サイコパスの慟哭  ~サイコロ課、鼓吹~

序章

 サイコパス。
 この言葉を目にして、或いは耳にして、どのような光景や人物像を思い浮かべるだろう。
 殺人、犯罪者、反社会的行動。そういった概念が一般的かもしれない。
 
 ご存じだろうか。
 サイコパス達は、現在も普通に、元気に暮らしている。
 そう、殆どが。
 彼らは決して反社会的でもなく、犯罪者になり得るような人間ではない。ただ少しだけ、通常の人間と違う心理をその片隅に宿すのみである。
 心理学的に、ある意味において共通したサイコパスの定義がある。

「良心の欠如、他者に対する思いやりの欠如、他者を平然と見下す心。冷淡な心の持ち主にして、平然とつく嘘。その嘘は慢性化し、罪悪感も後悔の念も皆無。自尊心が過大で自己中心的、自分勝手に欲しいものを奪い、好きに振舞う、無慈悲でエゴな人間」

 ところが現実はどうか。
 一見では到底判り得ないのが通常で、一人きりでいる無口な人間でもなく、常常周囲から疎まれるような行動をとることもない。極々一般的な、ありふれた人間像。一般社会に溶け込んでいるかのように見える彼らは、口達者で表面的にはとても魅力的なのだという。
 普段はきさくで明るい人。それが多くのサイコパスに共通する外見である。
 そう。あなたの隣で、あなたの向かいで、明るく笑う。その人こそが、本当はサイコパスかもしれないのだ。

 もしかしたら、あなたの隣にも、サイコパスがいるかもしれない。
 


 警察庁刑事局特殊犯罪対策部サイコロジー捜査研究課。
 サイコパスの犯罪を心理学的観点から検証し、警視庁及び各道府県と情報を共有、日本の警察機構が未だ成し得ていない反社会的行動=サイコパス犯罪を未然に防ぐ手法を確立することを目的として設置された部署である。
 物的証拠を収集し犯人検挙に奔走するのが捜査一課や鑑識課、科学捜査研究所であるとするならば、サイコロジー捜査研究課は物的証拠の無い事件で、事件前から事件後に及ぶ犯人の心理プロファイルを取り纏め、捜査本部に情報提供する。
 その他、未解決事件における犯罪者の心に潜む行動心理から事件にアプローチし、同一犯罪の起こり得る可能性を見極め、連続した事件に発展するのを防止する。いわば、表に出る捜査部隊がハードとするならば、サイコロジー捜査研究課はソフト。お互いが背中合わせとなり、科学捜査の一助を担う存在とも言えよう。

 犯罪心理、行動心理、認知心理、児童心理、発達心理、臨床心理、等々。課の全員が、入庁前から何らかの形で心理学に携わり、入庁後も心理学的観点から各地で事件解決に尽力した精鋭たちだ。
 精鋭というインテリジェンスを感じさせずにはいられない扇情的アピール。外国映画の日本バージョンを彷彿とさせるキャッチコピー。日本人が不得手とされる横文字を効果的に使用したセンセーショナルな触れ込みにより、5年前に開設された部署である。

第1章  季節は春

 春。人事異動の季節。
 サイコロ課に、3年間の育児休暇を取得、休暇終了した弥皇が戻ってきた。麻田はまだサイコロ課にいる。ということは、夫婦で同じ部署に勤務していることになる。
 夫婦で同じ職場するなど、警察内全般を見ても通常では有り得ない人事だが、所属県警が要らないと強硬に主張する弥皇の戻る先は、サイコロ課しかないのである。
 麻田と弥皇の子ども、オチビ1,2、もとい、聖と理は3歳になった。

 市毛課長は定年で警察庁を退職した。警察の仕事に、何も悔いは残らなかったのだろう。本庁の課長職で退職したにも関わらず、何故か市毛は地位の高い職員が就く第2の職場(=天下り)を数件紹介された。
 だが、市毛はそれらを全て断った。奥方も、警察関係からの退職を、手放しで喜んでくれたらしい。
 最後に勤めたのがサイコロ課で良かったと、市毛は最後の挨拶で笑いながら楽しそうに語った。 
 これからは、奥方と一緒に、オチビの保護者として毎日弥皇たちのマンションに通うことを決めたのだという。

 そして、花束のひとつも受け取らず、警察庁を後にしたのだった。

 残された課員は、とんでもないことだと驚いた。
 地位より、金より、心が満たされていれば幸せな生き方もあるのだと。
 

 和田透、(わだとおる)、32歳。
 自他ともに認める北国のシャーロキアン。独身。
 北の地にある警察本部から配属された。郷土を愛する純朴な青年である。一応、犯罪心理が専門だ。
 くるくると動く大きな目が、まるでアイドルを思わせる愛嬌たっぷりの顔。
 出身地が東北北海道方面であるにも拘らず、綺麗な標準語を話す。本人曰く地元から出たことはないそうだが。
 この顔で、必殺技を繰り出す和田。嫌味の無い顔で聞き込み等を得意とし、次々と情報を収集するのである。情報のソースはバラバラだが、殆どが同じ見解を述べることから、その精度は高い。
 情報屋としての資質は、東北は緑川事件にて花開いたと言っても過言ではない。
 本人曰く、開眼したのだという。

 和田は、自他共に認めるシャーロキアン。小学生の時に読んだ子供向けのシリーズ本を読み終えた直後、身体に電流が走ったらしい。余程感化されたのであろう、小学生の間にシリーズ全巻を読破、大人用の文庫本が彼の宝となった。
 日本国内のシャーロキアン親睦団体にも入会し、かの大物作家が作り出したこの世で最も偉大な探偵、シャーロック・ホームズを人類のカリスマと呼ぶ熱狂的ともいうべきシャーロキアンだ。
 彼にとって聖典とも呼べる大人向けシリーズ本を片時も手放すことが無く、サイコロ課の机の引き出しには文庫本が並ぶ。まあ、自宅アパートに置ききれなくなったのだという噂もあるが。
 和田の場合、他のシャーロキアンと比べ、研究テーマが犯罪者心理に著しく傾倒しており、特にホームズ最大の宿敵であるモリアーティ教授の心理を様々な面から明かすべく、己が道を研鑽する日々を送っている。


 サイコロ課紅一点、麻田茉莉(あさだまつり)。45歳。
 麻田は北関東からの出向組である。T大を出た才女で、しなやかでサラサラの髪が印象的なアラフォーのお一人様だった。が、弥皇に惚れられ、現在は弥皇のパートナーを自認する。双子の愛息子、オチビ1,2の母でもある。
 メガネを掛けているので目立たないが、すっと流れていく大き目の二重瞼は少しだけ垂れ目気味で可愛らしささえ感じさせる。本人がアイラインを釣り目気味に引いているところをみると、垂れ目を隠したいと見える。鼻筋やあごのラインも丸みが無くすっきりとしており、お公家の姫君というよりは、洋風ドールといった風情を醸し出す姿は、アラフィフになっても変わらない。
 そんな麻田女史だが、今も昔も「お一人様」などと麻田の前で言ったが最後、その人間は自ずから身の破滅を招く。麻田お得意の投げ技を掛けられ瞬殺されるという専らの噂だ。 
 結婚したはずなのに「お一人様」のフレーズに自然と身体が反応するらしい。
 事実、柔道における警察官全国大会での成績などを勘案すれば、かなりの腕前を持つ。下手な男性警察官では及ばないと皆が口を揃えるほどだ。射撃や剣道、体術などにも優れた強者の中の強者である。


 弥皇南矢(みかみあけただ)、43歳。
 児童心理や発達心理を専門にする。K大出身。
 関西方面の県警から此処に来た。弥皇の両親は関東圏住まいだが、一族の本拠地は近畿地方にあるという。普段弥皇は関西弁を話すことはないが、一族との会話時のみ、関西弁を話す。
 ワインと一人旅を愛する、孤独と言えば孤独、自由と言えば自由な生活を満喫していたものの、縁あって今は麻田のパートナー。愛息子のために3年間の育児休暇を取得していたが、休暇を満了し、この春の異動でサイコロ課に戻された。出世欲は皆無。
 一見、ナルシストな気障男。
 奥一重の瞼は切れ長。
 睫毛がとても長く、ある種女性的な風貌を感じさせるも、奥に見える眼差しは深く、何を考えているか周囲にも悟らせないような雰囲気を持つ。少し鷲鼻気味の鼻がお気に召さないらしく、いつも鏡を見ては溜息を吐く。唇は薄く、情が薄いと言う諺が当てはまりそうな顔立ち。
 それでいて、女性にはとても優しいフェミニストの一面も見せる。言葉遣い、身のこなし、洗練されたエスコート。まあ、本人にとってナルシストもフェミニストも、その自覚は一切無いようだが。麻田のパートナーになってからは、紛らわしい行動は一切していない。麻田が怖いのか、麻田に嫌われるのが怖いのかは、未だもって謎の範疇だ。
 謎といえば、時折噂が立つのだが、どうやら弥皇は大金持ちの一族の末裔らしい。


 須藤毅(すどうたけし)、45歳。独身。
 某関東県警特殊部隊からの派遣組。出身は北関東で、麻田とは大学の同期で旧知の間柄。
 かつては警視庁SATの凄腕のスナイパー。がっしりとした筋肉が身体を纏い、髪を刈り上げた風貌が一層鬼面を思わせている。目の奥には炎を宿し、意志の強さが垣間見える。
 須藤はスナイパーとして活躍する前、丸暴にもいたことがある。スナイパーに異動してからも暴力団との抗争時には顔を出していたが、あるとき暴力団同士の抗争現場に駆け付けた際、脚を撃たれスナイパーとしての仕事を熟せなくなった。
 表向きは、スナイパーとして使い物にならない上に脚を引き摺っていたのでは丸暴としても威厳を保てないため、サイコロ課に飛ばされたという次第だ。
 だが実際は、怪我を機にアメリカに渡り脚をオペするとともに、FBIで行動心理や犯罪心理を習得し、ついでにプロファイル術を会得した秘密の経緯を持つ。
 現場の勘も十分にあり、頼れる一人。
 20年来、麻田に恋してるという噂も耳にするが、その真偽は明らかになっていない。


 神崎純一(かんざきじゅんいち)、31歳。独身。
 警察庁の科警研出身。IT等にも詳しい。外にも科学系統全般担当。出身はT大。都内の高級住宅街が実家。
 交際していた女性警察官を母が見下したことでその女性と破局したが、女性が知り合いの男性警察官と交際、結婚したことが神崎の逆鱗に触れ、神崎は女性にあらゆる嫌がらせを行ったため科警研からサイコロ課へと飛ばされた。サイバーテロ犯と間違えられたという過去も併せ持つ。
 サイコロ課に来てからは、何かと神崎の生活に口を挟む両親と仲が悪くなり、家を出る決心をした。現在は弥皇が元居たマンションを借り上げ、お一人様を貫いている。
 現在、サイコロ課においては、データ入力を担当。
 二重瞼の大きな目。その眼差しは優しげで、和田に比べ大人の男を思わせる。和田の方が年上なのだが。少し癖のある髪を触る癖がある。痩せて見えるが、脱ぐとすごいのよっ!という長身及び均整のとれた肢体と、プロ並みの射撃術を持つ。しかしそのことは誰にも話していない。
 一見、チャラ男にも通じる笑顔を周囲に振り撒くが、目の奥には鋭いものがあり、チャラい行動は演技だということがわかる。どこか不思議な雰囲気を持つイケメン。
 シャーロキアンの和田同様、ホームズ関係の小説はすべて読破しているが、外向けには一切内緒にしている。神崎の場合、ホームズの宿敵モリアーティに何処までも心酔している。
 そのためか、辛辣な正義を翳す亡者になりつつあるのが現状。

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 これまで、色々なサイコパスがサイコロ課のデータベースに飛び込んできた。東北での緑川事件、サイコロ課内に配属された清野事件。スパイ疑惑に湧いた牧田事件。そのいずれもが錚々たるサイコパスとしての了見を持ち、サイコロ課の前に立ち塞がった。
 サイコロ課では、麻田、弥皇、和田の3人が東北に旅立ち、悪戦苦闘の末に緑川を逮捕するに扱ぎ付けた。また4年前にサイコロ課にいた清野は、神崎を顎で使い弥皇と麻田の中を裂こうとしたが失敗し、反対に、これまた4年前にサイコロ課にいた牧田に騙される形で警察を追われたのち、外国部隊のスナイパーに射殺された。

 しかし、それらを上回るサイコパスが、今もサイコロ課の中に潜んでいた。
 科警研からの派遣組、神崎純一だった。

 親友の死に慟哭する神崎は、初め、組織と対峙する決心をした。忸怩たる死に対する執念だったのかもしれない。
 やがて神崎は、親友の死を名目上の理由として、己をシャーロックホームズシリーズのホームズの最大の好敵手、大学教授のモリアーティに擬え、自分は捕まらないよう部下に作戦だけを言い渡し、事件を誘発させていった。
 神崎は、勘の良い市毛課長と弥皇辺りが真実に辿り着いているのではないかと危惧していたが、どうやらそのような素振りもない。それでも神崎は、弥皇と市毛に対する警戒感を解いてはいなかった。
 本物のモリアーティなら、このとき何を心に思ったのだろう。自分の罪を詳らかにされそうになって焦るのだろうか、それともその場を巧みに切り抜けるのだろうか。

 市毛が退職したのは、神崎にとってこの上なく好都合な材料だった。
 神崎は、ソウルメイトと称した部下の代わりを見つけようとしていた。


 それは、小さな頃から傷害事件や窃盗、スリを繰り返し、少年鑑別所を皮切りに、この3月末に府中刑務所を出所したばかりの双子の姉妹である。双子は家出を繰り返し、中学時代から都内に住む親とは疎遠になっていた。
 出所しても行くあてが無く、公園で寝泊まりするホームレスと成り果て、再び窃盗やスリを働きながら生活をしていたある夜、複数の男性に襲われているところに神崎が出くわしたのであった。
 勿論、神崎が麻田ばりの闘魂で男たちを撃退したことに間違いはない。最初、神崎は、たまたま夜に公園にいた女性が襲われたものだとばかり思っていた。
「君たち、怪我はないか」
 ところが神崎は、双子の目を見た瞬間、自分と同じ血が流れていることを嗅ぎ取った。
「もしかしたら、此処で寝泊まりしていたのか」
 同じ顔をした女性の片方が、まるで男のような言葉遣いで応じてきた。
「悪いか」
「別に」
「あたしらを捕まえにきたのか」
「なるほど。捕まるような生活、してるわけだ」
「ふん」
「さ、ここは危ないから僕の家に行こう」
「お前の家?」
「他に行くとこ無いだろうが」
「ふん」
 そうはいいつつも、神崎が歩き出すと、双子は揃って神崎の後をついて来た。助けてもらったのが嬉しかったのか、外で寝泊まりすることが怖くなったのかは、わからない。
 神崎は双子を自分のマンションに連れ帰った。その晩は3人で雑魚寝した。
「今日は床で寝てくれ。明日になったら住む家、探すぞ」
「わかったよ。五月蝿いジジイだ」
「言いたい放題だな、恩人に対して」
「誰が恩人だよ」
「いいからもう寝ろ」

 次の朝、神崎はいつもより早く起きた。平日ではあったが、スーツではなくジーンズにシャツという、ラフな格好をする。双子はまだ寝ていた。よく見ると、毎日同じ服を着ていたのだろう。洋服がシワシワになり煤けていた。破けている箇所も複数見受けられた。

 神崎は、スマホを取り出してサイコロ課に電話する。
「あ、和田くん?ごめん、今日から3日間、年休。よろしくね」
「了解です。具合悪いわけじゃないですよね」
「野暮用」
「はあ?」
「だから。や、ぼ、よ、う」
「わかりました。ずる休みね」
「そう」
 
 電話を切って、双子を起こす。
「おい、起きろ。起きてシャワー浴びてくれ」
 双子は、床とはいえ、寒い夜を過ごすよりも余程寝易かったのだろう。なかなか目を覚ましてくれなかった。
「起きてシャワー浴びろ。タオルはバスルームに置いておく。今日は最初に洋服買って、それからアパート探しに行く」
 その言葉を夢現で聞いていたのか、やっと双子の片方が起き上がる。
「ん?洋服?アパート?」
 そして、もう片方にデコピンする。
「おい、起きな。こいつが洋服買ってくれるってさ」
「なんだよ、もう少し寝かせてくれえ。何?洋服?こりゃまたご親切な」
 神崎は、早くしろと言わんばかりに自分のシャツとパンツを二人分用意する。
「ほら、シャワー終わったら、これ着てくれ。丈が長い分には捲れ」
 双子のシンクロした声が響く。
「へいへい」
 
 シャワーを浴びて出てきた双子姉妹は、本当にそっくりだった。大きな二重瞼はシャープに流れ、品よくまとまった鼻や唇のパーツ。
それらは、驚くことに、どれもが神崎と酷似している。そして、女性にしては背が高い。神崎は180cmほどだが、双子は170cmほど。胸も小さく、男性と言っても信じてもらえるだろう。これはアリバイ作りに功を奏するに違いない。
 そっくりな双子は、神崎も見分け方がわからない。まして、名前でもなければ呼ぶ時に困る。
「君ら、名前は?」
「ないよ」
「ないことはないだろう。ま、いいや。幸(ゆき)と咲(さき)でどうだ」
「いいよ」
「どっちが幸か咲か決めてくれ。そんでもって、見分け方も教えてくれよ」
 双子たちは悩んでいたが、直ぐに話は纏まったようだった。
「右の耳たぶに傷があるのが幸で、首の中間に黒子があるのが咲」

 神崎は3人分の珈琲を淹れていた。今日は機嫌が良いのでインスタントは淹れない。
 お湯を沸かし、陶器製のドリッパーをサーバーの上に乗せ、木製のロシラックから珈琲フィルターを一枚取りドリッパーにセットする。
 そしてお湯が沸くと、口部分の狭い珈琲用ドリップポットにお湯を移し替え、フィルターにもお湯を馴染ませる。
 お湯を沸かしている間に、珈琲豆を丁寧に挽いて豆をフィルターに移し、ドリップポットを上下に動かし少しずつお湯を足し、フィルターに入った豆を蒸らしていく。十分蒸れた豆に、円を描くようにポットを動かしながらサーバーに珈琲が溜まっていく。
 3人分のマグカップを用意し湯で温め、サーバーからマグカップにコーヒーを移した。
「ほら、どうぞ」

 そう言いながら、神崎は大事なことに気が付いた。この女性たちがもしも未成年だったら、自分は未成年誘拐犯になり得るリスクを負う。早くアパートを探さねば。
「君ら、歳はいくつだ」
「20歳。大丈夫だよ、誘拐犯にはならないから」
 胸を撫で下ろす神崎。
「それならいい。さ、行こう」

 3人は、店舗が開く時間に合わせ家を出た。ファストフード店で朝食を摂る。双子は男性物の衣服を一捲り二捲り、ルーズに捲るのがとても似合っている。
 午前中、双子に必要最低限の下着や洋服を買い与えた。双子は袋を両手に持って歩く。その足で神崎たちは神崎が住むマンション近くにあるアパートを中心に探す。何かあっても神崎の目が届くように。
 不動産屋に顔を出したり、スマホで空きのある部屋を物色し不動産屋に連絡したりと、神崎は忙しく動いていた。双子が後をついて歩く。
 
 午前中は、いい物件が見つからなかった。神崎のマンションに戻り洋服などの荷物を置き、昼食を食べてから女性用の洋服に着替える予定だったが、二人が男性物の衣服を至極気に入ったため、洋服は着替えさせるのを止めた。

 引き続き、午後もアパートを探す。この際、築年数は二の次だ。午後は不動産屋に寄る前に、神崎のマンション近くを歩いてみる。住まい探しは、周辺施設も含め住みたい地域を回るのが手っ取り早い方法だ。
 神崎のマンションから歩いて10分くらいの場所に、築40年ほどの木造アパートが見つかった。ちょうど、警察庁と神崎のマンションの間にある。すぐにスマホをポケットから取り出し、不動産屋の電話番号を押す。近くで商いしていた不動産屋に直行した。1階部分で1K4.5畳の物件は、家賃も3万弱と手頃だった。
「ここでいいか」
 幸が、けだるそうに答える。
「あたしらはいいけど」
 咲は、金は誰が払うのだと言いたげに口をモゴモゴしている。神崎はにっこりと笑った。
「心配いらない、僕が契約主になるから」
 不動産屋の爺さんが、メガネをズリ下げながら3人の関係性を問うてくる。
「従姉妹ですよ。此処が気に入ったから手続きを進めたいと思いますが、如何でしょう」
「保証人は?」
「保証人?」
 神崎は咄嗟に言葉が頭に浮かばなかった。そうだ、物件の賃貸には保証人が要る。自分がマンションを探している時もそれで苦労した。神崎のマンションは、たまたま弥皇が借りていたところを譲ってもらい保証人も弥皇にお願いしていた。
 この双子をアパートに住まわせるには、信頼のおける人物がいない。また弥皇に依頼しようか、だが従姉妹だと紹介すれば、どうしても弥皇と麻田に二人の存在が知れることになる。

 神崎は、双子のことを警察関係者には知られたくなかった。

「保証人がいないと借りられませんか」
「保証会社で代行してくれる物件だな。その代り、初回保証料として月額総賃料の50%、月額保証料として総賃料の2%払ってもらうよ」
「それで構いません」
「なら、この契約書に書いてくんな。保証会社用の書類や、火災保険用の書類、居住人の名簿もだ」
「はい」

 神崎は、すらすらと記入していく。居住用書類に書く双子の名字は、面倒なので適当に鈴木と記入する。鈴木や佐藤は、全国的にも住民が多いとされる。何かあっても、この二人に辿り着くのは時間が掛かるだろう。

 その日も3人は神崎のマンションで雑魚寝し、翌日、入居に際して必要な寝具や洗面道具などを揃えた。
「さあ、これで完了」
「あんがとよ、おっさん」
「建前は従姉妹なんだから、おっさんはおかしいだろ」
「おっさんだろうが」
「ああ、もういい。なんでもいい」
「ふん」
「ところでお前たち、何で公園にいた。行く当てなかったのか」
 幸がニヤリと笑う。
「刑務所にいたからね」
「どこの」
「府中」
「そうか」
「驚かないの」
「一々驚いてられるか」

 この二人は手下として使えそうだ。下手なことを言って逃げられると、それはそれでよろしくない。神崎は一瞬で二人が悪の道を好きで歩いていることを感じ取った。それならば、自分が警察関係者だということを、今は隠しておく方が得策だ。

 次の日、双子と別行動をとった神崎は、府中刑務所に赴いた。双子の本名を知るためである。
「面会に来たのですが。二十歳くらいの双子の姉妹です」
 職員が、受刑者の名簿を取りに事務室へと消える。そうして10分ほど待ったろうか。職員は厚みのある名簿らしき冊子を手に戻ってきた。
「受刑者の名前は」
「本人たちが名乗らなかったのでわかりません。以前ホームレスをしていた時期に面倒を見ていたのですが、名乗ってくれなくて。突然姿を消したので探していました。どうやらこちらに収監されたと聞き、伺った次第です」
「双子の姉妹、ねえ。ああ、鈴本美幸と美咲か。あいつらなら、もう出所した」
 神崎は、非常に驚いたという表情で職員をみつめた。
「えっ、出所したのですか。どこに行ったか分りませんか」
 職員がせせら笑う。
「分るわけがないだろう」
 項垂れたように下を向く神崎。その眼には何とも形容のし難い笑みが宿っている。
「そうですか。お手数おかけしました」

 刑務所から外に出た神崎は、思わず笑いが込み上げてきた。人目を憚らず、右手を口に当てくっくっく、と声を出して笑う。
 だから双子は何も言葉を発しなかったわけだ。神崎が付けた名前と本名が余りに似ていたので驚いたのかもしれない。

 夏休みには、海外渡航し色々と教えたいことがある。
 しかし、パスポートを取得するためには、戸籍謄本が必要になる。海外に行くために戸籍謄本を取るべきか否か、神崎は迷っていた。パスポートを取得し海外に渡航すれば、少なくとも双子の行動が詳らかになる。場合によっては、自分と双子との関係性も明らかになってしまうだろう。
 
 そうなるよりは、射撃であれば、国内の射撃場に行くのがベストかもしれない。ここはリスクを防ぐか。
 そんなことを考えながら、夕方、神崎は双子のアパートに立ち寄った。二人はインスタントラーメンをすすっていた。
 神崎は財布から1万円札を1枚出す。そして、幸に渡した。
「今週分の小遣い、置いて行く。大事に使えよ」
「ほいよ」
「1万だけか」
「俺の給料じゃ週に1万が限度だ」
「おっさん、貧乏だな」
「ほっとけ」


 神崎はこうして双子に住まいを提供し、小遣いを与え、二人の行動を制限するでなく、その後の様子を見た。
 双子は特に神崎を気にする素振りも無く、パチンコ屋に出入りしているようだった。此処に住む限り、窃盗やスリはするなと教えてある。
 神崎のことは、金蔓か足長おじさんとでも思っていたのかどうか、それは二人に聞いてみないとわからない。
 それでも神崎は、双子を気に入った。
 ぱっと見た瞬間に、射撃の巧い女だと確信した。射撃の訓練をさせれば、立派なスナイパーとして使えるはず。
 前回のソウルメイトは、自分との繋がりがネットだけで顔を晒すことはなかったから、神崎に捜査の手が及ぶ心配は殆どなかった。その代り、忠実に計画を進行しないアクシデントにも見舞われた。
 今回のようなシチュエーションは考えもしなかったが、犬のように尻尾を振って命令に忠実であれば、それでいい。

 神崎は、夜になると不敵な笑みを浮かべ、ワインを片手に計画を練りながら過ごしていた。

第2章  春は桜

 市毛課長の後任には、警察庁刑事局特別犯罪対策部犯罪収益移転防止対策室から、これまた変人と名高い反摩佳南(そりまよしみ)が着任した。皆、別の意味で戦々恐々である。
 和田や神崎は、早速反摩の噂を収集しに警察庁の何処かへ消えていく。
 だが、変人と呼ばれる所以は皆目見当がつかない。誰に聞いても変人であり、隠されたサブネームは「ほんまかいな」なのだが、どこがどのように変人なのかを聞いても、和田や神崎の問いに答えられる職員はいなかった。

 サイコロ課に赴任した反摩。見かけだけではその変人ぶりは判別できない。少なくとも、サイコロ課メンバーには。
 何故ならば、イタリアのオヤジ程度にお洒落に気を遣っている。誰が見てもわかるブランド物のスーツに身を包み、少しだけ癖のある栗色の髪と大きく二重の瞼、すっと通った鼻筋、口角が少しだけ上がった口元は、まるで俳優のように端整。
 若い頃はどれだけモテたのだろうと想像せずにはいられない。それとも若い頃から変人で、モテる機会もなかったのだろうか。それでサイコロ課勤務ではあまりに人生、可哀想すぎる。
 可哀想な人生を背負っているのだとすれば、何をどう話していいのかわからない。そんなことも手伝って、誰も反摩課長に話しかけようとしなかった。

 変人だらけのサイコロ課の中で、麻田が一番脳天気かもしれない。
「反摩課長、わたくし麻田と申します。ところで、課長は元々警察庁の出身なんですか」
「麻田さん、ね。よろしく。僕の素性は皆に知れてるだろうから割愛」
「課長、答えになってないんですけど」
「そこの若者約2名が必死になって僕の素性調べたでしょ」
 和田と神崎は顔を引き攣らせ、素直に焦る。和田が言い訳にならない言い訳をした。
「いえ、課長。僕たちは、その、課長のことは何もわからなかったです」
 神崎は率直に言い訳した。
「僕も色々聞いてみたんですが、課長のサブネームくらいしかわかりませんでした」
 課長がニヤリと口元を上げて神崎の方に向き直る。
「で、なんだって?サブネームとやらは」
「ほんまかいな、でした。でも意味がわからなくて」
「そうだね、僕自身何故そう呼ばれるのかわからないから」
「はあ」
「あと、誰か質問ある?」
 メンバーは沈黙を貫いている。
「じゃ、あとは仕舞いね。あ、今日からもう一人追加されるから」
 弥皇がくすっ、と笑った。
「追加ですか」
「そ、追加」
「脳ミソ見ることのできる機械でも来るんですか」
「機械じゃないけど。ま、似たようなものかな」


 そこで突然、ドアをドンドンと叩く音がする。メンバーは驚いて各々がピョンと飛び跳ねる。
「おはようございます」
 太く低い声。
 男性?
 いや、その容貌をさらりと見た限りでは女性のようだ。
 反摩課長が女性をサイコロ課のメンバーに紹介した。
「こちら、美馬メンタルクリニックにお勤めの、あれ、名前なんだっけ?」
「八朔です」
「そうだ、八朔さん」

 また弥皇が口を出す。
「課長、きちんと八朔さんのご紹介をお願いします」
「うーん、面倒だな。八朔さん、自己紹介する?」
「遠慮します」
 課長は皆の方に振り返る。
「遠慮するって」

 メンバー全員、頭が痛いとばかりに、皆、こめかみを押さえる。もっと驚いたのは、八朔とやらが、そのままドアを開けて出ていってしまったことだった。
 雀たちのバラバラトーク、開始。
「何のために来たんだろう」
「挨拶」
「脳ミソ見る人間って何なのよ」
「いや、実は機械かも。見た目が人間なだけで」
「そうに違いない」
「あんたたち、まともに話しなさいよ」
「麻田さんだって、開いた口が塞がらないって顔してますよ」
「そうだ。麻田、お前も声は低いが、八朔さんとやらには負けたな」
「勝ちたくないわい」
「ところで、八朔って名字、珍しくありませんか」
「弥皇とどっこいどっこいだろ」
「前には緑川に“みなみ”って言われましたしね」
「言うな。あれは僕の中で終わったことだ」
「まるでお付き合いしてたみたいな言い方ですね。緑川って、あの緑川でしょ」
「神崎。口、縫うよ」
「麻田さん、相変わらず口悪い」

 新規に課長が赴任したばかりだというのに、あざとい話に終始する雀たち。と、須藤が反摩課長を見やると、何と課長はどっしりと背もたれに身体を預け、すやすやと寝ていた。狸寝入りかと鼻をつまんでみるが、目を覚ます様子もない。
「おい、寝てるぞ、課長」
「眠り王子なのよ、きっと」
「誰か口づけしてやれ。起きるぞ」
「気持ち悪いこと言わないでください」
「スーちゃん。それ、セクハラよ」
「麻田に向かって言ってないだろうが」
「あたしが気持ち悪かったらセクハラなのよ、知らないの?」
「知らねえ」
「まったく。心理ヲタクが減ったと思ったら、変人は勢いよく増えてるじゃないの、サイコロ課は」
「麻田さん。僕の方見て言わないでくださいよ。仮にもパートナーでしょ」
「そういやあ、お前ら、よく夫婦でサイコロ課に居られるな。普通、無理だろ」
「人事が決めたことだから」
「そ、人事が決めたこと」
 須藤が腹を抱えて笑い出した。つられて、和田と神崎も笑い出す。
「お前らの場合、所属県警が嫌がったんだろ」
「知らないわよ、そんなこと」
「僕は何処でも良かったんですがね」
「ま、麻田は向こうに行けば藤木がいるしな」
「誰ですか、藤木って。あ、あれか」
「和田。要らぬ詮索しないの。寝技で昇天させるよ」
「遠慮します」
「麻田さん、所属県警の話になると顔色変わりますよね」
「神崎、今の話聞かなかったの?あんたも昇天したい?」
「結構です」

 麻田は何か話題を変えたがっているように見える。
 勿論、課長を除いて全員、その理由はわかっていた。麻田が若かりし頃、藤木という男性と不倫状態にあったことを。一昨年前まで、それは麻田の心に重石となってのしかかっていた。ところが、誰かの不謹慎極まりない悪戯で、警察という警察にその過去がリークされたことで、麻田は記憶を失くす事態にまで発展したのだった。
 弥皇の献身的な愛が、夢の中に隠れてしまった麻田を救い、今、麻田と弥皇はハッピーライフを謳歌しているというわけである。

 話題を変えることに必死な麻田が大きな声をだした。
「ねえ、あの八朔さんて、何しに来るの?美馬メンタルクリニックって結構有名処よね。精神科の先生は一人なのに、患者が1日100人以上来るっていうじゃない」
 机に肘をついて両掌を組み合わせている須藤曰く。
「カウンセラーも多い」
 和田もくりくりお目目で口を挟む。
「受付の人が変わらない」
 弥皇がニヤリと口元をアヒルのように上げる。
「その心は?」
 神崎が皆を制するように立ち上がって両手を広げ、僕が喋るとアピールする。
「先生や病院の雰囲気が良い」
 須藤が強面の顔を少しだけ崩した。
「へえ、そうなのか」
「まさか受付の人じゃないでしょうから、彼女はカウンセラーかしらね」
「そうなりますね」
「カウンセラーとサイコロ課がどう繋がるんだ」
「ま、用があればまた来るでしょ」
「じゃあ、今日のデータ入力始めますね」

 相も変わらず、奇人変人の集まり、サイコロ課。今年の転入組も、一癖二癖ありそうだ。

**********

 さて。
 こちら、サイコロ課で挨拶だけ済ませ、外へ出た八朔とやら。
 彼女の本職は、心理カウンセラーである。
 反摩課長が紹介したとおり、美馬メンタルクリニックに勤めている。それも、内勤の他に、インターネットを駆使し、精神科患者のメンタル相談に乗っているという強者だ。
 何故、彼女がサイコロ課に顔を出したのか。
 それはこの春の人事異動に関係する。

 八朔は、非常勤職員として、警察から所属病院を通してオファーを受けた。事件さえ勃発しなければ、週に一度の非常勤職員勤務となる。何かしらサイコパスに関連した事件が起こった時だけ、続けざまにサイコロ課に顔を出すという仕組みが調った。


 八朔蜜柑こと、本名、八月一日薫子(ほずみ かおるこ)。現在26歳。
 近眼でメガネを掛けている蜜柑。麻田に比べ、度数は強い。黒く太い縮毛気味の髪を後ろで束ね、円らな瞳をメガネで覆う。眉や唇など、パーツパーツの目立つ顔。お世辞にも顔立ちが整っているとは言い難いが、やや愛嬌のある顔、と見て取れる。ふっくらしていて、いつもデニムのワンピースを着ている。

 蜜柑が心理カウンセラーになって早や4年。
 さる精神科医の下でお世話になっている若輩者の蜜柑。クリニックではいつも白衣を身に纏う。其処は有名なメンタルクリニックだけあって、患者の数は引きも切らない。
 メンタルクリニック院長の美馬剛士は、蜜柑の父母が精神を病んだ時、母が世話になった人物である。その父母は、美馬院長の必死の助言にも関わらず、自爆事故でこの世を去った。蜜柑が高校1年の冬だった。
 それ以来、美馬院長は蜜柑の保護者となり、陰に日向にと蜜柑を援助してくれた。二人の関係性を知らない者は、援助交際と蜜柑を責め立てたものだ。今もそう信じて疑わない人間もいる。
 だが蜜柑本人は、そんなことは全然気にしていない。
 蜜柑という名は、クリニックにてカウンセリングを行う際は使用していない。クリニックでは、八朔薫子として勤務している。
 八朔蜜柑はあくまでハンドルネームであり、インターネットを通じて患者からの質問を受け付けるカウンセラーとしてのみ、この名を使用していた。

 なのに、サイコロ課には八朔蜜柑の名で勤務することに決めた蜜柑。
 サイコロ課はインターネットのカウンセリングと同等、本来の自分を出す必要もないというわけだ。下に見ているように感じる向きもあるが、本人にそのつもりはなく、あくまでクリニック勤務が大前提、という心持のようだ。

 蜜柑は、メンタルカウンセリング業務の他にも顔を持つ。
 大したことではないのだが、インターネットでパワーストーンとやらの売り捌きを行っている。
 パワーストーンとは、願いを成就させてくれる神秘パワーを持つとされる石のこと。よく誤解されるのだが、石そのものに、何もかも成就するパワーがあるわけではない。願いに当てはまる石を持つことにより、もともと持ち主に備わる潜在能力を増幅させてくれるものである、といった注釈がつく。
 蜜柑の場合、店舗ではなく個人でサイト運営を行っているので、注文を受けてから製作する。莫大な金銭が動くわけではないが、蜜柑製作のパワーストーンはネットの口コミを通じ、徐々に人気が出てきている。とはいっても、まだ月に5,6本ペースだ。
 パワーストーンの意味については、知る人もいれば知らない人もいる。綺麗な石、色味だけで石を集めたがる人もいるし、何かしらの幸運を求めて石の組み合わせを決め、注文する人もいる。中には、自分の短所を補いたくて、蜜柑に丸投げで命令口調の人も、これまた多くいらっしゃる。
 
 その他、白魔術や黒魔術といった類とは一線を画すものの、スピリチュアルとやらに興味津々な蜜柑。特に、ワンドと呼ばれる用具を使って行うヒーリングには並々ならぬ関心がある。
 メンタルカウンセリングという現実的な世界と、スピリチュアルとかいう非現実的な世界。相異なる2つの世界に思えるが、蜜柑に言わせれば、その2つの世界には密接な関係があるのだという。
 
 タロットカードやオラクルカードというカード類を使って占いなどを行う人々とは違い、蜜柑はヒーリングに特化して本を読み漁る。
そして、グラウンディング、チャクラやハイアーセルフといった、常人には馴染みのない言葉を繰りだし、その都度皆を驚愕させ、いや、戦慄させている。
 例えば、グラウンディング。
地に足をつける、という意味らしいのだが、本人は、時に立ったり、時に座ったりして目を閉じ、ぼーっとしているだけ。そんなことで地に足がつくのかと訝る向きは多い。
 だが蜜柑にしてみれば、雑念を振り払い地球のマントル部分にまで吸い込まれていくような感覚を覚えるのだとか。

 これでは、奇人変人と呼ばれても仕方がない。
 奇人変人だからこその、サイコロ課非常勤勤務というわけか。
  

**********

 反摩課長が目を覚ました。そして、雀たちの囀りを、目を瞑ったまま聞いている。雀たちは、課長が目を覚ましたとも知らずに、秘密の会話を繰り広げていた。
「ちょっと、課長起きないんですけど」
「もう一回鼻抓むか。麻田、お前やれ」
「嫌です」
「須藤さん。鼻抓みで起きたら、それはそれでマズくないですか?」
「そうですね、寝ていても課長は課長ですから。リスペクトしないと」
「けっ。弥皇、お前の口からリスペクトとか言われると腹立つ」
「スーちゃん。何そんなに怒ってんのよ」
「やる気がないのは別にいい。市毛さんと比べるつもりもない。しかし、だ。流石に、初日から眠るか?」
「サイコロ課に飛ばされた事実を受け止められないんじゃないの」
「それはある。僕も内示出た時、暴れたくなりましたからね」
 皆が神崎を睨む。麻田がメガネを中指でズリ上げる。
「神崎。それ言い過ぎ」
「あ、すいません。でも今はもう、慣れましたよ。課長もそのうち慣れますって」
「そういう意味では、慣れって怖いな」
「さて。いくつかのケース論じたから、少し珈琲タイムといきますか」
「弥皇くん。あたしブラック」
「少し薄めのブラックでいいですか。麻田さん」
「弥皇。お前、すっかり尻に敷かれてんのな」
「別に、この関係が一番居心地いいですから」
 和田がくっくっく、と握りしめた右手を口元に寄せて笑う。
「5年前は、そりゃもう二人とも結婚のけの字聞いただけで鬼のように反論してたのに」
 弥皇が和田に反論する。
「僕は未だに結婚は人生の墓場だと思ってるし、麻田さんも同じ考えだと思うよ」
「そうね、あたしも未だに考え変わんないわよ。弥皇くんだから一緒に居られるんだし」
「なんか二人ののろけ聞いてるような気がする」
 神崎の呟きを須藤が受け取る。
「そうだな。結婚が是か否かは置いといて、今は珈琲飲むぞ」

 皆がデスクから離れミーティングテーブルに移動すると、ふっ、と口に笑みを湛えて、反摩はたった今、目を覚ましたふりをした。
「ああ、寝た寝た。ねえ、今何時?」
 神崎がぐるっと背を返して課長の方を向く。
「10時半です」
「そう」
「課長。ミーティングどうします?」
「ああ、君らの好きにしてくれて構わない。それからね、さっきの彼女、週に一日の非常勤職員扱いだから。サイコパス事件起こった時だけ続けて来てもらう予定」
「だから帰ったのか」
「びっくりしましたよ、名乗っただけで急に帰るから」
「うん。僕も驚いた」
「課長~。それでいいんですか」
「だって、追いかけたって帰るでしょ」
「そりゃそうかもしれませんが」
「来週また来るから、その時にあらためて」
「わかりました」
 メンバー全員、呆れたように壁や天井に目をやるしかなかった。

 人事異動を受けて新規の体勢になっても、ルーチン作業はいつもと変わらない。相変わらず神崎がデータベースにサイコパスが関係していると思われる事件、事故等を入力し、皆で延々とトークを行うという為体。
 サイコロ課が事件を解決することなど有り得ないという警察全体の目が注がれている今日この頃。
 反摩課長はその最先端を行くべく、日がな一日、眠っているか、黙って珈琲を飲んでいる。
 
 おい。いくら変人とはいえ、課長がそれでいいのか。
 雀たちの率直な心境である。

 
 水曜日。蜜柑の出勤日がやってきた。
 サイコロ課のメンバーは、蜜柑のことをほぼ100%忘れ果てて、蜜柑のデスク周りを物置代わりに使っていた。
「おはようございます」
 蜜柑がサイコロ課に入ってくる。
「ぎゃっ」
 麻田が変な声を発して和田を小突いた。和田は蜜柑の顔を思い出し、水曜が出勤日だったのかと気付いた。
「あのー。何処が私のデスクですか」
 ポカンとして、何を言われているかわからず、言葉の出ない神崎。弥皇と須藤は、知らぬふりを決め込む算段だった。蜜柑の低い声が、一層低く感じられる。
「あのー。この部屋、空いてるデスクないんですけど」

 一瞬、凍りついた雀たち。
 寝ていたはずの反摩がにっこりと笑って起き上がる。
「ああ、八朔さん。こっちのテーブルで待機しててくれる?忙しくてデスク片してなかったから」
「はあ」
 蜜柑をミーティングテーブルに座らせて、課長は和田にウインクした。和田と、物置デスクの有り様に気付いた神崎が、蜜柑の座るべき仕様に変更すべく、手早くモノをローチェストに移動させる。
「ごめんね、八朔さん。さ、あそこが君の座る場所」
「はあ」
「あのね、この部署のこと、さらっと説明するから」

 赴任以来、寝てばかりの課長に説明できるのかと心配する雀たち。
 意外にも、反摩課長の説明はシンプルかつ的確だった。
 サイコロ課ではデータベースに事件や事故を入力しながら、日々、サイコパスの犯行について議論していること。入力された事件の中には、往々にしてメンタル関係者も含まれること。そこで心理カウンセラーが必要であるとの所見に立ち、蜜柑が週一日の非常勤職員として発令されたこと。サイコパス関連の事件が起こった際には、連続して勤務してもらうこと。

「以上。質問、ある?」
 蜜柑は、少し考えながらゆっくりと頷いた。
「サイコロ課が正式名称ですか」
「違うよ。でも、いいの、サイコロ課で。正式名称必要なら、組織名簿渡すから」
「じゃあ、ください」
「あとね、この前は名字だけだったから、今回は下の名前も教えてくれる?」
「はい、蜜柑、八朔蜜柑(はっさくみかん)です」

 雀たちは、揃いも揃って目が丸くなった。
 別に、本名だろうが偽名だろうが、サイコパス事件に関連した心理を追究するのだから名前など何でも良いのだが、どこか笑える。
 気障な弥皇、もとい、フェミニストの弥皇が、微笑みながら蜜柑の前に立つ。
「失礼ですが、本名ですか?」
「いえ、ハンドルネームです。本名は八月一日薫子(ほずみかおるこ)です。インターネットでカウンセリングの質問を受け付ける際には八朔蜜柑の名で通していますので、こちらでも八朔の名を使いたいと思います」
「なるほど」
 
 サイコロ課の他のメンバーも、名前を聞いて吹き出しそうになったものの、偽名だと知り一安心したという次第だ。八朔なる名字が日本国に存在するのかどうかさえ怪しいと思っているサイコロ課の面々。事実、八朔(ほずみ)という名字は全国で80人ほど存在するのだが。
 それよりなにより。
 偽名を使うと言われ、通常なら『馬鹿にするな』とお冠になりそうなものだが、サイコロ課の面々は、その方面に対し怒るという了見を持ち合わせない。そこがまた、不思議メンバーの集まりとでもいうべきか。

 何事もなかったかのように、神崎が皆に声を掛ける。
「じゃあ、入力始めます。意見のある人、挙手してください」
 その日入力された事件、事故には、サイコパスが関係していると思われるものは1件もなかった。
 だが、サイコロ課がサイコロ課たる所以、必ず誰かが挙手して、議論はヒートアップし、麻田がキレる寸前になる。
 蜜柑は殆ど意見を申し立てない。蜜柑にしてみれば、その時間はヒーリングやグラウンディングを行う貴重なひとときなのである。蜜柑が何をしているのかは知らないが、それならそれでも構わないと雀たち皆が思っている。

 今日もサイコロ課はマイ・ウェイを驀進中である。

 午後も、いつものように神崎がデータベースに入力しながら、些末な事件を読み上げていく。以前は市毛課長が中心となり話題を纏めていたものだが、新任の反摩課長は朝から高いびき。
 仕方なく、雀たちは自分が興味のある事件をピックアップして、以前のように議論に入る形式を採ることにした。

 神崎がデータベース入力を終えた直後、眠そうな目にクールタイプの目薬を差しながら和田が手を上げた。蜜柑もサイコロ課に出勤、いまのところ帰る様子もない。
「J-6事件です、皆さんデータベースを見てください」
 和田が提案したJ-6事件。

 万引き常習となったご老人が、諌めた家族を刺した事件である。データベースによれば、ご老人は80歳。現在は会社役員で、若かりし頃は中堅部品製造会社の社長をしていた。社長を引退し隠居生活を始めた70歳の頃、脳梗塞で倒れてしまった。
 社長を引退するまでは、真面目に仕事に取組み、部下からの評判も良かったご老人は、脳梗塞を患ったのち、何かにつけて周囲に暴言を吐くようになった。
家族に優しい一家の大黒柱だった頃、彼は、奥方が趣味に使う時間を許容していた。奥方は週に二度、習い事に精を出し、友人達との交流を深めていたのだという。
 ところが、である。
 脳梗塞で病院に搬送されて以来、ご老人は午前と午後の日に2回、奥方が見舞いに来ないと奥方を怒鳴り散らすようになり、奥方は趣味の時間を取り上げられてしまった。
 また、家族や部下、親戚にも、神対応で暮してきたご老人だったのに、近所に住む精神的に弱っている姪をないがしろにし、親戚で集まるときも、さも姪がいないかのように無視して振舞った。元々は寡黙で穏やかな性格だったのに、親戚が集まると人が変わったように大はしゃぎ。
 困ったのは奥方だった。姪は、“自分が精神の病だから無視されている”と思い込むようになり、体調は下降の一途を辿っていく。そんな姪を心配し、事ある毎に目を掛けていたが、ご老人が昼寝しているときしか電話も出来なければ、直接姪に会うこともままならなかった。

 奥方自身、夫はいつか元に戻ってくれるだろうと我慢に我慢を重ねたが、ご老人の性格が元に戻ることは無かった。
 そうして生活するうち、ご老人はスーパーやコンビニで万引きをするようになった。お金がないわけではない。今は年金生活で、決して贅沢が出来るわけではなかったが、昔の財産を切り崩していけば、悠々自適に暮らせるくらいの財は持っていた。
 奥方は、夫に万引き癖があるとは露にも知らず、警察から連絡を受け身柄を引き取りに行った。ご老人は警察やスーパーの人に平謝りだった。奥方も平に頭を下げ、二人は自宅に戻った。
 自宅に戻ると、ご老人は奥方を叱り始めた。
 俺に恥をかかせた、という理不尽な理由で。
 奥方は、一応謝った形でその場を立った。内心は夫の理不尽さに涙が出た。それでも、万引きをしたスーパーでは平謝りだったし、もう警察沙汰になるようなことは無いだろうと、夫を信じているのだった。

 ところが、ご老人はまた、万引きをした。何回も、何回も。
 警察や小売業者との往復に、奥方は疲労を感じ、夫に対し怒りを覚えずにはいられなかった。
 奥方は、重ねてきた我慢の糸が張りつめ過ぎて音を立てて崩れ去っていくのを頭の何処かで感じていた。
 これで10回目くらい、という時だった。
 ご老人に対し、奥方は万引きを諌めた。
 お金がないわけでもないし、万引きする理由が何なのか、とご老人に尋ねた。
 するとご老人は怒りだし、台所から包丁を持ちだすと、奥方の目の前で、両手で包丁を握りしめた。


 また、J-8事件では、こんな例もあった。
 ある家庭に、それはそれは優しい息子がいた。父親が亡くなったのち、三男坊であったにも拘らず、母親の面倒を一手に引き受け、母親の老後の世話をしていた。母親はとても幸せだと周囲に息子を自慢していたという。
 あるとき、その息子が交通事故で病院に搬送された。母親は何がどうなっているかもわからず、ただ只管に息子の回復を祈った。その願いが叶ったのか、息子は目を覚ました。そして病院を退院した。
 優しかった息子が戻ってきた。母親は思わず涙した。息子は脚に麻痺が残り車椅子生活になってしまったけれど、二人で幸せに暮らしてきた昔の生活に戻れる。
 そんな矢先のことだった。
 息子は、何かにつけ、母親に手をあげるようになった。母親が何か息子の気に障ることを言ったわけでもない、息子自身が自分の身体が思うように動かないことにヒステリーを覚えたわけでもない。
 なぜ暴力を振るうのか、母親には理解できなかった。
 弟が母に暴力を振るうと知った兄たちは、弟を障害者施設に入れようと行政機関に相談に行った。脳の中にある感情を抑制する部位にダメージを負ったことで、喜怒哀楽あらゆる感情が激しく発露するようになってしまった、とリハビリを統括する部署の医師が言った。治らないのかと聞く兄たちに、他人事のように首を振る医師。
 そこにもって、息子の施設入所について、母親が強く反対した。
 いつかきっと、優しかった息子に戻ってくれる。
 母親は信じて疑わなかった。
 その思いは、裏切られ、人前でも息子は母親に暴力を振るった。行政機関との話し合いの末、息子は障害者施設に入所することになった。
 母親は、時間を見つけては息子に会いに行く。兄たちは弟の所に姿すらみせないから。
 だが、豹変してしまった息子が元の性格に戻ることは、無かった。
 この息子もまた、一時帰宅で施設から出た晩、母親が「お帰り」と声を掛けただけで、怒りだし、台所に向かい包丁を取りだし母親に刃を向けたのであった。
 

 どう考えても、これらはサイコパスに当たらないと考えた雀たち。サイコパスに関しては、思い思いに見解を述べる彼等だったが、腫瘍や脳梗塞による病変で性格が変わってしまった人間に関しては、小学生以下の理解度しかない。
 サイコロ課を代表して麻田がハイ、とばかりに手を上げ、蜜柑を指さす。
「八朔さん、これはどういうことかわかる?」 
「高次脳機能障害が有り得ます。交通事故で脳を損傷したとか、脳梗塞で倒れたときは、脳に器質の変化が見られるのよねえ」
「というと?」
「器質の変化については、まだまだ解ってない部分がありすぎるんですよねえ。でも、昔は優しかった人間が豹変する、という話が多いかもです」
「でもリウマチとかで寝たきりになったとしても、こんな病変にはならないわよね」
「そりゃそうです。リウマチなどは脳に直接害が加わったわけじゃないですからねえ」
「あんた、その、語尾に“ねえ”っての止めてくれる?馬鹿にされてるようで腹立つんだけど」
「いやあ、これが地ですからねえ。何ともし難い」
「メンタルクリニックでは、その話し方しないでしょ」
「向こうは商売ですから」

 蜜柑は、麻田の言葉に、母を思い出した。

 その麻田は、首が左右に振れ、ポキポキと音が鳴り出す。和田や弥皇をはじめ、メンバーは麻田の目の色が危険信号だと互いに見つめあう。

 弥皇が急ぎ立ち上がって、麻田のデスクに近づいた。
「麻田さん、ここはこれくらいにしておきましょう」
「なんだ、弥皇。あんた、こんな中途半端でファイル終わらせるっての?ましてや、何よ、八朔のこの喋り方。ここがサイコロ課だからって馬鹿にしてない?」
 蜜柑は、机上を探す様な仕草をしていたが、やがて何やら水晶で出来たような物を手に取った。片方の先は真ん丸で、片方は尖っている。その上、所々に宝石のようなキラキラとした石がはめ込まれている。
 たまたま蜜柑の隣に移動してきた神崎が、水晶を持った蜜柑をじっと見る。
「八朔さん、それ、何ですか。宝石には見えないんだけど」
 蜜柑が麻田ばりに中指でメガネをズリッと押し上げる。
「これはクリスタルワンドといいます。ヒーリングに使うんですよ」
「ヒーリング?科警研に属した僕としては、曖昧な概念はどうにも苦手でして。何をどのようにできるんですか」
「信じるも信じないも人それぞれですからねえ。別にインチキ呼ばわりされても気にしませんから」
 そういうと、蜜柑は、水晶の丸い先を麻田のお腹辺りに目掛けて左回りにくるくると回す。暫く続けると、一旦休憩し、今度は尖った水晶の先を同じ辺りに向けて右回りにくるくると回し始めた。
 神崎が呆れた調子で、椅子に深く腰掛けて脚を組み、腕を頭の後ろで組む。
「それは何を?」
 神崎が言い終わらないうちに、麻田が素っ頓狂な声を上げる。
「お腹温かい!八朔蜜柑!あんた今、あたしに向かって何したの?」
「要らない気を飛ばして、パワーを注入しているんです」
「なんじゃそりゃ」
「だから、ヒーリングですって。麻田さんは感覚があるらしい。どうです?今度パワーストーン持ってきましょうか」
「要らんわ」
「そうおっしゃらず。怒りを鎮める石の組み合わせもありますからねえ」
「尚更要らん」
 麻田のボルテージが上がっていくのを横目で心配そうに見つめる弥皇だったが、怒りを鎮めるという石が本当にあるのなら、是非とも麻田に送りたい、そう思う。決して表立って口にはできなかったが。

 麻田が半分怒りながらドアを開けて廊下に出た。それを確認して、弥皇は蜜柑に小声で尋ねる。
「八朔さん。本当に怒りを鎮める石があるの?」
 蜜柑はニヤリと笑みを浮かべた。
「ありますよ、アイオライトという石です。アメジストを加えれば一層その力が増しますからねえ。お薦めですよ」
「その石はお守りにするの?」
「ブレスレットかペンダントにして身に着けるんですよ」
「じゃあ、そのブレスレットお願いしてもいい?僕に渡してくれればいいから。麻田さんの怒りは是非とも鎮めたい」
「了解」
「あ、くれぐれも麻田さんのいないところで渡してね」

 さて。
 麻田はブレスレットを受け取ったのだろうか。
 結論。
 受け取った。
 弥皇の作戦勝ちである。

 翌週、弥皇は、麻田のいないところで蜜柑からブレスレットを受け取った。関東圏にある実家に戻ると嘘を吐いて都内の自宅マンションに戻ると、元課長の市毛夫妻にブレスレットを託し、仕事帰りの麻田に贈ってもらったのである。
 蜜柑の作ったブレスレットとは露知らず、麻田は喜んでブレスレットを受け取り身に付けた。市毛妻はパワーストーンブレスレットと知っていたようだが、弥皇の目配せを見て、綺麗な石だったので、と麻田に前置きした。
 最も信頼する市毛夫妻から贈られたとあっては、麻田がブレスレットを身に付けないわけがない。
 
 さて、これで麻田の怒りが鎮まればいいのだが。

第3章  季節は新緑

 パワーストーンのご利益なのか、はたまた怒る原因が其処等辺にないからなのか、麻田がブレスレットを手にしてから1週間というもの、目に見えて大噴火することは無くなった。
 今日は、週に1度、蜜柑が登庁する水曜日である。
 朝一番、オチビ2人に嫌われ朦朧とした意識で出勤してきた麻田は、何気なしに瞼を閉じてしまいそうな睡魔に朝から襲われる。

 そこに蜜柑が出勤してきた。
 蜜柑は分厚い鞄を右手に持って、サイコロ課のドアを開ける。
“こんなとき、クリニックのように自動ドアならいいのに”と情けない声。
 余程重いのか、机に向かう時、右手から左手に鞄を移し替えていた。皆、蜜柑の鞄の中身が気になって仕方ない。わざわざサイコロ課に持ってきたのか、一体何をするつもりなのだろう。やっとサイコパスについて勉強するつもりになったのかと思うメンバーの一部。

 と、蜜柑が鞄を開けた。ガサゴソと音がして、右手で鞄の中をひっくり返しているようだ。そして何かを取り出そうとしている。
 皆の目が、鞄に向く。

 鞄からひょっこりと顔を出したのは、メンタル面の諸症状について書かれた本だった。

 椅子から落ちてずっこける和田と須藤。ピカリと目を光らせる麻田。弥皇は目を逸らし、またもや知らん顔を決め込む。神崎はデータベースへの入力準備に取り掛かった。
 右手中指でメガネを押し上げる麻田。男たちに豪快なエア右アッパーをかましながら、鞄に夢中の蜜柑に声を掛けた。
「それ、サイコパスに関係あるの?」
 超マイペースの蜜柑は、何も気にしていない。
「いえ、特に。でもこれら精神症状を見分けることでサイコパスかどうかの判断は容易になるかと」
「お気遣いありがとう。でもね、ここの人たち、ああ、神崎抜いてね。心理から精神まである程度勉強済だから」
「そうですか。でも、先日のJ-6とJ-8、病変に関する症状とサイコパスとの相違を、皆さんきちんと理解できてないようでしたから」
 麻田は言い返す言葉が無い。

 神崎は早速、本を手に取っていた。
「八朔さん。この本、僕に貸してください」
「いいですよ。他にも持ってきます?」
「解りやすく書いてある本なら。あとは独りよがりな意見を書いてない本が読みたい」
「メンタルは難しいですからねえ」

 神崎は、データベースに入力する仕事を早々と片し、意見交換という要の仕事を和田に任せ自分のデスクに戻り、本をぱらぱらと捲り出した。


 神崎が最初に開いたページには、双極性障害、所謂ところの躁うつ病が記載されていた。
 双極性障害の根本的な原因は、今でも特定されていないという。遺伝的要素や環境的要素が複雑に絡まった故、とする説もある。

 遺伝的要素としては、双極性障害(躁うつ病)が発症する原因として、遺伝子の関与が考えられているというが、一つの遺伝子で起こる遺伝病ではないらしい。複数の遺伝子が組み合わせられることで発症すると考えられているようだ。
 それは、遺伝子が基本的に同一の一卵性双生児と、そうではない二卵性双生児で、双極性障害が発症する一致率を比較した結果、一卵性双生児が高いものの、決して100%ではないことが判明しているという理由からだ。 
 従って、双極性障害の発症に遺伝的要素は多分に関連のあるものだということはいえるが、遺伝だけで発症する病気ではないことがわかっているのだそうだ。

 環境的要素としては、育った環境や、周囲から受ける慢性的ストレスなども、発症要因の一つと考えられているようだが、どの様な過程を経て発症につながるかは、はっきりわかっていないらしい。

 患者の病前性格の調査報告では、社交的で周囲に対して心配りができ、ユーモアがあり、現実的な志向性が強い性格の人が多い、とも言われているという。

 双極性障害発症の危険因子が相互にかつ複雑に関係した場合、過度のストレスや、生活リズムの乱れがきっかけとなり障害を発症するようだ。

 一般的に、うつ病は周囲にも判りやすい症状が現れるが、双極性障害は、躁状態の場合元気に見えることもあり、判断材料が少ないという欠点がある。
 ここで重要なのは、普段の元気加減に差が出るということである。元気を通り越し、ハイテンションになっている。そういう場合は、かなりの確率で双極性障害を疑うべきかもしれない。
 また、双極性障害は、うつから始まることが多いという文献もある。うつ病を繰り返しながら、ある日突然躁状態になるというタイプもあるそうで、躁状態が一定以上の期間続くといった、双極性障害Ⅰ、Ⅱの境界線もあるらしい。
 いずれ、最初はうつ病と診断された患者が、実は双極性障害だったという症例は多いようだ。

 神崎は、ふと、ある箇所に目を留めた。
「八朔さん。これ、どういう意味ですか」
 蜜柑が神崎から本を取り上げ、そのページを読む。
 
『躁状態(躁病エピソード)」がある場合は「双極Ⅰ型障害」「躁状態(躁病エピソード)」はなく、「軽躁状態(軽躁病エピソード)」がある場合は「双極Ⅱ型障害」と、大きく2つに分類される』
 蜜柑が頭を捻る。
「校正間違いかもしれないですねえ。私の解釈では、躁病エピソードが1週間以上続き、尚且つ、重い“躁病エピソード”と“うつ状態”をくり返す場合には双極Ⅰ型障害、“軽躁病エピソード”が4日以上で、尚且つ“軽躁エピソード”と“うつ状態”を繰り返す場合は双極Ⅱ型障害、と2つに大別されると思ってましたけど」
「そもそも、躁病エピソードって何なんですか」
「ほら、次のページ読んでください」
“躁病エピソードとは、通常よりも遥かに興奮、高揚して誇大的な気分、またはいらいらした怒りっぽい気分が最低1週間以上持続するか、または期間が短くても入院が必要な程であることが一義的に定義される。他に4つ以上の躁症状を伴うものを指す。
軽躁エピソードは、躁病エピソードよりは程度が軽いものを指し、気分的な障害が4日以上続く状態と定義される”
「なるほど」
「解りました?俗に言う躁状態のことですねえ」
「普段より元気だとか、やる気に満ち溢れている状態って解釈してました」
「もっと興奮してハイテンションになる状態です。明るく見える分には周囲に迷惑かけないのは軽躁ですねえ。躁病は行き過ぎると突然怒鳴ったり不機嫌になりますから」
「でも、興奮だけなら危険ドラッグも同じかと」
「状態的には似ているかもしれないですねえ。でも、躁状態の人はドラッグやってないし」
「軽躁ってのは、躁よりも状態が軽い場合か。これは解り易い」
「躁状態の時は、自分が偉くなったように感じる人は多いですねえ。例えば、仕事をしていて、周囲はプレゼンに失敗しているけど、自分だったら絶対に成功している、と吹聴するとか」
「あとは?」
「車の運転に擬えれば、助手席に乗ったとき、“自分ならもっと巧く運転できる、と思い込む。ところが自分が運転してみると、思った通りに巧く行かない、とか」
「なるほど」
「常より口数が病的に多いとか、眠らなくても大丈夫とか、莫大な浪費や、ばかげたことへの投資なんてものも一般的には言われる症状ですねえ」
「やっぱり覚醒剤やらと似てる」
「だから、躁状態の人は薬物摂取してませんって」
「でも、躁状態と気付くんですか、本人が」

 蜜柑は否定という意味合いで、左右に手を振る。
「本人が気付く例は稀じゃないですかねえ。多くは、周囲の人間が“あれっ”と思う。うつで治療していた人が、何の気なしにドクターに“周囲からこう言われた”と話して、ドクターが焦って処方を変える流れとか。本人が通院していない場合は、通院させるまでが一苦労だとも聞きますねえ」
「そんな病状だとトラブル起こしそうですよね」
「実際に、会社でトラブルになって上司に啖呵切って、会社辞める人は多いらしいっす。あとから鬱に転じた時、後悔して自死に繋がる人も多いとか」
「覚醒剤とかなら、止めれば状況は改善しますよね。躁うつ病の場合はどうなんです?」
「ほぼ間違いなく、再発します。ここが通常のうつ病と違うんですねえ」

 蜜柑が席を立とうとした。神崎は本を見ながら手を上げて蜜柑を押し留める。
「もう少し、付き合ってください。一般には双極Ⅰ型障害のほうが重症であり、措置入院対象にもなり得るのでしょうが、軽躁ならどうです?」
「本人的には病気の自覚がない。これが結構厄介でして。ただ明るいだけで病気に気付く人は珍しいですからねえ。周りからも見過ごされがちです」
「重症化することもあるんですか」
「移行化することがあります。Ⅱ型はトラブルこそ起こさなくても、摂食障害や不安障害、アルコール依存などが合併し易くて、結構深刻になりやすいんですよ」
「他に病状としてはどんなものがありますか」
「繰り返し軽躁と鬱くり返す「気分循環症」、「躁状態(躁病エピソード)」と「うつ状態」を頻繁にくり返す、「急速交代型(ラピッドサイクラー)」と呼ばれる例もあります。抗うつ薬を双極性障害に使うと、この「急速交代型」になり、不安定化する場合がありましてねえ。これがプチ危ないんですよ」

 麻田が遠き地を思い出したように口を開いた。
「そういえば、東北の安倍先輩って、躁うつ病じゃなかった?」
 和田も当時に思いを馳せつつ、目を閉じ手で唇を覆ったのちに、掠れるような声で話し出した。
「確か、そうでしたね。藪医者で“うつ”と診断されたあと、何度もリストカットやオーバードーズ繰り返して病院に運ばれたという話、聞きました」
「それってうつ状態でしょ」
「その後に僕の耳に入った噂だと、双極性障害で治療はじめて間もなく、上司から使い物にならない宣言受けて、それに激怒して県庁辞めたらしいですよ」
「うわ、躁病エピソードまっしぐら」
「それにしても、本人が一番辛いんじゃないかな」
「でも、夫の佐藤は安倍先輩の思い通りに自死してくれたじゃない。おまけに、どこに異動しようが、症状ぶり返さないとは限らないしね」
「麻田さんは安倍先輩には手厳しいですね。彼女の苦しみは続くと思いますよ、自分が元に戻らない限り」
「まあ、何故自分がこんな病気に、って気持ちは無くならないか」
「薬を手にするたび、思い出すんじゃないですか」

 神崎が、蜜柑の持ってきたメンタルに関する本を読み返しながら、まだぶつぶつと呟いている。
「双極性障害のⅠ型とⅡ型の境界線は・・・躁状態を少なくとも1週間以上伴うのがⅠ型で、軽躁状態を伴うのがⅡ型。境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害と誤診されやすい」
 蜜柑が神崎の呟きを聞きながら、うんうんと頷いている。

 神崎は、なぜこんなに双極性障害の詳細を蜜柑に確かめるのだろう。メンタルの詳細を勉強したいだけではあるまい。何か、もっと実用的な理由があるはずだ。弥皇は、黙って神崎と蜜柑のやり取りを聞いていた。

第4章  もうすぐ梅雨

 神崎は、蜜柑の来る毎週水曜日になると、データ入力もそこそこに、蜜柑の持ってきた論文や書籍を読み漁る生活が続いている。

 今日読んでいるのは、今や、100人に1人は発症すると言われている統合失調症。
 こちらも、たぶんに遺伝性と考えられがちだが、統合失調症の親や兄弟姉妹がいる場合における発症の確率は、約10%前後と言われている。また一卵性双生児の1人が統合失調症だと、もう1人の発症リスクは約30%から50%前後とも言われているのが実情だ。
 統計的には遺伝性を窺わせる病気だが、同じ遺伝素因を持つ双子が約半分程度の発症にとどまっていることは、統合失調症が遺伝病ではないことの証明にもなり得るとする論文もある。
 こちらも双極性障害同様、遺伝的要因の他に環境的要因などが深く関与して発症しているものと考えられる。
 研究論文や書籍の中には、遺伝的素因の影響が約2/3、環境の影響が約1/3とする
 結果を報じているものもある。

 神崎は興味津々とばかりに、蜜柑が来る水曜日を心待ちにしているようだ。そして、水曜日が来るとデータ入力がいつもより早く、乱雑になる。
 和田が零す。
「神崎さんときたら、水曜日になるとデータ入力に身が入らないんですよ。誰か注意してください」
 麻田はデスクに突っ伏したまま、大あくび。
「和田っちが言いなさいよ」
「止めてください。その呼び名だけは」
「はいはい」
「返事は1回」
「はーい」


 神崎によって入力されたデータに、新規の事件が含まれていた。

 都内某区にて親子無理心中が起こった、というものだった。


 クリスマス無理心中事件を覚えておいでだろうか。クリスマスの日、精神の病に侵された両親が、子供を道連れに命を絶った事件。当初は未解決事件としてデータがサイコロ課に着たが、サイコロ課で議論を重ねた結果、両親に対する過剰服薬が原因となり、病を増長させたという経緯があった。

 今回は、妻が手首をきったものの死にきれず、帰宅した夫が子供たちの遺体を見つけ警察に連絡したという。

 無理心中の容疑で逮捕された妻は、度々「家の中に盗聴器が仕掛けられている」「外出して帰宅したら、玄関ドアが勝手に開いている」と警察に110番していた。
また、捜査員に「自分と子供たちは死ななければならない」と供述していたという。

 弥皇はデータを見ながら目に涙を溜めた。
「今朝のニュースに出てましたね、この事件。いくらなんでも子供たちが可哀想だ」
 麻田までが涙する。子供ができたお二方は、自分の子供に照らし合わせて考えたのだろう。
「ほんと。子供たちに罪はないのに」
 須藤は独身だけあって、ちょっとドライだ。
「この妻、子供たちにとっては母親なんだが。統合失調症だろうな、妄想に憑かれてしまった」
 和田も須藤以上にドライな面を持つようになった。クリスマス事件では泣きそうだったのに、時間の流れというものは、こうも人を変えてしまうのか。
「捜査員に、“私と子供たちは死ななければいけない”っていったそうですよ」
「なんでまた」
「それこそが統合失調症でしょうに」
「一緒に生活してた夫は、全く気付かなかったってか」
「さあ。気付いていれば病院に行くはずですから。もう通っていたのかな」
「何ともやりきれねえ事件だ」
「第一報聞いた時は、夫が不倫でもしてて、怒り狂った妻が子供を道連れに自死を選んだのかと思ったんですけど、違ってましたね」
「俺もそう考えたよ。でも、聞けば聞くほど妄想なんだよな」
「注察妄想、ってやつですか。でも、“死ななければ”のくだりが引っ掛かるんですよ」
「追跡妄想じゃないのか。誰かに追われてる、みたいな」
「ああ、それならストンと落ちますね」
「まあ、統合失調症にはパターンあるけど、当てはまらないものもあるよな」
「神の声、みたいな感じなら聞いたことあります。“お前は勝ったのだ、万歳しろ”と心の中で聞こえて、そのまま万歳したとか」
「陽性症状の、興奮と幻聴だろ?」
「そうか、そう捉えればいいんだ」
「何だかんだいって、メンタルは難しいよ」
「心が病気なのか、脳が病気なのか判りませんからね、今の時点では」
「俺は脳の病気だと思ってるけど、一般人は手厳しいからな。病名言っただけで尻込みするし、付き合いも止める。そして患者は益々孤立していくんだ」
「そうですね、今回の事件も、夫が尻込みしたのかも。妻を孤立に追い込んだ可能性はあります」


 神崎は、和田と須藤の会話も耳に入らず、まるで蜜柑のストーカーのように、蜜柑を追い回している。
「統合失調症の本、ありますか」
「1冊あったかな」
「貸してください」
「どうぞ」

 神崎は、ノートを出してボールペンでメモしだした。
『発症』10代から20代に発症する例が多い。
『代表的タイプ』
・妄想型(陽性症状) 幻覚や妄想が主体。興奮し、幻聴を伴うこともある。ネットで自分の情報が流出している、盗聴器があるなどの被害妄想が激しい。
・破瓜型(陰性症状) はかがたと読む。解体型とも呼ばれ、感情や意欲の障害を主体とし、思春期に発症する割合が高い。興味関心の欠乏、活動性の低下、独り言や一人笑いなどが増える。
・緊張型 緊張病症状と呼ばれる興奮と昏迷(意識はあるが無動・無言となること)が主体。同じ姿勢で動かなくなることをカタレプシーという。

『要因』
・ストレス  
罹患者は、元々ストレスに弱い傾向にあるとの報告も。統合失調症にかかりやすい素因が内因としてあるらしい。そこに心因であるストレスが加わったときに、発症しやすくなる。
・環境   
生活環境が大きく変わった時は要注意。孤立感、絶望感なども原因の一つ
・その他  
 脳の容積が一部低下していたり、死後脳において脳の構造異常がみられたりする例が散見。脳の発達段階で何らかの障害が関与の疑いあり。統合失調症の一部は、胎児期の脳神経系の発達障害が原因であるという研究報告がある。
 脳の構造的異常が意味するところは、今のところ不明。脳の異常により発現したのか、慢性的で長期にわたる罹患と治療の結果、脳を変成させたのかは、現在のところ鑑別不能。

『自覚症状』
・対人関係が億劫になった、一度にたくさんのことができない、集中力や持続力がなくなってきた、生活のリズムが乱れてきた等


 今日も事件らしい事件はない。帰ろうとする蜜柑を、腰巾着神崎が呼び止める。
「蜜柑さん、ちょっといいですか」
「なんですか」
「陽性症状の妄想について、もう少し細かく書いてある本、ありますか」
「あることはありますけど、メンタル初心者にはオススメしないなあ」
「じゃ、蜜柑さんが教えてください」
「妄想って言っても、幅広いんですよ」
 そう言いながら、蜜柑は神崎のノートをひったくり、ボールペンを要求する。
「ノートに書いていきますから、見て覚えてください」
・被害妄想  周囲から悪口を言われる、等
・関係妄想  自分が仕事を怠けると誰かが病気になる、等
・注察妄想  盗聴器で盗聴されている、等
・追跡妄想  悪いことをしていないのに警察から追われている、等
・心気妄想  重病を患っている、等
・誇大妄想  自分は誰よりも裕福だ、等
・宗教妄想  自分は神だ、等
・嫉妬妄想  配偶者が不倫している、等
・恋愛妄想  一緒に仕事をしている人が自分に気がある、等
・被毒妄想  煎れてもらった珈琲には毒が入っている、等
・血統妄想  自分は王家の隠し子だ、等
・家族否認妄想  自分は本当の子どもではない、等
・物理的被影響妄想  電磁波が自分を襲ってくる、等
・妄想気分  何かただならぬ事態になっている、等
・世界没落体験  世界が破滅に向かっている、等
「これっくらいかな。もう少しありますけど、これで大方網羅できるでしょう」
「ありがとう、蜜柑さん」
「どういたしまして」
「ところで、双極性障害と統合失調症は一緒に罹患することってあるんですか」
「ありますよ。統合失調感情障害とか、非定型精神病とかいう病名がありますけど」
「全部入り混じった感じ?」
「そうですねえ」

 弥皇がじっと神崎を見つめている。神崎もそれは承知の上だった。
 何故弥皇の前でこんなにメンタル関係の知識を得ようとするのか。それは、幸と咲の心理状態を把握するためだった。自分が自己愛性パーソナリティ障害と診断された時、メンタルに関しては、ある程度は勉強したつもりだが、他の症例の詳細を正しく知ることにより、双子のメンタルを神崎自身がコントロールしようとする腹積もりでもあった。
 また、蜜柑が麻田に行ったヒーリングとやらも、双子に対するマインドコントロールのひとつになるかもしれないと考えていた。
 如何にして双子をマインドコントロールの範疇に置くか、それが神崎の目下の悩みである。

 弥皇が神崎のデスクに近づいて、ノートを上から見る。
「神崎くんがこんなに勉強家とは知らなかった。僕に聞けば良かったのに」
「皆さんサイコパスに特化して激論戦わせているじゃないですか。僕はメンタル系博識じゃないですからね。専門家に聞くのが一番かと」
「そりゃそうか」
「時に弥皇さん。市毛課長、あ、違った、市毛さんお元気ですか」
「うん、今ののんびりした生活が性に合ってる、って」
「そうですか。惜しい人を退職させたものです」
「定年退職だからね、そればかりは仕方がない」
「よろしくお伝えください」
「了解」

 蜜柑がモゾモゾとデスク周りを片付けている。デスク周りを綺麗にすると、蜜柑はデスクに一礼して、サイコロ課を後にした。
 須藤がこそっと麻田に話しかける。
「クールだな、彼女」
「変わってる、って本心いいなさいよ」
「俺の口からそんなこと言えねえ」
「普通、近くの人に“お先に失礼”とか言葉があってもいいわよね」
「彼女の場合、それが机なんだろ」
「微妙に謎だわ」
 

 翌日のことだ。
 データベース入力をしていた神崎が太い声で「おっ!」と叫ぶ。
「皆さん、U-18事件見てください」

 それは、女が、飼い猫や飼い犬を生きたまま焼却炉で殺し、その様子を動画サイトにアップしていた、というものだった。
 女は、不倫をして逃げた夫と不倫相手の名前を犬や猫につけて、目を潰したり足の骨を折ったりと数々の虐待の末に、生きたまま焼却炉に放り込んだという。
 この女は警察に動物愛護法違反で逮捕されたが、女の言うことが本当か、いうなれば、夫や不倫相手は実在するのかすら、捜査段階では判明しなかった。というのも、女の言動が常軌を逸していたため、強制入院の措置が取られたのである。

 神崎が仕入れたばかりの知識をひけらかす。
「これって、統合失調症ですよね?」
 弥皇が神崎の背中を見て、ふふんと鼻で笑った。
 神崎が、むっとした表情で弥皇の方に向き直る。
「弥皇さん、今、鼻で笑ったでしょう」
「ゴメンゴメン」
「で、統合失調症で間違いないですか」
「たぶん」
「たぶん、って、随分曖昧ですね。科警研出身の僕としては・・・」
「曖昧なのは如何ともし難い」
「そうです。で、この例ですが」
「統合失調症には変わりないけど、統合失調症だけならこんなに極悪にはならないよ」
「というと?」
 和田がすかさず二人の間に割って入る。
「この場合、元々、反社会性パーソナリティ障害を持った人間だということです」
「反社会性パーソナリティ障害?」

第5章  梅雨まっしぐら

 パーソナリティ障害と呼ばれる障害がある。昔は人格障害と呼ばれていた障害だ。
 その範囲は多岐に渡るが、その中でも暴力沙汰になりやすいパーソナリティ障害をご存じだろうか。それは、反社会性パーソナリティ障害(ASPD)、もしくは非社会性パーソナリティ障害(DPD)と呼ばれるパーソナリティ障害である。
 この障害の定義は、「社会的規範や他者の権利・感情を軽視し、人に対して不誠実で、欺瞞に満ちた言動を行い、暴力を伴いやすい傾向がある」また、診断には、「子供の頃、行為障害(素行症)であった必要がある。加齢と共に30代までに軽くなる傾向もある」とされる。統合失調症や躁病エピソードが原因ではないことが前提となる。

 行為障害(CD)は、反社会的、攻撃的な行動パターンを特徴とし、社会的な規範や規則を大きく逸脱している状態とも言える。これらの行動パターンを6か月以上持続していることが定義になる。また、非行という概念で論じられてきた範疇のものを多々含んでいる。
 人や動物に対する攻撃性が見受けられ、動物に対する虐待を含む。また、放火や窃盗、家出も含まれることとなる。
 一般に、行為障害と呼ばれる精神症状は18歳未満を指し、反社会性パーソナリティ障害の前段階である場合が多い。18歳未満は、反社会性パーソナリティ障害の診断は下さないという。
 18歳以上でAPSDと診断されるためには、15歳未満のときに行為障害を発症していた、また、躁病及び統合失調症エピソードが原因ではない、かつ下記のうち、15歳を超えて3つ以上の症状を呈していることが条件となる。

A1 法律にかなって規範に従うことができない、逮捕に値する行動を起こす
A2 自己の利益のために人を騙す
A3 衝動的で計画性がない
A4 喧嘩や暴力を伴う易刺激性がある
A5 自分や他人の安全を考えることができない
A6 責任感がない
A7 良心の呵責がない

 30代で、段々と症状が落ち付いて行くという。
 しかし、30代を超えても、慢性的にこの障害に嵌り込み抜け出せない者もいる。また、医療機関や家族など、何らかの助けを得て、この障害を克服する者もいるという。
 世間では、反社会性パーソナリティ障害(ASPD)をもってサイコパスと決めつける傾向もあるが、必ずしもそうではない。
 いや、語弊があるかもしれない。
 反社会性パーソナリティ障害(ASPD)以外のパーソナリティ障害でも、場合によってはサイコパスになり得るという事実を世間に知らしめなくては、サイコパスの犯罪は無くならない。

 神崎は、感嘆にも似た声を洩らす。
「へえ。とすると、動物虐待女は、元来、反社会性パーソナリティ障害を持った人間であり、たまたま統合失調症の症例を来したというわけですか」
 弥皇がゆっくりと頷いた。
「そう考えるのが妥当な線だと僕は思う」
 話そうとする和田を押さえ付けて、麻田が横から顔を出す。
「あら、神崎。弥皇くんにギブ・アップしちゃったの?」
「僕のような心理初心者が、K大卒の弥皇さんに勝てるわけないでしょう」
「そんなことないわよ。今もいい線いってたじゃない」
「それでも、この女が統合失調症だとすれば刑法第39条に守られるんですか、それとも反社会性パーソナリティ障害による心神喪失無し、責任能力ありで進んで行くのでしょうか」
「心神喪失ありで医療刑務所に収監されるでしょうね。もし本当に夫や不倫相手がいたとしたら、社会に放った場合、何をしでかすかわからないもの」
「なるほど。まだまだメンタル分野の勉強が足りませんね、僕も」
「大丈夫よ、水曜日があるじゃない。今回は反社会性パーソナリティ障害を初めとしたパーソナリティ障害全般を勉強すると良いわ」


 翌日、神崎は朝一番に双子の様子をみるため、双子の住むアパートに向かった。
 辺りを見回し、人がいないのを確かめてからアパートの戸を叩く。なかなか応答がない。神崎は鍵を開けて中に入った。
「まだ寝てたのか」
 1Kの部屋は、玄関を開けると小さなテレビが一つ。部屋にはそれだけしかない。布団を並べ、猫のように丸くなって幸と咲は眠っていた。
 テレビ台の上に双子への小遣い1万を置いて、二人を起こさないまま、神崎は外に出て鍵を掛ける。
 そして、サイコロ課に向かった。

 朝一番に双子の様子を確認して、出勤したばかりの神崎に向かって麻田が叫ぶ。
「神崎!データ入力急いで!」
「どうしたんです、久々に怒鳴ってますけど」
 弥皇が神崎の肩を掴んだ。
「知らなかった?昨夜遅くに、大事件勃発したんだよ」
「話はあと!データ入力!」
 麻田の叫びを背に受けて、神崎はデータベースの入力に取り掛かった。

 今回、起きた事件は本当に特異なものだった。
 流石の神崎も、今回の事件を受けて、言葉を失わずにはいられなかった。
 水曜日ではなかったが、勿論蜜柑もサイコロ課に呼ばれた。暫くはこちら勤務になるかもしれない。容疑者が確保されれば、その限りではないのだろうが、まだ容疑者は確保されていなかった。


 事件概要

 梅雨も明けようかという時期。
 第二次世界大戦後の日本史上、類を見ない大量殺人、戦後最悪と思われる陰惨な殺傷事件が発生した。

 昨夜1時58分、都内の緑豊かで長閑な地域に位置する大規模な障害者施設において、35歳の元職員の男が入所者60名以上を刃物で滅多刺しにし、約30名が心肺停止、所謂ところの死亡状態で見つかり、他にも20名が意識不明の重症者として救急搬送された。

 60人以上もの死傷者を出した事件の容疑者は、そのまま姿を晦ますのかと思われていたが、事件の2日後、近くの警察に自首した。車の前後のバンパーは壊れ、自身も血だらけになりながら。
 元施設職員の犯行という驚きの結果をもってすれば、この事件の特異性も知れてくる。
 メディアは朝から関連ニュースを声高に流し、昼前には、新聞の号外が街を歩く人々の足を止めた。

 容疑者は、小学校時代から明るく人を笑わせるのが好きな青年だった。
 ご近所さんに会えば、頭を下げてきちんと挨拶をする好青年だった。
 何故、彼がこのような凶行に及んだのか。
 誰も、いつの間にか芽生えた彼の心の闇を推し量ることが出来なかったのだろうか。

 警察の捜査及び施設職員の証言から分ったことは、余りにも浮世離れしていた事実である。
 ハンマーで窓を破り施設に入り込み、職員を結束バンドで緊縛し廊下手すりに縛り付けた上で、職員から鍵とスマホや無線を奪って施設内を動き回り、一部屋また一部屋と開けては寝ている障害者を襲っていった。複数の障害をもち、寝たきりで声を出せない重複障害者を中心に刃物で襲撃し、首を中心に肩、胸や背中を次々と刺すという凶行に走ったのだ。中には騒ぎ立てて刃物を向けられた者もいた。漏れなく被害者たちはスマホを取り上げられ、外部との接触手段を絶たれていた。それが、襲撃された人数が多くなった原因でもあった。

 容疑者は事件前、障害者の大量殺害を予告する言動を繰り返していた。2月半ばには都知事公舎を訪問し、殺人予告状ともとれる手紙を渡したという。その中には「障害者が安楽死できる世界を作りたい」という趣旨の書き込みがなされていた。
 狙う施設を2カ所指定し、職員の少ない夜間を狙い、重度の障害者のみを殺害するという凄まじい計画。
 事件前に話を聞かされた同級生らはその都度、計画を取りやめるよう説得を試みたが、反論した友人に容疑者はこう言い放ったという。
「じゃあ、お前を殺してから実行する」

 彼が都知事宛てに認めていた手紙の内容は、次のようなものだった。


都知事様

 都内の障害者施設を統括管理する都知事様に手紙をお読みいただき、本当にありがとうございます。
 私は●●と▲▲の障害者施設にて、重度障害者総勢200名を抹殺いたします。常軌を逸する発言であることは重々理解しております。それでも、これが、私が全人類の為にできる事を真剣に考えた答えです。
 世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことを目的としております。

 障害者施設を見回した時、保護者の疲れ切った表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳が施設内に渦巻いています。日本国と世界の為と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移す決心をした次第です。

 私の更なる目標は、重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。
 障害者は、保護者に対し不幸を作ることしかできません。
 今こそ革命を行い、全人類のために必要不可欠である辛い決断をする時だと考えます。日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。

 大都市東京を担う都知事様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。是非、政府要人のお耳に伝えて頂ければと思います。
 どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂ければ幸いです。何卒よろしくお願い申し上げます。

文責 容疑者名
                              

 第3次世界大戦にも記述は及び、障害者を排除するのは正しいという認識の下、凶行に及んだ容疑者。その考えには、ナチスドイツが生み出した“人権否定”と共通するものがあった。現在、イスラム国もまた同様の思想を持っていると言われている。

 計画は実行に移された。手紙が都知事公舎に届き、警察に情報が齎されたにも関わらず、である。施設では警察からの情報を受けて監視カメラを20台増設していたが、事件を未然に防ぐことはできなかった。

 都知事公舎に手紙を届けた容疑者は、施設内で障害者への攻撃的な言動や人権を否定するような言葉を発し出した。また、刺青を入れていることが施設に知れたり、障害者に対する暴力もあり、施設側では解雇を検討していた。
 しかし、解雇を通知すれば何をされるかわからないという恐怖心から、施設側では警察を呼び、その監視下で施設長が容疑者との面談を行った。
「重度障害者は生きているだけ無駄だ。死んだ方がいい」という、障害者への人権否定。それを戒めると、猛烈に反発し、自分は正しいと譲らず、結局は容疑者自ら辞職を口にしたという。
 警察は行政機関と情報をやりとりして、自傷あるいは他者を害する恐れがあるとして措置入院、即ち病院の精神科に強制入院させられた。措置入院にあたり、容疑者は当時、大麻吸入の事実が浮かび上がり「大麻精神病」「妄想性障害」などの病名が付いた。
 尤も、半月後には反省の言葉を口にしていたとされ、そのまま退院することとなったという。その情報が、行政機関や警察には齎されなかった。大麻を所持していることが警察に知れれば大麻使用や所持容疑等で身柄を拘束され、今回の事件は起きなかったかもしれない。
 すべて、タラレバ、仮定の話である。

 日本国から命令があれば大量殺人を実行する、要するに障害者をあの世に、という、ある種身勝手な神からのお告げ。それは正しくナチスドイツ、ヒトラーの原始優生思想、弱者排除にも繋がる危険な思想だった。特にナチスドイツは精神障害者や知的障害者に対し「生きるに値しない命である」と嘯き、20万以上大虐殺に及んだとも言われている。
 都知事への手紙には2カ所の施設を襲うとあったが、実際に襲われたのは1カ所の施設のみ。容疑者はそのまま姿を消していた。
 2つ目の施設が襲われることは無かった。
 1カ所目の事件後、警察が機動隊を配し、もう1カ所施設周辺を守っていたからである。
 結局、容疑者は作戦実行の2日後、警察に自首した。コンビニに立ち寄って食料を入手し、山中に車を停め、その中で生活していたようだった。
 コンビニ店員は、事件当日の深夜、血だらけの容疑者を目撃していたが、警察に通報することは無かった。コンビニにはそのような客も多く立ち寄り、コンビニそのものが事件に巻き込まれる可能性が否めないからである。

 また、自首した後、容疑者は『遺族には申し訳ない、心から謝罪したい』と捜査員に話したというが、反対に、『事件を起こしたことは後悔していない』『今は障害者を抹殺することが彼等を救う方法』とも答えているという。
 措置入院した際には、「周囲に抹殺の考えを話しても理解されなかった。自分の考えは間違っていない。重複障害者は人の形をしている物であり人間ではない。自分の考えを認めない周囲はきれいごとを言っているので納得できない」と話したという容疑者。
 身柄を検察庁に送られる際、カメラを見て薄ら笑いを浮かべたり、身体を前屈みにして不気味な笑いを浮かべたりと、心神喪失とも思える一面を見せていた。
果たしてそれは、詐病のスマイルなのか。

 大学時代に刺青や脱法ハーブを始めるなどし、その頃から性格が荒々しくなっていったという容疑者。金髪に入れ墨、整形、SNS書き込みの変化、勤務先でのトラブル、犯罪予告状と、3年弱という時間の中で、坂を猛スピードで転がり落ちたことになる。
 自ら望んで施設で勤務しながら、どの段階で凶行を胸に秘めるようになったのだろう。自分にお金をかけてロレックス化(=高級化)するのだ、と友人に話していたとされる容疑者。危険ドラッグ等の薬物を常用、オカルトにも傾倒していたという声もある。
 大麻等の薬物の使用で選民思想が激化したとみる識者もいるが、大学生になる以前は危険思想がほぼ見受けられないことから、薬物と思想は切り離して考えるべきだと公言する識者もおり、詳細な精神鑑定が待たれるところである。


「これはまた、サイコパス中のサイコパスですこと」
 皆がだんまりとする中、麻田女史の第一声。
「蜜柑。あなた、どう思う?」
「神のお告げ、というあたりは、自分は積極的に計画した訳ではない、という責任転嫁の意味合いですかねえ」
 蜜柑の口から責任転嫁という現実路線に値する言葉が出た途端、弥皇がバン!と机を叩いた。
「これは妄想ですよ、妄想。どちらかといえば統合失調症。この分だと心神喪失が相当かも」
 麻田が中指でメガネを押し上げる。
「弥皇くん。メディアによれば、神のお告げは責任転嫁と言い切ってる犯罪心理研究者もいるわよ」

 左腕で頬杖をついた弥皇は、あさっての方向を向いて口を尖らせた。
「麻田さん。統合失調症はいつの時代も怠け病とか言われてます。でもね、実際に発症する人は怠けた人じゃない。どちらかといえば完璧主義者に多いんです。この容疑者、覚醒剤はシロでしょ。脱法ハーブや大麻だけで神やヒトラーが降臨するはずがない」
「あら、大麻は多幸感があるっていうし。要はハッピー症候群じゃない。脱法ハーブだって神が降臨するかもしれないでしょう。麻薬とよく似た種類だってあるかもしれない」
「それはそうですが、あの送検時の表情、あれは正気じゃない。彼にとっては、ヒトラーの如く障害者をこの世から消すことが至上命題なのであって、遺族への謝罪は謝罪として本気なんです、彼は」
「それが支離滅裂だっての。なんか神からヒトラーのお告げに話も変わってるし」

 麻田と弥皇の意見の対立。和田が仲裁に入る。
「まあまあ、二人とも。すぐ熱くなるんだから」
「黙れ、和田の小僧」
麻田は和田にまで喧嘩を売る。
「麻田さん、もう少し落ち着いてくださいよ。その顔で家に帰ったら、オチビに泣かれちゃいますよ」
「あら、そんなに鬼の顔してた?」
「眉間に2本の立てジワ」
 須藤が和田の左耳に近づいて囁く。
「眉間だけじゃない。青筋たってるぞ、完全に」
「スーちゃん、五月蝿い」
 現場近くにも防犯カメラが設置されていた。容疑者の車は防犯カメラの前に堂々と車を停め、施設内に歩いて入ったのが確認されていた。動画を見ることができたサイコロ課の面々。
 データ入力している神崎が、不思議そうに首を傾げた。
「車、すごいスピードでここに車停めましたね。でも変。車の後部バンパーが壊れて下が道路についているのに、結構な暴走してる。運転者にしてみたら、凄い音がすると思うんですよ。よく走れたなと」
「音が気にならないくらいテンパってた」
「ドーパミン駄々洩れ状態」
「聴覚麻痺」
 男性陣は皆、言いたい放題である。蜜柑はといえば、容疑者の行動に目がいっているようで、皆の会話に入ってこない。

 麻田は麻田で、防犯カメラ映像ではなく、容疑者が立ち入った経路を図に纏めていた。
「やっぱり正気よ、この人」
 蜜柑が、麻田の声に耳を傾けるように頷いた。
「立ち入った時間、1時間程度で犯行を終わらせてます。とても効率的な動きなんですよねえ、麻田さんも気が付きました?」
「あら蜜柑。同じこと思ってたのね、あたしたち」
「どうやらそのようですねえ」
 麻田と蜜柑の間には、梅雨明け間近にも拘らず、どうも寒冷前線が居座っているらしい。二人とも、本心をなかなか明かせない、そんな雰囲気が男性陣にも伝わってくる。
 
「確か、この家、3、4年前に親が転居してるんですよねえ」
 蜜柑はデータを見ながら呟くので、声が聞き取れない。これが独り言なのかどうかもわからない。
 麻田が、自分に話しかけられているのかというふうに、人差し指で自分を指さし男性陣に応答を求める。男性陣は、知らないぞと言わんばかりに、ある者は首を横に振り、ある者は首を竦める。
仕方なく、麻田は蜜柑の独り言に応じた。
「両親は23区内に転居したようね。マスコミでは調べてるようだけど、まだ居場所を特定できないんでしょ。まあ、突き止めていても電波や紙面には載せられないか」
「実家に容疑者だけが残ったと。まあ、両親にはそれなりのお金があったのでしょう。現役世代のはずですから」
「父親が教師。だから一人息子にも教員になることを強いていたのかもね、暗黙の圧力で」
「大学に入るまでは教員志望です。大学は、あら、自宅から通える大学だったんだ。私はまた、大学に行ってから、はっちゃけたものだとばかり」
「父母から逃げ出すように引っ越して、通った大学で性格が豹変したと?」
「ええ。その時代にAPSDが発症したのだと思ってました」
「APSD、反社会性パーソナリティ障害、か。ニュースでは非社交性パーソナリティ障害なんて報道してるけどね、そんな名前、あったのかしら。非社会性ならまだしも」
「APSDであるためには、15歳未満で何らかの行為障害が認められないといけないのですが、どうなんでしょう」
「今のところ、その報告はない、っと。蜜柑あんた、人の話聞いてる?」

 蜜柑は麻田の言葉が耳に入っていないらしい。麻田は肩をいからせながら蜜柑を寝技に持ち込もうとしている。
 慌てた和田は、鬼のような顔の麻田を引き摺って蜜柑から引き離し、わざとらしく麻田に話題を振る。
「麻田さん、APSDのことですけど、デイリー新聞に目を引く記事があるんです。ほら、ここ」
「どれ。ふうん、サイコパスと犯罪と遺伝の関係性、ね」
 サイコパスと聞いて、課長と蜜柑を除いたメンバーが、麻田と和田の周囲に集まった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「犯罪と遺伝」について、次のように述べている論者がいる。

 ******
 現代の精神医学では、犯罪を引き起こすような精神障害として「反社会性パーソナリティ障害」が筆頭にあげられている。とはいえ、障害を持っていなくても冷徹で残酷な人間は一定数いる。これらを皆「パーソナリティ障害」の範疇に括ろうものなら、刑法第39条との駆け引きにより、「パーソナリティ障害」の括りは一気に犯罪者=責任能力なし、との様相を呈してくるだろう。

 欧米で、周囲から「矯正不可能」とされた反社会性を持つ子供だけを抽出して、子供たちの犯罪に関する遺伝率を調べた結果がある。
 その結果は、あまりに衝撃的だ。
 犯罪心理学でサイコパス=反社会性パーソナリティ障害に分類されるような子どもの場合、両親からの遺伝率は8割を超え、環境の影響は2割弱しかなかったのである。
 ******

 もちろん、あくまでも欧米での一研究に過ぎず、また犯罪全般ではなくサイコパス=反社会性パーソナリティ障害に限っての話である点は忘れてはならない。「犯罪と遺伝」をすぐに結びつけるのは時期尚早というものであろう。
しかし、昨今、何不自由なく育てられた少年少女が、異常な殺人などをおこなったニュースがしばしば話題に上る。恵まれた環境で、教育熱心な親に育てられ順風満帆なはずの若者が理解しがたい残酷な事件を起こす。その動機については、多くの場合、我々が理解できる範疇を超えている。
 
記事:デイリー新聞

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 麻田は首を横に振る。
「恵まれた環境で、教育熱心な親に育てられ順風満帆なはずの若者の動機っていうけど、それこそが行為障害でありAPSDの前段になるんじゃない」
 神崎は、目を丸くして麻田を見た。
入力をしながら麻田に向かって大声を出す。
「これって、APSDがほぼ間違いなく遺伝だと言ってるようなものですよね」
 和田が口を挟む。
「いい子ちゃんを演じる子供は、教師からの信頼も厚い。その子が事件を起こせば“学校では真面目な子でした”となる。ところが非行三昧で教師もさじを投げた子供の場合、事件を起こそうものなら“ああ、やっぱり”となるでしょうし」
「遺伝率8割とかいうけど、実際にはもっと下回り、拮抗すると思うわ」

 和田は、麻田の攻撃対象が、蜜柑や弥皇から雑誌の記事に移ったのをみて、内心ほっとした。
「麻田さんのいうAPSDなら、15歳未満で何かしらの行動を行っている可能性があるんでしょう」
「一般的にはそうなのよ。この書き方だとサイコパスは異常な殺人者だけに見えるけどさ、事実違うでしょ。緑川みたいな普段明るくて人当たりのいいサイコパスだって世の中多いんだし。15歳までに、特に警察沙汰とかの行動ないのよ。だから行為障害まで認められるのかどうか」
「そうですね、微妙かも」
「でもさ、いい子ちゃんを演じて18年もすりゃあ、人殺しもしたくなるってもんよね」
「麻田さん。それはちょっとぶっ飛びすぎじゃないですか」
「あら、ごめん。今回の容疑者もそうなんだけど、15歳までに行為障害が認められればAPSD、認められなきゃAPSDじゃないって括りが変な気がしてさ」
「15歳までずっと自分自身を隠しながらあざとく生きてる子供がいる、そういうことですか」
「そうなのよ。正に緑川じゃない」

 緑川と聞いて耳が反応した人物がいた。言わずもがな、弥皇その人である。
「そうですね、麻田さん。緑川こそ本物のサイコパスです。この記事とは全く異なる。自己愛性パーソナリティ障害がサイコパスになり得る確率は低いとする文献もありますが、僕は逆に、非常に高いと思ってます」
「じゃ、今回の容疑者もそうだと?」
「いいえ。対して今回の場合ですが、だからこそ躁病エピソードとか統合失調症エピソードがしっくりくると僕は思うんですが、どう思います?」
 麻田は顎に左手を添えながら首を捻る。
「あたしはね、弥皇くん。この容疑者はAPSDなのかもしれないと思いつつ、その根拠が見いだせないでいるの」


 麻田の下を離れた弥皇。暫くすると、弥皇にしては珍しく、虚ろな目をして壁の一点を見つめながら、ぼそぼそと呟きだした。
「障害者施設や老人ホームでは、障害を盾に取り職員を苛める文化が蔓延っているらしいじゃないですか。若い職員は矢面に立たされ、身体的にも心理的にも追い込まれてしまう」
 和田や須藤、神崎までもが会話に入ってきた。
「あ、それ知ってる。長いこと勤めてる職員は介護現場から逃げて若い者をこき使うって」
「そうそう。で、若い者は身体壊して心理的に潰されて辞めていく究極パターン」
「そういえば、お爺さん達やお婆さん達に苛められた職員が当直の夜中に窓から入居者を突き落として死亡させた事件もあったな」
「殺した側だけが非難を浴びるけど、その前に入居者が施設職員を苛める話はズームアップされない。捜査段階で若い者の甘えとして片付けられてしまうんだよな」

 突然、麻田が大きな声を出して皆を吃驚させた。課長は先程からずっと寝ている。麻田の声をもってしても起きる気配はない。
「これって実際、甘えなの?」
 課長の真ん前で大きな声を出す麻田に対して、和田が肘鉄を食らわす真似をする。
「ネット上では甘えというコメントがほぼ100%を占めていますね。ただ、僕思うんですけど、それを安易に甘えと決めつけるのはどうかなと」
「というと?」
「一般に、老年期になると2回目のアンデンティティーの確立が訪れると言われています」
和田によると、第1回目のアンデンティティーの確立は青年期。2回目のアンデンティティーの確立が訪れた老人たちは、それまで穏やかだったにも関わらず、急に物分りが悪くなったり、怒りっぽくなったり、性格的な変化が顕著になる。
若い者苛めも同様で、因縁を付けて罵声を浴びせる、ちょっとしたことで皆の前で罵倒したり、介助を行う若い職員に対し、介助中、口は休むことなく職員の悪口ばかり続けたりするのだという。
まるで、嫁をいびる舅や姑の如く。

 須藤は呆れ果てたように、どっかりと椅子に座りこんだ。
「何、それって回りまわっていびりが続くっていうやつ?アホみてえ」
 神崎は、自分の両親のことを思い出した。老人になったら、さぞ性格が悪くなることだろう。蜜柑の発言が少ないと思っていた神崎は、わざと蜜柑に聞いてみる。
「蜜柑さん。それって、どういう心理構造から生まれるんですか」
「心理構造と言うよりも、老人のそれは、脳の器質が変化してしまうのが問題でして。前にも言いましたけど、性格が一変するのは脳の器質的な問題ですからねえ」
 須藤は、和田の目の前の椅子に移動した。
「今回の容疑者は、第1回目のアンデンティティーの確立ってことか?青年期にしちゃ、遅いだろ。容疑者、もう20代半ばだぜ」
「脱法ハーブや大麻を吸ってみよう、という考えが青年期のアンデンティティーの確立と捉えることも可能ですが、もっと若い時から大麻とか吸っていたかもしれませんね」
「もしかしたら、それが15歳未満とか」
「十分に有り得ます」
 弥皇はここでも食い違う意見だ。
「行為障害としては、動物虐待があり得ると思うよ。大麻とかはお金が無いと買えないからね。対して動物虐待は其処ら中にターゲットが散らばってる」
 和田も思い出したように手を叩いて、脚を組んだ。
「以前弥皇さんとセレマの件、回りましたよね。あれはかごの鳥だったけど、青年期のアンデンティティーの確立と捉えることもできます」

 須藤が何か閃いた!と言う顔をして立ち上がった。
「教員になるために受ける試験を受け損なったそうじゃねえか」
 和田が肩を落としながら須藤の顔面にパンチする真似をした。
「教員になれなかったのが挫折の始まりとするメディアもありますが、僕はそう思いません。本当に教員になりたいのなら、試験の日程を間違えないでしょうから。僕の友人にもいるんですよ、日程間違えて教員に為り損なった人。でもその人、結局何でも良かったみたいで公務員試験受けてました」
「要は、父親に認められたい一心だった、ってことか」
「あるいはそうかもしれません。まあ、両親と折り合いの悪い青少年が途轍もない事件を起こす確率は高いですから、何とも言えないですけど」
「確か犯行後に“奴をやった”と話したそうだが、本当に奴イコール障害者だったんだろうか」
「一般的に障害者全員と思われているようですが、もしかしたら、その中には父親がいるのかもしれませんね」
「父親そのものかもしれんぞ」
「どうしてそう思うんです?」
「気になってたんだ。事件の起きる度報道されるのは、父親と折り合いの悪い少年や青年、母親と折り合いの悪い少女。これって同性である親を否定するとともに、自分自身への否定につながってるんじゃないか、って」
 和田が本気になったという顔付きをする。
「ふむ。自己否定がいつの間にか脳内で変化して、APSDを誘発するという理論ですか」
「ま、そんなところだ」
「遺伝要素は、かなりの割合で低くなりますね」
「そう思えば、今回の事件だって起こるべくして起きたっていえるだろ」
「遺伝もない代わりに、弥皇さんのいう精神症状も無いような気がするんですけど」
 弥皇が皆を睨む。
「誰も僕の意見を良しとしてないみたいだけど、これは間違いなく精神症状だよ」
 須藤が弥皇の後ろ側に回り込み、頬杖をついて拗ねている弥皇の肩を揉む。
「弥皇、拗ねるな。お前でも分からないことが世の中あるってもんだ」
 弥皇が振り向こうとしたとき、須藤は弥皇の首の上を両手で押しながら前後に動かす。
「ぎゃっ」
 弥皇はやっと、拗ねた顔を止めた。その代り、首筋がポキッと音を立てたと同時に、梅干を口に含んだかのように顔を顰めて和田を見る。
「弥皇さんの負け」


神崎が男性陣の中に割って入る。
「3人で何話してるのさ~」
 和田は、神崎の顔に右手で張り手を食らわせた。
「神崎さん、ちょっと五月蝿い」
「げっ、和田っち、麻田女史みたい」
「誰が和田っちですか。緑川思い出すから止めてください」
「緑川?あのサイコパスの?」
「そうですよ。東北に行ったとき、そう呼ばれていたんです。今思い出しても腹立つ」
「でも緑川の場合は、周囲に受けが良かったそうじゃない」
「だから尚更。あ、緑川の場合は裏の性格知ってた女性も多かったみたいですけどね」
「そうなんだ」

 神崎は、自分から会話を終わらせたいとき、必ず“そうなんだ”と返事をする。和田も何気に気付いていたので、そういう時は深い会話をしない。

 弥皇は当たりをつけた。
 神崎が勉強したいのはメンタル一般ではないだろう。APSDを初めとした数々のパーソナリティ障害のはず。だが一体、何のために。
 まあ、いい。
 いつかその理由も解る日がくるだろう。
 
 
 神崎の勉強は続く。
「過去には、小学校の授業中に校舎に入り込み児童を刺殺するという凄惨な事件が起こっていますけど、覚えてます?」
 弥皇はあまり興味が無いようだ。
「うーんと、データベースに入ってるんじゃない?入ってないかな。もう何年も前の話だし」
 それに対し、和田は直ぐにデータベースを検索していた。
「サイコロ課が発足する前ですから、あ、あった」

今回の事件を、それと同義に扱うメディアもあった。大量殺人者の心理と重ね合わせてのことのようだ。
一方で、以前の児童殺傷と違うのは、被害者遺族の処罰感情である。児童の親たちは、容疑者に向かい、即座に死刑を望んだ。同じ目に遇わせてやりたいと泣き崩れる遺族が多かった。

ところが今回、重複障害者Aの家族は従来から施設に顔を見せることも無く、内心、死亡の報に胸を撫で下ろしていた。同じ重複障害者B、Cの家族は仮面的に施設を訪れていたが、内心はAの家族と同じ心境だった。
勿論、泣き崩れ精神が不安定になる遺族も多くいたが、どこか他人事で、まるで処罰感情が無いのではないかと思われる遺族が見受けられたのも、また事実なのだった。

「なんかさ、ニュースには出ないけど、こういうの知らされると容疑者の危険思想を助長させたのは保護者、まあ今じゃ遺族でもあるけど、その人たちの心の内を容疑者に見透かされたのかなって思う時あるわ」
 麻田の言葉に、皆が麻田の机に顔を向ける。
 雀の囀りが再開された。
 今度は和田が皆を制して話し始める。
「随分ばっさりと切り捨てますね。まあ、僕もその意見には頷けるところも無くはない」
 弥皇は、あくまで精神を病んでいると信じて疑わない。
「僕は未だに容疑者が妄想性の統合失調症だと。精神を病む人々は、元々人の心の内を察してしまう人が多いんですよ。やはりこの場合、統合失調症もしくは双極性障害なんかも、かなりの確率で当てはまると思うんだけど」
 神崎は科警研出身らしい意見を持っている。
「そうですか?危険思想は元々の性格的なものだと思います。だって、今回の場合は紛れもない選民思想じゃないですか」

 麻田が最後を締める形で自嘲気味に怒鳴り散らす。
「いずれ、この容疑者の心の中がどうであろうが、検察も世間も、彼を死刑にしたくてウズウズしてるのは確かよね。あたしたちの論議なんてコップの中の嵐でしかない」
 蜜柑も少しだけ頷く。
「死刑制度がない国ならもっと議論が深まるのかもしれませんが、遺族の処罰感情、世間の処罰感情、これらが裁判に大きく影響するのは必至ですからねえ。心身喪失は9割方、認められないと思いますよ」

刑法第39条
第1項 心神喪失者の行為は、罰しない。
 第2項 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

 和田がデータベースを覗き込みながら溜息を吐く。
「さて、どっちに転ぶのやら。裁判員裁判では死刑宣告でしょうが、最高裁まで行く間に何かしらの動きがあるかもしれませんね」
 蜜柑も、頷きながら、また独り言ともつかぬことを話しだした。
「私はAPSDだと思います。小さい頃に動物殺傷なりを起こしているでしょうから。でも、もしこれで医療刑務所に無期懲役で突っ込まれたら、遺族は泣き寝入りですかねえ」


 神崎は、幸と咲がAPSD、反社会性パーソナリティ障害であると概ね解した。あの二人なら、15歳未満から非行を繰り返していたことだろう。今、本人たちは多くを語らないが、サイコロ課での議論を聞く限りでは、二人がただの不良で終わらないのは確かだ。

 面白い。
非常に面白い。

夏休みに3人で東北か沖縄に出掛け、射撃訓練を課そう。あの二人なら喜んで乗ってくるだろう。窃盗やスリを繰り返してきたのなら、手先はまあまあ、器用に違いない。
増して、社会への怒りを増幅させたかのような鋭い眼差し。スナイパーとしては、この上なく良い資質を持ち合わせた二人。
神崎自身は外国や都内近郊の射撃場で訓練していたが、この二人を都内で連れ回して、誰かに会わないとも限らない。そのリスクを最小限にするためには、都内から離れた地方で訓練をするのが得策だと思われた。
 あとは、変装術。
 化粧品やかつらを買い与え、目を中心にカバーして素顔を隠す。そうすれば、事件を起こしても目撃談を混乱させることができる。

神崎の指示のもと、彼女たちは命令に忠実な犬のようだった、いや、今や命令そのものを楽しんでいる。神崎は現在、些末なネットでの買い物や、ちょっとした尾行など細かいことに二人を使っていた。
スナイパーとして二人を送り込む計画はまだない。次の計画自体、まだ決まっていなかった。
 二人の肢体は170cmと背が高い割に、体重は40キロ台。ガリガリに痩せていた。男性のようなメイクとかつらをつけることで、目撃者を欺くこともできた。変装メイクの基本は、目に重点を置き、眉と鼻を似せ、最後に唇を似せればメイク完了。


 神崎は皆の視野に入らない場所で、不気味に微笑んだ。

第6章  梅雨は続く

 和田の下に、警察学校で同期だった浅野という男性から手紙が届いた。よくある離婚相談なのだが、今回のそれは、少し違う局面に差し掛かっているようだった。

 結婚相手が、どうやら境界性パーソナリティ障害をもっているのではないか、子どもの親権を渡したくないが、それは無理なので、どうにか子供が安全に生きていく方法がないか、という内容の相談だった。

「和田くん。元気ないね」
「また離婚相談ですよ。僕、結婚すらしてないのに、どうして離婚相談員になるのかな」
 麻田がおーほっほっほと高笑いした。
「そりゃあんた、和田っちが老けてるからに決まってるじゃない」
「麻田さん、和田くんに失礼ですよ。結婚してないと言えば、須藤さんも同じでしょ」
「俺に振るな。ところで神崎。課長は結婚してるのか」
「聞きませんね。調べたところでは結婚のけの字もない」

 反摩課長は、またもや寝たふりをしていた。本当は結婚しているが、そのことは上層部しか知らない。市毛の代わりにサイコロ課のメンバーを見張る身としては、必要最小限の事実しか知らせる気はない。反摩課長は引き続き寝たふりをすることに決めた。

「課長のことは今度また。僕は今、離婚相談を受けた者として手紙を読まなくちゃいけないですから」
「和田っち、これから年休だって」
「だから和田っちは止めてください」

 和田は、麻田に背を向けて、手紙を読みだした。


『お久しぶりです。元気にしていますか。
 僕は離婚問題で疲れています。

 朗らかで素直だと思って結婚した妻が、実は違っていました。素直でちょっとおバカなところを見せる反面、急に態度が変わり高飛車で鬼のような人間に豹変するのです。
 妻が病院へ通院していたことも、僕は知りませんでした。知った時には、時既に遅し。子供が産まれていました。

 母は、妻が重度の精神病患者ではないかと危惧しており、また、本当に僕の子供かどうか疑っています。DNA鑑定をしろとアドバイスを受けましたが、僕は、僕と血が繋がった子供だと信じたい。だから、母には悪いけれどDNA鑑定はしないことにしました。万が一、血が繋がっていないのだとしたら、僕の2年間は全く意味を成しません。

 色々、本を読んだりしてそういった症状の病気を調べました。どうやら、境界性パーソナリティ障害ではないかと思っています。その中の解離性障害ではないかと。
今迄、狂言的な自殺未遂が2回ありました。
 机の中に処方薬を見つけ調べたところ、躁状態の時に飲む薬だったにも拘らず、僕や母の前ではうつ病のように装っていました。
 そして、あろうことか、僕が出張に行っている間に、僕や母に黙って子供を連れ実家に戻ってしまったのです。

 本人に電話をしても、実家に電話をしても話し合いになりませんでした。
 僕は家裁に調停を申し入れ何度か通いましたが、向こうは口達者で、僕にDVを受けたと家裁で申し立てたそうです。おまけに、感情障害、いわゆる躁うつ病という診断を取っており、発症原因は環境的なもので、主因は僕ということになってしまいました。
 結局、家裁では子供の親権を妻にとられてしまい、養育費の支払いだけが残りました。
 家裁で、妻が望んだ僕から妻への慰謝料の支払いは却下されたにも関わらず、母だけが家にいる時間帯に、慰謝料の請求に来たそうです。
 その時の鬼のような目、なんだかわからない自信に満ちた態度、端々にみられる、人を馬鹿にしたような言葉遣いと、母は恐怖さえ感じたそうです。
 僕は、司法の不甲斐なさと子供を助けられなかった思いが交錯して、すっかり痩せてしまい、今は心療内科に通っています。

 あとから知ったことですが、知り合いが都心で買い物をしているとき、顔はそっくりなのに服装が全く違う妻を見かけたそうです。心配してついていくと、高価な買い物を続け、言葉遣いさえ変わっていたとか。知り合いは、ドッペルゲンガーかと自分に言い聞かせ、その場を離れたといいます。

 高飛車で鬼のような妻は、一切子供の世話をしません。その上、高飛車な妻が家に来た時、“この自分が本来の姿だ。もうおバカな自分は消してやる”と母に向かって叫んだそうです。僕は、子供の未来が心配でなりません。

 妻は心理的にどういう状態なのか、果たしてこれから子供を助けることができるものか、君なりのご意見いただきたく。どうぞ御教授ください。よろしくお願いします。

                      浅野 』



 和田は急ぎ本を紐解く。
 境界性パーソナリティ障害(BPD)の症状、診断基準等はどうなっているのか。躁うつ病との関連は。


 境界性パーソナリティ障害(BPD)は、境界型パーソナリティ障害、情緒不安定パーソナリティ障害とも呼ばれている障害である。不安定な自己と他者のイメージ、感情・思考の制御不全、衝動的な自己破壊行為などを特徴とする障害、と定義される。

 症状は青年期から生じ、30代頃には軽減してくる傾向があるとも言われる。自傷行動、自殺、薬物乱用リスクが高い。症状の機軸となるものは、不安定な思考や感情、行動およびそれに伴うコミュニケーションの障害である、と文献に記載されている。

 衝動的行動として、性的放縦、ギャンブルや買い物での多額の浪費、より顕著な行為としてはアルコールや薬物の乱用があげられる。どちらかと言えば、躁病エピソードにも似た症状があげられる。
 物事に対する考えや行動が極端になりやすい白黒思考とも呼ばれる二極思考、慢性的な空虚感は、虚無感や抑うつ状態を引き起こし、慢性的な空虚感を埋め合わせるために、相手に密着することを過剰に求めてしまい、叶わないと憤怒や抑うつの様相を呈するため、対人関係が不安定になりやすいと言われる。ここが躁病エピソードと異なる症状か。

 自分に何が欠けているかわからない、自分はどんな人なのかわからない自己同一性障害、薬物やアルコール依存、自傷行為や自殺企図などの自己破壊行動(摂食障害、自殺、リストカット、薬物の過量服薬等も含まれる)を実行する場合もあり得る。
 自信と自己否定感が同居し、感情の上がり下がりが激しい割に、相手に見捨てられることへの不安(見捨てられ不安)が強くなることも特徴の1つと言われている。
対人操作も同様で、自分を有利にするために、嘘をついたり悪口を言ったりする。これは境界性パーソナリティ障害の患者に見られる特徴的な行動のひとつである。
パラノイア(=ある妄想を始終持ち続ける。偏執(へんしゅう)病。妄想症とも呼ばれている)と呼ばれる被害妄想が出てくる場合もある。

 躁うつの混合状態と似た経過を辿るような障害だが、躁うつとは一線を画している。
 自己破壊的行為のほとんどは、抑うつ状態で起こっていることが明らかになっており、抑うつを境界性パーソナリティの中心構造とみる研究者もいる。
 この“抑うつ感”は主に空虚感と無力感が中心となるそうだ。

 境界性パーソナリティ障害は、対人関係、自己像、感情の不安定および著しい衝動性の広範にわたる症状で、成人期早期までに始まり、各々の状況で明らかになる、以下のうち5つ、またはそれ以上が存在すると認められることによって診断される。

・現実に、または想像の中で見捨てられることを避けようとするなりふりかまわない努力
・理想化とこきおろしの両極端を揺れ動くことによって特徴づけられる、不安定で激しい対人関係
・同一性障害:著明で持続的、不安定な自己像または自己感
・自己を傷つける可能性のある衝動性で、少なくとも2つの領域にわたるもの(例:浪費、性行為、物質乱用、無謀な運転、むちゃ食い)
・自殺未遂、そぶり、脅し、または自傷行為の繰り返し
・顕著な気分反応性による感情不安定性(例:通常は2~3時間持続し、2~3日以上持続することはまれな、エピソード的に起こる強い不快気分、いらだたしさ、または不安)
・慢性的な空虚感
・不適切で激しい怒り、または怒りの制御の困難(例:しばしばかんしゃくを起こす、いつも怒っている、取っ組み合いのけんかを繰り返す)
・一過性のストレスに関連性した妄想様観念または重篤な解離性症状

 このように、境界性パーソナリティ障害の診断基準として「一過性の妄想様観念や解離症状」というものが見受けられる。
 日本でも治療の経過中に解離症状が出現した患者は全体の26%という数字が報告されており、患者にしばしば解離症状が出現することが認められている。この場合の解離とは、解離性同一性障害を指す。

 これらの精神病症状は全ての患者にあるわけではなく、統合失調症の症状のようなはっきりとした幻覚や妄想が起こることは少ない。主にストレスが関連しているとされ短期間で消失する。

 境界性パーソナリティ障害患者の自殺企図の多くは大量服薬によるものが約8割。他の精神疾患の患者の自殺企図でも、大量服薬のケースは6割弱と比較的多いのだが、自殺企図の動機として、他の精神疾患の患者が「重篤な幻覚や妄想」「社会適応上の悩み」「人生の破綻による自暴自棄」などであったのに対し、境界性パーソナリティ障害では「近親者とのトラブル、裏切りによるうつ状態」「居場所が無く追い詰められた危機感」などの対人面での“見捨てられ感”から行われるという違いがあるとする報告もなされている。

 境界性パーソナリティ障害の患者は、根底に他者と親密な関係を持つことへの葛藤を抱えているとする研究者もいる。
患者にとっての極端な依存は、本人に自覚がなく無意識的なものとされるが、自身の混乱や葛藤により追い払ったり引き戻したりすることで、対人関係が悪化しやすい側面を持つ。
 パーソナリティ障害と診断されるのは、柔軟性が乏しく不適応を起こしており、持続的かつ著しい機能障害または本人の苦痛が引き起こされている場合のみ該当する。また「パーソナリティ障害」自体、医学的な診断名であり、医師の診察および診断が必要であることは言うまでもない。なお、軽度パーソナリティ障害を診断するかしないかは、各医師の個人的主観にまかされていることも留意されたい。


 和田が悔しそうに本を閉じた。
「一体、浅野の奥さんは自分が境界性パーソナリティ障害と知っていて結婚したのか」

 和田が本を読んでいる間に、麻田が手紙を開き、皆で丸くなっている始末。
「この妻、確信犯よね?」
 麻田に引き続き、弥皇も仲間に入って口を出す。
「和田くん。この浅野さんはこれ以上妻と関わらない方がいい。早く離婚届を出すべきだ」
 須藤も手紙を見ながら和田にアドバイスする。
「これって妻に騙された線が濃いよな。子供のことは心配だろうが、まず自分が健康でいないと」
 トリを神崎が務める。
「以前、解離性同一性障害の双子、いましたよね。長く外に出ている性格が他の性格に変わったとすると、かなりヤバイ気がするんですけど。ね、麻田さん」
「そうそう。今回でいえば高飛車な女が『これが元々の性格だ、素直な性格は消す』と本人は母親の前で叫んだらしいわよね。前に私たちが会った双子は、大人しい性格のまま何種類かの違った性格が潜んでる、って感じだったけど」
「元々の性格云々ではないのでしょうが、夫を陥れるような姑息な手段使う時点で、妻の性格がどちらだったか判りますよね」

 弥皇が手を大きく振って皆を制する。
「皆さん。浅野さんが和田くんに応援を頼んでるのは、妻が本当に境界性パーソナリティ障害なのか、もうひとつ、どうすれば子供の安全を図ることができるか、この二つですよね、どう思います?」
 
 麻田が手を上げる。
「弥皇くん。その二つに限って答えるならば、妻は躁うつ病じゃない、境界性パーソナリティ障害に間違いないわ。躁うつは、特に嘘を必要としないもの」
 そして麻田は須藤の肩を掴んで答えを求める。
「麻田、分らなくなると俺に振るのは止めてくれ。俺も病状に関しては麻田に同じ。子供の安全は、児童相談所にチクるしかない」
 神崎は病状に関しては詳しくないとしながらも、右手をあげる。
「この妻は躁うつ病に似ているのは確かです。病院でそういった説明だけすれば、診断を躁うつ病にすることは簡単でしょう。医師は何でも分かるわけじゃない」
「でも確か、この頃うつ病とか躁うつ病、統合失調症まで解る機械が出来たんじゃなかったかな」
「あれは診断の補助、ってことになってるみたいよ」
「実際には診断の補助ではないのでしょうけど」
「そういう機械がある病院でしっかりと検査させるべきですよね」
「相手が承知しないでしょう」
「DV夫のレッテル貼られたのは悔しい限りだけど、自分が乗り込めばDV夫が追いかけてきたとしか思われない。弱り目に祟り目じゃないか」
「そうだ。子供の安全を優先するなら、児相に相談して、こまめに子供の状態を把握してもらう方がいいと思うぞ」

 和田はずっと黙って皆の議論を聞いていたが、決めたというように椅子から立ち上がる。
「浅野くんには、境界性パーソナリティ障害であるということと、自分から妻や子供に会うメリットは何もないということで返事します」

「八朔さん呼んだら?」
 反摩課長の声だった。
 
 皆は、ヒートアップしていた余りに蜜柑の存在を忘れていた。
 神崎が恥ずかしそうな素振りで課長に近づく。
「課長。仰るとおりですね、蜜柑さんに一度相談すべきですよね」
「僕ならそうする。君らもメンタルには詳しいけど、彼女はプロだから」

 麻田が身を乗り出して、自分たちの議論を空中分解させるのかと言いたげに拳骨を作るが、弥皇に止められた。
「麻田さん。僕たちがサイコパス犯罪捜査のプロであるように、八朔さんはメンタル方面のプロです。わかるでしょう?貴女なら」
「そりゃそうだけど。今迄議論してきたのは何だったのよ」
 須藤も麻田の肩を叩いて、弥皇の意見に賛成する。
「麻田。俺達の議論が重要なんじゃない。子供の幸せこそが重要なんだ。此処は引け」
「そうね、言われてみればそうだわ。蜜柑が来るのは、いつ?」

 麻田の反応を見て、課長が何処かに電話していた。
「八朔さん、お手すきですか」
 ちょうど蜜柑は手が空いていたようで、すぐに電話に出たらしい。
「あ、八朔さん?今週水曜から曜日ずらしてもらっていい?うん、今日空いてるならこれから来てよ。うん、うん、そう」
 
 反摩課長のゴリ押しに、驚く雀たち。
 電話が終わったらしく、課長はにっこり笑っている。
「水曜の勤務を今日に振り替えたから。早く和田くんの相談事、片さないとね」

 
「どーもー」
 30分後、ラーメン屋の出前のような声を出し、蜜柑が現れた。
 反摩課長が立ち上がり、右手をこめかみのあたりまで上げて敬礼している。蜜柑も負けじと敬礼する。
 雀たちは呆れ果て、目眩を起こしそうになった。反摩課長の変人説は、此処から来たに違いない。
 そんな課員のことなど、みじんも気にしていない反摩課長。
「ほら、和田くん。さっきのこと相談して」

 和田が、手紙の内容を掻い摘んで蜜柑に話す。蜜柑は黙って聞いていた。
「で、どう思います?」
「躁うつ病とは言い難いですねえ、躁病エピソードは見受けられるものの。うつ状態が見受けられない。うつを装うのがどんな状況だったかわかりませんが。素直な自分がうつ状態というのは、通常なら有り得ないです。ハイテンションの躁に転ずれば、多少なりとも子育てに自信あるでしょうから子供に手を掛けるはずです。境界性パーソナリティ障害の解離性障害、或いは解離性同一性障害との診断が妥当でしょう」
「子どもの安全ですが」
「そちらは本業ではないので何とも言いかねます。ただ一つ、境界性パーソナリティ障害は治らないと思われてるようですが、治療すれば回復して、自立した生活をおくることもできます」
「そうなんですか?」
「はい。行政機関に相談して、相手に境界性パーソナリティ障害の治療を受けさせて子供の安全安心を図る方法がありますねえ」
「カウンセラーはそういう相談事も受けるの?」
「たまには。色々な症例の方がいらっしゃいますから一概には言えませんが」
「そうなんだ」
 神崎は、この話題に、もう興味を失っているようだった。

 和田は、救われたという風に笑顔を作り、手紙の返事を書き始めた。自筆で。

「和田。年休取るわよ」
「僕が年休なら、皆さんも同罪でしょ」
「なんですと?小生意気になったわね、和田っちの分際で」
「だから、和田っちは止めてください。緑川じゃあるまいし」
「東北の事件が5年経っても尾を引くなんざ、よほど楽しかったと見える」
「須藤さん、緑川に会ってないからそういうこと言えるんですよ、ね、弥皇さん」
 和田と弥皇は本気になって怒っている。
「僕は、緑川のみの字も思い出したくない」
「ああ、お前、殺されかけたんだっけ」
「そうですよ。もう少しであの世行きだった」
「でも、それで今の弥皇さんがあるとも言えますね」
「何が?」
「最後に緑川に会う前に、任務遂行したら麻田さんと二人きりで会う約束してたでしょ」
「あ!それは・・・」
 弥皇が今更ながらに真っ赤になる。
 対して、麻田はキョトンとしている。
「そうだったっけ?」
 和田の目が三角になる。
「麻田さん、忘れたんですか。あの時のこと」
「覚えてない」
「これだよ。あの時もそうだったなあ。秘密の約束、僕がばらしそうになったら弥皇さんが焦ってるのに、麻田さんときたら忘れてて弥皇さんと険悪ムードになってたし」
「そうだっけ」
「まあまあ、和田。良いじゃねえか。二人は今、パートナーとして俺達にのろけ話を聞かせる仲なんだ」
「そうですね、皆さん、静かにしてください。ろくすっぽ返事も書けやしない」
「はいはーい」
「返事は1回」
「はーい」

第7章  梅雨明け~季節は夏

 和田が浅野と言う男性に手紙を投函して1ケ月。
 浅野から、お礼の手紙が来た。妻の病状は変わらず、その後も慰謝料の請求などはあったものの、子供については行政機関に情報を流し、ネグレクトを防止すべく日々子供のために動いているという。
 最後に、和田がサイコロ課に異動した時はビックリ仰天だったが、元気に暮らしていて何よりだと結んであった。

「ええ、ええ。僕は元気ですよ。サイコロ課は楽しい」

 和田の独り言に弥皇が付き合う。
「サイコロ課に勤務したら、他の部署に行きたくなくなるよね」
 須藤と神崎が、笑いながら頷く。須藤は腹を抱えているし、神崎も右手でバンバンと机を叩いている。
「こんなに暇で、かつ面白い部署は無い」
「僕も暫く御厄介になります」

 今日は水曜日。
 蜜柑の出勤日だった。

 時計の針は9時を回っている。時間など気にする素振りも無く、いつものようにラーメン屋のオヤジよろしくサイコロ課の中に入ってきた蜜柑が鞄に詰めていたのは、解離性同一性障害(DID)に関して書かれた本。

 神崎が蜜柑に向かって余計な口を叩く。
「昔、解離性同一性障害の人物に会ったことがあるんです。だからこの本は必要ないかも」
 
 蜜柑は、口の端だけをあげて笑った。
「珍しい経験しましたねえ。多重人格を見るなんて」
「たまたまですよ」
「で、症例はそれ1件だけ?」
「そうです。サイコパス事件のデータベースに入ってまして」
「なら、この本読んでごらんなさいって。もっとDIDについて理解できると思いますよ」

 そういって、神崎に本を渡した。

 
 解離性障害、DDのひとつとして、解離性同一性障害、DIDがあげられる。かつては、多重人格障害(MPD)と呼ばれた障害である。
 DDを大まかに語ると、己の己たる感覚が喪失している状態である。現実感が無く、記憶障害を起こし、生活面で支障をきたしている状態を指す。
 その中でも重篤なのが解離性同一性障害、DIDと言われている。
 解離性障害は、障害を持つ当人にとって耐えられない状況を、健忘症のように感情や記憶という思い出の中を自分から切り離し、心のダメージを回避することで始まると言われている。その中でも重篤な解離性同一性障害は、切り離した感情や記憶が別人格となって表面化するといえる症例である。
 ダメージを回避しようとする防衛的適応も、その状態が慢性化、かつ恒常化した場合には何かのきっかけでバーストし自己をコントロールすることが不可能になる場合がある。そして、解離性障害を引き起こす原因となり得る。

 解離性同一性障害は、解離性障害の中でも重篤は方に入る。切り離したはずの自己の感情や記憶が成長し、あたかもその記憶が一つの人格となり一時的、或いは長期的にわたり表面化するが、解離性同一性障害を持つ人の中には、別人格の存在、いうなれば人格の交代に気が付かない者も多いとされる。
 解離性障害の原因として、幼児期から児童期に強い精神的ストレスを受けているとされる。ストレス要因としては、学校内あるいは兄弟間のいじめ、かごの鳥状態、家族や周囲からの児童虐待(心理的虐待、身体的虐待、性的虐待)、ネグレクト、殺傷事件や交通事故などを間近に見たショック、家族の死などがあげられる。

このように、多因及び心因性の障害といえる。

 交代人格の事例として、子供の人格が現れることがある。
 また、性格が全く異なる人格、野蛮な人格、反対に理知的な交代人格も見受けられることもある。
 通常は交代人格の存在を知らない場合が多いが、稀に、主人格や他の交代人格の行動を心の中から見て知っている交代人格もある。
 危機的状況で現れて、その女性の体格では考えられない腕力でその場を凌ぐ交代人格もある。
 交代人格は、その表情も会話の内容、書く文字さえも異なり、嗜好についても全く異なると言われる。例えば喫煙や飲酒の有無、喫煙ではタバコの銘柄の違い、飲酒でも好みの酒が異なることもあると言われている。
 多重人格を演技だと見る向きもあるが、心理テストを行うとそれぞれの人格毎に、全く異なった知能や性格になるという調査結果もある。その他、演技では不可能なことがしばしば見受けられる。


 神崎は蜜柑に本を返した。
「詳しい本ですね。でもやっぱり、以前会った人物の方が、生き様も症例も壮絶でしたよ」
 麻田が本を捲りながら神崎に同意する。
「特に生き様がね。虐待に我慢しながら26年も過ごしたんですもの」
「僕だったら、自死したかもしれない」
「双子だったのが、彼らにとってせめてもの救いだったんでしょうよ」
「あのあと、仕事も辞めて宗教団体に入団したみたいでしたよね」
「幸せになっていればいいけど」

 その男性の双子、今井といったか。彼等は、神崎の指南した事件の首謀者として、警察に逮捕されていた。何故かデータはサイコロ課に回ってこなかった。それは、神崎にとって好都合だった。
 サイコロ課の全員が、その事件についてはその後を知らないはず。神崎はいつものように涼しい顔をして素知らぬふりをしていたが、背中に視線を感じた。
後ろを振り向いたが、其処には反摩課長が寝ているだけ。何かの間違いかとも思ったが、神崎の動物的な勘が反摩課長にヒットした。

 もう一度、反摩課長の経歴や人となりを調べてみよう。神崎は、そう考えた。
 科警研に行き、サイコロ課の人員に係るデータを出し入れする。その中で、反摩のデータを出してみる。
反摩の経歴。総務畑や警備畑が多い。出向人事は殆どない。特にこれといった左遷人事も無く、順調といえば順調、脳天気といえば脳天気な人事配置を経験してきたようだ。
 何故、突然サイコロ課に着たのか。
 上層部から何かを請け負ってきたのかもしれない。
 神崎がサイコロ課に飛ばされた時の市毛課長のように、上層部から何かを押し付けられて動く輩もいる。
 
 しばらく双子と一緒に行動するのは控えることにした神崎。といっても、今や双子は神崎を何と思っているのか、アパートを訪ねてもいた試しがない。一体、どこで何をしているのやら。警察沙汰になるような真似は止めて欲しいと願う神崎だった。
 携帯電話は持たせていない。必要最小限しか買い与えていないのだ。
 電話の類いは、向こうから要らないと言われた。電話する相手がいないというし、神崎は電話のやりとりをしなかった。直接、双子の顔を見て健康状態もチェックしている。
 双子は医者にかかれない。というよりは、医者にかかると面倒なことになる。健康保険証を持っていないからだ。
 健康保険証は、本人確認の一番簡単な書類ともいわれる。日本は一人一保険といわれるくらい、医療保険制度がしっかりしている。アメリカなどに比べれば、本当に健康保険に加入している割合は100%に近いと思われている。
 しかし、事実は、この双子や生活保護さえ受けられない若者の間で、無保険状態の人が多く存在する。
 国は高齢者や出生率にばかり目を向けるが、若者が無職無保険になれば、結婚すらしないだろう。そんな状態で出生率が高まるわけもない。

 神崎は、双子に生活保護を受給させ、健康保険に加入させることを考えていた。二人を見つけた時はすぐにアパートに入るため、物件を選んでいる暇はなかったが、生活保護を受給すれば、もう少し真面なアパートに入れるだろう。そして神崎が保証人になればよい。
 気が付くと、またもや双子のアパートの前にいた。
 陽は長い時期だったが、神崎は科警研で一仕事してきたので、もう辺りは暗くなっていた。
 双子の部屋を覗いてみる。
 珍しく電気がついていた。
 トントン、ドアをノックする。
「おう、おっさん」
「おう、入るぞ」
「なんだよ、ビールの一本もなしかよ」
「悪い。って、お前らこの頃いつ来てもいないだろうが」
「そうか?朝から晩まで稼いでるからな」
「パチンコかスロットだろ」
「当たり。1万を5万に増やすのは大変なんだよ」
「阿呆。儲かるように出来てないだろ、あんなとこ。楽しむだけならまだしも」
「そうか?朝7時くらいから並んでるとどっかのオヤジが飯くれるし」
「ほんとはそっちが欲しくて行くんだろ」
「うっせえよ。儲かるんだって」
「またまた・・・」
 神崎は一丁前の口を叩く双子が、ワルガキの妹のように感じられる。
「ところでさ、お前ら生活保護受けてみないか。この古アパートよりいいとこに住めるし、二人の小遣いも増えるぞ。多分」
「なんだよ急に。おっさん、あたしらから逃げる気?」
「違う。病気した時にきちんと病院にいって診察うけられるようにだ。今のままじゃ病院に行けないだろ」
「病気なんかしねえよ」
「わかんないぞ。今は夏だから気にならんけど、冬になったらインフルエンザとかあるし」
「パチ屋でうつしてくるから大丈夫」
「どうして生活保護が嫌なんだ?」
「本名がばれるから」
「誰に」
「おっさんに」

 神崎は、にっこりと二人に対して笑顔をさし向ける。
「知ってるよ、府中に行ってきた」
「そうなの?」
「ああ。本名、鈴本美幸と美咲だろ。我ながら、鈴木幸と咲なんて似た名前にしたもんだと笑ったよ」
「知られたか」
「生活保護、受けたらどうだ?」
「嫌だ」
「どうして」
「おっさんの仕事手伝うなら、生活保護受けてられない」
「そうだよ、どっから足つくかわかんないし」
 神崎は、驚いたような顔で二人を交互に見つめた。
「仕事?」
「そうだよ、あたしたちに何か頼みたいんだろ」
 神崎は、一旦二人から視線を外した。床に目を落とし、そして、二人を見た。
「よくわかったな」
 双子は、笑顔もそっくりだった。
「そりゃもう。何かさせたいのは一見でわかった」
「いつ気付いた」
「初めて会った日」
 神崎と鈴本美幸、鈴本美咲は、3人でお互いを見やった。大声で笑えば近所からクレームが来る。
 3人は、口元に手を当てると笑い声を押し殺した。
「ビールでも買ってくるか」
 神崎は外に出た。
 双子の洞察力が、これまた気に入った。
 闇の仕事をするつもりの二人。生活保護の申請は止めた。拳銃での怪我だけはしないように、夏休みを取って射撃練習に行こう。

 その晩、双子のアパートでは3人がビールで乾杯していた。

第8章  季節は残暑

 サイコロ課での議論では、緑川や清野が自己愛性パーソナリティ障害(NPD)と認識されていた。
メンバーには黙っているものの、神崎自身もそうだ。演技することでサイコロ課ではその正体を隠しているが、果たして誰が神崎の本当の姿に気が付いているのだろうか。
 神崎としては、自己愛性パーソナリティ障害については本を読む必要がなかった。以前、それなりに勉強したのだから。
 だが、この障害だけを遠ざければ、それはそれで目立ってしまう。
 神崎にとっては、痛し痒しの状態だ。

 おまけに、近頃、背中に視線を感じる。
 反摩課長だ。
 こいつはただの変人じゃない。たぶん、寝たふりをして皆の様子を監視している。もしかしたら、上層部の命を受けてサイコロ課に忍び込んでいるのかもしれない。その思惑は、一体何だろう。
 自分の想像は、当たらずとも遠からずだろう。
 科警研を通して、早く正体を探らなくては。もしかしたら、幸と咲のことも知られているかもしれない。
 双子姉妹は、あるいは従姉妹で誤魔化せるかもしれないが、本当に誤魔化せるかどうかは、幸と咲の行動次第でもある。
 あいつらが危ない橋を渡れば、いつ捕まらないとも限らない。
 考えてみれば、面倒なことに首を突っ込んでしまったかもしれない。
 
 そう考えながらも、幸と咲を放っておけば、金が無くなって犯罪をエスカレートさせるだろう、と神崎は心配していた。
 心配?
 僕が、僕以外の人間を心配?
 いや違う。
 僕が心配しているのは、僕の手足になって働いてくれる人間を失うことだ。幸や咲は、手足となる資質を有している。あとは、なんとしてでも僕の手足となるべくマインドコントロールするだけだ。
 

 その日データベース入力された中に、父親が小学生の男子を刺殺した、という案件があった。早速、和田が挙手して雀たちは思い思いに囀り出す。
 トップバッターは、神崎。
「R-7ですが、これって、ただの親子喧嘩でしょう?」
 他のメンバーは黙ったまま。
「だって、中学受験のことで諍いになって、気が付いたら手に包丁握ってた、という流れじゃないですか」
 須藤が神崎の目の前でまた、メトロノームのように人差し指を振る。
「違うな。この父親は、自己愛性パーソナリティ障害だと思う。子供にも遺伝しているとみるのが妥当だ」
「自己愛性パーソナリティ障害?何故です?」
「一見、教育熱心な親に見えるが、自分の価値観を子供に押し付けてやがる。子供のことを考えているようでいて、その実 “賢い子供の父親”でありてえだけなのさ」
「そういう親はたくさんいますよ」
「ナルシズム、っていったらわかるかな。気分がコロコロ変わって、自分の思い通りに事が運ばないと人が変わったように怒り出す」
「それだってよくある話ですよ。気分屋とか」
「うーん。どういったら解り易いかねえ。俺様の話じゃ神崎を納得させられねえよ」
 ここぞとばかりに、麻田女史参上。ついでに和田も。
「自己愛性パーソナリティ障害の患者が親になると、自己の延長として子供を利用するの」
「そう。常に勉学だったり運動だったり、兎に角周囲の人間より優れるよう期待して上を目指すように励ます」
「期待通りに物事運んでるうちは、甘やかしや賞賛するけど、期待を外れると怒りを表面に出す」
「自身の自己愛が子供をがんじがらめにする一例だね」
「さっき須藤さんが言ったけど、その実 “賢い子供の父親”でありたいだけで、子供はそのツールに過ぎないわけ」
「子供は、愛されているように錯覚しがちだけど、本当の意味で愛されていることにはならないんだな、この場合」

 麻田が今度はT-4事件を穿り出す。
「鶴田前衆議院議員。この人も、例外なく自己愛性パーソナリティ障害だと思う」
 鶴田は、一般人と結婚しスピード離婚したと言われている。
 だが、女性側から言わせれば、鶴田は余りに不誠実だった。
 交際を始めた頃はとても優しかったらしいのだが、自分の両親に会わせた直後から、鶴田の態度は一変した。ここは神崎と酷似している。
 神崎の場合は女性と別れたが、鶴田の場合、子供を授かったということで女性側が別れなかったらしい。
 それでも、女性は間もなく生まれてくる子どものことを考え、早く入籍したいと訴えていた。

 女性は、子供の父親として鶴田に婚姻届の提出を迫っていたのだが、鶴田は、「まだ、実家や周辺に説明できていない」「そんなつもりはない」と逃げ回った。一向に入籍話が纏まらない中、出産日は近づいてくる。知人を介し鶴田の先輩と言う議員の協力を得て、婚姻届に署名をもらった。婚姻届は、鶴田が提出すると約束してくれた。
 ところが鶴田は、入籍する条件として、同時に離婚届を書くことを嫁に要求した。女性は、『鶴田さんは政治家だから、万が一の事態に備えておきたいのかもしれない』と、渋々、離婚届に記名押印したという。

 出産は刻一刻と迫る中、鶴田は婚姻届の提出を躊躇し続けた。「今度のクリスマス・イブに婚姻届を出そう」と言ったかと思えば、翌日に「気が変わった」と前言撤回する。鶴田の口癖は「気が変わった」だったという。
 鶴田は、この結婚話を極秘にしていた。そして先輩議員は、離婚届のことを知らなかった。そこから鶴田のモラハラが始まる。妊娠中の女性に対し、横になる時は、自分に断ってからにしろとか、身重で走れない女性に走ることを強要したりと、冷たく当たった。
 女性は次第に、実家に身を寄せる日が増えた。

 女性に子供が産まれる直前、鶴田は婚姻届を提出した。
 そして、出産。
 直後に鶴田は離婚届を提出。女性も、誠意の欠片も見受けられない鶴田に愛想をつかしていた。


 神崎は、自分が結婚したら、同じような人生を歩んだのかと驚愕した。別れたのは、女性のためでもあったに違いない、と。
 それを知らない皆は、言いたい放題である。
「ここまでしていいのか?」
「いや、よくないでしょ」
「それにしても、どうしてもっと最初に別れなかったんだろう」
「議員の妻になりたい気持ちがあったんじゃないの」
「梨園の妻と同じくらい忙しいってのに」
「外からは何も見えないものよ」
「麻田さんのいうとおり、自己愛性パーソナリティ障害ですね、鶴田は」
「そうそう。気が変わった、が口癖」
「決定的だな」
「やっぱりあたしにはわかんない。ここまでされても結婚したい女の気持ち」
「麻田さんは女じゃないから」
「よく言った!」
「神崎。和田。明日からお天道様拝めない身体にしてやるよ」
「怖いな、冗談ですよ」
「神崎さんに同じ」


 パーソナリティ障害のひとつに、自己愛性パーソナリティ障害がある。これは、自分を特別な存在と誇大妄想を持つことが特徴とされるパーソナリティ障害だ。

 自分に対する特別扱いを正とし、その見た目とは裏腹に、心の中で相手を見下した態度や無視するような気持ちを持ったりする。大切にするのは、如何なるときも、自己だけである。
 自己愛性パーソナリティ障害の患者は、尊大・傲慢で鼻持ちならない反面、野心的で有能な人物も確かにいる。
そのような人物でさえも、他人の心を推し量ろうとはしないとされる。

 挫折や反対意見、批判に我慢強く耐える能力がないばかりか、加えて共感性は皆無と言われる。また、人と協調的に仕事をすることが苦手である。
 自己愛性パーソナリティ障害の人物は、現実離れする感覚で誇大的に自己を認識しており、しばしば軽躁気分を伴う。概して現実の業績に不釣り合いな誇大妄想を持つのが常套である。
 この障害は、他者を犠牲にして自分を守るための様々な戦略を用いると言われる。他者を見下し、非難し、傷つける傾向があるという。

 定義としては、『誇大妄想、自己尊重の肥大化、自己への批判の大袈裟な反応、自己評価への過度の関心、誇大性と共感性の欠如』などの行動が持続する。

 現代では、自己愛性パーソナリティ傾向を持った人が増加しているそうだ。その中でも、極端にバランスを欠き、生活に支障をきたしている場合だけが、自己愛性パーソナリティ障害に当てはまるという。
 反対に、生活面等で周囲に適応している場合もある。そういった例は、自己愛性パーソナリティ•スタイルと呼ばれ、ひとつの個性とされるという。

 どちらかといえば、神崎はこの個性に近いものをもっていたわけだが、親友の死に慟哭したことがきっかけで、自ら奈落の底に飛び降りた。適応、不適応は環境に寄っても変わってくるらしい。

 この障害は、遺伝を疑う向きもあり、その中の誇大性は、劣等感の代償と考えられている。また、この障害を持った人間は、過度の賞賛を必要としていることが多いと言われる。
 他の障害と比べてみよう。
1 反社会性パーソナリティ障害は、法律や他者の権利を露骨に軽視する。
2 妄想型統合失調症は、明らかな妄想がある。
3 境界性パーソナリティ障害は、患者の示す感情と不安定さはずっと強烈になる。
4 演技性パーソナリティ障害は、より感情を表に出す。


 自己愛性パーソナリティ障害は、慢性になることが多く、治療が難しいと言われている。気分障害=双極性障害、うつ病などの合併もかなりの確率で見受けられ、予後は決して良いとは言えないそうだ。
 次に、自己愛性パーソナリティ障害の主な症状を挙げる。

1  自己の重要性に関する誇大な感覚、妄想(人より優れていると信じている、十分な業績がないのにもかかわらず優れていると認められることを期待する)
2  権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
3  業績や才能を誇張する=嘘
4  絶え間ない賛美と称賛を期待する
5  自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
6  人の感情や感覚を認識しそこなう
7  人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
8  人を利用する
9  劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
10 嫉妬されていると思い込む
11 他人を嫉妬する
12 多くの人間関係においてトラブルが見られる
13 非現実的な目標を定める
14 容易に傷つき、拒否されたと感じる
15 脆く崩れやすい自尊心を抱えている
16 感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える


 誇大性(空想または行動における)、賞賛されたいという欲望、共感の欠如の広域な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。診断基準は、以下のうち5つ(またはそれ以上)の項目が当てはまった場合、自己愛性パーソナリティ障害を疑う要素となる。

1 自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
2 限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
3 自分が"特別"であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または団体で)しか理解されない、または関係がある べきだと、と信じている。
4 過剰な賞賛を求める。
5 特権意識、つまり、特別有利な取り計らい、または自分の期待に自動的に従うことを理由なく期待する。
6 対人関係で相手を不当に利用する、つまり、自分自身の目的を達成するために他人を利用する。
7 共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、 またはそれに気づこうとしない。
8 しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
9 尊大で傲慢な行動、または態度


障害の原因となる因子

1 生来の過度に敏感な気質
2 現実に立脚しない、バランスを欠いた過度の称賛
3 良い行動には過度の称賛、悪い行動には過度の批判が幼少期に加えられた
4 親、家族、仲間からの過剰な甘やかし、過大評価
5 並外れて優れた容姿、あるいは能力に対する大人からの称賛
6 幼少期の激しい心理的虐待
7 予測がつかず信頼に足らない親の養育
8 親自身の自尊心を満足させるための手段として評価された


 神崎は、以前自己愛パーソナリティ障害という診断を受けていたが、そのとおりでもあり、また、反社会性パーソナリティ障害でもあるのではないかと思い始めていた。
 しかし、神崎は自分自身で事件を起こすほど幼稚ではない。どちらかといえば、自己愛性パーソナリティ障害だったといわれる三島由紀夫に近い心理を心の奥底に宿しているし、歪なナルシズムは、サルバドール・ダリにも似ている。
 同じく自己愛性パーソナリティ障害と言われた太宰治のような慢性的な虚無感や疎外感を抱えてはいないし、境界性のパーソナリティ障害とは言い難い。自殺念慮も、今のところ全くない。
 こうして色々な文献を目の当たりにする限りでは、やはり自分は自己愛パーソナリティ障害なのだろうと自己分析していた。

 親の自尊心を満足させるための手段=ツールとして自分は使われた。
 神崎は、自分が自己愛性パーソナリティ障害になった因子が今更ながらに理解できた。幼少期から人並み外れた外見と聡明さを持ち合わせていたのは事実だが、親目線での良い行動と悪い行動を強いられた。あれは小学2年の時だった。先回りして良い行動を行ったつもりが親の教育方針とやらに適わず、それどころか逆鱗に触れ、夜通し叱られたこともある。
 交際していた彼女を家に連れていったとき、母は向こうの家柄を馬鹿にした。そして彼女は離れていった。
 思い出すだけでも腹の立つことばかりだった。自分が自己愛性パーソナリティ障害になったのは、両親のせいだ。
 神崎は唇を噛みしめた。

 弥皇は、神崎の斜め前から、その様子を見ていた。普段チャラいふりをしている神崎の表情が、いつもと違い険しかった。神崎は、自己愛性パーソナリティ障害に何か関係があるのだ。弥皇の勘がそう言っている。
 
 この本を読んで顔色が変わったということは、神崎の生い立ちであり、今の神崎が抱える悩みの本質だろう。

 弥皇が神崎を眺めている丁度その時、珈琲を手にしながら弥皇を見ている反摩課長がいた。課長も、眼光鋭く課内のメンバー全員を監視している。
 弥皇はそれにも気付いていたが、麻田が気付いていないので、その話は胸にしまってある。市毛に相談しても何も前進しないばかりか、市毛夫妻を巻き込む結果になるだろう。
 和田もまだ気付いていないのか、いつもと変わった行動は見られない。須藤はどちらかといえば、反摩課長と通じているような気がする。
 夏が終わるころには、もう少し反摩の素性が明らかになるかもしれない。
 

 夏、真っ盛りのサイコロ課。
 一人当たり5日の夏休みは、神崎を抜いて皆、消化していた。一人遅れた神崎だったが、年休と合わせ2週間の夏休みを取った。
 皆には一人旅と言ってあるが、実際には幸と咲の3人で東北の地に赴き射撃場を回る予定だ。幸と咲に、射撃を教えるのが目的だった。

「まず初めにピストルだ。片手じゃ心許無いから、両手撃ちを教える」
 右利きの場合、最初に右手でグリップし、右親指を上げて左手が入るスペースを確保する。左手の掌低をグリップに密着させ、右手と同様に左手も可能な限りフレームの上の方をグリップする。左手の人差し指はトリガーガードの下に押し付け密着させる。
「前傾姿勢を心掛けろ」
「肘は伸ばしきるな。膝もだ」
「身体と左脚の爪先は正面を向けろ」
「右足は半歩後ろに置け」
 幸と咲は楽しそうにしている。
「ヒュー♪」
「あ、外れた」
「あたしは全部あたり~」
「嘘つけえ」
「ばれたか」
 
 今度はライフルに挑戦する。
「まず、射撃を行う姿勢だ。銃の構え方には、スタンディングと呼ばれる立ち撃ち、二ーリングと呼ばれる膝撃ち、あとはブローンと呼ばれる伏せ撃ちがある」
  
 スタンディングは、射撃を行う基本的な姿勢である。ライフルを構えるには銃が安定しないと目標に当たらないため、まず腕・肘で銃を安定させる。両足は肩幅に開き利き足の反対側の足を半歩前に出し体重を乗せて前傾姿勢になり、肘は開かずわきをしめる。姿勢が高い分、敵に発見されやすいことがデメリットになる。
「咲、少し後傾になってる、重心を前に持って行け」
「幸、頭を傾けるな、銃が斜めになる。頭はできるだけ垂直にしろ」
「二人とも、もっとストックに頬っぺたつけろ」
「グリップの下側を握れ。でないと疲れるぞ」
「右肩の全面に押し当てるように、そう、そのバッドプレートだ」
「よし、これでスタンディングは終える。次はニーリングだ」

 ニーリング=立ち膝打ちは、地面に膝をついて行う射撃姿勢。身を低くすることができるので敵に発見されにくく、目標の高さの変化にも対応でき、肘などを固定させて撃つことがきるので正確な射撃ができる。主に中距離に適していると言われる。
「お前たちは右利きだから、左膝を立てろ」
「立てた左膝に左の肘を付け。ライフルが安定するぞ」
「遮蔽物があるときは、其処にライフルを置くように構えろ」

 最後に、ブローン=伏せ打ちは、地面に身体を伏せて行う射撃姿勢。
敵から発見されにくく、射撃が安定するので比較的命中率が高くなる。スナイパーなどのロングレンジ(長距離)には有効な射撃姿勢。敵に発見されて攻撃された場合、素早く行動できないのが難点と言われている。
「これができれば上等だ」
 幸が肩をいからせる。
「重ーい」
 咲も同じように肩をいからせる。
「疲れるぅ」
「ピストルの次に持ったからな。仕方ないさ」

 ピストルを3日、ライフルを2日訓練し、3人は都内に戻った。

 幸も咲も、神崎が思ったとおり、筋が良い。射撃のプロの神崎が言うのだから、間違いはない。
「おっさん!どうだ!」
「あたしたち、たいしたもんだろ」
「おっさんはそろそろ止めてくれ。純ちゃんでどうだ」
「純ちゃん?チャラいな」
「そうだよ、チャラチャラ」
「まあいい。それにしても流石だな。覚えが早い」
「おっさんが的確に教えてくれるからな」
「そうそう。テレビで見るのと全然違うし」
「女性は肩の力が男性よりないから、テレビのようにはいかないさ」
「そうなのか」
「でも、こうやってぶっ放すと気持ちいいや」
「これで、スナイパーとしての訓練は終わりだ」
「あとは実戦だけってか」
「そういうことになる」

 神崎は、次回の計画として、復讐サイトを立ち上げようと思っていた。
 これには、本気で食いついてくる人間も多いだろう。
 Tor(トーア)。
 パソコン上でランダムに足跡を消していくこの技術を使えば、IPアドレスの特定ができないばかりか、使用者もわからない。パソコンを遠隔操作して誤認逮捕させることも可能だ。
 何個かTorをかませれば、すぐには面も割れないはず。
 また、偽復讐サイトに誘導してTorをかませておけば、神崎のところに辿り着く確率はますます低くなる。
 神崎は、夏休みが終わり次第、この方法で復讐サイトを立ち上げることに決めた。


 有意義な休暇を満喫した神崎たち。
 だが、望遠レンズで写真を撮られていることに神崎は気が付かなかった。
「なんかチカチカする」
 咲が目を瞬かせる。
「うん。光が差し込む感じ」
「なんだって?」
 神崎は、自分たちが何処からか写真を撮られていることに気付いたのは、ホテルに戻ってからだった。
 誰が、一体何の為に。
 神崎の行動を知りたい誰かが、カメラマンを派遣したに違いない。

 東北への旅を終え、神崎が次に行ったのは、二人に体術を教え込むことだった。教える場所がなく、神崎御用達の飲み屋の大将が代表を務める柔道教室にお邪魔し、夕方に2時間、週に3度。柔道を主に、空手や剣道など、警察官が習得する体術を次々と、実技優先で。
 というのも、双子たちは座学が苦手のようだった。
「お前たち、座学になるとすぐ眠るのに、実技のときは目が輝いてるな」
「実技大好き」
「あたしも」
「座学も重要なんだが」
「感覚で覚えるから大丈夫だよ」
「そう、感覚重視」
「まったく、お前らには負けるよ」

 ナイフでの強襲は、教えるまでもなかった。二人とも、最初から筋が良かった。
「こっちは筋が良いな」
「昔からこれで生きてきたからね」
「傷害事件でも起こしたか」
「当たり」

 神崎は笑いながら双子に告げる。
「あと足りないのは、メイク技術だけだな」
「自慢じゃないけど、メイクはしたことないぞ」
「ほら、この本。マスクで鼻から下隠せば、目だけで別人になるだろう?」
「ほんとだ」
「上手くいくかな」
「お前たちは器用だから、絶対できるさ」
「メイク道具なんて持ってないよ」
「俺が準備するから大丈夫」

 数日後。明日は夏休みの最終日である。
 神崎は都心部の百貨店に行き、ものまねメイクと関した雑誌を手に、色々とメイク用具を選んでもらった。ショップスタッフはにっこりと笑みを受かべ応対するが、顔に『あんたが化粧するんかい。こいつ、オネエか』と書いてある。そんな腹の中を気にしている場合ではない。
 雑誌と化粧品をメイクボックスに入れ、アパートに急ぐ。
 先日はカメラに撮られた。
 そのようなヘマを冒さないようにしなくては。常に鏡を手にし周囲を警戒しつつ、尾行がついていないことを確認してからアパートのドアを叩く。
「入るぞ」
「おっさん、何で鏡見てんのさ」
「ナルシストだな」
「あのなあ。これで後ろを見てるんだ」
「へえ。尾行を撒いたってわけか」
「その袋、何?」
「お前たちの化粧品とメイク道具。それから、ものまねメイクの本だ。これ真似できるようにしとけ」
「おっさんが買ったの?うげえ、オネエみたい」
「近頃はオネエキャラ多いだろうが」
「それもそうか」
「難しいことはわかんないや」
 3人は、あはは、と声をあげて笑った。

 神崎は、マンションに戻ると何台もあるパソコンの前に座った。
 そしてTorをかませ、いよいよ復讐サイトを公開したのである。

第9章  季節は秋めいて

 そもそも選民思想とは、自分或いは自分たちは、人間として、民族として周囲の者たちより優位に立っているというエリート意識を伴う。その末に優生思想が成立するわけである。
 エリートとはフランス語で『ある社会や集団の中で,すぐれた素質・能力および社会的属性を生かして指導的地位についている少数の人。選ばれた者。選良』であると定義される。

 選民思想は、必ずしも他民族・他文化の否定に結びつかない思想とも言われるが、宗教や戦争の材料にもされ、エリートと謳う一部の集団によって世界中で紛争が起こっているのが実情だ。


 日本国内を見た場合、選民思想で有名なのは三島由紀夫や太宰治と言われている。

 三島由紀夫は自己愛性パーソナリティ障害で、対人関係に過敏だったという。
 貴族的な選民意識を持ち、妥協を許さぬ完璧主義者であったとも評されている。幼少の頃から祖母に溺愛された三島は、大きな怪我をしなくて済むよう女の子だけが遊び相手だったという逸話も残る。
 雑誌によれば、この体験が彼のバイセクシュアルという指向性に大いに影響を与えたと書かれている。
 三島がバイだったとは、これまた驚きである。
 文壇デビュー当時は思うように売れず、根底にあった自尊心を否定するかのごとく、肉体鍛錬に没頭したという。
 その麗しい肉体とは対照的に、過度の消極性も持ち合わせていたと言われる。
 その後、小説家として興隆を極めた三島。
 それにも拘らず、40歳を迎え肉体的な老いを感じたのだろうか、痩せ衰えることを極度に恐れたのだろうか。
 やがて、国家主義思想に自らの意思を重ね合わせた三島は、今でもTVに出てくる劇的な自決により、肉体的な美、国家主義的な美を保ちつつ自らの人生に幕を下ろしたと言われている。


 弥皇が右手の人差し指を蜜柑に向け、クイクイッと自分の傍に呼ぶ。蜜柑が気付くまで、声を出して呼ぶでもなく、只管に同じ行動を続けている。
 やっと蜜柑が気付いた。
「何ですか、えーと、弥皇さん」
「選民思想も統合失調症の症状じゃないのかな。自分は特別な存在、ってさ」
「どうですかねえ。三島由紀夫は貴族的な選民思想を持っていたといわれています。今回の大量殺戮の容疑者に一番近い考え方です」
「僕はね、容疑者が取り調べ中、集中力が突然途切れて話さなくなったり、車で移動するときに車中から周囲に向かって笑いかけるところに、妄想性のものを感じて仕方がない」
「うーん。厳しいものがありますねえ。選民思想そのものが精神の病からきているとすれば、統合失調症も有り得ないことはないんですが」
「ないんですが、の次は?」
「三島由紀夫などは自己愛性パーソナリティ障害だったといわれていますからねえ」
「そうか、三島由紀夫か」
「そうなると、弥皇さんのいう精神症状、統合失調症及び双極性障害説は、遠のくかもしれませんねえ」
「でもなあ、どうしてもパーソナリティ障害には思えない」

 麻田が弥皇の首根っこを掴む。
「弥皇くん、もう諦めなさいよ」
「いいえ、麻田さん。僕には容疑者がパーソナリティ障害だとは思えない。何かしら精神を病んでいるとしかこの眼には映らないんですよ」
「強情モノ」
「それで結構」

 和田がまた取り成しに近づいてきた。和田の目配せに気付いた須藤も仲間に入る。
「お二人さん。喧嘩したままオチビの下に帰るんですか。泣かれちゃいますよ」
「和田くん。あたしはね、何もそこまでするつもりはないけどさ」
「そうだよ。此処を出れば、僕も麻田さんも仕事のことは一切忘れるし」
「弥皇さん。鳥みたいな脳ミソしてる」
「言うに事欠いて何てことを」
「そうよ、和田っち」
「止めてください。何度言ったらわかるんです」
「そういえば、緑川って結婚したのかしら」
「ああ、そんな話、以前週刊誌に載ってましたね」
 弥皇が顔を顰めながらブンブンと手を振る。
「まさか。緑川だって選民思想があったはずだ。自分に相応しい、華々しい男性しかおよびじゃない、ってね」
「じゃあ、あの週刊誌の人、どうなったんだろう」
「金巻き上げられて捨てられた」
「緑川自身、少なくとも二人殺して一人は未遂だろ。よくて無期。悪けりゃ死刑」
「選民思想もへったくれもない」
 和田が地雷を踏む。
「清野は選民思想ってあったんでしょうか」

 そこに神崎が首を突っ込む。蜜柑は一人でワンドをくるくる回していた。
「清野自身、選民思想はあったと思いますよ。両親に溺愛されたんでしょう。その裏には、多分に“いい子ちゃん症候群”も含まれていたでしょうから」

 清野の人と成りを一番知らない麻田が首を捻る。
「いい子ちゃん症候群?」
「そうです。幼少期から人並み外れた外見と聡明さを持ち合わせていた、と清野が勘違いしていたとしても不自然ではないですからね。小さい頃は親を喜ばせたくて一生懸命頑張ったかもしれないでしょう」
「あのレベルで、人並み外れた外見になるの?」

 3年前の一連の事件を思い出したのだろう。麻田は無造作に髪をかき上げた。
 弥皇は、牧田に刺された背中を摩る。
 和田も、骨折した肩の辺りをトントンと叩く。

 神崎だけが、何事も無かったかのように、その口からは淀みなく地雷言葉の羅列が並べられた。
「まあ、周囲の判断は判断として、清野が弥皇さんを狙ったのは、選民思想の表れですよ。麻田さんは選民思想無いから金の有無なんて気にしてなかったでしょう?」
「まあね」
「自分くらい容姿が良くて頭脳明晰な人間には、弥皇さんくらい金持ちが似合う、清野がそう考えてもおかしくはない」
 弥皇の目が三角になる。
「死んでしまった人を悪く言いたくはないけど・・・あのくそ女。麻田さんに泣かれたんですよ?去られそうになったんですよ?今、あいつが地獄から帰ってきたらまた地獄に突き落としてやる」
「麻田でも泣くのか」
「弥皇くん、あたし、泣いてないと思う」
「そうでしたっけ。別にどちらでも構わないけど。あれで僕も目が覚めましたから」
「あの辺りは弥皇さん凄かったですもんね。長期休暇とかいうから、市毛課長困ってましたよ」
「悪かったとは思ってる。でも、そのお蔭で今があるから。皆ハッピー」
「またのろけるか」

 和田が、弥皇ののろけを封鎖して人差し指を上に立てる。
「選民思想といえば、東北で安倍先輩と付き合ってた新田、あれも選民思想ありましたよね」
「あの人、自己愛性パーソナリティ障害じゃない?」
「絶対そうですよ。何でも、母親のために勉強して大学を出たとか。母親が望んだから公務員になったらしいですよ」
「選民思想とどう繋がる」
「新田はね、いつも二股かけていたんです。で、お決まりのフレーズが“君は僕に何をしてくれるの”だったそうで」
「何だ、そりゃ」
「女性二人を煽って競い合わせるんですよ」
「すげえ、自己愛性パーソナリティ障害まっしぐらじゃねえか」
「じゃあ、安倍先輩も尽くしたの?」
「安倍先輩は佐藤と離婚して独身に戻ったときでして。養育費も払っていたし、女らしいことは何一つしなかったらしいです」
「えっ、養育費って、男性が女性に払うものだとばかり思ってた」
「普通はそうよね。だって、佐藤は公務員で安倍先輩以上に収入あったんですもの。養育費って不可解だわ」
「それが新田とどう繋がるんですか。今は新田の話ですよ」
「まあ、いずれ女として新田に尽くすことになんねえだろうなあ」
「ええ。最初に安倍先輩と二股掛けられた女性が怒って安倍先輩の車を壊したり、凄かったそうですよ」
「で?」
「挙句の果てに、その彼女が新田に“ブランド物のお高いバッグ2個買ってくれれば別れてあげる”と言ったそうで」
「ありゃー」
「新田がどうしようかと悩んでいたら、安倍先輩が“買え買え、物で心つかもうなんてたかが知れてる”って」
「男前だな」
「当時の安倍先輩は周囲から”姐さん“と呼ばれてたみたいですから」
「新田は、どういう選民思想持ってたんだ?」
「自分に尽くす女=都合の良い女=真面な女、かもしれない」
「なるほどな。選民思想というよりは、浮気性だ」
「ジゴロじゃないんですか」
「安倍先輩が佐藤の下に残した子供たちのことを考え出して相手にされなくなって、また二股かけたらしいですからね」
「で、安倍先輩は大泣きして別れた、って訳か」
「そう」
「そういえば、佐藤も新田も、以前の妻や彼女からもらったニットやら洋服やらを大事に仕舞ってたという話、聞きました?」
「あたしは聞いてなかった」
「どう思います?」
「あたしはプレゼントとかしないからだけど、あまり気持ちのいいもんじゃないわね」
「男性方は?」
「俺は気にしねえな。だって、今好きなのは目の前にいる女だろ」
「僕なら捨てますね。失礼じゃないですか、付き合ってる女性に」
「神崎くんも紳士だね。僕も同じ意見」
「和田くんは?」
「僕?多分忘れてそのままになっていると思います」
「すげっ、彼女の気持ちはどーすんだよ」
「目の前で捨てるからいいんです」
「お前、ジゴロの才能あるな」

 和田が右の口角だけを上げて、ニヤリと笑う。
「たぶん、須藤さんには負けますよ」

第10章  季節は晩秋 ~銀杏の樹~

 少年、少女の自殺は、夏休み明けや、春休み明けに多いと言われる。
 母親から休み中の宿題を済ませるよう急かされ、たとえ夏休み前に苛めに遭っていても、少年少女たちはそれを口に出来ない。
 何故、少年たちは未来を諦めるのか。
 新聞を前に、麻田が拳を握る。
「ああ、もう。苛めがあるなら訴えればいいのに」
「一概に言えませんよ、麻田さん」
「少なくとも弥皇くんはそういう思い出がないように見える」
「僕だって苛めの1件や2件、経験してます」
「金持ちでも苛めに遭うんだ」
「金絡みだからこそ、です」
「怖い世の中ね」
「そういう麻田さんは苛めとか遭ったことないんですか」
「あたしは女子の中でも大きかったし、昔は空手とか柔道習ってたから」
「女の子なら、バレエとかピアノでしょう」
「弥皇。あたしに喧嘩売るな」
「また怒る。折角の美人さんが台無しだ」
 麻田が、がるるるる、と犬のように鳴く。

 水曜日。蜜柑も漏れなくサイコロ課に顔を出していた。
 その日は児童生徒の自死の話から議論が始まった。

 蜜柑は、サイコロ課の椅子に寄りかかり、自死の言葉を聞き、両親が自爆事故でこの世を去った日を、つい昨日の事のように思い出す。

 あれは蜜柑が高校生になった年、秋の終わりごろだった。

 父の姉と、母の弟が遺体確認をし、DNA鑑定をして本人特定に繋がった遺体。蜜柑は高校生だったが、その蜜柑にも見せられないくらい、遺体は損傷していたという。


 元々は、父が職場でパワハラを受けたのが原因だった。
大企業に吸収された中小企業の営業マン。本社に栄転の内示が出たが、事実は栄転ではなかった。暑い日に部署の人数分の飲料やアイスなどの購入。アルバイトの代わりのような仕事をさせられた。
 新規で入社してくるのは、政治家や財閥の子女たち。それらは往々にして仕事をしない。口を開くと思えば、ランチやディナーの店選びか、上司や周囲の中小企業出身の栄転組を見下したような悪口。
 新入社員に見下され、上司には延々と文句を言われ、栄転組は一定の割合で会社を去るか、うつ病を発症していた。

 蜜柑の父は、うつ病を発症して本社から出向組として系列会社に出されたが、すぐに戻された。そして追い出し部屋と呼ばれる、辞表提出を促す部屋に入れられ、うつ病が進行した。集中力は低下し、仕事の能率も落ちたらしかった。家族との会話を大切にしていた父だが、自ら部屋に閉じこもった。あんなに家族を大事にした父が、会社から帰ると、休日の日には、いつも寝てばかりだった。
 朝起きても、「おはよう」の一言が言えなくなった。
 母や蜜柑は父を心配し、会社を辞めるよう進言したが、父にも意地があったのだろう。辞めてしまえば、もう働き口がないという危惧も心を支配していたのかもしれない。
 母の心配を余所に、父は会社に居残り続け、父母は喧嘩する日が増えた。

 そして母自身もうつ病を発症し、朝、起きられなくなった。蜜柑は母の手弁当を持って通学していたが、朝起きない母の代わりに、自分で弁当を作らざるを得なかった。母は、頭痛がして家事に集中できなくなり、夜も眠れなくなった。
 母は都内でもメンタル系で評判の良い美馬メンタルクリニックに通い、父のことを相談し始めた。

 そんな時だった。

 晩秋。平日の昼下がり、蜜柑の家に美馬院長が姿を見せた。父は会社、蜜柑は試験休み。蜜柑は背の小さい中年男性が家に入る所を二階の自室から覗き見て不審に思った。平日の昼間、営業マンのような服装でもなければ、工事関係者でもない。
 玄関で、母の声が聞こえた。
「あら美馬先生、どうしたんです?お休みの日にわざわざお越しいただくなんて」
 美馬?
 母の通っているメンタルクリニックの医者が、なぜ家にまで来るのか。それも休診日というではないか。
 蜜柑は不穏な空気を感じとり、じっと息を潜めた。
 次の瞬間、母が小さくキャッ、と悲鳴にも似た声を上げるのが聞こえた。何が起きているのか、階下の物音や声を聴けば、自ずと想像がついた。
 
 母は、レイプされているのだ。

 高校生の蜜柑は、どうしたらいいのか分らなかった。大人になった今だったら、堂々とその場に乗り込んで美馬を追い出したに違いない。
 しかし、15,6歳の少女にはそんな大胆な行動力も、策を巡らす頭脳も無かった。階下の物音が止むまで、息を押し殺し寝ているふりをしているしか方法が見つからなかった。
 小一時間すると、美馬と呼ばれた男は玄関から出て行った。
 夕方まで、蜜柑は寝ている芝居をうった。夕方にやっと起き出したふりをして階下に降りると、母は、努めて明るく振舞っているように見えた。

「寝過ぎよ、薫子」
「試験終わったら気が抜けちゃってねえ」
「その語尾、何とかならないの」
「こればっかりはねえ。癖だし」

 母は、それからも美馬クリニックに通い続けていた。
 ということは、あの光景が延々と繰り返され、二人は親密な関係になったに違いない。俗に言う、W不倫というやつか。
 当時の蜜柑は今よりも清廉潔癖ではあったが、父母が同時に滅入っている姿を見ていた。その中で母が望んで行動しているのなら、そのままで構わない。そう思っていた。そう思っていたのは、蜜柑だけだった。

 W不倫は、いつしか終焉に向かっていたようだった、その証拠に、3ケ月もすると、母はクリニック通いを止め、別の病院にセカンドオピニオンを求めていた。父には、まだ何も知らせていないはずだった。
 
 ある日曜日、家族3人で夕食を摂っていたところ、父の携帯電話が鳴った。出てくれという父に従い、蜜柑は電話に出た。
 男の声だった。父に代わってくれという。何処かで聞いた声。
 父に代わった。
 瞬間、蜜柑は声の主を思い出した。美馬だった。
 蜜柑は、父に電話を渡したことを後悔した。
 最初は頷くだけだった父の目に、明らかに怒りの炎が宿った。普段物静かな父が、五月蝿い、と怒鳴って電話を切った。
 
 父は電話を切るや否や、母に掴みかかった。
「お前は陰で男と楽しんでるのか。俺がこんなに苦しいのに」
 母はただただ、怯え立ち尽くすだけだった。
「来い」
 父は一言だけ発し、母の右手首を掴んだ。そして夜の帳が降りた闇の中に、二人は消えた。


 そして、自爆事故が起きた。
 父は港の埠頭に車を停め、車内にガソリンをまき、火を放った上で母にも炎を向け、自身もガソリンを被った。そう、無理心中を図ったのだ。
 起こるべくして起きた事故だった。
 警察から連絡が来ても、蜜柑は泣かなかった。
 父も母も苦しみから解放された。思うのは、それだけだった。

 初七日が明けた頃、美馬と名乗る男性が弔問に訪れた。親戚たちはもう蜜柑の家を離れ、家には蜜柑だけだった。
「美馬と言います。このたびは、何と言っていいか・・・」
 あんなに策を巡らすことの出来なかった高校生は、今やこの場にいない。大胆な行動力で蜜柑の口を吐いて出てきたのは、弔問への感謝の言葉ではなかった。

「父に電話したのは貴方でしたか」
「何のことです」
「父母が自爆した日に電話をくれたでしょう。声が同じでした」
「それは・・・」
「ご家族に知られたくなかったら、私の保護者になってくれませんか。心理カウンセラーの道を歩みたいので」
「君。余りに失礼な物言いじゃないか」
「失礼な態度で母をレイプしたのは貴方でしょう。最初の日のこと、忘れましたか」
「最初の日?」
「貴方が家に来て母をレイプした時、私、二階で起きていたんです。声は全部聞こえていました」
 美馬は、ぎょっとした顔をして後ずさった。暫く何か考えていたようだったが、八月一日(ほずみ)の名字ではなく、八朔(はっさく)としてなら面倒を見ようと、低く聞き取りづらい声でごもごも言う。

 言うなれば美馬は、患者である30代後半の母をレイプし女として目覚めさせ、自分に都合の良い女としてキープしていたらしい。
 母がクリニック通いを止め連絡も取れず、家にも入れなかったことから、父に嫉妬し、全てを父に告げ、父母の離婚あるいは騒ぎに乗じて母のメンタルが弱るのを待っていた、というのが真相らしかった。
 それが、自爆事故に繋がった最大の要因。
 美馬は、そのことが世間に知れ渡ればクリニックの評判が下がるのを気にしていた。


 こうして、蜜柑は美馬に面倒を見てもらい、八朔薫子としてクリニックの手伝いをしながら、心理カウンセラーになる勉強を始めた。
 流石に、八月一日という珍しい名字では母との関連を探られるのが嫌だったらしい美馬は、蜜柑に対しお金だけは出してくれた。
 
 
 これが、周囲に流れていた蜜柑援助交際説の真実だった。


「蜜柑さん、蜜柑さん」
 誰かの声がする。
「蜜柑さんってば、魂どっかに吹っ飛んでる」
 和田の声だ。
 蜜柑は和田の方に向き直る。
「どうしました、和田さん」
「苛めだけが長期休み後の自死に繋がると思いますか」
 小学生、中学生の長期休暇後の自死について議論していたのかと、蜜柑は漸く気付いた。

「昔だったらそうかもしれません。今の時代は虚空間といいますか、家庭内の過剰な介入が少年たちの夢を剥ぎ取っていく。それが自死の原因とも言われていますねえ」
「夢を剥ぎ取る?」
「偏差値だとか、入れる中学校、高校のレベルばかり気にして、夢を具現化させる補助をしませんからねえ、今の親も学校の先生も」
「だから小中学生の自死が多いと?」
「小学校高学年から中学にかけては反抗期とか思ってる人々も多いですが、反抗期だけじゃないんですねえ。夢を引き裂かれた結果なんです」
「それなら、この事件も説明がつきますね」
「ごめん、聞いてなかった。どんな事件」
「じゃあ、僕から説明しますよ」

 小学校6年の少年が、夏休み明けに自死した。苛めなどの問題は見当たらず、父との諍いだけがあった。少年には果てしなく広い夢があった。宇宙に飛び出す、という少年らしい夢。小学校低学年から少年が熱く語り続けていたその夢は、父親の言葉一つで反故にされた。
 少年は将来、理系の大学に入り夢を追求したいと教師にも話していたが、父親は文系の大学に入りメディア関係に就職することを少年に言い渡し、少年と諍いになり、少年は大人になりたくないという遺書を認め高層マンションから飛び降りた。
 少年が自死した後に、父親は学校で苛めがあったに違いないと学校を訴える姿勢を見せた。
 しかし、学校で苛めは確認されず、少年が残した遺書は母親が公開しようとしなかった。
 自己愛性パーソナリティ障害と思われる父親に反旗を翻した少年の最期。
 父親は、遺書を見せられた今でも、苛めがあったと公言して憚らないという。また、メディアでは『ピーターパンシンドローム予備軍』と報道されたという。誰も少年の本意を認めようとせず、少年にとっては無念の自死となったのである。
 ピーターパン症候群、あるいはピーターパンシンドロームとは、主に大人の男性が精神的に大人になりきれていない症状を指すという。社会人として生活していく能力の欠如が往々にしてみられることから、精神医学会では提唱されていないものの、パーソナリティ障害とみる向きもある。
 

 もう一つ、先に論じた殺人事件があった。こちらは同じ小学校6年の男子を父親が刺殺したというものだった。
中学校の受験先を父親が決めたことで、少年は周囲に不満を漏らしていたという。こちらは自死ではないが、中学に入学して、果たして父親の思うように行動したのだろうか。
 今更の話としても、少年が父親のロボットから逃れようとした可能性は低くない。自己のアイデンティティーを持ったが故の確執だが、父親が自己愛性パーソナリティ障害でなければ、この例も違った方向にシフトしていたことだろう。

 血の繋がった親子とはいえ、皆が皆、同じベクトルを向いているとは限らない。行き過ぎた放任はネグレクトにも繋がりかねないが、個々の個性や夢を打ち砕いては、親として失格なのではないだろうか。
 

 皆の議論を聞きながら、蜜柑の手にはワンドが握られていた。
 ワンドの尖った部分を自分の方に向けながら、蜜柑はまた夢想に耽った。


 いつか美馬院長を失脚させ、願わくは命さえも取る。
 これが蜜柑の究極の目的だった。援交と噂され見下されても、この目的があったから蜜柑は我慢してこられた。

 美馬院長は50代後半に差し掛かっていた。病気になる様子は未だ見られない。事故を装って死なせるのもまた一興。
 どうすれば自分の中にぽっかりと空いた家族愛を埋めることができるのか。
 蜜柑は知らず知らず、溜息を吐いていた。
 そんな蜜柑をみて、弥皇が寄ってくる。そして蜜柑の耳元で囁いた。
「蜜柑さん、ちょっと時間いいですか」
「今ですか、それとも帰り?」
「帰り。珈琲ご馳走しますよ」
「子供さんは?いいんですか、すぐに帰らなくて」
「麻田さんが鐘とともに帰るから。市毛夫妻もいるし」
「私は良いですけど」

 蜜柑はサイコロ課の連中に興味が無い。心理を扱う人間として、ざっと解説することはできるが。
 幸せオーラを解き放つ弥皇や麻田は、どちらかと言えば苦手な部類に入った。麻田は見たままの性格なのだろう。裏表もない。弥皇は何を考えているかわからないから特に苦手だ。
 須藤は、これも単純な男だが、蜜柑の見る限りでは、麻田に対する気持ちだけは押し留めているように見える。弥皇は気が付いているようだが、そんな素振りはチラとでも見せないでいる。
 和田は天然坊やに見せかけているものの、その実は策士。近づけば自分の心理が読み解かれないとは限らない。
 神崎は和田以上の策士。チャラ男のイメージを抱かせつつ、サイコロ課の中では一番危ないイメージが先行する。
 反摩課長は寝たふりばかりしているが、一度も熟睡している所を見たことが無い。起きて珈琲タイムの時ですら、皆を見ようとはしないが議論や無駄話に耳を傾けている。何か思うところがあって皆を観察しているのだろう。それに気付いているのは、弥皇と神崎だけのようだが。須藤は気付いているのかいないのか、わからなかった。麻田は完全に気付いていない。もう少し周囲を観察するべきだ。

 今日は終日、児童生徒の自死について議論していた。よくもまあ、8時間の大半をくだらない議論で持たせているなと思う蜜柑。
 そういえば、此処も要らない連中が集まっているのだと聞いた。
 父と同じ、追い出し部屋の職員か。会社に限らず、よもや警察に追い出し部屋があるとは知らなかった。でも。父の会社と違うのは、皆の目が生き生きしていることだった。皆、この仕事が好きで集まっているように見えた。最初サイコロ課の噂を聞いた時、室内の空気と余りにも違和感があった。

 こんな楽しい追い出し部屋なら、父が精神を病むこともなかっただろうに。いや、楽しくない人にとっては、ここも神経を擦り減らす追い出し部屋か。

 そして、美馬院長がオファーを受けた理由が解った。美馬メンタルクリニックを出ていけ、そう、サイコロ課を蜜柑の追い出し部屋に使う気なのだ。

 そうはさせてなるものか。
 美馬院長を失脚させるまでは、どんなことがあっても、あの病院を離れない。

 
「お疲れ様」
 麻田が蜜柑の肩を叩く。
 蜜柑が我に帰ると、もう退庁時間になっていた。
「弥皇くん、よろしく」
 麻田は弥皇の背中を叩くと、ドアを開けて廊下に消えた。

「さ、行きましょうか、蜜柑さん」
「はい」
 蜜柑は、何故弥皇が自分を誘ったのか、見当がつかなかった。いつも議論に交じらないから注意されるのか。なら、あの場でそれを口にするはずだ。
 この先の動向が分らない時ほど心配なことは無い。
 まさか、蜜柑の計画を察知したわけではあるまい。

 警察庁を出て、裏の細道を入っていくとどこか鄙びた感じのする珈琲ショップが見えてきた。
 弥皇の性格からすると、もっとスタイリッシュな珈琲ショップに入るのだとばかり思っていた。
「意外ですねえ。弥皇さんの趣味ですか」
「和田くん御用達のお店」
「ああ、情報収集のための」
「当たり」
「和田さんらしい」
「入りましょうか」

 珈琲ショップの中は、こじんまりとしていた。カウンター席と、相席が4つ。古めかしいブリキの玩具や看板が、所狭しと並んでいる。
 弥皇はカウンターを見ることは無く、一番奥にあるテーブルに進んだ。
「座ってください」
 弥皇は椅子を引くと、蜜柑を座らせる。その後に自分が席に着いた。
 こいつ、フェミニストというやつか。蜜柑の中で、人間観察が始まった。
「珈琲二つ、お願いします」
 店員に告げた弥皇は、身体ごと前にのめり、声が低く小さくなる。
「気を付けてください」
 弥皇は、開口一番、そう告げた。
 蜜柑は何のことか、脳内の引き出しを全部開けてもわからない。一瞬、返事が遅れた。
「何に?」
「美馬院長」

 蜜柑は心臓が飛び出しそうになる。弥皇は何処まで蜜柑の素性を知っているのか。何処まで蜜柑の計画を知っているというのか。
 余りに慌てた蜜柑は、メニュー表を床に落としてしまった。
「いいですよ、僕が取りますから」
 弥皇が席を外して床のメニュー表を拾う。

 蜜柑は探りを入れる。
「どうしてそう思うんです」
「先日、会う機会がありましてね。あの人は危ない」
「何処が危ないんでしょう」
「目、ですかね。あの目は完全に自己愛性パーソナリティ障害だ。聞くところによると、高校時代から保護者になってもらってるとか」
「はい」
「何か事情がありそうですね」
「弥皇さんに話すつもりはありません」
「強制はしません。ただ、彼は貴女を遠ざけようとしているのは確かだ。でなきゃ、わざわざサイコロ課に推薦なんてしませんよ」
「オファーがあったから、私が選ばれたと聞いてますが」
「サイコロ課も警察庁も、そんなオファーは出していない。どうやら美馬院長からのゴリ押しらしいですよ」
「それで何か」
「率直に言えば、病院を辞めた方がいいのではないかと」
「辞職するつもりはありません」
「なるほど。辞職できない理由あり、か」

 この間3分。
 ショップの店員が、珈琲を運んでくる。
 弥皇は、ゆっくりと右手でカップを持つと、ブラックのまま飲みだした。
 今度は蜜柑が弥皇を質問責めにする番だ。蜜柑は手が小刻みに震えていた。
「弥皇さん。院長のこと、後は誰か知ってますか」
「麻田さんは知ってる。他の人は会ってないから知らないんじゃないかな」
 蜜柑は胸を撫で下ろした。
 皆に美馬院長のことが知れていれば、それはそれで蜜柑が窮屈になる。
「弥皇さん。このこと、箝口令布いてください」
「了解。でも、知られちゃった分にはYESと言うしかない」
「それで構いません」
「どうしてご自分の身を守らないんですか」
「恩を仇で返す様な真似は出きませんから」
「そもそも、ご両親が無くなって直ぐに、保護者として名乗りをあげていますよね」
「そのことについては、申し上げられません」
「僕、貴女の素性調べさせていただきました」
「そうでしたか」
「キーポイントは、高校生の時ですよね、貴女の場合」
「保護者の件ですか?たまたま母が通っていたクリニックなだけです」
「ふうん、ま、いいか」
 蜜柑は珈琲を飲み終えた。
「では、今日はこの辺で」

 珈琲代を出そうとすると、弥皇に止められた。
「今日は僕の奢りで」
「では、ご馳走になります」
 蜜柑は足早に席を立ち、店の入り口に向かって小走りになり、店の外に出た。

 美馬院長が自己愛性パーソナリティ障害なのは知っていた。クリニックでも知るものは少ないはずだ。何故なら、美馬院長の場合、自己愛性パーソナリティ•スタイルと間違われているからだ。
 弥皇は、蜜柑のことを調べたと言った。一体、どこまで調べ上げたのだろう。父母が自爆した直接的な原因は美馬にある。それとも、まさかそこまで、全て調べ上げたというのか。
 いや、あの態度なら、蜜柑の計画を最後まで知っているわけでは無かろう。

 弥皇たちをはじめ、サイコロ課の人間に知られてはいけない。
 
 蜜柑は帰宅後、いつものように夕食のフランスパンを丸ごとかじりながら、パソコンをつけ精神相談のサイトを見る。
 だが、今日は弥皇の言葉と態度が気になって、仕事にならなかった。気晴らしにインターネットで『復讐』と入れてみた。
 
 そこに浮かびあがったのは、復讐サイトだった。
 今迄見たことが無いサイト。
 復讐相手と復讐方法、復讐時期を入力して送信すれば、願いを叶えてくれるという。
 馬鹿馬鹿しい。
 それで済むなら、今迄我慢してきた年月が水泡に帰してしまう。少なくとも蜜柑にはそう感じられた。
 
 それでも、何かしら入力せずにはいられなかった。これが本物でないとしても。
 蜜柑は、美馬院長の姓名をまず入力した。続いて、復讐方法。考えに考えた挙句、事故に見える死に方を選んだ。
 泥酔し何処かの公園で眠り呆けて凍死する、あるいは、やはり泥酔し真夜中に道を踏み外し道端の側溝に転落する。どちらも、人気のない場所で犯行は行わなければならない。
 雪の日は夜の外気温がそんなに低下しないものの、放射冷却で地面が凍り付いた日なら、滑って側溝に落ちてもおかしくない。
 故に、復讐の時期は雪の日。都内では雪が積もることすら早々ない。
 美馬院長の自宅は緩やかな坂の上にある。そこに照準を合わせての犯行であれば、事故として処理されるだろう。

 蜜柑は全てを入力し終えると、パタン、とパソコンを閉じた。

第11章  季節は冬

 神崎のマンションでは、神崎が何台かのパソコンを手早く弄っている。
 サイトを見て、釣りや祭りでない案件を絞り、Torを使って順次別のサイトに移行させていく。
 結構な件数が着ていたが、面白そうな案件は殆どなかった。不倫が元で夫婦喧嘩をしたから相手の女に復讐したい、そんなくだらない案件ばかりだった。

 しかし、1件だけ神崎の目を引いた案件があった。
 美馬メンタルクリニックの美馬院長を事故に見せかけ殺してほしい、というものだった。
 サイコロ課で聞く限りでは、美馬院長の評判は好く、誰かに恨みを買いそうな人柄でもないはずなのに、こうして殺人依頼が舞い込んだ。
 依頼が1件だけと言うことは、複数の人間に恨まれているわけでもないだろう。

 神崎は、この依頼を受けることにした。
 コピー用紙を一枚取り出して、幸と咲に指令するためのメモを書く。
 雪が降る季節になったが、まだ雪が降る気圧配置でもない。雪が降っただけで首都圏は混乱する。その騒ぎに乗じれば、犯行は難しくないだろう。
 初めに幸と咲がすることは、美馬院長の生活リズムを知ることだ。行きつけの飲み屋を探しだし、そして酒を飲ませ泥酔状態にしなくてはならない。
 今年中に、そんな天気になるとは言い難いし、これは持久戦になる。雪が降っていなくとも犯行は可能だが、今迄泥酔したことの無い人間が突然泥酔すれば、家族に気付かれる。

 犯行は、慎重に行わなければならない。

 メモを書き終えた神崎は、とっておきの極上白ワインを口に含んだ。まろやかな酸味が口の中に広がる。
 血の色をした赤ワインが、犯行には相応しい。
 

 翌日、神崎は朝早く起きて幸と咲のアパートに向かった。鏡で周囲を見ながら、尾行がついていないことを確認する。
 幸も咲も、寝ているかもしれない。以前はドアをトントン叩いていたが、ドアを叩けば周囲に何かしら気付かれる。今では、合鍵を使って双子の部屋に出入りしていた。
 二人とも寝ているだろうと思っていた神崎。
「あ、おっさん」
「おっさん、おはよ」
 ところが幸も咲も眠気など感じさせない様子で起きていた。布団は物入れの中に片づけてある。
 いつから起きていたんだろう、神崎が聞こうとしたところ、彼女たちの手元に視線がいった。
「なんだ、これ」
「ヅラに決まってんじゃん」
「何でヅラ」
「おっさん、考えてみなよ。どっかでやらかすときに、化粧だけで何とかなりゃしないよ」
「そう。髪型も大事だよ、目撃させるとしても」
「お、おお。そうだな」
「だから、安いウィッグ買ってきたんだ。男性にも女性にもなれるようにね」
「自分たちの髪はお互いに短く切るとして」
「男性用のウィッグをどうやって作るか、お悩み中」
「髪の長めな男も多いさ。女性用のを切って、根元辺りで結んだらどうだ?」
「その手があったか」
「で、おっさん、此処に来た理由は」
「そうだった。依頼が迷い込んでな」

 神崎はメモを鞄の中から取り出すと、幸と咲に渡した。
「へえ。復讐サイトか。おもしれえ」
「ふーん。こいつが今回のターゲットか」
「何で恨みを買ったのやら」
「陰で患者にレイプとかしてんじゃねえの。でなけりゃW不倫とか」
 神崎はそこで依頼理由が判明したような気がした。
「すごいな、お前たち。俺は皆目見当もつかなかったよ」
「そりゃおっさんが男だからさ」
 幸と咲が同じ顔でニヤリと笑う。
「で、当面の目標は、このオヤジの生活リズムを掴むことか」
「ああ、お願いする。尾行してくれ」
「おっさん、探偵みたい」
「似たようなもんさ」
 幸の口がすぼむ。
「まさか、警察の手下とか」
 今度は咲の目が三角になる。
「げっ、それはちょっと。捕まったら嫌だ」
「俺が警官だったとして、お前ら捕まえて何になる。自分も捕まってしまうわ」
「囮捜査とかしてんじゃねーの」
「日本の警察は囮捜査できないの。じゃ、尾行の方、よろしく頼むな。取り敢えず1週間」
「へーい」
 
 神崎は、周囲に気を配りながらアパートのドアを開けた。誰も尾行している様子はない。足早にアパートを離れると、余裕を持った足取りで警察庁へと歩きはじめるのだった。


 弥皇は、近頃誰かに尾行されていた。
 ここ1週間の話である。
 ちょうど、駅に着く頃から尾行が始まっている。マンションから駅までは、人目につかないよう営業車を使っているので尾行も付いて来ていない。駅に着くと、決まって同じ顔が弥皇の近くをうろついていた。
 蜜柑に美馬院長のことを注意した翌日くらいからだ。
 マンションに入る時と出るときは、細心の注意を払っている。マンションの部屋番号は、一族の一部と市毛夫妻しか知らない。
 駅から尾行が始まるということは、つまり、相手に弥皇の棲家がばれていない証拠だろう。
 サイコロ課に勤めて5年。今のマンションに移り住み4年になろうとしている。
 今迄色々な事件があったが、尾行された経験は初めてだ。この世知辛い世に、サイコロ課ほど必要とされていない職業は無かろう。
 それなのに何故。
 さては、元々尾行がついていたのは蜜柑の方だったか。
 となれば、依頼主が誰なのか、それは考えなくとも分る。蜜柑がサイコロ課に出向くようになり、その動向を押さえておきたかったのだろう。その蜜柑が一緒に珈琲店に入ったとなれば、こちらまで尾行の範囲が及ぶのは納得できる。
 
 それにしても、あからさまな尾行。いや、単に尾行が下手な探偵なのか。相手が探偵風情なのは、だらしのない服装を見ていれば、一目瞭然だ。
 一族に連絡すれば、一瞬でこの探偵ごっこも終了するが、如何せん、一族が絡むと事が大きくなる。かといって、子供たちや麻田さん、市毛夫妻に魔の手が及ぶ可能性は否めない。
 どちらにせよ、このまま放っておくわけにはいかない、ということか。
 弥皇はどこかに電話した。
「もしもし・・・」

 
 幸と咲に美馬院長の尾行を命じてから1週間が経った。
 神崎は、金曜の夜遅くに幸と咲のアパートに行った。今日は灯りがついていない。尾行の途中ということか。それにしても夜遅いのは危ない。明日の朝、出直すとするか。ついでに夜の尾行については細心の注意を払うよう言い聞かせねば。
 アパートを背にして、自分のマンションへと向かう神崎。
 ふと、誰かに尾行されているのを知った。
 複数人。街灯に合わせて鏡を使っても、相手の姿は見えなかった。
 マンションに帰るのは危ない。神崎の勘がそう告げる。行く先にコンビニが見える。まず、そこに立ち寄ろう。
 コンビニに入ろうとしたときだった。相手がこちらに向け走ってくる足音が聞えた。
「おっさん!」
 尾行の主は、幸と咲だった。
「何買うの?夜食買ってよ!」
「お前たちだったのか」
「へーん、尾行には気付いてたってか」
「俺を騙しきれると思うな」
「でも、男の尾行だと思っただろ」
「ちゃんと姿見えなかったろ」
「ああ。どうやって騙した」
 幸と咲の格好を見る。二人は神崎が譲った男物のシャツとパンツを着て、一人はMA-1のジャケットを羽織り一人はダウンジャケットを着て、二人ともマフラーで口元を隠しかつらをつけていた。二人とも、靴だけはスニーカーではなくデッキシューズを履いて足下が重くなるように工夫を凝らしている。
「100点だ」
「おっさんに気付かれたから90点」
「10点の差は何だ」
「夜食を食わないと死んでまう」
「返事になってないな。いいよ、何でも好きな物選べ」
「おう。で、結果なんだけどさ」
「これからアパートに行こう。道すがら聞くよ」
「へい」
 コンビニで夜食やビールを買い、アパートへと引き返す。

「で、どうだった?」
「どうもなにも、変態だな、あのオヤジ」
 幸が吐く真似をする。咲も顔を顰めた。
「院長が?」
「そう。毎日違う女連れてさ。ホテル行くんだよ」
「ラブホテルの類いか?」
「そうそう。安普請のホテル。で、あたしらもつけて行って、一度隣の部屋に陣取ったのさ」
「女同士で入ったのか、お前ら」
「そんときは変装してたんだよ。男と女に」
「なるほど」
「でさあ。隣から聞こえてくるのが、どう頑張ってもレイプ劇だったりするわけよ」

 幸は話しながら手を振る。
「初めての女じゃなさそうなんだよ?女も黙って一緒に入っていくし」
 神崎は呆れてモノが言えない。人間だから色んな趣味はあるだろうが、余りに強烈。
「院長の性的志向か」
 咲が唇を尖らせる。
「キモいオヤジ」
「で、休日はどうだった?」
「そうそう、それそれ。あそこ水曜休みじゃん。ゴルフの格好してクラブ担いでるからゴルフ場にいくのかと思ったら、住宅街に入っていってよお」
「その辺の玄関で『あら先生、どうなさったんです』って」
「それで?」
「お定まりのレイプ劇場」
「げっ。って、外まで声聞こえたら犯罪で捕まるだろ」
「いや、途中でぶつかった拍子に、オヤジのバッグに小型盗聴器仕掛けた。外には聞こえてない」
 神崎は飛び退く。
「どこで買った」
「ネット。請求書はおっさんにつけとくから」
「俺の名前で買ってないだろうな」
「任せろ。あたしの名前で買ったから」
「盗聴器回収したのか」
「次に回収するさ。あのオヤジじゃ気付かねえよ」
「盗聴器の話はまた今度な。しかし住宅街で平日真昼間にレイプかよ」
 幸はげんなりした顔をする。
「だって、聞こえてくるのがそういう言葉しかないモン」
 咲も同じ顔をする。
「知ってる顔には間違いなさそうなんだ。知らない人きたら玄関口で叫ぶからな」

 神崎も、げんなりとした顔をする。3人、似ている。
「で、レイプなわけね」
「やめてーっ」
「そう。やめてーっ」
「それにしても、聞きしに勝るスケベオヤジだな」
「そうなんだよお」
 幸も咲も、プーッと顔を膨らます。
「何が良くてあんなスケベ相手にするのかねえ」
「金だろ、金。なあ、おっさん」
「俺は女に金払ったことが無いからわからん」
「そうか。あたしらは金貰ってもあーいうのは御免だね」
「そうだよ。特にあんなオヤジじゃ吐き気もよおす」

 神崎も手に口を当てたくなってきた、何となく吐きそうな気がしてくる。
「まあ、精力的と言えば精力的だよな。あの年になってとっかえひっかえじゃ、なあ」
「キモーい」
「キモーい」
 ステレオタイプでキモいの大合唱。
 その日は夜更けまで、アパートの中で3人が顔を突き合わせ、美馬院長の尾行結果を話し合った。

 翌日は土曜日。
 明け方6時にマンションへと戻った神崎。
 すると、母がマンションの前に立っていた。
「お母さん。こんな時間にどうしたんですか。よくここがわかりましたね」
「まったく。お母さんじゃありません、あなた一体何をしているの」
「別に」
「あの子たちのこと、調べたわ」
「あの子たちって?」
「双子のことよ」
「調べたんですか。で、どうでした」
「あの二人とお付き合いしているの?」
「まさか」
「ならよかった。あの子たちはね、純一さん、貴方の腹違いの妹なの」
「は?」
 神崎には母の言う意味が解らなかった。
「そりゃ似てますけど。妹なんて言葉がお母さんの口から出るなんて。冗談を言うようになられたんですか」
「本当よ。お父様が20年前に浮気して出来た子供ですもの」
「じゃ聞きますけど、二人の母親は?」
「クラブホステスよ。手切れ金を渡して別れさせたわ」
「そりゃまた強引な」
「ですから、あの子たちと仲良くするのは、おやめなさい」
「僕ももう30ですよ。付き合いひとつまで、お母さんに言われることじゃない」
「何言っているの、純一さん。お金をたかられたらどうするの。あの子たち、刑務所にいたのよ」
「それは昔でしょう。今は警察沙汰になるようなことをしていませんよ」
「純一さん。いつから親の言うことが聞けなくなったの」
「3年前に。だから僕は家を出たんです」
 母は悔しそうに唇を噛むと、踵を回し、そのままマンションから遠ざかった。母が大通りでタクシーを拾うのが見えた。

 神崎は、自分の部屋に戻った。ルームウェアに着替え、一人でワインを開けながら、冷蔵庫からつまみを出す。

 母の言葉を思い返していた。
 本当だろうか。
 いや、母は強引だけれど嘘を言う人ではない。そしてあの表情。浮気されたことが余程憎らしかったのだろう。悔しかったのだろう。当時も、今も。
 相手のクラブホステス、幸と咲の母親は、今どうしているんだろう。
 それよりも、自分だけがこんな小奇麗なマンションに住んで、幸と咲は、それこそ安普請の4.5畳一間のアパート。部屋の中にはテレビだけ。
 いくら自分が警察で稼いでるからとはいえ、二人を物扱いしすぎたかもしれない。まあ、二人を贅沢三昧で囲えるほどの稼ぎも無いが。

 幸と咲に、真実を伏せておくかどうか悩んだ。
 言えば、二人は己が育った境遇を思い出し、自分を恨むかもしれない。自分の下から去ってしまうかもしれない。
 二人に教え込んだ体術は、尾行の際にも適していた。昔のように襲われても、相手が凶器を持ちださない限り、首を捻って相手を失神させることさえできるまでに成長した。
 勿論、神崎が直々に教え込んだ射撃の腕もセミプロ級だった。
 それらの技術を使い、再び、犯罪に手を染めるかもしれない。そういう場面を想像してしまう。
 最初は、自分の代わりに犯罪に手を染めさせるために二人の面倒を見始めたが、今は、どちらかと言えば兄貴分に近い感情を持っていた。

 神崎は、自分の中で何かがストン、と落ちる気がした。
 異母姉妹なら、似ていて当たり前なのだ、と。

 今はまだ、このままでいようと神崎は決めた。
 この先、もしかしたら自分たちの関係性が明らかになる時が来るかもしれない。その時は、包み隠さず二人に真実を告げよう。

第12章  冬真っ盛り

 警察庁内では、反摩課長が不審な行動に出ていた。朝に電話1本あったきり、毎日のように姿を現さないのである。かといって、休暇でもないらしい。庁内の何処かで別の任務についているのだろうが、課員はその内容も、何処にいるのかさえ教えてもらえなかった。

 和田は早速情報収集に行ってしまった。神崎は、今迄なら我先にと和田と情報収集合戦を繰り広げたものだが、今はだいぶ大人しくなった。幸と咲のことや、復讐サイトをどのように運営していくかを頭の中でシミュレートしているのだ。
 相変わらず脳天気な麻田は、須藤や神崎までをも尻に敷き、データ入力と議論に入りたいらしいが、弥皇までが急に興味を示さなくなり、こめかみには青筋が立っている。
「今日も反摩課長、来ませんでしたね」
 帰ってきた和田が麻田にこっそりと耳打ちした。
「いつも寝てばかりだからいいけど。それより何なの、この人たちは。やる気消滅じゃない」
「やる気全開の麻田さんにとっては、皆を巻き込むまでに茨の道通らないといけないかも」
「冗談じゃない」
「今日は時間まで息抜きして、また明日にしましょう」
 麻田は犬を通り越して、ツキノワグマになりつつある。シャーッと1回パンチすれば、皆、全身血だらけという構図だ。
 
 その麻田も、目の前の閑散たる光景を目にしたのでは、今日は動きようがないことをしみじみと知る。
「そうね、時間になったら速攻で帰るわ」

**********

 反摩課長は、警察庁上層部のXと呼ばれる人物に会っていた。
「どうだ、サイコロ課は」
「思ったとおり、弥皇と須藤は使えます。市毛くんがいなくなったのは戦力ダウンですが、神崎を入れればいくらかは戦力アップになるかと」
「麻田と和田は」
「二人とも力及ばず、ですね」
「なら、二人には退場してもらおう」
「今年度中にですか」
「和田は今年度中に所属県警に戻す。麻田は、専業主婦にでもなってもらうさ」
「弥皇も麻田もその気はないようですが」
「なに、復帰できないような怪我をすればいいだけだ」
「はい」
「こちらで動くので、君は今までどおり課内を見張っていてくれ」
「承知しました」
「神崎の異母姉妹のことだが」
「如何いたしましょう」
「消してもらって構わない」

**********

 Xの存在は、警察庁の中でも一部の人間にしか知られていない。
 何を画策しているのかも、少数の人間しか分らなかった。
 
 その後、弥皇と麻田、神崎と幸、咲に尾行がついた。
 まるで公安が動くかのように、自然で流れるような尾行。
 そうして、弥皇たちのマンションや神崎のマンション、果ては幸、咲のアパートまでもが特定されていった。

 とはいえ、弥皇と神崎は、尾行に気がつかなかったわけではない。

 何者が尾行しているか、それを特定するのが難しかった。
 美馬院長。弥皇は一度尾行を止めさせたことがある。神崎にしても、美馬院長が幸、咲の尾行で反対に二人のことを知り得たとは思われなかった。
 神崎の場合、東北の射撃場でも尾行者がついていたと考えられる。向こうで写真を撮ったのは、今の尾行者か、あるいは母か。どちらとも言えなかった。
 相手は、もしかしたら拳銃を携行しているかもしれない。麻田や子供たちに危害が及んではいけない。
 それは神崎も同じで、幸と咲が事件に巻き込まれるようなことがあってはならないと感じていた。

 ある日、弥皇と神崎は別々の場所で尾行者を捕まえた。
 路地を入り店舗や飲食店に入ったふりをして、尾行者が背中を見せたところを、逆手に取るのである。
 弥皇は、両手を上にあげながら、攻める気の無いことをアピールする。
「なぜ僕らを尾行するんです?」
 相手は何も話そうとしない。
 弥皇は溜息をついた。
「何もお話いただけないなら、このまま皆さん退場して頂きましょう。一族の傭兵がこちらに来ているはずですから」
 それでも相手は顔色を変えない。
 そうか、公安か。
 傭兵と聞けば、普通何らかのリアクションがある。日本国内で、顔色一つ変えずにこういう事態を乗り切ると言えば、公安警察くらいのものだ。
「では。僕はこれにて失礼します」
 弥皇は、尾行者にバイバイと手を振り、大通りに向かって走り出した。

 片や神崎は、尾行者の右腕をとり、ぐるぐると回す。
「尾行の真意は?なぜ尾行する」
 こちらも話そうとはしない。
「なるほど。公安か。面倒だな」
 相手は横を向き、神崎と視線を合わそうとしない。
 神崎は暫く相手を見つめていた。
 次の瞬間。
「ああ、見たことあるわ、あんた。警察庁に出入りしてた。今は公安要務なんだ」
 相手の眉間に皺が寄る。
「別に、誰に頼まれたかなんてあんたらが喋るわけないよな。いいよ。ただ、尾行するなら俺だけにしろ。幸と咲に近づくな」
そういうと、神崎は相手の腕を放した。


 尾行をしていたのは、Xの部下たちだった。以前、公安要務に携わっていた人物だった。その他、警視庁のヒットマンと呼ばれるスナイパーたちがXの部下として名を連ねていた。現在の縦の組織ではなく、Xを頂点とした横の繋がりで、男たちは動いていた。
 そして、特段の理由もなしに、幸と咲の二人はスナイパーのターゲットとされた。それは麻田も同じだった。
 Xの決めたルールどおりに。

 特に、Xの放ったスナイパーは、じりじりと幸と咲を追い詰めていた。
 神崎は、なるべく幸と咲の近くに寄らないようにしていたが、どうにも心配で、夜遅くにアパートを訪れた。このアパートだって、公安の手に係れば、もう露見しているだろう。
 幸と咲はいなかった。コンビニにでも出かけたのだろうか。
 コンビニに向けて神崎が歩き出すと、また尾行の気配がした。24時間、漏れなく尾行か。仕事とはいえ、大変だ。

 そんな時、コンビニ方面から幸と咲が歩いてきた。
 声を掛けようと神崎が速足になった時、神崎は幸と咲の直線上に、スナイパーがライフルを構えているのを察知した。
 幸も咲も気付いていない。二人に銃口が向けられている。
 神崎は、腹の底から力一杯の声を発し、走り出した。
「伏せろ!」
 その声に気付いたかのように、幸と咲が地べたにしゃがみ込む。
 ライフルから発射された銃弾は、二人どちらかの胸を狙ったかのように見えた。
 そして、その銃弾は、走り出し前のめりになった神崎の左肩を貫通した。

「おっさん!」
「純ちゃん、と、呼べ・・・」
 
 這い蹲りながら神崎の方に近づいてくる幸と咲。幸が、神崎のスーツの中をまさぐる。そしてスマホをポケットから取り出すが、泣いて何もできない。それは咲も同じだった。

 幸と咲が無事なことを確かめた神崎は、朦朧としてきた。二人の無事を見るまでは痛みすら感じなかったのに、今はジンジンと疼くように痛みが増幅したように思えた。
 姉妹の叫びが段々遠くなってくる。
 何処を撃たれたのかわからないが、全身が痛む。いや、痛むのは胸だった。
 親友が同じ位置に立っていれば、神崎は同じように飛び出したに違いない。親友との楽しかった日々、幸と咲との出会いから今日までの日々が、神崎の頭の中を走馬灯のように駆け巡る。

 ここは地獄か。よもや、天国では無かろう。
 初めこそ姉妹を自分の手足と考えてきたが、今では手足とは考えられない。血が繋がろうがそうでなかろうが、二人は神崎の家族だった。
 そしてそのまま、神崎の意識は遠のきかけた。

 けたたましいサイレンの音とともに、救急車が到着した。誰が呼んだのか。
 救急車には一人しか同乗できない。同乗したのは、なんと麻田だった。
 泣いて説明すらできそうにない幸と咲の前には、弥皇が腰を落していた。弥皇がGOサインを麻田に送る。救急車はその場を離れ、救急病院へと向かった。
「麻田、さん」
「眠って。何も心配要らない」
 その言葉が効いたのだろうか。神崎は眠りにおちた。
 目が覚めた時、やはり目の前には麻田がいた。
「二人は?幸と咲は?」
「あの二人なら、弥皇くんが一時的に保護したから大丈夫。一族のマンション借りたみたい。貴方が退院するまでは、そこで生活してもらうことになるわね」
「よかった・・・」
「あたしたちも、市毛夫妻にオチビお願いして、今は慣れないホテル住まいよ」
「うわ、大変ですね」
 麻田は神崎に向かって、何も聞こうとしなかった。
 神崎も二人のことを話す気はなかった。幸と咲の素性も、こうなった経緯ですら。
「麻田さんたちが救急車を手配してくれたんですか」
「そうよ。弥皇くんと二人で貴方のマンションに行く道すがらだった、というわけ」
「どうして僕のところに」
「色々ね。近頃尾行ついていたでしょう、貴方にも」
「はい」
「そのことでね、どうやらよくない空気が蔓延してるようだったから」
「そうでしたか。ありがとうございます」
「そういえば、ライフル射撃されたにも拘らず、新聞発表がないのよ。メディアも病院周辺にいないの」
「なぜまた」
「これって、上層部がメディア規制してるってことよね。弥皇くんは、尾行もその辺りに関わってるという意見みたい」

 神崎は、辺りを見回した。白い壁、白い天井。これがモリアーティを目指した僕の末路だというのか。
「麻田さん。実は僕ね、市毛課長がいなくなった今、弥皇さんさえ目の前から消え去れば、自分の世界観を貫けると思っていたんですよ」
「自分の世界観?」
「そうです、僕の世界観」
「今はどう考えているのさ」
「世界観が変わりました。家族が出来たから」
「あの二人?」
「ええ」
「そうか。家族っていいわよね、結婚は嫌だけど」
「で、またのろける気ですか」
「わかった?」

 入院することになった神崎は、幸と咲を病院から遠ざけた。またあのような事件が起こった場合、対処のしようがないからだった。
 日がな一日暇な神崎は、弥皇から差し入れのあったタブレット端末で、復讐サイトを見ていた。
 
 そこに、差出人が美馬院長と思われる書き込みが見受けられた。
「八月一日薫子を殺せ。方法は射殺。時期は3ケ月以内」
 神崎はサイトをいますぐ消そうかどうか迷ったが、入院先で使うタブレットでは、然程役に立たなかった。
 自分さえ黙っていれば、この書き込みは実施されないはずだと高を括った。

 2カ月後。自宅療養ながら、マンションに戻ることができた神崎。
 幸と咲も、またマンションに転がり込んできた。再び3人で雑魚寝の生活が始まった。
 布団や洋服など、アパートにある家財道具は、何でも屋さんにプチ引っ越しをお願いした。もう、アパートはもぬけの殻だ。

 また神崎は、パソコン上でランダムに足跡を消していく Tor(トーア) を使い、復讐サイトを立ち上げていたが、もうこのサイトは消すことに決めていた。
 家族である幸と咲に、殺人など命令したくはなかった。
 
 神崎は、新しい依頼が入る前に、早々にサイトを消した。


 冬も佳境に入ってきた。そんな折、凍てつく寒さの中、美馬院長が、側溝に嵌った状態で命を落とした。殺したのは、幸と咲か。それともただの事故なのか。あるいは、別の第3者が絡んでいるのか。はたまた、サイトに書き込みした人間か。

 泥酔と凍りついた地面が死亡の原因と思われたこの事件。
 当初は事故として処理され、新聞の隅っこにもその旨の記事が報道された。
 蜜柑は、復讐サイトの管理人が事故を誘発させたと思った。そのサイト管理人が神崎だとは、夢にも思わなかった蜜柑。

 ところが、話は急転直下の様相を呈してきた。

 警察では、家族からの通報を受け、内密に捜査していた。その犯人は、蜜柑と目された。
 美馬院長は、普段から深酒する人間ではなかった。蜜柑は前の晩8時ごろ、美馬行きつけの飲み屋に現れ、美馬に酒を飲ませていたのが目撃されていた。10時ごろ美馬と一緒に店を出てからのアリバイが無く、一時は身柄拘束の対象者ともされた。
 そんな中、蜜柑にアリバイが成立した。
 事件当夜の火曜夜、蜜柑は神崎のマンションに入るところが目撃されていた。其処を出たのは、朝の8時だった。監視カメラ映像が蜜柑の姿を捉えていた。

 これは一体、どういうことなのか。


 作戦を考え付いたのは神崎だった。

 神崎は蜜柑の写真を持って幸と咲に命令していた。
「幸。この写真と同じように変装して、午後10時過ぎに俺のマンションに来てくれ。で、次の朝8時にここから出て欲しい。その間、咲は一歩も部屋から出るなよ」
「あいよっ」


 蜜柑が出勤する水曜日。神崎は帰りがけの蜜柑に手紙を渡した。蜜柑が開けようとすると、神崎は人差し指を右左と振りながら、口に持って行く。ここでは開けるな、と言うような素振りだった。
 蜜柑は、部屋に手紙を持ち帰り、開けた。

「蜜柑さんへ

神崎です。蜜柑さんの長年の計画に気が付きました。僕も応援しましょう。蜜柑さんは計画を来週火曜日に実行してください。身柄拘束された際には、夜8時に僕の家に着たこと、朝8時に僕の家から出たことを捜査員にお話し下さい。では。

P.S. この手紙は、燃やしてください。
                                   神崎  」


 幸と咲を使い蜜柑の素性を調べていた神崎は、美馬クリニックの受付嬢から気になる証言を得た。
 八月一日聖子という人物が、美馬院長のW不倫相手だったこと。その人物が通院を止めた矢先、無理心中に巻き込まれたこと。
 その後2,3ケ月ほどして、蜜柑こと八朔薫子が美馬クリニックで仕事を手伝うようになったこと。
 八朔も八月一日も、ほずみと読むこと。
 当時、薫子は援助交際と言われたものだが、自分だけは聖子と薫子が似た癖をもっていたのに気付いていたこと。
 誰も想像してはいなかったが、聖子と薫子は親子ではないかと自分だけが疑っていたこと。

 神崎が10年前のデータを引っ張り出すと、八月一日茂、聖子夫妻の無理心中の記事が保管されていた。

 証言とデータを総合すると、もしかしたら、10年余り、蜜柑は全てを知りながら美馬院長に世話になっていたのではなかったか。
 しかし、あのスケベオヤジが身体の見返り無しに援助するわけがない。
 蜜柑の写真を見せたところ、幸も咲も、ホテルに入っていった女性の中に、この顔はいないと証言した。となれば、何かで脅してクリニックに世話になった可能性が高い。

 待てよ。
 蜜柑が、周囲には黙って美馬院長への復讐を誓っていたとしたら。
 あの復讐依頼は、蜜柑だったとしたら。

 神崎は、蜜柑の仮面の下に隠れたある種の異常性に気が付いたのだった。
 蜜柑に恩を売るつもりはないが、何かの時に助けてもらえればそれでいい。

 こうして、蜜柑のアリバイが成立し、事件は一気に事故扱いとして捜査は終了しかけた。

 ところが、である。
 今度は幸と咲が窃盗の疑いで捕まってしまった。神崎は取るものも取り敢えず、拘置所に幸と咲の着替えを持って行った。
「あたしら、やってない」
「おっさん。ホントだよ」
 身に覚えがないという幸と咲。
「わかってる。俺と会ってからは一切しなくなったよ。わかってる」
 神崎も、二人を信じていた。
 しかし、世の中は今や本当に世知辛い。
 以前、府中刑務所に入った理由が窃盗だったため、誰も幸と咲の言い分を信じる者はいなかった。
 その上、誤認逮捕どころか、それは別件逮捕だった。
 幸と咲は、美馬院長殺害犯として、警察から取り調べを受けることとなった。
 なぜ幸と咲が殺人罪で捕まったのか、当初、神崎には理解し損ねた。よく考えてみれば、幸と咲を自分から引き離したい輩がフィクサーだと、漸く理解した。
 幸と咲の無実を証明出来るのは、今のところ、神崎だけだった。当日、3人は一緒に居たのだから。

 咲は、神崎が一緒にいるところをケータリングの配達員が目撃しているから、アリバイが成立したが、幸はそのとき蜜柑に変装していた。
 幸のアリバイを確かにするためには、蜜柑のアリバイが無くなる。かといって、蜜柑を簡単に差し出すわけにもいかない。
 そこにもって、似すぎている二人は、どちらが犯行を行ってもおかしくないということで、二人とも拘留されたままだった。

 蜜柑のことに気を取られ過ぎて、幸や咲の心配をしなかったと悩む神崎。蜜柑を差し出せば済むことだが、自分が出した手紙がもし残っていたとしたら、自分まで警察のご厄介になってしまう。蜜柑に自己愛性パーソナリティ障害とバレようが、それだけは避けたかった。

 そこに、反摩課長から電話が来た。
「課長、すみません。あと1週間もすれば体調も良くなると思うのですが」

 反摩は電話の向こうで囁くように話す。
「あんなサイトを立ち上げるからだ」
「は?」
「君はもう、黒幕であってはいけない」
 
 神崎は、反摩が何をいわんとしているか、想像がついていた。
 モリアーティの真似事を止めろ、という意味だ。
「何のことでしょう」
「もう止めたまえ。妹もいることだし」
「ご存じでしたか、異母姉妹の事」
「本来なら君も罰せられるところだが、異母姉妹で以前は会ったこともないようなので、処罰対象にはならなかった」
「そうでしたか」
「それから、八朔さんには僕から話をする。君は妹を取り戻せ」
 何もかも反摩課長は知っていた。
 神崎は驚いた。
 只者でないことは知っていたが、まさかここまでとは。

 翌日。
 反摩課長から電話を受けた蜜柑は、よろよろと椅子から立ち上がった。
 蜜柑は警察に自ら出頭した。取り調べの中で、蜜柑は10時過ぎに院長と別れたことを正直に話した。監視カメラ映像を精査解析したところ、院長は不倫相手とホテルに行ったことが確認された。
 蜜柑が願ったとおり、偶然が重なった事故で美馬は命を落としたのだった。

 幸と咲は、誤認逮捕扱いで解放された。
 安心した神崎だったが、神崎たちの前に、またスナイパーの魔の手が伸びていた。弥皇と麻田の前にも再び。
 誰が誰をどうして狙っているのか分らない弥皇と神崎。
 幸と咲は、逃げ回ることになる。神崎は、いつも3人で行動していた。

 神崎たちを泳がせただけで捕まえようとしなかったのは、反摩課長の伝手。課長が懇意にしている筋からスナイパーを調達していた。そうしてスナイパーを身近に置くことで、逮捕劇を操作したのだった。



 警察庁上層部のXは、一体何をしたかったのだろうか。
 Xは、CIA計画を諦めていなかった。
 弥皇と神崎、須藤をCIA計画に引き込むつもりだったXは、部下の反摩をサイコロ課に置くことでサイコロ課を常時監視し、無理にでも、今年度中にCIA計画を進める方向で動いていた。邪魔なサイコロ課は潰す気だった。

 XにとってCIA計画は、5年以上前からの念願だった。サイコロ課に市毛を配し、CIA計画に必要な部下を市毛に人選させようとした。
 しかし市毛は計画に携わることを良しとせず、固辞した。勿論、部下の人選も行わなかった。
 麻田と弥皇の結婚は計算外だったが、麻田を弥皇から遠ざけ、子供たちは退職した市毛夫妻に任せる。麻田の命など、Xにはどうでもよいことだったのである。
 弥皇たちを狙った狙撃はXが主導していたが、あくまで標的は麻田。弥皇が狙いではない。縦しんば誰かが撃たれようとも、それが弥皇でなければ構わない。
 神崎の周囲からも、邪魔な者は消す。末はサイコロ課を解体し、和田は所属県警に戻す、というのが、Xの計画だった。

 Xの計画に皆が振り回される中、ここでその計画に誤算が生じた。
 反摩課長がXを裏切り、サイコロ課側に寝返ったのである。
 弥皇の携帯に、反摩課長から電話が入った。
「僕の伝手でスナイパー入ってるから。そっちは気にしなくて大丈夫。ただ、もう1チーム入ってくるみたい」
「課長。仰ることがよくわかりませんが」
「君ら夫妻、はっきり言えば麻田さんが狙われているということ」
「で、スナイパーチームが2つあらわれると」
「そう」
「どうしてそんな状況になったのですか」
「フィクサーはXだけど、もう一チームは僕が呼んだから」
「課長。もう少し、はっきり指示してください」
「んー。麻田さんはホテルから出さないで。窓際にも顔を出さないように伝えて」
「彼女の性格、御存じでしょう。以前にSPの経験もありますし」
「攻撃を前にして怯む性格ではなさそうだね」
「だから困っているんです」
「困ったねえ」

 麻田は、上層部の気配、反摩の素性を疑っていた。諌める弥皇。
「課長の言うことは信じられない」
「Xがいるということは信じて頂けますか」
「市毛課長がCIA計画に誘われて、貴方共々断ってきた、という話は、昔聞いたわね」
「その頂点に立つのがXなんです」
「弥皇くん、貴方はXに会ったことがあるの?」
「いいえ」
「じゃあ、反摩課長の嘘かもしれない」
「今ここで、僕が反摩課長寝返りの証拠を出すことはできませんね」
「でしょう?あたしだけじゃない、貴方だって危ないのよ?危機感あるの?」
「危機感、ですか。反摩課長が大丈夫って言ってますから」
「だから。反摩課長の言葉は本当に信じられるの?」
「僕は、信じて間違いないと思っています」

 麻田は左手で右肘を受け止めながら、右手親指の爪を噛む。
「貴方はこのままでいいの?」
「子供たちには、僕より麻田さんが必要です」
「子供たちだって危険に晒されるかもしれない。市毛ご夫妻だって」
「それは否定しません。どうでしょう。また、しばらくホテルを変えて泊まりませんか」
「そうね、それなら子供たちへの被害だけは防げる」
「市毛ご夫妻に電話しておきましょう」

 麻田は攻撃に怯む様子も無く、堂々とサイコロ課へ出勤する。弥皇が最新の注意を払い、麻田を援護する姿勢を取っていた。
すると、和田は、周囲の動きに敏感だった。
「弥皇さん、麻田さん。近頃何ともキナ臭い事件に巻き込まれていませんか」
「おや、分った?」
「自分だけ何もないということは、足切りなんでしょうね」
「どういう意味?」
「所属県警にそのまま戻されるんでしょう。たぶん、CIA計画が依然続行してるんじゃないかと」
「和田くん。何時にも増して素晴らしい推理だね」
「でも弥皇さん。Xはモリアーティの足下にも及ばないですね。何故なら、組織や人間を盾にやりたい放題だけど、その方法はあまりにも杜撰です。モリアーティが聞いて呆れるとはこのことですよ」
「CIA計画なんて、何を今更。僕、はっきり断ったし」
「でも、今回は強引だわ」
「市毛課長がいなくなったからですよ」
「反摩さんは、向こうの犬だったわけね」
「ですから、麻田さん。反摩課長は寝返りましたって」
「わかんないわよ」

 そこに、反摩課長が現れた。
「いやあ、麻田くんには随分嫌われたみたいだねえ」
「あ、あら課長。私はですね、そんな、嫌ってるとかじゃありません」
「じゃあ、信じていない」
「そっちの方が合ってます」
「麻田さん、フォローになってませんよ」
「いいよ。僕、正直な人好きだから」

 Xの存在とCIA計画の続行を反摩から聞き、弥皇は頭が痛くなっていた。麻田も漸く信じてくれた。なお、麻田は喧嘩を買う気満々である。
 それでも、弥皇の刺傷事件以来、危機の際には弥皇が防弾チョッキを着込むのを確かめてから、麻田も準備するようにしていた。
「そういえば、神崎はどうなのかしら」
「あのマンションは狙い放題かも」
「でも、なんで撃たれたんだっけ」
「もしかしたら、あの従姉妹のお嬢さんたちが狙われたのかも」
「神崎に電話してみる」
 言い終わらないうちに、麻田は神崎の携帯番号を押していた。
「あ、神崎くん。大丈夫?」
「麻田さん、ご無沙汰してます。僕は大丈夫ですよ」
「従姉妹さんは?」
「ああ。今は僕の家に居ます。ここらは物騒ですから」
「じゃ、防弾チョッキ3人分準備して、これからいくわ」
「有難い。弥皇刺傷事件は鮮明に記憶に残っていますからね」

 サイコロ課にあるだけの防弾チョッキを持って、弥皇と麻田はタクシーを捉まえた。
 急ぎ乗り込み、弥皇の旧マンションへと急ぐ。
 1階でインターホンを鳴らす。
「はい」
 女性にしては低い声が聞こえる。
「麻田と弥皇です。今からお邪魔していいかしら」
「どうぞ」
 麻田は通い慣れたマンションに、弥皇は昔住んでいたマンションに足を踏み入れた。
「懐かしいわね」
「僕は血だらけになって以来、かな」
「あの時はあたし、心臓停まるかと思ったわ」
「あれからもう4年近く経つんですね」
「さ、入るとするか」
 玄関先で、またインターホンを鳴らす。
 すると、神崎の女性バージョンともいえる、神崎にそっくりの顔が目の前に現れた。
「神崎さん、いるかしら」
「ちょっと待ってください」
 背の高い女性が、部屋の中に消える。
「やあ、お二人さん、わざわざすみません」
「いいのよ。懐かしいわね、この部屋も」
 部屋の隅っこには、先日コンビニ近くで会った神崎の従姉妹二人がポツンと床に座っていた。
 麻田が話しかける。
「3人でこの部屋は、流石にきつくない?」
 幸も咲も、言葉を発しない。麻田のように綺麗な言葉を使えないため、恥ずかしがっているようだった。
「おい、お前ら、どうした。こちらは俺の職場の人だ」
「どうも」
「どうも」
 ステレオタイプ、今度はどうもの合唱。
「お前たち、麻田さんに言葉習ったらどうだ」
「そんなに酷くないモン」
「そうだよ、ちょっと男っぽいだけだモン」
 麻田は、20歳前後の女子たちが、知らない人を見れば恥ずかしいのが良く解る。麻田自身、そういう時代もあった。
「そんな時代もあるものよ。年取ってくるとね、段々言葉が丁寧になるの」
「で、それを過ぎておばちゃんになると、今度は方言が出てくる」
「あら、弥皇くん。失礼ね、誰がおばちゃんだっての」
「麻田さんとは言ってませんよ」
「兎に角。家族と一緒に住めて、神崎くんが嬉しがっていたわ」
 幸も咲も、キョトンとしている。
「家族?」
「そうよ、家族。貴女たちが神崎くんの家族よ」
「おっさん!ほんとに?」
 麻田が驚く。
「おっさん?」
 幸があははと笑い、咲が叫ぶ。
「あっ、こりゃ失礼」
 神崎も顔を赤らめる。
「だから、人前だけでもいいから、純ちゃんと呼べ」
「純ちゃーん」
「純ちゃーん」
「お前ら、ステレオタイプで遊んでるだろ」

 麻田はにっこりと笑った。
「もうすっかり元気なのね。良かった」
 弥皇も微笑む。
「そうだよ、神崎くんにも変化あるし」
「俺はそんなことないですよ」
「ほら、俺って。向こうじゃ”僕“なのに」
 幸と咲が腹を抱えて笑い出した。
「おっさん、仕事場では”僕“なわけ?」
「似合わねー」
 皆で笑いあった。
「さ、本題。防弾チョッキ3人分持ってきたの。どうやらCIA計画がまだ生き残ってるらしくて」
「神崎くんが標的ではないと思うけど、危ないからこれをいつも身に着けていて」
 幸が親指と人差し指でチョッキを抓む。
「なんか、ダサい」
「この上に上着羽織れば目立たないから」
「うん、わかった」
「うん。わかった」
 二人の声がシンクロする。
「ちょうど、こんな感じね」
 麻田と弥皇が各々の上着を脱いで、着用状態を見せる。
「じゃあ、これで」
「ありがとうございます。僕もあと1週間くらいで勤務可能になると思います」
「そうか、良かった。ところで、反摩課長のこと、聞いた?」
「いいえ」
「サイコロ課に寝返ったらしいわ」

 弥皇が神崎の耳元に擦り寄る。
「麻田さんは疑ってますけどね」
「100%信じられないだけよ」
「そういうことにしておきましょう」
「くれぐれも、従姉妹さんたちは外に出ないでね。昼ごはんは、届けてもらうから」
 幸が不思議そうな顔をする。
「どっから?」
「ホテルのランチ」
 咲は嬉しそうな声を上げる。
「へえ。初めて食うや」
 神崎は、弥皇と麻田に頭を下げた。
「すいません、こいつらの分まで気を遣ってもらって」
「あのホテル以外のケータリングには出ないで。万が一、ということもあるしね」
「はい、わかりました」

 ひとしきり会話を楽しんだ後、麻田と弥皇はサイコロ課に戻った。戻るとすぐに、麻田がホテルのランチ配達を予約した。
 弥皇の一族が経営しているホテルなので、味は比較的良かったし、何と言ってもケータリングのふりをして狙撃に持ち込む例が多発している中、本物のホテルマンは身のこなしが優雅だった。
 麻田が思い出したように話す。
「あの3人、すごく顔が似てたわね。兄妹っていっても信じられるくらいだった」
「僕もそう思いました。DNAに似た要素があるのかも」
 離れて座っていた和田が、眩しそうなふりをする。
「神崎さんが3人なんて、濃すぎやしませんか」
 弥皇はふふふと笑った。
「そう言えなくもない」
 麻田は天井から壁に視線を移し、目をランランと輝かせ、握り拳を作る。
「すっぴんであれだもの。お化粧したら絶対綺麗だわっ」

 
 其処に、ぬっと反摩課長が現れた。
 和田は飛び上がらんばかりに驚いている。
「課長。この頃何処にいってるんですか。こっちの業務、全然報告書の決裁が下りないんですけど」
「須藤君に任せてよ。僕は野暮用があるから」
「野暮用?」
「そう、野暮用」
 須藤が左手で団扇を仰ぐような仕草を見せる。
「課長はこれよ」
 和田が目を凝らして須藤を見る。
「左団扇、ってことですか」
「そんなとこ」

 反摩がサイコロ課から立ち去った。独り目眩を覚えながら、和田は立ち上がり珈琲サーバーを手に取る。
「まったく。眠りこけてるほうがまだマシかも。いないんじゃ話にもならない」
 須藤が笑い出す。
「ま、そんなに怒るな。代決しといてやるよ」
「須藤さん、代決権あるんですか」
「俺等の書類なんて、誰も見やしないだろうが」
「それもそうか」
 須藤も和田も、ピントがずれたところで妙に納得している。

 反摩は、Xを裏切りCIA計画を頓挫させることを最終目標としていたが、今はその時ではない。ただ一つ、サイコロ課が空中分解しないよう、課員を守ることだけに神経を集中していた。

 現在、ターゲットとなっているのは麻田と神崎の異母姉妹。神崎は頭の回転が速いから従姉妹として扱っているようだが、真実が白日の下に晒されるのも時間の問題だろう。あの双子は刑務所入所の過去を持つ。
 そんな過去を、Xが許しておくはずが無かった。

 数日後。
 神崎は幸と咲に外出しないよう言い含めて出勤したが、幸が咲は、こっそりと神崎の後をつけていた。神崎が今迄何の仕事をしているか口にしていなかったからだ。万が一の場合に防弾チョッキを身に付けるなど、どうも普通のサラリーマンでは無いのは一目でわかる。
 幸と咲の尾行は大したもので、今日の神崎が後ろに気を遣っていなかったことも手伝って、警察庁の前まで尾行されていることに気が付かなかった。
 神崎は、いつものとおり、警察庁の門をくぐって出勤する。

 幸と咲が驚いたのは言うまでもない。
「おっさん、警官だったんだ」
「でも、悪いことしそうな人だよ」
「自分を消してるに違いないよ」
「何であたしらに話してくれなかったかな」
「そうだね、別にホントの事言ってもよかったのに」

 そこに、反摩が通りかかった。反摩は、幸と咲の顔を知っていた。ターゲットの一番手だったからだ。
 反摩は辺りを見回した。
 やはり、スナイパーチームが辺りをうろ付いている。
 まさか、白昼堂々とやるのか。
 暴力団の仕業にでもするつもりに違いなかった。

 見る限り、二人は防弾チョッキを身に着けていた。コートが膨らんでいるので、それがわかった。
 反摩は、背後にスナイパーが位置しているのに気付いていた。自分のチームではない。となれば、今、二人を狙撃すると踏んだ。
 反摩は、幸と咲のいる方角に走って近づいた。
「危ない!」
 二人の背を押し、頭の位置をずらす。
 同時に、2発の銃声が警察庁前に響いた。
 反摩は脚を撃たれ、その場に倒れた。一番驚いたのは幸と咲だった。前にもこんな場面があった。頭の中でその光景がフラッシュバックする。どうしてよいかわからず、二人はそこに座り込んだままだった。
 
 神崎は、警察庁の中を歩き出したばかりだった。
 外で銃声が聞こえた。射撃を得意とする神崎には、遠くで銃声が鳴っても聞き取れる耳の良さがある。
 踵を返し、走った。神崎は庁舎から外に出た。
 人だかりが出来ていた。人々をかき分け、中心に進むと、そこには幸と咲、そして反摩課長がいた。
「課長!」
「ああ、神崎くん」
「誰か、救急車!」
「今、周囲の人が呼んでくれた。間もなくくる。妹さん、気になってここまできたみたい。家に帰してあげて。君も一緒に行きなさい」
 神崎が反摩の前にいる二人を見た。幸と咲だった。
 二人はシュンとしていた。
「付いて来てたのか」
「ごめん、こんなことになると思わなくて」
「ごめん、純ちゃん」
「課長を救急車に乗せたら、お前たちもタクシーでマンションに帰ろう。今、課に居る誰かを呼ぶから」
 神崎はサイコロ課に電話し、和田を呼んだ。
「課長が撃たれた。僕の代わりに救急車に同乗してくれ」
「一体どうしたっていうんです?何があったんですか?」
「それは追々話すよ。今は早く外に来てくれ」
「はい、わかりました」

 和田が庁内から出てきた。課長の様子を見て驚いていた。
「課長、どうしたんです」
 痛みに顔を歪める反摩の代わりに、神崎が事件の概要を説明する。
「この辺にスナイパー軍団がたむろしてるらしいんだ。で、課長が身替わりに撃たれた」
「誰の身替わりに?」
「僕の従姉妹だ。なぜ彼女らが狙われるか、まったく身に覚えが無い」
「そうでしたか。で、神崎さんこの後どうします?」
「僕は今日、年休取るから。じゃ、課長のこと宜しく」
 神崎はそう言い残すと、幸と咲を伴い、逃げるように人だかりを後にした。
 
 この狙撃事件もまた、新聞に載ることは無かった。双子姉妹は警察に呼ばれることも無く、神崎邸に待機していた。
「ごめんな」
「ごめんな」
「もういい。俺が仕事先を言わなかったからつけて来たんだろう?防弾チョッキを持ってくる職場は普通じゃないからな」
「おっさん、警官だったんだ」
「あたしらは捕まるの?」
「いや、捕まらないよ。普通なら目撃者として任意の聴取もあるんだろうが、その話さえ来やしない」
「あのおじさん、可哀想」
「あたしたちの身替わりになって、可哀想」
「俺の上司だ。お前たちのことも知ってる人だ。今日も、お前たちが狙われていることに気付いたんだろう。いいか、暫くマンションから出るな」
「うん」
「わかった」
「警察官だってこと、隠しててごめんな」

 その日は、幸と咲のメンタルを心配して、神崎自身もマンションから出ようとはしなかった。
 昼間に、麻田が弁当を持って神崎邸を訪れた。
 神崎は、反摩の容体を聞く。
「麻田さん、課長は」
「脚を撃たれて全治2ケ月。でも良かった。従姉妹さんは無事だったもの。課長も安心してたわ」
「やはり身替わりになって撃たれたんですね」
「まあ、そんなところね。弥皇くんがね、相談あるから帰りに寄るって。その時にまた弁当や明日の朝食持ってくるから」
「ありがとうございます」

 夕方、弥皇が大きな袋に弁当やらお菓子やらビールやらサンドイッチやらと、これでもか、と言うくらい食料を持ってきた。
 しかし、幸と咲は、反摩の怪我は自分たちが悪いのだと思い込み、食欲が無かった。
 弥皇が姉妹を元気づける。
「一般人を守るのが警察官の役目ですから、落ちこまないで。ね?」
「うん、でも・・・」
「身替わりだなんて、申し訳なくて」
「課長は、貴女方が無事で喜んでましたよ」
 そう言いながら、神崎の方を向く弥皇。
「仏の心は、僕にはありませんでね。僕はもう、Xを許す気にはなれない」
「というと」
「一般人への2回もの狙撃と、別件逮捕をマスコミにリークしようかと思う」
「それは止めて頂けないですか」
「どうして」
「幸と咲が色眼鏡で見られるからです。こいつらの過去を穿り返されるのは我慢ならない」
 弥皇は何も聞かなかったが、幸と咲の過去に何かあることは理解しただろう、と神崎は思った。
「俺達はただ、普通に生きたいだけなんです。過去を忘れて、今の3人で」
「そうか。わかったよ。その代り、Xだけは追い落とす。一族の力はこういう時に便利でね。結構色んなところに顔が効くんだ」


 弥皇の言葉は実行されたのだろうか。
 反摩の怪我は、大丈夫だったのだろうか。
 
 弥皇は、ここぞと決めたら一族の力を借りてでも復讐を果たす冷徹な人間だ。
 今回は、麻田が標的とされたことも重なり、弥皇の堪忍袋の緒が切れた。
 Xは、警察庁トップから直々に呼ばれ、今迄の罪を詳らかにされた。そして、警察庁内でその求心力を失い、地方に左遷された。

 反摩のオペも成功し、順調に脚のリハビリを重ねていた。
 須藤が、反摩の見舞いに行った。
「だからXに関わるなって言ったのによお」
「僕の立場じゃ無視するわけにはいかなかったんだよ」
「まあな、そりゃわかる。Xはねちっこいからな」
「君に言われたくないんじゃないか、Xも」
「なんで。俺はCIA計画にはずっと反対してたんだ。できるわけねえよ、この日本で」
「上の考えていることはわからないね」


 もうすぐ、春が巡り来る。
 サイコロ課のメンバーにとって、どんな春になるのだろうか。

終章

 季節は一巡りし、サイコロ課にも、また春がやってきた。
 結局、反摩はお払い箱となりサイコロ課に置き去りにされた。
 Xは左遷されたが、上層部のCIA計画はまだ頓挫していないようで、当面の間、サイコロ課はお取り潰しを免れることと相成った。


 反摩が病休明けで初出勤した日。
 麻田は、いつも失礼な事を言う。
「課長。ほんとは寝てばかりの人じゃなかったんですね」
「まあね」

 和田、参戦。
「いやあ、あんな目覚めの芝居打ってたなんて、驚きでした」
「鼻抓まれたのには驚いた。もう少しでくしゃみするところだった」

 須藤は、鼻抓み事件の犯人として、課長からきつくお叱りを受けた。
「いくら寝てるからって、鼻を抓むのはどうかと思う」
「ボーナスの算定、下げないでくださいよ」
「無理」

 弥皇はここでも気障に振舞う。
「僕は最初から課長をリスペクトしていました」
「うん、聞こえてた。君は僕が起きてることに気が付いていたんだろう?」
「半信半疑でしたが、須藤さんの鼻抓みの時に分かりました。普通ならあそこで目を覚ましますから」
「ふむ。僕の演技不足だったというとこか。大根役者だねえ、僕も」
「いえいえ、他の皆は騙されましたよ、課長」


 美馬クリニックは、主がいなくなり、新しい主を見つけた。
 その主は、どうやら患者等、周辺からの評判が良くなかったらしい。患者はおろか、受付嬢、カウンセラーの多くがクリニックを去った。
 蜜柑は美馬クリニックを辞め、就職先を探そうと思ったが、皆から出遅れてしまい、未だ就活に入れないでいる。
 ただ、今度も休診は水曜日。水曜日にサイコロ課へ行く習慣はまだ残っていた。
 麻田が蜜柑に菓子を渡しながら、近況を探る。
「蜜柑。美馬クリニック評判ガタ落ちじゃない。もう見切り付けて就活したら」
「そうなんですよねえ。ただ、私一人しかカウンセラーがいなくなっちゃって。病院から辞表を受け取ってもらえないんですよ」
「あら、大変だこと」

 美馬院長への恨みを果たした今、蜜柑にとって心理や精神とは何なのだろう。
 蜜柑は、一度何かも忘れて旅に出たい衝動に駆られていた。

 一週間後。
「やっと、今の病院を辞めることができました」
 ほっとした表情で語る蜜柑。
「私、旅に出ようと思います。皆さん、1年間有難うございました」
 反摩課長が笑顔で応じる。
「こちらこそ。八朔さんには色々と助けて頂いて助かったよ」
「いえ、私は何も」
 麻田が蜜柑に珈琲を運んでくる。
「お元気でね」
「麻田さんも」
 そして、蜜柑は旅立った。旅先から一枚絵葉書が届いたきり、蜜柑の消息は杳として知れなくなった。
 

 また、サイコロ課の面々が何よりも驚きだったのが、神崎が警察を辞したことである。
 刑に服した者と家族関係にあるのは、警察ではご法度。これは不文律であるが、神崎は警察の仕事より、幸と咲との生活を優先した。

 幸と咲、3人で探偵事務所を興すと宣言した神崎の前に、麻取の捜査官が現れた。
「こんにちは、わたくし厚生労働省地方厚生局麻薬取締部の壬生と申します。神崎さん、麻取として働いてみる気はありませんか」
「麻取と言うと、麻取ですよね」
「貴方の経歴なら麻取として活躍できると思い、伺いました」
「現在、空きが無いのでは?」
「6月末での退職組がおりまして。是非、我々にお力添え頂きたい」
「僕の能力を評価していただけるのは光栄です。ただ、僕は探偵業を興すことを決めておりますので」
「そうですか。残念です。もし気が変わったらこちらにご連絡ください」
 一枚の名刺を渡された。
「申し訳ありません」


 神崎は大学の卒業論文で「現代日本の薬学の実情」を書いたほどで、薬事に関する科目を修めて卒業しており、薬学にも秀でている。
 麻取からのヘッドハンティングに、神崎は首を横に振った。囮捜査で覚醒剤と仲良くなれば、幸や咲に被害が及ぼされかねない、幸や咲には、絶対に覚醒剤を使わせてはならない、幸と咲は俺が守る。
 これが神崎の心情だった。


 今は幸と咲と3人でマンションに住んでいるが、兼探偵事務所に使う広めのマンションを探している。
 何か困りごとがあると、真っ先に弥皇に縋る神崎。
 今日も弥皇、麻田邸に出没していた。
「弥皇さん。広くて安く借りられる物件、有りませんか」
「一族に頼めば何とかなるかも。聞いてみる?」
「是非」
 麻田がガハハと笑う。
「まさか、貴方が探偵になるなんてね」
「いや、俺的には天職だと思ってます」
「そうかもしれないわね。どういった仕事でも熟せる力量あったし」
「一番の理由は、幸と咲を最優先することですから」
「ところで、まだ『おっさん』って呼ばれてるの?」
「矯正して『純ちゃん』と呼ばせてます」
「10歳も違えば、あの歳ならオヤジになるのかしらねえ。あたしから見れば全員、ピヨピヨなんだけど」


 神崎は、3ケ月間、弥皇の一族が懇意にしている探偵事務所で修業し、探偵のなんたるかを勉強した。
 クライアントの悩みをヒアリングし、最適な解決方法、アドバイスを提供する仕事が最初の関門。
 仕事を受注できれば、あとは調査業務が待っている。
 浮気調査や所在調査、家出人捜索調査等、個人クライアントの仕事もさることながら、法人クライアントでの企業信用調査、人事調査、市場調査などもある。
 探偵事務所のHP作成は、もうプロも顔負けである。
 潜在能力からして、探偵としても盤石な仕事を熟す神崎の元には、弁護士などからの丸投げ依頼も多々ある。驚いたのは、警視庁所轄の関係者が、裏金で事件の調査を依頼することである。科警研にいるときは、終ぞそういった仕事に精を出すこともなかったが、罪と探偵は奥深い繋がりがあるのだと納得した次第だ。
 新事務所での調査報告書の作成は、原則的に神崎の仕事と決めている。この業務は、幸と咲には無理だろう。
 探偵業法をはじめとして、憲法(人権)、民法、刑法、手続法、その他の特別法(消費者契約法、軽犯罪法、戸籍法など)を勉強しなければいけないと言われているが、神崎の場合、半分は大学時代に履修していた。もう半分は、科目等履修生としてT大を初めとした各大学に入り込み、猛勉強中である。今も六法全書が欠かせない。

 そしていよいよ、独り立ちの日が近づいて来た。

 警視庁所轄の防犯係を経由して探偵業開設に必要な書類を公安委員会宛てに届け出て、探偵業を開始する。
 幸と咲は、事務所員兼調査員として、尾行や聞き取りに歩く。そのために、鈴本美幸、鈴本美咲と本名を名乗り、自動車免許の取得中である。

 幸と咲の自動車運転免許試験当日。
 神崎はマンションの中を行ったり来たり。落ち着かない様子で電話を待っていた。
 そこに、プライベート用スマホのコールが鳴り響く。繋いだ瞬間、幸と咲の大きな声が聞こえてきた。
「純ちゃん!免許取れたよ!」
「純ちゃん!受かった!」
「そうかそうか。実技はまだしも、お前らの場合筆記が苦手だったからな。よく受かった」
「純ちゃんでも出来ない事あるよね」
「何だ」
「あたしらに筆記試験を受からせる方法」
「こればっかりはなあ。実技だったらドンピシャで教えられるけど」
「純ちゃん、実技教える時、鬼のように怖かったよね」
「そうだそうだ。そんなんじゃ教習官にはなれないね」
「ほっとけ。でも、そのお蔭で実技は一発合格だったろうが」

 何にせよ、適法に仕事を進めるため、3人は汗して仕事の準備に打ち込むのだった。


 サイコロ課では新しいメンバーの異動はなく、和田が再びデータ入力者になった。
 溜息を吐く和田だが、サイコロ課が存続するだけでも、サイコロ課メンバーにとっては御の字だ。
「何でまた僕なんでしょう。須藤さんでもいいのに」
「年齢順だ」
「須藤さん、腹の中で笑ってるでしょ」
「おう。それからな、和田。今年はジェットコースターになりそうだ」
「何です、それ」
「お前、知らないんだったな。まあ、見てろって」
 須藤は珈琲を飲みながら涼しい顔をしている。

 反摩課長が時間ぎりぎりに出勤してきた。そして、和田の前に立ち塞がる。
「和田くん。今日からデータ入力お願いするわけだけど」
「はい、何でしょうか、課長」
「データ入力は5分で1件。議論の時間は多くても30分。お昼休み挟んでトータル1日30件。これが最低ラインだね」
「か、課長。いくらなんでもそれは無理ですよ」
「やってみないとわからないでしょ」
「そんなあ」

 反摩は今迄のスタイルをガラリと変え、飛び抜けたワンマン課長になっていく。
 それもそのはず、反摩は須藤や市毛も唸るほどの、仕事人間だった。

 たまに神崎はラーメン屋の親父よろしくサイコロ課に顔を出す。
「どーもー」
 和田はいつも驚いた声を上げる。
「神崎さん。どうしたんですか」
「今日はこれといったクライアントも来なかったから」
「わかんないじゃないですか、今から来るかもしれない」
「もう店じまいしたの。だからOK」
 須藤が笑い転げる。
「なんだよ、おまんま食い上げじゃねえか。じゃ、今日はアフター行きますか」
「何処に」
「ブラックカードの店」
 麻田の目がキラリと輝く。
「弥皇くんを貸してあげる。だから、パーッと行ってこいっ」


 自己愛性パーソナリティ障害は、寛解するのだろうか。
 神崎は、このまま家族を守れるのだろうか。
 年度途中から、弥皇は神崎が自己愛性パーソナリティ障害に関連があるのではないかと疑ってきた。
 もし、神崎が自己愛性パーソナリティ障害だとしても、家族の愛があれば、症状は幾分軽くなるかもしれない。
 弥皇は誰に話すわけでもなく、神崎を見つめたままだった。

 幸と咲が、神崎の氷の心を溶かし、今また何らかの息吹を吹き込もうとしている。神崎の病が快方に向かうとすれば、それは今しかないのだ。
 3人で苦楽を共にし、神崎が幸と咲の心情を理解しようとするならば、事態は収束へと向かうことだろう。


**********


 神崎たちの事務所は、基本的に休日がなかった。
 そんな中でも、暇があると幸と咲は交互に弥皇たちのマンションに現れ、弥皇に料理を習っていた。少しでも神崎の役に立ちたいと考えているのだろう。


 そんな中、神崎は都内中心部にて、人に紛れて闇ブローカーと会っていた。
 仕事の話ではない。
 武器の話だった。
 ピストルとライフルを各3丁、ナイフを2本、お買い上げの予約である。

 神崎の心に芽生えたのは家族への愛だけではなかった。所詮、神崎は他人の心を推し量れる人間ではなかった。
 あんなに大切な妹である幸と咲の心ですら、神崎は推し量ることができなかった。

 警察から来た案件を二つ返事で受けるのは、警察の動きを見極めるためだった。サイコロ課にデータが送られる事件についても、情報が欲しかったから、しょっちゅう出入りしているに過ぎない。


 今。神崎の心に巣食っている唯一の感情は、親友を殺し、幸と咲を色眼鏡で見る警察、ひいては世間への復讐、ただ、それだけだったのである。

サイコパスの慟哭  ~サイコロ課、鼓吹~

サイコパスの慟哭  ~サイコロ課、鼓吹~

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-07

Copyrighted
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  1. 序章
  2. 第1章  季節は春
  3. 第2章  春は桜
  4. 第3章  季節は新緑
  5. 第4章  もうすぐ梅雨
  6. 第5章  梅雨まっしぐら
  7. 第6章  梅雨は続く
  8. 第7章  梅雨明け~季節は夏
  9. 第8章  季節は残暑
  10. 第9章  季節は秋めいて
  11. 第10章  季節は晩秋 ~銀杏の樹~
  12. 第11章  季節は冬
  13. 第12章  冬真っ盛り
  14. 終章