蟲と義兄
イチモンジカメノコハムシ、という蟲が、義兄の額にある半球体のアクリルケースの中に住んでいるのでした。
ぼくといえば、足のいっぱいある生き物や、妙に光沢のある生き物や、目鼻がどこにあるかわからないような生き物が苦手なものですから、義兄の額に住んでいるその蟲がちらりと視界に入るのも勘弁ということで、義兄の顔を見ないように毎日を暮らしているのでした。
ある雨の日のことでしたか、義兄が学校の理科室で本を読んでいる姿を目撃しました。
義兄は、ぼくの一つ上の学年に在籍しているのですが、おなじ名字でありながら当然、顔立ちはまるで似ていないために、ぼくたちが家族であることを知っている人間は学校の教師くらいしかいないのでした。
ぼくは、義兄の額にいるイチモンジカメノコハムシのことが嫌いなのであって、義兄はどちらかといえば好きな人間の部類なのでした。例えば義兄が理科室でひとり、本を読んでいる姿はまるで一枚の絵のようなのでした。ドアにある小窓の枠が、額縁になぞらえるには味気ないほど質朴ではありますが、二次元のキャラクターみたいに整った容姿の義兄にはそれすらも関係ないのでした。
一見して義兄は、人形のようにも見える。
息をしているはずなのに、息をしていないのではと思うほど、静かである。
血が通っていないのではと疑うほど肌は青白く、目鼻口は作り物のように美しく配置されている。
半球体のアクリルケースに関しては、見える人にしか見えず、見えない人には見えないのでした。
つまり、ぼくは見える人間で、また義父も見える人間で、母は見えない人間で、この学校にいる大半は見えない人間なのですが、見えたとしてもあれは夢だと、まぼろしだと、目が疲れているのだと言って、義兄の額のそれをなかったことにする人間しか存在しないのでした。
かわいそうに、と、義父は嘆く。
かわいそうに、と、ぼくも思う。
けれど、ぼくのかわいそうと、義父のかわいそうは、異なるものです。
早くイチモンジカメノコハムシがいなくならないかなと思うときがありますが、イチモンジカメノコハムシがいなくなったとき、もしかしたら義兄もいなくなるのではないかという考えが、ぼくの頭にはあるのですが、どうなのでしょうか。誰に訊いたら答えてくれるのでしょうか。義兄か、それとも決して広くはない半球体のアクリルケースの中で、手足をもそもそと動かしているだろうイチモンジカメノコハムシにか。
蟲と義兄