって……。挙げればきりがないぐらい。それなのに――」
 言葉を呑み込むと、肩が震え出した。
 塚地は、遠慮がちに引き取った。
「弟さんの収入には、不自然な点がありました」
 かすみは弱々しくうなずいた。
「……わたしのせいです。すべて、わたしが悪いんです」
「あなたのせいじゃない」
 塚地は思わずさえぎる。
「わかっています。すべては、わたしのためだったんです」
 それは、確かだ。あの男にとってすべての行動原理は姉のかすみにこそある。
 深瀬かすみは弟のすべてを、母親殺しの罪ごと包み込んで、抱卵のように護った。弟はその温もりを与りながら、自らを委ね、さらなる罪を為した。
 罪悪の落とし穴が、二人の足下にはひろがっていた。底知れぬ闇の世界で、一度引き込まれると這い上がって出てくるようなことはできない。
 すべては許されぬ過ちを見逃し、二人の中でなかったことのように洗い流したせいだ。それこそが二人の最も大きな罪過だ。代償として姉の苦しみは尽きることなく続き、弟は弟で、悪の限りを尽くす。ともに、底なし沼だ。
 だから否定はできない。だが今、彼女が自らを責めて何になるというのか。
 塚地は目を落とした。テーブルの影に隠れたかすみの包帯の巻かれた手首、薄く滲んだ赤い血の線――。
 彼女をこれ以上、絶望させてはならない。死者が増えることだけは避けなければいけない。
 深瀬かすみには希望が必要だ。まだ何処にあるのか知らないが、残された唯一の望み。
 それをしっかり掴まなければいけない。塚地は決意を固めた。
「あの子のところへ、連れていっていただけますか」
 かすみは言った。
「ご案内します」
 塚地は立ち上がった。何よりも、悼む気持ちを優先にしなければいけない。
 彼女の中の時間を、少しでも動かすのだ――
 
 
 ※ ※ ※
 
 半田が出入りしているというマンションを押さえた。だが、夜討ち朝駆けして聴取室に連行するなんてことはしない。しばらくは泳がせ、出入りしている人間について一人ずつ洗っていく。
 でも、そんな地道な作業も今日で終わりだ。予定では彼は近々、西添と面会することになっているはずだった。
 その現場を押さえる。
 それが塚地の最後の仕事だ。
「半田はここ数日、かなり豪遊して回っているそうですよ。こないだも、会員制のナイトバーで落とした額は三十万を越えていたとのこと」
 照明を落とした電柱傍に停めたセダン。その中で塚地と菊池は並んで待機していた。足場には封を解いたばかりのサンドイッチのゴミ屑が散らばったままだ。
「薄情なもんだ。事故からまだ一週間も経っていないというのに」
「まったくです。ですが、彼としては最初から元川を売るつもりだったことでしょうし、普段からどこかで割り切っていたんじゃないですか?」
「元川はあの男を慕っていたんだ。姉の次に大切な存在というぐらいに。それがまさか利用されるだなんて……。この無念は晴らさなければいけない」
「それにしても半田は情に欠ける男です。元川の無念を晴らしたところで、彼に反省の念を引き出すことなんてできるのでしょうか?」
「いやでも追い詰めるさ。元川の裏側には深瀬かすみがいる。彼女もまた、傷を負った一人なんだ。どれほど愚かしいことをやったのか、理解してもらわなければいけない」
 事故から二週間経ってもまだ、現場に連れていった深瀬が見せた悲哀に満ちた顔が意識から離れてくれない。その顔がついて回る限り、彼女がどうにかなってしまうのではないかという不安は拭えない。
 罪悪感は胸にあった。
 彼女の心は弱っているのが分かっていたのに、約束したとおりに元川が最後に残した足跡を辿る巡回に彼女を連れ出したのだった。でも約束を破るわけにはいかなかった。
 その時、アパートの門灯が点った。まもなく玄関ドアが開き、半田が姿を見せる。
「どこかに出掛けるみたいですね」
 菊池が背を起こして言った。
「西添と接触するのかもしれない。準備をしようか」
「はい」
 半田がパーキングに預けた車を駆りだすと、こちらもイグニッションキーをひねってエンジンを点けた。徐行運転で、信号待ちしている半田の車の後ろに向かう。左折車が割り込んで、車一台挟んだ尾行となった。
「東方面に向かうみたいですね」
 白蛇の拠点はいくつか押さえているが、そのいずれでもない方向に向かっていた。
 信号が変わり、車列が動き出す。
「このまま追跡続行でいいんですよね?」
 と、菊池がステアリングを繰りながら言う。
「続行で頼む。慎重にいこう。仮に西添との接触じゃなくても動向ぐらいは押さえておこうと思う」
「分かりました。では、この状態を維持します」
 尾行車での追跡は足を使うときよりもずっと難しい。一般車両を遮蔽に利用することには、不測がつきものだからだ。相手がバックミラーを見ているうちに、同一車の存在を察知し、追跡されていると気付いてしまう。かといって、台数を多くすれば信号が多いところではこちらが見失ってしまいかねない。
「どんどん市街地に入っていきますね」
 また信号に引っ掛かったところで菊池が言う。
「たぶん、中心街に向かうんだろう」
「これまで人の多いところには出ていません。何かおかしくないですか?」
「そうしろとでも向こうから指示を受けているのかもしれない」
「号令でも掛かったってことなんです?」
「それだったら、もっと前兆があっていい。今回はそうじゃない。単なる送迎を遣わされて、誰かを拾いにでているとかそういうことなのかもしれない」
「拾うのが西添だったら、面白いですね」
「いや、その可能性は高いと思うぞ。例の元川を轢いた車について、西添の関与が高まっているわけだからな。……一応、本部には連絡を入れておこう」
 塚地は携帯を掴みだし、直属の上司に現在の事情を告げた。何度も連絡を取り合っているので細かい説明は必要なかった。ほどなく会話は終わった。車列はすでに動き出していた。
「半田の車のスピードが少しだけ上がっています」
 メーターを見ると制限速度ぎりぎりのラインを指していた。つまり、半田はスピードオーバーで移動していた。
「通信指令本部と連携を取って、警らに捕まえてもらうのもありですよ、これは」
 菊池が肩をすくめつつ、重ねて言った。
「それはダメだ。あいつを泳がせるんだ。隙は必ず生まれる。そのチャンスを突いてやらなければいけない。今は、辛抱だよ。徹底的に耐え抜いて、待つんだ」
「分かりました。この調子のままでいきます」
 安定した走り。半田の車とどんどん引き離されていく。だけど、進行方向がぶれないので、近道を選択する事でその分差を詰めることができた。しばらくすると、タイミング悪く単独で信号機に引っ掛かった。二人に舌打ちが漏れる。みすみす半田の車を見失う。
「すいません……、ちょっと車の流れが掴めてないですね」
 と、菊池がステアリングの上で指を神経質に動かしながら言った。
「そう焦らなくていいさ。追っても甲斐がなくなったところで、私が責任を持つ。もし、誰かを拾いあげることが目的ならどこぞに駐車しなければいけないから、ある意味このロス時間は役に立ってくれるはずだ」
「読みが当たってくれるといいんですが……」
 車が動き出した。加速している。たぶん菊池自身も自覚がないんだろう。塚地はあえて何も言わずに彼に任せた。
 市街地の目抜き通りを抜け、雑な道が続いたその後に菊池があっと声を上げた。
「あそこに車が停まっています」
 確かに、二十メートル向こう、歩道寄りに半田の運転するセダンの姿があった。困った。違法駐車の車がつづいているだけに近くに停めるところがない。
「どうします?」
 と、菊池が問う。
「このまま通り過ぎていい」
「いいんですか?」
「一旦、流そう。もう一度一周してここに戻ってこよう」
「了解です。一旦、流します」
 塚地は半田のセダンが横手を過ぎる際、彼の動向を探った。スモークの掛かったドアの向こうに誰かが座っている姿があった。顎髭の濃い、ヘリンボーンジャケットの男。少し大きめのサングラスを装着して、あたりの気配をうかがっていた。
「西添ですね、いまの」
 菊池が言った。
「間違いない、西添だ。なんだか落ち着かない様子だった。警戒しているのか?」
「たぶん、どこかで別の団員と落ち合っていたんでしょう。その帰りに半田を使ったというわけです。ここは町の真ん中ですから、さすがに人目を気にせずにはいられませんよ」
 菊池はステアリングを切って大きく右折した。長い長い迂回路に入った。そして市街地を突き進む元の道に戻ってきた。
 すると、同じ位置に半田の車が停まったままだった。違反駐車の列に空きがあったので、割り込んだ。
 半田の車がすぐさま動き出した。アクセルを力一杯踏み込んだ急発進。近くの交差点を突っ切って、直進する。
「気付かれたぞ! 追うんだ!」
 塚地の声と共に、菊池がステアリングを切る。遅れての発進となった。差は五十メートル以上。
「本部の方にちょっと連絡を入れる。そのまま半田の車に集中してくれ」
「了解です」
 塚地はもう一度上司に連絡を繋いだ。事情を告げ、通信司令センターと連携を取る手筈を整える。あらかじめ状況を伝えていたようだ。こちらは逐一無線で居場所と進行方向を伝えるだけでいい。
「警らが動いてくれるようだ。やつらが進める道は限定的だ。追い込み作戦の始まりだ!」
 塚地は携帯を切った後、声を張り上げた。ドアの手すりに掴まり、降り掛かってくる遠心力に備える。そして菊池は分かっていたように、アクセルを踏み込んだ。
 道は混雑していた。一方、反対車線は空いていた。それは歩道側についても同じようなことが言えた。
「Uターンだ。次の切れ目でUターンしてくれ」
 塚地が指示に掛かる。
 彼はえっ、と漏らして横目で見た。
「反対方向に出ていってどうするんです?」
「挟み撃ちにあった途端、切り返してくる可能性が高い。半田の性格を考えるんだ。あいつは追い詰められた途端、自分のことだけを考える。そういうやつに限って逃げ道が開けているところを選ぶ傾向が強いんだ」
「では、そうします」
「大丈夫だ。これも責任は私が持つから」
 セダンがUターンした。そして単独の走行が続く。徐行運転でいいと塚地がさらに指示を入れ、様子見に入る。すると、唸るようなエンジン音が背後から聞こえてきた。
「来たな」
 塚地はバックミラーに映った半田の車を見据え、言った。
「塚地さん、お見事です。狙いどおりになりましたね」
「そんな褒め言葉なんていらない。勝負時なんだ。気を抜くな」
 塚地は緊急車両切り替えのボタンを押した。セダンがパトカーに早変わりした。サイレンはすでに回っているから、制限速度の枷などない。菊池の急アクセル。セダンがぐんぐん加速する。半田の後ろに並んだ。
「市街地だぞ。派手なことをしようものなら、即刻追跡中止にする」
「もう遅いです。向こうはすでに興奮しているみたいですよ」
 追い抜き封じの蛇行運転がはじまっていた。あからさまな挑発だ。交差点を過ぎた時、停まっていたパトカーの姿を見つけた。非常灯を点灯させ、合流する。三台の追走になった。
「裏路地に入るんだろうな、これは」
 塚地はその予感を感じていた。まずい展開だった。狭い道ほど有事の際は、一般人を巻き添えにしてしまう。
「お任せ下さい。一気に出ますから」
「やってくれるのか?」
「できるところまで、なんとか踏んばってみようかと」
「頼んだぞ!」
 半田の車が右折した。急な展開だ。
 案の定、裏路地を使うつもりでいる。
 菊池がスピードを上げた。
 半田の左折を封じるべく、突っ込んでいくつもりだ。
「塚地さん、しっかり掴まって下さい!」
「もう、掴まってる!」
 勢いのいい直進。左折に掛かった半田の車が肉薄する。衝突しそうになったところで菊池は引かなかった。半田の車が驚いたようにハンドルを戻した。スリップ。角に面した街路樹に横から突っ込んでいった。停止。
「傍に停まってくれ!」
 塚地は指示を飛ばす。すぐ近くに停められた。直後に飛び出すも、半田の車はまた動き始めていた。逃げるつもりだ。塚地は運転席のドアレバーを掴んだ。が、鍵が開いているはずがない。窓を叩いた。
「半田、下りろ! これ以上逃げてもダメだ!」
 中の半田は、目も暮れないままステアリングにしがみついている。その顔は逃げようと必死だ。助手席の西添は身体を傾けたまま情勢を見守っている。アクセルを踏む音。半田の車が縁石を飛び出した。後輪がスピンしながら裏路地に突き進んでいく。塚地は車に戻った。
「どうします?」
「ゆっくりでいい。裏路地の向こうからは応援の車が来て、退路を断ってくれるはずだ」
「挟み撃ちだと分かって、下手な真似に出ることがなければいいんですが……」
 興奮した半田が人を撥ね飛ばす恐れがある。しかしながら現時点ではどうしようもなかった。すべては本人の理性に掛かっていることだった。
「こういう時、運の全部を注ぎ込んでやりたいぐらいですよ」
 呟くように口にした、菊池の顔は緊張に満ちている。通行人は異変を察してか、誰もが道端に身を寄せていた。
 カップルが横切った後、百メートル先にいた半田の車の停止ランプが点るのを見た。パトカーが三台、その先に待機していた。
「応援です! 通信部との連携が奏功してくれたようです!」
 菊池の歓喜。
 だが、塚地は気を抜かなかった。
「半田は動くぞ! 前から目を逸らすな!」
「はい」
 三十メートルと迫ったところで、半田の車がバックしてきた。後ろ向きの急発進。避けるまでもなかった。塚地の乗るセダンにぶつかった。反動で後ろに押し返される。衝撃を食らったショックからか、目にちかちかと光が走っている。
「塚地さん、だいじょうぶですか?」
「問題ない。そんなことより退路を作るな。塞ぐんだ。やつらを追い詰めろ!」
「もちろんです。逃がすつもりはありません」
 衝突でできた僅かな隙を菊池は少しの操作で埋める。半田の車と二度目の衝突があった。ガツンという振動と共に、身体が揺さぶられる。手前からはパトカーが一台接近していた。気付いた半田は今度は直進を開始した。縁石にホイールが削られて火花をまき散らしている。しかしそれでもセダンは加速を止めなかった。強引にでも突っ切るつもりだ。ところが、彼らの突き進む先にはアーケード街の笠を支える鉄柱が立っていた。まるでそれが見えていないかのように突っ込んだ。車体がくしゃみでもしたように跳ね上がった。直下にボンネットから煙が上がる。
 車が可能なところまで距離を詰めたところで、塚地は飛び出した。
 きな臭い臭いに満ちている。ボンネットのエンジンからバッテリーのプラグを突き合わせたような、ショートの音が響いている。ガソリンの漏れがあれば、すぐに引火する恐れがある。それでもドアをこじ開け、中を覗いた。
 二人はぐったりしたままシートにもたれている。半田の方はすでに意識がなかった。割れた額から夥しい血が滴っている。
「おい、半田。しっかりしろ!」
 呼びかけ、脈を探る。ダメだった。すでに事切れていた。西添の方はどうかと彼の腕を引き寄せようとしたところで、手足が動き出した。身体を外側に傾けるなりドアを開けた。歩道に向かって足を引きずりながら走る。
「西添ぉ! 逃げてもダメだ!」
 パトカーから飛び出してきた警察官が塚地の回りに溜まっている。彼らに半田を任せ、西添が逃げていった方へと走る。すぐに追いついた。柱を背にしたまま全身を波打たせるように呼吸している。
「もう、逃げられないぞ」
 塚地は彼に単身で向かって行く。
「逃げる必要なんてないんだよ」
「なに?」
 彼は懐からさっと黒いものを抜き出した。トカレフだ。ヤクザが取引する火器のうち、末端に位置づけられる安価な代物。
 真っ直ぐ腕を伸ばし、塚地の方へと差し向けてくる。
「撃つのか?」
「動けば、な」
「なら、早くしろ」
「くるなっ」
 塚地の足元に向かって発射した。アスファルトが弾けた。しかし、塚地には恐怖なかった。なにより射撃の際には重要になってくる。彼の定まらない視点の移動が引っ掛かっていた。
 彼の負傷の程度は思ったよりも酷い恐れがある。このまま逃げたところで生き延びられないのかもしれない。早いうちにこちらの手の内に落とし、治療に専念させなければいけない。
 そのためにも、まず、この男の興奮を鎮めなければ。
「……言いたいことがあるなら、聞いておこう」
 塚地から誘い掛けた。
「言いたいこと? なんだそれは」
「ないのか? こっちにはたくさんあるんだ。聞いてもらえないか?」
「……魂胆が見え透いているぞ。下手な誘導をして油断させようとしたところで、ダメだ」
「そんなつもりはない。もし信用できないならとっとと引き金を引けばいいさ。それですべてが解決する」
「…………」
 西添に動きはない。荒い呼気がつづいているだけだ。塚地はにやりと微笑みかける。
「教えてくれ、お前は白蛇の幹部候補ってやつなのか?」
「……その質問は認めない。答える義理がない」
「なら、半田とお前はどういう関係にあったのか、それを教えてもらおう。今しがた半田の腕を取って脈を見たところ確認できなかった。死んだんだ。お前さんからすれば、これは名誉の死を遂げたってところじゃないか? もしそうなら、その名誉の死に応えて中身を教えてくれたっていいだろう?」
 長いこと、苦しそうな呼気を続けた後、口角を持ち上げる。
「代わりに、一つだけ教えてやるよ。……沈黙が我らの名誉なんだ。死んだところで後に何も暴かれるようなことはされない。それが我らの一番の名誉なんだ。だから、何かを言い出したところでそれは侮辱にしかならない」
「それがお前さんの生きている世界ってわけか?」
「……そんなことぐらい、お前には、ある程度分かっているはずだ」
 塚地は首を一度振った。
「分からないね。というより、分かるつもりなんてない。そんなものを理解したところで、何かが見えてくるわけではないからな」
「…………」
「ただ、一方通行で終わるつもりはない。寄り添うことはできるんだ。こっちはそうしたいと思っている。……とりあえずお前さんをこっちに引き入れたいんだ」
 彼は首を振った。
「どうやら、何を話してもダメみたいだな」
 そう言うと、西添はこめかみに銃口を自らあてがった。眉間に青筋が浮かんでいる。
「何をしている?」
 と、塚地は問い質す。
「お別れだ」
「……まだ、話すことがあるだろうに――」
 不敵な笑みが西添の口元に浮かぶ。しかし、トリガーを絞る指が動かない。よく見ると小刻みに震えていた。
「よせ、それを捨てるんだ。お前にはまだやることがある!」
 思いの丈を込めて叫んだ。
「近づくなっ!」
 銃口が再びこちらを向く。さらに興奮に駆り立てられた剣幕を見せている。
「くそぉっ、……こんな時に、なぜ未練なんかが湧くというんだ?」
 鼻から息を吸い込むなり、自分に罵るように言った。脳天を撃ち損なった自分が認められないらしい。
 塚地は息をついて、肩から力を抜いた。
「それが人間というものだからだよ。死を望んで死ぬものなんていない。多くは、死ななければいけないと思い込んで死ぬんだ。お前はそこから外れている。自我が強いんだ。さあ、銃を捨てろ! まだ間に合う。お互い、歩み寄ろう!」
 ふっと、彼は笑う。
 またこめかみに銃を押し当てた。
「自我なんて必要ない。これまで何人の死を見届けてきたっていうんだ。命なんてな……まやかしだ。この世界は、すべてがまやかしで成り立っているんだよ」
 塚地は飛び出した。
 ところが、それと同時に彼のトリガーにかけた指は動いていた。
 パスンと、火薬の弾ける音。
 電気ショックでも浴びたように首が跳ね上がった。頭上に飛び散る、血の礫。
 足元から崩れるように沈んでいった。すぐさま彼の身体に追いついたが、もう遅かった。濃い血が滴ってくるだけで、それ以外に反応はない。
 取り囲んでいた警察官のどよめき。それでも身体は動いていた。彼らはやるべき自分の仕事を心得ているようだった。
「間に合わなかったんですね……」
 菊池が背後から近づいてきた。
「すまない……」
「いえ、この結末は自分の責任でもあります。ですから――」
「気休めはいい。彼らの口から何も聞き出せなかったのは、明らかに私の失態だ」
 最後に見せた、人間的な一面。
 この男は、根っこまで自分が望む悪になりきれなかった男だったようだ。しかし、結果的に救うことは出来なかった。これも自分のせいだ。あとすこし足が速かったら……。どうしてもそう思ってしまう。
 西添の死体をそっと寝かせ、ゆっくりと起き上がる。
 涼やかな風が吹いている。皮肉にも生臭い血の臭いを掻き消してくれる清涼な一陣だった。ころっと感情を入れ替えるにはちょうど良い風。
 現場検証に挑んだかすみの哀しい顔が思い過ぎった。あの時、元川大祐にあった経緯について全容を明かしてみると内心で誓ったのだったが、それも叶わない望みとなってしまった。なんて不甲斐ない結果だ。自責の念が膨らんで止まらない。
「そう、思い詰めないで下さいよ」
 と、菊池は塚地の肩を掴んで言う。そして、西添の死に顔を見つめながら続けた。
「こうなったのは、彼らの習性でもあったのです。沈黙こそが我らの名誉だって言ったじゃないですか。一応、彼らが希望する尊厳は守られたことにはなるんですよ」
「一部始終を聞いていたのか?」
「周りが見えていなかったんです? 傍にいたんですが」
「その余裕もなかったよ」
「ともかく、彼らは沈黙したままに本望を遂げたんです。これですべてが闇に伏したというわけでもない。手掛かりはあるんです。それに……やろうと思えば、自分らにも状況を想像することだってできるはずです」
「なら、教えてくれ。半田は……そして西添はどうして元川を裏切ったというんだ。それを実行したとき、何を考えていたんだ。そこが知りたくて仕方がないんだ」
 西添の死に顔を見つめながら言った。
 菊池は渋面に近い顔つきで、はあっと息をついた。
「野暮でしかないことですよ、欲で目がくらんだ奴らの考えが知りたいだなんて。一から十まで、欲望のみです」
「なら、元川は犬死に死をしたのか?」
「否定したいことですけれど……、これが彼らの生きる世界というものですよ。どこにも命の保障なんてありませんし、今も生き延びている奴らは、何人もの仲間の血の上に立っているんです」
「そんなのは、認められない。捨てていい命なんてあるはずがないんだ!」
 つい、声に熱が籠もってしまう。
「それは、自分も同じですよ。この無念は、いつまでも晴れないですね。こんなふざけたことなんてないでしょうから」
 まだ胸の内にむかむかとした感情が垂れ込めている。すべてを吐き出しきりたいが、それができる状況ではない。呼気は荒くなっていくばかりだった。
 元川、半田、西添の三人の死の上でまだ肥やしを得ている人間がどこかにいる。
 その誰かを特定するその時まで、自分は闘い続けなければいけない。彼らの弔いは、自分に与えられた使命を果たすことで成し遂げられるのだ。
 闘いはまだまだ終わらない――
 
 
 
 
エピローグ
 
 朝霧の濃い、六時だった。
 青みがかった白い帯は流れるように景色に覆い被さっている。山肌を刻んで造成された霊園を、塚地は訪れていた。露を含んだ下草が、いつの間にか靴を塗らしている。
 人気のない時間を選んできたというのに、霧の中に立ちつくす男の姿を、塚地は認めた。
 真新しい墓の前に彼はいた。石版に刻まれた法名を、塚地は知っている。没年の若さが痛ましい。塚地が参るつもりの墓だった。そこへ葬られた死者をもたらした事件に、関わりある者でもあろうか。
 厳つい肩に分厚い胸。たくましい腕と首筋が、浅く陽に灼けている。太いニッカボッカの裾が足りてない、かなりの長身だ。
 塚地は彼に近づいた。砂利を踏む音をとらえてか、男は振り返った。
 迷いのない眼差しが塚地に向けられる。くっきりした眉宇が、いかにも壮健だった。
 そこにある面影を、塚地は見たことがある。
「あなたは、深瀬貴志さんではありませんか?」
 問う。男はじっと塚地を見つめる。瞬き以外に動作はない。
「……失礼ですが、人違いです」
 ほどなく、彼はそう答えた。
「そうですか。思い違いをしていたようで……すいません」
 塚地が謝ると、彼はぺこりとお辞儀で応え、そのまま立ち去ろうとした。その背中に、もし、と声を掛ける。
「深瀬かすみさんのことを知っていらっしゃいましたら、彼女の所へ行ってやってくれませんか?」
「……その人が、どうかしたんですか?」
「今、とてもつらい時なのです。大切にしていた弟さんを失ったのは、自分のせいだと思い込んでしまっている。このままでは彼女まで、後を追ってしまうかもしれない」
 男は動かず、ただ顔を俯ける。
「わたしには関係ないことです」
「でも、その弟さんの、存じ寄りの方なのでしょう?」
「まあ、……そのようなものです」
「彼女を支える人が、一人でもいてくれたらと思っているのです。あなたでも。たとえ、彼女をご存じなかったとしても関係ありません」
「…………」
 そんなつもりなんてない。男の背に、塚地は無言の拒否を見て取る。
「――昔、かすみさんの元を去っていった人がいるのです。知らなければ良かったことを知ったために、何もかも捨て、逐電されたのです。今、何処でどうされているのかはわかりません。でも、わたしは探し出すつもりでいます。もう直に」
「何のために?」
「話したいのです、かすみさんのことを。彼女の現状をわかってもらいたいのです。あの人には、もう誰もいなくなってしまったと伝えたい。ずっと待ち続けている人が、一人いるだけなんだと」
 男は何も言わない。
 口を引き結んだまま、じっと聞き入っている。
「失った弟さんへの思いと同じくらい、その人のことを、彼女は思っています。それだけが希望なんです。その人が帰ってくることで全部が好転するわけではないでしょうが、それでも甦るきっかけにはなるのだと思います。人というのは、希望を見据えるだけで生きていけるものなのですから」
「希望……」
 と、彼は顔を上げて口にした。
「ええ、希望です。誰でも希望を求める。あなたはどうです。明日も生きていくための望みが、今のあなたにはありますか?」
 彼はしばし、思案する様子を見せた。
「……ないですね」
 やがて呟くように言った。
「そうですか? ならあなたも、かすみさんと同じように、日々を送っているのですか。空っぽの生活を」
「今日一日生きるだけで精一杯、その日暮らしというやつで、それが続いているだけのことですよ。そこに希望なんてないんです」
 ならばなぜ、あなたはここを訪れたというのか。
 許されるものならば、もう一度やり直していこう。かつての妻と共に――そんな願いすらないというのなら、ここには来ない。少なくとも、塚地はそう信じて疑わない。だから言を継ぐ。
「失礼ですが……そんな暮らしを、これからも続けるんですか?」
「ほかに、選択の余地がないものですから」
「――深瀬かすみさんを、どうするおつもりです」
「わたしには関係ない、とさっきも言いました」
「私は、きっかけを探しているんです。彼女が希望を持ってくれるきっかけを。あるいは、あなたが持っているかもしれない」
「わたしには何もないですよ」
 彼は横顔を見せて、言った。
「あなたは、自分が何も持っていないと思っていらっしゃる。何もかも捨てたと。でも、もしかしたら、まだ拾えるなにかがあったりするかもしれない。そういう小さなことでさえ、望む価値はないとでも?」
「…………」
 再び口を閉ざした彼に、塚地はゆっくりとうなずき掛ける。
「確かめてもらえませんか、あなたの目で。望みがないものかどうか、たとえわずかな希望でも彼女にあげてもらえませんか」
 彼はまだ、迷ったように視線を泳がせていた。
 塚地は目で訴えようとした。
 自分は様々な人の思いを背負っている。
 だから今、目の前に立つこの男を、何としてでも頷かせねばならなかった。それこそが皆の願いなのだから。
 その時、瞳が真っ直ぐ前を向き、男は毅然とした顔を見せた。塚地に向き直り、顔に満ちた決意のままに彼は口を開いた。
「……僅かの望みを形にできるかどうかはわかりません。ですが、その可能性が少しでもあるというなら、出ていった方がいいんでしょうね。わたしもまた、手探りしながら生きていますから、その人の気持ちが分からないでもない」
「行ってもらえるんですか、あの人のところへ?」
 急いた塚地の問に、わずかな躊躇いの間を置いた後、
「そうですね」
 彼はしっかり答えた。
 塚地の口から、安堵の吐息が漏れた。
 肩の荷が下りた気がする。
 深瀬かすみの願いは叶う。残された唯一の、ずっと求め続けていた希望。それが手に入る。
「――後のことはあなたに委ねます。でも私は、信じています」
 彼は一つ頭を下げると、歩み始めた。太い楔のような背中が上下しながら、どんどん遠ざかっていく。
 朝霧の中に、後ろ姿が紛れるのは早かった。
 彼は言葉どおり、かすみの元へと足を運んでくれるだろうか。虚しい日々に蹴りをつけてくれるのだろうか。
 自分としては精一杯のことをしたつもりだ。あの男が、代わり映えのしない暮らしをいつまでも続けてくとは思いにくい。希望を掴んだ人間というのは、新しさを求めるからだ。
 深い霧が曙光を受け容れて少しずつ晴れてきた。
 あと三十分だ。
 三十分もしないうちに、すべては晴れ、黄色い陽光の下でいつもの日常が始まる。
 この暗いような、鬱屈した世界が綺麗に明ける――。                            
 
                            (了)

真実の鍵

真実の鍵

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-10

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