カカシ村

 秋晴れ。収穫を終えた水田に点々と立つ十数人の人影。どの人影もぴくりとも動かない。接着剤を頭からかけられたように静止していた。

 水田地帯を区切るような農道を車で走りながら、何事だろうと人影を見つめていた加藤は、好奇心を抑えきれず、水田の前でブレーキを踏んだ。窓を開けて、一番近くにいる男の背中に声をかけてみた。
「すみませーん! 何やってるんですかぁ?」
「…………」
 男の返事はない。加藤に背を向けたまま、ぴくりとも動かない。
 どうしたのだろうかと、しばらく男の背中を観察していると、ようやく気付いた。
 男を含め、水田に立つ人影は全て人間ではなかった。極めて人間に似せて作られた案山子だ。

「なんだこれ。スゴイな」
 帽子を被った案山子もいれば、何も被っていない長髪の案山子もいる。男の案山子もいれば、女の案山子もいて、老人もいれば子供もいる。
 車から降りずに観察するだけで案山子の性別や年齢を判別できるのは、どの案山子も体形と服装にリアリティがあるからだ。子供の案山子は子供らしい服装をしているし、女性の案山子は女性らしい丸みを帯びた体形をしている。腰の曲がった老人もいれば、身長190cm以上ありそうな堂々とした体躯の男性もいる。

 服装も様々だ。カジュアルな洋服に身を包んだ案山子。ジャージを着たスポーツマンのような案山子。スーツを纏ったビジネスマン。農作業用の長靴を履き、麦藁帽子を被り、軍手を着けたいかにも案山子然とした案山子もいる。
 街の大通りを歩いている人間をランダムにつまみあげて水田に立たせたかと思うほどに、案山子達はリアルで、バラエティに富んでいた。

 あまりにも人間に似た案山子の群れに、加藤は少しだけ不気味さを感じたが、それよりも珍しいものを見たという興奮が勝り、加藤は車から降りて、一番近くに立っている男の案山子へと歩いていった。

 その案山子は野球帽を被っていて、加藤には背中を向けている。恵まれた体格の持ち主で、着ている服の上からでも発達した背筋が分かる。丸太のように太い足を肩幅より少し広めに開けて、仁王立ちしている様は、威圧されるほどの迫力がある。
 幼い頃から格闘技か何かをしていた、という設定を元に作られた案山子なのだろうか。案山子ではなく、本物の人間の背中にしか見えない。
 細部にまでこだわられた後ろ姿を興味津々に観察し、案山子の正面はどうなっているのかと回り込んでみる。

 そこで、加藤は眉をひそめた。
 案山子には顔がなかった。顔は真っ白な布で覆われているだけで、のっぺらぼうのようになっていた。
 顔以外に目を向けると、太い二の腕、分厚い胸板、体温を感じさせるほどの迫力は健在だ。相変わらず徹底的にリアルで、人間らしくて、案山子らしくない。
 しかし、顔だけは『案山子』だ。

 これだけ緻密に作られた案山子の顔がどうしてのっぺらぼうなんだ?
 他の案山子の顔も覗いてみる。最初の案山子と同じく、どれものっぺらぼうだった。
 のっぺらぼうの顔を見ながら、加藤は首を捻った。

 普通の案山子なら、のっぺらぼうでもさして不思議には思わない。
 背中を見るだけで、格闘家だろうかと想像させるほど緻密に作られた案山子の顔が、何故、のっぺらぼうなのだろう? 顔以外は恐ろしくリアルに作られているんだから、顔もリアルに作ればいいのに、どうしてだろう? 最後になって、人間に似せて作るのが面倒になったのだろうか。

 例えば、もしも自分がこの案山子を作り主なら、顔にもこだわって作ったはずだ。少なくとも、のっぺらぼうで終わらせはしない。終わらせたくはない。案山子の緻密な作りとのっぺらぼうな顔は不釣合いだ。

 ふと、気付く。
 どの案山子も顔には真っ白な布が巻かれている。布は顔を覆い、襟足の辺りで固く括られ、簡単にはほどけないようになっている。
 もしかして、布をほどいてやれば、布の下に隠された顔が見えるのではないだろうか?
どの案山子にも本当は顔があるが、顔の上に布を巻かれているために、のっぺらぼうのような外見になっているのではないだろうか。
 なんとなく思いついただけの直感だが、あながち間違ってはいないような気がした。そう思うほどに、緻密に作られた案山子とのっぺらぼうな顔は不釣合いだ。
 布を外してしまうか?
 そう思ったが、流石にそれは躊躇われる。今、こうして水田にずかずかと入り込んでいるのも、厳密に言えば違法だ。水田の所有者に怒鳴られても文句は言えない。案山子に手をつけるのは、さらに一線を越えている。

 それに、別の意味でも、布に隠されている物を見ない方がいい気もした。
 布の下に、恐ろしくリアルな人間の顔が隠されているとしたら、布を外すとその顔と対面する事になる。極めて人間らしいのに、人間ではない作り物の顔。見ていて気持ちの良くなるものではないはずだ。
 とはいえ、好奇心はどうしようもなく刺激される。不気味なものだとしても、いや、不気味だと予想できてしまうからこそ、見てみたいと思う。
 もしかしたら、顔に布が巻かれているのは、近隣住民から苦情があったからかもしれない。リアル過ぎる案山子は不気味だから、そのリアルさを少しでも軽減するために、顔に布を巻いているのかもしれない。
 そういえば、この案山子達にモデルはいるのだろうか? これだけリアルな案山子なのだから、モデルがいてもおかしくはない。まさか、布の下には、モデルとなった人間の顔が隠されているのではないだろうか。想像してみるとますます気味が悪い。

「おい! そこで何してる!」
 妄想に耽っていた加藤は、その声にびくりと肩を震わせ、反射的に振り向いた。初老の男が加藤に疑わしげな眼差しを向けていた。農作業をしていたのか、服が土まみれで汚らしい。
「お兄さん、その案山子には触らん方がいい」
「ああ、すみません」
急いで頭を下げる。
「あと、この田んぼからも早く出た方がいい」
「そ、そうですね。すみません」
 そそくさと水田から出る加藤。初老の男も加藤の後ろにぴたりと付き、水田を出た。

「あの……、おじさん、今の口ぶりからすると、この田んぼはおじさんの田んぼではないんですね?」
 恐る恐る聞く加藤に、初老の男は相変わらずの懐疑的な目を向ける。
 不審者だと思われているのかもしれない。明らかに警戒されている。
「あの、今さっき、『この田んぼから早く出た方がいい』って言いましたよね? それって、この田んぼはおじさんの田んぼじゃないって事でしょう?」
 初老の男の警戒を晴らしたくて、加藤は努めて人当たりのいい明るい表情で言った。しかし、へらへらとした軽薄な愛想笑いのようにしかならなくて、加藤は内心落胆した。
「わしの田んぼじゃない。この田んぼは山上さんのものだ」
「山上さん……、ですか」
「田んぼが誰のものなのか気になるのか?」
「いや、気になるのは田んぼじゃなくて案山子でして……。凄くよく出来た案山子だなぁと感心しまして……」
 後頭部を掻きながら言った。
「案山子の事が気になったのか。だからと言って、他人の田んぼに勝手に入るのはどうかと思うがね」
「それは、本当にすみません……」
 青ざめた顔になって、頭を下げた。わしに謝っても仕方ないだろう、と初老の男は加藤を見下して言った。
 なんだか困った事になってしまった。
 あんなに珍しい案山子は見た事も聞いた事もないから、色々と話を聞きたい。好奇心がちくちく刺激される。この男に案山子の話を聞きたい。
 しかし、この男は教えてくれるだろうか。加藤は頭を下げたまま、不安に思った。

「あの、すみませんが聞かせてください」
 顔を上げ、思い切って切り出してみる。
「あの案山子って、全部山上さんが作ったんですか? どうしてあんなにリアルな案山子を作ったんです?」
 初老の男は目を細め、加藤をじっと見つめた。妙な間があった。
「あんたの言う通り、山上さんが作った。どうしてああいう案山子なのかと言うと、人間に似た案山子の方が、案山子としての効果が高いからな。鳥は警戒して、田んぼに近づかなくなる」
「……そういうものなんですか?」
「そういうものなんだ」
 そうは言っても、よくあれだけリアルな案山子を作れるものだ。

「生きている人間が田んぼに立っていたら、鳥は寄って来ないだろう? だから、この案山子はとても良い性能をしている」
「……そういうものなんですね」
 さっきと同じような言葉を加藤は吐いた。心中では、本当にそういうものなのか?と思っている。
 この男の理論だと、公園で腹の空いたハトにまとわり付かれる人間は、人間ではないという事にならないか?ハトではなくとも、カラスだって人間の近くに寄って来る事はある。

「まあ、今は稲刈りも済んでるから、鳥を追い払う必要はない。この案山子も今は、村の外から来た物好きを引き寄せるくらいの効果しか果たしてない」
 初老の男はにやりと口の端を持ち上げた。加藤もつられて苦笑する。
 村の外から来た、と見抜かれているようだ。田舎の村は人間関係が密になっていて、外部から来た人間はすぐに分かると言うが、この村もそうなのだろうか。

「ところで……、あんたはどうしてこんな山奥の田舎に?」
 加藤と、加藤の車を見比べながら、尋ねる。懐疑的な目は相変わらずだ。
「単純に旅行です。仕事が休みだから、一人旅です」
「こんな何にもない田舎によく来たな」
「暇でしたからね。それに、何もないところだからこそ遊びに来る価値があるじゃないですか。話のネタになりますよ」
 加藤は照れくさそうに頭をかきながら、微笑んでみせた。しかし、初老の男の表情は変わらない。
 何の前触れもなく、初老の男は北を指差した。男が指差す方向には小高い山が見えた。
「案山子の事を詳しく知りたいなら、北山の頂上にある久延毘(くえび)神社に行ってみるといい」
「久延毘神社……ですか」
「あんたと案山子に縁があるなら、そこで面白いものが見えるだろう」
「……何があるんです? 縁があればってどういう意味ですか?」
「言ってからのお楽しみだ」
 初老の男は意味深な笑みを見せる。

「それと今日、君は三好荘に泊まるんだろう? 実は、そこの女将が案山子の事に詳しくて、旅行者によく案山子の説明をしているんだ。話し慣れてもいるだろうから、聞きたい事があれば何でも聞いてみるといい」
 加藤は眉を寄せた。男が話してくれた情報自体はありがたいものだったが、この男は何故、加藤が泊まる民宿を知っているのだろうか。
「この村には泊まれるところなんて三好荘以外ないからな」
「あ、なるほど」
 加藤の思考を読んだ男の一言に、加藤は苦笑した。
「あの……、女将さんにも話を聞こうとは思いますが、どうせ聞くなら案山子の作り主である山上さんが一番じゃないですかね?」
「……山上さんにも聞きたいって事か?」
 勿論です、と加藤は強く頷いた。
 その瞬間、何故か、初老の男の警戒心を込めた目が一層鋭くなった。加藤は訳が分からずうろたえる。
「山上さんに聞くのはやめておいた方がいい。」
「それは、どうしてです?」
「山上さんは気難しい御方だ。何を聞いても何も教えてくれない。時間の無駄だろう。会ってもくれないかもしれない」
 でも、と加藤は言いかけたが、加藤を睨みつける男の眼光の鋭さに怯み、口をつぐんだ。
 この男は何を考えているのだろう、と加藤は思った。会った時から刺々しい態度だったが、今はより一層警戒を強めている。山上さんという人に案山子の話を聞く事は、それほどいけないことなのだろうか。

「まあ、まずは神社に行ってみるといい」
「……あの、神社には何があるんです?」
「案山子に縁があるなら、そこで面白いものが見える」
「だから何が――――」
「行けば分かる」
 加藤の言葉を遮って言う。男は加藤に薄い笑みを向けた。
「じゃあな」
 男は加藤の車の近くに止めていた自転車に跨り、去っていった。
 神社に何があると言うのだろう。案山子に縁があればとは、どういう意味だ?
 加藤は去っていく男の背中を見つめながら考えた。



 美山村の東西と北は、木々が鬱蒼と茂る山によって塞がれている。唯一、南側は国道と接していて、村と外界を繋ぐ唯一の出入り口となっている。
 加藤が向かっている久延毘神社は、美山村の北を塞ぐように聳え立つ山の頂上にある。
 車のアクセルを踏み、水田を縫うような農道を北に向かって走り、時折建っている民家を通り過ぎて行く。やがて、北に見える小さな山の輪郭がはっきりとしてきた。山の頂上には鳥居が見える。久延毘神社の鳥居だろう。
 山の麓に着くと、頂上へと伸びる階段があった。近くにあった駐車場に車を止め、加藤は階段の前に立つ。

 限りなく人間に似た案山子を見つけ、初老の男と出会わなければ、今頃、神社には行かずに、山々に巡らされた遊歩道を歩いていただろう。元々、遊歩道を歩いて景色を楽しむ計画だった。
 遊歩道はよく整備されていて、登山の経験のない人間でも十分に楽しめるとネットに書かれていた。ネットで見た山の景色はなかなかのもので、それなりに楽しみにはしていた。
 しかし、案山子を見て、初老の男から意味深な話を聞かされた今となっては、遊歩道の事はどうでもいい。生来の好奇心旺盛な性格のためか、案山子の事が気になって仕方がなかった。
 予定を変更して、神社へ行く事に躊躇いはなかった。

 加藤は神社へと続く階段を登る。山頂まで続く長い階段なだけあって、次第に足が痛くなってきた。階段を登りきる頃には、加藤の額に汗が滲んでいた。
 階段の頂上に立ち、服の袖で汗をぬぐって、加藤は後ろを振り返ってみた。眼下に広大な水田地帯が広がっている。目線をあげると、雲一つないすがすがしい秋晴れが目に飛び込んでくる。涼しい風が吹き、階段登りでほてった体を冷ましてくれた。

 ふと、眼下に見える水田の一角に、十数の人影が静止しているのが目に入った。山頂から見ると小さいが、人影がぴくりとも動かないのを見て、それらの正体が何なのかすぐに気付いた。
「案山子……、ここからも見えるんだな」
 ぽつりと言って、案山子から視線を切り、神社へと振り返る。初老の男の話によると、案山子に縁があれば、神社で何か面白いものが見えるらしい。
 農道を走っている頃にも見えた鳥居を潜って、小石が敷き詰められた境内に入る。加藤以外誰もいない。小石の上を歩くと、足元から小石が擦れあう音がした。
 賽銭箱が置かれた拝殿の前に立つ。
 加藤の右手側には、手を清めるための水が溜まっている手水舎(ちょうずや)がある。手水舎の向かい側、加藤の左手側には、倉庫のような窓のない小屋がある。恐らく、掃除用具か何かを入れているのだろう。お守りや御札を売っている社務所はなかった。
 境内はよく管理されている。神社の周囲は森林だというのに、落ち葉一つない。目の前に建っている拝殿も大きく、威風堂々。立派な神社だ。
 しかし、加藤の顔は不満げだ。
「案山子に関係するものは何もないな……」
 何度も神社の敷地を見渡してから、そう呟いた。
 案山子に縁がなかったということだろうか。加藤は舌打ちした。
「仕方がない。賽銭でも入れて、さっさと民宿に行くか」
 そう言って、賽銭箱に目をやる。
 ふと、ある違和感に気付く。賽銭箱を置いてある位置がおかしい。
 建物に対して中央に当たる位置から、やや左に寄せて置かれている。別に中央に置かなければならないという決まりはないが、中央に置いた方が左右対称になるから、見映えがいい。
 左に寄せて置かれた賽銭箱は、明らかに不恰好で、全体の調和を乱している。どうしてわざわざ左に寄せているのだろう。
 そんなに大きな賽銭箱というわけでもない。大人の男なら、一人でも十分動かせるサイズだ。中央に置けば、もう少し様になるはずなのに。
 加藤は賽銭箱の向こう側、拝殿へと目をやる。向こう側には木製の格子をはめ込んだ扉が閉じられていて、拝殿の中には入れない。この扉を開けた時に、拝殿へと出入りしやすいように、あえて賽銭箱を左に寄せているのだろうか。

 折角、綺麗な神社だと思ったのに、これはマイナスだな、と加藤は心の中で呟く。
 賽銭箱を建物の左に寄せて置いた事に、どんな理由があるにせよ、見栄えが悪い事に変わりはない。
「まあ、どうでもいいか」
 賽銭箱へと続く数段の階段を登り、鐘を鳴らして、百円玉を投じた。手を二回叩き、目を瞑って祈る。
 民宿で、案山子について面白い話が聞けますように。十分に祈ってから、そっと目を開けた。
 なんとなく、賽銭箱の向こう側、木製の格子の間から拝殿の奥が目に入った。
 拝殿は板張りで、特に何も置かれていない。奥には両開きの扉が開けられていて、外へと通じている。小石が敷き詰められた通路が続き、通路の先には小さなお堂があった。神社の御神体を安置する本殿だろう。

 その本殿が目に入った瞬間、加藤は息が止まりそうになった。
 袴を着て、笠を被り、胡坐をかいて座っている男がいる。その男が、目も鼻も口もないのっぺらぼうな顔を、じっと加藤に向けている。ぴくりとも動かず、不気味なほどに静止して、加藤を観察するように顔をこちらに向けている。

 加藤はバクバクと脈打つ胸に手を当て、息を吐く。
 落ち着け。アレは人間じゃない。アレに似たものを、さっき田んぼで見ただろう? 自分に言い聞かせる。
 本殿に座る男の体格は、座っているため分かりにくいが、それほど大きくはない。賽銭箱の前に立つ人間を観察するような角度で、顔を少しだけ上に傾けている。

 アレは案山子だ。のっぺらぼうなのは、顔に白い布を巻いているからだ。落ち着け。人間じゃない。びっくりする必要なんてない。
 加藤は息を整え、そっと胸から手を離す。
 じっと、本殿に座っている案山子を観察する。

 何故、あの案山子の顔は、賽銭を投じる人間を観察するような角度になっているのだろう。これでは、加藤ではなくても驚いてしまう。
 加藤が心底驚いた一番の理由は、案山子の顔がこちらを向いていたからだ。のっぺらぼうの人間が加藤を観察しているように見えたからだ。案山子と分かりさえすれば、これ以上動揺する理由なんてない。
 とはいえ、気味の悪い不安は胸から消えない。
 本殿に案山子を置いているという事は、あの案山子はこの神社の御神体なのだろう。この神社は、あの案山子を神としてまつっているのだ。
 何故、案山子をまつっているのだろうか。水田に立っていた案山子は、あの御神体とよく似ている。水田の案山子と御神体の案山子は、何か関係があるのだろうか。
 水田で会った男は、案山子と縁があれば面白いものが見えると言っていた。面白いものとはあの御神体の事だろうか。という事は、運が悪ければあの御神体を見る事が出来ないケースもあるのだろうか。もしかすると、神社の神主辺りが、あの御神体の案山子を本堂に座らせたり、引っ込めたりしているのだろうか。
 様々な疑問が頭の中で渦巻いた。

 それにしても、案山子の作りがあまりにリアルで、人間とそっくりだからだろうか。落ち着いてから案山子を眺めてみても、案山子はやはり、こちらを観察しているように見えた。
 ただの案山子の顔を傾けただけで、ここまで加藤を観察しているという雰囲気を出す事が出来るのだろうか。あの案山子に観察されているという感覚が確かにある。
 案山子から視線を外し、加藤は一歩後ずさりした。額には汗が滲んでいる。
 あれは本当に案山子だろうか。そんな疑問すら頭に浮かぶ。
 水田に立っていた大勢の案山子は、確かに案山子だった。間違いなく生きてはいなかった。では、あの御神体の案山子も生きていないのだろうか。本当に案山子なのだろうか。 もしかしたら……。
 加藤は大きく首を振り、それからため息をついた。馬鹿なことを考えているな、と思った。

 そよ風が吹き、加藤の頬を撫でる。先ほどは涼しいと感じた風も、何故だか今は、誰かに息を吐きかけられたかのように、生ぬるく感じる。
「変な村だな……」
 案山子を正面から眺めながら、ぽつりと呟いた。変な村、総じてそう思う。
 案山子とは、この村にとっていったいどういう存在なのだろう。

 加藤は踵を返し、早足で神社を去った。
 得体の知れない不安を感じる一方で、加藤の胸に宿った好奇心の炎は、さらに勢いを増している。早く民宿に行って、女将から案山子の話を聞きたいと強く思う。
 案山子について詳しく聞いて、疑問を解消すれば、この得体の知れない気持ち悪さも消えてなくなるかもしれない。そう願って、階段を駆け下りた。



 民宿は、神社へと続く階段の近くにある。
 車を駐車場に止め、民宿の中に入ると、すぐに女将が現れた。
 女将の年齢は20代後半くらいだろうか、想像していたよりもずっと若い。切れ長の目が美しいが、どこか冷たい印象も感じさせた。
 チェックインを済ませると、部屋に案内して貰えた。
 部屋に荷物を置くと、加藤は早速、女将に案山子について質問しようとした。しかし、加藤が口を開く前に、女将は言った。

「三宅から聞いていますよ。案山子の話を聞きたいのですね?」
 加藤は眉根を寄せる。
「三宅?」
「加藤さんが田んぼで会った男の事です。彼と案山子の話をしたでしょう?」
「ああ。なるほど」
 あの初老の男の事だ。加藤を警戒していた男。

「加藤さんと別れた後、私に三宅から電話がかかってきました。案山子の話をしてやってくれ、と」
「そうですか。そりゃ、話が早くて助かりました」
 気難しいのか親切なのかよく分からない人だな、と加藤は思った。
「それじゃあ、早速聞かせてもらえますか? 気になって仕方がないんです」
「申し訳ありませんが、今すぐは無理です。今夜、夕食が終わってからで構いませんか?」
 時刻は17時を過ぎている。そろそろ夕食の支度を始めなければならず、女将は忙しいのだろう。
「実は、案山子の話を聞きたがっているのは、加藤さんだけではありません。他のお客さんの中にも聞きたがっている方が何人かいます。夕食の後、皆さんに集まって貰って、話そうと思っています」
「ええ。それで結構です。よろしくお願いします」
 頭を下げた。そんな加藤を、女将は表情の窺えない目でじっと見ていた。

「一つ、お聞きしてもいいですか? 加藤さんは三宅と別れた後、神社に行かれたのですか?」
「え? はい。行きましたが……」
「神社で何か見ましたか?」
 どきりと心臓が跳ねた。
「見たのですね?」
 女将が詰め寄る。表情は変わらない。感情の篭っていない目もそのままだ。
「か、案山子を見ました。御神体の案山子です」
 凄く不気味でした、とは言わなかった。
「それで?」
「えっ?」
「他に何かありました? 案山子を見て、それでどうなりました?」
 加藤は目を細めた。この人は、何を聞こうとしているのだろうか。
「いや、特に何もなりませんでしたが……」
 女将は加藤に刺すような視線を送る。表情は、やはり変わらない。
「もしかして、案山子と目が合ってしまったのではないですか?」
 加藤は衝撃で口を大きく開けた。
「合ってしまったのですね……」
 女将は神妙な顔をしている。加藤の顔が青ざめていく。
「い、いや、合ったというより、案山子の顔がこっちに向いていて――――」
「そうですか……。では、ごゆっくり……」
 加藤の言葉を切るように襖を閉じて、女将は去っていった。
 女将が去ってからも、しばらくの間、加藤の心臓の鼓動はおさまらなかった。
 目が合ったら、なんだというのか。



 夜の7時を迎えて、食堂に移動する。畳張りの広い部屋に座り、山の幸をふんだんに使った料理を食べる。美味しいはずなのだが、「案山子と目が合った」という女将の言葉が気になって、あまり味がしない。

 周りを見ると、加藤以外にも宿泊客が六人いた。六人とも一人で宿泊しているらしく、それぞれ別のテーブルで黙々と食事をとっている。
 六人とも、四十を少し越えるくらいの中年男だ。女将の話では、彼らも案山子の事が気になっているらしい。
 一人旅をしている四十男が一晩に六人もこんな田舎に集まるとはかなり珍しいケースではないだろうか。ある意味、あの案山子と同じくらい珍しい事なのかもしれない。
 ふと、この人達は本当に旅行者なのだろうか? という疑問が浮かぶ。
 突然、襖が開き、女将が食堂に入ってきた。

「皆さん、先ほどお伝えしたように、夕食が済みましたら案山子の話をさせて頂きます」
 宿泊客全員が、女将に顔を向ける。
「実はつい先ほど、案山子を作っている山上さんと連絡がつき、案山子作りを見せて貰える事になりました。なので、山上さんの案山子作りを見ながら、案山子の話をさせて頂こうと思います。皆さんは夕食が済んだ後、山上さんのところまで移動して頂く事になりますが、ご都合の悪い方はおられるでしょうか?」
 都合など悪いはずがないので、黙っていた。他の宿泊客も同様に沈黙している。
 案山子を作る山上という男は、水田で会った初老の男からも聞いた。あの男によると、気難しくて会う事も難しいらしいが、女将は交渉に成功したらしい。

「ご都合の悪い方はおられないようですね。では、夕食が済みましたら、ロビーにお集まり下さい」
 加藤は手早く食事を済ませ、ロビーに置かれた椅子に座って、他の宿泊客を待った。
 やがて、一人、また一人と宿泊客がロビーにやってくる。
 加藤を含めた全ての宿泊客がロビーに揃うと、大きな懐中電灯を持った女将が現れた。
「ここから近いので歩いていきます。着いてきてください」
 そう言うと、女将は靴を履いて、外に出て行った。加藤達も外に出て、女将の後を追う。
 時刻はまだ夜の八時頃だというのに、村には前が見えないほどの濃密な闇が降りていた。街灯もなく、道を行きかう車もなく、電灯の光を漏らす民家すら数えるほどしかないのだから、これくらいの暗さが当たり前なのだろう。
 加藤達は、女将が持つ懐中電灯の光を追った。

 歩きながら、女将に話しかけてみた。
「さっき話した事ってどういう意味なんです? 案山子と目が合ったという話」
「どういう意味とは?」
「目を合わせたら何なんです? 何かいけない事なんですか?」
 胸に溜め込んでいた不安をぶつける。
 女将は少しの間、真っ直ぐ前を向き、黙って歩いていたが、加藤が不安を込めた目をじっと向けているのを見て、くしゃりと柔らかな微笑を浮かべた。
「申し訳ありません。不安にさせてしまって」
 微笑は笑みへと変わり、女将は手を口に当てて笑いを抑えた。
 女将の変貌に、加藤は言葉を失う。
「実は、神社の神主さん、たまに案山子を参拝者の目の付く所に移動させたり、顔の向きを変えたりして、参拝者を驚かせるんです。加藤さんは神主さんの悪戯に運悪くひっかかってしまったという事なんです」
「悪戯……」
 手で押さえられた女将の口から笑いが漏れている。笑いを必死に噛み殺しながら、申し訳ありません、申し訳ありませんと何度も謝ってきた。これまでの、どこか淡々とした印象とは一転して、今の女将は心底楽しそうだ。
「私、毎朝神社に散歩しているんです。ですから、神主さんが案山子を本堂の目立つ場所に出して、顔の向きを変えていた事を知っていたんです。それで、私も神主さんみたいに、加藤さんに悪戯してしまいました」
「な、なるほど……。そういう事ですか……」
 がっくりと肩を落とす。そんな加藤を見て、女将の笑いはようやく止んだ。
「本当にごめんなさいね。あとで何かサービスしますので」
 女将が頭をさげてくる。
「いや、いいんですよ」
 不安が解消されたし、淡々としていた女将の人間味が感じられたので、正直言ってほっとした。
「あの、聞いてもいいですか? 昼間に田んぼで会った三宅さんにも『案山子と縁があれば神社で面白いものが見えるかも』って言われたんですが、それももしかして……」
「三宅さんの悪戯でしょうね。あの人、怖い顔をしていますが、結構お茶目なんですよ」
 その言葉を聴いて、加藤はまたも肩を落とした。
 悪戯好きの人間が多いのか? やっぱりこの村は変な村だ。色々と想像を掻き立てて勝手に不安になっていた自分が馬鹿らしい。
「加藤さん。もう一つ驚かせてもいいですか?」
 疲れた目を女将に向ける。
「実はですね、神社の神主さんって、今から私達が会う山上さんなんですよ」
 加藤は目を丸くした。何度驚けばいいのだろうか。

 それから10分ほど歩いただろうか。神社へと続く階段の登り口に着いた時、女将は振り返って宿泊客全員に言った。
「ここから先はこの階段を登っていきます。足元に気をつけて下さい」
 昼間にこの階段を登った時は気にならなかったが、階段の両側には木々が迫っていて、頭上にも枝を伸ばしてきている。その為、階段には星の光すら届かない。加藤は真っ暗闇の中、女将に言われた通り注意して階段を登って行く。
「山上さんって、神社で案山子を作ってるんですか?」
 前を歩く女将の背中に向かって、加藤を声をかけた。
「はい。神社の境内で、いつも案山子を作っているんです」
「境内って事は……、外で作っているって事ですか? 暗くないんですか?」
「加藤さん、境内という言葉は、神社の敷地を表す言葉で、境内と言ったからって外だとは限りませんよ」
「ああ、そうなんですか。じゃあ、建物の中で作ってるんですか?」
「いえ、外で作ってます」
「えっ?」
 意表を突かれた。
「山上さんには見えるんです。会えば分かります」
 女将は振り返って、加藤に悪戯っぽく微笑みかけた。

 階段を登りきり、神社に着いたが、敷地内には誰もいない。山上がここで案山子を作っているのではなかったか。
「加藤さん」
 名前を呼ばれ、加藤は顔を向ける。
 女将は相変わらず、柔らかな微笑を浮かべていた。
「山上さんは日が変わる頃、深夜零時くらいにこの境内に降臨なされます」
「降臨?」
 加藤は訳が分からない顔をした。
「ええと、まだ八時くらいですよ? 零時まであと四時間もある」
「加藤さん。この村にとって案山子とはどんな存在か、そんなに気になりますか?」
 加藤の言葉を無視して言った。
「この村、美山村の旧名は案山子村です。この村にとって、案山子とは山の神です。案山子を増やしていく事で、我々は山の神に祈りを捧げてきました。信仰のかいあって、この村は江戸時代に開かれて以来、一度も飢えた事がありません」
「山の神……」
 やまのかみ……、やまかみ……、やまがみ……、心の中で呟く。
「案山子をどう作るか、実際に体験なさってください。その方が、私が話すよりも遥かに分かり易いですから」
「体験って、どういう意味です?」
「貴方自身が案山子になるという事です」
 女将はにこりと笑い、加藤の両手を優しく握った。
 一瞬、加藤は女将の言っている意味が理解できなかった。女将はあまりにも淡々と、微笑を崩さずに言ったので、大したことを言っていないように聞こえた。
 しかし、時間を追うに連れ、乾いた地面に落ちた水滴のように、女将が言った言葉の意味が頭の中に染み込んでいった。

「か、案山子になるって、どういう――――」
 顔面蒼白となった加藤の背後から、宿泊客の一人が加藤の口にハンカチのような布を当てた。何かの薬品のような匂いがする。
「貴方は山上さんと眼が合いましたからね」
 女将の声が聞こえる。その言葉の意味を考える前に、加藤の意識は途切れた。



 星々の光が神社の輪郭をぼんやりと浮かびあがらせている。
 賽銭箱の正面に立って、左手側に小さな小屋がある。加藤が昼間、神社を訪れた時、掃除用具か何かをしまっている倉庫だと決め付けた小屋だ。
 今、その小屋の扉は開け放たれ、中には一人の男が柱に括りつけられている。加藤だ。

 頭の痛みに耐えながら、加藤はそっと目を開けた。
 柱に固く括り付けられ、身動きが取れないことを悟り、がっくりと項垂れた。
 宿泊客に薬品をつけたハンカチを当てられ、意識が遠のいたことまでは覚えている。宿泊客に対して、旅行者ではないような妙な気配を感じたが、その直感は間違えていなかったらしい。
 女将と宿泊客は裏で通じていたのだ。もしかすると、水田で会った三宅という男も女将達の仲間なのかもしれない。加藤が案山子に興味を示している事を、女将に伝えたのはあの男だ。
 今は何時くらいだろうか。気絶してから何時間も経ったような気がしたし、数分しか経っていないような気もした。

『山上さんは日が変わる頃、深夜零時くらいにこの境内に降臨なされます』
 女将の言葉を思い出し、加藤は言いようのない不安を覚えた。
 今は何時か確認したいが、ポケットに入れているはずのスマートフォンの感触がない。恐らく、気絶した後、女将に抜き取られてしまったのだろう。もっとも、女将に奪われていなくても、ポケットからスマートフォンを取り出し、時間を確認したり警察に電話する事など出来なかっただろう。それくらいきつく縛られていて、身動き一つ取れない。

『この村にとって、案山子とは山の神です』
 この神社の神主にして、案山子の作り主、山上。
 そして女将が口にした、山の神という言葉。
 何とも安直な発想だが、山上とは、まさか山の神の事を指しているのではないだろうか。
 山の神が降臨するとは、いったいどういう意味なのだろう。
 この神社に何が現れる? 何のために現れる?

『貴方自身が案山子になるという事です』
 女将の言葉が脳内でリフレインする。
 水田で静止していた、限りなく人間に似た案山子達の事を思い出さずにはいられない。
 嫌な予感が止まらない。今は何時なんだ? 深夜零時まで、あとどれくらいの猶予がある?

「誰か……」
 不安で、恐ろしくて、加藤は涙をこぼしそうになった。
「誰か助けてくれ!」
 大声を出すと、薬品の影響か、頭がずきずきと痛む。しかし、叫ばないわけにはいかない。
「助けてくれ! この村はおかしい!」
 首を曲げて、神社の敷地を隅々まで眺めてみる。誰もいない。加藤を助けてくれる人間はもちろん、女将も宿泊客も誰もいない。この神社には加藤一人しかいない。
「助けてくれよ。お願いだから……」
 どれだけ体をよじってみても、加藤を拘束する縄は少しも緩まない。
 加藤には助けを呼ぶしか出来る事はなかった。

 恐らく、どれだけ叫んでも誰も助けには来ないだろう。この村全体がグルなのだ。加藤がここに縛られているのは、女将、三宅、六人の宿泊客、彼らだけのたくらみじゃない。村全体のたくらみだ。そんな気がした。
 奇妙な案山子に興味を持ち、その秘密をかぎ回った、自分の好奇心の強さを呪う。
 絶望に打ちひしがれ、頭を下げ、目を閉じた。

 その時、小石を踏みしめる音が加藤の耳に届いた。
 加藤は勢い良く顔をあげ、神社を見渡す。誰もいない。少なくとも見える範囲には誰もいない。
 誰か助けに来てくれたのだろうか。それとも……。
 また小石を踏みしめる音が聞こえた。
 神社には小石が敷き詰められている。小石の上を歩くと、今聞こえてきたような音が出る。しかし、誰もいない。

 加藤は目を閉じ、音がどこから聞こえてくるのか、耳を澄ました。
 小石の上を歩く音は断続的に聞こえてくる。その音は、ゆっくりゆっくりと、一歩一歩確実に、加藤の元に近づいてくる。
 小石を踏む音は、左の方から聞こえてくる感じがする。
 加藤は目を開けて、音が聞こえてくる方向に視線を向けた。

 その瞬間、加藤は気が狂うほどの恐怖に襲われた。
 音が聞こえてくる左手の方向、そこには賽銭箱が置かれた拝殿がある。より正確に言うと、拝殿のさらに奥、本堂がある方向から音が聞こえてくる。
 御神体として安置されていた、あの案山子がいる方向から、何かが歩くような音が聞こえてくる。

『山上さんは日が変わる頃、深夜零時くらいにこの境内に降臨なされます』
 女将の言葉が頭の中に響き渡る。
 そして、何故、今まで気付かなかったのだろうか。賽銭箱の向こうにある、木製の格子がはめ込まれた扉、拝殿へと続く扉が開かれている。いつから開いていたのだろうか。分からない。
 扉が開けられている意味を想像して、加藤は恐怖の叫びを上げる。無我夢中に暴れて、自分を拘束する縄を緩めようとする。
 ジャリ――とまた小石を踏む音が聞こえた。そして、数秒後、今度は板張りの床の上を何かが歩くような音。拝殿の床を、何者かが歩いている。
 御神体である案山子が置かれた本殿から、何かが小石を敷き詰められた通路を歩き、拝殿へと登り、拝殿の床を歩いて、加藤へと近づいてきている。

 加藤は訳の分からない奇声をあげて、渾身の力を込めて暴れた。発狂したかのように暴れ続けた。それでも拘束は全く緩まない。
 その間も、ずりずりと、拝殿の上を這うように歩く音は聞こえた。
 こちらへと近づいてくる者に、絶対に会ってはいけない。絶対に会いたくない。
 恐怖で涙がとめどなく溢れる。絶叫しながら暴れ続ける。

 床を歩く音がまた聞こえ、加藤の視界の端、拝殿から何か黒いものが出てきた。
 それを見た途端、加藤の体は恐怖で凍りついた。現れた何かを、目から血が出るほど凝視した。
 それは、頭に笠を被り、袴を身につけている。顔は、目も鼻も口もないのっぺらぼう。御神体となっていたあの案山子が、加藤の目の前に這い出してきた。

 案山子は壊れたロボットのような、ぎこちない動作で加藤へと顔を向けた。
 その瞬間、加藤の喉は一気にからからに渇いた。身じろぎ一つできない。叫ぶ事も出来ない。金縛りのように固まってしまった。
 左に寄せられた賽銭箱の横を通り、案山子はゆっくりと地面へ降りた。昼間に神社に来た時、加藤は左に寄せられた賽銭箱を見て疑問に思ったが、あの配置は案山子が通り易くするためだったようだ。
 加藤は血走った目を案山子に向ける。あまりの恐怖に目を塞ぐ事さえできない。
 案山子は小石を踏みしめながら、一歩一歩、確実に加藤に近づいてくる。
 こいつはいったい何だ? 人間が変装しているのか? それとも本当に案山子か? 案山子が動いているのか?

『貴方自身が案山子になるという事です』
 女将の言葉。一つだけ確かな事は、自分は今から案山子にされるという事だ。
 水田にいた案山子達は本物の人間だったのだ。あの案山子達のように、自分も今から案山子にされるのだ。この案山子の生贄として、自分は選ばれた。

 案山子は目の前に迫っている。
 恐怖で歯がかちかちと鳴った。
 案山子は視線の高さを合わせるように、加藤の前でかがみ込む。加藤の顔を覗き込むように、のっぺらぼうな顔を近づけてきた。
 目の前、目と鼻の先に、案山子の顔がある。真っ白な布で覆われた、案山子の顔。
 加藤の顔は涙でぐちゃぐちゃになっている。それでも、両目は見開き、案山子を凝視している。何故だか分からないが、目を閉じる事も、案山子から目を離す事もできなかった。
 案山子は両手を自身の後頭部へと回した。顔に巻かれた白い布を解いている。
 布を解くと同時に、案山子は加藤と案山子の顔の間で、布を広げた。布に遮られて、案山子の素顔は見えなかった。

 数秒間、時が止まったかのように、案山子は静止する。
 やがて、布を持つ案山子の指がピクリと動き、今までのぎくしゃくとした動きからは想像できないような滑らかさで、加藤の顔に布を巻きつけた。
 加藤は短い悲鳴をあげ、再び意識を失った。



 美山村。旧名、案山子村。
 江戸時代に開かれたその村は、案山子を山の神として崇める村だった。
 案山子村の田畑には、極めて人間に似た案山子が立てられていて、不思議とどんな動物も寄り付かず、また、作物が病気に犯される事もなく、少雨の年でもなかなか枯れることはなかった。
 その為、案山子村は周辺の村が不作の時でも常に豊作で、住民が飢える事は開村以来一度もなかった。
 噂を聞き、案山子を手に入れようと村を訪れる人間は数多くいた。村人はそんな人間に案山子を売ったが、売られた案山子を持ち帰って田畑に設置しても、噂通りの効果は発揮されなかった。
 疑問に思い、案山子村を詳しく調べようとした者は、皆、例外なく消息を絶った。
 そして、しばらくしてから、消息を絶った人間とそっくりな案山子が案山子村の田畑で見られるようになった。
 誰もがこう噂したという。
「案山子村の秘密をかぎ回ると、案山子に変えられる」

 加藤が村を訪れた次の日、美山村の案山子が一体増えた。
 その案山子は極めて人間に似ているが、決して動く事はない。
 加藤は今も行方不明になっている。

カカシ村

カカシ村

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-09-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted